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2015/03/07

耳嚢 巻之十 武家の抱屋舖にて古碑を掘得し事

 武家の抱屋舖にて古碑を掘得し事

 

 文化六年の頃、元高家を勤(つとめ)し大澤(おほさは)下總守跡、今は右膳(うぜん)といへる人の下屋鋪(しもやしき)、目白にありし。至(いたつ)て草莽(さうまう)の地にて、古池等あり。寂寞(じやくまく)たる古池のよし。家舖守(やしきもり)ありて、百姓體(てい)なる者の由。然るに右屋鋪地中(うち)にて、うなる事夜々なりし故不審に思ひ、其所(そこ)を命じて四五尺も掘(ほり)しに、石塔二つ掘出(ほりいだ)せしが、ひとつは沒字と見へれど、文字さだかならず。一つは文明七年八月と年號有(あり)。戒名も不分(わからざれ)ども、尼といふ文字おぼろに見へし。然るに右屋鋪守、其夜夢を見しに、何とも覺えざる人來りて、此上(このかみ)右の處を掘り候はゞ命におよぶべしと告(つげ)ける故、大いに恐れて、右石碑は、屋敷主(あるじ)大澤のもとへ贈りしを、其隣(となり)の寺へ納めさせしに、右の儀及承(うけたまはるにおよび)、見物の者多く入込(いれこみ)、是又さし留(とめ)有(ある)之(の)由、或る人物語り也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:供養の古碑発掘で直連関。こちらは怪談絡み。しかし、前の板碑同様、江戸庶民の好奇心はこの怪異をも恐れず、わんさと見物人が押しかけたというところが、実に面白い。

・「抱屋舖」字面では囲いや家屋を設けた屋敷地のことであるが、これは別に正規の武家屋敷・町屋敷と区別される別宅を指す語でもあった。ウィキの「江戸藩邸」によれば、『江戸藩邸のうち江戸幕府から与えられた土地に建てられた屋敷は拝領屋敷という。一方、大名が民間の所有する農地などの土地を購入し建築した屋敷は、抱屋敷(かかえやしき)と呼ばれる』。『抱屋敷は総じて江戸の郊外にあり、下屋敷など藩により様々な用途に使用された。拝領屋敷と異なり、それまでその土地に掛けられていた年貢や諸役は、大名の所有となった後も負担する必要があった。また、屋敷や土地は幕府の職の一つである屋敷改(やしきあらため)の支配を受けた』とある。

・「文化六年」「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月であるから五年前。西暦一八〇九年。

・「大澤下總守」底本の鈴木氏注に、『基之。大沢家は基宿(モトイヘ)の時、家康に近侍し、その子基重の時二千五百石を領した。その子基将以後代々、奥高家の家』とある。本文にも出る「高家」とは江戸幕府の職名で、老中支配に属し、主として儀式・典礼を掌り、伊勢・日光への代拝の他、特に京都への御使い・勅使の接待などの朝廷との間の諸礼に当たった。それ自体が高家旗本の家柄をも指す。世襲制で、足利氏以来の名家である知られた吉良の他、石橋・今川・大沢(本話)・武田・畠山などの諸氏が任ぜられた。鈴木注の「奥高家」というのは高家旗本の内で高家職に就いている家で、非役の家は「表高家」と言った。ウィキの「高家」によれば、この注に出る大沢基宿は、最初期の高家職を務めた人物で、『公家持明院家の流れを汲み遠江国に下向して土着した大沢家の出身で、木寺宮という皇族の末裔を母とする人物である。吉良義弥・一色範勝・今川直房らは、いずれも足利家の一族である。高家の創設の理由として、徳川家康がかつての名門の子孫を臣下に従えることにより、対朝廷政策を優位に運びたかった為と思料される。徳川氏が武家の棟梁として「旧来の武家の名門勢力を全て保護・支配下に置いている」という、政権の正当性および権力誇示という見方が強い』とある。また、高家は幕府の使者として天皇拝謁の必要が生ずる場合があるため、官位が高く、『最高で従四位上左近衛権少将まで昇った』が、この大沢基宿に限っては、草創期であったからか、例外的に正四位下左近衛中将にまで昇り、『大半の大名は従五位下であるから、その違いは歴然である』とある。「大沢家」の項には、『藤原北家中御門家頼宗流。持明院基盛を祖とする。大沢基宿は家康の将軍宣下の儀礼を司っており、実質的な高家の始まりとされ』、石高は三千五百五十石とある。また、この本家から分かれた分家(同じ大沢姓と考えてよいであろう)も『一時的に高家職に登用された』とある(下線部やぶちゃん)。さて、鈴木氏の同定される大沢基之(宝暦一〇(一七六〇)年~文政五(一八二二)年)は高家大沢家第八代当主であるが、実はこれについては岩波の長谷川氏注は全く違った大沢基季(もととし 宝暦元(一七五一)年~文化五(一八〇八)年)なる人物にこれを同定なさっておられる。この人物、ウィキで探ってみると、持明院基定という男に辿りついた。この男は先に出た大沢基宿の次男で(則ちこちらの大沢家は本家の分家で、しかも前に見たように分家も高家職に登用されたという記載と一致するのである)、その曾孫に高家旗本として大沢基貫(もとつら)という人物がおり、その没後は基貫の弟が基清が継ぎ、次代はその長男基業(もとなり)で、それを継いだのが基業長男の大沢基季である。ウィキの「大沢基季」によれば、『官位は従四位下侍従・下総守』とあるから官職が一致する(基之は従五位下侍従・右京大夫で前後にも上総守はいない)。

彼は宝暦七(一七五七)年に父基業の死去によって家督を相続、明和二(一七六五)年に第十代将軍徳川家治に御目見、安永五(一七七六)年七月に高家職に就いている(この時は従五位下侍従・下野守)。文化三(一八〇六)年十二月十五日には高家肝煎(こうけきもいり:奥高家の中から有職故実・礼儀作法に精通していた三名を選んだ、俗に「三高」と呼ばれる高家の上位者。「忠臣蔵」で頻りに出る「高家筆頭」という呼称は実は誤りである。天和三(一六八三)年に大沢基恒・畠山義里・吉良義央が選ばれたのが始まり。但し、高家肝煎となる家は固定されていたわけではない。ここはウィキの「高家」に拠る)となっている。『正妻は松浦正致の娘。後妻は京極高永の養女。次男基隆、三男基休(実兄基隆の養子)ら三男二女あり』とある(下線やぶちゃん)。これは以上と次の注に示した「右膳」の事蹟からも、底本の鈴木氏の大沢本家の大沢基之という同定は誤りであり、長谷川氏の大沢基季が正しい

・「大澤上總守跡、今は右膳といへる人」これは大沢基季の三男である高家旗本大沢基休(もとやす ?~天保一四(一八四三)年)である。ウィキの「大沢基休」によれば、『通称は孝之助、右膳。官位は従四位上侍従・修理大夫』(下線やぶちゃん)。文化六(一八〇九)年六月三日の実兄基隆(岩波の長谷川氏注には「基靖」とする)の死去により、末期養子として家督を相続、文化一一(一八一四)年一一月十四日に『高家職に就き、従五位下侍従・修理大夫に叙任する。後に従四位下、次いで従四位上に昇進』したが、文政一三(一八三〇)年三月七日に高家を解任され、差控を命ぜられている(「差控」(さしひかえ)は武士や公家に科せられた制裁の一つで、勤仕より離れ、自家に引き籠って謹慎することをいう。門を閉ざしはするが潜り門から目だたぬよう、出入りは出来た。比較的軽い刑罰乃至懲戒処分として職務上の失策を咎めたりしたケースや、親族・家臣の犯罪への縁坐・連坐での処罰として適応された。自発的にも行われ、親族中、一定範囲の者又は家臣が処罰を受けると、その刑種によっては差控伺(さしひかえうかがい)を上司に提出して慎んで指示を待ったという。以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。『子女に養子基道あり』とある。「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月であるから、執筆当時がまさに丁度、高家職に就く直前であったことも分かる。だから「元高家」なのである。

・「目白」豊島区西部に位置する。古くは神田上水の北側の大地一帯を指した。そこある五色不動の一つ「目白不動」で知られた真言宗金乗院(こんじょういん:現在の豊島区高田。)に因んでの地名である。後に北豊島郡長崎町・高田町・雑司ヶ谷町・巣鴨町の各一部を成した後、旧地名の目白が復活した。

・「四五尺」一メートル二十センチから一メートル五十センチほど。

・「沒字」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『梵字』で頗る腑に落ちる。これで訳した。

・「文明七年」西暦一四七五年。話柄内時間からは三百三十四年も前、戦国時代真っ只中である。

・「隣の寺」底本の鈴木氏注に、『三村翁「大沢氏の隣寺は、黄檗宗竜泉山洞雲寺といひたり。」』とある。岩波の長谷川氏注に、『嘉永図に音羽町八丁目西裏、洞雲寺隣に大沢城之助邸あり』とある。大沢基隆の通称は陽之助、基休は孝之助であるから、この城之助という名はその子孫を感じさせる名ではある。なお、この寺は近代になって豊島区池袋に移転したものの、現存する(松長哲聖氏のサイト「猫のあしあと」の同寺の頁)。この音羽町はその一~九丁目が現在の音羽一・二丁目、小日向三丁目、目白台三丁目に相当するが、切絵図で見ると「大沢城之助」の抱え屋敷の位置は、椿山荘の西、現在の関口三丁目(すぐ直近の東北部で音羽一丁目に繋がる)附近であることが分かる。但し、怪異が起ったのはここではなくて、ここから少し西北に行った場所に「抱屋鋪」はあったように私には読めるのであるが、如何? 即ち、この比較的広い屋敷地がこの大沢分家の正規の拝領屋敷で、そこからほど遠からぬ郊外の目白に、この別邸を持っていたという読みである(普段は人が住んでいない感じだからである。但し、人文社の「耳嚢で訪ねる もち歩き 裏江戸東京散歩」(二〇〇六年刊)ではこの屋敷を怪異の場所に特定している。確かにここは直近で現在の目白台に接してもいるのである)。さても、ここなのか? ここでないのか? 識者の御教授を乞うものである。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 武家の抱え屋敷にて古碑を掘り当てた事

 

 文化六年の頃、元は高家を勤めておられた大澤下総守(かずさのかみ)基季(もととし)殿の跡を継がれた、今は右膳(うぜん)と申さるる御方の、下屋敷が目白に御座った。

 これ、いたって草木の鬱蒼と茂ったる地にて御座って、古池などもあり、この池がまた、すこぶる寂寞(じゃくまく)たる古池で御座る由。

 屋敷守(もり)がおり、それは百姓の出の者で御座ったと申す。

 しかるに、この屋敷地の中で、何かが、不気味に唸るような声を挙げること、これ、ある時より毎夜毎夜のことで御座ったによって、その屋敷守、これ、はなはだ不審に思い、その夜な夜な唸り声の響いて参る元と思わるる地所を、これ、何日かかけて探し出だし、そこを職人に命じ、四、五尺も掘らせてみた。

 すると、これ、

――石塔が二つ

掘り出だされた。

 一つの面に彫られた字は梵字の如くに見えたが、種子(しゅじ)を特定するほどには、これ、文字の定かでは御座らなんだ。

 今一つは、これ、

――文明七年八月――

という年号が、これ、はっきりと読み取れた。

 戒名も彫られてはあったが、これはいたく潰れて判読出来なんだと申す。しかしながら、その文字の中に

――尼――

と申す文字(もんじ)が、これ、朧げに見てとることが出来た。

 ところが……である。……

 この屋敷守、その墓石と思しい二つの石塔を掘り出したる、まさにその日の夜(よる)の夢に、全く見知らぬ人が、これ、夢の中にかの男を訪ねて参り、

「……これ以上……かの所を……掘ろうと致さば……命を落とすことと……相いなろうほどに……」

と告げたかと思うと――目が醒めた。

 されば屋敷守、これ、大いに恐れて、かの出土した石碑二基は、屋敷主人の大澤殿の御屋敷へ送り届けた。

 大澤殿は、屋敷守より、かの抱え屋敷の怪異の一部始終、これ、じかに聴き及びになられ、ともかくもと、その御屋敷の隣りに御座った洞雲寺と申す寺へ納めさせたと申す。

 ところがこれまた、

――妖しき謂われのある古き石塔が二つ、洞雲寺さんに持ち込まれた――

申す噂が、これ、流行り病い如(ごと)、瞬く間に知れ渡り、見物の者どもが雲霞の如く洞雲寺へ押し寄せ、境内地へは勝手に入り込み、ゴミは散らかすわ、大騒ぎはするわで、遂に、

――文明七年八月銘石塔見学不可也――

と制札を立て、檀家以外は境内への出入りをも差し止めるまでになって御座った由。

 とある御仁の物語りで御座った。

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