耳囊 卷之十 井手蛙うたの事
井手蛙うたの事
飯田町火消與力に福原左近兵衞といへるあり。夫婦とも和歌の道を嗜み、折節はしるどし會集して歌よみけるが、或年上方より井手の蛙(かはづ)なりとて、はるばる贈越(おくりこ)しけるを夫婦とも嬉しみ寵愛して、其鳴(なく)事を待(まち)しに、來春になれど聲を不出(いださず)。集會の節などこれを取出(とりいだ)し、まろふどにも吹聽してけれど聲は出さざりければ、其妻本意(ほい)なき事におもひ、かく憐(あはれ)み育(はごくみ)するに聲を出さゞる事、いかにしてもうらめしきといひて、夜も更(ふけ)ぬれば臥所(ふしど)に臥しぬ。然るに其妻の夢に蛙來りて、一首の歌を書(かき)てさし置(おき)ぬ。彼(かの)女夢心に右歌をよく覺えて、あけの日おつとにも語り、外々(ほかほか)へ咄しけるとなり。
すみなれし井出の川邊の名殘をもわすれてこゝに水ぐきの跡
□やぶちゃん注
○前項連関:なし。和歌技芸譚+変格異類夢告譚である。無風流を承知で言えば、カエルの♀の咽喉部には発声器官としての鳴き袋、鳴嚢(めいのう)が存在しないために鳴かないから、これは♀だったわけだが、そうした事実を逆に風流に話し換えるところが和歌俳諧の妙味というところなのであろう。しかし正直なんだかなって感じの話柄である。特に「……いかにしてもうらめしきといひて、夜も更ぬれば臥所に臥しぬ」という、不自然さを糊塗しようとするが故の如何にもかったるい描写部分は、作話者に残念ながら、あまり才能がないことを露呈しているとも言える気がする。和歌の方も蛙の啼き声ほどにはちっとも響いてこないのである。
・「井手蛙」「ゐでのかはづ」と読む。歌枕である京の井手(現在の京都府綴喜郡井手町)を流れる玉川(木津川支流)に棲む蛙。井手は湧水の豊かな土地柄で「井手の玉水」と呼ばれて名高く、山吹とともに、そこで鳴く蛙も好んで和歌に詠み込まれた。
題しらず よみ人しらず
蛙(かはづ)なく井手の山吹ちりにけり花のさかりに逢はましものを(「古今和歌集」)
いかはづをよめる 良暹法師
みがくれてすだく蛙のもろ聲にさわぎぞわたる井手の浮草(長久二(一〇四一)年「弘徽殿女御御家歌合」。「後拾遺和歌集」では「池の浮草」とする)
藤原基俊
山吹の花咲きにけり川づなく井手の里人いまやとはまし(「千載和歌集」)
堀川院の御時、肥後が家によき
山吹ありと聞こしめして、召し
たりければたてまつるとて結び
つけて侍りける 二條太皇太后宮肥後
九重に八重山吹をうつしては井手の蛙の心をぞくむ
この本文の蛙の和歌は、この最後の肥後の、内裏に移した八重山吹を惜しんで鳴く井手の蛙の声を、逆手にとってインスパイアしたもののように私には感じられる。なお、私の「山吹や井手を流るる鉋屑 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)」の注なども参照されたい。因みに、知られた芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」の伝説に――芭蕉がこの句の上五を附けるのに悩むのを見た弟子の晋子其角が「山吹や」と提案したところが芭蕉は肯んぜず結果「古池や」と決した――という話があるが、これはまさにこうした歌枕井手によって定式化されてしまっていた「蛙」と「山吹」の如何にもな歌語としてのマッチングを芭蕉が意識的に排除したという図式に基づくのである。
・「飯田町」現在の飯田橋一帯の旧称。天正一八(一五九〇)年に開府前の江戸で徳川家康にこの地域を案内したのが土地の長老飯田喜兵衛なる人物で、家康はその功を称えて一帯を「飯田町」と命名した、とウィキの「飯田橋」にある。
・「本意本心・真意、或いは、元来の考え・本来の意志・本懐・本望の意で、ここは表向き、もともとの望み・期待の謂いでよいが、実は別に和歌や連歌俳諧に於いては「本意」で、物の本質・在り方・情趣・対象の美的本性を意味する一種の歌語でもあったから、ここではそれをも通うわせるように選ばれている語であろう。
・「すみなれし井出の川邊の名殘をもわすれてこゝに水ぐきの跡」は、
すみなれし いでのかはべの なごりをも わすれてここに みづぐきのあと
で「すみ」「すれ」は「水ぐき(水茎)」(墨痕)の縁語で、「川邊」からは逆に「なごり(余波)」「水茎」が縁語となり、しかもその「水茎」が川波寄せる「水草」を連想させて墨痕の意の掛詞となっている。また、鳴くことを忘れた蛙(かわず)が夢の中で無言のままに感懐の一首を筆で認(したた)めて妻女に詫びたという全体のシチュエーションの面白さも狙っていよう(和歌嫌いの私は一向に面白いとは思わないが)。
■やぶちゃん現代語訳
井手(いで)の蛙(かわず)の和歌の事
飯田町の火消与力に福原左近兵衛(さこんひょうえ)と申す者がおる。
夫婦(めおと)とも和歌の道を嗜(たしな)み、折を見てはよぅ、知れる者どもと会集なしては歌を詠んで御座った。
ある年のこと、上方より、
――井手の蛙(かわず)にて御座る――
と文を添えて、遙々、活ける蛙(かわず)が一匹、これ、贈り寄越されて参ったによって、夫婦(めおと)とも、和歌で知られた「井手の蛙(かわず)」と、殊の外に悦び、大切に寵愛して、その鳴くを、これ、心待ちに待って御座ったと申す。
ところが、翌年の春になれど、これ、一向に――鳴かぬ。
和歌の寄り合いの席などにても、好んで、この蛙(かわず)を皆に披露なし、訪人(まろうど)にも、これ、しきりに、
「……これぞ、かの――井手の蛙(かわず)――にて御座る。」
と、吹聴致いたけれども、これやはり――一向に――鳴かぬ。
されば、かの左近兵衛が妻、いかにも残念なことと思い、
「……かくも大事大事に……慈しんで……育んで……参ったに……鳴き声を立てざること……これ何とも……恨めしいぃ……」
と、夫に愚痴を申したと申す。
さてもその日、夜も更けて臥所(ふしど)に臥した……ところが……その夜の、その妻が夢に、
――かの蛙
――これ
――来たって
――一首の和歌を
――短冊に認(したた)め
――これを妻女に
――さし出だいた……と見て……目の醒めた。……
それでも、この妻女、夢心ちにも、その折りの短冊に、さらさらと、しるして御座った和歌を、これ、よぅく覚えて御座ったによって、翌朝すぐ、夫(おっと)にもその不思議を語り、また、集える和歌仲間の者どもへも、これ、盛んに話して御座ったと申す。
さても――その蛙(かはず)の詠んだる――和歌――
すみなれし井出の川辺の名残りをもわすれてここに水ぐきの跡