耳囊 卷之十 土中より鯉を掘出せし事
土中より鯉を掘出せし事
御繪師に、板屋敬意(いたやけいい)といへるあり。外より梅の鉢うへをもらひ兩三年も所持せしが、右梅を地へ移し、外の品植(うゑ)かへ候と、右をあけけるに、黑く墨のごとく成(なる)もの、右土のかたまりの中より出けるが、少し動きける故、暫(しばらく)置(おき)けるに、眼口ようのもの出來(いでき)て、魚にてもあるべしと思ふに任せ、なを一間(ひとま)なる所に入れ置しに、全(まつたく)の鯉魚(りぎよ)となり尾鰭(をひれ)も動きければ、水へ入れ置(おく)に飛踊(とびをどり)、常の鯉魚なり。潛龍(せんりゆう)の類ひにも有(ある)べし、海川へ放し遣(つかは)し可然(しかるべし)と、老分(をとなぶん)など申(まうす)故、櫻田邊の御堀内へ放しけるとなり。是も文化十酉年度(ねんど)の事なりき。
□やぶちゃん注
○前項連関:異物の掘り出しで直連関。「これも」とあって連関性を本文でも示している。底本の鈴木氏注に、『三村翁注「十九巻本我衣巻八、文化十年の条目、宮家の画工、板屋桂意が庭に、石台の梅あり、先年或諸侯より給はりて、七八年を経て、下草なども繁れり、五月十九日のひる頃、其下草のしきりにうごきて、土を穿て飛出る物有、皆おどろきて、立より見れば、五寸許の魚なり、こは不思議とて、土を洗ひ見るに、鯉に似て髭あり、其図の写したるを所々に流布すといへども、未だ見ず云々、とあり。」』とある。岩波の長谷川氏注によれば、この鈴木氏の指摘は考証家石塚豊芥子(いしづかほうかいし 寛政一一(一七九九)年~文久元(一八六二)年)の「豊芥子日記」中巻を根拠としているとある。肺魚(脊椎動物亜門肉鰭綱肺魚亜綱 Dipnoi に属するハイギョ類は両生類的な側面を持っていて呼吸を水に依存しないため、地中で粘液と泥からなる被膜を形成して繭状となり、雨季がやってくるまでの驚くべき長時間(最長四年とも)を夏眠で過ごす。その土がたまたま日干し煉瓦に使用されてしまい、雨季になって水分を含んだ家の壁から目覚めた肺魚が生きて出て来きたという事件は、とあるTV番組で私も見たが、これ、事実である)じゃあるまいし、と私も当初は眉唾とも思ったが、例えば鉢植えとはいえ、地面に植え替えようというのだから、これ、相当に大きなものに違いなく、この置かれていた場所が低く、梅雨時などの折りに浸水するか、或いは普段からその真下に地下水脈などが流れており、頗る小さな穴状の泥質帯が、この梅の鉢の下に通じていたなどという仮定を考えるなら、鯉や鯰などの幼体が迷い込んでいたとしてもおかしくない。水分を含んでいる泥土状の中なら、この手の淡水魚は比較的有意な時間生存することが可能である。この注、私は大真面目で書いているので悪しからず。作り話確定だろうが何だろうが、全一的に否定することは寧ろ、科学的ではない。万が一つでもある現象の可能性は可能性として書かねば、考証や注とは言えないと私は思っている。これがエチオピアやアマゾン(肺魚類の棲息地)での出来事なら馬鹿にした奴が驚かされるからである。
・「板屋敬意」底本の鈴木氏注に、『板谷桂意。名は広長。桂舟広当の子。此咄は虚談の由、何書かにて見し覚えあり。(三村翁)』とある。思文閣の「美術人名辞典」には板谷桂舟(慶舟)として載り、『江戸中・後期の画家。江戸生。名は広当、初名は広度・広慶、剃髪して慶舟のち桂舟と改める。住吉広守の門に入り土佐派の画を学ぶ。幕府の奥絵師に任じられ、板谷家をたてた。板谷派として後に継がれるが、画風は土佐、住吉と変わりなく、長男広行が住吉広守のあとを継ぎ、次男広長が板谷家を継いで桂意と号した。この後、子孫は桂舟と桂意との号を隔代に継ぐことになる』とあった。この初代は寛政九(一七九七)年に六十九歳で没とあるから、「文化十酉年」(一八一三年)では十六年前に亡くなっているが、『子孫は桂舟と桂意との号を隔代に継ぐことになる』から、必ずしもおかしいとは言えない。
・「海川」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『河川』。それで採る。
・「老分(をとなぶん)」岩波の長谷川氏のルビを参考にした。また同長谷川氏注には、『家来の主だった者』ともある。
■やぶちゃん現代語訳
土中より生ける鯉を掘り出した事
御(おん)奥絵師に板屋敬意と申す者が御座った。
とある御方より梅の鉢植えを頂戴致し、三年ほども所持致いて御座ったが、かの梅、相応に成長なしたによって、これを地面へ移し替え、鉢には外の品をば植え替えんと思うて、これを慎重に取り外して移さんと致いた。
ところが、その折り、黒き墨の如き形をした不思議なものが、これ、その鉢底の土塊(つちくれ)の中より出て参ったと申す。
これがまた、何か少し動くように御座ったによって、暫らくそのままにしておいたところ、暫く致いてよぅく見てみると、これ、
――眼や口
のような部分が見てとれ、どうみても、
――魚
のようなる感じにも見えると思うたによって、なお、皿に入れて、屋敷の一間の隅に引き入れおいたところが、これ、全くの、
――鯉(こい)!
となり、これ、
――元気に――尾鰭(おひれ)さえも――動かす!
ようになって御座った。
されば、慌てて水甕の中へと移し入れおいたところが、これ、
――飛び踊って!
これ、全く以って普通の、
――鯉!
されば、
「……こ、これは!……地に潜むと言わるるところの潜龍(せんりゅう)の類いにも、違い御座いませぬ!……かくなる上は速やかに、河川へと放ち遣わすこと、これ、得策にて御座る!」
と、重き家来なんどが頻りに申したによって、桜田門辺りの御堀内へ、この鯉、放しやったと申す。
これも文化十年酉年の年度のことと承って御座る。
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