耳嚢 巻之十 理運に過て恥辱を請る事
理運に過て恥辱を請る事
近年の由、道中興津とかやに、阿州とやらん大家の家來四五人晝休(ひるやすみ)などして、茶屋にて酒食なしけるに、是も一柳(ひとつやなぎ)とかやの家來同じく晝食なしけるが、右一柳家の者は先へ立(たつ)て一里餘も行(ゆき)しに、召遣(めしつかひ)し中間(ちうげん)、持鑓(もちやり)を右茶屋の軒に立懸(たてか)け置忘(おきわす)れし由申(まうす)故、驚入(おどろきいり)、取(とり)に可歸(かへるべき)旨申(まうす)故、右の内は暫(しばらく)外(ほか)茶屋に休居(やすみをり)しに、右中間立歸り、右鑓を亭主へ斷(ことわり)、取(とり)に懸り候處、右大家の家來は、武家の身分にて持鑓を忘れしといへる事有(ある)べきや、此方拾ひ候鑓に付(つき)、自身罷越(まかりこし)、誤(あやまり)候はゞ可歸(かへすべき)段、酒興に候哉(や)口々申罵(まうしののし)り不相返(あひかへさざる)故、詮方なく右中間主人の方へ參り、其段申候節、右茶屋の亭主も甚(はなはだ)氣の毒に思ひ、右中間と打連(うちつれ)て倶に右中間申通(まうすとほり)無相違(さういなき)旨申故、主人も詮方なく、然らば我等直々罷越、可取戻(とりもどすべき)と申けるを、茶屋の亭主、直々御懸合(おんかけあひ)候はゞ如何樣の變事も難計(はかりがたく)、今一應拙者取扱(とりあつかひ)て請取(うけとる)段申(まうす)故、其意に任せ候處、亭主色々侘(わび)候得共、右鑓持の首を主人持參なさば可歸(かへすべき)由と申、一向不取合(とりあはず)。詮かたなく其趣、鑓ぬしへ申候處、則(すなはち)右主人立歸(たちかへ)り、家來不調法にて鑓を搜し直しを、各樣(おのおのさま)御捨ひの由にて御差留(おんさしとめ)の由、家來への申付(まうしつけ)方不行屆(ゆきとどかず)、拙者に於いても恐入(おそれいり)候間、何分御返し可被下(くださるべき)旨申けるをも、一向挨拶も無之(これなく)、武家の道具を右の通(とほり)取計(とりはから)ふ事沙汰の限り也(なり)と、嘲りけれど、各樣(おのおのさま)と違ひ小家を勤(つとめ)候者、況や又者(またもの)の儀、幾重にも勘辨(かんべん)の上返し給(たまひ)候樣(やう)、達(たつ)て申入(まうしいれ)けれど、嘲るのみにて有無(うむ)の返答無之(これなき)故、最早勘忍難成(なりがたし)と、重立(おもだつ)惡口(あつかう)の者を、先づ一刀に切倒(きりたふ)しければ、殘る者共立(たち)あがり候を、右の鑓を追取(おつとり)働き、二人に手を負せ二人を害(がいし)、其(その)殘りは其場をはづし候哉(や)不相知(あひしらざる)由なり。道中奉行抔へ申出(まうしいで)候やは不聞(きかず)ば、實事や其程は不知(しらざれ)ども、聞(きき)し儘を爰に記す。
□やぶちゃん注
○前項連関:なし。変型武辺物。この大藩(阿波徳島藩蜂須賀家なら二十五万七千石)の家来の物言いは、言葉上は「理運」(道理にかなっていること・正当であること)、理に適ってはいる。しかし、何だか小藩(以下に見るように一柳家は二家あるが孰れも一万石)の家来を如何にも見下した、今の世の陰湿な「いじめ」かパワハラのようなねちっこさであって、頗る後味が悪い(脱線だが、主人と鑓持ちの話ならば、内田吐夢監督作品「血槍富士(ちやりふじ)」の方が遙かにいい。未見の方はお薦めの一作である。リンク先はウィキ)。なお、底本の鈴木氏注には、『三村翁曰く、「此筋講談に在り、何れが先なるや。」』とあり、岩波の長谷川氏注には、別な鈴木氏の注として、宝暦八(一七五八)年四月、『浜松であった事件の話しかえか』ともある。この実際の事件についてご存知の方は、是非、御教授を願うものである。なお、最後の方の人数が上手く合わないので、訳に手を加えて頭数を合わせておいた。
・「興津」東海道十七番目の興津宿。現在の静岡県静岡市清水区。
・「阿州」阿波国。主藩は阿波徳島藩で蜂須賀(はちすか)家で外様。阿波国(現在の徳島県)・淡路国(現在の兵庫県淡路島)の二国を領有、二十五万七千石。「近き頃」とあり、「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月であるから、当時の藩主は第十一代藩主蜂須賀治昭(はるあき)か(文化一〇年(一八一三年)九月隠居・文化十一年三月没)、次代第十二藩主斉昌(なりまさ)であるが、前の示した宝暦八(一七五八)年四月の事件がモデルであるとすれば、その前の第十代藩主重喜(しげよし)である。而してウィキの「蜂須賀重喜」を見ると、『贅沢三昧の生活を幕府に咎められ、江戸屋敷への蟄居を強要されそうになった』、とある書には『女漁りを行い淫行に耽溺し、家臣達にも淫行を促したと』あからさまに書かれ、また『重喜は小さな藩の生まれであるコンプレックスがあったとされ』(彼は出羽秋田新田藩主佐竹義道四男であったが、宝暦四(一七五四)年に十九で夭折した阿波徳島藩第九代藩主蜂須賀至央(よしなお)の末期養子となった)『それゆえ功を焦って性急な改革を行った』りしたと記されてある。この不行跡、どこまで本当かは分からぬが、この大藩を笠に着てねちねちした小理屈を理不尽に繰り出す家来の主なればこそ、とも思わせる内容ではある。
・「一柳」底本の鈴木氏注に、『播州小野で一万石、或いは伊予小松で一万石、右の二家のうち』とある。小野藩は播磨国加東郡(現在の兵庫県小野市小野市及び加東市)を領した外様の小藩。前の示した宝暦八(一七五八)年四月の事件がモデルならば当時は第五代藩主一柳末栄(ひとつやなぎすえなが)。一方の小松藩は伊予国東部を領したやはり外様の小藩(藩庁は周布郡新屋敷村、現在の愛媛県西条市小松町に置かれた)。同じく宝暦八年時は第五代藩主一柳頼寿(ひとつやなぎよりかず)であった。なお、この二家は元は豊臣秀吉に仕えた一柳直盛の実の兄弟からの分家である(ウィキの「一柳氏」を参照のこと)。
・「侘」底本には右に『(詫)』と訂正注する。
・「又者」家来の家来。又家来。陪臣。
・「追取」底本には右に『(押取)』と訂正注する。「おつとり」で、相手から主の鑓をもぎ取って取戻し。
・「道中奉行」五街道とその付属街道における宿場駅の取締り及び公事訴訟・助郷(すけごう:幕府が諸街道の宿場保護及び人足・馬などの補充を目的として宿場周辺の村落に課した夫役。)の監督・道路や橋梁など道中関係実務の全てを担当した幕府の職掌。ウィキの「道中奉行」によれば、初見は「吏徴別録」の寛永四(一六三二)年の条にある水野守信ら四名の任命の記事であるが、一般的には万治二(一六五九)年に大目付高木守久が兼任で就任したのに始まるとされ、暫く大目付兼帯一名であった。元禄一一(一六九八)年には勘定奉行松平重良が道中奉行加役となって以後、大目付と勘定奉行から一名ずつ兼帯する二人制となったものの、その後の弘化二(一八四五)年よりは大目付のみの兼帯に戻っている。役料は享保八(一七二三)年から年に三千石、文化二(一八〇五)年以後は年間金二百五十両であったとある。
■やぶちゃん現代語訳
理運に過ぎて恥辱を受けて惨劇を生じたる事
近年の出来事の由。
東海道の道中、興津(おきつ)宿での事件で御座ったとか申す。
阿波国とかの大家の御家来衆、これ四、五人、昼休みなど致いて、街道沿いの茶屋にて酒食などなしておったところ、これも一柳(ひとつやなぎ)家とか申さるるところの御家来、やはり立ち寄って同じく昼食をなして御座った。
この一柳家の一行は先に茶屋を立って、さても一里余りも行ったところで、召使うて御座った中間(ちゅうげん)が、
「……ご、ご主人さま……じ、実はお持ち申し上げておりましたところの……その、や、鑓(やり)を……さ、先程の茶屋の軒に、立てかけたまま……こ、これ……置き忘れてしもうて御座いまするぅ……」
と申したによって、主(あるじ)、これ、驚きいり、
「――直ぐに取りに戻って、参れッツ!!」
と命じ、その主その他の者は、これ、しばらく、街道沿いにあった茶屋にて休んで待つことと致いた。
ところが、そのうっかり者の中間、先の茶屋へとたち帰ると、かの置き忘れたる鑓を茶屋亭主へ置き忘れた旨、断りを入れ、さてもいざ、取ろうと致いたところ――かの大家の御家来衆、未だに酒食に興じて御座ったが――その中の一人が、いち早く
――サッ!
と、立てかけてあった、かの鑓を奪い取り、
「――おう!……武家の身分にて……持鑓(もちやり)を忘るると申すこと……これ、あろうことかぁあ?!……」
と、鑓を別な一人に投げ、
「――ほぅれ! 拙者らが拾うて大事大事に持っておるで、の!……」
「――そうさ!……これはの、こちとらの拾うた鑓につき……さても、その主に、自身、罷り越してだな! 『鑓を忘れ申しました! 御免仕りました! お返し下されぃ!』と謝って御座ったならば……これ、返してやろうやないカイ!……」
「――そりゃ! 道理じゃ!……ハッハッハ!……」
「――おうさ! そう、伝えい!……そんな鑓を忘るる武士なんど、おるはずもないわ!……大方、おめえは、これ、鑓盗みのカタリで御座ろう?!……」
と、酒に酔った勢いもあったものか、はたまた大藩の家来という驕りもあったものか、皆して口々に罵っては、一向、鑓を返そうとはせなんだと申す。
されば、詮方のぅ、かの中間、尾羽根うち枯らして、主人の方へと戻ると、かの茶屋へ戻ってからの顛末を、如何にも申し訳なさそうに、今にも泣きそうな蒼い顔にて、主人へと申し述べた。
すると、それを耳に致いた、主一行が中間を待って御座った街道筋の、その茶屋の亭主が、これ、はなはだ気の毒に思うて、
「……その茶屋は同業の馴染みの者なれば……手前どもがそのお中間とうち連れて、今一度、かの茶屋へと参り、お中間の申さるること、これ、確かなことに相違御座いませぬ、と御口添え致しましょうほどに。……」
と申し入れて呉れたによって、かの主人もこれ、詮方のぅ、
「……かくまで他の者の世話となるも、これ、心苦しきことじゃ。……されば、先方の申すように、我ら、直々に罷り越し、取り戻すしか、これ、あるまい。……」
と言うところ、かの助力を申し出でたる茶屋の亭主が、
「……いやぁ。……直々にお関わり合いになられたとらば……これ、どんな変事の起らんとも限りませぬ。……どうか、ここのところは、一つ。……今まず一応、手前どもに取り扱わさせて戴き、無事、鑓を受け取って参りましょうからに。……」
と切(せち)に止(とど)めては、自ずから請けごうて御座ったによって、主も、
「……かくまで申さるるとならば。……では、一つ、お頼み申そうか。」
と、その茶屋主人の意に任せて御座った。
ところが……
……中間に同道した茶屋主人が、知れる向こうの茶屋亭主にも訳を語って仲に入って貰い、中間とともに、これ、三人、雁首揃えて平身低頭致いては、いろいろと詫びなんをも入れてみたものの、さらに輪をかけて酔うて待ち構えて御座った、かの御家来衆、その中でも一番の性質(たち)悪しく見ゆる男が、大音声(だいおんじょう)を挙げ、
「――ワレ!――そこな鑓持ち中間の首!……これ、主の持参致いた、な、ら、ば! 返してやろうぞッツ! ダハハハハッツ!」
と、吐き捨て、一向、これ、とり合おうとはせぬ。
されば、またしても詮方のぅ、またまた二人して街道をとぼとぼと戻って、以上の趣きにつき、鑓主が主へ申し上げた。
すると、主儀、何も言わず、即座に、かの元の茶屋へとたち戻ると、
「――家来不調法にて、鑓を捜し直させて御座ったところ――各々方(おのおのがた)に御捨い戴いて御座った由――それを疑義のあればこそと御引渡し御差留(おんさしとめ)になられておらるる由――これ、家来への拙者の申し付け方、行き届かざるが元なればこそ、拙者に於いても貴殿らに恐れ入っておりまする間――何分、我が鑓をこれ、御返し下さいまするよう、お願い申し上ぐる。――」
と、言葉を尽くして穏やかに申し入れた。
ところが……
……これ、それでも……一向、先方から挨拶の一つも、これない。
果ては、かの大トラとなって調子づいた男が、
「――武家の大事の道具を……ヒック! 忘れ、……かくなるザマにて、取り計らわんと致すは……ヒック! これ、沙汰の限り、ハナシにならん!……チェ! ヘッツ!……」
と、まだ嘲(あざけ)って御座った。
それでも、かの鑓主、
「――我ら、各々方(おのおのがた)と異なり、小家に勤めておる者にて。――況んや、その家来の家来が、これ、しでかしましたる儀なればこそ。――幾重にも御勘弁の上、速やかに鑓を返し下さるるやう――達って! お願い申し上ぐるっ!――」
と、穏やかながら、最後は、これ、ぴしりと言い切った。
されど、かの酔うたる五人の者ども、これ、口々に罵詈雑言を嘲るばかりにて、返すとも返さぬとも、一向、これ返答なく、かの最もおぞましき男なんどは、涎を顎に垂らしつつ、挑戦的な目つきにて、へらへらと笑ぅておるばかりで御座った。
――と――
「――されば!――最早、勘忍なり難しッ!――」
と鑓主、一声致いたかと思うと、先般より主立(おもだ)っ引きも切らず悪口(あっこう)を放っておったその男を、
――バラリ! ズン!
一刀のもとに斬り倒す!
他の四人、これを見て一斉に立ち上ったが、これも、鑓主、かの己(おの)が鑓を即座に押し取るや、
――シュッシュツ!
と扱いては縦横に振り回し、
――ブスリ! ザック!
と、忽ち、二人の者の深手を負せ、一人は脇腹を劈(つんざ)いて、初手(しょて)に斬り殺した男と合わせて二人を殺害、残りの一人は、恐れをなしたものか、その場から姿を晦まし、結局、行方知れずと相い成ったと申す。……
この顛末、道中奉行などへ申し出でたかどうかまでは確認しておらず、されば、事実であったかどうかも、これ、定かでは御座らぬが、ともかくも聴いたままに、ここに記しておくことと致す。
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