日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十七章 南方の旅 京都にて 2 窯元を訪ねる
図―599
図―600
前にもいったが陶器師の数はすくなく、製品を乾すために轆轤(ろくろ)台から棚へはこぶ幼い子供から、あるいは盲目であっても陶土を轢(ひ)いたり(図599)、足で陶土をこねたり(図600)することが出来る老人にいたる迄、家族の全員が仕事をする。私は京都で陶器の細工や歴史に関して、非常に多くの質問をしなければならなかったが、それ等の会見談を得る為には、あらかじめ少額の金員を贈ると好都合だろうといわれた。希望する情報を得るために、あらかじめ一ドルか二ドル贈るとは変でもあり、また如何にも慾得ずくであるらしく思われるが、而も我等は忙しい人を、彼が費す時間に対する何等の報酬なしに煩す権利を持っているのか。更に私は、我国にあっては、百万長者でさえも、十ドルか二十ドルの餌を適当な報酬として釣り出さねば、忙しすぎて取締役会議に出席しないという事実に気がついた。これ等の会見談――それは陶工の歴史と起源、代々の数、各異の家族や代によって使用される各異の刻印の形状等を質問したもの――は、通訳を通じた辛抱強く且つは労苦多き質問の結果である。
[やぶちゃん注:「轆轤台」原文は“the
thrower”であるから、「轆轤師」から(受け取って)棚へ運ぶという意味か。]
図―601
図―602 六兵衛の窯
[やぶちゃん注:これ以降、図606までは極めて異例のキャプションが附されており、代わりに今までのようには文中での言及がない。原文の標示は「図」と同じ特有の大文字表記で、例えばこれは“FIG. 602.
OVENS OF ROKUBEI”となっている。なお、このキャプションでは本文の「竃」ではなく、より我々の焼き物では馴染みのある「窯」の字が用いられている。ここに出る「六兵衛」は清水六兵衛で江戸中期以来、現在に続く清水焼陶工の名跡である。初代(元文三(一七三八)年~寛政一一(一七九九)年)は摂津国東五百住村(現在の高槻市)生まれで、幼名は古藤(ことう)栗太郎と言い、寛延年間に京に出、清水焼の海老屋清兵衛に師事、明和八(一七七一)年に独立して五条坂建仁寺町に窯を開き、名を六兵衛と改めた。モースが訪ねたこの明治一二(一八七九)年は、二代目次男であった三代目(文政五(一八二二)年~明治一六(一八八三)年:号は祥雲、慶応四・明治元(一八六八)年頃に古藤六兵衛を清水(しみず)六兵衛に改めた。京都小御所に大雪見灯籠二基を焼成し、海外にも積極的に出品し賞を受賞。)が当主で、その長男の四代目(嘉永元(一八四八)年~大正九(一九二〇)年:号は祥鱗、後に清水六居と名乗った。東京国立博物館蔵大灯籠を制作。)も既に陶工であったかと思われる(以上はウィキの「清水六兵衛」に拠った)。]
図―603 甕の凹所に花の浮かしをつくっている陶工
図―604 陶工の装飾しつつある工匠(石油ランプを見よ)
[やぶちゃん注:このキャプションは、原本では以下のような二段で、標記法も一行目と二行目では異なる。石川氏が( )表記にした意味がよく分かる(図605も同じ)。
FIG. 604. AN ARTIST DECORATING POTTERY
Observe the kerosene oil lamp
この「見よ」注記は、モースが読者に、この当時で既に日本では石油ランプが普通に普及していたことを知るように喚起するためのものであろうか。ウィキの「ランプ」によれば、本邦では幕末の慶応頃から早くも次第に普及し始め、その明るさを賞賛されて、明治五(一八七二)年には家々で点火されていたとあり、明治一五(一八八二)年頃にはランプ亡国論なるものさえ持ち上がったとある。これは攘夷論者で肥後出身の僧佐田介石(さたかいせき)が国産品推奨・外国製品排斥を主張したものの一つで、「鉄道亡国論」・「牛乳大害論」・「蝙蝠傘四害論」・「太陽暦排斥論」・「簿記印記無用論」などトンデモ説が目白押しである(ウィキの「佐田介石」を参照されたい)。]
図―605 玩具の家をつくっている陶工(陶工は粘土を薄い板状にのばし,それを望みの形に切り,濡れた土でそれ等をくっつける)
[やぶちゃん注:「,」はママ。]
図―606 陶器に液体の釉をかえている陶工
[やぶちゃん注:「釉」は原文は“glaze”である。]
私は支那の型に依てつくられた竃(かまど)の急いだ写生を沢山した【*】。竃は丘の斜面に建てられ、その各々が長さ八フィート乃至十フィート、高さ六フィート、幅三フィートで、一つの横に一つという風に並んでいる。図601はその排列を示している。それ等は煉瓦と漆喰(しっくい)との単一の密実な塊である。竃は一端で開き、相互に穴で通じている。一番下の竃に火をつけると熱は順々にそれぞれの竃を通りぬけて、最後に上方の竃の粗末な煙筒(えんとつ)から出て行く。この方法に依て熱の流れが最後の竃に到るまで、すべての熱が利用される。最初の竃が充分熱せられると、細長い棒の形をした燃料が第二の竃の底にある小さな口から差し入れられ、次に第三のという具合に、最後にすべてが充分熱くなり、陶器が完全に焼かれる迄行われる。このことは、各々の竃の上端にある口から、試験物を見て確かめる。
* その後広東を去る四、五十マイルの内地で見た物にくらべると、これ等は余程丈夫でも密実でも無い。
[やぶちゃん注:「長さ八フィート乃至十フィート、高さ六フィート、幅三フィート」凡そ長さ二・四五から三・〇五メートル/高さ一・八三メートル/幅九十一センチメートル。
「細長い棒の形をした燃料」木炭。
「広東を去る四、五十マイルの内地」「四、五十マイル」は六十五から八十キロメートル強。「広東」を広州ととれば、これは恐らく古く江西省景徳鎮・湖北省漢口鎮(武漢市)・河南省朱仙鎮とともに中国四大名鎮に数えられていた窯業の地、現在の仏山(ぶつざん/フォーシャン)と思われる。]
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