橋本多佳子句集「命終」 昭和三十二年 足摺岬・新居浜 他
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生きてまた絮あたたかき冬芒
[やぶちゃん注:「絮」「わた」と訓じていよう。]
木枯の絶間薪割る音起る
ひとたび来し翡翠(かはせみ)ゆゑに待ちつづく
吸入器噴く何も彼も遠きかな
胡桃割る音団欒のおしだまり
足摺岬
枯れ崖(きりぎし)長し行途につきしばかり
また同じ枯れ切通しこの道ゆく
紅実垂る大樹長途も半ば過ぐ
[やぶちゃん注:「紅実」「くみ」と訓じているか。]
郵便脚夫に鴉は故旧枯山中
[やぶちゃん注:「郵便脚夫」「ゆうびんきやくふ(ゆうびんきゃくふ)」は郵便集配人の旧称。「故旧」は昔馴染み・旧知の意。]
りんりんと海坂張つて春の岬
[やぶちゃん注:「海坂」「うなさか」と訓じていよう。]
断崖にすがるよしなし海苔採舟
海の鴉椿林の内部知る
椿林天透きてそこ風疾し
一人の遍路容れて遍路の群増えず
冬の旅日当ればそこに立ちどまる
新居浜
かりかりと春の塩田塩凝らす
一丈のかげろふ塩田に働きて
黒々とかげろふ塩田万一里
出来塩の熱きを老の掌(て)より賜(た)ぶ
[やぶちゃん注:これら(前年末と推定される冒頭五句を除く)は年譜の昭和三二(一九五七)年二月の条に、『NHK放送のため、誓子と新居浜、足摺岬へ旅行。遍路に会う』とある折りの吟詠であろう。NHK放送は以前より多佳子の出演していたラジオ番組「番茶クラブ」か。「新居浜」は「にいはま」と読み、愛媛県東予地方に位置する市。多佳子が訪れたのは多喜浜塩田(たきはまえんでん)であろう。正徳六・享保元(一七一六)年に開田され、享保年間に備後国から招かれた塩業家天野喜四郎によって幾度もの拡張工事がなされて総面積二百三十八ヘクタールに及ぶ日本有数の大塩田に発展、代々天野喜四郎の子孫によって受け継がれ、長年に亙ってこの地方の重要な産業基盤となったが、この多佳子来訪の僅か二年後の昭和三四(一九五九)年、国策によって廃田となった(現在は埋め立てられて新居浜市を代表する工業団地となっている。以上はウィキの「多喜浜塩田」に拠った)。この四句、結果して、まさにこの塩田の落日を描いていて、いや万感胸に迫る思いがするではないか。]
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