あひびき 火野葦平 ブログ・アクセス660000突破記念
本夕刻、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、8年9ヶ月で660000アクセスを突破した。以下、久々に火野葦平の「河童曼荼羅」の一篇を記念テクストとして公開する。
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あひびき 火野葦平
靑、赤、綠、黄、白、金、銀、紫など、色とりどりの紙をさまざまの形に切りきざみ、それで人形を折つたり、鶴や馬や犬をこしらへたり、網にしたり、短册には朝露をとつて來てすつた墨で、歌や俳句をはじめ、思ひ思ひの文句を書きつける。歌や俳句にはやはり天(あま)の川(がは)の文字が多く見られるが、なかには進歩的な少年少女がゐて、自由とか、平和とか、原水爆戰爭絶對反對とか、墨痕もあざやかに書きつけてゐた。また、自分の思つてゐる相手の名をそつと書いて、獨りで赤らんでゐる年ごろの娘や若者もあつた、彼らは七夕(たなばた)の美しい傳説をそのまま胸に受けとめ、一年に一度だけあひびきをするといふ牽牛星(けんぎゆうせい)と織女星(しよくじよせい)の運命に同情しながら、きらびやかな紙片の彩(いろど)りを笹に結びつけて、できるかぎり天の戀人同士の幸(さち)を祝つてやらうと考へるのである。そして、七夕祭がすめば、この花やかな飾り笹はすべて川に流してしまふので、今度は川にゐる河童たちのために、胡瓜や茄子を結びつけることも忘れない。子供たちはいかにも樂しさうに、笹つくりに沒頭する。
しかし、それに引きかへて大人たちの顏色は晴れ晴れしない。彼らも七夕を祭る心に變りはないが、もつと現實の問題について頭を惱ましてゐるからだつた。それは洪水の心配で、七夕のころになるときまつて大雨が降り、河川が土堤を決潰(けつくわい)して、水田も家も埋めつくすほど氾濫(はんらん)するのが例年の恒例みたいになつてゐるのである。筑後川流域もしばしば洪水に襲はれた歷史を持つてゐるが、その二つの支流、白糸川と絹川とは、名前のやさしさとは正反對に、たいへんな暴(あば)れ川で、近郊の農民たちはほとほと手を燒いてゐた。このため七夕が近づき、子供たちが嬉々として笹つくりに餘念のない姿を見ると、その美しさや樂しさなどより、まづ空模樣をながめては、心のうちに、今年は水害がなくてすむようにと、必死の思ひで祈つてゐるのだつた。子供たらとて洪水になれば苦しむのに、前年のことはけろりと忘れたやうに、色紙(いろがみ)を切つたり、こよりをひねつたりして時間を忘れてゐるのが、大人たちには不思議でならなかつた。といつてやめさせるわけにも行かず、またムダになるのにとはがゆく感じながら、視線は空の方ばかりに向く。いまは底深く濃く靑い空に、ぎらぎらと白銀の入道雲が立らならんでゐるが、いつどこからか雷鳴がおこり、一天にはかにかきくもつて豪雨が降りそそぎはじめはせぬかと、強迫觀念にさらされる。すつかりノイローゼになつてゐる。無論、その危惧(きぐ)が杞憂(きいう)に終つてくれることを念願してゐる。洪水はまつ平で、危惧がはづれることの方が大歡迎だ。しかし、その農民たちの切なる願望にもかかはらず、やがて晴れわたつた天の一角に遠い雷鳴がおこり、平行してゐる二つの川、白糸川と絹川とをつないで、白絹平野を濁水の海と化す雨の前兆が、投げ玉のやうに、降り落ちはじめるのであつた。たらまち靑空はひとかけらもなくなり、暗黑の空と大地とはすだれのやうな雨によつて連結されてしまふ。農民たちの顏は佛頂面となり、唇をかみしめて口もきかなくなるのだつた。
河童は狂喜した。今年も一念が成就した。早く白糸川の水量が増し、土堤を破り、隣りの絹川へ流れこむのが待たれる。どんなに傳説の掟がきびしく、刑罰が耐へがたからうとも、その一瞬によつて一切が、償はれるのだ。刻々に増して行く水量に、河童は胸をどらせながら、なほも祈願をこめる。その河童の幻の眼に、ありありと絹川の方で自分の行くことを待ちかまへてゐる戀人の姿が映る。一年に一度だけの逢ふ瀨だ。河童はもう逆上しさうに昂奮し、すさまじい雨もまだ勢が足らず、はげしくふえて行く水量もなほまどろこしく思はれて地團太ふむのだつた。眼はほとんど狂氣に近く血走り、全身は火焰(くわえん)に化さんかとばかり燃えたぎつてゐた。その情熱のほむらで川の水も沸くほどである。絹川にある女河童も同じ狀態であるにちがひなかつた。人間たちの絶望の表情と反比例して、河童の顏はかがやく。
筑後川には、頭目九千坊の統率のもとに、多くの河童が棲んでゐるが、支流の白糸川と絹川とにはたれもゐない。この二つの川は傳説の掟にそむいた者を配流する一種の刑務所になつてゐる。懲罰は孤獨といふむざんな方法によつておこなはれる。したがつて、白糸川にも絹川にも一匹づつしか河童はゐない。人間たちがたくさん河童がゐると信じてゐるのは、本流のにぎやかさを知つてゐるための錯覺だ。數年前、九千坊一族と海御前(あまごぜ)一族とが久留米(くるめ)の水天宮で合同大會を開いたとき、この男河童はひとりの女河童に魅せられた。女河童の方も彼に心を惹かれたやうだつた。しかし、規律ある大會に於ける戀は最大の法度(はつと)であり、不義とされてゐる。しかし、二人はおたがひの慕情を制止しきれず、岩かげで抱擁しあつた。それが露見したため、男河童は白糸川に、女河童は絹川に流謫(りうたく)されたのである。そこでは絶對に水中から出ることが許されなかつたため、平行してゐる二つの川の中にゐる二人は戀人に逢ふことが出來なかつた。孤獨と寂寥の課刑はたしかにきびしく、この苛酷さのためどちらも急速に瘦せ衰へた。二人は泣いた。悲しく情なかつた。また、憤りでふるへた。自分たちはなんの罪ををかしたのであらうか。戀をすることが罪惡か。たしかに、場所を誤つたけれども、それがこれほどの罰を受けなければならぬほどの大罪であらうか。しかし、いくら齒ぎしりしてみても、傳説の掟をくつがへすことは出來ない。思ひはさらに募るばかりであつても、永遠に遮斷されてしまつたのだ。河童は絶望してむしろ死を願つた。水中の牢獄から出られなくては、二度と戀人に逢へる望みはまつたく失はれたのである。無期の判決を受けてゐるから、孤獨のうちにただ死を待つよりほかはなかつた。
ところが、河童に光明がおとづれたのである。梅雨が來て豪雨が降り、洪水がおこつて白糸川と絹川とをつないだため、水中から出るを得ずといふ禁令に反することなく、二人は逢ふことが出來たのだつた。二人は狂喜した。しかし、水が引くと自分の川に歸らなければならなかつた。どちらかの川に同棲することは許されなかつた。またも孤獨がはじまる。けれども絶望は消えてゐた。希望と夢が生まれてゐた。次の年の雨季を待つ。豪雨と洪水への期待。それはあたかも七夕の季節に當つてゐて、天では牽牛と織女とが一年に一度のあひびきを樂しむときだつた。河童は愛の勝利の時期として、洪水を待つやうになつたのである。そして、今年も豪雨に逢つて雀躍(こをどり)してゐるのだつた。
幸福感に醉ひしれたあげく、河童は神祕な錯覺を抱くやうになつた。愛の強さが奇蹟をもたらした例は多い。河童は豪雨や洪水が自然現象なのではなく、自分の愛がつくりだした奇蹟だと信じこむやうになつた。はては雨を呼び土壤を決潰させる神通力を自分が持つてゐるかのやうにうぬぼれた。もつと降れ、もつと増せ、土堤を切つて溢れだせ、と號令をかけると、そのとほりになる氣がした。とはいへ、戀人にあひたい一念の方が強すぎて、降る雨や増す水量が少なすぎるやうにまどろこしくて仕方がない。白糸川と絹川とが水でつながらなければ逢ふことは出來ないのである。水よ、なにをしてゐるか、早く溢れろ、早く戀人の川とつづけ、と、河童は胸中で絶叫してゐた。
村と田と家と人とは濁流に呑まれた。白絹平野は一面の海となつて、もはや白糸川と絹川との區別はなく、二つの川に浮いてゐた船が家のところにも、田のところにも、神社のところにもただよつてゐた。子供たちが一心にこしらへた七夕の笹飾りが絢爛(けんらん)たる虹の彩りをむざんに水に浸していたるところに流れてゐる。しかし、それにつけられてゐる胡瓜や茄子はいつまで經つてもなくなる形跡はなかつた。水上に建つてゐる屋根の上で、避難者たちは早く水の引くのを願ひながらも、水中の河童には注目してゐた。大好物である胡瓜や茄子をいつ河童が食べに來るかと、眼を皿にした。河童がゐればたちまちなくなることは筑後川本流の例によつて明らかである。しかし、ここではなんの異變もおこらないので、河童は居らんのぢやらうかと首を傾(かし)げる者もあつた。居らんのぢやよと賛成する者の方が多かつた。さういへば白糸川と絹川とで河童の害があつたためしがない。この二つの川は子供たちの夏のよい泳ぎ場所であり、大人にとつても絶好の釣り場だが、これまでなんの危險も被害も受けたことがなかつた。河童は居らんといふことが定説になつた。
雨はやみ、洪水はただ湖のやうに靜まりかへつてゐたが、一ケ所だけ、渦を卷いたり、水がはねあがつたり、ときには奇妙な音を立てたりしてゐるところがあつた。それは一定してはゐず絶えず移動しながら、その水面の騷ぎも大きくなつたり小さくなつたりした。避難民たちの視線がいつせいにこの不思議な現象にそそがれる。そしてあれはきつと大きな鯉がゐるのだと話しあつた。筑後川本流はいふまでもなく、この二つの支流でも、魚は豐富だつた。フナ、スズキ、アユ、コヒ、カマツカ、スッポン、ウナギ、ナマヅ、イワナ、なんでもゐた。特に、鯉はたくさんゐたうへに、五十年八十年を經た大鯉がときどき取れた。本流の方には、アブラマのマーシャンといふ鯉取りの名人がゐて、水中に長く潛り、鯉を抱いたり口にくはへたりしてあがつて來る。そのマーシャンが最近とらへた大鯉は帝王の冠のやうに頭に巨大なコブがあり、長さは三尺、目方は三貫目あつて、たしかに百年の歳月を經たものと思はれた。さういふ大鯉が白糸川や絹川にもゐると考へられてゐたが、たれもまだその事を見たものはなかつた。いま、洪水の水面を騷がしてゐるのはその大鯉にちがひないと意見が一致した。それを取らうかといひだした若者もあつたが、さういふことはしない方がよい、川の主を取つたりすると、きらに洪水がはげしくぶりかへす恐れがあるといつて、老人がとめた。そして、彼等はしきりに移動する水面の運動を好奇に滿ちた眸(まなざし)で眺めつづけた。
男河童と女河童とは情熱のあらんかぎりをつくして睦(むつ)みあつた。一年に一度の鬱積した靑春の血は狂氣といつてよかつた。水が引いてしまへばまた別れなければならない。その運命の刹那にこめる切ない愛撫は忘我の境をつくりだしてゐた。二人が抱擁してもつれあふたびに、水面には異樣な騷ぎが持ちあがる。それは水中の二人の活動につれて移動したり、はげしくなつたり弱くなつたりする。しかし二人はそんなことは知らない。きびしい傳説の掟と刑罰とにしばれてゐながらも、あたへられた瞬間の自由は悔いなく享受しなければならなかつた。脱獄囚であるとしても、水中から出てはならぬといふ禁令は破ってはゐない。二人は水が引くのが恐しいかつた。もつと降れ、もつと增せ、長く引くなと絶叫してみでも、いつか水が引きはじめるのを感じると、氣が氣ではなくなり、さらに焦躁のため愛撫の度合(どあひ)は狂熱化した。別れれば後(あと)一年また逢へぬ。河童は狼狽し天を恨んだ。けれども自然の力には勝てなかつた。神通力があるなどといふうぬぼれの鼻柱はたちまちにへし折られた。減水とともに、二つの川が分離される。男河童も女河童も泣く泣く自分の川へ歸らねば仕方がなかつた。
かういふ悲しいあひびきが毎年くりかへされた。しかし、洪水とて毎年は出ない。二人の河童がどんなに豪雨と洪水とを望んでも徒勞に終る年もあつた。さうかと思ふと、梅雨期や七夕でない秋の颱風期に洪水が出ることもある。さういふときには、またも大鯉の亂舞かと錯覺される水面の騷擾(さうぜう)が、村民たちの眼をみはらせたことはいふまでもない。幸なことは、村民たちが川の主に對する尊崇の念が篤く、これを取らうと試みる者のなかつたことである。もしその水面のざわめきの場所に、上から投網(とあみ)でも投げられたら、無我の境にある二人の河童はわけもなく捕へられたにちがひない。とにかく、このやうにして哀れなあひびきがつづけられながら、歳月が流れたのである。
村民たちはやがて積極的に河川改修に乘りだした。本流の筑後川の方はすでに早くから大規模な堤防工事がおこなはれてゐたが、白糸川と絹川の方もおそまきながら、これにならつた。堤防は高く堅固に築きあげられ、どんな増水にも氾濫を防ぎ得るほどになつた。村民はよろこんだ。しかし、河童は悲しんだ。そして、男河童も女河童もはげし戀病(こひわづら)ひにかかつて、瘦せほそり憔悴した。とぢこめられた牢獄を脱出する方法はただ洪水だけしかなかつたのに、それがなくなつたとすれば絶望だつた。河童たちは自然を克服する人間の智惠を恨んだ。逢はぬことが三年にもなると、魂と力とは拔けて、拔け殼同然だつた。二人はかならず年に一度だけは正確に逢へる牽牛星と織女星とがうらやましかつた。子供たちは相かはらず五色の紙を切つて飾り笹をつくり、七夕祭をする。河童は息も絶え絶えになつて、川底から銀河のきらめく夜空を見あげ、牽牛と織女とが睦みあつてゐる樂しげな樣子を想像して泣いた。
ところが、自然も人間にさうやすやすと負けてはゐない。或る年、六十數年來といふ豪雨が降りつづいて、村民たちの築いた堤防を苦もなく決潰し、大洪水が筑後白絹の兩平野を濁流の下敷きにした。河童のよろこんだことはいふまでもない。ただ殘念なことは、すでに二人の體力がまつたく衰へてゐて、氣ばかりあせつてもはげしい靑春の放出は出來なくなつてゐた。人間の眼をみはらせる水面の騷擾もおこらず、わづかに小さな渦がゆるやかに卷いてゐるにすぎなかつた。そして、水が引き、ふたたび白糸川と絹川とに別れて歸つた後は、このときの無理がたたつて、どちらもどつと重い病の床に就いた。
人間たちはこの大洪水の經驗をもとにして、さらに自然を征服する方途を研究した。そして、洪水を避けるためには放水路の必要なことに氣づき、本流にはいくつもその措置が講じられた。白糸川と絹川との場合は、この二つの川をつなぐことによつて完全な放水措置(そち)が出來ることを專門家の技師が證明し、ただちに工事が實施された。幾條かのクリークが掘られて、二つの川は結合した。洪水を待つことなく二つの川の水はつづいたのである。しかし、このとき、もはや、工事開始ごろから危篤狀態にあつた二人の河童はそれぞれの場所で死んでゐた。男河童は白糸川で、女河童は絹川で。無論、生きてゐれば毎日でもあひびき出來る幸福がおとづれたことなど知らぬままに。しかし、村人たちは今でも白糸川と絹川とにははじめから河童はゐなかつたと信じきつてゐる。河童が死ねば靑いどろどろの苔汁になつて溶けるので、川に異變がおこり、やつぱりゐたのかと村民をおどろかせたかも知れないが、白糸川にも絹川にもなんの變化もなかつたので、河童の存在はつひに知られずに終つた。河童はどこに行つたのであらうか。愛は奇蹟を生むと愚かな河童は信じてゐたが、奇蹟が生まれたのであらうか。奇蹟が生まれたのであつた。河童は死と同時に昇天し、男河童は牽牛星の下僕となり、女河童は織女星の女中となつたのである。最近、街の素人天文學者が七夕の夜の觀測によつて、牽牛星と織女星のかたはら近くに見なれぬ星を發見したといふニュースが新聞をにぎはしてゐたが、その星がなにものであるか、説明の要はあるまい。ひときは靑くきらめくので、銀河の無數の群星とはつきり區別出來るのである。しかし、筑後川の大親分九千坊も、關門海峽の大姐御海御前(おほあねごあまごぜ)も、まだこのことを知らないらしい。今年の水天宮大會では二人の失踪が問題になり、傳説の掟を破つて脱獄した河童は、發見され次第、さらに極刑が課せられることになり、懸賞金が賭けられるにいたつた。全國の河童族に指名手配がおこなはれた。この合議は長びいて夜にいたつたが、その決議がおこなはれてゐる大會のまうへで、銀河のなかの二つの靑い星が、意味ありげに、キラキラキラキラキラキラキラキラキラキラと大きくまばたいてゐたのを、昂奪して喚めきちらしてゐた地上の河童たちはたれ一人氣づいた者はなかつた。
[やぶちゃん注:「白糸川と絹川」筑後川の支流とあるが、現行では捜し得なかった。後に「白絹平野」とも出るがこれも見つからない。これらは皆、極めて筑後の極めて狭い地域での呼称か。識者の御教授を乞うものである。
「久留米の水天宮」福岡県久留米市市瀬下町にある全国の水天宮の総本宮たる水天宮。ウィキ「水天宮(久留米市)」より引く(アラビア数字を漢数字に代えた)。『社伝によれば、寿永四年(一一八五年)、高倉平中宮に仕え壇ノ浦の戦いで生き延びた按察使の局伊勢が千歳川(現
筑後川)のほとりの鷺野ヶ原に逃れて来て、建久年間(一一九〇年―一一九九年)に安徳天皇と平家一門の霊を祀る祠を建てたのに始まる。伊勢は剃髪して名を千代と改め、里々に請われて加持祈祷を行ったことから、当初は尼御前神社と呼ばれた。そのころ、中納言平知盛の孫の平右忠が肥後国から千代を訪れ、その後嗣とした。これが現在まで続く社家・真木家の祖先である。幕末の志士・真木保臣は第二十二代宮司であり、境内社・真木神社に祀られている』。『慶長年間(一三一一年―一三一二年)に久留米市新町に遷り、慶安三年(一六五〇年)、久留米藩第二代藩主有馬忠頼によって現在地に社殿が整えられ遷座したのが現在総本宮である久留米水天宮である。
その後も歴代藩主により崇敬されたが、特に第九代藩主頼徳は、文政元年(一八一八年)に久留米藩江戸屋敷に分霊を勧請し、その後明治四年に現在の東京水天宮にご遷座された。
明治元年(一八六八年)には元神明宮に分霊され相殿に祀られる』。『天御中主神、安徳天皇、高倉平中宮(建礼門院、平徳子)、二位の尼(平時子)を祀る』。『仏教の神(天部)である「水天」の信仰は、神仏習合時代には「水」の字つながりで「天之水分神・国之水分神」(あめのみくまりのかみ・くにのみくまりのかみ)と習合していた。ミクマリノカミは本来は子供とは関係なかったと思われるが、「みくまり」の発音が「みこもり」(御子守り)に通じるというので「子育て」の神、子供の守り神として信仰されるようになった』とある。]