譚海 卷之一 同郡神宮寺渡幷杉の宮寶物の事
○同郡神宮寺の渡(わたし)と云は大川也。津輕往來の驛路也。津輕殿渡らるゝ時は怪異有(あり)。是は先年船頭祝儀の錢をねだり、非禮の事ありしを糺され、死刑に行れし癘也と云傳(いひつた)ふ。又同郡に杉の宮とて八幡宮を祭たる所あり。杉の大木數千本しげりて幽邃の地なり。神寶の内に義家將軍の隨身(ずいじん)のもの多し。又後鳥羽院のうたせ給ふ佩刀あり。目貫(めぬき)に黄金の菊の折枝(おりえだ)をつけたり。花のつぼみのところ則(すなはち)目釘の鋲也。又同領鑓(やり)みなひ村といふ處の杉を伐(きり)たふしたる中より、鴈(かり)またの矢の根出たり。長さ壹尺餘はゞ七寸計りにて、鎗のほさきのごとし。この地は往古後三年の戰場なれば、そのとき射たるものと覺ゆ。むかしはかくのごとき勢兵(せいびやう)の射手ありけるにやと嘆慨し侍りぬ。
[やぶちゃん注:「同郡神宮寺の渡」前話の出羽国を受けるから現在の秋田県大仙市神宮寺(旧仙北郡神宮寺村)で、渡しは同地区の南部を流れる雄物川のそれである。「秋田の昔話・伝説・世間話」に「神宮寺渡しの怪」があり、『佐竹義真は父を亡くし若くして十六代佐竹藩主になった。江戸城で津軽藩主に呼び止められ、神宮寺の川越人足の不貞を告げられると、義真は津軽藩主が津軽に帰る際、川越の前日に渡し人夫十一人を斬首し獄門にかけた。そして川越をしようとした時、大嵐が襲い一行の行き先をはばかった。津軽藩主たちは一心に念仏を唱えるとやっと嵐がおさまった。それから墓を作ることの出来ない罪人を自然石に仏を入れた』とある。TU氏のブログ「Tiger Uppercut!~ある秋田人の咆哮」の「神宮寺嶽は見ていた ~十一人獄門の真実」でことの真相を推理しておられ、非常に面白い。それによれば、この当事者であったのは当時の久保田藩第六代藩主佐竹義真(よしまさ 享保一三(一七二八)年~宝暦三(一七五三)年)と弘前藩(津軽藩)第七代藩主津軽信寧(のぶやす 元文四(一七三九)年~天明四(一七八四)年)であるとあり、底本の竹内氏の注にはこの事件は「秋田沿革史大成」には『宝暦年間のことと伝えている』とある。すると義真は二十三~五歳、信寧に至っては十二~十四歳で、とんだ青二才同士の気まぐれに人夫ら十一人は命を落としたのであった。
「癘」読み不詳。ハンセン病や流行病を指す語であるが、ここは「靈」(レイ)若しくは「祟」(たたり)と書くところを誤ったもの。
「杉の宮」底本の竹内氏注に、秋田県雄勝(おがち)郡『旧杉宮村の杉宮大明神、八幡宮ではなく三輪明神を祭る。神杉の大木が茂っていて有名であった。近世は藩主の命で年々社地外に杉の植林をおこなってもいる』とある。現在の秋田県雄勝郡羽後町杉宮。神宮寺町の約南方三十キロメートルに位置する。
「隨身」ここは身の回りにつけていたものの意。
「後鳥羽院のうたせ給ふ佩刀」後鳥羽院は刀を打つことを好み、備前一文字派の則宗をはじめとして諸国から鍛冶を召して月番を定めて鍛刀させたと伝えられる。また自らも焼刃を入れ、それに十六弁の菊紋を毛彫りしたとされ、これを「御所焼」「菊御作」などと呼ぶ。天皇家の菊紋の濫觴である(以上はウィキの「後鳥羽天皇」に拠る)。現存はしない模様である。
「鑓みなひ村」秋田県大仙(だいせん)市鑓見内(やりみない)であろう。神宮寺町の東北直近にある。
「鴈またの矢の根」先が股の形に開き,その内側に刃のある狩猟用の鏃(やじり)。
「長さ壹尺餘はゞ七寸」鏃の長さが三十センチメートルを有に越え、幅も二十一センチメートルというから、それを装着した矢となると、これはもう恐ろしく大きく且つ長い。
「勢兵」剛腕の強者(つわもの)。]