耳嚢 巻之十 奇石の事
奇石の事
□□と云(いへ)る人の知行より掘出(ほりいだ)せしとて、石を持來(もちきた)りしが、壹寸七八分の石にて、能(よ)く土をあらひ落(おと)し見るに、象に乘りし普賢の像と、自然に見へし故(下缺)
□やぶちゃん注
○前項連関:なし。一つ前とは奇体な発掘シリーズで連関。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「故」がなく、そこで終わっている。ただ、根岸の記載としてはそこで終わらせるのは――根岸的では、これ、ない。――九百七十章も付き合ってきた私にはそれが分かると断言しよう。――これは確かに続きがあったものかとまずは思われる。しかし何かの理由で破棄したか、馬鹿馬鹿しくなってそこを後で廃棄してしまったのかも知れない。ともかくも……あとのこと知りたや……
・「□□」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『何某』。それで採る。
・「壹寸七八分の」五・一五~五・四五センチメートル。
・「象に乘りし普賢の像」独尊としての普賢菩薩像は蓮華座を乗せた六牙の白象に結跏趺坐して合掌する姿で描かれるのが一般的である。釈迦の法(実践的理性)をシンボライズする菩薩で、同じく釈迦の広大無辺な智慧を象徴する文殊菩薩と並んで釈迦三尊像の二脇侍として知られる。因みに三尊では普賢菩薩は右脇侍(向かって左)である。
・「自然に見へし」これは彫られたものではなく、石の紋脈がそのように見えた(と称した)、所謂、シミュラクラ現象(Simulacra)であったか? さればこそ、実物を見た根岸が、「いくらなんでも、これは象と普賢には見えねえぞ!……と思って書き継ぐのをやめた、という仮定も成り立つかも。いわば、ちょっと――いっちゃてる人が――所謂、関係妄想的シミュラクラに憑りつかれ人が――「根岸殿ッツ! ほれ! ここに象が! ここに普賢菩薩が! 見えましょうほどにッツ! 見えぬ? 見えぬ訳がないッツ! ほれ! ここ! ここッツ!……」とか? 「石」が「奇」だったのではなく話者が「奇」であり「鬼」であって、その後に乱心でもして命を絶ったりしたから、根岸殿、気味(きび)悪くなって続きを書くのをやめた。やめたらやめたで、ちょっとそれが意味深長で面白く見えたってえのは、どうよ? 私は小泉八雲の「茶碗の中」(原話は「新著聞集」巻五第十奇怪篇「茶店の水碗若年の面を現す」)を思い出したりした(あの主人公も現実的な解釈をするならば、一種の精神疾患による幻覚幻視の可能性が高く、結末はないが、如何にも乱心で自滅しそうではないか)。ただ訳すのではつまらない。そこでそれでやらかした。悪しからず!
■やぶちゃん現代語訳
奇妙な石の事
何某(なにがし)殿――一度は名を記したが、そのお方自身の身にやや問題があるようにも思われたので、ここでは敢えて名は伏せおくことと致す――の知行地より掘り出されたるものとのことで、その御方御自身、その石を持って来られたのであるが、
――大きさは一寸七、八分ほどの小石
であった。
「……拙者、これ、何か、握った途端、ブルブルッツ! ビビビッッツ! ときて御座ったッツ!……何かあるッツ! と、の!……そこで、これ、江戸表まで、大事大事に握り締めたまま持ち帰りまして、の! ずっと! 握り締めて御座ったによって飯も食わず御座ったじゃッツ!……今朝、帰りつくや、これ、よぅく、土を洗い落としてみましたじゃ。……すると!!――ほれッ!!……ここのところじゃッツ!!……よぅ見て御座しゃれッツ!!……象に乗ったる!……普賢の像!――これ! 自ずと見えておりましょうガッ!!!…………!!!…………