日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十七章 南方の旅 大阪で出土した刳り舟のデッサン(後に空襲によって焼失した) / 第十七章 了
図―610[やぶちゃん注:最上段の図。]
図―611[やぶちゃん注:中段の図。]
図―612[やぶちゃん注:最下段の図。]
大阪では、天産物と製造物との展覧会が開かれつつあり、各種の物品で一杯だった。日本人の特性は、米国と欧洲とから取り入れた非常に多数の装置に見られた。ある国民が、ある装置の便利さと有効さとを直ちに識別するのみならず、その採用と製造とに取りかかる能力は、彼等が長期にわたる文明を持っていた証例である。これを行い得るのは、只文明の程度の高い人々だけで、未開人や野蛮人には不可能である。この展覧会には、大阪附近で発掘した舟の残部が出ていた。保存された部分は、長さ三十五フィート、幅四フィート半、深さ二フィートである。それは相鉤接した三つの部分から出来ていたが、その二部分を接合させる棒が通りぬける為の横匝線が残るように、木材が舟底で細工してあった。大分ひどく腐蝕していて、その構造の細部は鑑識が困難であった(図610・611・612)。それは千年以前のものとされていた。現在でも鹿児島湾で二つの部分に分たれた舟を見受けるのは、不思議である(図568)。
[やぶちゃん注:この物産博覧会については不詳。識者の御教授を乞う。ここでモースが実見し、スケッチを残した三箇所で巧妙に接合された複雑な丸木舟(刳り舟)はウィキの「丸木舟」に載る、浪速区難波中(なんばなか)三丁目の鼬川からこの前年の明治一一(一八七八)年に出土した残存長十二メートル程の刳舟とあるもので、これは第二次世界大戦の『空襲で焼けてしまったが、当時日本に在住していたモースも見学しておりスケッチや写真などが残されている』とある。モースのこのスケッチは発掘初期の形状を伝える貴重な一枚なのである。
「長さ三十五フィート、幅四フィート半、探さ二フィート」全長一〇・六七メートル、幅約一六・四六センチメートル、深さ(外側上部からキールまでの円錐深、所謂、型深さであろう)一メートル三十七センチメートル。前注にある通り、実物の全長をやや短めに採っている。
「相鉤接」「あいかぎつぎ」と訓じていよう。
「図568」「第十六章 長崎と鹿児島とへ 当日の錦江湾ドレッジ」の当該図を参照のこと。
「千年以前のもの」明治一二(一八七九)年から千年以前は延暦年間(例えば平安遷都は延暦一三(七九四)年)であるが、この接ぎ刳り舟はもっと古い(古墳時代末期の七世紀末)可能性もあるように思われる。]
蚊は日本に於る大禍患である。既に述べた大きな、四角い、箱に似た網のお陰で、人はその中に机と洋燈とを持ち込んで坐ることが出来る。私は、夏と秋とは、このようにして書き物をすることが出来た。
[やぶちゃん注:「大禍患」「だいかかん」と読み、大きな厄(わざわ)い、災難、不幸のこと。
「大きな、四角い、箱に似た網」蚊帳。モースは夏季は洋室でも大きな蚊帳を吊っていたことが分かる。]
私の子供達は、彼等自身の衣服よりも夏涼しいというので、早速日本服を着用した。日本人の大学教授の多くも、長い袖や裾のある和服よりも洋服の方が便利だとて、洋服を着ているが、それにもかかわらず、和服は夏涼しく冬温かいことを発見し、寒暑の激しい時には和服を着る。
[やぶちゃん注:以上を以って「第十七章 南方の旅」が終わる。]
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