譚海 卷之一 城郭天守等の事
城郭天守等の事
○我國の城と云もの、昔は殊にあさま成(なる)もの也しを、信長公の時耶蘇宗の者差圖して、石にて築き建たる事と成たるよし。天守といへるも其宗旨の本尊を安置せし所なるよし。常時城郭のごとく堅固なるは唐にもなき事也と、高市郎兵衞物語也。江戸の御本丸の天守雷火にて燒(やけ)たる、その同時に越前福井の城の天守も雷火にて燒たりとぞ。明和より百六十年程已然の事也。右福井の城下にケイマツと云世家(せいか)の者有。國の人は長者どのと稱する由、住宅は八つ棟造りと云普請なり。東照宮御寄住(およりずみ)ありし家にて、御由緒ある者也とぞ。
[やぶちゃん注:ここに記された城の「天守」閣(戦国末までは存在しなかった)を、キリスト教の「天主」由来とする説は仮説の一種としては確かにある。
「あさま成」「淺(あさ)まなり」で粗末だ、粗略であるさまを言う。
「江戸の御本丸の天守雷火にて燒たる」ウィキの「江戸城」の天守より引く(アラビア数字を漢数字に代えた。下線部やぶちゃん)。『太田道灌築城以降の象徴的建物は、静勝軒という寄棟造の多重の御殿建築(三重とも)で、江戸時代に佐倉城へ銅櫓として移築されたが、明治維新後に解体された。佐倉城の銅櫓は二重櫓で二重目屋根が方形造で錣屋根のようになっていた』。『徳川家康の改築以降、本丸の天守は慶長度(一六〇七年)・元和度(一六二三年)・寛永度(一六三八年)と三度築かれている。どの天守も鯱や破風の飾り板を金の延板で飾っていた』。明暦三(一六五七)年に『寛永度天守が焼失した後、ただちに再建が計画され、現在も残る御影石の天守台が前田綱紀によって築かれた(高さは六間に縮小)。計画図も作成されたが』、保科正之(陸奥会津藩初代藩主。第三代将軍徳川家光の異母弟で、家光と第四代将軍家綱を輔佐して幕閣に重きをなした)の『「天守は織田信長が岐阜城に築いたのが始まりであって、城の守りには必要ではない」という意見と江戸市街の復興を優先する方針により中止された。後に新井白石らにより再建が計画され図面や模型の作成も行われたが、これも実現しなかった。以後は、本丸の富士見櫓を実質の天守としていた』。『また、これ以降諸藩では再建も含め天守の建造を控えるようになり、事実上の天守であっても「御三階櫓」と称するなど遠慮の姿勢を示すようにな』ったとある。本文にはこの江戸城天守閣の落雷による回禄及び同時に起った福井城のそれは、「明和より百六十年程已前」とあり、明和は一七六四年から一七七二年で、その百六十年前とすると、江戸城でいうと家康改築の後、慶長一二(一六〇七)年のそれ以前となる。即ち、ここで淙庵が語っている天守焼亡は最後の回禄ではなく、江戸城最初の天守閣への落雷による大規模な天守閣焼失火災を指しているということが分かる。
「越前福井の城の天守」ウィキの「福井城」の天守の記載(アラビア数字を漢数字に代えた)。慶長五(一六〇〇)年に『家康の次男である結城秀康が六十八万石で北ノ庄に入封されると、翌一六〇一年より天下普請による築城を開始する。一六〇四年に秀康が松平氏を名乗ることを許され、名実共に御家門の居城にふさわしい城となるよう、全国諸大名の御手伝普請で約六年の歳月をかけて完成する。完成した城は』二キロメートル四方に及び、『五重の水堀が囲む本丸には四重五階の天守が建てられていたが』寛文九(一六六九)年に焼失して後は、『以後藩財政の悪化や幕府への配慮などから再建されることはなかった。幕府から再建の許可が下りなかったとの説』があり、別資料ではそう断言したものもある。ともかくも前の注で私が計算したように、慶長一二(一六〇七)年のそれ以前の直近に起った江戸城天守回禄と同時に起った福井城天守の落雷による焼失火災であるということになる。
「ケイマツ」単なる同音で気になるのであるが、関ヶ原で討ち死にしたものの家康と親しかった豊臣秀吉の家臣にして越前敦賀城主であった名将大谷吉継のウィキの記載に、彼の両親が『が子供が出来ないことに嘆き悲しんでおり、父の吉房が八幡神社へ参詣すると「神社の松の実を食べよ」という夢を見たという。そこで神社の松の前に落ちていた松の実を食べると吉継が生まれてきたという伝説があり、その幼名も慶松(桂松)という』とあり、また『大坂の陣よりのち、三男の泰重の子で吉継の孫にあたる重政は福井藩松平家に仕官し、その子孫は家老の家格に列した。老中土井利勝らはこのことを知ると、「家康が知ったら喜んだだろう」と言ったという』とある。これ、全くの偶然か? 識者の御教授を乞うものである。
「世家」古えより一定の相当地位や俸禄を受けること世襲していた由緒ある家柄。
「東照宮御寄住(およりずみ)」読みは不確か。家康が福井に立ち寄った際に、立ち寄って滞在した場所という意味であろう。]