耳嚢 巻之十 麁言の愁ひの事
麁言の愁ひの事
大久保邊組屋敷の同心、當夏鰹を呼込(よびこみ)、直段(ねだん)等及對談(たいだんにおよぶ)處、一本に付(つき)三百錢と申(まうす)故、貮百銅に負(まけ)候樣申(まうし)ければ、直段心に不應哉(おうぜざるや)、無興氣(ぶきようげ)にて、自分は商ひ度候得共(たくさふらえども)鰹がいやと申(まうし)、不承知の由にて立歸り候間、然(しかる)上は申(まうす)直段に可調(ととのふべき)旨申(まうし)、且(かつ)外にも、貮三本有之(これある)を不殘(のこらず)調へ可申(まうすべき)段申候處、實事に候やと尋(たづね)候故、いかに小身の者に候迚、馬鹿にいたし候哉(や)、不殘差(さし)み又は煮候樣(やう)拵呉可申(こしらへくれまうすべき)旨申付(まうしつけ)、則(すなはち)料理いたし仕上(しあげ)候處、さらば代錢可拂(はらふべき)旨にて錢を取出(とりいだし)し置(おき)、扨自分は買ひ候積りに候得共、錢がいやと申(まうす)、承知不致(いたさず)候間、折角料理まで致(いたし)候得共、斷り候旨申(まうし)、相返し候由。右商人憤り候て、色々申(まうし)候得共、最初の麁言(そげん)故、仕方無(なく)、立歸(たちかへ)り候由。
□やぶちゃん注
○前項連関:うっかりと言い掛けた言葉の失敗談で直連関。底本の鈴木氏注に『三村翁白く、この詰も、何かにて見たる様に覚ゆ』とあるが、私も極めて酷似したものを落語で聴いたことがあるように思う(外題は失念。識者の御教授を乞う)。
・「麁言」「そごん」とも読む。粗言・粗語と同じで、お粗末な言葉、無礼な詞の意。
・「組屋敷」与力や同心などの組の者に纏めて与えられていた屋敷。
・「當夏」因みに「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月で、これを当年としても時期的におかしくはない。
・「三百錢」(以下の「銅」も「錢」に同じ)文化文政期一文二十五円で換算すると、七千五百円で、初物好き、初鰹好きだった江戸っ子にとっても、お大尽ならまだしも(鎌倉で揚がった鰹をわざわざ出向いて船上で一両投げて初鰹を買ったと言われる)、市井の下級武士にとっては丸一尾とはいえ、やはり高過ぎる。当時の物価はサイト贋金両替商「京都・伏見 山城屋善五郎」の「江戸時代の諸物価(文化・文政期)」がよい。
・「差み」底本には右に『(刺身)』と訂正注がある。
・「煮物」棒手振りは一方に簡易の七輪のようなものを下げていたものか? 一応、そう解釈するが実際の鮮魚の棒手振りがそうした道具を持っていたかどうかは確証がないが、そうでないとこのシチュエーションは不自然である。ともかくも識者の御教授を乞うものではある。
■やぶちゃん現代語訳
売り言葉に買い言葉の末の悲喜劇の事
大久保辺りの組屋敷の同心が、当夏(なつ)、鰹の棒手振(ぼてぶ)りを呼び込み、値段なんどを交渉致いたところ、棒手振りが、
「――一本に付き――三百文でお願い致しやす。」
と申したによって、
「……ちと高い!……せめて二百文に負けぬか?」
と応じたところが、負け値が全く意に添わぬものであったものか、急に不機嫌な顔つきと相い成り、
「――儂(あっし)は、これ、お売り致しとう、存じやすんですがねぇ。――この――鰹が、いや!と申しておりやすで。――へえ! 鰹の奴、何ともこれ――不承知だそうで!――」
と言い放つと、踵を返さんと致いた。
すると、かの同心、
「――そうか? 鰹が、のぅ。――しかる上は――相い分かった! そちの申す値で買い調えることと致そう!」
と背後から声をかけ、さらに、
「――加えて他にも、まだ二、三本は鰹があるな?――それも残らず買おうではないか!」
と言い添えた。
すると、棒手振り、再び走り戻ると、打って変わって相好を崩し、
「――そりゃ! 願ってもねえ! 確かなことでごぜえやすかい?」
と今度は慇懃に訊ねたによって、同心はこれ、
「――如何に?――我ら、小身の者にて御座れば、それ、馬鹿に致いたておるのではあるまいの?!――そうさ! そちの持てるその鰹、これ、残らず、直ちにこの場にて、刺身或いは煮物に調理なしくるるよう、頼もうぞ!」
と申しつけた。
棒手振りは、すっかり悦び、その場にて直ちに、四、五本あった鰹の半分を、これ、刺身となし、もう半分を煮物に料理致いて仕上げたと申す。
さて、かの同心、
「――出来上がりやした、お武家さま!」
と棒手振りの申したによって、
「――さらば、代金、これ、払おうか、の。……」
と言いつつ、徐ろに懐より銭を取り出だいたが……そこで同心、両手に持った銭を見つめながら……何やらん、妙に顔を曇らせ始めた。
「……さて!?……拙者は買わんと思うてそちにかく頼んだのじゃが……これ――銭が――いや! と申しておる。……何?……だめ?……どうしてもか?……困ったのぅ……これ――銭が――承知致さぬわ!……さても折角、料理まで致いてもろうて、何で御座るがのぅ、かくなる仕儀なれば……これ、皆、お断り申す。……済まんのぅ。……」
と慇懃無礼に詫びを述ぶるや、料理一式、これ、棒手振りに返した。
されば、かの棒手振り、烈火の如く憤ったは、これ、言うまでもない。
「……カ、カ、カタリじゃぁ! カタリッツ!」
なんどと、いろいろ誹謗致いたれど、同心は、
「――そちは――そちの鰹が――いや!――と言うた。――拙者は――拙者の銭が――これ――いや!――と言うた。……これ何か、不都合なことの――ある――と申すかッツ?!」
と、いっとう最初の棒手振りの詞(ことば)を引き合いに出し、今度は打って変わって強面(こわもて)となって迫ったによって、棒手振りも仕方のぅ、これ、周囲に罵詈雑言と痰唾をやたら吐きつつ、立ち去って御座ったと申す。

