日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十九章 一八八二年の日本 三度目の来日(1)
この私の全注テクストも残り8章……正直、終わるのが――いや――
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第十九章 一八八二年の日本
二ケ年と八ケ月留守にした後で、一八八二年六月五日、私は三度横浜に到着し、又しても必ず旅行家に印象づける音と香と光景との新奇さを味った。日本の芸術品を熱心崇拝し、そして蒐集するドクタア・ウィリアム・スターギス・ビゲロウが、私の道づれであった。我々が上陸したのは夜の十時だったが、船中で死ぬかと思う程腹をへらしていた我々は、腹一杯食事をし、降る雨を冒して一寸した散歩に出かけた。ホテルに近い小川を渡り、我々は本村と呼ばれる狭い町をブラブラ行った。両側には小さな宿が櫛比しているのだが、その多くは閉じてあった。木造の履物をカタカタいわせて歩く人々、提灯(ちょうちん)のきらめき、家の内から聞える声の不思議なつぶやき、茶と料理した食物との香、それ等のすべてが、まるで私が最初にそれを経験するのであるかの如く、興味深く感じられた。
[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、明治一二(一八七九)年秋に帰米したモースは、翌一八八〇年七月三日にピーボディ科学アカデミー館長に就任(彼はこれより同館長を三十六年に亙って勤め、同アカデミー(現在のセーラム・ピーボディ博物館)を日本の民俗学資料コレクションの一大拠点に成し上げた)したものの、日本へのさらなる憧憬の止まなかった。磯野先生の叙述によれば、彼の内心の再々来日への最大の希求は、陶器や民具に対する抑え難い興味関心であったらしい。結局、アカデミーの理事会を東洋の民俗学的資料収集旅行という名目で説得、日本再訪を認めさせた。セーラムを離れたのは一八八二年四月二十五日で今回は家族は伴わず、単独(日本行きにはビゲローが同伴)であった(因みに、今回の、そして永遠の離日は翌明治一六(一八八三)年二月十四日で、その後は中国・東南アジア経由でヨーロッパへ向かい、マルセイユからパリを経てイギリスに行き、同年六月五日にいわば地球を一周してニューヨークへ戻った)。
「一八八二年六月五日」明治十五年。但し「六月五日」は六月四日の誤り。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、五月十六日にサンフランシスコをビゲローとともに「シティ・オブ・ペキン」号で出帆、十九日の航海であった。
「ドクタア・ウィリアム・スターギス・ビゲロウ」“Dr. William Sturgis Bigelow”既注であるが再掲しておく。ビゲロー(一八五〇年~一九二六年)はアメリカの日本美術研究家。ボストンの大富豪の家に生まれ、一八七四年にハーバード医学校を卒業したが、続く五年のヨーロッパ留学中に日本美術の虜となる。一八八一年に日本から帰国していたモースと知遇を得、生涯の知己となった。モースとともに明治一五(一八八二)年に来日、フェノロサとともに岡倉天心らを援助、膨大な日本美術の逸品を収集し、アメリカに持ち帰った。それらは死後にボストン美術館に寄贈されたが、このコレクションには、最早、国内では失われた北斎の版画の版木など日本美術の至宝と言うべきものである。滞在中(モースの離日後もビゲローは日本に滞在し、一時的帰国を挟んで明治二二(一八八九)年まで実に七年に及んだ。またその後も明治三十五年から翌年にかけても来日している)に仏教に帰依し、天台宗などの研究も行っている(主に磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の記載に拠った)。
「ホテルに近い小川」「ホテル」は、いつもの横浜グランドホテル(「第一章 一八七七年の日本――横浜と東京 1 モース来日早々「よいとまけ」の唄の洗礼を受く」の私の注を参照)で、「小川」は元町と山下町の間を流れる中村川(この辺りの下流域では堀川とも呼称する)である。
「本村」現在の横浜市中区元町。――この深夜の下駄や人の話声の音風景、燈火の視覚、茶と懐かしい日本料理の香りに、モースが恍惚とするさまが目に浮かぶ――]
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