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« 耳嚢 巻之十 大井川最寄古井怪の事 | トップページ | 昨日――母と私の墓を参る »

2015/03/18

耳嚢 巻之十 幼女子を産し事

 幼女子を産し事

 

 土屋保三郎領分下總國猿島(さしま)郡藤代(ふじしろ)宿、忠藏娘とや、文化九年申八月男子を出産し、母子健成(すこやかなる)由。とや事四歳より経行(けいかう)に成(なり)、當年八歳の由。右は全くの妄説ならんと疑ひしに、御代官吉岡次郎右衞門支配所は右最寄にて、珍事故、右手代廻村(くわいそん)序(ついで)、まのあたり見屆(みとどけ)し由。我等がしれる人の家來、知行へ參り候とて右忠藏隣(となり)に止宿して此事を聞(きき)しに、相違なしと語りぬ。尤(もつとも)男はなしとも云(いひ)、又有共(あれども)、深く隱すとも沙汰あり。何れ生れしといふは僞りにて、狐狸のたぐひ其子に化し居(ゐ)たるにはなきかと、猶(なほ)怪しみは解(とけ)ざりき。

  但(ただし)二百四十九年以前、永祿七甲

  子(きのえね)年、丹波國にて七歳の女、

  子を産むといふ事、或書にあれば、なき事

  とも難申(まうしがたく)と、人の言ひき。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。底本の鈴木氏注に、『武江年表、文化九年九月三日、下総国相馬郡藤代宿百姓忠蔵娘とや、八歳にて男子を生、母子恙なし、と見ゆれば、当時評判なりしなるべし。(三村翁)』とあり、岩波の長谷川氏には、「武江年表」の他にも、滝沢馬琴編「兎園小説」、医師で文人であった加藤曳尾庵(えいびあん)の「我衣」八にも載ると記し、ただ、それらではとやの出産は九月三日としてあるとあるから、それが正しいようである(但し、訳がそのまま「八月」とした)。後者は未読であるが、「兎園小説」の方は私の偏愛するもので(私のオリジナル古文教案「やぶちゃんと行く江戸のトワイライト・ゾーン」の三篇の内、第一夜と第二夜の二篇はそこからで、第三夜は既に公開した「耳嚢 巻之九 不思議の尼懴解物語の事」である)、地下文書形式で臨場感があるから、現代語訳の後に資料として配した。さても――これは事実か否か? 例えば最近でもメキシコの九歳の少女が出産したというニュースがあり(二〇一三年二月。但し実際には十二歳で、父親は義父が疑われている)、それに関わって書かれたペルーの「【世界最年少】5才7か月で妊娠出産した少女」についての記事もネット上には存在する(こちらは一九三三年と古いが、画像も豊富)。最初に私が想起したのは二重体(胎児内胎児。「ブラックジャック」のピノコである)であったが、ここでは性別が異なる点や、産まれた子が奇形胎児でなく、出産後も母子ともに健康であるという点などからは可能性が低いように思われる。上記の二つの記事にも特徴的に見られるが、実際の出産であった場合は(この主人公「とや」は満で七歳であり、現代でも九歳未満の早発月経(Premature mensuruation)を思春期早発症などとも呼称しているくらいだから、全くあり得ない話ではない。また、田舎のことであるから年齢も必ずしも正確とは言い難いという気もする。事実、後掲する「兎園小説」の報告書には『とや儀は年頃より大柄に相見え候』とあるのである)、幼女に対する性的虐待や幼児姦、しかもしばしば相手として家庭内の近親姻族(私の読んだ法医学書の事例では外国のケースで、実の兄が二人の姉妹を妊娠させた例を知っている。しかもそれは性行為によるものではなく、奇妙な性的悪戯による妊娠であったことが判明するという驚くべきものであった)が疑われたりもする。

・「土屋保三郎」文化九年当時ならば、現在の茨城県土浦市を藩庁とした常陸国土浦藩(譜代・九万五千石)第九代藩主土屋彦直(よしなお)である。しかし、彼の幼名は「保三郎」ではなく、「拾三郎」であり、しかも先の第八代藩主土屋寛直(寛政七(一七九五)年~文化七(一八一〇)年)の幼名が「保三郎」である。この寛直は第七代藩主土屋英直長男で、享和三(一八〇三)年八歳の時に父が死去したために家督を継いだのであるが、しかし病弱で七年後の文化七年十月十五日に満十五歳で亡くなってしまうのである。ところが参照したウィキの「土屋寛直」によれば、『継嗣が無いため、寛直はなおも病床で生きているということにして、幕府に進退伺を提出、「病弱で、嗣子もなく領地奉還をしたい」と願い、更に「養子を認められるなら」という文章を提出したところ、祖先の勲功があったので養子を認められ、水戸藩主徳川治保の三男・拾三郎(土屋彦直)に寛直の養女(実妹、英直の娘)充子を娶わせ、婿養子として迎えた。そして、養子縁組が成立した後の』文化八(一八一一)年十月二日に死去したと発表している、とある。ただ、ややこしいことに実は、この寛直の父英直も幼名を同じく「保三郎」と称していた。岩波の長谷川氏の注には、この「土屋保三郎」を『英直』とするのであるが、文化九年では実は土屋保三郎英直もその子保三郎寛直も既に死んでしまっているのである。そこで、さらに岩波のカリフォルニア大学バークレー校版の方を調べて見ると、そこではここが「保三郎」ではなく「怡三郎」(「いさぶらう(いさぶろう)」と読むか)となっていることが分かった(これを長谷川氏は「保」の誤写と見たのであるが)。さらに見ると、後掲する「兎園小説」にはその出来事を報告した人物に『土屋洽三郎使者』とあるのである。さても、

――保三郎――(英直・寛直父子幼名)

――怡三郎――(岩波のカリフォルニア大学バークレー校版の表記)

――洽三郎――(兎園小説の記載)

――拾三郎――(彦直幼名)

と並べてみると、私には「保三郎」と「怡三郎」(そしてさらに「洽三郎」も)は寧ろ、「拾三郎」の誤写か誤読であるように思えてくるのである。……

 ……いや……そんなことより……実は私は……この注作業の中で、この――死んでから一年もの間――生きていることにされなければならなかった十五歳の少年藩主――のことをずっと考えていたのだ……私は――この少女より、この少年の方が何だか――気になるのである。……

・「下總國猿島郡藤代宿」茨城県南部に位置する旧北相馬郡藤代町(猿島郡は誤りであろうが、訳ではママとした)。現在は取手市藤代町。農村地帯で水戸街道(陸前浜街道)の宿場町藤代宿として栄えた。ウィキの「土屋藩によれば常陸国土浦藩は下総国相馬郡(北相馬郡は旧相馬郡の一部)に六村の飛地としての領地を持っていた。但し、ウィキの「北相馬郡」によれば当時の藤代村内には寺社除地と百姓除地が存在していた(除地とは領主から年貢免除の特権を与えられた土地を指す)。

・「文化九年申」壬申(みずのえさる)。西暦一八一二年。「卷之十」の記載の推定下限は二年後の文化一一年六月。

・「當年八歳」満七歳。これが正しいとすれば、とやの生年は文化二(一八〇五)年生まれということになる。

・「吉岡次郎右衞門」講談社「日本人名大辞典」の義民「片岡万平」の項に(明和七(一七七〇)~文化一四(一八一八)年)常陸河内郡生板(まないた)村の人。文化十四年に幕府代官吉岡次郎右衛門に対し、年貢減免を要求、市毛与五右衛門・石山市左衛門とともに江戸の吉岡邸及び勘定奉行所に訴え出、捕らえられて十二月二十日に獄死した。後に吉岡は代官を罷免された、とある人物と考えてよかろう。「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月である。

・「手代」郡代・代官・奉行の下で雑務を担当した役人。

・「二百四十九年以前、永祿七甲子年」永禄七年甲子は西暦一五六四年であるから、その「二百四十九年」後は数えと同じ計算で一八一四年で文化十一年、「卷之十」の記載の推定下限は二年後の文化十一年六月であるから、この記載自体はまさに、その文化十一年の記載であることが分かるのである。

・「或書」不詳。諸本も注さない。ああっ! 何とかこれを電子化したいもの! 識者の御教授を切(せち)に乞う!!

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 幼女が子を産んだ事

 

 土屋保三郎彦直(よしなお)殿領分、下総国猿島(さしま)郡藤代(ふじしろ)宿の忠蔵の娘、

――とや――

儀、文化九年申年の八月に男子を出産、母子ともに健やかである、とのことである。

 とや儀、これ、早くも四歳より初潮が始まったとのことで、当年とって未だ八歳、とのことである。

 実は私は、これは全くの妄説であろうと疑ぐっていたのであるが、御代官吉岡次郎右衛門の支配所が、この最寄りにあったによって、珍事ゆえ、吉岡殿へ御用のあった砌り、私の手代の者に廻村巡検のついでに調べさせたところが、確かに母子、これ、実見の上、その年齢や出産の事実であることをも確認出来た、と報告して参った。

 さらに、私の知音(ちいん)の御家来衆にて、かの地の最寄にあったその知音の知行地へと参った折り、実に、その忠蔵の住まいする隣りにあった旅籠(はたご)に止宿致いたによって、かの事実について、これ、宿主人に確かめてみたところが、これも事実に相違御座らぬ、との返答で御座ったと話し呉れた。

 もっとも、夫――子の父に当たる男は、これ、不明なりとも言い、また、確かに子の父なる者の分かっておるけれども、これ、訳あって深く隠しておる、とも噂しておるという。

 かく聴いても、それでも私は所詮、産んだと申すはこれ偽りであって……そうさ、狐狸の類いが、これ、その――とや――と申す子に――化けて――なりすましておるのではないか……などと、勝手な妄想も致いたり……なお今以って、私の不審は解けぬのである。

[根岸附記]

 但し、その後、

「……二百四十九年以前、永禄七年甲子(きのえね)年に、丹波国にて七歳の娘が子を産んだという記事を、我ら、とある文書の中に見出だしまして御座る。……さればこれも、強ち、絶対にないこととも、申し難きこととは存じまする。……」

とは、とある人の意見ではあった。

 

■資料 滝沢馬琴編「兎園小説」第二集より「藤代村八歳の女子の子を産みし時の進達書   海棠庵」

[やぶちゃん注:「兎園小説」は馬琴が文政八(一八二五)年に当時の親しい文人や好事家らに毎月一回集まって見聞した珍奇談を披露し合ったサロン「兎園会(とえんかい)」に出た話を纏めたものである(会員の中には根岸と親しかった国学者で幕府右筆の屋代弘賢もいた)。実際の筆者である「海棠庵」は、常陸土浦藩士で書家としても知られた関思亮(せき しりょう 寛政八(一七九六)年~文政一三(一八三〇)年)の号。「藤代村八歳の女子の子を産みし時の進達書」は目次にある標題で、「進達書」とは上申書に添える進達(下からの書類を取り次いで上級官庁に届け出ること)の書状。以下の底本は吉川弘文館昭和四八(一九七三)年刊「日本随筆大成 第二期第一巻」を用いたが、恣意的に正字に直した。後に全くの私の我流で書き下し文を附し(読み易くするためにシチュエーションごとに改行した。また直接話法で無理矢理示した箇所の末尾の変格訓読は確信犯なので悪しからず)、最後に簡単な注記を附した。]

 

   〇兎園会第二集小話   海 棠 庵 識

[やぶちゃん注:以下の前書は底本では本文全体が二字下げ。クレジット以下はママ。]

下総国藤代村にて、八歳の女子が子をうみし事は、あまねく世の人のしるところにはあれど、年經なば疑惑もおこらんかし、よりてことふりにたれど、余が藩より公に告げし口達一通を、兎園の集に加へて、實事を永く傳へんとおもふのみ。

文化九年壬申十月十日、御勘定奉行柳生主膳正樣へ口達

 

                土屋洽三郎使者 大村市之允     

拙者在所下總國相馬郡藤代村百姓三吉厄害忠藏娘とやと申、當申八歳罷成候者、去月十一日曉出産之處、男子致出生候段屆出候に付、年頃不相當之儀に御座候間、見分之者差遣樣子相糺候處、同人儀、文化二丑年五月十一日致出生、四歳之頃より經水之廻り有之候得共、全病氣と心得罷在候。然所去秋の頃より腹滿之氣味有之、醫師へ爲見候處、蟲氣にても可有之哉に申聞、腹藥灸治等無油斷相用候得共、相替候儀無御座、當春に相成彌致腹滿候に付、種々致療治候得共同篇にて、猶又醫師にも相尋候處、病氣に相違は有之間敷候得共、萬一懷胎にても可有之哉、容體難決段申聞候。其後近比に相成、乳も色付不一通樣子に付、彌懷胎に相違も有之間敷段醫師申聞候間、右之致用意罷在候處、去月二日夜中より蟲氣付、翌三日曉平産母子共丈夫にて、乳汁も澤山に有之由、且又とや儀は年頃より大柄に相見え候。出生之小兒は、並々之小兒より産髮黑長き方に有之、其外は相替候儀無御座候由申聞候。依之當人は勿論、兩親初三吉家内之者、其外村役人組合之者へも委敷相尋候處、幼少之儀、是は如何と心付候儀も無御座候、尤疑敷風聞等も一向及承不申候段一同申聞、口書印形差出申候段、在所役人共より申越候に付、此段以使者申述候。

 

□やぶちゃんの書き下し文

   〇兎園会第二集小話   海棠庵 識す

下総国藤代村にて、八歳の女子が子をうみし事は、あまねく世の人のしるところにはあれど、年經なば疑惑もおこらんかし、よりてことふりにたれど、余が藩より公に告げし口達一通を、兎園の集に加へて、實事を永く傳へんとおもふのみ。

文化九年壬申十月十日、御勘定奉行柳生主膳正(しゆぜんのかみ)樣へ口達(こうだつ)

 

                土屋洽三郎使者 大村市之允(いちのじよう)     

拙者在所、下總國相馬郡藤代村百姓三吉厄害(やくがい)忠藏娘とやと申し、當申、八歳罷り成り候ふ者、去る月十一日曉(あかつき)、出産の處、男子、出生致し候段、屆け出で候ふに付き、年頃、相當せざるの儀に御座候ふ間、見分(けんぶん)の者、差し遣はし、樣子、相ひ糺し候ふ處、

同人儀、文化二丑年五月十一日、出生(しゆつしやう)致し、四歳の頃より經水(けいすい)の廻(めぐ)り之れ有り候得(さふらえ)ども、全く病氣と心得罷り在り候ふ。

然る所、去る秋の頃より、腹滿(ふくまん)の氣味、之れ有り、醫師へ見させ候ふ處、

「蟲氣(むしけ)にても有るべきや。」

と申し聞き、腹藥・灸治等、油斷無く相ひ用ひ候得ども、相ひ替はり候ふ儀、御座無く、

當春に相ひ成り、彌々(いよいよ)腹滿致し候ふに付き、種々(いろいろ)療治致し候得ども同篇(どうへん)にて、
猶ほ又、醫師にも相ひ尋ね候ふ處、

「病氣に相違は之れ有る間じく候得ども、萬一、懷胎(くわいたい)にても之れ有るべきや。容體、決し難し。」

の段、申し聞き候ふ。

其の後、近比(ちかごろ)に相ひ成り、乳も色付き、一通りならざる樣子に付き、

「彌々懷胎に相違も之れ有るまじ。」

きの段、醫師、申し聞き候ふ間、右の用意、致し罷り在り候ふ處、

去る月二日夜中より蟲氣付き、翌三日曉、平産、母子とも丈夫にて、乳汁も澤山に之れ有る由。

且つ又、とや儀は、年頃より大柄に相ひ見え候ふ。

出生の小兒は、並々の小兒より産髮、黑長き方に之れ有り、其の外は相ひ替はり候ふ儀、御座無く候ふ由、申し聞き候ふ。

之れに依つて、當人は勿論、兩親初め三吉家内(かない)の者、其の外、村役人・組合の者へも委(くは)しく相ひ尋ね候ふ處、幼少の儀、是は如何(いかに)と心付き候ふ儀も御座無く候ふ。

尤も、疑はしき風聞等も、一向、承り及び申さず候ふの段、一同、申し聞き、口書(くちがき)・印形(いんぎやう)、差し出だし申し候ふ段、在所役人どもより申し越し候ふに付き、此の段、以つて使者、申し述べ候ふ。

 

*やぶちゃん注記

●「柳生主膳正」旗本で当時、勘定奉行であった柳生久通(やぎゅうひさみち 延享二(一七四五)年~文政一一(一八二八)年)。歴代勘定奉行の中で最も長い期間(二十八年強)を務めた。官位は玄蕃を称し、明和四(一七六七)年に従五位下主膳正に叙任されている(ウィキの「柳生久通」に拠る)。

●「口達」「こうたつ」とも読む。口頭で伝達すること。

●「土屋洽三郎」先の私の本文注「土屋保三郎」を必ず参照されたい。

●「大村市之允」実在する常陸土浦藩士で、安政四(一八五七)年に没していることがネット上で確認出来た。

●「厄害」「厄介」の意で居候或いはそれに準じた者の意かと思われる。昔馴染みの「兎園小説」を紹介する個人サイト「兎の園」の藤代村八歳の女子の子を産みし時の進達書に簡潔な好ましい本現代語訳が示されている(是非、お読みあれ。私はこれがある以上、屋上屋の拙訳の必要を今ここでは感じていないことを告白しておく)が、その注に『百姓三吉ととやの父忠蔵の関係ですが原文では「厄害」となっています。多分これは「厄介」ということでしょうか。厄介という言葉には「食客」「居候」という意味もありますが、家長の傍系筋で家に住んでいる者という間柄なのでしょうか。具体的には三吉の兄弟で家に居付いているというところでしょう。本文では簡単に「使用人」と訳しましたけど』とある。美事な注で激しく同感する。本文によれば、百姓三吉は旅籠の隣りに家があることになるから、これはかなり裕福な百姓であったか? そうすると、父疑惑候補は俄然、広がってくる感じがする。

●「蟲氣」最初のそれは「疳の虫」や寄生虫(多量に寄生した場合、実際に腹部が膨満することもあり、逆虫(さかむし)と称して、口から吐き出されることもあった。因みに私は人を含む動物類の寄生虫に対する汎フリークでもあるので、悪しからず)を指しているが、後の「蟲氣」は別で、明らかに「産気」のことである。

●「同篇」同じようであること。変化がないこと。「同辺」とも書く。

●「右の用意」お産の用意。

●「組合」ここでは複数の村々が治安その他のために結び付いた一般的な意味での村の連合体としての漠然とした自然発生的な自立的組合集団のことと思われる(より強化された幕府が組織した御改革組合村(寄場組合(よせばくみあい))の村落連合組織成立はもうちょっと後の文政一〇(一八二七)年以降であるからである)。

●「疑はしき風聞等も、一向、承り及び申さず候ふの段、一同、申し聞き、口書・印形、差し出だし申し候ふ」「口書」は被疑者などの供述を記録したもので、足軽以下の百姓・町人に限っての呼称(武士の場合は口上書(こうじょうがき)と称した)。一般にこの手の地下文書では頗る常套的な添書ではあるがしかし、どうも私は、この部分、やけに下々しく感じる。少なくとも蔭では、「父はあいつか? いや、こいつだろ!?」みたような噂が盛んに広まっていたものと思われる。

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