耳嚢 巻之十 全身の骸骨掘出せし事
全身の骸骨掘出せし事
四ツ谷邊御旗下(はたもと)の屋敷におひて、〔三田藤之助屋しきの由〕全身の骸骨を掘出(ほりいだ)しけるに、珍しき事、いづれ捨置(すておき)候は如何(いかが)なりとて、近邊の寺へ送り葬りしに、其夜召使ふ下女口走り品々の事を言(いひ)しが、我(わが)骨を掘出し、寺へ送りしはさる事なれ、一向に法事供養もせざる事ぞ心得ねと申(まうし)ける故、翌日正氣になりし故、右下女に尋(たづね)ければ、大きなる坊主來りて、しかじかの事言ふ由答(こたへ)ける故、さる事もありなんと、金貮百疋布施として右寺へ贈り、法事などいたしけるが、其夜も又々、右下女何か不分(わからざる)戲言(たはぶれごと)なして、夜すがらさわがしかりける故、翌朝正氣附(つき)し比(ころ)、又々尋ければ、昨日法事もなし候て辱(かたじけなき)由、最早本意も叶ひし上は重(かさね)て來(きた)るまじ、主人へも能々(よくよく)禮を賴(たのむ)と申けると語り、其後は右樣(みぎやう)の事もなかりしとや。文化十年酉六月の事の由。
□やぶちゃん注
○前項連関:なし。ここのところ、調子づいている感じの発掘系怪異譚。
・「三田藤之助」底本の鈴木氏注に、『寛政譜では藤之助守巽(モリスケ)はまだ年少で、兄の守吉が嗣子だが、守吉が若死して守巽が家督を継いだものと思われる。同家は五百石』とあるが、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版ではこの割注が『三田(さんた)藤兵衞屋敷の由』とあって、長谷川氏は注で、『好文(よしぶみ)。寛政八年(一七九六)大番』とある。考証の新しい長谷川氏が正しいと思われるが、底本のままで訳した。
・「文化十年酉六月」「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月であるから、ちょうど一年前のホットな都市伝説である。
・「貮百疋」百疋が一貫(千文相当)で、凡そ現在の五万円ほどか。
■やぶちゃん現代語訳
全身の骸骨を掘り出したる始末の怪異の事
四ッ谷辺りに住まう御旗本の屋敷に於いて――伝え聴いたところでは三田藤之助殿御屋敷との由――全身一体が揃った骸骨を掘り出したと申す。
何かの事件に関わるものとは思われない古き骨ではあれど、異様なる出来事で御座ったによって、御当主、
「……孰れ、捨て置くと申すも、これ、如何(いかが)なものか。」
と、近辺の寺へ心ばかりの金品を添えて遺骨を送り、葬って御座ったと申す。
ところが、その夜のこと、屋敷にて召し使(つこ)うておった下女が、これ、何やらん、訳の分からぬことを口走り始め、前後脈絡もなきことを喚いて御座ったが、その中に、
「……我ガ骨ヲ掘リ出ダシ、寺ヘ送リシハ相応ナル仕儀ニテハアレ……一向ニコレ……法事供養モ致サザルハ……コレ心得ヌコトジャ……」
と申す一言、これ、聴き分けられた。
されば翌日、正気に戻ったによって、このことに就きて、かの女に、それとなく質いてみたところが、
「……夢うつつのうちに……何やらん、大きなる坊主の女中部屋へと参り……そのようなることを、これ、言うて御座いましたを、幽かに覚えて御座いまする。……」
と答えたによって、主(あるじ)は、
「……ふむ。そのようなること、これ――ない――とは申せぬ、の。」
と、その日の内に、金二百疋をお布施として、かの寺へと贈って、法事などを致させたと申す。
すると、その夜もこれまた、かの下女、何やらん、訳の分からぬ異言(いげん)をなして、一晩中これ、喚いて御座った。
されば、再び、翌朝、正気付いた頃合いを見計らって、またまた質いてみたところが、
「……夢うつつのうちに、またまた、昨日の大きなる坊主の参りまして、何でも……
――昨日、法事をもなし呉れたこと、これ、忝(かたじけ)ない。――最早、本意(ほい)も叶(かの)うたる上は、これ、重ねて来たること、あるまいぞ。――そなたが主人へもよくよく御礼のほど、これ、頼みおく。――
……と、申して御座いましたようなるを、これ、幽かに覚えて御座いまする。……」
と語ったと申す。
その後(のち)は、かような変事は、これ、一切、起らずなったとか申す。
文化十年酉年の六月のことと聴き及んで御座る。
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