フォト

カテゴリー

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 吾輩ハ僕ノ頗ル氣ニ入ツタ教ヘ子ノ猫デアル
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から
無料ブログはココログ

« 本日夜閉店 心朽窩主人敬白 | トップページ | 柳田國男 蝸牛考 初版(7) 方言轉訛の誘因 »

2015/03/22

耳嚢 巻之十 老婦相對死望出奇談の事

 老婦相對死望出奇談の事

 

 淺草藏前札差渡世のものといへども、其證はさだかならず。文化九年度の事なりと、人のかたりしを爰に記しぬ。渡世豐(ゆたかに)にくらしぬる町人、十八九年以前、輕き町人の悴にて、母もなく兄弟多(おおき)にて、右札差の許へ丁稚(でつち)に出しけるが、漸(やうやく)八九歳なれば札差の妻是を哀れがりて、子供やなかりし、抱□などして殊にいつくしみ育てけるが、夫も身まかり其子の代になりても、相變らず右丁稚をいつくしみ育てけるに、丁稚も年頃になりしに、いつの程にや後家はいつくしみの餘り密通して、衣食とも右後家より厚く世話いたし、重手代(おもてだい)にて別家(べつけ)などなしける。實の父母兄弟ども右餘陰(よいん)を得て不貧(まづしからず)くらしける。しかるに、年頃にもなり候間、右別家の手代に妻むかえんと、父母知音(ちいん)抔世話いたしけれど、當人曾てて不聞入(ききいれず)、扨又主人の老婆何分得心せず、今に無妻(むさい)にてありしと、笑ひ語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。本文では、主たる舞台となる店が札差であったかどうか確証がないとするが、実際には札差と断定した方がいろいろな不都合や不自然さが総て解消するように私には強く思われる。以下の注もそうしたスタンス(札差として)で書いているので御寛恕願いたい。この話、細部に於いて豪商の未亡人とその使用人の姦通なればこそ成立する(そうでないとこうはならない)箇所が沢山想定されるからである。それらを一々総ては挙げていないけれども、読まれる方はこれを実際に頭の中で映像化してみれば、確かに、と思われるものと私は信じて疑わないのである。

・「老婦相對死望出奇談」「らうふあひたいじにのぞみでるきだん」と読むか。但し、「相對死」はあくまで心中のことであり、この標題、猟奇的な匂いをさせながら、やや羊頭狗肉の感を拭えない。されば、現代語訳の最後は、標題に合わせた演出を施した。

・「淺草藏前」現在の東京都台東区蔵前。ウィキの「蔵前」より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更、注記号は省略した)。『台東区の南東部に位置する。町域東部は隅田川を境に墨田区本所・横網にそれぞれ接する。南部は台東区柳橋に接する。南西部は台東区浅草橋に接する。西部は新堀通りに接し、これを境に台東区三筋・台東区鳥越にそれぞれ接する。北部は春日通りに接し、これを境に台東区寿・台東区駒形にそれぞれ接する』。『付近には厩橋と蔵前橋が隅田川に架かる』。『蔵前という地名はこの地に江戸幕府の御米蔵(浅草御蔵)があったことに由来する』。『この蔵は幕府が天領他から集めた米を収蔵するためのもので、元和六年(一六二〇年)に鳥越神社にあった丘(鳥越山)を切り崩し、隅田川を埋め立てなどして造られた。その総敷地面積は三万六千六百四十六坪(ただし『御府内備考』は二万七千九百坪とする)、東を隅田川、他の南北西の三方を堀で囲み、六十七棟の蔵があった。この蔵の米が旗本・御家人たちにとっての扶持米すなわち今でいう給料となり、これを管理出納する勘定奉行配下の蔵奉行をはじめ大勢の役人が敷地内や、新たに鳥越山北側の姫ヶ池などを埋め立てて役宅を与えられ住んでいた』。『浅草御蔵は、隅田川の右岸に上流から一番、二番と数える八本の堀を作り、それに面した多くの米蔵が連なった。四番堀と五番堀の間には、「首尾の松」という枝を川面に垂れた松の木があった。この名前の由来には諸説がある。首尾の松は江戸中期の安永年間に大風に倒れ、その後何度か接ぎ木を試みたが明治までに枯れてしまった』。『御蔵の随伴施設の厩が北側にあり、この付近から隅田川の対岸に渡る「御厩河岸の渡し」があった。また南側にも渡しがあり「御蔵の渡し」の名があったが、こちらは富士山が見渡せたため「富士見の渡し」とも呼ばれた。御厩河岸の渡しは転覆事故が多く、「三途の渡し」とも言われたことがある』。『御蔵の西側にある町は江戸時代中期以降蔵前と呼ばれるようになり、多くの米問屋や札差が店を並べ、札差は武士に代わって御蔵から米の受け取りや運搬・売却を代行した。札差がこの地域に住むようになったのは寛文の頃にさかのぼるという。札差は預かった米から手数料を引いて米と現金を武士に渡し、現物で手元に残った分の米は小売の米屋たちに手数料を付けて売るほかに、大名や旗本・御家人に金も貸し付けて莫大な利益を得、吉原遊郭や江戸三座を借り切りにするなどして豪遊した』とある(下線やぶちゃん)。

・「札差」蔵米取(「倉米」は諸大名が蔵屋敷に蔵物として回送する米。商品ではあるが、商人が回送する納屋米(なやまい)とは区別されていた)の旗本や御家人の代理として幕府の米蔵から扶持米を受取り換金を請負った商人。札差料は 百俵につき金二分で、手数料はさほどの金額にはならなかったが、扶持米を担保として行う金融によって巨利を得た。前の注の引用の最後の部分などと合わせて考えると、ここに登場するのも札差となれば、想像以上の豪商であった可能性も高い。実際、私は「實の父母兄弟ども右餘陰を得て不貧くらしける」とわざわざ記した辺りにそれを感ずるのである。――セレブ・ウィドウ・マダムの老いらくの恋――である。

・「文化九年」一八一二年。「卷之十」の記載の推定下限は文化十一年六月。

・「十八九年以前」文化九年からだと、寛政五~六年(一七九三~一七九四年)。ということはこの主人公の一人である青年は文化九年当時は満で二十五~二十八である。但し、相手の未亡人の「老婆」であるが、これは現在の老婆という文字通りにとることは出来ない。婚姻年齢が早かった当時は、「老婆」「老人」と呼称されるようになる年齢も早く訪れた。例えば芭蕉は四十代で確信犯で老齢と自認し、周囲もそうした目で見ている事実から見ても、実際には当時は三十代でも「老婆」と呼称された。ここでは有意な年齢差を考えつつも、この女性の気持ちも汲んで、四十歳程度に設定して上げたい気はどこかでしている。

・「丁稚」ウィキの「丁稚」より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更、注記号は省略した)。『江戸時代から第二次世界大戦終結まで行われた商店主育成制度。またはその制度によって入門したばかりの者をさす上方(関西)のことば。年季奉公の一形態である』。ここでは江戸は浅草でありながら「丁稚」と称しているが、厳密には『上方ことばの丁稚に対して江戸(関東)ことばでは「小僧」である』。『十歳前後で商店に丁稚として住み込んで使い走りや雑役をし、丁稚の中でも経験年数によって上下関係がある(丁稚の時の呼び名は「※松」で、※には丁稚の一字が入る場合が多い)。丁稚の仕事は多岐に亘り、前述の他に蔵への品物の出し入れや力仕事が多く、住み込みの為に番頭や手代から礼儀作法や商人としての「いろは」を徹底的に叩き込まれる。また入り口付近に立って呼び込みや力仕事が主な仕事で、商品を扱う事は無い。丁稚奉公の者は、店が一日の仕事を終えたからといって終わりではなく、夕刻閉店した後には番頭や手代らから商人として必須条件である読み書きや算盤を教わった。他店や客からは「丁稚どん」又は「小僧」「坊主」などと呼ばれる』。その後、主人(船場言葉で「だんさん」)の裁量で手代となる(「船場言葉」は「せんばことば」と読み、かつて大阪市船場の辺りで盛んに話されていた言葉遣いで大阪弁の一種。堺方言や京方言が混ざり合った商人言葉として形成されたが、近代化の中で話者が散逸、現在では落語の中に見出されたり、一部の言い回しが残っている程度とも言われる)。『小僧から手代までおおむね十年である。手代はその字の通り、主人や番頭の手足となって働く(手代の時の呼び名は「※吉」「※七」等で、下位の番頭と同じである)。そして、番頭を任され(大商店では「小番頭」「中番頭」「大番頭」と分けられる時があり、呼び名は「※助」である)主人の代理として店向き差配や仕入方、出納や帳簿の整理、集会等の参列など支配人としての重要な業務を任されるようになる』。『番頭となるのはおおむね三十歳前後であり、支店をまかされたり暖簾分けされ自分の商店を持つことが許される。ただしそこに到達するまでは厳しい生存競争に勝ち抜く必要があった』。例えば江戸期の呉服・両替商であった三井家の丁稚の場合は、『暖簾分けまで到達できるのは三百人に一人であった』。『基本的には主人と番頭を筆頭とした徒弟制度であるが、手代より上には給金が支払われ年季奉公の性格があった。手代までは店住まいであるが番頭より上は自宅を構え家族をもつこともあった。丁稚には給与は無く、衣食住が保障されたのみであった。お盆・暮れの年二回、小遣いや藪入りの際の実家への手土産、新しい衣服(お仕着せ)などが支給されることがあった。店主としては商売の教育を施して飯を食わせるのであるから無給は当然であり、丁稚となる者にとっても商売の経験と将来的な独立への布石、また食い詰めた貧家からの丁稚であれば少なくとも飯が食えるというメリットはあった。この報酬体系から丁稚は、しばしば丁稚奉公(江戸言葉では小僧奉公)と表される』。『奉公人の生涯は丁稚からはじまり番頭になるまで一つ商店ひとり主人の下で行われると考えがちであるが、奉公換えは頻繁に行われ、とくに優秀な手代は大店へ移ることで給金や賞金(現代でいうボーナス)が増えることからしばしば行われたようである。近江商人の場合は長年つとめた奉公人よりも中途採用の者が上の階職につくこともあり、能力主義が特徴であった』。『第二次世界大戦後、GHQの指令により労働法規が整備されたことや、義務教育の年限が九年に延長された結果、「長期間の住み込みによる衣食住以外は無給に近い労働」という丁稚奉公のスタイルを維持することが困難となった。丁稚を採用していた企業は近代的な契約による従業員に衣替えさせた。これにより、二百年以上の歴史を持っていた丁稚制度は消滅した。これは、家族経営を主体としていた商店が、近代的企業へと変わっていくのと軌を一にしていた』とある。

・「抱□」底本では右に『(寐カ)』と編者の訂正注がある。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版も『抱寢(だきね)』となっている。

・「夫も身まかり其子の代になりても、相變らず右丁稚をいつくしみ育てける」前の「子供やなかりし」と矛盾する。されば、ここには何か言い添え忘れていることがあるように、思われる(子がなかったのなら、この丁稚を養子に入れて跡を継がせればよい)。跡継ぎがいたのに話柄の中で異様にその影が薄いのは、この母が継母だから(跡を継いだのは先妻の子)と考えるのが最も妥当である。そうすると、この母の添い寝などもよく理解出来る。それを訳では追加した。

・「年頃」江戸の武家社会では形式的には数え十五歳で元服の儀式があり、これをもって成人としていたが、実際に成人と認められるのは、その後、前髪(額の上の部分の頭髪を束ねて前に垂らした向こう髪。童子の髪型)を落とす前髪執(まえがみと)りの儀礼を終え、月代(さかやき)をする十七歳前後であった。ここは町人で性的に成熟していることになろうから、その前後(満十六歳前後)かと考えられる。丁稚に入って七年後ほどか。但し、添い寝あたりから考えると、もっと早くから二人に関係(擬似的性行為)はあった可能性は高い。その場合、どちらかといえばこの未亡人の方から誘いをかけたと考える方が自然であろう。そうしてそれが、彼女にとって本気の恋の炎となったのである。そうでなくては「老婦相對死望出」という標題が生きてこない。しかもこの丁稚は美男であった、継子の方はそうでもなかったなかった、という仮設定も不可欠であろうと思う。なお、江戸時代の農村部の平均初婚年齢というのが、慶應義塾大学通信教育部公式サイト内の浜野潔氏の「古文書で読む江戸時代のライフコース――宗門改帳の世界――」で分かる。それを見ると、武蔵甲山で男子は二十五・五歳、女子が十八・三歳で、しかも西に行くほど晩婚であることが分かる。そうして『大きな地域差があった』ものの、『典型的な江戸時代の庶民は、十代前半から奉公などを経験して家を出て、女性であれば二十歳前後で、男性は二十代半ばから後半で結婚したと思われます』と結論しておられる(引用ではアラビア数字を漢数字に直した)。男性が多く女性が少なかった(江戸後期の男女比は1.8:1と言われる)こと、西高東低は基本的に裕福であると晩婚化するを指すこと、村よりも都会の方が晩婚であることなどから考えると、主人公の青年は話柄の最後では満で二十五~二十八であるから、独身でもおかしくなく、蛆が湧くという訳ではない。にも拘らず、最後に話者が、「今に無妻にてありしと、笑ひ語りぬ」と言って軽蔑して笑うのには――中年婆にすっかり調教され、根性まで骨抜きとなった文字通りの軟弱男が――といった、その二人の閨の様を妄想する猥雑なニュアンスが感じられるとも言えようか。

・「重手代にて別家などなしける」「重手代」は商家で事務を総括する古参の手代。ウィキの「手代」より引く。本来の「手代」は『江戸時代中期以降に、郡代・代官などの下役として農政を担当した下級役人である。地方役人(じかたやくにん)のひとつ。手付(てつけ)、手附(てつけ)など、全国的にさまざまな呼称や似た役職があった。江戸幕府の勘定奉行配下の御林奉行・蔵奉行などの下役にも手代という役職があった。また転じて、商家の従業者の地位をあらわす言葉ともな』った。商家の手代は船場商家の役職の一つとして登場し、『旦那、番頭、手代、丁稚の順で位が低くなる。現代の会社組織でいうと、係長や主任に相当。丁稚が力仕事や雑用が主な業務であるのに対し、手代は接客などが主要な業務であった。つまり、直接商いに関わる仕事は手代になって始めて携われるのであった。手代になると丁稚と違い給与が支払われる場合が一般的だった』。因みに商法(現行商法の成立は明治三二(一八九九)年)には「番頭」「手代」の用語が二〇〇五年の改正時まで残っていたが、『その間に「手代」の地位のある企業はほとんど無くなっていたため、課長、係長など中間管理職を手代と解釈していた。現行法では、より幅の広い概念として使用人(商業使用人)と定義している』とある。「重手代にて別家などなしける」というのは、その重手代の地位のままで、別に店を任されたという意味で採るしかない。支店と訳したが、これ、私は未亡人との関係の継続性が最も肝要であることから考えて、ある種の特別な担当業務を独立させて、店のごく近く或いはすぐ脇に別な事務所に附属した独立の家を買ったか建てたかしたものと考えられる(札差の注で分かるように彼らは一種の豪商であったから何ら不自然ではない)。この丁稚は相応に仕事が出来たし、頭もよかったのであろう。そうでなければ札差の重手代は勤まるまい。また人格的にも未亡人の誘惑を断ることが出来ない優しくも弱い一面を持ちながらも、店主となった継子が追い出すこともなく使用人として使っていたことや、未亡人が同居しているこの使用人に自分と同等の衣食の世話を成すことを許していたこと、しかも前に述べた通り、その当主の継子の影が異様に薄いことなどから考えると、訳として自然なものにするためには、最小限、当主の継子(これも以上のような感じから考えると実は線の細い弱い性格であったのであろう)との関係も決して悪いものではなかったとしないと少し無理がある。そのように翻案を加えた。無論、この未亡人がヒステリックで暴君的女傑で好き勝手放題したという強烈な人物設定に変えて脚本全体を完全に塗り替えることも出来るが、そういうありがちな時代劇は、どうも私は好かんのである。マダム・キラーの美少年と禁断の恋に落ち、遂には彼との心中を口にする未亡人は、やはりしっとりしたものであって欲しい。最後に皆が笑っても――である。

・「實の父母兄弟」「實の」とあって、これは前に「母もなく」とあるのと矛盾する。後添えと解釈した。

・「右餘陰」本格的な援助は「衣食とも右後家より厚く世話」をなすようになってから、暖簾分けの店を持たせてもらってからではあっても、過去は丁稚になった時へまで遡るものであろう。さればこそ、口減らしに丁稚出した父も後妻(前注参照)を貰えるほどにはなったと考えられるからである。

・「知音」満七、八歳で丁稚に入った少年に知音が出来るとすれば、使用人仲間・札差仲間・贔屓の客筋ということになる。ということは、これ、彼が人格的にも優しく、人好きする容貌や態度の持ち主であった可能性が高いと考えて何ら不自然ではない。最後に駄目押し――そもそもが「年頃にもなり候間、右別家の手代に妻むかえんと、父母知音抔」がこぞって「世話」しようとする札差の支店の責任者の男は、これ、ハンサムで仕事が出来るに決まっとろうが!――

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 老婦が相対死(あいたいじに)を切望したという奇談の事

 

 浅草蔵前の札差(ふださし)を生業(なりわい)としておった者の妻とも聞くが、ちょっと確証はない。その積りでお読み頂きたい。文化九年度のことであったと人が語ったものを以下に記しおくこととする。

 

 札差として豊かに暮らしておった、とある町人のあった。

 この札差が許へ――これもう十八、九年も以前のことであったが――妻を失い、兄弟も多御座った身分の低いとある町人が、その伜の一人を丁稚(でっち)として奉公させた。

 奉公したての頃は、これ、いまだ八、九歳であったによって、札差の妻は、この子――なかなかの美童ではあった――を非常に可愛がり――札差夫婦には子供がなかったわけではないが、先妻の子はいたものの、この妻には子がなかったと申す――夜毎、ともすると兄弟を思い出して淋しがって泣いたりするこの子に、添い寝なんどをしてやり、殊の外溺愛致いて、我が子のように育てたと申す。

 まものぅ、この夫は、ふとした病いで身罷ってしもうた。

 先妻の子が既に成人して御座ったによって、札差はその者が継いだ。

 また、未亡人は相変わらず、かの丁稚を慈しみ続けたと申す。

 さても丁稚も年頃のやさ男に成長致いたが――いつの頃からであったものか――実はこの後家……溺愛の余り、この丁稚と密通なし、秘かにわりない関係と相い成って御座ったと申す。

 されば遂には衣食ともに、この後家がなんやかやと、我が子の如くに、手厚う世話致すことともなって御座った。

 されどこの丁稚、継子の下にては実に堅実に仕事をこなし、人柄もよく、ご贔屓筋には勿論のこと、当主である継子の信頼もこれ厚く、じきに重手代ともなり、商売も上手く捗って参り、これ、かえって手広う扱うようになった結果、逆に扱い余す仕事も増えたによって、継母の慫慂もあって、暖簾分けというのではないが、まっこと円満に、重手代のまま、別に、これ、ごく近き所へ支店を構えて、そこを一手に任さすることと相い成って御座った。

 また、この男の父や母――前に述べた通り、実の母は亡くなっておったが、その後、後添えとして継母の出来て御座った――やかの者の兄弟たちも、このお蔭を蒙って相応に貧しゅうなく暮らすこと、これ、出来て御座ったと申す。

 されば、

「……お前さんも、こうして店も持った。また、もう年頃にもなって御座ったれば、次はそろそろ、これ、かみさんじゃのう!――」

と、父やその後添え、兄や昔馴染みの商売仲間なんどが皆して、しきりに仲人の世話を致さんとしたのであったが、ところが、この話になると、これ当人、いっかな、聴く耳を持たぬ。美しき青年にて御座ったれば、これ誰(たれ)もが不思議に思うた。

 されば、彼を一番のお気に入りとして、これ、永年面倒を見て御座った、かの女主人に仲へ入って貰えれば、これ、断ることも出来まいと、女主人とも親しい者たちが集って相談に行き、この話をきり出したと申す。

 ところが、対面の挨拶までは、いつも通りの柔和な笑顔であった、かの老婆……この話をきり出した途端……さっと顔色の変わり……

「……なりませぬ。……」

「……なりませぬ!……」

「……決して……なりませぬ!……」

と、一向、得心する様子がない。

 そうして遂には、

「ならぬと言ったらッツ!……ならぬのじゃッツ!!……」

と皆を怒鳴りつけると、

――すっくと!

――髪振り乱して立ち上り!

「――その時はッ!! 妾(わらわ)!! あのお人と!! これ!! 心中するッツ!!――」

と叫ぶや、これ、昏倒致いてしもうた、と申す。……

 

「……されば、この男(おのこ)、今以って独身と聞いておりまする。……」

と、これを語ってくれた御仁は、ここで笑って御座った。

« 本日夜閉店 心朽窩主人敬白 | トップページ | 柳田國男 蝸牛考 初版(7) 方言轉訛の誘因 »