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2015/02/13

「いとめ」の生活と月齢との関係――附・「いとめ」精虫及び卵、并びに人類の精虫電気実験に就きて――   新田清三郎 (Ⅱ)

 「いとめ」の浮游期間は潮時即ち月齡と密接なる關係がある。通例毎年十月及び十一月の朔望若しくはそれより二、三、四日の間に群游する。それが此二、三ケ月間に四回行はれるのである。然しながら往々九月に浮游することもあるが、之はまだ學者の注目するところとなってゐないやうである。即ち大正十四年の如きは九月の十九日、二十の二日間に渉りて「いとめ」の大群游があつた。

 著者の居所は深川の木場にあるを以て大正三年より「いとめ」の群游に着目し、木場の材木堀及支流に於ける「いとめ」の浮遊狀態につきて年々連續的に研究を重ね、遂に小松川、千住、其他の方面にも研究の歩を進めてゐた。凡そ天文及び氣象に關係ある研究は少くとも十餘年間の比較研鑽に俟つにあらざれば其周期的變化を審かにすること能はざる場合多きが如く思はるゝが故に、只管長年月の研究の結果に徹する考へなりしが、昨大正十四年十一月、日本醫專内科小兒科集談會に於て第一囘の報告をなし、又大正十五年四月四日大日本生理學會第五回例會に於て岡山醫科大学教授生沼曹六氏の「いとめ」の定期群游に就きての報告に際し對論及び追加をしておいた。其後他の學者の「いとめ」に關する一二に文献を目擊し、始めて他にも「いとめ」研究者のあることを知りて私かに學界のために之を喜ぶと同時に生物の生理と自然現象との關係につきて細心の注意を拂ふべきことを深く感じ、他の篤學者の參考にもと舊稿を出して世に問ふことゝした。普通の動物書にある説明は煩を厭ひて成るべく之を省き、專特種的研究成蹟のみを列擧することに注意し且つ二三の新しき意見をも附加しておく。

 因みに著者の深川木場に於ける研究室は東經一三九度四九分三〇秒北緯三五度三九分三八秒に近い。又月齡は東京天文臺編纂本曆による

[やぶちゃん注:最後の句点なしはママ。

「大正十四年の如きは九月の十九日、二十の二日間に渉りて「いとめ」の大群游があつた」この時の月齢は、

 9月19日 月齢〇・九 大潮

 九月20日 月齢一・九 大潮

であった。

「小松川」東京都江戸川区小松川。研究室のある新砂からは東北三キロメートルの荒川左岸。ここから荒川を凡そ十キロメートル遡った位置が足立区「千住」である。新田氏のイトメのフィールド・ワークが主に荒川流域で行われていたことが判明する。

「木場の材木堀及支流」は隅田川河口の旧木場で、恐らくここは、その後埋め立てられてしまった現在の木場公園周辺の運河及び流水域(現行で残る主流は仙台堀川)を言っているものと思われる。ここは新田氏の病院の北直近であった。現在の夢の島の荒川の河口に設けられた新木場が新たな木場となったのは昭和四五(一九六九)年のことである。

「大正十五年四月四日大日本生理學會第五回例會に於て岡山醫科大学教授生沼曹六氏の「いとめ」の定期群游に就きての報告」これが先の注で示した生沼曹六氏の論文『「いとめ」 Ceratocephale Osawai ノ定期的群游ニ就テという論文である。恐らくイトメ Tylorrhynchus heterochaetus の生殖群詠泳及びその月齢との科学的連関性を本格的に述べたものとしては、日本最初の学術論文であろうと思われる(但し、彼の恩師大澤謙二が初めてイトメの定期群游を学会に報告した旨の記載が同論文冒頭には一応ある。私は未見)。筆者の生沼曹六(おいぬまそうろく 明治九(一八七六)年~昭和一九(一九四四)年)は生理学者。石川生。第四高等学校医学部(現在の金沢大学医学部の前身)を卒業後、明治三二(一八九九)年に東京帝大医学部助手となり、日本生理学の祖とされる大沢謙二教授に師事、明治三九(一九〇六)年、東京慈恵医院医専教授、大正一一(一九二二)年に岡山医大教授となった。感覚生理と航空生理学の研究で業績を残したと、参照した講談社刊「日本人名大辞典」にある。……なお、この論文、字が掠れていて結構、読むのが辛い。……生沼曹六氏の著作権も消滅している……よし! こうなったら! 一つも二つも変わりゃあしねえ! この新田氏の電子化を終えたら、この生沼氏の当該論文の電子化に入ることと決する!

「私かに」「ひそかに」と訓ずる。

「深川木場に於ける研究室は東經一三九度四九分三〇秒北緯三五度三九分三八秒に近い」この位置を国土地理院の地図で調べると、これは後の新田氏の病院とは異なる位置である。少なくとも冒頭に注した通り、新築された三階建の新田医院は、後に作られる新田橋がその医院の裏手に当たるという叙述があることから、これは現在の木場駅の北直近である。ところが、この経緯度で地図を検索すると、医院の位置から西南西へ直線で二キロメートルの、現在の新砂(しんすな)二丁目、現在の夢の島(当時は無論ない)から北に砂町北運河を入った凡そ六百五十メートル入って左に直角に折れたバースの右岸(北岸)に相当する。現地を見た訳ではないが地図上から見ると、ここに新田氏が居を構えていたとは少し想像し難い。但し、直近に東京湾を臨み、しかも当時はすぐ東の荒川からの淡水の混じる汽水域であった推定出来るところから、イトメの観察には好条件であり、ここの漁師小屋などをイトメの研究室にしていたのではあるまいかと考えられる。]

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