耳嚢 巻之十 獸其誠意有事
獸其誠意有事
大御番(おほごばん)にて小林七郎右衞門と云(いふ)人、大坂より酉八月かへりしが、予がしれる人に語りしは、七郎右衞門家來□□儀、年十八九の者にて、驛路(うまやぢ)にくたびれて和田峠を馬にて下りしに、右馬子は歳頃五十餘の老人なりしが、頻りに馬上の男を見て落涙に及(および)し故、不審して其譯尋(たづね)しに、始めはいなみしが切(せち)に尋ければ、若き御方(おかた)のかく不審して尋ねたまふを、いはざらんもいかゞ成り、我等は信州何村のものにて、一人の悴有(あり)しが、至(いたつ)て孝心にて百姓業(のわざ)をも精出し、我(われ)年老いぬれば、馬を追ふて駄賃とる事彼(かの)者壹人(ひとり)にて精を出し我々をはごくみしが、當春傷寒(しやうかん)を煩ひ墓(はか)なくなりしに、右のうれい難忍(しのびがた)けれども、駄賃の稼(かせぎ)も不致(いたさざ)れば露命も繫(つなぎ)がたきゆゑ、今日(けふ)も往還稼(かせぎ)に出侍りぬ、旦那の面(をも)ざし年格好、甚(はなはだ)別れし悴に似させたまふ故、思はず歎きし由申(まうし)ければ、誠(まこと)哀(あはれ)なる事なるとて慰めければ、しやくりあげて涙にむせびけるが、彼(かの)馬に付(つき)奇談有(あり)といひける故、其始末聞(きき)しに、右馬は悴存生(ぞんしやう)の内も常に引(ひき)候て稼(かせぎ)しが、いたつていたはり、貧家ながらも心程(こころほど)には養ひし由。しかるに右馬、息子の相果(あひはて)し以後七日の日に當り、村内知音(ちいん)親類等集りて澁茶抔振舞(ふるまひ)しに、彼(かの)馬いづ地へ行けん、厩(うまや)に見へざれば、如何いたしけるやと尋しに、右馬は山のあたりにて見しといふ者ありし故、右悴を葬りしも村中葬地の山なれば、彼(かの)山に行(いき)て見しに、馬は見えざれども、右塚の前に馬蹄の跡夥敷(おびただしく)有(あり)ければ、爰へや來りしと立歸(たちかへ)りしに、馬はいつの間にや歸り居(をり)ぬ。夫(それ)より度々此馬厩に居(をら)ざる事多ければ、心を付(つけ)右馬の立出(たちいで)し跡を付(つけ)、彼(かの)葬地に至り見るに、右馬(うま)葬所(さうしよ)に向ひ膝をつき、又は蹄(ひづめ)にて土をかき踊狂(おどりくる)ひけるが、古主(こしゆ)の歿しけるを歎きての事にや、生類誠信(しゃうるいがせいしん)、誠に哀(あはれ)なる事にて、右件(くだん)の記念(かたみ)、我等いたはりぬと彼(かの)老人かたり、共(とも)に涙にむせびしとかたりぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:なし。異類情話譚。
・「大御番」既注。
・「小林七郎右衞門」底本の鈴木氏注に、『正友。寛政九年(二十六歳)家督。五百石』とある。
・「酉」文化一〇(一八一三)年癸酉(みずのととり)。「卷之十」の記載の推定下限は文化十一年六月。
・「驛路(うまやぢ)」途中に宿場のある街道。「えきぢ」と読んでもよいのだが、どうもこの方が好みである。万葉時代は「はゆまぢ」とも読んだ。
・「和田峠」現在の長野県小県郡長和町と諏訪郡下諏訪町の間にある旧中山道の峠。最大標高千五百三十一メートルで中山道最大の難所とされた。しかし。大番の警護は江戸城以外では二条城と大坂城で、彼の家来が帰還に中山道を使うとは思われない。何らかの私事によって敢えて中山道を通らねばならなったということか?
・「傷寒」腸チフスなどの高熱を伴う急性疾患。
■やぶちゃん現代語訳
獣にもその誠意これあるという事
大御番(おおごばん)にて小林七郎右衛門と申す御仁、大坂より文化十年酉の八月に江戸へ無事帰還なされたが、その小林殿が私の知人に語ったという話で御座る。
この七郎右衞門殿の御家来衆の中に××と申す者、未だ十八、九の若者にて、主人の後に一人、よんどころなき用事のあって、中山道を廻って江戸表へと向かったと申す。
ところが、宿駅を経るに従って疲労困憊し、中山道一の難所とさうる和田峠の下りにては、馬を雇って下ってゆくことと相い成ったと申す。
この折りの馬子(まご)は、歳頃これ、五十あまりの老人であったが、この男、しきりに馬上のその家来が若者の顔を見ては、これ、涙目になって鼻をすすっておったによって、さすがに不審に思い、涙の理由(わけ)を訊ねたところが、始めは、
「……いえ……その……何でもごぜえやせん。……」
と口ごもっておったものの、重ねて切(せち)に質いたところ、
「……若きお方の……そのように訝しんでお訊ねにならるるに……黙っておるというんもこれ如何なものかと存じますれば……我らはこれ、信州〇〇村のものにてごぜえやす。……つい先だってまで一人の伜のごぜえやしたが、これがまあ、至って親孝行な子(こぉ)でごぜえやして……百姓の業(わざ)にも精出し、我ら、かくも年老いておりやすによって、野良仕事の合間にもこれ、こん馬を使(つこ)うては、人や荷を運んで駄賃をとるを副業と成し……これ実に、その伜一人が精出して、我らを養のうてくれやした……が……この伜……今年の春……傷寒(しょうかん)を煩い……あっという間に……はかのぅなってしもうたんで。……
……その愁いもこれ忍びがたけれども……ささやかなる駄賃の稼ぎでも致さねば、これ、露命も繋ぎがたければ……今日(きょう)も、こうして、老体に鞭打っては、街道往還の稼ぎに出ておると申すわけにてごぜえやす。……
……ところが……その……旦那さまの……面(おも)ざし……年格好……これ、まっこと! 憚りながら……そのぅ……死に別れましたる、その伜にはなはだ似ていなさるれば……これ……思はず……我ら……思いの募りまして……かくも恥ずかしくも……歎きの込み上げましたによって。へぇ。……」
と、申したによって、若武者も、
「……そ、それは……まっこと……哀れなることじゃの。……」
と、青侍(あおざむらい)なれば、これにどう応じてよいものやら分からず、まず慰めとも言えぬ慰めを致いて御座った。
それでも、そうしたその若者の純なる心が逆に老人の胸を打ったものか、はたまた、若者の声もまた、かの亡き伜の肉声の如(ごと)聴こえたものか、老人は、その場に立ち止ってしまうと、しきりにしゃくりあげては、涙に噎(むせ)んで御座った。
さればその下りの峠道の途中にて、路端に一休み致すことと致いた。
そこで煙草なんどをも与えたところ、亡き伜と一緒におるような気持ちにでもなったものか、しばらくして落ち着きを取り戻し、次のような話を、し始めた。
「……お武家さまの跨っておられた、その馬……これについて、ちょっとした奇談のこれごぜえやす。……」
と申したによって、
「――その話――これ、是非、お聞かせ願いとう存ずる。」
と慫慂致いたところ、老人が語り始めた。……
……かの馬は伜が元気にしておりました頃より、常に引き廻しては稼いでごぜえやした馬で、伜、これ、いとぅいたわっておりやして、貧乏百姓でごぜえやすが、出来得る限りの心遣いはなして、これ、養のうておったんでごぜえやす。……さても、その馬のことでごぜえやす。……息子が相い果てましてより初七日(しょなぬか)のこと、村内の知音(ちいん)や親類など大勢集まりやして、何もなければ、渋茶なんど振る舞(も)うて法要の代わりと致いてごぜえやしたが……ふと気がつくと、かの馬、一体、何処へ行ってしもうたもんやら、厩(うまや)を覗いてもおらねば、思わず、座の連中に、
「――馬のどこへ行ったんか、知らんかのぅ……」
と声掛けしてみたところ、中の一人が、
「あん馬なら、さっきここへ参る折り、山の辺りで見かけたで。」
と応えた者のあったによって、かの伜を葬ったところもこれ、村内(むらうち)の埋葬場(まいそうば)の山でごぜえやしたで、それから、かの山へと行って見てみました。……
……もう、これ、馬は見えませなんだが、かの倅の土饅頭の前には――これ――馬蹄の跡は夥しゅう――附いてごぜえやした。……
……されば、
「……やっぱり! ここへと参ったんであったか!」
と、急いで家へたち帰ってみましたところが――馬は――いつの間にやら――厩の中へ帰っておりやした。……
……しかし、それより、これたびたび、この馬、厩におらぬことの、これ多なってごぜえやしたによって、よぅ注意して、かの馬がこっそりたち出でた、その後をつけてみたんでごぜえやす。……
……ほしたら……かの馬……かの倅のが土饅頭の前へと一直線に走ったかと思うと、伜が塚に向かい、
――まるで礼拝でも致すように
――前足の膝を突き!
また、
――まるで何かに悲慟悲憤致いてでもおるかの如(ごと)
――後ろ足の蹄(ひづめ)にて!
「ガッツ! ガッツ!」
――と!
――土を掻く!
そうしてこれ、
――あたかも悲しみのあまり気の違(ちご)うてしまった者にも似て
――踊り狂うて!
おったので……ごぜえやす……
……昔の主人の亡くなったを歎いてのことか……ともかくも――畜生も生類(しょうるい)――生類なれば誠実の心あり――これ、まっこと、哀れなることにて……ごぜえやした……
……されば……件(くだん)の馬……これ……伜が記念(かたみ)と致いて……我ら、我らなりに……労わっておりやす…………
そう老人の語り終えると、かの若武者もこれ、思わず涙に噎んだ――との話にて御座ったと申す。
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