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2015/03/14

耳嚢 巻之十 孝女其意を達する事

 孝女其意を達する事

 

 松平備守領分豐後國杵築(きつき)の内、村も聞(きき)しが忘れぬ、壹人の貧民有(あり)しが、娘兩人をもち、妻ははてたりしに、姉娘の方は同村の百姓の妻となりしに、父濕病(しつびやう)を煩ひ其身病身の上(うへ)足抔も不叶(かなはざる)故、農業はさらなり、妹娘一人にて姉娘もこれをたすけ壹人の親を養育なせし事三年程なりしに、彼(かの)親仁娘が介抱に心をくだき、われなくば彼れも心安く暮さんと思ひ歎き、死なんとも思ひし程なれば、彌(いよいよ)娘共(ども)は其心をさとり、あけ暮(くれ)に心を付(つけ)養育せしに、少々快く此程は足もたち少しは歩行(ほかう)もなりければ、何卒靈場靈社を廻(めぐ)り責(せめ)て子供が憂(うれひ)をも休(やすんぜ)んと、其事申出(まうしいだ)し、娘共の達(たつ)て止(とどむ)るをも聞(きか)ず、強(しい)て止(とど)めば死をも極(きはめ)しとの事故、色々だましすかし抔して留めしに、或時旦那寺を賴み法體(ほつたい)なし、夫(それ)よりいづちへ行(ゆき)けん行衞(ゆくゑ)しれず。所々尋ぬれど、近きあたりにて見懸(みかけ)しといふものなければ、娘兩人の歎きいふ計(ばかり)なし。兄弟いろいろ相談なしけれど、何國(いづれのくに)とも定めて尋(たづねん)んやうもなければ、立出(たちいで)し日を命日として朝夕案じけるとなり。しかるに右親は、段々物もらひ廻國(くわいこく)して、水戸領さる寺院の門下にて足の病ひ起りてなやみ臥したりしを、住僧憐みて寺内へ入れ、くりの脇に聊(いささか)の小屋をしつらひ置て暫く養ひしに、足はいよいよあしく腰はぬけたるが如くなれども、氣力其外常に戻りて少しは其寺の用をも辨じ、いづ方の者にやと尋(たづね)しに、杵筑(きつき)領の百姓にて、斯々(かくかく)の事にて國を出(いで)し由語りぬ。しかるに、孝は天の助くる所謂(いはれ)にや有(あり)けん、此寺の僧を問ひ來りし遍歷僧に九州の者有(あり)て、細かに尋(たづね)て、夫(それ)はわれも知れる村也(なり)といひし故、さすがに親仁も子供の事を語り戀しき由咄しける故、哀れに思ひ、彼(かの)遍參(へんさんの)僧九州へ無程(ほどなく)歸りしとき、右村長(むらをさ)抔へしかじかの事かたりけるを、兄弟聞(きき)て大きに歎き、二人申合(まうしあは)せ、行衞しれし上は尋行(たづねゆか)んと、其(その)催(もよほ)しなしければ、姉なる夫は申(まうす)に不及(およばず)、村方の者も、山海へだてし所まで女の身にていかで尋(たづね)いたるべきと留(とど)めけれど、不用(もちゐず)。或日兩人とも、其わけしたゝめ置(おき)て立出(たちいで)ぬるを、跡にて聞(きき)て、一錢のたくわへもなく思ひたちぬる事の不便(ふびん)さよと、村長と夫は、金子少々集めて跡をしたひて追(おひ)かけしに、一里餘(あまり)も隔(へだた)りし松並木のもとに、兄弟やすみ居(をり)たるに追付(おひつき)ぬ。いつの間に兄弟支度(したく)なしけるや、おゆずりとかいふものをかけ聊(いささか)の紙手拭等を入(いれ)候を負(おひ)て、杖わらんじはきて有(あり)し故、村長も夫も孝心の所(ところ)感じ入ぬと暇乞(いとまごひ)なして、路銀をあたへければ、路銀は斷(ことわり)言(いひ)てかへし、我々途中袖乞(そでごひ)をなして參るべし、金子など有(あり)ては却(かへつ)て心がゝりなりとて請(うけ)ず。しかれども、再應(さいおう)用心のためとて二百疋あたへてわかれぬ。しかるに念願とゞき、とふく右水戸の寺院に至りこせしが、是にも不思議ありけるは、大坂迄右兄弟まかりし頃、備中守家老用向(ようむき)ありて在所より大坂へ至りしに、兄弟のおゆずりに杵筑領の村名しるしある故、旅宿へよびて其事を尋(たづね)しに、しかの事と申(まうし)ければ、甚(はなはだ)感心して、しからば我等が倶(とも)の内に交(まぢ)り江戸まで參るべしと、おとなしき家來に申付(まうしつけ)、なんなく江戸まで來り、夫(それ)よりは水戸まで人を付けおくりしに、彼(かの)寺にありし親も存在にて、うき木の龜の廻(めぐ)り合(あひ)大きによろこび、所の奉行に聞えて、彼(かの)親仁を江戸表まで贈らんとありしを、兄弟其恩のありがたきを辭し、駕(かご)のりものと申(まうす)所を、木車(きぐるま)をひとつ拵へたまはれと望みて親仁を右車にのせ、往來の者も、其深切孝心を感じ助力して、兄弟にてとふとふ江戸表まで連れ來り、彼(かの)家の長士(ちやうし)も彌(いよいよ)憐みて、主人へも其孝を奏賞(さうしやう)せしとかや。其後在所へ送りしや、文化八申年三月、此事をしれるものかたりしが、其後はいかゞなりしや、聞洩(ききもら)しぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。実録百姓孝心譚。

・「松平備守領分豐後國杵築」豊後国杵築(きつき)藩(木付藩とも書く)は豊後国国東郡・速見郡内を領した藩。譜代大名。三万二千石。本話柄の文化八(一八一一)年か或いは文化九年となると、藩主は第八代松平親明(ちかあきら)である。この藩主については、ウィキの「松平親明に、『能楽に秀でていたと言われているが、藩政においては百姓の逃散や一揆、打ちこわしが相次ぐなど多難を極めた』とある。これは一つ、参考になろう。因みに「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月である。「杵築」は現在の大分県の北東部に位置する杵築(きつき)市である。

・「濕病」疥癬。鋏角亜門クモ綱ダニ目無気門亜目ヒゼンダニ科のダニであるヒゼンダニ Sarcoptes scabiei var. hominis の寄生による皮膚感染症。皮癬(ひぜん)。湿瘡(しっそう)。この男、足の不自由は一見、別箇な病いのように書かれてあるのだが、本当にそうだろうか? 私は実は彼の疥癬は疥癬の重症感染例である「ノルウェー疥癬」ではなかったかと疑っているのである。詳しくは「生物學講話 丘淺次郎 一 吸著の必要~(2)」の私の「ひぜんのむし」の注を読まれたいが、ノルウェー疥癬は「過角化型疥癬」とも呼ばれ、『一八四八年にはじめてこの症例を報告したのがノルウェーの学者であったためについた名称であり、疫学的にノルウェーと関連があるわけではないので、過角化型疥癬と呼ぶことが提唱されている。何らかの原因で免疫力が低下している人にヒゼンダニが感染したときに発症し、通常の疥癬はせいぜい一患者当たりのダニ数が千個体程度であるが、過角化型疥癬は一〇〇万から二〇〇万個体に達する。このため感染力はきわめて強く、通常の疥癬患者から他人に対して感染が成立するためには同じ寝具で同衾したりする必要があるが、そこまで濃厚な接触をしなくても容易に感染が成立する。患者の皮膚の摩擦を受けやすい部位には、汚く盛り上がり、カキの殻のようになった角質が付着する』という病態を指す。こうなると歩行は著しく困難になることは言を俟たないであろう(以上の引用はウィキの「疥癬」からの孫引である)。

・「水戸領」常陸国水戸藩。現在の茨城県中部・北部を治めた。三十五万石。この当時は第七代藩主徳川治紀(はるとし)の治世。

・「小屋」建物の壁面から屋根(廂)を片流れに長く出して附け足し、そこを通路や小屋の様に用いた下屋(げや)であろう。

・「おゆずり」岩波の長谷川氏注は、『笈摺。巡礼の着る袖無羽織の類。また笈』そのものをも『いう。下文よりみて笈か』とされ、底本の鈴木氏注には、『笈摺の訛。三村翁曰く「おゆずりはおひずりにて、実は負簏なるべし、簏は竹匣なり、とあり、一に笈摺にて、巡礼者の着る袖無羽織の如き白衣、笈を負ひて摺れざる為めに着る故にいふと。近代世事談に笈摺、元御※なり、往古は父母の菩提のために喪服の内に観音大日を礼せるゆへ、喪服を着したりしが、後に喪の礼亡びて、今順礼する人の服となれり、御ゆづりといふは、※の字を譲の字によみちがへて、御ゆづりといへり、又今笈摺とかきて、一統に用ゆ。」』と引く(「※」は「衤」+「襄」。この字、音も意味も不詳。「廣漢和辭典」にも載らない。識者の御教授を乞う)。この鈴木氏の注は注なしにはよく分からない。以下に「●」で附す。

●「笈摺」「おいずる」「おいずり」と読む。巡礼などが笈(おい:行脚僧や修験者などが仏像・仏具・経巻・衣類などを入れて背負う道具。箱笈と板笈の二種があり、箱笈は内部が上下二段に仕切られ、上段に五仏を安置し、下段に念珠・香合・法具を納めている。扉には鍍金した金具を打ったり、木彫で花や鳥を表わし、彩漆(いろうるし)で彩色した彫装飾を施したものなどもある)を負う際に衣服の背が擦れるのを防ぐために着る単(ひとえ)の袖無しの白衣(びゃくえ)。西国巡礼者らが着るものを想起すればよい。かの装束のルーツは西国の徳道上人や花山法皇が行脚の際、背負った尊い観世音仏の入った笈が直接、自身の俗身に触れるのを畏れて清浄な白衣を着けたのが始まりとされ、その後、着物の背が摺り破れぬようにという専ら実用的な意味から、着衣の上へ磨滅防止のために装着する笈摺として特化したようである。なお、参考にした最上三十三観音札所別当会公式サイトの「山形の最上三十三観音」の「巡礼に必要な物」を見ると、笈摺は最後には『死後の旅路に着けるものとされて』おり、『背の正面に「南無大慈大悲観世音菩薩」と書き、右に年月日、同行二人、左に住所氏名を記す。○両親のある者-中央を赤、左右を白 ○片親の者-中央を青、左右を白 ○両親のない者-三幅とも白、自分一人でも「同行二人」、二人連れは「同行三人」と書く(何れも観世音と共に)』とある。但し、注の冒頭で示したように、ここは長谷川強氏のおっしゃるように、笈そのもので採るべきである。従って訳では「笈」として、「笈摺」を出さなかった。

●「負簏」これも通常は「おいずり」と読む。音なら「フロク」で、「簏」は原義は竹製の箱を意味する。

●「竹匣」「たけばこ」と読むか。音なら「チクコウ」か。「匣」は箱・小箱の意。

●「近代世事談」江戸中期の俳人で作家の菊岡沾凉(せんりょう 延宝八(一六八〇)年~延享四(一七四七)年)の随筆「本朝世事談綺」(享保一九(一七三四)年成立)の別名。以下に当該箇所を引いておく(底本は吉川弘文館昭和四九(一九七四)年刊「日本随筆大成」第二期第十二巻に拠ったが、恣意的に正字化した。なお、「※1」=「衤」+「襄」であり、ルビも振られていない。「※2」は「衤」+「衰」で、鈴木氏の注(三村翁引用)とは異なる)。

   *

    ○笈摺(おひずり)

元御※1なり。往古(わうこ)は父母の菩提(ぼだい)のために喪服(もふく)の内に観音(くわんおん)、大日(だいにち)を禮せるゆへ、喪服を着(ちやくし)たりしが、後(のち)に喪(も)の禮ほろびて、今(いま)順禮(じゆんれい)する人の服となれり。御(お)ゆづりと云は、※2(ゆるし)の字を讓(ゆづる)の字(じ)によみちがへて、御ゆづりと云(いへ)り、又(また)笈摺(おひずり)とかきて、一統に用之。

   *

これから推すと。「※1」は「ゆづる」「ゆずり」と読んでいるようである。「※2」もやはり音も意味も不詳で「廣漢和辭典」にも載らないが、一つ、「柴田天馬訳 蒲松齢 聊斎志異 宅妖」に「※2衣」と出、この二字に柴田天馬氏は「もふく」というルビを振っておられるのを発見出来た(リンク先は私の電子テクスト)。]

 

・「斷(ことわり)」編者ルビ。

・「袖乞」物乞い。乞食。

・「二百疋」一貫文が百疋で、四貫文で一両であるから、一両の半分、当時の蕎麦代換算で凡そ二万五千円ほど。

・「俱」底本では右に『(供)』と訂正注がある。

・「うき木の龜の廻り合」「浮き木の亀のめぐり逢い」で、これは「盲亀の浮木」(もうきのふぼく)「盲亀、浮木に値(あ)う」「一眼の亀浮木に逢う」と同類の故事成句。仏典「雑阿含経」「涅槃経」に基づく譬え話で、大海の底に棲んで百年に一度だけ海面に出て来る盲目の亀が、海面に浮かぶ一本の木にめぐり逢って、その木に空いている穴の中へそれを棲家として潜り込むということは凡そ容易なことではないという説話である。真の仏法の教えにめぐり逢って悟りを得ることの困難を述べたものであろうが、そうした出会うことが極めて難しいことから転じて、滅多にない幸運に逆にめぐり逢うことの譬えにも用い、ここでもその後者の謂いで用いている。他に「盲亀の浮木、優曇華(うどんげ)の花」とも(「優曇華の花」は三千年に一度咲くとされる吉兆の花)。以上はネットの「故事ことわざ辞典」に拠った。

・「贈らん」底本では「贈」の右に『(送)』と訂正注がある。

・「長士」身分の高い重役の武士。先に彼女たちに助力した備中守家老のこと。

・「奏賞」姉妹の孝心を賞賛する内容を藩主に申し上げること。

・「文化八申年」底本では右に『(九カ)』と推定訂正注がある。文化八(一八一一)年は辛未(かのとひつじ)で、九年が壬申(みずのえさる)である。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 孝女らがその孝心により望みを達成した事

 

 松平備守領分豊後国杵築(きつき)の在――村名も聴いたが失念した――に一人の貧しい百姓がいた。

 娘二人を持ち、妻はとうに病いで身罷ってしまい、姉娘の方は同村の百姓の妻となっていた。

 この父、重い疥癬(かいせん)を患い、その身、これ、病身の上に、足なども不自由であったがゆえ、妹娘一人と、かの姉娘がたびたび実家へと戻っては、農作業は勿論のこと、さまざまな父の介護や看病をもして助け、一人の父親を保養すること、三年ほどが経った。

 かの親仁、この娘らの介抱にいたく恐縮なし、

『……儂(わし)がおらなんだら娘らも、これ、心安ぅ暮せるものを……』

としきりに思い歎き、

『……いっそ……死のう。……』

なんどとも思いつめたほどであったが、姉妹は、そうした父の内心を、これ、いよいよ鋭く察しては、なおいっそう、明け暮れの養いに気配りし、父を元気づけることに努めて御座った。

 かくするうち、父の様態、これ少しく軽快に向い、足もしっかりと踏みしめて立てるようにもなり、少しは歩行も、これ、出来るようにさえなったによって、

「……ここは一つ、何としても、霊場霊社なんどを廻って……せめてそなたらの、儂の助けに明け暮れて御座った、かの永の愁いより、これ、解き放ってやりとぅ思うし……そなたらが幸せになれるよう、神仏にも祈念致しとう思う。……」

と、切に望みだし、姉妹がしきりに止(とど)むるをも聞かず、それどころか、

「――しいて止むるとならば、儂は死ぬ!……そこまで儂は思いつめておるんじゃ!」

とまで、訴える始末。それでもいろいろと、だましすかしなんどして出立(しゅったつ)を留めさせておった。

 ところが、ある日のこと、朝早ぅに、

「――旦那寺へ行って参る。……」

と出かけたかと思うと、しばらくして、何と!

――頭を丸めて法体(ほったい)

となって戻って参り、

「……では――巡礼へと――参る。――」

と告ぐるや、姉妹の引き留めんとするを、敢然と振り切って、何処(いずこ)へ向かったものか、これ、とんと行方(ゆくえ)知れずとなってしまったのである。

 それより姉妹して各所を訪ねてはみたけれども、近き辺りにては、かの父のような人物を見かけたという者、これ全くおらず、娘両人の歎きは、これも言ようもないほどにて、姉妹は菩提寺の住持やら村長やらにも、いろいろと相談してはみたものの、どこの国のどこの寺社を目指したとも、一向、これ、分からざれば、此処其処(ここそこ)と思い定めて尋ね求めん法もなく、仕方なく、出立致いた日を父が命日として、朝夕、心痛めて暮らす毎日となった。

 しかるにかの父親、道々、物貰いをしつつ、廻国致いて、遂には遙か水戸領の、さる寺院の山門下に於いて、これ、足の病いの起こって動けずなり、そこに横たわっておったところ、その寺住僧がこれを見かけ、憐れんで寺内へと運び入れさせ、庫裏の脇にささやかな下屋(げや)を作らせてそこにおいてやり、ここで養生させて御座った。

 ところが、しばらくすると、足の状態はいよいよ悪うなり、腰が抜けたようになってしまった。しかし不幸中の幸いと申すべきか、逆に気力その外はかえって正常な状態に戻っておったによって、座ったままでこなせる寺の用事などをも少しは器用にこなすことの出来るようになり、相変わらずその寺に住み込んでいることが出来た。

 ある折り、住僧が、

「――そなたはこれ、何方(いずかた)の者なるか?」

と訊ねられたによって、

「……儂(わし)は杵筑(きつき)領の百姓で御座いやして、……」

かくかくしかじかと、国を出て巡礼廻国なしてここまで参った経緯につき、これ、つぶさに物語って御座った。

 しかるにここに――孝は天の助くる所謂(いわ)れと申そうか――ちょうどこの頃、この寺の住持に教えを乞わんと訪ね来った遍歴の僧で九州の出の者があって、かの足萎えの下男風の老人、杵築出とか耳に挟んだによって、細かに訊ねてみたところが、その老人の申した出身の村の名を聴くや、

「おお、それは! そこなら、我らもよう知れる村にて御座る!」

と申したによって、さすがにかの親仁も、娘たちのことを語りだし、

「……自分から国を出て御座ったが……やっぱり恋しゅうてのぅ……」

と、如何にも懐かしそうに語って御座った。

 されば、この行脚の僧も、その親仁がことを哀れに思った。

 かくして、この遍歴の僧、これより再び、九州へとほどなく立ち帰ったが、その折り、かの村を訪ね、その村長(むらおさ)などへ、水戸にてしかじかの老人に出逢った旨、語ったところが、それを姉妹の伝え聴いて、大いに歎き、二人して話し合った上、

「――行方の知れたる上は、これ、尋ねに参りましょう!」

と、水戸へ迎えに参る算段を始めんとしたところが、姉の夫は申す及ばず、村方の者どもも皆、これ、口を揃えて、

「……水戸と申すは、あんた、幾山海(さんかい)を隔てた遙かに遠き、遠き所じゃぞ!……」

「……そげなところへ、これ、女の身にて、どうして尋ね果(おお)せる、こと、出来ようか!」

「……以ての外! 慮外の極みじゃて!」

と、しきりに留(とど)めんしたが、これ一切、聴く耳を持たず、とうとう、ある日の朝まだき、両人ともに、

――ただただ一途に孝心のゆえに父を捜しに参りまする――

といった訳を認(したた)めた置き手紙を各家に残し、誰にも告げず、旅立ってしまった。

 明るくなった後、まず姉の夫が妻の置き手紙を見つけ、書き置きの内容に吃驚仰天、実家に走ってみれば、妹も同じき書き置きをして姿が見えぬ。されば、返す足で村長のところへ参って相談なした。

「……一銭の貯えものぅ……思い立って已むに已まれず出立致いたは、これ……まっこと、不憫なれば……」

と、村長と夫、これ、直ちに金子を少々集め、

「……女子(おなご)の二人連れ……いまだ、そう遠いところまでは参っておるまい。」

と、二人して姉妹の後を追いかけたところ、一里余りも行った街道脇の松並木の下(もと)に、姉妹して休んでおったのに追いつくことが出来た。

 さても、いつの間に姉妹して支度(したく)なしたものか、両人とも、笈(おい)のようなものにいささかの衣類・紙・手拭なんどを入れ、それを背負って、杖を突き、草鞋(わらじ)を履いて座って御座ったによって、夫も村長も、これ最早、制さんとするは諦め、夫は、

「……孝心の思い、これ感じ入ったれば……思うがままに、これ、参るがよい。――」

と暇ま乞いなして、かの用意した路銀を与えた。

 ところが、

「……どうか――この路銀だけは。お心遣い、痛み入りますれど。――平に。――」

と断って、受け取らずに返し、

「……我らは途中、袖乞いをなしつつ参らんという所存にて御座いますれば。……このような金子のあってはこれ、心の躓く災い――かえって心配の種とも、なりますればこそ。――」

と述べて、いっかな、受け取ろうとしない。

 しかれども、繰り返し、

「――万が一のための用心には、一銭も持たぬと申すは、矢張り、心懸かりじゃで!」

と説き伏せ、ようよう二百疋を受け取らせて、そこで見送ったと申す。

 さてもこの姉妹、何と、念願の天に届き、遠くかの水戸の寺院に辿りつくことが出来たのであるが……さてもまた、この旅の間にも、これ、凡そ偶然とは思えぬ、不思議の御座った。それは……

 かの姉妹が大坂まで辿りついた頃のことであった。

 杵築藩主松平備中守親明(ちかあきら)様の御家老が、これ、藩の御用向きのあって、在所杵築より大坂へと参っておられたのであったが、たまたま道端にて姉妹の休んでおったところに通りかかり、何気なく、その脇に並べた二つの笈の背を見てみたところ、そこにさても懐かしき杵筑領の、とある村名の墨書されて御座ったによって、この姉妹を旅宿へ呼び招き、

「……女子衆(おなごしゅう)二人(ににん)の巡礼姿、これ、何処へ何と致いて参るか?」

と、その訳を質したところ、しかじかのことと申し上げたところが、この家老、はなはだ感心致いて、

「――しからば、我らが供のうちに交って、これ、江戸まで参るがよいぞ。」

と、即決、しかもわざわざ分別ある年配の家来を選んで同道を命ぜられ、これ、道中、難なく、江戸まで参ることの出来たと申す。

 しかも、そこからも、かの御家老、水戸までの道中にも、人を雇って付け送って下された。

 かくして、姉妹、かの寺を尋ねたところ、かの父親も足は不自由ながらも生きながら御座ったによって――浮き木の亀のめぐり合い――とでも申そうか――滅多にない幸運に、これ、父も姉妹も住持らも、心から大いに悦び合い、かくなる顛末につき、所の寺社奉行に申し出たところ、そのまた奉行も、これ、この話にいたく感心致いて、

「……杵築藩の御家老の、かくなさられたとなれば……その足の不自由なる親仁と、その姉妹二人(ににん)、これ、人を附けて江戸表まで安んじて送り届けてやるがよい。」

と、かの寺の住持に命ぜられた。

 しかし、姉妹、このありがたいお達しを住持より聴くと、

「……まっこと、その御心遣い、御恩のありがたさ、痛み入りまするが……その儀は畏れ多く……どうか平に。……その代わり、と申しては何で御座いまするが……その……駕籠(かご)のようなる乗り物、といったような物――いえ、そう、人の曳く木車(きぐるま)を、これ、一つ拵えて、これを賜わること、出来ませぬでしょうか?……」

と望んだによって、その意に任せ、親仁の背丈に合わせて作り込んだ、小降りの大八車を作り、姉妹に与えた。

 さてもやおら、その大八車に蒲団を敷き、かの親仁を載せて、姉妹前後を曳き押しては出立致いた。

 水戸街道を南下するに、往来の者どもも、その姉妹の深き孝心に、誰(たれ)も彼も大いに感じ入り、これ、助力なさざる者とてもなく、姉妹二人(ににん)にて、とうとう江戸表まで足萎えの父親を連れ戻ることが出来た。

 かの杵築松平家の御家老も、礼に参った姉妹をいよいよ憐み、ちょうど江戸藩邸におられた主人松平親明(ちかあきら)様へもその希有(けう)の孝心につき、奏賞(さうしょう)し申し上げなさったとか申す。

 さて、その後、この父と姉妹、先(せん)と同じく御藩主か御家老の命にて、在所の九州は杵築へと送り出されたものか――以上は文化九年申年の三月、一連の事情をよく知れる者の語ったことではあったが――その後(あと)のことに就いては、これ、どうなったものやら、残念なことに、聴き洩してしまった。

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