耳嚢 巻之九 疝氣を治する呪の事
疝氣を治する呪の事
或人のいへるは、疝氣(せんき)を憂ふるもの、灰をいかにも細かにして箱やうのものゝ内におき、尻をまくりて右灰のうへへ胡坐(こざ)すれば、睾丸の下(さが)りたる所、右灰へあたりて跡ふたつ附(つく)也。右跡へ灸を三丁(ちやう)づつすゑれば病氣の根をたつとなり。是をためしける人、奇々妙々なりとかたりぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:なし。民間療法シリーズ。
・「疝氣」既注乍ら、再掲する。近代以前の日本の病名。当時の医学水準でははっきり診別出来ないままに、疼痛を伴う内科疾患が、一つの症候群のように一括されて呼ばれていたものの俗称の一つ。単に「疝」とも、また「あたはら」とも言い、平安期に成立した医書「医心方」には,『疝ハ痛ナリ、或ハ小腹痛ミテ大小便ヲ得ズ、或ハ手足厥冷シテ臍ヲ繞(めぐ)リテ痛ミテ白汗出デ、或ハ冷氣逆上シテ心腹ヲ槍(つ)キ、心痛又ハ撃急シテ腸痛セシム』とある。一方、津村淙庵(そうあん)の「譚海」(寛政七(一七九五)年)には大便をする際に出てくる白く細長い虫が「せんきの虫」であると述べられており、これによるならば疝気には寄生虫病が含まれることになる(但し、これは「疝痛」と呼称される下腹部の疼痛の主因として、それを冤罪で特定したものであって、寄生虫病が疝痛の症状であるわけではない。ただ、江戸期の寄生虫の罹患率は極めて高く、多数の個体に寄生されていた者も多かったし、そうした顫動する虫を体内にあるのを見た当時の人はそれをある種の病態の主因と考えたのは自然である。中には「逆虫(さかむし)」と称して虫を嘔吐するケースもあった)。また、「せんき腰いたみ」という表現もよくあり、腰痛を示す内臓諸器官の多様な疾患も含まれていたことが分かる。従って疝気には今日の医学でいうところの疝痛を主症とする疾患、例えば腹部・下腹部の内臓諸器官の潰瘍や胆石症・ヘルニア・睾丸炎などの泌尿性器系疾患及び婦人病や先に掲げた寄生虫病などが含まれ、特にその疼痛は寒冷によって症状が悪化すると考えられていた(以上は平凡社「世界大百科事典」の立川昭二氏の記載に拠ったが、( )内の寄生虫の注は私のオリジナルである)。
■やぶちゃん現代語訳
疝気(せんき)を治す呪(まじな)いの事
ある人の申すには、疝気を患っておる者は、灰を徹底的に細かに砕き、大きな箱のようなものの中に平らに敷きつめおき、尻を捲って、この灰の上へ、胡坐(あぐら)をかいて座る。すると、睾丸が自然と下がって参って、その灰へ触れ、そこに灰の痕(あと)が二つの睾丸のそれぞれの箇所に、二つ、これ、つく。
その後、起き直って、この二箇所の灰の痕のついた睾丸の箇所に、灸を一つ当たり艾(もぐさ)三つずつすえれば、これ、疝気の根、美事、断つ――と。
これを実際に試してみたと申す御仁が、
「いや! その効果、これ、奇々妙々で御座った!」
と語って御座ったよ。