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2015/02/28

耳囊 卷之十 死靈其血緣をたちし事

 

 死靈其血緣をたちし事

 

 下谷とか淺草とか、其名は聞(きき)しが忘れぬ。代々若死にて、養子を以(もつて)相續なし、只一人血筋の娘ありて、これはうち寄(より)大切にせしが、與風(ふと)煩ひ付(つき)て、諸醫手をつくし祈念祈禱なせしに、或時夜更(よふけ)て、見しらざる小坊主一人來りて申(まうし)けるは、我等は此家三代前の主人に仕えし者なるが、いさゝかの誤りありてなさけなくも殺されしもの也、跡をも弔ひたまふ事もなく、其始末も非道なれば怨恨はれやらず、是までたゝりをなし、其血筋今はあの娘一人なり、是も無程(ほどなく)とり殺し可申(まうすべし)といひし故、夢心にも、それは尤(もつとも)にもあるべけれども、最早年月もたちし事、今の娘死したりとも、御身の妄執はれ候と申(まうす)趣意も難分(わかりがたし)と、答へければ、しからば我(わが)塚あやしきながら、山谷(さんや)玉林寺にあり、何卒追善供養したまへ、しからば、娘の病は癒可申(いえまうすべし)と申ける故、明けの日、早速玉林寺へ人を遣(つかは)し、塚のありしを彼(かの)小僧の申(まうす)所と極め、厚く追善なしければ、不思議にも娘の病ひ頓(とみ)に癒(いえ)けるとなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:怪異譚連関。夢告物でしかもその夢通りにすることで災厄を回避するという酷似した伝承構造を持つ。くどいが、「耳嚢」は怪談集として世間で誤認されている向きがあるが、噂話の集成、当時の都市伝説集とも言うべきものであって、実際には本格怪談の分量は多くない。なお、本作は、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、末尾に『彼(かの)夢に見し男の一計策やしらず』とある。前の「或時夜更て、見しらざる小坊主一人來りて申けるは」(バークレー校版も全くの同文)の箇所は一読、実際に深夜に小僧が訪ねて来るように読めてしまうのであるが、途中に「といひし故、夢心にも」とあるように(バークレー校版ではここが『と言(いひ)しを、是(これ)夢幻(ゆめまぼろし)同樣に聞(きき)ける由』とある)これが夢体験であったことは明白である(私は実際、異様に体の小さな僧侶がこの屋敷を訪ねてくるというシチュエーションの方が好みであることは言うまでもない)。

・「山谷玉林寺」底本の鈴木氏注に、『宗林寺の誤か。(三村翁)宗林寺は浄土宗。玉林寺はいまの台東区谷中坂町で、曹洞宗。宗林寺の誤とすべきであろう』とある。長谷川氏は谷中のの玉林寺を注するのみである。しかし、ドヤ街の呼称として今も残る山谷は東京都台東区北東部の旧地名で、現在の清川・日本堤・東浅草付近を指しており、谷中ではおかしい。しかも現存する宗林寺を調べてみると同じ谷中にあって、さらに浄土宗ではなく日蓮宗である。三村翁の推定する寺はこれではないのではないか? 鈴木氏がわざわざ上記のような注を附したのは、山谷には玉林寺はなく、浄土宗の宗林寺がある/あったからこそ注したのではないか? と私は踏んだ。そこで切絵図の山谷方面を調べてみると、現在の清川一丁目付近に「宗林寺」の名を見出すことが出来た。現在の地図や寺院名簿では見出せないが、これが鈴木氏の言われる浄土宗の宗林寺かとも思われるのである。識者の御教授を乞う。 

 

■やぶちゃん現代語訳 

 

 死霊が一族の血縁(けつえん)を絶たんとした事 

 

 下谷とか浅草とか、その家名も聴いて御座ったが失念致いた。

 代々若死にの一族にて、養子を以って相続成して御座ったという家系で、当代、ただ一人のみ、先祖が血筋を引いたる娘子(むすめご)の御座って、この娘を一族郎党下男下女に至るまで、皆して、大事大事に育んで御座った。

 ところがこの娘、ふと、病いを患い始め、諸医の手を尽くし、諸方の祈念祈禱なんどまでも頼んではみたものの、一向によぅならなんだ。

 さても、ある夜更けのこと、養子にて継ぎたる当代の当主が夢に、見知らぬ小いさき坊主が一人、入り来たって申すことには、

「……我らは……この家(いえ)……三代前の主人に仕えし者なるが……聊かの過ちのあったを……これ……当主……無慈悲にも手打ちとし……殺されたる者……死せし跡をも弔ろうて呉るることものぅ……遺(のこ)った我らが妻子らへの始末一切も……これ……非道を極めたるものなればこそ――我らの怨恨――晴るること――なし――さればこそ……これまで一族血縁(けちえん)の者へ祟りをなし……その血筋……今はあの娘一人……これもほどのぅ――獲り殺して――呉れようぞッツ!……」

と呪いを吐いたによって、気丈なる当主主人、夢心地にも、

「……それはもっともなることではある。……がしかし、その儀、最早、年月も経ったることにして。また、今の娘の死んだとしても、これがなにゆえ――御身の妄執の晴るると申す趣意――と――どこでどう繋がると申すか? これ、我らには、いっかな、納得し難きことじゃ!」

と答えたところ、小坊主、しばらく考えておる様子にて黙って御座ったが、やがて徐ろに、

「……然らば……我が塚……これ……如何にもみすぼらしきもの乍ら……山谷(さんや)は玉林寺に在る……されば何卒……追善供養し下さるるか……然らば……娘の病いは……これ……癒ゆるで……あろうぞ……」

と申した――と思うたら――目(めぇ)が醒めた。

 されば、主人、その早朝、早速に玉林寺へと人を遣わし、過去帳を調べ、無縁仏として名も載せぬそれらしき、見捨てられたる塚の一基を見出したと申す。

 当主、

「――これこそ、昨夜、夢に現れたる小さき僧の申した所であろうぞ!」

と確信致いて、玉林寺が住持に依頼致いて、塚を築き直し、墓標も新たに作って、手厚ぅに追善の法要を成して御座った。

 すると、不思議なことに、娘の病い、これ、瞬く間に本復致いたと申す。

 

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