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2015/03/05

耳嚢 巻之十 今大路家懸物の事

 今大路家懸物の事

 

 官醫今大路家に、曩祖道三教歌蹟(なうそだうさんきようかせき)とて懸物(かけもの)となし、神農會(しんのうゑ)には床に懸候事の由。右は道三自筆にて歌なり。

  長生は麁食正食ひゆたらり勝手次第に御屁めされよ

 當主も門人も、右歌の内、ひゆたらりといへる事、何の事と言(いふ)をしらず、相應の説をつけて申傳(まうしつた)へけるを、或時信州邊出生(しゆつしやう)の人來りて、是は如何成(なる)事哉(や)と尋(たづね)けるに、今大路の門人共も答(こたへ)に當感し、申傳へのみを何となく噺しければ、彼(かの)信州の翁のいえるは、我等或日山深き片田舍に至りしに、百歳餘の者有(あり)しに、長生の術も有(あり)哉(や)と尋しに、物しらぬ田舍人なれば其術もしらず、かゝる山奧なれば明暮(あけくれ)食する所は素食(そしよく)にて、元より何の望みもなければ心に勞する事もなく、かく長壽をなしぬといひしに、しかれども何ぞ長壽の益も有(ある)事もあらんと切(せち)に尋ければ、湯のあつきを不用(もちゐず)不吞(のまず)、火のあつきによらざるべしといひしが、ひゆたらりと云(いふ)は此事ならん、道三先生是をしりて、かく詠み置(おき)たまひしならんといひしにて、今大路家の者ども、始(はじめ)て此歌の心を、致知(ちち)なせしとなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。ただこれもここのところ、多い医師絡みである点(一つ前の「幽魂奇談の事」がそれ)、同じニュース・ソースが疑われる。

・「官醫今大路家」底本の鈴木氏注には、曲直瀬道三(まなせどうさん:次注参照。)の養子であった曲直瀬親清(まなせちかきよ)玄朔(げんさく)が『禁裏から橘氏及び今大路の家号を賜わった。親清の父正紹のとき徳川家光に近侍し、親清は幕府から七百石の領地を与えられ、その子親昌の時には千二百石になった。代々幕府の医師』とあるが、諸人名事典を見ると「親清」と「正紹(せいしょう)」は同一人物である。以下に、「朝日日本歴史人物事曲」のそれを引くと、曲直瀬親清(寛永八(一六三二)年~天文一八(一五四九)年)は安土桃山から江戸前期の医者で幼名は大力之助、名は正紹、号は東井、通称は玄朔、後に道三(二代)を襲名、院号は延命院、延寿院。初代道三の妹の子として京都に生まれ、幼くして両親を失い、道三に養育されて天正九(一五八一)年にその孫娘を娶って養嗣子となり、道三流医学を皆伝された。法眼・法印と進み、豊臣秀吉の番医制に組み込まれて関白秀次の診療にも当たった。文禄四(一五九五)年の秀次切腹に連座して常陸国に流されたが、後に赦免されて帰京、朝廷への再出仕も許された。徳川家康・秀忠に仕え、江戸邸と麻布に薬園地を与えられた。江戸で没し、薬園地に生前建てていた瑞泉山祥雲寺(後に渋谷へ移転)に葬られた。初代道三の選した著作を校訂増補して道三流医学の普及を図り、野間玄琢・井上玄徹・饗庭東庵らの優れた門弟を輩出させて初代道三とともに日本医学中興の祖と称せられる。著作に「済民記」「延寿撮要」「薬性能毒」など、とある。これを見ると鈴木氏の『徳川家光に近侍し』たというのもおかしい。更に、玄朔が『禁裏から橘氏』を賜わったとするのも、次の養父道三の事蹟と合わない。ところが、岩波版の長谷川氏注には、正盛(道三)―正紹―親清という系図が注に附されてある。一体、どれが正しいのか、分からなくなってしまった。識者の御教授を乞う。

・「曩祖」先祖。

・「道三」曲直瀬道三(永正四(一五〇七)年~文禄三(一五九四)年)は、戦国時代の医師。道三は号。諱は正盛(しょうせい)。字は一渓。他に雖知苦斎(すいちくさい)・翠竹庵(すいちくあん)・啓迪庵(けいてきあん)など。本姓は元は源氏で、後に橘氏を名乗った。また今大路家の祖。また、日本医学中興の祖として田代三喜・永田徳本などと並んで「医聖」と称されることも。養子に曲直瀬玄朔(正紹)がいる。以下、参照したウィキの「曲直瀬道三」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、注記号と改行を省略した)、『父は近江佐々木氏庶流の堀部左兵衛親真、母は多賀氏。幼少の頃、両親を失う。なお、『近江栗太郡志』によれば、道三は近江栗太郡勝部村(現守山市)の佐々木氏一族勝部氏の一門の出とされ、母は目賀田攝津守綱清の娘、諱を正慶とし、父母死別後伯母に育てられたと記されている。幼少時守山の大光寺内吉祥院にて学んだ(道三は勝部村に五反の農地を持ち、大成した後一反を大光寺に寄進したと伝えられ、天正五年十二月翠竹庵道三著名の寄進状がある)。永正十三年(一五一六年)、五山文学の中心である京都相国寺に入って喝食となり、詩文や書を学ぶ。この頃、姓を曲直瀬とする。享禄元年(一五二八年)、関東へ下って足利学校に学ぶ。ここで医学に興味を抱いたと言われる。名医として知られた田代三喜斎と出会い、入門して李朱医学(当時明からもたらされた最新の漢方医学)を修める。天文十五年(一五四六年)ふたたび京都へ上ると、還俗して医業に専念。将軍足利義藤(後の義輝)を診察し、その後京都政界を左右した細川晴元・三好長慶・松永久秀などの武将にも診療を行い、名声を得て、京都に啓迪院(けいてきいん)と称する医学校を創建した。

永禄九年(一五六六年)、出雲月山富田城の尼子義久を攻めていた毛利元就が在陣中に病を得た際に、これを診療し、『雲陣夜話』を記す。天正二年(一五七四年)には『啓迪集』を著し、同年に正親町天皇に拝謁を許され、診療を行い、同書を献上した。正親町天皇は僧策彦周良に命じて序文を作らせている。この際に翠竹院の号を賜る。織田信長が上洛後は、信長の診察も行い、名香蘭奢待を下賜された』。著書は「啓迪集」以外にも「百腹図説」「正心集」「指南鍼灸集」「弁証配剤医灯」など数多く、『数百人の門人に医術を教え、名医として諸国にその名を知られた。天正十二年(一五八四年)、豊後府内でイエズス会宣教師オルガンティノを診察したことがきっかけでキリスト教に入信し、洗礼を受ける(洗礼名はベルショール)。天正二十年(一五九二年)には後陽成天皇から橘姓と今大路の家号を賜る。文禄三年(一五九四年)一月四日没した。死後、正二位法印を追贈され』妹の子玄朔を養子とし、『その後も代々官医として続いた』とある。

・「神農會」底本の鈴木氏注に、『神泉祭。漢方医が医薬の祖たる神農氏を冬至の日に祭る。赤豆餅、赤豆飯に酒肴をととのえ、親戚知人を招いて饗応する』とある。神農は古代中国神話の三皇五帝の一人で、人に医療と農耕の術を教えたとされる神。

・「長生は麁食正食ひゆたらり勝手次第に御屁めされよ」は、

 ちやうせいはそしよくせいしよくひゆたらりかつてしだいにおんへめされよ

と読むか。「麁食」は粗食で、「正食」はそれを規則正しく食べる謂いであろう。下の句も腹部に滞留したガスを溜め込むのは無論、よろしくないから合点出来る。問題は「ひゆたらり」で、その謎解きが本話の主眼でもあるのだが、私は道三の事蹟の中の切支丹入信というのが気になった。これはもしや、禁教となった切支丹の秘跡を詠み込んだ、ラテン語ではあるまいかと思ったのである。ところが、ネット検索を掛けているうちに、平岩弓枝の小説ファンの方の個人サイト「御宿かわせみの世界」によって、同作品の中に「ひゆたらり」という短編があり、それについて当該サイトのBBS(過去ログ)の中で議論されてあるのを発見した。それを読むと、『むこうの言葉で湯の熱いものを飲んだり、火の熱いところに寄ったりしないこと』という解説が原作の注(?)にあるらしいこと、投稿者の一人が私同様に切支丹であったことからこれはポルトガル語ではないかと考えられたこと、この養生歌によく似た狂歌で天海作のものがあること(後掲)、そこでは「日湯陀羅尼」と書かれてあること、そこからこれは日々経を唱えてその経の功徳と読経に拠る呼吸法(道教でいうところの一種の導引法であろう)が長寿と関係するのかも知れないという解釈が示されており、非常に面白く読んだ。そこでその天海の養生歌を探してみると、宗教ジャーナリスト野木昭輔氏のコラム記事「仏教者の健康法 天海僧正の巻 気は長く勤めは堅く 色うすく 食細くしてこころ広かれ」にあった。それによれば、天海が残したこの手の養生訓は数種あるとされる中で、第三代将軍家光に

  長命 粗食 正直 日湯 陀羅尼 時折りご下風遊ばざるべし

と伝授したと出るそれである(先のBBSでは「長命は粗食正食日湯陀羅尼折々御家風(或いは御下風)あそばされるべし」とある)。これについて野木氏は、『日湯というのは毎日の入浴のことで、体を動かすことは血行をよくする薬。お風呂は血行をよくするから適当な運動になり、汗した時には皮膚を清潔にする。陀羅尼というのは、信仰心を失わず、毎日真言を唱えて転禍為福を祈りなさいということ。ご下風は体内のガスを腹の下の門から放出すること。信じて唱えれば「有酸素呼吸法」の効果があると説いた。こうしたことが長命につながると天海僧正は言うのである』と解説しておらるる。これで決まりであろう。

・「ひゆたらりと云は此事ならん」されば「ひゆ」は「火」と「湯」で分かるが、「たらり」が解読されていない。「足(たら)ふ」で「十分である・不足がない/その状況に堪える。資格がある」の謂いでも少し変だし、「日湯たり」という形容動詞化したものを打ち消しているとするのも、無理がある。そもそもがこの老人も、案外、半可通で、この話もイカサマっぽい気が私にはするのである。どうも根岸がこれを書き記したのも、案外、そうした皮肉からではなかったろうか?

・「致知」底本では右に編者のママ注記があるが、格物致知(かくぶつちち)の語もあり、道理を知り、物の本質を究めるという謂いで何ら、不明な言葉ではない。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 今大路家の掛け物の事

 

 官医として今も続く今大路(いまおおじ)家に、曩祖(のうそ)曲直瀬道三(まなせどうさん)殿の養生訓の和歌手蹟(しゅせき)と称し、掛け物と成しおかれたるもののあって、神農会(しんのうえ)の際には、これ必ず、床の間にこれを掛け置き祭るを例式となして御座る由。

 これは、道三殿自筆の教訓歌で御座る。その和歌は、

 

  長生は麁食正食ひゆたらり勝手次第に御屁めされよ

 

というもので御座った。

 ところが当主も門弟も、この和歌のうち、「ひゆたらり」と申す部分、これ、何のことを指していっておるものやら、一向分からず、適当に誤魔化した――訳のわからぬこと、それが、養生の秘義秘訣である――といったマヤカシの説を付会しては、代々、この掛け物を、これ、申し伝えて御座ったと申す。

 ところが、ある時、信州辺りの出生(しゅっしょう)の来客の御座って、丁度、神農祭なればこそ、床の間に掛け置いたこの和歌を見、

 

……はて。……この「ひゆたらり」と申すは、如何なる意味で御座ろうか?……

 

と訊ねられたによって、そこに御座った今大路が門弟どもも、こればかりは答えに閉口致いて、例の、申し伝えておる、分かったような分からぬような、いい加減なことを、如何にも頼りなさ気に、これ、答えて御座った。

 すると、その質いた信州から来ったる老客――

 

……ふうむ。……

……「ひゆうたらり」と、な。……

……我ら、ある時、薬草を採取せんがため、山深き片田舎へと入り込んで御座ったが、そこに百歳余りの者、これ、矍鑠(かくしゃく)として住まいして御座って、の。……

……されば、その老人に、

「御長生、これ、何か秘訣でも御座るか?」

と訊ねてみたところが、

「……物も知らぬ田舎者なれば……そんな秘訣なんぞも、知り申さぬ。……ただただ、かかる山奧のことなれば……明け暮れ、食するところの物は、これ皆、粗食にして。……そうさ、もとより、これ、何の世俗の望みもなければ、さればこそ、心に心配なる事も、これ、一抹も生ずること、御座らぬ。……されば、かく長寿致いておりまする。……」

と答えて御座った。……

……されど、

「……それは仰せの通り、と申さば、そうでは御座ろうが……しかれども……やっぱり、その、何じゃ、何か特に長寿に格別の効用の御座ること、これ、あられようほどに!……」

と、さらに切(せち)に訊ねて御座ったところ、

「……ま、そうじゃな……湯の熱きは、如何なる場合も、これ、用いず。吞まず。……火の気(け)そのものも同じじゃ。……そうさ、これ、おしなべて――熱きものには――これ、近寄らぬが、よかろうぞ。……」

と、申して御座ったを思い出だいた。……

……この「ひゆたらり」と申すは――「火湯」にて――このことを指しておるのでは御座るまいか?!……

……いやいや! かの道三先生、この養生の秘訣の核心を知り得て、かくも、美事に、お詠みおかれたに! これ、相違御座らぬ!!……

 

……と

――ぴしゃり!

と、膝を打たれたと申す。

 さればそれより、今大路家当主や、その弟子の者どもは、これ、始めて本歌の「まことの心」を、これ、知尽致いた、とのことで、御座った。

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