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2015/03/08

耳嚢 巻之十 非情といへども松樹不思議の事

 非情といへども松樹不思議の事

 

 文化八年芝邊大火ありて、增上寺もあやふく囘祿を遁れしに、火除(ひよけ)として、右最寄(もより)上ケ地(あげち)となりて、屋敷は町家となり、町家は屋鋪(やしき)に渡り、火除とて空地(あきち)になりし所もある、そが中に御先手(おさきて)を勤(つとめ)し能勢(のせ)某(なにがし)といへる屋鋪もあがりて市谷邊へ引移(ひきうつ)りけるが、彼(かの)元やしきは半ば山にて、右山は片目蛇(かんたち)山と唱へ、古く蛇の住(すめ)る由を傳へ、何もあしき事はなけれど、右山上は久しく火災をまぬかれ、先年の火災にも、多く右の所にて助(たすけ)をうけしと傳へぬ。又大木の松ひともとあり、枝葉繁茂して中々見所も多ければ、是まで斧鉞(ふえつ)のうれひもなかりしが、此度は伐(きり)もせんと相談の所、むかふなる屋鋪にて是を望み、何卒貰ひうけんとの事故(ゆゑ)、伐捨(きりすて)んも無慙(むざん)なれは、幸ひなりとて能勢氏も承諾して、人夫をかけ根を掘りかゝり漸く根を廻しけるに、一夜の内に元の如く土に埋(うま)り、中々動す事もなりがたし。殊のふ人夫もつかれ、これは伐(きら)んより外あるべからずとみなみな手を引(ひき)ければ、能勢氏是を聞(きき)て、かの所へ至り、年久敷(ひさしく)有(あり)し松、外へ移(うつら)んは心うかるべけれども、我とても外へうつればせんかたなし、幸(さひはひ)に愛すべき人近くありて、引(ひか)ん事を望(のぞま)れし故に、掘動(ほりうごか)すなり、しかれども兎角日數(ひかず)をつみても動かざれば、詮かたなく伐(きり)もすべし、さありては無慙なれば、あすは快く移るべしと教諭(きようゆ)なしけるに、不思議にも其あけの日は事なく望(のぞみ)し人の屋敷に移りしとなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:怪異譚から植物妖異譚で連関。

・「文化八年芝邊大火」底本の鈴木氏注に、『文化八年二月十一日、今の午後四時市谷谷町念仏坂より出火して、赤羽まで焼失し、死者も二百人程ありし、其の時の事なるべし。(三村翁)』とある。文化八年二月十一日はグレゴリオ暦一八一一年三月五日。まだ薄ら寒い時節であったと思われる。「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月。

・「火除」底本の鈴木氏注に、『火除地。防火用に設ける空地。火除地に指定された屋敷や町屋は公収され(上ゲ地)、替地を与えられる』とある。ウィキの「火除地」によれば、江戸幕府が明暦三年一月十八日(グレゴリオ暦一六五七年三月二日)から一月二十日に及んだ『明暦の大火をきっかけに江戸に設置した防火用の空地。広義では、同様の趣旨を持った街路である広小路なども含まれる。このため、狭義の火除地を火除明地(ひよけあきち)と呼んで区別する場合もある』。『江戸の急速な発展により火災の危険が増大したとして、その延焼防止のために火除地を作る構想は早くから存在したとされているが、実際に実行されたのは明暦の大火による甚大な被害の後であった。同大火後に焼け跡5ヶ所を火除地に充てた他、以後も主として江戸城への類焼を防止する観点から江戸城の北西側を中心に少しずつ増やされて享保年間には13ヶ所にも増大された』。『ただし、火除地は単なる空地だったわけではなく、火除地の機能を損なわない範囲内で公私に利用を許すこともあった。このため、幕府の薬園や馬場、小規模な露店並びが設置されている例も存在した』とある。

・「上ケ地」幕府が江戸市中に於いて強制収公した土地のこと。対義語が「代地(だいち)」で、この収用した土地の代替地として市中に与えた土地をかく言う。町ごと収用する場合もあり、代地に移転・成立した町を代地町(だいちまち)とも称した。参照したウィキの「代地」によれば、『江戸時代初期には江戸城や市街地の整備のために代地が行われることが多かったが、明暦の大火以後は火除地の設置など防災上の理由などの理由に行われた。こうした移転は大名屋敷や寺社・庶民の町屋などを問わず行われ、町全体が丸ごと1か所もしくは数か所に分散して移動させられる場合もあった』とある。

・「御先手」何度も注しているが、再掲する。先手組(さきてぐみ)のこと。江戸幕府軍制の一つ。若年寄配下で、将軍家外出時や諸門の警備その他、江戸城下の治安維持全般を業務とした。ウィキの「先手組」によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、『先手とは先陣・先鋒という意味であり、戦闘時には徳川家の先鋒足軽隊を勤めた。徳川家創成期には弓・鉄砲足軽を編制した部隊として合戦に参加した』者を由来とし、『時代により組数に変動があり、一例として弓組約十組と筒組(鉄砲組)約二十組の計三十組で、各組には組頭一騎、与力が十騎、同心が三十から五十人程配置され』、『同じく江戸城下の治安を預かる町奉行が役方(文官)であり、その部下である町与力や町同心とは対照的に、御先手組は番方であり、その部下である組与力・組同心の取り締まり方は極めて荒っぽく、江戸の民衆から恐れられた』とある。

・「能勢某」不詳。

・「片目蛇(かんたち)山」これは原本のルビであるらしい。位置不詳。直感であるが、片目蛇は恐らく屋敷神伝承と関係があり、老いたる松は年を経て変じた龍蛇の化身と相応しい。恐らくは山も地名も総て失われてしまったものであろうが、唯一つ、この「耳嚢」の掌篇がその形見として残ったというべきか。

・「人夫をかけ」この「かけ」は「掛(か)く」で(わざわざその松の移植のために)人手を「かけ」の意か、「掻(か)く」で人手を移植のためだけに掻き集めての意か。取り敢えずは「雇う」と訳しておいた。

・「根を廻し」岩波の長谷川注に、『移植のため根元を中心に適当に根を切ること』とある。

・「殊のふ」形容詞「殊無し」(格別だ)の音変化「ことのう」に同じ。殊の外。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 非情と言えども松の樹の不思議に感応致いたる事

 

 文化八年、芝の辺りにて大火の御座った。

 この折りは、かの増上寺も危うくなるも、辛うじて類焼は免れた、ほんに大火で御座った。

 さても、この大火のすぐ後(のち)のこと、火除(ひよ)け地として、かの最寄り一帯は、これ、上げ地となって御座って、屋敷で御座ったところは町家となり、町家で御座ったところは武家屋敷へと変貌致すなど、がらりと様変わり致いて御座った。また、或いは火除(ひよ)け地として何もない空地になったところも御座った。

 その火除け地として、丸裸にされた土地の中に、御先手組(おさきてぐみ)を勤めて御座った能勢(のせ)某(なにがし)と申す御仁の屋敷も挙がったによって、能勢氏、そこを一切、空け払い、市ヶ谷辺りへと引っ越して御座ったと申す。

 さて、その能勢氏の元の屋敷地と申すは、これ、その半ばは小高い山にて御座って、そこはあの辺りにては、古えより「片目蛇山(かんたちやま)」と称し、古くより、蛇の棲みついておる山として、言い伝えらるる地所にて御座った。

 但し、別段、悪しき言い伝えものぅ、また、何の妖しきことも起りはせなんだと申す。

 ただ、この山の上は、久しゅう山火事を免れて御座った所にして、先年までの幾多の火災の折り折りにも、多くの火を逃れ、逃げ登って参った避難の民草が、そこにて危うき命をば救われて御座った、と伝えられて参ったいわくつきの場所でも御座った。

 この頂きには、また、大木の松が一本(ひともと)生えて御座って、枝葉も豊かに繁茂致いて、なかなかに見栄えもよぅ御座ったによって、これまで斧や鉞(まさかり)の打ち込まるる愁いも、これ、御座らなんだが、流石に、

「――今度(このたび)は、火除け地となったればこそ、これ、この松も……伐らずんばなるまい。……」

と、能勢氏、町方の者や町役人らと衆議致いて御座ったところが、この山向こうの屋敷の主(あるじ)が、これ、切(せちに)この松の木を所望致いて、

「――これ、何としても貰い受けとう御座る!……」

と、懇請致いて御座ったによって、

「……伐り捨つると申すも、これ、無慈悲なことと思うておったによって、まずは幸いじゃ。」

 と、能勢氏も快諾なし、人夫を雇い、周囲を掘りかかって、ようやく、移植のための根切りまで漕ぎつけた。

 ところが……翌朝、人夫が見てみると、これ

――一夜のうちに

――周囲の穴

――これ

――元通り

――埋ってもうておった

と申す。……

 されば、なかなかに動かすことも難くなって御座ったれば、その日の移植も取り止めとなったは勿論、何故か、その日、再び土塊(つちくれ)を掘り出ださんと致いた人夫どもも、これ、一人残らず、異様に疲れ切ってやる気をなくし、口々に、

「……これは、こん松の、片目蛇山(かんたちやま)に未練のあるんじゃあ、ねえですかねぇ?」

「……そうよ!……儂らの調子のよぅないも、その松の精の、いたずらしとるんかも知れぬわ!……」

「……さてもかくなったる上は……これ……」

「……おうさ! 思い切ってぶった伐(ぎ)るよりほかに、仕方ありますまいよ……」

と匙を投げて、皆々引き上げてしもうたと申す。

 能勢氏、この話を聞きて、自ずから、かの旧地へ至って、かの松の木の木肌を優しく摩(さす)りつつ、

「……年久しゅうここに御座った松よ、外(ほか)へ移らんは、これ、心憂かるべきものにては御座ろう。……されど……我らとても外へ移ることと相い成ったれば、これ、詮方ない。……幸いにして、お前を愛すべき人の近くおられて、引き移さんことを、これ、切(せち)に望んで御座ったによって、掘り動かさんと致いておるのじゃ。……しかれども、とかく日数(ひかず)を積みたるも動かざるとなれば……これ、詮方なく、伐りも致さざるおえぬことと、相い成ろうぞ。……そうなっては、如何にも無惨と心得て御座ればこそ……どうか、明日は快く移っては、呉れまいか?……」

と、松の木を、これ、穏やかに教え諭いて御座った。

 さても、その翌日のこと、能勢氏、

「――今一度だけ、移し植え、これ、試みられんこと、お願い申す!――」

と、人夫どもに懇請致いた。

 すると――まっこと、不思議にも――その日は、何のことものぅ、望みし御仁が方の屋敷へと、かの松を植え移すこと、叶うたとのことで御座ったよ。

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