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2015/03/29

耳囊 卷之十 白龜の事

 

 白龜の事 

 

 文化十酉年七月、本石町(ほんこくちやう)一丁目御堀際(ぎは)、此の通(とほり)の龜を、同所惣右衞門店(たな)悴(せがれ)淸五郞豐松拾ひ取(とり)、甲(かうら)の片端へ穴をあけ凧(たこ)の絲(いと)やうのものを通し提(ささげ)歩行(ありき)しを、同店(たな)林左衞門見請(みうけ)、錢(ぜに)四十八錢(せん)をあたへ貰ひ、珍敷(めづらしき)物に付(つき)、身延山へ納度存居(をさめたくぞんじをり)候。珍敷ものに付、町役人共ども)、南番所(みなみばんしよ)へ訴出(うつたへいで)候。予携之(これをたづさへ)登城なし、七月十三日、御用番松平伊豆守殿へ申上(まうしあげ)、可懸御目(おめにかくべき)に哉(や)と申(まうし)ければ、上げ候樣にと御沙汰故、則(すなはち)御同朋頭(ごどうほうがしら)を以(もつて)上(あげ)候處、奧へ相𢌞(あひまは)り、翌々日相伺(あひうかがひ)候處、御留(おとど)めに相成(あひなり)候由故、同十七日、先年武州押上村百姓より、至(いたつ)て小さき白龜(しろがめ)を上(あげ)候節、金壹兩被下(くだされ)候例(ためし)も候間、其段申上(まうしあげ)、金壹兩自分番所にて申渡相渡(まうしわたしあひわたす)。尤(もつとも)押上村の龜は、先年予も見たりしが、香合(かうがふ)へ入(いれ)、冬の事にて綿へ乘せ、御代官大貫次右衞門より差出(さしいだし)、御勘定奉行より申上、右の通にて相濟(あひすみ)候。此度の龜は、甲の豎(たて)三寸斗(ばかり)、横二寸斗にて、隨分壯健成(なる)趣に候。
 

 

Sirogame
 

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。]

但し右龜は西丸御簾中(にしのまるごれんちう)樣へ被進(しんぜられ)、名を豐松と被下(くだされ)候由。追(おつ)て內祕(ないひ)承之(これうけたまはる)。尤(もつとも)拾ひ候童(わらべ)も、豐松と申候處、右名前は一向不申上(まうしあげず)處、□に右の通(とほり)被下(くだされ)候と申(まうす)儀、ひとつは奇事にて、何れ目出度(めでたき)吉祥(きつしやう)と歡び畢(をはんぬ)。 

 

□やぶちゃん注

○前項連関:蟒蛇(うわばみ)から白亀の異類譚で直連関。話柄時間も同期。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版(後掲)のデータによるなら、しかも「重瞳」でも連関しる。標題からは甲羅腹及び頭尾四肢総てが白或いは白っぽいとすれば、図から見ると、爬虫綱カメ目潜頸亜目リクガメ上科イシガメ科イシガメ属 Mauremys のカメで、恐らくはニホンイシガメ Mauremys japonica のアルビノ(albino:メラニンの生合成に係わる遺伝情報の欠損によって先天的にメラニンが欠乏する遺伝子疾患がある白化個体)ということになる(先のリンク先はウィキの「ニホンイシガメ」。クサガメ(ゼニガメ)Mauremys reevesii も考えたが、ウィキの「クサガメ」に『江戸時代や明治時代では希少で西日本や南日本にのみ分布するという記録がある』とあったので外した。因みに「カメ アルビノ」のグーグル画像検索も参照されたい)が、どうもバークレー校版のデータをみるとアルビノとは違うようだ(後掲するデータの注で考証する)。底本の鈴木氏注には、『続日本紀養老七年に白亀を朝廷に献じたとあり、以下史書に同種の記事が少なくない』と記す。なお、ここで最初に豊松から亀を買って町方に身延山寄進を申し出た左衛門や、また、それを南町奉行にわざわざ上申した町方役人も、根岸同様――無論、有り難い白い亀の奇瑞という表向きの無償の行為ではあろうが――しかし一方では先年、将軍家斉に白亀が差し上げられて金一両が賜わられた事実を耳にしていたからこそ、でもあろう。ぶら提げられて西丸奥向きまで空中を泳いでいる白い亀さんのアップが、これ、如何にも微笑ましい――カメの「豊松」君にはとんだ受難だけれども――。

・「文化十酉年七月」西暦一八一三年。「卷之十」の記載の推定下限は文化十一年六月。

・「本石町一丁目」岩波の長谷川氏注に、『中央区日本橋石町。西側が堀』とある。現在の日本銀行の東南部分に相当する。

・「悴淸五郞豐松」意味が通らない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『淸五郞悴豐松』。無論、これで訳した。

・「四十八錢」四十六文。いつも参考にさせて戴いている贋金両替商「京都・伏見 山城屋善五郎」の「江戸時代の諸物価(文化・文政期)」によれば、蕎麦(二八蕎麦)一杯が十六文で現在の四百円とすると、千二百円ほど。後に出る「一兩」は十万円相当である。

・「身延山」日蓮宗総本山久遠寺。日蓮の遺骨が祭られている日蓮宗の聖地。

・「南番所」南町奉行所。当月が当番であったのであろう。当時の奉行は無論、根岸自身である。

・「南番所へ訴出候。予携之登城なし」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版ではこの間)「南番所へ訴出候。」と「予携之登城なし」の間)に二字下げで亀のデータが列記されている。恣意的に正字化して示す。

   《引用開始》

  頭尾足手は常の如し。

  両眼共瞳二つあり。

  甲腹は全く白し。

   《引用終了》

このデータ、やや問題があるように思われる。

 まず一つは「頭尾足手は常の如し」として「甲腹は全く白し」ある点である。これは頭尾四肢については白くない通常の亀であるという叙述としか私には読めない。爬虫類の専門家や愛好家のサイト及び獣医のサイトを縦覧すると、甲羅や腹が白化する「シェルロット」という潰瘍(といっても真っ白ではなく画像で見る限りでは背部の甲片の中央部や腹部のつなぎ目が白くなっている)の甲羅腹部への全感染のケース、さらに本体が異常急成長すると甲羅の成長も通常より著しく早くなり(これは完全に病気である)、甲羅の内側繋ぎ目の部分が有意に白っぽくなるケースがあるようだ(これは但し致命的な病気というほどのものではないらしい)。この場合もそれか。せっかくお姫様に可愛がってもらってるのだもの、「豊松」のそれがやっぱりアルビノか、最後のそれであるか、ただ甲羅がたまたま白っぽく脱色してしまった至極健康な亀(事実、本文には「隨分壯健」ともあるからね)であって欲しい気が、私はするのである。

 次に「重瞳」である。これは直前の「四瞳小兒の事」に出る、多瞳孔症(または多瞳孔)或いは虹彩離断(毛様体への虹彩の付着によるその局部的な分離や剥離症状で「虹彩断裂」とも呼ぶ。Iridodialysis 或いは coredialysisに似たように見えるカメの正常な目を指しているのだと私は思う。「四瞳小兒の事」で私は、瞳が並んでいるのではなくて同心円状に重なって見えることを「重瞳」と言ったのではないか、という私の古い仮説を示したが、爬虫類の眼というのは瞳孔が縦長であったり、多様な模様があって目の中に縦に目があるように見えたり、或いは亀などの場合、まさに同心円状に見えたりと、まさしく「重瞳」的なのである。ああ、ますます「重瞳」の形状幻想のラビリンスが広がっていくではないか!……

・「御用番」用番。老中・若年寄が毎月一人ずつ交代で政務を執ったこと。月番。

・「松平伊豆守殿」三河吉田藩第四代藩主で、幕府老中・老中首座を務めた松平信明(のぶあきら 宝暦一三(一七六三)年~文化一四(一八一七)年)。老中在任は天明八(一七八八)年~享和三(一八〇三)年と、文化三(一八〇六)年~文化一四(一八一七)年。ウィキの「松平信明」によれば、『松平定信が寛政の改革をすすめるにあたって、定信とともに幕政に加わ』って改革を推進、寛政五(一七九三)年に『定信が老中を辞職すると、老中首座として幕政を主導し、寛政の遺老と呼ばれた。幕政主導の間は定信の改革方針を基本的に受け継ぎ』、『蝦夷地開拓などの北方問題を積極的に対処した』。寛政一一(一七九九)年に『東蝦夷地を松前藩から仮上知し、蝦夷地御用掛を置いて蝦夷地の開発を進めたが、財政負担が大きく』享和二(一八〇二)年に非開発の方針に転換、『蝦夷地奉行(後の箱館奉行)を設置した』。『しかし信明は自らの老中権力を強化しようとしたため、将軍の家斉やその実父の徳川治済と軋轢が生じ』、享和三(一八〇三)年に病気を理由に老中を辞職している。ところが、文化三(一八〇六)年四月二十六日に彼の後、老中首座となっていたこの「大垣侯」戸田氏教(うじのり)が老中在任のまま『死去したため、新たな老中首座には老中次席の牧野忠精がなった』。『しかし牧野や土井利厚、青山忠裕らは対外政策の経験が乏しく、戸田が首座の時に発生したニコライ・レザノフ来航における対外問題と緊張からこの難局を乗り切れるか疑問視され』たことから、文化三(一八〇六)年五月二十五日に信明は家斉から異例の老中首座への『復帰を許された。これは対外的な危機感を強めていた松平定信が縁戚に当たる牧野を説得し、また林述斎が家斉を説得して異例の復職がなされたとされている』。『ただし家斉は信明の権力集中を恐れて、勝手掛は牧野が担っている』とある。その後は種々の対外的緊張から防衛に意を砕き、経済・財政政策では『緊縮財政により健全財政を目指す松平定信時代の方針を継承していた』が、『蝦夷地開発など対外問題から支出が増大して赤字財政に転落』、文化一二(一八一五)年頃には『幕府財政は危機的状況となった。このため、有力町人からの御用金、農民に対する国役金、諸大名に対する御手伝普請の賦課により何とか乗り切っていたが、このため諸大名の幕府や信明に対する不満が高まったという』とある。かなりの権勢家であったことがよく分かる。

・「御同朋頭」。若年寄に属し、同朋(どうぼう:室町時代に発生した職掌で、将軍・大名に近侍し、雑務や諸芸能を司った僧体の者。室町時代には一般に阿弥(あみ)号を称し、一芸に秀でた者が多かった。江戸時代には幕府の役職の一つとなり、若年寄の支配下で大名の案内・着替えなどの雑事をつとめた。同朋衆。童坊。)及び表坊主(おもてぼうず:江戸城内での大名及び諸役人の給仕をした。)・奥坊主(おくぼうず:江戸城内の茶室を管理して将軍や大名・諸役人に茶の接待をした坊主。坊主衆の中では最も権威があった。)の監督を司った。

・「武州押上」以前に出た「本所押上」と同じであろう。現在の東京都墨田区本所の北端部に当たる押上地区(押上・業平・横川)は東京スカイツリーで知られる。

・「金壹兩自分番所にて申渡相渡」南町奉行所より、お上から下賜された一両を褒美として与えられたのは、この亀の現在の所有者である本石町惣右衛門店の林左衞門である。無論、彼が江戸っ子なら、拾った淸五郎の伜豊松へも幾たりかを分け与えたはずである。

・「香合」香を入れる蓋附きの容器。木地・漆器・陶磁器などがある。香箱。

・「大貫次右衞門」先行する「巻之十 奇體の事」に既出の代官。再掲すると、底本の鈴木氏注に、『光豊。天明三年(二十八歳)家督。廩米百俵。六年御勘定吟味方改役より御代官に転ず。文化六年武鑑に、武蔵下総相模郡代付、大貫次右衛門とある』と記す。ちゃり蔵氏のブログ「ちゃりさん脳ミソ漏れ漏れなんですが」のこちらに、大貫光豊(おおぬきみつとよ)と出、『代官・大貫次右衛門』、『代々、次右衛門を名乗る』とあって、天明六(一七八六)年に『勘定吟味方改役から越後水原陣屋の代官の後、関東郡代付代官・馬喰町詰代官を歴任し』、文政六(一八二三)年五月に勇退と記されてある(こちらの方の記載は佐藤雅美作「八州廻り 桑山十兵衛」の登場人物の解説である)。当時は関東郡代付代官であったものらしい。

・「甲の豎三寸斗、横二寸斗」甲羅の縦が九センチメートル、横が六センチメートルほど。

・「西丸御簾中」岩波の長谷川氏注に、世子で徳川家斉次男(同母兄長男の竹千代は早世)の後の第十二代将軍徳川家慶(いえよし 寛政五(一七九三)年~嘉永六(一八五三)年)の夫人で有栖川宮中務卿幟仁(ありすがわのみやなかつかさおりひと)親王王女喬子(たかこ 寛政七(一七九五)年~天保一一(一八四〇)年)。文化六(一八〇九)年降嫁とあるが、ウィキの「喬子女王」によると、幕府の希望により喬子女王は数え十歳で江戸へ下向、以後婚儀までの五年間を江戸城西ノ丸で過ごし、文化六年十二月一日に正式に家慶と婚姻したある。文化一〇年一〇月に長男竹千代、文化十二年に次女、文化十三年に三女を生んだが、孰れも夭折したとある(家慶の後は側室本寿院の産んだ家定が継いで第十三代将軍となった)。文化十一年当時はその長男を失った翌年で、いまだ満十八歳であった。

・「名を豐松と被下候」命名者は将軍家斉であろう。

・「內祕」ごく内々の内緒事。

・「□に右の通被下候と申儀」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『右之趣に被下候と申儀』で「□」は不詳。バークレー校版で訳した。 

 

■やぶちゃん現代語訳 

 

 白亀(しろがめ)の事

 

 文化十年酉年の七月のこと、本石町(ほんこくちょう)一丁目御堀際(ぎわ)にて、ここに図で示した通りの、かくなる白き亀を、同本石町一丁目の惣右衛門店(たな)の清五郎伜(せがれ)豊松と申す子どもが拾い獲り、甲羅の片端(かたはし)へ穴を開け、そこに凧糸のようなものを通して、ぶら提げて歩いて御座ったところを、同じ惣右衛門店(たな)の林左衛門なる町人が見かけ、たいそう珍しい亀であったによって、銭(ぜに)四十八文(もん)を与え、豊松より貰い受け、林左衛門、

「――珍らしき物なればこそ、我ら信心致いておりまする身延山へ納めとぅ存じまする。……」

との旨、町方の役人へ、これまた、その亀をぶら提げて申し出て参ったによって、これまた、町方の役人も、白き亀を見るなり、

「……これはまた! 珍らしきものなれば。……」

とて、南町奉行へ、これまた、その亀をぶら提げて、取り敢えずはと、訴え出でて参った。

 さてもそこで私は、その後、これまた、その亀をぶら提げて登城致し、七月十三日のこと、その折り、御用番であられた松平伊豆守信明様へ申し上げ、これまた、その亀を恭しくぶら提げ奉り、

「……さてもこの亀、上様のお目にかくるべきものにては御座いましょうや?」

と、申し上げたところ、

「――宜しく、お目見え申し上ぐるように。」

との御沙汰であったによって、直ちに御同朋頭(ごどうほうがしら)へ参らせて、以ってお目見え申し上げたところ、続いて奧方へと相い廻り申し上ぐることと相い成り、翌々日に相いお伺い申し上げたところが――城内にお留(とど)おかるることと相いなった――との由にて御座った。

 さてもそこで、同七月十七日こと、私より松平伊豆守様へ、

「――先年、武州押上(おしあげ)村百姓より――至って小さき――白亀(しろがめ)を差し上(あげ)ましたる折りには、金一両を下賜なされた例(ためし)も御座いまするが……」

といった旨、申し上げたところが、直ちに金一両、私が方へと送付されて参ったによって、南町奉行所にて、かの林左衛門へかくかくの仕儀と相い成ったる由下知致いて、その一両を相い渡し終えた――もっとも、かの押上村の亀の件と申すは、これ先年、私も実物を実見致いて御座るが、香合(こうごう)へ入れてあり、冬のことなれば綿へも載せ置かれた、如何にも小さな亀にして、御代官大貫次右衞門殿より差し出され、御勘定奉行より申し上ぐるという経緯を辿って、かくの如く、処理なされたものではあった――。

 それに対し、このたびの白亀は、甲の縦は三寸ばかりもあり、横も二寸ほどはあって、随分、壮健なる様子にては御座った。

 但し、この亀はお上ではなく、西丸御簾中(にしのまるごれんちゅう)喬子(たかこ)様へ進ぜられて、名を――豊松――と、お下しになられて御座った由。

 これはおって、ごく内密の内輪話として承ったことではある。

 が、私は、拾ったる町の童(わらべ)も――豊松――と申して御座ったことは、その名前なんど、これ、上申に不要のことなれば、一向、申し上げず御座ったにも拘わらず、何と、全く同じく――豊松――と名づけ遊ばされたと申す儀、これ、まっこと、摩訶不思議なることなれば、孰れ、目出たき吉祥(きっしょう)ならんと、お歓び申し上げ奉って御座った。

 

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