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2015/03/31

耳嚢 巻之十 桂川家由緒の事

 桂川家由緒の事

 

 御醫師の桂川甫周(かつらがはほしう)は、外科(げか)なり。當時の甫周祖父の代、御當家へも召出し由。當時甫周弟子にて藩中を勤(つとめ)、當時甫周かたに修行致居(いたしをり)候嵐山甫隆(あらしやまほりゆう)といへるは、則(すなはち)甫秀先祖の師匠にて、甫周先祖森島を名乘(なのり)、右甫隆先祖の弟子にてありしが、師家は衰(おとろへ)候て、甫周家は段々高運にて御當家へも召出(めしいださ)れしが、師匠嵐山の高恩を請(うけ)し故、嵐山の下を流るゝといふ心にて桂川と名乘候由。依(より)て同人紋所は ∴▲ 如斯(かくのごとく)にて、 ▲ は森の由、 ∴ は島の由、是を定紋(ぢやうもん)に付(つけ)候由、甫周物語りなり。

[やぶちゃん字注:「∴▲」の箇所は底本では右上に「∴」が左下に「▲」が配されてある。但し、上付き・下付きのような有意に小さなものではないので、ここでは敢えてかく表示した。]

 

□やぶちゃん注

○前項連関:医事関連で極めて軽くは連関すると言える。「桂川」に「嵐山」で嘘っぽく感じる向きもあろう(私も初読時、そうであった)が、これ、メインの叙述は事実である。以下の私の注を参照されたい。ここに記されたような桂川家の家紋は捜し得なかった。識者の御教授を乞う。

・「外科」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『外料』で「ぐわいりやう(がいりょう)」、外科と同義であるが、今までの「耳嚢」の記載を見る限りでは、私は底本は「外料」の誤写であるように思う。

・「桂川甫周」(宝暦元(一七五一)年~文化六(一八〇九)年六月二十一日)は医師で蘭学者。桂川家第四代当主。名は国瑞(くにあきら)、甫周は通称。月池・公鑑・無碍庵などの号を用い、字は公鑑。弟に、蘭学者で戯作者、平賀源内の門人でもあった森島中良がいる。以下、参照したウィキの「桂川甫周」によれば、桂川家は、第六代将軍徳川家宣の侍医を務めた桂川甫筑(ほちく)以来(甫周は四代であるが、本文の「甫周祖父」は甫筑のことである。後注参照)、代々将軍家に仕えた幕府奥医師で、特に外科の最高の地位である法眼を務め、蘭学書を自由に読むことが許されていた。『桂川甫三は、前野良沢・杉田玄白と友人であり、解体新書は甫三の推挙により将軍に内献されている』。明和八(一七七一)年二十一歳でオランダの医学書「ターヘル・アナトミア」(「解体新書」)の翻訳に参加、安永三(一七七四)年の刊行に至るまで続けた。 安永五(一七七六)年には、『オランダ商館長の江戸参府に随行したスウェーデンの医学者であるカール・ツンベルクから中川淳庵とともに外科術を学び、ツンベルクの著した『日本紀行』により甫周の名はとともに海外にも知られることとなる』。天明四(一七八四)年、三十四歳の時「万国図説」を著し、『教育者としても優れ、幕府が設立した医学舘の教官として任じられた他』、享和二(一八〇二)年には「顕微鏡用法」を著し、『顕微鏡を医学利用した初めての日本人として知られるとともに、その使用法の教授を将軍徳川家斉等に行い普及に努めた。また、オランダ商館長から贈られた蝋製の人頭模型を基に、日本初の木造人頭模型の作成を指示したなどの功績が有る』。寛政四(一七九二)年、『ロシアから伊勢国の漂流民である大黒屋光太夫、磯吉が送還され』、翌年、『将軍家斉は吹上御所において光太夫らを召し出して謁見をした。「かの国(ロシア)では日本のことを知っているか」との質問に光太夫は「いろいろな事をよく知っています。……日本人としては、桂川甫周様、中川淳庵様という方の名前を聞きました。日本の事を書いた書物の中に載っているとの』ことです」と答えたという。この時の書記役はまさに甫周自身で、その問答は「漂民御覧記」として彼によって纏められている。『のちに光太夫を訪ね詳しい話を聞き取り』、「北槎聞略」を編んで将軍に献上している。他に「新製地毬萬國圖説」「地球全図」「魯西亜志」などの外国地理に関する訳書もあり、『また、江戸時代の代表的な通人である十八大通の1人に名を連ねている。ただ一方で、甫周は才人にありがちな、やや狷介な側面もあったらしい。甫周が幼い頃教えを受けた角田青渓の子で、一時は同居し兄弟のように育った経世家・海保青陵は、甫周の才能にはとても敵わないと高く評価しつつも、才のない人とは話すことが出来ない人、とも評している』とある。因みに「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月であるから、彼が亡くなってちょうど五年目が経っている。なお、同ウィキには、桂川家に於いて「甫周」を名乗った者は二人いて、この四代目以外に第七代目もかく名乗っており、また五代目の桂川甫筑国宝(ほちく くにとみ)と称する者も一時期、「甫周」を名乗った記録があるとあるが、時代的にも底本の鈴木氏や岩波の長谷川氏注からも、この甫周は四代目であることは言を俟たない。

・「甫周祖父」桂川甫筑(寛文元(一六六一)年~延享四(一七四七)年)。医家桂川家の祖。大和生。名は邦教(くにみち)、字(あざな)は友之、号は興藪。京都で嵐山甫安に師事し、さらに長崎でオランダ人に学んだ。京都に移る際、師甫安の命で森島姓を桂川に改姓した。元禄九(一六九六)年甲府の徳川綱豊(家光の孫で後の第六代将軍家宣)に仕え、宝永五(一七〇八)年に幕府の奥医師となった(家宣の将軍就任は宝永六(一七〇九)年のことであるが、綱豊は宝永元(一七〇四)年十二月に正式な将軍世嗣と定められて「家宣」と改名、綱吉の養子となって、既に江戸城西の丸に入っていた)、後に法眼(ほうげん)(以上は主に講談社「日本人名大辞典」に拠った)。

・「嵐山甫隆」不詳。ここに書いてある通りなら、甫周の祖父甫筑の師であった嵐山甫安の末流ということになる(後注参照)。なお、嵐山甫安(寛永一〇(一六三三)年~元禄六(一六九三)年)は平戸生まれの蘭方医で、初め判田李庵と称し、後に京に出て改名した。平戸松浦(まつら)侯の侍医で長崎出島で蘭医に学び、修業証書を受け,寛文 一二 (一六七二) 年には法橋(ほっきょう)に叙せられている。著書に「蕃国治方類聚」(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

・「則甫秀先祖の師匠にて」記載がおかしい。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版ではここ、『則甫周先祖の師匠末流にて』とあって腑に落ちる。ここはバークレー校版で訳した。

・「嵐山の下を流るゝといふ心にて」岩波の長谷川氏注に、『京都西北郊(現西京区)の嵐山とその東を流れる桂川(大井川)に思いを寄せていう』とある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 桂川家由緒の事

 

 奥医師の桂川甫周(かつらがわほしゅう)は外科医である。

 当今の甫周の祖父である桂川甫筑(ほちく)の代、将軍家へ召し出されたと聞く。

 さても、その当今の甫周の弟子にて、とある藩中に勤め、当今、現に甫周の許にて修行致いておる嵐山甫隆(あらしやまほりゅう)と申す者は、これ則ち、その甫周の先祖たる甫筑の、これ、師匠筋の末流の者なのである。

 そもそも、甫周が先祖甫筑は、元来、「森島」という姓を名乗っており、その時は、この嵐山甫隆の先祖であった嵐山甫安の弟子であったのである。

 ところが、師匠の医家としての家筋はこれ、衰えてしまい、弟子であった甫筑の方は、今の甫周家に至るまで、だんだんに栄達の運気に恵まれ、かくも奥医にまで、これ、登りつめたのであった。

 されど、桂川家にては、この師匠嵐山氏の、山の如き御恩を受けたことなればこそ、

――高雅に聳える嵐山が下を、これ、ただただ平伏して流るる――

という心持ちを以って、これ「桂川」という姓を名乗ったのであると申す。

 しかもさればこそ、桂川甫筑の定めたる同家の紋所はこれ、

 ▲∴

といったような、何とも一風変わったものにて、実はこの、「▲」はこれ「森」を、「∴」はこれ、「島」を表わしておると申す。

 

「……これが、我が桂川家の定紋(じょうもん)の、由緒にて御座る。……」

と、生前の甫周殿の語っておられたを、ふと、思い出して御座ったによって以上、書き残しおくことと致そう。

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