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2015/02/21

耳嚢 巻之十 誠心によつて神驗いちじるき事

 誠心によつて神驗いちじるき事

 

 予が元へ來れる若泉是雲といへる隱居の親族なる由、竹腰(たけのこし)山城守家來にて松浦一馬と申(まうす)者十六歳になれる娘、外へ〔實は淸水勤番長田辨之助といふ由。〕片付(かたづき)しが、亂心なして殊外(ことのほか)さわぎくるひ、着服を引裂き髮をもむしりきりしゆゑ、里へ引取(ひきとり)て色々療養祈念どもなせしが聊(いささか)しるしなく、醫師も其術盡(つき)て、髮を挾み衣類も麁末(そまつ)の物を着(き)せ置(おき)しが、兎角に全快なく騷ぎくるひしが、文化辰の春、在所者を若黨に抱(かかへ)しが、〔山田與左衞門と云由。〕至(いたつ)て實體(じつてい)なる性質(たち)成(なり)しが、或時下女に向ひて、日々騷ぎ給ふはいかなる人なりやと尋(たづね)とひしかば、しかじかの事なりとて病氣の樣子咄しけるに、さるにても氣の毒なる事なりと云(いひ)しが、或時主人へ願ひけるは、朝々の御事はかき申間敷(まうすまじく)候得ば、毎朝拂曉(ふつげう)に遠からぬ所の神社へまふで度(たく)、都(すべ)て家内目ざめにはかえりなんと願ひければ、さあらんには勝手次第のむね申(まうし)ける故、其翌朝よりは日々曉(あかつき)に出けるに、用事もかく事なし。日數(ひかず)つもりて或あした、彼(かの)娘食事をしとやかに好みける故、其食事あたへければ常にかわり快くくらひ、衣類寒きよしにて好みける故是又裂き破(やぶら)んと、古きをあたへけるに、いつにかわり心うつけたる體(てい)なれども靜(しづか)にありし故、兩親も悦びしに、或時下女主人にむかひて、彼(かの)僕が日々水をあび、朝出て夜明けぬ内に歸りける事をかたりければ、右主人何故(なにゆゑ)なりやと彼僕に尋問(たづねとひ)しに、我等村方の庄屋なる娘、爰の御娘子(おんむすめご)と同じく亂心にてありしを、兩親ことの外なげきて日々水をあび村の鎭守へ祈誓せしに、其娘の病(やまひ)癒(いえ)し事まのあたり見し故、爰の娘子の病ひ、兩親の御なげきも餘り痛敷(いたいたしく)、風(ふ)と心附て此邊の神社を承り、市谷(いちがや)の八幡へ水をあび朝とく參りて祈念なしける由、語りけるにぞ、兩親も其奇特(きどく)信仰を感じ怡(よころ)びしが、彼(かの)病人次第々々に快く本心となりて、髮も延び今はもとの夫のもとへ立(たち)かへり榮(さかえ)しとなり。彼(かの)僕の誠心神も納受ありしならんと語りし也。〔此與左衞門事、翌巳の春に至り暇(いとま)を願ひ、色々とめけれど達つて相願(あひねがひ)、無據(よんどころなく)暇遣しける由。生國は竹腰領分濃州西脇村の者に候由。〕

 

□やぶちゃん注

○前項連関:狐憑きから乱心の娘で、今の観点からは精神病の症例として美事に直連関する。これは如何にも一過性のヒステリー症状(実に精神病理学の教科書通り)と見える。例えば嫁入り先の相手には不満はなかったものの、姑とは頗る折り合いが悪く、そこでのトラブルから発作を生じて一時的に実家へ戻っていたものの、それも彼女の精神状態にはよろしくなく、持続的に増悪していた。しかし、その間(話柄からは実家へ戻って少なくとも数年が経過しているように見える)に例えば姑が死去したとすれば、病態が嘘のように改善することは考えられよう。なお、注意しなくてはならないのは、前半部でロケ地を錯覚させる要素が多いが、このロケーションは江戸市ヶ谷近辺であるという点である。

・「若泉是雲」「耳嚢 巻之八 雀軍の事」で「予が許へ來る是雲(ぜうん)と稱する法師」と出て以来の根岸晩年の御用達情報屋の一人。但し、フル・ネームの提示は初めてである。因みに、ネット上の「総合目録ネットワーク(ゆにかねっと)」の書誌データに「若泉是雲書」として「和歌短冊・古寺秋夕」とあるが、これは同一人物か?

・「竹腰山城守」底本の鈴木氏注に、尾張藩の『付家老』(幕府から親藩へ又は大名の本家から分家へ監督・補佐のために派遣された家老)で、『美濃国安八郡今尾で三万石』の今尾藩藩主(但し、無論、公式には藩として認められていない。立藩は明治のこと)でもあった。「文化辰」(文化五(一八〇八年)当時は美濃今尾藩の第八代当主で尾張藩の附家老竹腰山城守正定(まささだ/まさやす)の代である。「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月当時も同じ。

・「松浦一馬」不詳。

・「淸水勤番」御三卿の一つ清水徳川家は初代当主徳川重好が寛政七(一七九五)年に継嗣なきままに病死し、清水家は断絶の形がとられ、家臣は幕臣に召し抱えられ、一部は例外的に旗本となり、それ以外の無役の者たちは清水勤番小普請として残されて優遇された。

・「長田辨之助」不詳。「おさだ」と読んでおく。

・「風(ふ)と」は底本の編者ルビ。

・「山田與左衞門」ネット検索では同姓同名を多く見出せるが、不詳。

・「朝々の御事はかき申間敷(まうすまじく)候得ば」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版はここが(踊り字を変更、ルビは歴史的仮名遣とした)、

 朝々の勤め筋(つとめすぢ)はかき申間敷(まうすまじく)候得共(さふらえども)

である。「かき」は「缺き」で、即ちここは、

――毎朝毎日の勤めに就きましては、これ、決してそれを「欠く」、疎かにせぬように致しますので――

の謂いである。

・「市谷の八幡」東京都新宿区市谷八幡町にある市谷亀岡(かめがおか)八幡宮。ウィキの「市谷亀岡八幡宮」によれば、太田道灌が文明一一(一四七九)年に『江戸城築城の際に西方の守護神として鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を祀ったのが始まりである。「鶴岡」に対して亀岡八幡宮と称した。当時は市谷御門の中(現在の千代田区内)にあった。しかし、その後戦火にさらされ荒廃していったが、江戸時代に入り』、寛永十三年頃(一六三六年頃)に『江戸城の外堀が出来たのを機に現在地に移転』したとある。『三代将軍・徳川家光や桂昌院などの信仰を得て、神社が再興された。江戸時代には市谷八幡宮と称した。境内には茶屋や芝居小屋なども並び人々が行き交い、例祭は江戸市中でも華やかなものとして知られ、大いに賑わったという』。『祭神は誉田別命(応神天皇)、気長足姫尊、与登比売神。茶ノ木稲荷神社は、稲荷大神』。

・「竹腰領分濃州西脇村」岩波版の長谷川氏注に、『竹腰氏知行地。岐阜県美濃加茂市下米田町西脇』(しもよねだちょうにしわき)とある。竹腰氏の知行地(今尾藩領)は美濃国と尾張国の各地に分散していた。ウィキの「今尾藩」を参照。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 誠心によって神験(しんげん)これ著しき事

 

 私の許へ来らるる若泉是雲(ぜうん)と申す御隠居の親族なる者の話の由。

 竹腰(たけのこし)山城守殿御家来衆の一人にして、松浦一馬と申す御仁の御座って、その十六歳になる娘を外へ嫁へ出したと申す。

□是雲殿の独り言――実は清水勤番の長田(おさだ)弁之助と申す御仁の許で御座った由。

 

 ところが、嫁入りして間ものぅ、この娘、先方(さきかた)にて乱心なして、殊の外、騒ぎ狂い、着衣を引き裂いては、髪を掻き毟りなんどして、これもう、手(てぇ)のつけられんようになって御座ったによって、里方へと引き取って御座ったと申す。

 

 いろいろと療養や祈念なんども試みてはみたものの、一向に良くなる気配ものぅ、医師も施術、これ、すっかり尽きて、遂には匙を投げらるる始末と相い成った。

 娘は、これ、毟り取らせぬように髪を背でひっつめにさせ、衣類も裂き破いてもよいうように、粗末な薄き古着を着せおき、屋敷内には座敷牢を拵えて、外へは出られぬよう、して御座ったと申す。

 時の経(ふ)れど、全く以って快方へ向こうこともなく、日々、奇体な嬌声を挙げては、騒ぎ狂うておるばかりで御座ったと申す。

 

 さても、それより暫く致いた、文化辰年の春のこと、一馬殿、これ、在所の者を一人、若党として抱えられた。

□是雲殿の独り言――山田与左衛門と申す者の由。

 

 この者、至って実体(じってい)なる性質(たち)の者にて御座ったが、ある時、下女に向い、

「……日々、御屋敷内にて、その……金切声を上げて騒いでおらるる御方の、これ、おらるるように存ずるが……さてもあのお方は、如何なるお人で御座るのかの?……」

と訊ねたによって、下女は、しかじかのことなりと、今の病気の様子なんどをも含め、委細を話したと申す。

 すると、

「……そうで御座ったか。……それにしても……それは……如何にも……気の毒なことで御座るのぅ……」

と呟いて御座ったと申す。

 さてもそれより暫く致いたある日のこと、この与左衛門、主人へ願い出て申すことには、

「……毎日の早朝のお勤めに就きましては、これ、決してそれを疎かにせぬよう致しますによって……一つ――毎日払暁(ふつぎょう)に、遠からぬ所の神社へ、これ、参りとう存じます。どうか。……必ず、家内のお目覚めるまでには、立ち帰って参りますによって!……」

と切(せち)に懇請致いたによって、主人も、これ、何ぞ私(わたくし)に訳のあればこそと存じ、

「……さほどに申すことなれば――勝手次第に致すがよかろう。」

と、許しを与えた。

 されば、その翌朝よりは、日々、暁(あかつき)頃には屋敷を出でるも、申した通りに立ち戻っては、早朝の用事なんども一切、これ、欠くことものぅ、仕舞わして御座ったと申す。

 

 かくして、日数(ひかず)も経たる、ある朝のことで御座った。

 かの狂乱の娘、突如、

「……食事を……致しとう……存じまする。……」

と、例にのぅ、いとも穏やかに乞うて御座ったによって、

「……何と……珍しきことじゃ。……」

と、求むるまま、久方ぶりにしっかとした食事など供して御座ったところが、常とは大いに様変わり致いて、如何にも、美味しそうに静かに快く食し、そうして、

「……衣類も……これにては……少し……寒ぅ御座いますれば……」

と、これまた、今までにない、正気の如く、更なる着衣を求めて御座ったによって、常のことを知れる親なれば、これまた、

『……どうせまた、何時もの如く、これ、裂き破るに、違いない……』

と、また、古き薄物なんどを与えたところが、これ、やはり、何時もとは打って変わって……いや、確かに、普段のように、何か呆けたようなる表情乍らも……しかし――如何にも心静かにそれを羽織って御座った、と申す。……

 されば、両親ともに殊の外、悦んで御座った。

 

 ところが、たまたま、その日のことであった。

 かの与左衛門に仔細を語ったる下女が、与左衛門のこのところの仕儀をそれとのぅ見知っており、また、こうした娘の変容にもそれとの係わりを感じてでも御座ったものか、主人に向いて、

「……かの下僕の与左衛門と申す者……これ、日々、屋敷の井戸水を浴びては……朝に出でて……夜の明けぬうちに帰って参りますを……これ、常としておりまする。……」

と、注進致いた。

 されば、その主人、与左衛門を呼び出だし、

「……かく、下女の申すを、これ、聴いた。……そちの仕儀、これ、如何なる所存のあるものか?……」

と、与左衛門の有体(ありてい)に質いた。

 すると、

「……これは……はい……さても、我らがおりましたる村方の庄屋なる娘……こちらの御娘子(おんむすめご)と同じく、乱心の病いと相い成って御座いましたが……両親、これ、殊の外、歎いて御座いまして……日々、水を浴びては、村の鎮守へと祈誓致いて御座いました。……するとこれが……その娘の病い、美事、癒えて御座ったこと、これ、目の当たりに見て御座いました。……さればこそ、こちらの娘子の病い、御両親さまの御嘆きも、これ、あまりに痛々しゅう存じ……ふと、かの在所での出来事を思い出しまして……もしや、と存じましたれば、この近隣の神社の御由緒なんどを、これ、いろいろ伺いまして……市ヶの八幡の功徳を承り、そこと決して……さても、水を浴びては、朝、早(と)く参りましては……御娘子の病い平癒を……これ……祈念致いておりまして御座います。……」

と語って御座ったればこそ、両親もその奇特(きどく)なる信仰を切(せち)に感じ、心より悦ばれたと申す。

 

 かの狂乱の娘、これより、次第次第に快くなって、遂には正気となり、毟り千切って短こぅなって御座った髪も、元の通り、美しぅ伸びたれば、今は――清水勤番長田弁之助殿が元の鞘へと戻ること、これ叶って――かの御家(おんいえ)は今に、大いに栄えておらるる、ということで御座る。

 

「……かの下僕与左衛門の誠心を……これ……神も納受あられたものででも御座ろう。……」

と、若泉是雲殿の語って御座られた。

□是雲殿の附言――この与左衛門と申す下僕、翌文化五年巳年の春になって、突如、暇まを願い出でて、一馬殿もいろいろと留めんと致いたれど――たって相い御願い申し上ぐる――とのことなれば、よんどころのぅ、暇まを遣わして御座った由。生国(しょうごく)は竹腰(たけのこし)様御領分、信濃国西脇村の者にて御座った由。今は、かの者、どうしおるかは、これ、残念なことに、寡聞にして存ぜぬ。

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