『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 文覺屋敷蹟
●文覺屋敷蹟
文覺屋敷蹟は大御堂の西にて座禪川に邊(へん)せり。濶一町許神護寺の文覺か居蹟なりと云傳ふ。
[やぶちゃん注:鎌倉青年団の碑は雪ノ下四丁目、金沢街道から大御堂(おおみどう)橋を渡った先にある。「新編鎌倉志卷之二」には、
○文覺屋敷 文覺屋敷は大御堂(をほみだう)の西の方、賴朝屋敷の南向ふなり。文覺、鎌倉に來て、此所に居すとなり。【東鑑】に、養和二年四月廿六日、文覺上人、營中に參す、去る五日より、三七日斷食して、江島(えのしま)に參籠し、懇祈肝膽を砕き、昨日退出すと云ふ。是れ鎭守府の將軍藤原の秀衡(ひてでひら)調伏のためなりとあり。文覺の傳、【元亨釋書】にあり。
と載り(「三七日」は掛け算で二十一日)、「鎌倉攬勝考卷之九」では、
文覺旅亭舊跡 大御堂より西の方を、土人等舊跡なりといへり。文覺は京師の高雄に住せしが、養和二年四月廿六日、右大將家の請に依て下向し、此間江島に籠り斷食し、肝膽をくだき修法申せしゆへ、今日御所へ參りし事あり、又無程歸洛せり。扨此文覺は、心たけき人にて、鳥羽院の御行狀をうとみ、後高倉院を御位につけ奉らんと思ひけれども、賴朝卿のおはしけるゆへ、思ひも立られず、斯く正治元年正月うせ給ひしかば、頓て謀反を起さんとせしが、露顯して捕へられ、八十餘にして隠岐國へ流され、彼國にて失けりといふ。賴朝卿の薨逝は正月の事にて、文覺が流されしは同じき四月の事なりといふ。此所に住せしにあらず。
(「頓て」は「とみにて」或いは「にはかにして」と訓じているものと思われる)とあって、植田孟縉(もうしん)は史跡性を斬って捨てていて頗る痛快である。なお、伝承ではこの北の滑川河岸で文覚が座禅を組んだとされることから、この附近の滑川を座禅川と呼称している。]
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