耳嚢 巻之十 獸も信義を存る事
獸も信義を存る事
尾州御館(おやかた)の白書院(しろしよゐん)とかや、御庭老い繁れる松兩三株ありて、其根に穴あり。年久しく住める狐ありて、壹人扶持づゝ、あづかる者ありて食事に拵へ絶へず與へけるよし。しかるに文化十年修復の事あり、市ケ谷町家(まちや)の職人兩三人も來りて修復の拵(こしらへ)をなしけるに、壹人の若き大工、仕事休みの内、其邊の庭廻りを見けるに、右松の木陰に古き桶ありしが、これは何のためなるやと獨り言(いひ)しを、しれる大工、それは狐に餌をあたへたまふ由を申(まうし)ければ、魚の類(たぐい)も見へず、めし計(ばかり)、これには狐も食(くふ)にあき間敷、われら方へ來らばむまきもの振舞(ふるまは)んと口ずさみしが、其夜彼(かの)大工の若者へ狐つきて、わからぬ事を申ける故、父母其外大きに驚(おどろき)、いかなる事にて此者に狐付(つき)けるや、いづかたの狐なるやと尋(たづね)ければ、尾張御庭の狐なり、此者我方へ來らば振舞(ふるまひ)せんといひし故來れりと申ける故、其好みに應じ小豆飯(あづきめし)など振(ふる)まひけるに、多くも喰(くらは)ざりしが、是は過分(くわぶん)の由悦び食ひて、年久敷(ひさしく)御庭に住(すみ)たまふやと尋ければ、太閤秀吉の頃より此處に住むよし申けるとなり。約束の食事も振舞(ふるまひ)ぬれば最早おちたまへと申ければ、成程(なるほど)をち可申(まうすべし)、しかしながら明朝迄はさし置呉(おきくれ)候樣申(まうす)故、何故(なにゆゑ)にや、夜分は犬なぞを恐れ候哉(や)と申ければ、我らがやうなる數百年を經たる狐は、犬など怖るべきにあらず、何疋取卷(とりまく)とも物の數とはせず、しかれども屋敷の門限が過(すぎ)ぬれば、こよひは通りがたし、明(あけ)なばとくかへらんと申(まうす)故、神通(じんづう)を得たる狐、なんぞ門の限りを恐るゝや、いづ方よりも歸らるべきと申(まうし)ければ、我年久鋪(ひさしく)、尾張の厚恩を請(こひ)ぬれば、塀垣(へいかき)等を越(こゆ)るは安けれ共(ども)、垣を破る事はすまじき事の由、くれぐれも食事振まひ馳走なせし社(こし)忝(かたじけな)けれと禮謝なし、我等數年御屋敷の御扶持にて事足(たり)ぬれど、近頃子供多く出來て食ひ足らぬ事あるよしを、問答の内(うち)答へけるを、尾張の役人へ聞(きき)に入れしに、尤(もつとも)なる事なり、加扶持(くわぶち)たまはりしと專ら市谷邊の噂聞(きき)しが、彼家の老職鈴木嘉十郎といへる人、衞肅(もりよし)が歌の友にて、會合の折からかたりしを、予も聞し故しるしぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:動物奇譚から狐妖異譚で連関。八つ前の「豪傑怪獸を伏する事」の某下屋敷とロケーションの似ているところがあるが、こちらは尾張藩白書院とかあって、描写の細部にも齟齬があり、同一の屋敷ではない。
・「尾州御館」後に「市ケ谷」と出るから、尾張藩名古屋徳川家御上屋敷である。当時の藩主は先に示したが再掲すると、文化一〇(一八一三)年五月(後注参照)の頃は、第十代藩主徳川斉朝(なりとも 寛政五(一七九三)年~嘉永三(一八五〇)年:第十一代将軍徳川家斉の弟で一橋家嫡子だった徳川治国の長男)である(彼はこの文化十年八月十五日に家督を家斉の十九男斉温(なりはる)に譲って三十五歳の若さで隠居、以後、名古屋で二十三年間に亙る隠居生活に入った。但し、次代の藩主斉温が一度も尾張入りしなかったため(彼は病弱を理由に江戸藩邸に常住、襲封後、嘉永三(一八五〇)年に二十一の若さで死去するまでの十二年間、第十一代尾張藩主でありながら、何と一度も尾張藩領内に入らなかった)、その後も「大殿」として隠然たる力を持ったとされる。以上はウィキの「徳川斉朝」及び「徳川斉温」に拠った)。最後に狐に加扶持をするところ辺り、この斉朝にこそ相応しい。
・「白書院」「しろじよゐん(しろじょいん)」とも読む。檜の白木造りを基本とした漆塗りを施していない書院造りのこと。武家(主に江戸城及び諸侯の第や屋敷などの大規模な殿舎に設けられた)では奥向き、寺家では表向きの座敷。天井の格子・障子の縁・床框(とこがまち)に至るまで黒漆塗りとした、主に居間風の座敷として使われた黒書院の対語。
・「御庭老い繁れる」底本には「老」の右に『(生)』と訂正注する。それぞれのリンクはそれぞれの語のグーグル画像検索。
・「文化十年」「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月。ホットな都市伝説である。岩波の長谷川氏注には、医師で文人であった加藤曳尾庵(えいびあん)の「我衣」八にもこの記事が載ると記し、そこでは文化十年五月初めの出来事として出るとある。
・「食にあき間敷」「まじく」では文意が通じない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、『食事にあき申(まうす)べし』である。それで訳した。
・「小豆飯」小豆を前もって煮ておき、その煮汁とともに白米に交ぜて炊いた赤飯のこと。
・「過分」分に過ぎた扱いを受けること、身に余るさまで、主に謙遜の意で用いる。
・「太閤秀吉の頃より」後に「我らがやうなる數百年を經たる」と出る。これを厳密な意味で「太閤秀吉」、秀吉が甥秀次に関白を譲った天正一九(一五九一)年をこの狐の誕生年とすれば、「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年であるから、この妖狐の年齢は数えで二百二十四歳となる。
・「門限」江戸の藩屋敷には門限があった。しかし、Rekisinojyubako 氏のブログ「重箱の隅っこ」の「津山藩江戸屋敷の門限」を見ると非常に面白い事実が分かる(津山藩は美作国の大半を領有し、藩庁は津山城(岡山県津山市)にあった)。それによれば(津山郷土博物館発行の図録「津山藩の江戸屋敷」(二〇〇一年刊)の尾島治氏の記載に拠るとある)、鍛冶橋(現在の東京駅付近)にあった『津山藩上屋敷の門限は暮れ六ツ時』(午後六時頃)で(以下、改行を詰めた)、
《引用開始》
これは『鳴雪自叙伝』に記された松山藩の門限とも共通していますので、おそらくどの藩も暮れ六ツが門限だったものと考えられます。ここまではよいのですが、尾島氏はこれに続けて、実際には午後9時頃に六ツ時の拍子木を打って廻ったと記しています。午後9時に午後6時に拍子木を打つなんて、これまた掟破りな江戸時間の在り方。津山藩士は外出の用向きを済ませた後、両国あたりで夕食と軽い晩酌をして、明かりが灯る頃になっても、少し足早に帰れば拍子木の時刻までに間に合ったというのです。他の藩では拍子木打ちの仲間に賄賂を渡したり、妨害したりして門限を延ばしていたことは以前にも記しましたが、そもそも午後9時に六ツ時の拍子木を打つのは、何かそうした実情にあわせて生み出されたルールといった感もします。それにしても、フレッキシブルな江戸時間には脱帽です。
《引用終了》
とあって、なかなかにぶっ飛びの真相である。
・「久鋪(ひさしく)」のルビは底本編者によるルビ。
・「社(こそ)」のルビも底本編者によるルビ。国訓で係助詞の「こそ」である。「日本書紀」「万葉集」に用例がある古い読みであるが、その由来は不明である。福山藩の漢学者太田全斎が江戸後期に作った辞書「俚言集覧」には『〔萬葉集〕乞、欲、社、欲得、皆「コソ」と訓(よめ)り』とし、『神社ハ祈請の所なれば乞の字義通(かよ)へり。姓の古曾部も日本記社戸と書(かけ)り』とあるが、分かったような分からないような説明である(引用は国立国会図書館の近代デジタルライブラリーの明治三二(一八九九)年刊村田了阿編・井上頼圀/近藤瓶城増補版のここを視認した)。
・「松平家」松平氏とは元来、三河地方(現在の愛知県)の松平郷を支配する一豪族であったが、九代目当主であった家康二十三歳の永禄九(一五六六)年に、徳川に改め、以降、征夷大将軍と御三家(尾張・紀伊・水戸)の当主及び御三卿(田安・一橋・清水)の当主のみが「徳川」を名乗ることが出来、それ以外の家系が「松平」を名乗った。徳川も元は松平家なわけである。
・「老職鈴木嘉十郎」尾張藩重臣鈴木主殿家の鈴木丹後守重逵(しげき? しげき?)か?(こちらの系図から推測)
・「衞肅」「耳嚢 巻之四 小兒餅を咽へ詰めし妙法の事」で既注。再掲すると、底本補注で『モリヨシ。九郎左衛門。根岸鎮衛の長男』で寛政三(一七九一)年に『御小性組に入』り、その当時三十一歳とある。
■やぶちゃん現代語訳
獣も信義を存ずるという事
尾張徳川家上屋敷の白書院(しろしょいん)での出来事とか申す。
御庭に生い繁れる松が、これ、合わせて三株(みかぶ)御座って、その根がたに穴のあって、そこに年久しゅう住める狐の御座ったと申す。
この屋敷には一人扶持を給わって御座った屋敷守の者がおり、この狐がために、朝夕の食事を拵えては絶へず供して御座ったと申す。
さて、文化十年の年のこと、この白書院、修復の儀これあり、市ヶ谷の町屋の職人が三人ほど来たって、修復を始めたが、一人の若い大工が休憩の折り、その辺りの庭廻りをぶらついて御座ったところが、かの松の木蔭に、古き桶の置かれてあるのを見かけ、
「……これは何のためにあるんかのぅ。」
と独り言を言うたところ、御屋敷出入りの馴染みの大工が、
「それは狐に餌を与えていなさるんじゃ。」
と答えたによって、
「……魚(さかな)の類いも見えず、白飯(しろめし)ばかりじゃ。これでは狐も食うに飽きるじゃろうに。……我らが方へ来たらば、美味いもん、これ、たんと振る舞もうてやるのにのぅ。……」
と、軽口をたたいて御座った。
ところが、その夜のことである。
かの大工の若者へ狐の憑きて、訳の分からぬことを口走り始めたによって、父母兄弟、長屋の連中、これ、大きに驚き、
「……お、お狐さま!……いかなる訳のあって、よりによって、こんな者(もん)にお憑きになられましたか?……何処(いずこ)のお狐さまで御座るるか?」
と、狐の憑いた若者に聴き質いたところが、
「……我ラハ……尾張御庭ノ狐ジャ……コノ者……我方ヘ来ラバ振ル舞イセント言イシ故……カク来ッタ……」
と申したによって、恐る恐る、これ、
「……な、何をお好みか?」
と訊ねたところが、
「……小豆飯……」
と答えたれば、慌てて赤飯を調え、若者に供したところ、
「……コレハ……マッコト……有リ難キコト……」
と悦んで食うた――但し、あまり多くは喰わなんだとも申す――。食い終ったところで、
「……永の年月、かの御庭にはお住まいになっておられまするか?」
と訊ねたところ、
「……ソウサ……太閤秀吉ノ頃ヨリ……ココニ……住ンデオル……」
と答えた。
暫く致いて、
「……お約束のお食事も、これ、振る舞いまして御座いますれば……どうか……早(はよ)うに……この若造より、お離れ下さいませぬか?」
と水を向けたところが、
「……成程……落チ申ソウズ……シカシナガラ……明朝マデハ……コレ悪イガ……コノママニ……サシ置キ呉ルルヨウニ……」
と申したによって、慌てて、
「……そ、それはまた、何故(なにゆえ)にて御座いまするか?……夜分のことなれば、犬なんぞを、これ、お恐れなさってでも?……」
と問うと、
「……我ラノヨウナル数百年ヲ経タル狐ハ……コレ……犬ナゾ……怖ルルナンドトイウコトハ……コレ……アルビョウモナイ……野良犬如キ……コレ……何疋何十疋何百疋ト……取リ巻イタトテモ……物ノ数デハナイ……シカレドモ……モウ……屋敷ノ門限ガ過ギテシモウテ御座ッタレバノ……今宵ハ屋敷ヘ入リ難イ……夜ガ明クレバ我ラトク帰ランホドニ……」
と申したによって、
「……はて……神通力(じんつうりき)を得ておらるるお狐さまの……どうして門限なんどをこれ、お恐れなさいまする?……何処からでも、御屋敷へは、これ、お入りになられましょうほどに?……」
と訝って問うたところが、
「……我レ……年久シュウ尾張公ノ御厚恩ヲ請イ受ケテ参ッタ……無論……塀ヤ垣ナンドヲ越ユルハ……コレ安キコトナレドモ……塀ヤ垣ヲ越ユルニ際シ……万ガ一コレヲ損ズル事アラバ……コレ……憚ラルル事ナレバノゥ……」
と答えた上、
「……クレグレモ……カク食事……振ル舞イテ馳走ナシ呉レシコトコソ……忝ノゥ存ズルゾ……」
と、深く頭を下げて礼謝なし、
「……我ラ……数年ノ間……カノ御屋敷ノ御扶持ヲ給ワリ……ソレニテ事足リテ御座ッタガ……近頃……子供ノ多ク出来テノゥ……コレ少々……食イ足ラヌ事モ御座ルデノゥ……」
といったことを、この狐、問答の内に告白して御座った。
かくして、夜明けとともに若者から狐は落ちた。
さればその日のうちに、かの狐の話を、同席致いて直かに聴いた長屋の家主より町方へ、そこより尾張藩御屋敷の御役人方へと、その顛末を言上致いたところ、御藩主徳川斉朝(なりとも)様の御耳にも達し、御藩主様より直々に、
「……ふむ。それもまたこれ、もっともなる謂いじゃ。――永年、白書院が庭を守って参った狐なれば、これに供物の――加扶持(かぶち)を――これ、賜わるがよいぞ。」
と申されたと、これ、市ヶ谷辺にては専らの噂となっておると聴く。
しかしこれ、ただの流言飛語と軽んずるなかれ。
かの松平徳川家御家中、老職をお勤めになられておらるる鈴木嘉十郎殿と申す御仁、これ、私の長男衛肅(もりよし)の和歌の友人であられ、その和歌の会合の折り、直々にこのお話をなされたを、私も聞いて御座ったによって、確かな出来事として、ここに記しおくことと致す。
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