耳嚢 巻之十 深川の白蛇船頭の跡追ふ事
深川の白蛇船頭の跡追ふ事
文化十酉年、本所押上(おしあげ)の普賢(ふげん)殊外(ことのほか)參詣多き事ありしが、同年二月の頃、深川へ客を送りけるや、川筋の船頭翌朝戻り舟を漕歸(こぎかへ)りけるに、餘程の白蛇、右舟に付(つき)跡を追ひて來りし故、己が河岸(かし)へ船を付(つけ)しに、尚上へ上りて船頭の跡へ附(つき)、彼(かの)家の内へ入りければ、妻子恐れけるを制して、桶をかぶせ置(おき)て、翌日押上の普賢へ納(をさめ)けるに、右寺には名代(なだい)の大木の松ありしに、右松の邊にて隱顯して住(すみ)けるを、白蛇を見んと追々參詣群集(ぐんじゆ)なしけると也(なり)。
□やぶちゃん注
○前項連関:なし。動物奇譚。
・「文化十酉年」「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月。
・「本所押上」「本所押上」は現在の東京都墨田区本所の北端部に当たる押上地区(押上・業平・横川)は東京スカイツリーで知られる。
・「普賢」というのは、この墨田区業平にある日蓮宗長養山春慶寺(東京スカイツリー南東約二百メートルに位置する)にある普賢堂の普賢菩薩のこと(本尊は釈迦如来)。同寺公式サイトによれば、春慶寺は元和元(一六一五)年に浅草森田町に真如院日理により創建され、寛文七(一六六七)年、浅草から本所押上村へ移転したとあり、古くから「押上の普賢さま」と称され、特に辰年・巳年の守り本尊として多くの参詣人で賑わったとある(因みに、この寺は四世鶴屋南北の菩提所でもある)。底本の鈴木氏注に、『本所押上の普賢菩薩は、春慶寺の普賢堂の事なり。推古朝百済の僧観勒の請来と云、二寸八分の尊像と云、文化九年壬中三月十四日より開帳、夫より引つゞきて参詣多かりしか。(三村翁)』とある。この像は六本の牙をもった白象に乗るもので、現在は普通に拝観出来る。公式サイトのこちらでも画像が見られる。
・「深川」非公認の深川(洲崎)遊郭へは客は舟で通った。
■やぶちゃん現代語訳
深川の白蛇、船頭の後を追うこと事
文化十年酉年は、本所押上の普賢の開帳に、これ、殊の外、参詣の者、数多御座った。
それに先立つ一月ほど前のことの由。
同年二月の頃、深川の遊里からの帰りの客ででもあったものか、川筋の船頭、朝方に船を使い、客の降りて、戻り舟を漕ぎ返しておったところ、かなり大きなる白蛇(はくじゃ)が、これ川面を、その船頭の舟について後を追うて参るのに気づいた。
自身の舫(もや)いの河岸(かし)へ舟をつけても、この白蛇、なおも、陸(おか)の上へと登り、船頭の後をついて参って、遂には、かの者の家の内へまで入(はい)り込んだによって、船頭の妻や子は、これ、大いに恐れた。
されど船頭、その騒ぎを制して、蜷(とぐろ)を巻いて凝っとしておる白蛇に、そっと桶を被せおいた。
さても翌日のこと、船頭は、やはりちんまりと静かにしておった白蛇を、これ、桶内に移すと、かの押上の普賢さまへと持ち込んで、この白蛇を寺へ納めたと申す。
かの春慶寺には知られた大木の松の御座るが、この白蛇、その松の辺りにて、これ、姿を見え隠れさせつつ、住みなしておると申すが、これまた、その白蛇を見んものと、近頃は、またまた参詣の者、これ、群聚(ぐんじゅ)なしておる、とのことで御座る。
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