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2015/02/08

耳嚢 巻之九 外山屋鋪怪談の事

 外山屋鋪怪談の事

 

 尾州外山の御屋鋪(おやしき)、名だゝる廣大の事にて、五十三次の景色其外山水の眺望疑ひなしとかや。いつの頃にかありし御成(おなり)有之(これある)に付(つき)、前に奧向(おくむき)より右御場所(おんばしよ)見分(けんぶん)ありけるゆゑ、彼(かの)御家(おんけ)の役人も案内なしけるが、片山里(かたやまざと)と思しき所にありて、錠(ぢやう)を懸けて、いかにも社(やしろ)も古く事古(ふ)りし所なるに、其頃頭取(とうどり)勤めける夏目某(ぼう)、氣丈(きじやう)成(なる)生質(たち)なりしか、此社は何故(なにゆゑ)錠封有之哉(ぢやうふうこれあるや)と尋(たづね)ければ、役人答へて、是は昔より申傳(まうしつたへ)の邪神を封じ込(こめ)しとて、此錠を明(あけ)候事はつひになき由笑ひて答へければ、かかる事あるべくもなし、御成には、我等見分に罷越(まかりこそ)し候上は、若し封錠の儀、御尋(おたづね)あるまじきにもあらず、一覽致度(いたしたし)とありしを、達(たつ)て留(と)めけれど、改めんと有(ある)も謂(いはれ)なきにもあらず、鎰(かぎ)を給(たまは)れと請取(こひとり)て、彼(かの)錠を明(あけ)て扉をひらきしが、大きに驚きたる體(てい)にて早々扉を締(しめ)て、元のごとく錠を懸(かけ)しとなり。跡にて聞(きき)しに、何か眞黑成(なる)もの、頭をぐつとさし出せしが、眼の光りあたりを照(てら)し、恐(おそろ)しといふも計(ばかり)なしと、彼(かの)頭取のかたられるとなり。

  按ずるに怪にはあるべからず。猥(みだ)

  りに口説(くぜつ)にかけては惡敷(あ

  しき)品を、先代封じて社に崇め給ふな

  らんを、夏目心得てかくかたりつらん。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。怪談ながら、根岸の附言によって真相が明かされてしまっている。しかし、では、その「先代封じて社に崇め給」うたという、「猥りに口説にかけては惡敷品」なるものとは如何なるものかという別な興味が生じてしまう。これ、私に言わせれば、その素性を探し得ない、これ、性質(たち)の悪い注釈と言いたくなる代物だ。役方が「笑ひて答へければ」というのが何とも怪しいぞ! 男女の生殖器に模した陽物か陰物崇拝の陰陽石なんどがどーんと鎮座していたか? ♪ふふふ♪

・「外山屋鋪」底本の鈴木氏注に、『尾州藩の下屋敷。新宿区喜久井町、戸山町にわたる地域を占めていた』とある。現在の東京都新宿区にある集合住宅の戸山ハイツ及び都立公園戸山公園周縁一帯に相当する。

・「五十三次の景色其外山水の眺望疑ひなし」ウィキの「戸山公園に、『当地一帯は、江戸時代には尾張藩徳川家の下屋敷であった』とあり、第二代『藩主徳川光友により、回遊式庭園「戸山山荘」として整備され、敷地内には箱根山に見立てた築山の玉円峰(現在の箱根山)、東海道の小田原宿を模した建物など二十五景がしつらえられた。寛政年間には』第十一代『将軍徳川家斉の訪問を受けるなど、水戸藩徳川家の小石川上屋敷と並ぶ有数の大名庭園であった。この頃の戸山山荘を描いた谷文晁による絵巻が現存している。その後は数度の火災や水害により荒廃したが、尾張藩の財政難などもあり復興されなかった』とあるから、本文にある将軍の「御成」はこの家斉のことであったことが分かる(後注参照)。なおその後のここは、『明治維新後、戸山山荘は明治政府に明け渡される。跡地には』明治六(一八七三)年に『陸軍戸山学校が開かれ、太平洋戦争終結まで、陸軍軍医学校、陸軍の練兵場などに利用された。戦後、軍事施設はすべて廃止された』(邪神を封じていた地に建ったのが後のおぞましい大日本帝国の陸軍施設であったことの方がよっぽど怪談になろうというものだ)。昭和二四(一九四九)年に跡地に『戸山ハイツの建設が開始され』、昭和二九(一九五四)年には『敷地の一部を公園として整備し、「戸山公園」として開園した』とある。また、新宿観光新興協会公式サイト内の「戸山山荘跡」には、『現在の戸山ハイツ一帯は、江戸時代、徳川御三家の一つの尾張家の下屋敷で、戸山山荘と』称したとあり、『この下屋敷は尾張家二代藩主徳川光友が済松寺開祖祖心尼から土地を譲られ』、寛文八(一六六八)年に『着工。総坪数は十三万六千余り(約四十五平方メートル)で、回遊式庭園の中に二十五景をしつらえ、小石川の水戸家の後楽園と並ぶ名園』と知られたとある。寛政二(一七九〇)年『十一代徳川家斉を迎えたとき大修築を行い、その直後、谷文晁にその景色を絵巻に描かせており、文人画風の折本帖として伝えられて』あり、『また、当時の文化人として有名な大田南畝も』、寛政五(一七九三)年に『招かれて見物しており、そのときの模様を随筆『半日閑話』に記してい』るとある。『その後の享和、天保、安政年間に相次いで火災や風水害にあい、再び荒廃。とくに』安政六(一八五九)年に起った『青山大火で類焼した後は復興され』なかったとある。『現在、当時の庭園の一部であった「箱根山」と呼ぶ築山が残ってい』るとある。「牛込市谷大久保繪圖」の切絵図でその位置と大きさが確認出来る。

・「御成」前注により、第十一代将軍徳川家斉となると、彼の在任期間は天明七(一七八七)年より天保八(一八三七)年であるから、当代の尾張藩藩主は尾張藩中興の名君と称された第九代藩主徳川宗睦(むねちか/むねよし 享保一八(一七三三)年~寛政一一(一八〇〇)年)か、次の第十代藩主徳川斉朝(なりとも 寛政五(一七九三)年~嘉永三(一八五〇)年)と思われ、恐らくは後者ではないかと推測される。何故なら、この斉朝は将軍家斉の弟で一橋家嫡子だった徳川治国の長男であり、しかもその正室は家斉の長女で従姉にあたる淑姫だからである。なお、「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年夏であるから、実際にはこれはそう古くない直近の出来事であったと考えられる。

・「片山里」辺鄙(へんぴ)で寂しい山里、田舎の謂いであるが、ここは実際に庭園内にあった辺鄙な場所というよりも、人工的に辺鄙な山里を擬えた箇所であろう。そこに本物の祠(やしろ)があって、しかもこれに鍵がかけられ封印までなされてあったのを、検分役は人工の装置であるはずなのに訝しいと、実に鋭く見咎めたのである。何より、尾張藩の役方が「笑ひて答へければ」というは、夏目「坊つちやん」ならず俺とても気に入らねえ! 御役目柄、俺も空けて見るね!

・「夏目某」不詳。漱石の御先祖だと、話柄といい、何となく面白いんだけどね。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 外山屋敷の怪談の事

 

 尾張徳川様の外山の下屋敷は、これ、その広大なることで知られた御屋敷にして、東海道五十三次の景色を庭園に造り、その他にも園内山水の造景、これ、眺望麗しきこと、疑いなしとか申す。

 いつの頃のことで御座ったか、かつて、ここに上様御成りの、これ、あらるることと相い成り、それにつき、事前に奧向きより、御成りにならるる御場所(おんばしょ)に就いて、子細なる検分の儀、これ、御座ったによって、かの尾張徳川様方の役人も同道なして随所を案内(あない)致いたと申す。

 その際、庭園の一画に「片山里(かたやまざと)」を模したと思しき景色のあって、そこにあった祠(やしろ)に、これ、本物の錠(じょう)が掛けられて御座って、これ、作り物とは思われぬもので、その古さたるや、その用材や建て方より見ても、尋常でなく、まっこと、古びたるも祠なので御座った。

 その時の大奥検分方の頭取を勤めて御座った夏目某(ぼう)と申さるる御仁、殊の外、気丈にして癇症の性質(たち)の者にて御座ったものか、

「――この祠は何故(なにゆえ)に錠封(じょうふう)なされてあるものか?」

と糺いたによって、尾張藩の役人、これに答うるに、

「……これは、昔より、この地に申し伝えておりまするところの――何でも、邪(よこしま)なる神を――さる聖人の封じ込めおいたるもの――とか申して御座って、錠を開けて中を見た者は、これ、未だ嘗て独りとしておらぬと、聴き及んでおりまする。……」

と、笑って答えたによって、夏目殿、これがひどく癪に障り、ことさらに畏まると、

「――そのような馬鹿げた話、これ、あるびょうもあらず! 御成りがために、我ら、とくと検分に罷り越したる上は、笑いごとにては、これ、済み申さぬ!――若し、上様、この祠に目をお留めになられ、封錠(ふうじょう)の儀を見とがめられて、それは何故との御訊ねがないとは、これ、限らぬ!――まずは――祠の内、これ、一覧致したく存ずる!――」

と告げた。

「……いや……古えよりそう伝えて参っておりまするものなれば……こればかりは……御身がためにも……お止めなさるるが、これ、よろしいかと、存じまする……」

と、またしても唇頭(しんとう)に何やらん、意味ありげな笑みを浮かべ乍ら、妙に頻りに制止致いた。

 さればこそ、さらにきっとなって、頑なになったる夏目殿、これ、

「――上様御成りの検分役たる我ら儀!――ここにこの邪神を封じたるとか申す――開かずの祠!――これ、改めんと申す我らも! 謂れなきことにも、あらずッ! 速やかに、鍵を給われよ!」

と、強く請うたによって、役方も仕方のぅ、鍵を出だいた。

 さても夏目殿、かの祠の錠(じょう)を開け、扉を開いて中を覗いた……ところが……

――夏目殿

――これ

――大きに驚いたる様子にて

……御自(おんみずか)ら、早々に扉を締めてしまわれ、また、元の如く、錠を懸けた、と申す。……

 

……後になってより、訊いて御座ったところによると、

「……いや……祠の奥には、の!……何やらん……こう、真っ黒なるものの、蟠ってござって、の!……それが……こう!……ぐうっと!……頭を!……我らが顔の前にさし出だいて参ったのじゃ!……皿のようなる二つの眼が!……これ!……爛々と耀いて御座って……その光が暗き小さき祠の中(うち)を……これ……ぼーぅっと……蒼白く照らし出しておっての!……いや、もう!……恐ろしいと口に出して申すもこれ、憚るるほどの……恐ろしきことで御座ったのじゃ!……」

とのこと。

 これは頭取で御座ったその夏目殿御自身が、直かに語られた話、とのことで御座る。

 

〇根岸附記

 按ずるに、これは怪異にては、御座ない。

 猥(みだ)りに口に出したり、人に見せては良ろしからざる古えの呪物(じゅぶつ)か神仏などを、尾張家の御先祖が見出したによって、この祠の内に封じてそれを隠し、且つ、隠に崇め祀っておられたと思わるもので御座ったことを、夏目殿、祠を開けて見た、その折り、これ、直ちに心得たによって、かくも恐ろしげなる怪談を装われて、かの祠を二度と再び、開けさせぬよう、作話なされたものに違いない。

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