耳嚢 巻之十 豪傑の貞婦の事
豪傑の貞婦の事
尾陽(びよう)公藩中に父子勤(づとめ)にて、其姓名も知れぬれども、猥りに書載(かきのせ)んも如何(いかが)と除(のけ)き。悴の方(かた)近頃同藩中より妻を迎へけるが、甚(はなはだ)美色にて其中も和合なしける由。しかるに、右の家來の内、幼年より召仕(めしつか)ひ、兩親の存寄(ぞんじより)にも叶ひ寵愛受けるに、彼(かの)家來儀、不屆(ふとどき)にも主人の娵(よめ)へ懸想(けさう)して時々密通を申懸(まうしかけ)しに、彼(かの)娵一向請付(うけつけ)ず恥(はづか)しめ置(おき)しが、餘り度々の事故(ゆゑ)夫(をつと)へも右の儀を申(まうし)けれども、父母の愛臣なればよくよく心得違(こころえちがひ)を諭し候申(まうす)ゆゑ、其後姑(しうとめ)に内々語りければ、彼れは幼年より召仕候ものにて、かゝる事はあるべからずと不取合(とりあはざる)故、其儘にて過行(すぎゆく)内、彼(かの)者は兎角に不相正(あひたださず)、其後も不義申掛(まうしか)け、或日夫は當番の留守、舅姑(しうとしうとめ)も外に罷越(まかりこし)、さるにても彼(かの)者定めて又々不埒可申懸(まうしかくべし)と、いさゐの譯を書殘(かきのこ)し、其身の着類(きるい)爐(ろ)にかけて臥し居(をり)しに、果して彼(かの)もの來りて猶(なほ)密通を申懸(まうしかけ)し故、度々懸想の儀、憎(にく)からず思ひぬれば今宵は心に任すべしと、甘言(かんげん)を以(もつて)、床の内に臥(ふせ)らせ、心懸し短刀を以(もつて)、束(つか)も研よと突(つき)ければ、あへなく相果(あひはて)し故、右書置(かきおき)を行燈(あんどん)に張置(はりおき)て、其身の衣類を爐より取りて着替(きがへ)いたし、密(ひそか)に宿を立出(たちいで)、里へ歸りて、まづ覺悟の事なれば自害可致(いたすべし)と申せしを、人々差留(さしとめ)て、其事頭向(かしらむき)へ申立(まうしたて)、今(いま)取調(とりしらべ)中の由。藩中主役の人、文化十酉年の春、語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:老いた未亡人と美童の丁稚の道ならぬ恋から、主人の新妻に不倫を仕掛けるストーカー家来という点で淫らに連関しているように読める。
・「尾陽公」尾張藩名古屋徳川家。文化十年春の頃は第十代藩主徳川斉朝(なりとも 寛政五(一七九三)年~嘉永三(一八五〇)年:第十一代将軍徳川家斉の弟で一橋家嫡子だった徳川治国の長男)である。但し、彼はこの文化十年八月十五日に家督を斉温(なりはる:家斉の十九男で従弟に当たる。)に譲って三十五歳の若さで隠居、以後、名古屋で二十三年間に亙る隠居生活に入った。但し、次代の藩主斉温が一度も尾張入りしなかったため(彼は病弱を理由に江戸藩邸に常住、襲封後嘉永三(一八五〇)年に二十一の若さで死去するまでの十二年間、第十一代尾張藩主でありながら、何と一度も尾張藩領内に入らなかった)、その後も「大殿」として隠然たる力を持ったとされる(以上はウィキの「徳川斉朝」及び「徳川斉温」に拠った)。
・「兩親の存寄にも叶ひ」「存寄」は自分や身近な者の意見や気持ち。ここは両親がとても気に入っていたことをいう。
・「束も研よ」底本には「研」の右に原典のものと思われる、丸括弧がついていない『ママ』注記がある。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『束も碎けよ』となっている。バークレー校版で「柄も砕けよ」と訳した。
・「文化十酉年の春」文化一〇(一八一三)年癸酉(みずのととり)。「卷之十」の記載の推定下限は翌文化十一年六月であるから、ホット――だから――取り調べ中――な実録である。
■やぶちゃん現代語訳
豪傑の貞婦の事
尾陽(びよう)公徳川斉朝(なりとも)様御藩中に、父子勤めにて、その姓名も知って御座れども、猥(みだ)りに書き載せんもこれ、如何(いかが)なものかと存ずれば、ここでは敢えて伏せおくことと致す。
その伜の方が、これ近頃、同藩中家士の家より妻を迎えて御座ったが、はなはだ美麗なる奥方にて、その夫婦仲も至ってよろしゅう御座ったと申す。
しかるに、その家来が内に、幼年より召し使い、両親もすこぶる気に入っており、殊の外、寵愛なしておった者のあったが、この家来、不届きにも、何と、この若主人の新妻へ懸想(けそう)致いて、しばしば秘かに密通を申し懸けて御座ったと申す。
が、かの嫁、これ一向、相手にせず、逆に無礼なり! と厳しく叱咤なし、けんもほろろに恥ずかしめおいて御座ったのであったが、それがまた、あまりにたび重なって言い懸けて参ったによって、遂に夫へ、このけしからぬ仕儀を、有体(ありてい)に訴え出た。
ところが、夫は、
「……かの者はこれ……父母の愛臣なればのぅ……まあ、たまたま……魔が差した、と言うことであろう。……よくよく心得違いを諭しておくによって。……まあ、ここは一つ、穏やかに、の。……」
などと申すばかりにて埒(らち)の明かねば、思い切って姑(しゅうとめ)へも内々に訴えて御座った。
ところが、姑はこれ、
「――かの者は幼年より召し使(つこ)うて参った忠義の者じゃ!――そのような聴くもおぞましき不埒なこと、これ、致そうはず、これ、ありませぬ!!」
と、逆に叱られ、これまた、一向に取り合わなんだと申す。
されば結局、そのままに成す手ものぅ過ぎ行くうち、かの者は、これ、夫の諫めなど、どこ吹く風、夫両親の盲目の溺愛をいいことに、全く以って行状を正そうともせず、その後もまた、例の通り、不義密通をことあるごとに申し掛けて御座った。
さても、そんなある日のことであった。
夫は城中当番の留守にて、しかも舅姑(しゅうとしゅうとめ)もこれ、親族が方へ用向きのあって帰り深更に及ぶこととなり、結局、屋敷内にはこれ、下人以外には嫁とかの家来ばかりという事態となって御座った。
さればかの嫁、
『……さるにてもこれ、かの者、またしてもきっと、不埒なる仕儀、これ、申し懸かけて参るに相違ない。……』
と思いたち、まずは、これより己れの成さんとする委細の事情を縷々書き残した上、その身の衣類は香爐に掛けおき、横になって、かの家来の参るを、待って御座ったと申す。
すると、はたして、かの者の来って、またしても不義密通を申し懸けて参った。
ところが嫁は、
「……たびたびの懸想の儀……妾(わらわ)……実はこれ……憎からず思うておりましたのじゃ。……されば今宵は……そなたのみ心のままに……これ……任そうと存じまする。……」
と、甘言(かんげん)を弄した振りを致いて、
「……さあ……どうぞ……おいでなさいませ……」
と、徐ろに床の内へと招き入れ、横に添い臥せさせた……と! その瞬間!――かねてより用意して御座った短刀を、
――シャッ!
と引き抜くや、
「――柄(つか)も砕けよッツ!」
と叫びつつ、一気に男の胸元を突いた!……
……されば、その下らない奴は――これ――あえなく相い果てて御座った……。
そこで嫁は、先の書き置きを目立つように行燈(あんどん)に張りつけおき、その貞節を守った穢れなき身には香を雅びに焚き染(し)めた上着を、かの爐の上より取って着替え致いて、遺体をそのままに一人そっと屋敷をたち出でると、実家へと戻って行った。
実家へ帰った女は、これ、自身の父母に目通りするや、
「……かくかくの訳にて御座いますれば――まず覚悟の事なればこそ――これより自害致しまする。――」
と口上を述べたが、無論、両親始め家中の人々、こぞってこれを差し止めさせた。……
そうして、その顛末につき、藩の勘定方上席の役人へと委細申し立て――そうさ、今もまさに――その取り調べの真っ最中――とか。……
以上は、尾張藩中の重役の御仁が、文化十年酉年の春に語っておられた、正真正銘の実話にて御座る。
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