耳嚢 巻之十 下賤の者才覺働の事
下賤の者才覺働の事
文化七午年七月末の事の由、牛込馬場下町(うしごめばばしたちよう)にて龜鶴山淸淨寺(しやうじやうじ)といふありしに、夜更(よふけ)盜賊二三人這入(はひいり)、蚊やの釣手(つりで)を切(きり)、和尚をかやにてつかみ押へて金子有(ある)所を尋(たづね)しに、和尚金銀無之(これなき)由を答へて彼是(かれこれ)問答の聲高きを、臺所の働(はたらき)を勤居(つとめをり)ける下郎聞付(ききつけ)て起出(おきいで)、彼(かの)盜賊を小手招(こでまねき)して、御身和尚を訶責せしとて金銀の有(ある)所中々申(まうす)事にてはなし、我等よく知りし間、此方(こなた)へ來り候へと、右盜賊を欺き、金銀寺内に有之(これあり)、觀音堂の賽錢箱の下を掘埋有之(ほりうめこれある)由を語りて、彼(かの)堂へ案内して右盜賊に賽錢箱を取除(とりのけ)させ、闇夜に候間、挑灯(てうちん)を取來(とりきた)るべしと申(まうし)て、其身は堂を立出(たちいで)て堂の口の戸をしめ錠(ぢやう)を懸け、さて半鐘(はんしよう)を烈しく打(うち)ける故、前町(まへまち)の者共駈集(かけあつま)りて難なく盜賊を捕押(とりおさへ)けるが、右盜賊の内には元右寺に居し出家もありければ、縛り候まゝにて夜明け候迄寺に差置(さしおき)、追々人も引取(ひきとり)候上にて、寺にて盜賊ながら捕(とらへ)候て訴(うつたへ)候はゞ、死刑にも可相成(あひなるべき)儀、好み候事にも無之(これなし)、元弟子筋の者も加(くはは)り居候事故、門前にて、以來惡事致す間敷(まじき)趣(おもむき)を異見して放し遣(つかは)し可然(しかるべし)と、和尚も申しければ、右の通(とほり)可取計(とりはからうべき)由にて、門前へ連れ出て繩をとき追放しけるが、兼て前町の者へ通じ置(おき)しや、町人ども大勢出(いで)むかひ、町方へ捕へて其筋へ訴へけるとや。始終ぬけめなき取計(とりはからひ)と、人の咄しける。
□やぶちゃん注
○前項連関:なし。最後の部分は管轄の違いが関係するものか? 境内での強盗でしかも犯人の中に現役の僧侶が含まれていたとなれば寺社奉行の管轄になり、本文で述べているように死罪級の重罰が処せられたものか? 旧弟子が押し込みの中に含まれていたことから情けもいくらか生じていただろうし、町奉行に引き渡せば、死罪までは行かずに済むであろう、ということなのではあるまいか? 寺社奉行の扱いになると寺側の対応も半端ではなく大変そうな気もするので、そうした和尚の内心をも才覚した上、この厨房働きの者、機略を巡らしたものかも知れぬ。恐らくは解き放ちは和尚の本音であったのであろう。しかし下男は、この連中たちの性根の悪さや阿漕なさまをしっかりと捉えていたのに相違ない。無罪放免解き放ちとなれば、調子に乗ってまた何時何時(いつなんどき)、自分や和尚に無体な逆恨みなどをして復讐に来るとも限らぬと踏んだのではあるまいか?
・「文化七午年七月末」文化七年庚午(かのえうま)で西暦一八一〇年。「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月。同年七月は大の月で七月三十日はグレゴリオ暦で八月二十九日に当たる。
・「牛込馬場下町」現在の東京都新宿区馬場下町で南東部が喜久井町に接する。
・「龜鶴山淸淨寺」底本の鈴木氏注に、山号が『亀鶴山ならば誓閑寺。浄土宗。深川霊厳寺の末寺。新宿区喜久井町』とある。現在の早稲田大学戸山キャンパスの南東直近に現存する。亀鶴山易行院誓閑寺。重蓮社本譽上人誓閑和尚を開山として霊厳島に寛永七(一六三〇)年に易行院と称して創建されたが、明暦の大火により当地へ移転したと伝える(参照した松長哲聖氏の「猫のあしあと」の本寺の記載によると、伝承上では濫觴の開山を木食上人とするらしい)。しかし、地図を見るとその誓閑寺の南東直近の新宿区戸山に同じく浄土宗の浄国山安楽院清源寺という寺があり、寺の名はこちらの方が相似性が強い。そこで同じく松長氏の「猫のあしあと」の清源寺の方の記載を見ると、筑後善導寺の末寺で、馬術の達人であった稲垣善右衛門(法名・一乗院殿覚本善佐居士・慶安二(一六五一)年寂)を開基、寂蓮社圓譽永運(慶安二(一六四九)年寂)を開山として寛永四(一六二七)年に創建したと伝えられ、山の手三十三観音霊場第十九番札所であるとある(本尊は阿弥陀如来)。ここでは「觀音堂」が主な舞台となっているところ(現在の誓閑寺の記載には観音に纏わる記載はない)からは私は後者の可能性をも考える必要があるように思う。なお、現在の馬場下町はこの二つの寺の北直近にある。
・「臺所の働を勤居ける下郎」これは先の「耳嚢 巻之九 藝道執心のもの玄妙ある事」に出た「板の間」(雑役をこととする下男の中でも最も低い身分の呼称かとも思われる)と限りなく近い職分と思われる。
・「小手招」「こてまねき」とも読める。手先を振って招くこと。
・「訶責」底本では「訶」の右に『(呵)』と訂正注がある。
■やぶちゃん現代語訳
下賤の者の才覚働(さいかくばたら)き絶妙の事
文化七年午(うま)年の七月末のことと申す。
牛込馬場下町(うしごめばばしたちょう)にて亀鶴山清浄寺(きかくさんしょうじょうじ)と申す寺のあったが、ここに夜更け、盜賊二、三人が押し込み、蚊帳(かや)の四方の釣手(つりで)を一気に切り離し、和尚を蚊帳を以って摑み押えて、
「――おう! 金は何処じゃッ?!」
詰めよって脅した。
ところが、蚊帳ごと縛られた和尚、これ、毅然として、
「――金銀など、これ、御座ない!」
と、けんもほろろに答えたによって、盗賊ども、これ、さらにいきり立って、なんやかやと押し問答の声、少しく高く響いたによって、台所の働きを勤めておった下郎が、これを耳聡(さと)く聴きつけ、独り起き出でて、何を思うたものか、かの盜賊どもに背後より慇懃に声をかけ、手先を細かく振って手招きし、
「……お前さまがた、あの頑固なクソ和尚、これ、幾ら厳しく責め立てたとて、一向、金銀のありどころなんど、これ、なかなか、申す玉にては、これ、御座いませぬ!……我ら、あの因業爺いの宝の隠しどころ……実はこれ、盗み見てよぅ知って御座いますれば、の! 此方(こなた)へ! さあさ! いらっしゃいまし!」
と、かの盜賊どもを欺(あざむ)き、
「……寺内の金銀は――ほれ、ここに総て御座る!――そうさ! この観音堂で。へぇ!……そこにある、そうそう、それ。……その賽銭箱の下を掘りましての! そこに埋めおいてありますのじゃ!……」
とまことしやかに語り、かの観音堂の内へ、かの盗賊ども総てを案内(あない)致いて、
「……まずは、ほれ……その賽銭箱を退(の)かさっしゃれ。……いやいや! 賽銭箱ん中に入っとる賽銭を獲るんも、これ、忘れずに、の!……」
と盗賊どもを賽銭箱の取り除けに必死にさせおき、
「……何ともはや!……一寸先も見えぬ闇夜で御座いますなぁ!……かくも暗うては、これ、穴掘りにも上手くない。……そうさ! 一つ今、提灯(ちょうちん)を取って参りやしょう!……」
と申すや、さっと身を翻して堂を立ち出でた。
と――
そこでまたしても踵を返し、御堂が口の左右の戸を
――ババン!
と素早く閉め、そこに、最前より懐に用意して御座った錠(じょう)をも掛けてしまい、さてもそれより、本堂の端にぶら下がって御座った半鐘まで韋駄天走り、
――カンカンカンカン! カンカンカンカン! カンカカ! カン! カカ! カンカン!
と烈しく打ち鳴らしたによって、門前町(もんぜんまち)に住まいする者ども、これを聴いて、
「――お寺に何事かあったぞッ?!」
と駆け集(つど)って参ったによって、難なく、押し込み盜賊連を、すっかり捕り押さえて御座ったと申す。
ところが、この盜賊の内には、何とまあ、元この清浄寺にて修行僧として御座ったことのある坊主も含まれておったによって、ひっくるめて縛って御座ったそのままにて、夜の明けて御座るまで寺内にさし置いておいた。
さて曙の頃おいとなって、和尚、徐ろに観音堂の内に数珠繋ぎとなっておる盗賊どもの許へと来らるると、
「……さても次第に、捕り手の役人をも呼び、この者どもを引き捕えて貰(もろ)う頃合いとはなった。……されど……寺への押し込み盜賊となればとて、これもし、正式に捕縛致いて、神仏をも恐れぬ極悪人として寺社奉行へ訴え出でたとならば……これ……死刑にも相い成るべき仕儀にては……御座ろうのぅ。……しかし、かくなる無益な殺生はこれ、拙僧の好み候うことにても、これ、御座ない。……しかも元弟子筋の者までもその一味に加わっておることもあり……ここは一つ――門前にて――『以来悪事致すまじき』との趣きを急度(きっと)異見なして解き放って遣わすが――これ、しかるべき措置と申そうず。――」
と、和尚も申した。
すると、かの機転を利かせた下男、これ、そこに一緒に見張って御座った門前町の若い衆(しゅ)に何やらん耳打ちし、若い衆はまた、それに合点して寺から出て行った。
そうして下男は声高らかに、
「和尚さまのおっしゃらるる通りに、取り計らい、致しやしょう!」
と呼ばわると、繩目数珠繋ぎのまま一列に門前へ連れ出でて、そこで繩を解くと、
「――以来悪事致すまじ!――」
と声掛けして追い放ったと申す。
しかし、かねてよりこの下男――さっきの耳打ちがそれで御座ろう――門前町の者へ通じおいて御座ったものか、盗賊どもが解き放ちとなったその瞬間、路地路地より、天秤棒や出刃包丁なんどを構えた町人どもが、これ、わらわらと大勢湧き出でて、にやにやしながら盗賊どもを出迎え、町方役人が方へ捕えて連れ参り、その筋へ――押し込み強盗の一味、これ一網打尽――と称して訴え出たとか申す。
「……この、巧みなる逮捕劇の一部始終……これ、その下男なる男の、抜け目なき取り計らいにて御座った。……」
と、とある御仁の話して御座った。