「耳嚢 巻之十 老隱玄武庵の事」注追加
「耳嚢 巻之十 老隱玄武庵の事」の以下の注に追加をした。こういう風に分かってくる感覚は、まさに月代を青々と剃るように気持ちがいいのである……
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・「髮も十ヲ日以前に結び」当時、武士の場合は、凡そ三日おきに髪結いに行っていたことがブログ「金沢生活」の「【歴史の小ネタ】江戸の散髪事情、武士は何日おきに髪を結ってもらったのか?」の検証で分かる。【2015年3月8日追記】これをブログ公開した翌日の朝日新聞(二〇一五年三月七日朝刊)で、山室恭子氏のコラム記事「商魂の歴史学 髪結たちの攻防」というのを読んだ。幕末(嘉永四(一八五一)年。この記事よりも五十年後)の江戸の古床(ふるとこ:九年前に行われた天保の改革以前から営業していた髪結い床の直接の営業者。その上には髪結い株の株主が上げ銭(マージン)を搾取する構造があった。同改革では一旦、この株仲間が解散させられたがこの嘉永四年の三月に組合再興令が発せられていた。)と新床(同改革によって個人の自由経営が許された新規参入の髪結い床の営業者。)の、幕府による自由競争から統制経済への方針変換下での双方の攻防戦を描いて頗る面白いのであるが、そこに古床(既存店)の髪結い賃が一回二十八文(新床は価格破壊で対抗してほぼ半額の十六文)とあり、また『通常の』江戸町民の髪結い回数は『「六度結」(5日ごとに結う)』であったという記載があった(洒落者は一日おきでそれを「隔日結」と言ったともある下線部は孰れもやぶちゃん)。とすれば、この月代(さかやき)ぼさぼさの髷潰れ男は通常の倍近いスパンを空けていることが分かる。そこでさらに調べてみると、宇江佐真理氏の「髪結い伊三次捕物余話」に髪結い賃三十二文と出るらしく、ウィキの「髪結い伊三次捕物余話」によれば、この小説には実在した浮世絵師歌川国直(寛政五(一七九三)年~嘉永七(一八五四)年)が二十三歳で登場しているから、作品内時間は文化一五(一八一五)年で、ほぼ本話と一致することが分かった。物価データを掲載するサイトによれば、文化・文政期の髪結いとしての三十二文は凡そ現在の八百円相当とある。この男の財布の空っぽさ加減がより分かった。