耳嚢 巻之十 蘇生奇談の事
蘇生奇談の事
文化七年七月廿二日の事の由。同八月或人來り語りけるは、田安御屋形(やかた)御馬飼(みまかひ)の由、相部(あひべ)や六七人ある事なるに、右の内壹人、寒かくらんにて殊外(ことのほか)苦しみける故、相部やのもの共(ども)色々介抱いたし、醫師を所々へ申遣(まうしつかはし)候へ共、時節やあしかりけん、一向醫師も來らず、終日くるしみて終にはかなくなりしに、彼(かの)あいべやの者ども評議しけるは、かく傍輩の死に及ぶ病(やまひ)、一貼(いちてふ)の藥をも不吞(のまざる)儀、何とも殘念至極、いづれ上役人へ願ひて、只今にても藥を爲吞(のませ)、責(せめ)て心晴(こころばら)しにいたし度(たき)由にて、上役の者へ願ひければ、程近き所とて小島活庵方へ申達(まうしたつし)けるに、活庵は在宿無之(これなく)、子息安順見廻(まはり)て彼(かの)病人を見けるに、事切れて時刻も漸(やや)うつりければ、四肢もつめたく療治沙汰も無之(これなき)由故、斷(ことわり)申述(まうしのべ)ければ、右傍輩ども時刻も相立(あひたち)候事故、仰(おほせ)の趣御尤(ごもつとも)ながら、急病ながら藥一貼も不用(もちひず)と申(まうす)も心苦しければ、たとへ蘇生等不致(いたさず)とも、御藥一貼給り無理に吹込(ふきこみ)申(まうし)たき由、達(たつ)て願ひけるゆゑ安順も其意にまかせ、藥一貼あたへ歸りぬ。さて傍輩ども打寄(うちより)、藥を煎じ口を割(わり)つぎ込(こみ)しに、口を洩(もれ)或はのどに溜り居(をり)候計(ばかり)にて、しるしあるべきやうもなければ、片脇へ寄置(よせおき)けるに、二三時(どき)過(すぎ)て、息吹返(ふきかへ)しける故、早速粥湯(かゆゆ)などのませ、安順方へも早速申達(まうしたつし)ければ、是も蘇生に驚(おどろき)、早速罷越(まかりこし)、其樣子を見て、これなれば療治なり候とて藥をあたへ、今は全快なしけるに、傍輩の内、さるにても、いかなる樣子なりしやと尋ければ、最初煩付(わづらひつき)候間、くるしさいわんかたなく、夫(それ)よりはむちうと成(なり)、何か廣き原へ出て、むかふへ行(ゆか)んと思ひしに、二筋に道わかれあり、壹ツは登りざか、壹ツは下り候道ながら下りの方けんそにして、彼(かの)男の了簡には、登り坂の方へ行べしと思ひしに、與風(ふと)本鄕邊米屋にて、其娘へ此御馬方、心を懸(かけ)しが、右娘に行逢(ゆきあひ)、我もひとりにては心細し、つれ立(だた)んといふに同意なしけるが、娘は下り道の方を行べしといふ、此男は登り坂の方へ行(ゆか)んと申爭(まうしあらそ)ひ立別(たちわか)れしに、向ふの方より赤衣(しやくえ)きたる僧一人參り、なんぢはいづ方より何方へ通るやと尋(たづね)ける故、あらましを語り、我等は死せしにやと申(まうし)ければ、爾(なんぢ)思ひのこす事もなきやと尋し故、何(いづれ)も思ひ殘す事はなけれど、未(いまだ)在所に兩親もありて久敷(ひさしく)逢不申(あはずまうす)間、是へ對面致度(いたしたき)由と申ければ、しからば歸し可遣(つかはすべし)とて、跡へ戻ると思ひしに、何か咽(のど)に藥がつくりと内へ入(いり)て蘇りしと、予が元へ來る云榮(うんえい)かたりぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:なし。個人的にはこれに主人公の恋慕していた娘について同時刻にどうこうという後日譚が附加されていたらよかったのにとは思うが、寧ろ、それがないからこそ、この蘇生譚自体の真実性は高い(年月日が正確に記され、しかも外でもない御三卿の田安家内の出来事である。後述するように治療をした当医師の実在の可能性も見出し得た)とも言えるのかも知れない。
・「文化七年七月廿二日」グレゴリオ暦一八一〇年八月二十日。「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月。
・「田安御屋形」御三卿の一つ田安徳川家の田安邸は、江戸城田安門内で同御三卿の清水邸の西、現在の北の丸公園の日本武道館付近にあった(家名は同地が田安明神(現在の築土(つくど)神社)の旧地田安郷であったことに由来)。
・「御馬飼」貴人の乗馬の飼育・調教に当たる下級職。
・「寒かくらん」「かくらん」は霍乱で、腹痛や煩悶などを伴い、症状によっては嘔吐や下痢を主訴とする病気の総称。平凡社「世界大百科事典」によれば、暑い時に冷たい飲食物を摂り過ぎるなどして冷熱の調和が乱されることによって惹起する病いと考えられていた。乾霍乱・熱霍乱・寒霍乱など種々の病名が記載されているが、病状からみると、現在のコレラや細菌性食中毒などを含む急性消化器疾患と考えられる(現代中国語で「霍乱」は「コレラ」を指す)とある。岩波版の長谷川氏はこれを乾霍乱とされる。乾霍乱は食中毒などによって食物が胃に滞溜しながらも、吐くことも下すことも出来ずに悶え苦しむ症状を指す。しかし「世界大百科事典」には「寒霍乱」ともあり、これは太陽暦の八月二十日の出来事であるから、暑さの中、冷たい物を多量に摂り過ぎた結果として通りそうな感じもしないではない。但し、冒頭の症状では確かに嘔吐や下痢の病態は見えないから、やはり乾霍乱か。訳は取り敢えず「乾霍乱」とした。
・「心晴し」憂さ晴らし・気晴らしの意。ここはろくな療治を受けさせてやれなかったことへの周囲の者の微かな後ろめたさに基づく、各人の気持ちの悪さを払拭する慰みといったニュアンスである。
・「小島活庵」「子息安順」田安邸のある江戸城に近いとある以上、相応の格式医師であろう。そこで少しネット検索を掛けて見たところ、子の名前がヒットした。金沢市立図書館製作の「加越能文庫目録」(加賀藩が蒐集した典籍・文書を纏めたもの)の中に、天保五(一八三二)月二十一日、第十一代将軍徳川家斉が、幕医で大納言付奥医師の小児科医小島安順なる者を遣わして犬千代丸(後の前田慶寧(よしやす)。加賀藩第十三代、最後の藩主)の病気を診断させたという記載を二件見出せる。時代的には合う。
・「二三時」四~六時間。
・「云榮」不詳ながら、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版には『針治(しんじ)云榮』とあるから鍼灸医である。
■やぶちゃん現代語訳
蘇生奇談の事
文化七年七月二十二日のことなる由、同年八月、ある御仁が来訪された際に語って御座った話である。
田安家御屋敷の御馬飼(みまかい)の者に起った出来事の由。
*
御三卿(ごさんきょう)の御馬飼ともなればこそ、相部屋(あいべや)で六、七人も抱えておられたが、その内の一人が、急に乾霍乱(かんかくらん)の症状を呈し、吐くに吐けず、下りそうで下らぬという、まっこと、七転八倒の苦しみのために、文字通り、のた打ち回って御座ったと申す。
されば、相部屋の者どもが、いろいろ介抱致いて、何人かの医師のところへも急の使いを送ってはみたものの、時期と時間の悪う御座ったものか、孰れの医師も一向に往診にやって来ず、終日苦しんだ末、遂に儚くなってしもうたと申す。
かの相部屋の者ども、余りの急なことにて、皆して、うち寄り、
「……かく朋輩の死に至る病いに……薬の一服も飲ますこと、これ、出来ずに終わったること……何とも、残念至極!……ともかくもじゃ。これより上役の方へと願い出でて、せめて今からでもよう御座る、形ばかりの薬を飲ませ……皆の心残りのないよう、致そうぞ!……」
と、その旨、上役へと懇請致いた。
すると上役も、諸朋輩の気持ちを察し、早々に、取り敢えず、近きところの医師は、と考え、
「……さても、最寄りとならば……小島活庵方か……」
と、医師活庵殿が許へと、申し出た御馬解飼の者を走らせたと申す。
ところが、訪ねてみたところが、当の活庵殿は留守にて御座った。
田安家御家中からの往診なればこそ、そのままにては捨てもおかれず、活庵殿の、未だ若き子息で御座った小島安順と申す御方が、代わりに取り敢えず形だけでも、かの既に亡くなっておる元病人を見届くることと、相い成って御座った。
しかし安順殿が参って診てみたところが、息絶えてより、かれこれ相応の時も過ぎて御座ったによって、安順殿、型通りの診察を終えると、
「……遺憾ながら最早、四肢も冷めたく、療治の方途、これ、御座ない。施薬などは処方の価値、全く、御座らぬ。――」
と断り、死亡の確認を成すばかりにて御座った。
ところが、かの相部屋の朋輩ども、安順殿にすり寄ると、
「……既に息絶えてより時刻(とき)も随分経っておりまするゆえ……仰せの趣き、これ、ごもっともでは御座いまするが……」
「……なれど、我ら……急病とは申せ、薬一服飲ませ得ずに、手ものぅ儚のうなったること……これ、つらつら考えますると、何とも……」
「……へえ! その通りで!……如何にも朋輩として……これ……心苦しゅう御座いやすんで!」
「……されば、どうか一つ!……万に一つも、これ、朋輩の生き返るなんどということのあり得ぬことも、存じておりますれど……」
「……どうか! 後生で御座いやす!……」
「……形ばかりにて結構で御座いやす!……どうか、朋輩がために! 御薬を一服、賜わりまするように!……」
「……無理にでも、死人(しびと)の口に、これ、吹き込んでやりとう存じますればこそ!……」
と、これ皆、口を揃えて、たっての願いと申して御座ったによって、若き安順殿も、その意を汲んで、
「――相い分かり申した。――では、これを。」
と、心の臓に効く気付け薬を一包、置いて帰ったと申す。
*
さて、朋輩ども、うち寄って、詮なきこととは申せ、半ばは彼ら自身の気休めがためにも、この薬を煎じ、閉じた口を無理矢理抉(こ)じ開けて流し込んではみたものの、
……薬は口を洩れ……
……咽喉(のど)のところに溜まるばかり……
……凡そ効き目の、これ、あるようには、見えなんだと申す。
されば、仕方のぅ、そのまま骸(むくろ)を横たえ、部屋の隅に安置し、さても弔いの相談など、始めたと申す。
ところが――それから二、三時(どき)も過ぎたる夜更けのこと、この男、
「グェエッ!――グフォオオッツ! ドゥ、はあッ! あはぁ~~~!」
と息を吹き返して御座った!
――早速にぬるま湯や薄き粥なんどを飲ませ、一方で、かの安順殿が所へも、直ちに使いを走らせた。
「……せ、先生! か、かの、朋輩!……い、い、生き返り、やしたッツ!!」
と伝えたれば、安順殿もこれには驚き、急いでやって参り、その様子を見たところが、
「――うむ! これならば療治、出来申そう!」
と請けがい、即座に種々の薬を調合致いて服用させたと申す。
されば、日ならずして男はすっかり本復致いて、今もぴんぴんしておる由。
*
さても、これにはまだ後日談の御座る。
暫く致いたある日のこと、かの朋輩の一人が、かの蘇ったる男に、
「……それにしてもよ。あの世っうのは、どんな感じの所じゃった?……」
と、面白半分に問うてみたところ、男の曰く……
*
……最初、調子の悪うなったそん時は、言いようもないくらい、苦しゅうての!
……ところが……そのうち……なんか、こう……夢ん中におるような感じに……なっての。
……何とも……これ……広(ひろー)い野っ原に……出た。
その野っ原の、その向こうの方へ、向こう方へと行こうと、思うた。
するとな、その前の道が、二つに別れておっての。
一つは登り坂で、今一つは、これ、下り坂ながら、そっちの下りの方が、これ、如何にも険阻でのぅ。
されば、儂(わし)は、登りの方を行こうと思うたんじゃ。
ところが、その時のことよ。
ほれ。前に、ちょいと寝物語に話したろ。儂が前から心懸けておった――本郷辺の米屋の娘――あの娘に――行き逢(お)うたんじゃ!
儂は、
「――お前も独り、おいらも独り、互いに独りでは心細い。連れ立って行こう。」
と声をかけた。
されば一緒に、ということになったんじゃが、の。
かの娘はこれ、
「――私(あたい)は下り坂の方に行きたい。」
と言いよる。
じゃが、儂は、
「――あっちは道がえろう悪い。おいらは上り坂の方を行きたいんじゃ。」
と応えたによって、そのうち、言い争いとなって、の、そのまま喧嘩別れよ。
されば、儂はまた独りで坂を上って行ったんじゃ。
ほしたら、の、今度は、儂の歩いておる坂の上の方から、これ、まっ赤な着物を着た坊(ぼん)さんがやって来たんじゃ。ほぅして、
「――汝は何方(いずかた)へと参るか?」
と訊いてくるんや。
されば儂、かくかくしかじかと、病んでよりの、この夢の話のあらましを話した。話しながら、ふっと思い至って、
「……おいらは……これ……死んでしもうたんじゃろうか?……」
と聴いたんじゃ。
ほしたら、坊さん、
「――汝――何か思い残しておることのあるのではないか?」
と逆に聴き返してきたによって、こらぁもう、すっかりほんまに死んでもうたんかと思うたによって、の、
「……な、何(なあん)も、これ、思い残すことなんど、ありゃせんが……いまだ在所に両親も息災なれば……ああっ!――永いこと、逢(お)うておらんだによって――せめて最後に、今一度、対面してみとぅなった……」
と呟いたんじゃ。
すると、その坊さん、
「――然らば――帰して遣わそう。」
と言うた……と……何やら……体が……後ろへ……後ろへと……くいくい逆に巻き戻るように……後るへ――行く――と思うておるうち……何か……咽喉(のんど)に……恐ろしく苦い水薬(すいやく)のようなるもんが
――グワアッツ!――
と流れ込んで参って、ほんで――蘇っとったんじゃ。……
*
以上は、私の許に参る鍼医(しんい)の云栄(うんえい)と申す者から聴いた話で御座る。
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