耳嚢 巻之十 武偏可感人の事
武偏可感人の事
去る御旗本の隱居に平岡如眞といへる人あり。子息は奧向(おくむき)の御奉公を勤(つとめ)、いやしき事などしらず過(すぎ)き。彼(かの)翁は平日綿服(めんふく)にて、藏(くら)へ八疊舖(じき)計(ばかり)のさし懸(かけ)をなし、朝夕の食事も食汁計(めししるばかり)にて、朔十五日には肴(さかな)を給(たべ)、是(これ)以(もつ)とほしけれは、干魚(ひうを)上下共(とも)用ゆ。家來末々迄も、或日には主人と同格にて上下とも食事聊(いささか)へだてなく、質素を專らなせし人也。餘が許へ來る種山某は懇意に出合(であひ)しが、彼(かの)翁目利(めきき)をよくなして、常に膝の廻りには甲胃を幾通りも並べ、扨(さて)打物も何れも折紙付(つき)し品を並べけるを樂(たのしみ)となす。或時我等が質素を專らとせる所を見給へとて、いかにも包(つつみ)を出して見せける故、いか成(なる)奇物哉(や)とひらき見れば、金百兩包三つあり。これは具足櫃(ぐそくびつ)に入(いれ)て、武士の爰(ここ)はの時の費用也(なり)、かゝる目出度(めでたき)御代なれば、火災等に逢(あは)ば遣ひもせん、其外には聊(いささか)不用品也と申されけると也。〔息は玄蕃頭(げんばのかみ)とて當時勤士(ごんし)の人なるよし。〕
□やぶちゃん注
○前項連関:なし。平時武辺物。
・「武偏可感人の事」「ぶへんかんずべきひとのこと」と読む。武辺の方がよろしい。
・「平岡如眞」底本の鈴木氏注に、『頼長か。ただし寛政譜には如真とは記してない。嗣子は頼寛。三村翁は如真を頼寛かとされている。頼寛は文化六年四十四歳であるから、隠居する年でないとはいえない』とあるが、岩波版の長谷川氏注は『頼長は寛政三年(一七九一)より御側のまま文化十三年(一八一六)没、隠居というのにあわない。子の頼寛は享和三年(一八〇三)西丸小納戸、父に先んじて隠居も如何と思われ、頼寛説も疑問』と退けておられる。個人サイト「風雲児たちの人物事典」の「平岡頼長」の事蹟を読むと、根岸が惹かれた気骨のある人物としては、しっくりはくる。
・「さし懸」建物の壁面から屋根(廂)を片流れに長く出して附け足し、そこを通路や小屋の様に用いた部分。下屋(げや)。
・「朔十五日」それぞれ氏神や信仰する神社に参る朔日(ついたち)参りと十五日参りの式礼日。新月と満月のこの日は神霊の霊力が最も強いとされた。
・「かゝる目出度御代なれば、火災等に逢ば遣ひもせん」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『かゝる目出度御世なれば、軍陣の用はなくとも嗜(たしな)み置(おく)金子也。火災等に逢(あは)ば遣(つかひ)もせん』と通りが良い。ここの部分はこれを用いた。
・「上下共用ゆ」以下の部分とダブる。衍文として判断して訳の一部を省略した。
・「玄蕃頭」しばしば聴く官名なのでウィキの「玄蕃寮」で注しておく。元来、玄蕃寮は律令制に於ける治部(じぶ)省に属する機関で和名は「ほうしまらひとのつかさ」、唐名は「崇玄署」「典客署」「鴻臚寺」。「玄」は僧侶(ほうし)、「蕃」は外国人・賓客(まらひと)のこと。『度縁や戒牒』(「どえん」「かいちょう」と読み、国家公認の僧尼に交付される身分証の類)『発行といった僧尼の名籍の管理、宮中での仏事法会の監督、外国使節の送迎・接待、在京俘囚の饗応、鴻臚館』(七~十一世紀頃に京都・太宰府・難波・博多に置かれた外国からの来朝者を接待した館舎。平安後期に消失)『の管理を職掌とした』。「玄蕃頭」は玄蕃寮の長官で位階は従五位下相当であった。
■やぶちゃん現代語訳
武士道感心の御仁の事
さる御旗本の御隠居に平岡如真(じょしん)と申す御方がおらるる。この如真殿の御子息などはこれ、物心ついたころより奧向きの御奉公を勤められ、凡そ俗事なんど知らずに育って御座ったほどの御家系にて御座る由。
如真翁は、平素は質素なる綿服(めんぷく)を着られ、蔵の廂を延ばして八畳敷ほどの差し掛けの粗末な小屋をお造りになり、そこを隠居所となさっておらるると申す。
朝夕の食事も飯と汁ばかりにして、式礼の朔日(ついたち)と十五日にのみ、魚(さかな)一品だけを添えられ、時に、今少し食したく思われた折りには、それでも少しばかりの干魚(ほしざかな)をそれに加えらるるばかりで、しかも御自身のみでなく御家来衆から下々の下男下女に至るまで、これ、平時と式礼日の食、御主人と同格にして、屋敷内の者はこれ、一切、食事に聊かの違いも御座なく、質素徹底を専らとなせる御仁と聞く。
私の許へ参る種山某(ぼう)は、特にこの如真翁と懇意にしておらるる御仁であるが、その種山殿の話によれば、
……かの翁は武具の目利きをもよくなさるる御方にて、常にその下屋(げや)の床(ゆか)には所狭しと鑓や刀が並んでおり、膝の廻りには甲胃など何領も並べ置かるるを常とされ、しかもまた、その各種の刀剣・槍・甲冑、これ、孰れも確かな鑑定を経たる業物(わざもの)ばかり。……それらの品々を眼の前一杯にざあーっと並べてご覧にならるる、これを無上の楽しみとなさっておられまする。……
ある日のこと、翁が、
「――拙者が質素を専らと致いて御座る所を――これ――ご覧にならるるか?」
と申され、徐ろに、はなはだ大きなる包みを出だいて見せんとなされたによって、
『如何なる奇物であろうか?』
と興味深々にて、翁の包みを開いたるを見れば、これ
――金子――百両包みが――三つ――
「……これは具足櫃(ぐそくびつ)の内に入れおきて、『すは出陣』と申す折りの費用で御座る。……もっとも、かかる目出度き天下泰平の御代となって御座れば、軍陣がための費用とは笑止千万と申さるるかも知れぬが……やはり、我ら武士として忘れずに持ちおくべき金子と、これ、心得て御座る。……いや、まあ、しかし、そうした謂いも、これ、拙者の見得にては御座る、……火災なんぞに逢(お)うた折りにでも、少しは役に立とうかと存ずるものにして……いやはや……その外には……全く不用品の三百両にては……御座るよ……呵! 呵! 呵!」
と自嘲しつつも、気持ちよくお笑いになられて御座った。……
なお、最初に述べた御子息と申すは、これ、玄蕃頭(げんばのかみ)にして、今は数々の幕府重役を勤められておらるる御仁なる由。