耳嚢 巻之十 老隱玄武庵の事
老隱玄武庵の事
玄武庵は、文化七年の頃に白山邊に住(すめ)る醫師の由。蕉門の俳諧などなして、齡百歳に近く面白き隱者の由。彼(かの)者隨筆の由にて、在這眞許と云(いへ)る書面を或人携へ來りしが、全部書(かき)とめんも煩しければ、其内の面白きといふを爰にしるし置(おき)ぬ。
病は氣より生(しやうず)るといへば、欝病積氣(うつびやうしやくき)などの事に心得候人、多く有之(これあり)候が、彼(かの)維摩經(ゆいまぎやう)に、備(そなへ)に病(やまひ)はなきものといへる途徹(とてつ)より、御工夫の爲めすべて御子孫其外、化他(けた)の御用心申遣(まうしつかはし)候。元來病は邪(よこしま)也。正(せい)にして天理と合(がつ)すれば、病はなき筈なり。人(ひと)欲のために我に勝(かつ)事ならねば病を生(しやうず)る事、田畑草木(さうもく)育(はごくむ)を以(もつて)、御工夫可被成(ならるべく)候。人間鳥獸草木に至るまで、自性(じしやう)と相應(さうおう)すればなし、もしや田に可植(うえべき)物を畑に植へ、こやしの入らぬものに肥(こやし)し過(すぎ)候得ば、皆作物にも病が出來候。人も己々(おのおの)が自性と相應に今日(けふ)を過せば病はなき筈。おのれに勝(かつ)事ならぬ凡情(ぼんじやう)より我身にまけて、飮食衣服をはじめ、相應に過(すぎ)たる處より病は出來(しゆつたい)候事を、病は氣より生(しやうず)ると申(まうし)候。
一、西丸大奧に御右筆とか勤(つとめ)候おみさとかいへる人、病氣にて宿へ下(さが)り、玄武庵が療治幷(ならび)に教諭を□信し、全快の上、其祝儀の筋、玄武は譯なく他より物を貰ひ候事、幷(ならびに)人のものを着し候事なきと聞(きき)て、頂戴の御召(おめし)白小袖を一つ贈り、外に一つは御祈禱の爲、增上寺方丈へも進(しん)じ候よし申(まうし)ければ、其席は大勢打交(うちまぢ)りの席故、忝(かたじけなき)由答へてのち、增上寺は僧正にても、素より物を貰ふべき業(わざ)に有之(これあり)、誠に志を以て進候(しんじさふらふ)品(しな)を着用、勤行等あられ候はゞ、さる事もあるべし、老人へたまはり候は、老齡の衣服、小兒に着せて壽福を保つ理(ことわり)は醫書などにもあれど、少壯の衣服、老人に着せて小兒の壽福を增すと申(まうす)理(ことわり)のなき事、其上御召(おめし)ふるしの御足袋(おんたび)御草履(おんざうり)にても、天下はれて拜領致し候はゞ、家の寶とも可申哉(まうすべきや)、其御程樣(そのおんほどさま)御拜領の品着し候は、たとへば御成(おなり)の節、壁の穴より透見(すきみ)などなして、われは御目見(おめみえ)したると申(まうす)愚人の同類になり可申哉(まうすべきや)、此事は幾重にも御免あるべしと、斷(ことわり)しと也。
一、或日翁が門へ來り、逢度(あひたき)由申(まうす)ものあり。其形ぼてふりの荷籠(にかご)ふり捨(すて)たる樣子に、髮も十ヲ日以前に結び、髭ぼふぼふたるむさとしたる男なり。翁を見て庭に手をつき、拙者儀は出羽庄内酒田の者にて、淇水(きすい)連中(れんぢゆう)分(ぶん)に御座候、此度罷上(まかりのぼ)り候事、國元へはさたなしに致(いたし)候故、書狀も持參不仕(つかまつらず)、狐付(きつねつき)の申樣(まうすやう)にも可被思召候得共(おぼしめしさふらえども)、少々心當(こころあたり)の國者(くにのもの)を尋(たづね)、十日斗(ばかり)旅宿致(いたし)候處、今(いま)明日にも出立(しゆつたつ)、歸國不仕(つかまつらず)候ては不叶(かなはざる)儀の處、路用一錢も無御座(ござなく)候間、金貮百疋御合力(ごかふりよく)被下度(くだされたし)と、石へ額(ぬか)を付(つき)て賴(たのみ)候間、在所にて如何(いかが)聞及(ききおよば)れしや、愚老を愚老と思ひよつての儀奇特(きとく)ながら、今日の境界(きやうがい)も、連中の世話にて明(あか)し暮し候仕合(しあひ)、聊(いささか)にても手元にはなく、氣の毒ながら不任其意(そのいにまかせず)といへども、此男如何にも奉願(ねがひたてまつる)とて立退(たちの)かず。つくづく考(かんがふ)るに、難有事(ありがたきこと)は遠き百里の外にも我有(われあり)と聞及(ききおよ)ぶゆへの事ならん、由(よし)やかたりにあひたるとてもわづかの事なりと案じて、いかさま難儀の趣(おもむき)、聞捨(ききすて)にも難成(なしがた)ければ、才覺して明後日遣すべしと答へ、其旅宿を聞(きき)とゞけ歸しぬ。さて才覺とゝのへしが、門中家内にても、かたりなるべし、無益也(なり)といへども取合(とりあは)ず。しかれども、若(もし)かの者、大罪をおかし候ものにて被召捕(めしとらへられ)などせば、我も呼出(よびいだ)され、いかやうのちなみありてかゝる事にやと尋(たづね)を請(こは)ば、言ひらきあるまじ。幸ひ酒田の淇水へ、春中(はるうち)よりの返事もあれば是を認(したた)め、京橋因幡町(いなばちやう)何某(なにがし)の店(たな)右の者旅宿を尋(たづ)ね、右淇水事(こと)津下庄藏への書狀一封、右屆賃銀(とどけちんぎん)の金子と號(がう)し相渡(あひわた)し、當人の名と旅宿の名印の請取(うけとり)を取(とり)しに、殊の外歡びてありしと也。
□やぶちゃん注
○前項連関:養生訓で直連関、主人公が医師でも連関(これもニュース・ソースの同一性が疑われるが、今回は書写本からに抜書である)。変人奇人譚の一つ。しかし、三話目の男は事実、名前ばかりは淇水の門中ではあったのであろうが、玄武庵から俳諧の教えを請わんとする様子も何もなく、しかもしょっぱなから有体に金品をせがんでおり、殆んど見た通りの乞食に近いと言ってよかろう。一旗揚げようと江戸に出てきたものの、瞬く間に零落し、酒田へ戻る金もなし、かつて地元で淇水について俳句を齧った際、聴き及んだ記憶のある同門の変人医師で俳諧師の玄武庵のことを思い出して、体よくタカリに及んだということであろう。なお、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では最初の養生訓のパートのみが二段下げとなっている。これは頗る正しい表記法である。何故なら、続く二・三篇目の部分は、明らかに一人称で書かれた原典を根岸が書き直した体裁をとっているからである。
・「玄武庵」底本の鈴木氏注に、『玄武庵は、玄武坊なるべし。江戸駒込に住し、医を業とし、白山老人と号すといへば、それなるべくも思はるれど、この玄武坊は、寛政十年正月十九日八十歳にて死せりとあれば、いかにや。(三村翁)玄武坊は美濃派の廬元坊の門人。江戸の人。水野氏のち神谷氏。俳仙堂と号した』とある。大礒義雄氏の「蕪村・一茶その周辺」(一九九八年八木書店刊)によれば、玄武坊(正徳三(一七一三)年~寛政一〇(一七九八)年)は各務支考を祖とする美濃派(幕閣家士・地方武士・医師が多かった)の江戸での大立物として知られた人物で、江戸生まれ、水野氏から後に神谷氏を称した。初めは宗瑞門であったが破門されて廬元坊に入門、この頃に医師となったが、一時は前句付の点者もしたらしい。『居を東都の北、白山に構えたので、一文を白山下と言い、白山老人と称す。宝暦四年、江戸においてはじめて墨直しの会式』(この玄武が各務支考により京都双林寺に建てられた芭蕉墨直しの墨跡を写して、芭蕉の禅の師で友人であった仏頂禅師所縁の深川大工町にある臨川寺に「芭蕉由緒の碑」を建立、毎年三月にその墨直しの会式(碑面にさした墨が褪せた所に再び墨を入れて直すこと)を催すことを始めたことを指す。また、彼は同寺に支考の碑も建てている)『を行い、東都獅子門』(各務支考の別号獅子老人に因む美濃派の別称)『の名を宣揚した。その時の記念集が『梅勧進』で』、他に「玄武庵発句集」「玄武庵和詩集」などがあると記す(当該書二七三頁)。とうに死んでいる人物であるが、都市伝説の怖ろしさ(面白さ)はこうした部分にこそある。これはどう見ても神谷玄武庵である。もしかすると医業を家業として継いだ次代或いはその次代以降の医師が、同じ神谷玄武庵を名乗ったことから、今も生きているということになっているのかも知れない。
・「文化七年」「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月。
・「白山」現在の東京都文京区白山。
・「齡百歳に近く」文化七(一八一〇)年当時、玄武庵が実際に生きていたとしたら、数え九十八で確かに正しい謂いである。
・「在這裏許」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『在這裏評』とあり、「這裏」には編者長谷川氏によって「しやり」とルビが振られてある。さらに同氏注には、訓点を配して、「在這裏」は「這(こ)の裏(うら)に在(あ)り」の意である旨の記載がある。則ち、これは玄武の随筆として取り敢えずは「ざいしゃりひよう(ざいしゃりひょう)」と音読みするが、それは意味としては――この中(うち)に我がまことと信ずる主張を示したる評文――という書名であるということであろう。底本では「許」であるから、「これは「裏許」で「りきよ(りきょ)」、この内の茲許(ここもと)の謂いか。その場合は――この中に我がまことと信ずるところの事実の在り――という書名となろうか。ともかくもこのような書は不詳である。
・「維摩經」大乗経典の一つ。原典は散佚したが、鳩摩羅什(くまらじゅう)漢訳になる「維摩詰所説経」(三巻)などが残る。在家信者である維摩を主人公に不二に究まる大乗の立場や空(くう)の精神を明らかにしたもの。
・「途徹」「途轍もない」の途轍で、「轍」は「車のわだち」の意。筋道。道理。
・「化他」他者を教化(きょげ)し、仏法の恵みを施すこと。利他。自身のために行う修行「自行(じぎょう)」の対義語。
・「自性と相應すればなし」「自性」そのものが本来備えている真の性質。真如法性(しんにょほっしょう)。本性。しかし、ここ、ちょっと意味を採り難い。そうした本来の自然な在り方である「自性」に「相應すれば」、自然な正(せい)状態で「なし」(成し)続けることが出来る、という謂いであろうか? 訳はそんな風に訳した。
・「西丸大奥」西の丸は世子居所(将軍後継者の居住区域)で、世子には幼少時より既に正室が定められて嫁いでいる場合があり、世子のまま元服すれば側室も持つので、そうした奥方らとそのお附きの女房及び使用人などで西の丸大奥を構成していた(知られた将軍大奥は本丸のもので、他にも家光の代に二の丸(将軍別邸)にも大奥が設けられた。世子以外の将軍の子などが育てられたり、御台所との関係がよくない側室が住んだ)。西の丸はまた形の上では、隠居した将軍である大御所の隠居所とその大奥用としても存在した。
・「おみさ」女房名にしか読めないのでそう解釈した。
・「□信し」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『甚(はなはだ)信じ』とある。訳ではこれを採った。
・「頂戴の御召白小袖を一つ贈り、外に一つは御祈禱の爲、增上寺方丈へも進じ候よし申ければ」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版ではここが(恣意的に正字化した)、『頂戴の御召(おめし)の小袖をひとつ、御祈禱の爲增上寺方方丈え進じ候。今ひとつは染(そめ)させ候間、玄武老人の丈夫なるに御あやかり被遊(あそばされ)候よふにと進度(しんじたき)」旨申ければ』とあり、底本より遙かにシチュエーションが分かり易い。この台詞は訳ではこちらを採った。
・「其御程樣御拜領」岩波版の長谷川氏注に、「其御程樣」は『其程(そのほど)を敬意をこめて言い、そのあたりのかた』と、先に出た「おみさ」の方が『仕える貴人を指して言』つたもの、とある。――そのほどの高貴なる御方さまより御拝領の――の意。この持って回った言い方には、貴人であるから、というよりも寧ろ、仰々しいお偉いさんらの不愉快な式典に無理矢理出さされたことへの、玄武の極度の生理的不快感を添えた皮肉と読むべき部分である。
・「ぼてふり」棒手振り。魚や野菜などを天秤棒で担ぎ、売り声を挙げながら売り歩くこと行商、また、その行商人。江戸では狭義には、魚市場と料理屋の仲立ちをして魚類の売買をする者を限定的にかく呼称した。振り売り。ぼてかつぎ。ぼうてふり。ぼて。
・「髮も十ヲ日以前に結び」当時、武士の場合は、凡そ三日おきに髪結いに行っていたことがブログ「金沢生活」の「【歴史の小ネタ】江戸の散髪事情、武士は何日おきに髪を結ってもらったのか?」の検証で分かる。【2015年3月8日追記】
・「出羽庄内酒田」現在の山形県酒田市。
・「淇水連中分」底本の鈴木氏注に、『三村翁「淇水と号せる人多し、盛岡と越中とにはあれど、酒田の淇水管見に入らず。」』とある。後に出る「津下庄藏」(「つげしょうぞう」と読むか)であるが、不詳。
・「金貮百疋」一疋を十文換算として、二千文、一両の二分の一相当であるから、文化の頃ならば(蕎麦代で換算)、凡そ二万五千円ほどか。前話から見ても、玄武庵は相応の医師を生業としており、その日暮らしというのは、流石の凡愚の「ぼてふり」風男にも大嘘と分かろう。この見え透いた嘘も、これ、後の玄武庵の万一の連座(後注参照)に対する後悔や惧れの一つとなったものに相違あるまい。
・「合力」しばしば出る語であるが、ここでは金銭上の援助を指す。
・「奇特」この語には、行いが感心なさま、けなげなさまの他に、珍しいさま、不思議なさまの二つがあるが、これは風狂人玄武庵なれば、ともに掛けた洒落であろう。
・「いかやうのちなみありてかゝる事にや」岩波の長谷川氏注に、『彼が犯罪人であったりした時の連坐を恐れた』とある。
・「百里」凡そ三百九十三キロメートル。現在の地図上でも東京―酒田間は直線で三百五十四キロメートルであるから、非常に精度が高い数値と言える。
・「京橋因幡町」岩波の長谷川氏注は『現在の京橋区因幡町二丁目の内』とされる。
・「屆賃銀」岩波の長谷川氏注に、『手紙の届け賃という形をとり、領収書を取って彼の男への援助でないという証拠を用意』したという解説が出る。前注のように、彼が既に犯罪人であった場合、及び、酒田へ戻る途次に犯罪に巻き込まれるか犯罪に手を染めた場合、連座を受けないようにするための証明書としたということであろう。この部分、言わずもがなの箇所で、私はちょっと厭である。この玄武庵の深謀遠慮の危機管理体制、如何にも医師らしくはあるものの、風狂人としては魅力を削ぐからであろう。
■やぶちゃん現代語訳
老隠士玄武庵(げんぶあん)の事
玄武庵は、文化七年の頃までは、確か、白山辺りに住んで御座った医師なる由。
蕉門の俳諧なんどをもひねり、齢(よわい)これ、百歳になんなんとする面白き隠者であったと申す。
この者のものしたる随筆の由にて、「在這裏許(ざいしゃりきょ)」と申す文書を、とある御仁が携えて参ったが、その全部を書き写すのも、これ、正直、煩わしいので、その内、これ、面白いと思うた幾つかの条々を、以下に、記しおくことと致す。
*
一、『病いは気から生ずる』としばしば言われるが、これについて、多くの者は、これ、気鬱の病いの重篤化した状態などを指して表現する言辞と心得ておらるるようである。がしかし、かの「維摩経(ゆいまぎょう)」にも、『備えあれば病いなし』といった意味のことが書かれて御座って、この道理からも、この諺は、そうした重きの気鬱の病態に限って心致さばよいというものにては、これなく、健康なめいめいの御配慮と御考察が大事で御座って、これ総て、御自身御子孫その外、他人に対してさえも教え導き、益を施すところの至言であることを、重々お心がけなさっておらるることが肝要で御座る。元来これ、病いと申す現象は、邪(よこしま)なる様態を意味するので御座る。逆に正しき様態に御座って天の理(り)と合(がっ)しておるならば、病いという状態は存在しないはずなので御座る。人は、己れの限りなき欲がために、自身に勝つことが出来難い。さればこそ、これ、病いというものを発症するので御座る。これは例えば、田畑の農作業や草木(さうもく)の生育を以って御考察なさらば、これ、一目瞭然で御座る。人間や鳥獣・草木に至るまで、自性(じしょう)に相応して在ったならば、これ、自然に正しき在り方のままに在り続けること、これ、難なく出来る。ところが、もしや、田に植えねばならぬ物を陸(おか)の畑地に植え、肥やしなんどを必要とせぬものに過剰な肥やしを与え過ぎて御座ったならば、これ皆、それらの作物にも病いの出来(しゅったい)致すことは必定にて御座る。人の場合もこれと同じ。おのおのが自性(じしょう)と相応致いた今日(きょう)を過ごさば、これ、病いなどと申す状態には決してならぬはず。己れに勝つことが出来ない、すっかり欲望に絡め捕られた凡夫の情によって、我が欲情の肉身に負けてしまい、飲食・衣服を始めとし、本来の自性相応(じしょうそうおう)に過ぎた贅沢を致すところより、病いというものは、これ、出来(しゅったい)致すと申すことを、これ古来、『病いは気より生ずる』と申すので御座る。
*[根岸注:以下二篇は私が概略を書き直したもので、原文そのものではない。]
一、西の丸大奥に御右筆(ごゆうひつ)とかを勤めておらるる――おみさ――とか申される女房、病気にて宿下がりをして実家へと戻って御座ったが、この玄武庵が療治并びにその養生の教えを甚だ信頼致いて、さればこそ全快なして御座ったと申す。そこで、その御礼の祝儀に就き、おみさ、これ、考えたが、この玄武庵――療治の実費以外には患者からは物を貰わず、平素に於いても、他人よりたいした訳もなく、物を物を貰うこと并びに人の与えたる衣服なんどを着すことなどは、これ一切ない――と噂に聴いて御座ったによって、
「――妾(わらわ)のお仕え申し上げておりまする大奥の奥方さまより直々に頂戴致いた御召(おめし)白小袖の二つ、御座いまするが、その一つを、御祈禱のために増上寺方丈へ寄進致すことと致しました。今一つは、これ、染めさせておりまするによって、玄武老さまの矍鑠(かくしゃく)となされて長寿なればこそ、これにあやかり、その御着衣を賜われましたるところの奥方さまも、その長寿の趣きの、これ、寿(ことほ)がれまするよう、儀式が後に、お贈り申し上げとう存じますれば、当日、増上寺にてお待ち申し上げておりまする――」
と記した消息を玄武翁に遣わした。
されば玄武翁、増上寺での貴人奉納の儀と承ればこそ、仕方なく、その当日、増上寺へ参拝なした。
その祈禱の席には、奥方始め、幕閣の高官なんど、これ、大勢おられたによって、玄武翁、祈禱の儀にては、その仏前に供された小袖を恭しく礼拝致いて、
「――忝(かたじけな)く存ずる。」
と、儀式上の礼儀に則り、御礼(おんれい)の返答を致いては御座ったが、式も済んで、別室にて控えおった女房おみさに対面(たいめ)致すや、
「――芝増上寺と申すは、これ、寺。さればこそ、僧正にても、もとより施物(せもつ)を貰うを当たり前と致いて御座る生業(なりわい)の者じゃ。……しかも、深き信心の志しを以って寄進せられたる品を着用致いた上で、ありがたき勤行なんどなさるると申すことは……これ、そうしたこともあろうずことは……当たり前にあることにては御座ろうよ。さても、それはそれ。何の疑義も不満もこれ、御座らぬ。目出度きことじゃ。……しかしの、それを別に、この老体へ賜わると申さるる儀は、これ、はて? 如何なる謂いにて御座るものか?……老齢長寿の者の着したるところの衣服を、これ、頑是ない小児に着せ、その長寿の魂を子に移し保つ、と申すような理(ことわり)は、これ、古き医書などにも記しあれど……若い乍らも既に目出度く壮年となられたる貴婦人の御衣(おんぞ)を、これ、かく老いさらばえた老人に着せて、一体、どこのどいつの小児の長寿を、これ、増さんと申さるる仕儀にて御座るか?!……全く以って、これ、道理もへったくれも、御座らぬものじゃ!……さらにじゃ! さても、御召し古しならばとて、これ、御足袋(おんたび)やら御草履(おんぞうり)にても、天下晴れて拝領致いて御座ったとならば、それを家の宝とでも申して大事大事になすものとでも、これ、思われたか?……いやさ! かくまでも高貴なる御方さまより御拝領の品を着て御座ったとならば、その光栄によって、消え入らんまでの恍惚に、これ、身を震わずるとでも、これ、思われたか?……それは、言おうなら、将軍様御成りの節、壁の穴よりそのお姿を覗き見など致いて――我らは御目見え申し上げた!――と言いおる愚人の同類になったに同じいことにては御座らぬかの?!……ともかくも! この小袖拝領の儀は、これ、幾重にも御免蒙ることと致そう!」
と、断固として断られたとか。
*
一、ある日のこと、玄武翁が屋敷の門へ来たって、
「……玄武庵殿に、我ら、お逢いしとう存ずる!……」
と申す者のあった。
その姿たるや、ぼてふりが荷籠(にかご)をふり捨てたような風体(ふうてい)にて、髪もこれ、ぼさぼさ、十日以前に結うたっきりといった感じにて、髭もまた、ぼうぼうとし、何やらん、臭うてくるよな、如何にも、むさ苦しい男にて御座った。
とりあえず庭に通すと、縁に出でたる翁(おう)を見るや、庭に手をつき、
「……拙者儀は――出羽庄内(しょうない)酒田――の者にて、俳人の淇水(きすい)さまの連中(れんじゅう)の者にてごぜえやす。……このたび、こうすて、江戸へ罷り上ぼってめえりやんしたは……国元の淇水さまへは何の沙汰も致さずに、やらかしたことでごぜえやすによって……淇水さまの御書状なんども、これ、持参致いてはごぜえやせんが。……そのぅ……狐憑きの申しまするようにも思し召しになられては、まんず、おられやしょうが……我ら江戸にては、少しばっかり心当たりの同郷の者を尋ねては……これ、十日ばかり、旅宿致いておりやんしたところが……今日明日にも出立(しゅったつ)致いて帰国せんことにはならんことが、これ、出来(しゅったい)致いてごぜえやしてのぅ! へえ……けんど……その……路銀、これ、一銭もごぜえやせんのでして……されば……ここは、どうか一つ!――金二百疋――御合力(ごこうりょく)、これ、くだせえやし!……」
と、縁下の踏み石へ額(ぬか)をついて、頻りに頼んで御座ったによって、翁は、
「……在所にて、淇水殿より、この玄武庵がこと、これ、どのように聴いておらるるかは存ぜねど……いや、まずは、愚かなる老人を愚かなる老人と思い定めてのかくなる御来訪とその仕儀、これ実に不思議にして、どこか、また素直なる懇請乍ら……今日只今(きょうびただいま)の数奇なる我らが境界(きょうがい)……これ、我が江戸の俳諧連中(れんじゅう)の世話になり、辛うじてその日を明かし暮すという体たらく。……いささかも、これ、手元になければ。……気の毒乍ら、貴殿が意を叶うること、これ、出来申さぬ。……」
と、穏やかに答えた。
ところが、この男、
「――何としてもッツ! どうか一つッツ! 御願い奉るッツ!――奉るッツ!――奉るッツ!!……」
の一点張り。いっかな、たち退く気配、これ、御座ない。
すると玄武庵、さても、とつくづく考えてみたことには、
『……何が何、我らにとってありがたきことかと申さば……これ――遠き百里の外にも、我れ在り、と聴き及ぶ者どものある――ということで御座ろうか。……よしや、カタリに遇(お)うとしても、まあ、二百疋ならが――安心迷惑料――としては、これ、僅かな額じゃ。……』
そこで、かの男に向い、
「――如何にも難儀の趣き、聴き捨てにもなし難きことなれば、我ら何とか才覚致いて、明後日には用意して遣わそうぞ。」
と答え、その旅宿を聴きおいて、その日は帰した。
さても翌日、二百疋を用意致いた翁には、門弟や家内(かない)の者、これ、口を揃えて、
「……お師匠さま、あれはどう見ても、カタリで御座いまする!」
「……御厚情も、これ、あのようなる者には、無益なことで御座いましょうぞ!」
と、頻りに止めた。
しかし玄武庵、これ一向、とり合わず、彼らには逆に、こう語った。
「……しかしな。……もしも、かの者、これ、大罪を犯しておる者であって、この後(のち)、召し捕えられなどせば、これ、どうなると思う?……あの調子で、一銭も出さなんだ我らがこと、これ、あることないこと、喋りまくることは必定じゃ。……そうなると、当然、奉行所より我らも呼び出ださるることと相い成り――一体、この悪人とそなた、これ、如何なる由縁のある者なるか?――かかる非道の犯罪と、そなたは何か繋がっておるのではないか?――なんどと痛くもない腹を探らるることにもなり兼ねぬとは申すせぬか?……そう糺されれば――淇水(きすい)との縁は事実――かの男に嘘を申して門前払いしたも事実――とあっては、言い開きよう、これ、御座るまい。……理不尽ではあるが、状況は我らが方にとって、頗る不利じゃ。……幸い、酒田の淇水が方へ、この春中(はるうち)よりの様子なんど、これ、返事をもなさんと思うておったところじゃったによって、の。……」
と、徐ろに淇水宛の書簡を認(したた)めると、しっかりした使いの者に命じ、前日に聴きおいたる京橋因幡町(いなばちょう)何某(なにがし)の持ち分のお店(たな)にあったる、かの者の旅宿を訊ねさせ、旅宿主人も同席の上、かの淇水こと津下庄藏(つげしょうぞう)へ宛てたる書状一封と、
「――この書状の届け賃にて御座る。――」
と呼ばわったる金子を、これ、相い渡し、その当人の男の名前・旅宿の名・その旅宿の主人の印をも押したる請け取り証文を取った。
かの男は、これ殊の外、歓んで旅立って行った、とのことである。