耳嚢 巻之十 男谷檢校器量の事
男谷檢校器量の事
男谷(をたに)檢校と云(いふ)坐頭は、秋元但馬守在所城下最寄(もより)の出生(しゆつしやう)にて、但馬守方へも出入せしが、或時但馬守土圭(とけい)をあれ是(これ)取(とり)、右の内代金三拾兩餘の土圭、何か通途違ひ面白き品(しな)故、檢校へ相見(あひまみえ)、買申間敷哉(かひまうすまじきや)の段檢校へ被申(まうされ)ければ、直段(ねだん)を承り、望(のぞみ)無之(これなき)由を申(まうし)ける故、何故不需(もとめざるや)哉と尋問(たづねとひ)しに、三拾兩にて數多(あまた)の人の命を助け可申(もうすべく)、望無之由、不興に申立歸(まうしたちかえ)りしを、吝嗇(りんしよく)もの、非禮なりとて但馬守憤り、出入りを留(と)め候程に申付(まうしつけ)られし。しかるに四五年過(すぎ)て、彼(かの)領分凶作にて百姓飢(うゑ)におよび候儀有之(これある)節、男谷在所の事故、早速罷越(まかりこし)、壹軒に付米五俵錢何程とかを差遣(さしつかは)し、其村の危急を救ひける故、追(おつ)て男谷方へ罷越(まかりこし)、右返金禮謝の儀申入(まうしいれ)候者有(あり)しが、左樣成(さやうなる)趣意にはあらず、決(けつし)て難受(うけがたき)由にて斷(ことわり)ければ、農民も外(ほか)いたし方なく、男谷在所事なれば、大造成(たいそうなる)石塔を建立して、檢校が追福(ついふく)等をなしけるに、或時領主入部(にふぶ)にて鷹野(たかの)とかの折柄、右石塔を見て仔細を尋問(たづねとひ)しに、右の荒增(あらまし)申答(まうしこたへ)ければ、扨は彼が心組(こころぐみ)僞(いつはり)なしとて、其後は再び懇意を加へられしと也(なり)。
□やぶちゃん注
○前項連関:なし。年時が記されていないが少なくとも登場人物の一人秋元永朝は文化七(一八一〇)年に亡くなっており、「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年であるから、ここまでの直近の出来事とは性質を異にしている。なお、現代語訳では当時の差別意識を如実に示すため、わざと差別用語としての「ど盲(めくら)」という語を用いたことをここに断っておく。
・「男谷檢校」底本の鈴木氏注に、『廉操院。越後国男谷郷出身の盲人で、江戸に出て検校になり、金貸で巨富をたくわえ、市内に十七か所の地所を有し、水戸家一家のみで七十万両の大名貸しをしていたといわれる。死に臨み諸家の貸証文をすべて火中にし、三十万両の遺産を九人の子に遺した。末子平蔵は三万両余の遺産を持って旗本の養子となったか、その長男燕斎は書家として名をなした。燕斎の長男精一郎は、剣客として名を上げた男谷下総守信友。燕斎の三男亀松は勝元良の養子となり、その子が勝海舟である。(勝部兵長氏『夢酔独言』解説による)』とある。「檢校」及び以下に出る「坐頭」は「耳嚢 巻之二 思はず幸を得し人の事」に既注。
・「秋元但馬守」底本の鈴木氏注に、『永朝。山形城主、六万石。なお、男谷という地名は、山形附近にもまた新潟県下にも見付けることができないが、検校の出身はいずれであるか、疑いをのこしておく』とある(下線やぶちゃん)。秋元永朝(つねとも 元文三(一七三八)年~文化七(一八一〇)年)は出羽山形藩第二代藩主。五千石を領した大身旗本上田義当(よしまさ)四男として生まれる。義当は初代藩主秋元凉朝(すけとも)の実兄であった。後、凉朝の養子となり、明和五(一七六八)年に凉朝が隠居したため、家督を継いでいる。安永九(一七八〇)年十二月に但馬守に遷任されているから、本話柄の前半も、それ以降のことであろうか。天明三(一七八三)年、村山郡が凶作となり、それが原因で天明四(一七八四)年五月に藩内で米騒動・打ちこわしが起こった、と参照したウィキの「秋元永朝」にはある(所謂、天明二(一七八二)年から八(一七八八)年にかけて発生した天明の大飢饉飢饉である。本話の後半はそれを髣髴とさせる)。なお、岩波の長谷川氏注には、男谷は『越後国男谷郷出身という』とあり、グーグル・ブックスで視認した四條たか子著「幕末志士伝4 佐幕の志士たち」(ブルボンクリエイション二〇一四年刊)には、男谷検校は越後(現在の新潟県)の出身であると明確に記されてある。しかし越後国には男谷郷という地名は確かに見当たらない(小谷郷(新潟県中越地方の小千谷市近郊)ならばある)。しかも越後国とすると本話冒頭の「秋元但馬守在所城下最寄の出生」と齟齬が生ずることとなる。
・「土圭」時計のこと。ここでの当て字ではなく、「土圭の間(ま)」と書けば、江戸城で時計を設置して坊主が勤務しては時報の任に当たった部屋、或いは大名・旗本などの屋敷で時計の置いてあった部屋を指す。
・「入部」普通は領主・国司などがその領地・任地に初めて入ることを言うが、ここは厳密な意味での最初のそれを指しているのではないと思われる。
■やぶちゃん現代語訳
男谷(おたに)検校の器量についての事
男谷検校と申す座頭は、秋元但馬守永朝(つねとも)殿の御在所御城下の最寄りが出生(しゅっしょう)にて御座ったによって、但馬守殿方へも、よぅ出入致いておられたが、ある時、但馬守殿、好事(こうず)で蒐集なされておられた時計を、これ、あれこれ取り出だいては、
「……これらのうち……さうさ! これはどうじゃ?……まず、代金は三十両は下らぬ時計じゃ。……如何にも、ありきたりの時計とはこれ、形も音(ね)の響きも、まるで違(とご)うた、まっこと、面白き品(しな)で御座ろうが!……」
と仰せられるると、検校に寄って昵懇に、
「どうじゃ?――買わうぬか?」
と、慫慂なされた。
すると検校は、再度、
「今、お幾らと申されました?」
と返したによって、
「三十両じゃ。……そちにとってはただ同然であろうが。」
と応じたところ、
「――一向、拙者、求めんとする思い、これ、御座いませぬ。」
と申したによって、但馬守殿、
「……何故(なぜ)じゃ?……何故、これほどのよき品、これ、求めぬのじゃ?!」
と問い質いたところが、
「――我ら、三十両あらば――これ、数多(あまた)の人の命を助けんがために使いとう存じますれば。――求めんとする思いは、これ、御座いませぬ、と申し上げたまでのこと。――では。今宵は、これにて失礼仕りまする。――」
と、硬き表情にて申し上げたかと思うと、すっくと立って、むっとした顔つきのまま、これ、退出致いたと申す。
それを見た但馬守殿は、
「……な、何じゃ!? ど盲(めくら)の、ど吝嗇(ケチ)がッツ!……何という、ひ、非礼な奴じゃッツ!!」
と、殊の外、憤られると、
「――あんな輩(やから)はこれ、向後一切! 屋敷出入り差し止めにせいッツ!!!」
と、えらい剣幕で申し付けられたと申す。
ところが、それから四、五年ほども過ぎてのことで御座った。
かの但馬守殿御領分、大きな凶作が、これ、襲い、百姓らは皆、想像を絶する地獄の飢えを耐え忍んでおるという話が江戸表へも伝わって参った。
また、その最たる惨禍の地が、これ、男谷(おだに)検校が在所のことと知れたによって、男谷殿は早速、故郷(ふるさと)へと足を運ばれ、一軒に付き、米五俵・銭何百文宛てをも均等に差し遣わされ、男谷村の危急を救うて御座った。
さればこそ、同村の名主ら、おって男谷検校が方へと罷り越すと、かの義捐の折りに授けられたところの金子をこれ総て返金致いて、謝礼の儀を申し入れようと致いたが、検校殿は、
「――さようの謝礼を受けんとする趣意にて成したることにては御座らぬ。――かくなる返礼は、これ、とてものこと、受け難きものにて御座る。――」
と、一切を断られたによって、かの村の郷村の農民らも、これ、致し方なく、男谷検校が在所のことなればとて、たいそうなる石塔を建立(こんりゅう)なし、検校が義捐を顕彰致いたと申す。
さてもその後のある折り、御領主但馬守殿、久々に入部(にゅうぶ)なられ、鷹狩りとかを催された折から、黒谷の辺りまで足を延ばされたところが、その見かけぬ新しき大きなる石塔を目に止められたによって、仔細を質し問われたところ、以上のあらましを名主以下郷村(ごうそん)の者、皆、口を揃えてお答え申し上げたによって、
「……さてもかの者の心底、これ、偽りなきものにて御座ったのじゃのぅ!……」
と、殊の外、感じ入り、その後(のち)は、これ再び、検校を懇意の者として、お加えになられたと申すことで御座った。