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2015/03/12

耳嚢 巻之十 油煙齋狂歌の事

 油煙齋狂歌の事

 

 油煙齋(ゆえんさい)は京都筆屋なりしが、狂歌に妙あつて、右齋號も禁中より被下(くだされ)しといふ。〔虛實は知らず。〕或年の暮に、鼠のさわぎけるを聞き、

  我さへも一斗の餅はつかぬのにたなで鼠は五斗つきにけり

と咄しけるに、側に聞(きけ)る人、太閤秀吉公朝鮮征伐のおりから、けふは渡海ありあすは渡海と日々の取沙汰の節、曾路里が狂歌に、

  太閤が一石米をかひかねてけふも五斗かひあすもごとかひ

とある書にて見たり、同案といつて一笑なしぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。狂歌シリーズであるが、これは少し素直に狂歌に興じた今までのものとは変格である。何故なら、この評者、油煙齋の狂歌が実は曽呂利の二番煎じでしかないと、暗に、というかあからさまに皮肉っているようにしか私には読めないからである。

・「油煙齋」底本の鈴木氏注に、『三村翁曰く「貞柳は鯛屋山城掾とて菓子屋なり、一年南都を松井和泉といふ、油煙所より、墨を大内へ奉りし時、月ならで雲の上まですみのぼるこれはいかなるゆゑんなるらん、と詠みて、雲井より由縁斎と賜号ありしなり。」油煙斎貞柳は大坂の狂歌師。通称永田善八。信来、珍菓亭など別号多し。俳諧師貞因を父とし、狂歌は豊信坊信海に学んだ。享保十九年没、八十一。なお浄瑠璃作者として有名な紀海音は貞柳の弟。「月ならで」の狂歌のことは、松崎慊堂も文政八年七月朔日の日記に記している。当時評判が高かったことがわかる』とある。鯛屋貞柳(承応三(一六五四)年~享保一九(一七三四)年)は大坂は鯛屋という屋号の菓子商(「筆屋」は誤り。三村翁の引く斉号由縁の狂歌に引かれた誤りか。訳では事実に即して訂した)の出で、上方の狂歌壇の第一人者であった。個人サイト「摂津名所図会」の「油煙斎貞柳蹟」に詳しいので参照されたいが、本文に「右齋號も禁中より被下しといふ」もその「虛實は知らず」とあるものの、ここには『親友の奈良古梅園の主人松井氏の依頼で、古梅園の墨を霊元法皇に献上する際に付けた狂歌が褒められ、法皇に油煙斉の号を賜った』とあるので事実。霊元天皇(承応三(一六五四)年~享保十七年八月六日(グレゴリオ暦一七三二年九月二十四日)は第百十二代天皇(在位は寛文三(一六六三)年~貞享四年三月二十一日(一六八七年五月二日))。退位後の期間が長く、「仙洞様」と呼ばれることが多い。歌人で能書家でもあった。貞享四(一六八七)年に朝仁親王(東山天皇)への譲位に漕ぎつけた後、仙洞御所に入って院政を開始したと、ウィキの「霊元天皇」にあり、上記の引用から考えると、貞柳が齋号を賜わったのは貞享四(一六八七)年以降、享保一七(一七三二)年八月六日迄の四十五年に及ぶ院政期の折りということになる(貞柳と霊元天皇は同年齢である)。「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年であるから、没年から起算しても八十年、凡そ百年前のえらく古い話である。

・「我さへも一斗の餅はつかぬのにたなで鼠は五斗つきにけり」は、

 われさへも いつとのもちは つ(搗)かぬのに たな(棚)でねずみは ごとつきにけり

で、ねずみがごとごと音をさせるのを餅を「五斗搗く」に掛けたもの。

・「朝鮮征伐」文禄慶長の役(文禄元(一五九二)年から慶長三(一五九八)年にかけて行われた豊臣政権による朝鮮への侵略戦争。

・「曾路里」秀吉に御伽衆(おとぎしゅう:主君に側近として仕え、政治・軍事の相談役となった他、武辺話や諸国の動静を報告したり、世間話の相手をも務めた中世に生じた職掌。謂わば彼らこそがまさに都市伝説(アーバン・レジェンド)のルーツと言える存在である。)として仕えたとされる曽呂利新左衛門。ウィキの「曽呂利新左衛門」によれば、『落語家の始祖とも言われ、ユーモラスな頓知で人を笑わせる数々の逸話を残した。元々、堺で刀の鞘を作っていて、その鞘には刀がそろりと合うのでこの名がついたという(『堺鑑』)。架空の人物と言う説や、実在したが逸話は後世の創作という説がある。また、茶人で落語家の祖とされる安楽庵策伝と同一人物とも言われる』。茶道を堺の豪商で茶人として千利休の師とされる武野紹鷗(たけのじょうおう)に学び、『香道や和歌にも通じていたという(『茶人系全集』)。『時慶卿記』に曽呂利が豊臣秀次の茶会に出席した記述がみられるなど、『雨窓閑話』『半日閑話』ほか江戸時代の書物に記録がある。本名は杉森彦右衛門で、坂内宗拾と名乗ったともいう』。『大阪府堺市市之町東には新左衛門の屋敷跡の碑が建てられており、堺市内の長栄山妙法寺には墓がある』。没年は慶長二(一五九七)年・慶長八(一六〇三)年・寛永一九(一六四二)年など諸説ある、とある。

・「太閤が一石米をかひかねてけふも五斗かひあすもごとかひ」「一石」に「一国」を掛け、「五斗かひ(買ひ)」に「御渡海」を掛ける。なお、この狂歌を含む類話は「理斎随筆」(幕閣の儒者志賀忍理斎(宝暦一二(一七六二)年~天保一一(一八四〇)年)天保九(一八三八)年刊)に載る。訳の後にそれを附した。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 油煙齋(ゆえんさい)狂歌の事

 

 油煙齋は京都の菓子屋であったが、狂歌に妙なる業(わざ)のあって、かの齋号も狂歌の出来の宜しきにより、特に禁中より下されたとも申す(注―それが事実か否かは不分明。)。

 さても、とある年の暮れ、とある屋敷内(うち)にて油煙齋、歓談せる折りから、天井やら高き棚の辺りやらを、鼠の、これ、音をたてて頻りに騒ぎ走りおるを聴き、

 

  我さへも一斗の餅は搗かぬのに棚で鼠は五斗搗きにけり

 

と一首ものして御座った。

 すると、傍らにてこれを聴いたる、さる御仁、

「……ほほぅ……これはこれは。……さても、かの太閤秀吉公が朝鮮征伐の折りから、

『……今日は渡海あるか?……さもなくば、明日は渡海か?……』

と、これ、毎日のように五月蠅く取沙汰致いておられた折り、かの曽呂利新左衛門、狂歌をものし、

 

  太閤が一石米を買ひ兼ねて今日も五斗買ひ明日も五斗買ひ

 

と詠んだと、とある書にて我ら、見申したが。……いや、まあ、それと、これ、同案で御座る、の。……」

と言って一笑なした、とのこと。

 

■附記

[やぶちゃん注:志賀忍理斎「理斎随筆」巻之二の冒頭から二番目に載る曽呂利咄を示す。底本は昭和五一(一九七六)年吉川弘文館刊「日本随筆大成」(第三期第一巻)を用いたが、恣意的に正字化した。読みは底本の内、読みの振れると私が判断したもののみを附した(狂歌部分は本テクスト化に準じて総て外し、注で示した)。]

 

 秀吉朝鮮を征し給ふとき、今日御渡海(ごとかい)あるや、明日御渡海あるべしや、などと世上風説せしかば、堺の鞘師(さやし)曾呂利新左衞門(そろりしんざえもん)といへる滑稽者(こつけいしや)、鞘(さや)を製する事上手にて、いかなる鞘にてもそろりとあんばいよく刄(は)這入(はい)るとて、字(あざな)して曾呂利と呼ばれしものなり。されば其頃渠(かれ)が戲(たは)れ歌に、

  太閤が壹右米を買かねてけふもごとかいあすもごとかい

と申けるよし、秀吉傳へ聞かれ大(おほき)に憤りて、曾呂利を召されて糺し給ひけるは、落首抔はむかしよりある習(ならひ)なれば、上をはゞからざる處も是非なければ許すべし。我(われ)今(いま)一天(いつてん)の君(きみ)を補佐し奉る所の關白職たるを、太閤がとは過言(くわごん)はなはだし、責(せめ)ては太閤のなどならば、すこしは許す處もあるべきにと嚴しくいかり仰(おほせ)ければ、曾呂利少しもおそれずして、曰、君(きみ)と天子とはいづれが尊くおはしまし候哉(や)と申上けるに、それは知れたる事にて、我は臣下なり。いかで天子と比(ひ)する事の有べきやと。曾呂利曰、しからば左(さ)のみ怒り給ふことあるべき哉。すでに天子の御事(おんこと)をさして、君が代は、君がためなどともふすにては候はず哉と申上ける故、其秀才を深く愛し給ひて、此後(こののち)は太閤の傍(かたはら)に侍して御伽(おとぎ)をなし、色々おもしろき滑稽あり。よく人の知る處なり。曾呂利すでに病(やまひ)重り、今はに及びしとき、何なりとも望あらば申せ、かなへて遣さんとありしかば、

  御威勢で三千世界手に入らば極樂淨土われに給はれ

と御請(おんうけ)して、其後(そののち)程なく果(はて)たりとかや。

 

■やぶちゃん注

●「曾呂利新左衞門(そろりしんざえもん)」「え」はママ。

●「太閤が壹右米を買かねてけふもごとかいあすもごとかい」は、底本では、

 太閤(たいかふ)が壹右米(いちこくごめ)を買(かい)かねてけふもごとかいあすもごとかい

とルビが振られてある。「かい」のルビと下句末尾の「かい」は孰れもママである。

●「太閤がとは過言はなはだし、責ては太閤のなどならば、すこしは許す處もあるべきに」国語学上、格助詞「が」は同じ格助詞「の」と似ているが、「の」は中世以前は用言の連体形には接続せず、広く準体言に附いたが(この用法にあっては体言に準ずる意味を表わすことから準体助詞とも呼ばれる)、逆に「が」は中世以前は準体言には附かなかった。さて、この格助詞「が」の内、主格を示す「が」が人を表わす名詞に附いた場合は、元来はその人に対する親愛の情を示し、その親愛感情が親近から更に低位へと移行し、後には軽侮の気持ちを現わすようになってしまった。それに対して「の」の方は尊敬の念が一貫して保存され、この尊卑の表現差は室町末期頃まで認められる(以上は、私の大学時代から愛用の角川書店昭和五〇(一九七五)年刊久松・佐藤編「古語辞典」の格助詞「の」・「が」の項に拠る)。秀吉はこのことを問題としたわけで、安土桃山という、まさに「の」「が」の尊卑表現差の消失時期なればこその面白味とも言えよう。但し、曽呂利の「すでに天子の御事をさして、君が代は、君がためなどともふすにては候はず哉」は答えとして的を射ていない。「君が代」の「が」は同じ格助詞でも所有・所属を表わす連体修飾格の用法であって、格助詞ではないからである。秀吉公――私と同じで文法は、これ、苦手でご猿(ざる)か?――

●「重り」は「おもり」であろう。

●「御威勢で三千世界手に入らば極樂淨土われに給はれ」は、底本では、

 御威勢(ごゐせい)で三千世界(さんぜんせかい)手に入らば極樂淨土(ごくらくじやうど)われに給はれ

とルビが振られてある。

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