耳嚢 巻之十 大井川最寄古井怪の事
大井川最寄古井怪の事
大井川最寄、遠州嶋村潮(うしほ)村といふあり。右村境とやらん、古き井戸ありて、近き頃の事なりとや、百姓の召仕(めしつかふ)下女あやまちて古井戸へ落入(おちいり)しを可助(たすくべし)と、一人の男右井戸へ下り、女の髮見へ候間、水際まで至り候處、これ又氣をうしなひ井戸内へ落入たるゆへ、氣丈なる男ありて、いづれ兩人を助けべきと支度せしを、かゝる怪敷(あやしき)井の内へ可入(いるべき)樣や有(ある)と、人々とめしをも不用(もちゐず)、酒抔吞(のん)で支度いたし腰へ繩などつけて下りしに、右井の内には大小の蛙おびたゞしく甚(はなはだ)難儀なりしが、兎角して男女兩人の死骸へも繩を付(つけ)、其身も繩をちからに、からうじてあがりしに、女は息たへて不蘇生(そせいせず)。男もいろいろ療養を加へけれど、これ又翌日とかや相果(はて)ぬ。彼(かの)氣丈成(なる)男も暫(しばらく)煩(わづらひ)けるが、品々醫藥して不相果(あいはてざる)由。彼(かの)所へ出役せし御勘定衆まのあたり見聞(みきき)せしと語りぬ。古井地氣(ちき)籠(こもり)てかゝる事ありと聞(きき)しが、さる事にや。又は蛙夥敷(おびただしく)住(すむ)となれば、がまの人をとらんとしける故や、不知(しらず)。
□やぶちゃん注
○前項連関:凶宅(蔵と井戸)関連で、二つ前の共食いの怪しき蛙とも連関する。しかしこれは明らかに所謂、酸欠、酸素欠乏症による多重遭難である。井戸では二酸化炭素など空気より重いガスが下に貯留するため、危険性が高く井戸などでは天然マンガンなどの土壌中や地下水に含まれる鉄分などによる酸化作用によって、内部の空気の酸素が奪われている場合もある、とウィキの「酸素欠乏症」にあり、『低酸素の空気で即死に至らなかった場合でも、短時間で意識低下に至りやすいため気付いてからでは遅く、更には運動機能も低下することもあり自力での脱出は困難である。加えて酸素が欠乏しているかどうかは臭いや色などでは全く判別できず、また初期症状も眠気や軽い目眩として感じるなど特徴的でもない上に、息苦しいと感じない(息苦しさは血中の二酸化炭素濃度による)ため、酸素の濃度が低いことに全く気づけずに奥まで入ったり、人が倒れているのを見てあわてて救助しようと進入した救助者も昏倒したりする。また低所やタンクなどで出入りにハシゴを使用するような場合は転落する危険があり、それそのものでの怪我は大したものでなくても、より低濃度酸素の空気に晒されると共に自力脱出はより困難になる』ともあるから、二人目の救助者が「其身も繩をちからに、からうじてあが」って一命をとりとめたのは、寧ろ、不幸中の幸いであったとも言えよう。
・「遠州嶋村潮村」底本の鈴木氏注に、『静岡県榛原郡金谷町大字島と同町大字牛尾。牛尾の方が上流』とある。「榛原郡金谷町」は「はいばらちょうかなやちょう」と読む。二〇〇五年に金谷町が島田市と合併、現在は静岡県島田市内である。岩波の長谷川氏注では「潮村」をその牛尾に細部同定して居られる。地名の音から同感。同所は大井川の北の大津谷川とその北にさらに支流する河川の中間部にあるから、相当な地下水脈を想定し得る。
・「近き頃の事なりとや」「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月である。
・「井の内には大小の蛙おびたゞしく」この井戸の地下水脈が周辺の沼沢地と地下で繋がっていた可能性が高いか。彼らは流水中の新鮮な溶存酸素によって生存が全く問題なく出来たと考えれば、頗る納得がゆく。
■やぶちゃん現代語訳
大井川の最寄りの古井戸の怪の事
大井川の最寄り、遠州嶋村に潮(うしお)村という所が御座る。
その村境とかに、古き井戸の御座って、最近のこととも聴くが、ある百姓の召し仕(つこ)うておった下女が、こえ、誤ってその古井戸へ落ち入ってしまい、それを、助けようとして、一人の男の、井戸へ降りて行ったところが、底の水面(みなも)の辺りに、これ、女の髪の見えたによって、水際まで、さらにまた下って行ったところが、これまた、気を失(うしの)うて、またしても井戸の底へと陥ってしもうた。
されば、これまた、別の気丈なる男(おのこ)のあって、
「――これ! ともかくも! 二人を助けずんばなるまいぞッツ!」
と支度致いたが、
「……こ、このような怪しき井戸の内へ、は、入るは、き、狂気の沙汰じゃ!!」
と、人々の頻りに制止致いた。
したが、この男(おのこ)、一向に意に介さず、酒なんどを煽っては、これ直ちに、腰へ繩などをしっかと結わいつけて支度なし、井戸へと下りて御座ったと申す。
すると、かの井戸の底――これ――大小の蛙の――夥しくおって――甚だ難儀致いた申す。
それでも、ともかくも、先の男女二人の死骸へも繩を結わい付け、自身の身も既に結わいた繩を力として、村の衆総出で引いて御座ったれば、辛うじて上まで上がることの出来て御座った。
しかし時既に遅くして、女は息絶え、残念なことに蘇生致さず、また次いで助けに入った二番目の男もこれ、いろいろと療治を加えてはみたものの、これまた、井戸から上がった翌日とか、結局、果ててしもうたと申す。
かの気丈なる男も、井戸から出た途端、これ、ばったり倒れ、しばらくの間、患って御座ったが、かの男(おのこ)はこれ、品々の医薬を施術致いたところが、幸いにして命を取りとめた、と申す。
かの地へ出役(しゅつやく)致いた御勘定衆が、これ、具(つぶさ)に実見致いたこと、と語って呉れた話で御座る。
――さても、古井戸などはこれ、地の陰気や瘴気の悪しく籠って、このようなことの生ずることがあるとは、これ、聞いては御座ったが、そのような因縁によるところの事故でも御座ったものか?
――それとも――またはこれ、蛙の夥しく棲んでおったとならば……蝦蟇(ひき)なんどが、これ、人を捕らえんとして成したる……妖しのことにても御座ったのであろうか?……真相はこれ、分からず仕舞いで御座った。……
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