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2015/03/13

柳田國男 蝸牛考 初版(6) 二種の蝸牛の唄

   二種の蝸牛の唄

 

 京都のデデムシの人に知られて居たのは、延寶四年の序文ある日次記事よりは後で無かつた。同書四月の末の條に、

   自此月五月有霖雨則蝸牛多出、或登床又黏壁、…‥其在貝也則蝟縮、兒童相聚、出出蟲蟲、不出則打破釜-云爾。此蟲貝、俗稱釜。

とあるのは、デデムシの名のこの童詞から出たことを知つて居たのである。しかも夫木和歌抄には土御門天皇の御製として、

   家を出でぬ心は同じかたつぶりたち舞ふべくもあらぬ世なれど

という一首を載せて居るのを見ると、出よ出よという意味の童詞の方は前からあつて、その或時代の面白かつた詞の形が、後にデエデエムシという新名詞を、發生せしめたことを想像し得られるのである。

[やぶちゃん注:「京都のデデムシ」の「デデムシ」は底本では「ヂデムシ」であるが、改訂版と校合、単純な誤植と断じて訂した。

「延寶四年」西暦一六七六年。

「日次記事」「ひなみきじ」と読むが、正しくは「日次紀事」が正しい。医師で歴史家でもあった黒川道祐(どうゆう)の編になる江戸前期の京都を中心とする朝野公私の年中行事解説書。十二巻十二冊。柳田の言うように林鵞峰(はやしがほう)の序に延宝四年とある。中国明朝の「月令(がつりょう)広義」に倣って編集されているが、民間の習俗行事を積極的に採録した点に特徴がある。正月から各月ごとに毎月一日から月末まで日を追って節序(節気の記載。「節序」は季節の変わりゆく次第の意)・神事・公事・人事・忌日・法会・開帳の項を立てて、それぞれ行事の由来や現況を解説している。但し、神事や儀式には非公開を建前とするものもあり、出版後間もなく絶板処分を受けた。(以上は主に平凡社「世界大百科事典」に拠る)。愛媛大学図書館公式サイト内の「貴重書展示」の日次記事で閲覧出来、当該箇所はここである。それを見ると、「其在貝也則蝟縮」の箇所は脱字で「其在貝也見人則蝟縮」であり、それでこそ意味も通る。原本には送り仮名が振られているので、概ねそれに従って以下に脱字及び省略された部分も含めて書き下しておく(但し、省略部分の意味が私には判然としない)。読みの一部は私が独断で附したが「ででむし(原本は「デデムシ」と片仮名表記)。句読点は柳田には従わず、私が附した。

 

此の月より五月に至りて霖雨(りんう)有る時は、則ち、蝸牛(くわぎう)、多く出づ。或るは床(ゆか)に登り、又、壁に黏(ねば)りぬ。高く登る時は其の涎(よだれ)晝に隨ひて、隨ひて落つ。其の貝に在るや、則ち蝟縮(いしゆく)す。兒童、相ひ聚(あつ)まりて、出出蟲蟲(ででむし)、出でざる時は則ち釜を打ち破(わ)ろと爾(それ)に云ふ。此の蟲の貝を俗に釜と稱す。

 

老婆心乍ら、「霖雨」は、何日も降り続く長雨の意で、ここは梅雨時を指す。「蝟縮」の「蝟」は針鼠のことで、その針鼠が縮(ちぢ)こまるように、恐れ縮こまることを言う。因みに針鼠、ハリネズミとは、頭頂部と背に針状の棘を持ち、尾や足が短く、防禦行動では体を丸めて毬栗のようになって身を守る哺乳綱ハリネズミ目ハリネズミ科ハリネズミ亜科 Erinaceinae の動物のことである(因みに、あの棘は体毛が複数纏まって硬化して形成される)。蛇足ながら、ハリネズミは「ネズミ」とつくが、系統的には齧歯(ネズミ)目ネズミ亜目 Myomorpha の真正の「ネズミ」よりも、トガリネズミ目モグラ科 Talpidae の「モグラ」類の方に近い)

「家を出でぬ心は同じかたつぶりたち舞ふべくもあらぬ世なれど」私は「夫木和歌抄」(延慶三(一三一〇)年頃成立)を所持しないが、日文研の「和歌データベース」の「夫木抄(夫木和歌抄)」では、

 いへをすてぬこころはおなしかたつふりたちまふへくもあらぬよなれと

とあり、「家を出でぬ」ではなく「家を捨てぬ」となっている。

「デエデエムシ」改訂版では「デェデェムシ」と拗音化されている。以下同じ。]

 

 實際此童詞は土地によつて、今でもどしどしと其形を變へて行かうとして居る。各地幾つかの例を引き比べて見ても、もはや日次記事にある樣な「釜を割るぞ」という威迫は用ゐられて居ない。「出ろ」という趣意だけは一つであつても、文句は如何樣にも取替られるものであつた。しかも其文句が一般の人望を博すると、やがて蝸牛の又一つの方言が出來たことは、恐らくは亦黑川道祐時代の、デエデエムシムシをも説明するものであらう。近代は大體にデンデンムシといふ地方が多くなつて居るが、是はデデの命令形なることに心付かず、口拍子にデンデンと謂つた兒が多かつた結果かと思はれる。たとへば播州では印南郡などに、

   でんでん蟲出やれ、出な尻にやいとすよ

といふ歌があり、紀州では田邊附近に、

   でんでん蟲蟲、出にや尻つめろ

といふ歌があつて、乃ち此兩地の蝸牛はデンデンムシであつた。備前では邑久郡朝日村に、

   でんでんでんの蟲、出んと尻うつきるぞ

という童詞があつて、この邊では又デンノムシとも呼んで居るらしい。伊勢は南北ともに今でも、

   でんでこない出やつせ

   太鼓のぶちと替えてやろ

などゝいふ章句が行はれて、乃ち又デンデコナイ(三重郡)またはデコナ(一志郡雲出村)等の方言があつた。多分は或時代に「なぜ出て來ない」と唱へたこともあつた名殘であらう。其他大垣周圍のデンデラムシ、四國其他二三の地方のデノムシ或はデブシなども、ちやうど是に相應した歌の語が、やゝ久しく行はれて居た爲に、所謂誰言ふと無く其名になつたものと思ふ。

[やぶちゃん注:「黑川道祐」(元和九(一六二三)年~元禄四(一六九一)年)は、私が前に注した通り、「日次記事」の編著者。江戸初期の医者で歴史家。『道祐は字であり、名は玄逸、号に静庵、遠碧軒などがある。林羅山より儒学を学んだ。父と同じく安芸国の浅野家へ』家禄四百石で『儒医として仕えた。職を辞した後、洛中に住して、本草家の貝原益軒と交友した。主著として医学史書の『本朝医考』と、山城国の地誌である『雍州府志』などがある』(以上はウィキの「黒川道祐」に拠った)。

「兒」改訂版では「こ」とルビ。

「印南郡」「いんなみぐん」と読む。兵庫県の旧郡名。現在の加古川市の北部、高砂市の大部分、姫路市南東部の一部に相当する。因みに、「南(み)」は当て字で方角とは無関係。

「やいと」灸。

「紀州では田邊附近」この情報は高い確率で南方熊楠によるものと思われる。なお、熊楠と柳田の交友は明治四四(一九一一)年の文通に始まる。

「邑久郡朝日村」「おくぐん」と読む。現在の岡山県岡山市東区の内。

「出んと尻うつきるぞ」改訂版では「出んと尻うっきるぞ」と拗音化されている。「ぶっ切る」の意の「うち切る」(「うち」は整調の接頭語で、すっかりの意で採る)の訛語か。

「太鼓のぶち」太鼓の桴(ぶち)。「桴」は「枹」とも書き、「ばち」とも読む。所謂、和太鼓を演奏する際に用いる木製の二本の丸棒のこと。この童謡はカタツムリの二つの眼柄(童謡でいう槍・角)を太鼓の桴を振り回す姿に擬えたものであろう。

「三重郡」三重県の北部にある三重郡。

「一志郡雲出村」「いちしぐんくもでむら」と読む。現在の三重県中部にある津市内の雲出と頭に冠する各町に相当する。

「デンデラムシ」私は思わず、「遠野物語」の姨捨伝説で知られる「デンデラ野」を想起してしまい、死生観と蝸牛の連関が頭を過ぎったのだが、調べて見ると、あれは「蓮台野(れんだいの)」が訛ったものと推定されており、これは見るからに「出ぇ出ぇ虫」から生じた「出ん出ん虫」の変型で、ただの偶然の一致のようだ。]

 

 實際は歌詞の採用と、名稱の選定とは別々の行爲であつた。前者の變化の方が遙かに頻繁であつて、名詞は必ずしも毎囘これに追隨して居ない。あんまり小さい事で人は注意して居らぬかも知らぬが、童兒が蝸牛に向つていふ文句には、實は早くから二通りの別があつた。出るといふ一點は同じであつても、一つは其身を殼から出せといふもの、他の一つは即ち槍を出せ角を出せといふもので、あの珍らしい二つの棒を振りまわす點に興じたものであつた。子供としてはこの方が觀察が細かいのであつたが、どういふものか歌の數の多い割に、方言の上には影響が少ないのであつた。前に「尻つめろ」の例を擧げた紀州田邊でも、神子濱の方にはその「角出せ槍出せ」の歌があつて、名稱はやはりデンデン蟲蟲であり、備前でも兒島郡の方には、

   でんでんでんの蟲

   角出せはやせ

   早島の土手で

   蓑と笠と換えてやろ

という注意すべき文句があつて(郷土研究一卷十號)、しかも方言はなおデンノムシである。能登の鹿島郡には村によつて一樣ならず、

   でんでんがらぼ

   ちやつと出て見され

   わがうちや燒ける

と欺いて全身を出させようとするのと、

   つのらいもうらい

   角を出さねばかつつぶす

などと、單に角だけを要求するものとあつて(石川縣鹿島郡誌)、デンデンガラボもツノライモウライも、共にそれぞれの地の方言になつて居るらしいが、關東平野のマイマイツブロ領域などでは、殆ど一樣に蝸牛の名稱とは關係無しに、この「角出せ」の歌の方を唱へて居るのである。

[やぶちゃん注:「神子濱」「みこはま」と読む。現在の和歌山県田辺市神子浜。田辺市の海側の一画で、紀州田辺駅の南南東約一キロメートルに位置する町。これも恐らく南方熊楠からの情報であろう。

「兒島郡」現在の岡山県岡山市・倉敷市・玉野市に跨る児島半島を中心にした旧郡域。

「早島」現在の岡山県都窪郡早島町早島。児島半島の基部に当たる。

「能登の鹿島郡」石川県鹿島郡は現存するが、ここでの謂いは、現在の七尾市の大部分と羽咋市の一部を含む遙かに広域の旧郡名であるので注意が必要(地域についてはウィキの「鹿島郡に拠った)。

「ちやつと出て見され」改訂版では「ちゃっと」と拗音表記。

「角を出さねばかつつぶす」改訂版では「かっつぶす」と拗音表記。]

 

 是は或は詞章の有力なる外部感化以外に、別に方言發生の機會若くは必要ともいふべきものがあつたこと、又或は言語が固定して早晩符號化する傾向をもつことを語るものかも知れぬが、それはまだ自分には決し難いから、玆にはたゞ事實のみを擧げて置くのである。ダイロウまたはデエロの領域に於ても、やはり今行はるゝ童詞は、大抵は角を出せの方であつた。例へば信州では下水内郡に、

   だいろだいろ、角出せ、だいろだいろ

といふ童詞があり、同小縣郡などでは、

   だいろだいろつのう出せ

   角う出さなけりや

   向山へもつていつて

   首ちよんぎるちよんぎる

といふのがある。甲州では東山梨郡の一隅に、蝸牛をダイロといふ地域があつて、

   だいろだいろ角出せ

   角を出さぬと代官所に願ふぞ

といひ、越後でも中魚沼郡では、

   だいろうだいろう角を出せ

   にしが出せばおれも出す

などゝいつて居る。福島縣の磐瀨郡では何と唱へて居たか知らぬが、現在ダイロウといふ語を「拒絶する」という意味に使ふさうで、それは蝸牛の唄から出たと、郡誌にも解説して居るのである。「出る」といふ動詞の東國風の命令形が、後にダイロと化して元を忘れられるに至つたのも、一つの原因は是にあるのであらうが、歌に基づいて曾て出來た新語が、歌よりもおくれて後に殘る例は、固より是ばかりでは無かつたのである。

[やぶちゃん注:「下水内郡」「しもみのちぐん」と読む。長野県の北端に位置する。同郡は現存するが、ここでの謂いは、現在の中野市の一部(概ね千曲川以西)・飯山市の一部(同前)・栄村の一部(同前)を含む遙かに広域の旧郡名であるので注意が必要(地域についてはウィキの「下水内郡」に拠った)。

「小縣郡」「ちいさがたぐん」と読む。長野県中部の北西に位置する。同郡は現存するが、ここでの謂いは、上田市・東御市の一部(概ね千曲川以北)・小諸市の一部(滋野甲)を含む遙かに広域の旧郡名であるので注意が必要(地域についてはウィキの「小県郡」に拠った)。

「だいろだいろつのう出せ……」の唄は、改訂版では、

   角う出さなけりゃ

   向山へもっていって

   首ちょんぎるちょんぎる

と五箇所が拗音表記となっている。

「東山梨郡」旧広域郡名。現在の山梨市・甲州市の大部分(勝沼町上岩崎・勝沼町下岩崎・勝沼町藤井・大和町日影・大和町田野・大和町木賊を除く)・笛吹市の一部(春日居町小松・春日居町国府・春日居町鎮目・春日居町山崎・春日居町松本以北)に相当する。

「中魚沼郡」新潟県中部内陸の南西端に位置する。同郡は現存するが、ここでの謂いは、十日町市の一部(荒瀬、桐山、苧島、中子、滝沢、犬伏、海老、松代東山、松之山東山、松之山下鰕池、松之山上鰕池以西を除く)・小千谷市の一部(岩沢・真人町)・長岡市の一部(小国町大貝)を含む遙かに広域の旧郡名であるので注意が必要(地域についてはウィキの「中魚沼郡」に拠った)。

「磐瀨郡」「いはせぐん(いわせぐん)」と読む。福島県中部の南寄り(猪苗代湖よりも有意に県南境との中間)に位置する。同郡は現存するが、ここでの謂いは、白河市の一部(大信下小屋・大信隈戸)・西白河郡矢吹町の一部(境町・田内・馬場・本郷町・南町および子ハ清水(こはしみず)・東の内の各一部)を含む遙かに広域の旧郡名であるので注意が必要(地域についてはウィキの「岩瀬郡」に拠った)。]

 

 私の推定がもし誤つて居らぬならば、今日最も弘く行はるゝ「角出せ」の童詞は、假に他の條件さへ具備すれば、又此次の蝸牛の方言となるべきものであつた。さうして實際又其兆候は處々に見られるので、たゞ今日の標準語全盛の下に、遠く境外の地を征略し得られぬだけである。一例をいふと青森縣の三戸郡誌には、あの地方の蝸牛の歌が幾つか出て居る。八戸市及び斗川村では、

   つのだしつのだし

   角う出さながら

   んがいつこ(汝が家)ぶつこわすぶつこわす

といひ、或は又、

   つのだしつのだし

   角う出さながら

   大家どんさことわることわる

とも謂ひ、又は單に、

   角出し角出し

   つの出せ、やり出せ

といふのもあつて、この地方の蝸牛の方言は乃ちツノダシである。ツノダシは略此縣一圓に行はれ、五戸では又ツノダイシとも謂つて居る。津輕其他の土地には、別にツノベコといふ語も併存する。ツノベコは即ち角牛といふことで、これは飛び離れて福島縣東南の海岸から、茨城縣北境にかけて行はれて居る。玆では簡單にべコともいふのだが、それが若し「角出せ」の歌を唱ふれば、此語の成立つことも至つて容易であつたのである。

[やぶちゃん注:「三戸郡誌」明治十年代に編まれた三戸郡の地誌であるらしい。

「斗川村」「とがはむら」と読む。現在の青森県三戸(さんのへ)郡の南端、岩手県と秋田県の内陸の境に位置する三戸町の内。八戸市は北の五戸町と南の南部町とを挟んで、東の太平洋側に当たる。

「ぶつこわすぶつこわす」改訂版では「ぶっこわすぶっこわす」と拗音表記。

「五戸」「ごのへ」と読む。青森県三戸郡五戸町。八戸市の北東部で接する内陸地域。「斗川村」の注も参照のこと。

『玆では簡單にべコともいふのだが、それが若し「角出せ」の歌を唱ふれば、此語の成立つことも至つて容易であつたのである。』の箇所は、改訂版では『玆では簡單にべコともいふのだが、これに伴のうて若し「角出せ」の歌が行はれるならば、此の語の成り立つことも至つて容易であつたのである。』となっている。]

 

 それから今一箇處は石川縣の中央部、加賀の石川郡などにもツノダシの領分がある。越中に入るとそれが複合して、

   ツノダシミョミョ   東礪波郡野尻村

   ツノツノミョミョ    同郡井ノ口村

   ミョミョツノダセ    同郡出町附近

   カエカエツノダス    氷見郡宇波村

   ミョミョツノダシ    中新川郡上市町

などゝなつて居るが、何れも皆土地に行はれて居た童詞の第一句を、其のまゝ呼びかけられる相手の名と、心得てしまつた結果かと思ふ。千葉縣の東葛飾郡などは、マイマイ領域のまん中であるが、やはりボーダシといふ一語が併存して居る。ツノといふだけの語を添へた例ならば、他にもまだ方々にあるらしい。美濃の東部などは、後に言はんと欲するツブラ領の飛地であるが、そこにも山縣郡ではツンツンといふ一語がある。是も角角の歌がなかつたならば、單なるツブラだけからは此異稱は導かれなかつたらう。

[やぶちゃん注:「出町」「でまち」と読む。

「宇波」「うなみ」と読む。

「中新川郡上市町」「なかにいかは(かわ)ぐんかみいちまち」と読む。私は中学高校の六年間、富山に住んでいた関係上、これらの地名は極めて親しんでおり、位置情報その他を注する気になれない。悪しからず。私は私の分かるものについては、注を附さない。それは御承知置きを。でないと、注だらけになるからね。注とは――私は――基本、そう考える人間なんである。]

 

 最後に今一つ注意すべき例は、前にダイロ領域の一つの終端であらうと述べた上野と武藏北部との邊境現象である。

   ツンノデエロ        上野群馬郡

   ツンノンデエシヨ      同郡總社町

   ツノンダイロ        同國館林附近

   ツノンデエロ        武藏妻沼町

   ツノンデエロ        同 禮羽町

   ツノンダエシヨ       同 大里郡八基村

   ツノンダイシロ、メエメエズ 武藏入間郡

即ち此區域の北境はダイロ、南はマイマイの領地であつて、別にツノダシの語の行はれて居る地方では無いが、尚「角出せ」の童詞の影響を受けて、純然たるダイロに服從することが出來なかつたのである。それ故に私は、若し今日の如き意識的統一の風が起らなかつたら、デンデンムシに嗣いで覇を唱ふべき方言は、或はこのツノダシではなかつたらうかと思ふのである。

[やぶちゃん注:「上野群馬郡」「こうづけぐんまぐん」と読むか。現在の前橋市(利根川以西)・高崎市の一部・渋川市の一部・北群馬郡吉岡町・北群馬郡榛東(しんとう)村に相当する。

「ツンノンデエシヨ」は改訂版では「ツンノンデエショ」。

「總社町」「そうじやまち(そうじゃまち)」と読む。現在の前橋市総社地区に相当する。

「ツノンデエロ」二箇所あるが孰れも改訂版では「ツノンデェロ」。

「ツノンダエシヨ」は改訂版では「ツノンダェショ」。

「メエメエズ」改訂版では「メェメェズ」。

「武藏妻沼町」「妻沼町」は「めぬままち」と読む。旧埼玉県北部大里郡にあった町。現在は熊谷市及び大里郡大里町と合併し、新しい熊谷市の一部となった。町名は中世の女沼が近世になって目沼となり、さらに妻沼となったものである、とウィキ妻沼町にある。

「禮羽町」「禮羽」は「らいは」と読む。現在の埼玉県加須市礼羽。

「大里郡八基村」「おほ(おお)さとぐんやつもとむら」と読む。八基村は埼玉県の北西部、大里郡に属していた村で当初は手計村(てばかむら)と称し、榛沢(はんざわ)郡に属した(以上はウィキ榛沢郡に拠る。]

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