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2015/03/18

「耳嚢 巻之十 怪倉の事」追加資料 釈敬順「十方庵遊歴雑記」より「本所数原氏石庫の妖怪」

■資料 釈敬順「十方庵遊歴雑記」より「本所数原氏石庫の妖怪」

[やぶちゃん注:作者は小日向水道端(現在の文京区水道二丁目)にあった浄土真宗廓然(かくねん)寺第四代住職大浄釈敬順。俗姓は津田氏。宝暦一二(一七六二)年本所生まれ。二十歳で寺を継ぎ、文化九(一八一二)年に隠居して十方庵(じっぽうあん)と号した。茶人としては集賢(または宗知)、俳号を以風と称した。「十方庵遊歴雑記」(十五冊五編)は彼の見聞記で、その足跡は江戸周辺から関東一帯、遠くは三河まで及ぶ(以上はkurofune67 氏のブログ「黒船写真館」のこちらの転載記事を参照した)。根岸鎮衛は元文二(一七三七)年の生まれであるから二十五年下であるが、「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年で、十方庵は既に隠居しており、この「遊歴雑記」のデータ収集や執筆に入っていたものと考えられるから(序に文化十二年のクレジットがある)、これは根岸の採取した時期と殆んど変わらない共時的記載であると考えてよい。以下は国立国会図書館の「江戸叢書十二巻 巻の四」の画像を視認して起こした。踊り字「〱」「〲」は正字化した。後に簡単な注記を附した。]

 

  七拾參 本所數原氏石庫の妖怪

一、東武本所二ツ目相生町とみどり町との横町に寄合に入れる御醫師に、數原宗得(スハラソウトク)とて持高五百石二十人扶持を賜ふ、今は宗得隱居して當主を宗安といえり、此やしきに作れる土藏の中に妖怪あり、是は場末の屋敷なれば持高に應ぜず、方量も廣きまゝ土藏は、居宅をはなれ廣庭の遙隅にありて、火災を厭ふには一入よし、此庫の作り方は屋根と戸前口ばかり木にて作り、壁といふものは皆切石を以て積上たり、恰も彼日本橋四日市河岸通の土手藏(ドテグラ)の類(タグ)ひなるべきか、廣さ二間半に三間半かとよ、是はむかし有德尊君より拜領せしといひ傳ふ、案ずるに此御代安南(アンナン)より象を一匹獻ぜしに依て、置處なく本所豎川筋にさし置る、その砌象扶持(ゾウフチ)など積入し藏なるべし、されば此石藏の中に妖怪の住事なれば、夜は勿論晝とても兩三人づゝ連立行(ツレタチユキ)て、藏のものを出し入れす、しかるに此石庫は這入て、小用を達し度とおもう通氣の萌(キザシ)あれば、おのおの早々に藏を出しばらく外にて猶豫(タメライ)て後、土藏に入れば子細(シサイ)なし、是怪物の出べきしらせなりとなん、扨又小用の通氣あるを忍(コラ)へて、若物など扖(サガ)し居る事あれば、必ずしもその妖怪にあふ、但しその妖怪の形是とさだまるほあらず、小女、小坊主、小瞽(コメクラ)、大達摩(ダルマ)、木兎(ミ〻ヅク)、犬張子(イヌハリコ)、竹輿(カゴ)、からかさ、鬼女、よろづの面瞽(メンゴ)、女仁王(ゼニワウ)、鷄犬(ケイケン)、牛馬(ギウバ)の類と種々に變化して出るとかや、これに依て庫に入て誰にても通氣の氣味あれば、申合せ早々飛(トビ)いだす事となん、若又近邊に火災あらん前方には誰としれす、夜すがら鐡棒を引て歩行(アルク)音す、是によりて家内火災のあるべきしらせぞとこゝろえ、諸道具取片付用心するに、果して不慮に近火ありて、宗安居宅のみ遁るゝ事むかしより數度なり、既に去し寛政年間件のしらせありければ、大體(ダイタイ)品皆仕舞しかどその砌老母大病にして手放しがたく、今にも取詰やせんと見へたる折柄、出火ありて風又甚烈しく、近所一圓に燒廣がりければ、漸く手人ばかりにて竹輿(カゴ)に懷きのせ一番輩さしそひつゝ、しるべの方へ立退けるまゝ、家内いよいよ人少になり、殘れる道具を石藏の中へ詰入る暇さへもなければ、戸前口へみな積置ぬ、スワといはゞ濡薦(ゴモ)を懸んと、殘りし家内只とりどりに立騷ぐばかりなりしが、彼石庫の内より壹人の女、髮をうしろへ下て振亂したるが、甲斐甲斐しく立出戸前口に積置たる品々を、土藏の内へ抱えて運び入れる事取廻し速(スミヤカ)也、爰に居殘りし卑女(ハシタ)は不思議に思ひ駈來りて、件の女の顏を見んと彼方へ廻れば、こちらへ振向、此方へ廻ればあちらへ顏を背(ソム)けて、見せざりしかば不圖こゝろ付是かねて傳え聞、妖怪ならめと思ふや、否、ゾツと惣身さむけ立ければ、卑女は萬事を打すてゝ迯込(ニゲコミ)しが、彼(カノ)道具をみな石藏の中へ運び入、内よら戸前を〆けるとかや奇怪といふべし、終にその砌も類燒を遁れたり、かゝれば此妖怪宗安が家の爲に、幸あれど更に害なし、是によつて四月十四日を例祭とし、石庫の中には燈明をかゝげ、種々の供物を備へ毛氈を敷詰、外には大燈籠提燈等をかざり、晝は修驗來りて佛事を取行ひ、夜はもろもろの音曲鳴物神樂を奏して、夜すがら彼怪物のこゝろをなぐさむを祭祀とすとなん、これによつて當家より火防の札を出すに、是を以て家内にあがめ置ば、一切火災の煩ひなしと巷談す、しかるに彼石庫の隅の棚に一つの箱あり、大さ五六寸四方、昔よら置處を替ず、又手を付る者は曾てなし、恐らくは此箱怪物の住所ならんかといへり、此外に石庫の内更にあやしき物をしとぞ、上來の一件(イチマキ)奇談といふべし、但し此類の事世上に儘ありて人みな恐怖し祭り崇める者又少なからず、曾て古人のいえらく、怪を見てあやしまざれば怪おのづから去とおしえ、又は妖は德にかたずとの金言は宜なる哉、巫咒桃符(フジユトウフ)を貴ばんよりは、身を正ふし德行を逞ふせんにはしかじ、退治魔事の法といふも、先その身潔齊し六根精進をして正ふせんにはしかじ、何ぞその身の行狀を亂し德行をばせずして.一向(ヒタスラ)に神齋を責(セム)る事やあらん、我人仁義禮恕孝貞忠信の勤しばらくも怠るべからず、此一件(イチマキ)を荒川新助といへる人、彼數原氏へ立入て見聞せしまゝを、しるし置ものなり、

 

*やぶちゃん注記
「耳嚢」の話よりも遙かに詳細で、しかも間然する箇所が殆んどと言ってない点でも非常に優れた記載である。祭祀も式日も四月十四日と明記されてあり、驚くべきことにその「物の怪」の棲み家まで特定している!

●「一入」「ひとしほ(ひとしお)」。

●「日本橋四日市河岸通の土手藏」屋根で覆われた石積みの蔵群。日本橋川南河岸沿いに明暦三(一六五七)年の大火の後、防火のために築造されたもの。現在の中央区日本橋の野村證券本社付近にあった。

●「二間半に三間半」凡そ間口四・五メートル×奥行六・三メートル。

●「有德尊君」徳川吉宗。

●「安南より象を一匹獻ぜし」享保一三(一七二八)年に吉宗の注文で安南(ベトナム)の貿易商鄭大威(ていたいい)雌雄二頭の象を長崎に齎した。雌は同年死亡したが、翌年、雄の方が江戸へ運ばれる。この象は途中、広南従四位白象の名を授けられて宮中に参内、中御門天皇・霊元上皇に拝謁、江戸では待ちかねていた吉宗を悦ばせた(以上は講談社「日本人名大辞典」の「鄭大威」の項他に拠った)。

・「本所豎川」現在の墨田区(本所)横川。

●「猶豫(タメライ)」は二字に対するルビ。

●「通氣」使用されてある三箇所を並べてみると、怖気立つような怪しき気配、の意である。

●「よろづの面瞽(メンゴ)」いろいろな風体(ふうてい)の視覚障碍者の意か。

●「女仁王(ゼニワウ」不詳。女体の金剛力士というのもおかしい。鬼女の謂いか。

●「鷄犬、牛馬」これは鶏や犬や牛や馬の意。

●「寛政年間」西暦一七八九年~一八〇一年。

●「一番輩」一の家来の意であろう。

●「これによつて當家より火防の札を出すに、是を以て家内にあがめ置ば、一切火災の煩ひなしと巷談す」これはまた、結構な副収入となったものと私には思われる。

●「五六寸四方」十五・二~十八・二センチメートル四方。

●「但し此類の事世上に儘ありて人みな恐怖し祭り崇める者又少なからず……」こうした道話めいた附言は当時の定式の一つで、しかも彼が僧侶であることを考えれば、合点がいく。

●「巫咒桃符」「桃符」は中国で陰暦の元旦に門にかかげる魔除けの札のこと。桃の木の板に百鬼を食べるという二神の像や吉祥の文字を書いたもの。魔除けの呪(まじな)いの御札。

●「我人」わがひと」と読むか。我々人たるもの、の意であろう。

●「荒川新助」不詳。

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