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2015/03/29

耳嚢 巻之十 四瞳小兒の事

 四瞳小兒の事

 

 文化十酉年三歳に成る由、尾陽賤(いやし)きもの、四瞳(しどう)の小兒を産(うみ)しに付(つき)、尾州公の儒臣家田多門作文を人の見せける故、記(しるす)。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。以下、まず、返り点と句読点のみの訓点が振られた底本原文を示す。その後に私のこの漢文体を訓読したものを示す。]

古有重瞳子者、大舜及項籍、此書傳所載焉。我方豐臣秀吉亦重瞳子云。此佗則未曾聞。今玆辛未歳、予在國黌明倫堂。一士來語云、濃州加納之野民、有瞳子兒。頃日同僚士見焉。具語其狀。時加納書生、有學于予、而堂中官舍。乃召問之。對曰、信也、今年當三歳、寡君客歳召見之、兩眼皆四瞳子、眼中盻而黑白鮮也。其兒不敢憚一レ人、毎其見一レ人、其父母教之拜。然於如農賈則不肯拜焉。苟見士人則乃拜之。且不好弄物、特欲刀。居恒飮食乃行歩、不於人而、欲於人。寡君賜之俸、而令其父母敬育之。此兒成而其如何人也、我欲其成

 

□報告書箇所のやぶちゃんの書き下し文

[やぶちゃん注:底本の訓点及び岩波版の長谷川氏の訓点(送り仮名とごく一部の読みがある)を参考にしつつ、私が訓読したものを示す。読み易くするためにシチュエーションごとに改行した。孰れの訓点にも従わなかった箇所もあるので、全くのオリジナルとお考え戴きたい。誤字と思われるものは【 】で正字を示した。最後の一文は筆者の感想と判断した。]

 

 古へ、重瞳子(ちやうどうし)有る者、大舜(だいしゆん)及び項籍(こうせき)、此れ、書の傳へ載せし所なり。我が方には、豐臣秀吉、亦、重瞳子と云ふ。此の佗(ほか)、則ち未だ曾つて聞かず。

 今玆(きんじ)の辛未(かのとひつじ)の歳(とし)、予、國黌(こくくわう)明倫堂(めいりんだう)に在り。一士、來り語りて云はく、

「濃州加納の野民(やみん)に、瞳子(どうし)の兒(じ)有り。頃日(けいじつ)、同僚の士、焉(これ)を見たり。」

と。具さに其の狀を語る。時に加納書生、

「予に從學(じふがく)する者有り、堂中にて官舍す。乃ち、召して之に問ふ。對して曰はく、

『信なり。今年三歳に當り、寡君(かくん)、客歳(かくさい)召して之を見るに、兩眼、皆、四瞳子(しどうし)、眼中、盻【盼(へん)】にして黑白(こくびやく)鮮かなり。其の兒、敢へて人を憚らず、其れ、人を見る毎(ごと)に、其の父母、之を拜せしむ。然して農賈(のうこ)のごときは則ち拜を肯(うけが)はず。苟(いや)しくも士人を見れば、則乃(すなは)ち之を拜す。且つ弄物(らうぶつ)を好まず、特に刀を佩かんと欲す。居恒(つねづね)、飮食乃び行歩(ぎやうほ)、人に後(おく)るるを欲せずして、人に先んずるを欲せんとす。寡君、之れに俸(ほう)を賜ひて、其の父母をして之を敬育せしむ。』

と。

 此の兒、成(せい)して其れ、如何(いかなる)人となるや、我れ、其の成せるを觀んことを欲す。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。奇形譚。尾張藩絡みの出来事が、ここのところ多いのは、話者が同一であるからか。実録で資料も添えられてある。ただ、この報告書、よぅく読むと、その児童に直接逢った人物の直談が記されているのではないようにも読める(こういうボカシは都市伝説特有のものである)。その辺り、眉に唾しておく必要があるようにも思われる。

・「四瞳」瞳が四つあるということ。これは両眼合わせて四つで、それぞれの眼は重瞳ということを言っていると読む(報告書の叙述はほぼ「重瞳」で一貫していて「重瞳」どころかその倍の「四瞳」をそれぞれの眼球に持っていると一箇所もなっていない点、唯一の「兩眼皆四瞳子」は「両眼を合わせて確かに四つの瞳を持つ重瞳」と読んでしっくりくる点、万が一にも一つの眼に瞳が四つあるとしたら描写の叙述がその四つが例えば骰子の目のように配されているといった表現となるはずなのにそれが見られない点などより)。ウィキの「重瞳」によれば、この異様な奇形については特に『中国の貴人の身体的特徴として表現されることが多い。たとえば、伝説上の聖王である舜は重瞳だったという。また、資治通鑑などの史書によれば、項羽も重瞳だったという』。『明らかな異相であるが、王の権威付けのためか、特に古代中国の王には重瞳にかぎらず、常人とは異なった身体的特徴をしていることが多い。たとえば、文王は四乳といって乳首が四つあったといわれ、禹は三漏といって耳の穴が三つあったという伝承が残っている』。『日本においても重瞳は貴人の相と考えられ、豊臣秀吉、平清盛などが重瞳だったという伝承がある』。『もっとも、これについての信憑性はきわめて薄く、まともに論じられることはめったにない。物語においては、壇ノ浦夜合戦記で源義経、幸田露伴の』「蒲生氏郷」『で秀吉が重瞳だったという設定になっていたりもする』。『海音寺潮五郎は、水戸光圀、由井正雪などについても重瞳であったという説を紹介した上、「ひとみが重なっている目がある道理はない。おそらく黒目が黄みを帯びた薄い茶色であるために中心にある眸子がくっきりときわだち、あたかもひとみが重なっている感じに見える目を言うのであろう」と論じている』(以下に述べる私の若い頃の仮説と同じである)。『また、中国の文学者であり歴史家でもある郭沫若は、「項羽の自殺」という歴史短編で、重瞳とは「やぶにらみ」のことであろうと言っている』(郭沫若好きの私は、これも結構、説得力があるという気がしている)。

 この真正の瞳が二つある症状は医学的には多瞳孔症(または多瞳孔)と称されるものであるらしいが、実際に白目の中に瞳が別々に二つあったとすると複視が発生して歩行どころか対象を見ることも困難なのではあるまいかとも思われる(後で述べるが脳内処理で正常なものに補正される可能性もあるか)。とすると、あり得るとすれば、これは虹彩離断(毛様体への虹彩の付着によるその局部的な分離や剥離症状で「虹彩断裂」とも呼ぶ。Iridodialysis 或いは coredialysis)で、一つの瞳孔の中に虹彩とは別な虹彩のような円(瞳)状の分離・剥離が発生していて、あたかも瞳孔が二つあるように見えるということか(ウィキの「虹彩離断」及び正式な眼科医のサイトを参照されたいが、これは実際に先天的にも後天的にも発生するようである。但し、この子はまだ満二歳で両目がそうなっているというのであるから先天的なものであろう。なお、複視がどの程度に発生するのかは調べて見たがよく分からないが、手術を必要とする場合があるとあり、これは、そうでない、複視が生じないか殆どない手術を必要としないケースもあるように読み取れる)。この児童は普通に対象が見えているように思われ、普通に歩行しているようだし、観察者は両目ともに白目と黒目がはっきりと分かれている重瞳であると記しているから、一つの可能性としては複視を伴わない先天性の虹彩離断と考えるのが妥当か? ただ私は実は、項羽の「重瞳」を教師時代に解説した際には、先に述べた通り、黒板に絵を描き、瞳が二つ並んだ重瞳では複視が起ってまともに物は見えないだろう、とすると、これは瞳孔が黒々としているが、その周囲の虹彩が同心円状に有意に色の異なった明るい色(しかし白目との境界線はくっきりとしている)を持っていて、二つのディスクが重なっているように見えるだけなのではないかと説明していた。それは、一つの眼球に瞳が並列(平行)して二つある「重瞳」という眼球の奇形が本当にあるのかどうかということをやや疑っているからではある。都市伝説的な白目の中に二つの丸い瞳孔の画像は検索をかけると確かに出るには出るのだが、どれも画像処理がなされた嘘臭いものとしか見えず、眼科医のサイトなどには見当たらない。ただ、その検索を続けると実は、素人の書き込みながら、実際に知人に多瞳孔症の人がいて、これは結構多いのだと言いながら、病名の後に括弧で虹彩離断と虹彩異色症(「症」と言えるかどうか疑問)の合併のような表記をしているのを発見したから、やはり私は今はこの、先天性の虹彩離断を「重瞳」と称しているのではないかという説の可能性も視野に入れるべきであるとは思っている。ただ、ねっとの書き込みに「三つ目」という不思議な投稿記事をも見つけた。但し、これもその叙述には、これ所謂、そこはかとない都市伝説的な口調が感じられるのではあるが、その質問に答えている人々は彼の告白を信じている様子が窺われる。この真正の多瞳孔症(実際にそのような病態を見たことも聴いたこともないのであるが、多瞳孔症の先天性奇形はあり得ないとは断言出来ない気はする。その場合、一方が機能していないか或いは複視を修正して正しく見えるように脳内に於いて処理されていると考えれば問題ない。そうした処理は脳の作業にあってはお手の物である)……さて? あるのか? ないのか?……そのうち、眼科医の古い教え子に逢ったら聴いてみようとは思ってはいる。その時はまたここに注を追加する。

・「文化十酉年三歳」「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月。

・「尾州公」当時の藩主は文化一〇(一八一三)年八月までは第十代藩主徳川斉朝(なりとも 寛政五(一七九三)年~嘉永三(一八五〇)年:第十一代将軍徳川家斉の弟で一橋家嫡子だった徳川治国の長男)である(彼はこの文化十年八月十五日に家督を家斉の十九男斉温(なりはる)に譲って三十五歳の若さで隠居、以後、名古屋で二十三年間に亙る隠居生活に入った。但し、次代の藩主斉温が一度も尾張入りしなかったため(彼は病弱を理由に江戸藩邸に常住、襲封後、嘉永三(一八五〇)年に二十一の若さで死去するまでの十二年間、第十一代尾張藩主でありながら、何と一度も尾張藩領内に入らなかった)、その後も「大殿」として隠然たる力を持ったとされる。以上はウィキの「徳川斉朝」及び「徳川斉温」に拠った)。最後に俸を賜うところなど、明らかに斉朝らしい感じはするが、しかし、実はこの最後に登場するのは「尾州公」ではあり得ないのである。後注「濃州加納」を参照されたい。

・「家田多門」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『塚田多門』で、この人物なら実在する(岩波の長谷川氏注は藩校『明倫堂督学』(「督学」は学事監督職で現在の校長である。明倫堂は後注参照)とする)。「長野県デジタルアーカイブ推進事業」に県立長野図書館蔵「儒者塚田多門申上書」が読めるが、その解説によれば、塚田多門(大峰)(延享二(一七四五)年~天保三(一八三二)年)は儒者で医師の塚田旭嶺四男として善光寺町桜小路(現在の長野市桜枝町(さくらえちょう))で生まれ、十六歳で江戸に出て苦学を重ね、天明元(一七八一)年尾張藩儒細井平洲に認められて尾張藩の藩侯侍読となり、やがて江戸に家塾を開いたとある。リンクで視認出来る文書は、寛政二(一七九〇)年に老中松平定信が寛政改革の一端として寛政異学の禁を発令、林家の湯島聖堂を官学(昌平坂学問所)とし、朱子学を正学とするもので、それに反対する意見書である。其の大意は、「人は其の気質の近き所によりて各好む所同じからざることに御座候えば、また、弓馬劍槍の術も人々の好みに任せて修行仕る事に御座候えば、學問も本流の流れに御座なく共、人々の好みに任せて修行致させ度ものと存知奉り候」という至極真っ当なものである。これは例外的に正しい「塚田」に直す。それによって本内容の信憑性が遙かに増すからである。但し、これが徹頭徹尾デッチアゲの都市伝説であったとすれば、無論、塚田がその発信源なのではない。恐らく寧ろ彼は信憑性を高める目的で体(てい)よく騙され利用された口である。

・「大舜」中国古代の五帝(「史記」では黄帝・顓頊(せんぎょく))・帝嚳(こく)・尭(ぎょう)・舜)の一人舜の敬称。

・「項籍」秦末の、劉邦(沛公・後の漢の高祖)と覇権を争った楚の武将の項羽の本名。私は高校二年生の蟹谷徹先生の漢文の授業で「史記」の「項羽本紀」を習い、そこで初めて「重瞳」という言葉や様態を知った。思えば、四十年も前のこの語との出逢いだった。

・「豐臣秀吉亦重瞳子」先に引いたウィキの「重瞳」を参照。

・「佗」他。它・侘(この「佗」の誤用慣用)なども「ほか」と読む。

・「辛未の歳」文化八(一八一一)年。

・「明倫堂」尾張藩藩校。ウィキの「明倫堂」によれば、寛延二(一七四九)年創立。天明二(一七八二)年に徳川宗睦(むねちか/むねよし)が再興し、天明三(一七八三)年に開校。細井平洲が初代督学(校長)となり、岡田新川・石川香山・冢田大峯(本資料の筆者と同一人物)・細野要斎ら儒学者が後を継いだ。藩士の子弟だけでなく、農民や町人にも儒学や国学を教え、初期の生徒数は約五十名であったが、後には約五百名まで増加していった。天明五(一七八五)年に聖堂が設けられ、天明七(一七八七)年から復刻を行った「群書治要」などの漢籍は「明倫堂版」と呼ばれ、木活字版が多い。明治四(一八七一)年に廃校となったが、明治三二(一八九九)年に明倫中学校として復活、愛知県立明和高等学校として現在に至っている。なお、リンク先を見ると分かるように「明倫堂」と称する藩校は実際には複数の藩(リンク先には八つ挙げられてある)に同名で存在した。

・「濃州加納」岩波の長谷川氏注に『岐阜市』とあるが、現在の岐阜県岐阜市は美濃国厚見郡加納で加納藩領である。この当時の藩主は第四代藩主永井尚佐(なおすけ 天明三(一七八三)年~天保一〇(一八三九)年)である。ネットで確認すると、加納藩領には下加納村と上加納村が含まれていることが分かる。ということは、加納藩領でない(上で下でもないところの)尾張藩の飛地としての「加納」という村が存在したのであろうか? どうもおかしい。なお、さらに調べて見ると、美濃国ではなく尾張国であるが、現在の岐阜市の南東五キロほどの位置にある丹波郡に加納馬場村(無論、旧尾張藩領)という地名を見出せた(水野日向守氏サイト「水野日向守本陣」内「愛知県地名変遷」の「丹波郡」参照。)。問題は冒頭で根岸が「尾陽」「の小兒」としている点なのであるが、これは齎された文書が尾張藩の塚田の書いたものであったことに起因するミスと考えれば納得が行く。そうすると、後に注する「寡君」の表現も納得が行く。則ち、彼は加納藩の書生であるから、尾張藩の塚田に対しては主君を「寡君」と使うのである(後の「寡君」の注を参照のこと)。ただ、加納藩の若者が尾張藩の藩校に入校して寄宿舎で修学するというのは可能なことだったのかのかどうかは分からない(何となく、出来そうな気はする)。ともかくも識者の御教授を乞うものではある。

・「盻【盼(へん)】」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『肦』で、長谷川氏の注に、『盼。ハン・ヘン。眼の黒白がはっきりしていること』とあるのに依って訂した。「盻」は音「ゲ・ゲイ」で睨むの意、「盼」は音「フン・ブン・ハン」で高い・分けるの意であるが、これらではぴんとこない。「盼」は大修館書店「廣漢和辭典」によれば、音「ハン・ヘン」で、①目の黒白がはっきりしていて美しい。②目使う。美しい目を動かす。③見る。かえりみる。/音「ハン」で美しい目とある。①を採る。……それにしても、どうもこのあたりがピンとこないのだ。◎◎――瞳が二つ、一方の瞳◎の他に、それにくっついてか離れてか左右或いは上下に並んでか、もう一つ瞳が◎がある――というのなら、もう少し表現の仕方、書きようがあろうと思うのだ。寧ろ、そう考えると、またぞろ、私の古い印象である瞳は一つで、◎のようにディスクが二枚くっきりと重なって見えているのではあるまいか? という方にまたまた、私は傾いてしまうのである。

・「農賈」「のうか」とも読める。農家(のうか)と賈家(こけ:商家。)で、百姓と商人(あきんど)のこと。

・「居恒(つねづね)」これは岩波の長谷川氏のルビをそのまま用いさせて戴いた。

・「寡君」前に出た「寡徳の君」(徳の少ないことを言い、通常は自己を卑下して言う)の意で、諸侯の臣下が他国の人に対して自分の主君を自分の側として遜っていう形式上の謙遜語である。とすれば、この重瞳の児童の居る場所が加納藩であるなら、それに「俸」(教育費)を与えた「寡君」というのはここでは加納藩藩士の直接話法であるから、尾張藩主徳川斉朝ではなく、加納藩藩主永井尚佐を指しているということになるのである。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 四瞳(しどう)の小児の事

 

 文化十年酉年で三歳になる児童の由。

 尾張藩内のごく身分の低い農民で、両目合わせて、これ、四つの瞳(ひとみ)を持った小児を出生(しゅっしょう)したという珍事につき、尾州公の儒臣(じゅしん)である塚田多門(つかだたもん)殿の作成された文書を、人が見せて呉れたので、ここに記しおくこととする。

   《当該文書引用開始》

 古え、重瞳子(ちょうどうし)これ有る者は、大舜(だいしゅん)及び項籍(こうせき)と、幾多の書の伝え載せているところではある。

 本邦にては豊臣秀吉もまた、重瞳子であった、とは言う。

 しかし、この外にはこれ、いまだ曾て聞いたことはない。

 ところが、今年辛未(かのとひつじ)の年、私、國黌(こっこう)明倫堂(めいりんどう)にあったが、一人の尾張藩士の来たって語って曰く、

「濃州加納の賤しい民の子に、重瞳の子の児(こ)が御座います。つい最近、同僚の武士が、これを目の当たりに見て参りました。」

と、具さにその報告を齎(もたら)したのであるが、まさにその折り、その加納村の出である一書生が私の内弟子として現にあり、学舎の中にて先方の藩方より官費を以って寄宿成し、修学していた。そこで、その者を召し出し、これにその真偽について質してみた。

 するとその際の直談にて申したことに、

「……それは確かなことにて御座います。その児童はこれ、今年で三歳になる者にて御座います。

 昨年のことで御座いますが、我が加納藩主君、この者を召し出だし、特に親しく対面(たいめ)なされましたところ、両目ともに合わせて四つの瞳を有しており、眼中はこれ、黒目と白目とが実にくっきりと鮮かに分かれていることは、主君自ら、お認めになられて御座います。

 さてもその子は、これ、特に人を憚るということが御座いませぬ。

 この子どもは、人と対面致しますごとに、その父母が、この子に挨拶をするよう、命じまする。

 ところが――いまだ頑是ない三歳の子で御座いますが――百姓や商人(あきんど)には、これ、いっかな、挨拶をしようと致しませぬ。

 ところが、いやしくもこれ、相手が武士と見るや、直ちに深々と拝礼致すので御座います。

 かつまた、この子、一向、玩具に興味を示さず、寧ろ、いや殊更に、刀を佩(は)かんと欲するので御座います。

 三歳ながら、日々の飲食乃び行動に於いても、これ何より、人に後(おく)るることを厭(いと)い、如何なる場合もこれ、誰(たれ)よりも先んずることを第一に欲するので御座います。

 さればこそ、我らが主君も、これに俸(ほう)を賜わられ、その父母に十全なる教育を施すよう、これ、命じておられまする。」

とのことであった。

――さても、この児童であるが、恙なく成人したとして、これ、一体、如何なる人物と成るのであろうか?

――ともかくも私は、その児の成人となったる姿をこれ、是非とも見たいと思うのである。

   《当該文書引用終了》

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