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2015/02/09

耳囊 卷之九 王仁石碑の事

 

 王仁石碑の事

 

 河州(かしう)交野郡(かたののこほり)に、おにの墓といふ事あり。水野某大阪勤仕(ごんし)の頃、右銘を石摺(いしずり)になしたりとて見せけるを、左(さ)に記す。

 博士王仁之墓

と彫付(ほりつけ)ある由。年號も文もなし。仁德の頃の物にはあるまじ、其後遙(はるか)の後世に出來たるやしらず。しかれども、ちかき造立(ざうりう)とは不見(みえず)。楷書にて著(しるせ)しが、見事なる筆法なり。土俗は王仁を略語して鬼の墓といふ由、をかし。 

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。古碑考証シリーズ。

・「王仁」「わに」と読む。岩波長谷川氏注に、『応神天皇の時、百済から渡来し『論語』『千字文』を伝えた』とある。ウィキの「王仁には『『日本書紀』では王仁、『古事記』では和邇吉師(わにきし)と表記されている。その姓から見て、高句麗に滅ぼされた楽浪郡の漢人系の学者とする説もある』が、実在を疑う説、『帰化した複数の帰化人学者が、『古事記』編纂の際にひとりの存在にまとめられたのではないかとされる説』などがあると記し、『楽浪の時代を通じて強力な勢力をもった楽浪王氏は斉(中国山東省)の出自といわれ、紀元前百七十年代に斉の内乱を逃れて楽浪の山中に入植したものという。王仁も三百十三年の楽浪郡滅亡の際に百済へと亡命した楽浪王氏の一員ではないかと考えられ、楽浪郡の滅亡後に百済へ亡命した後、四世紀後半には日本へ移民したと思われる』という説を掲げる。

・「河州交野郡に、おにの墓といふ事あり」底本の鈴木氏注には、『大日本地名辞書、河内国北河内郡の宇山の条に、「延暦二十一年坂上田村麿蝦夷二酋を河内植山に斬ると云ふは此なるべし。……宇山の東一旦菅原村字藤坂に鬼墓あり夷酋の墳歟』とある。宇山か大阪府枚方市宇山町』と記す。ウィキの「王仁」には「王仁塚」の項があり、『真偽は不明であるが以下に示す』として、冒頭に大阪府枚方市藤阪東町二丁目にある大阪府史跡であるこの「伝王仁墓」が載る。『一六一六年(元和二年)、藤坂の山中にオニ墓と呼ばれる二個の自然石があった。歯痛やおこりに霊験があったとされた。禁野村和田寺の道俊は王仁の子孫と自称し、『王仁墳廟来朝記』を著した。藤坂村字御墓谷のオニ墓は王仁墓の訛ったものと表した』。『一七三一年(享保十六年)、京都の儒学者並川五一郎が上記文献により、墓所中央の自然石を王仁の墓とし、領主・久貝因幡守に進言「博士王仁之墓」の碑を建立』(この碑が本文のそれである。「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年夏)。『一九三八年(昭和十三年)』に大阪府が史跡に指定したとある。しかし岩波の長谷川氏注は『この碑は「おに塚」と呼ばれていたものを王仁に附会したもの』と断じていて、極めて否定的である(なお、同ウィキによれば別に大阪市北区大淀中三丁目(旧大淀区大仁町)にある一本松稲荷大明神(王仁大明神・八坂神社)は王仁の墓と伝えられてあり、王仁大明神の近辺に一九六〇年代まであった旧地名「大仁(だいに)」は王仁に由来していると伝承されているとある)。

・「水野某」水野若狭守忠通(ただゆき)。既注。彼は寛政一〇(一七九八)年三月より文化二(一八〇五)年八月まで大坂東町奉行であった。従って彼が実見した時は既に碑の建立から七十年前後が経過しており、碑の建立の謂われもこの頃には土地には知る者とてなかったものであろう。因みにこの藤坂村は藩領ではなく、古く久貝(くがい)家の旗本領であった。されば、そうした事蹟は最も伝わり難いものであることは容易に想像がつく。にしても……「仁德」?……西暦五世紀初めったあ、千四百年前でっせ?! そないな、けったいな! んなこと、幾らなんでも、ありえまへんて、若州はん!……根岸はんも、笑(わろ)うってまっせ!……(結構、根岸、これが旗本久貝家の建てたものと知っていたのではなかろうか?……いやいや、流石、そこまで意地悪ではあるまいが、根岸の「をかし」はすこぶる足捌きも軽々としている……) 

 

■やぶちゃん現代語訳 

 

 王仁(わに)の石碑の事 

 

 河内国交野(かたの)郡に、「おにの墓」と申すものがあるという。

 水野某殿、

「……大阪勤仕(ごんし)の折り、その銘を拓本に成して御座った。……」

とのことにて、見せて呉れたものを、左に記しおく。

 

――博士王仁之墓

 

と彫り付けて御座った由。

「……年号も、これ、添えられた銘文も、一切御座らなんだ。……まず、仁徳帝の頃の物にては流石にあるまじいものにして、かの渡来したと申す王仁(わに)の亡くなった後……その後、遙か後世に、これは、建立されたるものか。……しかれども、そんなに最近の造立(ぞうりゅう)になるものとは見えず御座った。……ほれ、楷書にて彫り記(しる)して御座るが、これ、なかなかに、美事なる筆捌きで御座ろうが!……因みに……かの地の土俗にては、の……この「王仁(わに)」……略語して――「鬼(おに)」の墓――と申して御座ったわ。……」

との由。

 まっこと――面白い。――

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