耳嚢 巻之十 井中古碑を得し事
井中古碑を得し事
文化七年の三月二日、芝金杉の井戸を浚(さらひ)しに、古碑有(ある)を取上(とりあげ)しに、支干(えと)は分りぬれど、文字は石塔墓印(はかじるし)や又は他の碑銘や、朽入(くちいり)て文字もさだかならずといへども辛未(かのとひつじ)三月二日といふ所おぼろにわかりし故、右金杉昆沙門(びしやもん)の向(むかひ)なる寺に納めし由。支干(えと)且(かつ)月日の符合せしも不審と、殊外(ことのほか)參詣も有(ある)由、人の語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:文化七年という時制で軽く連関はする。奇体な古物の発掘シリーズ。この手の話、根岸は結構、好きである。井戸の中から供養塔が出る――掘り出したその年と彫り出された干支(えと)が同じ巡りにして――しかも発見された月日と同じ三月二日のクレジット……この板碑、今も残っていたらなぁ……もっと面白い事実が分かるかも!……
・「古碑」底本の鈴木氏注に、『板碑の類か。三村翁「恐くは、石卒塔婆なるべし。」』とあり、私も『文字は石塔墓印や又は他の碑銘や』らが判読不能ながら、刻印されていたことから供養塔として使われた石碑(いたび:板石塔婆とも呼ぶ。)と推定する(私は鎌倉の板碑類をかつて調べ歩いたことがある)。板碑は鎌倉から室町前期に集中して盛んに造られたが、戦国期には急速に衰退した。ウィキの「板碑」を見ると、『基本構造は、板状に加工した石材に梵字=種子(しゅじ)や被供養者名、供養年月日、供養内容を刻んだものである。頭部に二条線が刻まれる』(一般には上部に蓮座を彫り、その上に多くは阿弥陀三尊或いは阿弥陀仏一尊の種子(絵像の場合や別な仏の場合もある)を刻み、上方には天蓋や瓔珞を附加したものもある。下方に造立年月日・法名を刻んで蓮の花を挿した花瓶の絵を添える。個別な例ではさらに経文を彫ったり、造立の趣旨を綴ってあるケースもある)。『分布地域は主に関東であるが、日本全国に分布する。設立時期は、鎌倉時代~室町時代前期に集中している。分布地域も、鎌倉武士の本貫地とその所領に限られ、鎌倉武士の信仰に強く関連すると考えられている』(鎌倉期のものは薬研彫りで文字や図像が頗る繊細で美しいが室町期になると急速に技術が廃れ、丸彫りの拙作が多くなってしまう)。『種類としては追善(順修)供養、逆修板碑などがある。形状や石材、分布地域によって武蔵型板碑、下総型板碑などに分類される』。『武蔵型とは秩父・長瀞地域から産出される緑泥片岩という青みがかった石材で造られたものをさすが、阿波周辺域からも同様の石材が産出するため、主に関東平野に流通する緑泥片岩製の板碑を武蔵型、四国近辺に流通していたものを阿波型と分類している。また下総型とは主に茨城県にある筑波山から産出される黒雲母片岩製の板碑をさしている』(私の親しんだ鎌倉の板碑はこの武蔵型と呼ばれるものである。但し、下総型も五所神社や光明寺などに現存する)。『戦国期以降になると、急激に廃れ、既存の板碑も廃棄されたり用水路の蓋などに転用されたものもある。現代の卒塔婆に繋がる』とある(下線やぶちゃん)。緑泥片岩(秩父片岩)製であったとすると(鎌倉に現存する通常の者は殆んどがこれである)、水中に没して、しかも地下水の流路であったとすると、彫琢された文字類は著しく摩耗していたとしてもおかしくない。但し、以上の引用部以外の箇所で参考にした「鎌倉市史 考古編」(吉川弘文館昭和五四(一九七九)年刊の四版)によれば、室町期の粗悪品は『多量生産されて売り出されていたもの』であったかららしく、また『板碑は江戸時代になっても頭部に∧字形を持った碑として作られたが上部にあった二本の沈線はなくな』り、『板碑そのものとしてではなく板碑形墓碑としての性格が急に強くなり、江戸期に入ると間もなく墓碑の一種となってしまった』とある。
・「文化七年の三月二日」文化七年は庚午(かのえうま)で、旧暦三月二日は丙辰(きのとたつ)でグレゴリオ暦で一八一〇年四月五日である。因みに「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月である。
・「芝金杉」岩波の長谷川氏注に、『港区芝一・二丁目の内』と限定されてある。本文に出る金杉毘沙門天は現在のJR田町駅から東北に八百メートルほどの位置にある。ここらは当時は古川の河口左岸で海っぱたであった。
・「辛未三月二日」「支干且月日の符合せし」干支の部分は翌文化八年が辛未であり、干支の組み合わせが同一の巡りとなっていることを指す。まず、本来の板碑の登場する中世鎌倉期から室町期までを調べると、辛未(かのとひつじ/しんび)の年は、
建暦元・承元五年 西暦一二一一年
文永八年 一二七一年
元弘元・元徳三年 一三三一年
元中八・明徳二年 一三九一年
宝徳三年 一四五一年
の五回しかない(この以前は仁平元・久安七(一一五一)年で平安後期、次の永正八(一五一一)年は既に戦国時代中期に当たるので一応、除外した)。ここで掘り出されたものが、上方に二本の沈線がある本格的な板碑であれば(前注参照)、この板碑は俄然、この孰れかの年の建立の可能性が高まるかと思う。因みに、それ以降も板碑型墓碑が残ったとはあるから(これも前注参照)、以降の辛未(かのとひつじ)の年も見ておくと、
永正八年 一五一一年
元亀二年 一五七一年
寛永八年 一六三一年
元禄四年 一六九一年
宝暦元・寛延四年 一七五一年
の五回であるが、碑面の摩耗やその碑の由緒に就いて誰も分からなっかたことからは、直近六十年前の宝暦元・寛延四年は外してよいであろう。されば、前と合わせて建暦元・承元五年から元禄四年の九回の孰れかの建立と断定は出来るのである。
・「金杉昆沙門の向なる寺」底本の鈴木氏注に、『昆沙門天安置の寺は、日蓮宗正伝寺なり、向の寺といふは、切絵図によれば、延業寺か、然らずんば良善寺なれど、其寺今ありや否。
(三村翁)』とあるが、調べて見ると、港区芝一丁目内に、この毘沙門天で知られる正伝寺と(リンク先は公式サイト)、浄土真宗の良善寺(現行は了善寺と表記。リンク先は私のよくお世話になっている松長哲聖氏のサイト「猫のあしあと」の同寺の頁)は現存している。残念乍ら、延業寺の方は現在は見当たらない。……この板碑が了善寺の方に残っていたなら、面白いんだけどなぁ……
■やぶちゃん現代語訳
井戸の中より古碑を得たる事
文化七年の三月二日、芝金杉(しばかなすぎ)の井戸を浚(さら)ったところが、その底に古碑の沈んでおるのが分かり、これを吊り上げたところ、干支(えと)は分ったれど、文字らしきものが彫られたる形跡は、これ、何となくあるものの、それがそもそも――供養の石塔なのか、それとも正真正銘の墓印(はかじるし)であるのか、はたまた、それらとは全く別の、何かを顕彰したる碑銘なのか――ということさえも、碑面のすっかり摩耗して御座ったがため、文字も殆んど定かならず、一向、知れなんだと申す。
とは申せ、ただ一箇所、
――辛未三月二日――
という所だけは、これ、朧ろげに判読することの出来て御座った。
さてもこれ、かの近くの、金杉昆沙門(びしゃもん)の向いにある寺――寺名は失念致いた――に納めたと申す。
「……これ、干支(えと)の巡り、且つうは、三月二日という月日がこれ、恐ろしいまでにぴったり符合致いて御座ったことも、妖しき――いや――摩訶不思議なること――なんどと、あの辺りにては専らの噂と相い成り、殊の外、この古き碑を拝まんがために参詣致す人々も多く御座る。……」
と、とある御仁の語って御座った。

