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2015/03/31

耳嚢 巻之十 獸其誠意有事

 獸其誠意有事

 

 大御番(おほごばん)にて小林七郎右衞門と云(いふ)人、大坂より酉八月かへりしが、予がしれる人に語りしは、七郎右衞門家來□□儀、年十八九の者にて、驛路(うまやぢ)にくたびれて和田峠を馬にて下りしに、右馬子は歳頃五十餘の老人なりしが、頻りに馬上の男を見て落涙に及(および)し故、不審して其譯尋(たづね)しに、始めはいなみしが切(せち)に尋ければ、若き御方(おかた)のかく不審して尋ねたまふを、いはざらんもいかゞ成り、我等は信州何村のものにて、一人の悴有(あり)しが、至(いたつ)て孝心にて百姓業(のわざ)をも精出し、我(われ)年老いぬれば、馬を追ふて駄賃とる事彼(かの)者壹人(ひとり)にて精を出し我々をはごくみしが、當春傷寒(しやうかん)を煩ひ墓(はか)なくなりしに、右のうれい難忍(しのびがた)けれども、駄賃の稼(かせぎ)も不致(いたさざ)れば露命も繫(つなぎ)がたきゆゑ、今日(けふ)も往還稼(かせぎ)に出侍りぬ、旦那の面(をも)ざし年格好、甚(はなはだ)別れし悴に似させたまふ故、思はず歎きし由申(まうし)ければ、誠(まこと)哀(あはれ)なる事なるとて慰めければ、しやくりあげて涙にむせびけるが、彼(かの)馬に付(つき)奇談有(あり)といひける故、其始末聞(きき)しに、右馬は悴存生(ぞんしやう)の内も常に引(ひき)候て稼(かせぎ)しが、いたつていたはり、貧家ながらも心程(こころほど)には養ひし由。しかるに右馬、息子の相果(あひはて)し以後七日の日に當り、村内知音(ちいん)親類等集りて澁茶抔振舞(ふるまひ)しに、彼(かの)馬いづ地へ行けん、厩(うまや)に見へざれば、如何いたしけるやと尋しに、右馬は山のあたりにて見しといふ者ありし故、右悴を葬りしも村中葬地の山なれば、彼(かの)山に行(いき)て見しに、馬は見えざれども、右塚の前に馬蹄の跡夥敷(おびただしく)有(あり)ければ、爰へや來りしと立歸(たちかへ)りしに、馬はいつの間にや歸り居(をり)ぬ。夫(それ)より度々此馬厩に居(をら)ざる事多ければ、心を付(つけ)右馬の立出(たちいで)し跡を付(つけ)、彼(かの)葬地に至り見るに、右馬(うま)葬所(さうしよ)に向ひ膝をつき、又は蹄(ひづめ)にて土をかき踊狂(おどりくる)ひけるが、古主(こしゆ)の歿しけるを歎きての事にや、生類誠信(しゃうるいがせいしん)、誠に哀(あはれ)なる事にて、右件(くだん)の記念(かたみ)、我等いたはりぬと彼(かの)老人かたり、共(とも)に涙にむせびしとかたりぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。異類情話譚。

・「大御番」既注

・「小林七郎右衞門」底本の鈴木氏注に、『正友。寛政九年(二十六歳)家督。五百石』とある。

・「酉」文化一〇(一八一三)年癸酉(みずのととり)。「卷之十」の記載の推定下限は文化十一年六月。

・「驛路(うまやぢ)」途中に宿場のある街道。「えきぢ」と読んでもよいのだが、どうもこの方が好みである。万葉時代は「はゆまぢ」とも読んだ。

・「和田峠」現在の長野県小県郡長和町と諏訪郡下諏訪町の間にある旧中山道の峠。最大標高千五百三十一メートルで中山道最大の難所とされた。しかし。大番の警護は江戸城以外では二条城と大坂城で、彼の家来が帰還に中山道を使うとは思われない。何らかの私事によって敢えて中山道を通らねばならなったということか?

・「傷寒」腸チフスなどの高熱を伴う急性疾患。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 獣にもその誠意これあるという事

 

 大御番(おおごばん)にて小林七郎右衛門と申す御仁、大坂より文化十年酉の八月に江戸へ無事帰還なされたが、その小林殿が私の知人に語ったという話で御座る。

 この七郎右衞門殿の御家来衆の中に××と申す者、未だ十八、九の若者にて、主人の後に一人、よんどころなき用事のあって、中山道を廻って江戸表へと向かったと申す。

 ところが、宿駅を経るに従って疲労困憊し、中山道一の難所とさうる和田峠の下りにては、馬を雇って下ってゆくことと相い成ったと申す。

 この折りの馬子(まご)は、歳頃これ、五十あまりの老人であったが、この男、しきりに馬上のその家来が若者の顔を見ては、これ、涙目になって鼻をすすっておったによって、さすがに不審に思い、涙の理由(わけ)を訊ねたところが、始めは、

「……いえ……その……何でもごぜえやせん。……」

と口ごもっておったものの、重ねて切(せち)に質いたところ、

「……若きお方の……そのように訝しんでお訊ねにならるるに……黙っておるというんもこれ如何なものかと存じますれば……我らはこれ、信州〇〇村のものにてごぜえやす。……つい先だってまで一人の伜のごぜえやしたが、これがまあ、至って親孝行な子(こぉ)でごぜえやして……百姓の業(わざ)にも精出し、我ら、かくも年老いておりやすによって、野良仕事の合間にもこれ、こん馬を使(つこ)うては、人や荷を運んで駄賃をとるを副業と成し……これ実に、その伜一人が精出して、我らを養のうてくれやした……が……この伜……今年の春……傷寒(しょうかん)を煩い……あっという間に……はかのぅなってしもうたんで。……

……その愁いもこれ忍びがたけれども……ささやかなる駄賃の稼ぎでも致さねば、これ、露命も繋ぎがたければ……今日(きょう)も、こうして、老体に鞭打っては、街道往還の稼ぎに出ておると申すわけにてごぜえやす。……

……ところが……その……旦那さまの……面(おも)ざし……年格好……これ、まっこと! 憚りながら……そのぅ……死に別れましたる、その伜にはなはだ似ていなさるれば……これ……思はず……我ら……思いの募りまして……かくも恥ずかしくも……歎きの込み上げましたによって。へぇ。……」

と、申したによって、若武者も、

「……そ、それは……まっこと……哀れなることじゃの。……」

と、青侍(あおざむらい)なれば、これにどう応じてよいものやら分からず、まず慰めとも言えぬ慰めを致いて御座った。

 それでも、そうしたその若者の純なる心が逆に老人の胸を打ったものか、はたまた、若者の声もまた、かの亡き伜の肉声の如(ごと)聴こえたものか、老人は、その場に立ち止ってしまうと、しきりにしゃくりあげては、涙に噎(むせ)んで御座った。

 さればその下りの峠道の途中にて、路端に一休み致すことと致いた。

 そこで煙草なんどをも与えたところ、亡き伜と一緒におるような気持ちにでもなったものか、しばらくして落ち着きを取り戻し、次のような話を、し始めた。

「……お武家さまの跨っておられた、その馬……これについて、ちょっとした奇談のこれごぜえやす。……」

と申したによって、

「――その話――これ、是非、お聞かせ願いとう存ずる。」

と慫慂致いたところ、老人が語り始めた。……

 

……かの馬は伜が元気にしておりました頃より、常に引き廻しては稼いでごぜえやした馬で、伜、これ、いとぅいたわっておりやして、貧乏百姓でごぜえやすが、出来得る限りの心遣いはなして、これ、養のうておったんでごぜえやす。……さても、その馬のことでごぜえやす。……息子が相い果てましてより初七日(しょなぬか)のこと、村内の知音(ちいん)や親類など大勢集まりやして、何もなければ、渋茶なんど振る舞(も)うて法要の代わりと致いてごぜえやしたが……ふと気がつくと、かの馬、一体、何処へ行ってしもうたもんやら、厩(うまや)を覗いてもおらねば、思わず、座の連中に、

「――馬のどこへ行ったんか、知らんかのぅ……」

と声掛けしてみたところ、中の一人が、

「あん馬なら、さっきここへ参る折り、山の辺りで見かけたで。」

と応えた者のあったによって、かの伜を葬ったところもこれ、村内(むらうち)の埋葬場(まいそうば)の山でごぜえやしたで、それから、かの山へと行って見てみました。……

……もう、これ、馬は見えませなんだが、かの倅の土饅頭の前には――これ――馬蹄の跡は夥しゅう――附いてごぜえやした。……

……されば、

「……やっぱり! ここへと参ったんであったか!」

と、急いで家へたち帰ってみましたところが――馬は――いつの間にやら――厩の中へ帰っておりやした。……

……しかし、それより、これたびたび、この馬、厩におらぬことの、これ多なってごぜえやしたによって、よぅ注意して、かの馬がこっそりたち出でた、その後をつけてみたんでごぜえやす。……

……ほしたら……かの馬……かの倅のが土饅頭の前へと一直線に走ったかと思うと、伜が塚に向かい、

――まるで礼拝でも致すように

――前足の膝を突き!

また、

――まるで何かに悲慟悲憤致いてでもおるかの如(ごと)

――後ろ足の蹄(ひづめ)にて!

「ガッツ! ガッツ!」

――と!

――土を掻く!

そうしてこれ、

――あたかも悲しみのあまり気の違(ちご)うてしまった者にも似て

――踊り狂うて!

おったので……ごぜえやす……

……昔の主人の亡くなったを歎いてのことか……ともかくも――畜生も生類(しょうるい)――生類なれば誠実の心あり――これ、まっこと、哀れなることにて……ごぜえやした……

……されば……件(くだん)の馬……これ……伜が記念(かたみ)と致いて……我ら、我らなりに……労わっておりやす…………

 

 そう老人の語り終えると、かの若武者もこれ、思わず涙に噎んだ――との話にて御座ったと申す。

耳嚢 巻之十 桂川家由緒の事

 桂川家由緒の事

 

 御醫師の桂川甫周(かつらがはほしう)は、外科(げか)なり。當時の甫周祖父の代、御當家へも召出し由。當時甫周弟子にて藩中を勤(つとめ)、當時甫周かたに修行致居(いたしをり)候嵐山甫隆(あらしやまほりゆう)といへるは、則(すなはち)甫秀先祖の師匠にて、甫周先祖森島を名乘(なのり)、右甫隆先祖の弟子にてありしが、師家は衰(おとろへ)候て、甫周家は段々高運にて御當家へも召出(めしいださ)れしが、師匠嵐山の高恩を請(うけ)し故、嵐山の下を流るゝといふ心にて桂川と名乘候由。依(より)て同人紋所は ∴▲ 如斯(かくのごとく)にて、 ▲ は森の由、 ∴ は島の由、是を定紋(ぢやうもん)に付(つけ)候由、甫周物語りなり。

[やぶちゃん字注:「∴▲」の箇所は底本では右上に「∴」が左下に「▲」が配されてある。但し、上付き・下付きのような有意に小さなものではないので、ここでは敢えてかく表示した。]

 

□やぶちゃん注

○前項連関:医事関連で極めて軽くは連関すると言える。「桂川」に「嵐山」で嘘っぽく感じる向きもあろう(私も初読時、そうであった)が、これ、メインの叙述は事実である。以下の私の注を参照されたい。ここに記されたような桂川家の家紋は捜し得なかった。識者の御教授を乞う。

・「外科」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『外料』で「ぐわいりやう(がいりょう)」、外科と同義であるが、今までの「耳嚢」の記載を見る限りでは、私は底本は「外料」の誤写であるように思う。

・「桂川甫周」(宝暦元(一七五一)年~文化六(一八〇九)年六月二十一日)は医師で蘭学者。桂川家第四代当主。名は国瑞(くにあきら)、甫周は通称。月池・公鑑・無碍庵などの号を用い、字は公鑑。弟に、蘭学者で戯作者、平賀源内の門人でもあった森島中良がいる。以下、参照したウィキの「桂川甫周」によれば、桂川家は、第六代将軍徳川家宣の侍医を務めた桂川甫筑(ほちく)以来(甫周は四代であるが、本文の「甫周祖父」は甫筑のことである。後注参照)、代々将軍家に仕えた幕府奥医師で、特に外科の最高の地位である法眼を務め、蘭学書を自由に読むことが許されていた。『桂川甫三は、前野良沢・杉田玄白と友人であり、解体新書は甫三の推挙により将軍に内献されている』。明和八(一七七一)年二十一歳でオランダの医学書「ターヘル・アナトミア」(「解体新書」)の翻訳に参加、安永三(一七七四)年の刊行に至るまで続けた。 安永五(一七七六)年には、『オランダ商館長の江戸参府に随行したスウェーデンの医学者であるカール・ツンベルクから中川淳庵とともに外科術を学び、ツンベルクの著した『日本紀行』により甫周の名はとともに海外にも知られることとなる』。天明四(一七八四)年、三十四歳の時「万国図説」を著し、『教育者としても優れ、幕府が設立した医学舘の教官として任じられた他』、享和二(一八〇二)年には「顕微鏡用法」を著し、『顕微鏡を医学利用した初めての日本人として知られるとともに、その使用法の教授を将軍徳川家斉等に行い普及に努めた。また、オランダ商館長から贈られた蝋製の人頭模型を基に、日本初の木造人頭模型の作成を指示したなどの功績が有る』。寛政四(一七九二)年、『ロシアから伊勢国の漂流民である大黒屋光太夫、磯吉が送還され』、翌年、『将軍家斉は吹上御所において光太夫らを召し出して謁見をした。「かの国(ロシア)では日本のことを知っているか」との質問に光太夫は「いろいろな事をよく知っています。……日本人としては、桂川甫周様、中川淳庵様という方の名前を聞きました。日本の事を書いた書物の中に載っているとの』ことです」と答えたという。この時の書記役はまさに甫周自身で、その問答は「漂民御覧記」として彼によって纏められている。『のちに光太夫を訪ね詳しい話を聞き取り』、「北槎聞略」を編んで将軍に献上している。他に「新製地毬萬國圖説」「地球全図」「魯西亜志」などの外国地理に関する訳書もあり、『また、江戸時代の代表的な通人である十八大通の1人に名を連ねている。ただ一方で、甫周は才人にありがちな、やや狷介な側面もあったらしい。甫周が幼い頃教えを受けた角田青渓の子で、一時は同居し兄弟のように育った経世家・海保青陵は、甫周の才能にはとても敵わないと高く評価しつつも、才のない人とは話すことが出来ない人、とも評している』とある。因みに「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月であるから、彼が亡くなってちょうど五年目が経っている。なお、同ウィキには、桂川家に於いて「甫周」を名乗った者は二人いて、この四代目以外に第七代目もかく名乗っており、また五代目の桂川甫筑国宝(ほちく くにとみ)と称する者も一時期、「甫周」を名乗った記録があるとあるが、時代的にも底本の鈴木氏や岩波の長谷川氏注からも、この甫周は四代目であることは言を俟たない。

・「甫周祖父」桂川甫筑(寛文元(一六六一)年~延享四(一七四七)年)。医家桂川家の祖。大和生。名は邦教(くにみち)、字(あざな)は友之、号は興藪。京都で嵐山甫安に師事し、さらに長崎でオランダ人に学んだ。京都に移る際、師甫安の命で森島姓を桂川に改姓した。元禄九(一六九六)年甲府の徳川綱豊(家光の孫で後の第六代将軍家宣)に仕え、宝永五(一七〇八)年に幕府の奥医師となった(家宣の将軍就任は宝永六(一七〇九)年のことであるが、綱豊は宝永元(一七〇四)年十二月に正式な将軍世嗣と定められて「家宣」と改名、綱吉の養子となって、既に江戸城西の丸に入っていた)、後に法眼(ほうげん)(以上は主に講談社「日本人名大辞典」に拠った)。

・「嵐山甫隆」不詳。ここに書いてある通りなら、甫周の祖父甫筑の師であった嵐山甫安の末流ということになる(後注参照)。なお、嵐山甫安(寛永一〇(一六三三)年~元禄六(一六九三)年)は平戸生まれの蘭方医で、初め判田李庵と称し、後に京に出て改名した。平戸松浦(まつら)侯の侍医で長崎出島で蘭医に学び、修業証書を受け,寛文 一二 (一六七二) 年には法橋(ほっきょう)に叙せられている。著書に「蕃国治方類聚」(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

・「則甫秀先祖の師匠にて」記載がおかしい。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版ではここ、『則甫周先祖の師匠末流にて』とあって腑に落ちる。ここはバークレー校版で訳した。

・「嵐山の下を流るゝといふ心にて」岩波の長谷川氏注に、『京都西北郊(現西京区)の嵐山とその東を流れる桂川(大井川)に思いを寄せていう』とある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 桂川家由緒の事

 

 奥医師の桂川甫周(かつらがわほしゅう)は外科医である。

 当今の甫周の祖父である桂川甫筑(ほちく)の代、将軍家へ召し出されたと聞く。

 さても、その当今の甫周の弟子にて、とある藩中に勤め、当今、現に甫周の許にて修行致いておる嵐山甫隆(あらしやまほりゅう)と申す者は、これ則ち、その甫周の先祖たる甫筑の、これ、師匠筋の末流の者なのである。

 そもそも、甫周が先祖甫筑は、元来、「森島」という姓を名乗っており、その時は、この嵐山甫隆の先祖であった嵐山甫安の弟子であったのである。

 ところが、師匠の医家としての家筋はこれ、衰えてしまい、弟子であった甫筑の方は、今の甫周家に至るまで、だんだんに栄達の運気に恵まれ、かくも奥医にまで、これ、登りつめたのであった。

 されど、桂川家にては、この師匠嵐山氏の、山の如き御恩を受けたことなればこそ、

――高雅に聳える嵐山が下を、これ、ただただ平伏して流るる――

という心持ちを以って、これ「桂川」という姓を名乗ったのであると申す。

 しかもさればこそ、桂川甫筑の定めたる同家の紋所はこれ、

 ▲∴

といったような、何とも一風変わったものにて、実はこの、「▲」はこれ「森」を、「∴」はこれ、「島」を表わしておると申す。

 

「……これが、我が桂川家の定紋(じょうもん)の、由緒にて御座る。……」

と、生前の甫周殿の語っておられたを、ふと、思い出して御座ったによって以上、書き残しおくことと致そう。

耳嚢 巻之十 水病又妙法の事

 水病又妙法の事

 

 ひへをいりて粉にいたし、麥こがしの如く砂糖を調(てう)じ用(もちゐ)るに、浮腫の症に宜(よろしき)由。桑原某、年々足腫れて難儀の處、人の教(をしへ)にまかせこれを用ひしに、當年は甚だ少(すくな)き由、桑原かたりぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:浮腫(むくみ)民間治療薬三連発。

・「ひへ」稗。単子葉植物綱イネ目イネ科キビ亜科キビ連ヒエ Echinochloa esculenta 。表記は「ひえ」が正しい。

・「麥こがし」大麦を炒って粉に挽いたもの。砂糖を混ぜて水で練って食べたり、菓子の原料にしたりする。はったい粉。香煎(こうせん)。

・「桑原某」不詳。「耳嚢 巻之二 吉比津宮釜鳴の事」の注で示した通り、根岸鎮衛の妻は桑原盛利の娘であるから、これは姻族の一人なのかも知れない。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 むくみについての別のまた妙法の事

 

 稗(ひえ)を煎って粉に致し、麦焦がしの如く、砂糖を加えてよく練り、それを患部に塗付すると、これ、浮腫(むくみ)の症状によろしいとのこと。

 桑原某(なにがし)、毎年、足が腫れて難儀を致いて御座ったところ、人が教え呉れたに任せて、これを用いてみたところが、今年ははなはだ、むくみ、これ、少ないと桑原自身の語っておった。

耳嚢 巻之十 白胡瓜の事

 白胡瓜の事

 

 しろき木瓜(きうり)、香のものに致(いたし)、或ひはもみ瓜にして喰(しよく)すれば水病に奇妙の由。然るに白ききうりはあまり作り候ものなき故、甚(はなはだ)もとめがたし。予水病のとき、漸(やうやく)求めて用ひ候事あり。然るに或人曰(いはく)、神奈川邊其外隨分拵へ候所有(ある)由。一體(いつたい)もみうり、香の物にして和らかにて、作にもある由。神奈川邊にては、專ら右を稱し申し候得共(さふらえども)、江戸問(とん)やへ出しては、赤き瓜ほどに不望(のぞまざる)ゆゑ、手前にのみに拵(こしらへ)候由、人のかたりぬ。さもあるべき事也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:「水病」=むくみの治療薬として直連関。ウリ目ウリ科キュウリ Cucumis sativus の博物誌。現在の漢方医学でも真っ先にむくみへの効能が記されてある。

・「白胡瓜」岩波の長谷川氏注に、寺島良安の「和漢三才図会」の巻『百に、胡瓜のうち五月に種を蒔き霜時になる白色で丈の短いものがある。これをいうか』とある。ウィキの「キュウリ」には、「馬込半白胡瓜(まごめはんしろきゅうり)」「高井戸節成胡瓜(たかいどふしなりきゅうり)」「加賀太胡瓜(かがふときゅうり)」「聖護院胡瓜(しょうごいんきゅうり)」「毛馬胡瓜(けまきゅうり)」等の白色タイプの胡瓜が載る。以上のなかには明治以降の改良品種が多く含まれるが、それはも総てそれ以前に各地で江戸期から伝統野菜としてあった品種を交配改良したものであるから、ここでいう「白胡瓜」の候補として強ち的外れとは思われないので掲げておくこととする。個人的には幾つかの改良過程の記載を見るに、根岸の言っているのは「馬込半白胡瓜」系の改良種であるように思われる。

 以下、長谷川氏の指摘された「和漢三才図会」の「胡瓜」の項(「卷之百 七」)を全文電子化しておく(本文テクストの底本は一九九八年刊大空社版CD-ROM「和漢三才図会」を用いた。表示法は私の手掛けた「和漢三才図会」水族部の電子テクストのそれに準じた。画像は平凡社東洋文庫版「和漢三才図会 18」(一九九一年刊)のものを用い、原典の白文(原典の一行字数に合致させて改行)及びそこに打たれてある訓点を参考にして私が書き下しものを示した「瓜」は原本では五画目がないが訂した。「青」などの一部の正字でない表字は原文のママである。訓読では大幅に読みと送り仮名を増やしてあるが、読み難くなるだけなので特に指示していない。後に私のオリジナルな注を附しておいた)。

   *

Kiuri

きうり

胡瓜

フウ クワア

 

黄瓜(ハアンクハア)〔唐音〕

 和名曾波宇里

  俗云黄瓜(キウリ)

 

本綱漢張騫使西域得種故名胡瓜隋朝避諱改爲黄瓜

正二月下種三月生苗引蔓葉如冬瓜葉亦有毛四五月

開黄花結瓜圍二三寸長者至尺許青色上有痱※如疣

[やぶちゃん字注:※=(やまいだれ)+中に「畾」。]

子至老則黄赤色其子與菜瓜子同

一種五月種者霜時結瓜白色而短並生熟可食兼蔬蓏

 之用糟醬不及菜瓜

胡瓜〔甘寒有小毒〕清熱水道然不可多食小兒忌食滑中生

 疳蟲不可多用醋〔多食發瘧病及び瘡疥脚氣虛腫百病天行病後不可食之〕

△按胡瓜形似海鼠而圓青帶白色老則黄赤色生和醋

 或鱠中入用甚脆勝於越瓜不宜煮食不爲上饌但謂

 不可多用醋則可斟酌耳

祇園神禁入胡瓜於社地土生人忌食之八幡之鳥肉御

 靈之鮎春日之鹿食則爲被崇理不可推之類亦不少

 蓋祇園社棟神輿以瓜〔音瓜〕之紋爲飾瓜以爲胡瓜切片

 形而忌之乎愚之甚者也瓜紋乃木瓜〔果木之名〕之花形而

 織田信長公幟文也信長再興當社用其紋爲後記耳

 

○やぶちゃんの書き下し文

きうり

胡瓜

フウ クワア

 

黄瓜(ハアンクハア)〔唐音。〕

 和名は曾波宇里(そばうり)。

  俗に云ふ、黄瓜(きうり)

 

「本綱」に、『漢の張騫(ちやうけん)、西域に使ひして得たる種なる故に胡瓜(こくわ)と名づく。隋朝に諱(いみな)を避け、改めて黄瓜(くわうくわ)と爲す。正、二月、種を下し、三月、苗を生じ、蔓を引く。葉は冬瓜(とうくわ)の葉のごとく、亦、毛、有り。四、五月、黄花を開き、瓜(くわ)を結ぶこと、圍(ゐ)、二、三寸、長き者は尺許(ばか)りに至る。青色の上に痱※(いらぼ)有り、疣子(いぼ)のごとし。老するに至りては、則ち黄赤色。其の子(たね)、菜瓜(しろうり)の子(たね)と同じ。』と。

一種、五月に種(う)うる者は霜の時、瓜を結ぶ。白色にして短かし。並びに生・熟、食ふべし。蔬(そ)・蓏(ら)の用を兼(か)ぬ。糟(かすづけ)・醬(ひしほ)、菜瓜(しろうり)に及ばず。

[やぶちゃん字注:※=(やまいだれ)+中に「畾」。]

胡瓜〔甘、寒。小毒有り。〕熱を清し、水道を利す。然れども多く食ふべからず。小兒、食ふを忌む。中(ちう)を滑らかにし、疳の蟲を生(しやう)ず。不可多く醋を用ふべからず〔多く食へば、瘧病(おこり)を及び瘡疥(さうかい)を發す。脚氣(かつけ)・虛腫百病・天行病(はやりやまひ)の後、之を食ふべからず。〕。

△按ずるに、胡瓜、形、海鼠に似て圓く、青に白色を帶ぶ。老いなば則ち黄赤色。生にて醋に和し、或ひは鱠(なます)の中に入れ用ふ。甚だ脆くして越瓜(しろうり)に勝れり。煮食ふに宜からず。上饌と爲さず。但し、醋を多用すべからずと謂ふときんば、則ち斟酌(しんしやく)すべきのみ。

祇園の神、社地に胡瓜を入ることを禁ず。土生(うぶすな)の人、之れを食ふを忌む。八幡(やはた)の鳥肉、御靈の鮎(なまづ)、春日の鹿、食ふときは則ち爲めに崇(たゝ)り被(かふむ)る理(ことわり)の推すべらからざるの類ひも亦、少なからず。蓋し祇園の社、棟・神輿(みこし)に、瓜〔音、寡(くわ)。〕の紋を以つて飾りと爲し、瓜は胡瓜を切片(へ)ぎたる形と以爲(おもひ)て之を忌むか。愚の甚しき者なり。瓜の紋は乃ち、木瓜(もつくわ)の〔果木の名。〕花の形にて織田信長公の幟文(しるし)なり。信長、當社を再興して其の紋を用ゐて後記と爲せるのみ。

   *

●「本綱」李時珍の「本草綱目」。但し、この叙述は原文と対比すると、必ずしもその引用ではないのが、やや不審である。

●「張騫」(?~紀元前一一四年)前漢の旅行家で外交家。漢中(陝西省)生。武帝の初年に西域の月氏国(秦・漢代に中央アジアで活躍した民族でトルコ系・イラン系・チベット系などの諸説がある。初め、モンゴル高原西半を支配していたが、紀元前二世紀頃に匈奴に圧迫され、その主力(大月氏)はイリ地方からさらにアフガニスタン北部に移動、バクトリアをも支配した)への使者として紀元前一三九年頃に長安を出発、途中で匈奴に捕えられること十余年にして前一二六年に長安に帰還した。

●「隋朝に諱を避け」これは「本草綱目」の「胡荽」(胡瓜のこと)の「釈名」にある『藏器曰、「石勒諱胡。故並、汾人呼胡荽爲香荽。」。』によるものと思われるが、原典自体が意味がよく分からない。何故なら石勒(せきろく)は五胡十六国の後趙の始祖であって隋の王ではないこと、石勒の本名その他には「胡」の字は含まれないからである。しかも隋王朝の皇帝にもやはり名に「胡」の字を含む人物はいない。

●「痱※(いらぼ)」(※=「疒」+中に「畾」。)底本の字が掠れており読みの「ぼ(原典はカタカナ)」を含め自信がない。東洋文庫版現代語訳では『ぶつぶつ』と訳している。最も可能性があるのは「痱*」(*「疒」+中に「雷」)で、これは「廣漢和辭典」に、「廣韻」に「痱、痱*」(痱(ひ)は、痱*(ひらい)なりと出ており、その意味として『小さなはれもの。ぶつぶつ』とある。

●「熟」十分に熱を加えて煮ること。

●「蔬蓏」「蔬」は蔬菜、「蓏」は、地面に生(な)る果実(果物(くだもの))をいう(対して木に生る果物を「果」という)。

●「水道」排尿。

●「中」漢方でいう脾臓や胃(但し、現代医学のそれらとは異なる概念で同一ではない)。●「瘧病」一般には現在のマラリアとされる。

●「瘡疥」発疹。

●「虛腫百病」むくみを伴うあらゆる病態という謂いであろう。

●「海鼠に似て」言わずもがなであるが、棘皮動物門ナマコ綱 Holothuroidea のナマコ類は英語で sea cucumber (海の胡瓜)という。寺島先生、確信犯か?

●「謂ふときんば」原典では送り仮名は「トキハ」であるが、「ン」を補った。説くことを考えると。述べている事実からは。――基本的に酢を多く用いると弊があるという記載が既にあることを考えると、「斟酌」、酢の配合度合への種による個別の十分な比較検討による注意が、これだけは必須である。――という意である。

●「祇園」京都の八坂神社。

●「瓜は胡瓜を切片ぎたる形と以爲て之を忌むか」瓜の紋所は胡瓜を横に切り截った際の実の中の模様の形と同じと考えてこれを忌むのであろうか、の意。フレーザーの言う類感呪術的な発想であるが、寺島が指摘しているように、これはシミュラクラで実際には胡瓜とは関係がない(後注参照)。但し、現在でも祇園祭(七月一日~三十一日)の期間中は、胡瓜を食べない慣わしがあって、それはやはり、ここに示された通り、八坂神社の神紋と胡瓜を輪切りにした切り口の模様が似ているため、畏れ多く勿体ないこととされるよし京都関連のサイトに記されてある。

●「木瓜」これはバラ目バラ科サクラ亜科リンゴ連ボケ Chaenomeles speciosa をも意味するが、この花が実は実在する花としての織田家の家紋のモデルの一つともされるのである。

●「瓜の紋は乃ち、木瓜の〔果木の名。〕花の形にて織田信長公の幟文なり」織田信長の家紋は「五つ木瓜(もっこう)」「織田木瓜(おだもっこう)」と呼ばれ、その濫觴は、実は鳥の巣の様子を表したものとされ、子孫繁栄などのシンボルとも言われる。

   *

・「もみ瓜」胡瓜揉み。胡瓜を小口から薄く刻んで塩で揉み、三杯酢をかけた食べ物。

・「作にもある由」底本には「作」の右に『ママ』という原典注記。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『甘みも有るよし』。バークレー校版で訳した。

・「右を稱し申し候得共」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『右を稱し用候得共(もちゐさふらえども)』。これで採る。

・「赤き瓜」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『靑き瓜』。これで採る。

・「手前にのみに」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『手前遣(つか)ひのみに』で、長谷川氏はここに『自家用』と注しておられる。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 白胡瓜(しろきゅうり)の事

 

 白き木瓜、香の物に致し、或いは胡瓜揉みにして食すれば、これ、むくみに絶妙に効く由。

 しかるに、白き胡瓜というのは、あまり栽培していおらぬものであるから、はなはだ求め難い。

 私も持病のむくみが、これ、かなりひどかった折り、試しみんとせしが、なかなか見当たらず、やっとのことで買い求めて用いた記憶がある。

 しかるに、ある人の申すことには、神奈川辺りや、その外、江戸周縁の農村などに於いて、これ随分、植え育てておる所のある由。

 この白胡瓜、概ね、胡瓜揉みや香の物に調理なして、如何にも噛み応え優しく和らかにして、甘みさえもある由。

 神奈川辺りにては専ら、この白胡瓜を「胡瓜」と称し、日常の菜にも普通に用いておるとのことであったが、江戸の青果の問屋へ卸しても、知られた青き胡瓜ほどには江戸庶民の購買意欲をそそららしく、作っている農家及びその辺り一帯だけの、これ、いわば自家用・地物としてのみ、栽培されておる由をも人の語って御座った。

 まあ、こうした――そういった江戸と申す都会の妙な好まれ方を含むところの以上の話――ことも、これ、あることにては御座ろう。

2015/03/30

耳嚢 巻之十 浮腫奇藥の事 但右に付奇談

 浮腫奇藥の事 右に付奇談

 

 予、夏になれば例年兩足の臑(すね)に聊(いささか)浮腫あり。文化十酉年、例よりは少しく腫れ多く、壽算七十七なれば、子孫これを切(きり)に養療せんと言(いふ)。しかれども服藥の醫、何れも愁(うれひ)とする程の事なしといへども、或人はなしけるは、水氣(すいき)の藥に狐のびんざゝらといふ草を用ゆれば、甚だ妙ある由。松平和泉守抔は右藥を用ひて快驗(くわいげん)あるといふ事を聞及(ききおよび)しと、與住玄卓語りける故、予が從者より彼(かの)家の知音(ちいん)まで尋(たづね)ければ、右びんざゝら泉州の白金(しろがね)やしきに多くありて、泉州など不斷(ふだん)服用有(あり)。尤(もつとも)右草を五歩(ぶ)程づゝに割(わり)、水貮盃を一盃に煎じ詰(つめ)て用ひる由。則(すなはち)とり寄置(よせおき)しとて、右草並(ならび)に先達(せんだつ)て取置しとて實(み)をも爲持越(もたせこさ)れし。用ひて聊しるしあれば、來春は右種を蒔かん事を家童(かどう)に教諭なしぬ。右の玄卓かたりけるは、右狐びんざゝらといふもの、本草には不見(みえず)。□□と云(いふ)書に、地□といふもの、右の草にあたれりと云々。近頃右びんざゝら、水病(すいびやう)或は脚氣(かつけ)によしと、專ら信要(しんえう)する者多し。近き事の由、上州とか、相州とか、相應の百姓ありしが、だんだん身の上をとろへ、家族死(しに)たへ唯一人にて、兩足共(とも)腫れ候て、農堯もならず誠に死をまつ斗(ばかり)なりしが、つらく考へて旦那寺へ至り、かくかくの事なれば何卒身上も寺へ可納(をさむべき)間、死期(しご)まで養ひたまはるべしと歎(なげき)しかば、旦那の事安き事なりと、墓所の片わきあやしき部やへ入れて養ひしに、壹年程の内に腫(はれ)も引(ひき)、足も丈夫に成(なり)しゆゑ、和尚と對談の上、元の家へ歸り住(すみ)しに、又半年程の内に元の如く足はれければ、又々旦那寺へ至りけるに無程(ほどなく)快(こころよく)なりし故、其身も不思議に思ひ、族(うか)らも是を奇なりとして和尚へも尋問(たづねとひ)しに、佛緣によりて快(こころよき)といふは妄談なるべし、何ぞ快き譯もあらんと色々工夫なしけるが、外に心付(こころづき)なし。しかるに寺にて、味噌を舂(つ)き候て樽へ詰(つめ)候節、かびを生(しやう)ぜざるため、山に有(ある)狐のびんざゝらをあみて底へ入(いれ)、又ふたにもなしけるが、右の故やと申(まうし)ける故、かゝる事も有(あり)けんと、右びんざゝらをとりて、近村まで水病のものを尋あたへしに、いづれも快(こころよき)由。これに依(より)て、右邊は殊外(ことのほか)取用(とりもち)ひ候由。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。民間療法シリーズであるが、例外的に記事が極めて詳細である。おそらくこの浮腫(むくみ。水腫。本文の「水氣」「水病」も同義)に結構、根岸は苦しめられていたところ、この「狐のびんざゝら」が「聊しるしあ」って、「來春は右種を蒔く」と決めたほどにはよく効いたのであろう。そうした嬉しさが叙述に如実に感じられる。以下に見る通り、現代の漢方医学でも浮腫への効能が認められている。

・「文化十酉年」「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月。

・「壽算七十七」根岸鎮衛は元文二(一七三七)年生まれ。没年は文化十二年十一月四日(グレゴリオ暦一八一五年十二月四日)であるから、蒔いた自家で育った「狐のびんざゝら」、これきっと服用出来たと思いたい。

・「これを切に養療せん」岩波の長谷川氏注に、「切」について『限り。一区切。これを限りに退隠という』と記しておられる。根岸の家族が、例年になくむくみがひどいので、それを口実に、「これを限りとして南町奉行を辞めて隠居なされよ。」と勧めたのである。但し、根岸は現職のまま死去している。

・「狐のびんざゝら」底本の鈴木氏注に、『河原決明(カワラケツメイ)の異名。マメ科の一年草で、草を乾して飲料にする。浜茶、弘法茶いう。漢名山扁豆、黄瓜香。ネムチャ、アキボトクリ、ノマメ、キジマメ。三村翁曰く、クサネムのこと』とある。マメ目マメ科ジャケツイバラ亜科カワラケツメイ(河原決明) Chamaecrista nomame は、草本で高さ三十~六十センチメートルほど。葉は互生で羽状複葉(和名の別名「狐の編木(拍板)」(きつねのびんざさら)とは、この葉の形状が楽器の「ビンザサラ」(中国伝来の打楽器の一つで硬い板を何枚か重ねて端を皮紐(かわひも)で纏めたものを両端を持って打ち鳴らす)に似ていることに由来するのであろう)。参照したウィキの「カワラケツメイ」によれば、『日本では本州から九州に分布』し、『名前の通り、川原などの開けた野原に群生する。一年生であり、夏ごろ黄色い花が咲き、晩夏から秋にマメに似た果実をつける。なお、河川改修などによって河原の植物群落は帰化植物が非常に多くなり、在来種が減少している地域が非常に多い。そのため、カワラケツメイも稀少になっている』。『果実は煎じてマメ茶とする』。『なお、マメ科のクサネムは外見がなかなかよく似ている。はっきりした違いは、カワラケツメイの豆が立つのに対して、クサネムのそれは垂れ下がることである』とある(「クサネム」はマメ亜科クサネム連クサネム亜連クサネム Aeschynomene indica 。葉の形状はことに酷似するが亜科レベルで異なる全くの別種である。花は全く異なる。グーグル画像検索の「カワラケツメイ」「クサネム」とを対比されたい)。非常に生薬名は「山扁豆(サンヘンズ/サンペンズ)」。宮崎県薬剤師会公式サイト内の「宮崎 薬草の部屋」の「カワラケツメイ」に、薬用部分を『地上部全体』とし、『八~九月、花が終わりかけ豆果がつき始めた頃、地上部全体を刈り取り、水洗いして』『刻み日干しでよく乾燥させる』。『むくみや膀胱炎の時の利尿に、また慢性の便秘に、乾燥したもの』を、一に対して水を六の割合で入れ、それを『半量になるまで煎じ、一日三回に分けて飲む』。『むくみがち・便秘気味の人の健康茶として、刻んだものを一度フライパン等で炒り上げ、二~三日新聞紙に広げて日干しで乾燥させ、お茶のかわりに飲用する』とあり、『日当たりのよい原野、河原、山間の路傍に自生する一年草』で『ネムノキに似た葉をつける。葉、茎、果実に細毛が生えている。七~八月頃葉の付け根に小さくて黄色い五弁花をつける。エビスグサ(決明)に似ていて河原に生えるのでこの名がある』と記す(下線やぶちゃん。「エビスグサ」はジャケツイバラ亜科センナ属エビスグサ Senna obtusifolia のこと。但し、画像で見る限り、似ているのは黄色い花だけで葉は同じ羽状複葉であるが、見た目、全く異なる。グーグル画像検索の「カワラケツメイ」「エビスグサ」を対比されたい)。

・「松平和泉守」松平乗寛(のりひろ 安永六(一七七八)年~天保一〇(一八三九)年)は老中・三河西尾藩(藩庁は西尾城で現在の愛知県西尾市。六万石)第三代藩主。寛政五(一七九三)年、家督を相続。幕府では寺社奉行を二期勤め、京都所司代を経て、老中に就任した。この文化一〇(一八一三)年当時は最初の寺社奉行を辞任した年に当っており、満三十五で、根岸より四十一も年下であるので想定イメージに注意されたい。

・「白金屋敷」岩波の長谷川氏注に、西尾藩は現在の東京都港区『白金に下屋敷があった』とある。

・「與住玄卓」既注。根岸家の親類筋にして出入りの町医師。しかも根岸の医事関連の強力なニュース・ソースにしてその他の流言飛語の情報屋でもある。

・「五歩」五分(ごぶ)で一寸の半分の長さ。約一・五センチメートル。

・「家童」小間使いの若者。家僮。下男。ボーイ。

・「□□と云書に、地□といふもの」補填不能。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版も両欠字部は同様。

・「農堯」底本には「堯」の右に、『(業カ)』と推定訂正注がある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 浮腫の奇薬の事 附けたり それについての奇談一話

 

 私は夏になると、例年、両足の臑(すね)の部分に、これ、いささかむくみが生ずる。

 文化十年酉年は例年に比べ、かなり腫れがひどく、私も当年とって七十七ともなれば、子や孫どもはこれ、頻りに、

「――これを限りとなされて、ゆるりとご隠居なされ、養生なさるるが重畳(ちょうじょう)。」

なんどと申しておる。

 しかし、調剤の方(かた)を任せておる主治医は、

「むくみも、腫れ具合も――孰れも愁いとなさるるほどでは御座らぬ。」

と請けがって呉れた。

 従って私は隠居は、ゼッタイ、せん。……

   *

 さて、むくみのことである。

 さる御仁の話されたことには、水気(すいき)の薬として、「狐のびんざさら」という草を用うれば、はなはだ効用のある由。

「松平和泉守様などは、その薬を用いて、これ、あっという間に快験(かいげん)なされたということを聞き及んで御座います。」

と、拙者の主治医の一人、与住玄卓(よずみげんたく)が語っておったによって、和泉守乗寛(のりひろ)殿とは私も懇意にしておれば、私の従者より、かの松平家の知音(ちいん)が方に、当該の薬方につき、訪ね問わせたところ、以下の処方を得た。

――右「狐のびんざさら」は和泉守殿の白金(しろがね)の下屋敷に多く生えており、主君和泉守殿御自身も普段から服用なさっておらるる。

――もっとも、そのままにて服用するのではなく、その草を、五歩(ぶ)ほどの大きさに刻み、それを浸した水、これ、二杯分を、一杯になるまで、煎じつめて用いるとの由。

 しかも、和泉守殿、ちょうど乾して保存なされておったものが御座ったとのことにて、その草並びに、先だって採りおいた「狐のびんざさら」の実をも、これ、私の従者に持たせて贈り呉れた。

 されば早速に服用してみたところ、これ、なかなかに効果のあって、暫く服用を続けるうち、ふと気がつけば、むくみがすっかり消えておった。

 さても来春(らいはる)には、この「狐のびんざさら」の種を、我が家の庭にも蒔いてしっかり育てるように、と家僮(かどう)には命じおいた。

 さて、かの玄卓が申すには、この「狐のびんざさら」という薬草は、唐や本邦の本草書には所載せず、「□□」という書に「地□」という名で載るものが、この草に相当する、とのことで御座った。――以下、与住の話。

   *

 近頃、この「狐のびんざさら」が浮腫或いは脚気(かつけ)によく効くとして、専ら信用なし、服用致す者が多くなっておる。

 最近のことと聴き及んでいるが、上州とか相州とか、相応の家格の百姓のおったが、この者、だんだんに身上(しんしょう)も衰え、老いも進み、家族もまた、死に絶えて唯一人にて、両足とも、ひどくむくみの生じて御座ったれば、農事もままならず、まっこと、死を待つばかりのありさまとなり果てたによって、ひどく考え込んだ末、ある日、旦那寺へと参って、

「……かくかくのことなれば、何卒、今、御座る、身上も、総てこれ、寺へ納めんと思いますによって、死期(しご)に至るまで、これ、儂(わし)を養のうては……これ、下さるまいか?……」

と歎き訴えた。

 されば和尚は、

「旦那のことなれば安きことにて御座る。」

と、墓地の片際(かたぎわ)に設えた粗末な小屋へ、この者を入れて、養いおいた。

 すると、これ、一年ほど経つうちに、かのむくみも引き、足もかなり丈夫になって御座ったによって、和尚と相談の上、元の家へ戻って、また住もうて御座った。

 ところが、これまた、半年ほどのうちに、元の如く足がむくんで参ったによって、またまた、旦那寺へと移った。

 するとこれ、ほどのぅ軽快致いたによって、自身も不思議に思い、面倒は見れぬものの、気にかかっては見舞いに参ったる遠き縁者の者なんども、

「……これは……まっこと……不思議なることじゃ。……」

とて、和尚へもこのことにつき、

「……これは如何なることにて御座いましょうや?……」

と問い訊ねたところが、和尚、これ正直に、

「――仏縁によりて恢復せしなんど申すは妄談にて御座ろう。……何ぞ、軽快致すには相応の訳、これ、御座ろうほどに。」

と、住めるあばら屋やその辺りをもいろいろと調べてはみたものの、これといって気づくところも御座らなんだ。

 しかるに和尚、一つのことに目をとめた。

 寺にては、これ、味噌を搗(つ)いたものを樽へ詰めおく際、黴(かび)を生じさせぬため、その効のあると伝える山に自生致す「狐のびんざさら」の葉を縦横に編んで、これを底へ敷き入れ、さらにまた、同様のものを味噌樽の蓋にも用いて御座ったが、

「――さても! この草の効能の故にては、これ、御座るまいか?!」

と思い当った。

 されば、そのようなこともあろうかも知れぬと、和尚、かの「狐のびんざさら」を山より刈り取って参り、試しに、近村までむくみを患(わずろ)う者を訪ねては、これを茶になして飲ませてみたところ、どの患者も、これ、驚くほど軽快なした由。

 これに依って、その村の辺りにては殊の外、この「狐のびんざさら」を茶になしたものを日頃より呑んで御座る由。

耳囊 卷之十 雷も俠勇に不勝事

 

 雷も俠勇に不勝事

 

 文化十酉年八月朔日(ついたち)、雨は強くもあらざりしが雷は餘程强く、三四ケ所あまり落(おち)しが、淺草西福(さいふく)寺近所に殘町といふ所有(ところあり)、〔此(この)殘町は御藏(おくら)前の掃集米(はきあつめまい)を賣買(うりか)う渡世なす處。〕此普請ありて、鳶人足共(ども)五七人あつまり居(をり)し處へ落ければ、彼(かの)ものども、雷を打殺(うちころす)べきと、其邊の材木鳶口(とびぐち)抔をもちて、雲ほど走り、火の玉獸やうのもの駈(かけ)めぐりしを、目あてに打敲(たたき)けるに、雷も不叶(かなはず)とや思ひけん、西福寺の方へ逃(にげ)しを追駈(おひかけ)しに、西福寺の構(かま)へに大木ありしを攀(よじのぼり)て、右よりあがりしとなり。命をしらざる壯年の俠氣(けふき)、かゝる事もありと、評判をなし、かしこに住(すめ)る札さしの手代成る者も、來り語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。再び、直近の都市伝説に戻っている。

・「雷も俠勇に不勝事」は「かみなりもきようゆうにかたざること」と読む。「俠勇(きょうゆう」は自分の損得を顧みず、弱い者のために力を貸す義侠心があって、勇ましく男らしいこと、また、その人。

・「文化十酉年八月朔日」「卷之十」の記載の推定下限は翌文化一一(一八一四)年六月。「文化十酉年八月朔日」はグレゴリオ暦で八月二十六日である。台風襲来の時期である。

・「掃集米」所謂、札差で扶持米を代行して受け取りそれを分配・荷造・搬送する際に、零れ出たり、粉砕されて細かくなった屑米を集めたものであろう。江戸の無駄のない効率的なリサイクル事情の中では当然、それを仕入れたり、商品として安く売り捌くことを生業(なりわい)としていた者がいたことは想像に難くない。

・「あまり落し」底本の鈴木氏注に、『アマルは落雷することであるから、アマリオチルは重言である』とある。平凡社「世界大百科事典」の「雷」に「万葉集」巻三に「伊加土(いかづち)」という用語例があり,「イカ」は「厳」を意味する形容詞の語根で、「ツチ」は「ミヅチ(蛟)」の「ツチ」と同じく、「蛇」の連想を有する「精霊の名」であったらしい。「雷」の方言に「カンダチ」といっているが、これは「神の示現」という意で、落雷を「アマル」というのも「アモル(天降る)」の意味であるからとされている。これらはいずれも雷を神とする考えを示すものであり、かつては神が紫電金線の光を以ってこの世に下るものと考えられていたのである、とある。角川書店「新版 古語辞典」には「天降(あも)る」(自動詞ラ行四段活用)は「天(あま)下(お)る」を原型とし、連用形「あもり」の用法のみが認められると附記し、①天上からおりる。「葦原の瑞穂の国の手向けすとあもりましけむ」(「万葉集」巻十三・三二二七)②行幸なさる。「行宮(かりみや)にあもりいまして、天の下治めたまひ」(「万葉集」巻二・一九九)とある。

・「西福寺」底本の鈴木氏注に、『三村翁「西福寺は浅草南元町にあり、残町といふ地不知、は誤記か。」残町の地名のいわれも割注にあるので、誤記とも考えられない。西福寺前から蔵前片町へ出る通りに添って次兵衛下ゲ地という一劃がある。享保十七年の火災に同人の住居が塗り家作であった為に焼け残ったので、大岡越前守から褒美に下された地という。それで残町という俚称が至れたのではないかとも想像される』とある。私は「殘町」はてっきり米の「残り」を扱うからと早合点していたのだが、真相は火事の焼け残りの謂いらしい。東光山松平良雲院西福寺と号して現存する。浄土宗で、当時の幕府米蔵の西、現在の地下鉄蔵前駅の西北西二百メートル弱、台東区蔵前四丁目にある。鈴木氏の言われる「次兵衛下ゲ地」も所持する切絵図に「次兵ヱ買下地」と特異な表記になってあるのを確認出来た。 

 

■やぶちゃん現代語訳 

 

 雷も侠気(おとこぎ)には勝てぬという事 

 

 文化十年酉年八月朔日(ついたち)のことと聴く。

 雨は強くもなかったが、雷がこれ、殊の外激しく、三、四ヶ所あまり落ちて御座ったが、浅草西福(さいふく)寺近所に残町(のこりまち)という所があり――この「残町」と申すは御蔵(おくら)前の掃集米(はきあつめまい)を売り買いするを渡世となす商人(あきんど)が御座ったところである――、この日、ここで普請のあって、鳶(とび)・人足(にんそく)どもが五、七人が集って御座った。と! その近くへ、

――グワラグワラ! ピシャッツ! ドドン!!

と、雷の落ちて御座ったところが、かの者ども、

「――ワレ! こらッツ! 雷なんぞ! 打ち殺してやろうじゃねえかッツ!」

と、雄叫びを挙ぐるや、その辺りに御座った材木やら、鳶口(とびぐち)やらを、手に手に持つと、雲から走り出で、火の玉となれる、これ、何やらん獣の如き物の怪の、これ、駈け巡って御座ったを目当てに、

「――すわッツ!! あれが憎っくき雷獣じゃッツ!!!」

と、てんでに、これ、したたかに打ち敲き廻った。

 されば、雷獣も、

――こりゃ、叶わぬ!

とでも思うたものか、西福寺の方(かた)へと逃げる。

 が、これまた、男どもの、こぞって追い駈くる。

 雷獣はこれ、西福寺正面に大木御座ったを、攀(よじのぼ)り、その先っぽにて、これ、線香花火の如(ごと)、

――チラッチラ……

とチンケに瞬いたかと思うと、

――煙の如、ふっと

消え失せたと申す。

 命知らずの壮年の男気、これ、かの辺りにて、

「――こんなこともあるもんじゃのぅ! でかいた! でかいたぞッツ!」

と、町衆のやんやの喝采を浴び、どえらい評判となって御座る由。

 そこに住まうところの札差の手代なる者、その――雷神の如き侠勇らの雷獣雷撃の一部始終を――これ、実見致いた旨、私のところへ参った折り、語って御座った。

 

2015/03/29

耳嚢 巻之十 男谷檢校器量の事

 男谷檢校器量の事

 

 男谷(をたに)檢校と云(いふ)坐頭は、秋元但馬守在所城下最寄(もより)の出生(しゆつしやう)にて、但馬守方へも出入せしが、或時但馬守土圭(とけい)をあれ是(これ)取(とり)、右の内代金三拾兩餘の土圭、何か通途違ひ面白き品(しな)故、檢校へ相見(あひまみえ)、買申間敷哉(かひまうすまじきや)の段檢校へ被申(まうされ)ければ、直段(ねだん)を承り、望(のぞみ)無之(これなき)由を申(まうし)ける故、何故不需(もとめざるや)哉と尋問(たづねとひ)しに、三拾兩にて數多(あまた)の人の命を助け可申(もうすべく)、望無之由、不興に申立歸(まうしたちかえ)りしを、吝嗇(りんしよく)もの、非禮なりとて但馬守憤り、出入りを留(と)め候程に申付(まうしつけ)られし。しかるに四五年過(すぎ)て、彼(かの)領分凶作にて百姓飢(うゑ)におよび候儀有之(これある)節、男谷在所の事故、早速罷越(まかりこし)、壹軒に付米五俵錢何程とかを差遣(さしつかは)し、其村の危急を救ひける故、追(おつ)て男谷方へ罷越(まかりこし)、右返金禮謝の儀申入(まうしいれ)候者有(あり)しが、左樣成(さやうなる)趣意にはあらず、決(けつし)て難受(うけがたき)由にて斷(ことわり)ければ、農民も外(ほか)いたし方なく、男谷在所事なれば、大造成(たいそうなる)石塔を建立して、檢校が追福(ついふく)等をなしけるに、或時領主入部(にふぶ)にて鷹野(たかの)とかの折柄、右石塔を見て仔細を尋問(たづねとひ)しに、右の荒增(あらまし)申答(まうしこたへ)ければ、扨は彼が心組(こころぐみ)僞(いつはり)なしとて、其後は再び懇意を加へられしと也(なり)。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。年時が記されていないが少なくとも登場人物の一人秋元永朝は文化七(一八一〇)年に亡くなっており、「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年であるから、ここまでの直近の出来事とは性質を異にしている。なお、現代語訳では当時の差別意識を如実に示すため、わざと差別用語としての「ど盲(めくら)」という語を用いたことをここに断っておく。

・「男谷檢校」底本の鈴木氏注に、『廉操院。越後国男谷郷出身の盲人で、江戸に出て検校になり、金貸で巨富をたくわえ、市内に十七か所の地所を有し、水戸家一家のみで七十万両の大名貸しをしていたといわれる。死に臨み諸家の貸証文をすべて火中にし、三十万両の遺産を九人の子に遺した。末子平蔵は三万両余の遺産を持って旗本の養子となったか、その長男燕斎は書家として名をなした。燕斎の長男精一郎は、剣客として名を上げた男谷下総守信友。燕斎の三男亀松は勝元良の養子となり、その子が勝海舟である。(勝部兵長氏『夢酔独言』解説による)』とある。「檢校」及び以下に出る「坐頭」は耳嚢 巻之二 思はず幸を得し人の事に既注。

・「秋元但馬守」底本の鈴木氏注に、『永朝。山形城主、六万石。なお、男谷という地名は、山形附近にもまた新潟県下にも見付けることができないが、検校の出身はいずれであるか、疑いをのこしておく』とある(下線やぶちゃん)。秋元永朝(つねとも 元文三(一七三八)年~文化七(一八一〇)年)は出羽山形藩第二代藩主。五千石を領した大身旗本上田義当(よしまさ)四男として生まれる。義当は初代藩主秋元凉朝(すけとも)の実兄であった。後、凉朝の養子となり、明和五(一七六八)年に凉朝が隠居したため、家督を継いでいる。安永九(一七八〇)年十二月に但馬守に遷任されているから、本話柄の前半も、それ以降のことであろうか。天明三(一七八三)年、村山郡が凶作となり、それが原因で天明四(一七八四)年五月に藩内で米騒動・打ちこわしが起こった、と参照したウィキの「秋元永朝」にはある(所謂、天明二(一七八二)年から八(一七八八)年にかけて発生した天明の大飢饉飢饉である。本話の後半はそれを髣髴とさせる)。なお、岩波の長谷川氏注には、男谷は『越後国男谷郷出身という』とあり、グーグル・ブックスで視認した四條たか子著「幕末志士伝4 佐幕の志士たち」(ブルボンクリエイション二〇一四年刊)には、男谷検校は越後(現在の新潟県)の出身であると明確に記されてある。しかし越後国には男谷郷という地名は確かに見当たらない(小谷郷(新潟県中越地方の小千谷市近郊)ならばある)。しかも越後国とすると本話冒頭の「秋元但馬守在所城下最寄の出生」と齟齬が生ずることとなる。

・「土圭」時計のこと。ここでの当て字ではなく、「土圭の間(ま)」と書けば、江戸城で時計を設置して坊主が勤務しては時報の任に当たった部屋、或いは大名・旗本などの屋敷で時計の置いてあった部屋を指す。

・「入部」普通は領主・国司などがその領地・任地に初めて入ることを言うが、ここは厳密な意味での最初のそれを指しているのではないと思われる。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 男谷(おたに)検校の器量についての事

 

 男谷検校と申す座頭は、秋元但馬守永朝(つねとも)殿の御在所御城下の最寄りが出生(しゅっしょう)にて御座ったによって、但馬守殿方へも、よぅ出入致いておられたが、ある時、但馬守殿、好事(こうず)で蒐集なされておられた時計を、これ、あれこれ取り出だいては、

「……これらのうち……さうさ! これはどうじゃ?……まず、代金は三十両は下らぬ時計じゃ。……如何にも、ありきたりの時計とはこれ、形も音(ね)の響きも、まるで違(とご)うた、まっこと、面白き品(しな)で御座ろうが!……」

と仰せられるると、検校に寄って昵懇に、

「どうじゃ?――買わうぬか?」

と、慫慂なされた。

 すると検校は、再度、

「今、お幾らと申されました?」

と返したによって、

「三十両じゃ。……そちにとってはただ同然であろうが。」

と応じたところ、

「――一向、拙者、求めんとする思い、これ、御座いませぬ。」

と申したによって、但馬守殿、

「……何故(なぜ)じゃ?……何故、これほどのよき品、これ、求めぬのじゃ?!」

と問い質いたところが、

「――我ら、三十両あらば――これ、数多(あまた)の人の命を助けんがために使いとう存じますれば。――求めんとする思いは、これ、御座いませぬ、と申し上げたまでのこと。――では。今宵は、これにて失礼仕りまする。――」

と、硬き表情にて申し上げたかと思うと、すっくと立って、むっとした顔つきのまま、これ、退出致いたと申す。

 それを見た但馬守殿は、

「……な、何じゃ!? ど盲(めくら)の、ど吝嗇(ケチ)がッツ!……何という、ひ、非礼な奴じゃッツ!!」

と、殊の外、憤られると、

「――あんな輩(やから)はこれ、向後一切! 屋敷出入り差し止めにせいッツ!!!」

と、えらい剣幕で申し付けられたと申す。

 

 ところが、それから四、五年ほども過ぎてのことで御座った。

 かの但馬守殿御領分、大きな凶作が、これ、襲い、百姓らは皆、想像を絶する地獄の飢えを耐え忍んでおるという話が江戸表へも伝わって参った。

 また、その最たる惨禍の地が、これ、男谷(おだに)検校が在所のことと知れたによって、男谷殿は早速、故郷(ふるさと)へと足を運ばれ、一軒に付き、米五俵・銭何百文宛てをも均等に差し遣わされ、男谷村の危急を救うて御座った。

 さればこそ、同村の名主ら、おって男谷検校が方へと罷り越すと、かの義捐の折りに授けられたところの金子をこれ総て返金致いて、謝礼の儀を申し入れようと致いたが、検校殿は、

「――さようの謝礼を受けんとする趣意にて成したることにては御座らぬ。――かくなる返礼は、これ、とてものこと、受け難きものにて御座る。――」

と、一切を断られたによって、かの村の郷村の農民らも、これ、致し方なく、男谷検校が在所のことなればとて、たいそうなる石塔を建立(こんりゅう)なし、検校が義捐を顕彰致いたと申す。

 

 さてもその後のある折り、御領主但馬守殿、久々に入部(にゅうぶ)なられ、鷹狩りとかを催された折から、黒谷の辺りまで足を延ばされたところが、その見かけぬ新しき大きなる石塔を目に止められたによって、仔細を質し問われたところ、以上のあらましを名主以下郷村(ごうそん)の者、皆、口を揃えてお答え申し上げたによって、

「……さてもかの者の心底、これ、偽りなきものにて御座ったのじゃのぅ!……」

と、殊の外、感じ入り、その後(のち)は、これ再び、検校を懇意の者として、お加えになられたと申すことで御座った。

耳囊 卷之十 白龜の事

 

 白龜の事 

 

 文化十酉年七月、本石町(ほんこくちやう)一丁目御堀際(ぎは)、此の通(とほり)の龜を、同所惣右衞門店(たな)悴(せがれ)淸五郞豐松拾ひ取(とり)、甲(かうら)の片端へ穴をあけ凧(たこ)の絲(いと)やうのものを通し提(ささげ)歩行(ありき)しを、同店(たな)林左衞門見請(みうけ)、錢(ぜに)四十八錢(せん)をあたへ貰ひ、珍敷(めづらしき)物に付(つき)、身延山へ納度存居(をさめたくぞんじをり)候。珍敷ものに付、町役人共ども)、南番所(みなみばんしよ)へ訴出(うつたへいで)候。予携之(これをたづさへ)登城なし、七月十三日、御用番松平伊豆守殿へ申上(まうしあげ)、可懸御目(おめにかくべき)に哉(や)と申(まうし)ければ、上げ候樣にと御沙汰故、則(すなはち)御同朋頭(ごどうほうがしら)を以(もつて)上(あげ)候處、奧へ相𢌞(あひまは)り、翌々日相伺(あひうかがひ)候處、御留(おとど)めに相成(あひなり)候由故、同十七日、先年武州押上村百姓より、至(いたつ)て小さき白龜(しろがめ)を上(あげ)候節、金壹兩被下(くだされ)候例(ためし)も候間、其段申上(まうしあげ)、金壹兩自分番所にて申渡相渡(まうしわたしあひわたす)。尤(もつとも)押上村の龜は、先年予も見たりしが、香合(かうがふ)へ入(いれ)、冬の事にて綿へ乘せ、御代官大貫次右衞門より差出(さしいだし)、御勘定奉行より申上、右の通にて相濟(あひすみ)候。此度の龜は、甲の豎(たて)三寸斗(ばかり)、横二寸斗にて、隨分壯健成(なる)趣に候。
 

 

Sirogame
 

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。]

但し右龜は西丸御簾中(にしのまるごれんちう)樣へ被進(しんぜられ)、名を豐松と被下(くだされ)候由。追(おつ)て內祕(ないひ)承之(これうけたまはる)。尤(もつとも)拾ひ候童(わらべ)も、豐松と申候處、右名前は一向不申上(まうしあげず)處、□に右の通(とほり)被下(くだされ)候と申(まうす)儀、ひとつは奇事にて、何れ目出度(めでたき)吉祥(きつしやう)と歡び畢(をはんぬ)。 

 

□やぶちゃん注

○前項連関:蟒蛇(うわばみ)から白亀の異類譚で直連関。話柄時間も同期。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版(後掲)のデータによるなら、しかも「重瞳」でも連関しる。標題からは甲羅腹及び頭尾四肢総てが白或いは白っぽいとすれば、図から見ると、爬虫綱カメ目潜頸亜目リクガメ上科イシガメ科イシガメ属 Mauremys のカメで、恐らくはニホンイシガメ Mauremys japonica のアルビノ(albino:メラニンの生合成に係わる遺伝情報の欠損によって先天的にメラニンが欠乏する遺伝子疾患がある白化個体)ということになる(先のリンク先はウィキの「ニホンイシガメ」。クサガメ(ゼニガメ)Mauremys reevesii も考えたが、ウィキの「クサガメ」に『江戸時代や明治時代では希少で西日本や南日本にのみ分布するという記録がある』とあったので外した。因みに「カメ アルビノ」のグーグル画像検索も参照されたい)が、どうもバークレー校版のデータをみるとアルビノとは違うようだ(後掲するデータの注で考証する)。底本の鈴木氏注には、『続日本紀養老七年に白亀を朝廷に献じたとあり、以下史書に同種の記事が少なくない』と記す。なお、ここで最初に豊松から亀を買って町方に身延山寄進を申し出た左衛門や、また、それを南町奉行にわざわざ上申した町方役人も、根岸同様――無論、有り難い白い亀の奇瑞という表向きの無償の行為ではあろうが――しかし一方では先年、将軍家斉に白亀が差し上げられて金一両が賜わられた事実を耳にしていたからこそ、でもあろう。ぶら提げられて西丸奥向きまで空中を泳いでいる白い亀さんのアップが、これ、如何にも微笑ましい――カメの「豊松」君にはとんだ受難だけれども――。

・「文化十酉年七月」西暦一八一三年。「卷之十」の記載の推定下限は文化十一年六月。

・「本石町一丁目」岩波の長谷川氏注に、『中央区日本橋石町。西側が堀』とある。現在の日本銀行の東南部分に相当する。

・「悴淸五郞豐松」意味が通らない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『淸五郞悴豐松』。無論、これで訳した。

・「四十八錢」四十六文。いつも参考にさせて戴いている贋金両替商「京都・伏見 山城屋善五郎」の「江戸時代の諸物価(文化・文政期)」によれば、蕎麦(二八蕎麦)一杯が十六文で現在の四百円とすると、千二百円ほど。後に出る「一兩」は十万円相当である。

・「身延山」日蓮宗総本山久遠寺。日蓮の遺骨が祭られている日蓮宗の聖地。

・「南番所」南町奉行所。当月が当番であったのであろう。当時の奉行は無論、根岸自身である。

・「南番所へ訴出候。予携之登城なし」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版ではこの間)「南番所へ訴出候。」と「予携之登城なし」の間)に二字下げで亀のデータが列記されている。恣意的に正字化して示す。

   《引用開始》

  頭尾足手は常の如し。

  両眼共瞳二つあり。

  甲腹は全く白し。

   《引用終了》

このデータ、やや問題があるように思われる。

 まず一つは「頭尾足手は常の如し」として「甲腹は全く白し」ある点である。これは頭尾四肢については白くない通常の亀であるという叙述としか私には読めない。爬虫類の専門家や愛好家のサイト及び獣医のサイトを縦覧すると、甲羅や腹が白化する「シェルロット」という潰瘍(といっても真っ白ではなく画像で見る限りでは背部の甲片の中央部や腹部のつなぎ目が白くなっている)の甲羅腹部への全感染のケース、さらに本体が異常急成長すると甲羅の成長も通常より著しく早くなり(これは完全に病気である)、甲羅の内側繋ぎ目の部分が有意に白っぽくなるケースがあるようだ(これは但し致命的な病気というほどのものではないらしい)。この場合もそれか。せっかくお姫様に可愛がってもらってるのだもの、「豊松」のそれがやっぱりアルビノか、最後のそれであるか、ただ甲羅がたまたま白っぽく脱色してしまった至極健康な亀(事実、本文には「隨分壯健」ともあるからね)であって欲しい気が、私はするのである。

 次に「重瞳」である。これは直前の「四瞳小兒の事」に出る、多瞳孔症(または多瞳孔)或いは虹彩離断(毛様体への虹彩の付着によるその局部的な分離や剥離症状で「虹彩断裂」とも呼ぶ。Iridodialysis 或いは coredialysisに似たように見えるカメの正常な目を指しているのだと私は思う。「四瞳小兒の事」で私は、瞳が並んでいるのではなくて同心円状に重なって見えることを「重瞳」と言ったのではないか、という私の古い仮説を示したが、爬虫類の眼というのは瞳孔が縦長であったり、多様な模様があって目の中に縦に目があるように見えたり、或いは亀などの場合、まさに同心円状に見えたりと、まさしく「重瞳」的なのである。ああ、ますます「重瞳」の形状幻想のラビリンスが広がっていくではないか!……

・「御用番」用番。老中・若年寄が毎月一人ずつ交代で政務を執ったこと。月番。

・「松平伊豆守殿」三河吉田藩第四代藩主で、幕府老中・老中首座を務めた松平信明(のぶあきら 宝暦一三(一七六三)年~文化一四(一八一七)年)。老中在任は天明八(一七八八)年~享和三(一八〇三)年と、文化三(一八〇六)年~文化一四(一八一七)年。ウィキの「松平信明」によれば、『松平定信が寛政の改革をすすめるにあたって、定信とともに幕政に加わ』って改革を推進、寛政五(一七九三)年に『定信が老中を辞職すると、老中首座として幕政を主導し、寛政の遺老と呼ばれた。幕政主導の間は定信の改革方針を基本的に受け継ぎ』、『蝦夷地開拓などの北方問題を積極的に対処した』。寛政一一(一七九九)年に『東蝦夷地を松前藩から仮上知し、蝦夷地御用掛を置いて蝦夷地の開発を進めたが、財政負担が大きく』享和二(一八〇二)年に非開発の方針に転換、『蝦夷地奉行(後の箱館奉行)を設置した』。『しかし信明は自らの老中権力を強化しようとしたため、将軍の家斉やその実父の徳川治済と軋轢が生じ』、享和三(一八〇三)年に病気を理由に老中を辞職している。ところが、文化三(一八〇六)年四月二十六日に彼の後、老中首座となっていたこの「大垣侯」戸田氏教(うじのり)が老中在任のまま『死去したため、新たな老中首座には老中次席の牧野忠精がなった』。『しかし牧野や土井利厚、青山忠裕らは対外政策の経験が乏しく、戸田が首座の時に発生したニコライ・レザノフ来航における対外問題と緊張からこの難局を乗り切れるか疑問視され』たことから、文化三(一八〇六)年五月二十五日に信明は家斉から異例の老中首座への『復帰を許された。これは対外的な危機感を強めていた松平定信が縁戚に当たる牧野を説得し、また林述斎が家斉を説得して異例の復職がなされたとされている』。『ただし家斉は信明の権力集中を恐れて、勝手掛は牧野が担っている』とある。その後は種々の対外的緊張から防衛に意を砕き、経済・財政政策では『緊縮財政により健全財政を目指す松平定信時代の方針を継承していた』が、『蝦夷地開発など対外問題から支出が増大して赤字財政に転落』、文化一二(一八一五)年頃には『幕府財政は危機的状況となった。このため、有力町人からの御用金、農民に対する国役金、諸大名に対する御手伝普請の賦課により何とか乗り切っていたが、このため諸大名の幕府や信明に対する不満が高まったという』とある。かなりの権勢家であったことがよく分かる。

・「御同朋頭」。若年寄に属し、同朋(どうぼう:室町時代に発生した職掌で、将軍・大名に近侍し、雑務や諸芸能を司った僧体の者。室町時代には一般に阿弥(あみ)号を称し、一芸に秀でた者が多かった。江戸時代には幕府の役職の一つとなり、若年寄の支配下で大名の案内・着替えなどの雑事をつとめた。同朋衆。童坊。)及び表坊主(おもてぼうず:江戸城内での大名及び諸役人の給仕をした。)・奥坊主(おくぼうず:江戸城内の茶室を管理して将軍や大名・諸役人に茶の接待をした坊主。坊主衆の中では最も権威があった。)の監督を司った。

・「武州押上」以前に出た「本所押上」と同じであろう。現在の東京都墨田区本所の北端部に当たる押上地区(押上・業平・横川)は東京スカイツリーで知られる。

・「金壹兩自分番所にて申渡相渡」南町奉行所より、お上から下賜された一両を褒美として与えられたのは、この亀の現在の所有者である本石町惣右衛門店の林左衞門である。無論、彼が江戸っ子なら、拾った淸五郎の伜豊松へも幾たりかを分け与えたはずである。

・「香合」香を入れる蓋附きの容器。木地・漆器・陶磁器などがある。香箱。

・「大貫次右衞門」先行する「巻之十 奇體の事」に既出の代官。再掲すると、底本の鈴木氏注に、『光豊。天明三年(二十八歳)家督。廩米百俵。六年御勘定吟味方改役より御代官に転ず。文化六年武鑑に、武蔵下総相模郡代付、大貫次右衛門とある』と記す。ちゃり蔵氏のブログ「ちゃりさん脳ミソ漏れ漏れなんですが」のこちらに、大貫光豊(おおぬきみつとよ)と出、『代官・大貫次右衛門』、『代々、次右衛門を名乗る』とあって、天明六(一七八六)年に『勘定吟味方改役から越後水原陣屋の代官の後、関東郡代付代官・馬喰町詰代官を歴任し』、文政六(一八二三)年五月に勇退と記されてある(こちらの方の記載は佐藤雅美作「八州廻り 桑山十兵衛」の登場人物の解説である)。当時は関東郡代付代官であったものらしい。

・「甲の豎三寸斗、横二寸斗」甲羅の縦が九センチメートル、横が六センチメートルほど。

・「西丸御簾中」岩波の長谷川氏注に、世子で徳川家斉次男(同母兄長男の竹千代は早世)の後の第十二代将軍徳川家慶(いえよし 寛政五(一七九三)年~嘉永六(一八五三)年)の夫人で有栖川宮中務卿幟仁(ありすがわのみやなかつかさおりひと)親王王女喬子(たかこ 寛政七(一七九五)年~天保一一(一八四〇)年)。文化六(一八〇九)年降嫁とあるが、ウィキの「喬子女王」によると、幕府の希望により喬子女王は数え十歳で江戸へ下向、以後婚儀までの五年間を江戸城西ノ丸で過ごし、文化六年十二月一日に正式に家慶と婚姻したある。文化一〇年一〇月に長男竹千代、文化十二年に次女、文化十三年に三女を生んだが、孰れも夭折したとある(家慶の後は側室本寿院の産んだ家定が継いで第十三代将軍となった)。文化十一年当時はその長男を失った翌年で、いまだ満十八歳であった。

・「名を豐松と被下候」命名者は将軍家斉であろう。

・「內祕」ごく内々の内緒事。

・「□に右の通被下候と申儀」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『右之趣に被下候と申儀』で「□」は不詳。バークレー校版で訳した。 

 

■やぶちゃん現代語訳 

 

 白亀(しろがめ)の事

 

 文化十年酉年の七月のこと、本石町(ほんこくちょう)一丁目御堀際(ぎわ)にて、ここに図で示した通りの、かくなる白き亀を、同本石町一丁目の惣右衛門店(たな)の清五郎伜(せがれ)豊松と申す子どもが拾い獲り、甲羅の片端(かたはし)へ穴を開け、そこに凧糸のようなものを通して、ぶら提げて歩いて御座ったところを、同じ惣右衛門店(たな)の林左衛門なる町人が見かけ、たいそう珍しい亀であったによって、銭(ぜに)四十八文(もん)を与え、豊松より貰い受け、林左衛門、

「――珍らしき物なればこそ、我ら信心致いておりまする身延山へ納めとぅ存じまする。……」

との旨、町方の役人へ、これまた、その亀をぶら提げて申し出て参ったによって、これまた、町方の役人も、白き亀を見るなり、

「……これはまた! 珍らしきものなれば。……」

とて、南町奉行へ、これまた、その亀をぶら提げて、取り敢えずはと、訴え出でて参った。

 さてもそこで私は、その後、これまた、その亀をぶら提げて登城致し、七月十三日のこと、その折り、御用番であられた松平伊豆守信明様へ申し上げ、これまた、その亀を恭しくぶら提げ奉り、

「……さてもこの亀、上様のお目にかくるべきものにては御座いましょうや?」

と、申し上げたところ、

「――宜しく、お目見え申し上ぐるように。」

との御沙汰であったによって、直ちに御同朋頭(ごどうほうがしら)へ参らせて、以ってお目見え申し上げたところ、続いて奧方へと相い廻り申し上ぐることと相い成り、翌々日に相いお伺い申し上げたところが――城内にお留(とど)おかるることと相いなった――との由にて御座った。

 さてもそこで、同七月十七日こと、私より松平伊豆守様へ、

「――先年、武州押上(おしあげ)村百姓より――至って小さき――白亀(しろがめ)を差し上(あげ)ましたる折りには、金一両を下賜なされた例(ためし)も御座いまするが……」

といった旨、申し上げたところが、直ちに金一両、私が方へと送付されて参ったによって、南町奉行所にて、かの林左衛門へかくかくの仕儀と相い成ったる由下知致いて、その一両を相い渡し終えた――もっとも、かの押上村の亀の件と申すは、これ先年、私も実物を実見致いて御座るが、香合(こうごう)へ入れてあり、冬のことなれば綿へも載せ置かれた、如何にも小さな亀にして、御代官大貫次右衞門殿より差し出され、御勘定奉行より申し上ぐるという経緯を辿って、かくの如く、処理なされたものではあった――。

 それに対し、このたびの白亀は、甲の縦は三寸ばかりもあり、横も二寸ほどはあって、随分、壮健なる様子にては御座った。

 但し、この亀はお上ではなく、西丸御簾中(にしのまるごれんちゅう)喬子(たかこ)様へ進ぜられて、名を――豊松――と、お下しになられて御座った由。

 これはおって、ごく内密の内輪話として承ったことではある。

 が、私は、拾ったる町の童(わらべ)も――豊松――と申して御座ったことは、その名前なんど、これ、上申に不要のことなれば、一向、申し上げず御座ったにも拘わらず、何と、全く同じく――豊松――と名づけ遊ばされたと申す儀、これ、まっこと、摩訶不思議なることなれば、孰れ、目出たき吉祥(きっしょう)ならんと、お歓び申し上げ奉って御座った。

 

耳嚢 巻之十 大蛇巖石に打れし事

 大蛇巖石に打れし事

 

 文化十酉年、日光山御修復にて、御勘定方抔大勢參り居(をり)しが、御勘定御吟味役の支配より申越(まうしこそ)候由にて、岸氏咄しに、日光霧降(きりふり)にて、〔右霧降といふは大瀧有(あり)て中段の石に當り霧に成る〕世にうはゞみといへる餘程の蛇、其巣を出るとて上より大石落ちて頭を微塵に打(うた)れ、右蛇頭を出し候處へ巖石落懸(おちかか)り其(その)死をなす事、天誅か天災か、いづれかゝる事も、蛇にかぎらずあるべき事也と、何れも歎息の思ひを語り合(あひ)し也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。因みに、根岸は安永五(一七七六)年から天明四(一七八四)年の勘定吟味役在任時、日光東照宮の修復のために現地に在住したことがあるから、この霧降の瀧は現認しているはずである。

・「文化十酉年」西暦一八一三年。「卷之十」の記載の推定下限は文化十一年六月。

・「岸氏」諸本注なく、不詳。

・「霧降」霧降の滝。栃木県日光市の利根川水系の板穴川の支流霧降川にある滝。上下二段に分れており、上滝は二十五メートル、下滝は二十六メートルで、全長は七十五メートル、頂上部の幅は約三メートルであるが、下部では約十五メートルにも広がっている。途中が岸壁に当たって段になっており、飛び散る水飛沫(しぶ)きが霧のかかったように煙って見えることが名の由来とされる。華厳滝・裏見滝とともに日光三名瀑の一つ(以上はウィキの「霧降の滝に拠った)。

・「うわばみ」巨大な蛇の俗称。大蛇。おろち。うわばみは、十五世紀頃からその使用が見られ、古代語の「をろち(おろち)」に代わって用いられるようになったと思われる語である。うわばみの「うわ」は「上回る」「上手」などと同様の「うわ」とする説と、「大(おほ・うは)」が転じたとする説があり、「ばみ(はみ)」は、食物を食べたり噛んだりする意の「食(は)む」の連用形から転じたとする説、蛇の古形「へみ」から転じたとする説、マムシを指す古語である「はみ」から転じたとする説などあるが、ヘビの古形「へみ」やマムシの古語「はみ」の語源が「食む」なので、どれが正しいというわけではなく、同源と考えるべきであろう、とネット上の語源由来辞典」にある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 大蛇が大岩石に打ち潰された事

 

 文化十年酉年のこと、日光山東照宮御修復のあって、御勘定方(おかんじょうかた)などが大勢参って御座ったが、御勘定御吟味役の支配方(がた)よりある報告の御座った由にて、それを受けた岸氏の話によれば、

「日光は霧降(きりふり)に於いて――この「霧降」と申すところには大瀧の御座って、中段の石に瀧水の当たってそれが霧となるところから、かく申すとのこと――世に「蟒蛇(うわばみ)」と称するようなよほどの大蛇が、その瀧の直近に巣を作って御座った。ところが、近頃のこと、この蟒蛇が巣を出でたちょうどその瞬間、上より大石の落ちて、その頭をこなごなにうち砕き、その蛇が頭を出だいた巣の入り口の場所へも巨石の激しく落ち懸り、蛇体、これ、完全にぺしゃんこに相い成って、かの蟒蛇、死に絶えた、とのことで御座った。……さてもこれは――天誅で御座るか――はたまた、ただ偶然のなす天災で御座ったものか――孰れこれ、こうした摩訶不思議なること、邪悪なる蛇に限らず、あるべきことなのでは、これ、御座いましょう。……」

と、孰れの方々も、これを聴き、歎息の思いをなしてしみじみ語り合(お)うて御座った。

耳囊 卷之十 四瞳小兒の事

 

 四瞳小兒の事 

 

 文化十酉年三歲に成る由、尾陽賤(いやし)きもの、四瞳(しどう)の小兒を産(うみ)しに付(つき)、尾州公の儒臣家田多門作文を人の見せける故、記(しるす)。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。以下、まず、返り点と句読点のみの訓点が振られた底本原文を示す。その後に私のこの漢文体を訓読したものを示す。]

古有重瞳子者、大舜及項籍、此書傳所載焉。我方豐臣秀吉亦重瞳子云。此佗則未曾聞。今玆辛未歲、予在國黌明倫堂。一士來語云、濃州加納之野民、有瞳子兒。頃日同僚士見焉。具語其狀。時加納書生、有學于予、而堂中官舍。乃召問之。對曰、信也、今年當三歲、寡君客歳召見之、兩眼皆四瞳子、眼中盻而黑白鮮也。其兒不敢憚一レ人、毎其見一レ人、其父母敎之拜。然於如農賈則不肯拜焉。苟見士人則乃拜之。且不好弄物、特欲刀。居恒飮食乃行歩、不於人而、欲於人。寡君賜之俸、而令其父母敬育之。此兒成而其如何人也、我欲其成 

 

□報告書箇所のやぶちゃんの書き下し文

[やぶちゃん注:底本の訓点及び岩波版の長谷川氏の訓点(送り仮名とごく一部の読みがある)を参考にしつつ、私が訓読したものを示す。読み易くするためにシチュエーションごとに改行した。孰れの訓点にも従わなかった箇所もあるので、全くのオリジナルとお考え戴きたい。誤字と思われるものは【 】で正字を示した。最後の一文は筆者の感想と判断した。]

 

 古へ、重瞳子(ちやうどうし)有る者、大舜(だいしゆん)及び項籍(こうせき)、此れ、書の傳へ載せし所なり。我が方には、豐臣秀吉、亦、重瞳子と云ふ。此の佗(ほか)、則ち未だ曾つて聞かず。

 今玆(きんじ)の辛未(かのとひつじ)の歲(とし)、予、國黌(こくくわう)明倫堂(めいりんだう)に在り。一士、來り語りて云はく、

「濃州加納の野民(やみん)に、瞳子(どうし)の兒(じ)有り。頃日(けいじつ)、同僚の士、焉(これ)を見たり。」

と。具さに其の狀を語る。時に加納書生、

「予に從學(じふがく)する者有り、堂中にて官舍す。乃ち、召して之に問ふ。對して曰はく、

『信なり。今年三歲に當り、寡君(かくん)、客歳(かくさい)召して之を見るに、兩眼、皆、四瞳子(しどうし)、眼中、盻【盼(へん)】にして黑白(こくびやく)鮮かなり。其の兒、敢へて人を憚らず、其れ、人を見る每(ごと)に、其の父母、之を拜せしむ。然して農賈(のうこ)のごときは則ち拜を肯(うけが)はず。苟(いや)しくも士人を見れば、則乃(すなは)ち之を拜す。且つ弄物(らうぶつ)を好まず、特に刀を佩かんと欲す。居恒(つねづね)、飮食乃び行歩(ぎやうほ)、人に後(おく)るるを欲せずして、人に先んずるを欲せんとす。寡君、之れに俸(ほう)を賜ひて、其の父母をして之を敬育せしむ。』

と。

 此の兒、成(せい)して其れ、如何(いかなる)人となるや、我れ、其の成せるを觀んことを欲す。 

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。奇形譚。尾張藩絡みの出来事が、ここのところ多いのは、話者が同一であるからか。実録で資料も添えられてある。ただ、この報告書、よぅく読むと、その児童に直接逢った人物の直談が記されているのではないようにも読める(こういうボカシは都市伝説特有のものである)。その辺り、眉に唾しておく必要があるようにも思われる。

・「四瞳」瞳が四つあるということ。これは両眼合わせて四つで、それぞれの眼は重瞳ということを言っていると読む(報告書の叙述はほぼ「重瞳」で一貫していて「重瞳」どころかその倍の「四瞳」をそれぞれの眼球に持っていると一箇所もなっていない点、唯一の「兩眼皆四瞳子」は「両眼を合わせて確かに四つの瞳を持つ重瞳」と読んでしっくりくる点、万が一にも一つの眼に瞳が四つあるとしたら描写の叙述がその四つが例えば骰子の目のように配されているといった表現となるはずなのにそれが見られない点などより)。ウィキの「重瞳」によれば、この異様な奇形については特に『中国の貴人の身体的特徴として表現されることが多い。たとえば、伝説上の聖王である舜は重瞳だったという。また、資治通鑑などの史書によれば、項羽も重瞳だったという』。『明らかな異相であるが、王の権威付けのためか、特に古代中国の王には重瞳にかぎらず、常人とは異なった身体的特徴をしていることが多い。たとえば、文王は四乳といって乳首が四つあったといわれ、禹は三漏といって耳の穴が三つあったという伝承が残っている』。『日本においても重瞳は貴人の相と考えられ、豊臣秀吉、平清盛などが重瞳だったという伝承がある』。『もっとも、これについての信憑性はきわめて薄く、まともに論じられることはめったにない。物語においては、壇ノ浦夜合戦記で源義経、幸田露伴の』「蒲生氏郷」『で秀吉が重瞳だったという設定になっていたりもする』。『海音寺潮五郎は、水戸光圀、由井正雪などについても重瞳であったという説を紹介した上、「ひとみが重なっている目がある道理はない。おそらく黒目が黄みを帯びた薄い茶色であるために中心にある眸子がくっきりときわだち、あたかもひとみが重なっている感じに見える目を言うのであろう」と論じている』(以下に述べる私の若い頃の仮説と同じである)。『また、中国の文学者であり歴史家でもある郭沫若は、「項羽の自殺」という歴史短編で、重瞳とは「やぶにらみ」のことであろうと言っている』(郭沫若好きの私は、これも結構、説得力があるという気がしている)。

 この真正の瞳が二つある症状は医学的には多瞳孔症(または多瞳孔)と称されるものであるらしいが、実際に白目の中に瞳が別々に二つあったとすると複視が発生して歩行どころか対象を見ることも困難なのではあるまいかとも思われる(後で述べるが脳内処理で正常なものに補正される可能性もあるか)。とすると、あり得るとすれば、これは虹彩離断(毛様体への虹彩の付着によるその局部的な分離や剥離症状で「虹彩断裂」とも呼ぶ。Iridodialysis 或いは coredialysis)で、一つの瞳孔の中に虹彩とは別な虹彩のような円(瞳)状の分離・剥離が発生していて、あたかも瞳孔が二つあるように見えるということか(ウィキの「虹彩離断」及び正式な眼科医のサイトを参照されたいが、これは実際に先天的にも後天的にも発生するようである。但し、この子はまだ満二歳で両目がそうなっているというのであるから先天的なものであろう。なお、複視がどの程度に発生するのかは調べて見たがよく分からないが、手術を必要とする場合があるとあり、これは、そうでない、複視が生じないか殆どない手術を必要としないケースもあるように読み取れる)。この児童は普通に対象が見えているように思われ、普通に歩行しているようだし、観察者は両目ともに白目と黒目がはっきりと分かれている重瞳であると記しているから、一つの可能性としては複視を伴わない先天性の虹彩離断と考えるのが妥当か? ただ私は実は、項羽の「重瞳」を教師時代に解説した際には、先に述べた通り、黒板に絵を描き、瞳が二つ並んだ重瞳では複視が起ってまともに物は見えないだろう、とすると、これは瞳孔が黒々としているが、その周囲の虹彩が同心円状に有意に色の異なった明るい色(しかし白目との境界線はくっきりとしている)を持っていて、二つのディスクが重なっているように見えるだけなのではないかと説明していた。それは、一つの眼球に瞳が並列(平行)して二つある「重瞳」という眼球の奇形が本当にあるのかどうかということをやや疑っているからではある。都市伝説的な白目の中に二つの丸い瞳孔の画像は検索をかけると確かに出るには出るのだが、どれも画像処理がなされた嘘臭いものとしか見えず、眼科医のサイトなどには見当たらない。ただ、その検索を続けると実は、素人の書き込みながら、実際に知人に多瞳孔症の人がいて、これは結構多いのだと言いながら、病名の後に括弧で虹彩離断と虹彩異色症(「症」と言えるかどうか疑問)の合併のような表記をしているのを発見したから、やはり私は今はこの、先天性の虹彩離断を「重瞳」と称しているのではないかという説の可能性も視野に入れるべきであるとは思っている。ただ、ねっとの書き込みに「三つ目」という不思議な投稿記事をも見つけた。但し、これもその叙述には、これ所謂、そこはかとない都市伝説的な口調が感じられるのではあるが、その質問に答えている人々は彼の告白を信じている様子が窺われる。この真正の多瞳孔症(実際にそのような病態を見たことも聴いたこともないのであるが、多瞳孔症の先天性奇形はあり得ないとは断言出来ない気はする。その場合、一方が機能していないか或いは複視を修正して正しく見えるように脳内に於いて処理されていると考えれば問題ない。そうした処理は脳の作業にあってはお手の物である)……さて? あるのか? ないのか?……そのうち、眼科医の古い教え子に逢ったら聴いてみようとは思ってはいる。その時はまたここに注を追加する。

・「文化十酉年三歲」「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月。

・「尾州公」当時の藩主は文化一〇(一八一三)年八月までは第十代藩主徳川斉朝(なりとも 寛政五(一七九三)年~嘉永三(一八五〇)年:第十一代将軍徳川家斉の弟で一橋家嫡子だった徳川治国の長男)である(彼はこの文化十年八月十五日に家督を家斉の十九男斉温(なりはる)に譲って三十五歳の若さで隠居、以後、名古屋で二十三年間に亙る隠居生活に入った。但し、次代の藩主斉温が一度も尾張入りしなかったため(彼は病弱を理由に江戸藩邸に常住、襲封後、嘉永三(一八五〇)年に二十一の若さで死去するまでの十二年間、第十一代尾張藩主でありながら、何と一度も尾張藩領内に入らなかった)、その後も「大殿」として隠然たる力を持ったとされる。以上はウィキの「徳川斉朝」及び「徳川斉温」に拠った)。最後に俸を賜うところなど、明らかに斉朝らしい感じはするが、しかし、実はこの最後に登場するのは「尾州公」ではあり得ないのである。後注「濃州加納」を参照されたい。

・「家田多門」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『塚田多門』で、この人物なら実在する(岩波の長谷川氏注は藩校『明倫堂督学』(「督学」は学事監督職で現在の校長である。明倫堂は後注参照)とする)。「長野県デジタルアーカイブ推進事業」に県立長野図書館蔵「儒者塚田多門申上書」が読めるが、その解説によれば、塚田多門(大峰)(延享二(一七四五)年~天保三(一八三二)年)は儒者で医師の塚田旭嶺四男として善光寺町桜小路(現在の長野市桜枝町(さくらえちょう))で生まれ、十六歳で江戸に出て苦学を重ね、天明元(一七八一)年尾張藩儒細井平洲に認められて尾張藩の藩侯侍読となり、やがて江戸に家塾を開いたとある。リンクで視認出来る文書は、寛政二(一七九〇)年に老中松平定信が寛政改革の一端として寛政異学の禁を発令、林家の湯島聖堂を官学(昌平坂学問所)とし、朱子学を正学とするもので、それに反対する意見書である。其の大意は、「人は其の気質の近き所によりて各好む所同じからざることに御座候えば、また、弓馬劍槍の術も人々の好みに任せて修行仕る事に御座候えば、學問も本流の流れに御座なく共、人々の好みに任せて修行致させ度ものと存知奉り候」という至極真っ当なものである。これは例外的に正しい「塚田」に直す。それによって本内容の信憑性が遙かに増すからである。但し、これが徹頭徹尾デッチアゲの都市伝説であったとすれば、無論、塚田がその発信源なのではない。恐らく寧ろ彼は信憑性を高める目的で体(てい)よく騙され利用された口である。

・「大舜」中国古代の五帝(「史記」では黄帝・顓頊(せんぎょく))・帝嚳(こく)・尭(ぎょう)・舜)の一人舜の敬称。

・「項籍」秦末の、劉邦(沛公・後の漢の高祖)と覇権を争った楚の武将の項羽の本名。私は高校二年生の蟹谷徹先生の漢文の授業で「史記」の「項羽本紀」を習い、そこで初めて「重瞳」という言葉や様態を知った。思えば、四十年も前のこの語との出逢いだった。

・「豐臣秀吉亦重瞳子」先に引いたウィキの「重瞳」を参照。

・「佗」他。它・侘(この「佗」の誤用慣用)なども「ほか」と読む。

・「辛未の歲」文化八(一八一一)年。

・「明倫堂」尾張藩藩校。ウィキの「明倫堂」によれば、寛延二(一七四九)年創立。天明二(一七八二)年に徳川宗睦(むねちか/むねよし)が再興し、天明三(一七八三)年に開校。細井平洲が初代督学(校長)となり、岡田新川・石川香山・冢田大峯(本資料の筆者と同一人物)・細野要斎ら儒学者が後を継いだ。藩士の子弟だけでなく、農民や町人にも儒学や国学を教え、初期の生徒数は約五十名であったが、後には約五百名まで増加していった。天明五(一七八五)年に聖堂が設けられ、天明七(一七八七)年から復刻を行った「群書治要」などの漢籍は「明倫堂版」と呼ばれ、木活字版が多い。明治四(一八七一)年に廃校となったが、明治三二(一八九九)年に明倫中学校として復活、愛知県立明和高等学校として現在に至っている。なお、リンク先を見ると分かるように「明倫堂」と称する藩校は実際には複数の藩(リンク先には八つ挙げられてある)に同名で存在した。

・「濃州加納」岩波の長谷川氏注に『岐阜市』とあるが、現在の岐阜県岐阜市は美濃国厚見郡加納で加納藩領である。この当時の藩主は第四代藩主永井尚佐(なおすけ 天明三(一七八三)年~天保一〇(一八三九)年)である。ネットで確認すると、加納藩領には下加納村と上加納村が含まれていることが分かる。ということは、加納藩領でない(上で下でもないところの)尾張藩の飛地としての「加納」という村が存在したのであろうか? どうもおかしい。なお、さらに調べて見ると、美濃国ではなく尾張国であるが、現在の岐阜市の南東五キロほどの位置にある丹波郡に加納馬場村(無論、旧尾張藩領)という地名を見出せた(水野日向守氏サイト「水野日向守本陣」内「愛知県地名変遷」の「丹波郡」参照。)。問題は冒頭で根岸が「尾陽」「の小兒」としている点なのであるが、これは齎された文書が尾張藩の塚田の書いたものであったことに起因するミスと考えれば納得が行く。そうすると、後に注する「寡君」の表現も納得が行く。則ち、彼は加納藩の書生であるから、尾張藩の塚田に対しては主君を「寡君」と使うのである(後の「寡君」の注を参照のこと)。ただ、加納藩の若者が尾張藩の藩校に入校して寄宿舎で修学するというのは可能なことだったのかのかどうかは分からない(何となく、出来そうな気はする)。ともかくも識者の御教授を乞うものではある。

・「盻【盼(へん)】」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『肦』で、長谷川氏の注に、『盼。ハン・ヘン。眼の黒白がはっきりしていること』とあるのに依って訂した。「盻」は音「ゲ・ゲイ」で睨むの意、「盼」は音「フン・ブン・ハン」で高い・分けるの意であるが、これらではぴんとこない。「盼」は大修館書店「廣漢和辭典」によれば、音「ハン・ヘン」で、①目の黒白がはっきりしていて美しい。②目使う。美しい目を動かす。③見る。かえりみる。/音「ハン」で美しい目とある。①を採る。……それにしても、どうもこのあたりがピンとこないのだ。◎◎――瞳が二つ、一方の瞳◎の他に、それにくっついてか離れてか左右或いは上下に並んでか、もう一つ瞳が◎がある――というのなら、もう少し表現の仕方、書きようがあろうと思うのだ。寧ろ、そう考えると、またぞろ、私の古い印象である瞳は一つで、◎のようにディスクが二枚くっきりと重なって見えているのではあるまいか? という方にまたまた、私は傾いてしまうのである。

・「農賈」「のうか」とも読める。農家(のうか)と賈家(こけ:商家。)で、百姓と商人(あきんど)のこと。

・「居恒(つねづね)」これは岩波の長谷川氏のルビをそのまま用いさせて戴いた。

・「寡君」前に出た「寡徳の君」(徳の少ないことを言い、通常は自己を卑下して言う)の意で、諸侯の臣下が他国の人に対して自分の主君を自分の側として遜っていう形式上の謙遜語である。とすれば、この重瞳の児童の居る場所が加納藩であるなら、それに「俸」(教育費)を与えた「寡君」というのはここでは加納藩藩士の直接話法であるから、尾張藩主徳川斉朝ではなく、加納藩藩主永井尚佐を指しているということになるのである。

 

■やぶちゃん現代語訳 

 

 四瞳(しどう)の小児の事 

 

 文化十年酉年で三歳になる児童の由。

 尾張藩内のごく身分の低い農民で、両目合わせて、これ、四つの瞳(ひとみ)を持った小児を出生(しゅっしょう)したという珍事につき、尾州公の儒臣(じゅしん)である塚田多門(つかだたもん)殿の作成された文書を、人が見せて呉れたので、ここに記しおくこととする。

   《当該文書引用開始》

 古え、重瞳子(ちょうどうし)これ有る者は、大舜(だいしゅん)及び項籍(こうせき)と、幾多の書の伝え載せているところではある。

 本邦にては豊臣秀吉もまた、重瞳子であった、とは言う。

 しかし、この外にはこれ、いまだ曾て聞いたことはない。

 ところが、今年辛未(かのとひつじ)の年、私、國黌(こっこう)明倫堂(めいりんどう)にあったが、一人の尾張藩士の来たって語って曰く、

「濃州加納の賤しい民の子に、重瞳の子の児(こ)が御座います。つい最近、同僚の武士が、これを目の当たりに見て参りました。」

と、具さにその報告を齎(もたら)したのであるが、まさにその折り、その加納村の出である一書生が私の内弟子として現にあり、学舎の中にて先方の藩方より官費を以って寄宿成し、修学していた。そこで、その者を召し出し、これにその真偽について質してみた。

 するとその際の直談にて申したことに、

「……それは確かなことにて御座います。その児童はこれ、今年で三歳になる者にて御座います。

 昨年のことで御座いますが、我が加納藩主君、この者を召し出だし、特に親しく対面(たいめ)なされましたところ、両目ともに合わせて四つの瞳を有しており、眼中はこれ、黒目と白目とが実にくっきりと鮮かに分かれていることは、主君自ら、お認めになられて御座います。

 さてもその子は、これ、特に人を憚るということが御座いませぬ。

 この子どもは、人と対面致しますごとに、その父母が、この子に挨拶をするよう、命じまする。

 ところが――いまだ頑是ない三歳の子で御座いますが――百姓や商人(あきんど)には、これ、いっかな、挨拶をしようと致しませぬ。

 ところが、いやしくもこれ、相手が武士と見るや、直ちに深々と拝礼致すので御座います。

 かつまた、この子、一向、玩具に興味を示さず、寧ろ、いや殊更に、刀を佩(は)かんと欲するので御座います。

 三歳ながら、日々の飲食乃び行動に於いても、これ何より、人に後(おく)るることを厭(いと)い、如何なる場合もこれ、誰(たれ)よりも先んずることを第一に欲するので御座います。

 さればこそ、我らが主君も、これに俸(ほう)を賜わられ、その父母に十全なる教育を施すよう、これ、命じておられまする。」

とのことであった。

――さても、この児童であるが、恙なく成人したとして、これ、一体、如何なる人物と成るのであろうか?

――ともかくも私は、その児の成人となったる姿をこれ、是非とも見たいと思うのである。

   《当該文書引用終了》

初めてのヨットにてベイ・ブリッジの下を行く

昨日は友人のヨットで人生初ヨットを体験。
妻もビームに荷物のようにぶら下げて乗船。
根岸のヨット・ハーバーからベイ・ブリッジの下をパシフィコ横浜の裏手にあるぷかり桟橋まで往復。
舵も執らせてもらって、実に楽しかった。

2015/03/27

耳嚢 巻之十 奇石の事

 奇石の事

 

 □□と云(いへ)る人の知行より掘出(ほりいだ)せしとて、石を持來(もちきた)りしが、壹寸七八分の石にて、能(よ)く土をあらひ落(おと)し見るに、象に乘りし普賢の像と、自然に見へし故(下缺)

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。一つ前とは奇体な発掘シリーズで連関。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「故」がなく、そこで終わっている。ただ、根岸の記載としてはそこで終わらせるのは――根岸的では、これ、ない。――九百七十章も付き合ってきた私にはそれが分かると断言しよう。――これは確かに続きがあったものかとまずは思われる。しかし何かの理由で破棄したか、馬鹿馬鹿しくなってそこを後で廃棄してしまったのかも知れない。ともかくも……あとのこと知りたや……

・「□□」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『何某』。それで採る。

・「壹寸七八分の」五・一五~五・四五センチメートル。

・「象に乘りし普賢の像」独尊としての普賢菩薩像は蓮華座を乗せた六牙の白象に結跏趺坐して合掌する姿で描かれるのが一般的である。釈迦の法(実践的理性)をシンボライズする菩薩で、同じく釈迦の広大無辺な智慧を象徴する文殊菩薩と並んで釈迦三尊像の二脇侍として知られる。因みに三尊では普賢菩薩は右脇侍(向かって左)である。

・「自然に見へし」これは彫られたものではなく、石の紋脈がそのように見えた(と称した)、所謂、シミュラクラ現象(Simulacra)であったか? さればこそ、実物を見た根岸が、「いくらなんでも、これは象と普賢には見えねえぞ!……と思って書き継ぐのをやめた、という仮定も成り立つかも。いわば、ちょっと――いっちゃてる人が――所謂、関係妄想的シミュラクラに憑りつかれ人が――「根岸殿ッツ! ほれ! ここに象が! ここに普賢菩薩が! 見えましょうほどにッツ! 見えぬ? 見えぬ訳がないッツ! ほれ! ここ! ここッツ!……」とか? 「石」が「奇」だったのではなく話者が「奇」であり「鬼」であって、その後に乱心でもして命を絶ったりしたから、根岸殿、気味(きび)悪くなって続きを書くのをやめた。やめたらやめたで、ちょっとそれが意味深長で面白く見えたってえのは、どうよ? 私は小泉八雲の「茶碗の中」(原話は「新著聞集」巻五第十奇怪篇「茶店の水碗若年の面を現す」)を思い出したりした(あの主人公も現実的な解釈をするならば、一種の精神疾患による幻覚幻視の可能性が高く、結末はないが、如何にも乱心で自滅しそうではないか)。ただ訳すのではつまらない。そこでそれでやらかした。悪しからず!

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 奇妙な石の事

 

 何某(なにがし)殿――一度は名を記したが、そのお方自身の身にやや問題があるようにも思われたので、ここでは敢えて名は伏せおくことと致す――の知行地より掘り出されたるものとのことで、その御方御自身、その石を持って来られたのであるが、

――大きさは一寸七、八分ほどの小石

であった。

「……拙者、これ、何か、握った途端、ブルブルッツ! ビビビッッツ! ときて御座ったッツ!……何かあるッツ! と、の!……そこで、これ、江戸表まで、大事大事に握り締めたまま持ち帰りまして、の! ずっと! 握り締めて御座ったによって飯も食わず御座ったじゃッツ!……今朝、帰りつくや、これ、よぅく、土を洗い落としてみましたじゃ。……すると!!――ほれッ!!……ここのところじゃッツ!!……よぅ見て御座しゃれッツ!!……象に乗ったる!……普賢の像!――これ! 自ずと見えておりましょうガッ!!!…………!!!…………

耳嚢 巻之十 蚊の呪の事

 蚊の呪の事

 

 五月節句に棗(なつめ)を焚(たき)候得ば、蚊不出(いでざる)事奇妙の由。或人之を傳授なして焚しに、軒端にむれても其家へ不入(いらざる)由。去年焚しが、今年は蚊甚だ少き事奇々妙々なりと、人の語りける也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。生活小百科的呪(まじな)いシリーズ。注意したいのは実際に燻すのではなく、五月五日の端午の節句に焚くことで時には二年(ふたとせ)分の夏の蚊を忌避させる効果があるというのである。

・「五月節句」端午の節句は新暦の五月二十七日頃から六月二十五日頃に相当する。

・「棗」クロウメモドキ目クロウメモドキ科ナツメ Ziziphus jujuba 。乾燥させた実ならそう記載するように思われるから、これは木の柄葉を焚くか? 因みに、漢方では「大棗(たいそう)」、種子は「酸棗仁(さんそうにん)」と称する生薬で、強壮・鎮静作用があるとされるが、蚊の忌避効果についてはネット検索には掛からない。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 蚊の呪(まじな)いの事

 

 五月の節句に棗(なつめ)を焚くと、その年の夏はこれ、蚊が家屋の内には出でずなること、これ、奇々妙々の由。

 ある人、これを人から伝授されたによって、去年の端午の節句の当日、棗を焙烙(ほうろく)に載せて家内の各所にてぼんぼんと焚いたところが、その夏はこれ、軒端に蚊の群るることはあっても、決して家の内部にへは不思議に入ってこなんだ、とのこと。

――しかも!……

「……それは去年のことで御座っての。……今年はこれ、焚き忘れて御座った。……されど……それでも今年も、蚊、これ、明らかに少のぅ御座る。……これ、まっこと、奇々妙々で御座ろう!?」

と、その御仁の語って御座った。

耳嚢 巻之十 佛像を不思議に得たる事

 佛像を不思議に得たる事

 

 淺草邊に住(すめ)る御旗本の健士(けんし)、樂術の師抔しけるが、獵を好み網を淺草川に打(うち)しに、右網に灰切の如きもの懸りしを、何ならんと取上見しに、釋迦の像なれば持歸(もちかへ)りて淸めなどせしに、いかにも古びたる品ながら、面目(めんもく)のかたは慥(たしか)にわかり、背はしやれて有(あり)しを、木村孫八と云(いへ)る健士は石川氏の弟なるが、其實母に與(あたへ)んと、若(もし)いらずばと乞(こひ)しに、いとやすき事なりとて與へしを、石川の母に贈りしに、殊外(ことのほか)悦び尊崇して圖笥なども二重に出來て殊外尊信ありしが、右佛像功者成(なる)者に見せしに、殊外古き物にて和物(わもの)にあるまじ、誠の赤栴檀(しやくせんだん)と思ふよし、いかにも其香氣一(ひと)かたならず、此程は右を見るとて客來(きやくらい)多しと石川語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:土中から魚を掘り出したかと思ったら、魚の住む水中から舶来の釈迦の像が出現でよく繋がっている。

・「淺草川」岩波の長谷川氏注に、『隅田川の浅草辺の称』とある。

・「樂術」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『柔術』。それで採る。

・「灰切」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『炭切』(長谷川氏は「すみきれ」とルビ)。切り炭のこと。それで採る。

・「しやれて」「しやれ」は自動詞ラ行下二段活用動詞下「しやる(しゃる)」(口語ではラ行下一段活用「しゃれる」)の連用形。「しやる」は「曝(しや)る」「晒(しや)る」で、これ自体も「曝(され)る」が変化したもので、長い間、日光や風雨・水などに曝されて色や形が変わること、晒されて白っぽくなることを言う。

・「石川氏」突然出るので戸惑うが、話者。

・「圖笥」底本には右に『(厨子カ)』と推定訂正がある。

・「赤栴檀」「大辞泉」には、檀香(香木の栴檀・白檀・紫檀などの総称)の一種で木肌の色が赤みを帯びている。白檀の芯材を言うこともあり、中国では沈香(じんこう)を指すこともあった、とある。しかし、このシャクセンダンの学名が分からぬ。ビャクダン目ビャクダン科ビャクダン属ビャクダン Santalum album と同一か、その亜種のようにも思われる。「沈香」が正しくは沈水香木(じんすいこうぼく)で代表的な香木の一つ。東南アジアに生息するジンチョウゲ科ジンコウ属アクイラリア・アガローチャ Aquilaria agallocha などの沈香木類などが風雨や病気・害虫などによって自分の木部を侵された際、その防御策としてダメージを受けた部分の内部に樹脂を分泌、その蓄積したものを、採取して乾燥させ、木部を削り取ったものを言う。名は、原木そのものは比重が〇・四と非常に軽いものの、樹脂が沈着することで比重が著しく増加し、水に沈むようになることから。幹・花・葉ともに無香であるが、熱することで独特の芳香を放ち、同じ木から採取したものであっても微妙に香りが違うために、わずかな違いを利き分ける香道において、組香での利用に適している。沈香は香りの種類、産地などを手がかりとして、いくつかの種類に分類される。その中で特に質の良いものは伽羅(きゃら)と呼ばれた(以上の「沈香」の記述はウィキの「沈香」に拠った)。但し、この釈迦像はそのままの状態で香っているから、この沈香製ではないようだ。なお、本邦の「栴檀」はムクロジ目センダン科センダン属センダン Melia azedarach とは全く別種であるので注意が必要。「栴檀は双葉より芳し」の「栴檀」もこのムクロジ目センダン科センダン属のセンダン Melia azedarach ではなく、このビャクダン目ビャクダン科ビャクダン属のビャクダン Santalum album であるので注意。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 仏像を不思議に得た事

 

 浅草辺りに住まいする御旗本の家士、これ、柔術(じゅうじゅつ)の師範などをもなしておったが、川漁をも好んで御座ったと申す。

 ある日のこと、網を浅草川で打っておったところ、その網に切り炭(ずみ)のようなものが懸ったによって、

「……はて。何じゃ?」

と、網より取り外してよぅ見たところが、これ、

――釈迦の木像

にて御座ったと申す。

 されば、屋敷へ持ち帰って、洗い清めなど致いたところ、背は水の中にあったによって、すっかり色褪せて御座ったものの、如何にも古びたる品ながら、顔形(かおかたち)目鼻の方(かた)、これ、たしかに判別出来たと申す。

 さてここに、その御仁の柔術のお弟子としておられた同じき家士の一人に、これ、木村孫八と申す――実は本話の話者であらるる石川氏の弟なるよし――者の御座って、その実母がこれ、仏道に深く帰依なし、日頃よりお釈迦さまの尊像を持仏として持ちたいと申しておったによって、その像を師の見せくれた折り、ひどく心惹かれたによって、

「……お畏れ乍ら……この尊像……もし、先生には御不要とならば……我が母に与えとう存じまする。……」

と、乞うた。すると師は、

「――それは! たいそうた易いことじゃ! 是非、御母堂へ差し上げなさるるがよいぞ。」

と、即座に渡し呉れたと申す。

 さても、かくしてその石川殿が弟、その母に、この釈迦木像を贈ったところ、殊の外、悦んで尊崇なし、それを安置するために、小さいながらも二重になったる、堅牢にして荘厳(しょうごん)も美しい厨子(ずし)などをも拵え、しきりに尊信致いて御座ったと申す。

 ある時、御母堂、知れる御仁の一人に、目利きの出来る御方のあったれば、その仏像を親しく見せて御座ったところが、

「……こ、これは!……殊の外、古き品にして……いや! 本邦にて彫られたる物にては、これ、御座るまい!……しかも、その材には、これ、正真正銘の天竺に生(お)うるところの、幻の赤栴檀(しゃくせんだん)を用いて御座るようにお見受け申す!……ほれ! よぅ、香りを聴いてみなさるがよい!」

と申したによって、御母堂、尊像を鼻先へと持って参ったところが、これ、

――いかにも!

――その香気!

――えも言われぬ美薫(びくん)!

にして、それはそれは、一方(ひとかた)ならぬもので御座ったと申す。……

「……近頃では、この尊像を見んとて、来客、引きも切らず――という次第にて御座る。……」

と、私の知れる、その兄石川殿の語って御座った。

耳囊 卷之十 土中より鯉を掘出せし事

 

 土中より鯉を掘出せし事

 

 御繪師に、板屋敬意(いたやけいい)といへるあり。外より梅の鉢うへをもらひ兩三年も所持せしが、右梅を地へ移し、外の品植(うゑ)かへ候と、右をあけけるに、黑く墨のごとく成(なる)もの、右土のかたまりの中より出けるが、少し動きける故、暫(しばらく)置(おき)けるに、眼口ようのもの出來(いでき)て、魚にてもあるべしと思ふに任せ、なを一間(ひとま)なる所に入れ置しに、全(まつたく)の鯉魚(りぎよ)となり尾鰭(をひれ)も動きければ、水へ入れ置(おく)に飛踊(とびをどり)、常の鯉魚なり。潛龍(せんりゆう)の類ひにも有(ある)べし、海川へ放し遣(つかは)し可然(しかるべし)と、老分(をとなぶん)など申(まうす)故、櫻田邊の御堀内へ放しけるとなり。是も文化十酉年度(ねんど)の事なりき。 

 

□やぶちゃん注

○前項連関:異物の掘り出しで直連関。「これも」とあって連関性を本文でも示している。底本の鈴木氏注に、『三村翁注「十九巻本我衣巻八、文化十年の条目、宮家の画工、板屋桂意が庭に、石台の梅あり、先年或諸侯より給はりて、七八年を経て、下草なども繁れり、五月十九日のひる頃、其下草のしきりにうごきて、土を穿て飛出る物有、皆おどろきて、立より見れば、五寸許の魚なり、こは不思議とて、土を洗ひ見るに、鯉に似て髭あり、其図の写したるを所々に流布すといへども、未だ見ず云々、とあり。」』とある。岩波の長谷川氏注によれば、この鈴木氏の指摘は考証家石塚豊芥子(いしづかほうかいし 寛政一一(一七九九)年~文久元(一八六二)年)の「豊芥子日記」中巻を根拠としているとある。肺魚(脊椎動物亜門肉鰭綱肺魚亜綱 Dipnoi に属するハイギョ類は両生類的な側面を持っていて呼吸を水に依存しないため、地中で粘液と泥からなる被膜を形成して繭状となり、雨季がやってくるまでの驚くべき長時間(最長四年とも)を夏眠で過ごす。その土がたまたま日干し煉瓦に使用されてしまい、雨季になって水分を含んだ家の壁から目覚めた肺魚が生きて出て来きたという事件は、とあるTV番組で私も見たが、これ、事実である)じゃあるまいし、と私も当初は眉唾とも思ったが、例えば鉢植えとはいえ、地面に植え替えようというのだから、これ、相当に大きなものに違いなく、この置かれていた場所が低く、梅雨時などの折りに浸水するか、或いは普段からその真下に地下水脈などが流れており、頗る小さな穴状の泥質帯が、この梅の鉢の下に通じていたなどという仮定を考えるなら、鯉や鯰などの幼体が迷い込んでいたとしてもおかしくない。水分を含んでいる泥土状の中なら、この手の淡水魚は比較的有意な時間生存することが可能である。この注、私は大真面目で書いているので悪しからず。作り話確定だろうが何だろうが、全一的に否定することは寧ろ、科学的ではない。万が一つでもある現象の可能性は可能性として書かねば、考証や注とは言えないと私は思っている。これがエチオピアやアマゾン(肺魚類の棲息地)での出来事なら馬鹿にした奴が驚かされるからである。

・「板屋敬意」底本の鈴木氏注に、『板谷桂意。名は広長。桂舟広当の子。此咄は虚談の由、何書かにて見し覚えあり。(三村翁)』とある。思文閣の「美術人名辞典」には板谷桂舟(慶舟)として載り、『江戸中・後期の画家。江戸生。名は広当、初名は広度・広慶、剃髪して慶舟のち桂舟と改める。住吉広守の門に入り土佐派の画を学ぶ。幕府の奥絵師に任じられ、板谷家をたてた。板谷派として後に継がれるが、画風は土佐、住吉と変わりなく、長男広行が住吉広守のあとを継ぎ、次男広長が板谷家を継いで桂意と号した。この後、子孫は桂舟と桂意との号を隔代に継ぐことになる』とあった。この初代は寛政九(一七九七)年に六十九歳で没とあるから、「文化十酉年」(一八一三年)では十六年前に亡くなっているが、『子孫は桂舟と桂意との号を隔代に継ぐことになる』から、必ずしもおかしいとは言えない。

・「海川」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『河川』。それで採る。

・「老分(をとなぶん)」岩波の長谷川氏のルビを参考にした。また同長谷川氏注には、『家来の主だった者』ともある。 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 土中より生ける鯉を掘り出した事

 

 御(おん)奥絵師に板屋敬意と申す者が御座った。

 とある御方より梅の鉢植えを頂戴致し、三年ほども所持致いて御座ったが、かの梅、相応に成長なしたによって、これを地面へ移し替え、鉢には外の品をば植え替えんと思うて、これを慎重に取り外して移さんと致いた。

 ところが、その折り、黒き墨の如き形をした不思議なものが、これ、その鉢底の土塊(つちくれ)の中より出て参ったと申す。

 これがまた、何か少し動くように御座ったによって、暫らくそのままにしておいたところ、暫く致いてよぅく見てみると、これ、

――眼や口

のような部分が見てとれ、どうみても、

――魚

のようなる感じにも見えると思うたによって、なお、皿に入れて、屋敷の一間の隅に引き入れおいたところが、これ、全くの、

――鯉(こい)!

となり、これ、

――元気に――尾鰭(おひれ)さえも――動かす!

ようになって御座った。

 されば、慌てて水甕の中へと移し入れおいたところが、これ、

――飛び踊って!

これ、全く以って普通の、

――鯉!

 されば、

「……こ、これは!……地に潜むと言わるるところの潜龍(せんりゅう)の類いにも、違い御座いませぬ!……かくなる上は速やかに、河川へと放ち遣わすこと、これ、得策にて御座る!」

と、重き家来なんどが頻りに申したによって、桜田門辺りの御堀内へ、この鯉、放しやったと申す。

 これも文化十年酉年の年度のことと承って御座る。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十九章 一八八二年の日本 懐かしの東大風景と音楽教師ドクター・メーソンのこと

 翌朝我々は東京へ行き、人力車で加賀屋敷へ行った。銀座と日本橋とが、馬車鉄道建設のために掘り返されているので、我々はお城の苑内を通行し、お堀を越したり、また暫くその横を走ったりした。本郷へ来ると何等の変化がないので、悦しかった。角の時計修繕屋、罪の無い奇妙な小人、トントンと魚を刻む男、単調な打音を立てる金箔師、桶屋、麦藁帽子屋――彼等は皆、私が三年近くの前に別れた時と同じように働いていた。加賀屋敷には大変化が起っていた。前にドクタア・マレーが住んでいた家の後には、大学の建物の基礎を準備するために、大きな納屋がいくつか建ててある。ドクタア・マレーの家には大きなL字形がつけ加えられ、この建物は外国の音楽を教える学校になるのである。ボストン市公立学校の老音楽教師ドクタア・メーソンが教師とし雇われて来ているが、彼が今迄にやりとげた仕事は驚異ともいう可きである。彼は若い学生達と献身的に仕事をした結果、すでに信じ難い程度の進歩を示すに至った。外国人は日本の音楽を学ぶのに最大の困難を感じるが、日本の児童は我々の音楽を苦もなく学ぶものらしい。

[やぶちゃん注:日本到着の翌日、明治一五(一八八二)年六月五日。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」には次のように書かれてある。

   《引用開始》

 モースは翌六月五日上京した。新橋の駅に降りたったモースは、二年半あまり見ないうちに東京が少しずつではあるが姿を変えはじめていることを実感しただろう。人力車しかなかった衝に鉄道馬車が通ることになり、ちょうどモースが釆た頃には新橋と日本橋のあいだの軌道の施設も終わっていたからである。開業はその月の二十五日、同じ年の十月には日本橋―浅草間も開通している。一方、電灯会社の設立も進められており、デモンストレーションに銀座で二〇〇〇燭光のアーク灯を点灯、真昼のような明るさに驚いた江戸っ子が連夜押しかける騒ぎとなったのも、モースの到着からわずか数箇月後のことだった。演説や講演といえば貸席しかなかったのに、その前年には木挽町に演説集会専用の木造西洋風の大建築、明治会堂が建てられていた。

 徐々にではあるが近代化しはじめた東京の街を、モースはどのような感慨で眺めたのだろうか。[やぶちゃん注:後略。]

   《引用終了》

私は個人的には、モースは恐ろしいスピードで変貌しつつある東京の都市風景に、いわく言い難い違和感と言うか、古き良き美しき日本風景が失われることへの、漠然とした危惧を感じたのではなかったかと考えている。そうした思いをモースはここでは、謂わば自身がここで果してきた職務――文明開化の宣教師(キリスト教嫌いのモースに私は敢えて使う)――として抑えようとしているかに見える。しかし私は「本郷へ来ると何等の変化がないので、悦しかった。角の時計修繕屋、罪の無い奇妙な小人、トントンと魚を刻む男、単調な打音を立てる金箔師、桶屋、麦藁帽子屋――彼等は皆、私が三年近くの前に別れた時と同じように働いていた」(下線やぶちゃん)という描写に、そうしたモースの心の底にある真情が汲み取れるように思うのである。

「ドクタア・マレー」元文部省学監ダヴィッド・マレー(David Murray)。既注。彼は明治一二(一八七九)年に帰米していた。

「罪の無い奇妙な小人」“the curious little dwarf with no chin”。問題は“curious”で、確かに「好奇心をそそるような・珍しい・不思議な・奇異な・変な」という意はあるしかしそれは続く“little dwarf with no chin”という如何にも「奇妙で」「変な」様態(わざわざ“dwarf”を“little”で形容しているのである)には屋上屋である気がするのである。寧ろこれらが、モースが馴染みで親しく好ましい人物の点景であるとすれば(私はそうだと思っている)、まさに「物を知りたがる・好奇心の強い・もの好きな・詮索好きな」と訳したくなる。則ち、辞書的な意味でしか訳せない私にはこれは、「下顎(したあご)のない好奇心旺盛でひどく背の低い小人(こびと)」と訳す以外にはないのである。しかし、それでも、この奇体は、どうにも気になってしまう。……これは、重い障碍を持った者の、家の前を通ったその折りの情景なのだろうか?(私が小学校の頃、通学途中の農家の縁側には、いつも白い綿入れを着た知的障碍を持った少女が日向ぼっこをしながら縫物をしていたのを思い出すのである。彼女は私たちが覗くと「何だよう!」と言って怒ったものだった)……しかし一読、前後が総て店屋の店先から見える職人たちであることから、私は実はこれは、前の「時計修繕屋」で働いている身体に障碍を持った、知的障碍は伴っていない職人の一人なのではないかと推理した。先天性下顎欠損症を合併していた成長ホルモン分泌不全の小人(こびと)症の人物であった可能性である。時計修繕は座業で、こうした障碍者の仕事としては向いている。また、時計職人と知的好奇心の旺盛さというのは、すこぶる相性がよい様に思われるからである。大方の御批判を俟つものではある。

「老音楽教師ドクタア・メーソン」音楽教育のお雇い外国人として文部省音楽取調掛で西洋音楽の指導を行ったアメリカ人ルーサー・ホワイティング・メーソン(Luther Whiting Mason 一八一八年~一八九六年)。ウィキルーサー・ホワイティング・メーソンによれば、『メイン州のターナー生まれ。アメリカ各地で長年音楽の教師を勤めた。おもに独学で音楽教育を確立し、歌の収集を行い、音楽教科書と音楽の掛図を公刊し、音楽教育の革新に成功した。合衆国では主に初等音楽教育の第一人者であった』。一八六四年から一八七九年のボストン滞在時代に、『合衆国に留学していた文部省の伊沢修二に唱歌の指導をしたのが縁となり』、一八八〇(明治十三)年に『明治政府に招聘され日本に渡った。メーソンは文部省音楽取調掛の担当官(御用係)となった伊沢とともに、音楽教員の育成方法や教育プログラムの開発を行った。『小學唱歌集』にも関わった。日本にピアノとバイエルの『ピアノ奏法入門書』を持ち込んだのもメーソンである』。『メーソンは当時音楽取調掛に勤務していた岡倉覚三(天心)とも親しかったという』。『メーソンは日本の西洋音楽教育の基礎を築いたのち』、この明治一五(一八八二)年に日本を離れているが、実は『メーソンは滞在の延長を望んだが、おもに予算の都合でその希望はかなえられなかった』とある。『合衆国に帰国したメーソンは、ヨーロッパ各国を歴訪を4度行い、何百もの楽譜の収集と指導法の視察を行った』。『帰国後も伊沢に書簡を送り、本格的なオーケストラ発展のためには、難かしいオーボエやホルンの演奏家を養成すべきと説いている』とある。盲人の音楽による教育にも熱心であった。明治学院大学機関リポジトリの手代木俊一氏の論文明治と讃美歌:明治期プロテスタント讃美歌・聖歌の諸相に彼の日本での業績が詳述されている。必見。「老音楽教師」とあるが、当時、メーソンは既に六十四歳であった(因みにモースはこの時、四十四歳)。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」  文覺屋敷蹟

   ●文覺屋敷蹟

文覺屋敷蹟は大御堂の西にて座禪川に邊(へん)せり。濶一町許神護寺の文覺か居蹟なりと云傳ふ。

[やぶちゃん注:鎌倉青年団の碑は雪ノ下四丁目、金沢街道から大御堂(おおみどう)橋を渡った先にある。新編鎌倉二」には、

○文覺屋敷 文覺屋敷は大御堂(をほみだう)の西の方、賴朝屋敷の南向ふなり。文覺、鎌倉に來て、此所に居すとなり。【東鑑】に、養和二年四月廿六日、文覺上人、營中に參す、去る五日より、三七日斷食して、江島(えのしま)に參籠し、懇祈肝膽を砕き、昨日退出すと云ふ。是れ鎭守府の將軍藤原の秀衡(ひてでひら)調伏のためなりとあり。文覺の傳、【元亨釋書】にあり。

と載り(「三七日」は掛け算で二十一日)、鎌倉攬勝考卷之九では、

文覺旅亭舊跡 大御堂より西の方を、土人等舊跡なりといへり。文覺は京師の高雄に住せしが、養和二年四月廿六日、右大將家の請に依て下向し、此間江島に籠り斷食し、肝膽をくだき修法申せしゆへ、今日御所へ參りし事あり、又無程歸洛せり。扨此文覺は、心たけき人にて、鳥羽院の御行狀をうとみ、後高倉院を御位につけ奉らんと思ひけれども、賴朝卿のおはしけるゆへ、思ひも立られず、斯く正治元年正月うせ給ひしかば、頓て謀反を起さんとせしが、露顯して捕へられ、八十餘にして隠岐國へ流され、彼國にて失けりといふ。賴朝卿の薨逝は正月の事にて、文覺が流されしは同じき四月の事なりといふ。此所に住せしにあらず。

(「頓て」は「とみにて」或いは「にはかにして」と訓じているものと思われる)とあって、植田孟縉(もうしん)は史跡性を斬って捨てていて頗る痛快である。なお、伝承ではこの北の滑川河岸で文覚が座禅を組んだとされることから、この附近の滑川を座禅川と呼称している。]

橋本多佳子句集「命終」  昭和三十二年 足摺岬・新居浜 他

   *

 

生きてまた絮あたたかき冬芒

 

[やぶちゃん注:「絮」「わた」と訓じていよう。]

 

木枯の絶間薪割る音起る

 

ひとたび来し翡翠(かはせみ)ゆゑに待ちつづく

 

吸入器噴く何も彼も遠きかな

 

胡桃割る音団欒のおしだまり

 

 足摺岬

 

枯れ崖(きりぎし)長し行途につきしばかり

 

また同じ枯れ切通しこの道ゆく

 

紅実垂る大樹長途も半ば過ぐ

 

[やぶちゃん注:「紅実」「くみ」と訓じているか。]

 

郵便脚夫に鴉は故旧枯山中

 

[やぶちゃん注:「郵便脚夫」「ゆうびんきやくふ(ゆうびんきゃくふ)」は郵便集配人の旧称。「故旧」は昔馴染み・旧知の意。]

 

りんりんと海坂張つて春の岬

 

[やぶちゃん注:「海坂」「うなさか」と訓じていよう。]

 

断崖にすがるよしなし海苔採舟

 

海の鴉椿林の内部知る

 

椿林天透きてそこ風疾し

 

一人の遍路容れて遍路の群増えず

 

冬の旅日当ればそこに立ちどまる

 

   新居浜

 

かりかりと春の塩田塩凝らす

 

一丈のかげろふ塩田に働きて

 

黒々とかげろふ塩田万一里

 

出来塩の熱きを老の掌(て)より賜(た)ぶ

 

[やぶちゃん注:これら(前年末と推定される冒頭五句を除く)は年譜の昭和三二(一九五七)年二月の条に、『NHK放送のため、誓子と新居浜、足摺岬へ旅行。遍路に会う』とある折りの吟詠であろう。NHK放送は以前より多佳子の出演していたラジオ番組「番茶クラブ」か。「新居浜」は「にいはま」と読み、愛媛県東予地方に位置する市。多佳子が訪れたのは多喜浜塩田(たきはまえんでん)であろう。正徳六・享保元(一七一六)年に開田され、享保年間に備後国から招かれた塩業家天野喜四郎によって幾度もの拡張工事がなされて総面積二百三十八ヘクタールに及ぶ日本有数の大塩田に発展、代々天野喜四郎の子孫によって受け継がれ、長年に亙ってこの地方の重要な産業基盤となったが、この多佳子来訪の僅か二年後の昭和三四(一九五九)年、国策によって廃田となった(現在は埋め立てられて新居浜市を代表する工業団地となっている。以上はウィキ多喜浜塩田に拠った)。この四句、結果して、まさにこの塩田の落日を描いていて、いや万感胸に迫る思いがするではないか。]

2015/03/26

耳嚢 巻之十 全身の骸骨掘出せし事

 全身の骸骨掘出せし事

 

 四ツ谷邊御旗下(はたもと)の屋敷におひて、〔三田藤之助屋しきの由〕全身の骸骨を掘出(ほりいだ)しけるに、珍しき事、いづれ捨置(すておき)候は如何(いかが)なりとて、近邊の寺へ送り葬りしに、其夜召使ふ下女口走り品々の事を言(いひ)しが、我(わが)骨を掘出し、寺へ送りしはさる事なれ、一向に法事供養もせざる事ぞ心得ねと申(まうし)ける故、翌日正氣になりし故、右下女に尋(たづね)ければ、大きなる坊主來りて、しかじかの事言ふ由答(こたへ)ける故、さる事もありなんと、金貮百疋布施として右寺へ贈り、法事などいたしけるが、其夜も又々、右下女何か不分(わからざる)戲言(たはぶれごと)なして、夜すがらさわがしかりける故、翌朝正氣附(つき)し比(ころ)、又々尋ければ、昨日法事もなし候て辱(かたじけなき)由、最早本意も叶ひし上は重(かさね)て來(きた)るまじ、主人へも能々(よくよく)禮を賴(たのむ)と申けると語り、其後は右樣(みぎやう)の事もなかりしとや。文化十年酉六月の事の由。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。ここのところ、調子づいている感じの発掘系怪異譚。

・「三田藤之助」底本の鈴木氏注に、『寛政譜では藤之助守巽(モリスケ)はまだ年少で、兄の守吉が嗣子だが、守吉が若死して守巽が家督を継いだものと思われる。同家は五百石』とあるが、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版ではこの割注が『三田(さんた)藤兵衞屋敷の由』とあって、長谷川氏は注で、『好文(よしぶみ)。寛政八年(一七九六)大番』とある。考証の新しい長谷川氏が正しいと思われるが、底本のままで訳した。

・「文化十年酉六月」「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月であるから、ちょうど一年前のホットな都市伝説である。

・「貮百疋」百疋が一貫(千文相当)で、凡そ現在の五万円ほどか。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 全身の骸骨を掘り出したる始末の怪異の事

 

 四ッ谷辺りに住まう御旗本の屋敷に於いて――伝え聴いたところでは三田藤之助殿御屋敷との由――全身一体が揃った骸骨を掘り出したと申す。

 何かの事件に関わるものとは思われない古き骨ではあれど、異様なる出来事で御座ったによって、御当主、

「……孰れ、捨て置くと申すも、これ、如何(いかが)なものか。」

と、近辺の寺へ心ばかりの金品を添えて遺骨を送り、葬って御座ったと申す。

 ところが、その夜のこと、屋敷にて召し使(つこ)うておった下女が、これ、何やらん、訳の分からぬことを口走り始め、前後脈絡もなきことを喚いて御座ったが、その中に、

「……我ガ骨ヲ掘リ出ダシ、寺ヘ送リシハ相応ナル仕儀ニテハアレ……一向ニコレ……法事供養モ致サザルハ……コレ心得ヌコトジャ……」

と申す一言、これ、聴き分けられた。

 されば翌日、正気に戻ったによって、このことに就きて、かの女に、それとなく質いてみたところが、

「……夢うつつのうちに……何やらん、大きなる坊主の女中部屋へと参り……そのようなることを、これ、言うて御座いましたを、幽かに覚えて御座いまする。……」

と答えたによって、主(あるじ)は、

「……ふむ。そのようなること、これ――ない――とは申せぬ、の。」

と、その日の内に、金二百疋をお布施として、かの寺へと贈って、法事などを致させたと申す。

 すると、その夜もこれまた、かの下女、何やらん、訳の分からぬ異言(いげん)をなして、一晩中これ、喚いて御座った。

 されば、再び、翌朝、正気付いた頃合いを見計らって、またまた質いてみたところが、

「……夢うつつのうちに、またまた、昨日の大きなる坊主の参りまして、何でも……

――昨日、法事をもなし呉れたこと、これ、忝(かたじけ)ない。――最早、本意(ほい)も叶(かの)うたる上は、これ、重ねて来たること、あるまいぞ。――そなたが主人へもよくよく御礼のほど、これ、頼みおく。――

……と、申して御座いましたようなるを、これ、幽かに覚えて御座いまする。……」

と語ったと申す。

 その後(のち)は、かような変事は、これ、一切、起らずなったとか申す。

 文化十年酉年の六月のことと聴き及んで御座る。

耳嚢 巻之十 安藤家重器茶碗の事

 安藤家重器茶碗の事

 

 安藤右次衞門方に、先祖次右衞門大坂御陣の時深手を負(おひ)候間、赤繪の茶碗に藥湯(やくたう)を入(いれ)、御手自(づから)賜(たまはり)候由。右は朝鮮王より太閤秀吉へ三つ遣りし、其一品にて、其後太閤より被進(しんぜられ)候器にや、其銘に曰(いはく)、〔赤繪染付なり〕

  十年窓下無人問   一擧成名知天下

 右次右衞門家に、重器とて持傳(もちつた)へし、蟲干の節見しと、人の語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:物品譚で軽く連関。茶事に興味のなければ、語るも、検索するも、これ、意欲なし。悪しからず。

・「安藤右次衞門」底本の鈴木氏注に、『次右衛門の誤。正武。同家は代々次右衛門を称す。二千五百石。先祖次右衛門正次は大坂冬の陣後大坂城の外堀を埋める工事の奉行をし、夏の陣には旗奉行として出陣、前田利常、本多康紀の陣に軍令を伝えるために赴き、敵数十騎と戦い首級を得、なお深く進んで負傷し、家康自ら秀吉下賜の茶碗で茶を立ててねぎらった。茶碗の銘は太閤の武威を称した句。以上は寛政譜に記すところであるが、茶碗を賜わったとは記してない。なおこの傷によって正次は没した。五十一』とある。ウィキの「安藤正次(旗本)」によれば、安藤正次(永禄八(一五六五)年~元和元(一六一五)年)は三河安藤氏の分家の阿久和安藤氏。始祖の安藤定次の子で次右衛門尉、禄高二千石。父が慶長五(一六〇〇)年の伏見城の戦いで戦死し、家督を継ぎ、元和元年の大坂夏の陣に徳川秀忠に属し、御旗奉行(戦場にて旗指物の管理を行う役)を務めた。五月七日、大坂城落城の直前に秀忠の使者として前田利常及び本多康紀両軍に敵陣への攻撃を伝えたが、その際、数騎の敵と遭遇、単身で戦って敵方の首級を挙げたものの、自らも深傷を負って家臣に助けられて本陣に戻り、秀忠から高名したと賞賛された。宿所の平野郷願正寺にて傷の療養をしていたが、再起不能と悟って自刃した。享年五十一。墓所は大阪市平野区の樋尻口地蔵堂向かいにある、とある。名は訳では訂した。

・「朝鮮王」当時の朝鮮王は李氏朝鮮時代(但し、中国王朝の冊封(さくほう)体制下)の第十四代国王宣祖(ソンジョ/せんそ 一五五二年~一六〇八年)。この茶器は天正一八(一五九〇)年に豊臣秀吉に派遣された通信使(十二月三日に秀吉に謁見)の折りにもたらされたものか? 因みに、この時の朝鮮通信使は名目上は秀吉の日本統一を祝賀することを目的としつつも、実際には朝鮮侵攻の噂の真偽を確かめるために派遣されたものであった。

・「赤繪」赤を主調として緑・紫・青などの顔料で上絵付けをした陶磁器。中国では宋代から見られ,日本では正保年間(一六四四年~一六四八年)に柿右衛門が取り入れて同時期に九谷でも行われるようになった。

・「十年窓下無人問 一擧成名知天下」は、元の劉祁(りゅうき)の元が亡ぼした金史を綴った史書「帰潜志」が出典。

 

 十年 窓下(さうか) 人の問ふなし

 一擧 名を成し 天下知る

 

と一般には読むようだ。

――苦学すること十年を経たが、誰(たれ)独りとして立ち止まって私を振り返り声をかけて呉れた人はいなかった。しかし、かく一たび功を成したれば、瞬く間に天下これ皆、我が名を知り尽くす――といった意味であろう。但し、原典通りならば、

 

十年窗下無人問。一舉成名天下知。

 (十年するに窗下(さうか)、人の問ふ無し。一舉(いつこ)して名を成し、天下、知る。)

 

が正しい(訓読は野狐禅風我流)。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 安藤家御家宝の重器茶碗の事

 

 安藤次右衛門(じえもん)殿が方に、先祖次右衛門殿が大坂夏の陣の時、深手を負われたところが、畏れ多くも、大御所様御自身、これ、手ずから、赤絵(あかえ)の茶碗に薬湯(やくとう)をお入れ遊ばされて賜わられたと申す、これ、いわくつきの名茶器にて御座る由。

 これは、かの朝鮮王より太閤秀吉へ三つ贈られた内の、その一品にして、その後(のち)、太閤より大御所様へ進ぜられたる茶器なる由。

 その銘に曰く――赤絵にて、茶器そのものに染め付けられたものである――

 

  十年窓下無人問   一挙成名知天下

 

「……これ、次右衛門家に、家宝の重器として持ち伝えたるものにして、虫干しの折りに、拙者、管見致いて御座った。……」

とは、とある御仁の畏れ入って語っておられたことにて御座る。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十九章 一八八二年の日本 三度目の来日(1)

この私の全注テクストも残り8章……正直、終わるのが――いや――





 第十九章  一八八二年の日本

 

 二ケ年と八ケ月留守にした後で、一八八二年六月五日、私は三度横浜に到着し、又しても必ず旅行家に印象づける音と香と光景との新奇さを味った。日本の芸術品を熱心崇拝し、そして蒐集するドクタア・ウィリアム・スターギス・ビゲロウが、私の道づれであった。我々が上陸したのは夜の十時だったが、船中で死ぬかと思う程腹をへらしていた我々は、腹一杯食事をし、降る雨を冒して一寸した散歩に出かけた。ホテルに近い小川を渡り、我々は本村と呼ばれる狭い町をブラブラ行った。両側には小さな宿が櫛比しているのだが、その多くは閉じてあった。木造の履物をカタカタいわせて歩く人々、提灯(ちょうちん)のきらめき、家の内から聞える声の不思議なつぶやき、茶と料理した食物との香、それ等のすべてが、まるで私が最初にそれを経験するのであるかの如く、興味深く感じられた。

[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、明治一二(一八七九)年秋に帰米したモースは、翌一八八〇年七月三日にピーボディ科学アカデミー館長に就任(彼はこれより同館長を三十六年に亙って勤め、同アカデミー(現在のセーラム・ピーボディ博物館)を日本の民俗学資料コレクションの一大拠点に成し上げた)したものの、日本へのさらなる憧憬の止まなかった。磯野先生の叙述によれば、彼の内心の再々来日への最大の希求は、陶器や民具に対する抑え難い興味関心であったらしい。結局、アカデミーの理事会を東洋の民俗学的資料収集旅行という名目で説得、日本再訪を認めさせた。セーラムを離れたのは一八八二年四月二十五日で今回は家族は伴わず、単独(日本行きにはビゲローが同伴)であった(因みに、今回の、そして永遠の離日は翌明治一六(一八八三)年二月十四日で、その後は中国・東南アジア経由でヨーロッパへ向かい、マルセイユからパリを経てイギリスに行き、同年六月五日にいわば地球を一周してニューヨークへ戻った)。

「一八八二年六月五日」明治十五年。但し「六月五日」は六月四日の誤り。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、五月十六日にサンフランシスコをビゲローとともに「シティ・オブ・ペキン」号で出帆、十九日の航海であった。

「ドクタア・ウィリアム・スターギス・ビゲロウ」“Dr. William Sturgis Bigelow”既注であるが再掲しておく。ビゲロー(一八五〇年~一九二六年)はアメリカの日本美術研究家。ボストンの大富豪の家に生まれ、一八七四年にハーバード医学校を卒業したが、続く五年のヨーロッパ留学中に日本美術の虜となる。一八八一年に日本から帰国していたモースと知遇を得、生涯の知己となった。モースとともに明治一五(一八八二)年に来日、フェノロサとともに岡倉天心らを援助、膨大な日本美術の逸品を収集し、アメリカに持ち帰った。それらは死後にボストン美術館に寄贈されたが、このコレクションには、最早、国内では失われた北斎の版画の版木など日本美術の至宝と言うべきものである。滞在中(モースの離日後もビゲローは日本に滞在し、一時的帰国を挟んで明治二二(一八八九)年まで実に七年に及んだ。またその後も明治三十五年から翌年にかけても来日している)に仏教に帰依し、天台宗などの研究も行っている(主に磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の記載に拠った)。

「ホテルに近い小川」「ホテル」は、いつもの横浜グランドホテル(第一章 一八七七年の日本――横浜と東京 1 モース来日早々「よいとまけ」の唄の洗礼を受くの私の注を参照)で、「小川」は元町と山下町の間を流れる中村川(この辺りの下流域では堀川とも呼称する)である。

「本村」現在の横浜市中区元町。――この深夜の下駄や人の話声の音風景、燈火の視覚、茶と懐かしい日本料理の香りに、モースが恍惚とするさまが目に浮かぶ――]

尾形龜之助 「出してみたい手紙(1)」 心朽窩主人・矢口七十七中文訳

 

    出してみたい手紙(1)

 

         尾形龜之助

 

あ…な…た…の…な…ま…け…も…の

あ…な…た…と…私…の…な…ま…け…も…の

あなたは今日私へ手紙を出して呉れましたか

 

 

Dasitemitaitegami

 

 我想寄出这样的信试试看(1)

         
作 尾形龟之助
         
译 心朽窝主人,矢口七十七

 

妳…这…个…懒…虫

妳…和…我…这…些…懒…虫

你今已经发给我信了吗?

 


         
矢口七十七/

尾形龜之助 「死」 心朽窩主人・矢口七十七中文訳

 

    死

 

         尾形龜之助

 

午前二時

私は眼が覺めた

 

戸を開けて病院の方を見た

 

私に飛びかゝりそうないやな暗みだ

 

雨が降つてゐる

 

今夜中そばにゐて下れと云つた

 

 

妻が死にかゝつてゐるようである

 

私の前のふすまを開けて妻が入つて來そうだ

 

そんなことがあれば妻は死んでゐるのだ

 

 

[注:初連を除く行の有意な行空けはママ(底本とした全集では、この初連の二行の間は実は改頁であるが、版組を見る限り、繋がっているとしか思われない。実際、全集の次頁にある「題のない詩」では五連の内、最初の四連が一行で最終連が詰まった二行となっている)。「飛びかゝりそうな」・「暗み」(くらやみ)・「下れ」(くれ)・「ようである」・來そうだ」も総てママ。]

 

 

Si

 

 

         
作 尾形龟之助
         
译 心朽窝主人,矢口七十七

 

凌晨两点

我醒来了

 

把门拉开远眺医院方向

眼看就要向我猛扑过来——令人生厌的漆黑

下着雨……

求我陪她整夜的

我的妻……

相信她陷于病危

感觉她就要拉开我前面的纸拉门进来

如果真的——!那意味她已死亡……

 


         
矢口七十七/

2015/03/25

耳嚢 巻之十 眞那板一種の事

  眞那板一種の事

 

 或人云(いはく)、此程眞那板(まないた)の由にて如圖(ずのごとき)品を見たり。甲州にては、專ら此(この)眞那板を用(もちゐ)る由。魚肉其外常の通(とほり)料理し、精進の日は打(うち)かへし用る由。其理(ことわり)有(あり)て面白きゆゑ、爰に記す。

 

Manaita

 

□やぶちゃん注

○前項連関:食材から厨房具で連関。生臭さものの血の穢れもさることながら、プラグマティクに、生臭さが菜料などに移らぬようにすること、さらに現代的に考えれば、海産の魚介類に多く付着している腸炎ビブリオ(プロテオバクテリア門 Proteobacteria γ(ガンマ)プロテオバクテリア綱ビブリオ目ビブリオ科ビブリオ属腸炎ビブリオ Vibrio parahaemolyticus 。中には耐熱性溶血毒を含む一群がおり、想像以上に厄介である)による食中毒の危険性を考えれば、至極、効用のある仕儀である。特に足を附けることで裏面への浸潤をある程度は抑止出来る構造にもなっているように思われる。なお、極めて類似した俎板の図とその解説が、山東京伝(宝暦一一(一七六一)年~文化一三(一八一六)年)の考証随筆「骨董集」(文化一二(一八一五)年板行)の「中之卷」の十章目「魚板(まないた)の古製(こせい)」に載るので、以下に示す。底本は吉川弘文館「日本随筆大成 第一期第十五巻」を用いたが、恣意的に正字化した。読みは一部のみ採用した。

   *

   魚板の古製

文明時代の酒食論(しゆしょくろん)といふ畫卷(ぐわくわん)、又寛永時代の繪(ゑ)に、此魚板(まないた)見えたり。これ式正(しきしやう)のものにはあらざるべけれども、魚板の一種の古制(こせい)を見るべし。今も京都の舊家にはまれにあるよし、好事(かうず)の人、文臺(ぶんだい)などにしてもたるもありとぞ。又甲州(かうしう)の民家には、今もこれを用るよし、表にて魚類(ぎよるい)を切(きり)、裏にて菜類(さいるい)を切る便利よきものとぞ聞(きゝ)ける。

 

Kottousyuu_manaita

 

■やぶちゃん「骨董集」キャプション注

●「洞齋所藏」狩野派の画家菅原洞斎(宝暦一二(一七六二)年~文政四(一八二一)年)であろう。江戸生まれ。仙台侯に仕え、鑑定家としても知られる。谷文晁の妹婿でもある。

●「曲尺(カネザシ)」現在の尺と同じ。一尺は三十・三センチメートル。鯨尺(布地の長さを測るのに使われていたもの)の八寸に相当。

●「七寸三分」二十二・一センチメートル。

●「足一寸二分四方」方形の足の平面一辺の長さ三・六センチメートル。

●「二尺六分」六十二・四センチメートル。

●「足高サ三寸」四隅の角材の全長約九・一センチメートル。

●「アツサ 六分」中央の俎板本体の厚さ約二センチ八ミリ。

   *

 因みにこの「酒食論」とは、恐らく「酒飯論絵巻」のことであろう。十六世紀に制作されたと言われる日本の絵巻で、酒好きの男と下戸で御飯好きの男、両方適度に嗜む男の三人がそれぞれの持論を展開するという構成で描かれた絵巻物で、全長十四・六メートル、内容は調理から配膳・飲食の様子が詳細に描かれてあって、当時の食文化を知る貴重な資料となっているという。サイズは縦が三十・七センチメートルで、狩野元信筆と土佐光元筆になるものがとみに知られ、その模写本や異本も多数、存在している。主人公の三人は酒好きの造酒正糟屋朝臣長持(みきのかみかすやあそんながもち)、飯好きの飯室律師好飯(いいむろりっしこうはん)、中庸派の中左衛門大夫中原仲成(ちゅうざえもんたいふなかはらなかなり)。四部構成で、第一段に三人の紹介、第二段で酒の徳、第三段で飯やその肴(さかな:おかず。)と茶の面白さ、第四段に至って、どちらもほどほどがよいと語られてあるという。長持は念仏宗、好飯は法華宗、仲成は天台宗の宗徒という設定であて、表向きは飲食について語りながらも、実は天台宗の中道観の優位性を説いている、とウィキの「酒飯論絵巻」にある(私は未見)。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

  俎板(まないた)の一種の事

 

 ある人の曰く、

「……近頃、俎板の一種の由にて、この図のようなる一品を見て御座った。……甲州にては、今も專ら、この形の俎板を用いておる由にて御座る。これ、魚肉その他の場合には常の通り、この状態で料理致し、生臭さを忌避致す精進の日は、これ、これを、ひっくり返して用いる、とのことで御座った。……」

 これを聴きながら、確かにその理(ことわり)、これ、目から鱗にて、実に面白う感じて御座ったればこそ、ここに記しおくことと致す。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十八章 講義と社交(Ⅱ) 家族学校講演と慶応義塾での進化論講話と剣道試合観戦 第十八章 講義と社交~了

 私は華族の子弟だけが通学する華族学校で、四回にわたる講義をすることを依頼された。校長の立花子爵はまことによい人で、私が発した無数の質問に、辛抱強く返事をしてくれた。私の質問の一つは、長い間別れていた後に再会した時、日本人は感情を表現するかということであった。私は、日本人の挨拶が如何にも冷く形式的で、心からなる握手もしなければ抱擁もしないことに気がついたので、この質問を発したのである。彼は日本の貴族が、長く別れていた後では、抱擁を以て互に挨拶することも珍しく無いといい、実例を示す為に私の肩に両腕を廻し、そして愛情深く私を抱きしめた。その後、私は、私を彼の「アメリカのパパ」と呼ぶ可愛らしい少年(今や有名な法律家で、かつてドイツ及び北米合衆国の日本大使館の参事官をしていた)に、彼の父親が、長く別れていた後で、両腕に彼を抱き込まぬかと聞いた。彼は「そんなことは断じて無い」と答えた。「然しお父さんは如何にして彼の愛情を示すのか?」「彼はそれを目で示すのです。」その後私は、彼の父親が遠方の町から私の家へ来て、息子に挨拶するのを見たが、なる程彼の両眼には、この上もなく優しい親の慈愛が輝いていた。

[やぶちゃん注:「華族学校」前述したように現在の学習院大学であるが、磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、この四回に亙る講演は厳密に言うと大学の校舎ではなく神田錦町の学習院敷地内にあった華族会館で行われたもので、公演日は明治一二(一八七九)年七月二十日(日曜)・二十一日・二十四日・二十五日の四日であった。ウィキの「霞会館」(かすみかいかん:一般社団法人で同会館組織の後身の現存組織)組織としての華族会館は明治七(一八七四)年に発足(同組織は単なるクラブではなく書籍局・講義局・勉強局・翻訳局の設置がその規約に謳われている)、明治一〇(一八七七)年に華族子弟の教育機関として学習院が創立されたとある。また、華族会館が発足したのは浅草本願寺であったが、二ヶ月後に永田町の旧二本松藩邸に移り、ここで創立総会を開いて、その後、神田錦町の学習院内・宝田町・上野公園内文部省官舎へと移り、明治二三(一八九〇)年に鹿鳴館を借り受けて移転、明治二七(一八九四)年にはその八千坪の土地とともに総て買い受けたとあるから、一応、当時の神田錦町の学習院内であろうと推定する(鹿鳴館の落成は本記載内時間より四年後の明治一六(一八八三)年で、所謂、「鹿鳴館時代」というのは、そこから明治二〇(一八八七)年までの時期を指すのでモースが永遠に日本を去った後であるので注意が必要である)。なお、この時の講演について、「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」には、以下のようにある(注記号は省略した)。

   《引用開始》

 同じ七月にモースは、神田錦町にあった華族会館で、四回連続の講演を行なっている。これは上流階級を対象にしたもので、そのときの招待状――

[やぶちゃん注:以下、底本では引用全体が一字下げ。底本は新字であるが、ここは恣意的に正字化した。]

「今般米國博物大博士東京大學教授モールス氏ヲ本館ニ招請シ、左ノ題案ヲ講述致候(東京大學理學部教授矢田部良吉口訳[原文、割注])。右ハ新説奇聞ニシテ學術上裨補不少候條、同族一般(不論男女)日割之通リ毎日午前八時御來館、聴聞相成度候也。

  明治十二年七月十六日   華族會館

  課題幷(ならびに)日割

一 動物成長ノ怪異    七月廿日

一 蟻ノ奇ナル習慣    同 廿一日

一 人生ノ原由      同 廿二日

一 日本ノ古人種     同 廿五日」

 このうちの「人生ノ原由」は人類の由来ということだろう。講演は、毎回朝八時半くらいから一時間半ほどだったという。皇族も聴講し、最終日には講演後パーティが開かれ、三五〇人が出席したと『その日』にある。

   《引用終了》

老婆心乍ら、この内の、

 右ハ新説奇聞ニシテ學術上裨補不少候條、同族一般(不論男女)日割之通リ毎日午前八時御來館、聴聞相成度候也。

は、

 右は新説奇聞にして、學術上、裨補(ひほ)少なからず候(さふら)ふ條(でう)、同族一般(不論男女(なんによ)を論ぜず)日割(ひわ)りの通り、毎日午前八時御來館、聴聞(ちやうもん)相ひ成られたく候ふなり。

と読んでいよう。「裨補」は「ひほ」と読み、畳語で、助けおぎなう意である。

「校長の立花子爵」学習院初代院長立花種恭(たねゆき 天保七(一八三六)年~明治三八(一九〇五)年)。旧陸奥下手渡藩第三代藩主(佐幕派)、後に旧筑後三池藩藩主として廃藩を迎え、明治二(一八六九)年に版籍奉還により知藩事となるが、明治四(一八七一)年には廃藩置県により退任、明治一〇(一八七七)年十月から明治一七(一八八四)年五月まで学習院初代院長を務めた。但し、子爵になったのは明治一七(一八八四)年七月八日のことであるから、この時(明治一二(一八七九)年七月)は子爵ではない。しかも授爵はモースが永遠に日本を発った翌年のことである。これはもしかすると、その後に彼からの手紙があったか、関係者からの報知によって子爵となったことを記憶していたモースが時差無視してこう記述したしまったものかと思われる)。その後は明治二三(一八九〇)年七月に貴族院子爵議員に選出され、死去するまで在任した。その他、華族会館副幹事・同学務局長・宮内省御用掛・同省爵位局主事などを務めた(以上は主にウィキの「立花種恭」に拠った。下線はやぶちゃん)。

『私を彼の「アメリカのパパ」と呼ぶ可愛らしい少年(今や有名な法律家で、かつてドイツ及び北米合衆国の日本大使館の参事官をしていた)』「第十一章 六ケ月後の東京 21 モース遺愛の少年宮岡恒次郎」に出る東大予備門の学生で、モースの動物学教室の助教で生物学者高嶺秀夫の書生でもあった、モース一家から実の子同然に可愛がられたという宮岡恒次郎のことである。リンク先の私の「小宮岡」(“little Miyaoka”)の注を参照されたい。当時は恒次郎は未だ満十三、四歳であった。なお、床間彼方氏のブログ「青二才赤面録」の「926 宮岡恒次郎・その2」には、宮坂(彼は元は竹中姓で養子である)の出自について(ということはモースの弟子格となる恒次郎の兄で医師の竹中成憲も)『幕臣、譜代・旗本を強く匂わせる』という記載がある。この推理が本当なら、この少年はこれ――美濃岩手竹中家本家――かの竹中半兵衛の子孫ということになるのである! リンク先、必読!]

 

 華族学校は、間口二百フィート以上もある、大きな木造の二階建で、日本人が外国風を真似て建てた多くの建物同様、納屋式で非芸術的である。両端には百フィートあるいはそれ以上後方に突出した翼があり、それ等にはさまれた地面を利用して大きな日本の地図が出来ている。これは地面を山脈、河川、湖沼等のある浮彫地図みたいに築き上げたもので、滞沼には水が充してあり、雨が降ると河川を水が流れる。富士山の頂上は白く塗って雪を示し、平原には短い緑草を植え込み、山は本当の岩石で出来ている。都邑はそれぞれの名を書いた札によって示される。大海には小さな鼠色の砂利が敷き詰めてあるが、太陽の光線を反射して水のように輝く。この美しくて教育的な地域を横切って、経度と緯度とを示す黒い針金が張ってある。小さな娘たちが、彼等の住む町や村を指示する可く、物腰やさしく砂利の上を歩くところは、誠に奇麗な光景であった。日本の本州はこの地域を斜に横たわり、長さ百フィートを越えていた。それは日本のすべての仕事の特徴である通り、精細に、正確に設計してあり、また何百人という生徒のいる学校の庭にあるにもかかわらず、完全に保存されてあった。私はまたしても、同様な設置が我国の学校園にあったとしたら、果してどんな状態に置かれるであろうかを考えさせられた。

[やぶちゃん注:ネット上にこの大八洲のミニチュアの写真がないか探したが、見当たらない。写真その他、情報をお持ちの方、是非、御教授あれかし。

「間口二百フィート以上」建物のフロント幅六十一メートル以上。

「百フィート」三十・四八メートル。]

 

 私はこの学校で初めて、貴族の子供達でさえも、最も簡単な、そしてあたり前の服装をするのだということを知った。ここの生徒達は、質素な服装が断じて制服ではないのにかかわらず、小学から中等学校に至る迄、普通の学校の生徒にくらべて、すこしも上等なみなりをしていない。階級の如何に関係なく、学校の生徒の服装が一様に質素であることに、徐々に注意を引かれつつあった私は、この華族女学校に来て、疑問が氷解した。簡単な服装の制度を立花子爵に質問すると、彼は、日本には以前から、富んだ家庭の人々が、通学する時の子供達に、貧しい子供達が自分の衣服を恥しく思わぬように、質素な服装をさせる習慣があると答えた。その後同じ質問を、偉大なる商業都市大阪で発したが、同じ返事を受けた。

[やぶちゃん注:「華族女学校」学習院女子中・高等科の前身。
 
「その後同じ質問を、偉大なる商業都市大阪で発した」この「その後」とは明治一五(一八八二)年六月の三度目の来日で同年七月二十六日からフェノロサやビゲローと関西を旅した折りのことと思われる。モースはこの四十日後の明治十二年九月三日に帰国しており、その間、関西方面には行っていない。]

 

 この学校に於る私の最後の講義には、皇族方や、多数の貴族やその家族達が出席された。率直さや礼儀正しさによって、まことに彼等は貴族の名に辱じぬものがある。彼等の動作の、すこしもてらう所無き魅力は、言語に現し得ぬ。これは興味の深い経験であった。そして、通訳者を通じで講義せねばならぬので、最初は窮屈だったが、遂に私は一度に一章を云うことに慣れ、それを私の通訳者たる矢田部教授が日本語でくり返した。この最後の講義の後で、西洋風の正規の正餐が出たが、それは大したものであった。正餐に臨んだ人数は三百五十人で、私はひそかに彼等の動作や行動を視察した。静粛な会話、遠慮深い謝礼、お辞儀や譲り合い、それ等はすべて極度の率直さと、見事な品のよさで色どられていた。

[やぶちゃん注:「矢田部教授」矢田部良吉。]

 

 私は福沢氏の有名な学校で講演する招待を受けた。日本で面会した多数の名士中、福沢氏は、私に活動力も知能も最もしっかりしている人の一人だという印象を与えた。私は、実物や黒板図に依て私の講演を説明し、自然陶汰の簡単な要因を学生達に判らせようと努力した。この種の経験のどれに於ても、私は、日本人が非常に早く要点を捕えることに気がついたが、その理由はすぐ判った。日本人は、米国人が米国の動物や植物を知っているよりも遙かに多く、日本の動植物に馴染を持っているので、事実田舎の子供が花、きのこ、昆虫その他類似の物をよく知っている程度は、米国でこれ等を蒐集し、研究する人のそれと同じなのである。日本の田舎の子供は、昆虫の数百の「種」に対する俗称を持っているが、米国の田舎の子供は十位しか持っていない。私は屢々、彼の昆虫の構造上の細部に関する知識に驚いた。

[やぶちゃん注:モースが最後に虫の名前の子どもらの知識について述べていることは、実はそれ以上にモースの専門やそれに近しい魚類や海産無脊椎動物の名前にこそ言うべきであるという気が私はする。これは今現在の、大人の日本人と外国人の間でも、はっきりとした有意な違いである。あなたの近くの外国人に魚や貝の名前を母国語でどれだけ挙げられるか競争してみられるがよい。まず、十中八九、あなたの勝ちである。

「福沢氏の有名な学校」無論、「福沢」は福沢諭吉、「学校」は彼の創立した慶応義塾大学であるが、これは順序からいうと、華族会館での講演よりも九日前の七月十一日に行われた進化論講話を指している。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」に以下のようにある(注記号は省略した)。

   《引用開始》

[やぶちゃん注:前略。]『慶応義塾百年史』に引用されている当日の『永井好信日記』には、

[やぶちゃん注:以下、底本では引用全体が一字下げ。底本は新字であるが、ここは恣意的に正字化し、読みも歴史的仮名遣に代えた。]

「此日午前十時半頃東京大學の教師「モールス」、メンデンホール、フェネロサの三氏及び英國の女一人來たり、當塾教授を一見し、終(をはり)て柔術場に至り、柔術、劍術を見、夫(それ)より三階に至り午飯を喫し、終て書生一同で公開演説館に會し、モールス氏變進論(エボリユーシヨン)を演説し、矢田部氏之を口譯せり。右演説をはり暫時萬來舍にて福澤先生及び教師等と談話し歸れり」

とある。福沢諭吉はモースを高く評価しており、明治十一年十二月十八日付の田中不二麿宛書簡でモースを東京学士会院の会員に推薦したほどだった。もっとも、モースがアメリカ人だったからか、帰国を決意していたからか、この推薦は実現しなかった。また、のちに福沢は、留学した子息捨次郎の世話をモースに頼んでもいるのである。

   《引用終了》]

 

 一例として、私が一人の小さな田舎の子で経験したことを挙げよう。私は懐中拡大鏡の力をかりて彼に、仰向けに置かれると飛び上る叩頭虫(こめつきむし)の、奇妙な構造を見せていた。この構造を調べるには鏡玉(レンズ)が必要である。それは下方の最後の胸部環にある隆起から成っており、この隆起が最初の腹部切片にある承口にはまり込む。叩頭虫は背中で横になる時、胸部と腹部とを脊梁形に曲げ、隆起は承口を外れてその辺にのりかかる。そこで身体を腹面の方に曲げると、一瞬間承口の辺で支えられる隆起は激烈な弾き方を以てピンと承口の中へはまり込み、その結果虫が数インチ空中へ飛び上る。さてこの構造をよく知っているのは、我国では昆虫学者達にとどまると思うが、而もこの日本の田舎児はそれを総て知っていて、日本語では米搗(つ)き虫というのだといった。蹴爪即ち隆起が臼の杵と凹(くぼみ)とを現しているのである。彼は然し、この構造を精巧な鏡玉で見て大きによろこんでいた。

[やぶちゃん注:「叩頭虫(こめつきむし)」(謂わずもがな乍ら、「叩頭」は音「コウトウ」で「こめつきむし」は無論、当て字)原文は“an elater beetle”。“elater”は植物学用語で胞子を弾き出す弾糸で、ここに言う鞘翅(コウチュウ)目カブトムシ亜目コメツキムシ上科コメツキムシ科 Elateridae のコメツキムシ類(英名は他にClick beetle とも)をも指す。ウィキの「コメツキムシ」によれば、『天敵に見つかると足をすくめて偽死行動をとる(世に言う「死んだふり」)。その状態で、平らな場所で仰向けにしておくと跳びはね、腹を下にした姿勢に戻ることができる。(胸―腹の関節を曲げ、胸を地面にたたきつけると誤解されるが、頭―胸を振り上げている。地面に置かず手に持つことで確認できる』。『この時はっきりとパチンという音を立てる。英語名のClick beetleはクリック音を出す甲虫を意味する』。『天敵などの攻撃を受けてすぐに飛び跳ねる場合もある。これは音と飛び跳ねることによって威嚇していると考えられている。この行動をとらないコメツキムシ科の種も存在する』とある。なお、その跳躍の高さを「数インチ」(一インチは二・五四センチメートルであるから六インチとしても十五センチメートル強だが、コメツキムシは大型個体ならその跳躍は三十センチメートルに及び、恐らく動物の中では恐ろしく敏捷な動作を示す。

「承口」「うけぐち」と訓じている。

「米搗(つ)き虫」原文は“a rice-pounder”。“pounder”は石板や鉢で擂り潰す人、突き砕く人の意。]

 

 講演後福沢氏は私に、学生達の素晴しい剣術を見せてくれた。彼等は皆剣術の甲胃を身につけていた。それは頸部を保護する褶(かさね)と、前方に顔を保護する太い鉄棒のついた厚い綿入れの冑と、磨いた竹の片で腕と肩とを余分に保護した、つっばった上衣とから成っている。上衣には綿入れの褶数片が裾として下つている。試合刀は竹の羽板を数本しばり合わせたもので、長い日本刀に於ると同じく、両手で握るに充分な長さの柄がついている。大なる打撃は頭上真直に来るので、両手で試合刀を縦に持ち、片方の手を前方に押すと同時に下方の手を後に引込ます結果、刀は電光石火切り降される。

[やぶちゃん注:「褶(かさね)」原文は“lappets”。この訓は一般的なものではない。防具の面の正面の咽喉の前に下がる「顎(あご)」と左右の「面布団(めんぶとん)」。“lappets”は衣服・帽子などの垂れ飾り・垂れで、石川氏の「褶」は襞状の垂れ下がるものを指して言っているらしいが、訓ならば「しびら」「ひらみ」「ひらおび」である。但し、それらは孰れも腰に垂らすものであり、失礼ながら、石川氏は鎧の「札(さね)」の意に慣用転用しておられるようにも見える。]

 

 学生達は五十人ずつの二組に分れ、各組の指導者は、自分を守る家来共を従えて後方に立った。指導者の頭巾の上には直径二インチ半で、糸を通す穴を二つあけた、やわらかい陶器の円盤があり、対手の円盤をたたき破るのが試合の目的である。丁々と相撃つ音は恐しい程であり、竹の羽板はビシャンビシャンと響き渡ったが、もっとも撲った所で怪我は無い。福沢氏は、有名な撃剣の先生の子息である一人の学生に、私の注意を向けた。彼が群衆をつきやぶり、対手の頭につけた陶盤をたたき潰した勢は、驚く可きものであった。円盤は数箇の破片となって飛び散り、即座に争闘の結果が見えた。学生達は袖の長い籠手(こて)をはめていたが、それでも戦が終った時、手首に擦過傷や血の出るような搔き傷を負った者がすくなくなかった。

[やぶちゃん注:ここで唐突に二回目の来日の記載は終わっている。モースは実はこの二回目の来日を最後として、この時には三度目の来日は考えていなかった(故郷の友人ジョン・グールド宛書簡では専門の腕足類の研究と書物の執筆の他、イーディスとジョンの教育上の問題をその理由として挙げている)。そうした当時の彼自身の内心を見透かされることをモースは――愛する日本のために――嫌ったのかも知れない。それが、こうした不思議なブレイクになって表れているように、ここまでモース先生と一緒にやってきた私には、何となく、感じられるのである。但し、モースは離日の前月の八月中旬に武蔵国冑山(かぶとやま:現在の埼玉県東松山市と熊谷市の境)の古墳を調査しているが、ここは次の三度目の来日の際に行った同所の調査と混同してずっと後の「第二十四章 甲山の洞窟」で一緒くたに書かれてしまっている(随って、この時調査はそちらで注する)。

「丁々と相撃つ音は恐しい程であり、竹の羽板はビシャンビシャンと響き渡ったが、もっとも撲った所で怪我は無い。」原文は“The noise of the clash was terrific; the slats of bamboo made a resounding whack, though the blows did no damage.”である。“whack”というのは一種のオノマトペイアらしく、棒で殴打・強打すること・ぴしゃり、と辞書にある。

「二インチ半」六・三五センチメートル。]

耳嚢 巻之十 深川の白蛇船頭の跡追ふ事

 深川の白蛇船頭の跡追ふ事

 

 文化十酉年、本所押上(おしあげ)の普賢(ふげん)殊外(ことのほか)參詣多き事ありしが、同年二月の頃、深川へ客を送りけるや、川筋の船頭翌朝戻り舟を漕歸(こぎかへ)りけるに、餘程の白蛇、右舟に付(つき)跡を追ひて來りし故、己が河岸(かし)へ船を付(つけ)しに、尚上へ上りて船頭の跡へ附(つき)、彼(かの)家の内へ入りければ、妻子恐れけるを制して、桶をかぶせ置(おき)て、翌日押上の普賢へ納(をさめ)けるに、右寺には名代(なだい)の大木の松ありしに、右松の邊にて隱顯して住(すみ)けるを、白蛇を見んと追々參詣群集(ぐんじゆ)なしけると也(なり)。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。動物奇譚。

・「文化十酉年」「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月。

・「本所押上」「本所押上」は現在の東京都墨田区本所の北端部に当たる押上地区(押上・業平・横川)は東京スカイツリーで知られる。

・「普賢」というのは、この墨田区業平にある日蓮宗長養山春慶寺(東京スカイツリー南東約二百メートルに位置する)にある普賢堂の普賢菩薩のこと(本尊は釈迦如来)。公式サイトによれば、春慶寺は元和元(一六一五)年に浅草森田町に真如院日理により創建され、寛文七(一六六七)年、浅草から本所押上村へ移転したとあり、古くから「押上の普賢さま」と称され、特に辰年・巳年の守り本尊として多くの参詣人で賑わったとある(因みに、この寺は四世鶴屋南北の菩提所でもある)。底本の鈴木氏注に、『本所押上の普賢菩薩は、春慶寺の普賢堂の事なり。推古朝百済の僧観勒の請来と云、二寸八分の尊像と云、文化九年壬中三月十四日より開帳、夫より引つゞきて参詣多かりしか。(三村翁)』とある。この像は六本の牙をもった白象に乗るもので、現在は普通に拝観出来る。公式サイトでも画像が見られる。

・「深川」非公認の深川(洲崎)遊郭へは客は舟で通った。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 深川の白蛇、船頭の後を追うこと事

 

 文化十年酉年は、本所押上の普賢の開帳に、これ、殊の外、参詣の者、数多御座った。

 それに先立つ一月ほど前のことの由。

 同年二月の頃、深川の遊里からの帰りの客ででもあったものか、川筋の船頭、朝方に船を使い、客の降りて、戻り舟を漕ぎ返しておったところ、かなり大きなる白蛇(はくじゃ)が、これ川面を、その船頭の舟について後を追うて参るのに気づいた。

 自身の舫(もや)いの河岸(かし)へ舟をつけても、この白蛇、なおも、陸(おか)の上へと登り、船頭の後をついて参って、遂には、かの者の家の内へまで入(はい)り込んだによって、船頭の妻や子は、これ、大いに恐れた。

 されど船頭、その騒ぎを制して、蜷(とぐろ)を巻いて凝っとしておる白蛇に、そっと桶を被せおいた。

 さても翌日のこと、船頭は、やはりちんまりと静かにしておった白蛇を、これ、桶内に移すと、かの押上の普賢さまへと持ち込んで、この白蛇を寺へ納めたと申す。

 かの春慶寺には知られた大木の松の御座るが、この白蛇、その松の辺りにて、これ、姿を見え隠れさせつつ、住みなしておると申すが、これまた、その白蛇を見んものと、近頃は、またまた参詣の者、これ、群聚(ぐんじゅ)なしておる、とのことで御座る。

尾形龜之助 「晝の雨」 心朽窩主人・矢口七十七中文訳

 

    晝の雨

 

         尾形龜之助

 

土手も 草もびつしよりぬれて

ほそぼそと遠くまで降つてゐる雨

 

雨によどんだ灰色の空

 

松林の中では

祭りでもありそうだ

 

[注:「ありそうだ」はママ。]

 

 

Hirunoame

 

 白天的雨

         
作 尾形龟之助
         
译 心朽窝主人,矢口七十七

 

河堤 杂草 都被细雨淋湿……

隐没在这场雨里的静谧世界……

 

蒙蒙雨中低垂密布的灰色天

 

也有可能在松林间

开一个庙会吧……

 

Hirunoame_2
 


         
矢口七十七/

2015/03/24

耳嚢 巻之十 珍ちん麥の事

 珍ちん麥の事

 

 備後にちんちん麥といふあり、上品の由。餘國にもある事、聞(きき)及びしや、備後福山城主阿部備中守より賜りし事ありしに、其味(あじは)ひ格別にて、予麥の飯は餘り好まざれど、彼(かの)麥は甚(はなはだ)よく覺へければ厚く禮を述(のべ)しに、傍に脇坂中書公有(あり)て、チンチン麥は別段の事、中書朝鮮人來港の御用にて、則(すなはち)備中守領内を通りしに、麥と思敷(おぼしき)もの畑に見事にみのりしを見しに、通途の大麥は野毛(のげ)多き處、一向毛なく、小麥ともまた異なり。兼て聞(きき)及びし故、珍々麥やと、側なる者もて尋(たづね)しに、所のもの、さん候、能(よく)御存(ごぞんじ)と申(まうし)けるが、中書の案(あんず)るに、チンチンの號、其謂(いは)れあるか。土俗毛のなき處より、小兒の陰莖をちんこといふに批(ひ)して申(まうし)ならはしけると、格物せしと語りぬ。左(さ)もあるべき事也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。食用植物博物誌。

・「珍ちん麥」芒(のぎ)のない麦類ということで調べて見たが、捜し方が悪いのか、種として探り当てることが出来なかった。これを単子葉植物綱イネ目イネ科オオムギ属オオムギ変種ハダカムギ Hordeum vulgare var. nudum とする記載も見かけたのだが、画像を見る限りに於いてハダカムギには芒はある(但し、ウィキハダカムギを見ると、この種群は『粒の皮裸性(実と皮の剥がれやすさ)に着目した系統名のひとつで、オオムギの品種のうち実(穎果)が皮(内外穎)と癒着せず容易に離れるため、揉むだけで皮が剥けてつるつるした実が取り出せる品種群のことをいう』とあって、この性質をかく言っているのだろうか? 識者の御教授を乞うものではある。ただ、野生種であればあるほど、遠くへ飛ばすために芒は長く大きくなる傾向があるから、この地方で栽培改良されたものは、芒が著しく細く短くなったものであった、という風には推理は出来るように思われる。

・「聞及しや」底本には「や」の右に『(也カ)』と訂正注がある。

・「備後」備後国。広島県の東部分に相当する。現在の福山市(坪生(つぼう)地区東部・野々浜地区の一部を除く全域)・尾道市(生口島(いくちじま)・瀬戸田町地区を除く全域)・三原市(西部・沼田川以南を除く全域)・府中市全域・三次(みよし)市(江(ごう)の川以東の全域)・庄原(しょうばら)市全域・世羅(せら)郡全域・神石(じんせき)郡全域に該当する(以上はウィキの「備後国」に拠る)。

・「福山城主阿部備中守」主に備後国(広島県東部)南部および備中国(現在の岡山県西部一帯)南西部周辺を領有した福山藩(藩庁は福山城(現在の広島県福山市)。譜代。石高十万石。「卷之十」の記載の推定下限文化一一(一八一四)年六月当時は第五代藩主阿部正精(まさきよ 安永三(一七七五)年~文政九(一八二六)年)で、この頃は幕閣として奏者番兼寺社奉行でもあった。また、この三年後の文化十四年には老中に昇格している。

・「脇坂中書公」播磨龍野藩第八代藩主脇坂安董(わきさかやすただ 明和四(一七六七)年~天保一二(一八四一)年)。官位は従五位下淡路守から従四位下中務大輔・侍従に進んだ。この後、以前に勤めた寺社奉行に戻った後、やはり老中となっている。「中書」は中務省の唐名。龍野藩は播磨国龍野周辺を領有した藩で藩庁は龍野城(現在の兵庫県たつの市)。

・「朝鮮人來港の御用」朝鮮通信使による幕府への「聘礼(へいれい)」(品物を贈る礼式)は天明の大飢饉以降(実際には政治的駆け引きによる)、中止されていたが、翌文化八(一八一一)年に二十年ぶり「易地聘礼」(「易地」は場所を江戸から対馬に変えることをさす。幕府予算の削減が目的)が実現した。脇坂の言うのはその時の御用である(御用の内容は不明だが、対馬へ実務官僚として出向いたものか)。因みに、この時、安董は奏者番兼寺社奉行であった。

・「思敷(おぼしき)」は底本の編者ルビ。

・「大麥」イネ科オオムギ Hordeum vulgare

・「野毛」底本には「や」の右に『(芒)』と訂正注がある。「のぎ」で、稲・麦などイネ科植物の実の外殻にある針のような毛のことであるが、これは「のげ」とも読み、本文自体はこれで問題ない。

・「小麥」イネ科イチゴツナギ亜科コムギ連コムギ属パンコムギ(又はコムギ) Triticum aestivum 。コムギ類の方が芒は小さいが、この本文の記述は寧ろ、大麦の仲間のくせに芒がなく、小麦とも全然違う、というニュアンスではある。こうなってくると寧ろ、「野毛」、針状の多数の芒ではなく、大きな一本の芒を持つ(或いは持つだけに見える)、それが、あたかも陰毛のない、子どものおチンチンのような感じであるところの、ハダカムギの一品種を指しているのかも知れない。

・「格物」物の本質を究めること。「格物致知」という語があり、これは物事の道理や本質を深く追求し理解して知識や学問を深め得ることを言い、「大学」に由来する語とされる。これは一説に、宋の朱熹が出典を「知を致いたすは物に格(いた)るに在り」との意で読んで、自己の知識を最大に広めるにはそれぞれの客観的な事物に即してその道理を極めることが先決である、とする解釈、また一説には、明の王陽明が「知を致すは物を格(ただ)すに在り」の意で読んで、生まれつき備わっている良知を明らかにして天理を悟ることこそが自己の意思が発現した日常の万事の善悪を正すことである、とする解釈である(他にも諸説あり)。ここは――対象たる特異な「麦」の形状の観察から「ちんちん」命名の真相を究めた――と大仰に面白おかしく言ったものであろう。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 珍々麦の事

 

 備後に「ちんちん麦」という麦の御座って、なかなかの上製の品であると申す。他国にもあるとのことを聞き及んだこともあったやも知れぬ。

 「と申す」と述べたものの、実は私、以前、備後福山城主阿部備中守正精(まさきよ)殿より、この「ちんちん麦」を賜わったことが御座って、食させて戴いたのであるが、その味わい、これ、格別のもので御座った。

 正直申せば、私は麦の飯、これ、あまり好まず御座ったれど、この麦は特別で、はなはだ美味く思うたによって、阿部殿には後日、厚く御礼を致いたのであった。

 ところが、その時、たまたま傍らに脇坂中務大輔(なかつかさだいすけ)安董(やすただ)殿がおられ、

「――いや! チンチン麦は、これ、格別の味わいにて御座っての! 我らも先年、朝鮮通信使御来港の御用にて、備中守殿の御領内を通行致いた折り、麦と思しきものが、これ、沿道の畑に美事に稔って御座ったを見申したが、普通の大麦は芒(のぎ)がもしゃもしゃと頗る多御座るが、これには一向、毛がない。かと申して小麦とも全く違(ちご)うたもので御座った。かねてより、その名を聞き及んで御座ったによって、

『これがかの珍々麦であるか?』

と、側なる者に命じ、訊ねさせたところ、土地の者が、

『その通りにて御座いまする! よくぞ、ご存じで?!』

と申して御座った。

 さても、拙者、按ずるに、この「チンチン」と申す名は、その謂われ、このようなものにて御座るまいか? 則ち、

――土俗にて、細かなもしゃもしゃした毛がないところより、それを小児の陰茎を、これ、「ちんこ」と言うに譬えて、かく呼び慣わしおる――

と、拙者は格物(かくぶつ)致いたので御座るが、さても、如何がで御座ろう?」

と、語られた。

 いや! 実にその通り! 素晴らしき御明察――格物致知――と存ずる。

耳囊 卷之十 古石の手水鉢怪の事

 

 古石の手水鉢怪の事 

 

 御醫師に人見幽元と申(まうす)あり。茶事にも心ありしが、番町にて〔名も聞(きき)しが忘れたり〕古き石の手水鉢(てうづばち)あるを見てしきりに所望なせしが、右は年久敷(ひさしく)、庭にありて、調法なすにもあらざれど、殊外(ことのほか)根入(ねいり)ふかき由言(いひ)ければ、夫(それ)は人を懸けてほらせ可申(まうすべき)間、何卒可給(たまはるべし)と約束して、其日になりて人夫を雇ひ、根入りはいとふかけれど難なく掘出(ほりいだ)し、光榮事幽元方へ持込(もちこみ)、扨々珍器を得たりと、殊外欽(よろこ)び寵愛せしに、其夜より右手水鉢、歸るべき由申(まうす)よし。家内これさたに、石の物言ふといふ事有(ある)べきやうなしと、兎角夜に入れば物言ふ事やまず、恐れて元に歸しけるとや。譯ありて事を怪(くわい)にたくしけるか、石(いし)魂(たましひ)ありてかくありしやしらず。 

 

□やぶちゃん注

○前項連関:妖狐から付喪神(つくもがみ)の怪異譚連関。

・「人見幽元」底本の鈴木氏注に、『友元。名は宜郷(ヨシタカ)。父資知(玄徳、法橋、瑞祥院)が禁裏の医師から幕府に仕え、七百石を与えられた。宜郷も法眼に叙し、延宝二年家を継いだが、また林春斎などと共に儒者として活動。元禄九年没、六十』とある。「朝日日本歴史人物事典」によれば、人見竹洞(ひとみちくどう 寛永一四(一六三八)~元禄九(一六九六)年)は江戸前期の儒学者で漢詩人とし、名は節、字を宜卿、通称又七郎、友元(ゆうげん)、号は竹洞・鶴山など。本姓は小野氏で、禁裏の医師の子として京都に生まれ、幼年から江戸に出て林羅山に学び、徳川家光の御代、世子家綱の御伽役となり、後に幕儒に任ぜられて剃髪したとある。また、林一門の歴史書「続本朝通鑑(つがん)」編纂に参画、法眼に叙せられて延宝二(一六七四)年、家督采地七百石を相続、公務では朝鮮通信使応接・武家諸法度(天和令)成稿・諸家諸寺に出す朱印状作成などに携わり、同じ儒官木下順庵らとの「武徳大成記」(松平氏の発生から徳川家康の一生の事跡武功を記した歴史書)編述は徳川綱吉の御代の業績の一つとされる。かく代々の将軍の信任を得、幕府の修史・書記役を主としたが、諸大名旗本の間或いは林家を介した学者文人連中との交流の中心にもいて、詩文も名勝に寄せたものや贈答の作が多い、とある。鈴木氏注の「林春斎」は林羅山の三男林鵞峰のこと。それにしても「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年であるから、没年から数えて百二十一年前、珍しく異様に古い都市伝説引っ張り出した感がある。最後にかく附言しているところを見ると、根岸は何か、怪異仕立て背後に別の生臭い真相を嗅ぎ取ろうとしている感じが濃厚である。これは手水鉢ではなく、人間の女(庶子の娘とか女房とか下女とか)なのではあるまいか?

・「光榮」底本には右に原典のママ注記。齟齬が多いのは実名を出すに躊躇したか。現代語訳ではそれを意識して総て名はママとした。

・「家内これさたに」底本には「これ」の右に原典のママ注記。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、『家内取沙汰(とりさた)に』である。それで訳した。

・「石の物言ふといふ事有べきやうなしと、」底本には「なしと、」の右に編者の『(ママ)』注記。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版も同じ。末を「と申せど」で訳した。 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 古石(ふるいし)の手水鉢(ちょうずばち)の怪の事

 

 幕医に人見幽元(ゆうげん)と申す御仁がおられた。

 茶事(ちゃじ)にも造詣の深くあられたが、番町にて、とある御仁の屋敷内に――名も聞いたが失念致いた――古き石の手水鉢のあるを見かけ、

「……これは!――よき形(なり)――よき紋様(もんよう)じゃ! 気に入った!」

と、当主へ、これ、しきりにその手水鉢を所望致いて御座ったが、主(あるじ)は、

「――これは年久しゅうこの庭に御座るものにて、まあ、これといって調法致いておるわけにても御座いませぬが……ただこれ、殊の外、根深(ぶこ)ぅ据えて御座いますれば。……」

と応じたところが、幽元殿は、

「――何の! それは相応の人を雇うて掘らせまするによって、何卒、給わりとう存ずる!」と、切(せち)に望まれたによって、譲る契約を交わした。

 さてその日となって、力自慢の人夫をも雇い――確かに異様に深く据えられては御座ったが――難なく掘り出だいて、光栄(こうえい)こと幽元殿方屋敷へと持ち込んで、庭に据えつけた。

 幽元殿、しみじみ、この手水鉢を見、

「――さてさて! 珍らしき名器を得たわい!」

と、殊の外、悦ばれ、頻りに寵愛なした。

 ところが、その移築致いた、その夜より始めて、毎夜、かの手水鉢、

「……帰りたい……帰して……」

と呟く声を、これ、家中の者の誰彼(たれかれ)が聴いたと言い始めた。

 主人は幕医にして儒者でも御座ったによって、家中の表向きの沙汰にては、

「――石が物を言うなどという事、これ、あるびょうもない!」

ときつく申しては御座ったものの……これ……確かに……夜に入るるや……かの庭の手水鉢の方より……

「……帰りたい……帰して……帰して……」

と物言うこと、これ止まず、主(あるじ)も気味悪うなって、遂には元の屋敷へと戻し返したとか申す。

 これしかし……何か表沙汰に出来ぬ訳のあって、事を怪に仕立ててたものか?……

 それともこれ……まっこと……石に魂(たましい)の御座ってかく訴えたものか?……

 今となっては、これ、藪の中にて御座る。……

耳嚢 巻之十 獸も信義を存る事

 獸も信義を存る事

 

 尾州御館(おやかた)の白書院(しろしよゐん)とかや、御庭老い繁れる松兩三株ありて、其根に穴あり。年久しく住める狐ありて、壹人扶持づゝ、あづかる者ありて食事に拵へ絶へず與へけるよし。しかるに文化十年修復の事あり、市ケ谷町家(まちや)の職人兩三人も來りて修復の拵(こしらへ)をなしけるに、壹人の若き大工、仕事休みの内、其邊の庭廻りを見けるに、右松の木陰に古き桶ありしが、これは何のためなるやと獨り言(いひ)しを、しれる大工、それは狐に餌をあたへたまふ由を申(まうし)ければ、魚の類(たぐい)も見へず、めし計(ばかり)、これには狐も食(くふ)にあき間敷、われら方へ來らばむまきもの振舞(ふるまは)んと口ずさみしが、其夜彼(かの)大工の若者へ狐つきて、わからぬ事を申ける故、父母其外大きに驚(おどろき)、いかなる事にて此者に狐付(つき)けるや、いづかたの狐なるやと尋(たづね)ければ、尾張御庭の狐なり、此者我方へ來らば振舞(ふるまひ)せんといひし故來れりと申ける故、其好みに應じ小豆飯(あづきめし)など振(ふる)まひけるに、多くも喰(くらは)ざりしが、是は過分(くわぶん)の由悦び食ひて、年久敷(ひさしく)御庭に住(すみ)たまふやと尋ければ、太閤秀吉の頃より此處に住むよし申けるとなり。約束の食事も振舞(ふるまひ)ぬれば最早おちたまへと申ければ、成程(なるほど)をち可申(まうすべし)、しかしながら明朝迄はさし置呉(おきくれ)候樣申(まうす)故、何故(なにゆゑ)にや、夜分は犬なぞを恐れ候哉(や)と申ければ、我らがやうなる數百年を經たる狐は、犬など怖るべきにあらず、何疋取卷(とりまく)とも物の數とはせず、しかれども屋敷の門限が過(すぎ)ぬれば、こよひは通りがたし、明(あけ)なばとくかへらんと申(まうす)故、神通(じんづう)を得たる狐、なんぞ門の限りを恐るゝや、いづ方よりも歸らるべきと申(まうし)ければ、我年久鋪(ひさしく)、尾張の厚恩を請(こひ)ぬれば、塀垣(へいかき)等を越(こゆ)るは安けれ共(ども)、垣を破る事はすまじき事の由、くれぐれも食事振まひ馳走なせし社(こし)忝(かたじけな)けれと禮謝なし、我等數年御屋敷の御扶持にて事足(たり)ぬれど、近頃子供多く出來て食ひ足らぬ事あるよしを、問答の内(うち)答へけるを、尾張の役人へ聞(きき)に入れしに、尤(もつとも)なる事なり、加扶持(くわぶち)たまはりしと專ら市谷邊の噂聞(きき)しが、彼家の老職鈴木嘉十郎といへる人、衞肅(もりよし)が歌の友にて、會合の折からかたりしを、予も聞し故しるしぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:動物奇譚から狐妖異譚で連関。八つ前の「豪傑怪獸を伏する事」の某下屋敷とロケーションの似ているところがあるが、こちらは尾張藩白書院とかあって、描写の細部にも齟齬があり、同一の屋敷ではない。

・「尾州御館」後に「市ケ谷」と出るから、尾張藩名古屋徳川家御上屋敷である。当時の藩主は先に示したが再掲すると、文化一〇(一八一三)年五月(後注参照)の頃は、第十代藩主徳川斉朝(なりとも 寛政五(一七九三)年~嘉永三(一八五〇)年:第十一代将軍徳川家斉の弟で一橋家嫡子だった徳川治国の長男)である(彼はこの文化十年八月十五日に家督を家斉の十九男斉温(なりはる)に譲って三十五歳の若さで隠居、以後、名古屋で二十三年間に亙る隠居生活に入った。但し、次代の藩主斉温が一度も尾張入りしなかったため(彼は病弱を理由に江戸藩邸に常住、襲封後、嘉永三(一八五〇)年に二十一の若さで死去するまでの十二年間、第十一代尾張藩主でありながら、何と一度も尾張藩領内に入らなかった)、その後も「大殿」として隠然たる力を持ったとされる。以上はウィキの「徳川斉朝」及び「徳川斉温」に拠った)。最後に狐に加扶持をするところ辺り、この斉朝にこそ相応しい。

白書院」「しろじよゐん(しろじょいん)」とも読む。檜の白木造りを基本とした漆塗りを施していない書院造りのこと。武家(主に江戸城及び諸侯の第や屋敷などの大規模な殿舎に設けられた)では奥向き、寺家では表向きの座敷。天井の格子・障子の縁・床框(とこがまち)に至るまで黒漆塗りとした、主に居間風の座敷として使われた黒書院の対語。

・「御庭老い繁れる」底本には「老」の右に『(生)』と訂正注する。それぞれのリンクはそれぞれの語のグーグル画像検索。

・「文化十年」「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月。ホットな都市伝説である。岩波の長谷川氏注には、医師で文人であった加藤曳尾庵(えいびあん)の「我衣」八にもこの記事が載ると記し、そこでは文化十年五月初めの出来事として出るとある。

・「食にあき間敷」「まじく」では文意が通じない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、『食事にあき申(まうす)べし』である。それで訳した。

・「小豆飯」小豆を前もって煮ておき、その煮汁とともに白米に交ぜて炊いた赤飯のこと。

・「過分」分に過ぎた扱いを受けること、身に余るさまで、主に謙遜の意で用いる。

・「太閤秀吉の頃より」後に「我らがやうなる數百年を經たる」と出る。これを厳密な意味で「太閤秀吉」、秀吉が甥秀次に関白を譲った天正一九(一五九一)年をこの狐の誕生年とすれば、「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年であるから、この妖狐の年齢は数えで二百二十四歳となる。

・「門限」江戸の藩屋敷には門限があった。しかし、Rekisinojyubako 氏のブログ「重箱の隅っこ」の「津山藩江戸屋敷の門限」を見ると非常に面白い事実が分かる(津山藩は美作国の大半を領有し、藩庁は津山城(岡山県津山市)にあった)。それによれば(津山郷土博物館発行の図録「津山藩の江戸屋敷」(二〇〇一年刊)の尾島治氏の記載に拠るとある)、鍛冶橋(現在の東京駅付近)にあった『津山藩上屋敷の門限は暮れ六ツ時』(午後六時頃)で(以下、改行を詰めた)、

   《引用開始》

これは『鳴雪自叙伝』に記された松山藩の門限とも共通していますので、おそらくどの藩も暮れ六ツが門限だったものと考えられます。ここまではよいのですが、尾島氏はこれに続けて、実際には午後9時頃に六ツ時の拍子木を打って廻ったと記しています。午後9時に午後6時に拍子木を打つなんて、これまた掟破りな江戸時間の在り方。津山藩士は外出の用向きを済ませた後、両国あたりで夕食と軽い晩酌をして、明かりが灯る頃になっても、少し足早に帰れば拍子木の時刻までに間に合ったというのです。他の藩では拍子木打ちの仲間に賄賂を渡したり、妨害したりして門限を延ばしていたことは以前にも記しましたが、そもそも午後9時に六ツ時の拍子木を打つのは、何かそうした実情にあわせて生み出されたルールといった感もします。それにしても、フレッキシブルな江戸時間には脱帽です。

   《引用終了》

とあって、なかなかにぶっ飛びの真相である。

・「久鋪(ひさしく)」のルビは底本編者によるルビ。

・「社(こそ)」のルビも底本編者によるルビ。国訓で係助詞の「こそ」である。「日本書紀」「万葉集」に用例がある古い読みであるが、その由来は不明である。福山藩の漢学者太田全斎が江戸後期に作った辞書「俚言集覧」には『〔萬葉集〕乞、欲、社、欲得、皆「コソ」と訓(よめ)り』とし、『神社ハ祈請の所なれば乞の字義通(かよ)へり。姓の古曾部も日本記社戸と書(かけ)り』とあるが、分かったような分からないような説明である(引用は国立国会図書館の近代デジタルライブラリーの明治三二(一八九九)年刊村田了阿編・井上頼圀/近藤瓶城増補版のここを視認した)。

・「松平家」松平氏とは元来、三河地方(現在の愛知県)の松平郷を支配する一豪族であったが、九代目当主であった家康二十三歳の永禄九(一五六六)年に、徳川に改め、以降、征夷大将軍と御三家(尾張・紀伊・水戸)の当主及び御三卿(田安・一橋・清水)の当主のみが「徳川」を名乗ることが出来、それ以外の家系が「松平」を名乗った。徳川も元は松平家なわけである。

・「老職鈴木嘉十郎」尾張藩重臣鈴木主殿家の鈴木丹後守重逵(しげき? しげき?)か?(系図から推測)

・「衞肅」耳嚢 巻之四 小兒餅を咽へ詰めし妙法の事で既注。再掲すると、底本補注で『モリヨシ。九郎左衛門。根岸鎮衛の長男』で寛政三(一七九一)年に『御小性組に入』り、その当時三十一歳とある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 獣も信義を存ずるという事

 

 尾張徳川家上屋敷の白書院(しろしょいん)での出来事とか申す。

 御庭に生い繁れる松が、これ、合わせて三株(みかぶ)御座って、その根がたに穴のあって、そこに年久しゅう住める狐の御座ったと申す。

 この屋敷には一人扶持を給わって御座った屋敷守の者がおり、この狐がために、朝夕の食事を拵えては絶へず供して御座ったと申す。

 さて、文化十年の年のこと、この白書院、修復の儀これあり、市ヶ谷の町屋の職人が三人ほど来たって、修復を始めたが、一人の若い大工が休憩の折り、その辺りの庭廻りをぶらついて御座ったところが、かの松の木蔭に、古き桶の置かれてあるのを見かけ、

「……これは何のためにあるんかのぅ。」

と独り言を言うたところ、御屋敷出入りの馴染みの大工が、

「それは狐に餌を与えていなさるんじゃ。」

と答えたによって、

「……魚(さかな)の類いも見えず、白飯(しろめし)ばかりじゃ。これでは狐も食うに飽きるじゃろうに。……我らが方へ来たらば、美味いもん、これ、たんと振る舞もうてやるのにのぅ。……」

と、軽口をたたいて御座った。

 ところが、その夜のことである。

 かの大工の若者へ狐の憑きて、訳の分からぬことを口走り始めたによって、父母兄弟、長屋の連中、これ、大きに驚き、

「……お、お狐さま!……いかなる訳のあって、よりによって、こんな者(もん)にお憑きになられましたか?……何処(いずこ)のお狐さまで御座るるか?」

と、狐の憑いた若者に聴き質いたところが、

「……我ラハ……尾張御庭ノ狐ジャ……コノ者……我方ヘ来ラバ振ル舞イセント言イシ故……カク来ッタ……」

と申したによって、恐る恐る、これ、

「……な、何をお好みか?」

と訊ねたところが、

「……小豆飯……」

と答えたれば、慌てて赤飯を調え、若者に供したところ、

「……コレハ……マッコト……有リ難キコト……」

と悦んで食うた――但し、あまり多くは喰わなんだとも申す――。食い終ったところで、

「……永の年月、かの御庭にはお住まいになっておられまするか?」

と訊ねたところ、

「……ソウサ……太閤秀吉ノ頃ヨリ……ココニ……住ンデオル……」

と答えた。

 暫く致いて、

「……お約束のお食事も、これ、振る舞いまして御座いますれば……どうか……早(はよ)うに……この若造より、お離れ下さいませぬか?」

と水を向けたところが、

「……成程……落チ申ソウズ……シカシナガラ……明朝マデハ……コレ悪イガ……コノママニ……サシ置キ呉ルルヨウニ……」

と申したによって、慌てて、

「……そ、それはまた、何故(なにゆえ)にて御座いまするか?……夜分のことなれば、犬なんぞを、これ、お恐れなさってでも?……」

と問うと、

「……我ラノヨウナル数百年ヲ経タル狐ハ……コレ……犬ナゾ……怖ルルナンドトイウコトハ……コレ……アルビョウモナイ……野良犬如キ……コレ……何疋何十疋何百疋ト……取リ巻イタトテモ……物ノ数デハナイ……シカレドモ……モウ……屋敷ノ門限ガ過ギテシモウテ御座ッタレバノ……今宵ハ屋敷ヘ入リ難イ……夜ガ明クレバ我ラトク帰ランホドニ……」

と申したによって、

「……はて……神通力(じんつうりき)を得ておらるるお狐さまの……どうして門限なんどをこれ、お恐れなさいまする?……何処からでも、御屋敷へは、これ、お入りになられましょうほどに?……」

と訝って問うたところが、

「……我レ……年久シュウ尾張公ノ御厚恩ヲ請イ受ケテ参ッタ……無論……塀ヤ垣ナンドヲ越ユルハ……コレ安キコトナレドモ……塀ヤ垣ヲ越ユルニ際シ……万ガ一コレヲ損ズル事アラバ……コレ……憚ラルル事ナレバノゥ……」

と答えた上、

「……クレグレモ……カク食事……振ル舞イテ馳走ナシ呉レシコトコソ……忝ノゥ存ズルゾ……」

と、深く頭を下げて礼謝なし、

「……我ラ……数年ノ間……カノ御屋敷ノ御扶持ヲ給ワリ……ソレニテ事足リテ御座ッタガ……近頃……子供ノ多ク出来テノゥ……コレ少々……食イ足ラヌ事モ御座ルデノゥ……」

といったことを、この狐、問答の内に告白して御座った。

 かくして、夜明けとともに若者から狐は落ちた。

 さればその日のうちに、かの狐の話を、同席致いて直かに聴いた長屋の家主より町方へ、そこより尾張藩御屋敷の御役人方へと、その顛末を言上致いたところ、御藩主徳川斉朝(なりとも)様の御耳にも達し、御藩主様より直々に、

「……ふむ。それもまたこれ、もっともなる謂いじゃ。――永年、白書院が庭を守って参った狐なれば、これに供物の――加扶持(かぶち)を――これ、賜わるがよいぞ。」

と申されたと、これ、市ヶ谷辺にては専らの噂となっておると聴く。

 しかしこれ、ただの流言飛語と軽んずるなかれ。

 かの松平徳川家御家中、老職をお勤めになられておらるる鈴木嘉十郎殿と申す御仁、これ、私の長男衛肅(もりよし)の和歌の友人であられ、その和歌の会合の折り、直々にこのお話をなされたを、私も聞いて御座ったによって、確かな出来事として、ここに記しおくことと致す。

尾形龜之助 「一本の桔梗を見る」 心朽窩主人・矢口七十七中文訳

 

    一本の桔梗を見る

 

         尾形龜之助

 

かはいそうな囚人が逃げた

一直線に逃げた

    ×

雨の中の細道のかたはら

草むらに一本だけ桔梗が咲いてゐる

 

[注:「かはいそうな」はママ。]

 

Ipponnokikyouwomiru

 

 看见一支桔梗

         
作 尾形龟之助
         
译 心朽窝主人,矢口七十七

 

可怜的囚犯逃跑了

一直地逃跑去

 ×

雨里的小径路旁

啊!草丛里那儿,只有一支桔梗花……



         
矢口七十七/

尾形龜之助 「月が落ちてゆく」 心朽窩主人・矢口七十七中文訳

 

    月が落ちてゆく

 

         尾形龜之助

 

赤や靑やの燈のともつた

低い街の暗らがりのなかに

倒しまになつたまま落ちてしまひそうになつてゐる三日月は

いそいでゆけば拾ひそうだ

 

三日月の落ちる近くを私の愛人が歩いてゐる

でも きつと三日月の落ちかかつてゐるのに氣がついてゐないから

 

私が月を見てゐるのを知らずにゐます

 

[注:「暗らがり」「しまひそう」「拾ひそう」はママ。]

 

Tukigaotiteyuku

 

 月牙正在落下去
 
         
作 尾形龟之助
         
译 心朽窝主人,矢口七十七

 

低洼街巷黑暗处里

点了好几个灯——红的,还有蓝的……

向那黑暗处里,颠倒的月牙快要落下去了

我赶到那边的话,可能来得及捡到……

 

你看! 在月牙要落下来的地方那边,我情人走着路呢——

不过……她一定不知道月牙快要落下来了

 

因此,也不知道我正在看着 月牙呢——

 


         
矢口七十七/

2015/03/23

耳嚢 巻之十 犬に性心有事

 犬に性心有事

 

 牛込榎町(えのきちやう)栃木五郎左衞門組御先手與力矢野市左衞門祖父、隱居にて三無と稱し、文化十酉年、行年(かうねん)八拾九才にて健成(すこやかなる)老人の由。常に食事なす時に、飼犬(かひいぬ)と申(まうす)にも無之(これなく)候得共、暫(しばらく)右三無が屋敷へ來ける故、朝夕右犬にも食事を與へけるが、卯月の比(ころ)、三無いたわる事ありて二三日打(うち)ふしけれど、食事の節犬來ればわけあたへけるが、或日三無彼(かの)犬に向ひ、なんぢたへず食事の節は來る故、則(すなはち)食を與へぬれど、我等無程(ほどなく)煩(わずらは)しきが極老(きよくらう)なれば死(しな)ん事も計(はかり)がたし、我(われ)死なば汝に食事を是迄の通り與ふる事も覺束なし、此上は外に憐む心ある家へ便り候へかしと申諭(まうしさと)しけるが、不思議なるかな、其明けの日よりいづちへ行(ゆき)けん、右犬たへて來らざりしとなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。動物綺譚。

・「性心」人の心に比すべき、高度な心情といったニュアンスの謂いであろう。いや!これ、趙州狗子か!?(リンク先は私の「無門關 全 淵藪野狐禪師訳注版」の当該章ブログ版。猛毒注意!)

・「牛込榎町」現在、東京都新宿区榎町(えのきちょう)として名が残る。地下鉄牛込天神町の西直近。

・「栃木五郎左衞門」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『朽木(くつき)五郎左衞門』とあり、長谷川氏は『徳綱(のりつな)。寛政七年(一七九五)御小性組頭、文化三年(一八〇六)御先手鉄炮頭』と注されておられる。これは底本の書写の誤りであろう。訳は「朽木」で採った。

・「文化十酉年、行年八拾九才」西暦一八一三年であるから、生年は享保一〇(一七二五)年である。因みに「卷之十」の記載の推定下限は翌文化十一年六月で、根岸は元文二(一七三七)年生まれである。「行年」の「行」は「経(ふ)る」「経歴」で、これまで生きてきた年数を言う。現行では亡くなった年齢を指すが、原義からはこうした用い方も誤りではない。

・「卯月」文化十年四月。同年同月はグレゴリオ暦で五月一日から五月二十九日まで。

・「便り」底本には「便」の右に『(賴)』と訂正注する。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 犬にも相応の仏性のあるという事

 

 牛込榎町(えのきちょう)朽木(くつき)五郎左衛門殿の組の御先手与力を勤めた矢野市左衛門殿の祖父は、隠居されて「三無」と称し、文化十年酉年、八十九歳にていまだ矍鑠(かくしゃく)となさっておらるる老人の由。

 いつも食事をせんとする折りから、これ、飼い犬と申すわけでもない、まあ、所謂、野良犬が、その三無殿の御屋敷へと、ふらりと参るを、これ、常と致いて御座ったによって、朝夕、この犬にも三無殿、手ずから、食事を分け与えておられた申す。

 ところが、今年の卯月の頃おい、三無殿、これ少しばかり、病いを患(わずろ)うことのあって、二、三日の間、うち臥しておられたと申す。

 その間もこれ、食事の折りになると、やはり、かの犬が参るによって、いつものように餌を与えて御座ったが、三日目の暮れ方のこと、三無殿、この犬に餌を与えながら、

「……汝は、これ、食事の折り折りにきっと来たるによって、拙者も則ち、糧食を与えて参ったが……我ら、見ての通り……ほどのぅこれ……お迎えも参りそうな……病い勝ちなるところの……年も取るに取ったる老いぼれなればの……いつ何時、これ、死なんとも限らぬ。……我らの死なば、汝に食事をこれまでのように与うると申すことは、これ、出来ぬ相談じゃての。……この上は……そうさ、どこぞ外に……汝を憐んで呉るる心ある家を捜し……これに頼って参るといったような方途をも……これ、捜さねばなるまいて。……」

と、とくと冗談交じりに語り諭したと申す。

……すると……不思議なるかな……その明けの日より……この犬、何処(いずこ)へ参ったものか……絶えて来ずなった……と申す。……

耳嚢 巻之十 頓智の事

 頓智の事

 

 金春(こんぱる)座の地謠(ぢうたひ)に瀧榮助といへるもの、今は果(はて)たる由。右の者、高貴の御方非常の節立退(たちのき)ありしを、外(ほか)へしらせ候文通に、無恙(つつがなし)とも無難(なんなし)とも書(かき)なん事如何(いかが)と、差當(さしあたり)筆取るもの困りしに、事故(ことゆゑ)なくと書(かき)て可然(しかるべし)と云(いひ)しを、人々感じけると也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:地口(諺や成句などを捩って作った語呂合わせの文句)で連関。この話、今一つ、よく意味が分からない。以下、注も訳もやっつけ仕事とごろうじろ。大方の御叱正、御教授を乞うものである。……九百五十五話まできて、私は正直初めて、本章の訳に自信が持てない。されば、公開に際して、私の教え子にこれをプレで検証して貰った。以下は、そのメールの答えである。

   《引用開始》

先生

私も先生のお考えに添う解釈です。

但し、正当な理由なきことに対する鬱憤を通わせているというよりは、もっと広いぼんやりした意味のように思います。

何故なら「非常の節」としか書かれていないということから、納得いかない不条理による立ち退きであるとまでは読みにくかったからです。

恙なくという状況でもない、難なくという状況でもない、とにかくあまりよろしくない状況。しかし挨拶文にそう書くのは憚られる。ただこれという差し障りもなく、立ち退いたのだよ……理由は……聞かずとも良い、聞かんでおくれ……取り立ててこれという理由などないのだが……とそのようなニュアンスをうまく出せたところに、この瀧なる男の頓智が働いているのだ……

このように受け取りました。お役に立てず、すみません。

   《引用終了》

この教え子の見解は、私にはすこぶる正しいと感じられる。何故なら、私の注解釈の強引さは私自身が最も痛感しているからである。しかしさればこそ、これを添付した上で、敢えてその当初の私の訳と注をそのままに掲載し、諸家の御判断にお任せすることとしたいと思う。忙しい仕事の間に、私の酔狂に答えて呉れた教え子に、深い感謝を表しつつ。

・「瀧榮助」底本の鈴木氏注に、『館永助が正しい。文化六年武鑑に、金春の地謡の筆頭に見えている。文政六年武鑑にもあり、襲名とも思われぬが如何』とある。「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月。文政六年は一八二三年で九年後。詳細不詳。

・「高貴の御方非常の節立退ありし」「立退」は住まいを明け渡して他所へ移ることであるから、この「非常」は大名や公家などが、何らかの転封や制裁処分によってよんどころなく移転転地することを指しているのではあるまいか? それとも単なる火災などによる「非常」なのか? 訳はそのままにて誤魔化した。

・「事故なく」音読みするなら、無事の意であるが、訓読みするなら(この読みは岩波版に拠った)、これは例えば、本人とってはすこぶる不本意な転封や制裁措置であったとして、正当な理由もなくかく立ち退いたという、その本人の鬱憤にも通わせるものとなる、ということか?

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 頓智の事

 

 金春(こんぱる)座の地謡(じうたい)に瀧栄助と申す者が御座った。今は既に身罷った由。

 この者、贔屓にして戴いて御座った、さる高貴なる御方が、これ、非常の折りから、今の所より、立ち退かるることと相い成ってしまわれた。

 が、

「……さてもこのこと、外の皆々様方へ、これ、お伝え申し上ぐるに際し、その文(ふみ)の文頭に――無恙(つつがなし)――とも――難無(なんなし)――とも書くは、不祝儀のことなれば――さて。これ、如何(いかが)なもので御座ろうかのぅ?」

と述懐致いたによって、傍らにて、さしあたり栄助がために筆をとらんと致いて御座った栄助が右筆なる者、これ、ひどく困ってしもうた。

 と、栄助、

「――事故(ことゆえ)なく――と書くが、これ、よろしいか、の。」

と申したによって、これを聴いた周囲の人々は、これ皆、その頓智に感じ入った、とのことで御座る。

堀辰雄 十月  正字正仮名版 附やぶちゃん注(Ⅶ)

 

十月二十日夜  

 けふははじめて生駒山(いこまやま)を越えて、河内の國高安(たかやす)の里のあたりを步いてみた。

 山の斜面に立つた、なんとなく寒ざむとした村で、西の方にはずつと河内の野が果てしなく擴がつてゐる。

 ここから二つ三つ向うの村には名だかい古墳群などもあるさうだが、そこまでは往つて見なかつた。さうして僕はなんの取りとめもないその村のほとりを、いまは山の向う側になつて全く見えなくなつた大和の小さな村々をなつかしさうに思ひ浮かべながら、ほんの一時間ばかりさまよつただけで、歸つてきた。

 こなひだ秋篠(あきしの)の里からゆふがた眺めたその山の姿になにか物語めいたものを感じてゐたので、ふと氣まぐれに、そこまで往つてその昔の物語の匂ひをかいできただけのこと。(さうだ、まだお前には書かなかつたけれど、僕はこのごろはね、伊勢物語なんぞの中にもこつそりと探りを入れてゐるのだよ。……)

 夕方、すこし草臥れてホテルに歸つてきたら、廊下でばつたり小說家のA君に出逢つた。ゆうべ遲く大阪からこちらに著き、けふは法隆寺へいつて壁畫の模寫などを見てきたが、あすはまた京都へ往くのだといつてゐる。連れがふたりゐた。ひとりはその壁畫の模寫にたづさはつてゐる奈良在住の畫家で、もうひとりは京都から同道の若き哲學者である。みんなと一しよに僕も、自分の仕事はあきらめて、夜おそくまで酒場で駄辨つてゐた。

 

[やぶちゃん注:「高安」大阪府八尾市高安。言わずもがなであるが、「伊勢物語」第二十三段の「筒井筒」として人口に膾炙する章段に登場する地名である。煩を厭わず引いておく。底本は角川文庫版石田穣二訳注「新版 伊勢物語」を用いたが(一部に読点・記号を追加した)、恣意的に正字化した。

   *

 昔、ゐなかわたらひしける人の子ども、井(ゐ)のもとにいでて遊びけるを、大人(おとな)になりにければ、男も女も恥ぢかはしてありけれど、男は、この女をこそ得(え)めと思ふ、女はこの男をと思ひつつ、親のあはすれども、聞かでなむありける。さて、このとなりの男のもとより、かくなむ、

  筒井(つつゐ)つの井筒(ゐづつ)にかけしまろがたけ

    過ぎにけらしな妹(いも)見ざるまに

女、返し、

  くらべこしふりわけ髮も肩過ぎぬ

    君ならずして誰(たれ)かあぐべき

など言ひ言ひて、つひに本意のごとくあひにけり。

 さて、年ごろ經(ふ)るほどに、女、親なく、賴りなくなるままに、『もろともにいふかひなくてあらむやは。』とて、河内(かふち)の國、高安(たかやす)の郡(こほり)に、行(い)き通ふ所いできにけり。さりけれど、このもとの女、あしと思へるけしきもなくて、いだしやりければ、男、『こと心ありて、かかるにやあらむ。』と思ひうたがひて、前栽(せんざい)の中に隱れゐて、河内へいぬるかほにて見れば、この女、いとよう化粧(けさう)して、うちながめて、

  風吹けば沖つ白浪(しらなみ)龍田(たつた)山

    夜半(よは)にや君がひとり越ゆらむ

とよみけるを聞きて、かぎりなく『かなし。」と思ひて、河内(かふち)へも行かずなりにけり。

 まれまれかの高安(たかやす)に來て見れば、はじめこそ心にくくもつくりけれ、今はうちとけて、手づから飯匙(いひがひ)取りて、笥子(けこ)のうつはものに盛(も)りけるを見て、心憂(う)がりて行(い)かずなりにけり。

 さりければ、かの女、大和(やまと)の方を見やりて、

  君があたり見つつをらむ生駒山(いこまやま)

    雲な隱しそ雨は降るとも

と言ひて見いだすに、からうじて、大和人(やまとびと)、「來む。」と言へり。よろこびて待つに、たびたび過ぎぬれば、

  君來むと言ひし夜(よ)ごとに過ぎぬれば

    賴まぬものの戀ひつつぞ經(ふ)る

と言ひけれど、男住まずなりにけり。

   *

「名だかい古墳群」大きなものでは大阪府八尾市大竹にある心合寺山(しおんじやま)古墳があるが、高安山の麓(高安地区の中部である千塚・山畑・大窪・服部川・郡川附近)には中小約二百基の古墳群があり、現在は高安古墳群と呼ばれている。

「こなひだ秋篠の里からゆふがた眺めたその山の姿に……」十月十四日の「夕方、西の京にて」の断章の冒頭に、「秋篠の村はづれからは、生駒山が丁度いい工合に眺められた」とある。

「小說家のA君」個人サイト「タツノオトシゴ」の「年譜」の翌二十一日の記載から、これは阿部知二のことであることが分かる。当時満三十七歳で、辰雄と同年である。当時は明治大学教授として英文学を講じており、この年(昭和一六(一九四一)年)に訳したメルヴィルの「白鯨」は彼の翻訳の代表作となった(河出書房「新世界文学全集第一巻」所収。但し、これは「第一部」で続編完訳は戦後の昭和二四(一九四九)年を待たねばならなかった)。なお、以下の「奈良在住の畫家」「若き哲學者」は不詳。ただ、同年譜によれば、この日の夕方には大阪に出て、天麩羅を食べたとあるから、どうも事実に手が加えられているようである。]

耳嚢 巻之十 びろう毛の車の事

 

 びろう毛の車の事

 御車にびろうげと云ひ、古物語にも餘多(あまた)見へしが、其製作をしる者なし。檳榔毛車(びろうげぐるま)にて、檳榔樹の葉にて屋根を葺(ふき)たる御車の由。其時限(かぎり)のものやと尋(たづね)しに、隨分保ち候ものゝ由、御所を勤(つとめ)し保田某かたりぬ。檳榔樹は薩州に有之(これあり)、保田先年、右御車取立(とりたて)候節、薩州より取寄(とりよせ)、不足は大坂にて求めし由語りぬ。 

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。有職故実物。以下に注するようにビロウとビンロウは植物学上、全く異なる種である。それをはっきりするために、現代語訳では「びろう」とし、「びんろう」を意識的に排してある

・「びろう毛の車」檳榔毛車(びろうげのくるま)。白く晒した檳榔の葉を細かく裂いて屋根及び側面を覆った牛車で、よく知れる牛車の側面にある物見(窓)はないのが普通らしい。前後は赤い蘇芳簾(すおうすだれ)で、その内側の下簾(したすだれ:前後の簾の下から外部に長く垂らした絹布。多くは生絹(すずし)を用い、端が前後の簾の下から車外に出るように垂らし、女性や貴人が乗る場合に内部が見えないように用いた。)は赤裾濃(あかすそご:裾に向かって徐々に糸の色が赤く濃くなる染め技法をいう。)。上皇以下・四位以上の上級貴族が乗用したが、入内する女房や高僧なども用いた。底本の鈴木氏注には、『檳榔なき時は菅を用ふることもありとや』という三村翁の注を引く。この「檳榔」は単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科ビロウ Livistona chinensis のことで、ヤシ目ヤシ科ビンロウ Areca catechu とは全くの別種なので注意が必要である(諸注はこれらを混同しているか或いは逆にした誤った記載が思いの外、多いように私には感じられる)。ウィキロウによれば、ビロウ
Livistona chinensis は『東アジアの亜熱帯(中国南部、台湾、南西諸島、九州と四国南部)の海岸付近に自生し、北限は福岡県宗像市の沖ノ島』とある(ビンロウ Areca catechu の方は本来は本邦には自生していないと思われる。リンク先はウィキの「ビンロウ」)。三村氏の「菅」は単子葉植物綱イネ目カヤツリグサ科スゲ属 Carex 

・「保田某」底本の鈴木氏注に、『至元(ヨシモト)か。御普請役から買物使に転じ、天明七年禁裏の御賄頭となり、寛政四年御勘定に移る。時に五十歳』とある。「買物使」「御賄頭」というのは禁裏御所の警衛・公家衆の監察などを司った幕府の禁裏付(きんりづき)の職名と思われる。

・「薩州」薩摩国。現在の鹿児島県西部。薩摩藩領内。同藩は薩摩と大隅の二ヶ国及び日向国諸県郡の大部分を領有し、琉球王国をも実質支配下に置いて、現在の鹿児島県全域と宮崎県南西部と、沖縄県相当の大部分を不当に服属させていたことになる。 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 檳榔毛(びろうげ)の牛車(ぎっしゃ)の事

 御車(みくるま)に「びろうげ」と称し、古えの物語にも数多見えるものであるが、その製法を知る者が私の周囲にはいなかった。今回、識者の御教授を得たので、ここの記しおく。

 これは「檳榔毛車(びろうげのくるま)」というのが正式で、檳榔樹(びろうじゅ)の葉を以って屋根を葺いた牛車である由。

 木の葉で葺いたものと聞き及んだので、

「……これ、その時限りのもので御座るか?」

と訊ねたところ、

「いや。これ随分、耐久性のある実用的な牛車にて御座る。」

と、御所の禁裏付(きんりづき)を勤めた経験のあられる保田某殿の話しにて御座った。

 檳榔樹(びろうじゅ)は薩摩国にて産し、保田殿、先年、この檳榔毛(びろうげ)の牛車を新しく造ることと相い成った折り、薩摩国より、この檳榔(びろう)の葉を直接取り寄せたものの、不足した分のあって、その分はこれ、大坂にてその筋の商人(あきんど)より買い求めた、と語っておられた。

耳嚢 巻之十 麁言の愁ひの事

 麁言の愁ひの事

 

 大久保邊組屋敷の同心、當夏鰹を呼込(よびこみ)、直段(ねだん)等及對談(たいだんにおよぶ)處、一本に付(つき)三百錢と申(まうす)故、貮百銅に負(まけ)候樣申(まうし)ければ、直段心に不應哉(おうぜざるや)、無興氣(ぶきようげ)にて、自分は商ひ度候得共(たくさふらえども)鰹がいやと申(まうし)、不承知の由にて立歸り候間、然(しかる)上は申(まうす)直段に可調(ととのふべき)旨申(まうし)、且(かつ)外にも、貮三本有之(これある)を不殘(のこらず)調へ可申(まうすべき)段申候處、實事に候やと尋(たづね)候故、いかに小身の者に候迚、馬鹿にいたし候哉(や)、不殘差(さし)み又は煮候樣(やう)拵呉可申(こしらへくれまうすべき)旨申付(まうしつけ)、則(すなはち)料理いたし仕上(しあげ)候處、さらば代錢可拂(はらふべき)旨にて錢を取出(とりいだし)し置(おき)、扨自分は買ひ候積りに候得共、錢がいやと申(まうす)、承知不致(いたさず)候間、折角料理まで致(いたし)候得共、斷り候旨申(まうし)、相返し候由。右商人憤り候て、色々申(まうし)候得共、最初の麁言(そげん)故、仕方無(なく)、立歸(たちかへ)り候由。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:うっかりと言い掛けた言葉の失敗談で直連関。底本の鈴木氏注に『三村翁白く、この詰も、何かにて見たる様に覚ゆ』とあるが、私も極めて酷似したものを落語で聴いたことがあるように思う(外題は失念。識者の御教授を乞う)。

・「麁言」「そごん」とも読む。粗言・粗語と同じで、お粗末な言葉、無礼な詞の意。

・「組屋敷」与力や同心などの組の者に纏めて与えられていた屋敷。

・「當夏」因みに「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月で、これを当年としても時期的におかしくはない。

・「三百錢」(以下の「銅」も「錢」に同じ)文化文政期一文二十五円で換算すると、七千五百円で、初物好き、初鰹好きだった江戸っ子にとっても、お大尽ならまだしも(鎌倉で揚がった鰹をわざわざ出向いて船上で一両投げて初鰹を買ったと言われる)、市井の下級武士にとっては丸一尾とはいえ、やはり高過ぎる。当時の物価はサイト贋金両替商「京都・伏見 山城屋善五郎」の「江戸時代の諸物価(文化・文政期)」がよい。

・「差み」底本には右に『(刺身)』と訂正注がある。

・「煮物」棒手振りは一方に簡易の七輪のようなものを下げていたものか? 一応、そう解釈するが実際の鮮魚の棒手振りがそうした道具を持っていたかどうかは確証がないが、そうでないとこのシチュエーションは不自然である。ともかくも識者の御教授を乞うものではある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 売り言葉に買い言葉の末の悲喜劇の事

 

 大久保辺りの組屋敷の同心が、当夏(なつ)、鰹の棒手振(ぼてぶ)りを呼び込み、値段なんどを交渉致いたところ、棒手振りが、

「――一本に付き――三百文でお願い致しやす。」

と申したによって、

「……ちと高い!……せめて二百文に負けぬか?」

と応じたところが、負け値が全く意に添わぬものであったものか、急に不機嫌な顔つきと相い成り、

「――儂(あっし)は、これ、お売り致しとう、存じやすんですがねぇ。――この――鰹が、いや!と申しておりやすで。――へえ! 鰹の奴、何ともこれ――不承知だそうで!――」

と言い放つと、踵を返さんと致いた。

 すると、かの同心、

「――そうか? 鰹が、のぅ。――しかる上は――相い分かった! そちの申す値で買い調えることと致そう!」

と背後から声をかけ、さらに、

「――加えて他にも、まだ二、三本は鰹があるな?――それも残らず買おうではないか!」

と言い添えた。

 すると、棒手振り、再び走り戻ると、打って変わって相好を崩し、

「――そりゃ! 願ってもねえ! 確かなことでごぜえやすかい?」

と今度は慇懃に訊ねたによって、同心はこれ、

「――如何に?――我ら、小身の者にて御座れば、それ、馬鹿に致いたておるのではあるまいの?!――そうさ! そちの持てるその鰹、これ、残らず、直ちにこの場にて、刺身或いは煮物に調理なしくるるよう、頼もうぞ!」

と申しつけた。

 棒手振りは、すっかり悦び、その場にて直ちに、四、五本あった鰹の半分を、これ、刺身となし、もう半分を煮物に料理致いて仕上げたと申す。

 さて、かの同心、

「――出来上がりやした、お武家さま!」

と棒手振りの申したによって、

「――さらば、代金、これ、払おうか、の。……」

と言いつつ、徐ろに懐より銭を取り出だいたが……そこで同心、両手に持った銭を見つめながら……何やらん、妙に顔を曇らせ始めた。

「……さて!?……拙者は買わんと思うてそちにかく頼んだのじゃが……これ――銭が――いや! と申しておる。……何?……だめ?……どうしてもか?……困ったのぅ……これ――銭が――承知致さぬわ!……さても折角、料理まで致いてもろうて、何で御座るがのぅ、かくなる仕儀なれば……これ、皆、お断り申す。……済まんのぅ。……」

と慇懃無礼に詫びを述ぶるや、料理一式、これ、棒手振りに返した。

 されば、かの棒手振り、烈火の如く憤ったは、これ、言うまでもない。

「……カ、カ、カタリじゃぁ! カタリッツ!」

なんどと、いろいろ誹謗致いたれど、同心は、

「――そちは――そちの鰹が――いや!――と言うた。――拙者は――拙者の銭が――これ――いや!――と言うた。……これ何か、不都合なことの――ある――と申すかッツ?!」

と、いっとう最初の棒手振りの詞(ことば)を引き合いに出し、今度は打って変わって強面(こわもて)となって迫ったによって、棒手振りも仕方のぅ、これ、周囲に罵詈雑言と痰唾をやたら吐きつつ、立ち去って御座ったと申す。

耳嚢 巻之十 感賞の餘り言語を失ひし事

 感賞の餘り言語を失ひし事

 

 折井何某、類燒の後、家作は挾く鋪り、廣き屋敷へ蕣(あさがほ)を一面に植置(うゑおき)しに、花の盛りはいと見事なる事の由。予がしれる與力を勤(つとめ)し隱居も知人にて、蕣を見に兩三人うちつれてまかりしに、彼(かの)隱居花の夥敷(おびただしき)を感賞の餘り手を打(うち)て、さて馬鹿々々敷(ばかばかしき)と言出(いひいだ)し、跡を言(いふ)べき事なく、誠(まこと)に赤面無言なりしと、自身の咄し也。我等よくつゝしむべき事と、爰に記しぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。

・「折井何某」底本の鈴木氏注に、『寛政譜には折井は三家ある。本家は千二百石、分家は二百石。別の一家は武田の旧臣の家で百五十石』とある。

・「挾く鋪り」底本では「挾」の右に『(狹)』と訂正注、「鋪」の右に『(ママ)』注記がある。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『狹く修理(しつらひ)』となっている。バークレー校版で訳した。

・「蕣」底本の鈴木氏注に、『文化の頃橘流行し、桜草石菖に及び、やがて朝顔流行、文政になりて松葉蘭の流行となりしとぞ。(三村翁)』とある。当時の好事家の朝顔栽培の様子やその変形朝顔の品種改良はアットホーム株式会社公式サイト内の米田芳秋氏のインタビュー記事江戸のバイオテクノロジー「変化アサガオ」の不思議な世界に詳しい。必見である。以前にとある本で読んだが、この手の動植物飼育栽培の江戸期の異常な流行は想像を絶するものであったらしい。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 感動のあまり言語を失ったる事

 

 折井何某(なにがし)殿、大火の類焼の後(のち)、新築なされた家屋を、これ、ことさらに狭く設(しつら)え、広い屋敷地にはこれ、朝顔を一面に植えおいたところ、盛りには、たいそう美事な花を咲かせておる由。

 私の知れる、かつて与力を勤めて御座った隠居も、この折井殿の知人にて、その満開の朝顔を見に、三人の朋輩をうち連れて訪ねたところが、この隠居、朝顔の花の夥しき美観にいたく感じ入って、その感動を言葉にせんとした。

 ところが、まさに得も言われぬ恍惚のあまり、申すべき詞(ことば)のうまく浮かばず、思わず、手を打って、

「……さ、さても!……馬鹿馬鹿しき!……」

と、とんでもない台詞を言い出だいてしまい……これ……遂に……後を継げずなって御座ったと申す。

「……いや! まっこと、これ……赤面致いてしもうて……ただただ、黙りこくっておるしか御座らなんだわ……」

とは、その隠居自身の語って御座った話である。

 こうした、如何にも文字通り――馬鹿馬鹿しい――失態……これ我らも、思い当たることの御座れば……よくよく、恍惚たる感動の折りにはこれ、厳に詞を慎まねばならぬことなりと、ここに記しおくことと致す。

耳嚢 巻之十 豪傑の貞婦の事

 豪傑の貞婦の事

 

 尾陽(びよう)公藩中に父子勤(づとめ)にて、其姓名も知れぬれども、猥りに書載(かきのせ)んも如何(いかが)と除(のけ)き。悴の方(かた)近頃同藩中より妻を迎へけるが、甚(はなはだ)美色にて其中も和合なしける由。しかるに、右の家來の内、幼年より召仕(めしつか)ひ、兩親の存寄(ぞんじより)にも叶ひ寵愛受けるに、彼(かの)家來儀、不屆(ふとどき)にも主人の娵(よめ)へ懸想(けさう)して時々密通を申懸(まうしかけ)しに、彼(かの)娵一向請付(うけつけ)ず恥(はづか)しめ置(おき)しが、餘り度々の事故(ゆゑ)夫(をつと)へも右の儀を申(まうし)けれども、父母の愛臣なればよくよく心得違(こころえちがひ)を諭し候申(まうす)ゆゑ、其後姑(しうとめ)に内々語りければ、彼れは幼年より召仕候ものにて、かゝる事はあるべからずと不取合(とりあはざる)故、其儘にて過行(すぎゆく)内、彼(かの)者は兎角に不相正(あひたださず)、其後も不義申掛(まうしか)け、或日夫は當番の留守、舅姑(しうとしうとめ)も外に罷越(まかりこし)、さるにても彼(かの)者定めて又々不埒可申懸(まうしかくべし)と、いさゐの譯を書殘(かきのこ)し、其身の着類(きるい)爐(ろ)にかけて臥し居(をり)しに、果して彼(かの)もの來りて猶(なほ)密通を申懸(まうしかけ)し故、度々懸想の儀、憎(にく)からず思ひぬれば今宵は心に任すべしと、甘言(かんげん)を以(もつて)、床の内に臥(ふせ)らせ、心懸し短刀を以(もつて)、束(つか)も研よと突(つき)ければ、あへなく相果(あひはて)し故、右書置(かきおき)を行燈(あんどん)に張置(はりおき)て、其身の衣類を爐より取りて着替(きがへ)いたし、密(ひそか)に宿を立出(たちいで)、里へ歸りて、まづ覺悟の事なれば自害可致(いたすべし)と申せしを、人々差留(さしとめ)て、其事頭向(かしらむき)へ申立(まうしたて)、今(いま)取調(とりしらべ)中の由。藩中主役の人、文化十酉年の春、語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:老いた未亡人と美童の丁稚の道ならぬ恋から、主人の新妻に不倫を仕掛けるストーカー家来という点で淫らに連関しているように読める。

・「尾陽公」尾張藩名古屋徳川家。文化十年春の頃は第十代藩主徳川斉朝(なりとも 寛政五(一七九三)年~嘉永三(一八五〇)年:第十一代将軍徳川家斉の弟で一橋家嫡子だった徳川治国の長男)である。但し、彼はこの文化十年八月十五日に家督を斉温(なりはる:家斉の十九男で従弟に当たる。)に譲って三十五歳の若さで隠居、以後、名古屋で二十三年間に亙る隠居生活に入った。但し、次代の藩主斉温が一度も尾張入りしなかったため(彼は病弱を理由に江戸藩邸に常住、襲封後嘉永三(一八五〇)年に二十一の若さで死去するまでの十二年間、第十一代尾張藩主でありながら、何と一度も尾張藩領内に入らなかった)、その後も「大殿」として隠然たる力を持ったとされる(以上はウィキの「徳川斉朝」及び「徳川斉温」に拠った)。

・「兩親の存寄にも叶ひ」「存寄」は自分や身近な者の意見や気持ち。ここは両親がとても気に入っていたことをいう。

・「束も研よ」底本には「研」の右に原典のものと思われる、丸括弧がついていない『ママ』注記がある。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『束も碎けよ』となっている。バークレー校版で「柄も砕けよ」と訳した。

・「文化十酉年の春」文化一〇(一八一三)年癸酉(みずのととり)。「卷之十」の記載の推定下限は翌文化十一年六月であるから、ホット――だから――取り調べ中――な実録である。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 豪傑の貞婦の事

 

 尾陽(びよう)公徳川斉朝(なりとも)様御藩中に、父子勤めにて、その姓名も知って御座れども、猥(みだ)りに書き載せんもこれ、如何(いかが)なものかと存ずれば、ここでは敢えて伏せおくことと致す。

 その伜の方が、これ近頃、同藩中家士の家より妻を迎えて御座ったが、はなはだ美麗なる奥方にて、その夫婦仲も至ってよろしゅう御座ったと申す。

 しかるに、その家来が内に、幼年より召し使い、両親もすこぶる気に入っており、殊の外、寵愛なしておった者のあったが、この家来、不届きにも、何と、この若主人の新妻へ懸想(けそう)致いて、しばしば秘かに密通を申し懸けて御座ったと申す。

 が、かの嫁、これ一向、相手にせず、逆に無礼なり! と厳しく叱咤なし、けんもほろろに恥ずかしめおいて御座ったのであったが、それがまた、あまりにたび重なって言い懸けて参ったによって、遂に夫へ、このけしからぬ仕儀を、有体(ありてい)に訴え出た。

 ところが、夫は、

「……かの者はこれ……父母の愛臣なればのぅ……まあ、たまたま……魔が差した、と言うことであろう。……よくよく心得違いを諭しておくによって。……まあ、ここは一つ、穏やかに、の。……」

などと申すばかりにて埒(らち)の明かねば、思い切って姑(しゅうとめ)へも内々に訴えて御座った。

 ところが、姑はこれ、

「――かの者は幼年より召し使(つこ)うて参った忠義の者じゃ!――そのような聴くもおぞましき不埒なこと、これ、致そうはず、これ、ありませぬ!!」

と、逆に叱られ、これまた、一向に取り合わなんだと申す。

 されば結局、そのままに成す手ものぅ過ぎ行くうち、かの者は、これ、夫の諫めなど、どこ吹く風、夫両親の盲目の溺愛をいいことに、全く以って行状を正そうともせず、その後もまた、例の通り、不義密通をことあるごとに申し掛けて御座った。

 さても、そんなある日のことであった。

 夫は城中当番の留守にて、しかも舅姑(しゅうとしゅうとめ)もこれ、親族が方へ用向きのあって帰り深更に及ぶこととなり、結局、屋敷内にはこれ、下人以外には嫁とかの家来ばかりという事態となって御座った。

 さればかの嫁、

『……さるにてもこれ、かの者、またしてもきっと、不埒なる仕儀、これ、申し懸かけて参るに相違ない。……』

と思いたち、まずは、これより己れの成さんとする委細の事情を縷々書き残した上、その身の衣類は香爐に掛けおき、横になって、かの家来の参るを、待って御座ったと申す。

 すると、はたして、かの者の来って、またしても不義密通を申し懸けて参った。

 ところが嫁は、

「……たびたびの懸想の儀……妾(わらわ)……実はこれ……憎からず思うておりましたのじゃ。……されば今宵は……そなたのみ心のままに……これ……任そうと存じまする。……」

と、甘言(かんげん)を弄した振りを致いて、

「……さあ……どうぞ……おいでなさいませ……」

と、徐ろに床の内へと招き入れ、横に添い臥せさせた……と! その瞬間!――かねてより用意して御座った短刀を、

――シャッ!

と引き抜くや、

「――柄(つか)も砕けよッツ!」

と叫びつつ、一気に男の胸元を突いた!……

……されば、その下らない奴は――これ――あえなく相い果てて御座った……。

 そこで嫁は、先の書き置きを目立つように行燈(あんどん)に張りつけおき、その貞節を守った穢れなき身には香を雅びに焚き染(し)めた上着を、かの爐の上より取って着替え致いて、遺体をそのままに一人そっと屋敷をたち出でると、実家へと戻って行った。

 実家へ帰った女は、これ、自身の父母に目通りするや、

「……かくかくの訳にて御座いますれば――まず覚悟の事なればこそ――これより自害致しまする。――」

と口上を述べたが、無論、両親始め家中の人々、こぞってこれを差し止めさせた。……

 そうして、その顛末につき、藩の勘定方上席の役人へと委細申し立て――そうさ、今もまさに――その取り調べの真っ最中――とか。……

 以上は、尾張藩中の重役の御仁が、文化十年酉年の春に語っておられた、正真正銘の実話にて御座る。

尾形龜之助 「寂しすぎる」 心朽窩主人・矢口七十七中文訳

    寂しすぎる

 

         尾形龜之助

 

雨は私に降る ――

私の胸の白い手の上に降る

    ×

私は薔薇を見かけて微笑する暗示を持つてゐない

 

正しい迷信もない

そして 寢床の中でうまい話ばかり考へてゐる

 

 

Sabisisugiru

 

 太寂寞了
          
作 尾形龟之助
          
译 心朽窝主人,矢口七十七

 

雨 向我落下来 ——

向我胸脯上的白色手落下来

    ×

我心里没有任何暗示,因此看见蔷薇时不会露出微笑的

 

也没有正当的迷信

于是 钻进被窝里只贪便宜……



          
矢口七十七/

尾形龜之助 「晝の部屋」 心朽窩主人・矢口七十七中文訳

 

    晝の部屋

 

         尾形龜之助

 

女は 私に白粉の匂ひをかがさうとしてゐるらしい

 

――女・女

 

(スプーンがちよつと鉛臭いことがありますが それとはちがひますか)

 

午後の陽は ガラス戸越に部屋に溜つて

 

そとは明るい晝なのです


 

 

Hirunoheya

 

 白昼的房间里
         
作 尾形龟之助
         
译 心朽窝主人,矢口七十七

 

那个女人 好像让我闻闻白粉的味儿

 

——女人女人

 

(银匙有时稍有铅味儿 是不是那个?)

 

下午的阳光 从玻璃窗照进来而洒满在屋子里

 

外头正是光亮的白昼……

 


         
矢口七十七/

尾形龜之助 「お可笑しな春」 心朽窩主人・矢口七十七中文訳

 

    お可笑しな春 

         尾形龜之助

 

たんぽぽが咲いた

あまり遠くないところから樂隊が聞えてくる

 

[注:「お可笑しな」はママ。]

 

Okasinaharu

 

 可笑的春天
 
         
作 尾形龟之助
         
译 心朽窝主人,矢口七十七

 

蒲公英开花了

从不远处传来乐队奏起的音乐

 


         
矢口七十七/

尾形龜之助 「幻影」 心朽窩主人・矢口七十七中文訳

 

    幻影 

         尾形龜之助

 

秋は露路を通る自轉車が風になる

 

うす陽がさして

ガラス窓の外に晝が眠つてゐる

落葉が散らばつてゐる

 

[注:「露路」路地。思潮社現代詩文庫版ではここにママ注記があるが、こうも書き、決して誤字ではない。しかも同版では最終行が「落葉が散らばつている」となっているのにママ注記がなく(上記は同社の全集版の表記で正しく「ゐる」となっている)、杜撰な校訂と言わざるを得ない。]
 
 

 

Gennei_2

 


  
    
幻影
         
 尾形龟之助
         
 心朽窝主人,矢口七十七

 

秋天,穿过小巷的自行车会变成一阵风

 

微弱的阳光下

玻璃窗外在睡觉的就是白昼……

地上散落的就是落叶……

 

 


         
矢口七十七/

2015/03/22

柳田國男 蝸牛考 初版(7) 方言轉訛の誘因

  方言轉訛の誘因

 

 地方語調査事業の學問上の價値が、今まで輕視せられて居た大なる理由は、それが無識裁と誤解と模倣の失敗とのみによつて、亂脈に中央の正しい物言いから離れて言つたかの如く、我も人も思ひ込んで居たことであつたが、それは到底立證することの出來ない甚だ不當なる臆斷であつた。小兒の片言のやうな生理學上の理由があるものでも、「匡正」の必要があるものは打ち棄てゝおいても自分で匡正する。外國語を學ばうとする者は、今まで持ち合さぬ語音までも發しようと試みる。ましてや豫て自分たちに具はつた音韻を以て、自由に知つて居る語を選擇する場合に、眞似ようとして誤つた語に落ちて行く道理がない。要するにこれは眞似なかつたのである。さうしてわが居る各自の群のうちに、通用することを目途としたのであつた。唯前代の群は概ね小さく、又相互の交通は完全でなかつた故に、暫らくの隔離の間に、時として意外な變化を出現せしめるやうな餘地が、今よりははかに多かつたゞけである。音韻の改定は文章音樂の盛んであつた地域に、寧ろ頻々として行はれて居た筈である。故に若し古きに復することが即ち正しきに反する道であるならば、邊鄙の語音こそは却つて心を留め耳を傾くべきものであつたかも知れない。ただ今日の實狀に於ては、その地方差は既に複雜を極め、人ほは中央との往來によつて、次第に自ら法則の煩はしさに倦んで、進んで一つの簡明なるものによつて、統一せられんことを欲して居るのである。所謂標準語の運動の、單に便宜主義のものなることを思はねばならぬ。それと國語史の研究とは、全然無關係なる二つの事柄であり、而うして後者の更に重要なる根本の智慮を供給するものなることは、事新らしく論ずるまでも無いのである。

[やぶちゃん注:「豫て」「かねて」と訓じている。

「眞似ようとして誤つた語に落ちて行く道理がない」底本では「眞似ようとして」が「其似ようとして」となっているが、意味が通らない。改訂版で補正した。

「正しきに反する道」この「反」は恐らく「はん」ではなく「へん」と読んでおり、返るの意である。ただこのままだと「反(はん)する」と誤読されることを惧れたためであろう(実際、私はこれを「はんする」と読んで意味がいおかしいと感じて「へん」と読んでいるのだと確信した)、改訂版では『歸する道』と変えられている。]

 

 微々たる一個の蝸牛の名稱からでも、若し我々が觀察の勞を厭はなかつたならば、尚國語の地方的變化の、由つて起るべかりし根抵を見つけ出すことが出來る。それを一言でいふならば古きを新たにせんとする心持、即ち國語の時代的變化を誘うた力が、個々の小さな群や集落に於ても、割據して又働いて居たことである。或は若干の空想を加味すれば、言語も亦他の人間の器械什具と同じやうに、一定の使用囘數を過ぎると、次第に鈍り且つ不精確になるものであつたと言ふことが出來るかも知らぬ。さうして兒童の群は又花柳界などゝ同じく、殊に短期間の言語使用度が激しい群であった。それ故に一旦彼等の管轄に委ねられた言語は、物々しい法廷教壇等の辭令に比して、一層迅速なる代謝を見たのかとも思はれる。實例の三四を順序立てて擧げてみると、千葉縣では海上郡の一部分に、蝸牛の名をヲバヲバといふ方言があるが、それは疑ひも無く次の蝸牛童詞から出たものであった(海上郡誌一二〇八頁)。

   をばをば

   をばら家が燒けるから

   棒もつて出て來い

   槍もつて出て來い

 ところがこの伯母の家の出火なるものは、往々蝸牛を誘ひ出さうとする策略として、他の府縣の小兒にも用ゐられて居る口實であつた。獨り蝸牛ばかりで無く、夕方空を通る烏なども、しばしばこの報告をもつて欺かれんとして居たことは、以前人間が伯母の家を大切にし、何はさしおいてもその災厄を救援しに往つた名殘とも考えへられる。察するところ是も前には一句マイマイツブロを呼びかける語があつたのを、後には伯母々々をまづ唱へたために、それが蝸牛の名である如くに、解する者を生じたのが元であらう。實際又此地方で、今日ヲバというのは次女三女などの、若い娘のことであつた。それ故に蝸牛をヲバヲバといふことが、殊にをかしく感じられたのである。

[やぶちゃん注:日本文化藝術財団のブログ「四季おりおり -日本歌謡物語-」の「第二十回 だいぼろつぼろ(蝸牛)」には、茨城の古河地方の童謡として、

   だいぼろ つぼろ

   おばけの山 焼けるから

   早く起きて 水かけろ

   水かけろ

という、明らかにここに示されたものの激しく変型したものが紹介されていて興味深い。また同記事には、

   蝸牛(かたつぶり)

   蝸牛

   銭(ぜに)百呉(け)えら

   角コ出して

   見せれ見せれ

という秋田のそれ、東京・千葉・神奈川のそれとして、

   まいまいつぶろ

   湯屋で喧嘩があるから

   角出せ槍出せ

   鋏み箱出しゃれ

を載せ、また、鹿児島の、

   でくらでくら

   角出して踊らんと

   向えの岸岩坊(きしがんぼう)が

   蛇を追て来(こ)

が、更に福島・茨城のものとして、

   まいまいつぶろ

   小田山焼けるから

   角出してみせろ

挙げられてあるものは、この「蝸牛考」の次の次の段落に紹介されるものと相同で、この後に千葉のものとして掲げられている、

   おばおば

   おばら家が焼けるから

   棒もってこい

   槍持って出てこい

というのが、この段のものとほぼ同じである。愛媛のそれでは、

   カタタン

   カタタン

   角出しゃれ

   爺(じい)も婆(ばあ)も焼けるぞ

   早う出て水かけろ

という、残酷系の歌詞も紹介されてある。「蝸牛考」に出ない多くの童謡が示されてあるので網羅的引用させて貰ったが、表記の一部は本書の「童詞」に合わせて一部変更してある。

「什具」は「じふぐ(じゅうぐ)」で、日常に使う道具や家具・道具類のこと。什器。

「海上郡」千葉県(旧下総国)にあった郡。現在の銚子市の大部分(富川町・森戸町以北を除く)と旭市の大部分(秋田・萬力・米込・入野・関戸・萬歳以北を除き、更に井戸野・川口・泉川・駒込・大塚原・鎌数・新町を除く)が相当した(ウィキの「海上郡」に拠る)。

「ヲバヲバ」後の「をばをば」もそうであるが、ちくま文庫版はこれを「オバオバ」「おばおば」と、本文に合わせて現代仮名遣化してしまっている。これははっきり言って致命的な改悪である。ここは、それこそ本文で柳田が肝要と考えているところの、古き方言の形(発音)を活字として保存すべき箇所で、それを致命的に変えてしまった完全な誤りだからである。

「夕方空を通る烏なども、しばしばこの報告をもつて欺かれんとして居た」このような童唄は見出し得なかった。識者の御教授を乞う。]

 

 次には山梨縣の北巨摩郡、古來逸見筋と稱する一小區域に、蝸牛をジツトーと呼ぶ方言が行はれて居る。他には一つも類例の無い語で、一見する所は殆ど其由來を知るに苦しむが、これも土地の人ならば簡單に説明し得ることゝ思はれる。即ち是をまたヂットウバットウとも謂ふ者のあるのを見れば、ここには蝸牛の童詞に「爺と婆と」といふ始の句を有つものがあって、それを直ちに此蟲の名にして居たらしいのである。爺婆の名を以て知らるゝ物で、最も有名なのは春蘭の花がある。それから土筆や菫などにも、或は此名があつたかと思ふが、大抵は兩々相對するものに向つていふ戲れの言葉であつた。逸見筋の蝸牛の歌はまだ聞いては見ないが、多分あの二つの角を出したり引込めたりすることが、それに近い文句を唱へさせて居たものと思ふ。

[やぶちゃん注:「北巨摩郡」山梨県の旧郡。現在の韮崎市・北杜市・甲斐市の一部(下今井・龍地(りゅうじ)・大垈(おおぬた)・團子新居(だんごあらい)以西)に相当する(ウィキの「北巨摩郡」に拠る)。

「逸見筋」「へんみすぢ(へんみすじ)」と読む。これは近世の甲斐国に於ける同国内の地域区分・領域編成単位であった「九筋二領(くすじにりょう)」の一つである。ウィキの「九筋二領」によれば、『「九筋」は甲府盆地から甲斐北西部の国中地域における区分で、栗原筋・万力筋・大石和筋・小石和筋・中郡筋・北山筋・逸見筋・武川筋・西郡筋を指す(『甲斐国志』に拠る)。「二領」は甲斐南部の富士川沿岸地域の河内領と甲斐東部の郡内領を意味する』。『律令制下の国郡制において甲斐国は甲府盆地の山梨郡・八代郡・巨摩郡、郡内地方の都留郡の四郡が成立し、中世には甲府盆地において東郡・中郡・西郡の三区分による地域呼称が用いられる。東郡は笛吹川以東地域、西郡は釜無川以西地域、中郡は釜無以西・笛吹以東地域を指した』。『戦国期には西郡のうち甲斐北西部の巨摩郡北部(旧北巨摩郡域)が「逸見」と区別され四区分となり、それぞれ「筋」を付けて』、「~郡筋」と呼ばれる。天正一七(一五八九)年には『関東郡代伊奈忠次(熊蔵)による五カ国総検地が実施され、これによって九筋の区分が設定される。近世に確立した九筋においては戦国期の四区分を基盤に、東郡が栗原筋・万力筋・大石和筋・小石和筋にあたり、中郡は北山筋・中郡筋、西郡は西郡筋、逸見は逸見筋・武川筋に分割されて九筋の地域区分が確立』した。この『逸見筋は八ヶ岳からの湧水により甲斐国第一の米生産地域であった。 この地域には、以下の地域が含まれていたとされる』とあって、釜無川以東の現在の韮崎市と北杜市の明野・須玉・高根・長坂・大泉・小淵沢・白州花水(はくしゅうはなみず)の各地区が挙げられてある。

「ジツトー」改訂版では「ジットウ」と大幅に表記法が変更されている。しかも「ここには蝸牛の童詞に「爺と婆と」といふ始の句を有つものがあって、それを直ちに此蟲の名にして居たらしいのである。」の最後が、『ここには蝸牛の童詞に「爺と婆と」といふ始の句を有つものがあって、それを直ちに此蟲の名にして居たことは確かである。』と変更しているから、高い確率でこの改訂版との間に於いて、柳田は何らかの断し得る情報を得ていたものと思われる(次の注も参照のこと)。

『蝸牛の童詞に「爺と婆と」といふ始の句を有つものがあって』文脈上からはこの謂いは、その「北巨摩郡、古來逸見筋と稱する一小區域」で「蝸牛をジツトーと呼ぶ方言が行はれて居る」地域に伝わる童唄と読める(としか読めない)。前段の注で紹介した童唄の中に、愛媛のそれとして、

   カタタン

   カタタン

   角出しゃれ

   爺(じい)も婆(ばあ)も焼けるぞ

   早う出て水かけろ

というのがあった。柳田はここで唄を紹介していないのが如何にも惜しまれる。

「爺婆の名を以て知らるゝ物で、最も有名なのは春蘭の花がある」単子葉植物綱クサスギカズラ目ラン科セッコク亜科シュンラン連 Cymbidiinae 亜連 シュンラン Cymbidium goeringii の別名ジジババ(爺婆)。ウィキの「シュンラン」には『一説には、ジジババというのは蕊柱を男性器に、唇弁を女性器になぞらえ、一つの花に両方が備わっていることからついたものとも言われる』とある。

「土筆や菫などにも、或は此名があつたかと思ふ」孰れも不詳。識者の御教授を乞う。土筆では古くは手間のかかる袴取りとアク抜きが家族の中でも爺婆の仕事であったという記載は見かけ、また、双子葉植物綱キンポウゲ目キンポウゲ科オキナグサ Pulsatilla cernua を「ジジババ」と呼んでいたという記載もあった。]

 

 方言は大よそ此の如く、もとは少しも世間を構はずに、入用なる群ばかりで作り出して居たものであつた。それが面白ければ第二の土地に採擇せられ、次々に彼等の元からもつものを棄てさせたのであつたが、成功しなかつた例は勿論非常に多かつた。しかも其發生地に在つて當座の力をもつことは、堂々たる儀禮公事の語も異なる所はない。それを悉く本貫より携え來り、乃至は中央から勸請したものゝ如く、考へてかゝるのは無理であつた。是も千葉縣であるが海上郡などの一部に、蝸牛をタツボと謂つて居る土地がある。タツボは本來田螺のことであるから、是を樹上の貝類に付與することは、甚だしき無智又は錯誤とも評し得られる。併し徐ろにさうなつて來た順序を考へてみると、是は兒童がマイマイツブロの歌をいつの頃よりか「まいまいたつぼ」と歌い改めて居た結果であつて、その證據には現にさういふ文句もあの地方に行はれて居り、又山武郡では蝸牛をメエメエタツボと呼ぶ方言も採集せられて居る。さうして實際又蝸牛はマイマイのあるタツボに相違なかつたのである。それよりも尚弘い地域に亙つての變化は、利根川水域のことに左岸一帶に於いて、蝸牛をメエボロと呼び習はす方言である。是も如何にして斯んな語が起つたかは、土地に行われて居る童言葉を、聽いたばかりでも直ぐに諒解し得る。常陸新治郡の蝸牛の唄には、

   まいまいつぼろ

   小田山燒けるから

   角出して見せろ

というのがあるそうだが(郷土研究二卷三卷)、是は小田山の附近に住む子供だけらしく、それから南の他の村々では、大抵は「伯母とこ燒けるから」と言つて居る。さうして其「まいまいつぶろ」を、しやれて又「めいぼろつぼろ」と唱へる子供も多かつたのである。自分は今から四十年ほど前に、久しくあの地方に住んで居た者だが、其頃の記憶でも「めいぼろつぼろ」と言つた者と、「めいめいつぼろ」と言つた者とが兩方あつて、殆ど一人一人の考へ次第のやうなものであつた。從つてかの蟲をマイマイツブロと呼ぶ方言も無論通用したが、大勢は當時既にメェボロの方に傾いて居た。多分は此方ならば只四言で間に合つたといふことが、珍らしく又氣が利いて致いたのであらう。茨城縣方言集覽・稻敷郡方言集、其他かの方面の採集書を比較してみると、案外にこの變化の行はれた區域は弘く、しかもそれが一地毎に少しづゝ違つて居るのであつた。

   メメチヤブロ        下總東葛飾郡

   メエボロツボロ、メエボロ等 同 北相馬郡、常陸稻敷郡

   マエボチツボロ、メーポロ等 常陸稻敷郡

   マイマイツボロ、マイボロ  同 久慈郡

   ネエボロ、ナイボロ等    同 眞壁郡、下總結城郡

   ナイボロ、ダイボロ     下總猿島郡

   ネアーボロツボロ      下野芳賀郡一部

   ダイボロ、デエボロ     同郡及河内郡一部

[やぶちゃん注:「山武郡」「さんぶぐん」と読み、現在も千葉県に存在する郡であるが、この当時は、東金市・山武市・九十九里町、芝山町の全域、大網白里市の大部分(清水を除く)、千葉市の一部(緑区越智町・高津戸町・下大和田町以南及び大高町の一部)、横芝光町の一部(栗山川以西)を含む広域であったので注意が必要である。

「メエメエタツボ」改訂版では『メェメェタツボ』。

「新治郡」「にいはりぐん」と読む。近代、茨城県(常陸国)にあった郡(但し、江戸以前の群とは領域を全く異にするので注意)。当時は、石岡市の全域・かすみがうら市の全域・土浦市の大部分(概ね上高津・下高津・富士崎・小松・滝田以南と、大志戸・小高・小野・東城寺・永井・本郷を除く)・つくば市の一部(大角豆(ささぎ)・倉掛・花室(はなむろ)・妻木(さいき)・栗原・玉取(たまとり)・大曽根(おおぞね)・篠崎・長高野(おさごうや)・前野・大穂・佐(さ)・若森より南東と、苅間(かりま)・葛城根崎(かつらぎねさき)・東平塚・西平塚・下平塚・西大橋・新井・大白硲(おおじらはざま)・平(たいら)・柳橋・山中・島・西岡・小白硲(こじらはざま)・原)・小美玉(おみたま)市の一部(概ね園部川以西)が郡域であった(以上はウィキの「新治郡」などに拠った)。

「小田山」筑波山から南東に連なる筑波連山の支峰の一つで、茨城県つくば市と土浦市との境に位置する標高四六一メートルの宝篋山(宝鏡山)(ほうきょうさん)の地元での呼称。以上はウィキの「宝篋山」に拠ったが、それを見るとこの山の南西麓にある小田城(鎌倉期から戦国期まで小田氏の居城)に関連する城郭跡に由来する呼称らしい。

「從つてかの蟲をマイマイツブロと呼ぶ方言も無論通用したが、大勢は當時既にメェボロの方に傾いて居た」この箇所は改訂版では『從つてかの蟲をメェメェツブロと呼ぶ方言も無論通用したが、大勢は當時既にメェボロの方に傾いて居た』と書き換えられてある。

「四言」ちくま文庫では『よこと』とルビがある。

「茨城縣方言集覽」茨城教育協会編で明治三七(一九〇四)年刊。国立国会図書館近代デジタルラブラリーのこちらで読める。

「稻敷郡方言集」稻敷(いなしき)郡教員集会編で明治三五(一九〇二)年刊。稲敷郡は茨城県に現存する郡であるが、当時は牛久市の全域・龍ケ崎市の大部分(川原代町(かわらしろまち)・長沖新田町(ながおきしんでんまち)・須藤堀町(すとうほりまち)以南を除く)・稲敷市の大部分(清久島(せいきゅうじま)・橋向(はしむこう)・佐原組新田・手賀組新田・八千石(はっせんごく)・上之島(かみのしま)・本新(もとしん)以南を除く)・土浦市の一部(荒川沖・沖新田・荒川沖西・荒川沖東・中荒川沖町(なかあらかわおきまち)・北荒川沖町)・つくば市の一部(樋の沢(ひのさわ)・西大井・牧園(まきぞの)・高野台(こうやだい)・鷹野原・中山・若葉・若栗以南)・阿見町(あみまち)の全域・美浦村の全域・河内町(かわちまち)の一部(長竿(ながさお)・田川以西)・千葉県印旛(いんば)郡栄町(さかえまち)の一部(生板鍋子新田(まないたなべこしんでん)・龍ケ崎町歩(りゅうがさきちょうぶ))に相当する広域であったので注意が必要(以上はウィキの「稲敷郡」他に拠った)。

「メメチヤブロ」改訂版では『メメチャブロ』。

「下總東葛飾郡」千葉県にあった郡。当時の群域は市川市・松戸市・野田市・流山市・浦安市の全域・鎌ケ谷市の大部分(軽井沢を除く)・船橋市の一部・柏市の一部・埼玉県幸手(さって)市の一部・茨城県猿島郡五霞町(ごかまち)の一部であった(ウィキの「東葛飾郡」に拠る)。

「メエボロツボロ、メエボロ」改訂版では『メェボロツボロ、メェボロ』。

「同 北相馬郡」茨城県に現存する郡であるが、当時の群域は現存の北相馬郡利根町・守谷市全域・取手市のほぼ全域・常総市の一部・つくばみらい市の一部・龍ケ崎市(一部)に当たる(ウィキの「北相馬郡」に拠る)。

「メーポロ」改訂版では『メェボロ』。

「同 久慈郡」茨城県に現存する郡であるが、当時の群域は常陸太田市の全域・日立市の一部・常陸大宮市の一部に相当する(ウィキの「久慈郡」に拠る)。

「ネエボロ」改訂版では『ネェボロ』。

「同 眞壁郡」茨城県にあった旧郡。筑西(ちくせい)市の全域・下妻(しもつま)市の一部・桜川市の一部・結城郡八千代町(やちよまち)に相当する(ウィキの「真壁郡」に拠る)。

「下總結城郡」茨城県に現存する郡であるが、当時は結城市全域と古河市のごく一部及び結城郡八千代町(東部と南部のごく一部を除く全域)が含まれた(ウィキの「結城郡」に拠る)。

「下總猿島郡」「さしまぐん」と読む。茨城県に現存する郡であるが、当時は坂東市全域・古河市の一部・猿島郡境町全域が含まれた(ウィキの「猿島郡」に拠る)。

「ネアーボロツボロ」改訂版では『ネァーボロツボロ』。

「下野芳賀郡」栃木県に現存する郡であるが、当時は真岡市・宇都宮市(桑島町を除く鬼怒川以東)で、後には宇都宮市桑島町も当郡域に加わっている(ウィキの「芳賀郡」に拠る)。

「デエボロ」改訂版では『デェボロ』。

「河内郡」「かはちぐん(かわちぐん)」と読む。栃木県に現存する郡であるが、当時は宇都宮市(鬼怒川以西及び桑島町)・日光市の一部・下野市一部と鹿沼市古賀志町で、後に宇都宮市桑島町が編入されている(ウィキの「河内郡」に拠る)。]

 

 この最後の二つの郡は、北と西との兩面に於て、前に述べたるダイロの領域と接して居る故に、爰に始めてダイボロといふが如き、中間の形を發生せしめたのみならず、更に他の一方にはそれとマイボロ地方との觸接面に、ナイボロ、ネェボロといふ變化をさへ引起して居るのである。俚謠集拾遺には又栃木縣の童詞として、

   えーぼろつぼろ

   角出して見せぬと

   臍くそぐつと

といふ一章を載せて居る。何れの村かは知らぬが、又エーボロといふ例もあつたのである。私が是を方言の邊境現象と名けた、用語の當不當は別として、少なくとも個々の田舍の一つの方言を拔き出して、轉訛の問題を論ずることの出來ぬだけは、是でもはや明白になつたことゝと思ふ。

[やぶちゃん注:「俚謠集拾遺」文部省文芸委員会編大正三(一九一四)年刊。

「臍くそぐつと」不詳。「くそぐ」は取るの意か? 栃木弁に詳しい識者の御教授を乞う。

「個々の田舍の一つの方言を拔き出して、轉訛の問題を論ずることの出來ぬ」これは単独のある地方の単なる訛りとして処理出来ない、接触する方言という有機的な中間型が発生するということを述べているように私は読む。]

耳嚢 巻之十 老婦相對死望出奇談の事

 老婦相對死望出奇談の事

 

 淺草藏前札差渡世のものといへども、其證はさだかならず。文化九年度の事なりと、人のかたりしを爰に記しぬ。渡世豐(ゆたかに)にくらしぬる町人、十八九年以前、輕き町人の悴にて、母もなく兄弟多(おおき)にて、右札差の許へ丁稚(でつち)に出しけるが、漸(やうやく)八九歳なれば札差の妻是を哀れがりて、子供やなかりし、抱□などして殊にいつくしみ育てけるが、夫も身まかり其子の代になりても、相變らず右丁稚をいつくしみ育てけるに、丁稚も年頃になりしに、いつの程にや後家はいつくしみの餘り密通して、衣食とも右後家より厚く世話いたし、重手代(おもてだい)にて別家(べつけ)などなしける。實の父母兄弟ども右餘陰(よいん)を得て不貧(まづしからず)くらしける。しかるに、年頃にもなり候間、右別家の手代に妻むかえんと、父母知音(ちいん)抔世話いたしけれど、當人曾てて不聞入(ききいれず)、扨又主人の老婆何分得心せず、今に無妻(むさい)にてありしと、笑ひ語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。本文では、主たる舞台となる店が札差であったかどうか確証がないとするが、実際には札差と断定した方がいろいろな不都合や不自然さが総て解消するように私には強く思われる。以下の注もそうしたスタンス(札差として)で書いているので御寛恕願いたい。この話、細部に於いて豪商の未亡人とその使用人の姦通なればこそ成立する(そうでないとこうはならない)箇所が沢山想定されるからである。それらを一々総ては挙げていないけれども、読まれる方はこれを実際に頭の中で映像化してみれば、確かに、と思われるものと私は信じて疑わないのである。

・「老婦相對死望出奇談」「らうふあひたいじにのぞみでるきだん」と読むか。但し、「相對死」はあくまで心中のことであり、この標題、猟奇的な匂いをさせながら、やや羊頭狗肉の感を拭えない。されば、現代語訳の最後は、標題に合わせた演出を施した。

・「淺草藏前」現在の東京都台東区蔵前。ウィキの「蔵前」より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更、注記号は省略した)。『台東区の南東部に位置する。町域東部は隅田川を境に墨田区本所・横網にそれぞれ接する。南部は台東区柳橋に接する。南西部は台東区浅草橋に接する。西部は新堀通りに接し、これを境に台東区三筋・台東区鳥越にそれぞれ接する。北部は春日通りに接し、これを境に台東区寿・台東区駒形にそれぞれ接する』。『付近には厩橋と蔵前橋が隅田川に架かる』。『蔵前という地名はこの地に江戸幕府の御米蔵(浅草御蔵)があったことに由来する』。『この蔵は幕府が天領他から集めた米を収蔵するためのもので、元和六年(一六二〇年)に鳥越神社にあった丘(鳥越山)を切り崩し、隅田川を埋め立てなどして造られた。その総敷地面積は三万六千六百四十六坪(ただし『御府内備考』は二万七千九百坪とする)、東を隅田川、他の南北西の三方を堀で囲み、六十七棟の蔵があった。この蔵の米が旗本・御家人たちにとっての扶持米すなわち今でいう給料となり、これを管理出納する勘定奉行配下の蔵奉行をはじめ大勢の役人が敷地内や、新たに鳥越山北側の姫ヶ池などを埋め立てて役宅を与えられ住んでいた』。『浅草御蔵は、隅田川の右岸に上流から一番、二番と数える八本の堀を作り、それに面した多くの米蔵が連なった。四番堀と五番堀の間には、「首尾の松」という枝を川面に垂れた松の木があった。この名前の由来には諸説がある。首尾の松は江戸中期の安永年間に大風に倒れ、その後何度か接ぎ木を試みたが明治までに枯れてしまった』。『御蔵の随伴施設の厩が北側にあり、この付近から隅田川の対岸に渡る「御厩河岸の渡し」があった。また南側にも渡しがあり「御蔵の渡し」の名があったが、こちらは富士山が見渡せたため「富士見の渡し」とも呼ばれた。御厩河岸の渡しは転覆事故が多く、「三途の渡し」とも言われたことがある』。『御蔵の西側にある町は江戸時代中期以降蔵前と呼ばれるようになり、多くの米問屋や札差が店を並べ、札差は武士に代わって御蔵から米の受け取りや運搬・売却を代行した。札差がこの地域に住むようになったのは寛文の頃にさかのぼるという。札差は預かった米から手数料を引いて米と現金を武士に渡し、現物で手元に残った分の米は小売の米屋たちに手数料を付けて売るほかに、大名や旗本・御家人に金も貸し付けて莫大な利益を得、吉原遊郭や江戸三座を借り切りにするなどして豪遊した』とある(下線やぶちゃん)。

・「札差」蔵米取(「倉米」は諸大名が蔵屋敷に蔵物として回送する米。商品ではあるが、商人が回送する納屋米(なやまい)とは区別されていた)の旗本や御家人の代理として幕府の米蔵から扶持米を受取り換金を請負った商人。札差料は 百俵につき金二分で、手数料はさほどの金額にはならなかったが、扶持米を担保として行う金融によって巨利を得た。前の注の引用の最後の部分などと合わせて考えると、ここに登場するのも札差となれば、想像以上の豪商であった可能性も高い。実際、私は「實の父母兄弟ども右餘陰を得て不貧くらしける」とわざわざ記した辺りにそれを感ずるのである。――セレブ・ウィドウ・マダムの老いらくの恋――である。

・「文化九年」一八一二年。「卷之十」の記載の推定下限は文化十一年六月。

・「十八九年以前」文化九年からだと、寛政五~六年(一七九三~一七九四年)。ということはこの主人公の一人である青年は文化九年当時は満で二十五~二十八である。但し、相手の未亡人の「老婆」であるが、これは現在の老婆という文字通りにとることは出来ない。婚姻年齢が早かった当時は、「老婆」「老人」と呼称されるようになる年齢も早く訪れた。例えば芭蕉は四十代で確信犯で老齢と自認し、周囲もそうした目で見ている事実から見ても、実際には当時は三十代でも「老婆」と呼称された。ここでは有意な年齢差を考えつつも、この女性の気持ちも汲んで、四十歳程度に設定して上げたい気はどこかでしている。

・「丁稚」ウィキの「丁稚」より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更、注記号は省略した)。『江戸時代から第二次世界大戦終結まで行われた商店主育成制度。またはその制度によって入門したばかりの者をさす上方(関西)のことば。年季奉公の一形態である』。ここでは江戸は浅草でありながら「丁稚」と称しているが、厳密には『上方ことばの丁稚に対して江戸(関東)ことばでは「小僧」である』。『十歳前後で商店に丁稚として住み込んで使い走りや雑役をし、丁稚の中でも経験年数によって上下関係がある(丁稚の時の呼び名は「※松」で、※には丁稚の一字が入る場合が多い)。丁稚の仕事は多岐に亘り、前述の他に蔵への品物の出し入れや力仕事が多く、住み込みの為に番頭や手代から礼儀作法や商人としての「いろは」を徹底的に叩き込まれる。また入り口付近に立って呼び込みや力仕事が主な仕事で、商品を扱う事は無い。丁稚奉公の者は、店が一日の仕事を終えたからといって終わりではなく、夕刻閉店した後には番頭や手代らから商人として必須条件である読み書きや算盤を教わった。他店や客からは「丁稚どん」又は「小僧」「坊主」などと呼ばれる』。その後、主人(船場言葉で「だんさん」)の裁量で手代となる(「船場言葉」は「せんばことば」と読み、かつて大阪市船場の辺りで盛んに話されていた言葉遣いで大阪弁の一種。堺方言や京方言が混ざり合った商人言葉として形成されたが、近代化の中で話者が散逸、現在では落語の中に見出されたり、一部の言い回しが残っている程度とも言われる)。『小僧から手代までおおむね十年である。手代はその字の通り、主人や番頭の手足となって働く(手代の時の呼び名は「※吉」「※七」等で、下位の番頭と同じである)。そして、番頭を任され(大商店では「小番頭」「中番頭」「大番頭」と分けられる時があり、呼び名は「※助」である)主人の代理として店向き差配や仕入方、出納や帳簿の整理、集会等の参列など支配人としての重要な業務を任されるようになる』。『番頭となるのはおおむね三十歳前後であり、支店をまかされたり暖簾分けされ自分の商店を持つことが許される。ただしそこに到達するまでは厳しい生存競争に勝ち抜く必要があった』。例えば江戸期の呉服・両替商であった三井家の丁稚の場合は、『暖簾分けまで到達できるのは三百人に一人であった』。『基本的には主人と番頭を筆頭とした徒弟制度であるが、手代より上には給金が支払われ年季奉公の性格があった。手代までは店住まいであるが番頭より上は自宅を構え家族をもつこともあった。丁稚には給与は無く、衣食住が保障されたのみであった。お盆・暮れの年二回、小遣いや藪入りの際の実家への手土産、新しい衣服(お仕着せ)などが支給されることがあった。店主としては商売の教育を施して飯を食わせるのであるから無給は当然であり、丁稚となる者にとっても商売の経験と将来的な独立への布石、また食い詰めた貧家からの丁稚であれば少なくとも飯が食えるというメリットはあった。この報酬体系から丁稚は、しばしば丁稚奉公(江戸言葉では小僧奉公)と表される』。『奉公人の生涯は丁稚からはじまり番頭になるまで一つ商店ひとり主人の下で行われると考えがちであるが、奉公換えは頻繁に行われ、とくに優秀な手代は大店へ移ることで給金や賞金(現代でいうボーナス)が増えることからしばしば行われたようである。近江商人の場合は長年つとめた奉公人よりも中途採用の者が上の階職につくこともあり、能力主義が特徴であった』。『第二次世界大戦後、GHQの指令により労働法規が整備されたことや、義務教育の年限が九年に延長された結果、「長期間の住み込みによる衣食住以外は無給に近い労働」という丁稚奉公のスタイルを維持することが困難となった。丁稚を採用していた企業は近代的な契約による従業員に衣替えさせた。これにより、二百年以上の歴史を持っていた丁稚制度は消滅した。これは、家族経営を主体としていた商店が、近代的企業へと変わっていくのと軌を一にしていた』とある。

・「抱□」底本では右に『(寐カ)』と編者の訂正注がある。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版も『抱寢(だきね)』となっている。

・「夫も身まかり其子の代になりても、相變らず右丁稚をいつくしみ育てける」前の「子供やなかりし」と矛盾する。されば、ここには何か言い添え忘れていることがあるように、思われる(子がなかったのなら、この丁稚を養子に入れて跡を継がせればよい)。跡継ぎがいたのに話柄の中で異様にその影が薄いのは、この母が継母だから(跡を継いだのは先妻の子)と考えるのが最も妥当である。そうすると、この母の添い寝などもよく理解出来る。それを訳では追加した。

・「年頃」江戸の武家社会では形式的には数え十五歳で元服の儀式があり、これをもって成人としていたが、実際に成人と認められるのは、その後、前髪(額の上の部分の頭髪を束ねて前に垂らした向こう髪。童子の髪型)を落とす前髪執(まえがみと)りの儀礼を終え、月代(さかやき)をする十七歳前後であった。ここは町人で性的に成熟していることになろうから、その前後(満十六歳前後)かと考えられる。丁稚に入って七年後ほどか。但し、添い寝あたりから考えると、もっと早くから二人に関係(擬似的性行為)はあった可能性は高い。その場合、どちらかといえばこの未亡人の方から誘いをかけたと考える方が自然であろう。そうしてそれが、彼女にとって本気の恋の炎となったのである。そうでなくては「老婦相對死望出」という標題が生きてこない。しかもこの丁稚は美男であった、継子の方はそうでもなかったなかった、という仮設定も不可欠であろうと思う。なお、江戸時代の農村部の平均初婚年齢というのが、慶應義塾大学通信教育部公式サイト内の浜野潔氏の「古文書で読む江戸時代のライフコース――宗門改帳の世界――」で分かる。それを見ると、武蔵甲山で男子は二十五・五歳、女子が十八・三歳で、しかも西に行くほど晩婚であることが分かる。そうして『大きな地域差があった』ものの、『典型的な江戸時代の庶民は、十代前半から奉公などを経験して家を出て、女性であれば二十歳前後で、男性は二十代半ばから後半で結婚したと思われます』と結論しておられる(引用ではアラビア数字を漢数字に直した)。男性が多く女性が少なかった(江戸後期の男女比は1.8:1と言われる)こと、西高東低は基本的に裕福であると晩婚化するを指すこと、村よりも都会の方が晩婚であることなどから考えると、主人公の青年は話柄の最後では満で二十五~二十八であるから、独身でもおかしくなく、蛆が湧くという訳ではない。にも拘らず、最後に話者が、「今に無妻にてありしと、笑ひ語りぬ」と言って軽蔑して笑うのには――中年婆にすっかり調教され、根性まで骨抜きとなった文字通りの軟弱男が――といった、その二人の閨の様を妄想する猥雑なニュアンスが感じられるとも言えようか。

・「重手代にて別家などなしける」「重手代」は商家で事務を総括する古参の手代。ウィキの「手代」より引く。本来の「手代」は『江戸時代中期以降に、郡代・代官などの下役として農政を担当した下級役人である。地方役人(じかたやくにん)のひとつ。手付(てつけ)、手附(てつけ)など、全国的にさまざまな呼称や似た役職があった。江戸幕府の勘定奉行配下の御林奉行・蔵奉行などの下役にも手代という役職があった。また転じて、商家の従業者の地位をあらわす言葉ともな』った。商家の手代は船場商家の役職の一つとして登場し、『旦那、番頭、手代、丁稚の順で位が低くなる。現代の会社組織でいうと、係長や主任に相当。丁稚が力仕事や雑用が主な業務であるのに対し、手代は接客などが主要な業務であった。つまり、直接商いに関わる仕事は手代になって始めて携われるのであった。手代になると丁稚と違い給与が支払われる場合が一般的だった』。因みに商法(現行商法の成立は明治三二(一八九九)年)には「番頭」「手代」の用語が二〇〇五年の改正時まで残っていたが、『その間に「手代」の地位のある企業はほとんど無くなっていたため、課長、係長など中間管理職を手代と解釈していた。現行法では、より幅の広い概念として使用人(商業使用人)と定義している』とある。「重手代にて別家などなしける」というのは、その重手代の地位のままで、別に店を任されたという意味で採るしかない。支店と訳したが、これ、私は未亡人との関係の継続性が最も肝要であることから考えて、ある種の特別な担当業務を独立させて、店のごく近く或いはすぐ脇に別な事務所に附属した独立の家を買ったか建てたかしたものと考えられる(札差の注で分かるように彼らは一種の豪商であったから何ら不自然ではない)。この丁稚は相応に仕事が出来たし、頭もよかったのであろう。そうでなければ札差の重手代は勤まるまい。また人格的にも未亡人の誘惑を断ることが出来ない優しくも弱い一面を持ちながらも、店主となった継子が追い出すこともなく使用人として使っていたことや、未亡人が同居しているこの使用人に自分と同等の衣食の世話を成すことを許していたこと、しかも前に述べた通り、その当主の継子の影が異様に薄いことなどから考えると、訳として自然なものにするためには、最小限、当主の継子(これも以上のような感じから考えると実は線の細い弱い性格であったのであろう)との関係も決して悪いものではなかったとしないと少し無理がある。そのように翻案を加えた。無論、この未亡人がヒステリックで暴君的女傑で好き勝手放題したという強烈な人物設定に変えて脚本全体を完全に塗り替えることも出来るが、そういうありがちな時代劇は、どうも私は好かんのである。マダム・キラーの美少年と禁断の恋に落ち、遂には彼との心中を口にする未亡人は、やはりしっとりしたものであって欲しい。最後に皆が笑っても――である。

・「實の父母兄弟」「實の」とあって、これは前に「母もなく」とあるのと矛盾する。後添えと解釈した。

・「右餘陰」本格的な援助は「衣食とも右後家より厚く世話」をなすようになってから、暖簾分けの店を持たせてもらってからではあっても、過去は丁稚になった時へまで遡るものであろう。さればこそ、口減らしに丁稚出した父も後妻(前注参照)を貰えるほどにはなったと考えられるからである。

・「知音」満七、八歳で丁稚に入った少年に知音が出来るとすれば、使用人仲間・札差仲間・贔屓の客筋ということになる。ということは、これ、彼が人格的にも優しく、人好きする容貌や態度の持ち主であった可能性が高いと考えて何ら不自然ではない。最後に駄目押し――そもそもが「年頃にもなり候間、右別家の手代に妻むかえんと、父母知音抔」がこぞって「世話」しようとする札差の支店の責任者の男は、これ、ハンサムで仕事が出来るに決まっとろうが!――

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 老婦が相対死(あいたいじに)を切望したという奇談の事

 

 浅草蔵前の札差(ふださし)を生業(なりわい)としておった者の妻とも聞くが、ちょっと確証はない。その積りでお読み頂きたい。文化九年度のことであったと人が語ったものを以下に記しおくこととする。

 

 札差として豊かに暮らしておった、とある町人のあった。

 この札差が許へ――これもう十八、九年も以前のことであったが――妻を失い、兄弟も多御座った身分の低いとある町人が、その伜の一人を丁稚(でっち)として奉公させた。

 奉公したての頃は、これ、いまだ八、九歳であったによって、札差の妻は、この子――なかなかの美童ではあった――を非常に可愛がり――札差夫婦には子供がなかったわけではないが、先妻の子はいたものの、この妻には子がなかったと申す――夜毎、ともすると兄弟を思い出して淋しがって泣いたりするこの子に、添い寝なんどをしてやり、殊の外溺愛致いて、我が子のように育てたと申す。

 まものぅ、この夫は、ふとした病いで身罷ってしもうた。

 先妻の子が既に成人して御座ったによって、札差はその者が継いだ。

 また、未亡人は相変わらず、かの丁稚を慈しみ続けたと申す。

 さても丁稚も年頃のやさ男に成長致いたが――いつの頃からであったものか――実はこの後家……溺愛の余り、この丁稚と密通なし、秘かにわりない関係と相い成って御座ったと申す。

 されば遂には衣食ともに、この後家がなんやかやと、我が子の如くに、手厚う世話致すことともなって御座った。

 されどこの丁稚、継子の下にては実に堅実に仕事をこなし、人柄もよく、ご贔屓筋には勿論のこと、当主である継子の信頼もこれ厚く、じきに重手代ともなり、商売も上手く捗って参り、これ、かえって手広う扱うようになった結果、逆に扱い余す仕事も増えたによって、継母の慫慂もあって、暖簾分けというのではないが、まっこと円満に、重手代のまま、別に、これ、ごく近き所へ支店を構えて、そこを一手に任さすることと相い成って御座った。

 また、この男の父や母――前に述べた通り、実の母は亡くなっておったが、その後、後添えとして継母の出来て御座った――やかの者の兄弟たちも、このお蔭を蒙って相応に貧しゅうなく暮らすこと、これ、出来て御座ったと申す。

 されば、

「……お前さんも、こうして店も持った。また、もう年頃にもなって御座ったれば、次はそろそろ、これ、かみさんじゃのう!――」

と、父やその後添え、兄や昔馴染みの商売仲間なんどが皆して、しきりに仲人の世話を致さんとしたのであったが、ところが、この話になると、これ当人、いっかな、聴く耳を持たぬ。美しき青年にて御座ったれば、これ誰(たれ)もが不思議に思うた。

 されば、彼を一番のお気に入りとして、これ、永年面倒を見て御座った、かの女主人に仲へ入って貰えれば、これ、断ることも出来まいと、女主人とも親しい者たちが集って相談に行き、この話をきり出したと申す。

 ところが、対面の挨拶までは、いつも通りの柔和な笑顔であった、かの老婆……この話をきり出した途端……さっと顔色の変わり……

「……なりませぬ。……」

「……なりませぬ!……」

「……決して……なりませぬ!……」

と、一向、得心する様子がない。

 そうして遂には、

「ならぬと言ったらッツ!……ならぬのじゃッツ!!……」

と皆を怒鳴りつけると、

――すっくと!

――髪振り乱して立ち上り!

「――その時はッ!! 妾(わらわ)!! あのお人と!! これ!! 心中するッツ!!――」

と叫ぶや、これ、昏倒致いてしもうた、と申す。……

 

「……されば、この男(おのこ)、今以って独身と聞いておりまする。……」

と、これを語ってくれた御仁は、ここで笑って御座った。

2015/03/21

本日夜閉店 心朽窩主人敬白

耳嚢――遂に950話まできた。残り50話!
本日は夜、教え子と呑む。クラッテルロのある店なれば、期待感、いや増し!

耳嚢 巻之十 豪傑怪獸を伏する事

 豪傑怪獸を伏する事

 

 名も聞(きき)しが忘れたり。去る下屋敷の稻荷の狐なる由、下屋敷守(しもやしきもり)の家來へ、別貮人扶持給(たまは)り、毎朝右家敷守食事をこしらへ片木(へぎ)にのせて右稻荷の脇へ差置(さしおけ)ば、いづ方よりか出て喰盡(くらひつく)しける事なりしが、然るに右家敷守替りて、新敷(あたらしき)屋敷守になり、新家敷守は豪傑なるものにて、主人より扶持まで賜(たまは)る事なれば、稻荷の供御(くご)、又は社頭の修復入用(いりよう)には可致(いたすべし)、聊(いささか)私(わたくし)の用にはたてんにはあらず、何ぞや、畜類に食を與ふるに、折敷(をしき)を淸め與ふるなど沙汰の限りなりとて、飯を地上にをきて片木(へぎ)などいさゝか不用(もちゐざ)りしが、喰殘(くらひのこ)し、又はくわざる事もありし故、前々にはかくかくなりと申(まうす)人もありしが、食(しよく)す食さぬ迄の事とて地上に置(おき)あたへけるが、上屋敷に居(をり)ける彼(かの)もの兄弟の女とやらの夢に一疋の狐來りて、御身の弟なる者、前々より片木(へぎ)にてあたへし飯を、砂の上へ直(ぢか)にこぼし置(おく)故、砂交りて甚(はなはだ)難儀なり、片木(へぎ)に不及(およばず)、古膳古椀、あるいは板の上へ成共(なりとも)、置(おき)たまはる樣に傳へたまはるべしと賴(たのみ)ける故、それは何故(なにゆへ)直(す)ぐに不申(まうさざる)哉(や)、我(われ)申しても誠(まこと)になすまじきと、夢心に答へければ、かく豪氣(がうき)のおの子なれば、我れ等(ら)など夢にも難立寄(たちよりがたし)と申(まうし)ける故、翌の日申遣(まうしつかは)し、強(しい)て賴み、それよりは、いかやうの物にのせてあたへても給盡(たべつく)し、夫(それ)迄は火のあしきもの抔のあたへしとて祟り事などありしが、其後は絶へてなかりしとなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:怪異譚で連関。登場するのが怪物――モンストロム――怪しき獣(けだもの)という点でも強く連関している。

・「貮人扶持」以前に注したが、「扶持」は扶持米のことで、蔵米や現金の他に与えられた一種の家来人数も加えられた家族手当のようなものであって、一人扶持は一日当たり男は五合、女は三合換算で毎月支給された。ここは、屋敷守をしている家来の主人(「下屋敷」とあるからこの武士は藩の家士と思われる)で、その主は今一人、自身の妻か下人を持っていたということであろう(扶持米は特別手当であって家禄(先祖の功により家に対して供された俸禄)・職禄(与えられた職務を遂行するに家禄の不足を補うために供された加算給与がまずあるので注意。しばしば参考にさせて戴いている清正氏のサイト「武士(もののふ)の時代」の「武士の給料」を参照のこと)。或いは、この新旧二人の屋敷守がその「貮人扶持」の二人であったのかも知れない。

・「片木」本来はへぎ板、檜・杉などの材を薄く削いで割った板を指すが、この本文ではこれを以下に出る「折敷」(注を必ず参照されたい)と同義語として用いている。

・「折敷」実は底本は「新敷」となっている。「あたらしき」と読んで全く意味が通じないでもないが、どうも不自然である。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版を見てみると、ここは『折敷』で、これなら如何にもしっくりと来る。書写の誤りと断じて例外的に訂した。「折敷」は析(へぎ。前注の「片木」の原義。)を折り曲げて縁とした角盆又は隅切り盆のこと。足を付けたものもあり、神饌の供えや通常の食膳としても用いた。

・「供御」「ぐご」「くぎょ」「ぐぎょ」とも読む。原義は天皇の飲食物であるが、後に上皇・皇后・皇子の飲食物をいう語となり、武家時代には将軍の飲食物から広く貴人の神饌の食事をも指すようになり、飯(めし)を指す女房詞ともなった。

・「砂の上へ直にこぼし置」実は底本は「こぼし置」が「ひぼし置」となっている。「ひぼし」は「陽干し」と読めなくはないが、如何にも不自然で、直後と意味が通じない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版を見てみると、ここは『こぼし置』で、これなら如何にもしっくりと来る。書写の誤りと断じてこれも例外的に訂した。

・「火のあしきもの」底本の鈴木氏注に、『死の忌、産の忌などがかかっている者。けがれにより神を祭る資格のない者である』とある。所謂、血の穢れと同義である(岩波の長谷川氏注ではこれらに加えて『また月経中の女など』と附言しておられる)。実は民俗社会では、火は神聖であると同時に穢れやすいものと考えられており、そこから穢れは火によって感染するものとされ、穢れの伝播のシンボルともなった(その点では「血」と通底する)。ここでの「火」もそうした「穢れ」の象徴表現であって実際の火を指しているのではないので注意されたい。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 豪傑には怪しき獣(けもの)も伏するという事

 

 名も聞いたが、忘れてしまった。

 さる下屋敷の稲荷の狐の話であるという。

 その下屋敷の屋敷守(やしきもり)をしておる家来――その藩士たる主人は、これ、別に二人扶持(ににんぶち)を給わっていた――があった。

 この家敷守の毎朝の勤めの一つに、食事を拵え、折敷(おしき)に載せ、その屋敷内にある稲荷の脇へ差し置くことであった。

 そうしておくと、何処(いずく)よりか、狐の出でて参り、これを喰らい尽くすを常としていた。

 しかるに、この家敷守が交替となって、新しい屋敷守となり、その新しい男、これがまた、なかなかの豪傑であった。

 されば、さても前の者より引き受けた、その翌日のこと、

「……いみじくも御主人さまより我ら、扶持まで給わってなしおる仕事。……稲荷に捧げ奉るところの、これ、正しき供物の供御(くご)、或いは社頭の修復や修繕に入り用のものなればこそ、かくは念を入れて致すべけれど――いや。いささかも私(わたくし)の用として倹約なし、小金(こがね)を貯えんとする、小さき料簡からの謂いにては、これ、ない。が、それにしてもじゃ……何が、これ、畜生の類いに食い物を与えんに、折敷なんどを清めて与えねばならという法、これ、あろうかい! このような下らぬ心遣い、これ、以ての外! 言語道断じゃッツ!」

と、炊いた飯(めし)を地面に直かに置き、折敷などは、これ、一切、用いずに供するように変えた。

 すると、飯は食い残されたり、或いは、全く手がつけられぬまま、まるまる残るようにさえなった。

 たまたま、それを見た昔から下屋敷に出入りする町方の者の中には、これ、心配して、

「……以前は、折敷に載せて出されて御座ってのぅ。……このようなことは、とんと御座いませなんだが。……ここの、お狐さまは何ですが、これ、祟ると評判のあれで御座んしてのぅ……」

などと、忠告致す者もあったが、屋敷守は、

「――食(しょく)さぬとなれば、食さぬまでのこと。――我らの知ったことでは御座らぬ。」

と、ぴしゃりと申し、そのまま、飯はこれ、ずっと地面の上に置き続けた。

   *

 さてここに、この藩の上屋敷の方(かた)に、実は、この下屋敷守の姉に当たる者が勤めて御座ったが、その女のある日の夜(よ)の夢に、これ、一疋の狐が来った。

 そうして、

「……御身ノ弟ナル者……前々ヨリ折敷ニテ与エクレタル飯ヲ……コレ……砂ノ上ヘ直カニコボシテ置クユエ……飯粒ニ……コレ……砂粒ノ交ッテノゥ……ハナハダ難儀致イテオル……サレバソナタヨリ……新シキ折敷ナンドハ用イルニハ及バヌニヨッテ……ソウサ……古キ壊レタル膳ニテモ……欠ケタル古椀ニテモ……イヤイヤ……或イハ板ノ上ニテモ宜シュウ御座ルニヨッテ……ナンナリトモ……ソノ……何カノ上ヘ飯ヲ置イテ供シ下サルヨウ……コレ……ソナタヨリ……宜シュウニ……オ伝エ給ワランコトヲ……コレ……切ニ相イ願イ上ゲ奉リマスル……ドウカ……一ツ……」

と、これまた妙に、妖狐のくせに、下手(したて)に出て頻りに頼むのである。

 されば、この姉なる女も妖狐という恐ろしさよりも、その態度の不審なるの気になって、

「……その儀ならば、なにゆえに我が弟に直かに申さぬのじゃ?……我れらが弟にかく伝えたとしても、これ、本気には致さぬと思うぞぇ?」

と夢心地に反問したところが、

「……メ……メ……メ……滅相モナイ……アノヨウナル……剛毅ノオノ子ナレバ……我レラナド……コレ……夢ニモ……立チ寄リ難キコトニテ……御座ル……」

申した――と思うた――ところで、目が醒めた。

 さても翌日、夜の明くるを待ちかね、下屋敷の弟が許へ姉自ら訪ねて、かくかくの夢告のあった旨、伝えたが、

 折しも、例の狐への供物の飯を炊いておった弟は、

「……そんな馬鹿な!……」

と取り合わなかったものの、姉がしいて、さらに懇請致いたところ、彼もまた、妖狐の、己れがことを――剛毅ノオノ子――と賞したことに気をよくしたものか……その日より、それなりの物の上に載せて飯を供するように致いたところ、その日よりはずっと、供すれば必ず、きれいに残らず食べ尽くされるようになったと申す。

 それどころか、風聞によれば、この狐、かつては、その下屋敷に関わる者の夢枕なんどに、

――……火ノ悪シキ不浄ノモノナンド……コレ……与エタナァ!……――

と、恨み言を垂れては、何やらん、祟るようなることもあったと申すが、これ以来、そうしたことはこれ、一切、絶えてなくなった、ということで御座る。

耳嚢 巻之十 怪窓の事

 

 怪窓の事

 中川家領□州の城下に候哉(や)、又其家中長屋に候哉、祟り有(あり)とて、右窓の處、圍(かこ)いたし置(おき)候處、文化九年七月の頃の由、右邊(あたり)修復有し節、作事方(さくじがた)勤(つとめ)ける役人、かの窓は不用にて、塞ぎ候て可然(しかるべき)旨申(まうさ)けるに、夫(それ)より上(うへ)だちし役人、有來(ありきた)る窓にて、怪異ありとて年久しく差置(さしおき)たる儀、何れ城地(じやうち)の事に候得(さふらえ)ば、江戸表主人へも申立(まうしたて)、其時宜(じぎ)によりて公儀へも伺(うかがひ)有(ある)べき事なりと答へけるを、右六ケ敷(むつかしく)のたまふ故難成(なりがたく)、普請(ふしん)の模樣がへに候間、貴殿と我等内談心付(こころづき)にて直(なほ)し置(おき)て可然(しかるべし)と申(まうす)故、頭立(かしらだち)し人も其心にまかせ右窓を塞(ふさぎ)しに、其夜怪しき小さなるもの、頭は大きく眼(まなこ)すさまじき怪物出て、右作事奉行の頭(かしら)並(ならび)咽(のど)へ喰付(くひつき)、右疵(きず)にて無程(ほどなく)相果(あひはて)、其譯(わけ)江戸表へも聞えて、元の如く窓を取付(とりつけ)し由。

□やぶちゃん注

○前項連関:凶宅の怪窓(かいそう)譚二連発。

・「中川家領□州」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『豐州』とあるから、これは豊後国(現在の大分県の一部)にあった外様七万四百石の岡藩である(大野郡(現在の豊後大野市)・直入(なおいり)郡(現在の竹田市)・大分郡(現在の大分市)を領し、豊後国内にあった藩の中では最大の藩であった)。訳では豊後を出した。文化九年七月は第十代藩主中川久貴(ひさたか 天明七(一七八七)年~文政七(一八二四)年)の治世である(以上はウィキの「岡藩」及び同リンク先に拠った。なお、「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月であるから、凡そ二年以前の出来事である)。ウィキの「中川久貴」によれば、寛政一〇(一七九八)年に第九代藩主中川久持の末期養子として家督を継ぎ、文化元(一八〇四)年に『豊後一国の地誌である『豊後国誌』を編纂して幕府に献納し、岡藩の学問水準の高さを知らしめ』、文化四(一八〇七)年からは『横山甚助による藩財政再建を中心とした「新法改革」が実施されたが、専売制や領民に対する重税のために反感を買い』、文化八(一八一一)年には『岡藩において大規模な一揆が発生する。しかもこの一揆は臼杵藩や府内藩にも飛び火した。このため、久貴は農民の要求を受け入れ、横山を罷免することで』文化九(一八一二)年に一揆を鎮めている、とある。また『久貴には実子がいたが、正室の満から娘・育に婿を娶らせて藩主とするよう強要され、譜代大名の名門である井伊氏から久教を養子として迎え』、文化一二(一八一五)年六月に家督を譲って隠居したとある。しかもHIROSAN GOODS 氏のサイト内の「三佐の歴史」の「文化の一揆」を見ると、この勝手方御用掛(藩の財務・民政を掌った役職)横山甚助の行った『新法改革』(文化の新法)が農民にとって苛烈なものであったことが窺え、この何気ない怪異発生の背後に実は、藩自体の病んだ実態も見え隠れするように思われる。もしかすると、この「夫より上だちし役人」――作事方の上司とは、そのずっと上役の勝手方御用掛らしくも見える。いわばこの、後からしゃしゃり出て権力を握っては、旧来の定式(窓)を排して新たに苛政を敷いた、この憎っくき張本人横山甚助なる男に絡めて、仮託したところの創作怪談のようにも、これ、見えてはこないだろうか?――怪異の影に真実が潜んでいる――調べるうち、そんな気もしないでもなくなってきたのであった。……

・「作事方」木工仕事を専門とし藩庁の大工・細工・畳・植木などを統括した役人。後に「作事奉行」と出るが、藩によっては実際に作事奉行を置いていた。

・「城地」岩波の長谷川氏注に、『城に手を加えるなら幕府に断る要あり』とある。 

 

■やぶちゃん現代語訳

 怪窓(かいそう)の事

 中川家久貴(ひさたか)殿御領分、豊後国の御城下の、その城内のことにて御座ったか、或いは中川家御家中に御座った長屋での話であったか、ともかくも――祟りのある――と称して、とある建物(たてもの)の窓のある一箇所を、奇怪なることに、厳重なる塀にて囲みおいてあったと申す。

 ところが、文化九年七月の頃のこととか、その辺り一帯に就き、大きな修復を加うることとなった。

 折りから、作事方(さくじがた)を勤めて御座った役人が、一巡実見の折り、その奇体に封ぜられたる窓を見かけて、

「――かの窓は不用のものなれば、塞いでしまうのがよかろう。」

と判断の上、取り敢えず、作事方支配の上司へ言上致いたところが、

「……あれは……見た目これ、ありきたりの窓にてはあるが……かねてより――怪異のある――と専らの噂のもの。……されば、年久しゅう塞いだままに放置して参ったものじゃ。……しかも孰れ、これ、城地内(じょうちうち)の修繕に相当致す仕儀なれば、江戸表の御藩主様へも、これ、しかと御伺い申し立て、相応の時宜(じぎ)を見計らった上にて、御公儀へも、公に修復の御伺いを致さねばならぬところの案件なればのぅ。……」

との答えで御座った。

 ところが、作事方の者は、

「……お畏れながら、そのように杓子定規に難しゅう仰せにならるればこそ、成し難くなるもの申せませぬか?……これは申さば、普請(ふしん)の――単に――模様替え――で御座いまする。謂わば、とるに足らぬ――ちょっとした修繕――とり繕いにて御座いますれば。……ここは一つ、あなたさまと我らとの、内々の相談の上での分別にて、直しおいて、これ、何らお咎めの、これ、御座ないものと存じまするが?……如何で御座いましょう?……」

と慫慂致いたによって、その上司の者も、

「……そうじゃ、の。……謂わば、それも一理。そなたに任せた。よきに計らえ。」

と、許諾致いて御座った。

 されば、その翌日、作事方、自ら出向いて人夫を指図致いて、かの窓を、これ、なんなく塞ぎ終えたと申す。

 ところが、その夜(よ)のことである。

 その作事奉行が屋敷に、これ……

――怪しき小さなる……

――頭の大(だい)にして……

――真っ赤な眼(まなこ)の爛々と耀いた……

――言うもおぞましき、凄まじき化け物!

――これ、出で!

――屋敷内(うち)を恐ろしい勢いにて駆け巡る!……

と!

……主人が寝間より、恐ろしき叫び声の致いた!

……されば家来の者、押っ取り刀で駈けつけてみたところが……

――かの化け物……

――主人の頭と咽喉(のんど)のところへ

――喰らいついては離れ――

――喰らいついては離れ――

――御家来衆の一人が一太刀、化け物へ加えんとしたところが……

「シャアアッツ!」

と雄叫びを挙げたかと思うと、

ふっ!

と、脱兎の如く、外へ走り去って、これ、姿を消してしもうた、と申す。……

 作事方は、これ、その傷(きず)がもとで、ほどのぅ身罷った、と申す。……

 以上の顛末は、これ、結局、江戸表へも伝えられ、藩主より厳命の下って、元の如く、かの窓を取り付け直した、との由にて御座る。

耳囊 卷之十 房齋新宅怪談の事

 

 房齋新宅怪談の事

 

 文化の頃、下町にて房齋(ばうさい)といへる菓子屋、色々存付(ぞんじつき)の菓子を拵へ殊外(ことのほか)はやりしが、數寄屋橋(すきやばし)外へ、同九年八月の頃引越して、召仕(めしつか)ひの小もの二階の戶をあけるに、半分明(あき)て何分(なにぶん)不明(あかざる)故、手に强く敲(たた)きて明(あく)るに明(あか)ず。右音を承り、何故かく手あらくいたし候や、損ずべしとて、亭主上りてあくるに、聊かとゞこほらず。又たてる時も、外(ほか)召仕ひ上りてあくるに不明(あかず)、漸くして強くをしければあきぬ。あけの日又右戶を明(あく)るに明(あか)ざれば、嚴敷(きびしく)押(おし)て建(たて)ぬれば、戶袋の間より女壹人顯(あらは)れ出て、右の男に組付(くみつ)く故、驚周章(おどろきあは)て突退(つきのけ)しに消失(うせ)ぬ。其明けの日、亭主二階にて、右召使一同見たる、きのふ顯れし女のひとへ物、軒口(のきぐち)に引張(ひきは)りありし故、取退(とりのけ)んとするに消失ぬ。先に住ひしものも、かゝる怪異ある故、房齋にゆづりしならんかと、人の語りぬ。 

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。五つ前の「怪倉の事」に続く本格凶宅物。これ、三分の二が経過して初めて二種の怪異が出来(しゅったい)、しかもその一つは安倍公房的な二次元的妖女の出現(この平面状の女が膨れ上がって厚みを以って一個の女へと実体化して襲いかかってき、突きのけた瞬時に、空気に溶け込んで消失するシーンは頗る絶品である)という、なかなかにシュールな上質の一篇である。数少ない「耳嚢」中の怪異譚の中でも私が偏愛する佳品なれば、訳には細部に臨場感を出すための翻案を施してある。悪しからず。

・「文化の頃」「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月であるから、文化一年(享和四(一八〇四)年二月十一日に文化に改元)から、ここは九年八月引っ越すまでのまでの八年を閉区間とする。

・「下町」ウィキの「下町」によれば、『歴史的に江戸時代の御府内(江戸の市域)で、高台の地域を「山の手」と呼び、低地にある町を「下町」と呼称されたという。東京における下町の代表的な地域は、これもばらつきがあるが日本橋、京橋、神田、下谷、浅草、本所、深川である』。『徳川家康は江戸城入城後、台地に屋敷を造ったのち、低湿地帯を埋め立てて職人町等を造ることにし、平川の河口から江戸城に通じる道三堀を造ったのを手始めに、掘割が縦横に走る市街地の下町を造成していった。芝居小屋や遊郭などの遊び場も栄え、江戸文化が花咲いた』。『東京の下町は運河や小河川が縦横にあり、橋を渡らないと隣町に行けないところという見解がある。この地域には道路や川を越した先を「むこうがし(向こう河岸)」という表現がある』とある。

・「存付」「存じ付く」という動詞は、思いつくの意であるから、考案したオリジナルの趣向のものを指す。

・「數寄屋橋外」数寄屋橋は寛永六(一六二九)年に江戸城外濠に架けられた橋。現在の晴海通りにあり、周辺の地域も数寄屋橋と呼ばれる。JR有楽町駅の南直近で、「外」とあるから現在の中央区銀座四丁目か五丁目付近に相当する。 

 

■やぶちゃん現代語訳 

 

 房齋(ぼうさい)新宅の怪談の事 

 

 文化の頃、下町にて房齋と申す菓子屋、これ、いろいろ自ずと考案致いた菓子を拵え、殊の外、流行って御座った。

 かの房齋、数寄屋橋(すきやばし)外へ、同九年八月の頃、引っ越して御座った。

   *

 その引っ越した翌朝のこと、召し使っておる小者(こもの)が、その二階の雨戸を開けんとしたところ、半ばまでは開いたものの、建て付けでも悪いものか、それ以上、いっかな、動かぬ。されば、拳でもって、

――ドン! ドン! ドドン!

と、戸の上下を強く叩いて開けんとしたが、やはり、これ、開かぬ。

 ところが、この音を聴きつけ、

「――こりゃ!! お前さん! どうしてかくも手荒きことを致すんじゃ! 壊れてしまうではないか!」

と叱りつつ、亭主房齋が二階へ自ずと上って参り、召し使いを払いのけると、手ずから、開けようとした。

 すると、

――すうーっ

と開いて、いささかも、これ、滞ることのぅ、戸袋へと収まって御座った。……

   *

 その日の暮れ方、雨戸をたてる折りには、亭主房齋、

「……乱暴な、あ奴には任せられん。これ、そこの、お前。行って、たてておいで。」

と、先とは別の召し使いが命ぜられて、二階へと上ぼって行き、さても戸袋から戸を引き出さんと致いたが、これ、今度は、引き出そうとしても引き出せず、暫く何度もぐいぐい引いた末、

――逆に強く押すや否や、間髪を入れずまた

――ぐっ!

と強く引いたところが、

――すうーっ

と出でて参り、これ、戸をたつることの出来て御座った。……

   *

 さても、翌朝こと、先夜に戸をたて得た殊勲によって、かの召し使いがこれまた、房齋に命ぜられ、かの戸を戸袋に仕舞わんと致いた。

 ところが、これまた、戸袋へ半ば入ったところで、いっかな、動かずなった。

 されば昨日の塩梅にて、逆に、

――ぐっ!

――と強く引いては即座に押しこんで

戸袋に突き込んだ。

――と!

――戸袋の間より!

――女が一人!

――現われ出で!

――その召し使いの男に組みついた!

――男はこれ! 驚き慌て! その女を強く突く退けた!……

……と!……

……女は……これ……消え失せて御座った…………

   *

 房齋は、その召し使いの者より、奇体な女の出現を聴いて、半信半疑ながらも、その日はこれ、不気味に覚え、二階は戸をたてさせずにそのまま放っておかせた。

 さても、そのまた翌朝のこと、房齋は召し使い一同を引き連れ、その二階へと上がって、恐る恐る、かの窓の方(かた)を覗き見た。……

……と……

――軒口に

――これ

――女の真っ赤な単衣(ひとえ)物が

――これ

――引っ掛かって

――獣の臓物の如く

――朝の風に

――靡いておった……

 と、それを恐る恐る房齋の背の後ろから覗き見た、かの召し使い、

「……ご、ご、主人さま!……あ、あれ! 昨日、戸袋より現われ出でたる、あの、あやかしの女が! き、着ておったものこそ、あ、あれで! 御座いましたぁッツ!!……」

と申したによって、房齋、ここは一つ気を強ぅ持たずんばならず、と、自ずと窓へと近づくと、軒の方へ顫える手を伸ばして、

――バタバタ――バタバタ――バタバタ――……

と、妙に癇に障る音を立てておる、その、単衣を、これ取り払わんとした。……

……と!……

……今あったはずの単衣……これも……消え失せて御座った…………

   *

「……先(せん)にこの家に住もうて御座った者も、かくなる怪異を同じく体験致いて御座ったれば、気味(きび)悪るうなって、そうした怪異のあるを一切告げることのぅ、かの房齋にかくも体(てい)よく、この家を譲ってででも御座ったものか?……」

と、以上は、さる御仁の語って御座った話である。

 

2015/03/20

耳嚢 巻之十 不思議に人の惠を得し人の事

 不思議に人の惠を得し人の事

 

 飯田町(いひだまち)に葛西屋(かさいや)長四郎とて、明和の頃田安淸水(たやすしみづ)御屋形(おやかた)の藏宿(くらやど)をなし、有德(うとく)にくらしけるものあり。右の者の素性(すじやう)を尋(たづぬ)るに、葛西の肥(こや)し船の舟乘(ふなのり)をなせし若ものなりしが、飯田町の番太郎(ばんたらう)をなせし者の甚(はなはだ)氣に入(いり)て、明け暮、肥舟(こへぶね)に乘り來る時は、彼(かの)番太郎事、我(わが)子の如くなしけるが、元より番太郎子供もなく、死に臨み、我等跡を汝に讓るべし、外に讓るものはなけれども、其桶(をけ)を出すべしと、人の居ざるを見合(みあひ)て床下に有之(これある)桶を爲出(ださせ)、右の内の灰をかきのけよといふ故取除(とりのけ)しに金子百兩ありしを、是を讓るとて與へて間もなく終りければ、彼(かの)舟乘の若もの、外に思ひ付(つき)もなければ、店(たな)をかりて鐵砲洲(てつぱうず)邊より妻を呼(よび)、其身は無筆なりしが右妻は書(かけ)る故、之を帳元(ちやうもと)にして屋敷々々へ敷金抔して掃除を引請(ひきうけ)、在方へ賣拂(うりはら)ひしに程なく仕出して、借金などなし大勢人を遣ひてとみ榮えける由。然るに右葛西屋、桂四郎一代は右番太郎を元祖として甚(はなはだ)尊崇なせしが、其悴桂四郎は有福(いうふく)に育ち金銀を水の如く遣ひて、後は亂心なして其家斷絶なしけるが、素より右の不賴(ぶらい)者故、番太郎を祭る事もなく、金銀を水の如く遣ひし罰なりと、親の代に勤めし女の、婆になりしが語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。所謂、汲み取り屋、屎尿買い取り運搬業者(江戸のリサイクルに於いては屎尿を肥やしとするために農家が直接或いはこうした仲買業者を挟んで汲み取る方が金を払って収集していた)から身を起こした者の出世凋落譚。

・「飯田町」現在の千代田区飯田橋一帯。家康入府以前は千代田村と呼ばれた。町の名は天正一八(一五九〇)年に江戸に入府した家康がこの千代田村とその周辺を視察を行ったが、案内役を買って出た村の住人飯田喜兵衛(きへえ)の案内に感心した家康が彼を名主に任命、さらに地名も「飯田町」とするように命じたことに由来する。以来、江戸の町の開発が進み、この界隈は本文に「屋敷々々」とあるように武家屋敷が犇めくようになったが(江戸時代の武家地は町名を持たなかった)、「飯田町」は以前、この周辺の通称として使われた、と千代田区公式サイトのこちらに記載がある。

・「葛西屋長四郎」後に「桂四郎」と出るが、この長四郎が正しいと思われ、悴が桂四郎であろう。但し、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、後の「桂四郎」の二箇所(やはり本文と同様の誤りを犯している)が『權四郎』となっている。訳では意味が通るように変えた。

・「明和」西暦一七六四年から一七七一年まで。「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月であるから、成功した一代目の葛西屋長四郎が生きていたのは五十年以上以前ということになる。

・「田安淸水御屋形」御三卿(ごさんきょう)の田安徳川家(第八代将軍吉宗次男徳川宗武を始祖とする)と清水徳川家(第九代将軍家重次男徳川重好を始祖とする)両屋敷(今一つは一橋徳川家で吉宗四男徳川宗尹(むねただ)を始祖とする)。

・「藏宿」札差(ふださし)のことであろう。蔵米取(「倉米」は諸大名が蔵屋敷に蔵物として回送する米。商品ではあるが、商人が回送する納屋米(なやまい)とは区別されていた)の旗本や御家人の代理として幕府の米蔵から扶持米を受取り換金を請負った商人。札差料は 百俵につき金二分で、手数料はさほどの金額にはならなかったが、扶持米を担保として行う金融によって巨利を得た。但し、岩波の長谷川氏注には、『あるいは蔵元の意か』とあり、これだと、大坂などにおかれた諸藩の蔵屋敷で蔵物の出納売却などを管理した人。当初は藩派遣の蔵役人がこれにあたったが、寛文年間 (一六六一~一六七三)年頃から商人が当たるようになった。これら町人蔵元は通常、藩から扶持米を給され、武士に準じる扱いを受け、蔵物の売却に当たって口銭(こうせん:商業上の利潤を言う。仲介手数料・運賃・保管料などを含む。仲介手数料。)を得、また売却に関連して莫大な投機的利潤をあげた(以上は概ね「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。しかし蔵元は多くの記載が「大坂など」とあるのが気になる。札差で訳した。

・「葛西」武蔵国葛飾郡。現在の東京都墨田区・江東区・葛飾区・江戸川区の地域に相当する。参照したウィキの「葛西」によれば、『江戸時代に利根川の大規模な治水工事が行われ、利根川の水流の大部分を渡良瀬川と合して旧鬼怒川から銚子に、一部を太日川に流すようになった。これが現在の江戸川である。江戸川の誕生は葛飾地域の一体性を大きく分断し、西側の葛西は江戸の近郊地域と化した』。貞享三(一六八三)年(或いは一説に寛永年間(一六二二年~一六四三年)とも)には『上流部とともに武蔵国に移管され、武蔵国葛飾郡の一部となった。葛西地域の西隣では、貯木場となる木場が置かれ、元禄年間には深川、本所の江戸の市街地化が進んだ』。『またこの頃になると、この地域を中川をおおよその境に東西に分けて「東葛西領」と「西葛西領」と呼ばれるようにもなった。東葛西領をさらに「上之割」・「下之割」に、西葛西領を「本田筋」と「新田筋」に分け』、四つの地域に区分される場合もあったという。

・「肥し船の舟乘」岩波の長谷川氏注に、『葛西の農村地帯の日兩として江戸の町の屎尿を汲取って運ぶ船。長四郎は神田川をさかのぼって飯田町へ来ていた』とある。

・「番太郎」底本の鈴木氏注に、『もとは、江戸市中町々の境に木戸ありて、其木戸に番小屋あり、其番人を番太郎といへり、荒物、三文菓子などを鬻げり。(三村翁)』とある。老婆心乍ら「鬻げり」は「ひさげり」で商売をしたの意。単に番太とも呼んだ。これは自身番(じしんばん)と同義で、江戸・大坂などの大都会にあって市中の警備のために各町内に置かれた番所(概ね保守管理のために木戸の近くに置かれた)。初め地主自らがその番に当たったが、後に町民の持ち回りとなった。但し別に、町や村に雇われて夜警や火事・水門などの番に当たった者(非人身分の者が多かった)をもこう呼ぶが、ここは前者であろう。時代劇などを見ていると、老人がやっていることが多く、凡そ百両を溜め込んでいるような者がする仕事とは思われない。これ、それがきっちり百両あることなどから考えても、この老番太、若いころは盗賊の一味ででもあったのかも知れない。この百両も、足を洗った際、山分けされた、いわば、いわくつきの金なのではあるまいか? 「雲霧仁左衛門」の見過ぎか?

・「鐵砲洲」東京都中央区東部、現在の中央区湊(みなと)及び明石町(あかしちょう)に相当する。地名は家康入府当時のこの辺りが鉄砲の形をした島(洲)であったことに由来するとも、また、寛永の頃にこの洲で鉄砲の試射をしたことに依るとも言われる(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。鉄砲洲の港には各地からの廻船が入港して賑わっていたから、この長四郎の妻というのもそうした船乗り相手の宿屋や茶屋の下女(或いは所謂、体を鬻いだ飯盛り女)などで、彼の馴染みの女であったのだろう。わざわざ「鉄砲洲邊より」とした以上、暗にそういう仄めかしが含まれているように私は読むべきと考えるのである。但し、この女読み書き算盤が出来る。されば更に妄想を広げれば、相応の格式の身分の婦女であったものが零落してそうなっていた……いやいや……お後が宜しいようで……。

・「帳元」金銭の帳簿を掌る会計係。

・「敷金」それぞれの屋敷に於いて屎尿汲取権を独占的に認可して貰うための屋敷方へ支払った保証金。次注参照。

・「掃除」屎尿汲取りと便壺の掃除。岩波の長谷川氏注に、既に述べたように、『当時は汲取る方が金を払う。肥料になるので汲取が権利化していた』とある。

・「在方」田舎。農村地帯。

・「仕出して」財産を作り上げて。稼ぎに成功して。

・「借金」貸金。金貸し。両替商。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 不思議に人の恵みを得た人の事

 

 飯田町(いいだまち)に葛西屋(かさいや)長四郎と申し、明和の頃、田安・清水様の御屋敷の札差(ふださし)を勤め、裕福に暮らして御座った者がおった。

 この者の素性(すじょう)を訊ねたところが、元は葛西の肥(こや)し船の船頭を生業(なりわい)と致いておった若者で御座った由。

 神田川を遡上致いては飯田町辺りの肥えの運搬を成して御座ったが、同町の番太郎(ばんたろう)を致いておった者が、この長四郎がことをはなはだ気に入り、明け暮れ、肥え舟に乗ってやって参る時は、かの番太郎、これ、まるで我が子に接するが如くなして御座ったと申す。

 もとより、この番太郎、子供ものぅ、死に臨んで、

「……儂(わし)は跡を――お前さんに――譲ったる。……さて、と言うて、これ、外に譲るものとてもなけれど……ここにある、桶を出しなぃ。――」

と、他に人気のないを確かめた上、病床の脇の畳を指差し、

「……この床下にある――桶――じゃ。」

と、長四郎に畳を揚げさせ、床板を外し、床下の地面に埋め込まれた桶を取り出させた。

「……その桶の上を覆っとる灰を、これ、皆、掻き除(の)けなぃ。――」

と申したによって、言われた通りに、すっかり掻き出して見たところが、桶の底には、これ、

――金子百両!

がみっちりと敷き詰められて御座ったと申す。

「……それを……譲ったる。――」

と、長四郎へ与えて間ものぅ、番太郎は、これ、亡くなった。

 されば、その肥え船の船乗りの若者、百両の使い道につき、何か、外の仕事などをも、これ一向、思いつかず御座ったによって、これを元手として、その飯田町にお店(たな)を借り、鉄砲洲辺りより馴染みの女を呼び迎えて妻となした。

 長四郎自身は字が書けなんだが、その妻なる者は読み書き算盤、これ、一方ならず得意として御座ったによって、この者を帳元(ちょうもと)役となし、飯田町一帯の多くの武家屋敷へ肥やし汲み取りの敷金などを支払い、その便壺の汲み取り掃除の権利を、これ、一手に引き請けることに成功、そこで得た多量の肥やしを、神田川を下らせては葛西の農村へと売り払うという、大きな仕事をし始めた。

 ほどのぅ小金をこれ、貯め込むことが出来、それにさらに借金をして前よりもより大きなる事業へとこれを拡げ、遂には大勢の使用人や専任の汲み取り人夫并びに専属の肥え船附き船頭をまでも使うようになり、大いに富み栄えるようになったと申す。

 然るに、この葛西屋、この長四郎一代は、かの番太郎を葛西屋元祖と称し、はなはだ尊崇なしては堅実な事業を成して大いに栄えて御座ったのであったが、その伜の桂四郎なり者は、これ、物心ついたころより裕福なる中に育ったからであろうか、後に葛西屋を継ぐや、金銀を湯水の如く使(つこ)うてしもうて、遂には乱心なし、葛西屋は結局――断絶――致いたという。……

「……もとより、桂四郎という申す、その、ドラ息子は、これ、そのような放蕩者にて御座いましたによって……その栄えの元となりましたる、かの番太郎さまを祀ることも、これ、一切のぅ……ただただ、只管(ひたすら)、金銀を湯水の如く使うばかり……乱心も、お家の断絶も、これ、その罰(ばち)が、これ、当たったに、相違御座いませぬ。……」

とは、その親長四郎の代より葛西屋に勤めて御座った下女であった者――今は無論、すっかり老婆となっておるが――が、これ、私に語ってくれた話で御座った。

耳嚢 巻之十 假初の滑稽雜話にも面白き事有し事

 假初の滑稽雜話にも面白き事有し事

 

 大久保邊に神宮の社ありて、文化九年九月祭禮に、俗に地口行燈(ぢぐちあんどん)とて燈籠をとぼす繪に、禪門と一老人と燈下に碁を圍みいる所を畫(ゑが)き、又側(そば)に若き女居眠り居(をり)、壹人の女子手を揚げて伸(のび)をなす所を認(したた)め、行燈いづれも百人首の上句をとり、

  かささぎの渡せる橋のおく霜の棕櫚箒を見れば夜ぞ更にける

と歌を書(かき)しが、此歌しろきをしゆろきにかへ、主人の碁にこりしにあき果(はて)たる所、おもしろき趣向なり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。狂歌シリーズ。これを見ると、根岸自身、かなり狂歌が好きだったことが窺われる。彼自身、作ってないのかしらん? あったら、これ、とっても読みたい!

・「大久保邊」現在の新宿区大久保と旧東大久保村のあった新宿区新宿の一部。

・「神宮の社」不詳。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『神明の社』(天照大神を祭神とする神社)とあるが、現在の大久保や旧東大久保(さらには旧大久保百人町や西大久保村等の鎮守社には高田馬場にある神社もある)などに複数の神社があるものの、神宮或いは神明社を見たす神社は見当たらない。識者の御教授を乞う。

・「文化九年九日」西暦一八一二年。「卷之十」の記載の推定下限は文化十一年六月。

・「地口行燈」底本の鈴木氏注に、『ぢぐちあんどんといふ、地口とは、耳なれし言葉の、語音の相似たるを用ひて、一語に二様の意味を含まする戯れにて、これを行燈に顕して下に疎画を添へ、初午等に街上に立て、賑を添へるもの。(三村翁)』とある。

・「伸(のび)」は底本の編者ルビ。

・「かささぎの渡せる橋のおく霜の棕櫚箒を見れば夜ぞ更にける」は、

 かささぎのわたせるはしのおくしものしゆろはうきをみればよぞふけにける

或いは、本文通り、

 かささぎのわたせるはしのおくしものしゆろきをみればよぞふけにける

と読む。言わずもがなであるが、これは「百人一首」第六番の大伴家持の歌(「新古今和歌集」冬之部・六二〇番歌)、

 かささぎの渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける

のパロディで、底本の鈴木氏注には、「棕櫚箒」について、『長尻の客を帰らせるまじないに、下駄に灸をすえるとか、箒を逆さに立てるなどがある』とする。本文にあるように、長っ尻の碁の対戦相手を早く追い返すための、妻の「逆さ箒」の呪(まじな)いである(が、それが一向に効果を示さないことをこの戯画が示しているところが、またまた面白いのである)。ネットの質問サイトの答えなどによれば、箒は古えの神道の祭祀に用いた神聖な道具で(竃神(かまどがみ)のいる竃の清掃に用いる荒神箒のように稲霊(いなだま)の宿る稲の穂の芯を材料にして作られている点や、物を掃くという挙止動作に特別な霊力をイメージしたのであろう)、「箒を跨ぐと罰が当たる」とか、妊婦の枕元に置いて安産のお守りとなるといった、さまざまなジンクスが残るが、この逆さ箒は、「無用な残溜物を掃き出す」「邪悪なものを祓う」という箒の民俗的機能からの連想であり、逆さに立てるという動作は古代の神事の際の捧げ持ち方に通ずるものであるという説が示されてあった。私の知れるそれ(漫画「サザエさん」で見た)は、この箒の掃く部分に手拭いをかけて客がいる襖の向こう側にこっそりと立てるというものであった。この狂歌は碁石の「白」石に加えてその「白」手拭いの色をも「棕櫚」の「逆さ箒」にイメージとして「白き」に掛けているように私には読めたが、如何?

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 ちょっとした滑稽の雑話にも面白きことのある事

 

 大久保辺りに神宮の社(やしろ)のあり、俗に「地口行燈(じぐちあんどん)」と申して燈籠を灯し、その紙に戯画と、ちょっとした戯れ言を記す風俗の御座るが、その文化九年九月の例祭にて、

――町屋の主人が、禅門の僧と思しい一老人と燈下に碁を囲んでおる所

を描き、また、側には、

――若き女の居眠り居り、今一人の女子(おなご)は手を挙げて伸びを致いておる

所を認(したた)めた行燈のあった。

 また、この折りは、居並ぶ行燈、これ、その地口、百人一首の上の句を取った狂歌仕立てで御座ったが、その絵には、

 

  かささぎの渡せる橋のおく霜の棕櫚箒を見れば夜ぞ更にける

 

と歌を添え書きして御座った。

 この歌、「しろき」を「しゅろき」に変え、主人が碁に凝るのに飽き果てた妻子(つまこ)を掛けた、如何にも面白い趣向である。

昨日――母と私の墓を参る

昨日は4年目の母の祥月命日であった。
旧友と一緒に初めて母の墓を参った。
多磨霊園の慶應義塾大学医学部納骨堂である。
私も入ることになっている墓である。
母さん――やっと――来たよ……

2015/03/18

耳囊 卷之十 幼女子を產し事

 

 幼女子を產し事 

 

 土屋保三郞領分下總國猿島(さしま)郡藤代(ふじしろ)宿、忠藏娘とや、文化九年申八月男子を出產し、母子健成(すこやかなる)由。とや事四歲より經行(けいかう)に成(なり)、當年八歲の由。右は全くの妄說ならんと疑ひしに、御代官吉岡次郞右衞門支配所は右最寄にて、珍事故、右手代𢌞村(くわいそん)序(ついで)、まのあたり見屆(みとどけ)し由。我等がしれる人の家來、知行へ參り候とて右忠藏隣(となり)に止宿して此事を聞(きき)しに、相違なしと語りぬ。尤(もつとも)男はなしとも云(いひ)、又有共(あれども)、深く隱すとも沙汰あり。何れ生れしといふは僞りにて、狐狸のたぐひ其子に化し居(ゐ)たるにはなきかと、猶(なほ)怪しみは解(とけ)ざりき。

  但(ただし)二百四十九年以前、永祿七甲
  子(きのえね)年、丹波國にて七歲の女、
  子を產むといふ事、或書にあれば、なき事
  とも難申(まうしがたく)と、人の言ひき。 

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。底本の鈴木氏注に、『武江年表、文化九年九月三日、下総国相馬郡藤代宿百姓忠蔵娘とや、八歳にて男子を生、母子恙なし、と見ゆれば、当時評判なりしなるべし。(三村翁)』とあり、岩波の長谷川氏には、「武江年表」の他にも、滝沢馬琴編「兎園小說」、医師で文人であった加藤曳尾庵(えいびあん)の「我衣」八にも載ると記し、ただ、それらではとやの出産は九月三日としてあるとあるから、それが正しいようである(但し、訳がそのまま「八月」とした)。後者は未読であるが、「兎園小說」の方は私の偏愛するもので(私のオリジナル古文教案「やぶちゃんと行く江戸のトワイライト・ゾーン」の三篇の内、第一夜と第二夜の二篇はそこからで、第三夜は既に公開した「耳囊 卷之九 不思議の尼懴解物語の事」である)、地下文書形式で臨場感があるから、現代語訳の後に資料として配した。さても――これは事実か否か? 例えば最近でもメキシコの九歳の少女が出産したというニュースがあり(二〇一三年二月。但し実際には十二歳で、父親は義父が疑われている)、それに関わって書かれたペルーの「【世界最年少】5才7か月で妊娠出産した少女」についての記事もネット上には存在する(こちらは一九三三年と古いが、画像も豊富)。最初に私が想起したのは二重体(胎児内胎児。「ブラックジャック」のピノコである)であったが、ここでは性別が異なる点や、産まれた子が奇形胎児でなく、出産後も母子ともに健康であるという点などからは可能性が低いように思われる。上記の二つの記事にも特徴的に見られるが、実際の出産であった場合は(この主人公「とや」は満で七歳であり、現代でも九歳未満の早発月経(Premature mensuruation)を思春期早発症などとも呼称しているくらいだから、全くあり得ない話ではない。また、田舎のことであるから、年齢も、必ずしも正確とは言い難いという気もする。事実、後掲する「兎園小說」の報告書には『とや儀は年頃より大柄に相見え候』とあるのである)、幼女に対する性的虐待や幼児姦、しかもしばしば相手として家庭内の近親姻族(私の読んだ法医学書の事例では外国のケースで、実の兄が二人の姉妹を妊娠させた例を知っている。しかもそれは性行為によるものではなく、奇妙な性的悪戯による妊娠であったことが判明するという驚くべきものであった)が疑われたりもする。

・「土屋保三郞」文化九年当時ならば、現在の茨城県土浦市を藩庁とした常陸国土浦藩(譜代・九万五千石)第九代藩主土屋彦直(よしなお)である。しかし、彼の幼名は「保三郞」ではなく、「拾三郞」であり、しかも先の第八代藩主土屋寛直(寛政七(一七九五)年~文化七(一八一〇)年)の幼名が「保三郞」である。この寛直は第七代藩主土屋英直長男で、享和三(一八〇三)年八歳の時に父が死去したために家督を継いだのであるが、しかし病弱で七年後の文化七年十月十五日に満十五歳で亡くなってしまうのである。ところが参照したウィキの「土屋寛直」によれば、『継嗣が無いため、寛直はなおも病床で生きているということにして、幕府に進退伺を提出、「病弱で、嗣子もなく領地奉還をしたい」と願い、更に「養子を認められるなら」という文章を提出したところ、祖先の勲功があったので養子を認められ、水戸藩主徳川治保の三男・拾三郎(土屋彦直)に寛直の養女(実妹、英直の娘)充子を娶わせ、婿養子として迎えた。そして、養子縁組が成立した後の』文化八(一八一一)年十月二日に死去したと発表している、とある。ただ、ややこしいことに実は、この寛直の父英直も幼名を同じく「保三郎」と称していた。岩波の長谷川氏の注には、この「土屋保三郞」を『英直』とするのであるが、文化九年では、実は、土屋保三郎英直も、その子保三郎寛直も、既に死んでしまっているのである。そこで、さらに岩波のカリフォルニア大学バークレー校版の方を調べて見ると、そこではここが「保三郞」ではなく「怡三郎」(「いさぶらう(いさぶろう)」と読むか)となっていることが分かった(これを長谷川氏は「保」の誤写と見たのであるが)。さらに見ると、後掲する「兎園小說」には、その出来事を報告した人物に『土屋洽三郞使者』とあるのである。さても、

――保三郞――(英直・寛直父子幼名)

――怡三郞――(岩波のカリフォルニア大学バークレー校版の表記に基づく)

――洽三郞――(「兎園小說」記載)

――拾三郞――(彦直幼名)

と並べてみると、私には「保三郞」と「怡三郞」(そしてさらに「洽三郞」も)は寧ろ、「拾三郞」の誤写か誤読であるように思えてくるのである。……

 ……いや……そんなことより……実は私は……この注作業の中で、この――死んでから一年もの間――生きていることにされなければならなかった十五歳の少年藩主――のことをずっと考えていたのだ……私は――この少女より、この少年の方が何だか――気になるのである。……

・「下總國猿島郡藤代宿」茨城県南部に位置する旧北相馬郡藤代町(猿島郡は誤りであろうが、訳ではママとした)。現在は取手市藤代町。農村地帯で水戸街道(陸前浜街道)の宿場町藤代宿として栄えた。ウィキの「土屋藩によれば常陸国土浦藩は下総国相馬郡(北相馬郡は旧相馬郡の一部)に六村の飛地としての領地を持っていた。但し、ウィキの「北相馬郡」によれば当時の藤代村内には寺社除地と百姓除地が存在していた(「除地」とは領主から年貢免除の特権を与えられた土地を指す)。

・「文化九年申」壬申(みずのえさる)。西暦一八一二年。「卷之十」の記載の推定下限は二年後の文化一一年六月。

・「當年八歲」満七歳。これが正しいとすれば、とやの生年は文化二(一八〇五)年生まれということになる。

・「吉岡次郞右衞門」講談社「日本人名大辞典」の義民「片岡万平」の項に(明和七(一七七〇)~文化一四(一八一八)年)常陸河内郡生板(まないた)村の人。文化十四年に幕府代官吉岡次郎右衛門に対し、年貢減免を要求、市毛与五右衛門・石山市左衛門とともに江戸の吉岡邸及び勘定奉行所に訴え出、捕らえられて十二月二十日に獄死した。後に吉岡は代官を罷免された、とある人物と考えてよかろう。「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月である。

・「手代」郡代・代官・奉行の下で雑務を担当した役人。

・「二百四十九年以前、永祿七甲子年」永禄七年甲子は西暦一五六四年であるから、その「二百四十九年」後は数えと同じ計算で一八一四年で文化十一年、「卷之十」の記載の推定下限は二年後の文化十一年六月であるから、この記載自体はまさに、その文化十一年の記載であることが分かるのである。

・「或書」不詳。諸本も注さない。ああっ! 何とかこれを電子化したいもの! 識者の御教授を切(せち)に乞う!! 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 幼女が子を産んだ事 

 

 土屋保三郎彦直(よしなお)殿領分、下総国猿島(さしま)郡藤代(ふじしろ)宿の忠蔵の娘、

――とや――

儀、文化九年申年の八月に男子を出産、母子ともに健やかである、とのことである。

 とや儀、これ、早くも四歳より初潮が始まったとのことで、当年とって未だ八歳、とのことである。

 実は私は、これは全くの妄説であろうと疑ぐっていたのであるが、御代官吉岡次郎右衛門の支配所が、この最寄りにあったによって、珍事ゆえ、吉岡殿へ御用のあった砌り、私の手代の者に廻村巡検のついでに調べさせたところが、確かに母子、これ、実見の上、その年齢や出産の事実であることをも確認出来た、と報告して参った。

 さらに、私の知音(ちいん)の御家来衆にて、かの地の最寄にあったその知音の知行地へと参った折り、実に、その忠蔵の住まいする隣りにあった旅籠(はたご)に止宿致いたによって、かの事実について、これ、宿主人に確かめてみたところが、これも事実に相違御座らぬ、との返答で御座った、と話し呉れた。

 もっとも、夫――子の父に当たる男は、これ、「不明である。」とも言い、また、「確かに子の父なる者の分かっておるけれども、これ、訳あって深く隠しておる。」とも噂しておるという。

 かく聴いても、それでも私は所詮、産んだと申すはこれ偽りであって……そうさ、狐狸の類いが、これ、その――とや――と申す子に――化けて――なりすましておるのではないか……などと、勝手な妄想も致いたり……なお今以って、私の不審は解けぬのである。

[根岸附記]

 但し、その後、

「……二百四十九年以前、永禄七年甲子(きのえね)の年に、丹波国にて、七歳の娘が子を産んだという記事を、我ら、とある文書の中に見出だしまして御座る。……さればこれも、強ち、絶対にないこととも、申し難きこととは存じまする。……」

とは、とある人の意見ではあった。 

 

■資料 滝沢馬琴編「兎園小說」第二集より「藤代村八歲の女子の子を產みし時の進達書   海棠庵」

[やぶちゃん注:「兎園小說」は馬琴が文政八(一八二五)年に、当時の親しい文人や好事家らに、毎月一回集まって、見聞した珍奇談を披露し合ったサロン「兎園會」(とえんかい)に出た話を纏めたものである(会員の中には、根岸と親しかった国学者で幕府右筆の屋代弘賢もいた)。実際の筆者である「海棠庵」は、常陸土浦藩士で書家としても知られた関思亮(せき しりょう 寛政八(一七九六)年~文政一三(一八三〇)年)の号。「藤代村八歲の女子の子を產みし時の進達書」は目次にある標題で、「進達書」とは上申書に添える進達(下からの書類を取り次いで上級官庁に届け出ること)の書状。以下の底本は吉川弘文館昭和四八(一九七三)年刊「日本随筆大成 第二期第一巻」を用いたが、恣意的に正字に直した。後に全くの私の我流で書き下し文を附し(読み易くするためにシチュエーションごとに改行した。また直接話法で無理矢理示した箇所の末尾の変格訓読は確信犯なので悪しからず)、最後に簡単な注記を附した。] 

 

   〇兎園會第二集小話   海 棠 庵 識

[やぶちゃん注:以下の前書は底本では本文全体が二字下げ。クレジット以下はママ。]

下總國藤代村にて、八歲の女子が子をうみし事は、あまねく世の人のしるところにはあれど、年經なば疑惑もおこらんかし、よりてことふりにたれど、余が藩より公に告げし口達一通を、兎園の集に加へて、實事を永く傳へんとおもふのみ。

文化九年壬申十月十日、御勘定奉行柳生主膳正樣へ口達

                土屋洽三郞使者 大村市之允     

拙者在所下總國相馬郡藤代村百姓三吉厄害忠藏娘とやと申、當申八歲罷成候者、去月十一日曉出產之處、男子致出生候段屆出候に付、年頃不相當之儀に御座候間、見分之者差遣樣子相糺候處、同人儀、文化二丑年五月十一日致出生、四歲之頃より經水之𢌞り有之候得共、全病氣と心得罷在候。然所去秋の頃より腹滿之氣味有之、醫師へ爲見候處、蟲氣にても可有之哉に申聞、腹藥灸治等無油斷相用候得共、相替候儀無御座、當春に相成彌致腹滿候に付、種々致療治候得共同篇にて、猶又醫師にも相尋候處、病氣に相違は有之間敷候得共、萬一懷胎にても可有之哉、容體難決段申聞候。其後近比に相成、乳も色付不一通樣子に付、彌懷胎に相違も有之間敷段醫師申聞候間、右之致用意罷在候處、去月二日夜中より蟲氣付、翌三日曉平產母子共丈夫にて、乳汁も澤山に有之由、且又とや儀は年頃より大柄に相見え候。出生之小兒は、並々之小兒より產髮黑長き方に有之、其外は相替候儀無御座候由申聞候。依之當人は勿論、兩親初三吉家內之者、其外村役人組合之者へも委敷相尋候處、幼少之儀、是は如何と心付候儀も無御座候、尤疑敷風聞等も一向及承不申候段一同申聞、口書印形差出申候段、在所役人共より申越候に付、此段以使者申述候。 

 

□やぶちゃんの書き下し文

   〇兎園會第二集小話   海棠庵 識す

下總國藤代村にて、八歲の女子が子をうみし事は、あまねく世の人のしるところにはあれど、年經なば疑惑もおこらんかし、よりてことふりにたれど、余が藩より公に告げし口達一通を、兎園の集に加へて、實事を永く傳へんとおもふのみ。

文化九年壬申十月十日、御勘定奉行柳生主膳正(しゆぜんのかみ)樣へ口達(こうだつ)

                土屋洽三郞使者 大村市之允(いちのじよう)     

拙者在所、下總國相馬郡藤代村百姓三吉厄害(やくがい)忠藏娘とやと申し、當申、八歲罷り成り候ふ者、去る月十一日曉(あかつき)、出產の處、男子、出生致し候段、屆け出で候ふに付き、年頃、相當せざるの儀に御座候ふ間、見分(けんぶん)の者、差し遣はし、樣子、相ひ糺し候ふ處、

同人儀、文化二丑年五月十一日、出生(しゆつしやう)致し、四歲の頃より經水(けいすい)の𢌞(めぐ)り之れ有り候得(さふらえ)ども、全く病氣と心得罷り在り候ふ。

然る所、去る秋の頃より、腹滿(ふくまん)の氣味、之れ有り、醫師へ見させ候ふ處、

「蟲氣(むしけ)にても有るべきや。」

と申し聞き、腹藥・灸治等、油斷無く相ひ用ひ候得ども、相ひ替はり候ふ儀、御座無く、當春に相ひ成り、彌々(いよいよ)腹滿致し候ふに付き、種々(いろいろ)療治致し候得ども同篇(どうへん)にて、猶ほ又、醫師にも相ひ尋ね候ふ處、

「病氣に相違は之れ有る間じく候得ども、萬一、懷胎(くわいたい)にても之れ有るべきや。容體、決し難し。」

の段、申し聞き候ふ。

 其の後、近比(ちかごろ)に相ひ成り、乳も色付き、一通りならざる樣子に付き、

「彌々、懷胎に相違(あひちがひ)も、之れ、有るまじき。」

の段、醫師、申し聞き候ふ間、右の用意、致し罷り在り候ふ處、去る月二日夜中より、蟲氣(むしき)、付き、翌三日曉、平產、母子とも丈夫にて、乳汁も澤山に之れ有る由。

 且つ又、とや儀は、年頃より大柄に相ひ見え候ふ。

 出生の小兒は、並々の小兒より、產髮、黑長き方(はう)に、之れ、有り、其の外は、相ひ替はり候ふ儀、御座無く候ふ由、申し聞き候ふ。

 之れに依つて、當人は勿論、兩親初め三吉家內(かない)の者、其の外、村役人・組合の者へも委(くは)しく相ひ尋ね候ふ處、幼少の儀、是は如何(いかに)と心付き候ふ儀も御座無く候ふ。

 尤も、疑はしき風聞等も、一向、承り及び申さず候ふの段、一同、申し聞き、口書(くちがき)・印形(いんぎやう)、差し出だし申し候ふ段、在所役人どもより申し越し候ふに付き、此の段、以つて使者、申し述べ候ふ。 

 

*やぶちゃん注記

●「柳生主膳正」旗本で当時、勘定奉行であった柳生久通(やぎゅうひさみち 延享二(一七四五)年~文政一一(一八二八)年)。歴代勘定奉行の中で最も長い期間(二十八年強)を務めた。官位は玄蕃を称し、明和四(一七六七)年に従五位下主膳正に叙任されている(ウィキの「柳生久通」に拠る)。

●「口達」「こうたつ」とも読む。口頭で伝達すること。

●「土屋洽三郞」先の私の本文注「土屋保三郎」を必ず参照されたい。

●「大村市之允」実在する常陸土浦藩士で、安政四(一八五七)年に没していることがネット上で確認出来た。

●「厄害」「厄介」の意で、居候、或いは、それに準じた者の意かと思われる。昔馴染みの「兎園小說」を紹介する個人サイト「兎の園」の藤代村八歳の女子の子を産みし時の進達書に簡潔な好ましい本現代語訳が示されている(是非、お読みあれ。私はこれがある以上、屋上屋の拙訳の必要を今ここでは感じていないことを告白しておく)が、その注に『百姓三吉ととやの父忠蔵の関係ですが原文では「厄害」となっています。多分これは「厄介」ということでしょうか。厄介という言葉には「食客」「居候」という意味もありますが、家長の傍系筋で家に住んでいる者という間柄なのでしょうか。具体的には三吉の兄弟で家に居付いているというところでしょう。本文では簡単に「使用人」と訳しましたけど』とある。美事な注で激しく同感する。本文によれば、百姓三吉は旅籠(はたご)の隣りに家があることになるから、これはかなり裕福な百姓であったか? そうすると、父疑惑候補は俄然、広がってくる感じがする。

●「蟲氣」最初のそれは「疳の虫」や寄生虫(多量に寄生した場合、実際に腹部が膨満することもあり、逆虫(さかむし)と称して、口から吐き出されることもあった。因みに私は人を含む動物類の寄生虫に対する汎フリークでもあるので、悪しからず)を指しているが、後の「蟲氣」は別で、明らかに「産気」のことである。

●「同篇」同じようであること。変化がないこと。「同邊」とも書く。

●「右の用意」お産の用意。

●「組合」ここでは複数の村々が治安その他のために結び付いた一般的な意味での村の連合体としての漠然とした自然発生的な自立的組合集団のことと思われる(より強化された幕府が組織した御改革組合村(寄場組合(よせばくみあい))の村落連合組織成立はもうちょっと後の文政一〇(一八二七)年以降であるからである)。

●「疑はしき風聞等も、一向、承り及び申さず候ふの段、一同、申し聞き、口書・印形、差し出だし申し候ふ」「口書」は被疑者などの供述を記録したもので、足軽以下の百姓・町人に限っての呼称(武士の場合は口上書(こうじょうがき)と称した)。一般にこの手の地下文書では頗る常套的な添書ではあるがしかし、どうも私は、この部分、やけに下々しく感じる。少なくとも蔭では、「父はあいつか? いや、こいつだろ!?」みたような噂が盛んに広まっていたものと思われる。

【後年追記】私は後、「兎園小說」の全文の正字正仮名・オリジナル電子化注を2021年8月に、このブログのカテゴリ「兎園小説」を開始し、翌2022年12月に完遂した。無論、曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 藤代村八歲の女子の子を產みし時の進達書  海棠庵もある(注はあっさりしている)。今、これを読むと、訳に不満があるが、遙かにディグしており、内心、我ながら、『ほほう!』と思う出来であると思う――実は、ここで先にやっていたことを、恥ずかしいことに、忘れていたのである……――両方とも読んで頂ければ、幸いである。

耳嚢 巻之十 大井川最寄古井怪の事

 大井川最寄古井怪の事

 

 大井川最寄、遠州嶋村潮(うしほ)村といふあり。右村境とやらん、古き井戸ありて、近き頃の事なりとや、百姓の召仕(めしつかふ)下女あやまちて古井戸へ落入(おちいり)しを可助(たすくべし)と、一人の男右井戸へ下り、女の髮見へ候間、水際まで至り候處、これ又氣をうしなひ井戸内へ落入たるゆへ、氣丈なる男ありて、いづれ兩人を助けべきと支度せしを、かゝる怪敷(あやしき)井の内へ可入(いるべき)樣や有(ある)と、人々とめしをも不用(もちゐず)、酒抔吞(のん)で支度いたし腰へ繩などつけて下りしに、右井の内には大小の蛙おびたゞしく甚(はなはだ)難儀なりしが、兎角して男女兩人の死骸へも繩を付(つけ)、其身も繩をちからに、からうじてあがりしに、女は息たへて不蘇生(そせいせず)。男もいろいろ療養を加へけれど、これ又翌日とかや相果(はて)ぬ。彼(かの)氣丈成(なる)男も暫(しばらく)煩(わづらひ)けるが、品々醫藥して不相果(あいはてざる)由。彼(かの)所へ出役せし御勘定衆まのあたり見聞(みきき)せしと語りぬ。古井地氣(ちき)籠(こもり)てかゝる事ありと聞(きき)しが、さる事にや。又は蛙夥敷(おびただしく)住(すむ)となれば、がまの人をとらんとしける故や、不知(しらず)。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:凶宅(蔵と井戸)関連で、二つ前の共食いの怪しき蛙とも連関する。しかしこれは明らかに所謂、酸欠、酸素欠乏症による多重遭難である。井戸では二酸化炭素など空気より重いガスが下に貯留するため、危険性が高く井戸などでは天然マンガンなどの土壌中や地下水に含まれる鉄分などによる酸化作用によって、内部の空気の酸素が奪われている場合もある、とウィキの「酸素欠乏症」にあり、『低酸素の空気で即死に至らなかった場合でも、短時間で意識低下に至りやすいため気付いてからでは遅く、更には運動機能も低下することもあり自力での脱出は困難である。加えて酸素が欠乏しているかどうかは臭いや色などでは全く判別できず、また初期症状も眠気や軽い目眩として感じるなど特徴的でもない上に、息苦しいと感じない(息苦しさは血中の二酸化炭素濃度による)ため、酸素の濃度が低いことに全く気づけずに奥まで入ったり、人が倒れているのを見てあわてて救助しようと進入した救助者も昏倒したりする。また低所やタンクなどで出入りにハシゴを使用するような場合は転落する危険があり、それそのものでの怪我は大したものでなくても、より低濃度酸素の空気に晒されると共に自力脱出はより困難になる』ともあるから、二人目の救助者が「其身も繩をちからに、からうじてあが」って一命をとりとめたのは、寧ろ、不幸中の幸いであったとも言えよう。

・「遠州嶋村潮村」底本の鈴木氏注に、『静岡県榛原郡金谷町大字島と同町大字牛尾。牛尾の方が上流』とある。「榛原郡金谷町」は「はいばらちょうかなやちょう」と読む。二〇〇五年に金谷町が島田市と合併、現在は静岡県島田市内である。岩波の長谷川氏注では「潮村」をその牛尾に細部同定して居られる。地名の音から同感。同所は大井川の北の大津谷川とその北にさらに支流する河川の中間部にあるから、相当な地下水脈を想定し得る。

・「近き頃の事なりとや」「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月である。

・「井の内には大小の蛙おびたゞしく」この井戸の地下水脈が周辺の沼沢地と地下で繋がっていた可能性が高いか。彼らは流水中の新鮮な溶存酸素によって生存が全く問題なく出来たと考えれば、頗る納得がゆく。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 大井川の最寄りの古井戸の怪の事

 

 大井川の最寄り、遠州嶋村に潮(うしお)村という所が御座る。

 その村境とかに、古き井戸の御座って、最近のこととも聴くが、ある百姓の召し仕(つこ)うておった下女が、こえ、誤ってその古井戸へ落ち入ってしまい、それを、助けようとして、一人の男の、井戸へ降りて行ったところが、底の水面(みなも)の辺りに、これ、女の髪の見えたによって、水際まで、さらにまた下って行ったところが、これまた、気を失(うしの)うて、またしても井戸の底へと陥ってしもうた。

 されば、これまた、別の気丈なる男(おのこ)のあって、

「――これ! ともかくも! 二人を助けずんばなるまいぞッツ!」

と支度致いたが、

「……こ、このような怪しき井戸の内へ、は、入るは、き、狂気の沙汰じゃ!!」

と、人々の頻りに制止致いた。

 したが、この男(おのこ)、一向に意に介さず、酒なんどを煽っては、これ直ちに、腰へ繩などをしっかと結わいつけて支度なし、井戸へと下りて御座ったと申す。

 すると、かの井戸の底――これ――大小の蛙の――夥しくおって――甚だ難儀致いた申す。

 それでも、ともかくも、先の男女二人の死骸へも繩を結わい付け、自身の身も既に結わいた繩を力として、村の衆総出で引いて御座ったれば、辛うじて上まで上がることの出来て御座った。

 しかし時既に遅くして、女は息絶え、残念なことに蘇生致さず、また次いで助けに入った二番目の男もこれ、いろいろと療治を加えてはみたものの、これまた、井戸から上がった翌日とか、結局、果ててしもうたと申す。

 かの気丈なる男も、井戸から出た途端、これ、ばったり倒れ、しばらくの間、患って御座ったが、かの男(おのこ)はこれ、品々の医薬を施術致いたところが、幸いにして命を取りとめた、と申す。

 かの地へ出役(しゅつやく)致いた御勘定衆が、これ、具(つぶさ)に実見致いたこと、と語って呉れた話で御座る。

 ――さても、古井戸などはこれ、地の陰気や瘴気の悪しく籠って、このようなことの生ずることがあるとは、これ、聞いては御座ったが、そのような因縁によるところの事故でも御座ったものか?

 ――それとも――またはこれ、蛙の夥しく棲んでおったとならば……蝦蟇(ひき)なんどが、これ、人を捕らえんとして成したる……妖しのことにても御座ったのであろうか?……真相はこれ、分からず仕舞いで御座った。……

「耳嚢 巻之十 怪倉の事」追加資料 釈敬順「十方庵遊歴雑記」より「本所数原氏石庫の妖怪」

■資料 釈敬順「十方庵遊歴雑記」より「本所数原氏石庫の妖怪」

[やぶちゃん注:作者は小日向水道端(現在の文京区水道二丁目)にあった浄土真宗廓然(かくねん)寺第四代住職大浄釈敬順。俗姓は津田氏。宝暦一二(一七六二)年本所生まれ。二十歳で寺を継ぎ、文化九(一八一二)年に隠居して十方庵(じっぽうあん)と号した。茶人としては集賢(または宗知)、俳号を以風と称した。「十方庵遊歴雑記」(十五冊五編)は彼の見聞記で、その足跡は江戸周辺から関東一帯、遠くは三河まで及ぶ(以上はkurofune67 氏のブログ「黒船写真館」のこちらの転載記事を参照した)。根岸鎮衛は元文二(一七三七)年の生まれであるから二十五年下であるが、「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年で、十方庵は既に隠居しており、この「遊歴雑記」のデータ収集や執筆に入っていたものと考えられるから(序に文化十二年のクレジットがある)、これは根岸の採取した時期と殆んど変わらない共時的記載であると考えてよい。以下は国立国会図書館の「江戸叢書十二巻 巻の四」の画像を視認して起こした。踊り字「〱」「〲」は正字化した。後に簡単な注記を附した。]

 

  七拾參 本所數原氏石庫の妖怪

一、東武本所二ツ目相生町とみどり町との横町に寄合に入れる御醫師に、數原宗得(スハラソウトク)とて持高五百石二十人扶持を賜ふ、今は宗得隱居して當主を宗安といえり、此やしきに作れる土藏の中に妖怪あり、是は場末の屋敷なれば持高に應ぜず、方量も廣きまゝ土藏は、居宅をはなれ廣庭の遙隅にありて、火災を厭ふには一入よし、此庫の作り方は屋根と戸前口ばかり木にて作り、壁といふものは皆切石を以て積上たり、恰も彼日本橋四日市河岸通の土手藏(ドテグラ)の類(タグ)ひなるべきか、廣さ二間半に三間半かとよ、是はむかし有德尊君より拜領せしといひ傳ふ、案ずるに此御代安南(アンナン)より象を一匹獻ぜしに依て、置處なく本所豎川筋にさし置る、その砌象扶持(ゾウフチ)など積入し藏なるべし、されば此石藏の中に妖怪の住事なれば、夜は勿論晝とても兩三人づゝ連立行(ツレタチユキ)て、藏のものを出し入れす、しかるに此石庫は這入て、小用を達し度とおもう通氣の萌(キザシ)あれば、おのおの早々に藏を出しばらく外にて猶豫(タメライ)て後、土藏に入れば子細(シサイ)なし、是怪物の出べきしらせなりとなん、扨又小用の通氣あるを忍(コラ)へて、若物など扖(サガ)し居る事あれば、必ずしもその妖怪にあふ、但しその妖怪の形是とさだまるほあらず、小女、小坊主、小瞽(コメクラ)、大達摩(ダルマ)、木兎(ミ〻ヅク)、犬張子(イヌハリコ)、竹輿(カゴ)、からかさ、鬼女、よろづの面瞽(メンゴ)、女仁王(ゼニワウ)、鷄犬(ケイケン)、牛馬(ギウバ)の類と種々に變化して出るとかや、これに依て庫に入て誰にても通氣の氣味あれば、申合せ早々飛(トビ)いだす事となん、若又近邊に火災あらん前方には誰としれす、夜すがら鐡棒を引て歩行(アルク)音す、是によりて家内火災のあるべきしらせぞとこゝろえ、諸道具取片付用心するに、果して不慮に近火ありて、宗安居宅のみ遁るゝ事むかしより數度なり、既に去し寛政年間件のしらせありければ、大體(ダイタイ)品皆仕舞しかどその砌老母大病にして手放しがたく、今にも取詰やせんと見へたる折柄、出火ありて風又甚烈しく、近所一圓に燒廣がりければ、漸く手人ばかりにて竹輿(カゴ)に懷きのせ一番輩さしそひつゝ、しるべの方へ立退けるまゝ、家内いよいよ人少になり、殘れる道具を石藏の中へ詰入る暇さへもなければ、戸前口へみな積置ぬ、スワといはゞ濡薦(ゴモ)を懸んと、殘りし家内只とりどりに立騷ぐばかりなりしが、彼石庫の内より壹人の女、髮をうしろへ下て振亂したるが、甲斐甲斐しく立出戸前口に積置たる品々を、土藏の内へ抱えて運び入れる事取廻し速(スミヤカ)也、爰に居殘りし卑女(ハシタ)は不思議に思ひ駈來りて、件の女の顏を見んと彼方へ廻れば、こちらへ振向、此方へ廻ればあちらへ顏を背(ソム)けて、見せざりしかば不圖こゝろ付是かねて傳え聞、妖怪ならめと思ふや、否、ゾツと惣身さむけ立ければ、卑女は萬事を打すてゝ迯込(ニゲコミ)しが、彼(カノ)道具をみな石藏の中へ運び入、内よら戸前を〆けるとかや奇怪といふべし、終にその砌も類燒を遁れたり、かゝれば此妖怪宗安が家の爲に、幸あれど更に害なし、是によつて四月十四日を例祭とし、石庫の中には燈明をかゝげ、種々の供物を備へ毛氈を敷詰、外には大燈籠提燈等をかざり、晝は修驗來りて佛事を取行ひ、夜はもろもろの音曲鳴物神樂を奏して、夜すがら彼怪物のこゝろをなぐさむを祭祀とすとなん、これによつて當家より火防の札を出すに、是を以て家内にあがめ置ば、一切火災の煩ひなしと巷談す、しかるに彼石庫の隅の棚に一つの箱あり、大さ五六寸四方、昔よら置處を替ず、又手を付る者は曾てなし、恐らくは此箱怪物の住所ならんかといへり、此外に石庫の内更にあやしき物をしとぞ、上來の一件(イチマキ)奇談といふべし、但し此類の事世上に儘ありて人みな恐怖し祭り崇める者又少なからず、曾て古人のいえらく、怪を見てあやしまざれば怪おのづから去とおしえ、又は妖は德にかたずとの金言は宜なる哉、巫咒桃符(フジユトウフ)を貴ばんよりは、身を正ふし德行を逞ふせんにはしかじ、退治魔事の法といふも、先その身潔齊し六根精進をして正ふせんにはしかじ、何ぞその身の行狀を亂し德行をばせずして.一向(ヒタスラ)に神齋を責(セム)る事やあらん、我人仁義禮恕孝貞忠信の勤しばらくも怠るべからず、此一件(イチマキ)を荒川新助といへる人、彼數原氏へ立入て見聞せしまゝを、しるし置ものなり、

 

*やぶちゃん注記
「耳嚢」の話よりも遙かに詳細で、しかも間然する箇所が殆んどと言ってない点でも非常に優れた記載である。祭祀も式日も四月十四日と明記されてあり、驚くべきことにその「物の怪」の棲み家まで特定している!

●「一入」「ひとしほ(ひとしお)」。

●「日本橋四日市河岸通の土手藏」屋根で覆われた石積みの蔵群。日本橋川南河岸沿いに明暦三(一六五七)年の大火の後、防火のために築造されたもの。現在の中央区日本橋の野村證券本社付近にあった。

●「二間半に三間半」凡そ間口四・五メートル×奥行六・三メートル。

●「有德尊君」徳川吉宗。

●「安南より象を一匹獻ぜし」享保一三(一七二八)年に吉宗の注文で安南(ベトナム)の貿易商鄭大威(ていたいい)雌雄二頭の象を長崎に齎した。雌は同年死亡したが、翌年、雄の方が江戸へ運ばれる。この象は途中、広南従四位白象の名を授けられて宮中に参内、中御門天皇・霊元上皇に拝謁、江戸では待ちかねていた吉宗を悦ばせた(以上は講談社「日本人名大辞典」の「鄭大威」の項他に拠った)。

・「本所豎川」現在の墨田区(本所)横川。

●「猶豫(タメライ)」は二字に対するルビ。

●「通氣」使用されてある三箇所を並べてみると、怖気立つような怪しき気配、の意である。

●「よろづの面瞽(メンゴ)」いろいろな風体(ふうてい)の視覚障碍者の意か。

●「女仁王(ゼニワウ」不詳。女体の金剛力士というのもおかしい。鬼女の謂いか。

●「鷄犬、牛馬」これは鶏や犬や牛や馬の意。

●「寛政年間」西暦一七八九年~一八〇一年。

●「一番輩」一の家来の意であろう。

●「これによつて當家より火防の札を出すに、是を以て家内にあがめ置ば、一切火災の煩ひなしと巷談す」これはまた、結構な副収入となったものと私には思われる。

●「五六寸四方」十五・二~十八・二センチメートル四方。

●「但し此類の事世上に儘ありて人みな恐怖し祭り崇める者又少なからず……」こうした道話めいた附言は当時の定式の一つで、しかも彼が僧侶であることを考えれば、合点がいく。

●「巫咒桃符」「桃符」は中国で陰暦の元旦に門にかかげる魔除けの札のこと。桃の木の板に百鬼を食べるという二神の像や吉祥の文字を書いたもの。魔除けの呪(まじな)いの御札。

●「我人」わがひと」と読むか。我々人たるもの、の意であろう。

●「荒川新助」不詳。

2015/03/17

「耳嚢 巻之十 怪倉の事」の別記載を釈敬順「十方庵遊歴雑記」に発見せり

先に示した「耳嚢 巻之十 怪倉の事」は釈敬順「十方庵遊歴雑記」の中に別な詳細記事を発見した。明日はこの電子化にとりかかる所存――神経症的電子化とお笑いあれ――

耳囊 卷之十 怪倉の事

 

 怪倉の事

 

 本所にて御醫師にて數原宗德(すはらしゆうとく)といへる人の屋敷に、古來より右倉内(くらうち)に怪物あり、藏内より物を取出(とりいだし)候節も其(その)度々(たびたび)、斷(ことわり)候て取出し候由。何品(なんのしな)明日入用の段申候得(まうしさふらえば)ば、戶前(とまへ)へ誰(たれ)持出(もちいだ)し候哉(や)、差出置(さしいだしおき)候由。斷(ことはら)ざる時は甚だ不宜(よろしからざる)由。尤(もつとも)右御醫師、高(たかも)も大身(たいしん)には無之(これなく)候へ共(ども)、貧家には無之(これなき)由。或年類燒の節、藏は殘りしが、家來の内、何程(なにほど)平日は斷(ことわり)の上、物の出入(だしいれ)いたし候共(とも)、非常の節は何かくるしかるべき、燒場(やけば)故、臥所(ふしど)も無之(これなき)迚、土藏の内へ入(いり)、物を片付(かたづけ)、其所(そこ)に臥(ふせ)りしに、暫くあり、こゑ如何にも怖しき坊主樣(やう)のもの出て、兼ての極めを破り藏内へ立入(たちいり)、殊(ことに)無禮にも臥りし事の憎さよ、命をも可取(とるべき)なれども、かゝる非常のせつ故此度(このたび)はゆるすなり、以來決して立入間敷(たちいりまじき)旨申ける故、右家來は大いに恐れて早々迯出(にげだせ)しとや。年々極(きは)めありて、祭禮などいたしける。 

 

□やぶちゃん注

○前項連関:前二篇の最初のニュース・ソースが医師、これも幽霊蔵の持ち主が医師で軽く連関した怪異譚である。それにしも、この巻、俄然、医師の情報屋が増えた感じがするが、「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月で、根岸はこの翌文化十二年十一月四日に南町奉行在職のまま、満七十八歳で亡くなっている。医師がしばしば根岸の許を訪ねて参ったというのも、これ、肯けるようにも思われるのである。なお、驚くべきことにウィキには「倉坊主」というのがあってほぼ本話を簡略した現代語の梗概が載っている。そこではこの数原宗徳(ママ)の倉があったとされる東京都墨田区吾妻橋の現在の写真も載っている。ただこの怪異といい、出現した坊主といい、これ、何だかかなり怪しい。例えば、数原家に永く召し使われている最下級の下男辺りに、この蔵の蔵品を最もよく知っている男がおり、ここを管理保守することに秘かにマニアックな拘りを持っていたりすれば、こういう「擬似的怪異」は、容易に起こりそうだ。その場合、「倉坊主」は、その男に雇われた者の幽太(ゆうた。怪談咄に出る幽霊役)であったようにも思われる。……いや、これは無粋なことを申し上げた。悪しからず……

・「數原宗德」底本の鈴木氏注に、『スハラ。宗得が正しい。安永二年(九歳)家督。五百石月俸二十口』(ここは岩波の長谷川氏注では『二十人扶持』とある)、『寄合となり、寛政七年番医となる』とある。「扶持」は扶持米のことで、蔵米や現金の他に与えられた一種の家来人数も加えられた家族手当のようなものであって一人扶持は一日当たり男は五合、女は三合換算で毎月支給された。参照した清正氏のサイト「武士(もののふ)の時代」の「武士の給料」に現代の金額に換算を試みた例が載るので、興味のある方は試算されみることをお勧めする。これから類推すると彼は確かに「大身」ではないが「貧家」とは言えないようで、怪異は起こるもののそれなりの大きさの倉持ちでもあり、相応な屋敷を構えた幕医ではあったようだが、清正氏のサイトにあるように、年貢率は概ね四公六民で実質的に入る基本給は年間で二〇〇石、仮に総て男扶持で計算しても附加手当は一日五合×三六〇日×一二人=二一六〇〇合で約二十一石として二百二十一石、簡便化するために一石約一両換算一両を十万円とすると年間全収入は二千二百十万円、しかしこれで二十人からの者(全部男扶持としたのは個人営業の中小企業の社員に相当するとしてである)を養うというのは、これ、相当厳しいと言わざるを得ない。 

 

■やぶちゃん現代語訳 

 

 怪蔵(かいくら)の事 

 

 本所に幕医を勤めておらるる数原宗徳(すはらしゅうとく)と申さるる御仁の屋敷が御座る。

 その屋敷の蔵内(くらうち)には、これ――怪しの物――の棲みついて御座って、蔵より家人が何か物を出そうとする折りでさえ、その度ごとに、断りを入れて取り出すとのことで御座る。いや――これ――「取り出す」――のでは――ない。

 例えば、

「――これこれの物、明日入用(にゅうよう)にて御座る。――」

と、前日に蔵に向って言上(ごんじょう)致いておくと、翌朝にはもう――何者かによって――その蔵の扉の前に――ちゃんと取り出されて揃え置かれてある――と申すのである。

 うっかり断りを入れずに、勝手に手ずから出したりすると――それも出来ぬことにてはないものらしいが――甚だ宜しからざる、不吉不審なることが、これ――必ず起こる――と申す。

 尤も、この幕医は、石高も――大身(たいしん)にては御座らねど――まず、貧しき医師にては、これ、御座ない。

 また、ある年のこと、近場にて火事の御座って、数原殿の御屋敷の母屋が類焼致いた。幸い、かの蔵が焼け残って御座ったが、家来か内弟子の内の一人かが、これ、

「……普段ならば如何にも断りを入れた上にて、奇怪な物の出し入れなんぞ、これ、なしては御座れど……かくも非常の折りから、何の憚るること、これ、御座ろうか?!……御屋敷もこれ、丸焼けにして、我らの臥し所とて、これ、御座ない! されば……」

とて、かの土蔵の中(なか)へ立ち入り、とり散らかされた物を勝手に片付け、臥床(ふしど)を拵えては、そこで寝泊りをせんと致いたと申す。

 すると、暫くたって、うとうとっとしかけた頃、何処(いずく)からともなく、坊主のような姿をした者が、突如、現われ、おどろおどろしき大声にて、

「……かねてよりの掟を破り!……蔵内へ許しもなく立ち入り!……そればかりか、かくも無礼にも!……この倉内に寝(い)ぬることの、これ、憎さよッツ!!……本来ならば、これ、命をも奪い取るところじゃ!……じゃが……かかる回禄の非常の折りから、この度だけは、これ、許して遣わそうずッツ!……貴様ッツ!……以後! 決して立ち入ってはならぬぞうッツ!!!――」

と大喝したによって、かの家来、これ、その音声(おんじょう)を耳にしただけで、これ、胆も消え入り、脱兎の如く蔵から逃げ出だいた、と申す。

 何でも、古くより数原家にては、これ、毎年決まった月日、この蔵の前にて祭礼なんどをも行(おこの)うておる由にて御座った。 

 

【以下、2015年3月18日追加分】

■資料 釈敬順「十方庵遊歷雜記」より「本所數原氏石庫の妖怪」

[やぶちゃん注:作者は小日向水道端(現在の文京区水道二丁目)にあった浄土真宗廓然(かくねん)寺第四代住職大浄釈敬順。俗姓は津田氏。宝暦一二(一七六二)年本所生まれ。二十歳で寺を継ぎ、文化九(一八一二)年に隠居して十方庵(じっぽうあん)と号した。茶人としては集賢(または宗知)、俳号を以風と称した。「十方庵遊歴雑記」(十五冊五編)は彼の見聞記で、その足跡は江戸周辺から関東一帯、遠くは三河まで及ぶ(以上はkurofune67 氏のブログ「黒船写真館」のこちらの転載記事を参照した)。根岸鎮衛は元文二(一七三七)年の生まれであるから二十五年下であるが、「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年で、十方庵は既に隠居しており、この「遊歴雑記」のデータ収集や執筆に入っていたものと考えられるから(序に文化十二年のクレジットがある)、これは根岸の採取した時期と殆んど変わらない共時的記載であると考えてよい。以下は国立国会図書館の「江戸叢書十二巻 巻の四」の画像を視認して起こした。踊り字「〱」「〲」は正字化した。後に簡単な注記を附した。歴史的仮名遣の誤りなどはすべてママである。]

   *

  七拾參 本所數原氏石庫の妖怪

一、東武本所二ツ目相生町とみどり町との橫町に寄合に入れる御醫師に、數原宗得(スハラソウトク)とて持高五百石二十人扶持を賜ふ、今は宗得隱居して當主を宗安といえり、此やしきに作れる土藏の中に妖怪あり、是は場末の屋敷なれば持高に應ぜず、方量も廣きまゝ土藏は、居宅をはなれ廣庭の遙隅にありて、火災を厭ふには一入よし、此庫の作り方は屋根と戶前口ばかり木にて作り、壁といふものは皆切石を以て積上たり、恰も彼日本橋四日市河岸通の土手藏(ドテグラ)の類(タグ)ひなるべきか、廣さ二間半に三間半かとよ、是はむかし有德尊君より拜領せしといひ傳ふ、案ずるに此御代安南(アンナン)より象を一匹獻ぜしに依て、置處なく本所豎川筋にさし置る、その砌象扶持(ゾウフチ)など積入し藏なるべし、されば此石藏の中に妖怪の住事なれば、夜は勿論晝とても兩三人づゝ連立行(ツレタチユキ)て、藏のものを出し入れす、しかるに此石庫は這入て、小用を達し度とおもう通氣の萌(キザシ)あれば、おのおの早々に藏を出しばらく外にて猶豫(タメライ)て後、土藏に入れば子細(シサイ)なし、是怪物の出べきしらせなりとなん、扨又小用の通氣あるを忍(コラ)へて、若物など扖(サガ)し居る事あれば、必ずしもその妖怪にあふ、但しその妖怪の形是とさだまるほあらず、小女、小坊主、小瞽(コメクラ)、大達摩(ダルマ)、木兎(ミ〻ヅク)、犬張子(イヌハリコ)、竹輿(カゴ)、からかさ、鬼女、よろづの面瞽(メンゴ)、女仁王(ゼニワウ)、鷄犬(ケイケン)、牛馬(ギウバ)の類と種々に變化して出るとかや、これに依て庫に入て誰にても通氣の氣味あれば、申合せ早々飛(トビ)いだす事となん、若又近邊に火災あらん前方には誰としれす、夜すがら鐡棒を引て步行(アルク)音す、是によりて家内火災のあるべきしらせぞとこゝろえ、諸道具取片付用心するに、果して不慮に近火ありて、宗安居宅のみ遁るゝ事むかしより數度なり、既に去し寬政年間件のしらせありければ、大體(ダイタイ)品皆仕舞しかどその砌老母大病にして手放しがたく、今にも取詰やせんと見へたる折柄、出火ありて風又甚烈しく、近所一圓に燒廣がりければ、漸く手人ばかりにて竹輿(カゴ)に懷きのせ一番輩さしそひつゝ、しるべの方へ立退けるまゝ、家内いよいよ人少になり、殘れる道具を石藏の中へ詰入る暇さへもなければ、戶前口へみな積置ぬ、スワといはゞ濡薦(ゴモ)を懸んと、殘りし家内只とりどりに立騷ぐばかりなりしが、彼石庫の内より壹人の女、髮をうしろへ下て振亂したるが、甲斐甲斐しく立出戶前口に積置たる品々を、土藏の内へ抱えて運び入れる事取廻し速(スミヤカ)也、爰に居殘りし卑女(ハシタ)は不思議に思ひ駈來りて、件の女の顏を見んと彼方へ廻れば、こちらへ振向、此方へ廻ればあちらへ顏を背(ソム)けて、見せざりしかば不圖こゝろ付是かねて傳え聞、妖怪ならめと思ふや、否、ゾツと惣身さむけ立ければ、卑女は萬事を打すてゝ迯込(ニゲコミ)しが、彼(カノ)道具をみな石藏の中へ運び入、内よら戸前を〆けるとかや奇怪といふべし、終にその砌も類燒を遁れたり、かゝれば此妖怪宗安が家の爲に、幸あれど更に害なし、是によつて四月十四日を例祭とし、石庫の中には燈明をかゝげ、種々の供物を備へ毛氈を敷詰、外には大燈籠提燈等をかざり、晝は修驗來りて佛事を取行ひ、夜はもろもろの音曲鳴物神樂を奏して、夜すがら彼怪物のこゝろをなぐさむを祭祀とすとなん、これによつて當家より火防の札を出すに、是を以て家内にあがめ置ば、一切火災の煩ひなしと巷談す、しかるに彼石庫の隅の棚に一つの箱あり、大さ五六寸四方、昔よら置處を替ず、又手を付る者は曾てなし、恐らくは此箱怪物の住所ならんかといへり、此外に石庫の内更にあやしき物をしとぞ、上來の一件(イチマキ)奇談といふべし、但し此類の事世上に儘ありて人みな恐怖し祭り崇める者又少なからず、曾て古人のいえらく、怪を見てあやしまざれば怪おのづから去とおしえ、又は妖は德にかたずとの金言は宜なる哉、巫咒桃符(フジユトウフ)を貴ばんよりは、身を正ふし德行を逞ふせんにはしかじ、退治魔事の法といふも、先その身潔齊し六根勤進をして正ふせんにはしかじ、何ぞその身の行狀を亂し德行をばせずして.一向(ヒタスラ)に神齋を責(セム)る事やあらん、我人仁義禮恕孝貞忠信の勤しばらくも怠るべからず、此一件(イチマキ)を荒川新助といへる人、彼數原氏へ立入て見聞せしまゝを、しるし置ものなり、

*やぶちゃん注記


「耳囊」の話よりも遙かに詳細で、しかも間然する箇所が殆んどと言って、ない点でも、非常に優れた記載である。祭祀も式日も四月十四日と明記されてあり、驚くべきことに、その「物の怪」の棲み家まで特定している!

●「一入」「ひとしほ(ひとしお)」。

●「日本橋四日市河岸通の土手藏」屋根で覆われた石積みの蔵群。日本橋川南河岸沿いに明暦三(一六五七)年の大火の後、防火のために築造されたもの。現在の中央区日本橋の野村證券本社付近にあった。

●「二間半に三間半」凡そ間口四・五メートル×奥行六・三メートル。

●「有德尊君」徳川吉宗。

●「安南より象を一匹獻ぜし」享保一三(一七二八)年に吉宗の注文で安南(ベトナム)の貿易商鄭大威(ていたいい)雌雄二頭の象を長崎に齎した。雌は同年死亡したが、翌年、雄の方が江戸へ運ばれる。この象は途中、広南従四位白象の名を授けられて宮中に参内、中御門天皇・霊元上皇に拝謁、江戸では待ちかねていた吉宗を悦ばせた(以上は講談社「日本人名大辞典」の「鄭大威」の項他に拠った)。

・「本所豎川」現在の墨田区(本所)横川。

●「猶豫(タメライ)」は二字に対するルビ。

●「通氣」使用されてある三箇所を並べてみると、怖気立つような怪しき気配、の意である。

●「よろづの面瞽(メンゴ)」いろいろな風体(ふうてい)の視覚障碍者の意か。

●「女仁王(ゼニワウ」不詳。女体の金剛力士というのもおかしい。鬼女の謂いか。

●「鷄犬、牛馬」これは鶏や犬や牛や馬の意。

●「寬政年間」西暦一七八九年~一八〇一年。

●「一番輩」一の家来の意であろう。

●「これによつて當家より火防の札を出すに、是を以て家内にあがめ置ば、一切火災の煩ひなしと巷談す」これはまた、結構な副収入となったものと私には思われる。

●「五六寸四方」十五・二~十八・二センチメートル四方。

●「但し此類の事世上に儘ありて人みな恐怖し祭り崇める者又少なからず……」こうした道話めいた附言は当時の定式の一つで、しかも彼が僧侶であることを考えれば、合点がいく。

●「巫咒桃符」「桃符」は中国で陰暦の元旦に門にかかげる魔除けの札のこと。桃の木の板に百鬼を食べるという二神の像や吉祥の文字を書いたもの。魔除けの呪(まじな)いの御札。

●「我人」わがひと」と読むか。我々人たるもの、の意であろう。

●「荒川新助」不詳。

……「八紘一宇」の熱弁だぁって?……

長屋の壁の向こうから聴こえて参ったこと。――

「……「八紘一宇」の熱弁だぁって?

ちょいと、お前さん!

熱があるんじゃないのかい!

きっとそりゃあ、脳味噌が炉心溶融とかしてるんだよ! きっと!

ああ、あぶないよう!

熱弁どころか、腦の底から、ずぅーと溶け下がって熱便が出ちまうよう!

お前さん、しっかりおしよ!……」……

耳嚢 巻之十 龜と蛇交る事

 龜と蛇交る事

 

 龜の卵を集めかえし候を見るに、十に一つ二つは蛇にかへる由聞(きき)しに、官醫□□□儀、西丸(にしのまる)山里御庭(やまさとおには)にて、蛇と龜と交(まぢは)る樣子見しと語りし由。夫(それ)に付(つき)、或人語りしは、尻の丸きものは雄はなく、尻の細きものは雌なしといひき。實事なる哉(や)。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:動物奇譚で直連関し、しかもこれは、八つ前の亀が蛇の卵を産むという龜玉子を生む奇談の事と、その次の龜玉子を生むに自然の法ある事二篇に対して別々に短い続報という体(てい)を成してもいる点にも注意されたい。

・「龜の卵を集めかえし候を見るに、十に一つ二つは蛇にかへる」龜玉子を生む奇談の事では「龜の玉子四つ産(うみ)候に、かへり候時、ふたつが一つは是非(ぜひ)蛇にかへる」とあったのからは、数値がかなり後退している。

・「官醫□□□」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版も三字分ほど伏字である。因みに、龜玉子を生む奇談の事の話者も如何にも医師臭い『人見幸榮』という人物であった。目撃した場所が場所、それも亀と蛇の交尾とあっては、確かに名前はこれ、憚って伏せたくもなる。

・「山里御庭」或いは「山里のお庭」で、江戸城西丸御殿の西にあった庭園を指す。

・「或人語りしは、尻の丸きものは雄はなく、尻の細きものは雌なしといひき」――その亀の産卵については、それに蛇の卵が混じっているという話とは無関係に、別にこんな話も聴いた。それは卵の底の部分が丸くなっているものは中に入っている子は♀、逆に底が細く尖っている場合は♂、というのである――ということであろう。この部分は亀の産卵だけで話が続いていているのであって、前話の亀が蛇の卵も産むという奇説とは繋がっていないと採らないと意味が取れないのである。なお、画像で見る限りでは川亀の場合は、卵は楕円形(長円形)を成している。「尻」というのがどっちを指しているのかはよく分からないが、ニワトリの卵のように重心がある方を「尻」と呼んでいるのであろう。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 亀と蛇が交わる事

 

 亀の奇体なる話を追加しておく。

一、亀の卵を集め、それを孵(かえ)して見たところが、十に一つ或いは二つは、これ、蛇に孵るということを以前に聴き、この「耳嚢」にも亀が蛇の玉子を生む奇談の事として書き記しておいたが、ここにきて、官医×××殿が、西丸(にしのまる)の山里(やまさと)の御庭(おにわ)に於いて、まさに蛇と亀の交わっておる、その現場を目撃されたと語って御座った由。

一、亀の産卵についての奇談も、やはりこの「耳嚢」に亀が卵を生むに際して驚くべき自然の理法がある事として書き記しておいたが、その孵化については、また、これ、ある人が、「卵の尻の丸いものは雄ではなく、孵れば総て雌亀であって、尻の細いものは、これ、雌ではなく、孵れば総て雄亀である。」と、申して御座った。

 この二点、果たして、これ、真実(まこと)で御座ろうか?

耳嚢 巻之十 蛙かはづを吞候事

 蛙かはづを吞候事

 

 文化九年初秋、予が許へ來る小野某語りしは、所用ありて千住までまかりしに、大橋にてはあらず、餘程手前なる小嶋の脇、下水の邊、草むら動(うごき)ける故、蛇の蛙を吞(のむ)事やと立寄り見しに、蛇にはあらず、背に嶋の二寸斗(ばかり)もある蛙、ちいさき赤蛙を吞(のむ)に有(あり)し。眼前見たりと語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:動物奇譚で連関。因みに、ここに書かれてあるように事実、蛙は共食いをする。私も小さな頃に実際に見たことがあった。ウィキの「共食い」の「成長段階に見られるもの」にも、『よくあるのがサイズ構造化された共食いである。すなわち大きな個体が小さな同種を食べるのである。このような場合の共食いは全体の死亡率の8%(ベルディングジリス)から95%(トンボの幼虫)になるため、個体数へ大きな影響を与える要素となる。このサイズ構造化された共食いは野生の状態ではさまざまな分類群でみられる。それにはタコ、コウモリ、カエル、魚類、オオトカゲ、サンショウウオ、ワニ、クモ、甲殻類、鳥類(フクロウ)、哺乳類、そしてトンボ、ゲンゴロウ、マツモムシ、アメンボ、コクヌストモドキ、トビケラといった多数の昆虫が含まれる』(下線やぶちゃん)。因みに「ベルディングジリス」はアメリカ合衆国西部の山間部に棲息する齧歯(ネズミ)目リス科ジリス(地栗鼠)属ベルディングジリス Spermophilus beldingi のこと、「コクヌストモドキ」は穀物害虫として知られる鞘翅(コウチュウ)目ゴミムシダマシ科コクヌストモドキ Tribolium castaneum のことである。……しかし、もっと驚くべきことは……まだまだ、ある。……

・「文化九年初秋」「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月であるから、二年前。

・「大橋」現在の隅田川に架橋されて日光街道を通す千住大橋の前身。現在のものは右岸が足立区千住橋戸町、左岸が荒川区南千住六丁目であるが、旧千住大橋はウィキの「千住大橋」によれば、『最初に千住大橋が架橋されたのは、徳川家康が江戸に入府して間もない』文禄三(一五九四)年十一月『のことで、隅田川最初の橋である。当初の橋は現在より上流』二百メートル『ほどのところで、当時』「渡裸川(とらがわ)の渡し(戸田の渡し)」『とよばれる渡船場があり、古い街道筋にあたった場所と推測される』とある。因みに、この「渡裸川(或いは渡裸)の渡し」については、ウィキの「隅田川の渡し」に、『古くは裸になって徒歩で渡っていたという記録から「渡裸(とら)川の渡し」と呼ばれるようになったと伝わる。後に「とら」という音から「とだ」となり「戸田の渡し」とも称された。現在の千住大橋のやや上流にあたり、奥州への古道が通っていた場所である。千住大橋架橋に伴い、江戸初期に廃されたという』とある。

・「餘程手前なる小嶋の脇」千住大橋の下流は隅田川が西大きく蛇行しているから、砂洲が出来やすかったと考えられる。旧千住大橋からこの蛇行部に南千住八丁目附近は孰れも、一キロメートル以上あり、「餘程手前なる」という表現にしっくりくる。但し、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『小橋』とある。前の「千住大橋」や、以下の「下水」というところからは、小橋の方がしっくりくるし、中州では覗き見することが困難でロケーションとしても変な感じがする。しかし問題は、隅田川の千住大橋より下流の隅田川には、ずうっと下流の浅草の吾妻橋(旧名大川橋・安永三(一七七四)年架橋)まで、当時は橋はなかったものと考えられる点である(勿論、この「小橋」が吾妻橋(大川橋)である可能性は話柄からあり得ない)。とすると、「小橋」というのは、隅田川に流れ込む「下水」(恐らくは左岸の)に架かっていた、市井の路地に架橋されてあった粗末な橋を意味しているのではあるまいか? 但し、訳は本文に合わせて訳した。

・「嶋の二寸斗もある蛙」「嶋」は縞模様でその模様が「二寸」六センチメートル程もある大きな蛙、ということである。無尾(カエル)目カエル亜目アカガエル科アカガエル亜科アカガエル属トウキョウダルマガエルRana porosa porosato と思われるウィキの「ダルマガエル」によれば、トウキョウダルマガエルは体長が♂で三・九~七・五センチメートル、♀で四・三~八・七センチメートルでダルマガエルRana porosa (Cope, 1868) 中の最大亜種である。『日本(仙台平野から関東平野にかけて、長野県、新潟県)固有亜種。北海道の一部(岩見沢市)に移入分布』するとある。『皮膚の表面には隆起が少なく比較的滑らか。吻端は尖る。体色は背面が褐色や淡褐色、紫がかった褐色などで赤褐色の背側線と暗色の円形の斑紋が入るが、円形の斑紋は繋がらない個体が多い。腹面は白く、網目状の斑紋が入る』。『後肢は短く、静止時に趾が鼓膜に達しない。和名は体形が太く後肢が短い形態をダルマに例えたのが由来』し、トウキョウダルマガエルは『正中線上に筋模様が入る個体が多』いとある。そして「生態」の項に、『低地にある流れの緩やかな河川や池沼、湿原、水田などに生息する。半水棲で、水辺から離れることはまれ。トノサマガエルと同所分布するものは生息地や繁殖期が重複しないよう住み分けをしている。冬季になると水の干上がった水田の泥中や藁の下などに潜り冬眠する』。『食性は動物食で、昆虫類やクモ、多足類、貝類、小型のカエルなどを食べる。幼生は雑食で落ち葉や水草などを食べる』と記されてあるからドンピシャである(下線やぶちゃん)。しかもなお、私は無批判に当時日本には巨大なナミガエル亜目アカガエル科アカガエル亜科アカガエル属 Aquarana 亜属ウシガエル Rana catesbeiana はいなかったから(ちょっとトリビア脱線すると、ウシガエルは大正七(一九一八)年に、当時の東京帝国大学動物学教室教授渡瀬庄三郎が食用としてアメリカ合衆国ルイジアナ州ニューオリンズから十数匹を導入した。因みに、その最大の養殖場は、今、私の住む大船で、そのウシガエル養殖用の餌として同時に輸入されたのが、私が小さな頃に盛んに獲ったアメリカザリガニであったが、それがまた、大雨で養殖場から流れ出てしまい、日本各地へ分布を広げてしまったのであった。この渡瀬は沖縄島へのマングース移入でも知られ、人為的に外来種移入を指導し、結果、本邦の生態系に大きな変容を齎してしまった動物学者でもあることは記憶しておいてよい。因みに貪欲なウシガエルもしっかり自分より小さな個体をしっかり共食いしてしまう)、これはトノサマガエルだろうと勝手に思い込んでいた。ところが、いざ、この注を書くために調べて見たところが……今日の今日まで私は知らなかったのだが、何と! アカガエル亜科トノサマガエル属トノサマガエル Pelophylax nigromaculatus は関東には自然分布しないのだという! ウィキの「トノサマガエル」によれば、一九三〇年代までは、『日本全国にトノサマガエルが分布していると考えられていた』一九四一年に、『西日本の一部の個体群がトノサマガエルではないことがわかり(ダルマ種族と呼ばれた)、さらにその後、関東平野から仙台平野にかけて分布しているカエルもトノサマガエルではないまた別のカエル(関東中間種族と呼ばれた)であることが判明した。これらの互いによく似た「トノサマガエル種群」とされたカエルたちは、同所的に分布する地域では交雑個体が発見されるほど近縁であり、分布が重ならない場合でも交雑実験を行うとある程度の妊性が認められた。このため同種なのか別種なのか分類が混乱し』、一九六〇年代には、『関東中間種族は、トノサマ種族とダルマ種族の雑種であると考えられていた』。ところが、一九九〇年代になって、『分子生物学的手法などを用いた研究が行われるようになった結果、雑種起源説は否定されつつある。今世紀に入ってからも、どの分類群に名前を与えるべきか、などの点で若干の混乱が残っている』とある! うひゃあ! これこそ、「ゲロゲェロ!」だぜ!

・「赤蛙」アカガエル科アカガエル亜科アカガエル属ニホンアカガエル Rana japonica であろう。形態的にも生態的にもよく似ているアカガエル亜属ヤマアカガエル Rana ornativentris は山間部に生息する(ヤマアカガエルはニホンアカガエルよりもさらに背側線が真っ直ぐである)。ウィキの「ニホンアカガエル」には、但し書きで、『近年の水田周辺の環境変化により、カエル類の生息数が減少している。本種はその生息環境がその区域に強く重なるため、その影響を非常に強く受けるのに対して、山間部のヤマアカガエルは比較的その影響を受けない。そのため、本種が数を減らしており、ヤマアカガエルばかりが見られる傾向がある』とあるが、これは二百年近くも前の記載であるから、目撃場所からもニホンアカガエル Rana japonica ととって問題あるまい。序でに言えば、先のウィキの「共食い」の『大きな個体が小さな同種を食べる』という記載が狭義に於いても美事にマッチする(属レベルならば同種という謂いに齟齬が生じないと言ってよい)点にも着目されたい!

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 蛙が小さな蛙を吞んで御座った事

 

 文化九年初秋、私の許へ来たった小野某(ぼう)の語ったこと。

「……所用の御座って千住まで参りましたが――いえ、かの千住大橋ではなく、あそこより、これ、かなり手前にある川岸の、ごく近い中州の、その脇の辺り――そこへ下水の流れ込む辺りにて、叢(くさむら)がやけにざわついて御座ったゆえ、蛇が蛙を吞みこもうとでもしておるのかと、近くへ寄って行き、そこを覗いて見ましたところが――これ――蛇にてはあらず――背に二寸ばかりも縞模様のある蛙が――小さき赤蛙を――吞みこもうとしておる……ので御座った。……いや、目の当たりに蛙が蛙を共食いするのを見、全くもって、驚き申した。……」

との話にて御座った。

さっき

「耳嚢 巻之十 風狸の事」で、ひさびさに「和漢三才図会」の訓読と電子化注釈したら、やっぱ、楽しいわぁ……またぞろ、始めようかしらん……♪ふふふ♪……

耳嚢 巻之十 風狸の事

 

 風狸の事

 或人云く、搜神記に風狸(ふうり)の事ありしが、日本にも邂逅(たまさか)有之(これある)由。怪敷(あやしき)異獸にて、狸の一種の由。野に出て草木の内如何成(いかなる)目利(めきき)にや、一種の草を取(とり)、枝梢(えだこずゑ)に止(とま)る諸鳥を見、右をかざしねらひ候へば、右鳥類自分(おのづ)と落來(おちきた)るを取りて、餌となす由。其草はいかなる事や、しるものなし。是を見屆(みとどけ)、右風狸を退散し、渠(かれ)が持(もち)し草を奪取(うばひと)り、木に登り居(をり)候ものをさせば、鳥獸人共(とも)に落(おち)ぬる由。怪談なれども、記して後の君子をまつ而已(のみ)。 

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。妖怪博物誌。

・「風狸」底本の鈴木氏注に、『風貍。獺に似る。背筋から尾の間を除き全身毛が無い。人に逢うと低頭して羞じるような様子をする(酉陽雑俎)。黄猨に似て、空中を飛行することができる(桂海獣志)』とある。ウィキの「風狸」に以下のようにある(半角空きを全角に代え、注記号は省略した)。『風狸(ふうり)は、中国および日本の妖怪。風生獣(ふうせいじゅう)、風母(ふうぼ)、平猴(へいこう)とも呼ばれる。中国の『本草綱目』、日本の鳥山石燕の『今昔百鬼拾遺』、根岸鎮衛の『耳嚢』、『和漢三才図会』など江戸時代の各種文献に名が見られる』。『『本草綱目』獸之二では、「其獸生嶺南及蜀西徼外山林中 其大如狸如獺 其狀如猿猴而小 其目赤其尾短如無 其色青黃而黑 其文如豹 或云一身無毛 惟自鼻至尾一道有青毛」とありその大きさはタヌキかカワウソ程度。状態はサルに似ており、目が赤く、尾は短い。色は黒っぽく、豹のような模様がある。毛は鼻から尾に青い毛がある。「其性食蜘蛛亦啖薰陸香」とあり餌はクモなどで、香木の香も食べる。「晝則蜷伏不動如 夜則因風騰躍甚捷 越岩過樹 如鳥飛空中」とあり昼は動き回ることはなく、夜になると、木々の間や岩間を鳥の如く滑空する。「人網得之 見人則如羞而叩頭乞憐之態」とあり人に網で捕らえられると、恥しがるような素振りをし、憐れみを請うような仕草をする。「人撾擊之 倏然死矣 以口向風 須臾複活 惟碎其骨 破其腦乃死 一云刀斫不入火焚不焦 打之如皮囊 雖鐵擊其頭破 得風複起 惟石菖蒲塞其鼻 即死也」とあり風狸は打ち叩くとあっけなく死んでしまうが、口に風を受けただけで生き返る。刀で斬っても刃が通らず、火で焼こうとしても焼けないという説もある。但し骨や頭を砕かれると生き返ることはできず、石菖蒲(サトイモ科の多年草のセキショウのこと)で鼻を塞いでも殺すことができるとされる』(単子葉植物綱ショウブ目ショウブ科ショウブ属セキショウAcorus gramineus 。強い芳香を持ち、漢方としても用いられる)。『その飛距離は、山の一つや二つを飛び越えるほどともいう。 『本草綱目』では、風狸は東南アジア産のヒヨケザルのこととされる』(「ヒヨケザル」は哺乳綱真主齧上目皮翼(ヒヨケザル)目 Dermoptera に属するヒヨケザル(日避猿)類。東南アジアの熱帯地方に生息し、フィリピンヒヨケザル Cynocephalus volans とマレーヒヨケザルCynocephalus variegatus の二種のみが現生種である。体長四十センチメートル内外、外見はムササビに似、頸から手・足・尾を包む大きな皮膜を持ち、木から木へ滑空する。頭骨の口先は幅広く頑丈で下顎の門歯には櫛の歯状の突起を持つ。ここは「ブリタニカ国際大百科事典」とウィキの「ヒヨケザル目」を参考に纏めた。因みに「本草綱目」にしては、現代の動物学的知見からもすこぶる首肯出来る説のように私には思われる。私自身、ヒヨケザルを実見したことがないのでグーグル画像検索「Dermopteraをリンクし、また英文サイト「Wildscreen」の「Philippine flying lemur (Cynocephalus volans)フィリピンヒヨケザルの飛翔動画も合わせて附す。素晴らしい!)。『『和漢三才図会』では、日本に風狸はいないとされているが、『耳嚢』では日本にも風狸の話があると記述されている。それによれば、風狸はタヌキの一種とされており、ある種の草を抜き、梢(こずえ)に止まった鳥にかざすと、なぜかその鳥が落ちてくるので、それを餌にしているという。どんな草にそのような効果があるかは不明だが、ある者が風狸からその草を奪い、鳥を捕らえようとして木に登り、鳥に向かって草をかざしたところ、鳥とともにその者も木から落ちてしまったという』と、本話についての記載もある。岩波の長谷川氏注には、眉が長いという記載もある。以上、ウィキでは「本草綱目」がよく引用されて解説されてあるので、これは省略し、他に示されてある「今昔百鬼拾遺」と「和漢三才図会」(但し、これはその記載の殆んどが「本草綱目」のそれである。しかしさればこそ、ウィキのそれを補完する読みとして私は十分に学術的意義があると考える)を、以下にオリジナルに翻刻しておくこととする。といっても、「今昔百鬼拾遺」の方はキャプションが図像の左に少しあるだけである。画像もこれについてはウィキのパブリック・ドメイン画像で示した。「和漢三才図会」のそれは東洋文庫版の画像を用い、原典の白文(原典の一行字数に合致させて改行)及びそこに打たれてある訓点を参考にして私が書き下しものを示した(本文テクストの底本は一九九八年刊大空社版CD-ROM「和漢三才図会」を用いた。表示法は私の手掛けた「和漢三才図会」水族部の電子テクストのそれに準じた。「青」「黒」などの表字は原文のママである。訓読では大幅に読みと送り仮名を増やしてあるが、読み難くなるだけなので、補正箇所は【 】で示した一部を除き、特に指示していない。「和漢三才図会」の方には(ということは自動的に「本草綱目」の)私のオリジナルな注を附しておいた)。

   *

鳥山石燕「今昔百鬼拾遺」

 

Sekienfuri

 

   風狸(ふうり)

風によりて巖(いはほ)をかけり

木にのぼりそのはやき事

飛鳥(ひてう)の如し

   *

寺島良安「和漢三才圖會 卷第三十八 獸類 ○二十一」

Kazetanuki_wakan

かぜたぬき

風貍

フヲンリイ

風母 平猴

風生獸 ※1※2[やぶちゃん字注:「※1」=「犭」+「吉」。「※2」=「犭」+「屈」。]

 加世太奴木

本綱風狸大如貍如獺其狀如猿猴而小其目赤其尾短

如無其色青黄而黒其文如豹或云一身無毛惟自鼻至

尾一道有青毛廣寸計長三四分其尿如乳汁其性食蜘

蛛亦啖薫陸香晝則踡伏不動如螬夜則因風騰躍其捷

越巖過樹如鳥飛空中人綱得之見人則如羞而叩頭乞

憐之態人※3擊之倏然死矣以口向風須臾復活惟碎其

骨破其腦乃死一云刀斫不入火焚不焦打之如皮囊雖

鐡擊其頭破得風復起惟用石菖蒲塞其鼻即死也

△按風狸嶺南山林中多有而未聞在于本朝

[やぶちゃん字注:「※3」=「扌」+「過」。] 

 

○やぶちゃんの書き下し文

かぜたぬき

風貍

フヲンリイ

風母(ふうも) 平猴(へいこう)

風生獸(ふうせいじゆう) ※1※2(きつくつ)

[やぶちゃん字注:「※1」=「犭」+「吉」。「※2」=「犭」+「屈」。]

 加世太奴木(かぜたぬき)

「本綱」に、『風狸(かぜたぬき)は大いさ貍(たぬき)のごと、獺(かはうそ)ごとし。其の狀(かたち)、猿猴(えんこう)のごとくして小さく、其の目、赤く、其の尾、短かく、無きがごとし。其の色、青黄にして黒し。其の文(もん)、豹のごとし。或ひは云ふ、一身に毛無く、惟だ鼻より尾に至る一道にのみ、青毛有り、廣さ寸計(ばか)り、長さ三、四分(ぶ)。其の尿、乳汁のごとく、【ごとし。】其の性、蜘蛛を食(く)ひ、亦、薫陸香(くんろくかう)を啖(くら)ふ。晝(ひる)は則ち、踡(せくぐま)りて伏し、動かず、螬(すくもむし)のごとし。夜は則ち、風に因つて騰(のぼ)り躍(をど)り、其の捷(はや)きこと、巖(いはほ)を越へ、樹を過ぎ、鳥の空中を飛ぶがごとし。人、綱し、之を得て、人を見るときは、則ち、羞(はづ)るがごとし。【ごとくして、】頭を叩き憐(あはれ)みを乞ふ態(ありさま)の之れあり。人、之れを※3擊(うちたゝ)[「※3」=「扌」+「過」。]きするときは、倏然(しゆくぜん)として死す。口を以つて風に向くときは、須臾(しゆゆ)にして復た活(い)く。惟だ其の骨を碎(くだ)き、其の腦を破れば、乃(すなは)ち死す。一(いつ)に云ふ、刀斫(たうしやく)入れず【入らず】、火に焚(や)きて焦(こが)れず、之を打つに皮囊(かはぶくろ)のごとし。鐡にて擊ち、其の頭を破ると雖も、風を得れば、復た起く。惟だ石菖蒲(せきしやうぶ)を用ゐて其の鼻を塞げば、即ち死すなり。』と。

△按ずるに、風狸は嶺南の山林の中に多く有りて、未だ本朝に在ることを聞かず。

・「三、四分」凡そ九~十二ミリメートル。

・「薫陸香」インドやイランなどに産する樹脂が固まって石のようになったもので香料・薬剤とする。薫陸石。本邦では主に岩手県久慈市で産出される、琥珀に似た、松や杉の樹脂が地中に埋もれて化石となったものを、やはりこう称して香料としているが、これは「和の薫陸」である(ここまでは「大辞泉」の記述)。なお、平凡社の「世界大百科事典」の「香料」には、インドで加工された種々の樹脂系香料が西方と東アジア、特に中国へ送られ、五~六世紀の中国人はこれを薫陸香と称し、インドとペルシアから伝来する樹脂系香料として珍重した旨の記載がある。

「螬」地中にいる甲虫類の幼虫を指す語。主にコガネムシ類の幼虫をいう。地虫(じむし)。

・「倏然」あっという間に。たちまち。程なく。「須臾」も同じ。

・「刀斫入れず」「斫」は斬るであるから、ここはせめて「刀斫(たうしやく)するも」と読みたい(原典では「刀斫」の間に熟語記号の「―」が入っている)。意味は、その皮革は刀を以って斬り刻もうとしても、刃が入らない、刃が立たない、である。こうなってくると、あたかもこれは例の本邦の「竹取物語」にも出る(しかもあれは中国伝来と騙られている)火鼠の皮袋(実物は石綿)である。

・「石菖蒲」セキショウ。前注参照。

・「搜神記」六朝時代の志怪小説。晋の干宝(かんぽう)の著。神仙・道術・妖怪などから動植物の怪異、吉兆・凶兆の話など奇怪な話を記す。著者は有名な歴史家であるが、身辺に死者が蘇生する事件が再度起ったことに刺激されて古今の奇談を集めて本書をつくったという(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠ったが、「かんぼう」という読みは訂した)。私の偏愛する作品で何度も読んだが、ここに出る「風狸」の話は所載しないと思う(岩波版の長谷川氏も注で不載の旨、述べておられる)。一つ、「狸」と「風」の文字が含まれる一篇がある。巻十八の次の一篇であるが、以下に見るように「風狸」ではない。

   *

董仲舒下帷講誦、有客來詣。舒知其非常客。又云、「欲雨。」。舒戲之曰、「巢居知風、穴居知雨。卿非狐狸、則是鼷鼠。」。客遂化爲老狸。

   *

〇やぶちゃんの書き下し文

董仲舒(とうちゆうじよ)、帷(ゐ)を下(おろ)して講誦(こうじゆ)するに、客有りて來詣す。舒、其れ、非常の客なるを知れり。又、云ふ、「雨ふらんと欲す。」と。舒、之に戲れて曰はく、「『巢居(さうきよ)は風を知り、穴居(けつきよ)は雨を知る。』と。卿(けい)、狐狸に非ずんば、則ち是れ、鼷鼠(けいそ)ならん。」と。客、遂に化して老狸と爲れり。

   *

・「董仲舒」(紀元前一七六年頃~紀元前一〇四年頃)前漢の儒学者。武帝の時、五経博士を置き、儒教を国の根本思想とすべきことを建言、後世の儒学隆盛の濫觴となった人物。

・「帷」とばり。

・「講誦」は弟子に対する講義。

・「非常の客」通常の人間の客ではないこと。

・「巢居」鳥のように木の上に住まいを作って住む生物。

・「鼷鼠」二十日鼠。ネズミ目ネズミ上科ネズミ科ハツカネズミ属ハツカネズミMus musculus 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

  奇獣風狸(ふうり)の事

 

 ある人の曰く、

「……晋の干宝の志怪小説である「捜神記」に『風狸』についての記載があったが、実は日本にも、この風狸なるものが棲息して御座る。……これ、妖しき奇獣にて御座って、狸の一種で御座る。野に出でると――どのようにして沢山の草木類からそれを見分けるかは不分明乍ら――これ、ある種のこれも怪しき草を採り来たって、それを前足に持って、木の梢にとまっておる鳥に狙いを定め、ただその草を翳(かざ)すだけなので御座るが、するとこれ、その鳥、自然と枝より落下致し、それを餌としておるので御座る。……その草が如何なる草であるかを知る者も、これ、御座らぬ。……しかし、この風狸がかくの如き、不思議な方法で鳥を獲っておるところを見つけ、その風狸を脅して追い散らしつつ、候そ奴の持って御座った草を奪い取り、やおら、その草を以って樹上に登っておるものに対し、ただ差し向けるだけで、これ、鳥であろうと獣であろうと、いやさ、人であろうと、皆、落ちてしまうので御座る。……」

 ――聊か信じ難き怪談なれども、取り敢えず記しおき、後代の識者の御裁断を俟つのみ。

尾形龜之助 「あいさつ」 心朽窩主人・矢口七十七中文訳

 

    あいさつ

 

         尾形龜之助

 

夕方になつてきて

太陽が西の方へ入いらうとするとき

きまつて太陽が笑ひ顏をする

 

ねんじう 俺達の世の中を見て

「さようなら」のかはりに苦笑する

 

そこで 俺も醉つぱらひの一人として

「ね 太陽さん俺も君もおんなじぢあないか ―― あんたもご苦労に」と言つてやらなければなるまいに

 

[注:「入いらう」「ねんじう」「さようなら」「ぢあないか」はママ。]

 

Aisatu

 

 应酬话
         
作 尾形龟之助
         
译 心朽窝主人,矢口七十七

 

到了黄昏

日落西方时

太阳他每次都会笑起来

 

无论什么时候都看着俺这个世间

不说“再见”而苦笑

 

那么 俺也算是一个醉鬼嘛……

就应该这样说道 “欸,老天爷呀!俺和你都一样啊——你这个人也很辛苦了!”

 

         矢口七十七/

2015/03/16

耳嚢 巻之十 多欲の人かたりに合し事

 多欲の人かたりに合し事

 

 本郷四町目菓子商人、湯嶋の一の富(とみ)とりて、其金有(ある)事をしりしや、中間體(てい)の者來りて饅頭二百個分調へ、懷中をさぐり、旦那より急に申付(まうしつけ)、急(いそぎ)候て、代料部屋に取落(とりおと)し候、しかれども取(とり)にかへり候ては、間に合不申(あひまうさず)、只今駈戻(かけもど)り代料持參可致(いたすべき)間、夫(それ)迄證據(しやうこ)差置(さしおき)候由にて、帶(おび)し候脇差を置(おき)候間、近所の事に候間、夫にも不及(およぶまじき)由申候得共(まうしさふらえども)、只今取に參り候間、差置呉(くれ)候樣申(まうし)、駈歸(かけかへ)り候間、相違も是あるまじくと存居(ぞんじをり)候處、羽織袴着用の立派な侍、小もの一人召連(めしつれ)、右菓子屋へ立寄(たちより)、菓子折(おり)一つ申付度(まうしつけたき)由にて、折の寸法、菓子の注文等好み候故、能(よ)き得意(とくい)と心得、夫々菓子をも相見せ、直段(ねだん)取極(とりきめ)、後刻(こうこく)迄に取に可越(こすべし)、自分は本阿彌三郎兵衞(ほんあみさぶろべゑ)の由を申し、最前の脇差、鄽(みせ)に有(あり)しを見て、是は何者の所持やと尋(たづね)し故、前(さき)の中間體(てい)の者差置候品の由、爾々(しかじか)の趣咄(はなし)候處、右脇差拔(ぬき)候て、得(とく)と一覽致(いたし)、驚(おどろき)候體(てい)にて、是は中々輕き者所持可致(いたすべき)品には無之(これなし)、珍しき物にて、何卒調度(ととのへたき)旨申候得共、預り物故、右樣(みぎやう)には難致(いたしがたく)、高科(かうりやう)にも成(なり)候品に候哉(や)と、相尋(あひたづね)候處、望(のぞみ)候ものありては五十兩百兩にも可相成(あひなるべし)、二三十兩にて調へ候へば、下直(げぢき)の由申(まうし)、殘念の體(てい)にて、右三郎兵衞は、折の代相拂(あひはら)ひ、右折請取立歸(うけとりたちかへ)り候處、夕暮に至り最初の中間參り、代料大きに延引(えんいん)の由にて、右饅頭の代相拂、彼(かの)脇差請取候間、菓子や欲心を生じ、此脇差我等に賣呉(うりくれ)候樣(やう)申候處、右は在所親共、先祖より傳(つたは)りものゝ由、讓り呉(くれ)候間、かゝる身分にても不手放(てばなさず)、何程に求候積りに候哉(や)、金子入用に候はゞ右金子可差遣(さしつかはすべき)段申候處、前書の通(とほり)の事、金子五十兩にも候はゞ可差遣旨(むね)、夫(それ)はあまり高値(かうじき)にて、相談難爲致(なしいたしがたし)と品々押合(おしあひ)、三十兩に相(あひ)極め右金子相渡(あひわたし)、右脇差受取、古今(ここん)の掘出(ほりだ)しいたし候、三郎兵衞方へ持參致(いたし)、猶(なほ)樣子くわしく承り、拂ひ方の世話をも可相賴(あひたのむべし)と、三郎兵衞に罷越(まかりこし)、昨日菓子折の御用被仰付(おほせつけられ)、難有(ありがたく)、夫(それ)に付(つき)、昨日御覽被成(ごらんなられ)候、腰の物の儀に付、懸御目度(おめにかけたき)旨申候處、三郎兵衞儀一向合點不致(いたさざる)體(てい)にて、昨日折抔本郷邊にて申付候事も無之(これなく)、いづれ面談を賴(たのみ)候者に候上は面會可致(いたすべし)と、やがて座敷へ出、右町人に面會の處、昨日逢(あひ)候三郎兵衞に無之故大きに驚き、昨日の始末逸々(いちいち)相咄(あひはなし)候處、何しろ其脇差見可申(みまうすべし)由にて右脇差一覽の處、一向取(とる)にたらざる品に付、其譯申諭(まうしさとし)候得ば、扨は三十金かたり被取(とられ)候事と、驚嘆せしと也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。手の込んだ詐欺集団による犯罪実録であるが、なんとなくよく聴くタイプの話である。岩波の長谷川氏注に「沖津白浪」の四の四、「昼夜用心記」の四の五などと同巧の詐欺談とある。この前者は元治元(一八六四)年江戸市村座初演の歌舞伎世話物の河竹黙阿弥作「小春穏沖津白浪(こはるなぎおきつしらなみ)」であろう。日本駄右衛門・小狐礼三(こぎつねれいざ)・舟玉お才の三人の盗賊を主人公とした白浪物で通称「小狐礼三」という。後者は宝永四年作の北条団水浮世草子で、所謂、ピカレスク・ロマン、騙り者の小説らしい(私は孰れも未読で、どちらもネット情報の複数情報を確認して記した)。この因業の菓子商人、全く可哀そうに感じられないところが、本話の面白い所以である。

・「本郷四町目」現在も東京都文京区本郷四丁目はあり、ほぼ同じ位置のようである。しかもその近くには知られた老舗の菓子屋(現在も廃業はしていないが店は開いていない)があり、江戸切絵図を見ると本郷四町目にまさにその名前と同じ姓の家を見出すことが出来た。……しかしこれ、如何にも不名誉なことなれば、また、加賀屋敷直近(現在の東京大学)なれば、菓子商人は他にもいただろうから、ここではその具体的な名前その他は伏せることと致す。悪しからず。……

・「湯嶋の一の富」谷中感応寺・目黒滝泉寺と並んで「江戸の三富」と呼ばれた湯島天神の富籤(とみくじ)。底本の鈴木氏注に、『三村翁注「富とは、とみくじの事、予め催主より富札を買はしめ、或期日に、各人に売りたる富札と同一記号の札を、混同して箱に入れ、これを錐を以て突き刺し、其つき刺されたる札の記号を基準として、当籤者を定め、多額の金を配分す、其当籤金額の幾分を、富の催主なる社寺に寄附して、造営の資に充つる等の名目により、往時官許を受けて、社寺にて行ひし事あり、湯島の富は、湯島天神にて行はれ、有名なりし。」』とある。ウィキの「富籤」によれば、『寛政の改革期は、松平定信によって江戸・京都・大阪の3箇所に限られ、あるいは毎月興行の分を1年3回とするなど抑制されたが、文政、天保年間に入ると再び活発化し、手広く興行を許され、幕府は9年、三府以外にもこれを許可し、1年4回の興行とし、口数を増やし、1ヶ月15口、総口数45口までは許可する方針をとった。これは』天保一三(一八四二)年三月八日に『水野忠邦が突富興行を一切差止するまで続いた』とある。このウィキの見ると、例えば第一番に突き刺した例に三百両とある。但し、引き当てた者は『褒美金全部を入手したのではなく』、その内から社寺の『修理料として興行主に贈り』、また別に幾たりかを『札屋に礼として与え、その他諸費と称して』支払わねばならなかったとあるから、その割合から推定すると、実際に受け取った額は三百領だったと仮定すると七割の二百十両程度であったか? 騙り取られたのも三十両で七分の一(但し、細かいことを言うなら、饅頭代がバークレー校版なら三百文、偽本阿弥の菓子折り代を七百文程度と仮定すれば、これ、一両ぐらいは詐欺営業の必要経費となって二十九両か)、――私は何となく勝手に腑に落ちた。

・「二百個分」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『弐百銅(どう)分』(長谷川氏注に二百文とある)である。この「銅」の方が正しいように感じられるが、如何?

・「本阿彌三郎兵衞」底本の鈴木氏注に、『刀剣鑑定の家、祖先長春、妙本阿弥と称す、本阿弥の号、これに基けるか、三郎兵衛は代々の称にて、これを嫡系とす。(三村翁)』とある。三郎兵衛を名乗った加賀本阿弥家光悦七世の孫本阿弥光恕(唯一の刀剣書「校正古刀銘鑑」や名物帳「名物剣集」を残し、後には狂歌作者となり芍薬亭長根(しゃくやくていながね)と号して多数の著作を残したと「名刀幻想辞典」のこちらの本阿弥」のにある)なる人物がいるが、彼の没年は弘化二(一八四五)年で、「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年であるから、この先代に当たる人物か?

・「下直」値段が安いこと・安価の意。ここは正当な評価としては余りに値として安過ぎることをいう。

・「……何程に求候積りに候哉、金子入用に候はゞ右金子可差遣段申候處……」カリフォルニア大学バークレー校版ではここが、『……何程に求候積りに候哉」と申す付(つき)、「金子入用に候はゞ、右金子は可遣」段申候處』となっている。こちらはその脱字が疑われる。ここの訳はカリフォルニア大学バークレー校版で行った。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 欲張りの人の騙(かた)りにあったる事

 

 本郷四町目の菓子商人、湯島の一の富(とみ)に当たって、その金を、これ、たんまり持っておるということを知ったものか、以下のような巧妙な詐欺に遇ってしまったと申す。

 籤に当たって間もないある日のこと、中間(ちゅうげん)体(てい)の者が店に参り、

「――〇〇様お召抱えの者にて御座る。――饅頭を二百個分、調えておくんなさい。」

と告げ、代金を支払わんと懐中を探ったところが、

「……旦那より急に申しつけられまして、急いで参ったところが……いかん!……代料(だいりょう)を部屋に忘れてしもうて御座る。……なれど、これより取りに帰って、また出直してから再び注文と致いたのでは、これ、饅頭の申し付け、間に合いませぬ。……これより、至急、駆け戻って代料を持参致しますれば、饅頭の支度には、これ、とりかかって下さるまいか?……ただ、それまで、御不審の趣き、これ、ありましょうほどに……そうさ――これを――我らの注文の確かな証拠と致いて、さし置いて参りますれば!……」

と申して、腰に帯びて御座った脇差を店内(みせうち)に置いたによって、主人は、

「――いや、もう。ご近所ご贔屓さまのことにて御座いますれば、それには及びませぬ。」

と返答なした。それでも男は、

「――いや! こればかりは、はっきり致いておかねば、なりますまい! 只今、取りに参りますによって――どうか、担保としてさし置かさせておくんなさい!」

と申すが早いか、脇差を店先に置いたまま、駈け帰ってしまった。

「……まあ、これ、信用してよかろう。」

と、奥に饅頭三百個を至急、製するよう命じた。

 すると、それから間もなくのこと、羽織・袴を着用なされた立派なお侍が、小者の者一人を召し連れ、この菓子屋へ立ち寄った。

 そうして、

「――菓子折りを一つ――申し付けたく存ずる。」

と、その贈答用の菓子折りの寸法や、菓子の種類の注文などの好みを、これ、如何にも仔細に告げたによって、主人、

『これはまた、なかなかの上得意の新客の参ったわい。』

と心得、それぞれ幾つもの菓子をも見せ、値段をも、これ、とり決め、

「菓子折りは、これ、おって後刻(こうこく)、取りに来(こ)さするによっての。――自分は本阿彌三郎兵衛(ほんあみさぶろべえ)と申す。」

と名乗った。それは主人も、刀剣の鑑定士として名前だけは存じておった御仁で御座った。

 ところが、この武士、最前の中間が店に置きおいた脇差を見かけ、

「……こ、これは……如何なる御仁の、所持せるもので御座るか?……」

と訊ねたによって、主人は、

「……これこれの訳にて……中間体(てい)の者が担保としてさし置かれていかれたお品に御座います……」

と委細を述べたところ、本阿彌と名乗った男は、

「――しばし拝見仕る。」

と、主人に断りを入れ、その脇差を抜いて、とくと一覧した後(のち)、ひどく驚いた様子にて、

「……これは!……なかな軽(かろ)き身分の者の所持致ような品には、これ、御座ない!――まっこと、珍しき名物じゃ!……どうじゃ、亭主。……一つ、これをお売り下さらぬか?!」

と、突如、申し入れた。

 されど主人は、

「……と申されましても……これ、預り物にて御座いますれば、そのように致す訳にも、これ、御座いませぬものにて……」

と応じたものの、つい、

「……したが……これ……よほどの高値につきまする、お品にても、御座いまするか?……」

と、恐る恐る訊き返したところ、

「――これならば。……そうさ、手に入れたく思う者ならばこれ、五十両……いや、百両にても出そうという名物じゃて!――二、三十両にて手に入って御座ったならば、それはもう、安過ぎる値(ね)と申そうぞ!」

との答えにて、如何にも残念そうに致いて御座った。

 この三郎兵衛は、それより菓子折りの代金を支払い、その菓子折りを受け取って、たち帰って行った。

 さて、その日の夕暮れになって、最初の中間が戻って参り、

「……あい済まんことに。……饅頭の必要、これ、ご主人さまの都合によって、延引となって御座っての。……」

と、如何にも恐縮して弁解致いた上、かの饅頭の代金は耳を揃えて差し出だし、

「……まことに悪う御座った。――では、かの脇差は、これ、お返し下されい。」

と申した。

 さても、ここで菓子屋主人、ふと欲心を生じ、

「……あのぅ……この、脇差……まことに僭越ながら……私(わたくし)どもへ売って下さいませぬかのぅ?……」

と願い出た。

 すると、

「……これは……在所の親どもが、先祖より伝わったるものなる由にて、我らに譲りくれた品にて御座れば……このような身分にても、手放すことものぅ、持ち参ったる脇差にて御座る。……が……なれど、しかし……どうして、このようなる物を、これ、お求めになろうと思われたか?……」

と訊き返して御座ったによって、

「……私(わたくし)ども、刀剣好事(こうず)の者に御座いましてのぅ。……へぇ。……その……憚りながら――金子ご入用にてあらるるとならば――応分の金子、これ、差し上げとう存じますが……」

と水を向け、さらに先に本阿弥の告げた通り、

「――これ、金子五十両にては――如何で御座いましょうや?」

と申し出たところ、

「……い、い、いや! それはあまりに高値!……とても、これ、話になりませぬ。……五十両もの品にては、これ、御座いませぬ。……いやいや! やっぱり、これ……この話はなかったことに……」

と、なかなか承知せぬ。

 されば、いろいろ押し問答の末、菓子屋主人が、

「――では――三十両ならば、これ、如何で御座いましょう?」

と申したところで、これ、中間、折れた。

「……そうさな……三十両、ならば……」

と、商談の成ったによって、右金子三十両を、その男に手渡し、かの脇差をまんまと菓子屋亭主、受け取って御座った。

 さても翌日のこと、菓子屋主人は朝からうきうき致いて、

「――古今(ここん)無双の掘り出し物を手に致いたわい!」

と、悦び勇んで、本阿弥三郎兵衛が方を手代に調べさせ、自らかの脇差を、これ、うやうやしゅう戴いて、持参致し、

「――なお本名物の儀、これ、とくと詳しく承って、本阿弥殿へお示し致そうぞ。……昨日のご様子から見れば、これ、それこそ、五十両どころか、百両での売り渡し方のお世話もこれ、戴けそうなものじゃて! うひゃひゃ!……そうでのうても、これで名家本阿弥家にも目を掛けられ、ご贔屓に預かるること、これ、必定じゃ! これぞまことの一挙両得、というもんじゃ! うひゃひゃの、ひゃ!」

と、小躍り致いては、やおら、本阿弥三郎兵衛が屋敷へと罷り越し、

「――昨日は菓子折りの御用、これ、仰せつけられ、まことに有り難く存じ上げまする。――つきましてはその折りのことにつき――昨日、ご覧あそばされましたる、当店に御座いましたる腰の物の儀につき、これ一つ、お目にかけとぅ存じまするものの、これ、御座いますればこそ。……」

と、家の者に挨拶致いた。

 ところが、その知らせを伝え聞いた三郎兵衛殿は、これ一向、合点行かぬ体(てい)にて、

「……何?……本郷の菓子屋が参った?……昨日?……いや。みどもは、昨日、菓子折りなんどを本郷辺にて申し付けたことなど、これ、ない。……何? 刀剣の儀、とな?……そうか。……されば、敢えてかく面談を申し込んで参ったとならば、これ、相応の趣きもあるものにては御座ろうほどに。よし。面会致そうぞ。」

と、やがて座敷へとお出ましになられ、かの町人菓子屋主人に対面致いた。

 ところが、菓子屋、挨拶をなして顔を拝んだところが、これ、

――昨日の店で逢ったる三郎兵衛

――では――なかった。……

 されば、菓子屋、大きに驚き、昨日の一件につき、泡食って、こと細かに本阿弥殿に申し上げた。

 すると、本阿弥殿は、

「――何はともあれ、まずは。――その脇差なるもの、これ、一見致そう。」

と、徐ろに、かの脇差を受け取って、抜いて一覧致いたところが、

「――遺憾ながら……これ、一向……とりえも御座らぬ――駄品――にて御座る。」

と断ぜられたと申す。……

 されば、菓子屋主人、

「…………あつはぁ!……さ、さては!……三十金……これ、騙り取られたぁ! あっはぁぁ! ひぇええッツ!……」

と、驚き嘆くも、これ、後の祭り――とのことで、御座った。

耳囊 卷之十 船駕に不醉奇呪の事

 

 船駕に不醉奇呪の事

 

 附木(つけぎ)を着坐の下に敷(しき)、又は懷中なせば、不醉(よはざる)事奇妙の由。 

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。民間療法・呪(まじな)いシリーズ。TV番組「メディカルα」の公式サイト内の「乗り物酔いを防ぐクスリ」の江戸時代の駕籠酔い対策”から“宇宙酔い”までによれば、江戸後期の旅行ガイドブック「旅行用心集」に乗り物酔いについても書いてあり、『駕籠に酔う人は、駕籠のすだれを開けて乗りなさい』とあり(これは現在も通用する)、他にも、『南天の葉を駕籠の中に立てて、それをじっと見ていれば酔うことはない』というプラシーボ的なもの、酔って『頭痛がひどくて、気持ち悪くなってしまった人には、生姜の絞り汁を勧めて』おり、『熱湯に生姜の絞り汁を入れて飲めば、気持ち悪さも治まると』ある(これは生姜の健胃整腸効果から見ると正しい)が、船酔いについては、『船が浮かんでいるその川の水を一口飲む』とか、『船着場などの土を少し紙に包み、それを、へその上に当てていれば酔わない』という類感・共感呪術的なものが示されてあって面白い。

・「附木」松や檜の薄い木片の端に硫黄を塗りつけたもの。火を他の物につけ移すのに用いた。硫黄木。火付け木。そんなに大きなものではない。グーグル画像検索「を参照されたい。 

 

■やぶちゃん現代語訳 

 

 船や駕籠に酔わないようにする奇なる呪(まじな)いの事 

 

 舟や駕籠に乗る際、附け木を着座の下に敷きおくか、または懐中しておれば、酔わないこと、これ、奇々妙々なる由。

耳嚢 巻之十 蛇甲の事

 蛇甲の事

 

[やぶちゃん注:以下、本話は全文が漢文表記であるので、ベタ・テクストを最初に掲げ、次に私が書き下したもの(一部の読みも含む)を示す。]

 

 津輕甲斐守家

 小田切軍造所持當時悴年藏所持護蛇冑記

 天明五年乙巳四月十三日、津輕之民、小屋敷村太左衞門者〔小屋敷村屬津輕黑石、則在治之西北一里許〕釆蕨相澤山中〔相澤村在黑石、東北二里半許、〕山有稱七曲阪、行見戴冑蛇、將欲捉之、蛇忿然將囓人之勢、廼劇脱裏頭巾而覆蛇上、〔郷俗、在山谷者、男女、俱以方三尺許之木綿巾、纏頭、〕重打以棘、蛇脱冑去〔郷里往々見此蛇者、欲得其冑、必覆以物、則冑自脱、今又如其爲、〕摭而覩之、形狀頗類皀莢子、然冑之兩角、屹然相對、兩倭纖然並埀、又有似眼目處、金光瑩然、天然之妙、實以可賞可珍也、玆載、寛政壬子余偶聘於弘前城、〔即津輕之治城〕先至黑石、視修聘事、〔黑石即寡君之治也、在弘前之東北三里、〕一日、友人榊雄充〔通稱兵馬、黑石之士人、〕來慰旅況、談及此事、余舊有好奇之癖、聞之愕然、舌上不下、頻欲一見、雄充重更袖來、爲余贈之、余亦發嚢裝而、因雄充、贈之太左衞門者、以陳謝意、實壬子六月十一日也、郷俗相傳、見蛇冑者、後亦大其門戸、不知果有此祥也否、余唯好奇、婆心敢除、珍重之、併記所以獲之、以挨博雅之君子云爾、

津輕 小田切軍曹貞固識  

[やぶちゃん字注:「摭」は底本では(れっか)の部分が「从」であるが、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版と校合して「摭」とした。]

 

Mimibukuro_hebikabuto

[やぶちゃん注:図の右下には、

 此髭動

(此の髭、動く)とある。実際にはクワガタ類の甲虫の触角部分と推定される。]

 

■やぶちゃんの書き下し文

 

 蛇甲(へびかぶと)の事

 

[やぶちゃん注:底本の句読点には一部に疑義があり、従っていない。書き下しには長谷川強氏の校注になる岩波文庫版の訓点を一部参考にさせて戴いたが、こちらも一部の訓読に疑問があり(その訓読では私には意味がとれない箇所がある)、結局、概ね私のオリジナルとなった。また、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版と校合して脱字と思われるものを【 】で附け足した。読み易くするために一部に字空けや改行を施し、一部の記号や句読点も変更増補した。]

 

   津輕甲斐守家

   小田切軍造・所持 當時(たうじ)、悴(せがれ)年藏・所持

 

 蛇冑(へびかぶと)を護(まも)るの記

 

 天明五年乙巳(きのとみ)四月十三日、津輕の民、小屋敷村・太左衞門なる者〔小屋敷村は津輕黑石に屬(ぞく)し、則ち治(ち)の西北一里許りに在り。〕、相澤山中に蕨(わらび)を釆(と)る〔相澤村は黑石が東北二里半許りに在り。〕。山に七曲阪(ななまがりざか)と稱する有り、行きて冑(かぶと)を戴く蛇を見、將に之を捉へんと欲するに、蛇、忿然として將に人を囓まんとするの勢ひ、廼(すなは)ち劇(はや)く頭巾を脱裏(だつり)して蛇の上に覆ひ〔郷俗(がうぞく)、山谷に在る者、男女俱に方三尺許りの木綿巾を以つて、纏頭す。〕、重ねて棘(いばら)を以つて打つに、蛇、冑を脱して去る〔郷里、往々此の蛇を見る者、其の冑を得んと欲すれば、必ず物を以つて覆へば、則ち冑、自づから脱す。今、又、其のごとく爲(な)す。〕。

 摭(ひろ)ひて之を覩(み)るに、形狀、頗(すこぶ)る皀莢子(さうけふし)に類し、然して冑の兩角、屹然(きつぜん)として相ひ對し、兩倭(わ)、纖然(せんぜん)として並び埀(た)る。又、眼目に似たる處有りて、金光瑩然(えいぜん)たり。天然の妙、實(まこと)に以つて賞すべく、珍すべきものなり。

 玆載(しさい)、寛政壬子(みづのえね)、余、偶(たまたま)弘前(ひろさき)城に聘(へい)せられる〔即ち津輕の治城(ちじやう)。〕、先づ黑石に至り、聘事(へいじ)を視修(ししう)す〔黑石は即ち、寡君(くわくん)の治【邑】(ちいう)なり。弘前の東北三里に在り。〕。一日(いちじつ)、友人榊雄充(さかきよしみつ)〔通稱、兵馬(ひやうま)。黑石の士人。〕、來たりて旅況(りよきやう)を慰め、談、此の事に及ぶ。余、舊(もと)より好奇の癖有り、之を聞きて愕然、舌(した)上がりて下がらず、頻りに一見せんと欲す。雄充、重ねて更に袖にして來たり、余が爲に之を贈る。余、亦、嚢裝(なうさう)を發(ひら)く。而して雄充より、之を贈りし太左衞門なる者に、以つて謝意を陳ぶ。實(げ)に壬子六月十一日なり。

 郷俗、相ひ傳へて、蛇の冑を見し者は、後(のち)に亦、其の門戸(もんこ)を大きくせりと。知らず、果して此の祥(しやう)の有るや否(いな)や。余は唯だ好奇のみ、婆心(ばしん)敢へて除(じよ)して、之を珍重す。併せて之を獲(え)し所以(ゆゑん)を記して、以つて博雅の君子を挨(ま)つのみ。

津輕 小田切軍曹貞固(さだもと) 識(しき)す  

 

□やぶちゃん注

○前項連関:ヘッピリムシの博物誌から異形の蛇の兜の博物誌へ。「耳嚢 巻之九 鰹の烏帽子蛇の兜の事」でちらっと出たものの詳報である。しかしこれ、図を見れば、昆虫嫌いの私でさえも、『これを蛇の戴き居たりといふは非なるべし。是全くかぶとむし』鍬形『などの類の蟲の頸なり。蛇それを食て、首ばかりを餘したるか』と思った。以上の引用は国学者喜多村信節(きたむらのぶよ 天明三(一七八三)年~安政三(一八五六)年)の「筠庭雑録(いんていざつろく)」(成立年未詳)に図入りで、文政四(一八二一)年の実見クレジットとして記載されたもので、全文と図を訳の後に配しておいた。なお、根岸が終わらせるつもりだったはず巻之九で結局、これがあったのに使わなかったとすれば、私は実は根岸は続投する気持ち(九百話より、やっぱ、キリのいい千話でしょう)が内心はかなり強かったのではないかとも思うのである。

・「津輕甲斐守家」これは弘前藩(津軽藩)の支藩である陸奥国津軽郡黒石(現在の青森県黒石市)に置かれた黒石藩、交代寄合旗本黒石津軽家五千石である。黒石陣屋は明暦二(一六五六)年に交代寄合旗本であった津軽信英により築かれたもので、本話が記される少し前の文化六年(一八〇九)年に(「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月)に当時の領主津軽親足(ちかたり 天明八(一七八八)年~嘉永二(一八四九)年)が加増されて一万石を領することとなって諸侯に列し、黒石藩として立藩、親足が初代藩主となった。

・「小田切軍造」「年藏」孰れも不詳。

・「天明五年乙巳四月十三日」西暦一七八五年。グレゴリオ暦では五月二十一日。季節的早いが、私が「蛇冑」の正体と考えているクワガタ類(何より後に載せる「筠庭雑録」の本文と図を参照されたい)は前年の秋に羽化して成虫となり、そのまま蛹室内で越冬するから、この時期にいて何らおかしくないのである。なお、採取のこの時の弘前藩分家黒石津軽家第六代当主は交代寄合旗本津軽寧親(やすちか)である。彼は、後の寛政三(一七九一)年に第八代藩主津軽信明が若死にしたためにその養嗣子となって主藩弘前藩第九代藩主となっている。この時、黒石の方は彼の長男典暁(つねとし)が継いだが、彼も若死にし、後を黒田直亨の四男であった先に示した津軽親足が末期養子となって継承した。

・「小屋敷村」現在の青森県黒石市大字小屋敷字小屋敷村。黒石の北北東方三・五キロメートルに位置する。

・「津輕黑石」青森県黒石市。先に述べた通り、文化六年(一八〇九)年に黒石藩の陣屋が置かれた。本話は執筆時には黑石藩が成立しているので、注の表現には敢えてそれが分かるように気配りしたつもりである。

・「治の西北一里許り」「治」は領主の主支配地である黒石のこと。三・九キロメートルであるから一致する。実は岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では原文が『則左治之西北一里許』となっている。諸本を校合したところ、私は「在」が正しいという結論に達した。大方の御批判を俟つ。

・「相澤」小屋敷村の北東に隣接する位置に浪岡町がある。地図を見ると、そのずっと西方の山深い一帯に旧浪岡町地区があって、そこに浪岡大字相沢という地名を見出せる。

・「相澤村は黑石が東北二里半許りに在り」九・八キロメートルになるが、現在の地図上では直線で七・四キロメートル、その東北にある標高三百五十一メートルの都谷森山(つやのもりやま)があり、ここまでは、ずばり九・八キロメートル近い距離がある。

・「七曲阪」現行ではこの坂名は残っていないようである。ネットではヒットしない。

・「方三尺許り」約一辺が約九十センチメートルとあるから、かなり大きい。

・「棘」「とげ」ではおかしいので「いばら」と訓じた。「茨」「荊」は「棘」と書くからである。枳殻(からたち)などの棘(とげ)のある低木の総称であるが、木の枝ぐらいの意味で用いているように思われる。

・「皀莢子」マメ目マメ科ジャケツイバラ亜科サイカチ Gleditsia japonica の実のこと。この豆果は漢方で皁莢(ソウキョウ)という生薬として去痰薬・利尿薬に用いる。なお、この木の樹液をカブトムシを始めとする甲虫類が好むことから、カブトムシのことを別称で「サイカチムシ」とも呼ぶ。

・「倭」辞書などには出ないが、岩波の長谷川氏注には『きりさげ髪。二本の補足垂れ下がった部分が』その蛇冑には『あるのであろう』とあり、目から鱗。

・「纖然」細くすっきりとあるさまであろう。

・「瑩然」きらきらと輝いているさま。

・「寛政壬子」寛政四(一七九二)年。則ち、「蛇の冑」が採取されてから七年後のこと、ということになる。なお、この当時は黒石陣屋の当主は先に示した津軽典暁である。

・「弘前城」弘前藩藩庁。寛永四(一六二七)年の落雷により五層五階の天守が焼失、以後、二百年近く天守のない時代が続いていて、この当時もそうであったが、この寛政四年から十八年後の文化七(一八一〇)年に第九代藩主津軽寧親(やすちか)が三層櫓を新築することを幕府に願い出、本丸に現在見られる三層三階の御三階櫓(天守)が建てられている(ウィキの「弘前城に拠る)。

・「聘事を視修す」よく分からないが、重役に登用されて、まずは領内を視察巡検したということであろうか。

・「寡君」「寡徳の君」(徳の少ないことを言い、通常は自己を卑下して言う)の意で、諸侯の臣下が他国の人に対して自分の主君を自分の側として遜っていう形式上の謙遜語。

・「治【邑】」領有する村。

・「旅況」旅心。旅愁。

・「嚢裝」物を袋で包んだもの。

・「婆心」老婆心。度を越した親切心。小田切は五月蠅い好事家の自慢心やお節介からではなく、あくまで自身の純粋な好奇心からのみこの「蛇冑を護るの記」を記し、家伝として後代へ残すのだと述べているのである。

・「軍曹」古代に於ける征討軍や陸奥鎮守府の軍監(ぐんげん:将軍・副将軍に次ぐ軍事監督官。)の次位。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 蛇甲(へびかぶと)の事

 

   津軽甲斐守家

   小田切軍造の所持せるものにして、現在は、その息子である年蔵所持になる

 

 「蛇(へび)の冑(かぶと)を護れる記」

 

 天明五年乙巳(きのとみ)四月十三日、津軽の百姓にて小屋敷(こやしき)村の太左衛門なる者[注:この小屋敷村とは津軽黒石に属しており、黒石の西北一里ばかりのところにある。]、そこの相澤と申す地の山中に、これ、蕨(わらび)を取りに入(い)った[注:相澤村は黒石の東北二里半ばかりのところにある。]。

 この山に「七曲坂(ななまがりざか)」と称するところがあるが、そこへ辿り着いたところ、冑(かぶと)を戴いた蛇を見いだし、直ちにこれを捕えんとしたところが、蛇は憤然として今にも太左衛門に嚙みつかんとする勢いであったによって、素早く頭巾を脱ぎ、その蛇の上を覆った[注:この地方の山村の百姓や猟師らは、男女ともに、三尺四方ほどの木綿(もめん)の巾(きれ)を以って頭を包んでおる。]上、その上から何度も木端(こっぱ)を以って叩いたところ、蛇は冑を脱いで逃げ去って行った[注:この里にては、往々この冑を被った蛇を見つけた者、その冑を得んと欲した場合は、必ず、何か物を以って覆えば、それだけで冑は自然と取れ落ちると称し、現在でも、その通りに対処している。]。

 太左衛門、この冑を拾って、よく検見(けみ)してみたところ、

――その形状は頗る皀莢子(そうきょうし)の豆に似ており

そうして、

――冑からは二つの角が高く聳え立つように相い対して左右に延び上がっており

――その脇にやはり二つの切り下げ髪のような飾りが細く美しく並び垂れてある

また、

――眼の玉に似ている箇所もあってそこはそこでやはり美しく金色に光り耀いてあった

これ、天然の妙、まことに以って賞美するに相応しく、珍重すべきものであった。

   *

 さて今年、寛政壬子(みずのえね)の年、私は、たまたま弘前城より招かれて、とある職務を遂行することとなった[注:言うまでもないが、津軽藩の治めておらるる御城である。]。先ず最初は黒石へ出向いて、招かれて命ぜられた職務上の巡検視察を行った[注:これも言うまでもないが、黒石は我らが御主君黒石津軽典暁(つねとし)様の御領地である。弘前の東北三里のところにある。]。

 その折り、とある一日(いちじつ)、私の友人榊雄充(さかきよしみつ)殿[注:通称は兵馬(ひょうま)。黒石の武士。]の来って雑談をなし、職務旅行の気鬱(きうつ)を慰めて呉れた。その折り、話がこの「蛇の冑」のことに及んで御座った。私はもとより、ことさらに好奇なるものを好む癖のあって、この奇体なる物の話を聞くや、愕然と致いて、舌はこれ、巻くどころか、上がったまんまに、ぴくりとも下がらずなってしまい、頻りにその「蛇の冑」を一見せんことを、これ、願った。

 すると雄充殿、それからほどなく再訪なされ、しかもかの「蛇の冑」を懐に入れて持ち来って、私がために、これを贈って呉れたのである。私はまた、その袋に包んだものを、これ、遂に開き見、まっこと、心打たれたのであった。……

 しかして、雄充殿に謝意を述べたは勿論のこと、これを贈り呉れた、その太左衞門なる者へも、これ、雄充殿より、くれぐれも礼を述べて貰うよう頼んで御座った。これは実に、壬子六月十一日のことで御座る。

 なお、この地方にて相い伝えることには、この「蛇の冑」を見たる者は、その後(のち)、また、その門屋敷、これ、大きく豪家(ごうけ)となる、と申しておる由。

 さても? 果して、この吉兆の、あるやなしや? こればかりは、分からぬ。

 ただ、私は全くの好奇心のみから――自慢せんとするような奇妙な欲心などにてはさらさらなく――これを珍重しておるに過ぎぬ。

 されば、併(あわ)せて、これを入手し得た事情をここに記し、以って後代の博覧強記の御仁によって、この「蛇の冑」の何(なん)なるかを、我ら及び子孫に教授下されんことを挨(ま)つのみ。

津軽 小田切軍曹(ぐんそう)貞固(さだもと) 識(しき)す  

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■附記

[やぶちゃん注:実録同酷似記事として「筠庭雑録」に載る「蛇の冑」を電子化しておく。底本は吉川弘文館昭和四九(一九七四)年刊「日本随筆大成 第二期第七巻」を底本としつつ、漢字は恣意的に正字化した。]

 

   ○蛇の冑

文政四年夏日、ある人のもとにて異物を見る。津輕家士の所藏となむ。蛇の冑と名づけて記文あり。其略(オホヨソ)は、天明五年乙巳四月十三日、津輕之民小屋敷村太左衞門者。〔割註〕小屋敷村屬津輕黒石。則在治之西北一里許。采蕨相澤山中〔割註〕相澤村在黒石東北二里半計。」山有七曲阪。行見胃蛇云々あり。それをとり傳へて、蛇の冑とは名づけたり。其狀大さ圖の如く、色は面黑褐色、裏は褐色なり。角幷に下にある蝸牛角の如き物黑漆の如し。角も動かせば少し動く、蝸牛角のやうなるものは、前と横とに動く。眼は黄色なり。總て光澤あり。鼻の下の穴は口なるべし。背には穴なし。これを蛇の戴き居たりといふは非なるべし。是全くかぶとむしなどの類の蟲の頸なり。蛇それを食て、首ばかりを餘したるか。おぼつかなし。蝦夷地へ行きたる人の隨筆、澁江長伯鴨邨瑣記といふものに、異蟲の圖をあらはして云、此二蟲ともに東蝦夷の人、名づけてシクバキリといふ。常にある蟲にて、さいかし蟲の一種なり。キリといふは蟲の事なりといへり。件の蛇冑はこの蟲なるべし。圖は雌雄と見へたり。寫生拙きにや。

 

Inteizaturoku_hebikabuto

 

[やぶちゃん注:図は右上に、

 〇蛇冑

左上に。

 鴨村瑣記

  シクバキリ

      圖

とある。

●「在治」底本では右に編者によるママ注記がある。

●「かぶとむし」現在は鞘翅(コウチュウ)目カブトムシ亜目コガネムシ上科コガネムシ科カブトムシ亜科 Dynastinae のカブトムシ類を指す語であるが、寧ろ、この時代の「かぶとむし」は私は同じコガネムシ上科クワガタムシ科 Lucanidae のクワガタ類こそ冑(かぶと)と呼ぶに相応しい形状と考えており、ここもクワガタ類を指していると考えている。「さいかし蟲の一種なり」という謂いからも断然、そう採るべきであろう。

●「澁江長伯」は幕府奥詰医師渋江長伯(宝暦一〇(一七六〇)年~文政一三(一八三〇年)で寛政五(一七九三)年に幕府の奥詰医師となり、巣鴨薬園総督を兼務、同十一年には幕命により蝦夷地で採薬した人物で、「鴨村瑣記(かもむらさき)」は彼の随筆。

●「シクバキリ」アイヌ語と思われるが「シクバ」は不詳。後に「キリといふは蟲の事なり」とあるが、これは小松和弘主宰「様似(さまに)アイヌ言語文化研究所」のサイト内の『「<私家版>浦河アイヌ語辞典」・動物・虫鳥・魚に関する用語』に「虫」の意で「キキリ」という語が見出せ、他のアイヌ語サイトでも確認出来た。

●「さいかし蟲」サイカチムシ(前の「耳嚢」本文の「皀莢子」の注を参照)。]

尾形龜之助 「夜」 心朽窩主人・矢口七十七中文訳

 

    夜

 

         尾形龜之助

 

私は夜を暗い異樣に大きな都會のやうなものではあるまいかと思つてゐる

 

そして

何處を探してももう夜には晝がない

 

Yoru

 

 
         
作 尾形龟之助
         
译 心朽窝主人,矢口七十七

 

认为——夜也许是一个又漆黑又异常巨大的城市般的东西

 

既然如此——

在夜里面的任何地方……都没有 昼 ……

 


         
矢口七十七/

2015/03/15

耳嚢 巻之十 屁ひり蟲奇説の事

 屁ひり蟲奇説の事

 

 屁(へ)ひり蟲、背中に白き星あり。右蟲をとらへ、板あるひは疊に押付(おしつく)る、屁をひり粉(こな)を出す事、其背の星の數(かず)程なり。其(その)數(かず)過(すぎ)ぬれば、屁をひらず、また粉を出さゞる由。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:博物誌であるが、この話柄、明らかに前の話と同様、特定の数に拘った奇妙な観察で(カメのバウンド回数と同じく、ミイデラゴミムシのガス噴出回数と背中の斑紋の個数との因果関係についても私は観察したことがないし、そのようなデータもないと思われるので断定は出来ないけれども)、私はこの話自体、前話の強迫性障害傾向を持つ同じ話者がニュース・ソースであるように思われてならないのである。根岸が「奇説」と標題するのもこの御仁、ちと危ないか、と思っている証左ではあるまいか。

・「屁ひり蟲」鞘翅(コウチュウ)目オサムシ上科ホソクビゴミムシ科Pheropsophus 属ミイデラゴミムシ Pheropsophus jessoensis に代表される防備行動として肛門腺からガスを噴出させるホソクビゴミムシ科のゴミムシ類のことで、これらを俗に「ヘッピリムシ」と呼称する。ウィキの「ミイデラゴミムシ」から引く。『成虫の体は黄色で褐色の斑紋があり』(本文では「白き星」とあるが、ホソクビゴミムシ科の画像を見る限りでは白色の星は見当たらない。但し、ミイデラゴミムシのそれも薄い褐色であるから「白」という表現に私はあまり違和感を感じない)鞘翅に縦の筋が九条ある。『ほとんどのゴミムシ類が黒を基調とする単色系の体色である中で、数少ない派手な色を持ち、また、比較的大柄』(凡その体長は一・六センチメートル)『であるため、かなり目立つ存在である。捕まえようとすると腹部後端より派手な音を立てて刺激臭のあるガスを噴出する。日本列島内の分布は北海道から奄美大島まで。大陸では中国と朝鮮半島に分布する』。『湿潤な平地を好む。成虫は夜行性で、昼間は湿った石の下などで休息する。夜間に徘徊して他の小昆虫など様々な動物質を摂食する。死肉も食べ、水田周辺で腐肉トラップを仕掛けると採集されるが、腐敗の激しいものは好まず、誘引されない』(以下に他の昆虫の卵塊や蛹を捕食寄生的に摂取して幼虫が成長するホソクビゴミムシ科全体の幼虫の食性特性の解説が入るが割愛する)。『他のホソクビゴミムシ科のゴミムシ類と同様、外敵からの攻撃を受けると、過酸化水素とヒドロキノンの反応によって生成した、主として水蒸気とベンゾキノンから成る』摂氏百度を超える『気体を爆発的に噴射する。この高温の気体は尾端の方向を変えることで様々な方向に噴射でき、攻撃を受けた方向に自在に吹きかけることができる。このガスは高温で外敵の、例えばカエルの口の内部に火傷を負わせるのみならず、キノン類はタンパク質と化学反応を起こし、これと結合する性質があるため、外敵の粘膜や皮膚の組織を化学的にも侵す。人間が指でつまんでこの高温のガスを皮膚に浴びせられると、火傷まではいかないが、皮膚の角質のタンパク質とベンゾキノンが反応して褐色の染みができ、悪臭が染み付く』。『この様に、敵に対して悪臭のあるガスなどを吹きつけることと、ガスの噴出のときに鳴る「ぷっ」という音とから、ヘッピリムシ(屁放り虫)と呼ばれる。他のゴミムシ類、オサムシ類も多くのものが悪臭物質を尾端から出して外敵を撃退しているのでヘッピリムシ的なものは多く存在するが、ミイデラゴミムシのようなホソクビゴミムシ科のそれは、音を発し、激しく吹き出すことで特に目を引く』とある。さらにこの現象について「反進化論」という項が立てられてあり、これがなかなか面白いので、そこも引用しておく(段落は省略した)。『主に創造論者らによる反進化論の証拠として、この仲間の昆虫のもつガス噴出能力が取り上げられることがある。その論は、「このような高温のガスを噴出できる能力は、非常に特殊な噴出機構がなければ不可能であるし、そのような噴出機構は、このようなガスの製造能力がなければ無意味である。つまり、少なくとも二通りの進化が同時に起こらなければならず、このようなことは突然変異のような偶然に頼る既成の進化論では説明が不可能だ」というものである。それに対しての反論は以下の通りとなる。特殊な噴出機構がなくても単に「少し熱い」ガスでも十分に役に立つし、実際に北米大陸には非常に原始的な噴射装置と混合装置をもつ』一種 Metrius contractus (ホソクビゴミムシ科:但し、多くの北米の研究者らはオサムシ科に含める)『が知られている。このような種の存在からも漸進的な噴射装置と混合装置の進化は可能であることが推定でき、ホソクビゴミムシ類の噴射装置を反進化論の証拠とするのは適当ではない。また、ヒゲブトオサムシ科(アリのコロニーに寄生する種を多く含む群であり、これも北米の研究者らの多くはオサムシ科に含める)にも同様に噴射装置を持つものがあるため、ホソクビゴミムシ類とヒゲブトオサムシ類が同じ系統に属すると考える研究者もいる。その場合噴射装置はこのグループの進化の途上でただ一度だけ獲得されたものであり、ホソクビゴミムシ類とヒゲブトオサムシ類共通の祖先から受け継がれたものであることになる。それに対し、ホソクビゴミムシ類とヒゲブトオサムシ類は多少なりとも縁遠く、その噴射能力はそれぞれの系統で別個に進化・獲得されたものだと考える研究者もいる。もし後者の論が正しければ、噴射能力の獲得は生物進化においてそれほどまれではない現象ということになる』。「『昆虫行動』ミイデラゴミムシの高温ガス噴出」で動画が見られるが、ちょっとこの実験、昆虫嫌いの私だが、それでも見た目、可哀そうな感じがするので自己責任で閲覧されたい。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 屁ひり虫についての奇説の事

 

 屁(へ)ひり虫は、背中に白い星のような斑紋がある。かの虫を捕え、板或いは畳に押しつけると、屁をひって、白い粉を吹き出すが、その屁の放出回数は、その背中にある星の数と一致する。その星の数(かず)を過ぎてしまうと、屁をひることはなくなり、また、粉も噴き出さなくなる――とのこと。

耳嚢 巻之十 龜玉子を生むに自然の法ある事

 龜玉子を生むに自然の法ある事

 

 番丁邊のある丁寧(ていねい)の人屋鋪内(やしきうち)畑へ、御堀より龜あがりて右畑へ玉子を産み、腹にて上へ砂をかけ押付(おしつけ)候。數(かず)何れも九々の數にて、八十一づゝ腹に押付置(おき)候を、不詮なく數へ見しにいづれも八十一なりと申ける由。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:亀奇譚二連発。なお、カメは実際には産卵のためには最初にまず後ろ足を用いて穴を掘り、産卵後に砂や泥をかける際にも用いるのは腹ではなく後ろ足である。但し、この腹部をバウンドさせて土を固める行動は実際に行う。亀神氏のブログ「和亀の日々 クサガメ・イシガメの飼育」のこちらを参照されたい。なお、八十一回かっきりバウンドするかどうかは知らない。寧ろ、私はこの「丁寧の人」の観察行動の方に異様な拘りを感じる。ご存じの方も多いであろうが、殆んど意味のない対象の数を数えることに執着するのは強迫神経症(強迫性障害(Obsessivecompulsive disorder , OCD))の典型的症状の一つだからである。しかも、この人物は実際には「八十一」でない(私は観察したことがないし、そんな観察データもないと思われるので断定は出来ないけれども)その回数を「八十一」に無理矢理合わせようとしている(思い込んでいる)と考えてよく、これはOCDに於いて、異常なまでに不吉とする数や逆に拘りの数というものがあって、その数を日常的に常時避けたり、逆にその数を無意味に繰り返したりする、病的な「数唱強迫」の可能性がすこぶる高いからである。しかし、この亀のバウンド八十一自体の話柄は妙に明るい映像だ。彼のOCDが日常生活に問題のないレベルで留まり続けたものと思ってあげたい気は私もしているのである。

・「番丁」番町。現在、東京都千代田区番町(一番町から六番町まで)として名が残り、怪談「番町皿屋敷」でも有名。ウィキの「番町」によれば、現在の番町一帯は『皇居より西に位置する領域。南の新宿通り、北の靖国通りに挟まれ、東端は半蔵濠、西端は東日本旅客鉄道中央本線が走る旧江戸城の外濠(跡)である。山の手の代表的な住宅地の一つであり、都心部における高級住宅街の代表格である。現在は、マンション中心の住宅街となっている』とあり(下線やぶちゃん)、さらに『江戸時代の旗本のうち、将軍を直接警護するものを大番組と呼び、大番組の住所があったことから番町と呼ばれた。大番組は設立当初、一番組から六番組まであり、これが現在も一番町から六番町に引き継がれている。実際には、例えば、一番町がさらに堀端一番町、新道一番町というように細分化されており、江戸時代の大番組の組番号と、現在の町目の境は一致しない』とある。

・「丁寧の人」亀の腹押しの回数を何度も観察して統計をとるという性格から考えて、物事に几帳面な人、異様に拘る神経質な人物という意味であろう。

・「不詮なく」意味不明。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、『所詮なく』とあり、長谷川氏が『何の考えもなく。無作為に』と注されておられるので、これを採る。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 亀が卵を生むに際して驚くべき自然の理法がある事

 

 番町辺りの、とあるすこぶる几帳面な性質(たち)の御仁の屋敷内(うち)の畑(はたけ)へ、御堀よりしばしば亀の登ってきては、その畑へ卵を産むのであるが、その際、その腹を器用に使って産んだ卵の上へ砂をかけた上、さらに卵が外敵に見つからぬよう、産卵場所を、やはり腹を以って軽く押し付け、平たくする行動を見せるという。

 さて、この御仁、その亀が卵を隠すために成す、その押し付け行動のその押し付ける回数を、ある時、何気なく数えてみた。

 すると、如何なる場合もこれ、九々の数(かず)に必ず一致して、取り敢えず複数回、確認してみた限りでは、常に八十一回ずつ腹にて押し付けていることが確認出来た。

 その後、産卵時期に、無作為に何度も何度もその回数を数えてみたところ、孰れの場合もこれ、きっかり、八十一度なのであった。……

……とは、この定数に驚き、その回数を何度も何度も数えた、驚くべきその御仁の、直談で御座った由。

耳嚢 巻之十 龜玉子を生む奇談の事

 

 龜玉子を生む奇談の事

 

 人見幸榮(こうえい)曰(いはく)、蛇と龜と交(まぢは)るといふ古說有(あり)しが、いかにもさる事有るや、龜の玉子四つ產(うみ)候に、かへり候時、ふたつが一つは是非(ぜひ)蛇にかへると、まのあたり見しと也。 

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。動物博物誌。これ以降、四連発となる。また、八つ後に「龜と蛇交る事」でこの続編が載る。底本の鈴木氏注に、『亀が蛇を食うということが、『続博物志』に見えている。『沙石集』には蛇と亀と蛙が友達で、蛇が亀を使者にして蛙を招く話がある。蛇が女を犯す話は多いが、天武紀には蛇が犬と交って両方ともにすぐ死んだという記事がある。とかく話題が多い動物である』とある。「続博物志」は、宋の李石が晋の張華が著した「博物志」に倣って諸種の異聞を集めて天象・地理等の順に分類配列した博物誌。「天武紀」は「日本書紀」の天武天皇本紀のことであるが、私はこのような箇所を捜し得なかった。識者の御教授を乞う。「沙石集」の話は巻五「學生なる蟻(あり)と蟎(だに)との問答の事」(南都春日野の学僧の房の近くに棲むアリとダニの仏法問答というぶっ飛びの異類ファンタジーである)の中に出る。以下に示す(読み易さを考え、カタカナを平仮名に直した岩波文庫一九四三年刊の筑土鈴寛校訂「沙石集 上巻」を用いた)。

   *

……經論の中に畜類の問答多く見えたり。大論には、或池の中に、蛇(じや)と龜と蛙(かはづ)と知音にて侍けり。天下旱(ひでり)して、池の水も枯れ、食物もなうして、うゑてつれづれなりける時、蛇、龜を使者として蛙のもとへ、時の程おはしませ、見參せんと云ふに、蛙、返事に偈を說きて、飢渇(けかつ)せめられぬれば、仁義をわすれて食のみを思ふ。情も好(よしみ)もよのつねの時こそあれ。かかる時なればえまゐらじとぞ、返事しける。げにもあぶなき見參也。ぐつとのまれなば、如何に思ふともよみがへる道もあらじ。……

   *

この「論」というのは「大智度論」(龍樹による「摩訶般若波羅蜜経」の注釈書)のこと。岩波の古典古典文学体系の「沙石集」の頭注によれば、同論の十二(大二十五・百五十下)に載るとある。

・「龜玉子を生む奇談の事」この標題ではぴんとこない。「龜蛇の玉子を生む奇談の事」の脱字として訳した。

・「人見幸榮」不詳であるが、医師っぽい名で、この二十五話後の「古石手水鉢怪の事」に『御醫師に人見幽元と申すあり』と出、鈴木氏はこれを『禁裏の医師から幕府に仕え』た人見『友元』と注しておられる。この人物は元禄九(一六九六)年没とあるから(「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年)、この医師の子孫か縁者ではなかろうか? 

 

■やぶちゃん現代語訳 

 

 亀が蛇の玉子を生む奇談の事 

 

 人見幸栄(こうえい)曰く、

「……蛇と亀とが交わるという古き説の御座るが、如何にもそのようなこともあるものか、我らの飼って御座る亀、これ、時に玉子を四つほども産みまするが、孵(かえ)って御座った折りには、これ、二つに一つは必ず、蛇の子が孵って御座る。いや! 我ら、目の当たり見て御座ったことなれば、確かなことにて御座る。」

とのことであった。

尾形龜之助 「受胎」 心朽窩主人・矢口七十七中文訳

 

    受胎

 

         尾形龜之助

 

三晩もつゞいて

『ねずみが蒲團にのつてゐて重い』といふので

私は何もゐない妻の蒲團の上をシイシイと追つた

 

それで妻は安心して眠るのだ

受胎して

妻はま夜中にねずみの夢を見てゐるのだ

 

 

Jyutai

 

 受胎
         
作 尾形龟之助
         
译 心朽窝主人,矢口七十七

 

连续三晚

我妻说“一只耗子在我被子上,有点儿重……”

我在她被子上面的空间为她嘘嘘地赶了耗子

 

除非这么做,妻子才能无忧无虑地入睡呀——

受了孕

夜里正在做耗子的梦呀——

 


         
矢口七十七/

尾形龜之助 「夢」 心朽窩主人・矢口七十七中文訳

 

    夢

 

          尾形龜之助

 

眠つてゐる私の胸に妻の手が置いてあつた

紙のやうに薄い手であつた

 

何故私は一人の少女を愛してゐるのであつたらう

 

 Yume

 

 
         
作 尾形龟之助
         
译 心朽窝主人,矢口七十七

 

在睡的我胸脯上一直放着妻的手 ……

像一张纸那么薄的一只手 ……

 

咳,不知为什么,我爱着一个 少女 ……

 


         
矢口七十七/

2015/03/14

耳嚢 巻之十 奇體の事

 奇體の事

 

 文化九年、大貫次右衞門支配所、奇體を掘出(ほりいだ)し候由にて、次右衞門營中へ持參の畫文。

 相州津久井(つくゐ)縣名倉(なぐら)村名主源内召仕(めしつかひ)はな娘つね、四ケ年以前巳年六月廿日病死いたし、源内所持字(あざ)谷向(たにむかひ)と唱へ候芝地(しばち)に葬置(はうふりおき)候處、つね母はな儀、當(たう)申(さる)五月十日是又(これまた)病死いたし、同所へ葬(はふる)候積(ともり)にて、村内の者ども穴を掘(ほり)候處、其節鍬(くは)打當(うちあたり)候哉(や)、つね入葬(いれはふり)候古桶(ふるをけ)破れ、つね形(かた)ち其儘有之(これあり)候を見付(みつけ)、誠に色白く候故、幽靈かとぞんじ、穴掘のものども打驚(うちおどろき)迯去(にげさる)。夫(それ)より同村禪宗桂林寺住僧相賴(あひたのみ)、同道致(いたし)、猶(なほ)又見請(みうけ)候處、朽木(くちき)の如くかたまり有之(これあり)候に付、同寺へ持參(もちまゐ)り、法華經囘向(ゑかう)等相賴(あひたのみ)、弔(とむらひ)遣(つかはし)候處、高さ壹尺八寸程有之(これあり)、段々日增(ひまし)に色薄黑く、かたく相成(あひなり)、左眼をあき右眼をふさぎ、鼻くぼみ口結び、兩耳付(つき)、眉(まゆ)髮毛(かみのけ)無之(これなく)、頭をさげ、兩手合掌いたし、膝を建、手足爪悉(ことごとく)有(あり)て、乳の肉、腹の臟腑共(とも)自然とかたまり、陰門肛門穴一つになり、死骸をたゝき候得ばポクポクと鳴り、重さ三才位の小兒程有之(これあり)。別(べつし)て手足等かたく、蟲(むし)匂(にほひ)等も無之(これなく)、此節蠅などもたかり不申(まうさざる)由。

惣身(そうしん)肉付(にくづき)有之(これあり)、當時は木腐(きぐさ)れ候匂(にほひ)いたし、肉を爪又は木抔にてつき候ても、跡付(あとつけ)不申(まうさざる)由。形(かたち)肉色の樣子、圖の通(とほり)の旨、見分(けんぶん)の者申(まうし)きけ候。

 

Kitai

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。実録。所謂、屍蠟(しろう)と呼ばれる現象である。ウィキの「死蝋によれば、『永久死体の一形態。死体が何らかの理由で腐敗菌が繁殖しない条件下にあって、外気と長期間遮断された果てに腐敗を免れ、その内部の脂肪が変性して死体全体が蝋状もしくはチーズ状になったものである。鹸化したものもみられる』。『ミイラとは異なり、乾燥した環境ではなく湿潤かつ低温の環境において生成される』とある。「鹸化」は「けんか」と読み、狭義には、古くは油脂・蠟を水酸化アルカリと加熱、加水分解して脂肪酸のアルカリ塩、即ち石鹸をつくる反応をさしたが、現在は一般にエステル類を加水分解してカルボン酸またはその塩とアルコールにする反応をさす語である(ブリタニカ国際大百科事典に拠る)。ここは遺体が石鹸のような質に変化することを言っている。なお、この一件は「宮川舎漫筆」にも載っており、そこでは「つね」の死亡年齢は二十六歳と記してあるらしい(瀬川淑子氏の「江戸時代女性の噂話 第二部:農村あるいは地方の女性」の現代語訳に拠る)。本文を読み解くにはこの年齢は非常に重要である。

・「大貫次右衞門」底本の鈴木氏注に、『光豊。天明三年(二十八歳)家督。廩米百俵。六年御勘定吟味方改役より御代官に転ず。文化六年武鑑に、武蔵下総相模郡代付、大貫次右衛門とある』と記す。ちゃり蔵氏のブログ「ちゃりさん脳ミソ漏れ漏れなんですが」のこちらに、大貫光豊(おおぬきみつとよ)と出、『代官・大貫次右衛門』、『代々、次右衛門を名乗る』とあって、天明六(一七八六)年に『勘定吟味方改役から越後水原陣屋の代官の後、関東郡代付代官・馬喰町詰代官を歴任し』、文政六(一八二三)年五月に勇退と記されてある(こちらの方の記載は佐藤雅美作「八州廻り 桑山十兵衛」の登場人物の解説である)。

・「相州津久井縣名倉村」底本の鈴木氏注に、『神奈川県津久井郡藤野町大字名倉』とする。岩波版の長谷川氏注には、『神奈川県津久井郡藤野町名倉。津久井県は当時の正しい称。なお以下の事件を『武江年表』の筠庭補正には文化八年七月十一日の事とするが、九年五月の本書の記述が正しいか』とある。「筠庭」は「いんてい」と読み、国学者喜多村信節(きたむらのぶよ 天明三(一七八三)年~安政三(一八五六)年)のペン・ネーム。「武江年表補正」は考証家斎藤月岑(げっしん 文化元(一八〇四)年~明治一一(一八七八)年)の「武江年表」を、筠庭の天明元年以来の手控えであった「きゝのまにまに」によってな増補補正したものと思われる。ここで長谷川氏の言う『津久井県は当時の正しい称』については、ウィキに、『律令制以前には「国」とともに「県」(あがた)が地域区分の単位として用いられていたが、律令制下で国(令制国)・郡(はじめ評)・里(のち郷)という地方区分が確立すると「県」は地域区分の単位としては用いられなくなり、小県郡(信濃国)、方県郡(美濃国)、大県郡(河内国)のように郡名など地名の一部に名残をとどめるようになった。例外として』平成一九(二〇〇七)年まで『神奈川県に存在した津久井郡は、江戸時代には全国で唯一、地域区分単位として「津久井県」を称していた。これは従来「津久井領」と呼ばれていたこの地域を支配した幕府代官の命によるものであるが、敢えて「県」を称したのは山間僻遠であるこの地域が単独の「郡」を称するには不足であると考えられたからだと言われている(『藤野町史・通史編』)』。津久井県は明治三(一八七〇年)に「津久井郡」と改称された、とあることを言う(下線やぶちゃん)。

・「營中」柳営(匈奴征討に向かった前漢の将軍周亜夫が細柳という地に陣を置いて軍規を厳しくして文帝の称賛を得たという「漢書周勃伝」の故事から、将軍の陣営・幕府を指すようになった。細柳とも)の中。将軍の居所。江戸城。

・「巳年」文化六(一八〇九)年己巳(つちのとみ)。数え年と同じく死亡した当年を一年と計算するので文化九年からは「四ケ年」となる。

・「申」文化九(一八一二)年壬申(みずのえさる)。因みに「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月で死蠟出土は文化九年五月であるから、二年前の比較的ホットな出来事である。

・「壹尺八寸」約五十五センチメートル弱・

・「膝を建」底本では「建」の右に『(立)』と訂正注がある。

・「桂林寺」相模原市緑区名倉に現存する曹洞宗月中山桂林寺。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 奇体(きたい)の事

 

 文化九年、大貫次右衛門の支配せる地所にて、奇体(きたい)を掘り出したという事実につき、次右衛門が営中へ持参致いた画文(がぶん)を示す。

   *

 相州津久井県(つくいけん)名倉(なぐら)村の名主源内の召し使っておった――女「はな」なる者の娘「つね」――四年前の文化巳年六月二十日、病死致し、源内所持の字(あざ)谷向(たにむかい)と呼称せる芝地(しばち)に葬ったところ、この――「つね」母「はな」――儀、当年申年の五月十日、これもまた病死致し、全く同じき場所へ葬ることとなった。

 ところが、村内の者どもが同所にて墓穴を掘って御座ったところが、墓穴を掘らんとした鍬(くわ)のたまたま打ち当たったものか、嘗て「つね」を埋葬致いたところの古桶(ふるおけ)が破損し、「つね」の遺体が、これ、形もそのままに露出してしまった。

 ところがその遺体、これ、すこぶる肌色の白く御座ったれば、墓穴を掘っていた者どもが、これを見て、

「ゆ、ゆ、幽霊じゃッツ!!」

と、恐懼、そのまま皆、逃げ去ってしまった。

 そこで、名主源内、同村にある禅宗の桂林寺住僧へ依頼の上、かの墓地へ同道致いて、なおまた、検分致いてみたところ、

――朽木(くちき)の如くに固まった遺体

を、これ、現認致いた。

 されば取り敢えず、同寺へと運び入れた上、法華経などを誦し、回向(えこう)を重ねて依頼致し、丁重に弔いの儀を成した。

 さても、その奇なる遺体は、これ、

――高さ一尺八寸

ほどのものであって、安置せる内、日増しに、

――色薄黒く

なって、

――硬化

する様子が窺われたが、細かに観察すると、

――左眼を開け

――右眼を塞ぎ

――鼻は窪み

――口は固く結び

――両耳は生前同様に付いたままで

――眉及び髪の毛は剥落しており

――頭部を有意に下へ下げ

――両手は合掌の形を成し

――膝を立て

――手足の爪は、悉く生前のまま現存

――乳の肉及び腹部の臟腑はともに自然に硬化を示し

――陰門と肛門は癒合して一つの孔に変質していた。

 試みにその死骸を叩いてみると、

「ポクポク」

と鳴った。

――重量は凡そ三才児に相当する体躯(たいく)にして

――別して手足などは堅く硬化成し

――虫などがたかったり匂いなどは全くなかった。

 時節柄、蠅などもよく飛んでいたにも拘わらず、それらが集(たか)るといったこともなかったという。

 総身はこれ、

――肉付きは概ねそのまま

――出土した当初は木の朽ちたような匂いがし

――肉の部分を爪または木などを以って軽く突いてみても凹んだり欠損したりするような何らの跡も残らなかった

と申す。

 この奇体の遺体全体の形状、及び肉やその様態は以下に示した図の通りである。

Kitai_2

耳嚢 巻之十 孝女其意を達する事

 孝女其意を達する事

 

 松平備守領分豐後國杵築(きつき)の内、村も聞(きき)しが忘れぬ、壹人の貧民有(あり)しが、娘兩人をもち、妻ははてたりしに、姉娘の方は同村の百姓の妻となりしに、父濕病(しつびやう)を煩ひ其身病身の上(うへ)足抔も不叶(かなはざる)故、農業はさらなり、妹娘一人にて姉娘もこれをたすけ壹人の親を養育なせし事三年程なりしに、彼(かの)親仁娘が介抱に心をくだき、われなくば彼れも心安く暮さんと思ひ歎き、死なんとも思ひし程なれば、彌(いよいよ)娘共(ども)は其心をさとり、あけ暮(くれ)に心を付(つけ)養育せしに、少々快く此程は足もたち少しは歩行(ほかう)もなりければ、何卒靈場靈社を廻(めぐ)り責(せめ)て子供が憂(うれひ)をも休(やすんぜ)んと、其事申出(まうしいだ)し、娘共の達(たつ)て止(とどむ)るをも聞(きか)ず、強(しい)て止(とど)めば死をも極(きはめ)しとの事故、色々だましすかし抔して留めしに、或時旦那寺を賴み法體(ほつたい)なし、夫(それ)よりいづちへ行(ゆき)けん行衞(ゆくゑ)しれず。所々尋ぬれど、近きあたりにて見懸(みかけ)しといふものなければ、娘兩人の歎きいふ計(ばかり)なし。兄弟いろいろ相談なしけれど、何國(いづれのくに)とも定めて尋(たづねん)んやうもなければ、立出(たちいで)し日を命日として朝夕案じけるとなり。しかるに右親は、段々物もらひ廻國(くわいこく)して、水戸領さる寺院の門下にて足の病ひ起りてなやみ臥したりしを、住僧憐みて寺内へ入れ、くりの脇に聊(いささか)の小屋をしつらひ置て暫く養ひしに、足はいよいよあしく腰はぬけたるが如くなれども、氣力其外常に戻りて少しは其寺の用をも辨じ、いづ方の者にやと尋(たづね)しに、杵筑(きつき)領の百姓にて、斯々(かくかく)の事にて國を出(いで)し由語りぬ。しかるに、孝は天の助くる所謂(いはれ)にや有(あり)けん、此寺の僧を問ひ來りし遍歷僧に九州の者有(あり)て、細かに尋(たづね)て、夫(それ)はわれも知れる村也(なり)といひし故、さすがに親仁も子供の事を語り戀しき由咄しける故、哀れに思ひ、彼(かの)遍參(へんさんの)僧九州へ無程(ほどなく)歸りしとき、右村長(むらをさ)抔へしかじかの事かたりけるを、兄弟聞(きき)て大きに歎き、二人申合(まうしあは)せ、行衞しれし上は尋行(たづねゆか)んと、其(その)催(もよほ)しなしければ、姉なる夫は申(まうす)に不及(およばず)、村方の者も、山海へだてし所まで女の身にていかで尋(たづね)いたるべきと留(とど)めけれど、不用(もちゐず)。或日兩人とも、其わけしたゝめ置(おき)て立出(たちいで)ぬるを、跡にて聞(きき)て、一錢のたくわへもなく思ひたちぬる事の不便(ふびん)さよと、村長と夫は、金子少々集めて跡をしたひて追(おひ)かけしに、一里餘(あまり)も隔(へだた)りし松並木のもとに、兄弟やすみ居(をり)たるに追付(おひつき)ぬ。いつの間に兄弟支度(したく)なしけるや、おゆずりとかいふものをかけ聊(いささか)の紙手拭等を入(いれ)候を負(おひ)て、杖わらんじはきて有(あり)し故、村長も夫も孝心の所(ところ)感じ入ぬと暇乞(いとまごひ)なして、路銀をあたへければ、路銀は斷(ことわり)言(いひ)てかへし、我々途中袖乞(そでごひ)をなして參るべし、金子など有(あり)ては却(かへつ)て心がゝりなりとて請(うけ)ず。しかれども、再應(さいおう)用心のためとて二百疋あたへてわかれぬ。しかるに念願とゞき、とふく右水戸の寺院に至りこせしが、是にも不思議ありけるは、大坂迄右兄弟まかりし頃、備中守家老用向(ようむき)ありて在所より大坂へ至りしに、兄弟のおゆずりに杵筑領の村名しるしある故、旅宿へよびて其事を尋(たづね)しに、しかの事と申(まうし)ければ、甚(はなはだ)感心して、しからば我等が倶(とも)の内に交(まぢ)り江戸まで參るべしと、おとなしき家來に申付(まうしつけ)、なんなく江戸まで來り、夫(それ)よりは水戸まで人を付けおくりしに、彼(かの)寺にありし親も存在にて、うき木の龜の廻(めぐ)り合(あひ)大きによろこび、所の奉行に聞えて、彼(かの)親仁を江戸表まで贈らんとありしを、兄弟其恩のありがたきを辭し、駕(かご)のりものと申(まうす)所を、木車(きぐるま)をひとつ拵へたまはれと望みて親仁を右車にのせ、往來の者も、其深切孝心を感じ助力して、兄弟にてとふとふ江戸表まで連れ來り、彼(かの)家の長士(ちやうし)も彌(いよいよ)憐みて、主人へも其孝を奏賞(さうしやう)せしとかや。其後在所へ送りしや、文化八申年三月、此事をしれるものかたりしが、其後はいかゞなりしや、聞洩(ききもら)しぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。実録百姓孝心譚。

・「松平備守領分豐後國杵築」豊後国杵築(きつき)藩(木付藩とも書く)は豊後国国東郡・速見郡内を領した藩。譜代大名。三万二千石。本話柄の文化八(一八一一)年か或いは文化九年となると、藩主は第八代松平親明(ちかあきら)である。この藩主については、ウィキの「松平親明に、『能楽に秀でていたと言われているが、藩政においては百姓の逃散や一揆、打ちこわしが相次ぐなど多難を極めた』とある。これは一つ、参考になろう。因みに「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月である。「杵築」は現在の大分県の北東部に位置する杵築(きつき)市である。

・「濕病」疥癬。鋏角亜門クモ綱ダニ目無気門亜目ヒゼンダニ科のダニであるヒゼンダニ Sarcoptes scabiei var. hominis の寄生による皮膚感染症。皮癬(ひぜん)。湿瘡(しっそう)。この男、足の不自由は一見、別箇な病いのように書かれてあるのだが、本当にそうだろうか? 私は実は彼の疥癬は疥癬の重症感染例である「ノルウェー疥癬」ではなかったかと疑っているのである。詳しくは「生物學講話 丘淺次郎 一 吸著の必要~(2)」の私の「ひぜんのむし」の注を読まれたいが、ノルウェー疥癬は「過角化型疥癬」とも呼ばれ、『一八四八年にはじめてこの症例を報告したのがノルウェーの学者であったためについた名称であり、疫学的にノルウェーと関連があるわけではないので、過角化型疥癬と呼ぶことが提唱されている。何らかの原因で免疫力が低下している人にヒゼンダニが感染したときに発症し、通常の疥癬はせいぜい一患者当たりのダニ数が千個体程度であるが、過角化型疥癬は一〇〇万から二〇〇万個体に達する。このため感染力はきわめて強く、通常の疥癬患者から他人に対して感染が成立するためには同じ寝具で同衾したりする必要があるが、そこまで濃厚な接触をしなくても容易に感染が成立する。患者の皮膚の摩擦を受けやすい部位には、汚く盛り上がり、カキの殻のようになった角質が付着する』という病態を指す。こうなると歩行は著しく困難になることは言を俟たないであろう(以上の引用はウィキの「疥癬」からの孫引である)。

・「水戸領」常陸国水戸藩。現在の茨城県中部・北部を治めた。三十五万石。この当時は第七代藩主徳川治紀(はるとし)の治世。

・「小屋」建物の壁面から屋根(廂)を片流れに長く出して附け足し、そこを通路や小屋の様に用いた下屋(げや)であろう。

・「おゆずり」岩波の長谷川氏注は、『笈摺。巡礼の着る袖無羽織の類。また笈』そのものをも『いう。下文よりみて笈か』とされ、底本の鈴木氏注には、『笈摺の訛。三村翁曰く「おゆずりはおひずりにて、実は負簏なるべし、簏は竹匣なり、とあり、一に笈摺にて、巡礼者の着る袖無羽織の如き白衣、笈を負ひて摺れざる為めに着る故にいふと。近代世事談に笈摺、元御※なり、往古は父母の菩提のために喪服の内に観音大日を礼せるゆへ、喪服を着したりしが、後に喪の礼亡びて、今順礼する人の服となれり、御ゆづりといふは、※の字を譲の字によみちがへて、御ゆづりといへり、又今笈摺とかきて、一統に用ゆ。」』と引く(「※」は「衤」+「襄」。この字、音も意味も不詳。「廣漢和辭典」にも載らない。識者の御教授を乞う)。この鈴木氏の注は注なしにはよく分からない。以下に「●」で附す。

●「笈摺」「おいずる」「おいずり」と読む。巡礼などが笈(おい:行脚僧や修験者などが仏像・仏具・経巻・衣類などを入れて背負う道具。箱笈と板笈の二種があり、箱笈は内部が上下二段に仕切られ、上段に五仏を安置し、下段に念珠・香合・法具を納めている。扉には鍍金した金具を打ったり、木彫で花や鳥を表わし、彩漆(いろうるし)で彩色した彫装飾を施したものなどもある)を負う際に衣服の背が擦れるのを防ぐために着る単(ひとえ)の袖無しの白衣(びゃくえ)。西国巡礼者らが着るものを想起すればよい。かの装束のルーツは西国の徳道上人や花山法皇が行脚の際、背負った尊い観世音仏の入った笈が直接、自身の俗身に触れるのを畏れて清浄な白衣を着けたのが始まりとされ、その後、着物の背が摺り破れぬようにという専ら実用的な意味から、着衣の上へ磨滅防止のために装着する笈摺として特化したようである。なお、参考にした最上三十三観音札所別当会公式サイトの「山形の最上三十三観音」の「巡礼に必要な物」を見ると、笈摺は最後には『死後の旅路に着けるものとされて』おり、『背の正面に「南無大慈大悲観世音菩薩」と書き、右に年月日、同行二人、左に住所氏名を記す。○両親のある者-中央を赤、左右を白 ○片親の者-中央を青、左右を白 ○両親のない者-三幅とも白、自分一人でも「同行二人」、二人連れは「同行三人」と書く(何れも観世音と共に)』とある。但し、注の冒頭で示したように、ここは長谷川強氏のおっしゃるように、笈そのもので採るべきである。従って訳では「笈」として、「笈摺」を出さなかった。

●「負簏」これも通常は「おいずり」と読む。音なら「フロク」で、「簏」は原義は竹製の箱を意味する。

●「竹匣」「たけばこ」と読むか。音なら「チクコウ」か。「匣」は箱・小箱の意。

●「近代世事談」江戸中期の俳人で作家の菊岡沾凉(せんりょう 延宝八(一六八〇)年~延享四(一七四七)年)の随筆「本朝世事談綺」(享保一九(一七三四)年成立)の別名。以下に当該箇所を引いておく(底本は吉川弘文館昭和四九(一九七四)年刊「日本随筆大成」第二期第十二巻に拠ったが、恣意的に正字化した。なお、「※1」=「衤」+「襄」であり、ルビも振られていない。「※2」は「衤」+「衰」で、鈴木氏の注(三村翁引用)とは異なる)。

   *

    ○笈摺(おひずり)

元御※1なり。往古(わうこ)は父母の菩提(ぼだい)のために喪服(もふく)の内に観音(くわんおん)、大日(だいにち)を禮せるゆへ、喪服を着(ちやくし)たりしが、後(のち)に喪(も)の禮ほろびて、今(いま)順禮(じゆんれい)する人の服となれり。御(お)ゆづりと云は、※2(ゆるし)の字を讓(ゆづる)の字(じ)によみちがへて、御ゆづりと云(いへ)り、又(また)笈摺(おひずり)とかきて、一統に用之。

   *

これから推すと。「※1」は「ゆづる」「ゆずり」と読んでいるようである。「※2」もやはり音も意味も不詳で「廣漢和辭典」にも載らないが、一つ、「柴田天馬訳 蒲松齢 聊斎志異 宅妖」に「※2衣」と出、この二字に柴田天馬氏は「もふく」というルビを振っておられるのを発見出来た(リンク先は私の電子テクスト)。]

 

・「斷(ことわり)」編者ルビ。

・「袖乞」物乞い。乞食。

・「二百疋」一貫文が百疋で、四貫文で一両であるから、一両の半分、当時の蕎麦代換算で凡そ二万五千円ほど。

・「俱」底本では右に『(供)』と訂正注がある。

・「うき木の龜の廻り合」「浮き木の亀のめぐり逢い」で、これは「盲亀の浮木」(もうきのふぼく)「盲亀、浮木に値(あ)う」「一眼の亀浮木に逢う」と同類の故事成句。仏典「雑阿含経」「涅槃経」に基づく譬え話で、大海の底に棲んで百年に一度だけ海面に出て来る盲目の亀が、海面に浮かぶ一本の木にめぐり逢って、その木に空いている穴の中へそれを棲家として潜り込むということは凡そ容易なことではないという説話である。真の仏法の教えにめぐり逢って悟りを得ることの困難を述べたものであろうが、そうした出会うことが極めて難しいことから転じて、滅多にない幸運に逆にめぐり逢うことの譬えにも用い、ここでもその後者の謂いで用いている。他に「盲亀の浮木、優曇華(うどんげ)の花」とも(「優曇華の花」は三千年に一度咲くとされる吉兆の花)。以上はネットの「故事ことわざ辞典」に拠った。

・「贈らん」底本では「贈」の右に『(送)』と訂正注がある。

・「長士」身分の高い重役の武士。先に彼女たちに助力した備中守家老のこと。

・「奏賞」姉妹の孝心を賞賛する内容を藩主に申し上げること。

・「文化八申年」底本では右に『(九カ)』と推定訂正注がある。文化八(一八一一)年は辛未(かのとひつじ)で、九年が壬申(みずのえさる)である。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 孝女らがその孝心により望みを達成した事

 

 松平備守領分豊後国杵築(きつき)の在――村名も聴いたが失念した――に一人の貧しい百姓がいた。

 娘二人を持ち、妻はとうに病いで身罷ってしまい、姉娘の方は同村の百姓の妻となっていた。

 この父、重い疥癬(かいせん)を患い、その身、これ、病身の上に、足なども不自由であったがゆえ、妹娘一人と、かの姉娘がたびたび実家へと戻っては、農作業は勿論のこと、さまざまな父の介護や看病をもして助け、一人の父親を保養すること、三年ほどが経った。

 かの親仁、この娘らの介抱にいたく恐縮なし、

『……儂(わし)がおらなんだら娘らも、これ、心安ぅ暮せるものを……』

としきりに思い歎き、

『……いっそ……死のう。……』

なんどとも思いつめたほどであったが、姉妹は、そうした父の内心を、これ、いよいよ鋭く察しては、なおいっそう、明け暮れの養いに気配りし、父を元気づけることに努めて御座った。

 かくするうち、父の様態、これ少しく軽快に向い、足もしっかりと踏みしめて立てるようにもなり、少しは歩行も、これ、出来るようにさえなったによって、

「……ここは一つ、何としても、霊場霊社なんどを廻って……せめてそなたらの、儂の助けに明け暮れて御座った、かの永の愁いより、これ、解き放ってやりとぅ思うし……そなたらが幸せになれるよう、神仏にも祈念致しとう思う。……」

と、切に望みだし、姉妹がしきりに止(とど)むるをも聞かず、それどころか、

「――しいて止むるとならば、儂は死ぬ!……そこまで儂は思いつめておるんじゃ!」

とまで、訴える始末。それでもいろいろと、だましすかしなんどして出立(しゅったつ)を留めさせておった。

 ところが、ある日のこと、朝早ぅに、

「――旦那寺へ行って参る。……」

と出かけたかと思うと、しばらくして、何と!

――頭を丸めて法体(ほったい)

となって戻って参り、

「……では――巡礼へと――参る。――」

と告ぐるや、姉妹の引き留めんとするを、敢然と振り切って、何処(いずこ)へ向かったものか、これ、とんと行方(ゆくえ)知れずとなってしまったのである。

 それより姉妹して各所を訪ねてはみたけれども、近き辺りにては、かの父のような人物を見かけたという者、これ全くおらず、娘両人の歎きは、これも言ようもないほどにて、姉妹は菩提寺の住持やら村長やらにも、いろいろと相談してはみたものの、どこの国のどこの寺社を目指したとも、一向、これ、分からざれば、此処其処(ここそこ)と思い定めて尋ね求めん法もなく、仕方なく、出立致いた日を父が命日として、朝夕、心痛めて暮らす毎日となった。

 しかるにかの父親、道々、物貰いをしつつ、廻国致いて、遂には遙か水戸領の、さる寺院の山門下に於いて、これ、足の病いの起こって動けずなり、そこに横たわっておったところ、その寺住僧がこれを見かけ、憐れんで寺内へと運び入れさせ、庫裏の脇にささやかな下屋(げや)を作らせてそこにおいてやり、ここで養生させて御座った。

 ところが、しばらくすると、足の状態はいよいよ悪うなり、腰が抜けたようになってしまった。しかし不幸中の幸いと申すべきか、逆に気力その外はかえって正常な状態に戻っておったによって、座ったままでこなせる寺の用事などをも少しは器用にこなすことの出来るようになり、相変わらずその寺に住み込んでいることが出来た。

 ある折り、住僧が、

「――そなたはこれ、何方(いずかた)の者なるか?」

と訊ねられたによって、

「……儂(わし)は杵筑(きつき)領の百姓で御座いやして、……」

かくかくしかじかと、国を出て巡礼廻国なしてここまで参った経緯につき、これ、つぶさに物語って御座った。

 しかるにここに――孝は天の助くる所謂(いわ)れと申そうか――ちょうどこの頃、この寺の住持に教えを乞わんと訪ね来った遍歴の僧で九州の出の者があって、かの足萎えの下男風の老人、杵築出とか耳に挟んだによって、細かに訊ねてみたところが、その老人の申した出身の村の名を聴くや、

「おお、それは! そこなら、我らもよう知れる村にて御座る!」

と申したによって、さすがにかの親仁も、娘たちのことを語りだし、

「……自分から国を出て御座ったが……やっぱり恋しゅうてのぅ……」

と、如何にも懐かしそうに語って御座った。

 されば、この行脚の僧も、その親仁がことを哀れに思った。

 かくして、この遍歴の僧、これより再び、九州へとほどなく立ち帰ったが、その折り、かの村を訪ね、その村長(むらおさ)などへ、水戸にてしかじかの老人に出逢った旨、語ったところが、それを姉妹の伝え聴いて、大いに歎き、二人して話し合った上、

「――行方の知れたる上は、これ、尋ねに参りましょう!」

と、水戸へ迎えに参る算段を始めんとしたところが、姉の夫は申す及ばず、村方の者どもも皆、これ、口を揃えて、

「……水戸と申すは、あんた、幾山海(さんかい)を隔てた遙かに遠き、遠き所じゃぞ!……」

「……そげなところへ、これ、女の身にて、どうして尋ね果(おお)せる、こと、出来ようか!」

「……以ての外! 慮外の極みじゃて!」

と、しきりに留(とど)めんしたが、これ一切、聴く耳を持たず、とうとう、ある日の朝まだき、両人ともに、

――ただただ一途に孝心のゆえに父を捜しに参りまする――

といった訳を認(したた)めた置き手紙を各家に残し、誰にも告げず、旅立ってしまった。

 明るくなった後、まず姉の夫が妻の置き手紙を見つけ、書き置きの内容に吃驚仰天、実家に走ってみれば、妹も同じき書き置きをして姿が見えぬ。されば、返す足で村長のところへ参って相談なした。

「……一銭の貯えものぅ……思い立って已むに已まれず出立致いたは、これ……まっこと、不憫なれば……」

と、村長と夫、これ、直ちに金子を少々集め、

「……女子(おなご)の二人連れ……いまだ、そう遠いところまでは参っておるまい。」

と、二人して姉妹の後を追いかけたところ、一里余りも行った街道脇の松並木の下(もと)に、姉妹して休んでおったのに追いつくことが出来た。

 さても、いつの間に姉妹して支度(したく)なしたものか、両人とも、笈(おい)のようなものにいささかの衣類・紙・手拭なんどを入れ、それを背負って、杖を突き、草鞋(わらじ)を履いて座って御座ったによって、夫も村長も、これ最早、制さんとするは諦め、夫は、

「……孝心の思い、これ感じ入ったれば……思うがままに、これ、参るがよい。――」

と暇ま乞いなして、かの用意した路銀を与えた。

 ところが、

「……どうか――この路銀だけは。お心遣い、痛み入りますれど。――平に。――」

と断って、受け取らずに返し、

「……我らは途中、袖乞いをなしつつ参らんという所存にて御座いますれば。……このような金子のあってはこれ、心の躓く災い――かえって心配の種とも、なりますればこそ。――」

と述べて、いっかな、受け取ろうとしない。

 しかれども、繰り返し、

「――万が一のための用心には、一銭も持たぬと申すは、矢張り、心懸かりじゃで!」

と説き伏せ、ようよう二百疋を受け取らせて、そこで見送ったと申す。

 さてもこの姉妹、何と、念願の天に届き、遠くかの水戸の寺院に辿りつくことが出来たのであるが……さてもまた、この旅の間にも、これ、凡そ偶然とは思えぬ、不思議の御座った。それは……

 かの姉妹が大坂まで辿りついた頃のことであった。

 杵築藩主松平備中守親明(ちかあきら)様の御家老が、これ、藩の御用向きのあって、在所杵築より大坂へと参っておられたのであったが、たまたま道端にて姉妹の休んでおったところに通りかかり、何気なく、その脇に並べた二つの笈の背を見てみたところ、そこにさても懐かしき杵筑領の、とある村名の墨書されて御座ったによって、この姉妹を旅宿へ呼び招き、

「……女子衆(おなごしゅう)二人(ににん)の巡礼姿、これ、何処へ何と致いて参るか?」

と、その訳を質したところ、しかじかのことと申し上げたところが、この家老、はなはだ感心致いて、

「――しからば、我らが供のうちに交って、これ、江戸まで参るがよいぞ。」

と、即決、しかもわざわざ分別ある年配の家来を選んで同道を命ぜられ、これ、道中、難なく、江戸まで参ることの出来たと申す。

 しかも、そこからも、かの御家老、水戸までの道中にも、人を雇って付け送って下された。

 かくして、姉妹、かの寺を尋ねたところ、かの父親も足は不自由ながらも生きながら御座ったによって――浮き木の亀のめぐり合い――とでも申そうか――滅多にない幸運に、これ、父も姉妹も住持らも、心から大いに悦び合い、かくなる顛末につき、所の寺社奉行に申し出たところ、そのまた奉行も、これ、この話にいたく感心致いて、

「……杵築藩の御家老の、かくなさられたとなれば……その足の不自由なる親仁と、その姉妹二人(ににん)、これ、人を附けて江戸表まで安んじて送り届けてやるがよい。」

と、かの寺の住持に命ぜられた。

 しかし、姉妹、このありがたいお達しを住持より聴くと、

「……まっこと、その御心遣い、御恩のありがたさ、痛み入りまするが……その儀は畏れ多く……どうか平に。……その代わり、と申しては何で御座いまするが……その……駕籠(かご)のようなる乗り物、といったような物――いえ、そう、人の曳く木車(きぐるま)を、これ、一つ拵えて、これを賜わること、出来ませぬでしょうか?……」

と望んだによって、その意に任せ、親仁の背丈に合わせて作り込んだ、小降りの大八車を作り、姉妹に与えた。

 さてもやおら、その大八車に蒲団を敷き、かの親仁を載せて、姉妹前後を曳き押しては出立致いた。

 水戸街道を南下するに、往来の者どもも、その姉妹の深き孝心に、誰(たれ)も彼も大いに感じ入り、これ、助力なさざる者とてもなく、姉妹二人(ににん)にて、とうとう江戸表まで足萎えの父親を連れ戻ることが出来た。

 かの杵築松平家の御家老も、礼に参った姉妹をいよいよ憐み、ちょうど江戸藩邸におられた主人松平親明(ちかあきら)様へもその希有(けう)の孝心につき、奏賞(さうしょう)し申し上げなさったとか申す。

 さて、その後、この父と姉妹、先(せん)と同じく御藩主か御家老の命にて、在所の九州は杵築へと送り出されたものか――以上は文化九年申年の三月、一連の事情をよく知れる者の語ったことではあったが――その後(あと)のことに就いては、これ、どうなったものやら、残念なことに、聴き洩してしまった。

菊池武夫先生悼

昨年の年末、この非力な僕を山に導いてくれた菊池武夫先生が亡くなられた。

……また、天界の雲上の峰々をガイドして下さい!

……その時は、あの先生から聴いた途轍もなく美味かったという、ライチョウの子、これ、焼き鳥にして食いましょう!

2015/03/13

吹野安先生 悼

吹野安先生が亡くなられたのだった……

最後の本物の「鬼」の教師が逝かれたという気が、私はしている……

……先生。あの世では「良」ではなく、今度こそ「優」を、これ、いただきますぞ!……

柳田國男 蝸牛考 初版(6) 二種の蝸牛の唄

   二種の蝸牛の唄

 

 京都のデデムシの人に知られて居たのは、延寶四年の序文ある日次記事よりは後で無かつた。同書四月の末の條に、

   自此月五月有霖雨則蝸牛多出、或登床又黏壁、…‥其在貝也則蝟縮、兒童相聚、出出蟲蟲、不出則打破釜-云爾。此蟲貝、俗稱釜。

とあるのは、デデムシの名のこの童詞から出たことを知つて居たのである。しかも夫木和歌抄には土御門天皇の御製として、

   家を出でぬ心は同じかたつぶりたち舞ふべくもあらぬ世なれど

という一首を載せて居るのを見ると、出よ出よという意味の童詞の方は前からあつて、その或時代の面白かつた詞の形が、後にデエデエムシという新名詞を、發生せしめたことを想像し得られるのである。

[やぶちゃん注:「京都のデデムシ」の「デデムシ」は底本では「ヂデムシ」であるが、改訂版と校合、単純な誤植と断じて訂した。

「延寶四年」西暦一六七六年。

「日次記事」「ひなみきじ」と読むが、正しくは「日次紀事」が正しい。医師で歴史家でもあった黒川道祐(どうゆう)の編になる江戸前期の京都を中心とする朝野公私の年中行事解説書。十二巻十二冊。柳田の言うように林鵞峰(はやしがほう)の序に延宝四年とある。中国明朝の「月令(がつりょう)広義」に倣って編集されているが、民間の習俗行事を積極的に採録した点に特徴がある。正月から各月ごとに毎月一日から月末まで日を追って節序(節気の記載。「節序」は季節の変わりゆく次第の意)・神事・公事・人事・忌日・法会・開帳の項を立てて、それぞれ行事の由来や現況を解説している。但し、神事や儀式には非公開を建前とするものもあり、出版後間もなく絶板処分を受けた。(以上は主に平凡社「世界大百科事典」に拠る)。愛媛大学図書館公式サイト内の「貴重書展示」の日次記事で閲覧出来、当該箇所はここである。それを見ると、「其在貝也則蝟縮」の箇所は脱字で「其在貝也見人則蝟縮」であり、それでこそ意味も通る。原本には送り仮名が振られているので、概ねそれに従って以下に脱字及び省略された部分も含めて書き下しておく(但し、省略部分の意味が私には判然としない)。読みの一部は私が独断で附したが「ででむし(原本は「デデムシ」と片仮名表記)。句読点は柳田には従わず、私が附した。

 

此の月より五月に至りて霖雨(りんう)有る時は、則ち、蝸牛(くわぎう)、多く出づ。或るは床(ゆか)に登り、又、壁に黏(ねば)りぬ。高く登る時は其の涎(よだれ)晝に隨ひて、隨ひて落つ。其の貝に在るや、則ち蝟縮(いしゆく)す。兒童、相ひ聚(あつ)まりて、出出蟲蟲(ででむし)、出でざる時は則ち釜を打ち破(わ)ろと爾(それ)に云ふ。此の蟲の貝を俗に釜と稱す。

 

老婆心乍ら、「霖雨」は、何日も降り続く長雨の意で、ここは梅雨時を指す。「蝟縮」の「蝟」は針鼠のことで、その針鼠が縮(ちぢ)こまるように、恐れ縮こまることを言う。因みに針鼠、ハリネズミとは、頭頂部と背に針状の棘を持ち、尾や足が短く、防禦行動では体を丸めて毬栗のようになって身を守る哺乳綱ハリネズミ目ハリネズミ科ハリネズミ亜科 Erinaceinae の動物のことである(因みに、あの棘は体毛が複数纏まって硬化して形成される)。蛇足ながら、ハリネズミは「ネズミ」とつくが、系統的には齧歯(ネズミ)目ネズミ亜目 Myomorpha の真正の「ネズミ」よりも、トガリネズミ目モグラ科 Talpidae の「モグラ」類の方に近い)

「家を出でぬ心は同じかたつぶりたち舞ふべくもあらぬ世なれど」私は「夫木和歌抄」(延慶三(一三一〇)年頃成立)を所持しないが、日文研の「和歌データベース」の「夫木抄(夫木和歌抄)」では、

 いへをすてぬこころはおなしかたつふりたちまふへくもあらぬよなれと

とあり、「家を出でぬ」ではなく「家を捨てぬ」となっている。

「デエデエムシ」改訂版では「デェデェムシ」と拗音化されている。以下同じ。]

 

 實際此童詞は土地によつて、今でもどしどしと其形を變へて行かうとして居る。各地幾つかの例を引き比べて見ても、もはや日次記事にある樣な「釜を割るぞ」という威迫は用ゐられて居ない。「出ろ」という趣意だけは一つであつても、文句は如何樣にも取替られるものであつた。しかも其文句が一般の人望を博すると、やがて蝸牛の又一つの方言が出來たことは、恐らくは亦黑川道祐時代の、デエデエムシムシをも説明するものであらう。近代は大體にデンデンムシといふ地方が多くなつて居るが、是はデデの命令形なることに心付かず、口拍子にデンデンと謂つた兒が多かつた結果かと思はれる。たとへば播州では印南郡などに、

   でんでん蟲出やれ、出な尻にやいとすよ

といふ歌があり、紀州では田邊附近に、

   でんでん蟲蟲、出にや尻つめろ

といふ歌があつて、乃ち此兩地の蝸牛はデンデンムシであつた。備前では邑久郡朝日村に、

   でんでんでんの蟲、出んと尻うつきるぞ

という童詞があつて、この邊では又デンノムシとも呼んで居るらしい。伊勢は南北ともに今でも、

   でんでこない出やつせ

   太鼓のぶちと替えてやろ

などゝいふ章句が行はれて、乃ち又デンデコナイ(三重郡)またはデコナ(一志郡雲出村)等の方言があつた。多分は或時代に「なぜ出て來ない」と唱へたこともあつた名殘であらう。其他大垣周圍のデンデラムシ、四國其他二三の地方のデノムシ或はデブシなども、ちやうど是に相應した歌の語が、やゝ久しく行はれて居た爲に、所謂誰言ふと無く其名になつたものと思ふ。

[やぶちゃん注:「黑川道祐」(元和九(一六二三)年~元禄四(一六九一)年)は、私が前に注した通り、「日次記事」の編著者。江戸初期の医者で歴史家。『道祐は字であり、名は玄逸、号に静庵、遠碧軒などがある。林羅山より儒学を学んだ。父と同じく安芸国の浅野家へ』家禄四百石で『儒医として仕えた。職を辞した後、洛中に住して、本草家の貝原益軒と交友した。主著として医学史書の『本朝医考』と、山城国の地誌である『雍州府志』などがある』(以上はウィキの「黒川道祐」に拠った)。

「兒」改訂版では「こ」とルビ。

「印南郡」「いんなみぐん」と読む。兵庫県の旧郡名。現在の加古川市の北部、高砂市の大部分、姫路市南東部の一部に相当する。因みに、「南(み)」は当て字で方角とは無関係。

「やいと」灸。

「紀州では田邊附近」この情報は高い確率で南方熊楠によるものと思われる。なお、熊楠と柳田の交友は明治四四(一九一一)年の文通に始まる。

「邑久郡朝日村」「おくぐん」と読む。現在の岡山県岡山市東区の内。

「出んと尻うつきるぞ」改訂版では「出んと尻うっきるぞ」と拗音化されている。「ぶっ切る」の意の「うち切る」(「うち」は整調の接頭語で、すっかりの意で採る)の訛語か。

「太鼓のぶち」太鼓の桴(ぶち)。「桴」は「枹」とも書き、「ばち」とも読む。所謂、和太鼓を演奏する際に用いる木製の二本の丸棒のこと。この童謡はカタツムリの二つの眼柄(童謡でいう槍・角)を太鼓の桴を振り回す姿に擬えたものであろう。

「三重郡」三重県の北部にある三重郡。

「一志郡雲出村」「いちしぐんくもでむら」と読む。現在の三重県中部にある津市内の雲出と頭に冠する各町に相当する。

「デンデラムシ」私は思わず、「遠野物語」の姨捨伝説で知られる「デンデラ野」を想起してしまい、死生観と蝸牛の連関が頭を過ぎったのだが、調べて見ると、あれは「蓮台野(れんだいの)」が訛ったものと推定されており、これは見るからに「出ぇ出ぇ虫」から生じた「出ん出ん虫」の変型で、ただの偶然の一致のようだ。]

 

 實際は歌詞の採用と、名稱の選定とは別々の行爲であつた。前者の變化の方が遙かに頻繁であつて、名詞は必ずしも毎囘これに追隨して居ない。あんまり小さい事で人は注意して居らぬかも知らぬが、童兒が蝸牛に向つていふ文句には、實は早くから二通りの別があつた。出るといふ一點は同じであつても、一つは其身を殼から出せといふもの、他の一つは即ち槍を出せ角を出せといふもので、あの珍らしい二つの棒を振りまわす點に興じたものであつた。子供としてはこの方が觀察が細かいのであつたが、どういふものか歌の數の多い割に、方言の上には影響が少ないのであつた。前に「尻つめろ」の例を擧げた紀州田邊でも、神子濱の方にはその「角出せ槍出せ」の歌があつて、名稱はやはりデンデン蟲蟲であり、備前でも兒島郡の方には、

   でんでんでんの蟲

   角出せはやせ

   早島の土手で

   蓑と笠と換えてやろ

という注意すべき文句があつて(郷土研究一卷十號)、しかも方言はなおデンノムシである。能登の鹿島郡には村によつて一樣ならず、

   でんでんがらぼ

   ちやつと出て見され

   わがうちや燒ける

と欺いて全身を出させようとするのと、

   つのらいもうらい

   角を出さねばかつつぶす

などと、單に角だけを要求するものとあつて(石川縣鹿島郡誌)、デンデンガラボもツノライモウライも、共にそれぞれの地の方言になつて居るらしいが、關東平野のマイマイツブロ領域などでは、殆ど一樣に蝸牛の名稱とは關係無しに、この「角出せ」の歌の方を唱へて居るのである。

[やぶちゃん注:「神子濱」「みこはま」と読む。現在の和歌山県田辺市神子浜。田辺市の海側の一画で、紀州田辺駅の南南東約一キロメートルに位置する町。これも恐らく南方熊楠からの情報であろう。

「兒島郡」現在の岡山県岡山市・倉敷市・玉野市に跨る児島半島を中心にした旧郡域。

「早島」現在の岡山県都窪郡早島町早島。児島半島の基部に当たる。

「能登の鹿島郡」石川県鹿島郡は現存するが、ここでの謂いは、現在の七尾市の大部分と羽咋市の一部を含む遙かに広域の旧郡名であるので注意が必要(地域についてはウィキの「鹿島郡に拠った)。

「ちやつと出て見され」改訂版では「ちゃっと」と拗音表記。

「角を出さねばかつつぶす」改訂版では「かっつぶす」と拗音表記。]

 

 是は或は詞章の有力なる外部感化以外に、別に方言發生の機會若くは必要ともいふべきものがあつたこと、又或は言語が固定して早晩符號化する傾向をもつことを語るものかも知れぬが、それはまだ自分には決し難いから、玆にはたゞ事實のみを擧げて置くのである。ダイロウまたはデエロの領域に於ても、やはり今行はるゝ童詞は、大抵は角を出せの方であつた。例へば信州では下水内郡に、

   だいろだいろ、角出せ、だいろだいろ

といふ童詞があり、同小縣郡などでは、

   だいろだいろつのう出せ

   角う出さなけりや

   向山へもつていつて

   首ちよんぎるちよんぎる

といふのがある。甲州では東山梨郡の一隅に、蝸牛をダイロといふ地域があつて、

   だいろだいろ角出せ

   角を出さぬと代官所に願ふぞ

といひ、越後でも中魚沼郡では、

   だいろうだいろう角を出せ

   にしが出せばおれも出す

などゝいつて居る。福島縣の磐瀨郡では何と唱へて居たか知らぬが、現在ダイロウといふ語を「拒絶する」という意味に使ふさうで、それは蝸牛の唄から出たと、郡誌にも解説して居るのである。「出る」といふ動詞の東國風の命令形が、後にダイロと化して元を忘れられるに至つたのも、一つの原因は是にあるのであらうが、歌に基づいて曾て出來た新語が、歌よりもおくれて後に殘る例は、固より是ばかりでは無かつたのである。

[やぶちゃん注:「下水内郡」「しもみのちぐん」と読む。長野県の北端に位置する。同郡は現存するが、ここでの謂いは、現在の中野市の一部(概ね千曲川以西)・飯山市の一部(同前)・栄村の一部(同前)を含む遙かに広域の旧郡名であるので注意が必要(地域についてはウィキの「下水内郡」に拠った)。

「小縣郡」「ちいさがたぐん」と読む。長野県中部の北西に位置する。同郡は現存するが、ここでの謂いは、上田市・東御市の一部(概ね千曲川以北)・小諸市の一部(滋野甲)を含む遙かに広域の旧郡名であるので注意が必要(地域についてはウィキの「小県郡」に拠った)。

「だいろだいろつのう出せ……」の唄は、改訂版では、

   角う出さなけりゃ

   向山へもっていって

   首ちょんぎるちょんぎる

と五箇所が拗音表記となっている。

「東山梨郡」旧広域郡名。現在の山梨市・甲州市の大部分(勝沼町上岩崎・勝沼町下岩崎・勝沼町藤井・大和町日影・大和町田野・大和町木賊を除く)・笛吹市の一部(春日居町小松・春日居町国府・春日居町鎮目・春日居町山崎・春日居町松本以北)に相当する。

「中魚沼郡」新潟県中部内陸の南西端に位置する。同郡は現存するが、ここでの謂いは、十日町市の一部(荒瀬、桐山、苧島、中子、滝沢、犬伏、海老、松代東山、松之山東山、松之山下鰕池、松之山上鰕池以西を除く)・小千谷市の一部(岩沢・真人町)・長岡市の一部(小国町大貝)を含む遙かに広域の旧郡名であるので注意が必要(地域についてはウィキの「中魚沼郡」に拠った)。

「磐瀨郡」「いはせぐん(いわせぐん)」と読む。福島県中部の南寄り(猪苗代湖よりも有意に県南境との中間)に位置する。同郡は現存するが、ここでの謂いは、白河市の一部(大信下小屋・大信隈戸)・西白河郡矢吹町の一部(境町・田内・馬場・本郷町・南町および子ハ清水(こはしみず)・東の内の各一部)を含む遙かに広域の旧郡名であるので注意が必要(地域についてはウィキの「岩瀬郡」に拠った)。]

 

 私の推定がもし誤つて居らぬならば、今日最も弘く行はるゝ「角出せ」の童詞は、假に他の條件さへ具備すれば、又此次の蝸牛の方言となるべきものであつた。さうして實際又其兆候は處々に見られるので、たゞ今日の標準語全盛の下に、遠く境外の地を征略し得られぬだけである。一例をいふと青森縣の三戸郡誌には、あの地方の蝸牛の歌が幾つか出て居る。八戸市及び斗川村では、

   つのだしつのだし

   角う出さながら

   んがいつこ(汝が家)ぶつこわすぶつこわす

といひ、或は又、

   つのだしつのだし

   角う出さながら

   大家どんさことわることわる

とも謂ひ、又は單に、

   角出し角出し

   つの出せ、やり出せ

といふのもあつて、この地方の蝸牛の方言は乃ちツノダシである。ツノダシは略此縣一圓に行はれ、五戸では又ツノダイシとも謂つて居る。津輕其他の土地には、別にツノベコといふ語も併存する。ツノベコは即ち角牛といふことで、これは飛び離れて福島縣東南の海岸から、茨城縣北境にかけて行はれて居る。玆では簡單にべコともいふのだが、それが若し「角出せ」の歌を唱ふれば、此語の成立つことも至つて容易であつたのである。

[やぶちゃん注:「三戸郡誌」明治十年代に編まれた三戸郡の地誌であるらしい。

「斗川村」「とがはむら」と読む。現在の青森県三戸(さんのへ)郡の南端、岩手県と秋田県の内陸の境に位置する三戸町の内。八戸市は北の五戸町と南の南部町とを挟んで、東の太平洋側に当たる。

「ぶつこわすぶつこわす」改訂版では「ぶっこわすぶっこわす」と拗音表記。

「五戸」「ごのへ」と読む。青森県三戸郡五戸町。八戸市の北東部で接する内陸地域。「斗川村」の注も参照のこと。

『玆では簡單にべコともいふのだが、それが若し「角出せ」の歌を唱ふれば、此語の成立つことも至つて容易であつたのである。』の箇所は、改訂版では『玆では簡單にべコともいふのだが、これに伴のうて若し「角出せ」の歌が行はれるならば、此の語の成り立つことも至つて容易であつたのである。』となっている。]

 

 それから今一箇處は石川縣の中央部、加賀の石川郡などにもツノダシの領分がある。越中に入るとそれが複合して、

   ツノダシミョミョ   東礪波郡野尻村

   ツノツノミョミョ    同郡井ノ口村

   ミョミョツノダセ    同郡出町附近

   カエカエツノダス    氷見郡宇波村

   ミョミョツノダシ    中新川郡上市町

などゝなつて居るが、何れも皆土地に行はれて居た童詞の第一句を、其のまゝ呼びかけられる相手の名と、心得てしまつた結果かと思ふ。千葉縣の東葛飾郡などは、マイマイ領域のまん中であるが、やはりボーダシといふ一語が併存して居る。ツノといふだけの語を添へた例ならば、他にもまだ方々にあるらしい。美濃の東部などは、後に言はんと欲するツブラ領の飛地であるが、そこにも山縣郡ではツンツンといふ一語がある。是も角角の歌がなかつたならば、單なるツブラだけからは此異稱は導かれなかつたらう。

[やぶちゃん注:「出町」「でまち」と読む。

「宇波」「うなみ」と読む。

「中新川郡上市町」「なかにいかは(かわ)ぐんかみいちまち」と読む。私は中学高校の六年間、富山に住んでいた関係上、これらの地名は極めて親しんでおり、位置情報その他を注する気になれない。悪しからず。私は私の分かるものについては、注を附さない。それは御承知置きを。でないと、注だらけになるからね。注とは――私は――基本、そう考える人間なんである。]

 

 最後に今一つ注意すべき例は、前にダイロ領域の一つの終端であらうと述べた上野と武藏北部との邊境現象である。

   ツンノデエロ        上野群馬郡

   ツンノンデエシヨ      同郡總社町

   ツノンダイロ        同國館林附近

   ツノンデエロ        武藏妻沼町

   ツノンデエロ        同 禮羽町

   ツノンダエシヨ       同 大里郡八基村

   ツノンダイシロ、メエメエズ 武藏入間郡

即ち此區域の北境はダイロ、南はマイマイの領地であつて、別にツノダシの語の行はれて居る地方では無いが、尚「角出せ」の童詞の影響を受けて、純然たるダイロに服從することが出來なかつたのである。それ故に私は、若し今日の如き意識的統一の風が起らなかつたら、デンデンムシに嗣いで覇を唱ふべき方言は、或はこのツノダシではなかつたらうかと思ふのである。

[やぶちゃん注:「上野群馬郡」「こうづけぐんまぐん」と読むか。現在の前橋市(利根川以西)・高崎市の一部・渋川市の一部・北群馬郡吉岡町・北群馬郡榛東(しんとう)村に相当する。

「ツンノンデエシヨ」は改訂版では「ツンノンデエショ」。

「總社町」「そうじやまち(そうじゃまち)」と読む。現在の前橋市総社地区に相当する。

「ツノンデエロ」二箇所あるが孰れも改訂版では「ツノンデェロ」。

「ツノンダエシヨ」は改訂版では「ツノンダェショ」。

「メエメエズ」改訂版では「メェメェズ」。

「武藏妻沼町」「妻沼町」は「めぬままち」と読む。旧埼玉県北部大里郡にあった町。現在は熊谷市及び大里郡大里町と合併し、新しい熊谷市の一部となった。町名は中世の女沼が近世になって目沼となり、さらに妻沼となったものである、とウィキ妻沼町にある。

「禮羽町」「禮羽」は「らいは」と読む。現在の埼玉県加須市礼羽。

「大里郡八基村」「おほ(おお)さとぐんやつもとむら」と読む。八基村は埼玉県の北西部、大里郡に属していた村で当初は手計村(てばかむら)と称し、榛沢(はんざわ)郡に属した(以上はウィキ榛沢郡に拠る。]

尾形龜之助 「晝」 心朽窩主人・矢口七十七中文訳

 

    晝

 

         尾形龜之助

 

晝の時計は明るい

 

 Hiru_tokei

 

 白天
         
作 尾形龟之助
         
译 心朽窝主人,矢口七十七

 

白天的钟……确实光亮——

 

         矢口七十七/

2015/03/12

では

人生の次に参ろうぞ――

耳嚢 巻之十 賤夫狂歌の事

 賤夫狂歌の事

 

 文化申の夏の事とや、江都(かうと)好事(かうず)の者集(あつま)り、淺草柳橋の邊(へん)料理茶屋にて、狂歌の會をなせしが、いかにも鄙(いやし)むべき田舍人、旅宿の者連立(つれだつ)て來りしが、何の會にやと尋(たづね)し故、狂歌の會也、御身も詠み出たまへといひしに、狂歌はいかやうによむものにやと申(まうす)故、心に思ふ事、何成(なんなり)ともよみたまへと、少しあざみて人々申(まうし)ければ、しばし考へて、

  五右衞門が公家のかたちをするときは

と申出(まうしいで)、かきてたまはるべしと云(いひ)し故、つどひし者もあざみ笑ひて、下の句は何とやよみたまふといゝしに、

  雲ゐにまがふおきつしら浪

と讀(よみ)し故、始(はじめ)に笑ひし者も大いに恥(はぢ)、おそれけるとなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:一つ前の「油煙齋狂歌の事」で狂歌シリーズ直連関。

・「文化申の夏」文化九年壬申(みずのえさる)。西暦一八一二年。「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月であるから丁度二年前の比較的ホットな話柄。

・「淺草柳橋」岩波の長谷川氏注に、『神田川が隅田川に入る川口辺にかかる橋。またその周辺地。代表的な花街の一。台東区柳橋。中央区東日本橋』とある。ウィキの「柳橋」によれば、現行の柳橋は台東区の南東部に位置し、中央区(東日本橋)・墨田区(横網・両国)との区境に当たる。『江戸時代には奥州街道の旅館街として神田川対岸の両国(現在の東日本橋周辺)と共に、江戸最大の繁華街として繁栄を築き上げてきた』。現行でも『旧浅草区に属していたことから「浅草柳橋」と呼ばれている』。『地名の由来は神田川と隅田川の合流点近くに「柳橋」と称する橋があったことに因んだもの』とある。またウィキの「東日本橋」には、『現在の東日本橋にあたる区域は、江戸開府以来交通の要所として栄え、歓楽街であった。歴史的名所も数多く残る。明治時代までは薬研堀があり、その大川口には元柳橋が架けられていた。古典落語などに度々登場する伝統的な区域である』とある。またウィキの「柳橋(花街)」を見ると、『かつて東京都台東区柳橋に存在した花街』で、現在の台東区柳橋一丁目付近で、『新橋の花街が明治にできたのに対し、柳橋は江戸中期からある古い花街であ』たとあり、『柳橋に芸妓が登場するのは』まさにこの話柄の文化年間(一八〇四年~一八一七年)で、上田南畝の記録によると十四名が居住していた。天保一三(一八四二)年に『水野忠邦による改革で深川などの岡場所(非公認の花街、遊廓)から逃れてきた芸妓が移住し、花街が形成される。やがて洗練され江戸市中の商人や文化人の奥座敷となった。幸いにも交通便にも恵まれ隅田川沿いに位置していたため風光明媚の街として栄えてくるようにな』り、安政六(一八五九)年には芸妓は百四十名から百五十名に増加している。『明治期には新興の新橋と共に「柳新二橋」(りゅうしんにきょう)と称されるようになる。大学生にも人気の盛り場として賑わ』うこととなる。明治時代には、『柳橋芸者のほうが新橋より格上で、合同した場合は、新橋の者は柳橋より三寸下がって座り、柳橋の者が三味線を弾き始めないと弾けなかった』と記すが、昭和三九(一九六四)年の『東京オリンピック以後、衰退していき、特に隅田川の護岸改修(カミソリ堤防)で景色が遮断され、花街にとって大きな致命傷となった。それでも、花街は世間に迎合せずその伝統を守り通し』、平成一一(一九九九)年一月、最後の料亭「いな垣」が廃業、二百年近くの歴史に終止符が打たれた。『現在はマンションやビルが立ち並び、一部の場所で花街の痕跡が残っている』とある。

・「あざみて」元は自動詞「浅(あさ)む」で、意外なことに出遇って驚きあきれる、の謂いであったが、近世以後、濁音化して「あざむ」となると、一部が他動詞化して、侮る・低く評価するの意を持つようになった。

・「五右衞門が公家のかたちをするときは」「五右衞門」は言わずと知れた石川五右衛門(? ~文禄三(一五九四)年)。ウィキの「石川五右衛門」をリンクさせておく。彼を公家の姿に見立てたら、これ、何と解く? といった下句を「その心は」という、ありがちな謎解き型の狂歌である。

・「雲ゐにまがふおきつしら浪」岩波の注で長谷川氏は、『沖の白波を雲と見まごうと盗賊(白浪)を』「雲ゐ」(雲井)、雲上人(殿上人)と『見まごう』と釈されておられる。「しら浪」は盗賊の意で、中国で黄巾(こうきん)の賊張角の残党が西河の白波谷に籠り、白波(はくは)賊と呼ばれたが、その訓読から盗賊のことを指す語となった(なお、歌舞伎に於ける盗賊を主人公とした一連の世話物の通称である「白浪物」というのは本話柄よりも後の二代目河竹新七作の「都鳥廓白浪(みやこどりながれのしらなみ)」(安政元(一八五四)年上演)以降の語である)。これは考えてみると、五右衛門が処刑される前に詠んだとされる「石川や濱の眞砂は盡くるとも世に盗人の種は盡くまじ」という辞世の一首をも射程に入れているように思われる。隠れた「濱」或いは「眞砂」(まさご)が「沖つ」「白波」と縁語となるように仕組まれていると私には思われるからである。そう考えると、この

  五右衞門が公家のかたちをするときは雲ゐにまがふおきつしら浪

の一首、「濱」「眞砂」「雲ゐ」「沖つ白波」と公家の白塗りの化粧を連想させる白の配色が徹底的に計算し尽くされていることも分かるように思うのである。さればこそ、諸人も舌を巻いたのではなかろうか? 和歌嫌いの私乍ら、蛇足として附記しおく。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 賤夫の狂歌の事

 

 文化申の年の夏のこととか申す。

 江戸の好事家(こうずか)の者が集まり、浅草柳橋の辺りの料理茶屋にて、狂歌の会を催した。

 その店に、これ、如何にも賤しい感じの田舎者が、旅宿の者を連れだって立ち寄って御座ったが、

「……これは何の会でごんす?……」

と訊ねたによって、

「これは狂歌の会にて御座る。よろしければ一つ、御身もお詠みなされよ。」

と酔狂に水を向けたところが、

「……狂歌ちゅうもんは……これ、どげな風に……詠むもんでごんすか?……」

と申したれば、

「……はぁ?」

「いやいや!……それはもう、心に思うこと、なんなりとも、これ、詠みなさればよろしいのじゃ。」

「おうさ! どうぞ! どうぞ! 遠慮なさらず、お詠みになられよ!」

と、座の者ども皆、内心、

『……狂歌も知らん田舎者じゃて。……』

と、これ、少し侮って慫慂致いた。

 するとその男、しばし考えて、

 

  五右衛門が公家のかたちをするときは

 

と、上の句を詠んだ上、

「……すまんけんど、そこんとこにある、短冊に、まんず、書いては下さらんかのぅ。……」

と乞うたによって、集うて御座った者ども、

「……とんだカモの舞い込んで参ったわ。……」

なんどと陰口を叩いては、嘲り笑いつつも、神妙な顔をして、水茎を執り、かの句を認(したた)めた上、

「――さても。その下の句は? これ、何とや、詠まるる?」

と、如何にも意地悪くにやついて問うたところが、かの男、

 

  雲ゐにまがふおきつしら浪

 

と続けて詠んだ。……

 ……されば、初めに笑(わろ)うておった者どももこれ、大いに恥じ入り、畏れ入って、思わず居住まいを正した――とのことで御座る。

耳嚢 巻之十 亡妻の遺念を怖し狂談の事

 亡妻の遺念を怖し狂談の事

 

 八町堀輕き町人、妻を失ひしが、未(いまだ)乳を不放(はなさざる)小兒もありけるが、其妻存生(ぞんしやう)の内(うち)夫に對し、我等死し候ともあの子を里にはやりたまふまじと、くれぐれ賴(たのみ)けるが、身まかりし後、男の手ひとつにて養ふ事もなりがたく、甚(はなはだ)難儀なしけるが、彼(かの)者の弟に、近所に隙(ひま)なる勤(つとめ)の男ありけるが、右弟幷(ならびに)家主(やぬし)相店(あひだな)の者など、里子にいだし候ても、むかふる人次第にてよく育(そだつ)るものもあれば、兎角里に遣し可然(しかるべし)と申(まうす)故、外へ遣しけるが、さるにても亡妻のくれぐれも契置(ちぎりおき)しを、もだせし事もびんなしと心に思ひけるが、日數(ひかず)たちて去るもの日々にうときたとへにて、いつしか其事も等閑(なほざり)に思ひ捨(すて)、稼(かせぎ)の間、與風(ふと)賣女屋(ばいたや)などへ遊びに出、夜泊(よどま)りになして、其節は彼(かの)弟ひまなる勤(つとめ)故いつも留守を賴(たのみ)しに、ある時其弟思ひけるは、かく度々留守をも賴、淋しく寢ふしなすに、兄は近頃遊び所などへ至る由も聞(きき)、我等淋しさしのかんやうもなしと、壹人(ひとり)の夜發(やほつ)を呼入(よびいれ)、暫くの心を養ひしに、夜五ツ頃にもなりしに其兄歸り來りて、表の戸をあけ候樣(やう)申(まうし)けるに驚きはゐもふして、夜發をば急に二階へあげ、さておもての戸をあけて、こよひは早く歸りたまひしと申ければ、兄は預(あづけ)し子の事も氣遣(きづかひ)故、立寄(たちより)早く歸りし、留守を賴み嘸々(さぞさぞ)退屈なるべし、少しも早く歸り候やう申ける故、右夜發を二階よりおろし迯(にが)し候事も難成(なりがたく)、いまだ夜發への勤(つとめ)も不拂(ふばらひ)のまゝ宿へ歸りしに、兄はさるにても亡妻の賴(たのみ)を不用(もちゐず)、里に子を預け候も本意(ほい)なし、無據(よんどころなき)事といへど亡妻の思(おもは)ん事も哀れ也(なり)と、佛壇へ燈明(たうみやう)などあげて念佛二三篇唱へけるに、二階にて物音いたしける故、なにならんと思へば、二階より怪敷(あやしき)女の聲を出せしに驚き、扨は亡妻の執心來りしかとかつと云(いひ)て逃出で、近所の者へ爲知(しらせ)ける故、打寄(うちより)相談なしけるが、家主申けるは、夫(それ)は何とも迷惑成(なる)儀、怪物(くわいぶつ)長屋など沙汰有之(これあり)候ては借り主も無之(これなく)、地主へ申開(まうしひらき)、取斗(とりはからひ)も可有之(これあるべき)旨申(まうし)、則(すなはち)地主へ爲知申(しらせまうし)候處、地主も家主同樣に申(まうし)候故、右の内了簡を附(つけ)候者有(あり)て、右妻の執心殘り候畢竟子供故の儀故、里より取戻(とりもどし)、乳持(ちちもち)を置(おき)候事も成間數(なるまじき)間、里に置(おき)候とも、增扶特(ましぶち)等、地主より月一歩(ぶ)づゝ差遣(さしつかは)し、丁寧に養育爲致(いたさせ)可然(しかるべき)旨申(まうす)故、地主其外とも承知の上、右の通り相談相決(あひけつし)、扨二階を打寄(うちより)改候處、何も不相見(あひみえず)候處能々(よくよく)搜し候得ば、片蔭(かたかげ)に色まつしろにおしろひをぬり候異體(いたい)の女、蹈反(ふんぞり)かへり臥し居(をり)し故、一同驚きけるに、彼(かの)弟もいかゞなりしやと立歸(たちかへ)り、大勢も居(をり)候處見候處、最初に呼入(よびいれ)し夜發故、心安きものへしかじかの由、最初の譯を咄しける故、一同安堵し大笑(おほわらひ)致しける。增扶持の沙汰も、止みけると也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。この話、如何にも落語であるが、オチがない。というか、結末が私はどうにも気に入らない。私は最後にこの男が子ども好きの女でも妻を迎え、里子に出した子をまた引き取って大団円にして欲しいのである。冒頭に頑是ない子どもを出しておきながら、それが結局、後の画面に出ず、最後には何一つ、事態は変わらない。いや何より、ぐじぐじ言うだけの骨無しの、後悔たらたらの強迫神経症の主人公というのが、どうにも好きになれないのである。せめて地主が増扶持していたら私の印象は全然違った。厭な印象を持つと私はなかなか気持ちを入れ替えられない程度に癇症なのである。だから訳も夜発に演技して貰って、別な笑い話を結末に持ってきて溜飲を下げた。翻案なれば、ご不満の向きもあろうが、悪しからず。

・「相店」相借家(あいじゃくや)。同じ棟の中にともに借家すること。また、その住人。いわゆる落語で同じ長屋を借りている熊さん・八さんの類いであるが、この「輕き町人」、「輕き」とある割には二階屋の家に住んでいるので、これは我々が時代劇で見る平屋の長屋ではなく、粗末ながら一戸建或いは二階を持った長屋形式の、ややグレードの高い長屋借家群のように思われる。そもそも粗末な平屋長屋の住まいなら弟に留守番を頼む必要はない。何か、商売をしていたものか。

・「もだせし事」「もだす」は「黙(もだ)す」で、口を噤(つぐ)む・黙る、黙って見過ごす・そのままにして捨て置くの意であるから、ここは(妻の里子には決してやらないでという末期の懇請を)聞き入れずに放っておくこと、の意である。

・「ふびん」不便・不憫・不愍(但し、「不憫」「不愍」は当て字)は、現行、「不憫」「不愍」と書いて、かわいそうなこと・憐れむべきこと・また、その様を指す意で用いられ、ここでも男は彼自身によって約束を破られた妻を「哀れで」「かわいそう」の意で用いているのだが、そうした捩じれで読むよりも、現行の「不便(ふべん)」に近い「不便(ふびん)」、自分にととって都合が悪いこと・または、その様の意でとった方が実は、この意志薄弱の無責任夫・無責任父の、厭らしさには、しっくり来るように思われる。

・「去るもの日々にうとき」故事成句「去る者は日々に疎し」は「文選」の以下の詩に基づき、卜部兼好も「徒然草」(第三十段「人の亡きあとばかり」)で、『年月經ても、つゆ忘るるにはあらねど、去る者は日々に疎しと言へることなれば、さはいへど、その際ばかりは覺えぬにや、よしなし事いひて、うちも笑ひぬ。骸(むくろ)は氣うとき山の中にをさめて、さるべき日ばかり詣でつつ見れば、ほどなく、卒都婆(そとば)も苔むし、木の葉降り埋みて、夕べの嵐、夜の月のみぞ、こととふよすがなりける』とする。

 

  去者日以疎

去者日以疎

來者日以親

出郭門直視

但見丘與墳

古墓犂爲田

松柏摧爲薪

白楊多悲風

蕭蕭愁殺人

思還故里閭

欲歸道無因

 

     去る者は日々に疎し

  去る者は日に以つて疎(うと)く

  來る者は日に以つて親(した)し

  郭門(くわくもん)を出でて直視すれば

  但だ丘(をか)と墳(つか)とを見るのみ

  古墓は犂(す)かれて田と爲(な)り

  松柏(しやうはく)は摧(くだ)かれて薪(たきぎ)と爲る

  白楊(はくやう)は悲風多く

  蕭蕭(しやうしやう)として人を愁殺(しうさつ)す

  故(もと)の里閭(りりよ)に還(かへ)らんことを思ひ

  歸らんと欲するも 道 因(よ)る無し

 

……もうじき私の母の……四年目の祥月命日である……

 

・「夜發」夜、辻で客を引いた最下級の私娼。辻君(つじぎみ)・総嫁(そうか)。

・「夜五ツ頃」冬至で午後八時過ぎ頃、夏至で午後九時、春分や秋分で午後八時半。五ツ半で午後九~十時(半時は一時間)、四ツで午後十~十時半となる。不定時法は「昼九ツ」(正午)から数字が順に下がって、午前零時で「暁九ツ」となり、そこからまた数字が減って行くので注意が必要。

・「はゐもふ」底本には右に『(廢忘)』と注する。「廃忘」(敗亡とも書く)は正しくは「はいまう(はいもう)で、狼狽(うろた)えること・驚き慌てること、また、忘れ去ること・忘却の意でここは前者(なお、「廃忘怪顛(はいもうけでん)」で、狼狽えること・狼狽(ろうばい)することの意がある。「顛」は動顛で「慌てる」の意)。

・「里に子を預け」底本では、ここに鈴木氏が里子についての注を以下のように附しておられる。『さととは、養育料を定めて、小児を預ける事、其養育料を里扶持といひ、其預り主を里親といひ、其預けられたる小児を里子といふ。(三村翁)』。

・「二三篇」底本には「篇」の右に『(遍)』と訂正注がある。

・「かつと云て」底本には「かつ」の「か」右に『(わカ)』と注がある。

・「地主」岩波の長谷川氏注に、『家主は借家の管理人で、地主が持主』とある。則ち、ここに出る「家主」というのは正確には、持主の代わりに貸家(かしや)や貸地(かしち)を管理する「差配」のこととなる。

・「增扶持」里親に払っている里扶持(養育料)の増額。

・「一歩」一分。一両の四分の一。本作が執筆時の文化年間とすれば、私の従来の換算では、現在の一万二千五百円ほどに相当する。出してやんなよ! 地主さん!

・「蹈反(ふんぞり)」は底本の編者によるルビ。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 亡妻の遺念を怖れた笑い話の事

 

 八町堀に身分の低い町人がいたが、これが妻を失った。いまだ、乳を放さぬ乳飲み子もあったが、かの妻、息のあるうち、この夫に対し、

「……妾(わらわ)、死のうとも、あの子を里子(さとご)にだけは――決して――お遣りなさいまするな。……よろしゅうございますな。きっとで御座います。……」

と、何度も頼んだという。

 しかし乍ら、妻の身罷った後(のち)、男手一つでは、これ、養うこともなし難く、はなはだ難儀していた。

 ところが、この男の弟で、近所にて如何にも暇(ひま)多き勤めを生業(なりわい)としていた男があったが、この弟并びに家主(やぬし)・相店(あいだな)の者などが口を揃えて、

「……里子に出して御座っても、の。……それを――迎える人――次第じゃ。……ちゃあーんと育つ者も、これ、あるぞ。……じゃけ。兎も角も里子に出すが、一番じゃて。……」

としきりに勧めた。

 されば結局、言われた通りに、子は里子へ出してしまった。

 それでも内心は、

『……それにしても……あいつには「くれぐれも」と言われもし……里子には出さんと約束もしたればのぅ……それを……聞き入れず……かくも破ってしもうたは……これ何とも、ちいと……悪ぅて……後ろめたい……』

と、暫くの間は、大いに気に病んでは、いた。

 しかし日数(ひかず)の経って――「去るもの日々に疎(うと)き」――の譬(たと)えの如く、いつしか、その呵責(かしゃく)もいい加減となり、日々にあっては忘れ去って、稼ぎの間(ま)には、ぷらりと女郎屋へ遊びに行き、夜泊(よどま)りなど、することも、これ、ちょくちょくあるようになった。

 その折りには、かの弟に――くどいが、暇(ひま)な勤めであった――いつも長屋の留守を頼んでおいた。

 そんな男の女郎買いの、ある夜のことである。

 いつもの通り留守番を頼まれた、かの弟、つくづく思うことに、

「……かくもたびたび、留守を頼まれ……おいらは、かくも淋しく独り、臥し寝しておるというに。……兄いは近頃、遊び所なんどへ、しばしば出入りしとるとか耳に挟んだに。……おいらが方のこの淋しさ……これ、凌(しの)ぎようもねえちゅうんは、ちょいと、おかしくはねえか?!……」

と、異様にむかついて参り、その勢いで、一人(ひとり)の夜発(やほつ)を呼び入れ、鬱憤を――まあ――そっちの方(ほう)で――一心地(ひとごこち)つけんとした。

 ところが、それから暫くして、夜(よる)五ツ頃にもなった頃か、かの兄、突然、帰って参り、表の戸をドンドンと叩くと、

「――戸を――開けてくんない!――」

と呼ばわった。

 されば弟、慌てふためき、夜発は急いで二階へ上げさせ、慌てて着物を引っ掛くると、寝惚けて今起きたような素振りをしつつ、徐ろに表の戸を開け、

「……兄い!?……今夜は早(はよ)うに、お帰りなされたのぅ……」

と応じた。すると兄は、

「……預けおいた子のことも気遣いじゃったけ。……ちいと、そっちが方(かた)へ立ち寄っての、今日は早(はよ)うに帰って来た。いっつもいっつも、留守を頼んで、悪かったのぅ。……さぞさぞ退屈しとろうと思うての。……悪(わり)いな、今日は少しでも早(はよ)ぅにお帰り。」

と言われたれば、かの夜発を二階より下ろして逃がすゆとりもなく、いまだに夜発への揚げ代も払わぬままであったが、仕方なく己れの長屋へと帰って行った。

 さて、兄は、これ、またぞろ、亡き妻のことをじくじくと思い出し始め、

「……さるにても……あいつの頼みを聴き届けず……里子として乳飲み子を預けてしもうたは……これ、ほんに儂(わし)の本意(ほい)では、ない。……よんどころなきことじゃった。……とは言え……あいつの切なる末期(まつご)の思い……これ……まっこと、哀れじゃった。……」

と、仏壇へ燈明(とうみょう)を上げ、

「……南無阿弥陀仏……南無阿弥陀仏……南無阿弥陀仏……」

と、念仏を二、三遍(べん)唱えた……と!

――ガタン! シュッ!

と、二階にて何やらん、物音の、した。

 されば、

『何じゃ?』

と思うた、その瞬間、

「……アふっ……はッ……ふぅ……はーっ……」

――と!

――二階より!

――怪しの女の声!

……その意味は分からねど……確かにこれ!

――女の声!――

 されば、吃驚仰天、

「……さ、さ、さてはッツ!……あ、あ、あいつの、し、し、執心の! 来(きた)ったかあッツ!――ワァァァッツ!!――」

と叫ぶや、脱兎の如く家を飛び出し、泡食って、近隣の者のところへと走り込み、その怪異を告げた。

 されば、その者の家より家主方へも即座に知らせたところ、家主、わざわざ出向いて参り、直ちにその近隣の家内(いえうち)にて、長屋の面々も集うて、相談なすことと相い成った。

 まず、家主の申すことには、

「……亡き連れあいの亡霊?!……いやぁ! こりゃあ、何とも、迷惑な話じゃのぅ!……これ――怪物長屋――なんどという風聞の広まったりしてごらんな、あんた!……そうなったらこれ、借り手も、全く、つかんように、なる!……いや! こりゃすぐ、地主さまへ正直に申し上ぐるがよかろう!……地主さまなれば、なんぞこうした折りの取り計らい方も、これ、あろうほどに!……」

と急(せ)いて申したによって、またまた、直ちに地主が方へと知らせを走らせたところ、幽霊の出たと聴いた地主は、これまた大慌てで、衆議の場へと出向いて参った。

 そうしてこの地主もまた、先の家主と同じき危惧(きぐ)を述べたによって、さればこそと、またまた皆して、雁首うち傾(かたぶ)け、どうしたらよいものかと思案を始めた。

 すると、中の一人が格好の策を語り出した。それは、

「……かの亡妻の執心が残っておると申すのも、これは畢竟(ひっきょう)、子供の処置に関わることなれば……最もよき策は、これ――里子方より子を取り戻し、乳母(うば)を雇って育てる――ことなれど……これはそうそう成るまじいことじゃろう。……そこでじゃ。ここは一つ、今まで通りに里子に出しおくことと致いて、しかし――里扶持(さとぶち)の増扶特(ましぶち)として――地主さまより月一分(ぶ)ずつを里方へとさし遣わし――さらにさらに、丁寧に優しゅう、かの子を養育致さする――と申すがこれ、しかるべき法にては、御座るまいか?……」

といったものであった。

 すると、幽霊怪物化物長屋の風評被害ばかりを恐懼しておった家主や地主は、その場に集った者どもその他と一緒に、これ、諸手を挙げて、

「そ、それじゃ! それがよい!!」

と、一同承知と相い成ったれば、その通り、衆議決した。

 ところが、かの兄なる男、かく決まっても、幽霊の出たればとて恐れ戦き、一向に動こうとせぬ。

 そこで、ともかくもその怪異をば確かめずんばなるまいとの声の上がったによって、これまた皆して、かの男の家へと向かうことと相い成った。

 さても、怪しき音と妖しき女の声のしたと申す二階へ、大勢してうち寄り、ぞろぞろと登っては、恐る恐るその部屋内(うち)を、おっかなびっくり少うしだけ、首を差し入れるようにちょっと改めてみた――ところが――これといっておかしなところ――妖しの影とても――これ、ない。

 よくよく検(けみ)せずんばあらずと、さても本格的に家探しをしてみた……ところ……入口からは、これ、暗くてよく見えなんだ部屋の隅の……少うし奥まって蔭になった暗がりの辺りに……

――色

――真っ白に

――白粉(おしろい)を塗ったる

――異形(いぎょう)の女!

……これ……ふんぞりかえって……大鼾(いびき)をかいて――寝て――おった。……

 これには一同、驚いた。

 ちょうどその時、かの弟、金を払っておらねばこそ夜発がどうなったものやら、気が気でなければ、再び兄の家へとたち帰って参ったところであった。

 見れば、夜の夜中に、大勢の者が兄の家の門口から中までぎっしりと立ち並んでおる。

 しかも、その人々の真ん中には、

「――金!――金くんなきゃ、あたいはこっから出ていかねえからなッツ!!」

と、女だてらに尻はしょりして、啖呵を切っている女が一人、どっかと座っておる。

 が、これ、よくよく見れば、彼が最初に呼び入れた、かの夜発であった。

 されば、たまたまその大勢が中(うち)に、彼の気の知れる者のあったを見つけたによって、

「……恥ずかしながら……これは……かくかく……しかじか……のことなれば……」

と、件(くだん)の出来事の訳を正直に話し、夜発の揚げ代も、この者の手に摑ませた

 さればその者、徐ろに夜発の前に進み出ると、黙って彼より託された金を渡した。

 すると、夜発は破顔一笑、

「――金さえ貰えば、用はないサ! 温けえところで一眠りさせて貰ったヨ!――じゃあネ! みなさ~ん! あちきんこと! どうぞ! ご・ひ・い・き・に! ♪ウッツフン♪ ♪フフフ♪」

と言い放つと、闇の中へと、ほの白き跡を残して、消えて行った。

 さてもそれより、この金を渡した者が、かの弟の話を、なるべく穏便に言い換え、その場の者どもに語って聴かせたれば、一同、これにて大安堵。

 夜の夜中の長屋中に、これ、皆の大きな笑い声が響いたのであった。……

 ……なに?……増扶持の件?……いや、それは……残念ながら……沙汰止みと相い成ったとのことじゃ……

耳嚢 巻之十 油煙齋狂歌の事

 油煙齋狂歌の事

 

 油煙齋(ゆえんさい)は京都筆屋なりしが、狂歌に妙あつて、右齋號も禁中より被下(くだされ)しといふ。〔虛實は知らず。〕或年の暮に、鼠のさわぎけるを聞き、

  我さへも一斗の餅はつかぬのにたなで鼠は五斗つきにけり

と咄しけるに、側に聞(きけ)る人、太閤秀吉公朝鮮征伐のおりから、けふは渡海ありあすは渡海と日々の取沙汰の節、曾路里が狂歌に、

  太閤が一石米をかひかねてけふも五斗かひあすもごとかひ

とある書にて見たり、同案といつて一笑なしぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。狂歌シリーズであるが、これは少し素直に狂歌に興じた今までのものとは変格である。何故なら、この評者、油煙齋の狂歌が実は曽呂利の二番煎じでしかないと、暗に、というかあからさまに皮肉っているようにしか私には読めないからである。

・「油煙齋」底本の鈴木氏注に、『三村翁曰く「貞柳は鯛屋山城掾とて菓子屋なり、一年南都を松井和泉といふ、油煙所より、墨を大内へ奉りし時、月ならで雲の上まですみのぼるこれはいかなるゆゑんなるらん、と詠みて、雲井より由縁斎と賜号ありしなり。」油煙斎貞柳は大坂の狂歌師。通称永田善八。信来、珍菓亭など別号多し。俳諧師貞因を父とし、狂歌は豊信坊信海に学んだ。享保十九年没、八十一。なお浄瑠璃作者として有名な紀海音は貞柳の弟。「月ならで」の狂歌のことは、松崎慊堂も文政八年七月朔日の日記に記している。当時評判が高かったことがわかる』とある。鯛屋貞柳(承応三(一六五四)年~享保一九(一七三四)年)は大坂は鯛屋という屋号の菓子商(「筆屋」は誤り。三村翁の引く斉号由縁の狂歌に引かれた誤りか。訳では事実に即して訂した)の出で、上方の狂歌壇の第一人者であった。個人サイト「摂津名所図会」の「油煙斎貞柳蹟」に詳しいので参照されたいが、本文に「右齋號も禁中より被下しといふ」もその「虛實は知らず」とあるものの、ここには『親友の奈良古梅園の主人松井氏の依頼で、古梅園の墨を霊元法皇に献上する際に付けた狂歌が褒められ、法皇に油煙斉の号を賜った』とあるので事実。霊元天皇(承応三(一六五四)年~享保十七年八月六日(グレゴリオ暦一七三二年九月二十四日)は第百十二代天皇(在位は寛文三(一六六三)年~貞享四年三月二十一日(一六八七年五月二日))。退位後の期間が長く、「仙洞様」と呼ばれることが多い。歌人で能書家でもあった。貞享四(一六八七)年に朝仁親王(東山天皇)への譲位に漕ぎつけた後、仙洞御所に入って院政を開始したと、ウィキの「霊元天皇」にあり、上記の引用から考えると、貞柳が齋号を賜わったのは貞享四(一六八七)年以降、享保一七(一七三二)年八月六日迄の四十五年に及ぶ院政期の折りということになる(貞柳と霊元天皇は同年齢である)。「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年であるから、没年から起算しても八十年、凡そ百年前のえらく古い話である。

・「我さへも一斗の餅はつかぬのにたなで鼠は五斗つきにけり」は、

 われさへも いつとのもちは つ(搗)かぬのに たな(棚)でねずみは ごとつきにけり

で、ねずみがごとごと音をさせるのを餅を「五斗搗く」に掛けたもの。

・「朝鮮征伐」文禄慶長の役(文禄元(一五九二)年から慶長三(一五九八)年にかけて行われた豊臣政権による朝鮮への侵略戦争。

・「曾路里」秀吉に御伽衆(おとぎしゅう:主君に側近として仕え、政治・軍事の相談役となった他、武辺話や諸国の動静を報告したり、世間話の相手をも務めた中世に生じた職掌。謂わば彼らこそがまさに都市伝説(アーバン・レジェンド)のルーツと言える存在である。)として仕えたとされる曽呂利新左衛門。ウィキの「曽呂利新左衛門」によれば、『落語家の始祖とも言われ、ユーモラスな頓知で人を笑わせる数々の逸話を残した。元々、堺で刀の鞘を作っていて、その鞘には刀がそろりと合うのでこの名がついたという(『堺鑑』)。架空の人物と言う説や、実在したが逸話は後世の創作という説がある。また、茶人で落語家の祖とされる安楽庵策伝と同一人物とも言われる』。茶道を堺の豪商で茶人として千利休の師とされる武野紹鷗(たけのじょうおう)に学び、『香道や和歌にも通じていたという(『茶人系全集』)。『時慶卿記』に曽呂利が豊臣秀次の茶会に出席した記述がみられるなど、『雨窓閑話』『半日閑話』ほか江戸時代の書物に記録がある。本名は杉森彦右衛門で、坂内宗拾と名乗ったともいう』。『大阪府堺市市之町東には新左衛門の屋敷跡の碑が建てられており、堺市内の長栄山妙法寺には墓がある』。没年は慶長二(一五九七)年・慶長八(一六〇三)年・寛永一九(一六四二)年など諸説ある、とある。

・「太閤が一石米をかひかねてけふも五斗かひあすもごとかひ」「一石」に「一国」を掛け、「五斗かひ(買ひ)」に「御渡海」を掛ける。なお、この狂歌を含む類話は「理斎随筆」(幕閣の儒者志賀忍理斎(宝暦一二(一七六二)年~天保一一(一八四〇)年)天保九(一八三八)年刊)に載る。訳の後にそれを附した。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 油煙齋(ゆえんさい)狂歌の事

 

 油煙齋は京都の菓子屋であったが、狂歌に妙なる業(わざ)のあって、かの齋号も狂歌の出来の宜しきにより、特に禁中より下されたとも申す(注―それが事実か否かは不分明。)。

 さても、とある年の暮れ、とある屋敷内(うち)にて油煙齋、歓談せる折りから、天井やら高き棚の辺りやらを、鼠の、これ、音をたてて頻りに騒ぎ走りおるを聴き、

 

  我さへも一斗の餅は搗かぬのに棚で鼠は五斗搗きにけり

 

と一首ものして御座った。

 すると、傍らにてこれを聴いたる、さる御仁、

「……ほほぅ……これはこれは。……さても、かの太閤秀吉公が朝鮮征伐の折りから、

『……今日は渡海あるか?……さもなくば、明日は渡海か?……』

と、これ、毎日のように五月蠅く取沙汰致いておられた折り、かの曽呂利新左衛門、狂歌をものし、

 

  太閤が一石米を買ひ兼ねて今日も五斗買ひ明日も五斗買ひ

 

と詠んだと、とある書にて我ら、見申したが。……いや、まあ、それと、これ、同案で御座る、の。……」

と言って一笑なした、とのこと。

 

■附記

[やぶちゃん注:志賀忍理斎「理斎随筆」巻之二の冒頭から二番目に載る曽呂利咄を示す。底本は昭和五一(一九七六)年吉川弘文館刊「日本随筆大成」(第三期第一巻)を用いたが、恣意的に正字化した。読みは底本の内、読みの振れると私が判断したもののみを附した(狂歌部分は本テクスト化に準じて総て外し、注で示した)。]

 

 秀吉朝鮮を征し給ふとき、今日御渡海(ごとかい)あるや、明日御渡海あるべしや、などと世上風説せしかば、堺の鞘師(さやし)曾呂利新左衞門(そろりしんざえもん)といへる滑稽者(こつけいしや)、鞘(さや)を製する事上手にて、いかなる鞘にてもそろりとあんばいよく刄(は)這入(はい)るとて、字(あざな)して曾呂利と呼ばれしものなり。されば其頃渠(かれ)が戲(たは)れ歌に、

  太閤が壹右米を買かねてけふもごとかいあすもごとかい

と申けるよし、秀吉傳へ聞かれ大(おほき)に憤りて、曾呂利を召されて糺し給ひけるは、落首抔はむかしよりある習(ならひ)なれば、上をはゞからざる處も是非なければ許すべし。我(われ)今(いま)一天(いつてん)の君(きみ)を補佐し奉る所の關白職たるを、太閤がとは過言(くわごん)はなはだし、責(せめ)ては太閤のなどならば、すこしは許す處もあるべきにと嚴しくいかり仰(おほせ)ければ、曾呂利少しもおそれずして、曰、君(きみ)と天子とはいづれが尊くおはしまし候哉(や)と申上けるに、それは知れたる事にて、我は臣下なり。いかで天子と比(ひ)する事の有べきやと。曾呂利曰、しからば左(さ)のみ怒り給ふことあるべき哉。すでに天子の御事(おんこと)をさして、君が代は、君がためなどともふすにては候はず哉と申上ける故、其秀才を深く愛し給ひて、此後(こののち)は太閤の傍(かたはら)に侍して御伽(おとぎ)をなし、色々おもしろき滑稽あり。よく人の知る處なり。曾呂利すでに病(やまひ)重り、今はに及びしとき、何なりとも望あらば申せ、かなへて遣さんとありしかば、

  御威勢で三千世界手に入らば極樂淨土われに給はれ

と御請(おんうけ)して、其後(そののち)程なく果(はて)たりとかや。

 

■やぶちゃん注

●「曾呂利新左衞門(そろりしんざえもん)」「え」はママ。

●「太閤が壹右米を買かねてけふもごとかいあすもごとかい」は、底本では、

 太閤(たいかふ)が壹右米(いちこくごめ)を買(かい)かねてけふもごとかいあすもごとかい

とルビが振られてある。「かい」のルビと下句末尾の「かい」は孰れもママである。

●「太閤がとは過言はなはだし、責ては太閤のなどならば、すこしは許す處もあるべきに」国語学上、格助詞「が」は同じ格助詞「の」と似ているが、「の」は中世以前は用言の連体形には接続せず、広く準体言に附いたが(この用法にあっては体言に準ずる意味を表わすことから準体助詞とも呼ばれる)、逆に「が」は中世以前は準体言には附かなかった。さて、この格助詞「が」の内、主格を示す「が」が人を表わす名詞に附いた場合は、元来はその人に対する親愛の情を示し、その親愛感情が親近から更に低位へと移行し、後には軽侮の気持ちを現わすようになってしまった。それに対して「の」の方は尊敬の念が一貫して保存され、この尊卑の表現差は室町末期頃まで認められる(以上は、私の大学時代から愛用の角川書店昭和五〇(一九七五)年刊久松・佐藤編「古語辞典」の格助詞「の」・「が」の項に拠る)。秀吉はこのことを問題としたわけで、安土桃山という、まさに「の」「が」の尊卑表現差の消失時期なればこその面白味とも言えよう。但し、曽呂利の「すでに天子の御事をさして、君が代は、君がためなどともふすにては候はず哉」は答えとして的を射ていない。「君が代」の「が」は同じ格助詞でも所有・所属を表わす連体修飾格の用法であって、格助詞ではないからである。秀吉公――私と同じで文法は、これ、苦手でご猿(ざる)か?――

●「重り」は「おもり」であろう。

●「御威勢で三千世界手に入らば極樂淨土われに給はれ」は、底本では、

 御威勢(ごゐせい)で三千世界(さんぜんせかい)手に入らば極樂淨土(ごくらくじやうど)われに給はれ

とルビが振られてある。

2015/03/11

耳嚢 巻之十 婚姻奇談の事

 婚姻奇談の事

 

 神田邊に□□といへる小料理茶屋ありしが、壹人の娘あり。容色も才力も相應にて、何ひとついかゞの事もなかりしに、不思議に、緣組をなして婚禮を四五度もなしけれども、不緣にて戻りけるに、近き比(ころ)、雛人形を拵(こしらへ)候事に妙を得し秋月(しうげつ)といへるも、女房を持(もち)て差戻(さしもど)しける事是も五六度なりしに、懇意なる者共(ども)、是はよき夫婦なるべしとて秋月に話しけるに、至極可宜(よろしかるべし)と承知しけれども、容儀も不見(みず)候てはいかゞの由、秋月好(このみ)に付(つき)、先方へも咄しけるに、これ又承知にて、日柄を極め明神の茶屋にて見合(みあひ)の積(つもり)、秋月も仲人せ話(わ)する者同座にて右茶屋へ罷越(まかりこし)、酒食等申付(まうしつけ)、仲人(なかうど)を振舞(ふるまひ)、料理茶屋の方にても親をつれ親幷(ならびに)仲人打交(うちまぢ)り、其際(そのさい)座敷に酒肴(しゆかう)取(とり)ちらし、醉(よひ)も半(なかば)に、彼(かの)秋月襖(ふすま)の透(すき)より彼(かの)娘を見しにことに氣に入(い)れば、可貰(もらふべき)由を申(まうす)。娘の方(かた)にても承知の由ゆゑ、双方の仲人手を打(うつ)て尚又酒を吞(のみ)けるが、酒も長し、氣に入候上は間の襖をはづし可然哉(しかるべきや)、當世風に可致(いたすべし)とて襖をはづし、互(たがひ)に盃を取かわし諷(うた)ひ睦(むつ)びし上(うへ)、かく相談も調ふ上は直(ぢき)に此處(ここ)を祝言の席となし、今晩婚禮可然(しかるべし)として、夫(それ)より秋月宅へともなひ終(つひ)に夫婦となしけるとかや。文化七年の十二月二十三四日の事にて、里びらきは年内済(すみ)しや春に成しや、これは未(いいまだ)不聞(きかざる)由。或人かたりける。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。旧来の保守的な見合いの形式がよく分かる。それにしても一体、この娘も秋月も、何がどうして何度も不縁であったものか? 正直、そっちの方が私は気になっている。最後の部分も、これ、それを暗に匂わせている、と私は思う。

・「秋月」底本の鈴木氏注に、『江戸買物独案内、万木彫細工、御雛師、本町二丁目木戸際、原舟月、とあり、此の人にや。(三村翁)』とある。これである(リンク先は「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」の「江戸買物独案内」の当該箇所画像)。「本町」は日本橋本町(にほんばしほんちょう)で現在の中央区日本橋本町。この頃は江戸本町或いは単に本町と呼称し、江戸を代表する町として名高かく、老舗の商店が数多く軒を連ねていた。

・「文化七年の十二月二十三四日」グレゴリオ暦では一八一一年一月十七、十八日に当たる。この十二月は大の月で、大晦日までは六、七日しかない。これが最後の「里びらき」云々の絡みとなるのである。因みに「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月である。

・「里びらき」里帰り。「ひらき」は「かえり」を忌んだもの。妻が結婚後に初めて実家に帰ること。一般的には結婚の後三日目或いは五日目に夫が妻を妻の実家まで送り、夫は婚家に帰って妻は自分の実家に宿泊し、翌日、妻の母が妻を夫のいる婚家に送り届けるという形式をとった(主にウィキの「里帰り」に拠る)。これはプラグマティクには、暗に肉体関係を終えた妻の様子を心配し、確認する意味合いが古くはあったものと考えられる。ここでは、そうした性的交渉が「さとびらき」という語音と密接に絡みついており、話者のエロティックな想像が伝わるように仕組まれている――と私は大真面目に思っている。それは私が猥褻だからだ! と指弾されるかも知れぬ。結構毛だらけ猫灰だらけ粋な姐ちゃん立小便っテぇんだ! おいらは確かに猥褻ってもんよ! 確信犯ってぇ奴さね! ♪ふふふ♪……

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 婚姻奇談の事

 

 神田邊に××と申す小料理茶屋があるが、ここに一人の娘が御座った。容色も才力も相応に御座って、見た目、これ、非の打ちどころない娘であったが、にも拘わらず、不思議に、縁組をなして、婚儀も四、五度も挙げたれども、悉くうまく行かず、出戻って御座った。

 一方、これ、本町(ほんちょう)辺りに、雛人形を拵える生業(なりわい)に妙を得て御座った「秋月(しゅうげつ)」と申す職人の御座ったが、これ、女房を持っては気に入らず実家へ差し戻すことの、これもた、五、六度に及ぶ男の御座った。

 さてもこの両家ともに懇意にしておる者どもが、これまた、たまたま何人か御座ったによって、

「――出戻り妻と――差し戻し夫(づま)――これは……きっと! よき夫婦(めおと)となろうぞ!」

とて、ある時、秋月に水を向けると、

「……いや……出戻りだろうが何だろうが、これ、よき女(じょ)なれば、至極、宜しゅう御座る。」

と承知致いた。が、

「……とは申せ、とりあえずは、これ、容姿を拝見致いてみてからでなくては、やはり、これ、如何(いか)なものにて、御座ろうかのぅ……」

と、秋月から希望の御座ったによって、先方へもこのことを話したところが、これまた、娘が方も承知して御座ったによって、よき日柄なんどを極め、神田明神の茶屋に於いて、型通りの見合いを、まずはとる、ということと相い成って御座った。

 秋月も、彼の側の仲人(なこうど)として世話致す者と同座にて、その茶屋へと罷り越し、酒食なんど申しつけ、仲人を饗応、一方、娘の料理茶屋が方にても、親を連れて同茶屋へと参り、親并びに娘方の仲人もうち交わって、秋月の部屋と襖(ふすま)一枚を隔てたる隣り座敷にて、饗応の宴げが行われて御座った。

 さてもその際、両宴げも酣(たけなわ)となって座敷内には酒肴(しゆかう)の、これ、結構に取り散らかされて、酒も相当に入って酔いもこれ、文字通り酣(たけなわ)となったによって、かの秋月、酔うた勢いに、堪らずなって、襖の透きより、隣室の、かの娘を覗き見たところが、これ、殊の外、気に入って御座ったによって、

「――これはもう! 二つ返事で――もらう!!」

と頻りに申した。

 裏より、この旨、隣り座敷へ伝えたところが、娘が方(かた)にても、これ、承知の由ゆえ、双方の仲人連(れん)、

「えー! そんでは! 三本締めにてェ! お手を拝借ゥ!」

と声合わせ、手拍子合わせて、

「いよーォ!」

――シャシャシャン! シャシャシャン! シャシャシャンシャン!

「いよー!」

――シャシャシャン! シャシャシャン! シャシャシャンシャン!

「もう一丁!」

――シャシャシャン! シャシャシャン! シャシャシャンシャン!

「……いやァ! めでてえなァア!」

とやらかし、なおもまた、引き続いて酒宴となったが、

「……おぅイ!……酒ももぅ吞みだして大分(だいぶ)経った。……さてもヨ! 秋月さんヨッ! 気にイッて御ザンすならばヨ! そん上は、これ、間(あいだ)の襖を外すに――これ、若(し)くはなかろう!……どうヨ! 当世風に参ろうゾゥ!!……デヘヘヘェ!……」

と、襖をおっ外し、互いに盃(さかずき)を汲みかわし、高歌放声、娘と秋月は勿論、親から爺婆(じじばば)に至るまで老若男女(ろうにゃくなんにょ)、これ、入り乱れて、睦(むつ)み合い、上へ下への、これ、大騒ぎ、とんだ無礼講となって御座った。

 そのうち、場の誰かが、酔うた勢いにて、

「……ヒック!……か、かくも婚礼の相談も調うて仕舞(しも)うたからには、じゃ!……この上は……ヒック!……直ちにィ!……ココを祝言(しゅうげん)の席と成してじゃ!――今晩この場を――これ――婚礼の夜宴(やえん)――と成すが、よろしかろうぞッツ!……」

とぶち上げたところ、

「それはエエ!」

「オオゥ! 祝言じゃ!」

「婚礼じゃア! 婚礼じゃア!」

「めでてぇ宴げじゃで! 初夜じゃっデェ!……初夜!……デヘヘェ!……」

と、遂にそこで祝言の儀、これ、全員、べろべろのまんまに執り行われ、それより夜(よ)も更けてより、千鳥足の差し戻しの秋月、よろよろになったる出戻り娘を伴い、自宅へと道行と相い成って、そのまんま遂に――夫婦(めおと)――となった、とか申す。……

 

「……これは文化七年の暮れも押し迫ったる、十二月二十三日か四日のことで御座ったによって、さても……娘の、かの――里開(さとびら)き――は……これ……年内に済んだるものか?……いや……大酒を喰らっての床入りなれば……それとも……明けて新春となってからのことにて御座ったものか?……いやいや……こればかりは……未だ聴き及んで御座らねば、の……♪ふふふ♪……」

とは、ある人の、にやついて語って御座った話である。

今日の「耳嚢 巻之十 兄の敵を討し者の事」について

「耳嚢 巻之十 兄の敵を討し者の事」は恐らく僕の最後の「耳嚢」での大仕事であったと言ってよい。相応の達成感のある訳注となった。

非常に迂遠な注を附したが、これもこれで僕にはとても楽しい推理であったし、史実として伝えられる実録についても、ある程度まで迫ることが出来たと思っている。お暇な折りに、御笑覧あれかし。

耳嚢 巻之十 兄の敵を討し者の事

 兄の敵を討し者の事

 

 朋友にて御徒頭(おかちがしら)勤(つとめ)し小笠原十左衞門は、劍術の師範をなしける者也。文化五六の年より、同人方に召仕(めしつかひ)儀中小性(ちうこしやう)、羽州者にて倉尾又藏と名乘(なのり)、三ケ年程も勤しに、隨分貞實ものにて、劍術傳法を願ったひし故、十左衞門も無他事(たじなく)傳授せしが、甚(はなはだ)執心にて晝夜共(とも)藝を勵(はげみ)ける間、拔群に上達なしける故、十左衞門より傳授の書物をも附屬せり。文化八未年、難去(さりがたき)心願有之(これある)由にて暇(いとま)を願(ねがひ)し故、任其意(そのいにまかせ)候處、尤(もつとも)十左衞門方に勤(つとめ)の内、聊(いささか)兄の敵(かたき)をねらひ候抔と申(まうす)事、主人は勿論傍輩へも不申(まうさず)候處、文化八未年九月廿二日、敵土屋丑藏(うしざう)を討(うち)候由の又藏書面、庄内鶴岡又藏隨身(ずいじん)の者より奧書をいたし、十左衞門家來宛の書面差越(さしこし)、且(かつ)山田周佐(すさ)と申(まうし)候もの方へ、十左衞門方へ差出(さしいだし)候樣(やう)書付到來、且(かつ)劍法傳授の書物も、十左衞門方へ、右敵討(かたきうち)の前日、返上の樣(やう)いたし度(たき)旨、人に預け候由にて是又到來の趣(おもむき)、十左衞門物語有之(これあり)。右敵討の元來の譯合(わけあひ)も、不相分(あひわからず)候得共、誠(まこと)事實無相違(さういなき)事故、十左衞門相(あひ)見せ候。書面爰に記し置(おく)。

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が最後まで二字下げ。二箇所の書状の表書は底本では書状封筒(以下の図像の通り、ただの四角い枠ではなく、リアリズムのあるものである)の図の中に入っているのでまずそれを画像で再現し、次にテクストに起こした(二つの封書表書画像は編集権侵害に当たらぬよう、底本の図像(封書の枠線)部分のみを拝借し、中の活字部分(底本フォントは明朝であるが、ここでは楷書太字を用いてみた)は総て私が新たに打ったものである)。以下の本文は、原文を存分に味わって戴くために、底本のままに読みを附さずに示した。読みを附したものは、後に掲げてある。底本は活字の大きさにも心配りがなされてあるが、ブログ公開版では操作が難しく、完全には底本に準じてはいない(図像中のそれは底本に準じて変えて示した)。]

Kataki1

 
 

  庄内鶴ヶ岡

 

小笠原十左衞門樣御内    倉 尾 又 藏

 

   岩 崎 正 兵 衞 樣

 

   渡  邊  源  藏  樣

 

 

 

 

尚々私心願御座候處十分に成就仕候。委細之儀は追而申上候。前日認に御座候間荒增宗四郎より可申上候。

一筆啓上仕候先以

上々樣益御機嫌克被遊御座恐悦の至に奉存候。各樣方御家内樣御壯健に被爲入珍重奉存候。私儀無異に道中仕、當月八日に着仕候。只今迄段々御高情に預り難有仕合に奉存候。右時候御尋申上度如此御座候。恐惶謹言

  九月二十二日          倉 尾 又 藏

   岩 崎 正 兵 衞 樣

   渡  邊  源  藏  樣 參人々御中

尚々九月二十二日朝五ツ半時敵土屋丑藏に出合、一時餘相戰候處、午角にて右前日遺言に依て相認奉貴覽入。

              羽陽庄内 宗 四 郎

Kataki2

 
 

 

 

 小笠原十左衞門樣へ差上度段申來候

 

 書付麁紙亂筆に御座候得共到來之儘

 

 奉差上候   山 田 周 佐

 

 

 

 

折付

 六番町

  小笠原十左衞門殿          羽州庄内敵討

當廿二日、土屋丑藏養租父久左衞門忌日に付、總穩寺へ佛參いたし候處、股引半天着用之壯士近寄、其元には土屋丑藏に候哉、某は土屋萬次郎弟虎松、當時倉尾又藏と申ものにて、先年兄萬次郎を手に被懸候鬱憤を散じ申度、年月心懸罷在候、今日出會大慶不過之、尋常に勝負も致候得と詰寄。時に丑藏挨拶には、兄の敵と被存候も、所謂有に似たれども、萬次郎儀はおりを破り出奔いたし、其後立歸り所々惡業の聞へ有り、依て指圖に召捕歸り候途中に而、腰刀に而手向致候に付、手取にとあしらひ候、後ロより、同姓三藏及殺害に候。乍去兄の敵を打度と數年心懸、遙々罷越候段神妙に候得ば、任其意に勝負を可決候。場所と云、且屆も無之に、不可然と云宥候得共、不聞入。此期に場所等可憚哉と、切てかゝり候間、拔合良暫くいどみ戰ひ候處、虎松聲を上げ、敵討おふせたるぞ、出あへと呼ばるに、丑藏相手に助太刀もやと、少し心配りしひるみか、右の腕に疵を得る。されどもさわがず、左の手にて眞甲を切込を、ひねりたるや、耳の上よりあごまで切下らる。續けて右の膝の上をしたゝかに切付る。丑藏も肩先疵付、双方數ケ所疵負といへども、少しもたゆまず彌戰の處、互に危急の手に至り、最早勝負是迄、此上據人を得候て、刺違可申と引分れたをれ候所へ、竹内修理參り懸り候而、丑藏に委細承り屆、刺違まで見屆遣し候由。修理存寄には、立歸りの牢人、討捨可然、丑藏には存命候樣にと申候得共、見候通双方重き手負、迚も奉公も不相成體に候得ば、不差留に見屆呉候樣に賴に付、末期の水を爲吞、爲差違候由。丑藏は言舌も不斷に不相替候へ共、又藏は最初よりあごの疵にて、物言分り兼候由。刺違も漸三寸計突立候由。丑藏は左の手に候得共、裏かき候由。疵は双方とも十ケ所餘り也。双方見事に刺違候。

 

■一部に読みを附した資料パート

[やぶちゃん注:字配を詰め、一部に私の附加補正した字を〔 〕で挿入した。]

 

 
 

            庄内鶴ヶ岡

 

小笠原十左衞門樣御内(みうち)  倉尾又藏

 

   岩崎正兵衞樣

 

   渡邊 源藏樣

 

 

尚々(なほなほ)私(わたくし)心願御座候處十分に成就仕(つかまつり)候。委細之儀は追而(おつて)申上(まうしあげ)候。前日認(したため)に御座候間荒增(あらまし)宗四郎(むねしらう)より可申上(まうしあぐべく)候。

一筆啓上仕候先以(まづもつて)

上々(うへうへ)樣益(ますます)御機嫌克被遊(よろしくあそばされ)御座〔候〕恐悦の至(いたり)に奉存(たてまつりぞんじ)候。各(おのおの)樣方御家内樣御壯健に被爲入(いらせられ)珍重奉存(たてまつりぞんじ)候。私儀無異に道中仕(つかまつり)、當月八日に着仕(ちやくつかまつり)候。只今迄段々御高情に預り難有(ありがたき)仕合(しあはせ)に奉存(たてまつりぞんじ)候。右時候御尋申上度(おたづねまうしあげたく)如此(かくのごとく)御座候。恐惶謹言

  九月二十二日          倉尾又藏

   岩崎正兵衞樣

   渡邊 源藏樣 參人々(まゐるひとびと)御中

尚々九月二十二日朝五ツ半時(どき)敵(かたき)土屋丑藏(うしざう)に出合(であひ)、一時餘(いつときあまり)相戰(あひたたかひ)候處、午角(ごかく)にて右前日遺言に依(よつ)て相認(あひしたため)奉貴覽入(きらんにたてまつりいれ)〔候〕。

              羽陽(うやう)庄内 宗四郎

 

 
 

 

 

 小笠原十左衞門樣へ差上度(さしあげたき)段申來(まうしきたり)候

 

 書付麁紙(そし)亂筆に御座候得共(さうらえども)到來之(の)儘(まま)

 

 奉差上(さしあげたてまつり)候         山田周佐

 

 

 

 

折付(をりつけ)

 六番町

  小笠原十左衞門殿          羽州庄内敵討(かたきうち)

當廿二日、土屋丑藏養租父久左衞門忌日に付、總穩寺(さうをんじ)へ佛參いたし候處、股引(ももひき)半天(はんてん)着用之壯士近寄(ちかより)、其元(そこもと)には土屋丑藏に候哉(や)、某(それがし)は土屋萬次郎弟虎松(とらまつ)、當時倉尾又藏と申(まうす)ものにて、先年兄萬次郎を手に被懸(かけられ)候鬱憤を散じ申度(まうしたく)、年月心懸(こころがけ)罷在(まかりあり)候、今日(こんにち)出會(であひ)大慶(たいけい)不過之(これにすぎず)、尋常に勝負も致(いたし)候得(さふらへ)と詰寄(つめよる)。時に丑藏挨拶には、兄の敵(かたき)と被存(ぞんぜられ)候も、所謂(いはれ)有(ある)に似たれども、萬次郎儀はおりを破り出奔いたし、其後立歸(たちかへ)り所々惡業の聞へ有り、依(よつ)て指圖(さしず)に召捕歸(めしとりかへり)り候途中に而(て)、腰刀(こしがたな)に而(て)手向(てむかひ)致(いたし)候に付、手取(てとり)にとあしらひ候、後(うし)ロより、同姓三藏及殺害(せつがいにおよび)に候。乍去(さりながら)兄の敵を打度(うちたき)と數年心懸(こころがけ)、遙々(はるばる)罷越(まかりこし)候段神妙に候得(さふらえ)ば、任其意に(そのいにまかせ)勝負を可決(けつすべし)候。場所と云(いひ)、且(かつ)屆(とどけ)も無之(これなき)に、不可然(しかるべからず)と云宥(いひなだめ)候得共(さふらえども)、不聞入(ききいれず)。此期(このご)に場所等(など)可憚(はばかるべき)哉(や)と、切(きり)てかゝり候間、拔合(ぬきあはせ)良(やや)暫くいどみ戰ひ候處、虎松聲を上げ、敵討(かたきうち)おふせたるぞ、出あへと呼ば〔は〕るに、丑藏相手に助太刀(すけだち)もやと、少し心配りしひるみか、右の腕に疵(きず)を得る。されどもさわがず、左の手にて眞甲(まつかう)を切込(きりこむ)を、ひねりたるや、耳の上よりあごまで切下(きりさげ)らる。續けて右の膝の上をしたゝかに切付(きりつけ)る。丑藏も肩先疵付(きずつき)、双方數ケ所疵負(おふ)といへども、少しもたゆまず彌(いよいよ)戰(たたかふ)の處、互(たがひ)に危急の手に至り、最早勝負是(これ)迄、此上(このうへ)據人(きよにん)を得候て、刺違(さしちがへ)可申(まうすべし)と引分(ひきわか)れたをれ候所へ、竹内修理(しゆり)參り懸り候而(て)、丑藏に委細承り屆(とどけ)、刺違まで見屆遣し候由。修理存寄(ぞんじより)には、立歸(たちかへ)りの牢人、討捨(うちすて)可然(しかるべし)、丑藏には存命候樣(やう)にと申候得共、見候通(とほり)双方重き手負(ておひ)、迚(とて)も奉公も不相成(あひならざる)體(てい)に候得ば、不差留(さしとめず)に見屆(みとどけ)呉(くれ)候樣に賴(たのむ)に付、末期(まつご)の水を爲吞(のませ)、爲差違(さしちがへさせ)候由。丑藏は言舌(げんぜつ)も不斷に不相替(あひかはらず)候へ共(ども)、又藏は最初よりあごの疵にて、物言(ものいひ)分り兼(かね)候由。刺違(さしちがひ)も漸(やうやう)三寸計(ばかり)突立(つきたて)候由。丑藏は左の手に候得共、裏(うら)かき候由。疵は双方とも十ケ所餘り也。双方見事に刺違(さしちがひ)候。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。敵討(かたきうち)実録物。以下の注で明らかにするように、これは実際にあった敵討事件である。兄の敵討を成し、相討ちとなった弟の自筆文書と、その互いに差し違えるまでの一部始終を実録した見届け人の自筆文書の写しである。私は読みながら、下手な時代劇なんぞより、遙かに心打たれたことをここに告白する。読み進むうちに我々は驚天動地の事実に気づくことになる。又蔵が兄萬次郎の敵きとする丑蔵自身が語る兄の最期のシーンである。「……腰刀にて手向ひ致し候に付き、手取(てとり)にとあしらひ候、後ろより、同姓三藏、殺害に及びに候……」――丑蔵は護送中に脱走を試み、腰刀を抜いてはむかってきたため、丑蔵は素手で制止させ、再捕縛しようとした――と丑蔵は言っているのである。そうして、萬次郎を背後から斬り殺したのは――丑藏と「同姓」の別人――土屋三蔵――であったと、述べているのである。則ち、この敵討ちの、その瞬間の時間内の人々には、これ実は、何処にも当然殺されねばならぬ/殺されても仕方がない/時代劇お得意の勧善懲悪の惡業三昧の者など、何処にもいない、のである(敢えて言うなら兄萬次郎こそが、死んでも仕方がない/どうしようもない不良武士であった可能性さえ、ここにあっては濃厚でさえある)。――或いはまた、こうした不条理な現実を冷たく嘲笑したりするニヒリストも、いないのである。封建社会に於ける敵討ちや上意討ちの余りにも哀しい真実の一つが、私はここに実に鮮やかに浮き彫りにされている気がする。――この二人は孰れも武芸に優れた好青年であった。――彼らは孰れも、死ぬべき謂われなどない、若者であった。何と、悲しいことであろうか?! 彼らは何故死なねばならなかったのか?――これについて、万人どころか、私一人をさえも論理的に納得させ得る答えは、決してない、と私は断言出来る。そして何より大事なことは、これが風聞や流言飛語の類いではなく、根岸の友人でしかも当事者である倉尾又蔵(実は実名は土屋虎松又蔵。後の「倉尾又藏」の注を参照)の剣術の師である小笠原十左衞門方に送られてきた一包二通の書状につき、直接十左衛門から見聴きして複写したもの――歴史学で言うところの確実な一次資料――であるという点である。なお、本実話は、長谷川伸が戯曲「総穏寺の仇撃」を書き、国劇として大当たりし、また近年では藤沢周平によって「又蔵の火」という短編時代小説ともなっており、こちらに梗概が載るが、私は孰れも未読である。これらを読めば、私のいろいろな疑問は、もしかすると氷解するのかも知れない。しかし、ここでは敢えて、まず本文から与えられた情報(くどいが一次資料であるからこの考証は正当である)に基づき、私がオリジナルに推理し、それに後付けで、ネット上の幾つかの史実記載(しかし実際には「又蔵の火」関連のレビュー系やモデル関連記載が殆んどである。最初に見つけたのも個人サイト「村から街から」の「庄内・鶴岡市に藤沢周平作品の場所を訪ねて」であったが、そこにはサイト主の「又蔵の火」についての率直な感想として、『心で何故か物語が落ち着きません。土屋丑蔵への仇討ちは極めて理不尽ではないかと言う思いが何時までも消えないのです。土屋の面汚しとして討たれた兄にかわって、一言いうべきことがある、火のように体を貫いた復讐心と書かれた又蔵の心象風景が実感として受け入れられないのです』とある。また、藤沢周平自身もこの話の中のある種の不条理性や苦さをその「あとがき」で『読む人に勇気や生きる知恵をあたえたり、快活で明るい世界を開いて見せる小説が正のロマンだとすれば、この小説は負のロマンというしかない』と述懐している。以上はグーグル・ブックスの松田静子・本間安子編集「海坂藩遙かなり 藤沢周平こころの故郷」の本事件の本間安子氏の記載からの孫引き)として残されているものを幾つか附す形で注を進めたい。これは、私の又蔵虎松と丑蔵という二人の若者の魂へのオマージュであるからである。なお、「総穏寺の仇撃」や「又蔵の火」を読んだら、また追記をしたいとは思っている(実は本話柄は前記本間安子氏の記載によれば、古く当時から、藩中の横死事件を記録した「秋官余言」「閑散文庫」や、実況的に描写されている「滝沢八郎兵衛日記」、作家池田玄斉作「故郷の紅葉」、惨劇のあった総穏寺の隣りにあった光学寺から覗いていた樋越松風斉の風刺的な「文化鍛治虎丑相討ちの巻」、庄内藩藩校致道館助教坂尾萬年が『虎松の悌心と丑蔵の義烈を後世に伝えんと』して記したとある「土屋虎松復讐記」などがあり、『現代になって第二次世界大戦の頃、この事件に関する記事や出版などが盛んであった』ともあり、近くは二〇〇七年中公新書刊の氏家幹人「かたき討ち 復讐の作法」にも出るらしく(以上総て私は未見)、これ捜せば、わんさと資料は出て来るらしいことも分かったこともここに附記しておく。

・「小笠原十左衞門」底本の鈴木氏注に、『六番町に住んでいたことが知られるが、安政五年再板の番町切絵図には表六番町、裏六番町、ともに小笠原家が見当らない。小笠原久左衛門ならば、三年坂の近くにある』とあるが、しかし根岸が嘘をつく必要は、私はないと考える。この剣術指南は確かにここにいた、のである。

・「御徒頭」既注であるが、再注しておくと、将軍外出の際に徒歩で先駆を務め、沿道警備などに当たった担当職の組頭。

・「文化五六の年」「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月であるから、五、六年前となる。後注するように又蔵の上府は文化元年(一八〇四)年で齟齬はない。

・「中小性」ここでの謂いは正規の職分(狭義の幕府軍制では徒歩で将軍に従う歩行(かち)小姓組の主だった者を称した)としての呼称ではなく、侍と足軽の中間に位置する下級武士について用いられた呼称で、身分的には侍の最下層に属した者ことを指す。

・「羽州」出羽国の異称。現在の山形県と秋田県。

・「倉尾又藏」本文では後から元庄内藩(鶴岡藩)の藩士であったが、脱藩(恐らく兄の敵討ちには武芸が未だ未熟であったことや敵討ち自体が公に認められなかった――兄の行跡からは当然である――ことによるものと推測される)した者であったことが分かる。講談社「日本人名大辞典」にちゃんと載っている。土屋虎松(天明八(一七八八)年~文化八(一八一一)年)は出羽鶴岡藩藩士土屋久右衛門の庶子。実兄万次郎が土屋家を継いだ養子の丑蔵に殺されたため、敵討を決意、文化八年九月二十二日に丑蔵と決闘、万次郎の墓前で刺し違えて死去した。享年二十四歳。『名は別に又蔵』という、驚くべき記載があるのである(下線やぶちゃん)。本文に述べられている通り、実は萬次郎も又蔵も仇も実際の萬次郎を斬り殺した者も総てが同じ「土屋」姓なのである。これは実は偶然ではない。調べて見ると、驚くべきことに実は、萬次郎・又蔵とその仇である丑蔵は同じ――土屋久右衛門の一族――なのであった(実際に萬次郎を斬り殺した者もやはり同族と考えてよい)。ここで問題なのは「庶子」という表現である。そこで更に検索を掛けて見たところ、グーグル・ブックスで松田静子・本間安子編集「海坂藩遙かなり 藤沢周平こころの故郷」の本事件の記載を辛うじて一部、読むことが出来た(但し、残念なことに萬次郎が殺害されるに至る箇所が読めない)。そこにある系図(この系図を小説のそれではなく事実の記載として採るとすると)を見ると、実は萬次郎と虎松(兄より四つ下とある)は土屋久右衛門久明の妾の子であったことが分かった。そうして土屋久右衛門の正妻美代野は嫡男八三郎を産んで死亡、その八三郎は二十二で病死とあり、久右衛門は掘彦大夫なる人物の三男である才蔵とその妻九十尾(藩医久米娘)を夫婦養子として迎え、実はその間に生まれた年衛なる娘の婿が丑蔵(黒谷四郎吉行の次男)であることが分かった。則ち、そこで土屋家を丑蔵が婿養子として土屋家を継いでいるのである。則ち、非常に複雑であるが、萬次郎や又蔵(又蔵)から見ると(義理の銘の婿であるから)義理の甥という関係になるのであった。更に「日本掃苔録」の「土屋虎松」の頁には、庄内藩士土屋久右衛門の三男『として鶴岡新屋敷に生れ』、文化元年(一八〇四)年十七歳の時、『放蕩で自宅座敷牢に拘禁中の兄万次郎を脱出させ、共に江戸に出奔したが、路銀尽きて困窮したため、万次郎は金策のためひそかに庄内に戻ったところを見付けられ、義兄の養子丑蔵の手により殺された。虎松はこれを遺恨として仇討ちを決意。丑蔵と決闘し、万次郎の墓前で刺しちがえて死去した』(下線やぶちゃん)とあるものの、「又蔵の火」に基づくならば、兄萬次郎が殺害されたのは文化三年(一八〇四)年中のことで、これと先の系図に示された没年などから逆算推定すると、

 萬次郎(天明三(一七八三)年~文化三年(一八〇四)年五月) 享年二十二歳

であり、敵討ちの虎松(又蔵)と丑蔵の二人は、

 又蔵 (天明八(一七八八)年~文化八(一八一一)年)    享年二十四歳

 丑蔵 (天明元・安永一〇(一七八一)年~文化八年)     享年三十一歳

であることが判明するのである。映像を皆さんの脳裏に再現して戴きたいのである。虎松は丑蔵より七つ年下であるが、まだ二人とも本当に確かに若いのである。

・「文化八未年九月廿二日」グレゴリオ暦一八一一年十一月七日。

・「土屋丑藏」庄内藩士。実際のモデルは土屋家を継いだ久右衛門の夫婦養子の娘の婿であるもと黒谷四郎吉行次男であった土屋丑蔵である。前の「倉尾又藏」の注を参照のこと。

・「庄内」山形県北西部の地域名。現在の酒田市・鶴岡市。

・「山田周佐」不詳。まずは倉尾又蔵が総ての遺書を頼む以上、縁者か或いは知り合いのように見え、庄内藩士である可能が頗る高いと考える。であれば一見、肩書をつけそうなものだが、藩主の許可を得ていない敵討であるから、庄内藩士ならばこそ、公的にはそれを名乗ることは憚られると考えてよかろう。縁者ではない庄内藩江戸屋敷勤めで、昔、倉尾又蔵或いは兄萬次郎と近かった旧友と考えるならば、よりしっくりくるように私は思う。何故に江戸詰めかというと、彼の添え状に「書付麁紙亂筆に御座候得共到來之儘奉差上候」とあるからである。即ち、これは庄内藩で起ったこの敵討に就き、この後に載る「羽州庄内敵討」とする実録文書が鶴岡から送られてきたので、それが送られてきた真意を深慮の上、直筆のやはり送付を頼まれていた末期の、宗四郎の添え書きの附された手紙とともに「羽州庄内敵討」を添えて小笠原十左衛門に送付した、ということを明らかに意味するからである。少なくとも、江戸で又蔵が親しくしていた人物という推定は揺るぎない。ところがそうなると、この最後の「羽州庄内敵討」という恐ろしいリアリズムと、二人を見つめる古武士のような遖(れあっぱ)れの魂を持った筆記者は山田周佐ではないことになる(くどいが、これは実見記である)。では、「羽州庄内敵討」は誰が書いたのか? 家来宗四郎ではあるまい。何故なら、倉尾又蔵・土屋丑蔵双方の叙述描写は頗る客観的で、概ね平等であるものの、細かく読み進めて行くと、丑蔵をより確信犯的に賛美しており、この「羽州庄内敵討」の筆録者は身分上は仇きである土屋丑蔵に近い同輩か、その上司ではなかったかと思われるからである。そうすると、この無署名の「羽州庄内敵討」を書き得る人物は誰か? それは実は決闘の最後に偶々通りかかったと本文にはある(但し、後の「竹内修理」の注に示すように現行の伝えられる事実としては修理が自身の菩提所である総穏寺に墓参(恐らくは自家の)の折りに、たまたま又蔵・丑蔵の敵討に遭遇したとはある。事実、現存する総穏寺に修理自身の墓もある。実録の別なデータを後に私は知ったが、ここ以降、ここの注での私の推理は、あくまで与えられたこの「耳嚢」本文のみからのそれをあえて残すこととする)、庄内藩士竹内修理その人ではなかったろうか? 何故なら、敵討から竹内修理の登場以降の末期のシーンの聴き取りなど、これは第三者がその細かい部分まで確認し、記載出来る内容とは思えないからである。謂わば、これは比喩的に申すなら「秘密の暴露」に当たるものであって、その場にあって、彼らの状態を間近に観察し、丑蔵と直接話をし、直接それを聴きとった竹内修理以外には、実はこれは記せない内容であると私は思うからである。とすれば、この竹内修理も、本話の主人公二人とともに、非常に優れた冷静な観察眼と人並み外れた驚くべき感性を持った、大切な登場人物であると言えるのである。しかし、そうなると竹内修理は何故、この敵討に最初からいたのであろう?(前半部を聞き書きしたものなどという仮説は凡そ成り立たない。修理登場の後半部の叙述や描写とこの前半部の間には一切の変化や乱れが見られず、これは一貫して同一人が観察した事柄をそのまま記したものである)一つのヒントは、冒頭の土屋丑蔵の「養祖父久右衞門忌日」にないだろうか? 彼は既に述べたように実は又蔵の実父である。修理は旧藩士で知己であった先輩、土屋又蔵の父であり、同時に丑蔵の養祖父でもあった久右衛門の忌日に初めから参列していたのではないか? と考えても何らおかしくないのである。いや、寧ろ、たまたま敵討の終り頃に、たまたまこの修理が自家の墓参に参り、たまたまよんどころなく敵討双方刺し違えの証人となった、なんどとするよりは、私は遙かに自然だと思うのである)。さて、そう設定するなら、もう一つの仮定が必要となる。それは、又蔵や丑蔵よりやや年嵩の竹内修理は、実は倉尾萬次郎事件の一部始終についても、実はよく知っていた人物だったのではないかということである(或いは丑蔵に萬次郎捕縛を命じた当時の上司こそがこの修理だったという仮定も時代劇なら面白かろうが、だったら何としても丑蔵を守ったはずであるから、残念ながらそれはあり得ない)。そうして、そこから次の仮定も引き出し得る。それは、その萬次郎処断(入牢と出奔その後の再捕縛と脱走、殺害に至る経緯)は萬次郎側に概ねの不行跡はあって致し方なき仕儀ではあったものの、そこにはそれなりに竹内修理にも心情的には納得出来る萬次郎側の理由や動機があったのではなかったかという仮説である。さらにもっと言えば、修理は部下の藩士として丑蔵と近しかったものの、一方では萬次郎や又蔵とも交情があったという設定を附加してもよい(これは不自然なこととは私には思われない)。ともかくも、この文書が竹内十左衛門方に纏まって届いたという揺るぎない事実は、事実上の立会い人が竹内修理であり、しかも修理が又蔵(或いは萬次郎)と丑蔵の二人、或いは二人の包含される土屋家と何らかの親しき因みのある人物であったという設定なしには、私自身が納得出来ないのである。話が仮定の堆積となって恐縮だが、序でに言わせてもらうならば、この敵討の直後に江戸詰藩士山田周佐のところには又蔵家来宗四郎から十左衛門宛(宗四郎添書)の手紙が届き、周佐はそのことを国元に急報して指示を仰いだ。藩の上位職の可能性が高い印象がするこの竹内修理(実際に当時、家禄千百石の上席番頭であった。後注参照)は、それを知ると(そこで周佐は彼が藩士時代に又蔵と旧知の間柄であったを告げたはずである)、自身が立会人となった何とも曰く言い難い青年武士二人の死に就き、この周佐や、又蔵の師である十左衛門、さらにはその門弟であった又蔵の朋輩らに、この兄弟孝心と義烈の物語をせめても語ることが、矛盾を孕んだ武士道を敢えて生きぬいた二人の武士(もののふ)への、せめてもの手向けともなると考え、急遽、無署名の「羽州庄内敵討」を認(したた)めた上、それも添えて十左衛門に送ることを命じたのではなかったろうか? いや、そう考えて初めて、私は、この話柄及び文書資料の全体を極めて自然なものとして読めると断言するのである。文書「羽州庄内敵討」は、丑蔵は正確には実は仇(かたき)ではなかったことを明かし、しかも終始丑蔵の古武士のような清貧さを称讃しはているが、しかし同時に、この筆者は又蔵の私怨刃傷(にっじょう)沙汰を標題で「敵討」と明確に認め、末尾にあっては二人に差をつけることなく「双方見事に刺違候」と結んで讃えている。この覆面ライターである修理のアンビバレントな、しかし頗る首肯出来る深いこの二人への感慨こそが読む者の心を激しく打つのだ、と私は信じて止まないのである。

・「劍法傳授の書物も、十左衞門方へ、右敵討の前日、返上の樣いたし度」又蔵は敵討のために剣法伝授を受けたことを一切黙っていたから、剣道の真髄から言えば、彼の受けた伝授は不純なものとも言える。されば、謹んで返納したとも言え、また敵討ちに失敗したり、相討ち(事実そうなった)となれば、相伝された伝授の秘法の書に対し、非礼となるからでもあろう。かつまた、この敵討が公的に許されたものでないことから、師である小笠原十左衛門へ累が及ぶことを避けるためでもあったものと思われる。

・「岩崎正兵衞」「渡邊源藏」小笠原十左衛門の筆頭の高弟二人と思われ、恐らくは又蔵の兄弟子に当たる者らであろう。前に述べた通り、又蔵は敵討のための剣法伝授という目的を隠していた以上、師十左衛門を欺いていたのであるから、師へ直接書簡を送ることは憚られたのである。

・「五ツ半時」午前九時頃。

・「一時」凡そ二時間の死闘であった。

・「宗四郎」前に「庄内鶴岡又藏隨身の者より奧書をいたし」とある倉尾又蔵の家来。短いながら、主人の最期をしっかりと見届けた内容を的確に記しているその筆致からも、相応の学問を積んだ青年であったことが窺われる。彼も言葉少な乍ら、この敵討を凝っと見つめ続けた本作の脇役として画面の中に確かに配さねばならぬ人物である。

・「羽陽」広域として現在の山形県を指す古称。一説に「羽」は海岸沿いの景観を、「陽」は内陸の景観を現わすとネットの記載にはあった。「陽」は一般に天子・君主を指し、洛陽・武陽(えど)・紀陽(紀州)など、国や地方の中心地という意で頻繁に用いはする。

・「麁紙」安物の粗末な紙。

・「折付」不詳。岩波の長谷川氏注は、山田周佐名義の『書付を添えた形状をいうか』とある。しかし、とすれば以下の「羽州庄内敵討」は周佐の叙述ということにもなるのであろうが、どうもそれには私は納得出来ないのである。

・「羽州庄内敵討」「山田周佐」の注で述べた通り、非常に重要なことは、この冒頭にこの標題を記した時から一貫して、この文書の筆者自身は、又蔵の行為を正当な「敵討」と終始認定していたという点である。

・「土屋丑藏養租父久左衞門」この名を見れば分かる通り、これ実は又蔵(虎松)自身の実の「父」なのである。さればこそ、確実にその忌日も、ここに来ることも、又蔵に確信があって当然なのである。

・「總穩寺」底本の鈴木氏注に、『鶴岡市鍛冶町。曹洞宗。領主酒井氏の鶴岡移封にともない信州松代から移転した名刹。土屋虎松・丑蔵の墓、刀剣がある』とある(下線やぶちゃん)。鶴岡市陽光町に現存し、今も又蔵虎松と丑蔵両〈義士〉の銅像が立つ(戦前のものは戦時供出されたが、戦後に新しいものが建立されたとある)。

・「おり」不詳。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『補理』で、長谷川氏は『しつらい、設備の意。ここは牢の意か』とされる。弟又蔵が脱出させたとするのなら、自宅に設えた座敷牢のようなものか。

・「腰刀」腰に挿す鐔のない短い刀。鞘巻(さやまき)など。腰差し。

・「同姓三蔵」不詳。「又蔵の火」には、やはり同族の土屋三蔵紀明とあるらしい。

・「場所と云、且屆も無之」岩波の長谷川氏注に、果し合いに『ふさわしくない寺であるし、役所に届けることも必要』と、丑蔵が静かに宥めたのである、とある。丑蔵は逃げるためではなく、敵討はよし、しかれども頗る冷静な仕儀と態度を、と求めたのであって、又蔵に敵討を留めさせようとしたのでは決してないという点に着目しなくてはならない。

・「最早勝負是迄、此上據人を得候て、刺違可申」仇の丑蔵が又蔵に述べた台詞である点に注意。「據人」は岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『証人』(原典は「證人」か)である。但し、「據」は拠るところ、信頼出来るという意があるから、誤字とは言えないように思う。

・「竹内修理」個人サイト「日本掃苔録」のこちらに、庄内藩家老竹内八郎右衛門(安永二(一七七三)年~文政十三(一八三〇)年)とある。『五兵衛・主馬・修理・茂林・文卿・北窓。庄内藩で放逸派の頭領といわれた竹内八郎右衛門(茂樹)の子で』、文化三(一八〇六)年七月に召し出されて用人となり、三十人扶持を給され、同七(一八一〇)年には小姓頭に任ぜられて新知三百石を与えられた。翌八(一八一一)年七月に『父茂樹が家老水野重栄らの恭敬派によって退けられたため家督を継いで』家禄千百石の上席番頭となったとある。そして、この文化八年九月、菩提所総穏寺に墓参の折り、同所で土屋両義士(丑蔵・虎松)の敵討に出合い、頼まれて刺違えの場に立ち会った。同一〇(一八一三)年組頭、文政元(一八一八)年中老と歴任、同一〇(一八二七)年十二月、家老に任ぜられて在職中病没した。享年五十八(引用元に「庄内人名事典」からの引用とある。下線やぶちゃん)。の叙述は微妙で、『仇討に出合い、頼まれて刺違えの場に立ち会った』というのは、最初からはいなかったといったニュアンスが感じられる。しかし私はやはり最初からいたのだと思う。前にも述べた通り、でなくては、ああは書けないと思うからである。因みに、文化八(一八一一)年十一月七日当時は、

 竹内修理八郎右衛門 数え三十九(満三十八)歳

であった。映像に定着、よろしく。なお序でにまた妄想を述べるなら、実は私は、かの不詳の人物――山田周佐というは実は竹内修理だったのではなかろうか?――というトンデモ仮説も腹に潜めているのである。

・「立歸りの牢人」岩波の長谷川氏注に、『藩を出奔し許可なく帰郷の浪人虎松』とある。少なくとも竹内は表面上、「討捨可然」で、返り討ちにして何ら問題はない、と述べているのだが、これはでは、止めを刺して、という謂いが感じられるかというと、私には感じられない。寧ろ――もうあれだけの深手を負っている(事実ではある)のだから、直き、息絶えるから、これでもう充分だというニュアンスと私には読める。悪いが、私は竹内の気持ちが分かる、というより、そうあって欲しい、のである。彼は正直、二人ともに死なせたくはなかったのだ、と思っていたに違いないと感ずるからなのである。

・「三寸」九・〇九センチメートル。

・「裏かき」ここは咽喉から頸部背側までざっくりと太刀を貫き通すことであろう。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 兄の敵(かたき)を討った者の事

 

 朋友にして御徒頭(おかちがしら)を勤めている小笠原十左衞門は、剣術の師範をしている者でもある。

 その十左衛門の所で、文化五、六の年より召し使っていたところの中小姓(ちゅうごしょう)に、出羽国の者で、倉尾又蔵と名乗り、三年ばかり勤めている男がいた。

 この男、まことに貞実な人物にして、是非、剣術の伝授をと頻りに乞い願ったので、十左衛門も、この又蔵の実直さに感じ、余念なく稽古をつけ、さまざまな型の伝法を授けた。

 又蔵の精進への執着は、これ、すこぶる強いもので、昼夜を問わず、憑りつかれたように稽古に励んだ。

 されば短いうちに、十左衛門の門弟の中でも抜群に上達したため、十左衛門も、その技(わざ)の確かなことを認め、師より伝授奥義の書物をも添え与えた。

 ところが文化八年未(ひつじ)の年のこと、又蔵は突然、

「……我ら、如何にしても忘れ難き心願の、これ、御座いますれば……どうか! 何卒!御暇(おんいと)まを頂戴致したく存じまする。――」

と願い出て参った。

 十左衛門は驚きながらも、日頃の篤実な勤め振りや、その願い出の「心願」と申す語の強き響きを感じとり、その意に任せて送り出してやった。

   *

 これより、その――「心願」――敵討(かたきうち)の顛末――に就いて記すこととするが――又蔵は十左衛門が方に勤めていた間、これ、いささかも、そうした――兄の敵(かたき)を狙っているなどという――ことは、主人十左衛門は勿論のこと、門弟朋輩へも一切、洩らすことはなかったと申す。

   *

 九月も末のことであった。

 十左衛門の元に、書状が来たった。

 複数の消息を一つにしたもので、相応に持ち重りのする書簡であったが、まず、その一通は、

――文化八年未の年、九月二十二日、敵(かたき)土屋丑蔵を討ったという主旨の、又蔵直筆の書面にして、それに庄内鶴岡にてとある、又蔵に随身(ずいじん)せる家来の者の奧書をなした、表書き十左衛門家来宛の書面――

 今一通は、

――山田周佐(すさ)と申さるる御方の許へ、十左衛門方へ差し出だし下さるように、と送られて参った、敵討の一部始終を記した書付――

であった。

 なおかつ、かの又蔵に贈った剣法伝授の書物も、十左衛門方へ――この敵討の前日に返上致すように手配された、という言伝(ことづて)を以って、人に預けられてあった由のもの――これまた、別に送り届けられ参った。

 かくなり一連の事実について、まず、小笠原十左衛門の物語りが、これ、私になされた。

「……この敵討の元来の由縁(いわれ)も、この書状を読んでみても、正直、よく分からぬのだが。……されど、これらは、まっこと、事実に相違ないことであることは、拙者が請け合おう。――」

と、十左衞門は私にそれらの書状をも見せてくれた。

 その書面を、ここに総て記しおく。

 

   *   *   *

 

 
 

 庄内鶴ヶ岡にて

 

小笠原十左衛門様御内  倉尾又蔵

 

   岩崎正兵衛様

 

   渡邊 源蔵様

 

 

 なお一層、私(わたくし)儀、心願御座いましたるところ、遂にこれ、十分に成就(じょうじゅ)仕りまして御座いまする。委細の儀はこれ、追って申し上げまする。この書状は、その心願成就の前日、認(したた)めておきましたるものにて御座いますれば、成就の概略に就きましては、これ、家来宗四郎(むねしろう)より申し上ぐることとなろうと存じまする。

 

一筆啓上仕り候 先ず以て

皆々様に於かせられましては、益々御機嫌うるわしく遊ばされあらるることと、恐悦至極に存じ奉りまする。

各々様方及び小笠原様御家内様、御壮健にてあらるることと、お悦び申し上げ奉りまする。私(わたくし)儀、無事に心願の地への道中を終えまして、当月八日に到着致しまして御座いまする。只今まで幾重にも御高情に預り、有り難き幸せと存じ奉りまして御座いまする。まずは時候の御挨拶の程、申し上げたく、斯くの如く、認めまして御座いまする。恐惶謹言(きょうこうきんげん)

  九月二十二日          倉尾又蔵

   岩崎正兵衛様

   渡邊 源蔵様 他皆々様御中

 

附記

 九月二十二日朝五ツ半時(どき)、主(あるじ)又蔵儀、敵(かたき)土屋丑蔵(うしぞう)に出遇い、一時(いっとき)余り相い戦いまして御座いましたるところ、互角にて。

 以上、前日の遺言に依って、かく認(したた)めまして御座いますれば、貴覧(きらん)に奉り入られんことを。

              羽陽庄内(うようしょうない) 宗四郎

 

   *   *

 

 
 

 

 

 小笠原十左衛門様へ差し上げたき段、申し来たって参りましたに依って

 

 添えたる書付、これ粗末なる紙に乱筆にて失礼致しまするが、到来のまま

 

 差し上げ奉りまする。            山田周佐

 

 

 

 

折付(おりつけ)

 

 六番町

  小笠原十左衛門殿          羽州庄内敵討(かたきうち)

 

 当二十二日、土屋丑蔵、養租父久左衛門(きゅうさえもん)の忌日に付き、総穏寺(そうおんじ)へ仏参致いたところ、股引(ももひき)・半纏(はんてん)を着用の壮士一人、近寄って、

「――そこもとは――土屋丑蔵――にてはあられんか?!――某(それがし)は――土屋萬次郎弟虎松――只今は倉尾又蔵と申しおる者にて――先年、兄萬次郎、そなたが手にかけられて相い果てたれば、その鬱憤をこれ、散じ申したく、この五年の年月、兄が仇(あだ)のみ心懸けて参ったによって――今日(こんにち)かくも出合うたること、大慶、これに過ぐるはない! 尋常に勝負、致されいッ!――」

と、詰め寄った。

 時に、それに応えた丑蔵が挨拶には、

「――兄の敵(かた)きとお思いになられて御座ったとのことも、これ、その謂わるる所、尤もなるには似たれども――かの萬次郎儀は、これ、藩より差し置かれたる土屋家座敷牢を破って出奔致し、その後(のち)、秘かに立ち帰っては、これ、所々にて悪業の聞えあり。――さればこそ、その咎に依って御城主より指図のあり、召し捕って帰る、その途次、腰刀(こしがたな)にて手向い致いたにつき、拙者、まずは素手にて取り押えんとせしところが、後ろより――同姓土屋三蔵――これ、殺害(せつがい)に及んで御座ったもの。……さり乍ら……兄の敵きを討ちたしと数年も心懸け、はるばるこの地へと罷り越して御座ったと申す儀、これ、まっこと、神妙にて御座れば、その意に任せ、勝負を決し申そうぞ。……なれど――殺生禁断の寺という場所といい――且つは、そなたが旧藩主への届け出もこれなければ――そなたの敵討はこれ――私怨の刃傷(にんじょう)――となり下がるばかり。――これは、ようない――」

と、まずは虎松を静かに諭し、宥(なだ)めて御座ったものの、虎松、いっかな、聞き入るる気配なく、

「――この期(ご)に至って場所など! 憚るべき必要など! ないッ!!」

と、矢庭に斬りかかる。

 されば丑蔵も太刀を抜いて合わせる。

 それよりややしばらくの間、互いに間合いを測っては、挑み戦って御座ったところ、突如、虎松、声を挙げ、

「――敵討を成し遂げたるぞぅッツ! 出会え! 出会えッツ!!――」

と甲高く呼ばわったによって、丑藏、相手に助太刀の者のあらんかと、少し気の散ったものか、幽かにその謂いによって怯(ひる)みの生じたものか、

――ザッ!――

と、右の腕に深く傷を受けた。

 されども騒がず、左の手に、太刀の柄をこれ、鍔深く握ると、虎松の真甲(まっこう)へ斬り込んだ。

 虎松はこの正面からの太刀筋を避けんとして、咄嗟に体を捻ったものか、右の耳の上より頤(あご)に至るまで、これまた、ざっくりと斬り下げられてしまった。

 丑蔵はすかさず、続けて虎松の右膝の上をしたたかに斬りつける。

 しかしこの時、丑蔵もまた、再び右肩先を虎松の一振りによって傷つけられていた。

 かくして双方ともに数ヶ所及ぶ傷を負うて御座った。

 されども、互いに少しも弛(たゆ)まず、これ、いよいよ烈しく戦(たたこ)うたところ、遂には互いに危急存亡の様態へ陥ったによって、丑蔵、

「――最早――勝負、これまで!……この上は……誰(たれ)れか、しかるべき証人を捜し得て立て申し……互いに刺し違えを……これ……申そうぞ!……」

と、虎松に呼びかけた。

 そうして、互いに引き分かれ、ともにどぅと、地に斃(たお)れ臥した。

 そこへ、これ、たまたま、上席番頭(ばんがしら)の竹内修理(しゅり)が菩提寺たる当寺へ墓参がために、通りかかって御座った。

 倒れ伏しておる一人が馴染みの藩士の丑蔵であったによって、駆けよれば、丑蔵より件(くだん)の仕儀につき、委細を承り、以上、納得の上、互いに刺し違えるまで、これ、見届け役を務めた、との由。

 ただ修理、これ、案じて、

「……この狼藉者虎松とやら……脱藩の上に許可なく立ち帰ったる浪人者なれば、これ、うち捨て――あの深手なれば放っておかば、ほどなく相い果てんと存ずれば――ここで総て仕舞いとなさるるが、よかろうと存ずる。丑蔵殿にては、これ、藩がため、まだまだ存命の上、一層の御奉公なさるるように。……」

と申し諭して御座ったが、丑蔵は、

「……ご覧の通り、かの者も拙者も、双方ともに、重き手負いを受けて御座いまする。……されば、我ら、とてものこと、これより後の御奉公も、凡そ成し得ざる体(てい)となり下がって御座いますれば。……どうか、お差し止めなさるることなく、何卒、見届け下さいまするように。――」

と切に頼んだ。

 されば修理、丑蔵と又蔵が双方に、末期(まつご)の水を含ませ、刺し違えさせて、御座った由。

 丑蔵は最後まで話し方も不断と全く変わることなく御座ったが、又蔵の方は、これ、最初に受けた頤(あご)の深手によって、何か、末期に述べんとせしも、残念なことに、それを聴き分くることは叶わなかった。

 刺し違えの際は、又蔵は丑蔵の咽喉笛(のどぶえ)に、太刀先を、これ、三寸ばかり突き立てて御座った。

 と同時に丑蔵、それに怯(ひる)むことなく――したたかに右手を斬られて御座ったゆえ――左の手にては御座ったものの、又蔵の咽喉(のんど)を一突き――背中まで、貫き通して御座った。

 傷は双方ともに十ヶ所余りあった。

 双方、これ――美事に――刺し違えて、御座った。

   *   *   *

2015/03/10

停滞にあらず

「耳嚢」の実録仇討物の話に、途轍もなくハマっている。実録なればこそ、容易には注が進まぬ。これは多分、僕の「耳嚢」の最後のリキの入るものとなろう――乞うご期待――

2015/03/09

耳嚢 巻之十 老鼬の事

 老鼬の事

 

 文化未の年七月の事の由、熊ケ谷(くまがや)在にて、屈竟(くつきやう)の男倒死(たふれじに)いたし居(をり)、又旅人體(てい)の者壹人、是又倒れ相果居(あいはてをり)候處、懷中に金銀入(いり)候鼻紙の袋抔も其儘あり、衣類ももとより紛失なければ盜賊の仕業(しわざ)とも思はれず。脇の下に聊(いささか)の疵有之(これあり)、血したゝり居(をり)候故、獸の仕業にも可有之哉(これあるべきや)、評議なしけるが、某所の者或時通りしに、犬程の獸飛付(とびつき)て喰ひ付(つき)、血をすひ候故取組(とりくみ)聲立(たて)けるゆゑ、其邊通りかゝりし者打寄(うちより)打(うち)候處、迯行(にげゆく)故追駈(おひかけ)候處、崖の間に迯入(にげいり)し故、松明(たいまつ)燈(とも)してさがしけるに、右崖の間に一洞(ひとほら)ありし故、若もの共大勢集(あつま)り、落葉枯葉等を右洞へ押込(おしこみ)、一盃に詰(つめ)候て火をかけ候處、右火の中をかき分(わけ)飛出(とびいで)る物ありしを打寄(うちより)打殺(うちころ)しけるに、大きさ犬ほどの鼬(いたち)のよし。右のもの、近頃往來等の者へ喰付(くらひつき)、血をすひしにや、其所の者も久しくなやみて、近頃快くなり候由。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:動物誌二連発で同じ文化八(一八一一)年の話としても連関。但し、内容は生物学的と言うよりは民俗学の妖怪伝承レベルの内容と私には思われる。確かにイタチは『小柄ながら、非常に凶暴な肉食獣であり、小型の齧歯類や鳥類はもとより、自分よりも大きなニワトリやウサギなども単独で捕食する』(ウィキの「イタチ」より。以下も同じ)けれども、人を襲うことはない(攻撃を仕掛けたり、手を出したりすれば別)から、これは寧ろ、本邦の妖怪変化の正体としてのそれが話柄の深層にあるように思われる。たとえば、民俗社会では広く、イタチは『キツネやタヌキと同様に化けるともいわれ、東北地方や中部地方に伝わる妖怪・入道坊主はイタチの化けたものとされているほか、大入道や小坊主に化けると』信じられ、また妖怪(或いはそれが起こすとされた怪異現象としての)「鎌鼬(かまいたち)」――旋風(つむじかぜ)に乗って現われ、鎌のような両手の爪で人に切りつけてぱっくりと割ったような傷を生じさせるが痛みはないという、あれである――もお馴染みである。近代の見世物話のオチで――「イタチ」と看板があって、鵜の目鷹の目で入って覗いて見れば、板に血糊が滴っているだけだった――という定番の話があるが、これはまさに大衆にとって鼬なるものが、文明開化の後も永くまがまがしい妖獣として認識されていたことを物語る好例と言えよう。しかし乍ら、この話の少なくとも前半の二人の横死事件のそれは、寧ろ、イタチが実際によく出没場所(後半の話も同一の場所である)でイタチの仕業と見せて、殺害した(第三者か、或いは何らかのトラブルから二人双方が、特殊な針のようなものを用いて闘争して果てたものか。そもそも二人とも土地の者ではないという記載からも、この二人自体が如何にも怪しげな連中ではないか)ケースのように思われる(ちょっと「必殺シリーズ」っぽい安易な推理で御免なさい。にしても、妖怪変化が信じられた時代には、巧妙な殺害方法を以ってすれば、そう解釈されて沙汰やみとなった事件も、これ、多かったであろうとは思うのである)。後半は実際に鼬退治が行われているから、実録を加味してあるのであろうが、これは深夜に通行していて、誤ってイタチを踏みつけたか何かし、驚いたイタチが反射的に噛みついた程度のことではなかったろうか?

・「老鼬」音読みは「らういう(ろういう)」。老いた鼬は、これ、如何にも化けそうではある。

・「鼬」食肉(ネコ)目イヌ亜目イタチ科イタチ亜科イタチ属 Mustela のイタチ類の総称。但し、ウィキの「イタチ」によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、『「イタチ」の語は元来、日本に広く棲息するニホンイタチ Mustela itatsi を特に指す語であり、現在も、形態や生態のよく似た近縁のチョウセンイタチ M.sibirica coreana を含みながら、この狭い意味で用いられることが多い』とある。『イタチ属 Mustela に属する動物は、日本には五種八亜種が棲息する。このうち、アメリカミンクは外来種であり、在来種に限れば四種七亜種となる』。『比較的大型のイタチ類(ニホンイタチ、コイタチ、チョウセンイタチ)に対して、高山部にしか分布しないイイズナ(キタイイズナ、ニホンイイズナ)とオコジョ(エゾオコジョ、ホンドオコジョ)はずっと小型であり、特に、ユーラシア北部から北米まで広く分布するイイズナは、最小の食肉類でもある』『四種の在来種(ニホンイタチ、チョウセンイタチ(自然分布は対馬のみ)、イイズナ、オコジョ)のうち、ニホンイタチ(亜種コイタチを含む)は日本固有種である』(但しニホンイタチとチョウセンイタチは大陸に分布するシベリアイタチの亜種とする説もある)。『また、亜種のレベルでは、本州高山部に分布するニホンイイズナとホンドオコジョが日本固有亜種であり、これにチョウセンイタチとエゾオコジョを加えた四亜種は、環境省のレッドリストでNT(準絶滅危惧)に指定されている』。『外来種問題に関わるものとしては、西日本では国内移入亜種のチョウセンイタチが在来種のニホンイタチを、北海道では国内外来種のニホンイタチと外来種のアメリカミンクが在来亜種のエゾオコジョを、一部の島嶼部ではネズミ類などの駆除のために移入されたニホンイタチが在来動物を、それぞれ圧迫している』とある。以下、ウィキに載る在来種四種七亜種の記載を参考にして示す。

 

・ニホンイタチ(イタチ) Mustela itatsi

分布は北海道・本州・四国・九州・南西諸島で日本固有種(シベリアイタチ Mustela sibiricaの亜種ともされ、北海道や南西諸島などの分布は国内外来種になる)。西日本では以下のチョウセンイタチに圧迫され、棲息域を山間部に限られつつある一方で、移入先の三宅島などでは、在来動物を圧迫している。

・ニホンイタチ Mustela itatsi 亜種コイタチ Mustela itatsi sho

上記の内の屋久島・種子島個体群。

・シベリアイタチ Mustela sibirica 亜種チョウセンイタチMustela sibirica coreana

分布は本州西部・四国・九州・対馬(対馬には自然分布、それ以外では外来種)。ニホンイタチより大型で西日本から分布を広げつつあり、ニホンイタチを圧迫している可能性がある。

・イイズナ Mustela nivalis 亜種キタイイズナ(コエゾイタチ)Mustela nivalis nivalis

本邦では北海道に分布し、大陸に分布するものと同じ。

・イイズナ Mustela nivalis 亜種ニホンイイズナ Mustela nivalis namiyei

青森県・岩手県・山形県(?)に分布する日本固有亜種。キタイイズナより小型であり、日本最小の食肉類。

・オコジョ Mustela ermine 亜種エゾオコジョ(エゾイタチ)Mustela ermine orientalis

本邦では北海道に分布。日本以外では千島・サハリン・ロシア沿海地域に分布する。平地では国内外来種のニホンイタチ、外来種のミンクの圧迫により姿を消した。

・オコジョ Mustela ermine 亜種ホンドオコジョ(ヤマイタチ)Mustela ermine nippon

本州中部地方以北に分布する日本固有亜種。

 

 なお、外来種であるアメリカミンク(ミンク)Mustela vison は、北米原産の外来種で毛皮のために飼育されていたものが、一九六〇年代から北海道内で野生化したもので平地でエゾオコジョ・ニホンイタチを圧迫し、養魚場等にも被害があるとあるが、私は三十数年前、北海道のこの飼育場を見学したが、見た目は可愛いが、恐ろしく攻撃的で、案内人に指を出すと食い千切られますよ、と言われたのを思い出す。確かによく見ると凶暴な面構えであった。

・「文化未」文化八(一八一一)年辛未(かのとひつじ)。「卷之十」の記載の推定下限は文化一一年六月。

・「熊ケ谷」中山道の宿場熊谷宿附近。現在の埼玉県北部の熊谷市。江戸時代は忍(おし)藩領や幕府領・旗本領が複雑に入り組んでいた。

・「鼻紙の袋」財布。

・「一盃」底本では右に『(杯)』と訂正注がある。

・「右のもの、近頃往來等の者へ喰付、血をすひしにや、其所の者も久しくなやみて、近頃快くなり候由」この最後の一文、これ、如何にも圧縮し過ぎていて、訳し難かったによって、少し翻案を仕組んである。悪しからず。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 老いたる鼬(いたち)の事

 

 文化未(ひつじ)の年、七月のことの由。

 熊谷(くまがや)の在にて、屈強の男が一人、野路(のじ)に横死(おうし)致いており、また、その傍らにも、旅人風の者が一人、これまた、斃(たお)れて息絶えて御座った。

 役人が懐中を改めたところ、金銀の入った財布などもそのままにてあり、衣類も、これといって不審なところもなければ、盜賊・追剥の仕業(しわざ)とも思われず、検死を致いたところが、これ、脇の下に僅かな傷痕(きずあと)のあって、そこから夥しゅう血の滴った跡が見つかった。

 されば、

「……これは……何かの獣の、仕業ででもあろうかのぅ?……」

などと、頻りに評議致いて御座ったが、結局、分からず仕舞いとなって御座った。……

 ところがその後(のち)、さる所の者、ある折り、この同じき場所を夜中に通ったところが、犬ほどの獣のようなるものが、これ、飛びかかって参り、喰いつかれ、何やらん、

――ちゅうちゅう――ちゅうちゅう――

と音の致せばこそ、

『これ、血を吸うとる!』

と思うたによって、この化け物を両腕で摑み、それと取っ組み合い、

「――助けてくれエエッツ!!!」

と大声で呼ばわった。

 されば、その近くを通りがかった者、これ、走り寄ると、道っ端に落ちておった棒切れを以って、その妖しきものをぶっ叩いたと申す。

 すると、そ奴は、素早く襲った者から離れ、逃げ参った。

 されば、その逃げたと思しい方を、二人して追い駈け追い駈け致いたところが、崖の間に逃げ込んだを見届けた。

 さればこそ、二人して、その近在の農家に訳を語って助力を頼み、松明(たいまつ)を燈(とも)して、その崖辺りをつぶさに探してみたところ、かの崖の間に、これ、一つの大きなる洞(ほら)のあるを、見出した。

 その頃には、農家から知らせを受けた、辺りの百姓の若者らが、これ、大勢集まって御座ったによって、

「燻り出してみようぞッ!!」

と衆議決し、落葉や枯葉なんどを、これ、山のように、その一抱えほどもあろうかという円(まあ)るき洞(ほら)の中へどんどん押し込み、これ以上は入らぬというほど、ぎゅう詰め一杯に致いた。

 さてもそれより、これに火をかけ、まんじりともせず、見守って御座ったところが……その火の中を……掻き分け!――何かが――これ! 飛び出でた!

それを、皆して寄って集(たか)って、手に手に持ったる心張棒で打ち殺したところ……これ……大きさ……犬ほどもあろうかという

――鼬(いたち)

で御座った、と申す。

 この老いたる妖鼬(ようゆう)の化け物、近頃、ここいらを往来致す者へ喰らいつき、その血を吸い殺しておったものか。

 何でも、その辺りの在所の者の一人は、この物の怪に魅入られたものか、これ久しゅう、血の気の失せる妖しいぶらぶら病いに悩まされて御座ったと申すが、この鼬を退治致いて後、近頃になってやっと、これ正気に戻って、本復致いたとのことで御座った。

耳嚢 巻之十 狼を取る奇法の事


 狼を取る奇法の事

 文化未の年在方より、狼の子見世ものに成(な)すとて、八王子邊の者江戶へ曳來(ひききた)りしを心ある町長(まちをさ)の者、かゝる猛獸は後の害も候間、江戶内に差置(さしおく)儀無用の旨、制し候故、早速在方へ連歸(つれかへ)り候由。然る處四ツ谷麹町邊にて、小犬等を喰殺(くひころす)もの有之(これある)儀を、右の狼の子のなす業(わざ)と巷說ありし故、よくよく聞糺(ききただ)させし候處、右犬の子を喰殺したるは病犬(やまひいぬ)の由、人など狼の怪我(けが)爲致(いたさせ)候事は曾て無之(これなき)由、上向(うへむき)より御尋(おたづね)の節も御答(おんこたへ)におよび候。夫(それ)に付(つき)、狼をとる甚(はなはだ)奇法、若(もし)巷說のごとくならば其樣を施し可然(しかるべき)由。狼は至(いたつ)て生鹽(なまじほ)を好むもの故、生鹽の中へまちんを隱し入(いれ)て、其狼の徘徊する所に置(おか)ば、好み候品故、喰之(これをくひ)て其命をおとし、不死(しなず)候へ共(ども)手取(てどり)にも成(なる)由、人の咄しける。峯岡(みねおか)小金(こがね)抔にて、馬の防(ふせぎ)に用ひ候由をも聞(きき)しが、ある醫師の神奈川邊の者に聞し由、狼は鹽水を好(このみ)、折節里方へ出候由聞しと云々。 

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。博物学的動物誌。

「狼」食肉(ネコ)目イヌ科イヌ属タイリクオオカミCanis hodophilax 亜種ニホンオオカミCanis lupus hodophilax 。既注であるが、以下、ウィキの「ニホンオオカミ」よりの一部引用を再掲する(アラビア数字を漢数字に代え、記号や改行の一部を変更・省略した)。『日本の本州、四国、九州に生息していたオオカミの一亜種。あるいは、Canis 属の hodophilax 種』。『一九〇五年(明治三八年)一月二十三日に、奈良県東吉野村鷲家口で捕獲された若いオス(後に標本となり現存する)が確実な最後の生息情報、とされる。二〇〇三年に「一九一〇年(明治四三年)八月に福井城址にあった農業試験場(松平試農場。松平康荘参照)にて撲殺されたイヌ科動物がニホンオオカミであった」との論文が発表された。だが、この福井の個体は標本が現存していない(福井空襲により焼失。写真のみ現存。)ため、最後の例と認定するには学術的には不確実である。二〇一二年四月に、一九一〇年に群馬県高崎市でオオカミ狩猟の可能性のある雑誌記事(一九一〇年三月二十日発行狩猟雑誌『猟友』)が発見された。環境省のレッドリストでは、「過去五十年間生存の確認がなされない場合、その種は絶滅した」とされるため、ニホンオオカミは絶滅種となっている』。特徴は『体長九十五~百十四センチメートル、尾長約三十センチメートル、肩高約五十五センチメートル、体重推定十五キログラムが定説となっている(剥製より)。他の地域のオオカミよりも小さく中型日本犬ほどだが、中型日本犬より脚は長く脚力も強かったと言われている。尾は背側に湾曲し、先が丸まっている。吻は短く、日本犬のような段はない。耳が短いのも特徴の一つ。周囲の環境に溶け込みやすいよう、夏と冬で毛色が変化した』。『ニホンオオカミは、同じく絶滅種である北海道に生育していたエゾオオカミとは、別亜種であるとして区別される。エゾオオカミは大陸のハイイロオオカミの別亜種とされているが、ニホンオオカミをハイイロオオカミの亜種とするか別種にするかは意見が分かれており、別亜種説が多数派であるものの定説にはなっていない』とある。また、『「ニホンオオカミ」という呼び名は、明治になって現れたものである。日本では古来から、ヤマイヌ(豺、山犬)、オオカミ(狼)と呼ばれるイヌ科の野生動物がいるとされていて、説話や絵画などに登場している。これらは、同じものとされることもあったが、江戸時代ごろから、別であると明記された文献も現れた。ヤマイヌは小さくオオカミは大きい、オオカミは信仰の対象となったがヤマイヌはならなかった、などの違いがあった。このことについては、下記の通りいくつかの説がある。

・ヤマイヌとオオカミは同種(同亜種)である。

・ヤマイヌとオオカミは別種(別亜種)である。

・ニホンオオカミはヤマイヌであり、オオカミは未記載である。

・ニホンオオカミはオオカミであり、未記載である。Canis lupus hodophilax はヤマイヌなので、ニホンオオカミではない。

・ニホンオオカミはオオカミであり、Canis lupus hodophilax は本当はオオカミだが、誤ってヤマイヌと記録された。真のヤマイヌは未記載である。

・ニホンオオカミはヤマイヌであり、オオカミはニホンオオカミとイエイヌの雑種である。

・ニホンオオカミはヤマイヌであり、オオカミは想像上の動物である。

シーボルトはオオカミとヤマイヌの両方を飼育していた。現在は、ヤマイヌとオオカミは同種とする説が有力である。なお、中国での漢字本来の意味では、豺はドール(アカオオカミ)、狼はタイリクオオカミで、混同されることはなかった。現代では、「ヤマイヌ」は次の意味で使われることもある。

 ヤマイヌが絶滅してしまうと、本来の意味が忘れ去られ、主に野犬を指す呼称として使用される様になった。

 英語の wild dog の訳語として使われる。wild dog は、イエイヌ以外のイヌ亜科全般を指す(オオカミ類は除外することもある)。「ヤマネコ( wild cat )」でイエネコ以外の小型ネコ科全般を指すのと類似の語法である』とある(私の後の「病犬」の注も参照されたい)。次に「生態」の項。『生態は絶滅前の正確な資料がなく、ほとんど分かっていない。薄明薄暮性で、北海道に生息していたエゾオオカミと違って大規模な群れを作らず、二、三~十頭程度の群れで行動した。主にニホンジカを獲物としていたが、人里に出現し飼い犬や馬を襲うこともあった(特に馬の生産が盛んであった盛岡では被害が多かった)。遠吠えをする習性があり、近距離でなら障子などが震えるほどの声だったといわれる。山峰に広がるススキの原などにある岩穴を巣とし、そこで三頭ほどの子を産んだ。自らのテリトリーに入った人間の後ろをついて来る(監視する)習性があったとされ、いわゆる「送りオオカミ」の由来となり、また、hodophilax (道を守る者)という亜種名の元となった。一説にはヤマイヌの他にオオカメ(オオカミの訛り)と呼ばれる痩身で長毛のタイプもいたようである。シーボルトは両方飼育していたが、オオカメとヤマイヌの頭骨はほぼ同様であり、テミンクはオオカメはヤマイヌと家犬の雑種と判断した。オオカメが亜種であった可能性も否定出来ないが今となっては不明である。「和漢三才図会」には、「狼、人の屍を見れば、必ずその上を跳び越し、これに尿して、後にこれを食う」と記述されている』。「人間との関係」の項。『日本の狼に関する記録を集成した平岩米吉の著作によると、狼が山間のみならず家屋にも侵入して人を襲った記録が頻々と現れる。また北越地方の生活史を記した北越雪譜や、富山・飛騨地方の古文書にも狼害について具体的な記述が現れている。奥多摩の武蔵御嶽神社や秩父の三峯神社を中心とする中部・関東山間部など日本では魔除けや憑き物落とし、獣害除けなどの霊験をもつ狼信仰が存在する。各地の神社に祭られている犬神や大口の真神(おおくちのまかみ、または、おおぐちのまがみ)についてもニホンオオカミであるとされる。これは、山間部を中心とする農村では日常的な獣害が存在し、食害を引き起こす野生動物を食べるオオカミが神聖視されたことに由来する。『遠野物語』の記述には、「字山口・字本宿では、山峰様を祀り、終わると衣川へ送って行かなければならず、これを怠って送り届けなかった家は、馬が一夜の内にことごとく狼に食い殺されることがあった」と伝えられており、神に使わされて祟る役割が見られる』。最後に「絶滅の原因」の項。『ニホンオオカミ絶滅の原因については確定していないが、おおむね狂犬病やジステンパー(明治後には西洋犬の導入に伴い流行)など家畜伝染病と人為的な駆除、開発による餌資源の減少や生息地の分断などの要因が複合したものであると考えられている。江戸時代の一七三二年(享保一七年)ごろにはニホンオオカミの間で狂犬病が流行しており、オオカミによる襲撃の増加が駆除に拍車をかけていたと考えられている。また、日本では山間部を中心に狼信仰が存在し、魔除けや憑き物落としの加持祈祷にオオカミ頭骨などの遺骸が用いられている。江戸後期から明治初期には狼信仰が流行した時期にあたり、狼遺骸の需要も捕殺に拍車をかけた要因のひとつであると考えられている。なお、一八九二年の六月まで上野動物園でニホンオオカミを飼育していたという記録があるが写真は残されていない。当時は、その後十年ほどで絶滅するとは考えられていなかった』とある。私は「ヤマイヌ」という存在は、ただの野良犬、或いは、野良犬とニホンオオカミの雑種としか考えない。

・「四五町」約四三六~五四五メートルほど。

・「渡り狼」定住せず、野山を渡り歩く狼。

・「文化未」文化八(一八一一)年辛未(かのとひつじ)。「卷之十」の記載の推定下限は文化一一年六月。

・「町長」町名主のことであろう。町の支配に当たった町役人で地域により町年寄・町代・肝煎(きもいり)などとも称した。江戸では町年寄の下に数町から十数町に一人の町名主が置かれていた。

・「四ツ谷麹町」現在の四谷一丁目(旧の尾張町・麹町十一丁目・麹町十二丁目・伝馬町一丁目・仲町一丁目)と二丁目(旧の麹町十三丁目・伝馬町新一丁目・伝馬町二丁目)及び東京都千代田区麹町(新宿区四谷に接する)一帯。

・「病犬」狂犬。これは狭義の狂犬病に罹患した犬に限定した謂いとも、狂犬病罹患に関係なく誰彼構わず嚙みつく犬の謂いもとれるが。江戸時代の狂犬病について詳述された大阪府獣医師会の公式サイト内の「日本の狂犬病の歴史」によれば、日本で狂犬病の流行が記録されているのは十八世紀以降で、『八代将軍徳川吉宗が支配した享保年間には狂犬病の大流行がみられ、イヌ、ウマ、キツネ、タヌキなどが多数犠牲になったことが記されているという』とあり、『江戸時代後期における狂犬病の実態は明らかではないが、十代将軍家治の要請で編纂された救急治療法集である『広恵済急方』(1788年完成)には「常犬に咬たるは(つねのいぬにかまれたるは)」、「やまひ狗に噛たるは(やまひいぬにかまれたるは)」と、健丈なイヌに咬まれた場合とやまい狗(たぶん狂犬病のイヌ)に咬まれた場合を別項目で扱って治療法が述べられていることから。少なくとも狂犬病発生がまれではなかったことが推測できる』とあるから、ここで根岸がわざわざ「病犬」と記しているところからは、これは真正の狂犬、狂犬病の犬であった可能性が高いか。なお、岩波版では長谷川氏は『やまいぬ』とルビされておられる。実際、「病犬」はそのようにも読まれるが、これは前の「狼」の注で示した、「ヤマイヌ」(豺・山犬)に引かれた読みの様に私には思われ、それと区別するためにも、ここでは私は上記引用の『やまひ狗』に基づいて「やまひぬ」と訓じておいた。

・「狼は至て生鹽を好む」これはオオカミに限った現象ではない。チンパンジーや家畜のウシやウマなども塩を好む。というよりも、人にとってそうであるように動物には塩(塩化ナトリウム)が必須で、寧ろ、肉食動物であるオオカミは獲物から塩を補給することが出来るが、植物には塩が殆んど含まれていないため、寧ろ、草食動物の方が塩を好むと言えよう(詳しくは橋本壽夫氏の塩学のサイトの動物飼育と塩の役割を是非、お読み戴きたい)。なお、古伝承では、妖怪図鑑を手掛けておられる tera 氏のブログ「移転跡地」の香川県仲多度郡琴南町に伝わる妖怪小便み」の解説に、『炭焼き小屋では簡易便所として設置した桶に小便をしますが、小便飲みは真夜中にこの小便を飲みに来るといいます。そのため小便桶の中身が空っぽになってしまうのだといいます』。『この妖怪の正体は狼であるとも考えられていました』。『狼は塩を好むとされ、各地に狼と塩に関する伝承が残されています』。『狼あるいは送り狼が塩気を求めて小便を飲むという話も多数確認されており、これを避けるために便所を屋内か中庭に作る、先手を打って予め塩を与えておくなどの対策が伝わる地域もあります』。『奈良県吉野郡十津川村などでは、小便を飲んだ狼は人を襲うとされました。愛媛県石鎚山地方では、狼は小便樽の底を抜いておいても樽を舐めに来るといい、和歌山県日高郡では人の小便を飲むと狼の病が治るといわれました。南部川村では病の狼が小便を飲みに来るようになったとき、祇園さんを祀って拝んでもらったところ来なくなったといいます』とあり、また平凡社の「世界大百科事典」の「オオカミ(狼)」の項には(数字・記号の一部を変更した)、『各地の伝承にも足のとげやのどの骨を抜いてやったところ、その礼としてシカの片脚を庭においていったとか山道での群狼の追求から守ってくれたと語るものがある。東北地方の一部や四国・九州では、オイヌまたはヤマノイヌは田畑を荒らす猪鹿(ちよろく)を追い、狩人にとらせてくれる益獣という考え方をしていた土地も少なくなく、草三本あれば身を隠すなどといった超能力をもつとも信じられた。山中で猪鹿がものに追われたように飛び出してきて、狩人に撃ちとられたりすると、これをオイヌがとらせてくれたとしてその肉の幾切れかを木に刺しておいてきたり、オオカミがたおしたらしい新しいシカの死体などは黙ってとってくると、あとからオオカミがついてきてあだをするといって、必ずオオカミの好む塩をひとつかみ代りに置いてくる習わしもあった』というオオカミとヒトの文化史を記す(下線やぶちゃん)。

・「まちん」リンドウ目マチン科マチン属マチン Strychnos nux-vomica ウィキマチンより引く(アラビア数字を漢数字に代え、一部の記号を変更した)。『アルカロイドのストリキニーネを含む有毒植物及び薬用植物として知られる。種小名(ヌックス―フォミカ)から、ホミカともいう』。『インド原産と言われ、インドやスリランカ、東南アジアやオーストラリア北部などに成育する。高さは十五メートルから三十メートル以上になる。冬に白い花を付け、直径六~十三センチメートルの橙色の果実を実らせる。果実の中には数個の平らな灰色の種子がある。マチンの学名(Strychnos nux-vomica)は、一六三七年にマチンがヨーロッパにもたらされたとき、カール・フォン・リンネにより命名された。種小名の“ nux-vomica ”は「嘔吐を起こさせる木の実」という意味だが、マチンの種子には催嘔吐作用は無いとされている』。『マチンの毒の主成分はストリキニーネ及びブルシンで、種子一個でヒトの致死量に達する。同じマチン属のS. ignatia の種子(イグナチア子、呂宋果(るそんか))にもストリキニーネ及びブルシンが含まれる。こちらはフィリピン原産。マチン科には他に、ゲルセミウム属(代表種はカロライナジャスミン)などがある』。『漢方では生薬としてマチンの種子を馬銭子(まちんし)、蕃木鼈子(ばんぼくべつし、蕃は草冠に番)、またはホミカ子と称し苦味健胃薬として用いられる。インドでは、木部を熱病、消化不良の薬に用いる。日本薬局方では、ホミカの名で収録されている。ただし、前述の通りマチンは有毒であり素人による処方は慎むべきである』とある。因みに、岩波の長谷川氏注では、本種を『フジウツギ科の常緑喬木』とするが、ウィキのチン科」によれば、『マチン科はかつてはフジウツギ科(Buddlejaceae)と一緒にされていた(学名は Loganiaceae、和名はフジウツギ科だった)が、分離された。アイナエ属は分離当初はフジウツギ科とされていた。現在でも文献に混乱が見られ』、二つの科は系統的にはかなり異なるとされている、とある。

・「峯岡小金」底本の鈴木氏注に、『峯岡・小金とも、牧場なり、峯岡は安房国、もとの長狭郡、小金は下総東葛飾郡なり。(三村翁)嶺岡牧場は安房部長狭町』とある。現在の千葉県安房郡嶺岡は日本酪農発祥の地とされ、古くは馬の放牧地として戦国時代(千五百年代)に国守里見氏が軍馬を育てる目的で「嶺岡牧(みねおかまき)」を創った。その後江戸幕府が嶺岡牧場を直轄とし、第八代将軍吉宗は馬の改良に力を入れ、外国産の馬を輸入、その際に印度の白牛三頭がここに入ってきたと、牧場施設千葉県酪農のさとにある。ウィキも参照されたい。それによれば、当時の長狭郡・朝夷郡・平郡の三つの郡に跨った嶺岡山地一帯に周囲十七里、反別千七百六十町余りに及ぶ広大な牧であったとある。現在の千葉県鴨川市・南房総市の一部にあたる。また、小金は「小金牧(こがねまき)」と称して、江戸幕府が現在の千葉県北西部の北総台地に軍馬育成のために設置した、やはり広大な放牧場であった。ウィキ小金が非常に詳しい。 

 

■やぶちゃん現代語訳

 狼を生け捕る奇法の事

 文化未(ひつじ)の年、在方より、狼の子を見世物になしたとて、八王子辺りの者が江戸へ、この狼の子を繩を附けて曳き来ったを、心ある町名主の者、

「――かくなる猛獣は、もし逃げ出だいて、成長なしたりしたとなれば、これ、大きなる害の元凶ともなるによって、江戸御府内にさし置く儀は、これ、罷りならぬ。――」

との旨、諭し制したによって、早速、在方へと連れ帰った、とのことで御座った。

 ところが、ちょうどその頃、四ッ谷・麹町辺りにて、小犬なんどを喰い殺す怪しき獣のあるとの専らの噂、それをまた、

「――かの狼の子、実は八王子に戻さず、面倒になって途中にて繩を解いて、追い放ちやったんじゃ。されば、これも、その狼の子の成せる業(わざ)じゃて。――」

という巷説のあったによって、私の部下の者を四ッ谷・麹町辺に遣わし、よくよく聞き糺させてみたところが、この、犬の子を喰い殺したものと申すは、これ、病い犬であったことが判明致いた、とのことで御座った。

 その報告には、そもそもが、狼が人なんどに噛みついて怪我させた、などと申す例(ためし)は、これ、かつて一度も聴いたことがない、とも言い添えられて御座った。

 お上(かみ)の筋より、狼の害なるものに就き、御不審のあられ、御尋ねのあられた折りにも、私から、かように御答え申し上げて御座った。

 さて、この一件に関わって、狼を捕獲する非常に変わった奇法のあり、もし巷説の如く、件(くだん)の子犬の噛み殺されたと申すこと、これ、狼の仕業であったとならば、以下のように罠を仕掛けて捕まえるがよろしい、との話のあったによって、以下に記しおくことと致す。

 狼は至って生塩(まなじお)を好む性質(たち)ゆえ、生塩の中へ、馬銭子(まちんし)を砕いたものを隠し入れて、その狼の徘徊致す場所に置いておけば、大好物なる品なればこそ、これを貪り食いて、その命をおとし、或いは死ななんだとしても、暴れることものぅ難なく素手にて捕獲することの出来ると、とある者の話して御座ったと申す。

 峯岡牧(みねおかまき)や小金牧(こがねまき)などにては、飼育しておる馬が狼に襲わるるを防ぐため、この罠を用いておる、と聴き及んでおる。

 因みに、狼は塩水を好み、里方へ潮水を舐めんがため、しばしば出没致すと聴いて御座ると、とある医師が神奈川辺(へん)の者より聴き及んだ、とも述べて御座った。

耳嚢 巻之十 大黑を祈りて福を得し事

 大黑を祈りて福を得し事

 

 淺草福井町に、元祿の頃とや、至(いたつ)て窮迫せし善五郎といへる、常に正直成(なる)ものにて、大黑を信じけれど共(ども)しるしもなく、或年の暮に甚(はなはだ)難儀なる儘、夫婦寄合(よりあひ)て、かく困窮に成る事誠に活(いき)し甲斐もなし、所詮命繼(つぐ)べき手段なければ、身を捨て、此邊福者(ふくしや)の方へ盜(ぬすみ)に入(いり)、聊(いささか)なりとも金銀盜取(ぬすみとり)て成共(なるとも)、年を可取(とるべし)と申(まうし)ければ、其妻をし止(とど)めて、食盡(つくれ)ば飢死(うゑじ)ぬべし、かゝる事な思ひ、止(とどま)りねと諫めける故、其妻寢入りし後、さるにても如何せんと潛(ひそか)に忍び出で、近邊富家(ふけ)の家を覗(のぞき)しに、板塀ありて物の透(すき)よりこれを見るに、燈火照りかゞやきし儘、いかなる事やと右塀の透へ手を懸□ひありしに、折節雪の後ゆゑすべりて踏外(ふみはず)し下へ落(おち)て絶入(たえいり)りしが、夢心に大黑天顯(あらは)れ、傍に金銀珠玉夥敷(おびただしく)ありしを見て、大黑にむかひ、此年月信仰祈念致(いたし)候に、夫程(それほど)多き金銀を我に少しも惠みたまはざるやと、うらみければ、其金銀にはぬしあり、其方(そのはう)にあたへたけれど、其方にて與福分なし、此金銀の主(ぬし)へかり請(うけ)候樣のたまふゆゑ、右主(ぬし)は如何成(いかなる)人哉(や)と尋(たづね)しに、此邊いづ方の木戸際(きどぎは)に野臥(のぶせ)りせし非人なり、右の者故、我(わが)望む程の金高(かねだか)を證文にいたし相渡(あひわたし)、かり請(うく)べしとありし故、ゆめさめ直(ぢき)に其足にて所々尋(たづね)しに、いかにもきたなげなる無宿、薦(こも)を冠(かぶ)り臥(ふせ)り居(をり)しをおこし、我に金三百兩かしくれ候樣(やう)賴みければ、無宿驚きて、三百兩の金持(もつ)べき謂(いはれ)なし、三文も持(もた)ざる由を答へける故、大黑天の示現(じげん)をこまかに語り、扨(さて)證文を認(したた)め、右の者へ相渡(あひわたし)、出生(しゆつしやう)等を聞(きき)しに、是又謂(いはれ)ある者なれば、我(われ)心の儘に成りなば取立得(とりたてえ)さすべしとて、彼(かの)置文を渡し、兄弟契約(きやうだいのちぎり)なして立分(たちわか)れ歸り、妻へも有(あり)し次第を物語り、夫婦にて大黑天もし授けたまふやと、家のくまぐまを搜し根太(ねだ)を上げ搜しけるに、小高き所有(ある)故掘返(ほりかへ)し見しに、金三百兩ありけるとや。是を元手として夫婦稼ぎける故、無程(ほどなく)身上(しんしやう)宜敷成(よろしくなり)、彼(かの)無宿をも尋出(たづねいだ)し相應に分配して、兩家共(とも)相應に暮しけるが、彼(かの)掘えしおのこは子供なく、無宿のかたには子孫ありて、右本屋は無宿の方にて相續なせし由。何(いづ)れ身分に請(うくる)貨福(くわふく)は、無理成(なる)事にては難成(なりがたし)事と、人の語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。こりゃもう、落語である。

・「大黑天」辞書では、まず、三宝を守護して戦闘を掌る神とし、通常は三面六臂逆髪青黒の忿怒相に作る。中国・日本では食物の神として寺などの厨房に祀られたとあり、更に七福神の一神とも挙げ、狩衣に似た服を着て大黒頭巾を被り、左肩に大袋を背負って右手に打ち出の小槌を持ち、米俵の上に座る像に作る。日本では大国主神(おおくにぬしのみこと)と習合して福徳の神として民間の信仰を集めたと載る。以下、「寺社関連の豆知識」(個人サイト?)の「七福神(大黒天)」がよく纏まっているので、これを参照して今少し細かく概説しておく。サンスクリット語では「マハーカーラ」(「摩訶迦羅」と漢訳する)で、もとはヒンドゥー教の主神の一つシヴァ神の化身にして青黒い身体に髪の毛を逆立てた忿怒相の破壊神・軍神であった(「マハー」は「大」、「カーラ」は「黒色」を意味する)。本来の大陸経由の大黒天は厨(くりや)の神として伝教大師最澄によって日本に伝えられて、比叡山を中心とした天台宗寺院では庫裏(厨房)に守護神として祀られた。比叡山に最初に祀られた大黒天は「三面大黒」と呼ばれ、正面に大黒、向かって左に毘沙門天、右に弁財天を配した一風変わったものであったという。その後、この「大黒」と「大国」が同じ音であることから、大黒天と日本神話の大国主命が習合、本邦の福神としての「大黒さま」像が形成されることとなった。これは神仏習合を経て、真言宗を中心とした仏教側からの本地垂迹説などに基づくアプローチの一環と考えられ、十四世紀に書かれたとされる「三輪大明神神縁起」によると、最澄の前に大黒天に姿を変えた三輪大明神が現われた、とある。『さらに、大黒天の信仰の普及に一役かったのが大黒舞と呼ばれるもので、大黒頭巾をかぶり、手には打出小槌を持って、大黒天に扮して舞う祝福芸である。中世の中頃から行われていたらしいが、「一に俵を踏まえて、二ににっこり笑って、三に盃を頂いて、四に世の中良いように~」という目出度い数え歌を歌いながら、毎年正月に各地の家々をまわり、大黒天の福を分け与えるのである』。『大黒天の信仰が広がると、台所の神様としての側面は、台所の中心となるカマドを守ってくれる神様ということで、カマド神の側面も持ち始めた。大黒天が踏む米俵に象徴されるように、農村では田の神との役割もはたし、商家では商売繁盛の神様という役割もはたすようになる』。『他の七福神がそうであるように、福をもたらすという御利益は如何ようにも解釈できるものである。大黒天の背負う袋は、まさに福袋であり、そこから出てくる御利益は尽きないように見え』たのであろう。なお、『日常生活でよく使われる「大黒柱」とは、家のなかで中心となる柱のことで、そこから転じて、家族を支えて中心となる人のことを指す。なぜ「大黒柱」』かと言えば、かつて『家を建てるとき、土間と座敷の間に中心となる柱が立てられ、そこに大黒天を祀ったからである。この柱は台所にも隣接しており、台所の神という条件もみたしてくれる。そこから「大黒柱」という名前がついたのである』と記す。(この後に『小学館「東京近郊・ご利益散歩ガイド」東京散歩倶楽部編著から転載』と注記がある)。

・「淺草福井町」台東区浅草橋一丁目の内。福井藩松平家がJR浅草橋駅東北直近にある銀杏岡八幡神社一帯を元和四(一六一八)年に屋敷地として拝領したことに由来する。

・「元祿の頃」西暦一六八八年から一七〇四年。「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年であるからえらい古い都市伝説である。

・「透(すき)」は底本の編者ルビ。

・「手を懸□ひありしに」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、『手を掛け這上(はひあが)りしに』となっている。これで採る。

・「與福分なし」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、『可與福分(あたふべきふくぶん)なし』となっている。因みに、福分とは善行・修行の結果が現世でそのまま利益となるものの形を取ったものを指す。

・「木戸」町の境や要所に、保安上の目的から設けられた門。夜間や非常時には閉鎖された(木戸番がいたりしたが、市中の小さなものは、実際には脇の小さな通用口から比較的自由に通り抜けられた)。

・「非人」これは狭義の被差別階級のそれではなく、貧しい人、乞食の謂いである。

・「野臥り」野宿。

・「根太」床板を受ける横木。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 大黒を祈りて福を得た事

 

 ちと、古き元禄の頃の話で御座る。

 浅草福井町に、至って困窮致いた善五郎と申す者の御座った。

 常日頃より正直に馬鹿がつくような男にて、これが、昔より大黒さまを厚く信心して御座ったと申す。

 されど、これ、その信心の験(しる)し、一度として御座らなんだ。

 とある年の暮れのことである。これまた善五郎、はなはだ窮迫致いて、夫婦、薄着にて煎餅蒲団一枚に身を寄せ合っては暖をとりつつ、

「――カ、カ、カッ!……か、かく、貧乏になっては、よ、……ま、真正直に……生くる甲斐も、これ、ナイ!……し、し、所詮……命を、つ、接ぐべき……て、て、手段(てだて)も、これ、な、なければこそ!……コ、ここは一つ……身(みぃ)を捨てて……コ、この、あ、辺りの金持ちが方へ……ぬ、ぬ、ぬ、盜みに入(はい)って……こ、これ……い、いささかなりとも……金銀、ぬ、ぬ、ぬ、盜み取ってでも!……年をば、越そうぞッツ!――カ、カ、カッ!……」

と、余りの寒さと悪事の後ろめたさから、歯をうち鳴らし、言葉も震わせ、かく女房に囁いて御座った。

 すると、その妻、これ押し止(とど)め、

「……食べる物の尽きたら……これはもう、飢死にしましょう!……よもや、そのようなこと、するも、思うも、恐ろしきこと!……決して、なりませぬ!」

と諫めた。

 されど、しばらく致いて、やっとその妻の寝息を立て始めたによって、

『……そうは言うても……さても……どうしよう……いや!……やっぱ、何とかせずんば、これ、なるまい!……』

と、善五郎、こっそり長屋を忍び出でて、近き所の裕福なる家を品定め致いて、ここぞと思うた屋敷の、その板塀の透き間より、これ、中を覗き見てみた。

 すると……何やらん……まぶしいぐらい、異様な燈火(ともしび)の、これ、照り耀いて御座ったによって、

「……何じゃあ? こりゃあ?……」

と、思わず、その塀の透き間へ手を懸けて這い上らんしたところが、折から、雪の降った後のことなれば、足を滑らし、塀の廂よりすってんころりん、外側に踏み外して、下へ落ち、道っ端のごろた石に、したたか頭を打ちつけて気絶してしもうた。……

……さても……

……その夢心地の中にて……

――大黒天

これ、示現(じげん)致いて、その、傍らには、これ

――金銀珠玉

夥しゅう、積まれて御座った。……

……されば、善五郎、大黒に向い、

「……この年月(としつき)、ずーぅっと信仰祈念致いて参りましたに!……それほど多きに溜め込んだる金銀、これ、どうしておいらに、少しも恵んで下さらなんだ?!……」

と、恨み言を申した。すると大黒、

「……その金銀には……これ……持ち主(ぬし)のおるのじゃ……その方に与えたくは思うが……その方には与えらるるべき福分(ふくぶん)が……これ……全く……ない。……ないが……しかし……一つの法はある……この金銀が主より……その福分を借り受くれば……よい……」

と大黒天の仰せられたによって、善五郎、

「――そ! そ! その主ちゅうんは、これ如何なるお人で、ごぜえやすかッ?!……」

と泡食って訊ねたところ、

「……この辺りの……どこぞの木戸際(きどぎわ)に……野臥(のぶ)せ致いておる乞食である……その者こそがこの宝のまことの主なればこそ……そなたが望むだけの金高(かねだか)を……これ……証文に致いて相い渡し……それを借り受くればよい……」

と聴こえた――と――思うたら、善五郎、泥雪の冷たさに目の醒めた。

 されば、善五郎、その足で所々の木戸という木戸を尋ね歩いてみたところが、これ、

――いかにも汚げなる無宿者

薦被(こもかぶ)りして道っ端に横になって寝て御座ったれば、この者を揺り起こし、

「――わ、わ、わ、我らに! かの! お宝より! これ! 金三百両! お貸し下されぇいぃッ!!……」

と、突然頼んだからたまらぬ。

 無宿者、これ、大きに驚き、

「……なぁん?……儂(わし)が……さ、三百両の金子?……そんなもん! 持っとるはずないやろ?!……このなりをよぅ見い!……儂ゃ、三文も持っとらんわいッ!……乞食なればとて、ひ、人を馬鹿にするのも、ほどがあるわッ!!……」

とえらい剣幕で怒ったによって、善五郎は、先に見た大黒天示現(じげん)の奇瑞をこと細かに、大真面目で、その男に語って御座ったと申す。

 無論、乞食は、これを聴いても、一向、訳も何も分かららんだによって、

『……こりゃあ……ちいと……頭のいかれとるんかも知れんな……』

と思い、乞食ながらも何やらん、この大黒狂いを哀れに思うたによって、

『……もともとないものなれば……惜しむべくもないわ、の……』

と、

「……よっしゃ!――三百両!――貸したろう!!」

と、半ば面白がって請けがって御座った。

 さて、歓喜雀躍致いた善五郎、その場にて何度も使(つこ)うてばりばりになった鼻紙をとり出だし、その辺りにあった木端を筆とし、泥水を墨と致いて、

――三百両借入の証文

これ、認(したた)め、その無宿者へ渡さんと致いた。

 その折り、とりあえず、その乞食の出生(しゅっしょう)なんどを訊いたところ、これまた、普通ならば、凡そ、そのようなる境涯に堕つるべき者にては、これ、御座らぬ者で御座ったれば、

「……おいらが、この三百両にて、心の思うがままの暮らしを成せるようなったならば、これ、きっと! お前さんに三百両、これ、耳を揃えてお返し申す! 約束しょうぞ!!」

と請けがって、かの証文を、これ確かに引き渡した。

 そうして最後に、善五郎、

「――あんたとおいらは――これで――兄弟(はらから)じゃ!」

と義兄弟の契りまで交わした上、これ、たち別れたと申す。……

 さても夜半も過ぎて長屋へ戻った善五郎は、件(くだん)の不思議なる出来事の仔細を妻へ物語って御座った。

 すると妻も、これ、信心深き優しき者にて御座ったによって、夫婦して、染みだらけの天井を拝むと、

「――大黒天さま! もしや! ほんに、三百両! これ、お授け下さいまするか?!」

と、夫婦二人、狭い家の内、隅々まで、これ、その三百両の顕現しておらぬかと、捜しまわって御座った。

 さても、畳を上げ、床板もへり剥がし、根太(ねだ)なんどまでおっ外して捜したところが……

……床下のど真ん中の……

……埃だらけの地面に……

……これ……少しばかり……

……盛り上がったる所……

これ、御座った。……

 されば善五郎、板切れを以ってそこを掘り返して見てみたところが……

――油紙に包んだる

――金三百両

これ、御座ったと申す。……

 さても、これを元手として、夫婦して本屋を始め、これがまた、大きに繁昌致いて、相応に稼いで御座ったによって、ほどのぅ身上(しんしょう)もよろしゅうなって御座ったと申す。

 されば、正直者の善五郎なれば、かの無宿者をも尋ね出だいて、それまでに儲けた金子を相応に分け与え、ともに、それなりの暮らしを立つることの出来て御座ったと申す。

 さて、その後(のち)のこと、この善五郎夫婦には子供がおらなんだが、元無宿者の方(ほう)には子や孫の御座ったによって、かの本屋は、元無宿者の方にて、これ、相続なしたと申す。……

 

「……いやさ……それぞれの身分の者の、受くるところの貨福(かふく)と申すは、これ、盗みなんどの非道無理なる振る舞いにては、これ、成りがたきものにて、御座るのでありましょうのぅ……」

とは、とある御仁の語った話で御座った。

尾形龜之助 「泣いてゐる秋」 心朽窩主人・矢口七十七中文訳

    泣いてゐる秋

 

         尾形龜之助

 

蒲團のほしてある緣側に寢ころんでゐる秋晴れ

あくびをして部屋に入つたのを誰も見てはゐなかつたか

俺は空を見てゐてかつてに空が晴れてゐると思つたのだ

まつたく何のことだか知れたものではない三十年といふ年月よ

 

 

Naiteiruaki

 

 在哭的秋天
         
作 尾形龟之助
         
译 心朽窝主人,矢口七十七

 

秋天晴朗的日子,我躺在晒着被子的套廊上——

打着哈欠进屋里来的我,是否被人偷看?

我一看天空就以为是大晴天儿了,其实……

简直无法形容的  三十年的 我的岁月哦——

 

         矢口七十七/

尾形龜之助 「愚かなる秋」 心朽窩主人・矢口七十七中文訳

    愚かなる秋

 

         尾形龜之助

 

秋空が晴れて

緣側に寢そべつている

 

眼を細くしてゐる

 

空は見えなくなるまで高くなつてしまへ

 

 

Orokanaruaki

 

 秋天的这大笨蛋

 

         作 尾形龟之助
         
译 心朽窝主人,矢口七十七

 

秋天晴朗

我躺在套廊上仰面朝天

 

眯缝眼睛

 

呀!变得更高吧!就往我看不见的高度去吧!

 


              
矢口七十七/

2015/03/08

尾形龜之助 「年のくれの街」 心朽窩主人・矢口七十七中文訳

 

    年のくれの街

 

         尾形龜之助

 

街は夕方ちかかつた

風もないのに

寒むさは服の上からしみこんでくる

 

何んとまあ ―― 澤山の奥さん方は

お買物ですか

まるでねずみのやうに集つて

 

左側を通つて下さい

左側を――

左側を通らない人にはチヨウクでしるしをつけます

 

[注:「寒むさ」はママ。二連目のダッシュの前後の半角空けもママ。]

 

 Tosinokurenomati  

 

 年底的街头

         作 尾形龟之助
         
译 心朽窝主人,矢口七十七

 

街上快傍晚了

虽说没风

寒气却从衣服外面渗进来

 

哎呀!—— 这么多的太太们

是不是买东西来的

集聚得像老鼠一样啊

 

请靠左边行走

靠左,啊!――

不靠左边走的,我会用粉笔画上标记

 


         矢口七十七/

尾形龜之助 「晝の街は大きすぎる」 心朽窩主人・矢口七十七中文訳

 

    晝の街は大きすぎる

 

         尾形龜之助

 

私は歩いてゐる自分の足の小さすぎるのに氣がついた

電車くらいの大きさがなければ醜いのであつた

 

 Hirunomatihaookisugiru

 

 白天的城市太大了
          
作 尾形龟之助
          
译 心朽窝主人,矢口七十七

 

发现走着路的自己的脚太小了——

除非像电车那么大,才会觉得不丑——

 


         矢口七十七/

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十八章 講義と社交(Ⅱ) 家族学校講演と慶応義塾での進化論講話と剣道試合観戦 第十八章 講義と社交~了

 第十八章 講義と社交 

 

 私の動物学の学級のための試験問題を準備するのに、多忙を極めた。今日の午後、私は四時間ぶっ続けに試験をしたが、私は学生達を可哀想だと思った。彼等はここ一週間、化学、地質学、古生物学、植物学の試験を受けて来たのである。これ等の試験はすべて英語で行われる。英語は、彼等が大学へ入学する迄に、完全に知っていなくてはならぬ語学なのである。

 

 世界一周旅行の途にあるグラント将軍は、目下彼の夫人、令息及び著作家ヤング氏と共に日本にいる。東京と横浜の米国人が、上野公園で彼の為に晩餐と招待会とを開いた。私は、申込金は払ったが、かかる事柄に対する暇が無いので、特別に行き度いとも思っていなかった。然し友人達が私に適当なことはした方がいいとすすめるので、いやいやながら晩餐会に出席した。私は永い列をつくった他の人々と一緒に順番にグラント将軍に紹介され、彼に対して先入主的な僻見を持っていたにかかわらず、彼の静かな、品のよい、而も安易な声調に感心した。私と一緒に行った娘は、大きにこの会をよろこんだ。戸口の近くに立っていた娘に向って、グラント将軍は話しかけ、彼女の手を取り、そして六尺豊かの大きくて頑丈な彼の令息を「私の小忰」に関する諧謔的な言葉と共に、彼女に紹介した。彼を凝視した時、我国の新聞紙の言語同断な排毀に原因する私の僻見は、即座に消え去った。他の人々が子息たちをこの招待会に連れて来ているので、私は静かに退場し、人力車で加賀屋敷へ急ぎ、熟睡している私の九歳になる忰を起し、着物を着せ、そして急いで会場へ連れて行った。後年彼が、この偉大な将軍に会ったことを、記憶に残させようとしたのである。

 

* その後好運なる偶然の結果、我々はグラント将軍と同じ汽船でサンフランシスコヘ戻り、彼は私の忰に西洋象棋(チェス)のやり方を教えて呉れた。

 

 

[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、之は明治一二(一八七九)年七月三日のことである。この日、日本を世界一周旅行の最後に選んだ前アメリカ合衆国大統領ユリシーズ・グラント将軍が横浜に着いており、その日の夜に上野精養軒で在日アメリカ人主催により開かれたグラント歓迎会がここ以下のシークエンスである。

「グラント将軍」ユリシーズ・S・グラント(Ulysses S. Grant 一八二二年~一八八五年)は南北戦争北軍の将軍で第十八代アメリカ合衆国大統領。モースの「先入主的な僻見」を考察するため、例外的にウィキの「ユリシーズ・グラント」より全面的に引かせて戴く(アラビア数字を漢数字に代え、注記記号を省略した。下線部は私が考えるモースの偏見の根っこの選択肢である)。アメリカ史上初の陸軍士官出身の大統領にして、南北戦争で戦った将軍の中では南軍のロバート・リー将軍と並んで(また、そのリー将軍を最終的に破ったことで)最も有名な将軍の一人。『軍人としては成功したが、大統領在任中の「クレディ・モビリエ事件」を始めとする多くのスキャンダルおよび汚職により、歴史家からアメリカ最悪の大統領のうちの一人と考えられている』。『オハイオ州クラーモント郡ポイント・プレザントで』製革業者の子として生まれた。『十七歳のときに、オハイオ州選出の下院議員トーマス・L・ハマーからニューヨーク州ウェストポイントの陸軍士官学校への推薦を受けた』。一八四三年に結婚し、『四人の子供(フレデリック、ユリシーズ・シンプソン・ジュニア、エレン、ジェシー)をもうけた』(フレデリック(Frederick Dent Grant)とユリシーズ・シンプソン・ジュニア(Ulysses S. Grant Jr.)は二歳違いであるが、英語版のそれぞれのウィキを見る感じでは、この時、モースの娘イーディス(当時十四歳)に引き合せたのは未だ独身であった後者のように思われる。であれば二十七歳である)。『グラントは、ザカリー・テイラー将軍およびウィンフィールド・スコット将軍の配下で米墨戦争に従軍』して中佐に昇進したが、一八五四年に多量飲酒で軍籍から一度離脱、『辞職後はセントルイスで農場経営、不動産仲介業、そして最後にイリノイ州ガリーナで父親の皮革・金物店の経理助手となっ』ている。その後の『南北戦争において、グラントは最優秀の将軍の一人であり、また最終的に北軍に勝利をもたらした偉大な司令官であった。戦術的な能力だけでなく、戦略家として南北戦争において両軍を通じて最も優秀であったといえる。優秀な司令官をもたなかったために再選が危うくなったエイブラハム・リンカーン大統領を救った一因となったのみならず、その後の切り札となり、前半では西部戦線での攻勢に、後半では東部戦線での大反攻に大きな功績を挙げた』。『南北戦争が勃発し、サムター要塞陥落の十日後、一八六一年四月二十四日にグラントはイリノイ州スプリングフィールドに彼が募った志願兵を連れて到着した。知事はグラントを反抗的な第二十一イリノイ歩兵連隊の連隊指揮官(大佐)に任命した。その後グラントはハンニバル&セント・ジョセフ鉄道を守るためにミズーリ州に派遣された。この時点ではまだミズーリ州は南部連合と合衆国の間で揺れ動いており、南部に同情的だったクレイボーン・ジャクソン知事は武装中立を宣言して州に侵入する軍隊は南北どちらであろうと攻撃すると宣言していた。ミズーリ州に「侵攻」した北軍は八月までにジャクソン知事を免職し、ミズーリ州を支配下に置いた。この行為はミズーリ州内の南部連合派の態度を硬化させ、北軍はこの後しばらく彼らの活動に悩まされることになる』。『同年八月、グラントは志願兵の准将に昇進した。下院議員エリフー・ウォッシュバーンの進言にリンカーンが耳を傾けた結果だと言われている。八月末、グラントは西部戦域司令官ジョン・C・フレモント少将によりヘンリー・ハレック将軍の下で南東ミズーリ戦線を任されることとなる』。『一八六二年二月、東部では北軍の苦戦が続く中、西部では河川砲艦と奇襲を組み合わせてヘンリー砦とドネルソン砦を奪取し(ヘンリー砦の戦い、ドネルソン砦の戦い)、西部戦線の東西河川交通の要衝を支配した。これは北軍のミシシッピー河を南下して南部連合の中部と西部を分断する大戦略を可能にした。その後、シャイロー付近で部隊を駐屯中に南軍の奇襲攻撃を受けたが、これの撃退に成功した(シャイローの戦い)。上官のハレック将軍は一時グラントの功績を嫉妬したのか、飲酒癖を理由に解任したが、結局のところ彼の能力は捨てがたく、再任されることになる』(後の段落で一切、酒を飲まないとあるのとは齟齬する。先の飲酒による軍籍離脱やこの記述からは明らかに彼は「大酒家」(モースの後段の謂い)であった。モースは案外、単純に彼を、新聞の伝えるところの、酒乱の乱暴者、と信じ込んで反感を持っていたとも考えられなくはない)。『十月にはハレック将軍が東部戦線のポトマック軍司令官に召還され、後任としてテネシー軍司令官となった。野戦軍司令官としてポトマック軍司令官に次ぐ重職といえる。グラントは水陸一体の作戦を進めミシシッピ河を南下。一八六三年四月には南部でのミシシッピ河の重要な渡河点であるビックスバーグ要塞を河川砲艦による強行突破と奇襲上陸により包囲体制を築くと、七月四日にこれを陥落させた(ビックスバーグの包囲戦)。これは有名なゲティスバーグの戦いの最終日の翌日であり、南軍の攻勢の終末点であると同時に、戦略的に南部が東西に分断され西部での北軍の攻勢が完遂した日でもある。十一月にはチャタヌーガで南軍を敗退させ、西部において南軍が組織的反撃を行う能力をほぼ喪失させた』。『リンカーン大統領にとって首都防衛と敵攻略を兼ねるポトマック軍の司令官に人材を得ないのが最大の悩みであり、師団長クラスでは優秀な戦術家であっても司令官となるととたんに弱点を露呈する将軍が多く、マクドウェル、マクレラン、フッカー、バーンサイド、ハレックとことごとく期待を裏切っており、ゲティスバーグでリーを撃退したミードもこの任に長く耐えられそうもなかった。そのため、西部で南軍を切り裂いたグラントに白羽の矢が立てられることになる』。『一八六四年三月、ミードはそのままポトマック軍司令官に留任し、その上級司令官の形でグラントが北軍総司令官に任命され、主に東部戦線の指揮をとった』。『西部戦線の後任にはグラントの盟友でかつ忠実な部下であったウィリアム・シャーマン将軍がテネシー軍司令官となり、アトランタを抜けてサバンナへの海への進軍を行った。その途上の各都市を破壊し、物資の略奪を公然と行った。南軍の戦争遂行能力をずたずたに引き裂いた』(モースは例えば、伝えられたこの略奪行為をグラントに結び付けて悪印象を持っていたとも考え得る)。『一方でグラントは人口と工業生産力にまさる北軍の国力を背景に、東部では物量による不屈の南下作戦を開始し、常にリーを相手に大損害を受けながらリッチモンドへ進撃を開始。荒野の戦い、スポットシルヴェニアの戦い、コールドハーバーの戦いと全てリーの南軍は寡兵ながら自軍以上の損害を与え続けたものの、消耗戦に巻き込まれた形になり、また迂回と突破、そして水上移動を使い分けるグラントに徐々に押し込められていった。グラントは南部連合首都のリッチモンドの裏口にあたるピーターズバーグに水路押し寄せ、リーは事前に察知して先回りし塹壕線を築くが、結果的に野戦軍がリッチモンド及びピーターズバーグに押し込められる形になり、戦略的包囲に成功した。そのため、南軍はアトランタから大西洋へ抜けようとするシャーマンに対する軍に救援が送れず、シャーマンはやがてサバンナから北上してさらに両カロライナとヴァージニアを焼き尽くしながらグラントに合流する』。『リーは最後の賭けに出てピーターズバーグを放棄し、南に撤退しジョンストン率いるテネシー軍と合流しようとしたが(アポマトックス方面作戦)グラント率いる北軍に捕捉されアポマトックス・コートハウスで遂に降伏した。これによりなし崩し的に残りの南軍部隊も次々と降伏し、グラントは南北戦争における英雄となった』。『戦争後に連邦議会は、一八六六年七月二十五日に三つ星を中将位に改め、四つ星の陸軍大将(当時の呼称はGeneral of the army of the United States)に任命し、その労をねぎらった』(ここまでが軍歴。一八六六年当時、モースは二十八歳で、本格的な博物学論文の発表から二年後で、エセックス研究所に勤務を始めている)。『グラントは一八六八年五月二十日にシカゴの共和党全国大会で満場一致で共和党大統領候補に選ばれた。その年の大統領選で』勝利した。しかしながら、『グラント政権は、汚職とスキャンダルに悩まされた。特に連邦政府の税金から三百万ドル以上が不正に得られたとされるウイスキー汚職事件では、個人補佐官オービル・E・バブコックが不正行為に関与したとして起訴され、大統領の恩赦で有罪判決を回避した。ウイスキー汚職事件後に、陸軍長官ウィリアム・ベルナップがアメリカインディアンとの販売・取引ポストと交換に賄賂を受けとったことが調査によって明らかになった。グラント自身が部下の不正行為から利益を得たという証拠がないが、彼は犯罪者に対する厳しいスタンスをとらず、彼らの罪が確定した後さえ、強く反応しなかった』。なお、冒頭に出た最も悪名高いクレディ・モビリエ(Crédit Mobilier)事件については、何故か日本語版ウィキには記載がないので「ブリタニカ国際大百科事典」から引くと、当時のアメリカの鉄道建設を巡る汚職事件で、一八七二年にニューヨーク『サン』紙によって暴露されたもの。ユニオン・パシフィック鉄道の建設会社クレディ・モビリエが、連邦政府によるローンと土地下付の特権を悪用して二千三百万ドルといわれる巨額の金を着服した事件である。グラントはその後も、『荒廃した南部の再建および先住民対策に失敗し、支持が急落した』とあり、『一八七二年三月三日には、アメリカを訪問した岩倉使節団と会見した。その際使節団に対し、キリスト教禁教を続ける明治政府の政策を激しく非難した。また、琉球の帰属問題にも介入している』とある(もしかすると、キリスト教嫌いのモースのグラントへの偏見はの根っこの一つはここにあるのかも知れない)。「インディアン政策」の項。『グラントは熱心な保留地政策の支持者であり、どちらかといえば和平主義者であった。が、保留地囲い込みに従わない部族は絶滅させるとの姿勢だった』(こうした隔離強硬策はモースの最も嫌悪するところではある)。『一八六〇年代後半から、知人であったインディアン(イロコイ族)出身のエリー・サミュエル・パーカー(本名ドネホガワ)をインディアン総務局長に任命し、保留地監督官にさまざまな宗教団体から推薦された者を任命する政策を実行した。クェーカー教徒の志願者が多かったため、「クェーカー政策」、「平和政策」と呼ばれた。しかしキリスト教の押し付けもインディアン部族にとっては余計なお世話であり、対立は解消されなかった』(これもキリスト教嫌いのモースの癇に障る苛立たしい政策と言える)。『このグラントの和平案から、「戦争の諸原因を除去し、辺境での定着と鉄道建設を確保し、インディアン諸部族を開化させるための体系を作り上げる」べく、「和平委員会」が設立されることとなった。和平委員会はインディアン諸部族と数々の条約を武力を背景に無理矢理結んでいったが、すぐに白人側によって破られていく現実を前に、グラントが夢想したような和平などは実現しないと悟った』。『また、西部インディアン部族の最大反抗勢力であるスー族に対し、雪深い真冬に保留地への全部族員移動を命じて反感を増大させ、戦乱のきっかけを作った』(これもモースならひどく嫌悪したはずである)。『大統領職二期目の終了後に、グラントは二年間世界中を旅行した。最初の訪問地はイギリスで、一八七七年』、『一八七九年六月には国賓として日本を訪れた。グラントはアメリカ合衆国大統領経験者で、訪日を果たした初の人物でもある。浜離宮で明治天皇と会見した。増上寺で松を植樹、上野公園で檜を植樹した。また日光東照宮を訪問した際には、天皇しか渡ることを許されなかった橋を特別に渡ることを許されたものの、これを恐れ多いと固辞したことで高い評価を受けることとなった』(ここに記されたエピソードはモースも既に「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第三章 日光の諸寺院と山の村落 2 日光東照宮へ」の原注で紹介している。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、グラント来日に対する『日本側の歓迎熱異様なほどで、将軍が離日するまでの二箇月間は、邦字新聞もグラント一色に塗りつぶされた』とある)。『一八八四年、グラント・アンド・ウォード商会の倒産後の負債で金銭的に困窮し、マーク・トウェインの勧めもあって、回想録を執筆したが、すでに末期の喉頭癌で回想録が完成したのは死の数日前だった。回想録はベストセラーとなり、妻子に快適な収入を与えることとなった。一八八五年七月二十三日にニューヨーク州サラトガ郡のマウント・マクレガーで死去した。北アメリカで最大の廟、ニューヨーク市のグラント墓地に、妻と共に埋葬されている』とある。来日当時、六十七歳。モースは一八三八年生まれであるから、グラントより十六歳年下であった。

「彼の夫人」ジュリア(Julia Grant)来日当時、六十三歳。

「令息」「グラント将軍」の注で推測した通り、次男ユリシーズ・シンプソン・ジュニア(Ulysses S. Grant Jr.)ではないかと思われる。来日当時、二十七歳。

「著作家ヤング氏」アメリカのジャーナリストで作家のジョン・ラッセル・ヤング(John Russell Young 一八四〇年~一八九九年) 。後に外交官やアメリカ合衆国議会図書館司書となった。この時の随行記“Around The World with General Grant”(New York, 1879 「グラント将軍日本訪問記」)は特に知られる(英語版ウィキに拠る)。

「彼に対して先入主的な僻見を持っていた」この具体的な僻見(へきけん。偏見に同じい)の内容は分からない。軍歴上の何かによるものか、それとも大統領就任後のスキャンダルに対するものかも不明であるが、「我国の新聞紙の言語同断な排毀に原因する私の僻見」と言い換えており、私は後者であろうと臆測はしている。前の「グラント将軍」の注を参照されたい。

「私と一緒に行った娘」モースの娘イーディス(Edith Owen Morse)。当時十四歳。

「排毀」捨て去ること。やめて用いないこと。

「私の九歳になる忰」長男のジョン(John Gould Morse)。

「我々はグラント将軍と同じ汽船でサンフランシスコヘ戻り」この明治一二(一七八九)年九月三日に第二次の来日から帰国の途についたモースが横浜から乗船したサンフランシスコ行「シティ・オブ・トーキョー」にはグラントも、偶然、同船していた。因みにこの船には東大理学部の同僚で大森貝塚を巡る論争の好敵手であったナウマンも同船していた(磯野直秀「モースその日その日」に拠る)。]

 

 食事の時グラント将軍は、酒類は如何なる物も一切口にせず、私は、彼が大酒家であるという噂が、飛んでもない誇張であるということを聞いた。工科大学に於る彼の招待会は、この上もなく興味が深かった。古風な、而も美しい宮廷服を着た王妃や内親王、奇妙な、装飾沢山な衣服に、赤い馬の尻尾のような羽根をぶら下げた白い円錐形の帽子をかぶった支那公使館員、風変りな衣裳に儀式用の帯を結び、類の無い頭装をした朝鮮人、勲章を佩(お)びた欧洲の役人達――これ等は私にとっては皆目新しく、そして興味があった。

[やぶちゃん注:モースは以下、述べていないが、グラント将軍とはこの二日後にも逢っている明治一二(一九七九)年七月十日の東京大学卒業式である。来賓として招かれたグラント将軍に、モースは『是は生物学を専攻する買う姓なりとさも自慢さうに一人宛紹介して握手の榮を得しめた』(弟子石川千代松記。『科学知識』第六巻・一九二六年所収。磯野直秀「モースその日その日」より孫引)と、モース先生の弟子思いを伝えている。

「工科大学」原文は“College of Engineering”であるが、来日当日の歓迎会から五日後の七月八日に行われた、虎の門の工部大学校(明治初期に工部省が管轄した教育機関で現在の東京大学工学部の前身の一つ。明治六(一八七三)年に大学を設置、この二年前の明治一〇(一八七七)年一月に工部大学校と改称していた。初代都検(教頭。実質的な校長)をイギリス人ヘンリー・ダイアー(Henry Dyer)が務め、東大と同様に他にも外国人教師が招かれて多くの授業は英語で行われた。以上はウィキの「工部大学校に拠った)でのグランド将軍歓迎会の一コマである。

「王妃や内親王」原文は“The royal princesses”であるが、明治一二(一八七九)年当時では出席し得る内親王はいない(第二皇女の梅宮薫子内親王(うめのみやしげこ)は未だ四歳である)から、この謂いが正しいとするならば、明治天皇正室の昭憲皇太后(当時三十歳)か、梅宮薫子内親王母の明治天皇側室権典侍柳原愛子(当時二十歳)ということになるが? 識者の御教授を乞うものである。]

 

 四十人の若い娘の一級(クラス)を連れて来た、華族学校の先生数名は、非常に奇麗だった。彼等は皆美しい着物を着ていて、沢山いた外国人達を大いに感心させた。和服を着た人々の群を見ると、そのやわらかい調和的な色や典雅な折り目が、外国の貴婦人達の衣服と著しい対照を示す。小柄な体軀にきっちり調和する衣服の上品さと美麗さ、それから驚嘆すべき程整えられ、そして装飾された漆黒の頭髪――これ位この国民の芸術的性格を如実に表現するものはない。この対照は、彼等が洋服を着用するとすぐさま判る。その時の彼等は、時としては飛んでもない外観を呈するのである。少女達と彼等の先生との可愛らしい一群は、彼等が惹起した崇拝の念に幾分恥しがりながら、広間の中央に近く、無邪気な、面喰った様な容子で立った。私は一人の日本人に、彼等をグラント将軍が他の人々と一緒に、立って引見している場所へ連れて行かせた。其後私は、誰も彼等に氷菓(アイスクリーム)や菓子を渡さぬのに気がつき、一人の日本人に手つだって貰って、彼等にそれ等をはこんでやった。彼等はすべて壁に添うて畳の上に一列に坐っていたが、彼等にとっては、氷菓と菓子のお皿を手に持つことがむずかしく、自然お菓子の屑が床に落ちた。また溶けて行く氷菓の一滴が美しい縮緬の衣服に落ちたりすると、彼等は笑って、注意深く、持っている紙でそれを取り除く。この紙はまるでポケットに似た袂に仕舞い込み、最後に立ち去る時には、注意深く畳を調べ菓子の屑を一つ残らず拾い、あとで棄てるように紙につつむのであった。貴族の子女がかかる行儀作法を教え込まれているということは、私には一種の啓示であった。

[やぶちゃん注:「華族学校」現在の学習院大学の前身。弘化四(一八四七)年に仁孝天皇が京都御所内に設けた公家を対象とした教育機関である「学習所」を起源とする(但し、仁孝天皇は前年に薨去している)。明治維新を経て、華族制度が整備され、この三年前の明治九(一八七六)年に校名を「華族学校」とした。翌十年には「華族学校学則」が制定され、さらに明治天皇のもとで開校式が行われた際、改めて「学習院」と改名されている。元来は皇室の設置する私塾という位置づけであったが、この五年後の明治一七(一八八四)年には宮内省が所轄する正式な官立学校となった(ウィキの「学習院大学」に拠る)。]

耳嚢 巻之十 理運に過て恥辱を請る事

 理運に過て恥辱を請る事

 

 近年の由、道中興津とかやに、阿州とやらん大家の家來四五人晝休(ひるやすみ)などして、茶屋にて酒食なしけるに、是も一柳(ひとつやなぎ)とかやの家來同じく晝食なしけるが、右一柳家の者は先へ立(たつ)て一里餘も行(ゆき)しに、召遣(めしつかひ)し中間(ちうげん)、持鑓(もちやり)を右茶屋の軒に立懸(たてか)け置忘(おきわす)れし由申(まうす)故、驚入(おどろきいり)、取(とり)に可歸(かへるべき)旨申(まうす)故、右の内は暫(しばらく)外(ほか)茶屋に休居(やすみをり)しに、右中間立歸り、右鑓を亭主へ斷(ことわり)、取(とり)に懸り候處、右大家の家來は、武家の身分にて持鑓を忘れしといへる事有(ある)べきや、此方拾ひ候鑓に付(つき)、自身罷越(まかりこし)、誤(あやまり)候はゞ可歸(かへすべき)段、酒興に候哉(や)口々申罵(まうしののし)り不相返(あひかへさざる)故、詮方なく右中間主人の方へ參り、其段申候節、右茶屋の亭主も甚(はなはだ)氣の毒に思ひ、右中間と打連(うちつれ)て倶に右中間申通(まうすとほり)無相違(さういなき)旨申故、主人も詮方なく、然らば我等直々罷越、可取戻(とりもどすべき)と申けるを、茶屋の亭主、直々御懸合(おんかけあひ)候はゞ如何樣の變事も難計(はかりがたく)、今一應拙者取扱(とりあつかひ)て請取(うけとる)段申(まうす)故、其意に任せ候處、亭主色々侘(わび)候得共、右鑓持の首を主人持參なさば可歸(かへすべき)由と申、一向不取合(とりあはず)。詮かたなく其趣、鑓ぬしへ申候處、則(すなはち)右主人立歸(たちかへ)り、家來不調法にて鑓を搜し直しを、各樣(おのおのさま)御捨ひの由にて御差留(おんさしとめ)の由、家來への申付(まうしつけ)方不行屆(ゆきとどかず)、拙者に於いても恐入(おそれいり)候間、何分御返し可被下(くださるべき)旨申けるをも、一向挨拶も無之(これなく)、武家の道具を右の通(とほり)取計(とりはから)ふ事沙汰の限り也(なり)と、嘲りけれど、各樣(おのおのさま)と違ひ小家を勤(つとめ)候者、況や又者(またもの)の儀、幾重にも勘辨(かんべん)の上返し給(たまひ)候樣(やう)、達(たつ)て申入(まうしいれ)けれど、嘲るのみにて有無(うむ)の返答無之(これなき)故、最早勘忍難成(なりがたし)と、重立(おもだつ)惡口(あつかう)の者を、先づ一刀に切倒(きりたふ)しければ、殘る者共立(たち)あがり候を、右の鑓を追取(おつとり)働き、二人に手を負せ二人を害(がいし)、其(その)殘りは其場をはづし候哉(や)不相知(あひしらざる)由なり。道中奉行抔へ申出(まうしいで)候やは不聞(きかず)ば、實事や其程は不知(しらざれ)ども、聞(きき)し儘を爰に記す。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。変型武辺物。この大藩(阿波徳島藩蜂須賀家なら二十五万七千石)の家来の物言いは、言葉上は「理運」(道理にかなっていること・正当であること)、理に適ってはいる。しかし、何だか小藩(以下に見るように一柳家は二家あるが孰れも一万石)の家来を如何にも見下した、今の世の陰湿な「いじめ」かパワハラのようなねちっこさであって、頗る後味が悪い(脱線だが、主人と鑓持ちの話ならば、内田吐夢監督作品「血槍富士(ちやりふじ)」の方が遙かにいい。未見の方はお薦めの一作である。リンク先はウィキ)。なお、底本の鈴木氏注には、『三村翁曰く、「此筋講談に在り、何れが先なるや。」』とあり、岩波の長谷川氏注には、別な鈴木氏の注として、宝暦八(一七五八)年四月、『浜松であった事件の話しかえか』ともある。この実際の事件についてご存知の方は、是非、御教授を願うものである。なお、最後の方の人数が上手く合わないので、訳に手を加えて頭数を合わせておいた。

・「興津」東海道十七番目の興津宿。現在の静岡県静岡市清水区。

・「阿州」阿波国。主藩は阿波徳島藩で蜂須賀(はちすか)家で外様。阿波国(現在の徳島県)・淡路国(現在の兵庫県淡路島)の二国を領有、二十五万七千石。「近き頃」とあり、「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月であるから、当時の藩主は第十一代藩主蜂須賀治昭(はるあき)か(文化一〇年(一八一三年)九月隠居・文化十一年三月没)、次代第十二藩主斉昌(なりまさ)であるが、前の示した宝暦八(一七五八)年四月の事件がモデルであるとすれば、その前の第十代藩主重喜(しげよし)である。而してウィキの「蜂須賀重喜を見ると、『贅沢三昧の生活を幕府に咎められ、江戸屋敷への蟄居を強要されそうになった』、とある書には『女漁りを行い淫行に耽溺し、家臣達にも淫行を促したと』あからさまに書かれ、また『重喜は小さな藩の生まれであるコンプレックスがあったとされ』(彼は出羽秋田新田藩主佐竹義道四男であったが、宝暦四(一七五四)年に十九で夭折した阿波徳島藩第九代藩主蜂須賀至央(よしなお)の末期養子となった)『それゆえ功を焦って性急な改革を行った』りしたと記されてある。この不行跡、どこまで本当かは分からぬが、この大藩を笠に着てねちねちした小理屈を理不尽に繰り出す家来の主なればこそ、とも思わせる内容ではある。

・「一柳」底本の鈴木氏注に、『播州小野で一万石、或いは伊予小松で一万石、右の二家のうち』とある。小野藩は播磨国加東郡(現在の兵庫県小野市小野市及び加東市)を領した外様の小藩。前の示した宝暦八(一七五八)年四月の事件がモデルならば当時は第五代藩主一柳末栄(ひとつやなぎすえなが)。一方の小松藩は伊予国東部を領したやはり外様の小藩(藩庁は周布郡新屋敷村、現在の愛媛県西条市小松町に置かれた)。同じく宝暦八年時は第五代藩主一柳頼寿(ひとつやなぎよりかず)であった。なお、この二家は元は豊臣秀吉に仕えた一柳直盛の実の兄弟からの分家である(ウィキの「一柳氏」を参照のこと)。

・「侘」底本には右に『(詫)』と訂正注する。

・「又者」家来の家来。又家来。陪臣。

・「追取」底本には右に『(押取)』と訂正注する。「おつとり」で、相手から主の鑓をもぎ取って取戻し。

・「道中奉行」五街道とその付属街道における宿場駅の取締り及び公事訴訟・助郷(すけごう:幕府が諸街道の宿場保護及び人足・馬などの補充を目的として宿場周辺の村落に課した夫役。)の監督・道路や橋梁など道中関係実務の全てを担当した幕府の職掌。ウィキの「道中奉行」によれば、初見は「吏徴別録」の寛永四(一六三二)年の条にある水野守信ら四名の任命の記事であるが、一般的には万治二(一六五九)年に大目付高木守久が兼任で就任したのに始まるとされ、暫く大目付兼帯一名であった。元禄一一(一六九八)年には勘定奉行松平重良が道中奉行加役となって以後、大目付と勘定奉行から一名ずつ兼帯する二人制となったものの、その後の弘化二(一八四五)年よりは大目付のみの兼帯に戻っている。役料は享保八(一七二三)年から年に三千石、文化二(一八〇五)年以後は年間金二百五十両であったとある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 理運に過ぎて恥辱を受けて惨劇を生じたる事

 

 近年の出来事の由。

 東海道の道中、興津(おきつ)宿での事件で御座ったとか申す。

 阿波国とかの大家の御家来衆、これ四、五人、昼休みなど致いて、街道沿いの茶屋にて酒食などなしておったところ、これも一柳(ひとつやなぎ)家とか申さるるところの御家来、やはり立ち寄って同じく昼食をなして御座った。

 この一柳家の一行は先に茶屋を立って、さても一里余りも行ったところで、召使うて御座った中間(ちゅうげん)が、

「……ご、ご主人さま……じ、実はお持ち申し上げておりましたところの……その、や、鑓(やり)を……さ、先程の茶屋の軒に、立てかけたまま……こ、これ……置き忘れてしもうて御座いまするぅ……」

と申したによって、主(あるじ)、これ、驚きいり、

「――直ぐに取りに戻って、参れッツ!!」

と命じ、その主その他の者は、これ、しばらく、街道沿いにあった茶屋にて休んで待つことと致いた。

 ところが、そのうっかり者の中間、先の茶屋へとたち帰ると、かの置き忘れたる鑓を茶屋亭主へ置き忘れた旨、断りを入れ、さてもいざ、取ろうと致いたところ――かの大家の御家来衆、未だに酒食に興じて御座ったが――その中の一人が、いち早く

――サッ!

と、立てかけてあった、かの鑓を奪い取り、

「――おう!……武家の身分にて……持鑓(もちやり)を忘るると申すこと……これ、あろうことかぁあ?!……」

と、鑓を別な一人に投げ、

「――ほぅれ! 拙者らが拾うて大事大事に持っておるで、の!……」

「――そうさ!……これはの、こちとらの拾うた鑓につき……さても、その主に、自身、罷り越してだな! 『鑓を忘れ申しました! 御免仕りました! お返し下されぃ!』と謝って御座ったならば……これ、返してやろうやないカイ!……」

「――そりゃ! 道理じゃ!……ハッハッハ!……」

「――おうさ! そう、伝えい!……そんな鑓を忘るる武士なんど、おるはずもないわ!……大方、おめえは、これ、鑓盗みのカタリで御座ろう?!……」

と、酒に酔った勢いもあったものか、はたまた大藩の家来という驕りもあったものか、皆して口々に罵っては、一向、鑓を返そうとはせなんだと申す。

 されば、詮方のぅ、かの中間、尾羽根うち枯らして、主人の方へと戻ると、かの茶屋へ戻ってからの顛末を、如何にも申し訳なさそうに、今にも泣きそうな蒼い顔にて、主人へと申し述べた。

 すると、それを耳に致いた、主一行が中間を待って御座った街道筋の、その茶屋の亭主が、これ、はなはだ気の毒に思うて、

「……その茶屋は同業の馴染みの者なれば……手前どもがそのお中間とうち連れて、今一度、かの茶屋へと参り、お中間の申さるること、これ、確かなことに相違御座いませぬ、と御口添え致しましょうほどに。……」

と申し入れて呉れたによって、かの主人もこれ、詮方のぅ、

「……かくまで他の者の世話となるも、これ、心苦しきことじゃ。……されば、先方の申すように、我ら、直々に罷り越し、取り戻すしか、これ、あるまい。……」

と言うところ、かの助力を申し出でたる茶屋の亭主が、

「……いやぁ。……直々にお関わり合いになられたとらば……これ、どんな変事の起らんとも限りませぬ。……どうか、ここのところは、一つ。……今まず一応、手前どもに取り扱わさせて戴き、無事、鑓を受け取って参りましょうからに。……」

と切(せち)に止(とど)めては、自ずから請けごうて御座ったによって、主も、

「……かくまで申さるるとならば。……では、一つ、お頼み申そうか。」

と、その茶屋主人の意に任せて御座った。

 ところが……

……中間に同道した茶屋主人が、知れる向こうの茶屋亭主にも訳を語って仲に入って貰い、中間とともに、これ、三人、雁首揃えて平身低頭致いては、いろいろと詫びなんをも入れてみたものの、さらに輪をかけて酔うて待ち構えて御座った、かの御家来衆、その中でも一番の性質(たち)悪しく見ゆる男が、大音声(だいおんじょう)を挙げ、

「――ワレ!――そこな鑓持ち中間の首!……これ、主の持参致いた、な、ら、ば! 返してやろうぞッツ! ダハハハハッツ!」

と、吐き捨て、一向、これ、とり合おうとはせぬ。

 されば、またしても詮方のぅ、またまた二人して街道をとぼとぼと戻って、以上の趣きにつき、鑓主が主へ申し上げた。

 すると、主儀、何も言わず、即座に、かの元の茶屋へとたち戻ると、

「――家来不調法にて、鑓を捜し直させて御座ったところ――各々方(おのおのがた)に御捨い戴いて御座った由――それを疑義のあればこそと御引渡し御差留(おんさしとめ)になられておらるる由――これ、家来への拙者の申し付け方、行き届かざるが元なればこそ、拙者に於いても貴殿らに恐れ入っておりまする間――何分、我が鑓をこれ、御返し下さいまするよう、お願い申し上ぐる。――」

と、言葉を尽くして穏やかに申し入れた。

 ところが……

……これ、それでも……一向、先方から挨拶の一つも、これない。

 果ては、かの大トラとなって調子づいた男が、

「――武家の大事の道具を……ヒック! 忘れ、……かくなるザマにて、取り計らわんと致すは……ヒック! これ、沙汰の限り、ハナシにならん!……チェ! ヘッツ!……」

と、まだ嘲(あざけ)って御座った。

 それでも、かの鑓主、

「――我ら、各々方(おのおのがた)と異なり、小家に勤めておる者にて。――況んや、その家来の家来が、これ、しでかしましたる儀なればこそ。――幾重にも御勘弁の上、速やかに鑓を返し下さるるやう――達って! お願い申し上ぐるっ!――」

と、穏やかながら、最後は、これ、ぴしりと言い切った。

 されど、かの酔うたる五人の者ども、これ、口々に罵詈雑言を嘲るばかりにて、返すとも返さぬとも、一向、これ返答なく、かの最もおぞましき男なんどは、涎を顎に垂らしつつ、挑戦的な目つきにて、へらへらと笑ぅておるばかりで御座った。

――と――

「――されば!――最早、勘忍なり難しッ!――」

と鑓主、一声致いたかと思うと、先般より主立(おもだ)っ引きも切らず悪口(あっこう)を放っておったその男を、

――バラリ! ズン!

 一刀のもとに斬り倒す!

 他の四人、これを見て一斉に立ち上ったが、これも、鑓主、かの己(おの)が鑓を即座に押し取るや、

――シュッシュツ!

と扱いては縦横に振り回し、

――ブスリ! ザック!

と、忽ち、二人の者の深手を負せ、一人は脇腹を劈(つんざ)いて、初手(しょて)に斬り殺した男と合わせて二人を殺害、残りの一人は、恐れをなしたものか、その場から姿を晦まし、結局、行方知れずと相い成ったと申す。……

 この顛末、道中奉行などへ申し出でたかどうかまでは確認しておらず、されば、事実であったかどうかも、これ、定かでは御座らぬが、ともかくも聴いたままに、ここに記しておくことと致す。

耳囊  卷之十 非情といへども松樹不思議の事

 

 非情といへども松樹不思議の事

 

 文化八年芝邊大火ありて、增上寺もあやふく囘祿を遁れしに、火除(ひよけ)として、右最寄(もより)上ケ地(あげち)となりて、屋敷は町家となり、町家は屋鋪(やしき)に渡り、火除とて空地(あきち)になりし所もある、そが中に御先手(おさきて)を勤(つとめ)し能勢(のせ)某(なにがし)といへる屋鋪もあがりて市谷邊へ引移(ひきうつ)りけるが、彼(かの)元やしきは半ば山にて、右山は片目蛇(かんたち)山と唱へ、古く蛇の住(すめ)る由を傳へ、何もあしき事はなけれど、右山上は久しく火災をまぬかれ、先年の火災にも、多く右の所にて助(たすけ)をうけしと傳へぬ。又大木の松ひともとあり、枝葉繁茂して中々見所も多ければ、是まで斧鉞(ふえつ)のうれひもなかりしが、此度は伐(きり)もせんと相談の所、むかふなる屋鋪にて是を望み、何卒貰ひうけんとの事故(ゆゑ)、伐捨(きりすて)んも無慙(むざん)なれは、幸ひなりとて能勢氏も承諾して、人夫をかけ根を掘りかゝり漸く根を𢌞しけるに、一夜の内に元の如く土に埋(うま)り、中々動す事もなりがたし。殊のふ人夫もつかれ、これは伐(きら)んより外あるべからずとみなみな手を引(ひき)ければ、能勢氏是を聞(きき)て、かの所へ至り、年久敷(ひさしく)有(あり)し松、外へ移(うつら)んは心うかるべけれども、我とても外へうつればせんかたなし、幸(さいはひ)に愛すべき人近くありて、引(ひか)ん事を望(のぞま)れし故に、掘動(ほりうごか)すなり、しかれども兎角日數(ひかず)をつみても動かざれば、詮かたなく伐(きり)もすべし、さありては無慙なれば、あすは快く移るべしと敎諭(きようゆ)なしけるに、不思議にも其あけの日は事なく望(のぞみ)し人の屋敷に移りしとなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:怪異譚から植物妖異譚で連関。

・「文化八年芝邊大火」底本の鈴木氏注に、『文化八年二月十一日、今の午後四時市谷谷町念仏坂より出火して、赤羽まで焼失し、死者も二百人程ありし、其の時の事なるべし。(三村翁)』とある。文化八年二月十一日はグレゴリオ暦一八一一年三月五日。まだ薄ら寒い時節であったと思われる。「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月。

・「火除」底本の鈴木氏注に、『火除地。防火用に設ける空地。火除地に指定された屋敷や町屋は公収され(上ゲ地)、替地を与えられる』とある。ウィキの「火除地」によれば、江戸幕府が明暦三年一月十八日(グレゴリオ暦一六五七年三月二日)から一月二十日に及んだ『明暦の大火をきっかけに江戸に設置した防火用の空地。広義では、同様の趣旨を持った街路である広小路なども含まれる。このため、狭義の火除地を火除明地(ひよけあきち)と呼んで区別する場合もある』。『江戸の急速な発展により火災の危険が増大したとして、その延焼防止のために火除地を作る構想は早くから存在したとされているが、実際に実行されたのは明暦の大火による甚大な被害の後であった。同大火後に焼け跡5ヶ所を火除地に充てた他、以後も主として江戸城への類焼を防止する観点から江戸城の北西側を中心に少しずつ増やされて享保年間には13ヶ所にも増大された』。『ただし、火除地は単なる空地だったわけではなく、火除地の機能を損なわない範囲内で公私に利用を許すこともあった。このため、幕府の薬園や馬場、小規模な露店並びが設置されている例も存在した』とある。

・「上ケ地」幕府が江戸市中に於いて強制収公した土地のこと。対義語が「代地(だいち)」で、この収用した土地の代替地として市中に与えた土地をかく言う。町ごと収用する場合もあり、代地に移転・成立した町を代地町(だいちまち)とも称した。参照したウィキの「代地」によれば、『江戸時代初期には江戸城や市街地の整備のために代地が行われることが多かったが、明暦の大火以後は火除地の設置など防災上の理由などの理由に行われた。こうした移転は大名屋敷や寺社・庶民の町屋などを問わず行われ、町全体が丸ごと1か所もしくは数か所に分散して移動させられる場合もあった』とある。

・「御先手」何度も注しているが、再掲する。先手組(さきてぐみ)のこと。江戸幕府軍制の一つ。若年寄配下で、将軍家外出時や諸門の警備その他、江戸城下の治安維持全般を業務とした。ウィキの「先手組」によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、『先手とは先陣・先鋒という意味であり、戦闘時には徳川家の先鋒足軽隊を勤めた。徳川家創成期には弓・鉄砲足軽を編制した部隊として合戦に参加した』者を由来とし、『時代により組数に変動があり、一例として弓組約十組と筒組(鉄砲組)約二十組の計三十組で、各組には組頭一騎、与力が十騎、同心が三十から五十人程配置され』、『同じく江戸城下の治安を預かる町奉行が役方(文官)であり、その部下である町与力や町同心とは対照的に、御先手組は番方であり、その部下である組与力・組同心の取り締まり方は極めて荒っぽく、江戸の民衆から恐れられた』とある。

・「能勢某」不詳。

・「片目蛇(かんたち)山」これは原本のルビであるらしい。位置不詳。直感であるが、片目蛇は恐らく屋敷神伝承と関係があり、老いたる松は年を経て変じた龍蛇の化身と相応(ふさわ)しい。恐らくは山も地名も総て失われてしまったものであろうが、唯一つ、この「耳囊」の掌篇がその形見として残ったというべきか。

・「人夫をかけ」この「かけ」は「掛(か)く」で(わざわざその松の移植のために)人手を「かけ」の意か、「掻(か)く」で人手を移植のためだけに掻き集めての意か。取り敢えずは「雇う」と訳しておいた。

・「根を𢌞し」岩波の長谷川注に、『移植のため根元を中心に適当に根を切ること』とある。

・「殊のふ」形容詞「殊無し」(格別だ)の音変化「ことのう」に同じ。殊の外。 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 非情と言えども松の樹の不思議に感応致いたる事

 

 文化八年、芝の辺りにて大火の御座った。

 この折りは、かの増上寺も危うくなるも、辛うじて類焼は免れた、ほんに大火で御座った。

 さても、この大火のすぐ後(のち)のこと、火除(ひよ)け地として、かの最寄り一帯は、これ、上げ地となって御座って、屋敷で御座ったところは町家となり、町家で御座ったところは武家屋敷へと変貌致すなど、がらりと様変わり致いて御座った。また、或いは火除(ひよ)け地として何もない空地になったところも御座った。

 その火除け地として、丸裸にされた土地の中に、御先手組(おさきてぐみ)を勤めて御座った能勢(のせ)某(なにがし)と申す御仁の屋敷も挙がったによって、能勢氏、そこを一切、空け払い、市ヶ谷辺りへと引っ越して御座ったと申す。

 さて、その能勢氏の元の屋敷地と申すは、これ、その半ばは小高い山にて御座って、そこは、あの辺りにては、古えより「片目蛇山(かんたちやま)」と称し、古くより、蛇の棲みついておる山として、言い伝えらるる地所にて御座った。

 但し、別段、悪しき言い伝えものぅ、また、何の妖しきことも起りはせなんだと申す。

 ただ、この山の上は、久しゅう山火事を免れて御座った所にして、先年までの幾多の火災の折り折りにも、多くの火を逃れ、逃げ登って参った避難の民草が、そこにて危うき命をば救われて御座った、と伝えられて参ったいわくつきの場所でも御座った。

 この頂きには、また、大木の松が一本(ひともと)生えて御座って、枝葉も豊かに繁茂致いて、なかなかに見栄えもよぅ御座ったによって、これまで斧や鉞(まさかり)の打ち込まるる愁いも、これ、御座らなんだが、流石に、

「――今度(このたび)は、火除け地となったればこそ、これ、この松も……伐らずんばなるまい。……」

と、能勢氏、町方の者や町役人らと衆議致いて御座ったところが、この山向こうの屋敷の主(あるじ)が、これ、切(せちに)この松の木を所望致いて、

「――これ、何としても貰い受けとう御座る!……」

と、懇請致いて御座ったによって、

「……伐り捨つると申すも、これ、無慈悲なことと思うておったによって、まずは幸いじゃ。」

 と、能勢氏も快諾なし、人夫を雇い、周囲を掘りかかって、ようやく、移植のための根切りまで漕ぎつけた。

 ところが……翌朝、人夫が見てみると、これ

――一夜のうちに

――周囲の穴

――これ

――元通り

――埋ってもうておった

と申す。……

 されば、なかなかに動かすことも難くなって御座ったれば、その日の移植も取り止めとなったは勿論、何故か、その日、再び土塊(つちくれ)を掘り出ださんと致いた人夫どもも、これ、一人残らず、異様に疲れ切ってやる気をなくし、口々に、

「……これは、こん松の、片目蛇山(かんたちやま)に未練のあるんじゃあ、ねえですかねぇ?」

「……そうよ!……儂らの調子のよぅないも、その松の精の、いたずらしとるんかも知れぬわ!……」

「……さてもかくなったる上は……これ……」

「……おうさ! 思い切ってぶった伐(ぎ)るよりほかに、仕方ありますまいよ……」

と匙を投げて、皆々引き上げてしもうたと申す。

 能勢氏、この話を聞きて、自ずから、かの旧地へ至って、かの松の木の木肌を優しく摩(さす)りつつ、

「……年久しゅうここに御座った松よ、外(ほか)へ移らんは、これ、心憂かるべきものにては御座ろう。……されど……我らとても外へ移ることと相い成ったれば、これ、詮方ない。……幸いにして、お前を愛すべき人の近くおられて、引き移さんことを、これ、切(せち)に望んで御座ったによって、掘り動かさんと致いておるのじゃ。……しかれども、とかく日数(ひかず)を積みたるも動かざるとなれば……これ、詮方なく、伐りも致さざるおえぬことと、相い成ろうぞ。……そうなっては、如何にも無惨と心得て御座ればこそ……どうか、明日は快く移っては、呉れまいか?……」

と、松の木を、これ、穏やかに教え諭いて御座った。

 さても、その翌日のこと、能勢氏、

「――今一度だけ、移し植え、これ、試みられんこと、お願い申す!――」

と、人夫どもに懇請致いた。

 すると――まっこと、不思議にも――その日は、何のことものぅ、望みし御仁が方の屋敷へと、かの松を植え移すこと、叶うたとのことで御座ったよ。

 

「耳嚢 巻之十 老隱玄武庵の事」注追加

「耳嚢 巻之十 老隱玄武庵の事」の以下の注に追加をした。こういう風に分かってくる感覚は、まさに月代を青々と剃るように気持ちがいいのである……



・「髮も十ヲ日以前に結び」当時、武士の場合は、凡そ三日おきに髪結いに行っていたことがブログ「金沢生活」の「【歴史の小ネタ】江戸の散髪事情、武士は何日おきに髪を結ってもらったのか?」の検証で分かる。【2015年3月8日追記】これをブログ公開した翌日の朝日新聞(二〇一五年三月七日朝刊)で、山室恭子氏のコラム記事「商魂の歴史学 髪結たちの攻防」というのを読んだ。幕末(嘉永四(一八五一)年。この記事よりも五十年後)の江戸の古床(ふるとこ:九年前に行われた天保の改革以前から営業していた髪結い床の直接の営業者。その上には髪結い株の株主が上げ銭(マージン)を搾取する構造があった。同改革では一旦、この株仲間が解散させられたがこの嘉永四年の三月に組合再興令が発せられていた。)と新床(同改革によって個人の自由経営が許された新規参入の髪結い床の営業者。)の、幕府による自由競争から統制経済への方針変換下での双方の攻防戦を描いて頗る面白いのであるが、そこに古床(既存店)の髪結い賃が一回二十八文(新床は価格破壊で対抗してほぼ半額の十六文)とあり、また『通常の』江戸町民の髪結い回数は『「六度結」(5日ごとに結う)』であったという記載があった(洒落者は一日おきでそれを「隔日結」と言ったともある下線部は孰れもやぶちゃん)。とすれば、この月代(さかやき)ぼさぼさの髷潰れ男は通常の倍近いスパンを空けていることが分かる。そこでさらに調べてみると、宇江佐真理氏の「髪結い伊三次捕物余話」に髪結い賃三十二文と出るらしく、ウィキ髪結い伊三次捕物余話によれば、この小説には実在した浮世絵師歌川国直(寛政五(一七九三)年~嘉永七(一八五四)年)が二十三歳で登場しているから、作品内時間は文化一五(一八一五)年で、ほぼ本話と一致することが分かった。物価データを掲載するサイトによれば、文化・文政期の髪結いとしての三十二文は凡そ現在の八百円相当とある。この男の財布の空っぽさ加減がより分かった。

2015/03/07

耳囊 卷之十 武家の抱屋舖にて古碑を掘得し事

 

 武家の抱屋舖にて古碑を掘得し事

 

 文化六年の頃、元高家を勤(つとめ)し大澤(おほさは)下總守跡、今は右膳(うぜん)といへる人の下屋鋪(しもやしき)、目白にありし。至(いたつ)て草莽(さうまう)の地にて、古池等あり。寂寞(じやくまく)たる古池のよし。家舖守(やしきもり)ありて、百姓體(てい)なる者の由。然るに右屋鋪地中(うち)にて、うなる事夜々なりし故不審に思ひ、其所(そこ)を命じて四五尺も掘(ほり)しに、石塔二つ掘出(ほりいだ)せしが、ひとつは沒字と見へれど、文字さだかならず。一つは文明七年八月と年號有(あり)。戒名も不分(わからざれ)ども、尼といふ文字おぼろに見へし。然るに右屋鋪守、其夜夢を見しに、何とも覺えざる人來りて、此上(このかみ)右の處を掘り候はゞ命におよぶべしと告(つげ)ける故、大いに恐れて、右石碑は、屋敷主(あるじ)大澤のもとへ贈りしを、其隣(となり)の寺へ納めさせしに、右の儀及承(うけたまはるにおよび)、見物の者多く入込(いれこみ)、是又さし留(とめ)有(ある)之(の)由、或る人物語り也。 

 

□やぶちゃん注

○前項連関:供養の古碑発掘で直連関。こちらは怪談絡み。しかし、前の板碑同様、江戸庶民の好奇心はこの怪異をも恐れず、わんさと見物人が押しかけたというところが、実に面白い。

・「抱屋舖」字面では囲いや家屋を設けた屋敷地のことであるが、これは別に正規の武家屋敷・町屋敷と区別される別宅を指す語でもあった。ウィキの「江戸藩邸」によれば、『江戸藩邸のうち江戸幕府から与えられた土地に建てられた屋敷は拝領屋敷という。一方、大名が民間の所有する農地などの土地を購入し建築した屋敷は、抱屋敷(かかえやしき)と呼ばれる』。『抱屋敷は総じて江戸の郊外にあり、下屋敷など藩により様々な用途に使用された。拝領屋敷と異なり、それまでその土地に掛けられていた年貢や諸役は、大名の所有となった後も負担する必要があった。また、屋敷や土地は幕府の職の一つである屋敷改(やしきあらため)の支配を受けた』とある。

・「文化六年」「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月であるから五年前。西暦一八〇九年。

・「大澤下總守」底本の鈴木氏注に、『基之。大沢家は基宿(モトイヘ)の時、家康に近侍し、その子基重の時二千五百石を領した。その子基将以後代々、奥高家の家』とある。本文にも出る「高家」とは江戸幕府の職名で、老中支配に属し、主として儀式・典礼を掌り、伊勢・日光への代拝の他、特に京都への御使い・勅使の接待などの朝廷との間の諸礼に当たった。それ自体が高家旗本の家柄をも指す。世襲制で、足利氏以来の名家である知られた吉良の他、石橋・今川・大沢(本話)・武田・畠山などの諸氏が任ぜられた。鈴木注の「奥高家」というのは高家旗本の内で高家職に就いている家で、非役の家は「表高家」と言った。ウィキの「高家」によれば、この注に出る大沢基宿は、最初期の高家職を務めた人物で、『公家持明院家の流れを汲み遠江国に下向して土着した大沢家の出身で、木寺宮という皇族の末裔を母とする人物である。吉良義弥・一色範勝・今川直房らは、いずれも足利家の一族である。高家の創設の理由として、徳川家康がかつての名門の子孫を臣下に従えることにより、対朝廷政策を優位に運びたかった為と思料される。徳川氏が武家の棟梁として「旧来の武家の名門勢力を全て保護・支配下に置いている」という、政権の正当性および権力誇示という見方が強い』とある。また、高家は幕府の使者として天皇拝謁の必要が生ずる場合があるため、官位が高く、『最高で従四位上左近衛権少将まで昇った』が、この大沢基宿に限っては、草創期であったからか、例外的に正四位下左近衛中将にまで昇り、『大半の大名は従五位下であるから、その違いは歴然である』とある。「大沢家」の項には、『藤原北家中御門家頼宗流。持明院基盛を祖とする。大沢基宿は家康の将軍宣下の儀礼を司っており、実質的な高家の始まりとされ』、石高は三千五百五十石とある。また、この本家から分かれた分家(同じ大沢姓と考えてよいであろう)も『一時的に高家職に登用された』とある(下線部やぶちゃん)。さて、鈴木氏の同定される大沢基之(宝暦一〇(一七六〇)年~文政五(一八二二)年)は高家大沢家第八代当主であるが、実はこれについては岩波の長谷川氏注は全く違った大沢基季(もととし 宝暦元(一七五一)年~文化五(一八〇八)年)なる人物にこれを同定なさっておられる。この人物、ウィキで探ってみると、持明院基定という男に辿りついた。この男は先に出た大沢基宿の次男で(則ちこちらの大沢家は本家の分家で、しかも前に見たように分家も高家職に登用されたという記載と一致するのである)、その曾孫に高家旗本として大沢基貫(もとつら)という人物がおり、その没後は基貫の弟が基清が継ぎ、次代はその長男基業(もとなり)で、それを継いだのが基業長男の大沢基季である。ウィキの「大沢基季」によれば、『官位は従四位下侍従・下総守』とあるから官職が一致する(基之は従五位下侍従・右京大夫で前後にも上総守はいない)。彼は宝暦七(一七五七)年に父基業の死去によって家督を相続、明和二(一七六五)年に第十代将軍徳川家治に御目見、安永五(一七七六)年七月に高家職に就いている(この時は従五位下侍従・下野守)。文化三(一八〇六)年十二月十五日には高家肝煎(こうけきもいり:奥高家の中から有職故実・礼儀作法に精通していた三名を選んだ、俗に「三高」と呼ばれる高家の上位者。「忠臣蔵」で頻りに出る「高家筆頭」という呼称は実は誤りである。天和三(一六八三)年に大沢基恒・畠山義里・吉良義央が選ばれたのが始まり。但し、高家肝煎となる家は固定されていたわけではない。ここはウィキの「高家」に拠る)となっている。『正妻は松浦正致の娘。後妻は京極高永の養女。次男基隆、三男基休(実兄基隆の養子)ら三男二女あり』とある(下線やぶちゃん)。これは以上と次の注に示した「右膳」の事蹟からも、底本の鈴木氏の大沢本家の大沢基之という同定は誤りであり、長谷川氏の大沢基季が正しい

・「大澤上總守跡、今は右膳といへる人」これは大沢基季の三男である高家旗本大沢基休(もとやす ?~天保一四(一八四三)年)である。ウィキの「大沢基休」によれば、『通称は孝之助、右膳。官位は従四位上侍従・修理大夫』(下線やぶちゃん)。文化六(一八〇九)年六月三日の実兄基隆(岩波の長谷川氏注には「基靖」とする)の死去により、末期養子として家督を相続、文化一一(一八一四)年一一月十四日に『高家職に就き、従五位下侍従・修理大夫に叙任する。後に従四位下、次いで従四位上に昇進』したが、文政一三(一八三〇)年三月七日に高家を解任され、差控を命ぜられている(「差控」(さしひかえ)は武士や公家に科せられた制裁の一つで、勤仕より離れ、自家に引き籠って謹慎することをいう。門を閉ざしはするが潜り門から目だたぬよう、出入りは出来た。比較的軽い刑罰乃至懲戒処分として職務上の失策を咎めたりしたケースや、親族・家臣の犯罪への縁坐・連坐での処罰として適応された。自発的にも行われ、親族中、一定範囲の者又は家臣が処罰を受けると、その刑種によっては差控伺(さしひかえうかがい)を上司に提出して慎んで指示を待ったという。以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。『子女に養子基道あり』とある。「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月であるから、執筆当時がまさに丁度、高家職に就く直前であったことも分かる。だから「元高家」なのである。

・「目白」豊島区西部に位置する。古くは神田上水の北側の大地一帯を指した。そこある五色不動の一つ「目白不動」で知られた真言宗金乗院(こんじょういん:現在の豊島区高田。)に因んでの地名である。後に北豊島郡長崎町・高田町・雑司ヶ谷町・巣鴨町の各一部を成した後、旧地名の目白が復活した。

・「四五尺」一メートル二十センチから一メートル五十センチほど。

・「沒字」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『梵字』で頗る腑に落ちる。これで訳した。

・「文明七年」西暦一四七五年。話柄内時間からは三百三十四年も前、戦国時代真っ只中である。

・「隣の寺」底本の鈴木氏注に、『三村翁「大沢氏の隣寺は、黄檗宗竜泉山洞雲寺といひたり。」』とある。岩波の長谷川氏注に、『嘉永図に音羽町八丁目西裏、洞雲寺隣に大沢城之助邸あり』とある。大沢基隆の通称は陽之助、基休は孝之助であるから、この城之助という名はその子孫を感じさせる名ではある。なお、この寺は近代になって豊島区池袋に移転したものの、現存する(松長哲聖氏のサイト「猫のあしあと」の同寺の頁)。この音羽町はその一~九丁目が現在の音羽一・二丁目、小日向三丁目、目白台三丁目に相当するが、切絵図で見ると「大沢城之助」の抱え屋敷の位置は、椿山荘の西、現在の関口三丁目(すぐ直近の東北部で音羽一丁目に繋がる)附近であることが分かる。但し、怪異が起ったのはここではなくて、ここから少し西北に行った場所に「抱屋鋪」はあったように私には読めるのであるが、如何? 即ち、この比較的広い屋敷地がこの大沢分家の正規の拝領屋敷で、そこからほど遠からぬ郊外の目白に、この別邸を持っていたという読みである(普段は人が住んでいない感じだからである。但し、人文社の「耳嚢で訪ねる もち歩き 裏江戸東京散歩」(二〇〇六年刊)ではこの屋敷を怪異の場所に特定している。確かにここは直近で現在の目白台に接してもいるのである)。さても、ここなのか? ここでないのか? 識者の御教授を乞うものである。 

 

■やぶちゃん現代語訳 

 

 武家の抱え屋敷にて古碑を掘り当てた事 

 

 文化六年の頃、元は高家を勤めておられた大澤下総守(かずさのかみ)基季(もととし)殿の跡を継がれた、今は右膳(うぜん)と申さるる御方の、下屋敷が目白に御座った。

 これ、いたって草木の鬱蒼と茂ったる地にて御座って、古池などもあり、この池がまた、すこぶる寂寞(じゃくまく)たる古池で御座る由。

 屋敷守(もり)がおり、それは百姓の出の者で御座ったと申す。

 しかるに、この屋敷地の中で、何かが、不気味に唸るような声を挙げること、これ、ある時より毎夜毎夜のことで御座ったによって、その屋敷守、これ、はなはだ不審に思い、その夜な夜な唸り声の響いて参る元と思わるる地所を、これ、何日かかけて探し出だし、そこを職人に命じ、四、五尺も掘らせてみた。

 すると、これ、

――石塔が二つ

掘り出だされた。

 一つの面に彫られた字は梵字の如くに見えたが、種子(しゅじ)を特定するほどには、これ、文字の定かでは御座らなんだ。

 今一つは、これ、

――「文明七年八月」――

という年号が、これ、はっきりと読み取れた。

 戒名も彫られてはあったが、これはいたく潰れて判読出来なんだと申す。しかしながら、その文字の中に

――「尼」――

と申す文字(もんじ)が、これ、朧げに見てとることが出来た。

 ところが……である。……

 この屋敷守、その墓石と思しい二つの石塔を掘り出したる、まさにその日の夜(よる)の夢に、全く見知らぬ人が、これ、夢の中にかの男を訪ねて参り、

「……これ以上……かの所を……掘ろうと致さば……命を落とすことと……相いなろうほどに……」

と告げたかと思うと――目が醒めた。

 されば屋敷守、これ、大いに恐れて、かの出土した石碑二基は、屋敷主人の大澤殿の御屋敷へ送り届けた。

 大澤殿は、屋敷守より、かの抱え屋敷の怪異の一部始終、これ、じかに聴き及びになられ、ともかくもと、その御屋敷の隣りに御座った洞雲寺と申す寺へ納めさせたと申す。

 ところが、これまた、

――「妖しき謂われのある古き石塔が二つ、洞雲寺さんに持ち込まれた!」――

と申す噂が、これ、流行り病い如(ごと)、瞬く間に知れ渡り、見物の者どもが雲霞の如く洞雲寺へ押し寄せ、境内地へは勝手に入り込み、ゴミは散らかすわ、大騒ぎはするわで、遂に、

「文明七年八月銘石塔見学不可也」

と制札を立て、檀家以外は境内への出入りをも差し止めるまでになって御座った由。

 とある御仁の物語りで御座った。

 

耳嚢 巻之十 井中古碑を得し事

 井中古碑を得し事

 

 文化七年の三月二日、芝金杉の井戸を浚(さらひ)しに、古碑有(ある)を取上(とりあげ)しに、支干(えと)は分りぬれど、文字は石塔墓印(はかじるし)や又は他の碑銘や、朽入(くちいり)て文字もさだかならずといへども辛未(かのとひつじ)三月二日といふ所おぼろにわかりし故、右金杉昆沙門(びしやもん)の向(むかひ)なる寺に納めし由。支干(えと)且(かつ)月日の符合せしも不審と、殊外(ことのほか)參詣も有(ある)由、人の語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:文化七年という時制で軽く連関はする。奇体な古物の発掘シリーズ。この手の話、根岸は結構、好きである。井戸の中から供養塔が出る――掘り出したその年と彫り出された干支(えと)が同じ巡りにして――しかも発見された月日と同じ三月二日のクレジット……この板碑、今も残っていたらなぁ……もっと面白い事実が分かるかも!……

・「古碑」底本の鈴木氏注に、『板碑の類か。三村翁「恐くは、石卒塔婆なるべし。」』とあり、私も『文字は石塔墓印や又は他の碑銘や』らが判読不能ながら、刻印されていたことから供養塔として使われた石碑(いたび:板石塔婆とも呼ぶ。)と推定する(私は鎌倉の板碑類をかつて調べ歩いたことがある)。板碑は鎌倉から室町前期に集中して盛んに造られたが、戦国期には急速に衰退した。ウィキの「板碑」を見ると、『基本構造は、板状に加工した石材に梵字=種子(しゅじ)や被供養者名、供養年月日、供養内容を刻んだものである。頭部に二条線が刻まれる』(一般には上部に蓮座を彫り、その上に多くは阿弥陀三尊或いは阿弥陀仏一尊の種子(絵像の場合や別な仏の場合もある)を刻み、上方には天蓋や瓔珞を附加したものもある。下方に造立年月日・法名を刻んで蓮の花を挿した花瓶の絵を添える。個別な例ではさらに経文を彫ったり、造立の趣旨を綴ってあるケースもある)。『分布地域は主に関東であるが、日本全国に分布する。設立時期は、鎌倉時代~室町時代前期に集中している。分布地域も、鎌倉武士の本貫地とその所領に限られ、鎌倉武士の信仰に強く関連すると考えられている』(鎌倉期のものは薬研彫りで文字や図像が頗る繊細で美しいが室町期になると急速に技術が廃れ、丸彫りの拙作が多くなってしまう)。『種類としては追善(順修)供養、逆修板碑などがある。形状や石材、分布地域によって武蔵型板碑、下総型板碑などに分類される』。『武蔵型とは秩父・長瀞地域から産出される緑泥片岩という青みがかった石材で造られたものをさすが、阿波周辺域からも同様の石材が産出するため、主に関東平野に流通する緑泥片岩製の板碑を武蔵型、四国近辺に流通していたものを阿波型と分類している。また下総型とは主に茨城県にある筑波山から産出される黒雲母片岩製の板碑をさしている』(私の親しんだ鎌倉の板碑はこの武蔵型と呼ばれるものである。但し、下総型も五所神社や光明寺などに現存する)。『戦国期以降になると、急激に廃れ、既存の板碑も廃棄されたり用水路の蓋などに転用されたものもある。現代の卒塔婆に繋がる』とある(下線やぶちゃん)。緑泥片岩(秩父片岩)製であったとすると(鎌倉に現存する通常の者は殆んどがこれである)、水中に没して、しかも地下水の流路であったとすると、彫琢された文字類は著しく摩耗していたとしてもおかしくない。但し、以上の引用部以外の箇所で参考にした「鎌倉市史 考古編」(吉川弘文館昭和五四(一九七九)年刊の四版)によれば、室町期の粗悪品は『多量生産されて売り出されていたもの』であったかららしく、また『板碑は江戸時代になっても頭部に∧字形を持った碑として作られたが上部にあった二本の沈線はなくな』り、『板碑そのものとしてではなく板碑形墓碑としての性格が急に強くなり、江戸期に入ると間もなく墓碑の一種となってしまった』とある。

・「文化七年の三月二日」文化七年は庚午(かのえうま)で、旧暦三月二日は丙辰(きのとたつ)でグレゴリオ暦で一八一〇年四月五日である。因みに「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月である。

・「芝金杉」岩波の長谷川氏注に、『港区芝一・二丁目の内』と限定されてある。本文に出る金杉毘沙門天は現在のJR田町駅から東北に八百メートルほどの位置にある。ここらは当時は古川の河口左岸で海っぱたであった。

・「辛未三月二日」「支干且月日の符合せし」干支の部分は翌文化八年が辛未であり、干支の組み合わせが同一の巡りとなっていることを指す。まず、本来の板碑の登場する中世鎌倉期から室町期までを調べると、辛未(かのとひつじ/しんび)の年は、

 建暦元・承元五年 西暦一二一一年

 文永八年       一二七一年

 元弘元・元徳三年   一三三一年

 元中八・明徳二年   一三九一年

 宝徳三年       一四五一年

の五回しかない(この以前は仁平元・久安七(一一五一)年で平安後期、次の永正八(一五一一)年は既に戦国時代中期に当たるので一応、除外した)。ここで掘り出されたものが、上方に二本の沈線がある本格的な板碑であれば(前注参照)、この板碑は俄然、この孰れかの年の建立の可能性が高まるかと思う。因みに、それ以降も板碑型墓碑が残ったとはあるから(これも前注参照)、以降の辛未(かのとひつじ)の年も見ておくと、

 永正八年       一五一一年

 元亀二年       一五七一年

 寛永八年       一六三一年

 元禄四年       一六九一年

 宝暦元・寛延四年   一七五一年

の五回であるが、碑面の摩耗やその碑の由緒に就いて誰も分からなっかたことからは、直近六十年前の宝暦元・寛延四年は外してよいであろう。されば、前と合わせて建暦元・承元五年から元禄四年の九回の孰れかの建立と断定は出来るのである。

・「金杉昆沙門の向なる寺」底本の鈴木氏注に、『昆沙門天安置の寺は、日蓮宗正伝寺なり、向の寺といふは、切絵図によれば、延業寺か、然らずんば良善寺なれど、其寺今ありや否。

(三村翁)』とあるが、調べて見ると、港区芝一丁目内に、この毘沙門天で知られる正伝寺と(リンク先は公式サイト)、浄土真宗の良善寺(現行は了善寺と表記。リンク先は私のよくお世話になっている松長哲聖氏のサイト「猫のあしあと」の同寺の頁)は現存している。残念乍ら、延業寺の方は現在は見当たらない。……この板碑が了善寺の方に残っていたなら、面白いんだけどなぁ……

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 井戸の中より古碑を得たる事

 

 文化七年の三月二日、芝金杉(しばかなすぎ)の井戸を浚(さら)ったところが、その底に古碑の沈んでおるのが分かり、これを吊り上げたところ、干支(えと)は分ったれど、文字らしきものが彫られたる形跡は、これ、何となくあるものの、それがそもそも――供養の石塔なのか、それとも正真正銘の墓印(はかじるし)であるのか、はたまた、それらとは全く別の、何かを顕彰したる碑銘なのか――ということさえも、碑面のすっかり摩耗して御座ったがため、文字も殆んど定かならず、一向、知れなんだと申す。

 とは申せ、ただ一箇所、

――辛未三月二日――

という所だけは、これ、朧ろげに判読することの出来て御座った。

 さてもこれ、かの近くの、金杉昆沙門(びしゃもん)の向いにある寺――寺名は失念致いた――に納めたと申す。

「……これ、干支(えと)の巡り、且つうは、三月二日という月日がこれ、恐ろしいまでにぴったり符合致いて御座ったことも、妖しき――いや――摩訶不思議なること――なんどと、あの辺りにては専らの噂と相い成り、殊の外、この古き碑を拝まんがために参詣致す人々も多く御座る。……」

と、とある御仁の語って御座った。

2015/03/06

僕はこんな人間なのです

呪詛を孕んだ言葉を、その人はどんな抑揚で語るのか――私はそこだけが気になるのです――

僕は

僕はベケットの「クラップ最後のテープ」を二十の童貞の時からずっと人生の最後にきっと演じたいと思い続けているクラップであることを表明する――

耳嚢 巻之十 老隱玄武庵の事

 老隱玄武庵の事

 

 玄武庵は、文化七年の頃に白山邊に住(すめ)る醫師の由。蕉門の俳諧などなして、齡百歳に近く面白き隱者の由。彼(かの)者隨筆の由にて、在這眞許と云(いへ)る書面を或人携へ來りしが、全部書(かき)とめんも煩しければ、其内の面白きといふを爰にしるし置(おき)ぬ。

 病は氣より生(しやうず)るといへば、欝病積氣(うつびやうしやくき)などの事に心得候人、多く有之(これあり)候が、彼(かの)維摩經(ゆいまぎやう)に、備(そなへ)に病(やまひ)はなきものといへる途徹(とてつ)より、御工夫の爲めすべて御子孫其外、化他(けた)の御用心申遣(まうしつかはし)候。元來病は邪(よこしま)也。正(せい)にして天理と合(がつ)すれば、病はなき筈なり。人(ひと)欲のために我に勝(かつ)事ならねば病を生(しやうず)る事、田畑草木(さうもく)育(はごくむ)を以(もつて)、御工夫可被成(ならるべく)候。人間鳥獸草木に至るまで、自性(じしやう)と相應(さうおう)すればなし、もしや田に可植(うえべき)物を畑に植へ、こやしの入らぬものに肥(こやし)し過(すぎ)候得ば、皆作物にも病が出來候。人も己々(おのおの)が自性と相應に今日(けふ)を過せば病はなき筈。おのれに勝(かつ)事ならぬ凡情(ぼんじやう)より我身にまけて、飮食衣服をはじめ、相應に過(すぎ)たる處より病は出來(しゆつたい)候事を、病は氣より生(しやうず)ると申(まうし)候。

一、西丸大奧に御右筆とか勤(つとめ)候おみさとかいへる人、病氣にて宿へ下(さが)り、玄武庵が療治幷(ならび)に教諭を□信し、全快の上、其祝儀の筋、玄武は譯なく他より物を貰ひ候事、幷(ならびに)人のものを着し候事なきと聞(きき)て、頂戴の御召(おめし)白小袖を一つ贈り、外に一つは御祈禱の爲、增上寺方丈へも進(しん)じ候よし申(まうし)ければ、其席は大勢打交(うちまぢ)りの席故、忝(かたじけなき)由答へてのち、增上寺は僧正にても、素より物を貰ふべき業(わざ)に有之(これあり)、誠に志を以て進候(しんじさふらふ)品(しな)を着用、勤行等あられ候はゞ、さる事もあるべし、老人へたまはり候は、老齡の衣服、小兒に着せて壽福を保つ理(ことわり)は醫書などにもあれど、少壯の衣服、老人に着せて小兒の壽福を增すと申(まうす)理(ことわり)のなき事、其上御召(おめし)ふるしの御足袋(おんたび)御草履(おんざうり)にても、天下はれて拜領致し候はゞ、家の寶とも可申哉(まうすべきや)、其御程樣(そのおんほどさま)御拜領の品着し候は、たとへば御成(おなり)の節、壁の穴より透見(すきみ)などなして、われは御目見(おめみえ)したると申(まうす)愚人の同類になり可申哉(まうすべきや)、此事は幾重にも御免あるべしと、斷(ことわり)しと也。

一、或日翁が門へ來り、逢度(あひたき)由申(まうす)ものあり。其形ぼてふりの荷籠(にかご)ふり捨(すて)たる樣子に、髮も十日以前に結び、髭ぼふぼふたるむさとしたる男なり。翁を見て庭に手をつき、拙者儀は出羽庄内酒田の者にて、淇水(きすい)連中(れんぢゆう)分(ぶん)に御座候、此度罷上(まかりのぼ)り候事、國元へはさたなしに致(いたし)候故、書狀も持參不仕(つかまつらず)、狐付(きつねつき)の申樣(まうすやう)にも可被思召候得共(おぼしめしさふらえども)、少々心當(こころあたり)の國者(くにのもの)を尋(たづね)、十日斗(ばかり)旅宿致(いたし)候處、今(いま)明日にも出立(しゆつたつ)、歸國不仕(つかまつらず)候ては不叶(かなはざる)儀の處、路用一錢も無御座(ござなく)候間、金貮百疋御合力(ごかふりよく)被下度(くだされたし)と、石へ額(ぬか)を付(つき)て賴(たのみ)候間、在所にて如何(いかが)聞及(ききおよば)れしや、愚老を愚老と思ひよつての儀奇特(きとく)ながら、今日の境界(きやうがい)も、連中の世話にて明(あか)し暮し候仕合(しあひ)、聊(いささか)にても手元にはなく、氣の毒ながら不任其意(そのいにまかせず)といへども、此男如何にも奉願(ねがひたてまつる)とて立退(たちの)かず。つくづく考(かんがふ)るに、難有事(ありがたきこと)は遠き百里の外にも我有(われあり)と聞及(ききおよ)ぶゆへの事ならん、由(よし)やかたりにあひたるとてもわづかの事なりと案じて、いかさま難儀の趣(おもむき)、聞捨(ききすて)にも難成(なしがた)ければ、才覺して明後日遣すべしと答へ、其旅宿を聞(きき)とゞけ歸しぬ。さて才覺とゝのへしが、門中家内にても、かたりなるべし、無益也(なり)といへども取合(とりあは)ず。しかれども、若(もし)かの者、大罪をおかし候ものにて被召捕(めしとらへられ)などせば、我も呼出(よびいだ)され、いかやうのちなみありてかゝる事にやと尋(たづね)を請(こは)ば、言ひらきあるまじ。幸ひ酒田の淇水へ、春中(はるうち)よりの返事もあれば是を認(したた)め、京橋因幡町(いなばちやう)何某(なにがし)の店(たな)右の者旅宿を尋(たづ)ね、右淇水事(こと)津下庄藏への書狀一封、右屆賃銀(とどけちんぎん)の金子と號(がう)し相渡(あひわた)し、當人の名と旅宿の名印の請取(うけとり)を取(とり)しに、殊の外歡びてありしと也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:養生訓で直連関、主人公が医師でも連関(これもニュース・ソースの同一性が疑われるが、今回は書写本からに抜書である)。変人奇人譚の一つ。しかし、三話目の男は事実、名前ばかりは淇水の門中ではあったのであろうが、玄武庵から俳諧の教えを請わんとする様子も何もなく、しかもしょっぱなから有体に金品をせがんでおり、殆んど見た通りの乞食に近いと言ってよかろう。一旗揚げようと江戸に出てきたものの、瞬く間に零落し、酒田へ戻る金もなし、かつて地元で淇水について俳句を齧った際、聴き及んだ記憶のある同門の変人医師で俳諧師の玄武庵のことを思い出して、体よくタカリに及んだということであろう。なお、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では最初の養生訓のパートのみが二段下げとなっている。これは頗る正しい表記法である。何故なら、続く二・三篇目の部分は、明らかに一人称で書かれた原典を根岸が書き直した体裁をとっているからである。

・「玄武庵」底本の鈴木氏注に、『玄武庵は、玄武坊なるべし。江戸駒込に住し、医を業とし、白山老人と号すといへば、それなるべくも思はるれど、この玄武坊は、寛政十年正月十九日八十歳にて死せりとあれば、いかにや。(三村翁)玄武坊は美濃派の廬元坊の門人。江戸の人。水野氏のち神谷氏。俳仙堂と号した』とある。大礒義雄氏の「蕪村・一茶その周辺」(一九九八年八木書店刊)によれば、玄武坊(正徳三(一七一三)年~寛政一〇(一七九八)年)は各務支考を祖とする美濃派(幕閣家士・地方武士・医師が多かった)の江戸での大立物として知られた人物で、江戸生まれ、水野氏から後に神谷氏を称した。初めは宗瑞門であったが破門されて廬元坊に入門、この頃に医師となったが、一時は前句付の点者もしたらしい。『居を東都の北、白山に構えたので、一文を白山下と言い、白山老人と称す。宝暦四年、江戸においてはじめて墨直しの会式』(この玄武が各務支考により京都双林寺に建てられた芭蕉墨直しの墨跡を写して、芭蕉の禅の師で友人であった仏頂禅師所縁の深川大工町にある臨川寺に「芭蕉由緒の碑」を建立、毎年三月にその墨直しの会式(碑面にさした墨が褪せた所に再び墨を入れて直すこと)を催すことを始めたことを指す。また、彼は同寺に支考の碑も建てている)『を行い、東都獅子門』(各務支考の別号獅子老人に因む美濃派の別称)『の名を宣揚した。その時の記念集が『梅勧進』で』、他に「玄武庵発句集」「玄武庵和詩集」などがあると記す(当該書二七三頁)。とうに死んでいる人物であるが、都市伝説の怖ろしさ(面白さ)はこうした部分にこそある。これはどう見ても神谷玄武庵である。もしかすると医業を家業として継いだ次代或いはその次代以降の医師が、同じ神谷玄武庵を名乗ったことから、今も生きているということになっているのかも知れない。

・「文化七年」「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月。

・「白山」現在の東京都文京区白山。

・「齡百歳に近く」文化七(一八一〇)年当時、玄武庵が実際に生きていたとしたら、数え九十八で確かに正しい謂いである。

・「在這裏許」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『在這裏評』とあり、「這裏」には編者長谷川氏によって「しやり」とルビが振られてある。さらに同氏注には、訓点を配して、「在這裏」は「這(こ)の裏(うら)に在(あ)り」の意である旨の記載がある。則ち、これは玄武の随筆として取り敢えずは「ざいしゃりひよう(ざいしゃりひょう)」と音読みするが、それは意味としては――この中(うち)に我がまことと信ずる主張を示したる評文――という書名であるということであろう。底本では「許」であるから、「これは「裏許」で「りきよ(りきょ)」、この内の茲許(ここもと)の謂いか。その場合は――この中に我がまことと信ずるところの事実の在り――という書名となろうか。ともかくもこのような書は不詳である。

・「維摩經」大乗経典の一つ。原典は散佚したが、鳩摩羅什(くまらじゅう)漢訳になる「維摩詰所説経」(三巻)などが残る。在家信者である維摩を主人公に不二に究まる大乗の立場や空(くう)の精神を明らかにしたもの。

・「途徹」「途轍もない」の途轍で、「轍」は「車のわだち」の意。筋道。道理。

・「化他」他者を教化(きょげ)し、仏法の恵みを施すこと。利他。自身のために行う修行「自行(じぎょう)」の対義語。

・「自性と相應すればなし」「自性」そのものが本来備えている真の性質。真如法性(しんにょほっしょう)。本性。しかし、ここ、ちょっと意味を採り難い。そうした本来の自然な在り方である「自性」に「相應すれば」、自然な正(せい)状態で「なし」(成し)続けることが出来る、という謂いであろうか? 訳はそんな風に訳した。

・「西丸大奥」西の丸は世子居所(将軍後継者の居住区域)で、世子には幼少時より既に正室が定められて嫁いでいる場合があり、世子のまま元服すれば側室も持つので、そうした奥方らとそのお附きの女房及び使用人などで西の丸大奥を構成していた(知られた将軍大奥は本丸のもので、他にも家光の代に二の丸(将軍別邸)にも大奥が設けられた。世子以外の将軍の子などが育てられたり、御台所との関係がよくない側室が住んだ)。西の丸はまた形の上では、隠居した将軍である大御所の隠居所とその大奥用としても存在した。

・「おみさ」女房名にしか読めないのでそう解釈した。

・「□信し」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『甚(はなはだ)信じ』とある。訳ではこれを採った。

・「頂戴の御召白小袖を一つ贈り、外に一つは御祈禱の爲、增上寺方丈へも進じ候よし申ければ」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版ではここが(恣意的に正字化した)、『頂戴の御召(おめし)の小袖をひとつ、御祈禱の爲增上寺方方丈え進じ候。今ひとつは染(そめ)させ候間、玄武老人の丈夫なるに御あやかり被遊(あそばされ)候よふにと進度(しんじたき)」旨申ければ』とあり、底本より遙かにシチュエーションが分かり易い。この台詞は訳ではこちらを採った。

・「其御程樣御拜領」岩波版の長谷川氏注に、「其御程樣」は『其程(そのほど)を敬意をこめて言い、そのあたりのかた』と、先に出た「おみさ」の方が『仕える貴人を指して言』つたもの、とある。――そのほどの高貴なる御方さまより御拝領の――の意。この持って回った言い方には、貴人であるから、というよりも寧ろ、仰々しいお偉いさんらの不愉快な式典に無理矢理出さされたことへの、玄武の極度の生理的不快感を添えた皮肉と読むべき部分である。

・「ぼてふり」棒手振り。魚や野菜などを天秤棒で担ぎ、売り声を挙げながら売り歩くこと行商、また、その行商人。江戸では狭義には、魚市場と料理屋の仲立ちをして魚類の売買をする者を限定的にかく呼称した。振り売り。ぼてかつぎ。ぼうてふり。ぼて。

・「髮も十ヲ日以前に結び」当時、武士の場合は、凡そ三日おきに髪結いに行っていたことがブログ「金沢生活」の「【歴史の小ネタ】江戸の散髪事情、武士は何日おきに髪を結ってもらったのか?」の検証で分かる。【2015年3月8日追記】これをブログ公開した翌日の朝日新聞(2015年3月7日朝刊)で、山室恭子氏のコラム記事「商魂の歴史学 髪結たちの攻防」というのを読んだ。幕末(嘉永四(一八五一)年。この記事よりも五十年後)の江戸の古床(ふるとこ:九年前に行われた天保の改革以前から営業していた髪結い床の直接の営業者。その上には髪結い株の株主が上げ銭(マージン)を搾取する構造があった。同改革では一旦、この株仲間が解散させられたがこの嘉永四年の三月に組合再興令が発せられていた。)と新床(同改革によって個人の自由経営が許された新規参入の髪結い床の営業者。)の、幕府による自由競争から統制経済への方針変換下での双方の攻防戦を描いて頗る面白いのであるが、そこに古床(既存店)の髪結い賃が一回二十八文(新床は価格破壊で対抗してほぼ半額の十六文)とあり、また『通常の』江戸町民の髪結い回数は『「六度結」(5日ごとに結う)』であったという記載があった(洒落者は一日おきでそれを「隔日結」と言ったともある下線部は孰れもやぶちゃん)。とすれば、この月代(さかやき)ぼさぼさの髷潰れ男は通常の倍近いスパンを空けていることが分かる。そこでさらに調べてみると、宇江佐真理氏の「髪結い伊三次捕物余話」に髪結い賃三十二文と出るらしく、ウィキ髪結い伊三次捕物余話によれば、この小説には実在した浮世絵師歌川国直(寛政五(一七九三)年~嘉永七(一八五四)年)が二十三歳で登場しているから、作品内時間は文化一五(一八一五)年で、ほぼ本話と一致することが分かった。物価データを掲載するサイトによれば、文化・文政期の髪結いとしての三十二文は凡そ現在の八百円相当とある。この男の財布の空っぽさ加減がより分かった。

・「出羽庄内酒田」現在の山形県酒田市。

・「淇水連中分」底本の鈴木氏注に、『三村翁「淇水と号せる人多し、盛岡と越中とにはあれど、酒田の淇水管見に入らず。」』とある。後に出る「津下庄藏」(「つげしょうぞう」と読むか)であるが、不詳。

・「金貮百疋」一疋を十文換算として、二千文、一両の二分の一相当であるから、文化の頃ならば(蕎麦代で換算)、凡そ二万五千円ほどか。前話から見ても、玄武庵は相応の医師を生業としており、その日暮らしというのは、流石の凡愚の「ぼてふり」風男にも大嘘と分かろう。この見え透いた嘘も、これ、後の玄武庵の万一の連座(後注参照)に対する後悔や惧れの一つとなったものに相違あるまい。

・「合力」しばしば出る語であるが、ここでは金銭上の援助を指す。

・「奇特」この語には、行いが感心なさま、けなげなさまの他に、珍しいさま、不思議なさまの二つがあるが、これは風狂人玄武庵なれば、ともに掛けた洒落であろう。

・「いかやうのちなみありてかゝる事にや」岩波の長谷川氏注に、『彼が犯罪人であったりした時の連坐を恐れた』とある。

・「百里」凡そ三百九十三キロメートル。現在の地図上でも東京―酒田間は直線で三百五十四キロメートルであるから、非常に精度が高い数値と言える。

・「京橋因幡町」岩波の長谷川氏注は『現在の京橋区因幡町二丁目の内』とされる。

・「屆賃銀」岩波の長谷川氏注に、『手紙の届け賃という形をとり、領収書を取って彼の男への援助でないという証拠を用意』したという解説が出る。前注のように、彼が既に犯罪人であった場合、及び、酒田へ戻る途次に犯罪に巻き込まれるか犯罪に手を染めた場合、連座を受けないようにするための証明書としたということであろう。この部分、言わずもがなの箇所で、私はちょっと厭である。この玄武庵の深謀遠慮の危機管理体制、如何にも医師らしくはあるものの、風狂人としては魅力を削ぐからであろう。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 老隠士玄武庵(げんぶあん)の事

 

 玄武庵は、文化七年の頃までは、確か、白山辺りに住んで御座った医師なる由。

 蕉門の俳諧なんどをもひねり、齢(よわい)これ、百歳になんなんとする面白き隠者であったと申す。

 この者のものしたる随筆の由にて、「在這裏許(ざいしゃりきょ)」と申す文書を、とある御仁が携えて参ったが、その全部を書き写すのも、これ、正直、煩わしいので、その内、これ、面白いと思うた幾つかの条々を、以下に、記しおくことと致す。

   *

一、『病いは気から生ずる』としばしば言われるが、これについて、多くの者は、これ、気鬱の病いの重篤化した状態などを指して表現する言辞と心得ておらるるようである。がしかし、かの「維摩経(ゆいまぎょう)」にも、『備えあれば病いなし』といった意味のことが書かれて御座って、この道理からも、この諺は、そうした重きの気鬱の病態に限って心致さばよいというものにては、これなく、健康なめいめいの御配慮と御考察が大事で御座って、これ総て、御自身御子孫その外、他人に対してさえも教え導き、益を施すところの至言であることを、重々お心がけなさっておらるることが肝要で御座る。元来これ、病いと申す現象は、邪(よこしま)なる様態を意味するので御座る。逆に正しき様態に御座って天の理(り)と合(がっ)しておるならば、病いという状態は存在しないはずなので御座る。人は、己れの限りなき欲がために、自身に勝つことが出来難い。さればこそ、これ、病いというものを発症するので御座る。これは例えば、田畑の農作業や草木(さうもく)の生育を以って御考察なさらば、これ、一目瞭然で御座る。人間や鳥獣・草木に至るまで、自性(じしょう)に相応して在ったならば、これ、自然に正しき在り方のままに在り続けること、これ、難なく出来る。ところが、もしや、田に植えねばならぬ物を陸(おか)の畑地に植え、肥やしなんどを必要とせぬものに過剰な肥やしを与え過ぎて御座ったならば、これ皆、それらの作物にも病いの出来(しゅったい)致すことは必定にて御座る。人の場合もこれと同じ。おのおのが自性(じしょう)と相応致いた今日(きょう)を過ごさば、これ、病いなどと申す状態には決してならぬはず。己れに勝つことが出来ない、すっかり欲望に絡め捕られた凡夫の情によって、我が欲情の肉身に負けてしまい、飲食・衣服を始めとし、本来の自性相応(じしょうそうおう)に過ぎた贅沢を致すところより、病いというものは、これ、出来(しゅったい)致すと申すことを、これ古来、『病いは気より生ずる』と申すので御座る。

   *[根岸注:以下二篇は私が概略を書き直したもので、原文そのものではない。]

一、西の丸大奥に御右筆(ごゆうひつ)とかを勤めておらるる――おみさ――とか申される女房、病気にて宿下がりをして実家へと戻って御座ったが、この玄武庵が療治并びにその養生の教えを甚だ信頼致いて、さればこそ全快なして御座ったと申す。そこで、その御礼の祝儀に就き、おみさ、これ、考えたが、この玄武庵――療治の実費以外には患者からは物を貰わず、平素に於いても、他人よりたいした訳もなく、物を物を貰うこと并びに人の与えたる衣服なんどを着すことなどは、これ一切ない――と噂に聴いて御座ったによって、

「――妾(わらわ)のお仕え申し上げておりまする大奥の奥方さまより直々に頂戴致いた御召(おめし)白小袖の二つ、御座いまするが、その一つを、御祈禱のために増上寺方丈へ寄進致すことと致しました。今一つは、これ、染めさせておりまするによって、玄武老さまの矍鑠(かくしゃく)となされて長寿なればこそ、これにあやかり、その御着衣を賜われましたるところの奥方さまも、その長寿の趣きの、これ、寿(ことほ)がれまするよう、儀式が後に、お贈り申し上げとう存じますれば、当日、増上寺にてお待ち申し上げておりまする――」

と記した消息を玄武翁に遣わした。

 されば玄武翁、増上寺での貴人奉納の儀と承ればこそ、仕方なく、その当日、増上寺へ参拝なした。

 その祈禱の席には、奥方始め、幕閣の高官なんど、これ、大勢おられたによって、玄武翁、祈禱の儀にては、その仏前に供された小袖を恭しく礼拝致いて、

「――忝(かたじけな)く存ずる。」

と、儀式上の礼儀に則り、御礼(おんれい)の返答を致いては御座ったが、式も済んで、別室にて控えおった女房おみさに対面(たいめ)致すや、

「――芝増上寺と申すは、これ、寺。さればこそ、僧正にても、もとより施物(せもつ)を貰うを当たり前と致いて御座る生業(なりわい)の者じゃ。……しかも、深き信心の志しを以って寄進せられたる品を着用致いた上で、ありがたき勤行なんどなさるると申すことは……これ、そうしたこともあろうずことは……当たり前にあることにては御座ろうよ。さても、それはそれ。何の疑義も不満もこれ、御座らぬ。目出度きことじゃ。……しかしの、それを別に、この老体へ賜わると申さるる儀は、これ、はて? 如何なる謂いにて御座るものか?……老齢長寿の者の着したるところの衣服を、これ、頑是ない小児に着せ、その長寿の魂を子に移し保つ、と申すような理(ことわり)は、これ、古き医書などにも記しあれど……若い乍らも既に目出度く壮年となられたる貴婦人の御衣(おんぞ)を、これ、かく老いさらばえた老人に着せて、一体、どこのどいつの小児の長寿を、これ、増さんと申さるる仕儀にて御座るか?!……全く以って、これ、道理もへったくれも、御座らぬものじゃ!……さらにじゃ! さても、御召し古しならばとて、これ、御足袋(おんたび)やら御草履(おんぞうり)にても、天下晴れて拝領致いて御座ったとならば、それを家の宝とでも申して大事大事になすものとでも、これ、思われたか?……いやさ! かくまでも高貴なる御方さまより御拝領の品を着て御座ったとならば、その光栄によって、消え入らんまでの恍惚に、これ、身を震わずるとでも、これ、思われたか?……それは、言おうなら、将軍様御成りの節、壁の穴よりそのお姿を覗き見など致いて――我らは御目見え申し上げた!――と言いおる愚人の同類になったに同じいことにては御座らぬかの?!……ともかくも! この小袖拝領の儀は、これ、幾重にも御免蒙ることと致そう!」

と、断固として断られたとか。

   *

一、ある日のこと、玄武翁が屋敷の門へ来たって、

「……玄武庵殿に、我ら、お逢いしとう存ずる!……」

と申す者のあった。

 その姿たるや、ぼてふりが荷籠(にかご)をふり捨てたような風体(ふうてい)にて、髪もこれ、ぼさぼさ、十日以前に結うたっきりといった感じにて、髭もまた、ぼうぼうとし、何やらん、臭うてくるよな、如何にも、むさ苦しい男にて御座った。

 とりあえず庭に通すと、縁に出でたる翁(おう)を見るや、庭に手をつき、

「……拙者儀は――出羽庄内(しょうない)酒田――の者にて、俳人の淇水(きすい)さまの連中(れんじゅう)の者にてごぜえやす。……このたび、こうすて、江戸へ罷り上ぼってめえりやんしたは……国元の淇水さまへは何の沙汰も致さずに、やらかしたことでごぜえやすによって……淇水さまの御書状なんども、これ、持参致いてはごぜえやせんが。……そのぅ……狐憑きの申しまするようにも思し召しになられては、まんず、おられやしょうが……我ら江戸にては、少しばっかり心当たりの同郷の者を尋ねては……これ、十日ばかり、旅宿致いておりやんしたところが……今日明日にも出立(しゅったつ)致いて帰国せんことにはならんことが、これ、出来(しゅったい)致いてごぜえやしてのぅ! へえ……けんど……その……路銀、これ、一銭もごぜえやせんのでして……されば……ここは、どうか一つ!――金二百疋――御合力(ごこうりょく)、これ、くだせえやし!……」

と、縁下の踏み石へ額(ぬか)をついて、頻りに頼んで御座ったによって、翁は、

「……在所にて、淇水殿より、この玄武庵がこと、これ、どのように聴いておらるるかは存ぜねど……いや、まずは、愚かなる老人を愚かなる老人と思い定めてのかくなる御来訪とその仕儀、これ実に不思議にして、どこか、また素直なる懇請乍ら……今日只今(きょうびただいま)の数奇なる我らが境界(きょうがい)……これ、我が江戸の俳諧連中(れんじゅう)の世話になり、辛うじてその日を明かし暮すという体たらく。……いささかも、これ、手元になければ。……気の毒乍ら、貴殿が意を叶うること、これ、出来申さぬ。……」

と、穏やかに答えた。

 ところが、この男、

「――何としてもッツ! どうか一つッツ! 御願い奉るッツ!――奉るッツ!――奉るッツ!!……」

の一点張り。いっかな、たち退く気配、これ、御座ない。

 すると玄武庵、さても、とつくづく考えてみたことには、

『……何が何、我らにとってありがたきことかと申さば……これ――遠き百里の外にも、我れ在り、と聴き及ぶ者どものある――ということで御座ろうか。……よしや、カタリに遇(お)うとしても、まあ、二百疋ならが――安心迷惑料――としては、これ、僅かな額じゃ。……』

 そこで、かの男に向い、

「――如何にも難儀の趣き、聴き捨てにもなし難きことなれば、我ら何とか才覚致いて、明後日には用意して遣わそうぞ。」

と答え、その旅宿を聴きおいて、その日は帰した。

 さても翌日、二百疋を用意致いた翁には、門弟や家内(かない)の者、これ、口を揃えて、

「……お師匠さま、あれはどう見ても、カタリで御座いまする!」

「……御厚情も、これ、あのようなる者には、無益なことで御座いましょうぞ!」

と、頻りに止めた。

 しかし玄武庵、これ一向、とり合わず、彼らには逆に、こう語った。

「……しかしな。……もしも、かの者、これ、大罪を犯しておる者であって、この後(のち)、召し捕えられなどせば、これ、どうなると思う?……あの調子で、一銭も出さなんだ我らがこと、これ、あることないこと、喋りまくることは必定じゃ。……そうなると、当然、奉行所より我らも呼び出ださるることと相い成り――一体、この悪人とそなた、これ、如何なる由縁のある者なるか?――かかる非道の犯罪と、そなたは何か繋がっておるのではないか?――なんどと痛くもない腹を探らるることにもなり兼ねぬとは申すせぬか?……そう糺されれば――淇水(きすい)との縁は事実――かの男に嘘を申して門前払いしたも事実――とあっては、言い開きよう、これ、御座るまい。……理不尽ではあるが、状況は我らが方にとって、頗る不利じゃ。……幸い、酒田の淇水が方へ、この春中(はるうち)よりの様子なんど、これ、返事をもなさんと思うておったところじゃったによって、の。……」

と、徐ろに淇水宛の書簡を認(したた)めると、しっかりした使いの者に命じ、前日に聴きおいたる京橋因幡町(いなばちょう)何某(なにがし)の持ち分のお店(たな)にあったる、かの者の旅宿を訊ねさせ、旅宿主人も同席の上、かの淇水こと津下庄藏(つげしょうぞう)へ宛てたる書状一封と、

「――この書状の届け賃にて御座る。――」

と呼ばわったる金子を、これ、相い渡し、その当人の男の名前・旅宿の名・その旅宿の主人の印をも押したる請け取り証文を取った。

 かの男は、これ殊の外、歓んで旅立って行った、とのことである。

2015/03/05

耳嚢 巻之十 今大路家懸物の事

 今大路家懸物の事

 

 官醫今大路家に、曩祖道三教歌蹟(なうそだうさんきようかせき)とて懸物(かけもの)となし、神農會(しんのうゑ)には床に懸候事の由。右は道三自筆にて歌なり。

  長生は麁食正食ひゆたらり勝手次第に御屁めされよ

 當主も門人も、右歌の内、ひゆたらりといへる事、何の事と言(いふ)をしらず、相應の説をつけて申傳(まうしつた)へけるを、或時信州邊出生(しゆつしやう)の人來りて、是は如何成(なる)事哉(や)と尋(たづね)けるに、今大路の門人共も答(こたへ)に當感し、申傳へのみを何となく噺しければ、彼(かの)信州の翁のいえるは、我等或日山深き片田舍に至りしに、百歳餘の者有(あり)しに、長生の術も有(あり)哉(や)と尋しに、物しらぬ田舍人なれば其術もしらず、かゝる山奧なれば明暮(あけくれ)食する所は素食(そしよく)にて、元より何の望みもなければ心に勞する事もなく、かく長壽をなしぬといひしに、しかれども何ぞ長壽の益も有(ある)事もあらんと切(せち)に尋ければ、湯のあつきを不用(もちゐず)不吞(のまず)、火のあつきによらざるべしといひしが、ひゆたらりと云(いふ)は此事ならん、道三先生是をしりて、かく詠み置(おき)たまひしならんといひしにて、今大路家の者ども、始(はじめ)て此歌の心を、致知(ちち)なせしとなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。ただこれもここのところ、多い医師絡みである点(一つ前の「幽魂奇談の事」がそれ)、同じニュース・ソースが疑われる。

・「官醫今大路家」底本の鈴木氏注には、曲直瀬道三(まなせどうさん:次注参照。)の養子であった曲直瀬親清(まなせちかきよ)玄朔(げんさく)が『禁裏から橘氏及び今大路の家号を賜わった。親清の父正紹のとき徳川家光に近侍し、親清は幕府から七百石の領地を与えられ、その子親昌の時には千二百石になった。代々幕府の医師』とあるが、諸人名事典を見ると「親清」と「正紹(せいしょう)」は同一人物である。以下に、「朝日日本歴史人物事曲」のそれを引くと、曲直瀬親清(寛永八(一六三二)年~天文一八(一五四九)年)は安土桃山から江戸前期の医者で幼名は大力之助、名は正紹、号は東井、通称は玄朔、後に道三(二代)を襲名、院号は延命院、延寿院。初代道三の妹の子として京都に生まれ、幼くして両親を失い、道三に養育されて天正九(一五八一)年にその孫娘を娶って養嗣子となり、道三流医学を皆伝された。法眼・法印と進み、豊臣秀吉の番医制に組み込まれて関白秀次の診療にも当たった。文禄四(一五九五)年の秀次切腹に連座して常陸国に流されたが、後に赦免されて帰京、朝廷への再出仕も許された。徳川家康・秀忠に仕え、江戸邸と麻布に薬園地を与えられた。江戸で没し、薬園地に生前建てていた瑞泉山祥雲寺(後に渋谷へ移転)に葬られた。初代道三の選した著作を校訂増補して道三流医学の普及を図り、野間玄琢・井上玄徹・饗庭東庵らの優れた門弟を輩出させて初代道三とともに日本医学中興の祖と称せられる。著作に「済民記」「延寿撮要」「薬性能毒」など、とある。これを見ると鈴木氏の『徳川家光に近侍し』たというのもおかしい。更に、玄朔が『禁裏から橘氏』を賜わったとするのも、次の養父道三の事蹟と合わない。ところが、岩波版の長谷川氏注には、正盛(道三)―正紹―親清という系図が注に附されてある。一体、どれが正しいのか、分からなくなってしまった。識者の御教授を乞う。

・「曩祖」先祖。

・「道三」曲直瀬道三(永正四(一五〇七)年~文禄三(一五九四)年)は、戦国時代の医師。道三は号。諱は正盛(しょうせい)。字は一渓。他に雖知苦斎(すいちくさい)・翠竹庵(すいちくあん)・啓迪庵(けいてきあん)など。本姓は元は源氏で、後に橘氏を名乗った。また今大路家の祖。また、日本医学中興の祖として田代三喜・永田徳本などと並んで「医聖」と称されることも。養子に曲直瀬玄朔(正紹)がいる。以下、参照したウィキの「曲直瀬道三」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、注記号と改行を省略した)、『父は近江佐々木氏庶流の堀部左兵衛親真、母は多賀氏。幼少の頃、両親を失う。なお、『近江栗太郡志』によれば、道三は近江栗太郡勝部村(現守山市)の佐々木氏一族勝部氏の一門の出とされ、母は目賀田攝津守綱清の娘、諱を正慶とし、父母死別後伯母に育てられたと記されている。幼少時守山の大光寺内吉祥院にて学んだ(道三は勝部村に五反の農地を持ち、大成した後一反を大光寺に寄進したと伝えられ、天正五年十二月翠竹庵道三著名の寄進状がある)。永正十三年(一五一六年)、五山文学の中心である京都相国寺に入って喝食となり、詩文や書を学ぶ。この頃、姓を曲直瀬とする。享禄元年(一五二八年)、関東へ下って足利学校に学ぶ。ここで医学に興味を抱いたと言われる。名医として知られた田代三喜斎と出会い、入門して李朱医学(当時明からもたらされた最新の漢方医学)を修める。天文十五年(一五四六年)ふたたび京都へ上ると、還俗して医業に専念。将軍足利義藤(後の義輝)を診察し、その後京都政界を左右した細川晴元・三好長慶・松永久秀などの武将にも診療を行い、名声を得て、京都に啓迪院(けいてきいん)と称する医学校を創建した。

永禄九年(一五六六年)、出雲月山富田城の尼子義久を攻めていた毛利元就が在陣中に病を得た際に、これを診療し、『雲陣夜話』を記す。天正二年(一五七四年)には『啓迪集』を著し、同年に正親町天皇に拝謁を許され、診療を行い、同書を献上した。正親町天皇は僧策彦周良に命じて序文を作らせている。この際に翠竹院の号を賜る。織田信長が上洛後は、信長の診察も行い、名香蘭奢待を下賜された』。著書は「啓迪集」以外にも「百腹図説」「正心集」「指南鍼灸集」「弁証配剤医灯」など数多く、『数百人の門人に医術を教え、名医として諸国にその名を知られた。天正十二年(一五八四年)、豊後府内でイエズス会宣教師オルガンティノを診察したことがきっかけでキリスト教に入信し、洗礼を受ける(洗礼名はベルショール)。天正二十年(一五九二年)には後陽成天皇から橘姓と今大路の家号を賜る。文禄三年(一五九四年)一月四日没した。死後、正二位法印を追贈され』妹の子玄朔を養子とし、『その後も代々官医として続いた』とある。

・「神農會」底本の鈴木氏注に、『神泉祭。漢方医が医薬の祖たる神農氏を冬至の日に祭る。赤豆餅、赤豆飯に酒肴をととのえ、親戚知人を招いて饗応する』とある。神農は古代中国神話の三皇五帝の一人で、人に医療と農耕の術を教えたとされる神。

・「長生は麁食正食ひゆたらり勝手次第に御屁めされよ」は、

 ちやうせいはそしよくせいしよくひゆたらりかつてしだいにおんへめされよ

と読むか。「麁食」は粗食で、「正食」はそれを規則正しく食べる謂いであろう。下の句も腹部に滞留したガスを溜め込むのは無論、よろしくないから合点出来る。問題は「ひゆたらり」で、その謎解きが本話の主眼でもあるのだが、私は道三の事蹟の中の切支丹入信というのが気になった。これはもしや、禁教となった切支丹の秘跡を詠み込んだ、ラテン語ではあるまいかと思ったのである。ところが、ネット検索を掛けているうちに、平岩弓枝の小説ファンの方の個人サイト「御宿かわせみの世界」によって、同作品の中に「ひゆたらり」という短編があり、それについて当該サイトのBBS(過去ログ)の中で議論されてあるのを発見した。それを読むと、『むこうの言葉で湯の熱いものを飲んだり、火の熱いところに寄ったりしないこと』という解説が原作の注(?)にあるらしいこと、投稿者の一人が私同様に切支丹であったことからこれはポルトガル語ではないかと考えられたこと、この養生歌によく似た狂歌で天海作のものがあること(後掲)、そこでは「日湯陀羅尼」と書かれてあること、そこからこれは日々経を唱えてその経の功徳と読経に拠る呼吸法(道教でいうところの一種の導引法であろう)が長寿と関係するのかも知れないという解釈が示されており、非常に面白く読んだ。そこでその天海の養生歌を探してみると、宗教ジャーナリスト野木昭輔氏のコラム記事「仏教者の健康法 天海僧正の巻 気は長く勤めは堅く 色うすく 食細くしてこころ広かれ」にあった。それによれば、天海が残したこの手の養生訓は数種あるとされる中で、第三代将軍家光に

  長命 粗食 正直 日湯 陀羅尼 時折りご下風遊ばざるべし

と伝授したと出るそれである(先のBBSでは「長命は粗食正食日湯陀羅尼折々御家風(或いは御下風)あそばされるべし」とある)。これについて野木氏は、『日湯というのは毎日の入浴のことで、体を動かすことは血行をよくする薬。お風呂は血行をよくするから適当な運動になり、汗した時には皮膚を清潔にする。陀羅尼というのは、信仰心を失わず、毎日真言を唱えて転禍為福を祈りなさいということ。ご下風は体内のガスを腹の下の門から放出すること。信じて唱えれば「有酸素呼吸法」の効果があると説いた。こうしたことが長命につながると天海僧正は言うのである』と解説しておらるる。これで決まりであろう。

・「ひゆたらりと云は此事ならん」されば「ひゆ」は「火」と「湯」で分かるが、「たらり」が解読されていない。「足(たら)ふ」で「十分である・不足がない/その状況に堪える。資格がある」の謂いでも少し変だし、「日湯たり」という形容動詞化したものを打ち消しているとするのも、無理がある。そもそもがこの老人も、案外、半可通で、この話もイカサマっぽい気が私にはするのである。どうも根岸がこれを書き記したのも、案外、そうした皮肉からではなかったろうか?

・「致知」底本では右に編者のママ注記があるが、格物致知(かくぶつちち)の語もあり、道理を知り、物の本質を究めるという謂いで何ら、不明な言葉ではない。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 今大路家の掛け物の事

 

 官医として今も続く今大路(いまおおじ)家に、曩祖(のうそ)曲直瀬道三(まなせどうさん)殿の養生訓の和歌手蹟(しゅせき)と称し、掛け物と成しおかれたるもののあって、神農会(しんのうえ)の際には、これ必ず、床の間にこれを掛け置き祭るを例式となして御座る由。

 これは、道三殿自筆の教訓歌で御座る。その和歌は、

 

  長生は麁食正食ひゆたらり勝手次第に御屁めされよ

 

というもので御座った。

 ところが当主も門弟も、この和歌のうち、「ひゆたらり」と申す部分、これ、何のことを指していっておるものやら、一向分からず、適当に誤魔化した――訳のわからぬこと、それが、養生の秘義秘訣である――といったマヤカシの説を付会しては、代々、この掛け物を、これ、申し伝えて御座ったと申す。

 ところが、ある時、信州辺りの出生(しゅっしょう)の来客の御座って、丁度、神農祭なればこそ、床の間に掛け置いたこの和歌を見、

 

……はて。……この「ひゆたらり」と申すは、如何なる意味で御座ろうか?……

 

と訊ねられたによって、そこに御座った今大路が門弟どもも、こればかりは答えに閉口致いて、例の、申し伝えておる、分かったような分からぬような、いい加減なことを、如何にも頼りなさ気に、これ、答えて御座った。

 すると、その質いた信州から来ったる老客――

 

……ふうむ。……

……「ひゆうたらり」と、な。……

……我ら、ある時、薬草を採取せんがため、山深き片田舎へと入り込んで御座ったが、そこに百歳余りの者、これ、矍鑠(かくしゃく)として住まいして御座って、の。……

……されば、その老人に、

「御長生、これ、何か秘訣でも御座るか?」

と訊ねてみたところが、

「……物も知らぬ田舎者なれば……そんな秘訣なんぞも、知り申さぬ。……ただただ、かかる山奧のことなれば……明け暮れ、食するところの物は、これ皆、粗食にして。……そうさ、もとより、これ、何の世俗の望みもなければ、さればこそ、心に心配なる事も、これ、一抹も生ずること、御座らぬ。……されば、かく長寿致いておりまする。……」

と答えて御座った。……

……されど、

「……それは仰せの通り、と申さば、そうでは御座ろうが……しかれども……やっぱり、その、何じゃ、何か特に長寿に格別の効用の御座ること、これ、あられようほどに!……」

と、さらに切(せち)に訊ねて御座ったところ、

「……ま、そうじゃな……湯の熱きは、如何なる場合も、これ、用いず。吞まず。……火の気(け)そのものも同じじゃ。……そうさ、これ、おしなべて――熱きものには――これ、近寄らぬが、よかろうぞ。……」

と、申して御座ったを思い出だいた。……

……この「ひゆたらり」と申すは――「火湯」にて――このことを指しておるのでは御座るまいか?!……

……いやいや! かの道三先生、この養生の秘訣の核心を知り得て、かくも、美事に、お詠みおかれたに! これ、相違御座らぬ!!……

 

……と

――ぴしゃり!

と、膝を打たれたと申す。

 さればそれより、今大路家当主や、その弟子の者どもは、これ、始めて本歌の「まことの心」を、これ、知尽致いた、とのことで、御座った。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十七章 南方の旅 大阪で出土した刳り舟のデッサン(後に空襲によって焼失した) / 第十七章 了

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図―610[やぶちゃん注:最上段の図。]

図―611[やぶちゃん注:中段の図。]

図―612[やぶちゃん注:最下段の図。]

 

 大阪では、天産物と製造物との展覧会が開かれつつあり、各種の物品で一杯だった。日本人の特性は、米国と欧洲とから取り入れた非常に多数の装置に見られた。ある国民が、ある装置の便利さと有効さとを直ちに識別するのみならず、その採用と製造とに取りかかる能力は、彼等が長期にわたる文明を持っていた証例である。これを行い得るのは、只文明の程度の高い人々だけで、未開人や野蛮人には不可能である。この展覧会には、大阪附近で発掘した舟の残部が出ていた。保存された部分は、長さ三十五フィート、幅四フィート半、深さ二フィートである。それは相鉤接した三つの部分から出来ていたが、その二部分を接合させる棒が通りぬける為の横匝線が残るように、木材が舟底で細工してあった。大分ひどく腐蝕していて、その構造の細部は鑑識が困難であった(図610・611・612)。それは千年以前のものとされていた。現在でも鹿児島湾で二つの部分に分たれた舟を見受けるのは、不思議である(図568)。

[やぶちゃん注:この物産博覧会については不詳。識者の御教授を乞う。ここでモースが実見し、スケッチを残した三箇所で巧妙に接合された複雑な丸木舟(刳り舟)はウィキ丸木舟」に載る、浪速区難波中(なんばなか)三丁目の鼬川からこの前年の明治一一(一八七八)年に出土した残存長十二メートル程の刳舟とあるもので、これは第二次世界大戦の『空襲で焼けてしまったが、当時日本に在住していたモースも見学しておりスケッチや写真などが残されている』とある。モースのこのスケッチは発掘初期の形状を伝える貴重な一枚なのである。

「長さ三十五フィート、幅四フィート半、探さ二フィート」全長一〇・六七メートル、幅約一六・四六センチメートル、深さ(外側上部からキールまでの円錐深、所謂、型深さであろう)一メートル三十七センチメートル。前注にある通り、実物の全長をやや短めに採っている。

「相鉤接」「あいかぎつぎ」と訓じていよう。

「図568」第十六章 長崎と鹿児島とへ 当日の錦江湾ドレッジの当該図を参照のこと。

「千年以前のもの」明治一二(一八七九)年から千年以前は延暦年間(例えば平安遷都は延暦一三(七九四)年)であるが、この接ぎ刳り舟はもっと古い(古墳時代末期の七世紀末)可能性もあるように思われる。]

 

 蚊は日本に於る大禍患である。既に述べた大きな、四角い、箱に似た網のお陰で、人はその中に机と洋燈とを持ち込んで坐ることが出来る。私は、夏と秋とは、このようにして書き物をすることが出来た。

[やぶちゃん注:「大禍患」「だいかかん」と読み、大きな厄(わざわ)い、災難、不幸のこと。

「大きな、四角い、箱に似た網」蚊帳。モースは夏季は洋室でも大きな蚊帳を吊っていたことが分かる。]

 

 私の子供達は、彼等自身の衣服よりも夏涼しいというので、早速日本服を着用した。日本人の大学教授の多くも、長い袖や裾のある和服よりも洋服の方が便利だとて、洋服を着ているが、それにもかかわらず、和服は夏涼しく冬温かいことを発見し、寒暑の激しい時には和服を着る。

[やぶちゃん注:以上を以って「第十七章 南方の旅」が終わる。]

 

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十七章 南方の旅 大阪城址

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図―608

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図―609

 

 大阪を訪れる者は必ず、一五八三年に秀吉が建造した有名な城の跡を見るべきである。この廃墟は高地にあるが、その頃としては、この城は殆ど難攻不落であったに違いない。一六一五年、第二回の攻撃に逢って落城し焼かれたのであるが、城壁を構成する巨石の角々がまるくなっているのは、大火の高熱が原因している。私は勝手に歩き廻ることを許され、また自由に写生するのを、誰も制止しなかった。図608は城の最高所で、図609は外壁である。中央にある巨石は長さ三十五フィート、厚さ高さ各々十フィートを越している。これ等の石は五十マイル乃至百マイルの所から舟で運ばれて来たのであるが、その中のある物の巨大さを見ると、どうしてこれを切り出したか見当がつかぬ。更にそれ等を如何様に運搬し、現在廃墟の立っている高地まで如何にして曳き上げたかは、到底判らない。蒸気起重機、水力装置、その他の現代の設備によって、これ等の巨石を据えつけたのではない。而もエジプト人はその二千五百年前、すでに同様の不思議を行っている。日本人の小形な家や庭、可愛らしい皿、彼等の生活に関係のある繊細な物品等に馴れた人にとっては、日本人と巨大な建造物とを結びつけることが困難であるが、而も大阪城は、その城壁の巨人的構造に於て、実に驚異というべきである。京都と大阪の巨鐘、鎌倉と奈良の大仏、大きな石の鳥居、その他大きな建造物の例はすくなくないが、古い城や城壁や、また欧洲で教会堂が他のすべてを圧すると同様に、住宅の上に聳える寺院を除くと、建造物は普通小さくて繊麗である。

[やぶちゃん注:現在の大阪市中央区の大阪城跡である(沿革については後の注も参照されたい)。既に寛文五(一六六五)年の落雷によって天守は焼失、以後幕末に至るまで天守を持たなかったが、慶応四年一月三日(グレゴリオ暦一八六八年一月二十七日)、鳥羽・伏見の戦いの敗北によって大坂城は新政府軍に開け渡され、この前後の混乱の際に出火し、御殿・外堀・幾つかの櫓など、城内の建造物の殆んどが焼失してしまっていた。維新後、新政府は城内敷地を陸軍用地に転用していた(東側の現在の大阪環状線までの広大な敷地には、その後、主に火砲・車両などの重兵器を生産する大阪砲兵工廠(大阪陸軍造兵廠)が設けられたため、太平洋戦争時は米軍の爆撃目標ともなった。なお、現在の天守閣の復元竣工は戦前の昭和六(一九三一)年のことである。以上はウィキの「大坂城」に拠った。以下の二つの注も同じ)。なお、モースが不思議がっている石垣の切り出しや運搬方法については個人サイト「まつみInternet」の1号室 お城の部屋の左コンテンツの「第4章 石垣にせまる」の「その8 石垣ができるまで」に分かり易く解説されてある。築城のみでなく「石積み文化の歴史」なども詳細を極め、必見である。

「一五八三年に秀吉が建造した」、大阪市にある南北に長い丘陵上町(うえまち)台地のほぼ北端、石山本願寺の跡地に天正一一(一五八三)年に羽柴秀吉が築城を開始、本丸は完成に一年半を要した。

「一六一五年、第二回の攻撃に逢って落城し焼かれた」慶長二〇(一六一五)年の大坂夏の陣で豊臣氏滅亡とともに落城、灰燼に帰したが、元和五(一六一九)年に幕府直轄領(天領)に編入されると、その翌年より第二代将軍徳川秀忠によって大坂城の再建が命ぜられ、凡そ三期に亙る工事を経て寛永六(一六二九)年に再築城された。

「長さ三十五フィート、厚さ高さ各々十フィートを越している」横長一〇・七メートル、縦長及び奥行約三メートル。ウィキの「大坂城」の「遺構」によれば、石垣石には最大で高さ五~六メートルで最大幅十四メートルに達する巨石が数多く使われている、とある。

「これ等の石は五十マイル乃至百マイルの所から舟で運ばれて来た」「五十マイル乃至百マイル」は八十キロ強或いは約百六十一キロメートル。やはりウィキの「大坂城」の「遺構」によれば、『現存する石垣も多くが当時の遺構である。江戸時代の大坂城は、徳川幕府の天下普請によって再築された。石垣石は瀬戸内海の島々(小豆島・犬島・北木島など)や兵庫県の六甲山系(遺跡名:徳川大坂城東六甲採石場)の石切丁場から採石された花崗岩である。また遠くは福岡県行橋市沓尾からも採石された。石垣石には、大名の所有権を明示するためや作業目的など多様な目的で刻印が打刻されている』とある。徳川大坂城東六甲採石場で直線で二十五~三十キロメートル、小豆島で百キロ、北木島で百九十キロ、福岡県行橋市沓尾に至っては四百二十八キロメートルもある。

「エジプト人はその二千五百年前、すでに同様の不思議を行っている」とモースは述べているが、大阪城の石垣石の方が遙かに大きく重い。やはりウィキの「大坂城」の「遺構」によれば、大阪城の石垣石の重量は最大百三十トンと推定されており、エジプト・ギザの大ピラミッドの積石が1個約二・五トン、ピラミッド内部にある花崗岩でさえも約八十トンと言われる。また、イギリス・ストーンヘンジで最大の石でも高さは六・六メートルしかなく重量も四十五トンであると記す。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十七章 南方の旅 京都にて 4 附 メンデンホールの計測になる蝸牛と蟻の運動速度について

 京都から我々は、大阪へ引きかえした。ここで私が東京で知合いになった学生の一人小川君が、私をもてなしてくれようとしたが、私が日本料理に慣れ且つそれを好むことを知らない彼は、西洋風に料理されそして客に薦められると仮定されている物を出す日本の料理屋へ私を招いた。日本人は、適当に教えられれば素晴しい西洋料理人になれる。私はそれ迄にも日本の西洋料理屋へ行った経験はあるが、何が言語同断だといって、この大阪に於る企みは、実にその極致であった。出る料理、出る料理、残らずふざけ切った「誤訳」で、私は好奇心から我々の料理を食った日本人は、どんな印象を受けたことだろうと思って見た。

[やぶちゃん注:私には、この料理の詳細レシピが記されていないことが、まことに残念至極である。

「小川君」既注であるが、再掲しておくと、磯野先生が「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」で、先の現在の八尾市にある高安千塚古墳群の調査報告論文「日本のドルメン(支石墓)」(明治一三(一八八〇)年)に『大阪専門学校の小川教諭(東京での知り合いと『その日』にあるが、どういう人物か不明)』と記す不詳の人物である。]

 

 虎疫(コレラ)が大流行で、我々は生のもの、例えば葡萄(ぶどう)その他の果実や、各種の緑の物を食わぬようにせねばならぬ。加之(しかのみならず)、冷い水は一口も飲んではいけない。お茶、お茶、お茶と、朝昼晩及びその他あらゆる場合、お茶ばかりである。だがお茶といえぼ、友人の家でも商店でも、行く先で必ずお茶が出されるのは、日本に於て気持のいい特徴の一つである。その場所が如何に貧しく且つ賤しくとも、この礼儀は欠かぬ。同時に我々は、日本風の茶の入れようが如何にも簡単で、クリームも砂糖も入れずに飲むのであることを知っていなくてはならぬ。道路に沿うては、間を置いて小さな休憩所があり、そこでは通行人にお茶と煎餅数枚とをのせたお盆が差し出され、これに対して一セントの価格を持つ銭をお盆に入れる習慣がある。公開講演をする時には、おきまりの冷水を入れた水差とコップとの代りに、茶瓶と茶碗とをのせたお盆が机の上に置いてある。大学では先生達に出すお茶を入れるのに一人がつき切りで、一日中、時々彼は実験室に熱いお茶を入れた土瓶を持って来る。お茶は非常に弱いが、常に元気つける。数世紀にわたって日本人は、下肥を畑や水田に利用する国で、水を飲むことが如何に危険であるかを、理解し来ったのである。

 

 紙屋の店で見受ける非常に綺麗な品は、封筒と書簡紙とである。封筒は比較的新しく、外国の真似をした。以前は恰度我々が封筒発明前にやったと同じく、手紙を畳む一定の、形式的な方法があった。書簡紙は、幅六インチあるいはそれ以上の長い巻物である。書くのは右から始め縦の行である。それには筆を使い、用あるごとに墨をする。巻物は弛んでいる方の端から書き始めるのだが、それ自身が書く紙を支持する役に立つ。一行一行と書かれるに従って、紙は巻きを解かれ、手紙が書き終られた時にはその長さが五、六フィートに達することもある。そこで紙を引き裂き、再び緩やかに巻いて、指で平にし、巻紙よりすこし長くて、幅は二インチあるいはそれ以上ある封筒の一端からすべり込ませる。封筒は――屢々書簡紙も同様だが――彩色した美しい意匠で魅力的にされている。書簡紙には書く文字の邪魔にならぬ程度の淡色で、桜の花、花弁、松の葉、時としてはまとまった山水等が、ほのかに出してある。封筒の絵はもっとはっきりしているが、宛名の邪魔にならぬように、概して辺に近く置かれる。この意匠が、数限りなく多種多様なのには驚かされる。主題の多くは外国の事物から取ったもので、この上もなく散文的であるが、達者な芸術家の手によって、魅力あるものにされている。意匠の多くは、日本の民話や神話を知らぬ者にとっては、謎である。が、即座にその意味の判るものもある。例えば、前景に湯気の立つ土瓶が、遠景に鉄道の列車があるものや、稲妻と電信柱とがあるものは、蒸気や電気の発見の原因が理解されていることを示す。

[やぶちゃん注:この最後の文明開化期の封筒意匠はなかなか面白い。

「幅六インチ」幅十五・二四センチメートル・

「五、六フィート」一・五~一・八メートル。

「二インチ」五・〇八センチメートル。]

 

 私の同僚メンデンホール教授は、この頃昆虫や蝸牛(かたつむり)の運動の速度に興味を持っている。蝸牛の大きな種の進行時間を注意深くはかった結果、彼はそれが一マイル進むのに十四日と十八分を要することを見出した。また蟻の普通な種の速度を計った結果、普通に歩いて蟻は、一マイルを行くのに一日と七時間かかることを知った。これ等はごくざっとした計算である。

[やぶちゃん注:「メンデンホール教授」既注であるが、再掲しておく。モースが招聘した当時の東京大学理学部物理学教授トマス・メンデンホール(Thomas Corwin Mendenhall 一八四一年~一九二四年)。アメリカ合衆国オハイオ州生まれ。高卒後に独学で数学と物理学を習得し、高校教師からオハイオ州立大学物理学教授となった。モースの推薦で明治一一(一八七八)年十月一日附で東京大学に迎えられた彼は、富士山頂で重力測定や天文気象の観測を行うなど、本邦に於ける地球物理学の濫觴となり、また、モースの官舎の裏に当たる本郷区本富士町(現在の文京区本郷七丁目)に竣工した東京大学理学部観象台(気象台)の初代台長(観測主任)となって、翌明治一二(一八七九)年一月から二年間に亙って気象観測に従事、本邦での地震の頻発を考慮して、観象台への地震計設置を主張したり、日本地震学会の創立にも貢献した。明治一四(一八八一)年の帰国後はオハイオ州立大学教授・陸軍通信隊教授・ローズ工科大学学長・アメリカ科学振興協会(AAAS)会長・海岸陸地測量局長(アラスカの氷河の一つである彼の名を冠したメンデンホール氷河はこの局長時代の仕事を記念して命名されたもの)・ウースター工科大学学長などを歴任し、科学行政にも関与した。米政府のメートル法採用に果たした役割も大きい。明治四四(一九一一)年に日本を再訪している(以上はウィキの「トマス・メンデンホール」に磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」のデータを加えてある)。

「一マイル」千六百九メートル三十四センチ。

「十四日と十八分]三百三十六時間十八分。これだとカタツムリは約時速四・八メートルのスピードとなる。理系出身国語教師MrJohnny氏のブログ「吹風日記」のフルスピードでのろのろと、年速1kmの言葉、カタツムリの速度でには、時速六メートル説(国立感染症研究所の前身である国立予防衛生研究所昆虫部計測)と時速三・六メートル説(参照先をウィキペディア英語版とされておられるから、恐らくは同“Land snail中の記載にある“1 mm/s is a typical speed for adult Helix lucorum”に拠るものと思われる。因みに、この種は腹足綱有肺亜綱柄眼(マイマイ)目マイマイ超科エスカルゴ(マイマイ)科のチャオビエスカルゴでイタリア中部から小アジアに分布し、本邦には産しない)が挙げられてあるから、メンデンホールはまさにこの二つの平均値に相当し、頗る信用出来る数値ではないか!

「蟻の普通な種の速度を計った結果、普通に歩いて蟻は、一マイルを行くのに一日と七時間かかる」これだとアリは約時速五十一・九メートルのスピードとなる。長野県岡谷市生物科学研究所井口研究室の井口豊氏のアリと人間の速さの比較によれば、『一概には言えないが』と断わられた上で、摂氏二十~三十度の条件で秒速一~十四センチメートル程度であるが、『種による違いが意外と大きい』と注しておられるから、時速は三六~五〇四メートルに相当する。リンク先は極めて学術的なもので、しかもそこに示されてあるデータの一部は宮城県仙台市立六郷中学校二年生が実見して調べ上げたものである。実に素晴らしい! 必読!]

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図―607

 

 日本人は親の命日を神聖に記憶し、ふさわしい儀式を以てその日を祭る。祖父母の命日でさえも覚えていて、墓石の前に新しい花や果実を供えて祭る。仏教徒もまた、死者に対する定期の祭礼を持っている。この場合の為に奇妙な形をした提灯(ちょうちん)がつくられる(図607)が、二百年以上にもなる絵画にも、同じような捷灯が出ている。

[やぶちゃん注:切子燈籠(きりことうろう)である。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十七章 南方の旅 京都にて 3 蜷川式胤実家

 日曜日ごとに蜷川が、私がその週間に蒐集した陶器を鑑定するべく、私の家へ来る。ある日私は彼を勾引し、拒む彼を私の人力車に乗せて写真師のところへつれて行き、彼の最初にして唯一の写真をとらせた。蜷川は京都人で、彼の姉はいまだに京都で、三百年になるという古い家に住んでいる。彼は私に、彼女への紹介状をくれたので、私は彼の写真を一枚持って彼女を訪問したが、蜷川の写真を見た彼女のよろこびは非常なもので、おかげで私はその家の内部や外部を詳しく調べることが出来た【*】。

 

 

* この家庭と庭園との写生図は、『日本の家庭』に出ている。

 

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、冒頭の「日曜日ごとに蜷川が……」から「……彼の最初にして唯一の写真をとらせた」までの箇所は、今回の西日本旅行に出る以前の東京での話である。「蜷川」はモースの陶器の師で、元内務省博物館掛であった考古家蜷川式胤(にながわのりたね 天保六(一八三五)年~明治一五(一八八二)年)で、「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十五章 日本の一と冬 大森貝塚出土の貝類と現生種の比較」等で既注。今回はウィキの「蜷川式胤」もリンクしておく。それによれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、式胤はこの明治一二(一八七九)年『年初から、モースと繁く交わって日本の陶器の鑑識について教え、一千点以上と推測される古陶器を、贈り、或いは共に町に出て集めた。今日ボストン美術館が所蔵する『モース日本陶器コレクション』の発祥である』とある。また、この時、モースが訪ねた屋敷は高い確率で、そこに記されてある、東寺『境内東北隅の屋敷』と考えられる。

「彼の姉」原文は“his sister”であるが、実は、以下の注に示されたモースの「日本の家庭」、“Japanese homes and their surroundings”(1885)の原典では“maiden sister”とあり、しかも斎藤正二・藤本周一訳の邦訳「日本人の住まい」(八坂書房二〇〇二年刊)では、これを『妹御』と訳しているのである。これは流石に困った。“maiden”とあるからと言って、未婚の「妹」と断定する訳にも行かないけれど、当時、式胤は既に満四十四歳であるから、ここは名家の若い美しい妹御をイメージしたくなるのは、これ、私ばかりではあるまい。……「妹御」と、とりとう存じまする……モース先生せんせ……。

「この家庭と庭園との写生図は、『日本の家庭』に出ている」これは上記邦訳書「日本人の住まい」の「第二章 家屋の形態」の八二~八六頁(三枚の附図がある)をまず指していると考えてよかろう(室内を模写した可能性もあるが、私が読んだ限りでは、ここと特定は出来なかった)。少し長いが、先に示した蜷川式胤の実家である旨の叙述も現われ(訳語の齟齬もあり)、本段落の引用としては、学術的にも欠かせないものと私は判断することから、以下に引用させて戴く(途中に図を配した関係上、一部の段落は繋がっていないが、底本では文章は改行の後、すぐ連続している。

   《引用開始》

 富裕な人々が住んでいる草葺きの家が、東京や京都の郊外でよく見られる。また、奇異に思われるかもしれないが、都会の中心部においても見かける。誰しもが想像することは、このような屋根は、火事のさいに火の粉が降りかかればたちまちに火炎に包まれてしまうのではないかということである。しかし、長い歳月を経た草茸屋根は、塵(ちり)や煤(すす)が詰まって固まっており、多種多様な雑草などの植物、苔などが屋根一面に生え広がっていて、飛んでくる火の粉に対して防護の役目を果たしている。京都に、ここに述べたような屋根の建物の例があったのを思いだすが、それは約三世紀を経たといわれる一軒の家である。この家のたたずまいについて、表通り、門を入ったばかりのところおよび家の裏側の三方から見たスケッチがあるので、以下、順々に述べてみよう。

[やぶちゃん注:「約三世紀」本段の「京都で、三百年になるという古い家」と一致する。]

 

H46

46図 京都の古い家。中庭への入口。

 

 第一景(四六図)は表通りからのもので、重厚な瓦葺きの正門があって、門の側面には小さな戸口が覗いている。正門の扉は外されてあって、小さな戸口は締切りになっていた。このずっしりした構えの門の一方の側には、低い建物が続いている。外壁には漆喰が塗られ、通りに面して格子の倣った小さな窓や、門の内外を見張るための格子の嵌った小さな窓や、門の内外を見張るための格子の嵌った物見がついている。

[やぶちゃん注:これはデッサンから長屋門を改造した感がある。]

 正門のもう一方の側は背の高い厚壁があり、やはり窓か物見のようなものがついている。外壁は、道路ぎわの排水溝を形作っている壁が、そのまま上部に延長されたように見えるが、この溝は、もっと適切な言いかたをすれば、道端に沿って設けられた小さな濠といってよいだろう。何枚かの大きな板石がこの濠に差し渡されて橋をなしており、この橋を渡って正門に達する。上述した建物の屋根越しに、急勾配の棟をした古めかしい建物が見えている。

 

H47

47図 京都の古い家。中庭のたたずまい。

 

 四七図は、その建物を正門の内側から見たところである。四六図では、スケッチの右よりに、開けっ放しの正門を通して、格子を嵌めた窓が見えている。また同図で、正門の屋根越しに聳え立っていた大樹は、いまその全容を見せたことになる。前述のあの古風な家は、草葺きであるが、屋根の勾配は著しく急で、棟の部分にだけ瓦が葺かれている。また、草茸屋根の庇の下からさらに瓦葺きの屋根が取り付けられている。この瓦草屋根の軒下には、火急時用の梯子(はしご)と消防ポンプが吊されている。しかし、実際には、これら自家製ポンプが役立つことはあるまい。すなわち、いざ使用というときになって、肝心要の木製角型の圧縮函(シリンダー)が、夏の日照りで歪(ひず)んだり罅(ひび)が入っていたりして、このポンプを必死に作動させようとする人たちに、そのひび割れから飛び散る水を浴びせかけるのが関の山だからである。庭は手入れが行き届いていて、雑草などは見当たらない。しかし、一方の側には、灌木類とバショウの木が混生している。さらに、庭への入口脇には、かなりの樹齢の木が一本まっすぐに立っている。

 この種のあらゆる家について言えることだが、この家も、通りから見るとなんの変哲もない感じである。この家の場合は、小さな円窓のついた差掛小屋のようなものが母屋に付随している。この部分は、おそらく台所になっており、台所は菜園に面していると思われる。四七図では、そこに通じる小さな門が見えている。

 

H48

48図 京都の古い家、庭のたたずまい。

[やぶちゃん注:「古い家」の後の読点はママであるが、原典ではピリオド。]

 

 四八図は、裏庭から見たこの家のたたずまいである。この家の裏側は、同図の手前に見えている池や庭を見渡してまったく開放的である。縁側の上にかかっている瓦葺屋根および別棟の小さな建物は、いずれものちに母屋に附設されたものであった。この家の住人は、古物蒐集家として著名な蜷川式胤氏の母堂と妹御である。庭には、灌木の植え込みや花があり、飛石が他に向かって打たれている。池やその水辺には蓮(はす)や百合(ゆり)が群生し、また竹を組んだぶどう棚のようなものがあって、この庭は、素朴な古い庭園のよい手本というべきものであろう。

   《引用終了》

 この引用の最終段落の「蜷川式胤氏」の後には、『〔訳注=一八三五-一八八二。陶器研究家として著名。本書の著者モースと親交があった〕』とあるが、ここに押し出す形で省略した。因みに、原典を見ると、「蜷川式胤氏」の部分の綴りは“Ninagawa Noritani”と誤っている。]

 

 京都に於る私の時間の大部分は各所の製陶所で費され、それ等でも有名な道八、吉左衛門、永楽、六兵衛、亀亭等から私の陶器研究の材料を大いに手に入れ、彼等の過去の時代の家族の歴史、陶器署名の印象等を聞き知った【*】。

 

 

* このことはボストン美術博物館で出版された私の『日本陶器のカタログ』に出ている。

 

 

[やぶちゃん注:ネット上で読める(PDFファイル)森下愛子氏の論文「近・現代の京焼における伝統的意匠の継承―伝統の継承に関する一考察―」(『無形文化遺産研究報告』第五号・平成二三(二〇一一)年三月発行)にモースのこのシークエンスに関する言及があり、京焼を概観するに簡潔な好論でもある。一読されんことをお勧めする。

「道八」高橋道八(どうはち)。京焼(清水焼)の窯元の一つで陶芸家の名跡。江戸後期より作陶に携わり、特に茶道具・煎茶器の名品を輩出し続けている。二代高橋道八が「仁阿弥道八」の名で特に知られるが、モース来訪時は三代目の最晩年で(晩年は祖父の桃山窯に引退しており、二ヶ月後の明治一二(一八七九)年八月二日に亡くなっている)、既に四代目(明治七(一八七四)年に襲名し、京都府勧業場の御用係として活躍、青花磁・彫刻・白磁を得意とした)となっていた彼の仕事場を見学したものと思われる。(ウィキの「高橋道八」を参照した)。

「吉左衛門」樂吉左衞門(らく きちざえもん)は千家十職(茶道に関わり三千家に出入りする塗り師・指物師など十の職家を表す尊称である。千家好みの茶道具を作れる職人は限定されており、行事や年忌に於ける役割もあるため、徐々に職方は固定され、代々の家元によってその数が変動していたが、明治期に現在の十職に整理された)の一つ、楽焼の茶碗を作る茶碗師の樂家が代々襲名している名。ウィキの「樂吉左衛門」を見る限りでは、十一代目慶入(けいにゅう 文化一四(一八一七)年~明治三五(一九〇二)年)か、十二代の弘入(こうにゅう 安政四(一八五七)年~昭和七(一九三二)年)の仕事場か。十一代目は丹波国南桑田郡千歳村(現在の京都府亀岡市千歳町)の酒造業小川直八三男で十代目旦入(たんにゅう)の婿養子となり、弘化二(一八四五)年に家督相続、明治維新後の茶道低迷期の中にあって旧大名家の華族に作品を納めるなど家業維持に貢献したとあり、十二代目は十一代目の長男で、明治四(一八七一)年に家督相続したが、茶道衰退期のため若いときの作品は少なく、晩年になって多数の作品を制作するとあるから、モースが見たのは十一代目の直接の仕事ではないかも知れない。

「永楽」京焼の家元の一つである善五郎で、やはり千家十職の一つであり、代々、土風炉(どぶろ:土を焼いて作った、茶釜を火に掛けて湯をわかすための風炉(ふろ)。陶土製の風炉。)・茶碗などを製作してきている。十代以降は永樂(えいらく)姓を名乗り、土風炉に加えて茶陶を制作している。善五郎の土風炉には素焼きの器に黒漆を重ね塗りしたもの、土器の表面を磨いたものなどがある。モース来訪時は十二代目永樂和全(わぜん(えいらく わぜん、文政六(一八二三)年~明治二九(一八九六)年)である(ここはウィキの「善五郎」を参照した)。

「六兵衛」既注。清水六兵衛。

「亀亭」和気亀亭(わけきてい)。初代は江戸中期の陶工で寛延元(一七四八)年に京都五条坂に窯を開き、後に播磨の亀坪石を用いて白磁を作製した。講談社の「日本人名大辞典」から推定すると、モースが訪れたのは四代目(文政九(一八二六)年~明治三五(一九〇二)年:三代目和気亀亭長男で文久二(一八六二)年に家督を継いで、明治六(一八七三)年に京都府勧業場に勤め、パリ万国博覧会などに出品したとある。)の工房か?

「日本陶器のカタログ」原文の目録名“Catalogue of Japanese Pottery”。現行出版物の“Catalogue of the Morse collection of Japanese pottery”の前身の一部であろう。]

2015/03/04

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十七章 南方の旅 京都にて 2 窯元を訪ねる

M599

図―599

M600

図―600

 

 前にもいったが陶器師の数はすくなく、製品を乾すために轆轤(ろくろ)台から棚へはこぶ幼い子供から、あるいは盲目であっても陶土を轢(ひ)いたり(図599)、足で陶土をこねたり(図600)することが出来る老人にいたる迄、家族の全員が仕事をする。私は京都で陶器の細工や歴史に関して、非常に多くの質問をしなければならなかったが、それ等の会見談を得る為には、あらかじめ少額の金員を贈ると好都合だろうといわれた。希望する情報を得るために、あらかじめ一ドルか二ドル贈るとは変でもあり、また如何にも慾得ずくであるらしく思われるが、而も我等は忙しい人を、彼が費す時間に対する何等の報酬なしに煩す権利を持っているのか。更に私は、我国にあっては、百万長者でさえも、十ドルか二十ドルの餌を適当な報酬として釣り出さねば、忙しすぎて取締役会議に出席しないという事実に気がついた。これ等の会見談――それは陶工の歴史と起源、代々の数、各異の家族や代によって使用される各異の刻印の形状等を質問したもの――は、通訳を通じた辛抱強く且つは労苦多き質問の結果である。

[やぶちゃん注:「轆轤」原文は“the thrower”であるから、「轆轤師」から(受け取って)棚へ運ぶという意味か。]

M601

図―601

M602

図―602 六兵衛の窯

[やぶちゃん注:これ以降、図606までは極めて異例のキャプションが附されており、代わりに今までのようには文中での言及がない。原文の標示は「図」と同じ特有の大文字表記で、例えばこれは“FIG. 602. OVENS OF ROKUBEI”となっている。なお、このキャプションでは本文の「竃」ではなく、より我々の焼き物では馴染みのある「窯」の字が用いられている。ここに出る「六兵衛」は清水六兵衛で江戸中期以来、現在に続く清水焼陶工の名跡である。初代(元文三(一七三八)年~寛政一一(一七九九)年)は摂津国東五百住村(現在の高槻市)生まれで、幼名は古藤(ことう)栗太郎と言い、寛延年間に京に出、清水焼の海老屋清兵衛に師事、明和八(一七七一)年に独立して五条坂建仁寺町に窯を開き、名を六兵衛と改めた。モースが訪ねたこの明治一二(一八七九)年は、二代目次男であった三代目(文政五(一八二二)年~明治一六(一八八三)年:号は祥雲、慶応四・明治元(一八六八)年頃に古藤六兵衛を清水(しみず)六兵衛に改めた。京都小御所に大雪見灯籠二基を焼成し、海外にも積極的に出品し賞を受賞。)が当主で、その長男の四代目(嘉永元(一八四八)年~大正九(一九二〇)年:号は祥鱗、後に清水六居と名乗った。東京国立博物館蔵大灯籠を制作。)も既に陶工であったかと思われる(以上はウィキの「清水六兵衛」に拠った)。]

M603

図―603 甕の凹所に花の浮かしをつくっている陶工

M604

図―604 陶工の装飾しつつある工匠(石油ランプを見よ)

[やぶちゃん注:このキャプションは、原本では以下のような二段で、標記法も一行目と二行目では異なる。石川氏が( )表記にした意味がよく分かる(図605も同じ)。

   FIG. 604.   AN ARTIST DECORATING POTTERY

             Observe the kerosene oil lamp

この「見よ」注記は、モースが読者に、この当時で既に日本では石油ランプが普通に普及していたことを知るように喚起するためのものであろうか。ウィキの「ランプ」によれば、本邦では幕末の慶応頃から早くも次第に普及し始め、その明るさを賞賛されて、明治五(一八七二)年には家々で点火されていたとあり、明治一五(一八八二)年頃にはランプ亡国論なるものさえ持ち上がったとある。これは攘夷論者で肥後出身の僧佐田介石(さたかいせき)が国産品推奨・外国製品排斥を主張したものの一つで、「鉄道亡国論」・「牛乳大害論」・「蝙蝠傘四害論」・「太陽暦排斥論」・「簿記印記無用論」などトンデモ説が目白押しである(ウィキの「佐田介石」を参照されたい)。]

M605

図―605 玩具の家をつくっている陶工(陶工は粘土を薄い板状にのばし,それを望みの形に切り,濡れた土でそれ等をくっつける)

[やぶちゃん注:「,」はママ。]

M606

図―606 陶器に液体の釉をかえている陶工

[やぶちゃん注:「釉」は原文は“glaze”である。]

 

 私は支那の型に依てつくられた竃(かまど)の急いだ写生を沢山した【*】。竃は丘の斜面に建てられ、その各々が長さ八フィート乃至十フィート、高さ六フィート、幅三フィートで、一つの横に一つという風に並んでいる。図601はその排列を示している。それ等は煉瓦と漆喰(しっくい)との単一の密実な塊である。竃は一端で開き、相互に穴で通じている。一番下の竃に火をつけると熱は順々にそれぞれの竃を通りぬけて、最後に上方の竃の粗末な煙筒(えんとつ)から出て行く。この方法に依て熱の流れが最後の竃に到るまで、すべての熱が利用される。最初の竃が充分熱せられると、細長い棒の形をした燃料が第二の竃の底にある小さな口から差し入れられ、次に第三のという具合に、最後にすべてが充分熱くなり、陶器が完全に焼かれる迄行われる。このことは、各々の竃の上端にある口から、試験物を見て確かめる。

 

* その後広東を去る四、五十マイルの内地で見た物にくらべると、これ等は余程丈夫でも密実でも無い。

 

[やぶちゃん注:「長さ八フィート乃至十フィート、高さ六フィート、幅三フィート」凡そ長さ二・四五から三・〇五メートル/高さ一・八三メートル/幅九十一センチメートル。

「細長い棒の形をした燃料」木炭。

「広東を去る四、五十マイルの内地」「四、五十マイル」は六十五から八十キロメートル強。「広東」を広州ととれば、これは恐らく古く江西省景徳鎮・湖北省漢口鎮(武漢市)・河南省朱仙鎮とともに中国四大名鎮に数えられていた窯業の地、現在の仏山(ぶつざん/フォーシャン)と思われる。]

橋本多佳子句集「命終」  昭和三十二年 薪能

 昭和三十二年

 

 

 薪能

 

火と風と暮れを誘ふ薪能

 

風早(かざはや)の暮雲薪能けぶる

 

指さえざえ笛の高音の色かへて

 

伏眼の下笛一文字に冴え高音

 

舞ひ冴ゆや面(めん)の下より男(を)ごゑ発し

 

春飇(はやて)面(めん)にて堪へてシテ立ち身

 

[やぶちゃん注:「飇」疾風。早手。「て」は「風」の意。急に激しく吹き起こって短時間でしまう風。]

 

春飇長絹透けるシテ立ちて

 

またたかぬ舞の面上風花うつ

 

笛冴ゆる老いの重眉いよよ重(おも)

 

薪能鴉の翼日を退け

 

[やぶちゃん注:底本年譜の昭和三二(一九五七)年五月十一日の条に、『奈良興福寺の南大門址の芝生で、能の四座演ずる薪能を観る』とある。]

2015/03/03

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十七章 南方の旅 京都にて 1

M597

図―597

M598_2

図―598

 

 京都の近郊は芸術と優雅の都、各種の点から興味の多い都のそれとして、如何にもふさわしいものである。清潔さ、厳粛さ、及び芸術的の雰囲気が人を印象する。数ある製陶の中心地――清水、五条坂、栗田――を訪れたことは、最も興味が深かった。粗野な近接地と、陶器の破片で醜くされた周囲と土地とは見出されず、まるでパリに近い有名な工房でも訪問しているようであった。奇麗な着物を着た附近の子供達は、我々が歩いて行くと、丁寧にお辞儀をした。製陶所の入口は控え目で質素であり(図567)、内へ入ると家長が出て挨拶し、即座に茶菓が供された。見受ける所、小さな男の子や女の子から、弱々しい体力で、ある簡単な仕事の一部を受持つ、老年の祖父までに至る家族の者だけが、仕事に携わるらしかった。製作高は、外国貿易の為の陶器(図598)で日本語では「ヨコハマ・ムケ」即ち横浜の方角、換言すれば輸出向きを意味する軽蔑的な言葉で呼ばれるものを除くと、僅少である。この仕事には、多数の家族以外の者が雇われ、十位の男の子が花、胡蝶その他、日本の神話から引き出した主題ではあるが、彼等の国内用品の装飾が繊美にも控え目であるのと反対に、これはまた胸が悪くなる程ゴテゴテした装飾を書きなぐつている。外国人の需要がある迄は、直系の家族だけが、心静かに形も装飾も優雅な陶器を製作していたのである。今や構内をあげて目の廻る程仕事をし、猫と杓子とその子供達とが総がかりで、バシャリ、バシャリ、何百何千と製造している。外国の代理人から十万組の茶碗と皿との注文があった。ある代理人が私に話した所によると、「出来るだけ沢山の赤と金とを使え」というのが注文なのである。そして製品の――それは米国と欧洲とへ輸出される――あわただしさと粗雑さとは、日本人をして、彼等の顧客が実に野蛮な趣味を持つ民族であることを確信させる【*】。而もこれ等の日本製品が我国では魅力に富むものとされている。

 

*一年後、私は我国で同様な実例に遭遇した。ミネアポリスで私は招かれて、大きな百貨店を見物した。その店のある階床(フロア)には固護謨(ゴム)製の品を山と積んだ卓子が沢山あった。櫛、腕輪、胸にさす留針(ピン)、安っぼい装身具、すべて言語に絶した野蛮な物である。私はこのようなひどい物は、最も貧乏な生物でさえ身につけたのを見たことが無いので、一体誰がこれを買うのだと質問せざるを得なかった。返事によると、それ等は北西部地方への品だとのことであったが、本当の未開人だってこれ等に我慢出来る筈は無いから、恐らく混血児やアメリカインディアンと白人種との雑種が買うのであろう。だが、一体どこでこれ等は製造されるのかと、私はたずねた。製地はボストンを去る五十マイルのアットルボロであった!

 

[やぶちゃん注:「清水」原文“Kiyomizu”。ウィキの「清水焼」によれば、『清水寺への参道である五条坂界隈(大和大路以東の五条通沿い)に清水六兵衛・高橋道八を初めとする多くの窯元があったのが由来とされる。京都を代表する焼物である』。『五条通の大和大路通から東大路通(東山通)に至る区間の北側に所在する若宮八幡宮社の境内には「清水焼発祥の地」との石碑が建って』いる。現行の公式名称は「京焼・清水焼」となっており、主な生産地は清水焼団地・五条坂周辺・今熊野及び泉涌寺の周辺とある。

「五条坂」原文“Gojiosaka”。前注参照。

「栗田」原文“Awata”。陶芸家安田浩人氏のサイト「粟田焼をたずねて」に詳しい。その「粟田焼沿革」によれば、『京都の焼き物史の極めて初期から存在し、「古清水」と呼ばれる作品群の大きな位置を占めていた。それが粟田焼(粟田口焼)であ』る、とある。

『「ヨコハマ・ムケ」即ち横浜の方角』原文“as Yokohama muke, meaning Yokohama direction””。横浜向け。以下に見るような、「横浜」から船便で送られる外国人「向け」に作られた派手で下品な陶器。

「今や構内をあげて目の廻る程仕事をし、猫と杓子とその子供達とが総がかりで、バシャリ、バシャリ、何百何千と製造している。」原文は“Now the whole compound is given up to a feverish activity of work, with Tom, Dick, and Harry and their children slapping it out by the gross.”で石川氏の意訳の面目躍如といった部分である。

「ミネアポリス」“Minneapolis”はミネソタ州東部に位置する州最大の都市であると同時にアメリカの世界都市(global cityworld city 主に経済的・政治的・文化的な中枢機能が集積したグローバルな観点に於ける重要性や影響力の高い都市のこと。グローバル都市)の一つで、アメリカ中西部地域の経済の中心地である。

「固護謨(ゴム)製」「ゴム」のルビは「固護謨」の三文字に振られているように見える。原文は“made of hard rubber”。

「恐らく混血児やアメリカインディアンと白人種との雑種が買うのであろう」ここは時代背景を考慮しつつも、原文及び訳文の謂いには批判的な視点を忘れずにお読み戴きたい。

「ボストン」“Boston”はマサチューセッツ州北東部サフォーク郡にある都市で、同州最大の都市で州都。同国有数の世界都市で、金融センターとしても高い影響力を持つ。

「五十マイル」八十・四七キロメートル。一寸、ドンブリ勘定(次注参照)。

「アットルボロ」アトルボロ“Attleboro”はマサチューセッツ州南東部、ブリストル郡の北西部に位置する都市。かつては市内に多くの宝石加工者がいたことから「世界の宝石首都」と呼ばれたこともあった。ボストン市からは南に三十九マイル (約六十三キロメートル) の位置にある。ウィキの「アトルボロ」によれば、一六三四年に『イングランド人開拓者が、現在アトルボロとなっている所に最初に入って来た。この開拓者達は痩せた土壌、水運の便宜のないことに遭遇し、貧しい生活に耐えることになった。彼らは人間の生存には適していないと宣言し、二度と戻って来ないと決断した』という。それでも一六九四年には『アトルボロの町としてレホボスから分離、法人化された』。『植民地時代にインディアンとの抗争が続いた間、アトルボロ住人の息子ナサニエル・ウッドコックが殺され、その頭が父の家の前庭にあった柱の上に置かれていた。その父の家は現在歴史史跡に指定されている。ジョージ・ワシントンがアトルボロを通り、ウッドコック・ガリソンの家近くハッチ酒場で滞在し、独立戦争の軍人でガリソン家屋の新所有者だったイスラエル・ハッチと靴のバックルを交換したという伝承がある』。『アトルボロには、宝石加工業のL・G・バルフォア社があり』、一九一三年には『宝石の加工で知られる町になっていた。バルフォア社はその後市から出て行き、その工場跡はリバーフロント公園に転換された。アトルボロは「世界の宝石首都」と呼ばれたこともあり、宝石加工会社が操業を続けている』とある。しかし、ミネアポリスとアトルボロ間は直線でも実に一七六〇キロメートルはある。エクスクラメンション・マークの意味が知れる。]

耳嚢 巻之十 天狗になりしといふ奇談の事

 

 天狗になりしといふ奇談の事

 

 □□の頃信州松本の領主の藩中に、高(たか)貮百石とつて物頭(ものがしら)を勤めたりし萱野(かやの)五郞太夫と云(いふ)有(あり)し。武藝も相應に心懸(こころがけ)、少しは和漢の書にもたづさわりて萬事物堅く、されど常に我を慢(まん)ずる心有(あり)けり。或年の正月、何か大半切桶(おほはんぎりをけ)新(あらた)にゆひ、幾日の晝頃に出來候樣にと、嚴敷(きびしく)僕(しもべ)に言付(いひつけ)たり。何になる事にやといぶかりながら、調出來(ととのへでき)たりとて、新敷(あたらしき)莚拾枚を調(ととのへ)、餠米四斗入(いり)三俵を赤飯にこしらひ、十枚の莚を座敷へ敷(しか)せ彼(かの)半切桶をすゑ、其中へ右の赤飯を盛入(もりいれ)、日の暮を待(まち)て、其身は沐浴して服を改(あらため)、麻上下(あさかみしも)を着、家内を退(しりぞけ)、無刀にて彼(かの)一間にとぢ籠れり。家内にては、若(もし)亂心にやと氣遣ひけれど、餘事(よじ)は言行ともに少(すこし)も違ひたる事もなく、殊更に無刀の事なれば言(いふ)に任せたり。其夜半頃と覺しきに、何さま人數(にんず)三四十人も來りしけわひ足音也(なり)しが、さらに物言(ものいふ)聲は聞へ[やぶちゃん注:ママ。]ず、曉頃にはひつそりとなりて音もせず。兎角する内夜も明ければ、何の音もなく靜まりかへりて有(あり)ける故、こわごわに襖を少し明(あけ)て覗き見るに物かげもなく、赤飯は一粒もなし。剰(あまつさえ)五郞太夫も見へざれば、爰かしこさがせども更に行方(ゆくゑ)しらず。家内大きにおどろき、同藩中に久米兵太夫と云(いへ)るは、五郞太夫の從弟違(いとこちがひ)にて有けるを早速呼寄(よびよせ)、彼是と評議するに、いかゞともせんすべなし。しからば席も此儘にて、目付へ屆(とどけ)、見分致(いたし)候方と評議して、大目付目付方へ屆ければ、早速兩役立越(たちこえ)、見分すれど何といふわけもしれず、其段有(あり)のま々に領主へ訴(うつたへ)けり。常々出精(しゆつせい)に勤(つとめ)、貞實の者、不埒(ふらち)にて出奔といふにもあらず、又主人に對(たいし)立退(たちのき)たると云(いふ)にもあらねども、故なく行衞(ゆくゑ)しれざる上は是非もなき事なり、依(よつ)て家名は斷絕、乍去(さりながら)代々の舊功に寄(より)、悴儀新規に呼出(よびいだ)し、元の如くの食祿にて召仕(めしつかは)れしと也。翌年正月、床の間に誰(たれ)置(おく)ともなき書狀一通有(あり)。取(とり)て見れば五郞太夫の手跡(しゆせき)にて、何事も不書(かかず)、我等事當時愛宕山(あたごやま)に住(すみ)て、完戶シセンと申(まうす)也。左樣に可心得(ここうべし)と有(あり)て、尙々書(かく)に、廿四日には必々(かならずかならず)酒をのむ間數(まじく)候と書(かき)て有(あり)しが、其後は何の替りたる事もなかりしとなり。其年領主は故有(あり)て家名斷絕せし也。かの久米兵太夫も其時浪人となり、其子兵太夫、靑山家に仕へたり。其子兵太夫成(なる)者の物語なり。シセンの文字忘れたりと言(いひ)し。常時正月廿四日禁酒すれば、火災を除くと言(いふ)事有(あり)。此頃より初(はじま)りし事にや、如何(いかが)。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:怪異奇譚連関。しかしどうもこれ、作中の最後に出る松本藩第六代藩主水野忠恒の乱心を事件をベースに、創作された噂話のように私には感じられる(底本が敢えて冒頭の「享保」を意識的欠字としているのも、かえってそうした作為が見え透いていると私は思う)。乱心の末に若死にした悲劇的な「慢心」大名の事蹟としては、悪い話ではない。五郎太夫という「慢心」男を出して、忠恒のトリック・スターとすることで、乱心藩主をポジティヴに捉え直させる契機が仕掛けられてあるように思うのである。旧藩主への思いがそれなりにあった可能性のある、後に浪人したという久米兵太夫自身が案外、震源元なのかも知れない。

・「□□の頃」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『享保の頃』と出る。西暦一七一六年から一七三六年。訳は享保を採った。

・「松本の領主」松本藩。当時、譜代大名水野氏七万石。後の叙述から第六代藩主水野忠恒であることが分かる(後注参照)。

・「物頭」足軽大将。弓組・鉄砲組などの足軽の頭。組頭。足軽頭。藩によって呼称が微妙に異なったらしい。

・「大半切桶(だいはんぎりをけ)」の内「はんぎり」の読みは底本の編者ルビで出る。「半切桶」は単に「半切り」「はんぎれ」とも言い、また「半桶」「盤切」などとも書く。盥(たらい)状の浅くて広い桶。食料を入れたり、道具を洗うなどいろいろな用途に使われ、容量は百四十~三百六十リットルが一般的。

・「赤飯四斗入三俵」七十二・一五六リットル×3=二百十六・四六八リットル。

・「剰(あまつさえ)」は底本の編者ルビ。

・「從弟違」父母が従姉弟同士である人の、その人の子同士。

・「ま々」底本のママ。

・「愛宕山」「あたごさん」とも読む。現在の京都府京都市右京区の北西部、山城国と丹波国の国境にある山。標高九百二十四メートル。ウィキの「愛宕山」によれば、『京都盆地の西北にそびえ、京都盆地東北の比叡山と並び古くより信仰対象の山とされた。神護寺などの寺社が愛宕山系の高雄山にある。山頂には愛宕神社があり、古来より火伏せの神様として京都の住民の信仰を集め、全国各地にも広がっている』とある。この愛宕権現の信仰は同じくウィキの「愛宕権現」から引くと、『愛宕山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神号であり、イザナミを垂迹神として地蔵菩薩を本地仏とする。神仏分離・廃仏毀釈が行われる以前は、愛宕山白雲寺から勧請されて全国の愛宕社で祀られ』ていた。『愛宕修験では天狗信仰が盛んだったため、愛宕太郎坊天狗も祀った。藤原頼長の日記『台記』にも愛宕山の天狗信仰に関する記載がみられ』、『若宮を太郎坊大権現と称してカグツチをイザナミの第五皇子であるとしその化身が愛宕太郎坊であるとされた。(第五とするのは日本書紀の記述より天照、月読、蛭児、素戔鳴の順でその次の弟とされる為)また、神武天皇が長脛彦』(ながすねひこ)『を撃破した際、現れた金鵄もまたカグツチの化身であるとされた。なお東京都港区の愛宕神社(東京都港区)では、愛宕太郎坊は猿田彦の化身とされている。塞神信仰や陰陽道の影響から、愛宕山は平安京の北西(乾)に位置する守護神ともされた』。また、『塞神信仰から、愛宕山は京の火難除けや盗難除けの神として信仰されたが、愛宕修験によって阿当護神と本尊の勝軍地蔵が習合して火防せの神である愛宕権現として日本全国に信仰が広ま』り、『愛宕山白雲寺の参拝者は祈祷を受け、お札や火伏せの神花である樒(しきみ)を受領した』。『お札は「愛宕山大権現守護所」と書かれた朱札と、声聞地蔵・毘沙門天・不動明王を描いた「三尊図像」の二種をセットにしたもので、各坊の名を印刷した包紙に包んで渡された』とあり、「その他」の項には、一種の御霊(ごりょう)として『安元の大火は太郎焼亡とも呼ばれたが「太郎」は愛宕太郎坊天狗に由来』し、『当時は天狗が大火を引き起こすとの俗信があった』と記す。本話で最後に火難除けの話が出るのはそれによる。

・「完戶シセン」カリフォルニア大学バークレー校版では『宍戸(ししど)シセン』と出る。これは「宍戸」の誤写である可能性が深く疑われるが、しかし、魔王や天狗の名は通常の読み方や表記をしない方が普通であるから、これを単なる誤字とすることは出来ない。ここでもこのまま「完戸」で「かんど」と読んでおく。

・「猶々書」岩波の長谷川氏注に、『追伸』とある。

・「廿四日」岩波の長谷川氏注に、『愛宕権現の縁日』とある。ウィキの「愛宕神社によれば、鎮火祭四月二十四日とあるが、不思議なことに愛宕神社公式サイトの「祭典行事」にはその記載はない。この鎮火祭は内々で行われる秘儀なのであろうか? 識者の御教授を乞う。

・「其年領主は故有て家名斷絕せし也」「領主」は当時の松本藩第六代藩主水野忠恒(元禄一四(一七〇一)年~元文四(一七三九)年)のこと。以下、ウィキの「水野忠恒」より引くと、『江戸日本橋浜町邸で生まれる。幼名は為千代。嫡男ではなかったため、日頃から酒色に耽っており、みだりに弓矢を射ったり鉄砲を撃つなどの奇行がたびたび見られたという。ところが』享保八(一七二三)年満二十二歳の時、『兄の水野忠幹が嗣子なく没したため、遺言により松本藩主に就任した。藩主になってからも相変わらず酒に溺れて狩猟ばかりし、藩政は家臣任せだったという』。享保一〇(一七二五)年、『大垣藩主戸田氏長の養女(戸田氏定の娘)を娶り、その祝言を行なった翌日の』七月二十八日、『征夷大将軍徳川吉宗に婚儀報告をするため江戸城に登城して報告を済ませる。その後、松の廊下ですれ違った長府藩世子の毛利師就』(もろなり 当時十九歳で鞘刀で応戦し負傷はしていない模様。正当防衛によりお咎めなし)『に対して刃傷沙汰を起こしてしまう。忠恒は不行跡が多く、家臣に人気がないので、自分の領地が取り上げられて師就に与えられることになると思ったので切りつけたと供述したが、実際にはそのような事実は無く、乱心したとされた忠恒はその罪で改易となり、川越藩に預けられた後、叔父の水野忠穀』(ただよし)『の浜町の屋敷に蟄居し、そこで没した。』享年三十九。分家の若年寄水野忠定の取り成しによって同年八月二十七日、忠穀に信濃国佐久郡七千石(高野町知行所)が与えられて家名は存続し、しかも忠穀の嫡男忠友の代には大名に返り咲いており、この折り、四代藩主水野忠周の弟忠照にも佐久郡二千石(根々井知行所)が与えられている、とある。

・「靑山家」底本の鈴木氏注に、『丹波亀山五万石青山伯耆守、或いは丹後宮津四万八千石青山大膳亮』とある。

・「正月廿四日禁酒すれば、火災を除く」このような言い伝えは少なくとも私は耳にしたことがない。 

 

■やぶちゃん現代語訳 

 

 天狗になったという奇談の事 

 

 享保の頃、信州は松本の領主水野殿の藩中に、高(たか)二百石を受けて物頭(ものがしら)を勤めて御座った萱野(かやの)五郎太夫と申す者がおった。

 武芸の鍛錬も相応に心懸け、少しは和漢の書なんどにも目を通して御座って、万事、手堅い傑物ではあったが、自ら頼むところ頗る厚く、常に他の者を軽く見下すという、慢心者でも御座った。

 その五郎太夫、ある年の正月、

「――何だ! その! 大半切(おおはんぎ)りの桶を、新たに造れ! 今正月の〇〇日の昼頃には完成させとけ!」

と、例によって偉そうにきつく下僕(しもべ)の者に言いつけて御座った。

「……そんなもん……何になさるんじゃろ?……」

と訝りながらも、その命ぜられた日の昼少し前に、

「――大半切りの桶、造り終えて御座います。」

と、持って参ると、五郎太夫、

「――よぅし!――ほしたらの、新しき莚(むしろ)十枚、用意せい! それから、糯米(もちごめ)四斗(と)入りを三俵(さんびょう)、これ、蒸して赤飯にせい! 蒸し上がったらの! 十枚の莚を座敷へ敷きつめ置き、そこへこの半切り桶を据えての! そん中へ、その赤飯を、みんな、盛り入れい!――ほれぇ! さっさと、せえや!」

と云いたい放題の無理を申す。

 下僕どもが慌てふためいて、糯米やら奇麗な筵やらを買い調えに参る、厨房にはそれを待って幾つも火を焚きつけおくなど、上を下への、てんやわんや。

 叱咤されては、やっとかっと、日の落ちる前には命ぜられた通り、座敷にはみっちりと莚が敷きつめられ、蒸し上がった山のようなる赤飯を入れたる、大きなる半切り桶が真ん中に据えられて御座った。

 主人五郎太夫はと申せば、日の暮を待って、その身は沐浴(もくよく)なして衣服を改め、麻裃(あさがみしも)を着し、家内(かない)の者を一切退け、無刀にて、かの異様なる一間に閉じ籠ってしもうた。

 家内にては、

「……もしや!……御乱心にては……これ、御座るまいのぅ!?」

と気遣いする家来衆なんども御座ったが、奇体なる仕儀以外はこれ、いつもの偉そうな言行(げんこう)と、少しも違(ちご)うたることもない、普通にむっとくるものにて御座ったれば、

「……まあ……殊に、無刀のお姿にて、お籠り遊ばれたによっての。……」

と、楽観的な意見を申す者も御座ったによって、

「……まんず……仰せの通りに……」

と、それぞれに控えて御座ったと申す。

 さても、その夜半頃かと思しき折り、

――ドドドドドドッツ!!!

と、これ、何とも! その人数(にんず)、まず、軽く三、四十人は来たかという、もの凄き足音の、屋敷に鳴り響いて御座った。

 宿直(とのい)の者、これ、大きに驚いた。

 が、その実、人の喋る声は、これ、一切、ない。

 暁時に至るまで、ひっそりとしたまま、ことりとも音も、せなんだ。

 とこうするうち、夜も明けたによって、宿直(とのい)の者、気になって眠れなんだ他の朋輩どもとともに、主人の籠ったる座敷へと参った。

 しかし、部屋内、やはり何の音ものぅ、静まりかえっておる。

 一人の者が意を決し、こわごわ、襖を少しばかり開けて覗き見た……と……

――誰(だぁれ)も……おらん。

――赤飯は……これ……一粒ものぅなって……すっかり掻き消えておる。

――いや! それどころか!

――主人五郎太夫も!

――見えぬ!

 されば、屋敷中、大騒ぎとなり、家中総出で、戸袋から畳・床下・縁の下から天上に至るまで、ここかしこと、捜せども、さらに主人が行方、これ、知れぬ。

 家内、事態の深刻さに誰(たれ)もが震え上がって御座った。

 さても、同藩中に久米兵太夫(くめへいだゆう)と申す者のおり、この者、かの五郎太夫の従兄弟違(いとこちが)いで御座ったによって、早速に彼を呼び寄せ、かれこれと評議致いてはみたものの、

「……何処(どこ)へ行ったかも分からぬとなれば……これ、どうしようも御座らぬ……」

と匙を投げた。

「……されば、かく成っては仕方がない。……莚や半切りもそのままにしておいて、藩の御目付様へ届け出でて、御検分の儀、これ、お頼み申し上ぐるより外、御座るまいて。……」

と評議決し、大目付・目付が方へ届け出でたによって、その日の内に、早速、両役の方々、お見えになられ、検分致いてはみたものの、莚敷きの座敷の真中に大半切りのデンと座りおるばかりなれば、これ、何が起こったものか、五郎太夫の何処(いずこ)へ消えたものかも、これ、全く分からなんだと申す。

 されば、何とも不甲斐ないことながら、大目付も目付も職務柄、訳の分からぬ、その「分からぬ」という「ありのまま」に、領主水野様へ上申致いたと申す。

 御藩主は、

「……かの五郎太夫は、常々、精勤致いて、貞実なる者であったが。……さるにても……不埒(ふらち)なる行いを成して出奔(しゅっぽん)致いたと申す訳でも、ない。……また、我ら主(しゅ)に対して脱藩すと申した訳にても、これ、ない。……ない、が、しかし……故なく行方知れずとなった上は、これ、最早、是非もない。……よって――萱野の家名は断絶、これ、申しつくるものなり。……さりながら……代々の家臣としての功績により――五郎太夫が伜儀、これ、近日中に新規に呼び出だすがよい! 元の如くの――父と同じき食禄(しょくろく)にて――我らが再び、召しつこうて遣わす!」

と、何ともお慈悲に富んだる御裁定を、お下しになられたと申す。

 さても、その翌年正月のこと。

 無事、家督を継いだ形となったる萱野五郎太夫の――今はその伜の代の――屋敷の床の間に、これ、誰(たれ)が置いやも分からぬ、書状が一通、忽然と置かれて御座ったと申す。

 今は当主となったる伜が、これをとり上げ披見致いてみたところが、明らかに懐かしき父五郎太夫の手跡(しゅせき)にて御座った。

 が、そこには失踪の理由や詫び言、いやさ、件(くだん)の出来事に就きては、これ、一切、何事も書かれておらず、ただ、

――我ら事 現今 愛宕山に住みて 完戸シセン と名乗っておる さように心得えおれ――

とのみあって、追伸として、

――廿四日には必ず絶対に酒を飲んではならんと胆に命じおくよう――

と書き添えて御座ったと申す。

 さてもその後(のち)は、一切の五郎太夫からの音信(たより)や、その他の変事、これ、萱野家にては御座らなんだと申す。

 さてもところが、その年のこと、御領主はゆえあって御家名、これ、断絶なさってしまわれた。

 かの久米兵太夫もその時に浪人となり、その子の同じき兵太夫は、伝手(つて)を頼って青山家に仕えることとなった。

 以上は、その子の方の兵太夫なる者より、私が直接に聴いた物語で御座る。彼は、

「……『シセン』という名の文字(もんじ)、これ、忘れてしもうて。……」

と云い添えて御座った。

 さても世間には、正月二十四日その一日を禁酒致さば、一年の火難除けとなる、と言い伝えて御座る。

 これはまさに、この享保の頃より始まったる風習で御座ったろうか? 如何(いかが)?

「月曜」第一卷第四號 編輯後記   尾形亀之助

サイトHTML版を公開した。以下、ブログ版も合わせて公開する。
 
 
 
「月曜」第一卷第四號 編輯後記   尾形亀之助

 

[やぶちゃん注:現行の「尾形龜之助全集」には本テクストは載らない。底本は友人がコピーして贈ってくれた思潮社の旧版「尾形龜之助全集」(草野心平・秋元潔編/昭和四五(一九七〇)年刊)の別冊資料集に載る雑誌『月曜』第一巻第四号(奥付の『第一巻第三号』は原本の誤植である)「編輯後記」及び奥付を視認して電子化したが、底本は新字化されているため、総てを恣意的に正字化して示した(但し、正字化に際しては同じ友人のコピーして呉れた『月曜』の第一巻第一号の原本画像の「編集後記」及び「奥付」を参考にしているので、強ち、いい加減に恣意的という訳ではないことを申し添えておく)。原資料の誤植・衍字と思われる箇所もそのままとし、底本にある編者によるママ注記は除去した。「機關雜誌」及び「ソロバン」の太字は底本では傍点「ヽ」である。奥付の字配は読み易さを考え、必ずしも底本とは一致させてはいない。

 底本のママ注記のある当該箇所及び私のタイプ・ミスではない底本の不審な箇所は、以下の通り。

   *

〇第一段落

・「淋びしく」。この「び」からの送りは龜之助の癖である。なお、これにはママ注記はない。

・「他の雜誌の廣告は見て」の「は」。恐らくは「他の雜誌の廣告を見て」の誤植。

・「買つ歸るやうにしたい」。「買つて歸る」の脱字)。

〇第三段落

・「何時も横目で見てゐるのである」の段落末尾に句点がない。但し、これにはママ注記はない。ただ、これは組版自体の限界で行末まで字が詰まった際には、枠外に句読点が打てない構造になっていたものと推測される。

〇第五段落(×の直後の段落)

・「豫定であるつた」。「豫定であつた」の衍字。

・「初號の賣上が最近金になつた が」。一字分空欄はママ。但し、これにはママ注記はない。

〇第八段落(××の直後の段落)

・「おそくも」。「おそくとも」の脱字であろう。但し、これにはママ注記はない。

・「書かなけれはならかつた」。「書かなければならなかつた」の誤植と脱字。但し、「は」にはママ注記はない。

〇第九段落

・「どしてもやうめられない」。「どうしてもやめられない」の誤植。但し、「どしても」の箇所にはママ注記はない。

・「眼とつむつて」。「眼をつむつて」の誤植。

〇第十段落

・「頭をかかいてゐると」。「頭をかかえてゐると」の誤植であろう。

・「机にさしていつて呉た」。「机にさしていつて呉れた」。但し、「れ」から送らない人もいるので、これは必ずしも脱字と断定は出来ない。

・段落末尾(本「編輯後記」全体の掉尾)に句点がない。但し、これにはママ注記はない。ただ、これも前に述べた組版自体の限界による確信犯の可能性が高い。

〇奥付

・「第一巻第三号」。第一巻第四号の誤植。

   *

 この想像を絶する数の誤りは、校正の杜撰さというよりも植字の杜撰さと考えられる。一校一読で容易に目に留まる誤りばかりであるが、それがそのまま印刷されてしまっているというはまさに、この編集後記に書かれている通り、第三号の編集後に発行所が変更になったことと無縁とは思われない。第一巻第一号の奥付を見れば分かる通り、印刷所も変わっている(一般に現在でも印刷所は発行所に強く依存しており、発行元が変われば印刷所が変わるのは常識だが、これをみると本号の印刷所は個人名で「印刷所」でさえない点に注意されたい)。『月曜』の切きり舞いの破綻的台所事情から、流暢に校正出来るような状態になかった、発行出来るだけでも幸いといった状況が、この如何にも痛い「眼とつむつて歩」いているような誤植群からも読み取れると言えよう。

 雑誌『月曜』については、私の第一巻第一号の電子テクストの冒頭注を参照されたいが、底本に附された秋元氏に解説の書誌データによれば、当『月曜』第一巻第四号はA5判・本文四十八頁・表紙(『表級』とあるが誤植と見做した)四頁・本文八ポイント三段組、紙質は表紙が上質紙六十キログラム(現行のコピー用紙とほぼ同程度の厚み)・本文が中質紙、表紙は二色刷(黒色と黄土色)で本文は黒単色、『表2』(見返し二枚目か)に南欧商会のマンドリンの広告、『表3』(裏表紙見返しから三枚目か)に本後記と奥付が三段組・アイ色刷(藍色インクによる印刷)で載るとある。

 最後に新全集の秋元氏による『「月曜」目次目録』があるので、本四号のそれを以下に示しておく。

   *

フエヤリー・ランドの      岡田光一郎

こども             伊藤 松雄

大仏を見に           石原 源三

蝙蝠に成りたい         能勢 登羅

あぶさん・仔犬・女       服部 直人

桃色の船            山崎 俊介

蛙・五匹            草野 心平

トリック            井上 康文

酒場の話            河本 正義

訳詩(クルト・シュイツラルス) 神原  泰

ドグマ・二三          角田 竹夫

茶話              清水 投鬼

朝馬鹿             尾形亀之助

化粧              八十島 稔

傷病兵             高馬 円二

劇場再興            飯田 豊二

姉妹と千一           高橋 新吉

東京新景物詩          春山 行夫

江戸城総攻           大平 野虹

歌人の行脚           田上 耕作

露の路             上杉 楽鳥

薬               大西  登

太陽と鶯            山崎醇之輔

ぶろうくん・はあと       間島惣兵衛

死は虚無の実行か        大村 主計

キネマ愚談           清水 孝祐

昔噺江戸の聞書(三)      村上福三郎

童謡詩             末繁 博一

帷子              倉橋 弥一

童話・ピイドンドン社      土屋由岐雄

お馬と子供           田尻 征夫

おいなりさん          サトウハチロー

天狗と祖母           百合枝謙三

化かされ            佐藤 紫弦

芸者と俥人の話         武田 静人

停車場の貌           戸田 達雄

露西亜の接吻          島  東吉

春の海辺の出来事        辻本浩太郎

盆踊              加藤 四郎

編集後記            尾形亀之助

   *

 この内、龜之助の「朝馬鹿」は彼にしては比較的長め掌品の小説で、私の仮想復元版である尾形亀之助作品集『短編集』未公刊作品集推定復元版 全二十二篇 附やぶちゃん注で、三種類(破調や誤用が目立って多いために①底本準拠版・②誤記誤用補注版・③補正修正版を作成してある)を用意してある。未見の方は、是非どうぞ。

 最後に。資料を私の五十八の誕生日に贈って呉れた私の友に、心より謝意を表する。【藪野直史 2015年3月3日】]

 

 

 編 輯 後 記

 

 初號は噂の半分に足りない賣れ行きであつた。一册も賣れなければ廢めるよりほかには仕方がないが、一册でも賣れてゐる間はやめられない。新聞廣告が出來なければ、その月はしないまでのことだ。淋びしくはあるが止むを得ない。他の雜誌の廣告は見て、他の雜誌を買ひに本屋へ行つても「月曜」を買つ歸るやうにしたいものである。

 「月曜」は一個の本屋の機關雜誌ではない。又、定められた人達の同人雜誌ではない、又文壇といふ背景を更にもたないし、文壇に向つて進んでゐるのではない。

 「月曜」にとつて文壇は何時までも川向ふであり、何時も横目で見てゐるのである

 「月曜」はこの時代の機關雜誌である。

    ×

 すつかり押詰まつてしまつた苦しい經濟狀態である。執筆諸家へはその月の賣上(利益ではなく)の半分を等分に差し上げる豫定であるつた。初號の賣上が最近金になつた が、小額ではあるけれどもその半分をなくすと、この四月號か五月號を休刊するやうなことになるので、賣上全部を四月號に使つてしまつた。

きまつた稿料を拂つて藏を建てるといふのでのではない。初號以來一錢の稿料も支拂はぬ無謀さは、しばらくの許しを願ひたい。發行所となつてはゐるが、惠風館は發賣所に過ぎない。で、責任はすべて私にある。

 「月曜」は今を苦境時代となることを願ふ。

    ××

 と、おそくも三月號の後記に書かなけれはならかつた――ことになつた。編輯後に惠風館から離れて本誌が發行されることになつたからである。

 ソロバンがとれないからやめると云ふ。どしてもやうめられないと云ふ――で、とにかく先づ月曜社を創つてとりあへず發行所としたのであつて、苦しくともこの仕事をなくすことは出來ないのである。まづくはあるが、以上を發行所が變つた否獨立したあいさつにかへなければならない。眼をあいて歩けなければ、眼とつむつて歩くつもりである。

 頭をかかいてゐると、妹が薔薇を一本机にさしていつて呉た。うれしい氣持である

 

 

 

 第一卷第三號  定價  二拾錢

 

 誌  代

    ~~~~~~~~~~~~~~

    一月一冊  金二十錢   税 五厘

    六ケ月册  金一圓二十錢    共

    一年十二册 金二圓三十錢    共

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廣告料 特別一頁五十圓 普通一頁二十圓

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大正十五年三月二十五日印刷

大正十五年四月 一 日發行

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東京府下落合町上落合七四二番地

  編輯發行   門 脇     文

  兼印刷者   尾 形 龜 之 助

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    東京府下落合町上落合七四二番地

發行所      月   曜   社

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   東京市淺草區千束町二丁目五八番地

 印刷所    相  川  作  藏

 大賣捌 東京堂 東海堂 北隆館 大東館

 

■やぶちゃん注

・「誌代」の文字は、底本では次の三行の購読料の上部に左から右に記されてある。

・税の金額が不審である。第一巻第一号の奥付では『税』(郵便税と思われる)が『一錢五厘』である。本体価格からみて、これは『一錢五厘』が正しいと思われるが、これが元の雑誌のミスなのか、それとも底本の活字起こしの際のミスなのかは定かでない。少なくともママ注記はない。]

2015/03/02

僕は

僕は靴下の柄を見ただけで――その人が誰であるか――よく分かる――

柳田國男 蝸牛考 初版(5) 童詞と新語發生

  童詞と新語發生

 

 デエロは西國のデエデエと同じく、元は確かに「出づる」といふ動詞の、命令形であつたらうと思ふが、現在はそれを疑はしめるやうな若干の事實が既に生じて居る。第一には話主にその語の由來を知らぬ者が多くなり、從うて之を少しづゝ變へようとする試みが行はれて來た。越後信州の大部分では、デイロ・ダイロの二つが共に報告せられ、上州に於ても利根吾妻の二部はデイロン、福島縣でも相馬郡、南會津の朝日村などはデーロであるが、他の多くの地方の方言集にはダイロ又はデァイロと報じて居る。一つには表音法の不完全もあろうが、大體に於てダイはデイよりも正しいと考へるダイコン(大根)流の匡正主義が働いて居るので、人が特別に注意を拂はなかつたならば、末には追々に此方に統一せられたかも知らぬ。現在知られているデエロ領の飛地としては、但馬國には水路を運ばれたかと思うダイロウがあり(但馬考)、遠くは海を隔てた對馬島の一隅にも、またダイリヨウといふ語が發見せられる。これらは何れも既に「出ろ」の意味を、知らない人々によつて傳へられたもので、斯ういふ單なる模倣こそは、往々にして又訛語の原因にもなつて居るので、方言其ものゝ成立ちを考へて見るには、これは寧ろ警戒しなければならぬ材料であつた。それとよく似た例ならば、デエデエの方にも幾つかある。たとへば雲州の松江附近のダイダイムシなどもその一つで、恐らくは亦何故にデエデエといふかを忘れて居る人々が、たゞ一般の正しい音に附いて、是をもダイダイに言ひ改めようとした迄であつたらうと思ふ。デンデンムシといふ語なども、實はもう最初の形では無いのだが、之に比べると遙かに弘い區域を持つて居る譯は、今尚其背後に一つの力、即ち其語を發生せしめたる元の理由の、殘つて居るものがあるからであつた。單語の符號化ということは、在來の使用者のみには何でも無い事のやうであるが、それを一の土地から他の土地に移さうとする場合には、可なり大きな障碍となつて現れる。新語の動機のまだ明らかに知られて居るものには、根を引いて植ゑかへるやうな味得があるに反して、こちらはたゞ枝を折つて手に持つだけの模倣しか無いからであらうと思ふ。個々の事物によつて方言量に多少があり、個々の方言に領域の廣狹があるといふことは、おそらくはこの符號化の遲速、もしくは之を防止すべき外部の力の、有無強弱によるものであつて、言語を一種の社會史料として利用せんとする者には、ことにこの關係を明確にしておく必要があるのである。

[やぶちゃん注:「デエロ」「デエデエ」は改訂版では「デェロ」「デェデェ」と拗音表記となっている。

「但馬考」日本の天気予報の創始者とされる行政官桜井勉が退官後にて郷里出石町伊木現在の兵庫県豊岡市)に戻って著わした「校補但馬考」(明治二七(一八九四)刊)。但馬の郷土史研究の基礎を築いた名著。国立国会図書館の近代デジタルライブラリーのこちらで原典が読める。

「訛語」「かご」で、標準語と音韻上の違いのある言葉。なまった言葉。訛言(かげん)。

「味得」「みとく」で、よく味わって理解し、自分のものにすること。]

 私の假定がもし當つて居るならば、現在一つの方言の活躍を支持し、殊に其流傳を容易ならしめて居る力は、同時に又其語の新生を促した力であつた。だから一方の原因が不明になる頃には、他の一方の效果も弱つて、後には只曾て是を育てた人の群に、符號と化して殘る以外には、至つて僅少なる模倣者を得るに止まり、何かの機會ある毎に、新らしいものに代らるゝ運命をもつのである。是を單語の生老病死と名づくることは、必ずしも不倫とは言ふことが出來ぬ。固より其間には壽命の長短があつて、古語にも往々にして今も活き、成長し又征服しつゝあるものもあることは事實だが、大體からいふと古いものは失せ易く、後に生れたものゝ迎へられるのは常の法則である故に、我々は若干の例外のあるべきことを心に置いて、略現在の方言の分野から、それぞれの語の年齡長幼を推知することを許されるのである。

[やぶちゃん注:「不倫」ここは人の生死に譬えることの不謹慎・不適切・不適合とった程度の意味であろう。]

 或はこの新陳代謝の狀態を以て、簡單に流行と言つてしまへばよいと思ふ人もあるか知らぬが、それには二つの理由があつて、自分たちは從ふことが出來ない。「流行」は社會學上の用語として今尚あまりにも不精確な内容しか有たぬこと是が一つ、二つには新語の採擇には單にそれが新らしいからといふ以上に、遙かに具體的なる理由が、幾つでも想像し得られるからである。たとえば語音が當節の若き人々に、特に愛好せられるものであり、もしくは鮮明なる聯想があつて、記憶通意に便であることなども一つの場合であるが、更に命名の動機に意匠があり、聽く者をして容易に觀察の奇拔と、表現の技巧を承認せしめるものに至つては、其效果はちやうど他の複雜なる諸種の文藝の、世に行わるゝと異なるところは無い。一方には又其第一次の使用者等が、屢々試みてたゞ稀にしか成功しなかつた點も、頗る近世の詩歌俳譜秀句謎々などとよく似て居て、今でも其作品から遡つて、其が人を動かし得た理由を察し得るのであるが、しかも唯一つの相異は其作者の個人で無く、最初から一つの群であつたことである。曾て民間文藝の成長した經路を考へて見た人ならば、この點は決して諒解に難く無いであらう。獨り方言の發明のみと言はず、歌でも唱へ言でもはた諺でも、假令始めて口にする者は或一人であらうとも、それ以前に既にさう言はなけれはならぬ氣運は、群の中に釀されて居たので、たゞ其中の最も鋭敏なる者が、衆意を代表して出口の役を勤めた迄であつた。それ故にいつも確かなる起りは不明であり、又出來るや否や兎に角に直ぐに一部の用語となるのであつた。隱語や綽名は常に斯くの如くして現れた。各地の新方言の取捨選擇も、恐らくは又是と同樣なる支持者を持つて居たことであらう。この群衆の承認は積極的のものである。單に癖とか惰性とかいふやうな、見のがし聞きのがしとは一つで無い。それを自分が差別して、此方を新語の成長力などゝ名づけんとして居るのである。

 できるものならば此狀態が、決して近代に始まつたもので無いこと、否寧ろ以前の簡單な社會において、殊に盛んであつたことを私は立證してみたい。言葉を新たに作る群は、今でも氣を付けて見ると少しはある。一つの山小屋や遠洋漁船の中で、共に働いて居る者の中には仲間の語が出來る。香具師や芝居者の職業團に發生したものなどは、素より外間に通用することを期せざるものであつたが、それすらも折がある毎に普通語に化して居る。此頃でいふらば醫者語・辯護士語、以前の世の中では説教僧の經典語なども、誰が學んだものか知らぬ間に俗語になり切つて居る。ましてや境涯の全く相似たるものが、互ひに興ある隣の新語を、知れば用ゐようとするは自然の勢ひである。たゞ障碍は寧ろそれよりも根源に在つて、現在の人の集まりが雜駁で結合の力弱く、殊に興味の統一集注を求め難いために、一人の奇警なる言葉が、これを苗圃として甲拆することを得なかつたゞけである。

[やぶちゃん注:「香具師や芝居者の職業團」改訂版ではこの前に「碁打ちや將棋さし、」と挿入されている。柳田の趣味が分かる。

「外間」「ぐわいかん(がいかん)」と読み、当事者以外の人々の間、その事柄に関係のない人々の意。

「苗圃」「べうほ(びょうほ)」草木の苗を育てるための畑。

「甲拆」「こうたく」と読み、草木の芽生えることをいう。「甲」には「種子の皮のついたままの芽生え」、則ち「貝割れ」の意があり、「拆」は「裂ける」の意である。底本は「甲折」であるが、改訂版の字を採用した。実は「甲折」と書いても慣用表現として「こうたく」と読むのであるが、これはあくまで誤用である(「折」に「タク」という音はない)ので正字で採った。]

 私は前に「チギリコツコ考」その他二三の論文に於て、小兒が新語の製作者であつた顯著なる事例を擧證して居る。考へて見ると是が特に目に立つに至つたのは、他には同一の條件を具足したものが、次第に稀になつて來た結果であつて、必ずしも現代の日本語が、悉く恩を幼少なる者に負ふといふことを意味しなかつたのである。しかも我々が眼前の事實を基礎として、國語の是までの成長を考察しようといふことには、やはりこの手近の例を援用する他は無いないのであつて、後にはたゞ是と同じき推定が、更に前期の年長者たちの群にも、擴張し得るか否かを檢すればよからうと思ふ。少年靑年は其作業の組織が、今も昔に比べて甚だしく變化して居ない。さうしてその共同の利害は單に地域によつて制限せられるのみで、部外にも同質の共鳴者を持つて居ることは、曾て個々の盆地を耕作していた農夫群、もしくは長汀曲浦の一つ一つに村をなして、手結ひ網曳した漁夫群などとよく似て居る。新語の發明又は選擇が、遞傳して行くべき軌道には、これに上越すものは無かつたわけである。蝸牛には限らず、自然の小さな産物の中には、全國の童兒が各地等しく其心を傾けて居たものは多かつた。蒲公英の花を弄ぶ遊戲は、日本に大よそ四つあれば、その名稱もまた四つある。土筆を手に取つていふ唱へ言が五つあれば、其地方名も大略之を五系統に分けられる。たゞ其章句があまりに單純で、今は忘れてしまつた土地が多い爲に、まだ此兩者の關係を明確にすることが出來なかつたゞけである。ところが幸ひにして蝸牛の歌は殘つて居る。それと現在の名稱とは、誰が見ても緣が無いとは言えぬのである。しかも此歌の起りは年久しく、既にマルチネンゴ伯夫人が、その民謠論の序文に述べて居る樣に、「デデムシ出い出い」といふ童詞は世界の諸國、英蘭・蘇格蘭・獨逸・佛蘭西・トスカナ・羅馬尼亞・露西亞及び支那等の童兒によつて、一樣に高く唱へられて居たのであつた。

[やぶちゃん注:「チギリコツコ考」昭和四(一九二九)年刊。ネット検索によれば肩車についての考証論文らしい(私は未見)。

「遞傳」「ていでん」。逓伝。幾つかの中継点を経由して手紙や荷物などを次々に伝え送ること。逓送(他に宿駅で取り次いで送ること。また、その人足や車馬をも指す)。

「上越す」「うはこす」と訓じていよう。上を飛び越す。

「マルチネンゴ伯夫人」「民謠論」これは恐らく、南方熊楠の「十二支考」の「虎に関する史話と伝説民俗」の「(五)仏教譚」の南方の自注に出る、『マルチネンゴ・ツェザレスコ「民謡研究論(エッセイス・イン・ゼ・スタジー・オヴ・フォーク・ソングス)』とあるものと同一であろう。イタリア語版の「Martinengo (famiglia)によれば、イタリアの名家であったことまでは分かったが、有名な人物には複数この名がある。“Essays in the study of folk song”で検索したところ、一八八六年の刊行で、「Project Gutenberg」版の英訳がこちらで読める。それによれば英文綴りは「THE COUNTESS EVELYN MARTINENGO-CESARESCO」で、原典はフランス語で書かれているようである。柳田の言っている「デデムシ出い出い」というのは、その「INTRODUCTION」(非常に長く、全部で七章から成る)の「Ⅳ」にある。「Project Gutenberg」版から「Ⅳ」章総てを引いておく(ブログ版では総て左寄せにし、注記号は省略した)。

   《引用開始》

I pass on to the old curiosity shop of popular traditions—the nursery. Children, with their innate conservatism, have stored a vast assemblage of odds and ends which fascinate by their very incompleteness. Religion, mythology, history, physical science, or what stood for it; the East, the North—those great banks of ideas—have been impartially drawn on by the infant folk-lorists at their nurses' knees. Children in the four quarters of the globe, repeat the same magic formulæ; words which to every grown person seem devoid of sense, have a universality denied to any articles of faith. What, for example, is the meaning of the play with the snail? Why is he so persistently asked to put his horns out? Pages might be filled with the variants of the well-known invocation which has currency from Rome to Pekin.

 

English:

 

1.

 

Snail, snail, put out your horn,

Or I'll kill your father and mother the morn.

 

2.

 

Snail, snail, come out of your hole,

Or else I'll beat you as black as a coal.

 

3.

 

Snail, snail, put out your horn,

Tell me what's the day t'morn:

To-day's the morn to shear the corn,

Blaw bil buck thorn.

 

4.

 

Snail, snail, shoot out your horn,

Father and mother are dead;

Brother and sister are in the back-yard

Begging for barley bread.

 

Scotch:

 

Snail, snail, shoot out your horn,

And tell us it will be a bonnie day, the morn.

 

German:

 

1.

 

Schneckhûs, Peckhüs,

Stäk du dîn ver Horner rût,

Süst schmût ick dî in'n Graven,

Da freten dî de Raven.

 

2.

 

Tækeltuet,

Kruep uet dyn hues,

Dyn hues dat brennt,

Dyn Kinder de flennt:

Dyn Fru de ligt in Wäken:

Kann 'k dy nich mael spräken?

Tækeltuet, u. s. w.

 

3.

 

Snaek, snaek, komm herduet,

Sunst tobräk ik dy dyn Hues.

 

4.

 

Slingemues,

Kruep uet dyn Hues,

Stick all dyn veer Höern uet,

Wullt du 's neck uetstäken,

Wik ik dyn Hues tobräken.

Slingemues, u. s. w.

 

5.

 

Kuckuch, kuckuck Gerderut,

Stäk dîne vêr Horns herut.

 

French:

 

Colimaçon borgne!

Montre-moi tes cornes;

Je te dirai où ta mère est morte,

Elle est morte à Paris, à Rouen,

Où l'on sonne les cloches.

Bi, bim, bom,

Bi, bim, bom,

Bi, bim, bom.

 

Tuscan:

 

Chiocciola, chiocciola, vien da me,

Ti darò i' pan d' i' re;

E dell'ova affrittellate

Corni secchí e brucherate.
 
 

Roumanian:

 

Culbecu, culbecu,

Scóte corne boeresci

Si te du la Dunare

Si bé apa tulbure.
 
 

Russian:

 

Ulitka, ulitka,

Vypusti roga,

Ya tebé dam piroga.

 

Chinese:

 

Snail, snail, come here to be fed,

Put out your horns and lift up your head;

Father and mother will give you to eat,

Good boiled mutton shall be your meat.

 

Several lines in the second German version are evidently borrowed from the Ladybird or Maychafer rhyme which has been pronounced a relic of Freya worship. Here the question arises, is not the snail song also derived from some ancient myth? Count Gubernatis, in his valuable work on Zoological Mythology (vol. ii. p. 75), dismisses the matter with the remark that "the snail of superstition is demoniacal." This, however, is no proof that he always bore so suspicious a character, since all the accessories to past beliefs got into bad odour on the establishment of Christianity, unless saved by dedication to the Virgin or other saints. I ventured to suggest, in the Archivio per lo studio delle tradizioni popolari (the Italian Folklore Journal), that the snail who is so constantly urged to come forth from his dark house, might in some way prefigure the dawn. Horns have been from all antiquity associated with rays of light. But to write of "Nature Myths in Nursery Rhymes" is to enter on such dangerous ground that I will pursue the argument no further.

   《引用終了》

英詞は一読、残酷な匂いから「マザーグース」の流れを汲むことが分かる。すずしろ氏のブログ「スナーク森」の「仕立て屋さんと カタツムリ(マザーグース)」の頁にこれに酷似した「マザーグース」の蝸牛の呼びかけ唄の原文と訳が載るので是非、参照されたい。なお、彼女の事蹟について識者の御教授を乞う。

「蒲公英の花を弄ぶ遊戲は、日本に大よそ四つあれば、その名稱もまた四つある」「綿毛飛ばし」・「風車」或いは「水車」(T. HONJO氏の「サイエンスと歴史散歩」の「草花遊び(春の季節)、タンポポ(わた毛とばし、風車、ふえ)、カラスノエンドウ(ピーピー豆とも、ふえ)、シロツメクサ(クローバーとも、首かざり)の遊び、アカツメクサ、とは」を参照されたい)・「たんぽぽ笛」(yajin 野人氏の画「たんぽぽ笛」を参照されたい)までは自身の幼少の頃の遊びの思い出で浮かんだが、後は「花落とし」か?(個人ブログ「植物であそぼう!!」の「たんぽぽあそび」で発見、爪などで茎に切れ目を入れ、もう一本のたんぽぽを切れ目に通して二人で互いに引っ張り合い、花が千切れずに残った方の勝ちという遊び。私はオオバコでは、オオバコ相撲として、よくやった。

「土筆を手に取つていふ唱へ言が五つあれば、其地方名も大略之を五系統に分けられる」私は遊んだ記憶がなかったが、ネット検索をかけると、まず「土筆の何処つないだ」をこちらで発見、これは確かにやった覚えがあった。JA鶴岡の公式サイトの「ツクシで遊ぶ」にこの遊び唄として「土筆坊(ツウゲンボ)、ツウゲンボ/どこでついだツウゲンボ/ここらでついだついだツウゲンボ」という唄が紹介されてあった。また、この遊びを「接ぎ松」と呼ぶ地方があるらしい(こちらの記載)。「どこどこ継いだ」という呼称もあるようだ。後は土筆の胞子を飛ばすぐらいしか思い浮かばない。この五系統を御存じの方、是非、御教授下さい。

「英蘭」「イングランド」。

「蘇格蘭」「スコツトランド(スコットランド)」。

「羅馬尼亞」「ルーマニア」。]

耳嚢 卷之十 幽魂奇談の事

 

 幽魂奇談の事

 

 間部(まなべ)の藩中の醫靑木市庵といへる有(あり)。又其邊に町醫外科北島柳元と云(いふ)有(あり)。二人ともに長崎の產にて、友に天明の末、江都(かうと)に出、市庵は間部の藩中となり、柳元は町醫師にて妻子を持(もち)、門弟子も兩三人有(あり)て、業をなし、互に同國のよしみにて、むつびかたらひける。然るに寬政の初夏の頃、市庵癰(よう)を發しければ、柳元の療治を受(うけ)たりしに、腫物もなかばにもいたらず、さのみ强き痛(いたみ)にてもあらざれば、夜中伽するなどゝ言(いふ)ほどのことにもあらず。藩中の事なれば手狹(てぜま)故、市庵は調合の間に獨(ひとり)臥居(ふしゐ)たり。折々は痛のつよき事あれば、熟睡もせず有(あり)しに、或夜丑みつ頃、障子の外にて女のこゑして、御願申度(ねがひまうしたき)事有(ある)よし聞へぬ。夢かと枕を上(あげ)て聞(きく)に、又も御願申度事有(あり)といふ。同藩中の者にや、何にてもあやしき事とおもひ起上(おきあが)り、何者にやと問(とふ)に、私(わたくし)事は奧州三春(みはる)の者にて侍るなり、願ひ度(たき)事有(あり)て參り候と言(いふ)。市庵膽(きも)ふとき男にて少しも不驚(おどろかず)、さるにても戶のそとにては姿も見へず、内へ入るべしと言(いひ)ければ、戶をあけ内へ入るを見れば、廿(はたち)ばかりの女いろ靑ざめ、衣類のさまは分らねど、すこすごとして座に付(つき)ぬ。市庵問(とひ)て、夜中屋の中へ、門を入る事あらざるに、合點の行(ゆか)ぬ事なり、狐狸のるい、病中の虛(きよ)を見てたぶらかさんとするにや、憎き奴かなと叱りければ、女泪(なみだ)を流し、さらさら左樣(さやう)なるものにては無御座(ござなく)候、もと奧州三春の者にて、今は此世にさむらはず候、御願(おんねがひ)と申(まうす)は、北島柳元の方に居る者の所持致(いたし)候、扇箱(あふぎばこ)の封じたるもの有(あり)、是をば貰ひ下され候樣(やう)の願(ねがひ)也と云(いひ)て、さめざめと泣(なき)ければ、市庵、其儀ならば何故(にゆゑ)に柳元方へ行(ゆき)て願はぬぞと尋(たづね)ければ、柳元門口に尊(たつと)き守札(まもりふだ)の有故(あるゆゑ)、入事不叶(いることかなはず)、夫故(それゆゑ)に願(ねがふ)なり。さて其品乞請(こひう)けに來るやと言(いひ)ければ、あへて乞請て持歸(もちかへ)るにあらず、何方(いづかた)なりとも墓所の有(ある)地へ埋(う)めて、聊(いささか)念佛をなして給はり候へば夫(それ)にて望(のぞみ)はたり侍る也、ひとへに此事願ふ由を言(いひ)ければ、なる程安き事なり、柳元に物語(ものがたる)べし、乍去(さりながら)何故(なにゆゑ)にかゝる願(ねがひ)、またその品は何成(なる)ぞと尋(たづぬ)るに、是はその持(もち)たる主(しゆ)に御尋(おたづね)下さるべしと言(いひ)て、またもとの所より立去(たちさ)りぬ。奇異なる事ぞと彼是おもひ𢌞らして、寢(いね)もやらぬ内、短夜(みじかよ)もほのぼのと明行(あけゆけ)ば、柳元方へ、只今來り給はれと言(いひ)やりければ、柳元は寢覺(ねざめ)の處へ使の來りしまゝ、腫物に變(へん)にても出來たるやと取(とり)あへず來りし處、夜中の事物語(ものがたり)ければ、立歸(たちかへ)り彼(かの)三春より來りし弟子を呼(よば)せけるに、折節入湯(にふたう)に出たりければ、さらば歸りて詮議すべしとそこらさがさせて、弟子の部屋のうち取散(とりちら)したるものゝ内を尋(たづぬ)るに、小(ちさ)き張(はり)ぶんこの内に扇箱程の箱一つ封じて有(あり)けるまゝ、其儘(そのまま)しらぬ顏して置(おき)たりけるに、程なく彼(かの)弟子の歸りければ、柳元言(いふ)、何ぞ譯ある品を所持せしやと聞(きく)に、左樣の覺(おぼえ)なき由を答ふ。いやとよ、かくすまじ、是非有筈(あるはず)也(なり)、かれが所持の手箱文庫等をもち來れと、外の弟子に、彼(かの)張文庫を取寄(とりよ)せて開かせければ、かの扇箱ほどの箱を取出(とりいだ)し、是は如何成(なる)ものゝ入(いり)たるやと尋(たづね)ければ、差(さし)うつむき無言にて有(あり)しがやゝありて顏を上げ、是(これ)に付(つき)ては面目(めんぼく)もなき事ながら、長き御物語の候、かく成(なる)上は包申(つつみまう)さん樣(やう)もなく候へども、此品を御改出(おあらためいだ)され御尋(おたづね)候は、いかゞの故に候や、先(まづ)夫(それ)を承度(うけたまはりたし)と申(まうす)故、如何樣(いかさま)尤(もつとも)の不審(ふしん)也と、今朝(けさ)市庵が申せし事、有(あり)のまゝに語りければ、彼(かの)弟子泪をうかめ、扨々面目なき事に候、さらば懺悔(さんげ)物語仕(つかまつる)べし、私(わたくし)生國(しやうごく)は奧州三春のものにて、誠にわづかなる畠を持(じ)し百姓の悴にて、母に幼少にて別れ兄弟もなく、父一人にて聊(いささか)暮し候處、長々煩ひ、少(すこし)の畠も質入(しちいれ)いたし、又は七年以前江戶へ出、奉公稼(かせぎ)、私事(わたくしこと)は菩提寺へ參り奉公いたし、三ケ年以前寺を下り、かすかなる家を借(かり)、こゝかしこのやとひ人(にん)になり渡(と)せいたし候處、同村百姓太郞兵衞と申(まうす)もの方へ、度々やとはれ參候處、兩三年寺に奉公致し候内、ひまひまには手習(てならひ)いたし、少々は本讀(ほんよみ)なぞもならひ候て、少し物書(ものかく)事も覺(おぼえ)、太郞兵衞は身上(しんしゃう)も手厚く暮(くらし)候者に候へども、物書(ものかく)候家來邊、漸(やや)可也(かなり)になる者、一人召仕(めしつかひ)候故、私事はあらわざも不致(いたさず)、讀書の手傳(てつだひ)などいたし、日々出入致(でいりいたし)候内、一人の娘と、ふと密通いたし懷姙(くわいにん)いたし、其上男子はなく一人娘故、聟を取申(とりまう)すなどゝの沙汰故、とやせんかくやとあんじ候處、何れにも連(つれ)て立退(たちのき)呉(くれ)候へとしきりに申(まうし)候まゝせんかたなく、或夜ともなひ立退候處、かの娘金子二百兩盜持(ぬすみもち)、是にて何方(いづかた)成共(なりとも)立退て渡世致すべしと申(まうし)、二里斗(ばかり)參り候處、夜中の事(なり)、差當(さしあたり)行先の當(あて)もなく、つらつらとおもひめぐらし候へども、太郞兵衞には彼是世話にもなり恩を請(うけ)たるに、一人の娘と不義いたし、其上金子を持出(もちいで)てなげきを懸(かけ)む事、人情に背(そむい)たり、たとへ首尾よく逃延(にげのび)たり共(とも)、天命の程おそろしと思ひ極めて、三里程隔たる所に彼(かの)娘の母方の叔父の有(あり)しが、娘は其宅を知らず。扨かの叔父の方へともなひ門外に置(おき)、門を音信(おとづれ)候へば、内より人の出(いで)候故、太郞兵衞方より用事有(あり)て參りたりとひそかに申入(まうしいれ)候得ば、夜中何事やらんと驚き内へ入(いれ)候まゝ、太郎兵衞方より參(まゐり)候、長吉と申(まうす)者にて候、急に御主人へ御内々にて、御直(おんぢき)に申さねば成不申(なりまうさず)、急用なりと言入(いひいれ)ければ、私事は兼て主人にも覺居(おぼえゐ)られ候儘、一間へ呼入(よびいれ)、如何樣成(いかやうなる)事に候や、心許(こころもと)なしと尋(たづね)られ候間、一ト間へいざなひ、扨私事かくし可申(まうすべ)き、か樣(やう)々々の次第にて御めい子樣をつれのき申(まうし)候、さりながら太郞兵衞樣も御一人のお娘子、家を御讓(おゆづり)に成(なり)候迚、聟を御尋候中(うち)に、私事かれこれ御(ご)おんになり候身にて箇樣成(かやうなる)不屆を仕出(しいだ)し、其上に御姪子(おんめいご)樣をつれのき、あまつさへ貮百両と言(いふ)大金を御持被成(おもちなされ)候を連(つれ)のき候事、餘り天命怖敷(おそろしく)、太郞兵衞樣の御(ご)立腹御(ん)なげきも思入(おもひいれ)候まゝ、爰元(ここもと)御めい子樣御存(ごぞんじ)なきを幸(さいはひ)に、御連申(おつれまうし)て參り候なり、今晩御存(ごぞん)なき分(ぶん)にて御とめ被成(なされ)、明日御對面被成(なられ)候て、太郞兵衞樣へ御戾し下され候樣願(ねがひ)候、私事は今晩中何方へ成共(なりとも)立退き、江戶の親父を尋(たづ)ね候て、いか樣にも致し候べし、金子は則(すなはち)是にて候とて、貮百両の金子を叔父に渡しければ、一旦の不埒は若氣の至り、此節に至りての心底かんじ入(いり)たる事なりと、貮百兩を取納(とりおさ)め、別に金子七兩を取出(とりいだ)し、是にて江戶へいで如何樣(いかやう)にも渡世いたし候樣にとて、女は座敷へ通しやすませければ、曉以前に私は其所を立出(たちいで)、江戶へ下り父に逢(あひ)候て、松平右近樣へ足輕奉公いたし居(をり)候所、翌年國者(くにもの)にふと行合(ゆきあひ)、彼是の物語いたし候處、太郞兵衞娘事、親許へ歸り、其後、產(さん)をいたし、出生(しゆつしやう)の子は、其儘、果(はて)、女は產後、相果(あひはて)候由、承り候間、しきりに不便(ふびん)に成(なり)、出家致度(いたしたし)と父に申(まうし)候へども、合點いたさず候まゝ、せめて髮斗(ばかり)を剃(そり)候(さふらは)んと、こなた樣の御弟子を願(ねがひ)候て坊主になり、心願(しんぐわん)有(あり)とて今以(いまもつて)常精進(じやうしやうじん)にて罷在(まかりあり)候とて、彼(かの)箱をひらけば、内には元取(もとどり)を附(つけ)たるまゝに剃(そり)たる髮、又半切(はんせつ)に血にて念佛を書(かき)し也。是は彼(かの)女の菩提の爲に血書(けつしよ)いたし候夏書(げがき)にて候と、語りける故、柳元が菩提所、麻布永坂光照寺の卵塔(らんたふ)へ、彼(かの)髮(かみ)血書の夏書を納め、髮塚といふ碑をたて佛事をなしけり。其後市庵が夢に、彼(かの)女、來りて、追善供養の程により、最早もふ執(しふ)をはらし、難有(ありがたし)と禮を言(いひ)けると也。其後此事共(ども)を人に語り、望(のぞみ)の如く出家して、則(すなはち)光照寺の弟子となり相應の僧となりて、武州桶川(をけがは)の在(ざい)にて平僧(へいぞう)の住職せる小寺、西念寺と言(いふ)寺の住職せしと也。淸家(せいけ)玄洞と云(いふ)醫師、柳元の友なりとて、物語り侍りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:怪奇譚で連関乍ら、何かしみじみとした実録風の情話である。「~言ふ」という、今までの「耳嚢」では見かけない叙述方法が、先の長尺の世話物「親子年を經て廻り逢ふ奇談の事」にも認められるから、私はこの二つの話は、同じ人物が齎した話ではあるまいかと推測している。そうした観点から見ると、先の話もこの話も、主人公が医師という点でも共通性があることに気づくのである。

・「間部」越前国鯖江(さばえ)藩(現在の福井県鯖江市)五万石。「卷之十」の記載の推定下限文化一一(一八一四)年六月であるが、この話柄は寛政元(一七八九)年であることが校合から分かるから(後注参照)、これは二十五年前、第五代藩主間部詮熙(あきひろ)の頃であることが分かる。少し古い都市伝説である。なお、同藩上屋敷は常盤橋御門内(現在の中央区日本橋本石町。江戸城外濠の表正面で現在の東京駅の北)、下屋敷は品川区東大井一丁目の現在の鮫洲駅の西直近にあったことが分かった。リフォルニア大学バークレー校版の柳元の開業先が芝(後述)であることを考えると、市庵が療養していた先は上屋敷の方が自然な感じがする(鮫洲は江戸の南端外縁であり、芝の柳元が頻繁に往診するには――芝は上屋敷と下屋敷のほぼ中間点ではあるがそれでも上屋敷の方が近く江戸市中のど真ん中で通行の便も遙かによかったはずである――やや遠い気がする)。

・「靑木市庵」不詳。

・「又其邊」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『又芝邊』とする。どうも他の部分を見ても底本は書写に杜撰さが散見されるように思われる(これは本話のみならず、ここまでの底本本巻の私の印象でもある)。

・「北島柳元」不詳。

・「友に」底本では右に『(共)』と訂正注する。

・「天明の末」天明は九(一七八九)年までで、天明九年一月二十五日(グレゴリオ暦一七八九年二月十九日)に天明の大飢饉や内裏炎上などのために改元して寛政元年となっている。

・「寬政の初夏の頃」書き方から脱字が窺われる。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『寛政の初年夏の頃』である。前の叙述からも至って自然となる。こちらを採る。

・「癰」黄色ブドウ球菌が原因で起こる隣り合った数個以上の毛包の細菌性の化膿性炎症(これが単独の毛包に発生した場合を「癤(せつ)」と呼ぶ。所謂「おでき」である)感染炎症を起こした部分が次第に赤く盛り上がり、痛みや発熱を伴う。重症の場合は切開をが必要となる場合がある。

・「丑三つ」午前二時前後。霊現象出来定番の刻限である。

・「三春」磐城国田村郡三春。旧陸奥国の南部で現在の福島県田村郡三春町。

・「張ぶんこ」紙で貼り固めた手箱。

・「又は七年以前江戸へ出、奉公稼」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『父は七年已前江戸え出奉公稼』である。こうでないと後が続かないし、「又」は「父」の誤写の可能性が高いから、ここはバークレー校版で訳した。

・「物書候家來邊、漸可也になる者、一人召仕候故」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は「物書(ものかき)候家來迚(とて)漸可也(かなり)になる者壱人召仕(めしつかひ)候故」とあり、これならば意味が分かる。バークレー校版で訳した。

・「可也(かなり)」のルビは底本の編者によるもの。

・「めい子」底本では右に『(姪御)』と訂正注する。

・「松平右近」知られた人物では徳川頼房(家康十一男で御三家水戸徳川家の祖)の玄孫である老中松平右近将監武元(たけちか 正徳三(一七一三)年~安永八(一七七九)年)である。諸本は注しないが、この話柄が寛政元(一七八九)年であることを考えると、ぎりぎりあり得ぬ話ではないか。

・「半切」現行の書道にあって画仙紙半切は凡そ縦百三十五×横三十五センチメートルである。

・「夏書」仏教用語。夏安居(げあんご:インドの僧伽に於いて雨季の間は行脚托鉢を休んで専ら阿蘭若(あらんにゃ:寺院)の内に籠って座禅修学することを言った。本邦では雨季の有無に拘わらず行われ、多くは四月十五日から七月十五日までの九十日を当てる。これを「一夏九旬」と称して各教団や大寺院では種々の安居行事がある。安居の開始は結夏(けつげ)といい、終了は解夏(げげ)というが、解夏の日は多くの供養が行われて僧侶は満腹するまで食べることが出来る。雨安居(うあんご)若しくはただ安居ともいう。ここは平凡社「世界大百科事典」の記載をもとにした。)の期間中に経文を書写すること。また、その書写した経文をいう。

・「麻布永坂光照寺」底本の鈴木氏注に、『真宗西本願寺末、雲岳山と号す。(三村翁)永坂は港区麻布永坂町』とある(永坂町は「ながさかちょう」と読む)。岩波版も『雲岳山光照寺』と注するが、Kasumi Miyamura 氏のサイト「麻布細見」の旧町名「光照寺門前」によると、この町名は『麻布永坂町の永坂東側にあった浄土真宗本願寺派寺院、雲岳山光照寺の門前町屋で、江戸末期まで存在した町名。植木坂の南側に位置した』『光照寺はもとは大和国吉野郡頃蘇村というところにあり、現光寺という名であったが、江戸初期の』寛永四(一六二七)年に『当地に移り、門前町屋を許された。そのまま江戸期を通じて町屋として残るが』、明治二(一八六九)年に『麻布永坂町に吸収され、町名は消えた』とあり、しかもその後、光照寺は昭和三十年代までは『当地にあったが、その後移転または廃寺となったもようで、現在は当地にはないよう』とあって『現在調査中』と附されてある。地図や他サイトを調べても、現存しない模様である。

・「卵塔」無縫塔。台座上に卵形の塔身を載せた墓石で、一般に禅僧の墓石に多く用いられるが、ここは卵塔場で、広義の墓場、墓地の謂いであろう。

・「もふ執」底本では「もふ」の右に『(妄)』と訂正注する。

・「桶川」埼玉県桶川市。

・「平僧」寺格の一つ。例えば真宗では近世、院家・内陣・余間(よま)・飛檐(ひえん)・平僧(へいぞう)に区分したのに始まり、きわめて複雑な寺格が定められて、礼金によって寺格を昇進することも出来た(平凡社「世界大百科事典」の「寺格」を参照した)。

・「西念寺」底本の鈴木氏注に、『埼玉県大里郡寄居町。浄土宗。県下に同名寺院が他に無いからこれであろうが、桶川の在では当を失する。熊谷の在なら通ずる』とある。桶川と寄居では直線でも三十キロメートル以上懸隔する。因みに寄居町寄居の西念寺の公式サイトはこちら

・「淸家玄洞」不詳。 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 幽魂奇談の事

 

 越前鯖江(さばえ)藩間部(まなべ)殿御藩中の江戸屋敷に、青木市庵(あおきいちあん)と申す医師のおらるる。また、その近くには町医者にて外科をこととする北島柳元(きたじまりゅうげん)と申す医師の御座って、この二人、ともに長崎の生まれにて、天明の末に江戸に出で、市庵は間部殿の藩医となり、柳元の方は妻子を持った上、門弟なんども三人ほど御座って、町医者を生業(なりわい)と致いて御座ったが、二人は同国同業の好(よしみ)なれば、たいそう親しくして御座ったと申す。

   *

 ところが、寛政元年の初夏の頃、市庵、これ、癰(よう)を患ったによって、昔馴染みなる柳元が療治を受くることと相い成った。

 市庵の病状は、癰とは申せ、腫れ物もそれほど大きぅはなっておらず、耐え切れぬほどの激しい痛みにてもあらざるようなれば、夜伽(よとぎ)の看病をするほどにても御座らなんだ。

 されば藩上屋敷内にて養生致いて御座ったが、藩中のことなれば、手狭(てぜま)で御座ったによって、市庵は藩医御用の間の内、薬剤調合の一間を、これ、臨時に療養の場として与えられ、そこに独り臥して、柳元に往診して貰(もろ)うては、療治を続けて御座った。

   *

 そんなある夜(よ)のこと。

 市庵の病状は少しはようなったとは申せ、折々には痛みの強きことなんどもあったれば、その夜も、疼きの強く、なかなか熟睡することも叶わず、うとうとと致いては目を覚ます、というを繰り返して御座った。

 さても丑三つともなったる頃おい、部屋の障子の外にて、

「……お願申したき儀……これ……御座いまする……」

と若き女の声の聞こえた。

 市庵、夢でも見たかと、枕より頭を上げつつ、聴き耳をたてた。――と、

「……お願申したき儀……これ……御座いまする……」

と、またしても、声の致いた。

『……同藩中の者なるか?……いやいや、それにしてもこの時刻なればこそ……何とも妖しきことじゃ。……』

と思いつつ、床より起き直って、

「――何事じゃ!?」

と糾いたところ、やはり確かな若き女性(にょしょう)の声にて、

「……私こと……奥州三春(みはる)の者にて御座いまする……お願い申し上げたき儀……これ御座いまして……参上致しまして御座いまする……」

と申す。

 ……若き女の独り……鯖江藩とは無縁の奥州三春の者……それが丑三つ時に懇請に参る……これ、どう見ても尋常ならざるものにて御座った。

 が、市庵、なかなかに胆(きも)太き男(おのこ)にて御座ったれば、少しも驚くことのぅ、かえって、

「――さるにても、部屋の戸の外にては、そなたの姿も見えぬ。――まずは部屋内(うち)へと入るるがよいぞ。」

と静かに招じた。

 戸を開けて部屋へと入るるを見れば、これ二十(はたち)ほどの女にて御座ったが、顔色も蒼ざめ、何やらん、まさに妖しげに、衣紋(えもん)なんどさえも、妙に、これ、ぼーうっとして、よう、分からぬ。

 漂うように市庵の横へとすぅーとやって参り、これまた、力のぅ、へたるように枕元へと座って御座った。

 されば、市庵、

「――夜(よる)の夜中――大名家上屋敷の内――そなたのようなる者が――屋敷の御門を入るると申すはこれ、あらざることじゃ!……なれば、いっかな、合点の行かぬこと! さればこそ、そなたは狐狸の類いにして、我らが病中なればこそ、身体の虚弱なるを見透かし、誑(たぶら)かさんとするかッ?! 憎っくき畜生奴(め)がッ!」

と一喝致いたところが、女は、これ霊ながらも、はらはらと涙を流し、

「……決して……私めは……そのようなる者にては御座いませぬ……私めは……もと……奥州三春の者にて御座いまするが……お見通しの通り……今はもう……この世におります者にては……これ……御座いませぬ……さてもこれ……お願いと申しまするは……あなたさまの御懇意なる北島柳元さまが許に……これ……居りまする者……その者が所持致いておりまるところの……扇を入るる箱……秘めて堅く封じたる扇箱(おうぎばこ)の……これ……御座いまする……それをば……あなたさまに……貰い受けて下さいまするよう……これ……お願い致しとぅ……存じまする……」

と言うたかと思うと、さめざめと泣いて御座った。

 されば、市庵、

「……かくなる儀ならば――なにゆえに、柳元が方へと直接参って、願わぬのじゃ!?」

と質いたところが、女は、

「……柳元さまの御屋敷の門口には……これ……尊(たっと)き御守りの札の貼られて御座いまするによって……私のようなる下賤の霊は……これ……入るること……叶いませぬ……それゆえ……どうか……柳元さまとご懇意なるあなたさまに……ひらに……お願い申しておりまする……」

と、悲痛のうちに絞り出すが如(ごと)、答えて御座った。

 市庵、それを聴くや、

「……そうか。――では、その扇箱を拙者が貰い受けようぞ。……そうして……そなたがそれをまた貰い受けに参る、ということで、よろしいのか?」

と訊ねたところが、不思議なことに、

「……いえ……妾(わらわ)は敢えて……それを乞い受け……持ち帰らんと致すものにては……これ……御座いませぬ……何方(いずかた)の地なりとも……墓なんどのある所なれば……何処(いづく)にてもよろしゅう御座いますれば……そこに埋めおかれ……少しばかりの御念仏(おねんぶつ)を唱えて下されたとならば……妾(わらわ)の望みは……これ……足りて御座います……どうか一つ……この妾(わらわ)が願いを……お聴き届け下さいませ……」

と乞うたによって、市庵、

「――相い分かった。――そのようなることならば――易きことじゃ。柳元に今のそなたの話、これ、確かに告げ申そう。……さりながら、さても、その扇箱に入っておるものとは……これ、何か?」

と質いてみたが、

「……それは……その……持ち主の……御方に……お訊ね……下さいまし……」

と言うたかと思うと、そのまま――すぅーっと――立ったかと思うと、戸の外へと雲霧の如(ごと)、姿を消してしもうたと申す。 

 

 市庵、

「……どうにも……奇怪にして……これ、訳の分からぬことじゃのぅ……」

と独りごちて思いを巡らし、さればこそ、眠ることも叶わず、初夏の短か夜のこと、これ、早くもほのぼのと陽の明けて御座ったと申す。 

 

 されば朝となるや、直ぐに柳元が許へ、

――至急参られたし

と使いを出す。

 さても柳元、寝惚け眼(まなこ)のところへ市庵からの急ぎの使いの来ったれば、

「――さても!……癰(よう)の腫物(しゅもつ)に危急の変化でも御座ったものか?!」

と、取るもの取り敢えず、慌てて駈けつくる。

 ところが、市庵は寝不足の眼を腫らしてはおるものの、病態に変わりはないように見えたによって、

「……な、何が? 何して、どう、致いた?……」

と不審気に問うた。

 されば、市庵、

「……いや。まっこと、驚ろかして済まなんだの。……ただ、我らも、これ、少しばかり驚かされて御座ってのぅ。……」

と、昨夜の不思議な女の話を物語る。

 初めは癰の熱にでも魘(うな)されたる夢物語かと疑(うたご)うて御座った柳元も、門口の守り札の段になると、これ、確かに思い当たる御札を貼りおることもあり、また、奥州三春と申すも、確かに、三春出の、内弟子の新しき者の一人あったればこそ、また、女の願いの不思議なること、最後の――その持ち主に尋ねよ――という謎めいた言葉なんどにも、俄然、

「……それは……これ、何か、確かに――あるな!……」

と合点致いて、

「――相い分かった。……ともかくもこれより直ちに屋敷に立ち帰り、とくと調べて見ようぞ。」

と市庵に請けがって、己が屋敷へと、とって返す。 

 

 屋敷へ戻った柳元は、三春より参った内弟子の長吉を呼び出したが、これ、あいにく朝湯に出かけて留守で御座ったによって、

「……まあ、よい。……湯屋(ゆうや)より戻ってから、ゆるゆると詮議致すか。」

と独りごちながらも、かの市庵から聴いたる扇箱(おおぎばこ)なるものが、既にして気になる。

 さればほかの二人の弟子に、

「……こっそりと――こっそりとじゃぞ。……長吉の持ち物が中に……その、何じゃ――扇箱――のようなるもののあるかないか……ちょいと捜して見い。……」

と命じた。

 すると、長吉の、そのとり散らかしたる私物の中を検見(けみ)させてみたところが、果して――小さき紙張りの手文庫の中より――封印を致いた扇箱のようなるもの――これ、見出して御座った。

 されば柳元、二人の弟子に、

「――よいか。……そのまま、元通りに、しておくのじゃ。……そうして、かくも家探(やさが)ししたことは勿論のこと、なんにも素知らぬ振りをし、長吉の湯屋(ゆうや)より帰るを待つのじゃぞ。よいか?」

と言い含めておいた。

 さても、ほどのう、かの弟子長吉、湯屋(ゆうや)より帰って参ったによって、柳元、徐ろに呼び出だすと、

「……長吉。そなた……何ぞ――訳ありの品を――これ、所持致いては、おらぬか?」

と問い糺す。

 しかし、長吉、

「……そのような物は、我ら……持っては、おりませぬ。……」

とうそぶいたによって、柳元、

「いやとよ! 隠すまいぞ! きっとあるはずじゃ! この者の持ったる手文庫なんど、ここに持ち参れ!!」

と命じ、持ち来った他の弟子の一人に、

「その手文庫を、開けよ!」

と命じ、その場にて開けさす。

 そこには確かに、扇を入るるほどの箱が一つ、堅き封印をして、御座ったれば、柳元、それを手ずから取り出だし、長吉が面前に突き出すや、

「――さても! これは如何なるもの、これ、入れおるかッツ!?」

と、一喝する。

 かの弟子、これには、さし俯いたまま、暫くの間は黙って御座ったが、ややあって意を決した如く、徐ろに頭(こうべ)を上げ、

「……これに就きましては……面目(めんぼく)なきこと乍ら……長き謂われの御座いまする。……かくなる上は、最早、何もかも包み隠さず申し上げようと存じまする。……存じまするが……ただ、その……この物を、かくお改めになられ、かようにお質しになられましたは、これ……如何なる訳にて、御座いまするか? 先ずそれだけは、承りとう存じまする……」

と殊勝に申し開き致いた。

 されば、柳元、穏やかに、

「……うむ。その訊ね、これは、如何にも、もっともなる不審ではある。……実はの……」

と、それより、今朝方、一庵の物語った、件(くだん)の昨夜参った不思議なる若き女性(にょしょう)の話を、ありのまま、その弟子に語って聴かせた。

 すると、かの弟子、話の始まるや、じきに涙を浮かべ、遂には滂沱(ぼうだ)と流し、慟哭致いた。

 そうして、暫く致いて後、涙のやや収まったる頃……ぽつりぽつりと……長吉の語り出す……

   *

……さらば……懺悔の物語を仕りましょう。……私こと、先般、入門の砌り、申し出でました通り、生国(しょうごく)は奥州三春の者にて御座いまする。……

……三春にてはまことに小さなる畑(はたけ)を持っておりましただけの、貧しき百姓の倅にて御座いましたが、母には幼少の砌り死に別れ、兄弟ものぅ、父と二人きりして、やっとかっと暮らしておったので御座います。……

……しかし父が病いとなって、それがまた、永の患いにて御座いましたによって、その療治がため、僅かな畑地も質入れ致し、やっと父が小康を取り戻しましたる頃には、かの地にては最早暮しも立たずなって御座いました。……

……されば結局、父は今から七年前、江戸へと出でて奉公稼ぎと相い成り、私めは、在所の菩提寺へと参り、そこにて奉公致すことと相い成って御座いました。……

……三年も経った頃、寺を出でて、独り、小さなる家を借りては、近隣ここかしこの家の、その日雇いの仕事なんどを請け負うては、これ、渡世と致いて御座いました。……

……かく身過ぎをしておりますうち、同じき村の豪農の太郎兵衛(たろべえ)と申す方へ、特にたびたび雇わるることの多なって――三年ばかり、寺に奉公致いて御座いましたによって、その暇まを見つけては手習いなんども致し、また、少々は書物なぞも教えられ習(なろ)うて御座いましたによって、少しはそれなりに物を書くことなんども覚えの御座いました――太郎兵衛なる者は、これ、ともかくも身上(しんしょう)も豊かにして優雅に暮らしておる者にて御座いましたが、

「……物を書くことの出来(でく)る家来――それ相応にかなりの達者なる者――これ、一人(いちにん)、召使(めすつこ)うとう思うてからに。」

と、私めを右筆(ゆうひつ)のようなる者としてお雇い下さり――正直、私こと、生来荒っぽいことを致いたこともこれ御座なく、その程度のことなれば、願ったり叶ったりで御座いました――かくして、太郎兵衛の読書の手伝いなんどを致すようになり申した。……

……ところが、日々、太郎兵衛が屋形(やかた)へ出入り致いておりまするうちに……

……そこの一人娘とこれ、ふと……

……心得違いを起こし……

……密通致すことと相い成り……

……やがて……

……その娘……

……懐妊致いてしもうたので、御座いまする。……

……その上、この娘、一人娘にて御座ったれば、その直後に、太郎兵衛が、

「……まんだ、秘密のことじゃが、の。……こんど、娘には婿を取ることに決めた。」

なんどと、雑談の中にて太郎兵衛の嬉しそうに呟くを聴いて……

……さても――どうしたらよかろう――ああするかこうすべきか、なんどと思い悩んでおりましたところが、……

……かの娘より、

「……ともかくも、妾(わらわ)を連れて――駆け落ち――して下さいまし!」

と切(せち)に乞われました。……

……されば最早、せんかたのぅ、ある夜(よ)のこと、とうとう、娘と手に手を取って出奔(しゅっぽん)致いてしもうたので、御座いまする。……

……ところが、かの娘、家出する折りに、これ、二百両もの大金を家より盗み出しておりまして、逃避行の夜道のすがら、それを私に見せ、

「――これにて――何処でなりとも参り――二人してつつましゅう暮しましょう!……」

と申しました。……

……そのまま二里ばかりも参りましたが、夜中のことなれば、さしあたり、行く先の当ても御座いませぬ。……

……そのような中、私は、いろいろ自分らの向後(こうご)を思い描いてみたものの、結局、つらつら心に思うたは、

『……太郎兵衛さまには……かれこれ世話にもなり、大きなる恩をも受けた。……それだのに……我らは、この太郎兵衛さまの大事な一人娘と不義密通致し……しかもその上に二百両からの大金を持ち逃げした。……かくなる恩人に、かくなる歎きをかくると申すことは、これ、人情に背ける、人非人のなせる業(わざ)じゃ。……たとえ、首尾よく逃げ延びおおせたとしても、天罰からは、これ、逃れられぬ!……』

と思い極めて御座いました。……

……ちょうどその頃、辿りついて御座いました所は、太郎兵衛が家より三里ほど隔たったところで、たまたまそのすぐ近くに、かの娘の母方の叔父なる、やはり裕福なる百姓の住んで御座いまいましたを思い出し――この家は、その娘の来ったことのないことは、かねてよりの娘との睦言(むつごと)によって知っておりましたによって――さても娘を連れ、その叔父なる者の屋敷へと伴い、

「……ここは私の知れる御仁の御屋敷じゃによって、心配ない。今日はもう、遅うになったによって、ここに泊れるよう、手筈を整えて参るによって、しばらくここにて、お待ち。」

と、娘は門外の暗がりに待たせおき、そのまま奥へと入って、玄関より、

「……お頼(たの)申します。――」

と訪(おとの)うたれば、内より、下人の出でて参ったによって、娘に聴かれぬよう、ごくごく、小さき声にて、

「――太郎兵衛さま方より――急なる用事の御座いまして、参りました。」

とそっと耳打ち致しました。

 流石に、夜も更けて御座いましたによって、下人は、

「こんな夜中に何事で御座いまするか?」

と怪訝そうに応じつつも、内へ導いてくれましたによって、

「――私めは太郎兵衛さま方より参りました者にて――長吉――と申しまする。――急にこちらの御主人さまへ――ごくごく内々にて――それも直(じか)に――申し上ぐるよう、きつく命ぜられて参りました。――どうか一つ――急用にて御座いますれば!」

と乞うたところ――私は、その家の主人太郎兵衛が叔父なる者には、かねてより目をかけられておりましたれば――、じきに、

「――おお。長吉どんか。まぁ、ともかく、こっちへ。」

と、一間へ呼び入れられ、

「……さても……どう致いた? こんな遅うに? 太郎兵衛どんの急用とか聴いたが。はてさて、一体何のことやら、一向、思い当たらぬがのぅ?……」

と訊ねられたによって、

「……さても――かくなる上は、これ、何をか隠し申しましょう。……これより申しますつことは、これ、総てまことのことに御座いますれば。どうか、よぅ、お聴き届け下さいませ。……実は……」

と、娘との不義密通に至る一切を告白致しました上、

「……かくなる次第にて、御姪御(おんめいご)さまを連れて、ここまで、参りました。……さりながら、太郎兵衛さまのたった一人の娘子……家をお譲りにならるるとて、婿をお捜しになって、それも近々お決まりにならるるという折りから……私こと、かれこれ御恩を受けたる身にも拘わらず、かようなる不届きをし出だし……その上に、御姪御さまを連れ出だいて……剰(あまつさ)え、二百両からの大金をお持ち出しになられた姪御さまを連れ逃げんとせしこと……これ、余りに天罰の怖ろしく……太郎兵衛さまの御立腹、御(おん)歎きに思い致せば、これ、心の潰れんばかりなれば……こちらの御屋敷の叔父御(ご)さまのお宅なるを、これ、姪御さまのご存じなきを幸い、お連れ参りまして御座いまする。……今宵は、あなたさまはお顔をお見せなされず、ここが叔父御さまの家とは分からぬように姪御さまをお泊めになられ、明日、日の昇ってより、御対面になられて、とくと愚かなる私めのお話なんどをお引きになられ、重々お諭しの上、太郎兵衛さま方へと人をつけてお戻し下さいまするよう、ひらに、お願い申し上げ奉りまする。……私めは今宵これより、山越えを致いて、何処へなりとも立ち退きまする所存。……江戸に親父もおりますれば、何とか、生きて参りますことは、これ、出来ようかと存じまする。……それから……かの金子は――ここに――」

と、かの娘の持ち出したる二百両の金子を叔父なる者に渡しました。

 するとその叔父なる御方、

「――一時の不埒(ふらち)や間違い――これは、若気の至り、じゃ。ここに及んでの――そなたの心底――これ、感じ入って御座った。」

と申され、一旦、二百両をとり納められた上、別に御自身の金子七両をお取り出しにならるると、

「――これにて、江戸へ出でて如何様にも、これよりの渡世の端緒(たんちょ)を摑むまでの、駄賃となすがよい。」

とお渡し下さいました。

 その後、娘は、別に人払い致いた座敷へとお通し下さり、寝床も二つ、形ばかりに容易して下さいました。……

……さても私は、

「安心して、先にお眠り。……」

と娘を寝かしつけ、幸せそうな寝顔の娘を残して……暁となる前に……そこを、発ち出でたので御座います。……

……それより江戸へと下り、幸いにして父に巡り逢うことの出来、暫く致しまして、松平右近さまの足軽として奉公致すこと、これ、叶いました。……

……ところが、その翌年のことで御座います。とあるところで偶然、同国(どうごく)の者と行き逢い、かれこれ故郷の話なんどに花が咲きましたが、その折り、それとのう、太郎兵衛がことに水を向けましたところ、

「……あん? 太郎兵衛?……あああ、あの田舎大尽か。……その一人娘てか?……」

 その者の話しから、かの折りは無事、実家へ戻ったことの知れ、また、私めと駈け落ちせんとしたことなどは、これ、一切、知れておらぬことなどが、その者の話しからそれとのう、知られましたによって、内心、胸を撫で下ろしておりましたところが、

「……そうそう、あの別嬪の娘……実はの!……これ、誰(たれ)の子(こぉ)やら知らんを、これ、ひり出しての!……されど、ほとんど死産に近かったらしいで。……ほんでもって、産後の肥立ちも、えろう悪ぅて。……あの娘も、ほどのぅ、あの世へ行きよったで。……あの若さで、まぁ、美人薄命、幸薄い娘やったんじゃの。……」

私は、その話を、まるで他人事のようなる顔をしたまま聴き、

「……そりゃあ……気の毒なことやったなぁ……」

と、軽く受け流した振りをして御座いました。……

……これを聴いてからというもの……

……かの娘が不憫で不憫で、仕方のぅ、なりました。……

……されば、我ら、頻りに娘と子(こぉ)の菩提を弔わんことこそ、我ら、生涯の勤めと思うようになりました。……

……ある時、

「――出家しとう存ずる。……」

と、何も知らぬ父に願い出ました。

 ところが訳も何も知らねばこそ、父は、

「……な、何を申すかと思えば! ならん! ならん!」

と、いっかな合点致さず、そのまま過ごすうち、

「……そうじゃ。……せめても髪ばかりは、剃り下ろして僧形とはなろう!……」

と、父に無断で、松平さま方足軽を辞め、あなたさまの御弟子を願い出でて、僧形(そうぎょう)となること、これ、出来まして御座いました。

 父は、

「せっかくの足軽を、なんでじゃ?!……まぁ、しかし、医師の見習いならば、将来は、金は稼げるで、の。」

と許しては呉れました。……

……これが、この今までの私めの、総てにて御座いまする。……

……ただ一つ、しかし未だ以って……

……心願の……

……これ……

……御座いまする。……

   *

と、長吉、ここで間をおき、暫く黙って御座った後(のち)、徐ろに、

「……今以って我ら――常に心に精進の思い――これ――し続けておるので御座いまする。……」

と述べ、思いきったように、かの扇箱の封を手ずから切って、開けた。

 その内には

――髻(もとどり)を附けたるままの自身の剃り落したる髪

のあって、また

――半切に念仏を朱墨のようなるものにて認(したた)めたるもの

が、これ、巻き納めて御座った。

 長吉曰く、

「――これは、かの娘の菩提を弔わんがため、己れの血(ちぃ)を以って血書(けっしょ)致いた夏書(げがき)にて御座る。――」…… 

 

 柳元、その二品(にしな)を目の当たりにし、長吉のこの長き懺悔(さんげ)を聴き、これ、大いに感じ入って御座ったと申す。

 されば柳元、長吉に命じ、すぐに自身の菩提所であった麻布永坂(あざぶながさか)の光照寺の卵塔場に、その長吉の断髪と血書の念仏を納めさせた上、

――髪塚(かみづか)――

と墨書致いた碑を建てて、娘と死にし子の供養の法会をも執り行のうたと申す。 

 

 さてもその法要の日の夜(よ)のこと、かの市庵、今はすっかり癰(よう)も癒えて、柳元よりかの不思議なる女に纏わる一件の始末も、これ、聴き及んで御座ったによって、自宅にて、久し振りに安眠致いて御座った。

 と、その夢枕に、かの女子(おなご)の霊の来たって――このたびは、これ、にこやかなういういしいほがらかなる乙女顔にて、衣紋もくっきりと、えも言われぬ美しき姿で御座ったと申す――、

「――お蔭さまにて追善の供養により最早、妄執の、これ、すっかり晴れまして御座いまする。ありがたく存じまする。――」

と礼を述べて――ふっと――消えた。 

 

 この後(のち)、かの柳元が弟子長吉は、師柳元が熱心に各所にて(くだん)件の話を説き語って、長吉が改心とその信心のまことを称揚致いたによって、則ち、かの娘を弔ろうたところの、柳元が菩提所光照寺の和尚が、これを迎えて弟子となし、積年の望み通り、晴れて出家致いた。

 そうして、今は武州桶川(おけがわ)の在の、平僧(へいぞう)の格式の小さき寺乍ら、西念寺と申す一寺の住職となっておる由。 

 

 以上の話は、私の知れる清家玄洞(せいけげんどう)と申す医師――これ、北島柳元が友なりと申す――の物語って御座った話である。

  

2015/03/01

本日雛祭りにて終日閉店

妻友達6人が大挙して押し寄せる雛祭りにて本日閉店   心朽窩主人敬白

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