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2015/03/02

耳嚢 巻之十 幽魂奇談の事

 

 幽魂奇談の事

 間部(まなべ)の藩中の醫靑木市庵といへる有(あり)。又其邊に町醫外科北島柳元と云(いふ)有(あり)。二人ともに長崎の産にて、友に天明の末、江都(かうと)に出、市庵は間部の藩中となり、柳元は町醫師にて妻子を持(もち)、門弟子も兩三人有(あり)て、業をなし、互に同國のよしみにて、むつびかたらひける。然るに寛政の初夏の頃、市庵癰(よう)を發しければ、柳元の療治を受(うけ)たりしに、腫物もなかばにもいたらず、さのみ強き痛(いたみ)にてもあらざれば、夜中伽するなどゝ言(いふ)ほどのことにもあらず。藩中の事なれば手狹(てぜま)故、市庵は調合の間に獨(ひとり)臥居(ふしゐ)たり。折々は痛のつよき事あれば、熟睡もせず有(あり)しに、或夜丑みつ頃、障子の外にて女のこゑして、御願申度(ねがひまうしたき)事有(ある)よし聞へぬ。夢かと枕を上(あげ)て聞(きく)に、又も御願申度事有(あり)といふ。同藩中の者にや、何にてもあやしき事とおもひ起上(おきあが)り、何者にやと問(とふ)に、私(わたくし)事は奧州三春(みはる)の者にて侍るなり、願ひ度(たき)事有(あり)て參り候と言(いふ)。市庵膽(きも)ふとき男にて少しも不驚(おどろかず)、さるにても戸のそとにては姿も見へず、内へ入るべしと言(いひ)ければ、戸をあけ内へ入るを見れば、廿(はたち)ばかりの女いろ靑ざめ、衣類のさまは分らねど、すこすごとして座に付(つき)ぬ。市庵問(とひ)て、夜中屋の中へ、門を入る事あらざるに、合點の行(ゆか)ぬ事なり、狐狸のるい、病中の虛(きよ)を見てたぶらかさんとするにや、憎き奴かなと叱りければ、女泪(なみだ)を流し、さらさら左樣(さやう)なるものにては無御座(ござなく)候、もと奧州三春の者にて、今は此世にさむらはず候、御願(おんねがひ)と申(まうす)は、北島柳元の方に居る者の所持致(いたし)候、扇箱(あふぎばこ)の封じたるもの有(あり)、是をば貰ひ下され候樣(やう)の願(ねがひ)也と云(いひ)て、さめざめと泣(なき)ければ、市庵、其儀ならば何故(にゆゑ)に柳元方へ行(ゆき)て願はぬぞと尋(たづね)ければ、柳元門口に尊(たつと)き守札(まもりふだ)の有故(あるゆゑ)、入事不叶(いることかなはず)、夫故(それゆゑ)に願(ねがふ)なり。さて其品乞請(こひう)けに來るやと言(いひ)ければ、あへて乞請て持歸(もちかへ)るにあらず、何方(いづかた)なりとも墓所の有(ある)地へ埋(う)めて、聊(いささか)念佛をなして給はり候へば夫(それ)にて望(のぞみ)はたり侍る也、ひとへに此事願ふ由を言(いひ)ければ、なる程安き事なり、柳元に物語(ものがたる)べし、乍去(さりながら)何故(なにゆゑ)にかゝる願(ねがひ)、またその品は何成(なる)ぞと尋(たづぬ)るに、是はその持(もち)たる主(しゆ)に御尋(おたづね)下さるべしと言(いひ)て、またもとの所より立去(たちさ)りぬ。奇異なる事ぞと彼是おもひ廻らして、寢(いね)もやらぬ内、短夜(みじかよ)もほのぼのと明行(あけゆけ)ば、柳元方へ、只今來り給はれと言(いひ)やりければ、柳元は寢覺(ねざめ)の處へ使の來りしまゝ、腫物に變(へん)にても出來たるやと取(とり)あへず來りし處、夜中の事物語(ものがたり)ければ、立歸(たちかへ)り彼(かの)三春より來りし弟子を呼(よば)せけるに、折節入湯(にふたう)に出たりければ、さらば歸りて詮議すべしとそこらさがさせて、弟子の部屋のうち取散(とりちら)したるものゝ内を尋(たづぬ)るに、小(ちさ)き張(はり)ぶんこの内に扇箱程の箱一つ封じて有(あり)けるまゝ、其儘(そのまま)しらぬ顏して置(おき)たりけるに、程なく彼(かの)弟子の歸りければ、柳元言(いふ)、何ぞ譯ある品を所持せしやと聞(きく)に、左樣の覺(おぼえ)なき由を答ふ。いやとよ、かくすまじ、是非有筈(あるはず)也(なり)、かれが所持の手箱文庫等をもち來れと、外の弟子に、彼(かの)張文庫を取寄(とりよ)せて開かせければ、かの扇箱ほどの箱を取出(とりいだ)し、是は如何成(なる)ものゝ入(いり)たるやと尋(たづね)ければ、差(さし)うつむき無言にて有(あり)しがやゝありて顏を上げ、是(これ)に付(つき)ては面目(めんぼく)もなき事ながら、長き御物語の候、かく成(なる)上は包申(つつみまう)さん樣(やう)もなく候へども、此品を御改出(おあらためいだ)され御尋(おたづね)候は、いかゞの故に候や、先(まづ)夫(それ)を承度(うけたまはりたし)と申(まうす)故、如何樣(いかさま)尤(もつとも)の不審(ふしん)也と、今朝(けさ)市庵が申せし事、有(あり)のまゝに語りければ、彼(かの)弟子泪をうかめ、扨々面目なき事に候、さらば懺悔(さんげ)物語仕(つかまつる)べし、私(わたくし)生國(しやうごく)は奧州三春のものにて、誠にわづかなる畠を持(じ)し百姓の悴にて、母に幼少にて別れ兄弟もなく、父一人にて聊(いささか)暮し候處、長々煩ひ、少(すこし)の畠も質入(しちいれ)いたし、又は七年以前江戸へ出、奉公稼(かせぎ)、私事(わたくしこと)は菩提寺へ參り奉公いたし、三ケ年以前寺を下り、かすかなる家を借(かり)、こゝかしこのやとひ人(にん)になり渡(と)せいたし候處、同村百姓太郎兵衞と申(まうす)もの方へ、度々やとはれ參候處、兩三年寺に奉公致し候内、ひまひまには手習(てならひ)いたし、少々は本讀(ほんよみ)なぞもならひ候て、少し物書(ものかく)事も覺(おぼえ)、太郎兵衞は身上(しんしゃう)も手厚く暮(くらし)候者に候へども、物書(ものかく)候家來邊、漸(やや)可也(かなり)になる者、一人召仕(めしつかひ)候故、私事はあらわざも不致(いたさず)、讀書の手傳(てつだひ)などいたし、日々出入致(でいりいたし)候内、一人の娘と、ふと密通いたし懷姙(くわいにん)いたし、其上男子はなく一人娘故、聟を取申(とりまう)すなどゝの沙汰故、とやせんかくやとあんじ候處、何れにも連(つれ)て立退(たちのき)呉(くれ)候へとしきりに申(まうし)候まゝせんかたなく、或夜ともなひ立退候處、かの娘金子二百兩盜持(ぬすみもち)、是にて何方(いづかた)成共(なりとも)立退て渡世致すべしと申(まうし)、二里斗(ばかり)參り候處、夜中の事(なり)、差當(さしあたり)行先の當(あて)もなく、つらつらとおもひめぐらし候へども、太郎兵衞には彼是世話にもなり恩を請(うけ)たるに、一人の娘と不義いたし、其上金子を持出(もちいで)てなげきを懸(かけ)む事、人情に背(そむい)たり、たとへ首尾よく逃延(にげのび)たり共(とも)、天命の程おそろしと思ひ極めて、三里程隔たる所に彼(かの)娘の母方の叔父の有(あり)しが、娘は其宅を知らず。扨かの叔父の方へともなひ門外に置(おき)、門を音信(おとづれ)候へば、内より人の出(いで)候故、太郎兵衞方より用事有(あり)て參りたりとひそかに申入(まうしいれ)候得ば、夜中何事やらんと驚き内へ入(いれ)候まゝ、太郎兵衞方より參(まゐり)候、長吉と申(まうす)者にて候、急に御主人へ御内々にて、御直(おんぢき)に申さねば成不申(なりまうさず)、急用なりと言入(いひいれ)ければ、私事は兼て主人にも覺居(おぼえゐ)られ候儘、一間へ呼入(よびいれ)、如何樣成(いかやうなる)事に候や、心許(こころもと)なしと尋(たづね)られ候間、一ト間へいざなひ、扨私事かくし可申(まうすべ)き、か樣(やう)々々の次第にて御めい子樣をつれのき申(まうし)候、さりながら太郎兵衞樣も御一人のお娘子、家を御讓(おゆづり)に成(なり)候迚、聟を御尋候中(うち)に、私事かれこれ御(ご)おんになり候身にて箇樣成(かやうなる)不屆を仕出(しいだ)し、其上に御姪子(おんめいご)樣をつれのき、あまつさへ貮百両と言(いふ)大金を御持被成(おもちなされ)候を連(つれ)のき候事、餘り天命怖敷(おそろしく)、太郎兵衞樣の御(ご)立腹御(ん)なげきも思入(おもひいれ)候まゝ、爰元(ここもと)御めい子樣御存(ごぞんじ)なきを幸(さひはひ)に、御連申(おつれまうし)て參り候なり、今晩御存(ごぞん)なき分(ぶん)にて御とめ被成(なされ)、明日御對面被成(なられ)候て、太郎兵衞樣へ御戻し下され候樣願(ねがひ)候、私事は今晩中何方へ成共(なりとも)立退き、江戸の親父を尋(たづ)ね候て、いか樣にも致し候べし、金子は則(すなはち)是にて候とて、貮百両の金子を叔父に渡しければ、一旦の不埒は若氣の至り、此節に至りての心底かんじ入(いり)たる事なりと、貮百両を取納(とりおさ)め、別に金子七両を取出(とりいだ)し、是にて江戸へいで如何樣(いかやう)にも渡世いたし候樣にとて、女は座敷へ通しやすませければ、曉以前に私は其所を立出(たちいで)、江戸へ下り父に逢(あひ)候て、松平右近樣へ足輕奉公いたし居(をり)候所、翌年國者(くにもの)にふと行合(ゆきあひ)、彼是の物語いたし候處、太郎兵衞娘事、親許へ歸り其後産(さん)をいたし、出生(しゆつしやう)の子は其儘果(はて)、女は産後相果(あひはて)候由、承り候間、しきりに不便(ふびん)に成(なり)、出家致度(いたしたし)と父に申(まうし)候へども、合點いたさず候まゝ、せめて髮斗(ばかり)を剃(そり)候(さふらは)んと、こなた樣の御弟子を願(ねがひ)候て坊主になり、心願(しんぐわん)有(あり)とて今以(いまもつて)常精進(じやうしやうじん)にて罷在(まかりあり)候とて、彼(かの)箱をひらけば、内には元取(もとどり)を附(つけ)たるまゝに剃(そり)たる髮、又半切(はんせつ)に血にて念佛を書(かき)し也。是は彼(かの)女の菩提の爲に血書(けつしよ)いたし候夏書(げがき)にて候と、語りける故、柳元が菩提所、麻布永坂光照寺の卵塔(らんたふ)へ、彼(かの)髮(かみ)血書の夏書を納め、髮塚といふ碑をたて佛事をなしけり。其後市庵が夢に彼(かの)女來りて、追善供養の程により、最早もふ執(しふ)をはらし、難有(ありがたし)と禮を言(いひ)けると也。其後此事共(ども)を人に語り、望(のぞみ)の如く出家して、則(すなはち)光照寺の弟子となり相應の僧となりて、武州桶川(をけがは)の在(ざい)にて平僧(へいぞう)の住職せる小寺、西念寺と言(いふ)寺の住職せしと也。淸家(せいけ)玄洞と云(いふ)醫師、柳元の友なりとて、物語り侍りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:怪奇譚で連関乍ら、何かしみじみとした実録風の情話である。「~言ふ」という、今までの「耳嚢」では見かけない叙述方法が、先の長尺の世話物「親子年を經て廻り逢ふ奇談の事」にも認められるから、私はこの二つの話は、同じ人物が齎した話ではあるまいかと推測している。そうした観点から見ると、先の話もこの話も、主人公が医師という点でも共通性があることに気づくのである。

・「間部」越前国鯖江(さばえ)藩(現在の福井県鯖江市)五万石。「卷之十」の記載の推定下限文化一一(一八一四)年六月であるが、この話柄は寛政元(一七八九)年であることが校合から分かるから(後注参照)、これは二十五年前、第五代藩主間部詮熙(あきひろ)の頃であることが分かる。少し古い都市伝説である。なお、同藩上屋敷は常盤橋御門内(現在の中央区日本橋本石町。江戸城外濠の表正面で現在の東京駅の北)、下屋敷は品川区東大井一丁目の現在の鮫洲駅の西直近にあったことが分かった。リフォルニア大学バークレー校版の柳元の開業先が芝(後述)であることを考えると、市庵が療養していた先は上屋敷の方が自然な感じがする(鮫洲は江戸の南端外縁であり、芝の柳元が頻繁に往診するには――芝は上屋敷と下屋敷のほぼ中間点ではあるがそれでも上屋敷の方が近く江戸市中のど真ん中で通行の便も遙かによかったはずである――やや遠い気がする)。

・「靑木市庵」不詳。

・「又其邊」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『又芝邊』とする。どうも他の部分を見ても底本は書写に杜撰さが散見されるように思われる(これは本話のみならず、ここまでの底本本巻の私の印象でもある)。

・「北島柳元」不詳。

・「友に」底本では右に『(共)』と訂正注する。

・「天明の末」天明は九(一七八九)年までで、天明九年一月二十五日(グレゴリオ暦一七八九年二月十九日)に天明の大飢饉や内裏炎上などのために改元して寛政元年となっている。

・「寛政の初夏の頃」書き方から脱字が窺われる。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『寛政の初年夏の頃』である。前の叙述からも至って自然となる。こちらを採る。

・「癰」黄色ブドウ球菌が原因で起こる隣り合った数個以上の毛包の細菌性の化膿性炎症(これが単独の毛包に発生した場合を「癤(せつ)」と呼ぶ。所謂「おでき」である)感染炎症を起こした部分が次第に赤く盛り上がり、痛みや発熱を伴う。重症の場合は切開をが必要となる場合がある。

・「丑三つ」午前二時前後。霊現象出来定番の刻限である。

・「三春」磐城国田村郡三春。旧陸奥国の南部で現在の福島県田村郡三春町。

・「張ぶんこ」紙で貼り固めた手箱。

・「又は七年以前江戸へ出、奉公稼」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『父は七年已前江戸え出奉公稼』である。こうでないと後が続かないし、「又」は「父」の誤写の可能性が高いから、ここはバークレー校版で訳した。

・「物書候家來邊、漸可也になる者、一人召仕候故」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は「物書(ものかき)候家來迚(とて)漸可也(かなり)になる者壱人召仕(めしつかひ)候故」とあり、これならば意味が分かる。バークレー校版で訳した。

・「可也(かなり)」のルビは底本の編者によるもの。

・「めい子」底本では右に『(姪御)』と訂正注する。

・「松平右近」知られた人物では徳川頼房(家康十一男で御三家水戸徳川家の祖)の玄孫である老中松平右近将監武元(たけちか 正徳三(一七一三)年~安永八(一七七九)年)である。諸本は注しないが、この話柄が寛政元(一七八九)年であることを考えると、ぎりぎりあり得ぬ話ではないか。

・「半切」現行の書道にあって画仙紙半切は凡そ縦百三十五×横三十五センチメートルである。

・「夏書」仏教用語。夏安居(げあんご:インドの僧伽に於いて雨季の間は行脚托鉢を休んで専ら阿蘭若(あらんにゃ:寺院)の内に籠って座禅修学することを言った。本邦では雨季の有無に拘わらず行われ、多くは四月十五日から七月十五日までの九十日を当てる。これを「一夏九旬」と称して各教団や大寺院では種々の安居行事がある。安居の開始は結夏(けつげ)といい、終了は解夏(げげ)というが、解夏の日は多くの供養が行われて僧侶は満腹するまで食べることが出来る。雨安居(うあんご)若しくはただ安居ともいう。ここは平凡社「世界大百科事典」の記載をもとにした。)の期間中に経文を書写すること。また、その書写した経文をいう。

・「麻布永坂光照寺」底本の鈴木氏注に、『真宗西本願寺末、雲岳山と号す。(三村翁)永坂は港区麻布永坂町』とある(永坂町は「ながさかちょう」と読む)。岩波版も『雲岳山光照寺』と注するが、Kasumi Miyamura 氏のサイト「麻布細見」の旧町名「光照寺門前」によると、この町名は『麻布永坂町の永坂東側にあった浄土真宗本願寺派寺院、雲岳山光照寺の門前町屋で、江戸末期まで存在した町名。植木坂の南側に位置した』『光照寺はもとは大和国吉野郡頃蘇村というところにあり、現光寺という名であったが、江戸初期の』寛永四(一六二七)年に『当地に移り、門前町屋を許された。そのまま江戸期を通じて町屋として残るが』、明治二(一八六九)年に『麻布永坂町に吸収され、町名は消えた』とあり、しかもその後、光照寺は昭和三十年代までは『当地にあったが、その後移転または廃寺となったもようで、現在は当地にはないよう』とあって『現在調査中』と附されてある。地図や他サイトを調べても、現存しない模様である。

・「卵塔」無縫塔。台座上に卵形の塔身を載せた墓石で、一般に禅僧の墓石に多く用いられるが、ここは卵塔場で、広義の墓場、墓地の謂いであろう。

・「もふ執」底本では「もふ」の右に『(妄)』と訂正注する。

・「桶川」埼玉県桶川市。

・「平僧」寺格の一つ。例えば真宗では近世、院家・内陣・余間(よま)・飛檐(ひえん)・平僧(へいぞう)に区分したのに始まり、きわめて複雑な寺格が定められて、礼金によって寺格を昇進することも出来た(平凡社「世界大百科事典」の「寺格」を参照した)。

・「西念寺」底本の鈴木氏注に、『埼玉県大里郡寄居町。浄土宗。県下に同名寺院が他に無いからこれであろうが、桶川の在では当を失する。熊谷の在なら通ずる』とある。桶川と寄居では直線でも三十キロメートル以上懸隔する。因みに寄居町寄居の西念寺の公式サイトはこちら

・「淸家玄洞」不詳。 

 

■やぶちゃん現代語訳

 幽魂奇談の事

 越前鯖江(さばえ)藩間部(まなべ)殿御藩中の江戸屋敷に、青木市庵(あおきいちあん)と申す医師のおらるる。また、その近くには町医者にて外科をこととする北島柳元(きたじまりゅうげん)と申す医師の御座って、この二人、ともに長崎の生まれにて、天明の末に江戸に出で、市庵は間部殿の藩医となり、柳元の方は妻子を持った上、門弟なんども三人ほど御座って、町医者を生業(なりわい)と致いて御座ったが、二人は同国同業の好(よしみ)なれば、たいそう親しくして御座ったと申す。

   *

 ところが、寛政元年の初夏の頃、市庵、これ、癰(よう)を患ったによって、昔馴染みなる柳元が療治を受くることと相い成った。

 市庵の病状は、癰とは申せ、腫れ物もそれほど大きぅはなっておらず、耐え切れぬほどの激しい痛みにてもあらざるようなれば、夜伽(よとぎ)の看病をするほどにても御座らなんだ。

 されば藩上屋敷内にて養生致いて御座ったが、藩中のことなれば、手狭(てぜま)で御座ったによって、市庵は藩医御用の間の内、薬剤調合の一間を、これ、臨時に療養の場として与えられ、そこに独り臥して、柳元に往診して貰(もろ)うては、療治を続けて御座った。

   *

 そんなある夜(よ)のこと。

 市庵の病状は少しはようなったとは申せ、折々には痛みの強きことなんどもあったれば、その夜も、疼きの強く、なかなか熟睡することも叶わず、うとうとと致いては目を覚ます、というを繰り返して御座った。

 さても丑三つともなったる頃おい、部屋の障子の外にて、

「……お願申したき儀……これ……御座いまする……」

と若き女の声の聞こえた。

 市庵、夢でも見たかと、枕より頭を上げつつ、聴き耳をたてた。――と、

「……お願申したき儀……これ……御座いまする……」

と、またしても、声の致いた。

『……同藩中の者なるか?……いやいや、それにしてもこの時刻なればこそ……何とも妖しきことじゃ。……』

と思いつつ、床より起き直って、

「――何事じゃ!?」

と糾いたところ、やはり確かな若き女性(にょしょう)の声にて、

「……私こと……奥州三春(みはる)の者にて御座いまする……お願い申し上げたき儀……これ御座いまして……参上致しまして御座いまする……」

と申す。

 ……若き女の独り……鯖江藩とは無縁の奥州三春の者……それが丑三つ時に懇請に参る……これ、どう見ても尋常ならざるものにて御座った。

 が、市庵、なかなかに胆(きも)太き男(おのこ)にて御座ったれば、少しも驚くことのぅ、かえって、

「――さるにても、部屋の戸の外にては、そなたの姿も見えぬ。――まずは部屋内(うち)へと入るるがよいぞ。」

と静かに招じた。

 戸を開けて部屋へと入るるを見れば、これ二十(はたち)ほどの女にて御座ったが、顔色も蒼ざめ、何やらん、まさに妖しげに、衣紋(えもん)なんどさえも、妙に、これ、ぼーうっとして、よう、分からぬ。

 漂うように市庵の横へとすぅーとやって参り、これまた、力のぅ、へたるように枕元へと座って御座った。

 されば、市庵、

「――夜(よる)の夜中――大名家上屋敷の内――そなたのようなる者が――屋敷の御門を入るると申すはこれ、あらざることじゃ!……なれば、いっかな、合点の行かぬこと! さればこそ、そなたは狐狸の類いにして、我らが病中なればこそ、身体の虚弱なるを見透かし、誑(たぶら)かさんとするかッ?! 憎っくき畜生奴(め)がッ!」

と一喝致いたところが、女は、これ霊ながらも、はらはらと涙を流し、

「……決して……私めは……そのようなる者にては御座いませぬ……私めは……もと……奥州三春の者にて御座いまするが……お見通しの通り……今はもう……この世におります者にては……これ……御座いませぬ……さてもこれ……お願いと申しまするは……あなたさまの御懇意なる北島柳元さまが許に……これ……居りまする者……その者が所持致いておりまるところの……扇を入るる箱……秘めて堅く封じたる扇箱(おうぎばこ)の……これ……御座いまする……それをば……あなたさまに……貰い受けて下さいまするよう……これ……お願い致しとぅ……存じまする……」

と言うたかと思うと、さめざめと泣いて御座った。

 されば、市庵、

「……かくなる儀ならば――なにゆえに、柳元が方へと直接参って、願わぬのじゃ!?」

と質いたところが、女は、

「……柳元さまの御屋敷の門口には……これ……尊(たっと)き御守りの札の貼られて御座いまするによって……私のようなる下賤の霊は……これ……入るること……叶いませぬ……それゆえ……どうか……柳元さまとご懇意なるあなたさまに……ひらに……お願い申しておりまする……」

と、悲痛のうちに絞り出すが如(ごと)、答えて御座った。

 市庵、それを聴くや、

「……そうか。――では、その扇箱を拙者が貰い受けようぞ。……そうして……そなたがそれをまた貰い受けに参る、ということで、よろしいのか?」

と訊ねたところが、不思議なことに、

「……いえ……妾(わらわ)は敢えて……それを乞い受け……持ち帰らんと致すものにては……これ……御座いませぬ……何方(いずかた)の地なりとも……墓なんどのある所なれば……何処(いづく)にてもよろしゅう御座いますれば……そこに埋めおかれ……少しばかりの御念仏(おねんぶつ)を唱えて下されたとならば……妾(わらわ)の望みは……これ……足りて御座います……どうか一つ……この妾(わらわ)が願いを……お聴き届け下さいませ……」

と乞うたによって、市庵、

「――相い分かった。――そのようなることならば――易きことじゃ。柳元に今のそなたの話、これ、確かに告げ申そう。……さりながら、さても、その扇箱に入っておるものとは……これ、何か?」

と質いてみたが、

「……それは……その……持ち主の……御方に……お訊ね……下さいまし……」

と言うたかと思うと、そのまま――すぅーっと――立ったかと思うと、戸の外へと雲霧の如(ごと)、姿を消してしもうたと申す。 

 

 市庵、

「……どうにも……奇怪にして……これ、訳の分からぬことじゃのぅ……」

と独りごちて思いを巡らし、さればこそ、眠ることも叶わず、初夏の短か夜のこと、これ、早くもほのぼのと陽の明けて御座ったと申す。 

 

 されば朝となるや、直ぐに柳元が許へ、

――至急参られたし

と使いを出す。

 さても柳元、寝惚け眼(まなこ)のところへ市庵からの急ぎの使いの来ったれば、

「――さても!……癰(よう)の腫物(しゅもつ)に危急の変化でも御座ったものか?!」

と、取るもの取り敢えず、慌てて駈けつくる。

 ところが、市庵は寝不足の眼を腫らしてはおるものの、病態に変わりはないように見えたによって、

「……な、何が? 何して、どう、致いた?……」

と不審気に問うた。

 されば、市庵、

「……いや。まっこと、驚ろかして済まなんだの。……ただ、我らも、これ、少しばかり驚かされて御座ってのぅ。……」

と、昨夜の不思議な女の話を物語る。

 初めは癰の熱にでも魘(うな)されたる夢物語かと疑(うたご)うて御座った柳元も、門口の守り札の段になると、これ、確かに思い当たる御札を貼りおることもあり、また、奥州三春と申すも、確かに、三春出の、内弟子の新しき者の一人あったればこそ、また、女の願いの不思議なること、最後の――その持ち主に尋ねよ――という謎めいた言葉なんどにも、俄然、

「……それは……これ、何か、確かに――あるな!……」

と合点致いて、

「――相い分かった。……ともかくもこれより直ちに屋敷に立ち帰り、とくと調べて見ようぞ。」

と市庵に請けがって、己が屋敷へと、とって返す。 

 

 屋敷へ戻った柳元は、三春より参った内弟子の長吉を呼び出したが、これ、あいにく朝湯に出かけて留守で御座ったによって、

「……まあ、よい。……湯屋(ゆうや)より戻ってから、ゆるゆると詮議致すか。」

と独りごちながらも、かの市庵から聴いたる扇箱(おおぎばこ)なるものが、既にして気になる。

 さればほかの二人の弟子に、

「……こっそりと――こっそりとじゃぞ。……長吉の持ち物が中に……その、何じゃ――扇箱――のようなるもののあるかないか……ちょいと捜して見い。……」

と命じた。

 すると、長吉の、そのとり散らかしたる私物の中を検見(けみ)させてみたところが、果して――小さき紙張りの手文庫の中より――封印を致いた扇箱のようなるもの――これ、見出して御座った。

 されば柳元、二人の弟子に、

「――よいか。……そのまま、元通りに、しておくのじゃ。……そうして、かくも家探(やさが)ししたことは勿論のこと、なんにも素知らぬ振りをし、長吉の湯屋(ゆうや)より帰るを待つのじゃぞ。よいか?」

と言い含めておいた。

 さても、ほどのう、かの弟子長吉、湯屋(ゆうや)より帰って参ったによって、柳元、徐ろに呼び出だすと、

「……長吉。そなた……何ぞ――訳ありの品を――これ、所持致いては、おらぬか?」

と問い糺す。

 しかし、長吉、

「……そのような物は、我ら……持っては、おりませぬ。……」

とうそぶいたによって、柳元、

「いやとよ! 隠すまいぞ! きっとあるはずじゃ! この者の持ったる手文庫なんど、ここに持ち参れ!!」

と命じ、持ち来った他の弟子の一人に、

「その手文庫を、開けよ!」

と命じ、その場にて開けさす。

 そこには確かに、扇を入るるほどの箱が一つ、堅き封印をして、御座ったれば、柳元、それを手ずから取り出だし、長吉が面前に突き出すや、

「――さても! これは如何なるもの、これ、入れおるかッツ!?」

と、一喝する。

 かの弟子、これには、さし俯いたまま、暫くの間は黙って御座ったが、ややあって意を決した如く、徐ろに頭(こうべ)を上げ、

「……これに就きましては……面目(めんぼく)なきこと乍ら……長き謂われの御座いまする。……かくなる上は、最早、何もかも包み隠さず申し上げようと存じまする。……存じまするが……ただ、その……この物を、かくお改めになられ、かようにお質しになられましたは、これ……如何なる訳にて、御座いまするか? 先ずそれだけは、承りとう存じまする……」

と殊勝に申し開き致いた。

 されば、柳元、穏やかに、

「……うむ。その訊ね、これは、如何にも、もっともなる不審ではある。……実はの……」

と、それより、今朝方、一庵の物語った、件(くだん)の昨夜参った不思議なる若き女性(にょしょう)の話を、ありのまま、その弟子に語って聴かせた。

 すると、かの弟子、話の始まるや、じきに涙を浮かべ、遂には滂沱(ぼうだ)と流し、慟哭致いた。

 そうして、暫く致いて後、涙のやや収まったる頃……ぽつりぽつりと……長吉の語り出す……

   *

……さらば……懺悔の物語を仕りましょう。……私こと、先般、入門の砌り、申し出でました通り、生国(しょうごく)は奥州三春の者にて御座いまする。……

……三春にてはまことに小さなる畑(はたけ)を持っておりましただけの、貧しき百姓の倅にて御座いましたが、母には幼少の砌り死に別れ、兄弟ものぅ、父と二人きりして、やっとかっと暮らしておったので御座います。……

……しかし父が病いとなって、それがまた、永の患いにて御座いましたによって、その療治がため、僅かな畑地も質入れ致し、やっと父が小康を取り戻しましたる頃には、かの地にては最早暮しも立たずなって御座いました。……

……されば結局、父は今から七年前、江戸へと出でて奉公稼ぎと相い成り、私めは、在所の菩提寺へと参り、そこにて奉公致すことと相い成って御座いました。……

……三年も経った頃、寺を出でて、独り、小さなる家を借りては、近隣ここかしこの家の、その日雇いの仕事なんどを請け負うては、これ、渡世と致いて御座いました。……

……かく身過ぎをしておりますうち、同じき村の豪農の太郎兵衛(たろべえ)と申す方へ、特にたびたび雇わるることの多なって――三年ばかり、寺に奉公致いて御座いましたによって、その暇まを見つけては手習いなんども致し、また、少々は書物なぞも教えられ習(なろ)うて御座いましたによって、少しはそれなりに物を書くことなんども覚えの御座いました――太郎兵衛なる者は、これ、ともかくも身上(しんしょう)も豊かにして優雅に暮らしておる者にて御座いましたが、

「……物を書くことの出来(でく)る家来――それ相応にかなりの達者なる者――これ、一人(いちにん)、召使(めすつこ)うとう思うてからに。」

と、私めを右筆(ゆうひつ)のようなる者としてお雇い下さり――正直、私こと、生来荒っぽいことを致いたこともこれ御座なく、その程度のことなれば、願ったり叶ったりで御座いました――かくして、太郎兵衛の読書の手伝いなんどを致すようになり申した。……

……ところが、日々、太郎兵衛が屋形(やかた)へ出入り致いておりまするうちに……

……そこの一人娘とこれ、ふと……

……心得違いを起こし……

……密通致すことと相い成り……

……やがて……

……その娘……

……懐妊致いてしもうたので、御座いまする。……

……その上、この娘、一人娘にて御座ったれば、その直後に、太郎兵衛が、

「……まんだ、秘密のことじゃが、の。……こんど、娘には婿を取ることに決めた。」

なんどと、雑談の中にて太郎兵衛の嬉しそうに呟くを聴いて……

……さても――どうしたらよかろう――ああするかこうすべきか、なんどと思い悩んでおりましたところが、……

……かの娘より、

「……ともかくも、妾(わらわ)を連れて――駆け落ち――して下さいまし!」

と切(せち)に乞われました。……

……されば最早、せんかたのぅ、ある夜(よ)のこと、とうとう、娘と手に手を取って出奔(しゅっぽん)致いてしもうたので、御座いまする。……

……ところが、かの娘、家出する折りに、これ、二百両もの大金を家より盗み出しておりまして、逃避行の夜道のすがら、それを私に見せ、

「――これにて――何処でなりとも参り――二人してつつましゅう暮しましょう!……」

と申しました。……

……そのまま二里ばかりも参りましたが、夜中のことなれば、さしあたり、行く先の当ても御座いませぬ。……

……そのような中、私は、いろいろ自分らの向後(こうご)を思い描いてみたものの、結局、つらつら心に思うたは、

『……太郎兵衛さまには……かれこれ世話にもなり、大きなる恩をも受けた。……それだのに……我らは、この太郎兵衛さまの大事な一人娘と不義密通致し……しかもその上に二百両からの大金を持ち逃げした。……かくなる恩人に、かくなる歎きをかくると申すことは、これ、人情に背ける、人非人のなせる業(わざ)じゃ。……たとえ、首尾よく逃げ延びおおせたとしても、天罰からは、これ、逃れられぬ!……』

と思い極めて御座いました。……

……ちょうどその頃、辿りついて御座いました所は、太郎兵衛が家より三里ほど隔たったところで、たまたまそのすぐ近くに、かの娘の母方の叔父なる、やはり裕福なる百姓の住んで御座いまいましたを思い出し――この家は、その娘の来ったことのないことは、かねてよりの娘との睦言(むつごと)によって知っておりましたによって――さても娘を連れ、その叔父なる者の屋敷へと伴い、

「……ここは私の知れる御仁の御屋敷じゃによって、心配ない。今日はもう、遅うになったによって、ここに泊れるよう、手筈を整えて参るによって、しばらくここにて、お待ち。」

と、娘は門外の暗がりに待たせおき、そのまま奥へと入って、玄関より、

「……お頼(たの)申します。――」

と訪(おとの)うたれば、内より、下人の出でて参ったによって、娘に聴かれぬよう、極々小さき声にて、

「――太郎兵衛さま方より――急なる用事の御座いまして、参りました。」

とそっと耳打ち致しました。

 流石に、夜も更けて御座いましたによって、下人は、

「こんな夜中に何事で御座いまするか?」

と怪訝そうに応じつつも、内へ導いてくれましたによって、

「――私めは太郎兵衛さま方より参りました者にて――長吉――と申しまする。――急にこちらの御主人さまへ――ごくごく内々にて――それも直(じか)に――申し上ぐるよう、きつく命ぜられて参りました。――どうか一つ――急用にて御座いますれば!」

と乞うたところ――私は、その家の主人太郎兵衛が叔父なる者には、かねてより目をかけられておりましたれば――、じきに、

「――おお。長吉どんか。まぁ、ともかく、こっちへ。」

と、一間へ呼び入れられ、

「……さても……どう致いた? こんな遅うに? 太郎兵衛どんの急用とか聴いたが。はてさて、一体何のことやら、一向、思い当たらぬがのぅ?……」

と訊ねられたによって、

「……さても――かくなる上は、これ、何をか隠し申しましょう。……これより申しますつことは、これ、総てまことのことに御座いますれば。どうか、よぅ、お聴き届け下さいませ。……実は……」

と、娘との不義密通に至る一切を告白致しました上、

「……かくなる次第にて、御姪御(おんめいご)さまを連れて、ここまで、参りました。……さりながら、太郎兵衛さまのたった一人の娘子……家をお譲りにならるるとて、婿をお捜しになって、それも近々お決まりにならるるという折りから……私こと、かれこれ御恩を受けたる身にも拘わらず、かようなる不届きをし出だし……その上に、御姪御さまを連れ出だいて……剰(あまつさ)え、二百両からの大金をお持ち出しになられた姪御さまを連れ逃げんとせしこと……これ、余りに天罰の怖ろしく……太郎兵衛さまの御立腹、御(おん)歎きに思い致せば、これ、心の潰れんばかりなれば……こちらの御屋敷の叔父御(ご)さまのお宅なるを、これ、姪御さまのご存じなきを幸い、お連れ参りまして御座いまする。……今宵は、あなたさまはお顔をお見せなされず、ここが叔父御さまの家とは分からぬように姪御さまをお泊めになられ、明日、日の昇ってより、御対面になられて、とくと愚かなる私めのお話なんどをお引きになられ、重々お諭しの上、太郎兵衛さま方へと人をつけてお戻し下さいまするよう、ひらに、お願い申し上げ奉りまする。……私めは今宵これより、山越えを致いて、何処へなりとも立ち退きまする所存。……江戸に親父もおりますれば、何とか、生きて参りますことは、これ、出来ようかと存じまする。……それから……かの金子は――ここに――」

と、かの娘の持ち出したる二百両の金子を叔父なる者に渡しました。

 するとその叔父なる御方、

「――一時の不埒(ふらち)や間違い――これは、若気の至り、じゃ。ここに及んでの――そなたの心底――これ、感じ入って御座った。」

と申され、一旦、二百両をとり納められた上、別に御自身の金子七両をお取り出しにならるると、

「――これにて、江戸へ出でて如何様にも、これよりの渡世の端緒(たんちょ)を摑むまでの、駄賃となすがよい。」

とお渡し下さいました。

 その後、娘は、別に人払い致いた座敷へとお通し下さり、寝床も二つ、形ばかりに容易して下さいました。……

……さても私は、

「安心して、先にお眠り。……」

と娘を寝かしつけ、幸せそうな寝顔の娘を残して……暁となる前に……そこを、発ち出でたので御座います。……

……それより江戸へと下り、幸いにして父に巡り逢うことの出来、暫く致しまして、松平右近さまの足軽として奉公致すこと、これ、叶いました。……

……ところが、その翌年のことで御座います。とあるところで偶然、同国(どうごく)の者と行き逢い、かれこれ故郷の話なんどに花が咲きましたが、その折り、それとのう、太郎兵衛がことに水を向けましたところ、

「……あん? 太郎兵衛?……あああ、あの田舎大尽か。……その一人娘てか?……」

 その者の話しから、かの折りは無事、実家へ戻ったことの知れ、また、私めと駈け落ちせんとしたことなどは、これ、一切、知れておらぬことなどが、その者の話しからそれとのう、知られましたによって、内心、胸を撫で下ろしておりましたところが、

「……そうそう、あの別嬪の娘……実はの!……これ、誰(たれ)の子(こぉ)やら知らんを、これ、ひり出しての!……されど、ほとんど死産に近かったらしいで。……ほんでもって、産後の肥立ちも、えろう悪ぅて。……あの娘も、ほどのぅ、あの世へ行きよったで。……あの若さで、まぁ、美人薄命、幸薄い娘やったんじゃの。……」

私は、その話を、まるで他人事のようなる顔をしたまま聴き、

「……そりゃあ……気の毒なことやったなぁ……」

と、軽く受け流した振りをして御座いました。……

……これを聴いてからというもの……

……かの娘が不憫で不憫で、仕方のぅ、なりました。……

……されば、我ら、頻りに娘と子(こぉ)の菩提を弔わんことこそ、我ら、生涯の勤めと思うようになりました。……

……ある時、

「――出家しとう存ずる。……」

と、何も知らぬ父に願い出ました。

 ところが訳も何も知らねばこそ、父は、

「……な、何を申すかと思えば! ならん! ならん!」

と、いっかな合点致さず、そのまま過ごすうち、

「……そうじゃ。……せめても髪ばかりは、剃り下ろして僧形とはなろう!……」

と、父に無断で、松平さま方足軽を辞め、あなたさまの御弟子を願い出でて、僧形(そうぎょう)となること、これ、出来まして御座いました。

 父は、

「せっかくの足軽を、なんでじゃ?!……まぁ、しかし、医師の見習いならば、将来は、金は稼げるで、の。」

と許しては呉れました。……

……これが、この今までの私めの、総てにて御座いまする。……

……ただ一つ、しかし未だ以って……

……心願の……

……これ……

……御座いまする。……

   *

と、長吉、ここで間をおき、暫く黙って御座った後(のち)、徐ろに、

「……今以って我ら――常に心に精進の思い――これ――し続けておるので御座いまする。……」

と述べ、思いきったように、かの扇箱の封を手ずから切って、開けた。

 その内には

――髻(もとどり)を附けたるままの自身の剃り落したる髪

のあって、また

――半切に念仏を朱墨のようなるものにて認(したた)めたるもの

が、これ、巻き納めて御座った。

 長吉曰く、

「――これは、かの娘の菩提を弔わんがため、己れの血(ちぃ)を以って血書(けっしょ)致いた夏書(げがき)にて御座る。――」…… 

 

 柳元、その二品(にしな)を目の当たりにし、長吉のこの長き懺悔(さんげ)を聴き、これ、大いに感じ入って御座ったと申す。

 されば柳元、長吉に命じ、すぐに自身の菩提所であった麻布永坂(あざぶながさか)の光照寺の卵塔場に、その長吉の断髪と血書の念仏を納めさせた上、

――髪塚(かみづか)――

と墨書致いた碑を建てて、娘と死にし子の供養の法会をも執り行のうたと申す。 

 

 さてもその法要の日の夜(よ)のこと、かの市庵、今はすっかり癰(よう)も癒えて、柳元よりかの不思議なる女に纏わる一件の始末も、これ、聴き及んで御座ったによって、自宅にて、久し振りに安眠致いて御座った。

 と、その夢枕に、かの女子(おなご)の霊の来たって――このたびは、これ、にこやかなういういしいほがらかなる乙女顔にて、衣紋もくっきりと、えも言われぬ美しき姿で御座ったと申す――、

「――お蔭さまにて追善の供養により最早、妄執の、これ、すっかり晴れまして御座いまする。ありがたく存じまする。――」

と礼を述べて――ふっと――消えた。 

 

 この後(のち)、かの柳元が弟子長吉は、師柳元が熱心に各所にて(くだん)件の話を説き語って、長吉が改心とその信心のまことを称揚致いたによって、則ち、かの娘を弔ろうたところの、柳元が菩提所光照寺の和尚が、これを迎えて弟子となし、積年の望み通り、晴れて出家致いた。

 そうして、今は武州桶川(おけがわ)の在の、平僧(へいぞう)の格式の小さき寺乍ら、西念寺と申す一寺の住職となっておる由。 

 

 以上の話は、私の知れる清家玄洞(せいけげんどう)と申す医師――これ、北島柳元が友なりと申す――の物語って御座った話である。

 

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