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2015/04/30

カテゴリ 毛利梅園「梅園介譜」 始動 / 鸚鵡螺

 「花」がないブログにもう一丁ぶちかましたろ介(カイ)! ブログ・カテゴリ「梅園介譜」でどうよ!
 
 「梅園介譜」は毛利梅園(もうりばいえん)の天保一〇(一八三九)年序自筆本一帖で「介類」計二百八十三品を、「水蟲類」(エビ・カニ・カブトガニ・ナマコ類等)五十二品・「龜鼈(きべつ)類」(カメ類)五品・蛤蚌(ごうぼう)類(ほぼ現在の貝類に相当するが頭足類を含む)二百二十六品とを分けて所収している。但し、二枚貝と巻貝及び海産種と淡水産種は混在している(以上は底本とした国立国会図書館デジタルコレクションの「介譜」の書誌情報に載る磯野直秀先生の解題に拠った)。

 毛利梅園(寛政一〇(一七九八)年~嘉永四(一八五一)年)は幕臣旗本で書院番・御小姓組を勤めた本草家。名は元寿(もとひさ)、別号に攅華園(さんかえん)・写生斎など。他に「梅園草木花譜」「梅園介譜」など、鳥類・類・菌類などの正確な写生図譜を残したが、公刊されたものは恐らくなく、すべて稿本のままで終わったと思われる。ありがちな「梅園」という号のために現代に至るまで複数の他者として誤認されてきた(ここは講談社「日本人名大辞典」と一九九四年平凡社刊の「彩色 江戸博物学集成」の中田吉信氏の記載に拠った)。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「梅園譜」を視認し、保護期間満了の画像(自由使用許可)もそこにあるものを使用させて戴いた(コントラストを強調して、色を濃く出してある)。ポイント落ちの割注は〔 〕で示したが、基本、キャプションは総て同ポイントで示した。また、和漢文脈の記載を訓点に従って漢字平仮名混じりの書き下し文に直した(適宜、私の判断で送り仮名を附し、句読点や記号も附加し、難読部には歴史的仮名遣で読みを附けた。一部の清音の濁音化も施してある)。但し、比較判読を容易にするため、一行字数は原本通りとしたので、くれぐれも画像と対比されながらお読み戴きたい。

 まずは、灼熱地獄の火焔模様も凛々しいオウムガイ! 殿からご登場願おうぞ!――同行二人一蓮托生! 深海地獄の釜底までも! っと!……これで私の憂鬱は完成するのだ……【二〇一五年四月三十日 藪野直史】 
 

 

Oumugai
 

鸚鵡螺〔アフム貝〕

「格古要論」に曰く、『鸚鵡杯(あうむはい)、即ち、

海螺盞(かいらせん)、廣東(カントン)に出づ。土人、琢

磨し、或いは銀を用ひ、或いは金を用ひ、廂定め、

酒杯に作る。故、名づけて鸚鵡杯と曰ふ』と。

 

    天保九〔戌〕年七月廿日

    倉橋尚勝子所藏 之を乞ひて

    眞寫す 

 

[やぶちゃん注:思うにこの書写対象物は、自然の死貝のままのものとは思われない。またキャプションも生態や習性に就いての記載ではなく、酒器としての加工についての中国の書物からの引用のみである。特に殻の内壁部分の描き込みが、通常のオウムガイの死骸の内壁とは異なっていることが分かる。これは実は中国から舶来したオウムガイを杯に加工してしまった「杯」を書写したものであろう。分類上で肝心の螺塔の臍部分が明らかに抉り取られているのでよくわからない。概ねしばしば標本として見かける殻口まで模様があるタイプのものは頭足綱四鰓(オウムガイ)亜綱オウムガイ目オウムガイ科オウムガイ属 Nautilus のオウムガイ Nautilus pompilius であることが多いように思われるが、オウムガイでも若いオウムガイは殻口まで模様があるものの、性成熟が近づくに連れて腹の辺りに白い部分が増えてくるとある(「鳥羽水族館」公式ブログ「飼育日記」のオウムガイの眼参照)から、必ずしもこれに同定するのは無謀か。

「格古要論(かっこようろん)」は明の曹昭が撰述した美術工芸品の評論書。一三八七年に全三巻が刊行された後、六十九年後の一四五六年に王佐によって、またその三年後には黄正位によって増補されて、全十三巻となった。古今の楽器・墨跡・漆器・銅器・陶器・染織などの名宝について論評したもので中国美術工芸史の研究上貴重な文献である(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。検索すると、Wiki「諸子百家 Chinese Text Projectの「格古要論」で、

   *

鸚鵡杯

即海螺出廣南土人雕磨類鸚鵡或用銀相足作酒杯故謂之鸚鵡杯鸕鶿杓亦海螺俱不甚直錢

   *

とある。別なページでは、同じ「格古要論」からとして、

   *

鸚鵡杯即海螺盞、出廣海、土人琢磨、或用銀或用金鑲足。

   *

という引用があり、この「鑲」は「象嵌する」の意、「足」は「加える」という意であろう(文が異なるのは前にあるように複数の改訂版があることによるものであろう)。

「海螺盞」「盞」は杯(さかずき)の意で巻貝を加工した盃或いは、その加工用に用いる広範な巻貝の意が、オウムガイに固有名詞として特したものであろう。。

「廂定め」「廂」には知られた「ひさし」以外のピンと来る意はない。「定め」というのもよく分からぬ。ところが前に引いた「格古要論」の前の方の文字列を見ていると、これは例えば、梅園が引いた書が写本で「相足」(相ひ足(た)し)の書写を「廂定」(牽強付会するならば、螺の形を「廂」と言い、「定め」はそれを杯となるように成形するの意と採ったか)と誤っていたのではないかと思わせる。

「鸚鵡杯」中文サイト「中華酒文化」の「隋唐酒器:鸚鵡杯」で、明らかにオウムガイを用いた唐代の酒器「鸚鵡杯」の写真が見られる。また、同じく中文サイト「中國華文教育網」の「古代酒文化:關羽斬華雄為何要温酒?」の一番最初に掲げられてある南京博物館蔵の「鸚鵡螺杯」というのも明らかにオウムガイの殻を用いている。必見!

「天保九〔戌〕年」天保九年は戊戌(つちのえいぬ)で、西暦一八三八年。

「倉橋尚勝」【2022年1月20日改稿】彼は梅園の同僚で幕臣(百俵・御書院番)であることが、国立国会図書館デジタルコレクションの磯野直秀先生の論文「『梅園図譜』とその周辺」(PDF)で判明した。]

譚海 卷之一 營中女房猫子を狆にやしなはせし事

 營中女房猫子を狆にやしなはせし事

○營中の女房、鷄の卵を試(こころみ)に懷中にあたゝめ、片時も肌をはなたず持(もち)けるが、廿一日めに雛にかへりたりとぞ。また有(ある)家にて猫子をうみて後母猫死したれば、育てべきやうなく、狆(ちん)に預(あづけ)て乳をのませ養わせけるに、はじめは嫌(きらひ)て近付(ちかづか)ざりけるが、後には馴(なれ)て乳をあたへけり其子猫生長しけれど高き所へ飛上(とびあが)る事かなはず、狆の性(しやう)をあやかりけるにやとぞ。

カテゴリ 毛利梅園「梅園魚譜」 始動 / ゴトクジラ(オキゴンドウ?)

[やぶちゃん注:海鼠だ水母だと、どうもちまちました小者ばかり、テクストばかりで、私のブログには「花」がないと言われる。じゃあ! ブログ・カテゴリ「梅園魚譜」を創始しようじゃねえか!

 「梅園魚譜」は毛利梅園(もうりばいえん)の天保六(一八三五)年序になるもので、本来は「梅園魚品図正」二帖と併せて三帖一組となっていたもので、全部を合計すると収録品数は二百四十九点及ぶ魚類譜である(以上は国立国家図書館の「描かれた動物・植物 江戸時代の博物誌」の解説に拠る)。

 毛利梅園(寛政一〇(一七九八)年~嘉永四(一八五一)年)は幕臣旗本で書院番・御小姓組を勤めた本草家。名は元寿(もとひさ)、別号に攅華園(さんかえん)・写生斎など。他に「梅園草木花譜」「梅園介譜」など、鳥類・類・菌類などの正確な写生図譜を残したが、公刊されたものは恐らくなく、すべて稿本のままで終わったと思われる。ありがちな「梅園」という号のために現代に至るまで複数の他者として誤認されてきた(ここは講談社「日本人名大辞典」と一九九四年平凡社刊の「彩色 江戸博物学集成」の中田吉信氏の記載に拠った)。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「梅園魚譜」を視認し、保護期間満了の画像(自由使用許可)もそこにあるものを使用させて戴いた。また、和漢文脈の記載を訓点に従って漢字平仮名混じりの書き下し文に直した(適宜、私の判断で送り仮名を附し、句読点や記号も附加し、難読部には歴史的仮名遣で読みを附けた)。但し、比較判読を容易にするため、一行字数は原本通りとしたので、くれぐれも画像と対比されながらお読み戴きたい。

 まずは手始めだ! でっかく! あんだかんだ言わずに、これで! いこうゼ! ――コートにスミレを、ブログにクジラを――

【二〇一五年四月三十日 藪野直史】]

 

五篤海鰍

   コトクジラ

 長さ三尋。味、下品。

 油六十樽を得。
 

Kotokujira1

 
[やぶちゃん注:「コトクジラ」という呼称は現在の哺乳綱クジラ目ハクジラ亜目マイルカ科ゴンドウクジラ亜科
Globicephalinae の仲間を指しているものと思われるが(「ごんどう」そのものが「五島(ごとう)」の音変化と推測されている。「五島」は鯨がよく回遊していくる長崎県(肥前国)五島列島に由来)、この図は頭部の形状が一般的なゴンドウクジラの円錐形の出張ったものと有意に異なりややスマートで、ゴンドウクジラ亜科オキゴンドウ Pseudorca crassidens 辺りかと私は推測する。町「くじらの博物館の「鯨絵図の丁度、中央に描かれている「湖ゴトウ」と近似するように思われる。

「三尋」約五・五メートル。オキゴンドウ Pseudorca crassidens 通常、六メートルほどまで成長するマイルカ科の中では比較的大きな種であり、本図はそうした雰囲気を伝えているように私には思われる。

「油六十樽」。個人サイト「神社探訪 狛犬見聞録・注連縄の豆知識」の安房郡鋸南町竜島弁財天」のページに、当社にある鯨塚(鯨を解体する出刃組が一年に一基建てた供養塔)の解説板の画像があり、そこには一頭で油は二十六、七樽、赤肉は六十樽程度が得られたとあり、一樽は約四十五キログラムと書かれているから、この場合、二・七トンに相当し、リンク先に記された二倍以上でこの「コトクジラ」というのは相当に大きなクジラ個体を指す名であることが分かる。]

2015/04/29

花がネエかい?!

そうだなぁ……花がねえなぁ!……ようし! 明日(あした)はドン! っとやったろかい! 今度んは……半端なく、でかいで!!……♪ふふふ♪

畔田翠山「水族志」 (二四七) ナマコ 《リロード》

 

【特別付録】ここでは本文で訓点を再現したので、縦書の方が、その部分は流石に読み易いので、特別に「クラゲ」と「ナマコ」のカップリングで本文のみの縦書版(PDF)を用意した。   

(二四七)

ナマコ 一名タラゴ【淡州北村】コドラ【南㵎草木疏曰「コドラ」ナルアリ「トラコ」ト云】アカコ一名ヒシコ【淡州北村】沙噀

本朝食鑑曰海鼠江東最多尾之和田參之栅(サク)嶋相之三浦武之金澤本木也海西亦多就中小豆島最多矣狀似鼠而無頭尾手足但有前後兩口長五六寸而圓肥其色蒼黑或帶黃赤背圓腹平背多㾦㿔而軟在两腋者若足而蠢跂來往腹皮靑碧如小㾦㿔而軟肉味略類鰒魚而不甘極冷潔淡美腹内有三條之腸色白味不佳云々又曰一種有長二三寸腹肉[やぶちゃん注:原拠は『腹内』。訓読では訂した。]沙味亦差短者一種有長七八寸肥大者腹内三條之黃腹如琥珀之爲醬味香美按ニ「ナマコ」ニ紅色ナルヲ「アカコ」ト云黑色ナルヲ「クロコ」ト云黃紅雜者ヲ「ナシコ」ト云黃梨ノ色ニヨリテ名ク又「ナシコ」ニ五色ヲナス者アリ文化年間紀州日高郡由良ノ内ニテ漁人タテ網ヲナシ沙噀ヲ得タリ長サ二尺餘濶八九寸其色黑天保七年ノ冬ヨリ同八年ノ春ニ至テ紀府ノ魚店ニ出ル沙噀大サ二尺餘其色紅色ノ者多シ又黑色雜色ノ者アリ寧波府志曰沙噀腸[やぶちゃん注:原本に「腸」はない。訓読では訂し、注を施した。]塊然一物如牛馬膓臟頭長五六寸許胖軟如水蟲首無尾無目無皮骨但能蠕動觸之則縮小如桃栗徐復擁腫土人以沙盆揉去涎腥五辣之脆美爲上品按ニ閩小紀ニ沙噀ニ作レリ山堂肆考ニ泥出東海純肉無骨水中則活失水則醉如泥故名曰泥杜詩先拚一飮醉如泥又名砂噀○イリコ 海參【香祖筆記曰生于土人參于水海參】大和本草曰奥州金花山ノ海參ハ黃色也キンコト云又黃赤色ナルモ處々ニ生ス山海名産圖會曰奥州金花山ニ採物形丸ク色ハ黃白ニテ腹中ニ砂金ヲ含ム故ニ是ヲ「キンコ」ト云本朝食鑑曰熬海鼠訓伊利古之有法用鮮生大海鼠腸後數百枚入空鍋活火之則鹹汁自出而焦黑燥硬取出候冷懸列干[やぶちゃん注:これは私は助字の場所を指す「于」と採って訓読では変えた。]兩小柱一柱必列十枚呼號串古(クシコ)又曰大者懸藤蔓今江東之海濵及越後之產若斯或海西小豆島之產最大而味亦美也自薩州筑州豐之前後而出者極小煑之則大也伊勢雜記曰「ナマコ」「タマコ」ハ本名也生ナルヲ「ナマコ」ト云煑テ串ニサシタルヲ「イリコ」ト云又「クシコ」ト云海島逸志曰海參者海中ノ蟲也形如長枕初拾之時長一尺餘柔軟如棉絮礬水煑而晒之則縮小不二三寸耳其所產必於深水併有石之處水愈深則海參愈多而愈美矣名狀甚多不數十刺參鳥縐最佳也[やぶちゃん注:この返り点では到底読めないので、勝手に「當刺參鳥縐最佳也」と直して訓読した。]海錄曰呢咕叭當國海參生海石上其下有肉盤盤中出短蒂蒂末即生海參或黑或赤各肖其盤之色豎立海水中潮搖動盤邊三面生三鬚各長數尺浮沈水面採者以鈎斷其蒂撈起剖之去其穢煑熟然後以火焙乾各國俱有唯大西洋諸國不產閩海參【本草從新】閩小記曰閩中海參色獨白類撑以竹簽大如掌與膠州遼海所一レ出異味亦澹【從新作淡】劣海上人復有牛革僞爲之以愚上レ人者不尙也刺參 本草從新曰存刺者名刺參光參 本草從新曰無刺者名光參遼海參 本草從新曰海參產遼海者良〇コノワタ一名俵子(タハラコ)【本朝食鑑】沙噀膓 本朝食鑑曰造膓醬法先取鮮膓潮水淸者洗淨數十次滌去沙及穢汁白䀋攪勾[やぶちゃん注:原拠を見ると、「勻」である。誤字か誤植と断じ、例外的に訓読では訂した。]之以純黃有光如琥珀上品黃中黑白相交者下品

 

○やぶちゃんの書き下し文

ナマコ 一名「タラゴ」【淡州北村。】・「コドラ」【「南㵎草木疏」に曰はく、『「コドラ」なるあり、「トラコ」と云ふ』と。】・「アカコ」・一名「ヒシコ」【淡州北村。】・「沙噀〔サソン〕」

「本朝食鑑」に曰はく、『海鼠』、『江東、最も多し。尾の和田、參の栅(さく)嶋、相〔さう〕の三浦、武の金澤・本木〔ほんもく〕なり。海西にも亦、多く、中〔なか〕ん就〔づ〕く、小豆島、最も多し。狀〔かたち〕、鼠に似て、頭・尾・手足、無し。但〔ただ〕前後有りて、兩口あり。長さ五、六寸にして、圓〔まる〕く肥え、其の色、蒼黑或いは黃赤を帶ぶ。背、圓〔まど〕かに、腹、平らかなり。背に㾦㿔〔はいらい〕多くして、軟かなり。两腋〔りやうわき〕に在る者は足のごとくにして、蠢跂〔しゆんき〕し、來往す。腹の皮は靑碧にて、小さき㾦㿔のごとくにして、軟かなり。肉味、略〔ほぼ〕鰒魚〔あはび〕に類して、甘からず、極めて冷潔、淡美たり。腹の内、三條の腸〔わた〕有り、色、白くして、味、佳からず』と云々。又、曰はく、『一種、長さ二、三寸、腹内沙、多くして、味も亦、差〔やや〕短き者、有り。一種、長さ七、八寸にして肥大なる者、有り。腹内、三條の黃腹〔きわた〕、琥珀〔こはく〕のごとくにして、之れを淹〔しほづけ〕にして、醬〔ししびしほ〕と爲せば、味はひ、香美たり』と。

按ずるに、「ナマコ」に、紅色なるを「アカコ」と云ひ、黑色なるを「クロコ」と云ひ、黃・紅の雜なる者を「ナシコ」と云ふ。黃梨の色によりて名づく。又、「ナシコ」に五色をなす者あり。文化年間、紀州日高郡由良の内にて、漁人、たて網をなし、沙噀を得たり。長さ、二尺餘り濶〔ひろ〕さ八、九寸。其の色、黑。天保七年の冬より同八年の春に至りて、紀府の魚店〔うをみせ〕に出づる沙噀、大いさ、二尺餘り、其色、紅色の者、多し。又、黑色・雜色の者あり。

「寧波府志」に曰はく、『沙噀。塊然たる一物にて、牛馬の膓臟のごとし[やぶちゃん注:返り点に従わず、頭を以下に出した。]。頭長〔とうちやう〕五、六寸許り。胖軟〔はんなん〕にして水蟲〔すいちゆう〕のごとし。首、無く、尾、無く、目、無く、皮骨、無し。但〔た〕だ、能く蠕動す。之れに觸るれば則ち、縮小して桃・栗のごとし。徐〔おもむ〕ろに擁腫に復す。土人、沙盆を以つて揉み、涎腥〔ぜんせい〕を去り、五辣〔ごらつ〕を雜〔ま〕ぜ、之れを煑る。脆〔もろ〕くして美〔うま〕し。上品と爲す』と。

按ずるに、「閩小紀〔びんしやうき〕」に「沙噀」に作れり。「山堂肆考〔さんだうしこう〕」に、『「泥〔でい〕」あり。東海に出だす。純肉にして無骨、水中にて、則ち、活し、水を失へば、則ち、醉ふて泥のごとし。故に名づけて「泥」と曰ふ。杜詩に「先づ 一飮醉ふて泥のごとくなるを判ぜんや」と。又、砂噀と名づく』と。

○イリコ 海參〔いりこ〕【「香祖筆記〔かうそひうき〕」に曰はく、『土に生じて人參と爲り、水に生じて海參と爲る』と。】「大和本草」に曰はく、『奥州金花山〔きんくわさん〕の海參は黃色なり。「キンコ」と云ふ。又、黃赤色なるも處々に生ず』と。「山海名産圖會」に曰はく、『奥州金花山に採れる物、形、丸く、色は黃白にて、腹中に砂金を含む。故に是れを「キンコ」と云ふ』と。「本朝食鑑」に曰はく、『熬海鼠』、『伊利古〔いりこ〕と訓ず』。『之れを造るに、法、有り。鮮生なる大海鼠を用ひ、腸[やぶちゃん注:原拠は『沙腸』(沙と腸と)。]を去りて、後、數百枚、空鍋に入れて活火を以つて之れを熬る時は、則ち、鹹汁〔かんじふ〕自〔おのづか〕ら出でて、焦げて黑く燥〔かは〕き硬くなれるを取り出だし、冷〔さむ〕るを候〔ま〕ちて、兩小柱に懸け列べ、一柱、必ず十枚を列〔つら〕ぬ。呼びて「串古(クシコ)」と號す』と。又、曰はく、『大なる者は、藤蔓に懸く。今、江東の海濵、及び、越後の產、斯〔か〕くのごとし。或いは、海西の、小豆島の產、最も大にして、味も亦、美なり。薩州・筑州・豐〔ぶ〕の前後より出づる者は、極めて小なり。之れを煑る時は、則ち、大なり』と。「伊勢雜記」に曰はく、『「ナマコ」「タマコ」は本名〔ほんみやう〕なり。生〔なま〕なるを「ナマコ」と云ひ、煑て串にさしたるを「イリコ」と云ふ。又、「クシコ」と云ふ』と。「海島逸志」に曰はく、『海參〔かいさん〕は海中の蟲なり。形、長枕〔ながまくら〕のごとし。初め、之れを拾ふ時は、長さ一尺餘り、柔軟にして、棉絮〔めんじよ〕のごとし。礬水〔ばんすい〕を以つて煑て、之れを晒〔さら〕す。則ち、縮小して、二、三寸たらざるのみ。其の產する所、必ず、深水、併びに、石の有るの處に於いてあり、水、愈〔いよいよ〕、深ければ、則ち、海參、愈、多くして、愈、美なり。名狀、甚だ多く、數十を下らず。當〔まさ〕に「刺參鳥縐〔しさんうしゆう〕」を以って最も佳と爲すべきなり』と。「海錄」に曰はく、『呢咕叭當〔ニコバトウ〕國、海參、海石の上に生じ、其の下、肉盤、有り、盤中より、短き蒂〔へた〕を出だし、蒂の末、即ち、海參、生ず。或いは黑く、或いは赤く、各々、其の盤之の色に肖〔に〕る。豎〔じゆ〕、海水の中に立ち、潮に隨ひて、盤の邊りに搖動す。三面ありて、三つの鬚を生ず。各々、長さ數尺。水面に浮沈し、採る者は、鈎〔かぎ〕を以つて其の蒂を斷ち、撈〔すくひと〕り起こして、之を剖〔さ〕き其の穢〔よごれ〕を去り、煑熟〔にじゆく〕す。然かる後、火を以つて焙〔あぶ〕り乾す。各國、俱〔とも〕に有り。唯だ、大西洋諸國には產せず』と。

閩海參〔びんかいさん〕【「本草從新」。】「閩小記」に曰はく、『閩中の海參は、色、獨〔た〕だ白し。撑〔ささへ〕の類ひとして、竹を以つて、簽〔しるし〕す。大いさ、掌〔たなごころ〕のごとし。膠州〔こうしう〕の遼海〔りやうかい〕を出づる所として與〔あづか〕る。異味にして、亦た、澹〔あは〕【「從新」は「淡」に作る。】くして、劣れり。海上の人、復た、牛革を以つて、僞〔いつは〕りて之れを爲〔つく〕り、以つて人を愚する有り。者は、尙ほ、足らざるなり』と。

刺參 「本草從新」に曰はく、『刺〔とげ〕存〔あ〕る者、「刺參」と名づく』と。

光參 「本草從新」に曰はく、『刺無き者、「光參」と名づく』と。

遼海參 「本草從新」に曰はく、『海參、遼海に產する者、良し』と。

〇コノワタ。一名、俵子(タハラコ)【「本朝食鑑」。】。沙噀膓。 「本朝食鑑」に曰はく、『膓醬〔このわた〕を造る法は、先づ、鮮なる膓を取りて、潮水〔しほみづ〕の至つて淸き者を用ひて、洗ひ淨〔きよ〕めること、數十次、沙及び穢〔きたな〕き汁を滌〔すす〕ぎ去りて、白䀋〔しらじほ〕に和して、攪〔かきまぜ〕て勻〔ひとしく〕して、之れを收む。純黃にして光り有りて琥珀のごとき者を以つて、上品と爲す。黃の中に黑・白の相ひ交ざる者を以つて、下品と爲す』と。

 

[やぶちゃん注:私は実はクラゲよりもナマコに対するフリーク性の方が高いと言った方がよい。されば、今までもいろいろと電子化してきたので、ここで改めてナマコの総論をする気が全く起きない。されば、「海鼠」棘皮動物門海鼠(ナマコ)綱 Holothuroidea のナマコ類については、他に私の電子テクストである、サイトの寺島良安の「和漢三才圖會 巻第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「海鼠(とらご)」及び栗本丹洲「栗氏千蟲譜」巻八の「海鼠 附録 雨虎(海鹿)」等の、私のマニアックにして冗長なる注をも参照されたい。海鼠類の一種である、

海鼠(ナマコ)綱樹手目キンコ科キンコ属キンコ Cucumaria frondosa var. japonica

に特化した江戸期の博物学の労作、芝蘭堂大槻玄澤(磐水)「仙臺 きんこの記」も併せてお読み戴ければ幸いである。なお、本篇で畔田がとり上げている「ナマコ」は中国の本草書の引用を除けば、本邦に於ける食用のナマコへの限定性が高いので、畔田が念頭に置いている種は、概ね、

海鼠(ナマコ)綱楯手亜綱楯手目シカクナマコ科マナマコ属マナマコ Apostichopus armata

と、後は後に出る前に示したキンコである。但し、近年、流通でマナマコの内の上品で「アカ」とされてきたところの、赤色を呈する個体群を、生物学的にもマナマコと分離して別種として、

マナマコ属アカナマコ Apostichopus japonicus

として扱うようになってきている(後述)。

 但し、漢籍のそれは生体の記載が不全で、種同定は困難であるので同定はしていない。概ねマナマコかその近縁種とは思われるが、全く別種――ナマコではないもの――が含まれているので、それは特に注記してある。なお、世界で約千五百種、本邦産は二百程度と言われている(二〇〇三年阪急コミュニケーション刊の本川達雄他編の「ナマコガイドブック」に拠った。国内で出版される海岸動物の著作物は、専門書も含めて相当に読んできたつもりだが、本書は特に自信を持って私がお薦めするナマコ学の一冊として秀逸なものである(同社の「ガイドブック」シリーズは他の生物では写真図鑑であるが、これはガッツリとナマコ学が書かれている点で特異点であり、ナマコ・フリークの方は持っていなければ、モグリと言える)。他にはナマコとウニに纏わる名著としての大島廣氏の「ナマコとウニ」(昭和三七(一九六二)年(初版)内田老鶴穂圃刊)は絶対に外せないナマコ学のバイブルの一つである)。

 因みに、私のナマコ・フリークのレベルを疑う方を初めとして、まずは、昔、二〇〇六年十月十四日に私がブログで作った、

帰ってきた臨海博士 ナマコ・クイズ」

に挑戦して戴こうか。未だ嘗て六問全問に正答した者はいない。平均正答率は三問である。一つ、挑戦してみられよ(正解は上にある次の記事の『「袈裟と盛遠」他 草稿追加』のさらに同じ次の記事をクリックすれば、見られる。ズルしてるのは、誰ですか? ダメですよ! 最初から答えを見るのは!)。

 なお、ここで「クラゲ」同様、どうしても言っておかねばならぬことがある。それは、日本産海産無脊椎動物として、かの「古事記」の冒頭の「くらげなす」の「クラゲ」に次いで印象深く登場するのが、何を隠そう、このナマコであることである。邇邇命(ににぎのみこと)の天孫降臨の直後の、「猨女君(さるめのきみ)」の条で、天宇受賣命(あめのうづめのみこと)が猨田毗古神(さるたひこのかみ)を送った後、地上の水棲生物らに対し、天の神の御子(みこ)への従属を確認する部分に出現する。

   *

〇原文

於是送猿田毘古神而。還到。乃悉追聚鰭廣物鰭狹物以。問言汝者天神御子仕奉耶之時。諸魚。皆仕奉白之中。海鼠不白。爾天宇受賣命。謂海鼠。云此口乎。不答之口而。以紐小刀。拆其口。故於今海鼠口拆也。是以御世。嶋之速贄獻之時。給猿女君等也。

○やぶちゃんの書き下し文

是に猿田毘古神を送りて、還り到りて、乃(すなは)ち、悉(ことごと)に鰭(はた)の廣物(ひろもの)、鰭の狹物(さもの)を追ひ聚(あつ)めて、「汝(な)は天つ神の御子に仕へ奉らむや。」と問ふ時に、諸(もろもろ)の魚、皆、「仕へ奉(まつ)らむ。」と白(まう)す中に、海-鼠(こ)、白さず。爾(ここ)に天宇受賣命、海鼠に謂ひて、「此の口や、答へぬ口。」と謂ひて、紐小刀(ひもがたな)以ちて、其の口を拆(さ)きき。是(ここ)を以ちて、御世(みよみよ)、嶋の速--獻(はやにへ)る時に、猨女の君等(ら)に給ふなり。

   *

「鰭の廣物、鰭の狹物」大小様々な魚。この「魚」は広義の魚介類で、これによって古代から海鼠が食用対象として有意に知られていた証であり、しかもナマコの口の触手がかく裂かれたようになっていることの神話的起原が語られるという博物学的にも優れた記載と言えるのである。そうして最古のナマコの名は「こ」であったのである。史料上で信頼出来る最も古い部類に属す博物学的なそれは、「和妙類聚抄」(承平年間(九三一年~九三八年)成立)で、「卷第十九」の「鱗介部第三十 亀貝類第二百三十八」に(訓読した。読みは私が附した)、

   *

海鼠 崔禹錫「食經」に云はく、『海鼠【和名、「古(こ)」。「本朝式」に𤎅(ガウ)」の字を加へて「伊里古(いりこ)」と云ふ。】]は、蛭(ひる)に似て、大なる者なり』と。

   *

同書の引く「本朝式」は「弘仁式」(弘仁一一(八二〇)年)撰進)、或いは「貞観式」(貞観一三(八七一)年)とされる。「𤎅」は「熬(い)る」。「いりこ」は後で出る如く、「海参」「煎海鼠」「熬海鼠」と書いて加工した「干しナマコ」のことを指す。内臓を除いた後、海水或いは薄い塩水で煮て乾燥させたもの。

「タラゴ」恐らくは「俵子」=歴史的仮名遣「たはらご」=現代仮名遣「タワラゴ」の縮約であろう。異説もあるが、彼らのずんぐりとした体形が縁起のよい米俵に似ているからというのが全く以って腑に落ちる。

「淡州北村」海浜で旧村名で「北村」を有するのは「草加北村」で、現在の兵庫県淡路市草香北(グーグル・マップ・データ)であるが、ここか。北を除く東村・西村・南村は「徳島大学附属図書館」の「貴重資料高精細デジタルアーカイブ」のこちらの古地図(寛永一八(一六四一)年頃)内に見つけたが、単独の「北村」は遂に見出せなかった。

「コドラ」「海鼠虎」か。「日本山海名產圖會」の「卷之四」の「讃刕海鼠(さんしうなまこ)」のこちら(早稲田大学図書館「古典総合データベース」の当該頁画像)で、『生海鼡は俗に虎海鼡と云ひて』とある。

「南㵎草木疏」不詳。いろいろなフレーズ検索で調べたが、見当たらない。掛かってくるのは自身のこの記事ばかりだ。識者の御教授を切に乞うものである。

「ヒシコ」これは通常では「鯤」或いは「鯷」で、「ひしこいはし」、所謂、「カタクチイワシ」のことを指すので不審である。二つの可能性があるか。一つは「カタクチイワシ」は「片口鰯」で、上顎が下顎に比べて大きく著しく発達しているために下顎がないように見えることによる命名であるが、ナマコの口が裂けていることとの親和性がやや窺えること点で、今一つは海鼠を長く保存出来る加工品としての「醢(ししびしほ)」、内臓の塩蔵品である「このわた」などから、「ひしほ」の「ヒシ」に海鼠の古名の「コ」を添えた可能性である。

「沙噀〔さそん〕」現代中国語でマナマコ(仿刺参)の異名として用いられ、漢籍では広くナマコのことを、かく記す。「噀」は「吹きかける」の意で、「砂を吹き出す」というのはナマコの生態として腑に落ちる表現ではある。

「本朝食鑑」の「海鼠」は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像で訓読した。ここから。誤写或いは誤植と思われる箇所もあるが、重篤な誤読を示す箇所はない。実は私は既に二〇一五年に、『博物学古記録翻刻訳注 ■12 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる海鼠の記載』で、総て(「海鼠」・「熬海鼠」・「海鼠腸」全部)を電子化注してあるのである。そちらも是非、参照されたい。

「尾の和田」尾張国の和田であるが、不詳。これは直感に過ぎないが、現在の愛知県知多郡美浜町布土和田(ふっとわだ)(グーグル・マップ・データ)ではなかろうか? ここなら三河湾に面し、しかも海鼠の名産地として知られた次に出る佐久島は、ここから南東十三・二キロメートルの三河湾に浮かぶ島である。識者の御教授を乞う。

「參の栅(さく)嶋」三河国の佐久島。前のリンクを参照されたい。

「相〔さう〕の三浦」相模国の三浦。三浦半島の三浦三崎一帯。

「武の金澤・本木〔ほんもく〕」武蔵国の金沢文庫や金沢八景附近と、横浜市中区本牧附近(「今昔マップ」)。現在は干拓されているが、リンク先を見ると判るが、本牧地区は本牧岬で、大戦後までは、ずっと海岸線が内側にあった。……ああ、……僕が教師として一番幸せな時間を送った緑ケ丘高校は、まだないねぇ……

「前後有りて、兩口あり」ここは原拠では『前後、兩口有り』と訓点している。

「㾦㿔〔はいらい〕」現代中国語では「蕁麻疹」の意であることから判るように、体表面に出来る凹凸を成す突起物(ブツブツ)を指して言っている。

「蠢跂〔しゆんき〕」蠢き這い歩くことを言う。

「鰒魚〔あはび〕」この場合はフグではない。古漢籍でもこれで腹足綱原始腹足目ミミガイ科アワビ属 Haliotis を指す。

「淹〔しほづけ〕」塩漬け。

「醬〔ししびしほ〕」塩辛。

「アカコ」「クロコ」『黃・紅の雜なる者を「ナシコ」と云ふ』『「ナシコ」に五色をなす者あり』長く、この明らかな色彩餓上の個体変異は、棲息域の違いと個体の発達段階での差として、マナマコ一種の個体間の違いに過ぎないとされてきた(但し、市場にあっては「アカナマコ」が一番高く、以下、青緑色のグラデーションを呈する傾向を持つ「アオナマコ」(ここでいう「ナシコ」)、「クロコ」の順に値が安くなる)。しかし、ウィキの「マナマコ」の「分類学上の位置づけ」の経緯によれば、『俗に、赤~赤褐色系の休色をもつアカコ(「アカナマコ」・トラコ:以下、「アカ型」と記す)・青緑色を基調とするアオコ(「アオナマコ」:以下、「アオ型」と記す)・黒色の体色を呈するクロコ(「クロナマコ」:以下、「クロ型」と記す)と呼ばれる三つのタイプが区別され、「アカ」型は外洋性の岩礁や磯帯に生息し、一方で「アオ」型と「クロ」型とは、内湾性の砂泥底に棲むとされていた』。『これらの三型については、骨片の形質の相違をも根拠として Stichopus japonicus 以外に S. armata という別種を設ける見解』『もあり、あるいは S. japonicus var. typicus なる変種が記載』『されたり、S. armatus および S. roseus という二種に区別する意見』『も提出されたが、「生息場所の相違と成長段階の違いとによって生じた、同一種内での体色の変異』『であり、異なる色彩は保護色の役割を果たしている」として S. japonicus に統一されて』『以来、これを踏襲する形で、体色の異なる三つの型は Apostichopus japonicus(=Stichopus japonicus)の色彩変異とみなす考えが採用され、日本周辺海域に生息する「マナマコ」は唯一種であるとされていた』。『また、シトクロムcオキシダーゼサブユニット1および16S rRNAの解析結果から、これら三型を同一種の変異と結論づける見解が』、『再び』、『提出されている』。『しかし、「アカ」型は、薄桃色または淡赤褐色を地色とし、体背部は赤褐色または暗赤褐色の模様がまだらに配色されており、体腹部は例外なく赤色を呈する。一方で、「アオ」型は一般に暗青緑色を呈しているが、淡青緑色が優るものから黄茶褐色~暗茶褐色の変化がみられ、体腹部も体背部と同様な色調をとる。また「クロ」型は、全身黒色を呈し』、『体色の変異は認め難いとされている』。二『年間にわたる飼育結果では、相互の型の間に体色の移行は起こらなかったとの観察例もあ』り、さらに『アイソザイム』(Isozyme:酵素(enzyme)としての活性がほぼ同じであるにも拘わらず、タンパク質分子としてはアミノ酸配列が異なる別種である酵素を指す)『マーカーを用いた集団遺伝学的な検討結果をもとに、マナマコとされている種類は、「アカ」型と「アオ型・クロ型」の体色で区別される、遺伝的に異なった二つの集団から形成されているとの報告もなされている』。『さらに外部形態および骨片の形態による分類学的再検討の結果から、狭義のマナマコは「アオ型・クロ型」群であると定義されるとともにApostichopus armata の学名が当てられた』。『一方で「アカ」群には A. japonicus の学名が適用され、新たにアカナマコの和名が提唱された』。『mtDNA』(ミトコンドリアDVA)『のマイクロサテライト』(microsatellite:細胞核やオルガネラ(organelle:細胞小器官)のゲノム上に存在する反復配列、特に数塩基の単位配列の繰り返しからなるもの)『解析の結果からは、「アカ」型・「アオ」型・「クロ」型の三型は少なくとも単系統ではない』『とされ、中国および韓国産のマナマコを用いた解析でも、「アカ」型と「アオ」型とは独立した分類群とみなすべきであるとの結果』『が報じられている』。『「アオ」型や「クロ型」と比較して、「アカ」型は海水中の塩分濃度の変化や高水温に対する抵抗性が弱い』『とされ、広島県下においても、アカナマコの産額が多いところは音戸町や豊島のような陸水の影響がほとんどないと思われる場所に限られている』『など、生理・生態の面でも相違が認められている』。マナマコの『環状水管に附着している』一個(稀に二個)のポーリ嚢(Polian vesicle:水管系内の圧力調節や、管足が収縮した時に水管内から溢れ出た水を収容する機能、及び、全身の免疫。炎症反応に関与していると考えらえている器官)の『形態(一般に、「アカ」型では細長くて先端が突出しており、鈍円状を呈するものは少ないのに対し、「アオ」型のポーリ嚢の形態は太くて短かく、先端が鈍円状をなすものが多い)も、解剖学上の数少ない相違点のひとつになるとされている』。『また、「アカ」型・「アオ」型の間には、触手の棒状体骨片と体背部の櫓状体骨片においても若干の形態的相違点が認められる』。『すなわち、「アカ」型においては』、『触手の棒状体の骨片形態が複雑化し、これをさらに二つの型(骨片周囲に顕著な枝状突起をもち、細かい刺状突起を欠くタイプと、枝状突起とともに細かい刺状突起が骨片全体に密生しているタイプ)とに分けることができ』、『体壁の櫓状骨片の底部はほぼ円形で、縁部が幅広く、孔は不定形で角のない形状を呈し』、四本から二本の『柱からなる塔をもつ』『のに対し、「アオ」型の触手の棒状体骨片は全体的に形態が単純で、骨片周囲には小さい枝状突起が散在し、さらに骨片の両端部に限って細かい刺状突起をもっており』、一方、『体壁の櫓状骨片の底部の外形は不定形で、角部は突出し』、『角張り、縁部の幅は狭く、孔はほぼ円形を呈』する点で異なる(柱状の塔とその数は同じ)。『このほか、成熟卵の表面におけるゼラチン質の被膜(gelatinous coating)の有無も、両者を区別する根拠の一つであるとされている』。なお、『体表面がほぼ全体的に白色を呈する個体がまれに見出され、一般にはアルビノである』『とみなされている』が、『中国の膠州湾で得られた白色個体について、相補的DNAの遺伝子』『解析を試みた結果』『によれば、白色個体では、生体調節遺伝子や色素の合成・沈着を司る遺伝子に多くの欠落が生じているという』。『また、チロシンの代謝や分裂促進因子活性化タンパク質キナーゼ(MAPキナーゼ)経路を司りメラニンの生合成に関与する遺伝子として』十四『個が特定されたが、白色個体では、線維芽細胞増殖因子4(FGFR 4)やプロテインキナーゼA およびプロテインキナーゼCあるいはRas遺伝子などの表現活性は著しく小さい一方で、ホモゲンチジン酸-1,2-ジオキシゲナーゼやCREB、あるいは転写因子AP-1およびカルモジュリンなどの表現活性は顕著に亢進していたとされ、これらの遺伝子群の活性の大小が、マナマコの体色の発現に大きく影響していると推定されている』。『属レベルの所属としては、新種として記載されて以来、伝統的にシカクナマコ属(Stichopus:タイプ種はシカクナマコS. chloronotus)に置かれてきたが、タイプ種との触手や骨片の形態的な差異』『や、体内に含まれるサポニン配糖体の構造の違い』『を根拠として、新たにマナマコ属(Apostichopus)が設立された。マナマコ属は、設立当初にはマナマコのみを含む単型属』『であった』とある。近い将来、これら三タイプは別種として記載される可能性が高いように思われる。

「文化年間」一八〇四年~一八一四年。

「紀州日高郡由良」和歌山県日高郡由良町(ゆらちょう)(グーグル・マップ・データ)。

「たて網」「建て網」。刺し網とも呼ぶ。沿岸域での漁法の一つで、帯状の網を魚介類の回遊する海底の通路附近に建てて固定したもの。「刺網」は仕掛けた網に魚が刺さったように絡まることによる。この場合は底刺し網で、海底に帯状の網を仕掛け、上に浮き、下に錘をつけて、垂直に網を張る。歴史の古い良漁法で、網の中では最も構造が簡単なもの。通常はタイ・ヒラメ・カレイ・イセエビなどを漁獲対象とする。

「天保七年」一八三六年。

「紀府」紀州藩藩庁和歌山城のあった現在の和歌山県和歌山市(グーグル・マップ・データ)。

「寧波府志」明の張時徹らの撰になる浙江省寧波府の地誌。「卷之十二 物產」の「介之屬」のここ(早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原本画像。前はPDFで当該巻を含む三巻分一冊。後はHTMLで一画面)に「沙噀」の項立てで出る。右頁四行目。されば、「沙噀腸」の「腸」は畔田のうっかり添えてしまった衍字と思われる。ナマコの形状を以下で「牛馬の膓臟」のようであると言っているのに引かれてしまったものであろうが、これは後に出る本邦の加工品としての「海鼠腸(このわた)」と酷似してしまい、その記載かと誤読してしまうので、よくない。されば、特異的に訂したのである。

「胖軟〔はんなん〕」ゆったりと肥えて柔らかいこと。

「水蟲」当初は前の形容からしてクラゲのことを意味しているものかと思ったが、現代中国語では「水虫」にはクラゲの意味はないようであるから、本邦と同じく、広義の水生の虫類、特にヒルのような蠕虫の謂いでとっておく。

「擁腫」これは広義の瘤(こぶ)或いは節・瘤の多い木。転じて無駄に大きくて無用のものを指すから、もとの体制状態に戻ることを言っている。

「沙盆」擂り鉢。

「涎腥〔ぜんせい〕」よだれ(ナマコの体表から浸潤する粘液など)と腥(なまぐさ)さ。

「五辣〔ごらつ〕」五辛(ごしん)と同義であろう。辛味や臭気の強い五種の野菜で、仏教では大蒜(にんにく)・韮(にら)・葱(ねぎ)・辣韮(らっきょう)・野蒜(のびる)を、道教では、韮・辣韮・大蒜・油菜(あぶらな)・胡荽(こすい:セリ目セリ科コエンドロ属コエンドロ Coriandrum sativum、則ち、「コリアンダー」(coriander)、中国語由来では「シャンツァイ」(香菜)、タイ語由来では「パクチー」)を指す)を指す(それぞれ、これを食べると情欲・憤怒を増進させてしまう「五葷(ごくん)」として酒とともに「不許葷酒入山門」(葷酒、山門に入るを許さず)として、寺内への持ち込みを禁じた)。

「閩小紀〔びんしやうき〕」閩は福建省地区の略で古名。明末から清初にかけての文人政治家周亮工(一六一二年~一六七二年:一六四〇年に進士及第し、濰県県令に任ぜられ。一六四四年には浙江道監察御史となったが、明朝が滅亡する。翌年には清朝に仕官し、戸部右侍郎まで昇進したが、鄭芝龍の事件に連座し、投獄された。後に赦され、再仕官し、一六六二年に官職を辞した。多くの著作を残したが、戦乱により、その大半は焼失している。蔵書家としても知られ、特に印章を好んだ)の随筆。「維基文庫」のこちらに全文が載る。当該条は以下。

   *

○土筍

予在閩常食土筍凍、味甚鮮異、但聞其生於海濱、形類蚯蚓、終不識作何狀、後閱「寧波志」、沙噀、塊然一物如牛馬腸髒、頭長可五六寸許、胖軟如水蟲、無首、無目、無皮骨、但能蠕動、觸之則縮小如桃栗、徐復臃腫、其涎腥、雜五辣煮之、脆美爲上味、乃知餘所食者、卽沙噀也。閩人誤呼爲筍云、予因有肥而無骨者、予以沙噀呼之、衆初不解、後睹此咸爲匿笑、沙噀性大寒、多食能令人暴下、謝在杭作泥筍、樂淸人呼爲沙蒜。

   *

但し、ここで周が述べている「土筍」(ドジュン)というのは、残念ながら、「沙噀」=ナマコではなく、環形動物門 Annelida の星口(ほしくち)動物 Sipuncula(嘗ては星口動物門Sipunculaとして独立させていた)の一種(複数種)で、中でも特に中国などで現在も好んで食用とされているのは、サメハダホシムシ綱サメハダホシムシ目サメハダホシムシ科サメハダホシムシ属(漢名:「土筍」或いは「可口革囊星蟲」)Phascolosoma esculenta である。この「閩小紀」の一節は、実はこの本「水族志」の後の「(二五一)」の「うみみゝず」に出てくるのであり私は実は既に「大和本草卷之十三 魚之下 むかでくじら (さて……正体は……読んでのお楽しみ!)」の注でそれを電子化しており、考証の末、以上に同定比定しているのである。

「山堂肆考〔さんだうしこう〕」明の彭大翼纂著・張幼学編輯になる類書(百科事典)。なお、この同書の引用、『「泥〔でい〕」あり。東海に出だす。純肉にして無骨、水中にて、則ち、活し、水を失へば、則ち、醉ふて泥のごとし。故に名づけて「泥」と曰ふ。杜詩に「先づ 一飮醉ふて泥のごとくなるを判ぜんや」と。又、砂噀と名づく』というのを凝っと見ていると、「泥」という通称からは、ナマコではなく、やはり前のサメハダホシムシではないかと深く疑ってしまっていることを言い添えておく。

「杜詩に『先拚一飮醉如泥』と」これは杜甫の以下の詩の一節。原詩は杜甫詳注 杜詩の訳注解説 漢文委員会」のこちらのものを使用、訓読もこちらを参考にさせて戴いた。同リンク先には訳も載る。

   *

 將赴成都草堂途中有作、先寄嚴鄭公 五首之三

竹寒沙碧浣花溪

菱刺藤梢咫尺迷

過客徑須愁出入

居人不自解東西

書簽藥裹封蛛網

野店山橋送馬蹄

豈藉荒庭春草色

先判一飮醉如泥

  將に成都の草堂に赴かんとして、

  途中、作、有り。先づ、「嚴鄭公

  に寄す」五首 其の三

 竹寒く 沙 碧なり

 浣花溪 橘刺(きつし)

 藤梢(とうしよう)  咫尺(しせき)迷ふ

 過客は徑(ただ)ちに須(すべか)らく出入を愁ふるなるべし

 居人も自ら東西を解せず

 書籤(しよせん) 藥裹(やくか) 蛛網(しゆまう)封ず

 野店 山橋  馬蹄を送る

 豈に 荒庭の春草の色を藉(し)きて

 先づ 一飮 醉ふて泥のごとくなるを 判ぜんや

   *

リンク先で「判」に注して、『「拝」の俗字、或は「拚」に作るが』、『同意である』とされ、さらに、『楚の地方語で物を揮い棄てることを拝という』とされ、『唐時』代『の俗語としては「万事を放擲してその事をなすこと」を意味する』とある。

「○イリコ 海參〔いりこ〕」は既に述べたように、現在ではイワシ類などを塩水で茹でて干した煮干しのことを指すが、本来は、ナマコの腸を除去し、塩水で煮て、完全に乾燥させたものを言った。平城京跡から出土した木簡や「延喜式」に能登国の調(ちょう)として記されている。「延喜式」の同じ能登の調には後に出る「このわた」(海鼠の腸(はらわた)の醢(塩辛))や「くちこ」(海鼠の卵巣の干物)も載り、非常に古い時代からナマコの各種加工が行われていたことを示している。

「香祖筆記〔かうそひうき〕」清初期の文人・詩人の王士禛(ししん 一六三四年~一七一一年:本邦では詩人としては号の「王漁洋」で称されることが多いように思う。一六五八年に進士に登第し、揚州府司理から侍読、刑部尚書(法務大臣)に至った。文人としても頭角を現わし、二十四歳の時、済南府に於いて、土地の読書人らとともに「秋柳詩社」を結成、その折りに詠んだ詩「秋柳」は全国的に賛美者を生むに至り、以後、ほぼ同時代を生きた朱彝尊とともに「南朱北王」と併称された。一七〇四年、部下の疑獄事件に連座して官を辞め、のちに天子の恩赦によって再度、官途に就いたが、ほどなくして亡くなった。以上はウィキの「王士禛」に拠った)の考証随筆(詩論)集。引用は巻八(リンクは「維基文庫」)から。

   *

櫟園又云、『參皆益人、沙元苦參亦兼補、海參得名、亦以能溫補故也。生於土爲人參、生於水爲海參、故海參以遼海者爲良』。

   *

『「大和本草」に曰はく、『奥州金花山〔きんくわさん〕の海參は黃色なり。「キンコ」と云ふ。又、黃赤色なるも處々に生ず』と』「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 海鼠」を参照されたい。全文を電子化注してある。芝蘭堂大槻玄澤(磐水)「仙臺 きんこの記」も併せてどうぞ。「奥州金花山」は金華山(グーグル・マップ・データ)で、宮城県石巻市の太平洋上に浮かぶ島の名である。

『「山海名産圖會」に曰はく、『奥州金花山に採れる物、形、丸く、色は黃白にて、腹中に砂金を含む。故に是れを「キンコ」と云ふ』「日本山海名產圖會」の「卷之四」の「讃刕海鼠(さんしうなまこ)」のこちら(早稲田大学図書館「古典総合データベース」の当該頁画像。前はPDF、後はHTML)の左頁九行目にある。無論、砂金を含んでいるわけではない。腸や生殖腺が黄金色(明るい黄色)を呈することに由来する名称である。金華山では嘗て砂金を産したことから、その精が化してこのキンコになったと信じられためでもある。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のキンコのページを見られたい。珍しいが、マナマコほどには実は美味くないらしい(生体を見たことはあるが、未だ食す機会がない)。

「數百枚」各個体が小さいのである。

「活火」強火。

「鹹汁〔かんじふ〕」ナマコの体内の海水分。

「江東」関東。

「筑州」筑紫国。

「豐〔ぶ〕の前後」豊前国と豊後国。

「伊勢雜記」これは旗本で有職故実家・国学者であった伊勢貞丈(いせさだたけ 享保二(一七一七)年~天明四(一七八四)年)「貞丈雑記」のことであろうと勝手に思い、所持するそれを調べたところが、全巻を縦覧しても一向に見つからない。そこで彼の別な随筆「安斎随筆」(全三十二巻十冊。安斎は貞丈の号)を国立国会図書館デジタルコレクションで縦覧したところ、卷之八のここと、次のページにかけて見出せた(今泉定介編「故実叢書」内の伊勢貞丈「安齋隨筆」。明治三九(一九〇六)年吉川弘文館刊の活字本)。かなりカットされてあるので、以下に全体を示す。勝手流で訓読し、句読点その他を附した。

   *

タハラゴ【「タワラコ」とよむ。】 海鼠の乾したるなり。漢土の書には「海參」とあり、功能あるものなれば、人參にたとへて「海參」と云ふ。日本にては、昔より「海鼠」の二字を用ひ來れり。「和名抄」に、『崔禹錫が「食經」に云はく、海鼠似ㇾ蛭而大者也(和名古)』とあり。「コ」と云ふが本名なり。丸の儘にて乾したるを「熬鼠」と云ふなるべし。其の形、少し丸く少し細長く、米俵の形の如くなる故、タハラコと名付けて、正月の祝物に用ふる事、庖丁家の古書にあり。米俵は人の食を納る物にてメデタキ物故、タハラコと云ふ名を取りて祝に用ふるなり。刺し柿の如くして乾したるを「串海鼠」と云ふ。ナマなるを生海鼠と云ふ。後代、熬海鼠見及ばず。串海鼠をイリコともタハラコとも云ひて之れを用ふ。今の世、奥州より金海鼠といふ物出づる。奥州金華山の下の海より出る海鼠を乾したるなり。其の形、米俵に似たり。是、古の煎海鼠ともタハラゴとも云ひし製なるべし。然れども、名を金海鼠と云ふ故、熬海鼠とも云ふ事をしらず。金海鼠は生なる時より如此の形なりと思ふは非なり。常の海鼠の如く形長けれども熬海鼠に製する故、形、俵の如くなるなり。

   *

とある(「納る」は「をさむる」、「製」は製品に謂いであろう)。但し、貞丈はキンコの生体を見たことがないようで、キンコは生体でも、マナマコに比すと、概して丸く茄子のような形をしており(外側の色は地味な灰褐色が多いが、黄白色から濃い紫色まで個体によって色彩変異が大きい。別名に藤の花に似ている個体があり、「フジコ」(藤子)とも呼ぶ)、特に収縮した際は、事実、俵に似ている。なお、キンコはマナマコの近縁ではない。細かく示すと、

キンコは樹手亜綱 Dendrochirotacea 指手目 Dactylochirotida キンコ科 Cucumariidae キンコ属キンコ Cucumaria frondosa var. japonica

であるのに対し、

マナマコは楯手亜綱 Aspidochirotacea 楯手目 Aspidochirotida シカクナマコ科 Stichopodidaeマナマコ属Apostichopus

である。

「海島逸志」「海島逸誌」。清の王大海の博物誌的著作。一七九一年成立。引用部は原本(早稲田大学図書館の「古典総合データベース」のHTML画像)の「卷第四 海山拾遺」のここ

「棉絮〔めんじよ〕」木綿の綿毛(わたげ)。

「礬水〔ばんすい〕」白礬水。天然明礬(みょうばん:カリ明礬石から製する)を温水に溶

「愈、美なり」老婆心乍ら、これは無論、視覚美ではなく、深いところの海鼠がより美味いと言っているのである。

「刺參鳥縐」「刺參」は干しナマコのことで、「縐」は細かな皺のある織物を指す語で、「鳥」を鳥の羽のような形の意ととると、これは私には私の大好物のバチコ(撥子)=クチコ(口子)、ナマコの生殖巣のみを抽出して、軽く塩をし、干して乾物にした「干しクチコ」のことと思われてくる。形が三味線の撥に似るのが由来で、別に「コノコ」(海鼠子)とも呼ばれる。鮮烈な紅色の魅惑あるものである。小さい割に、目ん玉が飛び出るほど、高い。生を塩辛にした「生クチコ」もある。

「海錄」は清の楊炳南(ようへいなん)と謝清高の共著になる漢籍では非常に珍しい中国国外の地誌らしい。邦人の書写したものが、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の中にあったが、第一巻の末尾に「呢咕叭當國」があり、「海參」の記載はあるものの、以下の引用の文字列を発見出来なかった。一巻目は二巻目の筆跡と異なっており、一巻目は途中で切れている可能性があるようにも思われる。

「呢咕叭當國」中文サイトの記載でやっと判明した。現在のインド洋のベンガル湾の東にあるニコバル諸島(グーグル・マップ・データ)である。言われて見ると、文字列の頭は確かに「ニコバ」と読める。

『海參、海石の上に生じ、其の下、肉盤、有り、盤中より、短き蒂〔へた〕を出だし、蒂の末、即ち、海參、生ず。或いは黑く、或いは赤く、各々、其の盤之の色に肖〔に〕る。豎〔じゆ〕、海水の中に立ち、潮に隨ひて、盤の邊りに搖動す。三面ありて、三つの鬚を生ず。各々、長さ數尺。水面に浮沈し、採る者は、鈎〔かぎ〕を以つて其の蒂を斷ち、撈〔すくひと〕り起こして、之を剖〔さ〕き其の穢〔よごれ〕を去り、煑熟〔にじゆく〕す。然かる後、火を以つて焙〔あぶ〕り乾す』この記載、訓読しながら「ワァお!」と叫びたくなるなかなかのトンデモもので、石の上に「盤」状の肉質が生じ、そこから短い「蔕〔へた〕」が生えてきて、その先に「海參」(ナマコ)が生じ、黒いナマコや赤いナマコは、そのもとの「肉盤」の色に基づく、なんどとあり、それこそその採取法(鉤を以って引っ掛けて引き起こして採る)という辺りを見ても、これはナマコではなく、ホヤ(老海鼠:本邦の代表的食用種は脊索動物門 Chordata 尾索動物亜門 Urochordata ホヤ綱 Ascidiacea マボヤ目 Pleurogona マボヤ亜目 Stolidobranchiata マボヤ(ピウラ)科 Pyuridae マボヤ属 Halocynthia マボヤ Halocynthia roretzi)との混同が激しく疑われる叙述と言える。

「閩海參〔びんかいさん〕」閩は福建省地区の略。古名。

「本草從新」清の一七五七年に呉儀洛によって著された臨床的本草書。全十八巻。記載生薬は七百二十種に及ぶ(分類法は「本草綱目」に準じている)。本書は初めて「冬虫夏草」を記載したことでも知られる。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で原本が読める。「海參」はここから。

「閩小記」に曰はく、「維基文庫」のこちらによれば、原文は、

   *

○海參

閩中海參色獨白、類撐以竹簽、大如掌、與膠州遼海所出異、味亦澹劣、海上人復有以牛革僞爲之以愚人者、不足尙也。濰縣一醫語予云、參益人、沙玄苦參、性若異、然皆兼補、海參得名、亦以能溫補也。人以腎爲海,此種生北海鹹水中、色又黑、以滋腎水、求其類也。生於土者爲人參、生於水者爲海參、故海參以遼海產者爲良、人參像人、海參尤像男子勢、力不在參下、說亦近理。

   *

とある。「水族志」の撑」と「撐」は同義で「支えとなるもの」の意。

「撑〔ささへ〕の類ひとして、竹を以つて、簽〔しるし〕す」訓読に甚だ自信がない。一応、採取する者が、逃げて行かぬように、竹を何本か海底にナマコの体を刺し貫いて動けなくさせておき、標識としておく、の意で読んだのだが、突如、初めに漁法を出すのもヘンな感じはする。実は私は既に、栗本丹洲の「栗氏千蟲譜」巻八よりとして「海鼠 附録 雨虎(海鹿)」をサイトで電子化しているが、そこに栗本が引用しており、そこでは私は、

   *

閩中、海參、色、獨り白き類は、竹簽(ちくせん)を以つて撑(つ)けば、大きさ、堂のごとくなる。味、亦、淡にして劣たり。海上の人、復た、牛革を以つて譌り、之れを作る有り。

   *

と訓じているのである。畔田の返り点とは異なるが、「竹簽」は「竹串」の意となり、「撑」には別に「刺す・突く」の意があるので、そっちの方がいい。

「膠州の遼海」「膠州」は現在の山東省青島市膠州市。「遼海」はその前に広がっている黄海を一般名詞で呼んだものととる。実際、黄海の渤海辺り(山東半島及び遼東半島沿岸)で獲れた海鼠の乾燥品(学名とフレーズで調べて見ると、基本、原素材はマナマコである)を「遼海產」或いは「遼參」として中国では販売している。

「與〔あづか〕る」「主棲息地・主産地とする」の意で訓じたが、どうも座りは悪い。

「澹〔あは〕くして【「從新」は「淡」に作る。】」「澹」にも「淡」と同義があるので問題ない。

「牛革を以つて、僞〔いつは〕りて之れを爲〔つく〕り、以つて人を愚する有り。者は、尙ほ、足らざるなり」「者」はどうも座りが悪い。或いは係助詞で「は」と読もうと思ったが、文がだらつくので、かくした。この仰天の贋物(にせもの)の捏造「干しナマコ」(羊頭狗肉ならぬ海鼠頭牛皮)であるが、古くから知られていたもので、先の栗本丹洲の「栗氏千蟲譜」巻八より「海鼠 附録 雨虎(海鹿)」にも、

   *

蘭山子「本艸從新」に載する所、「光參」に充つ。是れに非ず。其の書に云ふ、『刺有るは「刺參」と名づけ、刺無きは「光參」と名づく。』と。注に云ふ、『閩中、海參、色、獨り白き類は、竹簽を以つて撑けば、大きさ、堂のごとくなる。味、亦、淡にして劣たり。海上の人、復た、牛革を以つて譌り、之れを作る有り。』の語あり。此れ、卽ち、『八重山串子』と俗称するものにして、味、甚だ薄劣にして、下品のものなり。

   *

とあって、実は日本でも当時、「八重山串子(やえやまくしこ)」という名で知られていたことが判るのである(但し、ネットで「八重山串子」を検索しても、現認出来る日本語のサイトは私のものだけである)。考えて見ると、牛の皮は食には向かないし、薄いものは皮革にもならないから、ただ同然で手に入ったものかも知れない。

「刺參」中国及び本邦で広くナマコ類及びマナマコに当てる。現在も、である。

「光參」本邦では特に先に挙げたキンコに当てる。

「遼海參」前「膠州の遼海」で注した。

「コノワタ」「俵子(タハラコ)」「沙噀膓」ウィキの「このわた」を引く。『このわた(海鼠腸)は、ナマコの内臓の塩辛で』、『寒中に製した、また』、『腸の長いものが良品であるとされる。尾張徳川家が師崎』(もろざき:愛知県知多郡南知多町の先端に位置する港町。ここ。グーグル・マップ・データ)の「このわた」を『徳川将軍家に献上したことで知られ、ウニ、からすみ(ボラの卵巣)と並んで日本三大珍味の一つに数えられる』。『古くから能登半島』『・伊勢湾・三河湾が産地として知られてきたが、今日では、瀬戸内海など各地で製造されている』。語源は、「こ」(既に出したナマコの最も古い呼び名)+「の」(所有の格助詞)+ 「わた」(「腸」。「内臓」の意)である。『このわたを製造する場合には、体色が赤っぽい「アカナマコ」が重宝がられるという』。『まず、ナマコの体内を浄化するため、作業場近くの海に設けた生け簀で二日ほど』、『放置する。腸管内部の餌の残渣や糞がある程度』、『排泄されたころをみはからい、腹側の口に近い部分を小刀で』五~六センチメートルほど『裂き、逆さにして内部の体腔液を抜きつつ、切り口から指を入れて内臓を引き出す』『か、または脱腸器で内臓を抜き取る。抜き出した内蔵は、指先でしごいて』、『内部に残った砂を絞り出し、腸管・呼吸樹(「海鼠腸の二番」と称される)・生殖巣の三部位と、砂(砂泥)とに分別される。生殖巣は』「くちこ」(既に述べた)の『製造に』別に使用される。『なお、内臓を抜いたナマコは生食用または熬海鼠(いりこ:煮干し品)の製造に向けられ、生食用は海水を満たしたナイロンの袋に詰めて出荷される。熬海鼠用は釜に入れるまで、海水を満たした桶に保管しておく(ナマコの生態的な特徴からすぐに死ぬことはない)。解体時にナマコの切り口を小さくするのは、熬海鼠の品質を良くするためといわれている』。『解体と分別作業とが終わると、小盥に分けた内臓を海水でよく洗い、ザルに取って水気をきってから』、『一升舛で量り、別の盥に入れて重量比で』一割強、体積比では、内臓一升に対し、二~三合『の食塩を加えて混ぜ合わせ、桶または壺に貯蔵する』。二~三日で『塩漬けが完了して食用可能な状態となるため、箸などを用いて出荷用の容器へと取り分ける』。『おおまかに、ナマコ』百貫から内臓八升が『採取でき、内臓』一『升から』は、「このわた」七『合が製造できる』。『多量の水分を含み、軟らかい紐状をなすこのわたの流通用容器としては、ガラス瓶・竹筒・桶の』三『種類がある。ガラス瓶が使用されるようになったのは、昭和』四〇(一九六五)『年代以降のことであるが、清潔で容積に変化がないことから』百二十ミリリットル用の『小瓶が使われている。竹筒入りは細身の青竹を用いるが、内容積に変化があるため、使用する時は、このわたの本数を読んで詰めている。さらに、「オケ」と呼称されている小型の木製容器も用いられる』。『京都・大阪や金沢の方面では、竹筒入りのこのわたが求められる場合が多く、名古屋方面では桶入りのものを求める傾向があるという』。『ナマコの内臓はふつうは塩蔵品として市販されるが、生鮮品をそのまますすっても、三杯酢に浸して酢の物としても美味で、酒肴として喜ばれる。また、このわたに熱燗の酒をそそいだものは「このわた酒」と称される』。『「このわた汁」は、このわたをまな板の上で庖丁で叩いてから椀に入れ、ごく薄味に仕立てた汁を注いだもので、このわたの真の味を賞し得るという。また』、『味噌仕立てにもされ、三州味噌を庖丁で細かく切って水溶きし、鰹節と昆布とを加えて』三『時間ほど置き、裏ごしする。これを火にかけて味を調え、このわたを加えてさっと火を通して供する』。『このわたは、能登国の産物として平安時代の史料に登場する。室町~戦国時代には、能登の守護職を務めた畠山氏が、特産の水産物としてこのわたを納め、「海鼠腸桶」を足利将軍家や公卿・有力寺社などへ贈呈した歴史が知られている』。延長五(九二七)年)成立の「延喜式」には、『中央政府が能登国のみに課した貢納物の中に、熬海鼠に加えて』、『「海鼠腸」が挙げられている。能登の交易雑物に「海鼠腸一石」と記録されている点から、かなり量産されていたことがうかがわれる』(以下、「本朝食鑑」の記載があるが、誤った内容が書かれているので、現在、同ウィキの「ノート」に原筆者への修正要請を附しておいた。因みに私はアカデミストたちが嫌悪するウィキぺディアの、ライターの端くれである)。また、足利義政・義尚将軍期の政所代であった蜷川親元(永享五(一四三三)年~長享二(一四八八)年)の日記にも、『畠山義統』(よしむね)『より足利義政への進物として「海鼠腸百桶(只御進上)」との記述があり、また、日野富子へ向けて「このはた百桶」、義統の親元に向けて「このはた五十桶」が贈られたと記されている』。『塩辛である海鼠腸の特徴と、中世文献上に記述されている「桶」の数量から、海鼠腸桶は口径』六センチメートル未満(二寸相当)の『小型の曲物容器であった可能性が指摘されるとともに、福井県一乗谷朝倉氏遺跡の朝倉館より大量に出土した小型曲物こそが、この「桶」であろうとの指摘がなされている』。室町時代の文政三(一八六三)年に『成立した「奉公覚悟之事」にも』、『このわたの記述があり、「このわたハ桶を取りあげてはしにてくふべし。是も一番よりハ如何。半に両度もくふべき也(下略)」』『との説明から、このわたが、片手で持ちうる大きさの「桶」に詰められていたであろうことが明らかであるという』。『江戸時代に、能登の名産品として、このわたを将軍家に献上した加賀藩前田家は、この中居』(石川県鳳珠(ほうす)郡穴水町(あなみずまち)字中居。グーグル・マップ・データ。七尾湾の北岸)『産の海鼠腸を御用品に定めることで、南湾の石崎町』(ここ。七尾湾南岸七尾市街からやや北西で、和倉温泉の直近。同前)『と同じく能登のナマコ生産を支配した』。『このため、現在でも七尾湾で水揚げされたナマコを加工している場所は、七尾市石崎町と鳳珠郡穴水町中居の二ヶ所だけである。石川県下におけるナマコ生産・加工に関する歴史も、前田氏が能登の支配を始めた江戸時代からと伝承されている』とある。

「攪〔かきまぜ〕て勻〔ひとしく〕して」「勻」は先に示したように底本では「勾」(かぎ・曲げる)であるが、これでは意味が通じない。「勻」には「均」の意、「等しい」の意があるから、攪拌して様態を均一にするの意でとった。]

カテゴリ 畔田翠山「水族志」 創始 / (二四六) クラゲ 《リロード》

 

カテゴリ『畔田翠山「水族志」』を創始し、江戸末期の和歌山藩士にして博物学者畔田翠山(くろだすいざん)の「水族志」の電子化に着手する。今回、人見必大の「本朝食鑑」の水族の部の電子化と訳注の参考にするため、島田勇雄訳の平凡社東洋文庫版全五巻(一九七六~一九八一年刊)を購入、それを管見するうち、その注の「水族志」の引用内容の細かさに驚いた(特にこれから行う「クラゲ」の項等)。しかも、この畔田翠山なる人物、謂わば、南方熊楠の大先輩とも言うべき人物なのである。これはもう、やらずんばならず、である。

「水族志」は文政一〇(一八二七)年に翠山によって書かれた、恐らくは日本最初の総合的水産動物誌で、明治になって偶然発見され(後述)、当初の分類方法を尊重しつつ、全十巻十編に改訂された。掲載された水族は本条二百五十七種、異種四百七十八種合わせて七百三十五種。異名を含めると千三百十二種に及ぶ。但し、貝類は含まれない(数値データは「水産総合研究センター図書資料デジタルアーカイブ」の同書の冒頭解説に拠った)。

 畔田翠山(寛政四(一七九二)年)~安政六(一八五九)年)は本名を源伴存(みなもとともあり)といい、紀州藩藩医であった。通称を十兵衛、別に畔田伴存とも名乗り、号は翠山・翠嶽・紫藤園など。「和州吉野郡群山記」「古名録」をはじめとする博物学の著作を遺した。以下、ウィキの「源伴存」より引く。『現在の和歌山市に下級藩士の畔田十兵衛の子として生まれた。若いときから学問に長じ、本居大平』(もとおりおおひら:本居宣長の弟子で養子。)『に国学と歌学、藩の本草家で小野蘭山の高弟であった小原桃洞に本草学を学んだ。父と同様、家禄』二十『石の身分であったが、時の』第十代藩主徳川治宝(はるとみ)に『学識を認められ、藩医や、紀の川河畔にあった藩の薬草園管理の任をつとめた』。『薬草園管理の任にあることで、研究のための余暇を得たとはいえ』、二十『石のわずかな禄では、書物の購入も研究のために旅に出ることも意のままにはならない。こうした伴存の境遇を経済面で支援したのが、和歌山の商人の雑賀屋』(さいかや)『長兵衛であった。長兵衛は、歌人としては安田長穂として知られる人物で、学者のパトロンをたびたびつとめた篤志家であった』。『また、伴存自身は地方の一学者でしかなかったが、蘭山没後の京都における本草家のひとりとして名声のあった山本沈三郎』(しんさぶろう)『との交流があった。沈三郎は、京都の本草名家である山本亡羊』(ぼうよう)『の子で、山本家には本草学の膨大な蔵書があった。沈三郎は』、弘化二(一八四五)年に『伴存の存命中に唯一刊行された著書』「紫藤園攷証」(しとうえんこうしょう)甲集(博物学書。国立国会図書館デジタルコレクションの原本へリンクさせた)に『ふれて感銘を受け、それ以来、伴存との交流があった』。『この交流を通じて、伴存は本草学の広範な文献に接することができた』。『このように、理解ある藩主に恵まれたことや』、『良きパトロンを得られたこと、さらに識見ある先達との交流を得られたことは、伴存の学問の大成に大きく影響した』。『伴存は、自らのフィールドワークと古今の文献渉猟を駆使して』、二十五部以上・約二百九十巻にも『及ぶ多数の著作を著した』『が、その業績の本質は本草学と言うよりも博物学である』。文政五(一八二二)年に『加賀国白山に赴き、その足で北越をめぐり、立山にも登って採集・調査を行った。山口藤次郎による評伝では、その他にも「東は甲信から西は防長」まで足を伸ばしたと述べられているが、その裏付けは確かではなく』、『伴存の足跡として確かなのは白山や立山を含む北越、自身の藩国である紀伊国の他は、大和国、河内国、和泉国といった畿内諸国のみである』。『その後の伴存は、自藩領を中心として紀伊半島での採集・調査を続け、多くの成果を挙げた。代表的著作である』「和州吉野郡群山記」も、『その中のひとつである』。安政六(一八五九)年、伴存は熊野地方での調査中に倒れて客死し、同地の本宮(田辺市本宮町)にて葬られた』。『伴存の著作の特徴となるのは、ある地域を限定し、その地域の地誌を明らかにしようとした点にある。その成果として』「白山草木志」・「北越卉牒」(ほくえつきちょう)・「紀南六郡志」・「熊野物産初志」・「野山草木通志」(やさんそうもくつうし:高野山の草木類についての本草書。巨大なツチノコではないかとも言い囃された「野槌」の図が載ることでも知られる「【イエティ】~永遠のロマン~ 未確認動物UMAまとめ その1【ツチノコ】」に図があるので参照されたい)、そして伴存の代表的著作』「和州吉野郡群山記」が『ある。特に紀伊国では広範囲に及ぶ調査を行い』、その中で、『日本で最初と見られる水産動物誌』である本「水族志」や、貝類図鑑である「三千介図」が生まれており、代表的著作とされる「熊野物産初誌」・「和州吉野郡群山記」も『そうした成果のひとつで』、「和州吉野郡群山記」は、『大峯山、大台ヶ原山、十津川や北山川流域の地理や民俗、自然を詳細に記述したもので、内容は正確かつ精密である。その他にも、本草学では』「綱目注疏」・「綱目外異名疏」、『名物学では全八十五巻からなる』「古名録」や「紫藤園攷証」があり、『伴存の学識』の博さを『知ることが出来る』。『前述のように、伴存は生涯にわたってフィールド』・『ワークを好んだだけでなく、広範な文献を渉猟した。ことに古今和漢の文献の駆使と』、『それにもとづく考証においては、蘭山はもとより、他の本草学者』とは比べものに『ならないほどの質量と専門性を示すことは特筆に価する。また、伴存の博物学的業績を特徴付けるのは、調査地域での記録として写生図だけでなく』、『標本を作成した分類学的手法』『である。その標本は、伴存の門人で大阪の堀田龍之介の手に渡り、後に堀田の子孫から大阪市立自然史博物館に寄贈された。これらの標本を現代の分類学から再検討することは行われていないが、紀伊山地の植物誌研究にとって重要な資料となりうるものである』。『伴存は以上のように大きな業績を残したが、生前に公刊した著作はわずか』一『冊のみであった。また、実子は父の志を継ぐことなく』、『廃藩置県後に零落』、明治三八(一九〇五)年に『不慮の死を遂げ、家系は途絶えた。伴存は堀田龍之介と栗山修太郎という』二『人の門人を持ったが、栗山の事跡は今日』、『ほとんど何も知られていない』。『堀田は、伴存と山本沈三郎との交流の仲立ちに功があった』『が、本草学者・博物学者としてはあくまでアマチュアの好事家の域にとどまった』。『こうしたこともあって、伴存は江戸末期から明治初期にかけて忘れさられただけでなく、第二次大戦後に至っても』、『本名と号とで』、『それぞれ別人であるかのように扱われることさえあった』。『伴存が再発見されたのは全くの偶然で』、明治一〇(一八七七)年、東京の愛書家・宍戸昌が』、古書店で「水族志」の『稿を入手したことに始まる。著者名は「紀藩源伴存」とあるだけで、何者とも知れなかったが、翌年に大阪で宍戸が堀田に見せたところ、その来歴が判明したのであった。後に田中芳男がこのことを知り、宍戸に勧めて』、明治一七(一八八四)年、本「水族志」が『刊行された。田中はまた』、「古名録」の『出版にもつとめ』、明治一八(一八八五)年から明治二三(一八九〇)年に刊行している。「古名録」の『刊行にあたっては』、本邦初の植物病理学者として知られる白井光太郎(みつたろう)が『和歌を寄せたほか、南方熊楠も伴存の学識を賞賛する一文を寄せている』とある。まさにその後輩とも言うべき博物学の巨人南方熊楠以上に、再評価されてよい人物と言えるのである。

 視認底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「水族志」を用い、判読に困った部分では「水産総合研究センター図書資料デジタルアーカイブ」の「水族志」の画像も参考にした。異体字の漢字は最も近いものを当ててある。項目名の前にある( )は上部罫の外に示された通し番号である。底本では標題以外は本文全体が一字下げである。割注は【 】で本文と同ポイントで示した。本テクストはまず、訓点(返り点とカタカナの振り仮名があるが、送り仮名はごく一部にしかない)を除去した漢字カタカナ交じりの本文を示し、次に「○やぶちゃんの書き下し文」として、諸資料を参考にしながら、自然勝手流で訓読したものを示す。そこでは原本のカタカナのルビはそのまま生かして( )で示し、私の推定の読みは〔 〕によって歴史的仮名遣でひらがなで添え、場合によっては、読み易くするために改行を施した(本文のカタカナの内、一部はカタカナのままにした)。その後に読解の便を考えたオリジナルな注を附す。但し、始動した際は訓点を再現した関係上、その自身の当時の努力を残すために、この「クラゲ」と次の「ナマコ」では返り点と読み仮名が添えてある。また、後に「クラゲ」と「ナマコ」をPDF縦書版を作って添えたのだが、今見ると、PDF機能が拙劣で、漢字が横転しているなど、見るに堪えないものであったので、除去し、改訂したPDF縦書版を以下に添えた。

 例によって私の偏愛性から、最後の「第十編 海蟲類」から開始する。【二〇一五年四月二十九日 藪野直史】【二〇二〇年九月十九日改稿:放置が長く、注をしないというコンセプトを変えることにしたため、形式も変更し、本格的に本文も最初から校訂をやり直すことにした(実際に表記の誤りが数箇所あった)。始動の際の気持ちは変わらないので、この冒頭注の後半も全面的に書き変えたけれども、記事の日付はそのままとして、《リロード》と添えた。】

【特別付録】ここでは本文で訓点を再現したので、縦書の方が、その部分は流石に読み易いので、特別に「クラゲ」と「ナマコ」のカップリングで本文のみの縦書版(PDF)を用意した。 

 〇第十編 海蟲類

(二四六)

クラゲ 水母 海月【訓久良介(クラゲ)本朝食鑑】

本朝食鑑狀如水垢之凝結而成渾然體靜隨波逐潮浮水上其色紅紫無眼口手足腹下有物如絲如絮而長成[やぶちゃん注:この「成」は原文と対照することで、「曳」の誤読か誤植であることが判明したので、訓読ではそう変えた。]魚鰕相隨嘔其泛沫大者如盤小者如[やぶちゃん注:(上)「子」+(下)「皿」であるが、引用原拠を確認して「𥁂」ではなく「盂」であることを確認した。]其最厚者爲海月頭其味淡微腥而佳廣東未之海西最多故煎茶渣柴灰和䀋水之以送于東云々大和本草曰水母泥海ニアリ故備前筑後等ヨリ出無毒生ナルヲ取リクヌギノ葉ヲ多クキザミクラゲノ内ニ包ミ䀋ヲ不用木ノ葉ヲマジヱ桶ニ入フタヲオホヒ水ヲ入時々水ヲカユル久クアリテ不敗水ナケレハヤクルヤクルトハ枯テ不食ナリ本草啓蒙曰松前ニハ大サ三寸許ニ乄紫色ナル者アリ按一種白色ニ乄内ニ紅紫或藍紫色大瓣ノ櫻花形ヲナス者アリ閩中海錯疏曰水母海中浮漚所結也色正白濛濛如沫又如凝血縱廣數尺有知識腹臟無頭目處々不人按其紅者名海蜇其白者名白皮子事物紺珠曰水母仙狀如凝血大者如床次如覆笠斗泛々隨水上下無頭腹按此物群ヲナシ海潮ニ隨ヒテ行白色ノ松簟ノ半開セル形ノ如ク下ニ白色大小ノ絲ヲ引ク〇セイクラゲ 水母線 楊州畫舫錄曰𩶱魚割其肉蛇頭其裙曰蛇皮廣博物志曰海曲有物名蛇公形如覆蓮花正白閩中海錯疏曰按類相感志云水母大者如床小者如斗明州謂之蝦鮓皮切作縷名水母線唐久良介(トウクラゲ)」「海蜇[やぶちゃん注:以上の奇妙な鍵括弧列はママ。当該部(左ページ七行目)を見られたい。]【廣東新語】一名朝鮮(テウセン)クラゲ【山海名產圖會】本朝食鑑曰一種有唐海月ト云色黃白味淡嚼之有聲亦和薑醋熬酒進是自華傳肥之長崎而來本朝亦製之其法浸以石灰礬水其血汗則色變作白重洗滌之若不石灰之毒則害人大和本草曰唐クラゲアリ水母ヲ白礬水ヲ以制乄簾ニヒロケ乾シテ白クナリタル也ミヅクラゲ 一名ハゲクラゲ【紀州加太浦漁人沖ハゲヲ釣餌ニ用故ニ名ク】ブツウクラゲ【本草啓蒙防州旦村】ドウクハンクラゲ【同上雲州】白皮子」[やぶちゃん注:鍵括弧はママ。]八閩通志曰、水母有淡色者白色者其白者名白皮子本朝食鑑曰有水海月者色白作團如水泡之凝結亦曳絲絮魚鰕附之隨潮如飛漁人不之謂必有一レ毒又有毒者而味不好江東亦多有之大和本草曰「ミヅクラゲ」ハ「クラゲ」ニ似タリ食ベカラズ是ハ泥海ニハ生ゼズ本草啓蒙曰「ミヅクラゲ」四ノ黑㸃アリ即足ナリ按ニ白色ノ「クラゲ」也四ツノ黑㸃アルモノ又一品也フグ 本草啓蒙曰土州羽根浦ニ「フグ」ト云フモノアリ「ミヅクラゲ」ニ同シクシテ中ニ鍼ヲ藏ス若螫サルレハ甚タ人ヲ害スイラ 本草啓蒙曰備前兒島及勢州ニ「ミヅクラゲ」ト形狀同ジク肌滑ナラズ乄色紅乄血道ノ如キモノアリ若シ誤テ此物ニ觸レハ蕁麻(イラクサ)ニ螫レタルガ如シ薩州ニテ「イラ」ト云按ニ水母類ハ凡テ人肌ニ觸レハ螫疼ムモノ也絲(イト)クラゲ【紀州】一名サウメンクラゲ 洋中ニアリ長キ糸ヲ引タル如シ白色透明素麪ノ如シ又人肌ニ触ルレハ螫ス南風ノ時多シジユズクラゲ 長ク糸ヲ引テ念珠ノ如キ者相連レリ白色透明也一種一根ヨリ數条ヲ分チ房ヲナシ條如ニ[やぶちゃん注:この「如」には文脈から見て、誤記・誤字・誤植ではなかろうか? 細い条のようになっている丸いものというのは矛盾した謂いとしかとれないからである。私はこれを「每ニ」の誤りと見た。訓読でもそれを採用した。]圓キ榧子ノ如キモノ連ルアリ白色透明也ハナヒキクラゲ【紀州海士郡加太】水母ニ同乄表ニ紫褐色或醬褐色ノ荷葉ノ脉文アリキンチヤククラゲ 形狀荷包ニ似テ長シ白色ニ乄扁也半ニ四五分許ノ穴アリ其傍ヨリ長サ一尺許ノ紐出テ紙ヲ一分餘ニ斷テ着ルガ如シ西瓜(スイクワ)クラゲ 夏月ニ多シ西瓜ノ大サニシテ白色淡藍色ヲ帶

 

○やぶちゃんの書き下し文

 〇第十編 海蟲類

(二四六)

クラゲ 水母 海月【久良介(クラゲ)と訓ず。「本朝食鑑」。】

「本朝食鑑」に、『狀、水の垢〔あか〕の凝り結びて成れるがごとくして、渾然として、體〔たい〕、靜かなり。波に隨ひ潮を逐ふて水上に浮かぶ。其の色、紅紫、眼・口、無く、手足、無し。腹の下、物有りて、絲のごとく、絮〔わた〕のごとくにして、長く曳く。魚・鰕、相ひ隨ひ、其の泛〔うか〕べる沫〔あは〕を嘔〔す〕ふ。大なる者は盤のごとく、小なる者は盂〔はち〕のごとし。其の最も厚き者は「海月の頭〔かしら〕」と爲す。其の味はひ、淡く、微かに腥〔なまぐさ〕くして、佳なり。廣東[やぶちゃん注:「江東」の誤り。江戸を中心とした関東の意。]、未だ之れを見ず。海西、最も多し。故に煎茶の渣〔かす〕・柴〔しば〕の灰、䀋水〔えんすい〕に和して、之れを淹〔つ〕け、以つて東に送る』と云々。

「大和本草」に曰はく、『水母。泥海にあり。故に備前・筑後等より出づ。毒、無し。生なるを取り、くぬぎの葉を、多く、きざみ、くらげの内に包み、䀋を用ひず、木の葉をまじゑ、桶に入れ、ふたをおほひ、水を入れ、時々、水を、かゆる。久しくありて、敗〔くさ〕らず。水、なければ、やくる。「やくる」とは、枯れて食ふべからずなることなり』と。

「本草啓蒙」に曰はく、『松前には、大いさ三寸許りにして、紫色なる者あり』と。

按ずるに、一種、白色にして、内に紅紫、或いは藍紫色の大瓣の櫻の花形をなす者あり。

「閩中海錯疏〔びんちゆうかいさくそ〕」に曰はく、『水母』、『海中の浮漚〔ふおう〕、結ぶ所なり。色、正白、濛濛として沫〔あは〕のごとく、又、凝〔こ〕れる血のごとし。縱の廣さ數尺、知識は有るも、腹臟は無く、頭・目も無し。處々あり、人を避くることを知らず』と。『按ずるに、其の紅き者は「海蜇」と名づけ、其の白き者は「白皮子」と名づく。「事物紺珠」に曰はく、『水母仙、狀、凝れる血のごとく、大なる者、床〔とこ〕のごとく、次〔つ〕ぐは覆へる笠のごとく、斗〔ます/ひしやく〕のごとし。泛々〔はんぱん〕として水に隨ひ、上下す。頭・腹、無し』と。

按ずるに、此の物、群れをなし、海の潮に隨ひて行く。白色の松簟〔まつたけ〕の半開せる形のごとく、下に白色の大小の絲を引く。

〇セイクラゲ 水母線 「楊州畫舫錄〔ようしうぐわばうろく〕」に曰はく、『𩶱魚〔だぎよ〕、其れ、其の肉を割〔さ〕きて、蛇頭と曰ふ。其の裙〔ひれ〕は蛇皮と曰ふ』と。「廣博物志」に曰はく、『海曲。物、有り蛇公と名づく。形、覆蓮花のごとく、正白』と。「閩中海錯疏」に曰はく、『按ずるに、「類相感志」に云はく、『水母、大なる者は床のごとく、小なる者は斗のごとし』と。明州、之れを蝦鮓〔かさ〕と謂ふ。皮を切り、縷〔いと〕に作る。水母線と名づく』と。

唐久良介(トウクラゲ) 「海蜇」【「廣東新語」。】。一名朝鮮(テウセン)クラゲ【「山海名產圖會」。】「本朝食鑑」に曰はく、『一種、「唐海月」と云ふ者の有り。色、黃白、味、淡し。之れを嚼〔か〕みて、聲〔おと〕有り。亦、薑醋〔しやうがず〕・熬酒〔いりざけ〕に和して是れを進む。華より肥の長崎に傳へて來たる。本朝にも亦、之れを製す。其の法、浸すに石灰・礬水〔ばんすい〕を以つてして、其の血・汗を去る。則ち、色、變じて、白と作〔な〕る。重ねて之れを洗ひ、滌〔すす〕ぐ。若〔も〕し、石灰の毒を去らざれば、則ち、人を害す』と。「大和本草」に曰はく、『唐くらげあり。水母を白礬水を以つて制して、簾〔すだれ〕にひろげ、乾して、白くなりたるなり』と。

ミヅクラゲ 一名、ハゲクラゲ【紀州加太〔かだ〕浦の漁人、「沖はげ」を釣る餌に用ふ。故に名づく。】。ブツウクラゲ【「本草啓蒙」。防州旦村。】。ドウクハンクラゲ【同上。雲州。】。白皮子。「八閩通志〔はちびんつうし〕」に曰はく、『水母、淡き色の者、有り、白色の者、有り、其の白き者、白皮子と名づく』と。「本朝食鑑」に曰はく、『水海月と云ふ者、有り。色、白くして團を作〔な〕し、水の泡の凝結するがごとく、亦、絲絮〔しじよ〕を曳きて、魚・鰕、之れに附く。潮に隨ひて、飛ぶがごとし。漁人、之れを采〔と〕らず。謂ふ、「必ず、毒有り。又、毒、無き者、有れども、味はひ、好からず」と。江東にも亦、多く、之れ有り』と。「大和本草」に曰はく、『「ミヅクラゲ」は「クラゲ」に似たり。食すべからず。是れは泥海には生〔しやう〕ぜず』と。「本草啓蒙」に曰はく、『「ミヅクラゲ」。四つの黑㸃あり。即ち、足なり』と。按ずるに、白色の「クラゲ」なり。四つに黑㸃あるもの、又、一品なり。

フグ 「本草啓蒙」に曰はく、『土州〔どしふ〕羽根浦に「フグ」と云ふものあり。「ミヅクラゲ」に同じくして、中に鍼〔はり〕を藏〔かく〕す。若し、螫〔さ〕さるれば、甚だ、人を害す』と。

イラ 「本草啓蒙」に曰はく、『備前兒島及び勢州に「ミヅクラゲ」と、形狀、同じく、肌、滑かならずして、色、紅くして、血道〔けつだう〕のごときものあり。若し、誤りて此の物に觸るれば、蕁麻(イラクサ)に螫〔ささ〕れたるがごとし。薩州にて「イラ」と云ふ』と。按ずるに、水母類は、凡て、人の肌に觸るれば、螫〔さ〕し疼〔いた〕むものなり。

絲(イト)クラゲ【紀州】一名、サウメンクラゲ 洋中にあり、長き糸を引きたるごとし。白色、透明、素麪〔さうめん〕のごとし。又。人の肌に触るれば、螫す。南風〔はえ〕の時、多し。

ジユズクラゲ 長く糸を引きて、念珠のごとき者、相ひ連なれり。白色、透明なり。一種、一根〔いつこん〕より數条を分かち、房〔ふさ〕をなし、條〔じやう〕每〔ごと〕に圓〔まる〕き榧子〔かやのみ〕のごときもの、連なれる、あり。白色、透明なり。

ハナヒキクラゲ【紀州海士〔あま〕郡加太。】水母に同じくして、表に紫褐色、或いは醬褐色〔しやうかつしよく〕の荷葉〔はすのは〕の脉文〔みやくもん〕あり。

キンチヤククラゲ 形狀、荷包〔きんちやく〕に似て、長し。白色にして扁〔へん〕なり。半ばに、四、五分〔ぶ〕許りの穴あり。其の傍らより、長さ一尺許りの紐〔ひも〕、出でて、紙を一分餘りに斷ちて着〔つ〕くるがごとし。

西瓜(スイクワ)クラゲ 夏月に多し。西瓜の大いさにして、白色、淡藍色を帶ぶ。

 

[やぶちゃん注:非常に面倒なものとなることが事前に見えている種同定比定考証は後に回し、語釈をまず附す。なお、文中に附された「㋑」以下のそれは本書の編者が同類の中の個別種を見易くするするために附したもので、畔田の附したものではないので注意されたい。

 但し、最初にクラゲについて、是が非でも述べて置かねばならぬ、文学的民俗社会的な特異点がある。これは今まで何度か述べてきたのであるが、本邦の文学・史書に最初に現われる(比喩としてではある)最初の生物こそが、この「くらげ」であるという忘れられがちな事実なのである。ご存じのように、それは日本最古の史書であり、神話でもある「古事記」の、それもまさに冒頭に登場するという驚天動地の事実なのである。「古事記」本文の冒頭を引く。

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〇原文

天地初發之時、於高天原成神名、天之御中主神訓高下天、云阿麻。下效此、次高御巢日神、次神巢日神。此三柱神者、竝獨神成坐而、隱身也。

次、國稚如浮脂而久羅下那州多陀用幣流之時、如葦牙、因萌騰之物而成神名、宇摩志阿斯訶備比古遲神此神名以音、次天之常立神。訓常云登許、訓立云多知。此二柱神亦、獨神成坐而、隱身也。

〇やぶちゃんの訓読

 天地(あめつち)の初めて發(おこ)りし時、高天(たかま)の原に成れる神の名(みな)は、天之御中主(あめのみなかぬし)の神。次に高御産巣日(たかみむすひ)の神。次に神産巣日(かみむすひ)の神。此の三柱(みはしら)の神は、竝(みな)、獨神(ひとりがみ)に成り坐(ま)して身を隱すなり。

 次に、國、稚(わか)く、浮かべる脂(あぶら)のごとくして、九羅下(くらげ)なす多陀用弊(ただよ)へる時、葦牙(あしかび)のごと、萌(も)え騰(あが)る物に因りて成れる神の名は、宇摩忘阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。次に天之常立(あめのとこたち)の神。此の二柱(ふたはしら)の神も亦、獨神と成り坐(ま)して、身を隱すなり。

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語注しておくと、「獨神」とは、男女神のような単独では不完全なものではない相対的存在を超越した存在の意で、また、「身を隱す」というのは、天地の本質の中に溶融して一体となったことを意味すると、私は採っている。「葦牙」とは、生命の誕生の蠢動を象徴する春の葦の芽を指す。

 これを見ても分かる通り、日本神話に於いては、この地上の地面そのものが、カオスからコスモスの形態へと遷移する浮遊状態にあったそれを、「久羅下(くらげ)」に比しているのである。まさに――「くらげ」は日本に於いては原世界の開闢に於いて最初に神によって名指された最初の生物――である、と言ってよいのである。ことになるのである! 私は「古事記」を大いにしっかり授業でやるべきだと考えている(『扶桑社や「新しい歴史教科書」を編集している愚劣な輩へ告ぐ!!!』をも参照されたい)。それは、若者たちが、こういう博物学的な興味深い事実にこそ心打たれることが大切だと考えるからである。それは、強い神国としての日本をおぞましくも政治的に宣揚するためにではなく、自然と一体であった人類への回帰のために、である。

「本朝食鑑」「本朝食鑑」は医師で本草学者であった人見必大(ひとみひつだい 寛永一九(一六四二)年頃?~元禄一四(一七〇一)年:本姓は小野、名は正竹、字(あざな)は千里、通称を伝左衛門といい、平野必大・野必大とも称した。父は四代将軍徳川家綱の幼少期の侍医を務めた人見元徳(玄徳)、兄友元も著名な儒学者であった)が元禄一〇(一六九七)年に刊行した本邦最初の本格的食物本草書。「本草綱目」に依拠しながらも、独自の見解をも加え、魚貝類など、庶民の日常食品について和漢文で解説したものである。以上の引用部は、国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像の訓点に拠って訓読した。ここから(「卷之九 鱗之部三」)。これで「成」(×)→「曳」(〇)の誤りも発見した。以下でもこれを用いて訓読したが、比較すると判るが、畔田は細かい部分で、字を省略している。但し、問題なく原義と同義で読める部分は、特にここでは異同として掲げないので、各自で対照されたい。但し、私は既に「博物学古記録翻刻訳注 ■14 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる海月の記載」で全電子化注を終えているので、そちらを読まれた方が楽である。

「魚・鰕、相ひ隨ひ、其の泛〔うか〕べる沫〔あは〕を嘔〔す〕ふ」「泛〔うか〕べる沫〔あは〕」の部分は「本草食鑑」原本では『涎沫』となっている。これは「ゼンマツ」で「よだれ」の意である。「泛」でも、かく訓ずれば、躓かずに読めることは読める。「嘔〔す〕ふ」「嘔」には「歌う」や「養う・慈しみ育てる」の意があり、原本は「フ」を送っていることから、かく訓じた。これは観察の結果であるが、二様の可能性がある。則ち、小魚やエビが触手に捕捉されて食われているのを誤認した可能性が一つ、逆に触手毒に耐性を持ち、傘や触手間に寄り添って、外敵から身を守っている可能性が一つである。ある種のクラゲの傘や触手には、蚤か虱のように小型のエビ、或いは似た仲間である節足動物が寄生していることが有意にあることが知られており、条鰭綱スズキ目エボシダイ科エボシダイ属エボシダイ Nomeus gronovii の稚魚や幼魚が、強毒性のヒドロ虫綱クダクラゲ目嚢泳亜目カツオノエボシ科カツオノエボシ属カツオノエボシ Physalia physalis などの触手の間で生活していることも有名である(これは現在、エボシダイがカツオノエボシの刺胞の毒に耐性を持つことが知られている。但し、そこでは時にエボシダイがクラゲの体の一部を食べたり、逆にクラゲがエボシダイを搦めとって食べる事例もある)からである。

「大和本草」貝原益軒のその水族の部は、先般、総ての電子化注を終えている。以上の引用部は「大和本草卷之十三 魚之下 水母(くらげ) (杜撰なクラゲ総論)」で電子化注してある。以下もそこで私が施した訓読を参考にした。

「本草啓蒙」「本草綱目啓蒙」。江戸後期の本草学研究書。享和三(一八〇三)年刊。本草学者小野蘭山の、「本草綱目」についての口授「本草紀聞」を、孫と門人が整理したもの。引用に自説を加え、方言名も記してある。以上は弘化四(一八四七)刊の「重訂本草綱目啓蒙」原本は国立国会図書館デジタルコレクションのここから始まる「海䖳 クラゲ」(巻之四十の「鱗之四」)であるが、引用部はここの三~四行目の一文だけである。なお、続く、以下の文は畔田の文章として独立させた。なお、以下に出る部分も上の原本で確認した。

「閩中海錯疏」明の屠本畯(とほんしゅん 一五四二年~一六二二年)が撰した福建省(「閩」(びん)は同省の略称)周辺の水産動物を記した博物書。一五九六年成立。中国の「維基文庫」のこちらで全文が正字で電子化されている。また、本邦の「漢籍リポジトリ」でも分割で全文が電子化されており、当該の「中卷」はこちらである。但し、引用は部分的で、名義標題は『水母』で、冒頭の『水母。一名、鮀。一名、鮓』がカットされており、引用の後の部分は以下が続く(太字は私が施した)。

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隨其東西。以蝦爲目無蝦、則浮沈不常、蝦憑之。其汎水如飛、蝦見人驚去、鮀亦隨之而沒、潮退蝦棄之於陸、故爲人所獲。○「本草」謂、『水母爲樗蒲魚』。「北戶錄」謂、『水母爲蚱。一名石鏡。南人治而食之。性熱、偏療河魚疾也【「補疏」。】。按、「物類相感志」云、『水母大者如牀、小者如斗。明州謂之蝦鮓。其紅者名海蜇、其白者名白皮。子皮切作縷。名水母線』。「嶺表異錄」云、『淡紫色、大者如覆帽、小者如碗、腹下有物如懸絮』。

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とある。「知識は有るも」(「何らかの対象認知の感覚的機序はあるが」の意か)など、出現しない部分があるのは不審。版本が異なるか? 後で「本朝食鑑」の引用に出るが、クラゲには目がなく、エビがその目の代わりをするという共生行動(しかし、中途半端で、引潮になると、クラゲを見捨てるためにクラゲは人に捕獲されるとある)を記しているのが面白いが、畔田のそれは、不全な引用である。本文にも出る「海蜇」(カイテツ)の「蜇」は「刺す」で、現代中国語でも「蜂などが刺す」以外に、単漢字でも「クラゲ」を刺す、基、指す。

「浮漚」浮いた泡。

「腹臟」原文は「腹髒」(音「フクザウ(フクゾウ)」)であるが、「髒」は「汚ない腸(はらわた)」で「臟」に同じい。

「事物紺珠」は明の黄一正撰で一〇六四年成立。「閩中海錯疏」では「物類相感志」であるが、それはかの宋の名詩人蘇軾の記した博物誌的一著であるものの、原本を縦覧したところ、このような記載はないので、畔田が補正したものと考えられた。かなり手間取ったが、英文サイトのデジタル・アーカイブ「The Library of Congress」の画像で同書「第三十九」の「鱗部」の「無鱗小魚」のここに発見した(左頁の主罫六行目)。

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水母仙【又名䖳加《音姹》】名樗蒲魚名𧓳名海靻、槎潮、石鏡。海蜇、鮓魚、狀如凝血大者如床次如覆笠如斗泛泛隨水上下無頭腹以鰕爲目鰕動䖳沉

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「泛々」浮かび漂うさま。

「楊州畫舫錄」(ようしゅうがぼうろく)は清の旅行家李斗の撰になる、三十年余の間に見聴きしたしたものを集成した揚州の見聞録。一七九五年刊。早稲田大学図書館「古典総合データベース」にある原本を調べたところ、「卷一」のここに見つけた。「淮南魚」で始まる部分の中に出現する。関係のありそうな部分まで引く。

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海魚割其翼曰魚翅、䖳魚割其肉曰䖳蛇頭、其裙曰䖳皮。石首春產於江、秋產於海、故狼山以下人家、八月頓頓食黃魚也。風乾其䖳曰膘、木經需之以聯物者、取魫甫曰※[やぶちゃん注:「月」+「責」。]、以鹽冰之曰醃魚子、凡此皆行貨也。

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「廣博物志」明の董斯張(とうしちょう)の撰になる、古今の書物などから不思議な話を纏めたもの。全五十巻。国立国会図書館デジタルコレクションの原本の、最後の「五十卷」のここに見つけた。右頁の四行目。

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海曲有物名蛇公形如覆蓮花一正白

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最後に割注で『並上』とあり、これは前に出る出典「異苑」を指す。「異苑」は六朝時代の宋の劉敬叔の著志怪小説集であるが、現存するそれは明代の胡震亨によって編集し直されたもので、原著とは異なっていると考えられている。

「覆蓮花」は蓮の花で覆われたような様態を指す。

「廣東新語」清初の屈大均(一六三五年~一六九五年)撰になる、広東に於ける天文・地理・経済・物産・人物・風俗などを記す。「広東通志」の不足を補ったもの。全二十八巻。早稲田大学図書館の「古典総合データベース」の原本のここ。但し、ここは文脈では『乾せる者を海蜇と曰ふ』となっとるぜよ、畔田どん!

「山海名產圖會」「日本山海名產圖會」。江戸時代の物産図会。全五巻。蔀(しとみ)関月画。木村蒹葭堂(けんかどう)序。撰者は蒹葭堂ともいうが、不詳。先行する「日本山海名物図会」の再板(寛政九(一七九七)年)の後を受けて、寛政十二年に大阪の塩屋長兵衛を板元として刊行された。本邦各国の農林水産・酒造・陶器・織物などを図説したもの。同前早稲田大学図書館「古典総合データベース」の、巻之五の「備前水母」、原本のこの一行目に出る。

「熬酒〔いりざけ〕」二種あり、①酒を煮立ててアルコール分を飛ばしたもので調味用に用いるもの。②酒に醤油・鰹節・梅干しなどを入れて煮詰めたもので、刺身・酢の物などの調味料として用いる。ここは②の意であろう。

「華」中華。中国。

「肥」肥前。

「礬水〔ばんすい〕」白礬水。天然明礬(みょうばん:カリ明礬石から製する)を温水に溶かして冷やしたもの。

「加太浦」現在の和歌山県和歌山市加太の加太湾及び加太沿岸(グーグル・マップ・データ)。

「沖ハゲ」顎口上綱硬骨魚綱条鰭亜綱新鰭区刺鰭上目スズキ系フグ目モンガラカワハギ亜目モンガラカワハギ科オキハギ属オキハギ Abalistes stellatus のことか? ウィキの「モンガラカワハギ科(Balistidae)によれば、『モンガラカワハギ科の魚類は』『一般に昼行性で、硬い殻をもつ貝類や棘皮動物などを含めたさまざまな無脊椎動物を捕食する。本科魚類の歯の形状は獲物をかじりとるよりも』、『噛み砕くことに適応しているものの、ナメモンガラ属など藻類や動物プランクトンを主に食べるグループも存在する』とあり、クラゲも食いそうだ。そもそもがクラゲ食はあたかもオサガメとマンボウの専売特許のように考えられてきたのは大間違いで、実は多様な海棲生物の餌として非常に重要な地位を持っているのである。「朝日新聞」の「GLOBE+」の「研究でわかったクラゲの人気度 海ではみんなの大好物だった」を読まれたいが、ゼラチン質のクラゲは平均すると九十五%が水分で、コップ一杯分の生きたクラゲから得られるエネルギー価は五キロカロリーでしかない。コップ一杯のセロリの三分の一だとしつつ、『クラゲを食物網』(嘗ては食物連鎖を生物(食物)ピラミッドと呼んでいたが、それは単純に階層的ではなく、網の目のように複雑に繋がっていることから、今はこう表現するのがより正確となった)『の最末端とする見方は間違った認識であることが浮かび上がってきた。マグロ類からペンギンまで、多くの種がクラゲを捕食しているのだ。「調べれば調べるほど、多くの動物がクラゲをエサにしていることがわか」ってきたとあるので、ミズクラゲを餌にしてもおかしくも何ともないのである。大体からして、マンボウはフグ目フグ亜目マンボウ科マンボウ属マンボウ Mola mola で、同じフグ目だし、以前にモンガラカワハギ科 Balistidae 然とした南方の魚が、巨大なクラゲ(種は忘れた)をガンガン突いて食っている画像をテレビで見たことがあるのだ。

「ブツウクラゲ」「本草綱目啓蒙」(ここの一行目)では『ブツウクラゲ』となっているから、「ぶっつうくらげ」(漢字表記や意味は不明。このようなミズクラゲの異名を私は聴いたことがない)である。但し、畔田は紀州藩藩医であるから、蘭山より彼の方が信頼出来ると思うのだが、如何せん、「」を現代口語で表記出来ない。「ぶつーくらげ」か? 判らん!

「防州旦村」山口市阿知須旦(あじすたん)か(Geoshapeリポジトリ)。或いはその東の旧山口県厚狭郡沖ノ旦村か(グーグル・マップ・データ)。

「雲州」出雲国。

「八閩通志〔はちびんつうし〕」明の黄仲昭の編になる福建省の地誌。福建省は宋代に福州・建州・泉州・漳州・汀州・南剣州の六州と邵武・興化の二郡に分かれていたことから、かくも称される。一四九〇年跋。全八十七巻。但し、「中國哲學書電子化計劃」で調べると、この文字列(特に大事な「白皮子」という異名)が見当たらない。版本が違うか。

「絲絮〔しじよ〕」生糸と綿。ここは無論、「のような物」という隠喩。

「土州」土佐国。

「羽根浦」現在の高知県羽根町(はねちょう)甲及び乙の沿岸部であろう。

『「フグ」と云ふものあり』「本草綱目啓蒙」にはここの直後に割注して、『河豚ノ方言フクと云』と記している。思うに、蘭山は魚のフグの毒の意をこのクラゲに喩えた命名と考えたもののようである。

「勢州」伊勢国。

「血道〔けつだう〕」血管のような脈筋のあることを言っている。

「蕁麻(イラクサ)」マンサク亜綱イラクサ目イラクサ科イラクサ属イラクサ Urtica thunbergianaウィキの「イラクサ」によれば、『茎や葉の表面には毛のようなトゲがある。そのトゲの基部にはアセチルコリン』(Acetylcholine)『とヒスタミン』(Histamine)『を含んだ液体の入った嚢があり、トゲに触れ』、『その嚢が破れて皮膚につくと』、『強い痛みがある。死亡することはないが、皮膚炎を発症することがある』とある。私も先週、左腕肘をやられた。

「薩州」薩摩国。

「南風〔はえ〕」南から吹く風。特に夏の風について言い、漁師は、これが吹くと、雨が降り、海が荒れると予知するのを常とする。

「榧子〔かやのみ〕」裸子植物門マツ綱マツ目イチイ科カヤ属カヤ Torreya nucifera の実。

「海士〔あま〕郡」紀伊国海部(あま)郡の誤り。

「醬褐色〔しやうかつしよく〕」見慣れない色名だが、意味は分かる。因みにネットでは陶磁器の専門家の解説で一箇所、掛かった。焼き物に使用する原料の土(胎土)の色を指して言っていた。まあ、暗褐色のやや明るいものととればよかろう。

「荷葉〔はすのは〕の脉文〔みやくもん〕」ハスの葉の葉脈のような紋様のこと。

四、五分〔ぶ〕」一分は三ミリメートルであるから、一・二~一・五センチメートル。

四、五分〔ぶ〕」一分は三ミリメートルであるから、一・二~一・五センチメートル。

 

 以下、挙げられたクラゲ類の同定比定を試みる。但し、それぞれの本草学者によって、名指しているクラゲが大いに異なる部分があることが、既にここまで一緒に見てきた読者の方にはお判り戴けているものと思う。されば、この同定は物によっては甚だ困難であることを最初に断っておかねばならないのである。

 

 まず、順に頭の総論部から見る。この「クラゲ 水母 海月」は、まず、刺胞動物門 Cnidaria ヒドロ虫綱 Hydrozoa

花水母(ハナクラゲ・無鞘)目 Anthomedusae

軟水母(ヤワクラゲ・有鞘)目 Leptomedusae

硬水母(カタクラゲ)目 Trachymedusae

剛水母(コワクラゲ)目 Narcomedusae

レングクラゲ目 Laingiomedusae

淡水水母目 Limnomedusae

アクチヌラ目 Actinulidae

管水母目 Siphonophorae

に属する種群と(淡水水母目には海産もいる。後で出す。嘗てはよく知られたギンカクラゲ科ギンカクラゲ属ギンカクラゲ Porpita porpita や、ギンカクラゲ科カツオノカンムリ属カツオノカンムリ Velella velella が含まれていた盤クラゲ目 Chondrophora があったが、ギンカクラゲ科 Porpitidae は現在は花水母目に編入されている)、

箱虫綱 Cubozoa の、

アンドンクラゲ目 Carybdeida

(個人的には、奄美諸島以南に棲息する強毒性のネッタイアンドンクラゲ科ハブクラゲ属ハブクラゲ Chironex yamaguchii を含む種群を、ネッタイアンドンクラゲ目 Chirodropida として目の中に立項する説があるのでそれも加えたいが、時代が江戸末期であるから棲息域から考えて畔田の知見の範疇外で無理がある)及び、

十文字クラゲ綱 Staurozoa

(但し、十文字クラゲ綱の種群はクラゲ型形態を成しながら、傘の頂部から生えた柄の先端で海藻や岩などに付着して生活する底在性クラゲであるため、畔田が仮に現認していたとしても、「クラゲ」としては認識しなかった可能性が極めて高い。なお、十文字クラゲ類は嘗ては鉢虫綱に含まれていたが、現在は綱として独立している)と、

鉢虫綱 Scyphozoa の、

冠(かんむり)クラゲ目 Coronatae

旗口(はたぐち)クラゲ(水クラゲ)目 Semaeostomeae

根口(ねくち)クラゲ(備前クラゲ)目 Rhizostomeae

(これ以外に羽(はね)クラゲ目 Pteromedusae を立項する説もあるようだが、私自身が個体自体をよく知らないことと、データシステム「BISMaL」(Biological Information System for Marine Life)のツリーで、プラヌラクラゲ科 Tetraplatiidae は剛クラゲ目に分類されていることから、挙げない)に含まれるものを指していると考えてよかろう。但し、クラゲによく似ているが、縁の遠い、刺胞を持たない有櫛(ゆうしつ)動物のクシクラゲ類(但し、フウセンクラゲ目フウセンクラゲモドキ科フウセンクラゲモドキ属フウセンクラゲモドキ Haeckelia rubra を除く。フウセンクラゲモドキは真正のクラゲ類を摂餌し、その刺胞をミノウミウシのように発射させずに、そのまま体内に蓄えて利用するという「盜刺胞」を行うからである)有櫛動物門 Ctenophora の、

無触手綱 Nuda ウリクラゲ目Beroida

及び、有触手綱 Tentaculata の、

フウセンクラゲ目 Cydippida

カブトクラゲ目 Lobata

ミナミカブトクラゲ目 Ganeshida

オビクラゲ目 Cestida

クシヒラムシ目 Platyctenida

カメンクラゲ目 Thalassocalycida

と、同様に、形態上、やはりクラゲと間違える可能性の高い、クラゲとは全く無縁の脊索動物門 Chordata 尾索動物亜門 Urochordata タリア綱 Thaliacea の中の、

ウミタル目 Doliolida

サルパ目 Salpida

も挙げておかねばならぬ。畔田の掲げるものは概ね「刺す」とあるのだが、叙述の中には私には、その形状がウミタル目ウミタル科 Doliolidae の種の中・大型個体や、サルパ目サルパ科 Salpidae の一メートルを超えるような連鎖群体に似ているものがあるように思われるからである。私でさえ、青森の仏ヶ浦で恐らくはトリトンウミタル Dolioletta tritonis ではないかと思われる大型のウミタルを多数、タイド・プール内に見たことがあり、沖に出る漁師ならば、サルパの連鎖個体やウミタルを見たことがあるに違いないと思われるからである。最後に言っておくと、そもそもがクラゲの和名は時代や地方によって著しい違いがあり、同じ名前でも異種を指したりすることが、現在でもままあって、同定は至難の技である。荒俣宏氏も「世界第博物図鑑」の別巻2の「水生無脊椎動物」(一九九四年平凡社刊)の「クラゲ」の項で(ピリオド・コンマを句読点に代えさせて貰った)、

   《引用開始》

 ところで、クラゲ個々の和名は種の同定が難しい。たとえば神奈川県の三崎の漁師は、東京湾の漁師と同じように、有櫛動物門に属するクシクラゲのことをミズクラゲとよぶ。ただしクシクラゲのなかまのウリクラゲ属は、とくにタルクラゲという。また学者がミズクラゲ Aurelia aurita と称する種は、モチクラゲとよぶそうだ(《動物学雑詰》第356号〈犬正7年6月〉)。

 佐賀県東松浦郡の呼子地方の漁民は、タコクラゲ Mastigias papua のことをイラとよんで、ひじょうに恐れる。一説にこの名の起こりは、タコクラゲに剌されるととても痛くて、いらいらするからだという(服部捨太郎〈佐賀県ニ於ケル食用くらげ〉《動物学雑誌》第59号〈明治26年9月〉)。なおこのイラという名は、地方によってはカツオノエボシを指す。

 北海道屈斜路地方の住民は、クラゲのことを〈クジラの鼻水[やぶちゃん注:ここに二行書きで『フンペ・エトロ』とアイヌ語を記す。]〉とよび、これが目の中にはいると失明すると信じていた(更科源蔵・更科光《コタン生物記》)。

   《引用終了》

とある。ただ――ちょっと口幅ったいのだが――この佐賀呼子地方の「タコクラゲ」というのは、本当に同種タコクラゲ Mastigias papua を指しているのだろうか? 私は幼少の頃からタコクラゲの刺胞毒は弱いと信じてきた(実際に触れたことはない)し、私の所持する専門家の書いた複数の本を見ても、刺胞毒はミズクラゲと同程度に弱いレベルとし、大抵の人は痛みを感じないと書かれてある(無論、ミズクラゲを含めて個人差があり、実際に中学時代、友人がミズクラゲをある知人の背中に悪戯でむちゃくちゃに押しつけたところ、真っ赤になって腫れあがった、と証言しており、ウィキの「ミズクラゲ」にも、『刺胞を持つが、刺されてもほとんど痛みを感じることはない。ただし、遊泳中に皮膚の角質の薄い顔面にふれたときに、人によっては多少の痛みを感じる。最近の研究によれば、ザリガニに対する毒性試験で』本邦最悪の『猛毒のハブクラゲ』(過去に確認されただけで三件のハブクラゲに刺されて亡くなったとする例がある。アナフラキシー・ショックもさることながら、刺毒によるのではなく、意識喪失で溺死したケースを数えていない可能性もあろうか)の四分の一『程度の毒を持っているとされ、分子量』四万三千の『酸性タンパク質が毒性物質の主成分と考えられ』ているとある)。しかし、呼子地方の漁師が全体に「タコクラゲ」を恐れるというのは、ちょっと解せないのである。或いは、別な強毒を持つクラゲをこう呼んでいるのではなかろうか? タコは足のシミュラクラ(真正のタコクラゲという和名はそれ)ではなくて、触手や刺胞がビタッ! と体に蛸の吸盤のように張り付くように感じられるの謂いはなかろうか? それと、この異名の「イラ」も気になる。私はこの名からは一番に鉢虫綱冠クラゲ目エフィラクラゲ科イラモ Stephanoscyphus racemosum を想起するからである。但し、彼らはクラゲとは認識されていない。「公益財団法人 黒潮生物研究所」のこちらを見られたいが、底在性で岩などにあたかもブロッコリーのような形で群体を成す。群体の直径は十センチメートルほどだが、二十 センチメートルを『超えることもある』。『各ポリプはキチン質の棲管に包まれている。ひとたび触れると』、『チクチクとした痛みとともに水膨れになり、火傷のような痕が残ることもある。浅場の岩礁上で見つかることが多いが、磯だまりにいることもあり、うっかり触らないよう注意が必要である』とあるそれだ。このポリプは荒波などによって引き剥がれて漂い、知らないうちに吸着されて、刺されこともままあるようである。また、私はそれとは別に、「イラ」という語から連想する別種がいる。ヒドロ虫綱クダクラゲ目嚢泳亜目ボウズニラ科ボウズニラ属ボウズニラ Rhizophysa eysenhardtii である。ウィキの「ボウズニラ」によれば、『カツオノエボシなどと同様の、群体性の浮遊性ヒドロ虫で』、『暖海性で春に見られる』。『一般にはクラゲとされるが』、『その体は複数のポリプから構成され、クラゲの傘にあたる位置の気泡体から幹群をもった細長い幹が出、触手、対になった栄養体とその間から生えた生殖体叢からなる』『気胞体は高さ』十~十七ミリメートル、幅五~九ミリメートル、伸縮性に富む幹は三センチメートルから数メートル『まで伸縮する。種名の「ボウズ」は坊主頭に似た気泡体に、「ニラ」は魚や植物の棘を意味する「イラ」の訛に由来する』。『毒性はとても強く、漁師などが網を引き揚げるとき、本種などの被害を受けている』とある。私は現認したことはないものの、高校時代、非常に尊敬していたフィールド・ワーク好きの生物の教師が、「ボウズニラだけはおとろしい!」と真剣な目つきで仰っていたのを思い出す。学名画像検索はこれで、学名で動画検索すると、複数、見つかる。妖精染みた奇体な魔性の物である。ご覧あれ。こうして書いているうちに、私は呼子の漁師が恐れているのは、ボウズニラではなかろうかという気がしてきている。

『其の最も厚き者は「海月の頭〔かしら〕」と爲す』これは、まず、大型になるクラゲの筆頭である

鉢虫綱根口クラゲ目ビゼンクラゲ科エチゼンクラゲ属エチゼンクラゲ Nemopilema nomurai

を筆頭に挙げねばなるまい。本邦では主に東シナ海から日本海にかけて分布し、実に最大個体では傘の直が二メートル、湿重量は百五十キログラにも達する。古くは瀬戸内海に有意に入り込んでいたものか備前国(岡山県)を産地としたことに和名は由来する(但し、私は実はそれは以下のビゼンクラゲを指していたのではないかと秘かに思っている)。次いで、その近縁種である、

ビゼンクラゲ科ビゼンクラゲ属ビゼンクラゲ Rhopilema esculenta

も候補とはなる。こちらは本邦では主に有明海と瀬戸内海に棲息し、和名は古くは吉備の穴海(現在の岡山県岡山市の児島湾に相当する内海)が名産地であったことから「備前水母」と呼ばれる。両種は関東では見ず、西日本で最も多く見られる、という叙述とも完全に一致し、その形状はまさに巨大な大脳のようで、文字通り、「水母の頭」に相応しい。なお、近年、有明海産のビゼンクラゲは他の海域のものと別種の可能性が浮上してきており、現在、研究が進められていることを言い添えておく。

『「大和本草」に曰はく、『水母。泥海にあり。故に備前・筑後等より出づ。毒、無し。生なるを取り、くぬぎの葉を、多く、きざみ、くらげの内に包み、䀋を用ひず、木の葉をまじゑ、桶に入れ、ふたをおほひ、水を入れ、時々、水を、かゆる。久しくありて、敗〔くさ〕らず。水、なければ、やくる。「やくる」とは、枯れて食ふべからずなることなり』』と益軒が記すクラゲは、「備前・筑後」産とすることから、先に挙げたビゼンクラゲ・エチゼンクラゲと読めるのだが、益軒は食用クラゲ加工をする対象物として記しており、両者ともに古くから中華用食材とされてきたものの、本邦では後者エチゼンクラゲの食用加工の歴史がないので、益軒の在留地福岡藩からも、これは前者ビゼンクラゲのみを指すと考えるべきところである。

『「本草啓蒙」に曰はく、『松前には、大いさ三寸許りにして、紫色なる者あり』』紫色のクラゲは南方に棲息する種に有意にいるが、松前となると、ちょっと首を傾げる。北方クラゲは概ね白か透明なものが多いからである。古典で言う「紫」は青に傾いたものであった可能性が高く、この「紫」も青紫系統に広げて問題はあるまい。さて、叙述が痩せていて困るが、ここではその水母の大きさを九センチメートルほどとしている点に着目する。わざわざかくも小さなクラゲを記載するのは、それが、特異な形状或いは注意すべきクラゲだからではないか? と措定すれば、これは強毒性の、

ヒドロ虫綱クダクラゲ目嚢泳亜目カツオノエボシ科カツオノエボシ属カツオノエボシ Physalia physalis の気泡体(浮袋)

が直ちに想起出来る。彼らは触手体まで入れると、恐るべき長さ(触手体の平均の長さは十メートルで、長いものでは約五十メートルにも達するものもあるという。一般には気泡体を見つけたら、周囲に二十メートルは危険という漁師の話を聴いたことがある)であるが、気泡体の打ち上げられたものは、圧倒的に青いごく小さな風船のように見え、諸図鑑でも概ね青色や藍色とするが、洋上を漂っている生時の大型個体の中には、実はかなり毒々しい青紫や赤紫の烏帽子の辺縁を持つ個体が有意にいるのである。同種は本邦では本州の太平洋湾岸でよく見られるから、海流に乗って、関門海峡を抜けて松前沖に出現してもおかしくはない。なお、打ち上がって死んで乾いた(彼らは機能が完全に分化した群体であるから何を以って死というかは難しい)ものでも、刺胞機能や毒性は物理的に有効であって、極めて危険である。三十数年前、鎌倉への遠足で由比ヶ浜で生徒を待っていたところ、遠くで別の学校の生徒が倒れており、救急車で運ばれるのを見た。翌日の新聞で、強風で吹き寄せられた小さなカツオノエボシを不用意に触れた結果であったことを知った。また、その後、沖縄修学旅行の際、イノー(沖縄方言で珊瑚礁に囲まれた浅い海「礁池(しょうち)」を指す)観察の指導中に、生徒が「先生、これ何?」と枝で掬った青いそ奴を目の前に突き出された時には、流石の渡しも胆が冷えたのを思い出す。無論、それがカツオノエボシであり、その毒が如何に強烈かを先の由比ヶ浜の例を述べて懇切丁寧に教えたことは言うまでもない。その生徒はまさに「青」くなって、そ奴を海の方へ放り出した。

「一種、白色にして、内に紅紫、或いは藍紫色の大瓣の櫻の花形をなす者あり」この畔田の謂いに最も当てはまりそうなものは、一つ、

鉢虫綱旗口クラゲ目ユウレイクラゲ科キタユウレイクラゲ Cyanea capillata

であろうか。傘の下方内部や触手が有意に赤みを帯び(全体は白い)、傘の辺縁が十六の縁弁に別れて花びらのように見え、下方から傘の下を見ると、触手の基部が白い花模様にも確かに見える。北方種で本邦では北海道周辺で見られ、大きくても傘の直径は三十センチメートルほどであるが、バルチック海にいるそれは、傘径二・五メートルにもなる巨大個体がいると、参考にしている書籍の一つ、並河洋・楚山勇著「クラゲガイドブック」(二〇〇〇年TBSブリタニカ刊)に書かれていた。

「凝〔こ〕れる血のごとし。縱の廣さ數尺」「閩中海錯疏」のこの部分は、恐らく、

鉢虫綱旗口クラゲ目オキクラゲ科ヤナギクラゲ属アカクラゲ Chrysaora pacifica

を指していると当初は読んだ(同種は後の叙述にも頻繁に出ると思っている)。毒性の強い種として知られる。ウィキの「アカクラゲ」によれば、『放射状の褐色の縞模様が』十六『本走った直径』九~十五センチメートル『ほどの傘と、各』八『分画から』五~七『本ずつ、合計で』四十から五十六本の触手が伸び、その長さは二メートル以上に及ぶ。『北方性の近縁種』キタノアカクラゲ『Chrysaora melanaster も傘に同様の縞模様があるが、こちらは触手が』二十四『本しか無いことから区別できる』。『触手の刺胞毒は強く、刺されるとかなり強い痛みを感じる』。『このクラゲが乾燥すると毒をもった刺糸が舞い上がり、これが人の鼻に入ると』、『くしゃみを引き起こすため、「ハクションクラゲ」という別名を持つ』。『これに目をつけた戦国武将真田信繁(幸村)が、粉にしたアカクラゲを敵に投げつけ、くしゃみを連発させて困らせたという逸話があり、「サナダクラゲ」と呼ばれることもある』とある。しかし、以下を見ると、「紅き者」以下、「凝れる血のごとく、大なる者、床〔とこ〕のごとく、次〔つ〕ぐは覆へる笠のごとく、斗〔ひしやく〕のごとし」と続いており、以下に示す通り、先に掲げた、

ビゼンクラゲ Rhopilema esculenta

の可能性の方に分(ぶ)がありそうである。

『其の紅き者は「海蜇」と名づけ』これは同前のアカクラゲではなく、先に示した、ビゼンクラゲ Rhopilema esculenta

を指す。同種は本体は薄い灰色であるが、垂れ下がる大きく肥厚した口腕部が紅い。九州北部の有明海沿岸では今も昔も「あかくらげ」(赤水母)と呼称している。中文の「維基文庫」の「海蜇」を見られたい。なお、そこでは学名を Rhopilema esculentum としているが、これはビゼンクラゲのシノニム(synonym)である。

「白皮子」現代中国語では広くクラゲを指す語のようである。

「水母仙」これも以下の叙述から、ビゼンクラゲを最大とする広義のクラゲの意のようである。但し、似た中文名に「仙后水母」があり、これは、

鉢虫綱根口クラゲ目サカサクラゲ科サカサクラゲ属サカサクラゲ Cassiopea ornata

であることがこの中文サイトで判明した(画像有り)。「水族志」本文では私の好きなサカサクラゲちゃんが出ないので、取り敢えず、幸い!

「白色の松簟〔まつたけ〕の半開せる形のごとく、下に白色の大小の絲を引く」これも種同定は出来ない。それではないという排除比定なら出来るが、流石にそれは私自身も徒労と考えるので、やりたくない。悪しからず。

「〇セイクラゲ 水母線」「𩶱魚」「海曲」「蛇公」「蝦鮓〔かさ〕」これは、「其れ、其の肉を割〔さ〕きて、蛇頭と曰ふ。其の裙〔ひれ〕は蛇皮と曰ふ」とか、「皮を切り、縷〔いと〕に作る」とあるからには、明らかに中華食材の「クラゲ」の加工法を記しているととれる。されば、やはり、

エチゼンクラゲ Nemopilema nomurai

或いは、

ビゼンクラゲ Rhopilema esculenta

を指していると考えてよい。先に示した荒俣氏の「クラゲ」には、『博物学者の上野益三は』、『中国で一般にクラゲといったばあい』、『ビゼンクラゲ Rhopilema esculenta も混ざってはいるが』、『その主体はエチゼンクラゲ Nemopilema nomurai だとしている』とあるので、先に言ったように、本邦では食用加工の歴史がないエチゼンクラゲの幼体から成体までの謂いでとって差別化することにする。因みに「水母線」というのは、長い触手ではなく、細く千切りして食すクラゲの謂いのような気がしてきた。だから、畔田は食品として「〇」を頭に打ったのではないか? さすれば、「セイクラゲ」は「製水母」か? いやいやむくむくもっこりと成長するから「勢水母」(「勢」は男根の意)か? 判らぬ。調査は続行する。実は、つい最近、箱虫綱アンドンクラゲ目アンドンクラゲ科アンドンクラゲ属アンドンクラゲ Carybdea brevipedalia と考えられてきた立方クラゲ類の一種が別種として認定され、箱虫綱ネッタイアンドンクラゲ目ヒサシリッポウクラゲ科リュウセイクラゲ属リュウセイクラゲ Meteorona kishinouyei Toshino, Miyake & Shibata,2015 と別種になっている。鈴木雅大氏のサイト「生きもの好きの語る自然誌」のこちらで写真が見られる。しかし、この和名は「流星海月」「流星水母」とあるので、関連は低そうだ。「星水母」はありそうだが、その場合、「ホシクラゲ」と読みそうだ。勿論、小学館「日本国語大辞典」にも出ない。

「㋑唐久良介(トウクラゲ)」「朝鮮(テウセン)クラゲ」「華より肥の長崎に傳へて來たる。本朝にも亦、之れを製す」とあるから、先の荒俣氏に引用した上野氏に言に従うなら、送られてきた中国(清)製の加工された「中華くらげ」の原料は、ビゼンクラゲ Rhopilema esculenta で、日本で製した日本製の食用加品工「くらげ」の原料は、エチゼンクラゲ Nemopilema nomurai ということになる。先に示した「日本山海名產圖會」の、巻之五の「備前水母」の記載からもそれが証明される。しかし、何だ! 畔田を褒めて損した。これも厳密に考えれば、種の名ではなくて、加工した「中華くらげ」じゃんか! 糞!

「㋺ミヅクラゲ 一名、ハゲクラゲ」「ブツウクラゲ」「ドウクハンクラゲ」「白皮子」「水海月」これは、最後の『「本草啓蒙」に曰はく、『「ミヅクラゲ」。四つの黑㸃あり。即ち、足なり』と。按ずるに、白色の「クラゲ」なり。四つに黑㸃あるもの、又、一品なり』が決定打。流石は蘭山だ。

鉢虫綱旗口クラゲ目ミズクラゲ科ミズクラゲ属ミズクラゲ タイプ種 Aurelia aurita

で決まりだ。しかし、あれは足じゃない。生殖腺だ。そこから別名「ヨツメクラゲ」とも呼ばれるのである。

「必ず、毒り。又、毒、無き者、有れども、味はひ、好からず」いやぁ、ミズクラゲを食ったという報告は知らないなぁ。どこかの水産学者が加工したりしても何ら人間の役にたつものに変えることは出来ないと言っていたが、ヒドロ虫綱軟クラゲ目オワンクラゲ科オワンクラゲ属オワンクラゲ Aequorea coerulescens の発光機序の応用や、クラゲやイソギンチャクの猛毒が病原菌や癌細胞といった異物の攻撃に利用されていることを考えれば、何かの役には立つだろう。でなくても、前に述べた通り、多くの海産生物の重要な食物であるわけで、生きていても害こそ起こしこそすれ、何の値打ちもない私を含めた多くの人類に比べれば、生態系の重要な盤石とも言えるのである。

「㋩フグ」『「ミヅクラゲ」に同じくして、中に鍼〔はり〕を藏〔かく〕す。若し、螫〔さ〕さるれば、甚だ、人を害す』とあることから、ミズクラゲのように透明であること、その刺胞毒が強烈であること、の二点からは、

箱虫綱アンドンクラゲ目アンドンクラゲ科アンドンクラゲ属アンドンクラゲ Carybdea brevipedalia

と踏んだ。ウィキの「アンドンクラゲ」によれば(下線太字は私が附した)、『本種はカツオノエボシと共に電気クラゲと呼ばれて嫌われている種である。人が刺されると』、『激痛を感じ、患部はミミズ腫れのようになる。殆どの場合において大事には至らないが、その痛みの強さから、一度でも刺されると印象に残りやすい。体が透明で海水に透けて非常に見えにくいため、気づいた時には刺されているというケースも多く、海水浴やダイビングでの要注意動物とされている。本種が群れを成して押し寄せた場合、海水浴場が閉鎖される事もある』。『お盆以降の海水浴を避けた方が良いと言われる理由の一つとして、本種の存在が挙げられる』。『九州地方では本種を「イラ」と呼ぶことがある。これは人を刺して痛い思いをさせる本種を植物の棘になぞらえた呼び名である』。『また、神奈川県の地域では「イセラ」と呼ばれることもある』とある。「殺人クラゲ」として悪名高い、インド洋南部からオーストラリア近海に棲息するとされる、箱虫綱ネッタイアンドンクラゲ目ネッタイアンドンクラゲ科ハブクラゲ属キロネックス・フレッケリ(オーストラリアウンバチクラゲ) Chironex fleckeri は近縁種である(どうもこの和名は気に入らない。「海蜂(うんばち)」は花虫綱六放サンゴ亜綱イソギンチャク目カザリイソギンチャク科ウンバチイソギンチャク Phyllodiscus semoni の方が元祖でしょうが!)。因みに、幼い頃に愛読していた図鑑には、「電気クラゲ」はアンドンクラゲで、カツオノエボシは「電気クラゲ」ではない、という訳知り顔の記載があったが、六十三の今になっても、あれを書いた奴を私は告発したいと思っている。ビリビリきて蚯蚓腫れを起こす奴は、みんな、「電気クラゲ」だっつうの!

イラ」『若し、誤りて此の物に觸るれば、蕁麻(イラクサ)に螫〔ささ〕れたるがごとし。薩州にて「イラ」と云ふ』とあるのは、前注から同じアンドンクラゲ Carybdea brevipedalia としてよいと思うのだが、一点、「紅くして、血道〔けつだう〕のごときものあり」という部分は、鉢虫綱旗口クラゲ目オキクラゲ科ヤナギクラゲ属アカクラゲ Chrysaora pacifica ぽい印象があり(アンドンクラゲに赤い血管のような筋はない)、また、「備前兒島」というところからは、主に瀬戸内海で、秋から冬にかけて見られる夜行性の大型(成体の傘高は十五~二十三センチメートルにもなる)傘の箱形クラゲの一種である箱虫綱アンドンクラゲ目イルカンジクラゲ科ヒクラゲ属ヒクラゲ Morbakka virulent をイメージしてしまう。これは『栗本丹洲自筆「蛸水月烏賊類図巻」 ヒクラゲ』の図に引かれているためであるが、事実、ヒクラゲは傘の下方の四隅から一本ずつ淡い桃色をした四本の長い触手(最長一メートルを超える)を伸ばすからである。しかし、生態写真を見ても、この触手のピンクははっきりとはせず、およそ血管のようには見えない。

「按ずるに、水母類は、凡て、人の肌に觸るれば、螫〔さ〕し疼〔いた〕むものなり」畔田先生、正しいです。強弱に違いはあれど、クラゲは総て刺胞を持ちます。過敏な人は無害とされるクラゲでも刺されて痛むのです。前に記した通り、クラゲではないクシクラゲ類(フウセンクラゲモドキ Haeckelia rubra を除く)とウミタル類とタリア類は、無論、刺しません。

絲(イト)クラゲ」「サウメンクラゲ」「洋中にあり、長き糸を引きたるごとし。白色、透明、素麪〔さうめん〕のごとし。又、人の肌に触るれば、螫す」困った。「イトクラゲ」「ソウメンクラゲ」という和名のクラゲはいないし、幾つかの記載で「イトクラゲ」は見かけたが、それぞれが、アカクラゲだったり(「白色」でアウト)、イラモだったり(「素麪」でアウト)して埒が明かない。この条件、特に「白色」としている点と、長い触手があってそれが強い刺胞毒を持つという点からは、私は先に語った、

ヒドロ虫綱クダクラゲ目嚢泳亜目ボウズニラ科ボウズニラ属ボウズニラ Rhizophysa eysenhardtii

がしっくりくると考えている。強毒性となると、鉢虫綱旗口クラゲ目オキクラゲ科アマクサクラゲ属アマクサクラゲ Sanderia malayensis を挙げたくなったのだが(触手の素麺っぽいのはぴったり)、全体に淡紅色を帯びているから合わない。

「㋬ジユズクラゲ 長く糸を引きて、念珠のごとき者、相ひ連なれり。白色、透明なり。一種、一根〔いつこん〕より數条を分かち、房〔ふさ〕をなし、條〔じやう〕每〔ごと〕に圓〔まる〕き榧子〔かやのみ〕のごときもの、連なれる、あり。白色、透明なり」これはヒドロ虫綱花水母目有頭亜目タマウミヒドラ科ジュズクラゲ属ジュズクラゲ Stauridiosarsia ophiogaster。先の「クラゲガイドブック」の『ジュズクラゲの仲間』という写真のキャプションに、『ジュズクラゲの仲間の特徴は、成長するに従って口柄が傘の外まで伸び、口柄を取り巻く生殖腺が数珠(じゅず)状に連なっていること』で、『成長したクラゲは数㎜程度。夏に三浦半島の三崎周辺で見られる』とある。しかし、この記載通りだとすると、ちょっと現認しにくいけど、畔田はちゃんと見えたのかなぁ? 私はこれも前のボウズニラである可能性を否定できないでいるのである。

ハナヒキクラゲ」「表に紫褐色、或いは醬褐色〔しやうかつしよく〕の荷葉〔はすのは〕の脉文〔みやくもん〕あり」これは、

ヒドロ虫綱淡水水母目ハナガサクラゲ科ハナガサクラゲ属ハナガサクラゲ Olindias formosa

でよかろう。和名は明治から大正にかけての三崎の採取名人であった漁師の「熊さん」こと青木熊吉氏の命名。「花笠水母」で、種小名の「美しい」なんぞより遙かに本種の姿を髣髴させて呉れる和名である。但し、刺胞毒は強い。

キンチヤククラゲ 形狀、荷包〔きんちやく〕に似て、長し。白色にして扁〔へん〕なり。半ばに、四、五分〔ぶ〕許りの穴あり。其の傍らより、長さ一尺許りの紐〔ひも〕、出でて、紙を一分餘りに斷ちて着〔つ〕くるがごとし」「荷包〔きんちやく〕」の読みは財布の意味の「巾着」。財布にするような袋のこと。さてもこれは、クラゲではない、有櫛動物門有触手綱オビクラゲ目オビクラゲ科オビクラゲ属オビクラゲ Cestum veneris ではないかと思われる。詳しくはウィキの「オビクラゲ」によれば、『極端に扁平で細長い帯状をしている』。『これは一般のクシクラゲ類の球形に近い形から咽頭軸の方向に左右に強く引き延ばされた形である。この横方向の長さは大きいものでは』一~一・五メートルにも『達するものがある』が、普通は』八十センチメートル以下で、幅は約八センチメートルであるが、『この方向が体の縦軸方向で』、『全体に透明だが』、『黄色や紫の斑紋がその両端に出る個体があり、また同じような色が水管や触手に出る例もある』。『沿咽頭面の櫛板列は伸びている部分の両側に』二『列ずつ、上面の全域にわたって広がる。沿触手面の櫛板列は体の頂端にある感覚器の近くにあるものの、ごく短く』、『痕跡的になっている。左右の伸びた部分の中央を水管が端まで延びるが、これは体の中心部を縦に走る間輻管から分かれ、一度口側に伸びた後に』、『この高さに曲がり、そこから伸び出している。この管は端で咽頭面櫛板列の下を走る子午管と繋がり、生殖腺はこの子午管に沿って櫛板列の下の全域に連続的に発達する。身体の下側は溝があり、その全域にわたって多数の二次触手が出る。その体はこの類としては硬く、また筋肉がよく発達している』。『世界中の熱帯から亜熱帯域の海から知られ』、『表層域に見られることが多いが、小笠原沖では深さ』三百メートルで『観察された例もある。日本では東北地方以南で見られる』。『カイアシ類やその他の小型甲殻類を捕食する。捕食の際には口方向に水平に移動する。また』、『逃げる時には蛇のように全身を波打たせ、横方向に素早く動くことが出来る』。また、『子午管が発光する』ことが知られている。『発生の面では初期にはフウセンクラゲ』(有櫛動物門有触手綱フウセンクラゲ目テマリクラゲ科フウセンクラゲHormiphora palmate)『型、つまり楕円形で縦に』八『列の櫛板を持ち』、一『対の櫛状の分枝を持つ触手』を有する。『その後に』、『左右に伸びるように成長して成体の姿になる』。『本種の属するオビクラゲ属にはこのほかに幾つかの種が記載され、日本産のものは C. amphitrites とされたこともある。例えば岡田他』の(昭和四四(一九六九)年)では、『この学名の元で C. veneris を大西洋産として説明し、その上で別種と扱うことに疑問がある旨を記している。峰水他』(平成二五(二〇一五)年)では、表記の『学名をとっており、現在では本属は単形であるとの判断のようである』。『近縁のものには形態的に似ている』ものの、『小型のコオビクラゲ Velamen paralllelum があり、これは』二十センチメートル『ほどと遙かに小さい。その他に』も『沿触手面の櫛板列を完全に欠くこと、水管の配置に違いがあることなどから別属とされている。この』二『種でオビクラゲ科を構成し、往々にオビクラゲ目を単独に』立てる。『その形と泳ぐ姿のエレガントな美しさから『ヴィーナスの飾り帯』との呼称があ』り、また、『その奇妙な姿から、時に海の怪物目撃談と結びつけられる。例えば』、一九六三年『には』、『ニューヨーク近郊で巨大なウミヘビのような怪物の目撃があり、これが本種の巨大に成長した個体だったとの説が唱えられたことがあるという』とある。

「㋷西瓜(スイクワ)クラゲ 夏月に多し。西瓜の大いさにして、白色、淡藍色を帶ぶ」最後にまたしても難儀な記載である。当初はこの名から、やはり、クラゲでない有櫛動物門無触手綱ウリクラゲ目ウリクラゲ科ウリクラゲ属ウリクラゲ Beroe cucumis を考えたが、本種は透明で、六センチメートル内外で、凡そ西瓜に喩え得るものではない気がする。発光するヒドロ虫綱軟クラゲ目オワンクラゲ科オワンクラゲ属オワンクラゲ Aequorea coerulescens の発光は、暗い中では緑色に見えるから、これかとも思ったが、傘の形が西瓜とは全く似ていない。お手上げ。

 以上、私の同定比定が間違いであると思われる方は、是非、御教授戴きたい。]

2015/04/28

甲子夜話卷之一 34 常憲廟、酒井雅樂頭死去の時御恚、上使幷彼家取計の事 

34 常憲廟、酒井雅樂頭死去の時御恚、上使彼家取計の事

彦阪九兵衞〔寛政の比御先手頭、今西丸御留守居にて大膳亮と云〕訪來り談話のついで、彼が祖先のこと申出し中に、憲廟潛邸の御時、酒井雅樂頭に愾深くおはしましき。然るゆへにや、大統繼せ玉ひし後、雅樂頭病死しけるが、腹切りて死せりと風聞す。九兵衞が祖、此時大目付にて有りしを、御前に召れ、御目付北條新藏と同じく命ぜられ、急ぎ雅樂頭が宅に赴て、彼が死骸の樣躰見屆來れとの仰なり。兩人速に雅樂頭が宅に到る。此時藤堂大學頭は雅樂頭の聟なりしが來り居て、上使と承り出迎ひぬ。兩人件の趣を大學頭にいふ。大學頭答て、上意の趣は謹て承り奉りぬ。雅樂頭は先剋病死仕り候に相違無之候といふ。兩人又曰、病死のことは素より上聞に達しぬ。某等來る故は、只死骸を見分の爲なりといふに、大學頭承引せず。武士の一言固より相違有るべからず。假令死骸見玉ふとも、病死の外他義なし。此義は大學頭申候旨、罷歸り上聽に達せらるべし。もし上意に背玉ふとならば、大學頭一人代りて御勘氣を蒙るべし。各達の無念にあらずといゝきり、もし再いはゞさしちがふべき樣子なれば、二人立歸り其次第を言上す。其時、言甲斐なき事どもなり。如何樣に候とも、蹈込死骸を見屆罷來れと、御氣色はげしくの玉ふまゝ、二人また雅樂頭が宅へ馳せ行に、はや雅樂頭は葬送取行ひ、其棺、門へ出るに遇ひぬ。然るゆへに馳歸り、又其よしを言上すれば、憲廟御氣色殊に損じ玉ひ、然らば葬所へ參り死骸を掘出し、蹈碎きて罷歸るべしと命ぜらる。二人遂に雅樂頭が寺に行きて、上意の趣申述たるに、葬送に從へる臣等、謹て申は、雅樂頭遺言の旨により、既に火葬し畢るとなり。兩人すべきやうなく、都城に歸りかくと言上す。其まゝにて御沙汰もなかりしとなり。大學頭の上使に答申して、速に出葬せしも、臣等が火葬して其由を答しも、すべて此頃の人のありさまは、感歎にも餘りある事どもなり。

■やぶちゃんの呟き

「恚」「いかり」。

「彼家取計の事」「かのいへとりはからひのこと」。

「常憲廟」は第三代将軍家光の四男で第五代将軍の徳川綱吉のこと。諡号である常憲院に基づく。

「比」「ころ」。

「御先手頭」先手組(さきてぐみ)のこと。江戸幕府軍制の一つ。若年寄配下で、将軍家外出時や諸門の警備その他、江戸城下の治安維持全般を業務とした。ウィキの「先手組」によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、『先手とは先陣・先鋒という意味であり、戦闘時には徳川家の先鋒足軽隊を勤めた。徳川家創成期には弓・鉄砲足軽を編制した部隊として合戦に参加した』者を由来とし、『時代により組数に変動があり、一例として弓組約十組と筒組(鉄砲組)約二十組の計三十組で、各組には組頭一騎、与力が十騎、同心が三十から五十人程配置され』、『同じく江戸城下の治安を預かる町奉行が役方(文官)であり、その部下である町与力や町同心とは対照的に、御先手組は番方であり、その部下である組与力・組同心の取り締まり方は極めて荒っぽく、江戸の民衆から恐れられた』とある。

「西丸御留守居」老中支配で、大奥の取締や通行手形の管理、将軍不在時の江戸城保守を担当した、旗本で任じられる職としては最高位であった。

「訪來り」「たづねきたり」。

「潛邸」とは、本来は中国で国王が即位する前に暮らしていた私邸を指す。彼は延宝八(一六八〇)年五月満三十四歳の時に跡継ぎのいなかった第四代将軍家綱の養嗣子として江戸城二の丸に迎えられ、同月に家綱が四〇歳で死去するとともに八月に将軍宣下となったから、狭義にはこの三ヶ月の間となる。但し、実際には上野館林藩主であった時代も、ほとんどずっと江戸住まい(初期は竹橋、後に神田の御殿)であったし、「邸」という表現辺りからも、もっと前から神田御殿に住まっていた頃からの悪因縁があったものであろう。

「酒井雅樂頭」酒井忠清(寛永元(一六二四)年~天和元年五月十九日(一六八一年七月四日))。上野厩橋藩第四代藩主。第四代将軍徳川家綱の治世期の大老。三河以来の譜代名門酒井氏雅楽頭家嫡流で家康・秀忠・家光の三代に仕えた酒井忠世の孫。延宝八(一六八〇)年八月に綱吉が将軍となって三ヶ月ほど経った十二月九日には病気療養を命じられ、大老職を五十五歳で解任されている。翌天和元(一六八一)年二月二十七日に隠居、五月十九日に死去、遺体は龍海院(現在の群馬県前橋市)に葬られた。以上はウィキ酒井忠清に拠るが、その「人物」の項には『忠清は鎌倉時代に執権であった北条氏に模され、大老就任後は「左様せい様」と称される将軍・家綱のもとで権勢を振るった専制的人物と評される傾向にある。また、伊達騒動を扱った文芸作品など創作においては、作中では伊達宗勝と結託した極悪人として描かれてきた。酒井家は』寛永一三(一六三六)年に『江戸城大手門下馬札付近の牧野忠成の屋敷が与えられ、上屋敷となっていた。下馬札とは、内側へは徒歩で渡り下馬の礼を取らなければならない幕府の権威を意識させる場所であり、大老時代の忠清の権勢と重ね合わせ、没後の綱吉期には下馬将軍と俗称されたことが、『老子語録』、『見聞随筆』などの史料に伺える。また戸田茂睡の執筆した『御当代記』にも、忠清が下馬将軍と呼ばれていたという記述がある』。『また、家綱の危篤にあたって、鎌倉時代の例に倣って徳川家・越前松平家とは縁続きである有栖川宮幸仁親王を宮将軍として擁立しようとしたとされ、これは徳川光圀、堀田正俊などの反対にあい、実現しなかったという。これは、家綱の弟の綱吉の資質に疑問を持ったためとも、あるいは家綱の側室が懐妊中で、出産までの時間稼ぎをしようとしたためともいわれる。宮将軍擁立説は『徳川実紀』をはじめとした史料に見られ通説として扱われてきたが、近年では歴史家・辻達也の再評価があり、失脚後の風説から流布したものであるとする指摘もある』。『綱吉が将軍に就任すると大老を解任され、越後騒動の再審が進められる中、忠清は解任からわずか1年後に突如没したため、綱吉は自殺ではないかと疑問を抱き、「墓を掘り起こせ」と命じるまでに執拗に何度も検死を求めたというが、酒井家や縁戚関係のある藤堂高久らは言い訳を使いながらこれをかたくなに拒否した。そのため忠清の死は尋常でなかったとする憶測を呼んでいる。ただし、遺体は前橋で荼毘に付されているため、後世の創作ともされる』。但し、享保六(一七二一)年に『成立した『葛藤別紙』には忠清の逸話が収録され』ているが、そこには慶安四(一六五一)年、『忠清は上洛し、板倉重宗の家来に案内されて東山を見回った。すると、物乞いを救うための小屋が大勢建設されていた。これは物乞いを救うための小屋だと聞かされた忠清は「まことの仁政とは、物乞いを救うための小屋を建てることではない、物乞いがそもそも存在しないような世を作ることではないか」と語ったという。この話は信憑性が怪しいが、酒井忠清に対する評価が必ず否定的なものばかりではなかった証ともとれる』ともある。因みに酒井家上屋敷は現在の千代田区丸の内にあった。

「愾」「いかり」。

「大統」将軍職。

「繼せ」「つがせ」。

「大目付」老中支配で一切の幕政を監察し、大名・寄合・高家の監視も行なった。任命されたのは旗本であったが大名統制も行うため、その待遇は大名並みで旗本が任じられる職では留守居・大番頭に次ぐ重職であった。

「御目付」若年寄支配で旗本・御家人の監察を担当した。

「樣躰」「やうたい」。

「藤堂大學頭」伊勢津藩の第三代藩主藤堂高久(寛永一五(一六三八)年~元禄元(一七〇三)年)。ウィキ藤堂高久によれば、『大老・酒井忠清の娘を正室としていたため』、『忠清が急死した際には、その死因を疑った徳川綱吉の派遣した目付に遺族代表として折衝し、後にその遺児の女子を養女にした。当時は大名家の取りつぶしが多く、忠清の娘、亀姫との結婚にも見られるように保身のため幕閣に接近、綱吉の学問講義や柳沢吉保邸下向に陪席するなどした。特に吉保への接近ぶりは池田綱政、細川綱利、松平頼常などとともに「柳沢家の玄関番」とあだ名されるほどのこびへつらいようであったという。そのため吉保に足元を見られたのか、後に津藩は吉保の次男を養子に押しつけられそうになる(家臣が切腹して抗議したため、回避されることとなった)』とあるが、しかし、『新田開発水利事業を行なった』ことから『領民の評判は良く』、また一書には『「当代の名将であり、良将と言ってもまだ足りない。他将の鑑と言っていい」とされている』とある。

「假令」「たとひ」。

「上聽」「じやうちやう」。

「背」「そむき」。

「各達」「おのおのたち」。

「蹈込」「ふんごみ」。

「蹈碎きて」「ふみくだきて」

「畢る」「をはる」。

譚海 卷之一 紀州蜜柑幷熊野浦の事


 紀州蜜柑幷熊野浦の事

○紀州蜜柑の籠に詰(つめ)あはする石菖蒲(せきしやうぶ)は、わざわざ畠に作るなり。自然と生(はえ)たる斗(ばか)りにては間に合(あひ)がたし。又熊野海邊は鯨をとりて常の產とする故、獵師の家は皆鯨の骨にて垣を築(きづき)たり。たちうすをならべたる如くにみゆと云(いふ)。風雨にされて年を歷(へ)し骨、堅き事金石のごとし。劍戟も刄を立る事あたはずと云。

[やぶちゃん注:「み熊野ねっと」のこちらのページによれば、和歌山県東牟婁郡太地町太地にある恵比寿神社には、再現されたものであるが、鯨の骨の鳥居がある。それによれば、『井原西鶴の『日本永代蔵』の巻二に収められた「天狗は家な風車(てんぐはいえなかざぐるま)」に「紀伊国に隠れなき鯨ゑびす」とあり、「鯨恵比寿の宮をいはひ、鳥井にその魚の胴骨立ちしに、高さ三丈ばかりも有りぬべし」とあって、その鯨骨の鳥居を再現したものがこの鳥居で』あるとして写真も載る。現在のものは1丈(約三メートル)ほどの高さだったと思われるので、西鶴の時代にはその三倍ほどの高さの鯨の肋骨(あばらぼね)の鳥居があったようだと記されておられる。必見。!

「石菖蒲」単子葉植物綱ショウブ目ショウブ科ショウブ属セキショウ Acorus gramineus 「有田みかんデータベース」内の御前明良氏による「輸送容器の変遷」に『竹籠は江戸時代から明治の初期まで使われた。江戸向けは』十五キログラム、関西向けは七・五キログラムで、『荷造りは蓋の部分は石菖(せきしょう)という草で覆い、縄で括った。石菖はミカンを冷やして腐敗を防ぐ役をしたと言われている』とある。実際、セキショウに含まれるテルペンには抗菌・防腐効果がある。]

本朝食鑑 鱗介部之三 海馬

 人見必大著島田勇雄訳「本朝食鑑」(平凡社東洋文庫一九七六~一九八一年刊)全五巻を入手した。

 これより、これとガチで勝負を始める。

 既に私は、

博物学古記録翻刻訳注 ■12 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる海鼠の記載

博物学古記録翻刻訳注 ■13 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる老海鼠(ほや)の記載

博物学古記録翻刻訳注 ■14 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる海月の記載

の三篇をものしているが、今回、これらと島田氏の訳注を対照してみても、私の見解や訳に重大な誤認はなかったし、アカデミズムの哀しさで国語学者であられた島田氏の注には殆んど見られない生物学上の注に関しては相応の自負を持ってよいことが改めて意識された。

 さればこそ、自身の海岸生物に対する強い偏愛を力に、

カテゴリ「本朝食鑑 水族の部」

を立ち上げることとする。

 「本朝食鑑」は医師で本草学者であった人見必大(ひとみひつだい 寛永一九(一六四二)年頃?~元禄一四(一七〇一)年:本姓は小野、名は正竹、字(あざな)は千里、通称を伝左衛門といい、平野必大・野必大とも称した。父は四代将軍徳川家綱の幼少期の侍医を務めた人見元徳(玄徳)、兄友元も著名な儒学者であった)の元禄一〇(一六九七)年刊の本邦最初の本格的食物本草書。全十二巻。「本草綱目」に依拠しながらも、独自の見解をも加え、魚貝類など、庶民の日常食品について和漢文で解説したものである。

 上記三件と同様、底本は国立国会図書館のデジタルコレクションの画像を視認して起こす。本文は漢文脈であるため、まず、原典との対照をし易くするために原文と一行字数を一致させた白文を示し(割注もこれに准じて一行字数を一致させてある。底本にある訓点は省略した)、次に連続した文で底本の訓点に従って訓読したものに、独自に読みや送り仮名を附したものを示し、その後にオリジナル注と現代語訳を附した。この際、私の訳注をまず完成させその上で島田勇雄氏の東洋文庫版と最終的に比較、島田氏のそれから私の誤認誤訳と認知出来た箇所に就いては逐一その旨を記載して補正し、私の正しいと信ずる見解と異なる箇所に就いては、概ね私の疑義を表明することとする。即ち、それ以外はあくまで私のオリジナルな注であり、オリジナルな訳であるということである。

 原典ではポイント落ち二行書きの割注は〔 〕で挟み、同ポイントで示した。なお、原典では原文の所で示したように、頭の見出しである「海鼠」のみが行頭から記されてあり、以下本文解説は総て一字下げである。異体字は原典のママとし、字体判断に迷ったものや正字に近い異体字は正字で採る(例えば、「鰕」とした字は、原典では多くが「叚」の右部分が「殳」である。しかしこれは表示出来ない字であるので、文意から間違いなく「鰕」(えび)と同義と判断して総て「鰕」に統一した)。

 訓読文では原典の一字下げは省略した。読み易くするために句読点・記号・濁点・字空けを適宜、施した。一部に独自に歴史仮名遣で読みや送り仮名を附してあるが、読解に五月蠅くなるので、特にその区別を示していない。なお、原典には振られている読み仮名は少ない。また、「今」(いま)に「マ」が、「狀」「貌」(かたち)などには「チ」が、「者」(もの)と読む字には「ノ」が送られてあるが、これらは送り仮名としては省略した。また、つまらぬ語注を減らすためにわざと確信犯で訓読みした箇所もあり、こうした恣意的な仕儀を経ている我流の訓読であるので、くれぐれも原典画像と対比しつつ、読者御自身の正しいと信ずる読み方でお読みになられることを強く望む(因みに、島田氏の東洋文庫版には原文・書き下し文は載らず、現代語訳と注のみである)。

 注の内、「本朝食鑑」全体の構成要素である「釋名」等の項立てや、五味についての語意については既に「博物学古記録翻刻訳注 ■12 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる海鼠の記載」で施しているのでそちらを参照されたい。また「本草綱目」を引用する場合は、概ね、国立国会図書館デジタルコレクションのそれを視認して原文を示したが、披見される際に読み易さを考えて句読点や記号などを打ってある。

 たまたま上記三篇は「海月」「海鼠」「老海鼠」の順に第十二巻に並んでいるものであるので、ここは一つ、ランダムに電子化注釈をすることをせず、「老海鼠」の前後を広げる形で電子化訳注を始めることとし、まずは「老海鼠」の直後の「海馬」からスタートする((その次は次の「雀魚」(ハコフグ)ではなく、「海月」の前の「烏賊」を予定している。何故かというと、私は海洋動物では脊椎動物の魚類よりも無脊椎動物を遙かに偏愛するからである。リンク先は国立国会図書館のデジタルコレクションの当該頁画像)。――いざ! 伴に行かん!――江戸の博物学の迷宮(ラビリンス)へ!……

 

海馬

 集觧狀有魚體其首似馬其身類蝦其背傴僂長

 三四寸雌者黄色雄者青色漁人不采之但於里

 網雜魚之内而得之若得之則賣藥肆以備産患

 爾凡臨産之家用雌雄包收于小錦嚢以預佩之

 謂易産今爲流俗流例此物性温煖有交感之義

 乎

 氣味甘温平無毒〔本朝未聞食之者〕主治李時珍曰暖水

 臓壯陽道消瘕塊治疔瘡腫毒故有海馬湯海馬

 拔毒散未試驗以

 

□やぶちゃんの訓読文

 

海馬

 集觧 狀(かたち)、魚體なれど、其の首、馬に似(に)、其の身、鰕に類す。其の背、傴僂(うろう)、長さ三、四寸。雌は黄色、雄は青色。漁人、之を采らず。但し、罜網(しゆまう)雜魚(ざこ)の内に於いて若(も)し之を得れば、則ち、藥肆(やくし)に賣りて、以つて産患(さんかん)に備ふのみ。凡そ臨産(りんさん)の家、雌雄を用ゐて、小錦嚢(しやうきんなう)に包み收め、以つて預(あづかし)め、之を佩(は)きて、易産と謂ふ。今、流俗・流例と爲(す)。此の物、性、温煖、交感の義、有るか。

 氣味 甘温(かんをん)、平。毒、無し。〔本朝、未だ之を食ふ者を聞かず。〕主治 李時珍が曰く、『水を暖め、臓、陽道を壯(そう)し、瘕塊(かくわい)を消し、疔瘡(ちやうさう)・腫毒を治す。故に海馬湯(かいばとう)・海馬拔毒散(かいばばつどくさん)、有り。』と。未だ驗(しるし)を試みず。

 

□やぶちゃん語注

・「海馬」「かいば」と音読みしている模様で、本書では「たつのおとしご」といった読みは出ないので注意されたい(但し、島田氏はそうルビを振ってはおられる)。言わずもがな乍ら、立派な魚類である、

トゲウオ目ヨウジウオ亜目ヨウジウオ科タツノオトシゴ亜科タツノオトシゴ属 Hippocampus

で、本邦産種は、

タツノオトシゴ   Hippocampus coronatus

ハナタツ      Hippocampus sindonis

イバラタツ     Hippocampus histrix

サンゴタツ     Hippocampus japonicas

タカクラタツ    Hippocampus takakurai

オオウミウマ    Hippocampus keloggi

クロウミウマ    Hippocampus kuda

の七種を数えるが、最近、

ピグミーシーホース Hippocampus bargabanti

が小笠原や沖縄で確認され(私は個人的には本当は外来語には単語の切れ目に「ピグミー・シー・ホース」を入れたいアナログな人間であることをここに表明しておく。和名であればなおさらだと思う)、通称「ジャパニーズ・ピグミー・シーホース」(ここは通称なので入れた)なる未確認種もあるやに聞いている。分類方法はズバリ! Chano 氏のサイト「海馬」このページが学術的にも正しく分かり易くビジュアル面からも最良である(昔から好きなサイトだったが二〇〇九年で更新が停止しているのが淋しい)。また、私の作成した栗本丹洲「蛙変魚 海馬 草鞋蟲 海老蟲 ワレカラ 蠲 丸薬ムシ 水蚤(「栗氏千蟲譜」巻七及び巻八より)」の美事な画像もお薦めである。

・「狀、魚體にて有れど、其の首、馬に似、其の身、蝦に類す」私の敷衍訓読。底本には「にて」も「れど」も送られていないが、こう読まないと自然には読めない。幾つかの訓読を試みたが、これが私には最もしっくりきた。「似」の「に」の読みは右に打たれた「ニ」を読みと呼んだ。これを送り仮名として「似(にる)に」と読めないこともないが、それではやはり下と続きが悪い。

・「傴僂」は、背をかがめること。差別用語としての「せむし」の意もあるが、ここは本来の意味でよいであろう。

・「三、四寸」約一〇~一二センチメートル。

・「雌は黄色、雄は青色」は誤り。体色は種のみでなく、個体間でも変異が多い。雌雄の区別は腹部を見、直立した腹部の下方に尻ビレが現認出来、腹部全体が有意に膨らんでいるのがメスである。前掲サイト「海馬」の「オスとメスの見分け方」を参照。

・「罜網」当初、安易に「罜」を「里」と誤読して、地引網の類いかなどと想像したのであるが、島田氏の訳の『罟網(あみ)』で目から鱗であった(島田氏の底本は私の視認している版とは異なるものと思われ、明らかに国会図書館蔵本では「罜」である)。「罜」(音「シュ」)は小さな網のことである。寧ろ、大きな網ではなく、和船で曳く網のことであろう。

・「藥肆」「肆」は商店の意。漁師がそこに持ち込んだというより、そうした漢方薬を扱う薬種問屋の仕入れ商人が定期的に巡回していたものと私は推測する。

・「産患に備ふ」以下の「易産」、所謂、安産の御守りについて、かつて寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「海馬」で述べた私の注を以下に引く。タツノオトシゴの♂が「出産する」ことは、現在、よく知られている。♂には腹部に育児嚢があり、♀は交尾時に輸卵管を♂の下腹部にあるこの育児嚢に挿入、その中に産卵する。♂がそれを保育し、約二週間ほどで、親と同じ形をした数十~数百匹の子供を♂がかなり苦しそうな動きをしながら「出産する」のである。幾つかの説が、このタツノオトシゴの生態から安産のお守りとなったという説を載せている。しかし、「和漢三才圖會 巻第四十七 介貝部」の「貝子」(タカラガイ)の項の注で述べたように、私はタツノオトシゴが胎児(若しくは妊婦の姿そのもの)と似ているからであろうと考えている。フレーザーの言うところの類感呪術の一つである。その生態としての♂の育児嚢からの出産から生まれた風習という説は、考えとしては誠に面白いが、古人がそこまでの観察と認識から用いたとは、残念ながら私には思えないのである。但し、それを全否定できない要素として、ここで雌雄をセットで御守としている点が挙げられはする。但し、これに対しても受卵前の雌雄若しくは個体(雌雄の判別のところで述べたが、受卵前の♂は腹部のラインがすっきりとスマート、逆に♀は有意に膨らんでいる。加えて受卵し保育する♂も有意に膨らむ)が丁度、出産の前と後とのミミクリーであるとの見解を私は持っている。……いや、その最初の発案者たる呪術師はもしかすると、水槽にタツノオトシゴを飼育し、その雌雄の生態(但し極めて高い確率で♂と♀を取り違えていたと思われるが)を仔細に観察していたのかも知れぬ。……しかし、何故に、彼若しくは彼女(巫女かも知れぬ)はタツノオトシゴを飼育していたのであろうか?……タツノオトシゴを見る巫女……何だか僕は Hippocampus なロマンを感じ始めたようだ。……

・「交感の義」次のまさに前注で私が述べた、「氣味」の『甘温、平。無毒』(これは「本草綱目」の引き写しである)という性質の類感的呪術効果ではないか? と人見は推理しているものと思われる。しかし、これは実は「本草綱目」に、海老と同じ効能であると、かく断定されてある。人見は自分が治験してみたことがない(末尾参照)のでかく言っているのであろう。

   *

發明時珍曰海馬雌雄成對,其性溫暖、有交感之義、故難及陽虛房中方術、多用之、如蛤蚧、郎君子之功也。蝦亦壯陽、性應同之。

   *

・「本朝、未だ之を食ふ者を聞かず」とあるが、「タツノオトシゴを捕獲して食す」に、『IT検索すると唐揚げしたり、あるいは卵を漁村ではご飯にかけて食べたり、中国ではかりかりに焼いて串に刺して売っていたりするそうです。揚げたものは所謂骨せんべいの味とのこと』とあり、実際に食べた味が語られてある。私は中国で料理に入っているものを食べた経験はあるものの、味は中華の濃い味付けで良く分からなかったが、恐らく美味いものであろうとは容易に想像出来る。

・「主治」以下の引用部は概略で、実際には「本草綱目」では「海馬湯」について、対象疾患と処方の具体が別々に以下のように細かく示されてある。

   *

附方〔新二。〕海馬湯治遠年虛實積聚癥塊。用海馬雌雄各一枚、木香一兩、大黃(炒)、白牽牛(炒)各二兩、巴豆四十九粒、青皮二兩(童子小便浸軟、包巴豆扎定、入小便再浸七日、取出麩炒黃色、去豆不用)、取皮同衆藥爲末。每服二錢、水一盞、煎三五沸、臨臥溫服。 「聖濟錄」海馬拔毒散治疔瘡發背惡瘡有奇効。用海馬(炙黃)一對、穿山甲(黃土炒)、朱砂、水銀各一錢、雄黃三錢、龍腦、麝香各少許爲末、入水銀研不見星。每以少許點之、一日一點、毒自出也。 「秘傳外科」

   *

・「陽道を壯し」先に引いた「本草綱目」の「發明」にはっきり『陽虛房中方術』と記す。男性用の媚薬である。

・「瘕塊」腹中に塊の出来る症状をいう。必ずしも癌とは限るまい。

・「疔瘡」口腔内に出来た黄色ブドウ球菌などによる皮膚感染症である口底蜂窩織炎(こうていほうかしきえん)のこと。蜂窩織炎の中でも性質(たち)が悪い劇症型に属する。これが口ではなく鼻や頰などに生じたものが「面疔(めんちょう)」である。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

海馬(かいば)

 集觧 形は、魚体であるが、その首は馬に似ており、その身は海老に類している。その背は著しく屈(かが)まった形をなし、長さは三、四寸。雌は黄色、雄は青色を呈する。漁師は、これを漁の対象としては獲らない。但し、引網の中の雑魚(ざこ)の類いの中に於いて、もしこの生き物を獲り得た時には、直ちに薬種問屋に売る。

 しかしこれは食うのでは勿論なく、以って難産の際の御守りとして商品化するばかりである。

 およそ出産を間近に控えた妊婦のいる家では、この海馬の雌雄を用いて、小さな錦の袋に包み収め、以ってこれを妊婦に持たせ、これをその腰に下げさせておくと、安産となると言う。今も、この民草の間での習俗は極めて一般的に市井に行われている。

 これはこの海馬の気味の性質が温暖であるからして、その交感の象徴性によって、体を温める効果が得られるからなのであろうか。

 気味 甘温(かんおん)、平。毒はない。〔但し、本朝に於いては、未だ、これを食べるということは聞いたことがない。〕主治 李時珍の曰く、『体内の水気を暖め、男性の陽気をいやさかに昂(たか)め、腹腔内に生じたしこりや腫れ物を消し、口に生じた重い疔瘡(ちょうそう)や腫物に由来する毒害を癒やす。ゆえに「海馬湯(かいばとう)」「海馬拔毒散(かいばばつどくさん)」と言った処方がある。』と。但し、私は、これらの処方及び海馬単品の服用による効果は、これ、いまだ試みてみたことはない。

2015/04/27

福一へ――いち――「最後の一句」

「お上の事には間違はございますまいから」

桂屋太郎兵衞の長女いちは言うたがのぅ……

……福一……おめえさん、本當は……世間樣にとんでもねえことをしでかしてゐるんぢやねえのかい?……

お上は……

「制御出來きておるッツ! 默りおろうッツ!!」

とおつしやつておりやんすがねェ…………



――「周辺地域で線量が1000倍に急上昇! “フクイチ”で何かが起きている!?」――……

密かにカテゴリ「本朝食鑑 水族の部」創始

1977年平凡社東洋文庫刊の国語学者大島勇雄(いさお)氏の手に成る訳注本「本朝食鑑」を入手した。流石は国語学者、注の引用がもの凄い堆積である。その代り、生物学的考証記載は失礼乍ら、頗る貧困である。まずは順に「海鼠」から取り掛かってみたが、当初、考えていた公開版を残しての補正は、少なくとも「海鼠」では厳しい。これは僕の誤りが多いというのではなくて、公開から大島本を今日、見るまでの間に、全く個人的に自分の記載に対して、幾つかの補正が必要となったからである。現在、その改稿に着手しているが――これ、なかなか手強い。――しかし、だからこそ面白い。――今暫く、お待ちあれかし。――とりあえず、カテゴリ「本朝食鑑 水族の部」創始し、僕の新しいプロジェクトの予告と致す所存である。
 
ガチで――勝負だ!!!

高濱虛子 斑鳩物語 (正字正仮名・初版形)

 

[やぶちゃん注:「斑鳩物語(いかるがものがたり)」は明治四〇(一九〇七)年に『ホトトギス』に掲載された高浜虚子の小説で、翌明治四十一年に出版された虚子初の短編小説集「鶏頭」に所収された。

 底本は明治四一(一九〇八)年一月春陽堂刊の当該作品集「鶏頭」を国立国会図書館デジタルコレクションの「斑鳩物語」の画像で視認した(リンク先は同作品の冒頭頁画像)。但し、底本は総ルビであるため、私が読みが触れると判断したものと、若い読者にはやや難読かと思われるもののみのパラルビとした。踊り字「〱」は正字化した。段落冒頭が一字下げになっていないのはママである。但し、会話文は、底本では一字下げの鍵括弧で始まり、二行以上に渡る際にはシナリオの台詞のように総て二字下げとなっているが、ブログ版ではブラウザ上の不具合が生ずるので再現せずに、改行後は行頭まで上げてある。仮名の「し」の一部で草書の「志」となっているが(例えば「お道さんが行つたあとは俄かに淋しくなつた。きのふ奈良でしらべた報告書の殘りを認める。」の箇所の「しらべた」の「し」など)、有意な表記上の差があるとは思われないので、通常の「し」で表記した。

 一昨日、堀辰雄の「十月」の注で梗概を述べ、抜粋引用したのだが(但し、そこでは視認が容易な本初版とは異なる昭和二三(一九四八)年養徳社刊行の版を用いたので、本テクストとは微妙に異なる。特に読みについては本初版では意外な箇所もままあるので注意されたい)、ここで三重の塔の登りの滑稽な箇所も含めてその全体を公開することとする。その注でも述べた通り、私は俳人としての高浜虚子を生理的に激しく嫌悪している男である。しかし、少なくとも彼のこの写生文を意識した小説「斑鳩物語」は、その映像性と浪漫性から――おぞましくも悔しいことに――大いに惹かれてしまう小品であることは言を俟たない。敢えて――恩讐の彼方に――【二〇一五年四月二十七日 藪野直史】] 

 

     斑鳩物語

 

      上

法隆寺の夢殿の南門(なんもん)の前に宿屋が三軒(げん)ほど固まつてある。其の中の一軒の大黑屋といふうちに車屋は梶棒を下ろした。急がしげに奥から走つて出たのは十七八の娘である。色の白い、田舍娘にしては才はじけた顏立ちだ。手ばしこく車夫(くるまや)から余の荷物を受取つて先に立つ。廊下を行つては三段程の段階子を登り又廊下を行つては三段程の段階子を登り一番奧まつた中二階に余を導く。小作りな體に重さうに荷物をさげた後ろ姿が余の心を牽く。

荷物を床脇に置いて南の障子を廣々と開けてくれる。大和一圓が一目に見渡されるやうないゝ眺望だ。余は其まゝ障子に凭(もた)れて眺める。

此の座敷のすぐ下から菜の花が咲き續いて居る。さうして菜の花許りでは無く其に點接(てんせつ)して梨子(なし)の棚がある。其梨子も今は花盛りだ。黃色い菜の花が織物の地(ぢ)で、白い梨子の花は高く浮織(うきお)りになつてゐるやうだ。殊に梨子の花は密生してゐない。其荒い隙間から菜の花の透いて見えるのが際立つて美くしい。其に處々麥畑も點在して居る。偶〻(たまたま)燈心草(とうしんぐさ)を作つた水田(みづた)もある。梨子の花は其等に頓着(とんちやく)なく浮織りになつて遠く彼方(あなた)に續いて居る。半里も離れた所にレールの少し高い土手が見える。其土手の向うもこゝと同じ織り物が織られてゐる樣だ。法隆寺はなつかしい御寺(みてら)である。法隆寺の宿はなつかしい宿である。併し其宿の眺望がこんなに善からうとは想像しなかつた。これは意外の獲物である。

娘は春日塗(かすがぬ)りの大きな盆の上で九谷(くたに)まがひの茶椀に茶をついで居る。やゝ斜(なゝめ)に俯向(うつむ)いてゐる橫顏が淋しい。さきに玄關に急がしく余の荷物を受取つた時のいきいきした娘とは思へぬ。赤い襦袢(じゆばん)の襟もよごれて居る。木綿の着物も古びて居る。それが其淋しい橫顏を一層力なく見せる。

併しこれは永い間では無かつた。茶を注(つ)いでしまつて茶托(ちやたく)に乘せて余の前に差し出す時、彼(かれ)はもう前のいきいきした娘に戾つて居る。

 「旦那はん東京だつか。さうだつか。ゆふべ奈良へお泊りやしたの。本間(ほんま)にア、よろしい時候になりましたなア」

と脫ぎ棄てた余の羽織を疊みながら、

 「御參詣だつか、おしらべだつか。あゝさうだつか。二三日前にもなア國學院とかいふとこのお方が來やはりました」

と羽織を四(よつ)つにたゝんだ上に紐を載せて亂箱(みだればこ)の中に入れる。

余は渇いた喉に心地よく茶を飮み干す。東京を出て以來京都、奈良とへめぐつて是程(これほど)心の落つくのを覺えた事は今迄無かつた。余は膝を抱(いだ)いて再び景色を見る。すぐ下の燈心草の作つてある水田(みづた)で一人の百姓が泥を取つては箕(み)に入れて居る。箕に土が滿ちると其を運んで何處(どこ)かへ持つて行く。程なく又來ては箕に土をつめる。何をするのかわからぬが此廣々とした景色の中で人の動いて居るのは只此百姓一人きりほか目に入(い)らぬ。

娘は椽(えん)に出(で)て手すりの外に兩手を突き出して余の足袋の埃りを拂つて又之を亂箱の中に入れる。

 「いゝ景色だナア」

といふと直ぐ引取つて、

 「此邊はなア菜種(なたね)となア梨子とを澤山に作りまつせ。へー燈心も澤山に作ります。燈心はナー、あれを一遍よう乾かして、其から叩いてナー、それから又水に漬けて、其から長い錐(きり)のやうなもので突いて出しやはります。其から又疊の表にもしやはりまつせ。長いのから燈心を取りやはつて短かいのは大概(たいがい)疊の表にしやはります」

 「疊の表には藺(ゐ)をするのぢやないか。燈心草も疊の表になるのかい」

「いやな旦那はん。燈心草といふのが藺の事(こ)つたすがな」

と笑ふ。余は電報用紙を革袋(かはぶくろ)の中から取り出す。娘は棚の上の硯箱を下ろして葢(ふた)を取る。

 「まア」

といつて再び硯箱を取り上げてフツと輕く硯の上の埃りを吹いて藥罐(やくわん)の湯を差して墨を磨つて呉れる。墨はゴシゴシと厭やな音がする。

電報を認(したゝ)め終つて娘に渡しながら、

 「下は大變多勢のお客だね。宴會かい」

と聞く。娘は電報を二つに疊んで膝の上に置いて、

 「いゝえ。皆(みんな)東京のお方だす。大師講(だいしかう)のお方で高野山に詣りやはつた歸りだすさうな。今日はこゝに泊りやはつてあした初瀨(はせ)に行(い)きやはるさうだす。今晩はおやかましうおますやろ」

と娘は立たうとする。電報は一刻(こく)を急(せ)く程の用事でも無い。

 「初瀨は遠いかい」

とわざと娘を引とめて見る。

 「初瀨だつか」

と娘も一度腰を下ろして、

 「初瀨はナー、そらあのお山ナー、そら左りの方の山の外れに木の茂つたとこがありますやろ……」

と延び上るやうにして、

 「あこが三輪のお山で。初瀨はあのお山の向うわきになつてます。旦那はんまだ初瀨に行きやはつた事(こと)おまへんか」

 「いやちつとも知らないのだ。さうかあれが三輪か。道理で大變に樹が茂つてゐるね。それから吉野は」

 「吉野だつか」

と娘は電報を疊の上に置いて膝を立てる。手摺りの處に梢を出してゐる八重櫻が娘の目を遮ぎるのである。余は立上つて椽(えん)に出る。娘も余に寄り添うて手摺りに凭れる。

 「そら、此向うに高い山がおますやろ、霞のかゝつてる。へーあの藪の向うだす。あれがナー多武(たふ)の峰で、あの多武の峰の向うが吉野だす」

娘は櫻の梢に白い手を突き出して、

 「あの高い山は知つとゐやすやろ」

 「あれか、あれが金剛山(こんがうざん)ぢやないか。あれは奈良からも見えてゐたから知つてる」

娘は手摺り傳(づた)ひに左りへ左へと寄つて行つて、

 「旦那はん、一寸(ちよつと)來てお見やす。そらあそこに百姓家がおますやろ。さうだす、今(いま)鴉の飛んでる下のとこ。さうだす、あの百姓家の左の方にこんもりした松林がおますやろ。そやおまへんがナー。それは鐵道のすぐ向うだすやろ。それよりももつとずつと向うに、さうだすあの多武(たふ)の峰の下の方にうつすらした松林がありますやろ。さうさう。あこだす、あこが神武天皇樣の畝火山(うねびやま)だす」

娘の顏はますますいきいきとして來る。畝火山を敎へ終つた彼はまだ何物をか探して居る。彼の知つて居る名所は見える限り敎へてくれる氣と見える。

 「お前大變よく知つて居るのね。どうしてそんなによく知つて居るの。皆(み)な行つて見たのかい」

 「へー、皆んな行きました」

といつて余を見た彼の眼は異樣に燃えてゐる。

 「さう、誰(だれ)と行つたの、お父サンと」

 「いゝえ」

 「お客さんと」

 「いゝえ。そんな事(こと)聞きやはらいでもよろしまんがナア」

と娘は輕(かろ)く笑つて、

 「私の行きました時も丁度(ちやうど)菜種の盛りでなア。さうさうやつぱり四月の中頃やつた」

と夢見る如き眼で一寸余の顏を見て、

 「旦那はん、あんたはんお出でやすのなら連れていておくれやすいな、ホヽヽヽ私見たいなものはいやだすやろ」

 「いやでも無いが、こはいナ」

 「なぜだす」

 「なぜでも」

 「なぜだす」

 「こはいぢやないか」

 「しんきくさ。なぜだすいな、いひなはらんかいな」

 「いゝ人にでも見つからうもんなら大變ぢやないか」

 「あんたの」

 「お前のサ」

 「ホヽヽ、馬鹿におしやす。そんなものがあるやうならナー。……無い事もおへんけどナー。……ホヽヽヽヽ、御免やすえ。……アヽ電報を忘れてゐた。お風呂が沸いたらすぐ知らせまつせ」

と妙な足つきをして小走りに走つて疊の上の電報を抄(すく)ふやうに拾ひ上げて座敷を出たかと思ふと、襖(ふすま)を締める時、

 「本間(ほんま)におやかましう。御免やすえ」

としづかに挨拶してニツコリ笑つた。

 「お道(みち)はん。お道はん」

と下で呼ぶ聲がする。

 「へーい」

といふ返辭も落(おち)ついて聞こえた。

お道さんが行つたあとは俄かに淋しくなつた。きのふ奈良でしらべた報告書の殘りを認める。時々下の間で多勢の客の笑ふ聲に交つてお道サンの聲も聞こえるが、座敷が別棟(べつむね)になつてゐるのではつきりわからぬ。

 夢殿の鐘が鳴る。時計を見るともう六時だ。

漸く風呂が沸いたと知らして來た。其はお道さんでは無く、此(この)家(や)の主婦であらう三十四五の髮(かみ)サンであつた。晩飯の給仕に來たのもお道さんで無く此の髮サンであつた。

此髮サンの話によると、お道サンといふのは此うちの娘でなくすぐ此裏の家(うち)の娘で、平生(ふだん)は自分のうちで機械機(きかいばた)を織つて居るが、世話しい時は手傳ひに來るのだとの話であつた。

 「へい、此邊でナー、ちつと澁皮(しぶかは)のむげた娘(こ)はナー、皆(みんな)南の方へ行きやはります。南の方といふのはナー下市(しもいち)、上市(かみいち)、吉野あたりだす。お道はんも一寸行(い)てやはりましたが、お父つあんが一人で年よつてるさかいに半年許(ばか)りで歸つて來やはつた。へー、何だす。そりやナー若い時はナー。そやけれどお道はんに限つてそないな事はありまへんやらう。ホヽヽヽ」

とお髮サンは妙な眼つきをして人の顏を見て笑ふ。 

 

      中 

 

翌日午前は法隆寺に行つて、午後は法起寺(はふきじ)に行つた。これで今囘官命の役目は一段落となるのである。法起寺は住職は不在で、年とつた方の所化も一寸出たとの事で、十五六になるのつそりした小僧が炭をふうふう吹いて灰だらけにした火鉢を持つて來て、ぬるい茶を汲んで來て主(あるじ)ぶりをする。取調(とりしらべ)の事は極めて簡單で直ちに結了(けつれう)する。塔の修覆が出來てからまだ見ぬので庭に出て見る。腰衣(こしごろも)をつけた小僧サンもあとからついて來る。白い庭の上に余の影も小僧サンの影もくつきりと映る。うらゝかな春の日だ。三重の塔は法隆寺の塔を見た目には物足らぬが其でも蟇股(かへるまた)や撥形(ばちがた)の爭はれぬ推古式のところが面白い。余はふと此塔に登つて見度くなつた。

 「小僧サン、塔に登りたいものですが……」

 「塔にお登りやすの、きたのうおまつせ」

といひながら無造作に承諾してもう鍵を取りに行く。頭に手をやつて見たり、腰に手をやつて見たり自分の影法師を面白さうに見ながら悠々として庫裡の方に行つた。

直下(ました)に立つて仰ぐと三重の塔でも中々高い。三重目の欄干のところに雀が群がつて飛んで居る。立札を讀むと特別保護建造物で一年餘を費して修理したとある。別に立札に内務省の下賜金が二萬何千圓とある。此地はもと聖德太子の御學問處(ごがくもんじよ)で、推古天皇の御創立になつた官寺(かんじ)で、昔はたいしたものであつたのだらうが、今は當時の建物として此塔許り殘つてゐて他(た)は見すぼらしい堂宇許りだ。とても法隆寺などには比べものにはならん。

小僧サンが悠然として鍵を持て來て、いきなり塔の扉に突ッ込む。ゴトンと音がして大きな扉ががたがたと開(あ)く。冷たい風が塔の中から吹く。安置されて居る佛體は手や足の無くなつてゐる古佛(こぶつ)でこれも推古時代の彫刻かと思はれる。小僧サンはもう梯子(はしご)を登つて居る。

此梯子は高さ一間半許りの幅のせまい勾配の急な梯子で一步踏む度に少しゆらぐ。余は元來臆病な方だが今更止めるわけに行(い)かぬので小僧サンのあとについて登る。戶をがらがらと開ける音がする。埃りが落ちて來るので閉口しながら仰向いて見ると、天井に二尺角(しやくかく)程の小さい穴があいて居る。小僧サンは今其穴に體半分を突込(つツこ)んで足を二本宙(ちゆう)にぶら下げて居る。おやおやと思つて見て居るうちに體操のやうな事をしてヒヨイと上に飛び上(あが)る。余は恐る恐る登つて其穴の處に達し漸く頭を突込んで上を見上げると驚いた。余は塔の中の構造も普通の家と同じに一階二階と其々天井のやうなものが出來てゐることゝ思つてゐたに、天井は一階のところに在る許りで、見上げると此上はもう頂上まで筒拔けで、中央の大きな柱が天にまで達するかと思ふやうに高い。小僧サンはもう第二の短い梯子を登つて右から左にかゝつてゐる木を輕業(かるわざ)のやうに兩手をふつて渡つてゐる處だ。

余は穴に頭を突込(つツこ)んだまゝ、

 「小僧サンもうよしませう」

といふ。小僧サンは不平さうに、

 「折角こゝまで來たんやよつて上(のぼ)りなはれ」

と橫木(よこぎ)の上に立つたまゝ下を見下して居る。何だか此際(さい)小僧サンに無限の權威があるやうに思はれて仕方なしに上ることにする。小僧サンは今體操をするやうなことをして此の穴を上がつたが、其が已に余に取つて大困難だ。頭の上に斜(なゝめ)に橫たはつてゐる木に手をかけて見る。木が大きくて手のさきがかゝる許りだ。指のさきに懸命の力を籠めて左りの手を其(その)木にかけ、右の腕でべたりと天井の上を壓(お)さへると埃りだらけで紋付羽織がだいなしになる。漸く天井裡に登る。

其(それ)から第二の梯子は無造作に登れたが、小僧サンが手をふつて渡つてゐた橫木の上に來て途方に暮れる。何かつかまへるものが無いと足がふるへて顚倒(てんだう)しさうだ。頭の處に併行(へいかう)した大きな木がある。兩手をぐつと上げて此(この)木を握る。足の方も見ねばならず手の方も見ねばならず、上目を使つたり下目を使つたり一分(ぶ)きざみに渡つて居ると忽ちゴーといふ地鳴りのやうな音がする。何事かと思つて立どまつて見ると一陣の風が塔に吹き當る音であつた。ゆれはしないかと中央の大きな柱を見ると大船(おほふね)の帆柱よりも大きいのが寂然(じやくねん)として立つて居る。漸く意を安(やす)んじて橫木を渡つてしまふと、サア行き詰(づま)りになつてしまつてどうしてよいのかわからぬ。梯子もなく、別に連絡して居る他(ほか)の木もない。俄(にはか)に恐ろしくなつて來てもう空目(そらめ)を使つて小僧サンを見る勇氣もない。

 「小僧サン、これからどうしたらいゝんです」

小僧サンの聲は思はぬ方から聞こえる。

 「其(その)上の木にまたいで上りなはれ」

と極めて易々(いゝ)たる事のやうにいふ。其がさう易々(いゝ)たる事なら何も小僧サンを呼びはしないのだが、これはいよいよ窮地に陷(おちい)つた事だと泣き度(た)くなる。仕方なしに兩方の手で上の木に抱きつくやうにしてやつと這ひ上る。羽織の袖が何かにかゝつたらしいのを一生懸命で振り切る。一息ついて上を見上げると上はまだなかなか遠い。下を見下ろすと下ももうなかなか遠い。もう下りるのも上(あが)るのも同じく命がけだと覺悟を極(きは)めて未練なく登ることにする。

小僧サンは立どまつてはふりかへり、ふりかへつては歷階(れきかい)して上つて居る。余もまけぬ氣になつて登る。

 「こゝの欄干のところにしまひよか、露盤(ろばん)のところに出なはるか」

と小僧サンが上の方から呼ぶ。露盤の處から九輪(りん)の處に首を突出(つきだ)す事が出來るといふ事は曾て聞いた事もあつた。小僧サンは其處(そこ)までも行く氣と見える。其處まで行くうちには余はもう手足の力を失つて途中から轉落するに極(きま)つてる。

 「欄干のところで結構です」

 「さうだつか。露盤のとこに出ると畝火の方がよく見えまんがなア」

畝火は宿屋の二階からでも見えぬことは無い。こちらは其どころでは無いのだ。小僧サンはどうするかと氣が氣でなく見て居ると、やつと露盤の方は斷念したと見えて、欄干の方に出る小さい窓を開けて居る。

小僧サンは其窓を大佛殿の柱くゞりといつたやうな風に這うて出る。余も漸く其窓に達して、今度こそすべり落ちたら百年目と度胸を据ゑて這うて出る。窓の外は三重目の小さい囘廊(くわいらう)で欄干を握つて立つと、ニチヤニチヤと手につくものがある。見ると雀の糞(ふん)だ。其邊(そこら)眞白になつて居る。さつき雀の飛んで居つたのが此處だなと思ふ。小僧サンに並んで欄干を摑まへて下を見下ろす。

自分の足下(あしもと)には二重目の屋根が出て居る。此處に立つて下を見下ろすのは想像してゐた程に恐ろしく無い。小僧サンに跟(つい)て囘廊傳ひに東の方に𢌞つて見る。宿屋の二階で見た菜の花畑はすぐ此塔の下までも續いて居る。梨子の棚もとびとびにある。麗(うらゝ)かな春の日が一面に其上に當つて居る。今我等の登つてゐる塔の影は塔に近い一反ば(たん)かりの菜の花の上に落ちて居る。

 「又來くさつたな。又二人で泣いてるな」

と小僧サンは獨り言をいふ。見ると其塔の影の中に一人の僧と一人の娘とが倚り添ふやうにして立話しをして居る。女は僧の肩に凭れて泣いて居る。二人の半身(はんしん)は菜の花にかくれて居る。

 「あの坊(ぼう)さん君知つてるのですか」

 「あれなあ、私(わし)の兄弟子の了然(れうねん)や。學問も出來るし、和尙サンにもよく仕へるし、おとなしい男やけれど、思ひきりがわるい男でナー。あのお道といふ女の方がよつぽど男まさりだつせ。あのお道はナァ、親にも孝行で、機もよう織つて、氣立(きだて)もしつかりした女でナァ、何でも了然が岡寺(をかでら)に居(を)つた時分にナァ、下市(しもいち)とか上市(かみいち)とかで茶屋酒(ちややざけ)を飮んだ事のある時分惚れ合つてナァ、それから了然はこちらに移る、お道はうちへ歸るしゝてナァ、今でもあんなことして泣いたり笑つたりしてますのや。ハヽヽヽ」

と小僧サンは無頓着(むとんちやく)に笑ふ。お道は今朝(けさ)から宿に居なかつたが今こゝでお道を見やうとは意外であつた。殊に其情夫が坊主であらうとは意外であつた。我等は塔の上からだまつて見下ろして居る。

何か二人は話してゐるらしいが言葉はすこしも聞こえぬ。二人は塔の上に人があつて見下ろして居やうとは気がつくわけも無く、了然はお道をひきよせるやうにして坊主頭を動かして話して居る。菜の花を摘み取つて髮に挿みながら聞いてゐたお道は急に頭を振つて包みに顏を推しあてゝ泣く。

 「了然は馬鹿やナァ。あの阿呆面(あはうづら)見んかいナ。お道はいつやら途中で私に遇ひましてナー、こんなこというてました。了然はんがえらい坊(ぼ)んさんにならはるのには自分が退(の)くのが一番やといふ事は知(しつ)てるけど、こちらからは思ひ切ることは出來ん。了然はんの方から棄てなはるのは勝手や。こちらは焦がれ死にゝ死ぬまでも片思ひに思うて思ひ拔いて見せる。と斯(こ)んなこというてました。私(わし)お道好きや。私(わし)が了然やつたら坊主やめてしもてお道の亭主になつてやるのに。了然は思ひきりのわるい男や。ハヽヽヽヽ」

と小僧サンは重たい口で洒落たことをいふ。塔の影が見るうちに移る。お道はいつの間にか塔の影の外に在つて菜の花の蒸すやうな中に春の日を正面(まとも)に受けて居る。淚にぬれて居る顏が菜種の花の露よりも光つて美くしい。我等が塔を下りやうと彼の大佛の穴くゞりを再びもとへくゞり始めた時分には了然も纔(わづか)に半身(はんしん)に塔の影を止(とゞ)めて、半身にはお道の浴びて居る春光を同じく共に浴びてゐた。了然といふ坊主も美くしい坊主であつた。 

 

      下 

 

其夜(そのよ)晩酌に一二杯を過ごして毛布(けつと)をかぶつたまゝ机に凭れてとろとろとする。ふと目がさめて見るとうすら寒い。時計を見ると八時過ぎだ。二時間程もうたゝ寢をしたらしい。昨日に引きかへ今日は廣い宿ががらんとして居る。客は余一人ぎりと見える。靜(しづか)な夜だ。耳を澄ますと二處(ふたところ)程(ほど)で筬(をさ)の音(おと)がして居る。

一つの方はカタンカタンと冴えた筬(をさ)の音がする。一つの方はボツトンボツトンと沈んだ音がする。其二つの音がひつそりした淋しい夜を一層引き締めて物淋しく感ぜしめる。初め其筬(をさ)の音は遠い樣に思つたがよく聞くと余り遠くでは無い。初め其筬の音は遠い樣に思つたがよく聞くと餘り遠くでは無い。余は夢の名殘りを急須(きふす)の冷い茶で醒ましてぢつと其二つの音に耳をすます。

蛙(かはづ)の聲もする。はじめ氣がついた時は僅(わづか)に蛙の聲かと聞き分くる位(くらゐ)のひそみ音(ね)であつたが、筬(をさ)の音(おと)と張り競ふのか、あまたのひそみ音(ね)の中に一匹大きな蛙の聲がぐわアとする。あれが蛙(かはづ)の聲かなと不審さるゝ程の大きな聲だ。晝間も燈心草(とうしんぐさ)の田で啼いてゐたがあんな大きな聲のはゐなかつた。夜(よ)になつて特に高く聞こえるのかも知れぬ。一匹其大きなのが啼き出すと又一つ他(ほか)で大きなのが啼く。又一つ啼く。しまひには七八匹の大きな聲がぐわアぐわアと折角(せつかく)の夜(よ)の寂寥(せきれう)を攪(か)きみ亂すやうに鳴く。其(それ)でも蛙の聲だ。はじめひそみ音(ね)の中(うち)に突如として起こつた大きな聲を聞いた時は噪(さわ)がしいやうにも覺えたが、其が少し引き續いて耳に慣れると矢張り淋しいひそみ音(ね)の方は一層淋しい。氣の勢(せい)か筬(をさ)の音(おと)もどうやら此蛙(かはづ)の聲と競ひ氣味(ぎみ)に高まつて來る。カタンカタンといふ音は一層明瞭に冴えて來る。ボツトンボツトンといふ音は一層重々しく沈んで來る。

お髮サンが床を延べに來る。

 「旦那はん毛布(けつと)なんかおかぶりやして、寒むおまつか」

 「少しうたゝねをしたので寒い。それに今晩は馬鹿に靜かだねえ。お道さんは來ないのかい」

 「今晩は來やはりまへん。そら今筬(をさ)の音(おと)がしてますやろ、あれがお道はんだすがな」

 「さうかあれがお道さんか」

と余は又筬(をさ)の音に耳を澄ます。前の通り冴えた音と沈んだ音とが聞こえる。

 「二處(ふたところ)でしてゐるね。其(それ)に音が違ふぢやないか。お道さんの方はどちらだい」

 「そらあの音の高い冴え冴えした方な、あれがお道さんのだす」

 「どうしてあんなに違ふの。機(はた)が違ふの」

 「機は同じ事(こ)つたすけれど、筬が(をさ)違ひます。音のよろしいのを好く人は筬を別段に吟味しますのや」

余は再び耳を澄ます。今度は冴えた音(おと)の方にのみ耳を澄ます。カタンカタンと引き續いた音が時々チヨツと切れる事がある。糸でも切れたのを繫(つな)ぐのか、物思ふ手が一寸とまるのか。お髪サンは敷布團を二枚重ねて其上に上敷(うはし)きを延べながら、

 「戰爭の時分はナァ、一機(ひとはた)の織り賃を七十錢もとりやはりましてナア、へえ綳帶(ほうたい)にするのやさかい薄い程がよろしまんのや。其に早く織るものには御褒美を呉りやはつた。其時分は機(はた)もよろしうおましたけど、もう此頃はあきまへん。へーへあんたはん一機(ひとはた)二十五錢でナア、一機といふのは十反(たん)かゝつてるので、なんぼ早(はや)うても二日はかゝります」

お髮サンは聞かぬ事まで一人で喋舌(しやべ)る。突然筬(をさ)の音に交つて唄が聞こえる。

 『苦勞しとげた苦しい息が火吹竹(ひふきだけ)から洩れて出(で)る』

 「お道さんかい」

と聞くと、

 「さうだす。えゝ聲だすやろ」

とお髮サンがいふ。余は聲のよしあしよりもお道サンが其唄をうたふ時の心持(こころもち)を思ひやる。

 「あれでナア、筬(をさ)の音もよろしいし唄が上手(じやうず)やとナア、よつぽど草臥(くたぶ)れが違ひますといナ」

 「あんな唄をうたふのを見るとお道サンもなかなか苦勞してゐるね」

 「ありや旦那はん此邊(このへん)の流行唄(はやりうた)だすがナ、織子(おりこ)といふものはナア、男でも通るのを見るとすぐ惡口(わるくち)の唄をうたうたりナア、そやないと惚れたとかはれたとかいふ唄ばつかりだす」

俄(にはか)に男女(なんによ)の聲が聞こえる。

 「どこへ行きなはる」

 「高野(かうや)へお參り」

 「ハヽア高野へ御參詣か。夜(よ)さり行(い)きかけたらほんまにくせや」

 「お父つはんはもう寢なはつたか」

 「へー休みました」

高野へ參詣とは何の事かと聞いて見たら、

 「はゞかりへ行くことをナア、此邊ではおどけてあないにいひまんのや」

とお髮サンは笑つた。よく聞くと女の聲はお道サンの聲であつた。男の聲は誰(たれ)ともわからぬ。長屋つゞきの誰(たれ)かであるらしい。

筬(をさ)の音が一層高まつて又(また)唄が聞こえる。唄も調子もうきうきとして居る。

 『鴉啼(なく)迄寢た枕元(まくらもと)櫛(くし)の三日月落ちて居(ゐ)る』

お髮サンは床を延べてしまつて、机のあたりを片づけて、火鉢の灰をならして、もうラムプの火さへ小さくすればよいだけにして、

 「お休みやす。あまりお道サンの唄に聞きほれて風邪引かぬやうにおしなはれ」

と引下(ひきさが)る。

酒も醒めて目が冴える。筬(をさ)の音を見棄てゝ此儘寢てしまふのも惜しいやうな氣がする。晝間書きさして置いた報告書の稿(かう)をつぐ。ふと氣がつくといつの間にやら筆をとゞめて、きのふのお道サンの喋舌(しやべ)つた事や、今日(けふ)塔から見下ろした時の事やを囘想しつゝ筬(をさ)の音に耳を澄まして居る。又(また)唄が聞こえる。

 『大分(だいぶ)世帶(しよたい)に染(しゆ)んでるらしい目立つ鹿(か)の子(こ)の油垢(あぶらあか)』

調子は例によつてうきうきとして居るが、夜が更けた勢(せゐ)かどこやら身に入(し)むやうに覺える。これではならぬと更に稿をつぐ。

終(つひ)に暫くの間(あひだ)は筬(をさ)の音も耳に入(い)らぬやうになつて稿を終つた。今日で取調(とりしらべ)の件(けん)も終り、今夜で報告書も書き終つた。がつかりと俄(にはか)に草臥(くたび)れた樣に覺える。

火を小さくして寢衣(ねまき)になつて布團の中に足を踏み延ばす。筬(をさ)の音はまだ聞こえて居る。忘れてゐたが沈んだ方(はう)のもまだ聞こえて居る。

眠(ねむ)るのが惜しいやうな氣がしつゝうとうととする。ふと下で鳴る十二時の時計の音(おと)が耳に入(はひ)つたとき氣をつけて聞いて見たら、沈んだ方のはもう止んでゐたが、お道サンの筬(をさ)の音(おと)はまだ冴え冴えとして響いてゐた。

 

甲子夜話卷之一 33 人事を曉らざる者の事

33 人事を曉らざる者の事

人の事を曉らざるの甚しきに至るものあり。先年御成還御のとき、尾張町のあたりにて、御道筋を人止しければ、貴賤諸人皆止られて剋を移す間、溜り居たり。予もそのとき止られし中なりしが、やがて通御濟たり迚、かためを拂たれば、止られし人人わやわやと散り行く。其中に町人と覺しきもの、獨語に云よう、さても御威勢迚、誰叶べき者はなけれど、さすが還御には御かなひなされぬと見えて、かためを拂たりと云き。世には是ほど事を曉らぬものあるものと、珍らしきばかりに覺へき。

■やぶちゃんの呟き

「曉らざる」「さとらざる」。「通暁」という熟語があるように、「暁」には悟る・分かる・知るの意がある。

「先年御成還御」第十一代将軍徳川家斉のそれ。

「尾張町」現在の東京都中央区銀座五丁目と六丁目付近の旧地名。尾張藩がこの地を埋め立てたことに由来する。

「人止」「ひとどめ」。以下も「止(とめ)る」で訓じていよう。

「剋」「とき」。

「さても御威勢迚、誰叶べき者はなけれど、さすが還御には御かなひなされぬと見えて、かためを拂たり」――さても! よう! 天下の将軍さまのご威勢なればよ、誰(たれ)独りとして敵うはずの者(もん)はいねえはずだけんど、よ! さすがに! 還御さまにはお敵いなさらぬと見えて、ほぅれ! 警固を解いたぜぇ!――……しかし果たして、この男、本当に静山の言うような、救い難い馬鹿、落語に出て来る、足りない熊さん八さん、なんだろうか?……いや寧ろ、私は佯狂を装った粋な洒落のように思えてならないのだが? そうしてこの短い話柄を見ると、二百字ちょっとたった五文から構成されているこの文章の内、エピソードを挟む二文で「人の事を曉らざるの甚しきに至るものあり。」「世には是ほど事を曉らぬものあるものと、珍らしきばかりに覺へき。」と如何にも無駄な重語を成しているところや、「予もそのとき止られし中なりし」に静山自身が通行不能に迷惑している気持ちが仄かに窺われること、「止られし人人わやわやと散り行く」というオノマトペイアにやはり『やれやれ』という如何にもな人々の仕方ないというダルな気持ちが表現されている点など、寧ろ、権力を笠に着る者への諦めが窺えるように私には思えるのである(天下の将軍さまのお膝下の江戸っ子が、スローなあの頃に、そんなかぶいた言葉を吐く輩がいようはずもないと指弾する御仁は、これ、もう私のブログ自体をお読み戴かなくてよいと存ずる)……少なくとも、この時のこの街角には長い間(「剋」で最低二時間は通行止めを喰らったはずである)待たされた市井の人々の、嘲笑でない、すこぶる明るい哄笑が湧き起ったものと私は思うのである。……

譚海 卷之一 例幣使下向の事

 例幣使下向の事

○伊勢の例幣使下向す。毎年九月十五十六日の神事也。拜見の貴餞瑞籬(みづがき)の内外に充滿し山上山下にも群集す。長官(かみ)鑰(かぎ)を奉じて本社の御戸をひらく時、御戸のひらく響(ひびき)にあはせて參詣の諸人感聲を發す。山川も鳴(なり)わたる程也。内殿ちかく入(いれ)こまざれば、まのあたり拜見する事かたき故、奔走する人山のごとし。無禮を制せんとて人長杖(ちやうぢやう)をふりたて、忿怒(ふんぬ)の相をなして人をうつ。然れども血を出す事神事に忌む事なれば、怪我のなきやうにはかる故、重く人をうつ事なしとぞ。撫(なづ)るやうに打(うつ)事也。

[やぶちゃん注:ここまでの三条が伊勢神宮近辺をテーマとしており、次の一条も紀州で、ニュース・ソースが同一人物であった可能性が高いと思われる。

「伊勢の例幣使」伊勢例幣使。毎年九月(陰暦)に伊勢神宮の神嘗祭(かんなめさい:天皇がその年の新穀を伊勢神宮に奉る祭儀。十月に実施される。)に幣帛(へいはく:広義には神に奉献する供物の総称。布帛(ふはく)・衣服・紙・玉・酒・武器など種々ある。狭義には天皇・国家・地方官から神に奉献する供物を指し、ここはそれ。「みてぐら」「にぎて」「ぬさ」「幣物」などとも称する。)を奉納するために派遣された勅使。ウィキ奉幣(ほうべい/ほうへい)によると(下線やぶちゃん)、「奉幣」とは『天皇の命により神社・山陵などに幣帛を奉献することである。天皇が直接親拝して幣帛を奉ることもあるが、天皇の使い・勅使を派遣して奉幣せしめることが多く、この使いの者のことを奉幣使という』。『延喜式神名帳は奉幣を受けるべき神社を記載したものであり、ここには』総計で三千百三十二座もの対象がが記載されているという。『奉幣使には五位以上で、かつ、卜占により神意に叶った者が当たると決められていた。また、神社によって奉幣使が決まっている場合もあり、伊勢神宮には王氏(白川家)、宇佐神宮には和気氏、春日大社には藤原氏の者が遣わされる決まりであった。通常、奉幣使には宣命使が随行し、奉幣の後、宣命使が天皇の宣命を奏上した』が、『中世以降、伊勢神宮の神嘗祭に対する奉幣のことを特に例幣(れいへい)と呼ぶようになった。例幣に遣わされる奉幣使のことを例幣使』(日光例幣使の「例幣使」と区別して伊勢例幣使とも)という。『また、天皇の即位・大嘗祭・元服の儀の日程を伊勢神宮などに報告するための臨時の奉幣を由奉幣(よしのほうべい)という』とある。因みに、『第二次大戦後は、伊勢神宮などの勅祭社の例祭などに対する奉幣、および、山陵の式年祭に対する奉幣が行われている。この場合、掌典職の関係者が奉幣使となっている』とある。

「感聲」底本では「聲」の右に編者竹内利美氏による『(嘆)』という訂正注が附されてあるが、私はこれで問題ないと思う。]

2015/04/26

大和本草卷之十四 水蟲 介類 石決明 (アワビ)

 

石決明 海介ノ上品也亦蚫ト云肉モ殼モ目ヲ明ニス

弘景蘓恭ハ石決明ト鰒魚ヲ一物トス蘓頌ト時珍ハ

一種二類トスホンポウニ二品アル事ヲ聞ス但雌雄アリ

雄ハメクリノフチ高ク色黑クシテコハクアラシ其形長シ

雌貝ハフチヒキク白クヤハラカナリ其形マルシ雌貝ヲ爲

良生ナルヲ靜ニタヽキテ煮熟シ柔脆ナルヲ食フヘシ生

ナルト煮テコハキハ不益人

〇やぶちゃんの書き下し文

石決明(あはび) 海介の上品なり。亦、蚫と云ふ。肉も殼も目を明にす。弘景(こうけい)・蘓恭(そきよう)は石決明と鰒魚(あはび)を一物とす。蘓頌(そしよう)と時珍は一種二類とす。ほんぽうに二品ある事を聞かず。但し、雌雄あり。雄(を)は、めくりのふち、高く、色、黑くして、こはく、あらし。其の形、長し。雌(め)貝は、ふち、ひきく、白く、やはらかなり。其の形、まるし。雌貝を良と爲(す)。生なるを靜かにたゝきて、煮熟し、柔脆(じうぜい)なるを食ふべし。生なると、煮てこはきは、人に益あらず。

[やぶちゃん注:現行の和名「アワビ」自体が腹足綱原始腹足目ミミガイ科 Haliotidae のアワビ属 Haliotis の総称であるので、国産九種でも食用種のクロアワビ Haliotis discus discus ・メガイアワビ Haliotis gigantea ・マダカアワビ Haliotis madaka ・エゾアワビ Haliotis discus hannai (クロアワビの北方亜種であるが同一種説もあり)・トコブシHaliotis diversicolor aquatilis ・ミミガイ Haliotis asinina までを挙げておけば、とりあえずは包括出来よう。

「弘景」陶弘景(四五六年~五三六年)は六朝時代の道士で本草学者。道教茅山派開祖。漢方医学の基礎を築いた人物。前漢の頃に成立した中国最古の薬学書「神農本草経」を整序して五〇〇年頃に「本草経集注」を完成させた。この中で彼は薬物の数を七百三十種類と従来の二倍にし、薬物の性質などをもとに新たな分類法をも考案しており、この分類法は現在も使用されている(以上はウィキの「陶弘景」に拠った)。

「蘓恭」唐の高宗(六四九年~六八三年)の時代に編纂された「新修本草」(散逸)の編者の一人である蘇敬か。

「蘓頌」蘇頌(一〇二〇年~一一〇一年)は宋代の科学者にして博物学者。一〇六二年に刊行された勅撰本草書「図経本草」の作者で、儀象台という時計台兼天体観察装置を作ったことでも知られる。

「時珍」李時珍(一五一八年~一五九三年)は既出の一五九六年頃に完成した「本草綱目」の作者で明代を代表する医学者にして本草学者。主として医学的利用価値に立脚した本草学を確立した。

「雄は、めくりのふち、高く、色、黑くして、こはく、あらし。其の形、長し。雌貝は、ふち、ひきく、白く、やはらかなり。其の形、まるし」誤り。雌雄の判別は外見上ではまず不可能で、剖検して生殖腺の色で見分けられる(生殖腺が緑のものが♀・白っぽいものが♂)。ここに出るのは実際には「雄」とあるのがクロアワビ Haliotis discus discus 、「雌」とあるのがメガイアワビ Haliotis gigantea 或いはクロアワビの幼体や別な種と思われる。

「雌貝を良と爲」以上のように「雌」とあるのがメガイアワビ Haliotis gigantea であるが、現行では味の点でクロアワビに比べてやや劣るとされ、圧倒的にこちらの方が安価に取引される。本叙述を見ると、現在の堅い水貝の刺身が好まれるのに対し、軟らかい煮こんだものが好まれたと思しく、納得がいく。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十九章 一八八二年の日本 博物館 / 高嶺家での素敵なもてなし

 しばらく見物した上で、我々は往来を横切り、私の留守中に建てられた大きな二階建の建物へ行った。これは動物博物館なのである。帰国する前に行った私の最後の仕事は、二階建の建物の設計図を引くことであった。私の設計は徹底的に実現してある。私が最初につくった陳列箱と同じような新しい箱も沢山出来、そして大広間に入って、私の等身大の肖像が手際よく額に納められ、総理の肖像と相対した壁にかけてあるのを見た時、私は実にうれしく思ったことを告白せねばならぬ。私の大森貝墟に関する紀要に、陶器の絵を描いた画家が、小さな写真から等身大の肖像をつくったのであるが、確かによく似せて描いた。この博物館は私が考えていたものよりも、遙かによく出来上っていた。もっとも、すこし手伝えば、もっとよくなると思われる箇所も無いではないが――。

 

 その午後ドクタア・ビゲロウと私とは、小石川にある高嶺氏の家へ、晩餐に招かれた。宮岡氏と彼の兄さんの竹中氏とが、道案内として我々の所へ来た。家も庭園も純然たる日本風であった。但しオスウエゴ師範学校出身の高嶺氏は、西洋風をより便利なりとするので、一つの部屋だけには、寝台、高い机、卓子(テーブル)、椅子、その他が置いてあった。高嶺氏は、いろいろ興味ある事物の中の一つとして、矢場を持っていた。私も射て見たが、弓の右に矢をあてがって発射する方法が、我々のと非常に異うので、弓が至極扱いにくい。彼はまたクロケー場も持っていて、敬愛すべき老婦人たる彼の母堂と、高嶺の弟とがクロケーをやった。若い高嶺夫人は魅力に富み、非常に智的で、英語を自由にあやつる。

[やぶちゃん注:「高嶺」教育学者高嶺秀夫(安政元(一八五四)年~明治四三(一九一〇)年)。既注であるが再掲する。旧会津藩士。藩学日新館に学んで明治元(一八六八)年四月に藩主松平容保(かたもり)の近習役となったが九月には会津戦役を迎えてしまう。謹慎のために上京後、福地源一郎・沼間守一・箕作秋坪(みつくりしゅうへい)の塾で英学などを学び、同四年七月に慶応義塾に転学して英学を修めた(在学中に既に英学授業を担当している)。八年七月に文部省は師範学科取調のために三名の留学生を米国に派遣留学させることを決定、高嶺と伊沢修二(愛知師範学校長)・神津専三郎(同人社学生)が選ばれた。高嶺は一八七五年九月にニューヨーク州立オスウィーゴ師範学校に入学、一八七七年七月に卒業したが、この間に校長シェルドン・教頭クルージに学んでペスタロッチ主義教授法を修めつつ、ジョホノット(一八二三年~一八八八年:実生活にもとづく科学観に則る教授内容へ自然科学を導入した教育学者。)と交流を深め、コーネル大学のワイルダー教授(モースの師アガシーの弟子でモースの旧友でもあった)に動物学をも学んだ。偶然、このモースの再来日に同船して帰国、東京師範学校(現在の筑波大学)に赴任、その後、精力的に欧米最新の教育理論を本邦に導入して師範教育のモデルを創生した。その後、女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)教授や校長などを歴任した(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

「宮岡」前掲の宮岡恒次郎。

「竹中」既注であるが再掲すると、恒次郎の一つ上の実兄である竹中(八太郎)成憲(元治元(一八六四)年~大正一四(一九二五)年)は明治八(一八七五)年に慶応義塾に入り、次いで東京外国語学校学生を経て明治一三(一八八〇)年に東京大学医学部に進み、同二十年に卒業とともに軍医となるが、後に開業。モースやフェノロサの通訳を勤め、彼らの旅行にもしばしば同行した。

「クロケー」原文“croquet”。クロッケー。球技の一つで芝生の上に数個の鉄製の小門を並べ、その間をマレット(木槌)で木製の球を打って六箇所のフープ(門)を通過させ、最後に中央に立つペグ(杭)に当てる早さを競うもの。ゲートボールの原型。]

 

 六時頃、三人前の正餐が運び込まれた。婦人方や少年達はお給仕役をつとめるのである。それは純日本流な、この上もなく美味な正餐であり、そしてドクタア・ビゲロウがただちに、真実な嗜好を以て、出される料理を悉く平げたのは、面白く思われた。食事が終るに先立って、美しいコト(日本の竪琴(ハープ))が二面持ち込まれ、畳の上に置かれた。その一つは高嶺夫人に、他は東京に於て最も有名な弾琴家の一人であるところの、彼女の盲目の先生に属するのである。高嶺夫人は、彼女が巧妙な演奏者であることを啓示した。次に彼女は提琴(ヴァイオリン)を持って来た。盲目の先生は、弦を支える駒を、楽器のあちらこちらに上下させて、それが提琴と同じ音調になるようにし、彼の琴を西洋音楽の音階に整調した。高嶺夫人が提琴のような違った楽器で、本当の音を出すことが出来るとは信じられぬので、私は、どんな耳をぶち破るような演奏が始るのかと心ひそかに考えた。いよいよ始ると、私は吃驚した。彼女は大いなる力と正確さとを以て、「オウルド・ラング・サイン」、「ホーム・スイート・ホーム」、「グロリアス・アポロ」を弾奏し、盲人の先生はまるでハープでするような、こみ入った伴奏を、琴で弾いた。高嶺夫人は曲譜なしで演奏し、盲目の琴弾琴家は、いう迄もないが、曲譜なぞは見ることも出来ぬのである。音楽は勿論簡単なものであるが、私を驚かせたのは、その演奏に於る完全な調和音である。彼女はたった四十七日間しか弾琴を習っていない。私は、外国の、全然相違した楽器を弾いた高嶺夫人と、彼の楽器を変えて、彼にとってはまったく異物であるところの音調と音階とで、かかる複雑な演奏を行った弾琴家と、そのいずれに感心すべきか知らなかった。我々は、非常に遅くまで同家にいた。この経験は実に楽しかった。

[やぶちゃん注:「オウルド・ラング・サイン」“Auld Lang Syne”。スコットランド民謡で非公式な準国歌である邦訳「蛍の光」。原題は「久しき昔」。作者不詳。

「ホーム・スイート・ホーム」“Home, Sweet Home”。言わずもがな、イングランド民謡で邦題「埴生の宿」。イギリスのヘンリー・ローリー・ビショップ (Henry Rowley Bishop 一七八六年~一八五五年)の 作曲。

「グロリアス・アポロ」“Glorious Apollo”は私は聴いた記憶も名前も知らない曲である。「HGC and KGC alumni singing Glorious Apolloでお聴きあれ。イギリスのサミュエル・ウェブ(Samuel Webbe  一七四〇年~ 一八一六年)の作曲であるが、讃美歌のような感じだ。ところが何と、この曲、後に「小学唱歌集」の「君が代」(現在のそれとは異なる廃曲版であるが歌詞は同じ)の原曲となった。

 以下の段との間には、有意な一行空けが施されてある。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十九章 一八八二年の日本 懐かしい人々との再会

 二年前に別れた可愛らしい少年宮岡が、今夜私を訪れたが、私には一寸誰だか判らなかった位であった。彼は西洋風の服装をなし、立派な大人になっていた。英語もすこし忘れ、まごつくと吃った。翌朝博物館へ行って見ると、加藤総理の部屋に数名の日本人教授が私を待っていてくれた。菊池、箕作(みつくり)、矢田部、外山の諸教授と、服部副総理がそれである。間もなくドクタア加藤も来た。若し握手のあたたかさや、心からなる声音が何物かを語るものとすれば、彼等は明らかに、私が彼等に会って悦しいと同程度に、私に会うことを悦んだ。九谷焼の茶碗に入った最上のお茶と、飛切上等の葉巻とが一同にくばられ、我々はしばらくお互に経験談を取りかわして、愉快な時をすごした。事務員は皆丁寧にお辞儀をし、使丁達は嬉し気に微笑で私を迎え、私は私が忘れられて了わなかったのだということを感じた。動物学教授の箕作教授と一緒に、私は古い実験室へ入った。昔の私の小使「松」は、相好を崩してよろこんだ。石川氏は一生懸命に繊美な絵を描きつつあった。以前の助手種田氏もそこに居合わせ、すこし年取って見えたが、依然として職務に忠実である。彼は博物館の取締をし、松は今や俸給も増加して、大学の役員の一人になっている。

[やぶちゃん注:「今夜」日本到着の翌日である明治一五(一八八二)年六月五日の夜。加賀屋敷を訪問したその夜である。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、『東大の人々はモースとビゲローを歓迎し、在日中の宿舎として、本郷加賀屋敷にあった天象台(天文台)付属官舎の二室を無償で提供した。かつてモースが住んだ教師館五番館よりやや北にあった建物で、もともとは「観象台」と呼ばれていたが、明治十五年二月に気象台が分離し、この建物は「天象台」と改名されたのである』とあるから、「小宮岡」との再会はここでのここであろう。それ以降は翌六月六日の東京大学法文理三学部訪問のシークエンスである。

「宮岡」当時、満十七歳になっていた宮岡恒次郎(慶応元(一八六五)年~昭和一八(一九四三)年)。既注であるが再掲する。モースの冑山周辺横穴(現在の埼玉県比企郡吉見町にある吉見百穴)の調査に随行し、当地での講演で通訳を勤めている。これは川越原人氏のサイト「川越雑記帳」内の「モースと山田衛居」の「図説埼玉県の歴史」(小野文雄責任編集河出書房新社一九九二年刊)からの「外国人の見た明治初年の埼玉」の「モースの失言―熊谷・川越」という引用を参照されたい。そこには同行者にこの恒次郎の兄竹中成憲がいたとあり、この竹中成憲(当時は東京外国語学校学生であったと思われ、後に東大医学部に進み軍医となった)はこの弟恒次郎とともにモースや彼が日本への招聘に尽力したフェノロサの通訳や旅にも同行した人物である。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば後、フェノロサの美術収集旅行の通訳として同行、彼にとって欠かせない存在となったとあり、明治二〇(一八八七)年東京帝国大学法学部を卒業して外交官となり、後に弁護士となったと記す。また、床間彼方氏のブログ「青二才赤面録」の「宮岡恒次郎・その1」によれば、『明治16年、18才の恒次郎は李氏朝鮮の遣米使節団に顧問として加わっていたロウエルの要請により、同使節団の非公式随員となっている』ともあり、恒次郎のお孫さんによれば、実は本人曰く、『7才で蒸気船の石炭貯蔵室に隠れてアメリカに密航したと語っていたと』のこと。なかなか面白い。

「加藤総理」既注であるが再掲する(以下の何名かも同じ)。政治学者・官僚加藤弘之(天保七(一八三六)年~大正五(一九一六)年)。明治一〇(一八七七)年に東京大学法文理三学部綜理となった。啓蒙思想家であったが晩年は国家主義に転向した。明治三九(一九〇六)年には枢密顧問官となった。過去二回、モースが直接に契約を結んだ東京大学の代表者。

「菊池」菊池大麓(だいろく 安政二(一八五五)年~大正六(一九一七)年)は数学者・教育行政家。男爵・当時、東京大学理学部教授(純正及び応用数学担当)。江戸の津山藩邸に箕作阮甫(みつくりげんぽ)の養子秋坪(しゅうへい)の次男として生まれたが、後に父の本来の実家であった菊池家を継いだ。二度に亙ってイギリスに留学、ケンブリッジ大学で数学・物理を学んで東京大学創設一ヶ月後の明治一〇(一八七七)年五月に帰国、直ちに同理学部教授。本邦初の教授職第一陣の一人となった。後の明治二六年からは初代の数学第一講座(幾何学方面)を担任し、文部行政面では専門学務局長・文部次官・大臣と昇って、東京・京都両帝国大学総長をも務めた。初期議会からの勅選貴族院議員でもあり、晩年は枢密顧問官として学制改革を注視し、日本の中等教育に於ける幾何学の教科書の基準となった「初等幾何学教科書」の出版や教育勅語の英訳に取り組んだ。(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。動物学者箕作佳吉は弟で、大麓の長女多美子は天皇機関説で知られる憲法学者美濃部達吉と結婚、その子で元東京都知事美濃部亮吉は孫に当たる。

「箕作」箕作麟祥(みつくり りんしょう/あきよし 弘化三(一八四六)年~明治三〇(一八九七)年)は官僚で法学者・教育者・啓蒙思想家。祖父は前注の菊池大麓に出る蘭学者箕作阮甫で、父省吾は阮甫の婿養子、母しん(後に彼女は箕作秋坪の後妻となった。この辺りの婚姻関係は姻族と養子間で入り組んでいるので注意)は阮甫の四女だが、父省吾が若くして亡くなったので祖父・阮甫に育てられた。阮甫の死後、箕作家の家督を相続した。藤森天山・安積艮斎に漢学を、家で蘭学・英語を学び、文久元(一八六一)年に蕃書調所英学教授手伝並(てつだいなみ:その後の東京大学の前身「開成所」などにも受け継がれる役職階級の一つ。階層は教授―教授見習―教授手伝―教授手伝並の順。)となる。慶応三(一八六七)年には徳川昭武のパリ博覧会行に随行、帰国後は明治政府に入って西洋法律書の翻訳、旧民法等諸法典編纂などを通じて近代法制度の整備に貢献した。この間、東京学士院会員・元老院議官・貴族院議員・和仏法律学校(現在の法政大学)校長・行政裁判所長官などを歴任、また、明治初期には中江兆民・大井憲太郎等が学んだ家塾を開き、明六社にも参加している。長女貞子は動物学者石川千代松に、三女操子は物理学者長岡半太郎に、異父妹である直子は人類学者坪井正五郎にそれぞれ嫁いでいる。前注の菊池大麓、動物学者箕作佳吉、医学者の呉秀三は孰れも麟祥の従弟に当たる(以上は国立国会図書館の「近代日本人の肖像」の記載ウィキの「箕作麟祥」をカップリングした)。

「矢田部」本作では最も登場回数が多い東京大学初代植物学教授矢田部良吉(嘉永四(一八五一)年~明治三二(一八九九)年)。詩人としてこのまさに明治一五(一八八二)年の刊の近代詩のルーツ「新体詩抄」の詩人としても知られ、東京植物学会の創立者でもあったが、惜しくも鎌倉の沖で遊泳中に溺死した。享年四十九歳。

「外山」東京大学文学部教授外山正一(とやままさかず 嘉永元(一八四八)年~(明治三三(一九〇〇)年)。矢田部とともに「新体詩抄」の詩人としても知られる。後に東京帝大文科大学長(現在の東京大学文学部長)を経て、同総長・貴族院議員・第三次伊藤博文内閣文部大臣などを歴任した。

「服部副総理」服部一三(はっとりいちぞう 嘉永四(一八五一)年~昭和四(一九二九)年)は文部官僚・政治家。当時、浜尾新とともに法理文三学部綜理補であった(予備門主幹を兼任)。後に貴族院議員。これら加藤・浜尾・服部の三名が東京大学法理文三学部の最終決定権を掌握していた。

「動物学の箕作教授」わざわざモースが「動物学の」と冠しているのに注意。先の「箕作」麟祥ではなく、その弟で日本動物学会の創立者である箕作佳吉(みつくりかきち 安政四(一八五八)年~明治四二(一九〇九)年)である。津山藩医箕作秋坪の三男として江戸津山藩邸で生まれ、明治三(一八七〇)年に慶應義塾に入学、明治五(一八七二)年に大学南校(明治初期の政府所轄の洋学の大学校。慶応四(一八六八)年に江戸幕府の洋学校開成所を維新政府が接収して開成学校の名で復興。明治二 (一八六九) 年に同校と旧幕府昌平黌及び医学所を継承・合併して大学校としていた)に学んだのち、明治六(一八七三)年に渡米、ハートフォード中学からレンセラー工科大学で土木工学を学び、後にエール大学・ジョンズ・ホプキンス大学に転じて動物学を学んで、その後さらに英国に留学した。帰国後、東京帝国大学理科大学で日本人として最初の動物学の教授となり、明治二一(一八八八)年に理学博士、その後、東京帝国大学理科大学長を務めた。動物分類学・動物発生学を専攻とし、カキ養殖や真珠養殖に助言するなど、水産事業にも貢献した。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、『東大動物学教室では、モースの後任だったホイットマンが前年八月に退職して、十月十五日に日本を去り、その暮に欧米留学から帰国した箕作住吉が教室の中枢になっていた。モースはホイットマンの後任人事をすでに明治十三年(一八八〇)の春に東大首脳から依頼されていたらしく、その頃ジョンス・ホプキンス大学のブルックス教授(ペニキース島臨海実習会の会員だった)のもとで動物学を学んでいた箕作に東大教授就任を勧めたことがあった。このとき実作はモースの勧めを一応断ったのだが、結局東大側は実作を説得して帰国させたのであった』とあるから、実はモースは箕作佳吉とは旧知の仲であったのである。

『小使い「松」』雑用係の菊池松太郎(正式職名は「雇」)である。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の記載によれば、本書の他の箇所では「小使」「従者」「マツ」(ここで初めて“Matsu”と出るものと思う)と記されている人で、『前歴は皆目不明。またいつ動物学教室に来たかもわからない。モースの旅行には種田とともに従い、モースを助けた。器用なひとだったらしく、標本作成に熟練して重宝がられ、明治二十七年まで動物学教室にいた。その後、敬業社という博物学関係書の出版社にあった標本部に移ったが』、『以後の足取りはわからない』とある。ここでのモースの謂いからみると、この時は正式職員としての「雇」であったが、かつてモースが正規職員だった頃は実は、体のいい使用人扱いだったことが窺われる。マッサン! ガンバレ!

「石川」実は底本は「石田」となっている。こんな人物は知らないな、「石川」、石川千代松の誤りじゃないか? と不審に思って原文を見たら、ズバリ!“Mr. Ishikawa”となっていることが分かった。例外的に本文を補正した。当時、東京大学動物学科四年であった石川千代松(ちよまつ 万延元(一八六〇)年~昭和一〇(一九三五)年)である。石川は日本の動物学者で進化論学者で、明治四二(一九〇九)年に滋賀県水産試験場の池で琵琶湖のコアユの飼育に成功し、全国の河川に放流する道を開いた業績で知られる。以下、ウィキの「石川千代松によれば、『旗本石川潮叟の次男として、江戸本所亀沢町(現在の墨田区内)に生まれた』が明治元(一八六八)年の『徳川幕府の瓦解により駿府へ移った』。明治五年に『東京へ戻り、進文学社で英語を修め』、『東京開成学校へ入学した。担任のフェントン(Montague Arthur Fenton)の感化で蝶の採集を始めた』。明治一〇(一八七七)年十月には当時、東京大学教授であったモースが、蝶の標本を見に来宅したことは本作にも既に出ているから(「第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 49 教え子の昆虫少年を訪ねる」)、モースにとってはこの青年も旧知の仲であったのである。翌明治十一年、『東京大学理学部へ進んだ。モースが帰米したあとの教授は、チャールズ・オーティス・ホイットマン、次いで箕作佳吉であった。明治一五(一八八二)年、動物学科を卒業して翌年には同教室の助教授となっているとあるので、モースが逢った時はまだ「教授」でも「助教授」でもなかったものと思われる。その年、明治一二(一八七九)当時のモースの講義を筆記した「動物進化論」を出版しており、進化論を初めて体系的に日本語で紹介した人物としても明記されねばならぬ人物である。その後、在官のまま、明治一八(一八八五)年、新ダーウィン説のフライブルク大学アウグスト・ヴァイスマンのもとに留学、『無脊椎動物の生殖・発生などを研究』、明治二二(一八八九)年に帰国、翌年に帝国大学農科大学教授、明治三四(一九〇一)年に理学博士となった。『研究は、日本のミジンコ(鰓脚綱)の分類、琵琶湖の魚類・ウナギ・吸管虫・ヴォルヴォックスの調査、ヤコウチュウ・オオサンショウウオ・クジラなどの生殖・発生、ホタルイカの発光機構などにわたり、英文・独文の論文も』五十篇に上る。『さかのぼって、ドイツ留学から帰国した』明治二十二年の秋には、『帝国博物館学芸委員を兼務』以降、『天産部長、動物園監督になり、各国と動物を交換して飼育種目を増やした。ジラフを輸入したあと』、明治二八(一九〇七)年春に辞した。「麒麟(キリン)」の和名の名付け親であるとされる。

「種田」種田織三(安政三(一八五六)年~大正三(一九一四)年)舘(たて)藩(明治二(一八六九)年北海道檜山郡厚沢部(アッサブ)に新設)の出身で、諸藩から推挙された貢進生の一人として明治三年に大学南校に入り、九年に東京開成学校予科を出た。理由は不明であるが、種田は本科には進まず、モースの助手となった人物で、モース在任中は動物学教室の標本の採集や整理に従事、モースの北海道・東北旅行及び九州・関西旅行にも同行、謂わば、モースの右腕的存在であった。やがて、モース帰国直後に完成した博物場の管理を受け持つ博物場取調方となった(この当時もそうであった)。ところが明治十八年九月に東大を去り、その後は東京商業学校・山形県中学校・山形県師範学校などで教えていたらしいが、後の消息は不明である(以上は磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」に拠った)。]

甲子夜話卷之一 32 加藤淸正石垣の上手なる事

32 加藤淸正石垣の上手なる事

加藤淸正は石垣の上手なりしとぞ。今肥後隈本城の石垣はもとより高きが、其下に至り走り上るに、二三間は自由に上らるれど、それうへの所は頭の上にのぞきかゝりて、空は見えずとなり。傳云ふ、淸正の自ら築く所と。是は隈本に往たる者の話なり。

■やぶちゃんの呟き

 ウィキ熊本城によれば、『清正は特に石垣造りを得意とし、熊本城では、始め緩やかな勾配のものが上部に行くにしたがって垂直に近くなる「武者返し」と呼ばれる形状の石垣を多用している。熊本城で使用されている武者返しは慶長の役の際に朝鮮に築かれ、難攻不落と呼ばれた蔚山倭城(うるさんわじょう)に使用した築城技術を元にしたものである。上益城郡山都町(旧・矢部町)にある通潤橋は、江戸時代末期にこの熊本城の武者返しの石垣をモデルに架けられた。江戸幕府の仮想敵であった薩摩藩に対する備えとして建造されているため、南側が非常に堅固(その分北側がかなり手薄)な構造になっている。この構造が西南戦争で薩摩軍の包囲戦をしのぐことができた要因の一つとなっている。熊本市役所前の石垣は、長さとしては日本最長である』とある。熊本城公式サイト内の熊本城石垣」によると、荻生徂徠が享保一二(一七二七)年の著書「鈐禄(けんろく)」の中に『石垣ハ加藤淸正ノ一流アリ。彼家ノ士ニ飯田覺兵衞。三宅角左衞門ヲ兩カクトシテ石垣ノ名人ト云シモノナリ。石垣ヲ築クニハ、幕ヲ張テ、一円ニ外人ニ見セズト云。今ハ町人ノワザトナリ、武士ハ皆其術ヲ不知。淸正ノ築ケルハ大坂・尾州・肥後ノ熊本ナリ』と引いてある。

「隈本」熊本。

「二三間」約二・四~五・四メートル。

「往たる」「ゆきたる」。

譚海 卷之一 内外遷宮材木の事

○内外宮御遷宮造營の材木は木曾山より伐出(きりいだ)す也。日々筏に組(くみ)桑名より海をへて宮川に着(つく)事也。又所々山中の杣(そま)より奉納の材木とて伐流(きりなが)す。自然に漂着して浦々に至れども、丸の内に大の字の燒印をせし材木なれば、奉納の木とて海邊の民突流(つきなが)しやる。夫(それ)ゆへ終には勢州へ至る事也。扨修造の事纔(わづか)なるくさび壹つも材木壹本にて取用(とりもち)ひ、其餘は外に用ゆる事なければ、造立(ざふりふ)の後おびたゞしき殘木有(ある)事なり。此殘木みな神官の德分に成(なり)て工人へ賣(うり)やる。これにて雜器わりご樣(やう)の物飯櫃のたぐひまで作りひさぐ、されば勢州より出す器物、杢目(もくめ)すぐれたるは此謂)いは)れ也。みな山田といふ燒印あり。

[やぶちゃん注:この伊勢神宮式年遷宮用の木を調達する森林は現在も長野県木曽郡と岐阜県中津川市の阿寺山地にある。かつては「神宮備林」と呼ばれたが今は国有林の一部の扱いである。以下、ウィキ「神宮備林によれば、『長野県木曽郡上松町、王滝村、大桑村、と岐阜県中津川市の加子母・付知町などにまたがり』、約八千ヘクタールの広さを持つ。『現在は国有林の一部であり、林野庁中部森林管理局が管理、運営している。ここのヒノキは慣例により、式年遷宮用に優先的にまわされる』。『継続的に用材が供給できるように』、樹齢二百年から三百年の『用材の安定提供が可能なように計画的に植林された。神宮備林でなくなった現在も、その手法で運営されている』。伊勢神宮で二十年毎に行なわれる『式年遷宮は、大量のヒノキが必要である。その用材を伐りだす山(御杣山・みそまやま)は』、第三十四回式年遷宮までは三回ほど『周辺地域に移動したことはあるものの、すべて神路山、高倉山という内宮・外宮背後の山(神宮林)であった』。しかし、一回の遷宮で使用されるヒノキは一万本以上になり、『神宮林のヒノキでは不足しだす。その為、内宮用材は』第三十五回式年遷宮から三河国に、外宮用材は第三十六回式年遷宮から美濃国に移り、第四十一回式年遷宮から第四十六回式年遷宮までは、伊勢国大杉谷に移った。『しかしながら、原木の枯渇による伐り出しの困難さから』、宝永六(一七〇九)年の第四十七回式年遷宮から、『尾張藩の領地である木曽谷、裏木曽に御杣山は移動する。この地域は尾張藩により木材(木曽五木)が保護され、許可の無い伐採が禁じられていた』。『正式に指定、伐採が始まったのは』、寛政一〇(一七九八)年の伊勢神宮による御杣山指定からで、『現在でも式年遷宮用の用材は、この旧神宮備林から調達されている』。とある。「譚海」の成立は寛政七(一七九五)年自序であるからまさに正式に決定される直前であったことが分かる。謂わばこれはそうした公的認知への事前アッピールの性格を以って読まれたとも考えてよいであろう。]

堀辰雄 十月  正字正仮名版 附やぶちゃん注(Ⅹ)

 

十月二十四日、夕方  

 きのふ、あれから法隆寺へいつて、一時間ばかり壁畫を模寫してゐる畫家たちの仕事を見せて貰ひながら過ごした。これまでにも何度かこの壁畫を見にきたが、いつも金堂のなかが暗い上に、もう何處もかも痛ゐたしいほど剝落してゐるので、殆ど何も分からず、ただ「かべのゑのほとけのくにもあれにけるかも」などといふ歌がおのづから口ずさまれてくるばかりだつた。――それがこんど、金堂の中にはひつてみると、それぞれの足場の上で仕事をしてゐる十人ばかりの畫家たちの背ごしに、四方の壁に四佛淨土を描ゐた壁畫の隅々までが螢光燈のあかるい光のなかに鮮やかに浮かび上がつてゐる。それが一層そのひどい剝落のあとをまざまざと見せてはゐるが、そこに浮かび出てきた色調の美しいといつたらない。畫面全體にほのかに漂つてゐる透明な空色が、どの佛たちのまはりにも、なんともいへず愉しげな雰圍氣をかもし出してゐる。さうしてその佛たちのお貌(かほ)だの、寶冠だの、天衣だのは、まだところどころの陰などに、目のさめるほど鮮やかな紅だの、綠だの、黃だの、紫だのを殘してゐる。西域あたりの畫風らしい天衣などの綠いろの凹凸のぐあひも言ひしれず美しい。東の隅の小壁に描かれた菩薩の、手にしてゐる蓮華に見入つてゐると、それがなんだか薔薇の花かなんぞのやうな、幻覺さへおこつて來さうになるほどだ。

 僕は模寫の仕事の邪魔をしないやうに、できるだけ小さくなつて四壁の繪を一つ一つ見てまはつてゐたが、とうとうしまひに僕もSさんの櫓の上にあがりこんで、いま描いてゐる部分をちかぢかと見せて貰つた。そこなどは色もすつかり剝げてゐる上、大きな龜裂が稻妻形にできてゐる部分で、さういふところもそつくりその儘に模寫してゐるのだ。なにしろ、こんな狹苦しい櫓の上で、繪道具のいつぱい散らばつた中に、身じろぎもならず坐つたぎり、一日ぢゆう仕事をして、一寸平方位の模寫しかできないさうだ。どうかすると何んにもない傷痕ばかりを描いてゐるうちに一と月ぐらゐはいつのまにか立つてしまふこともあるといふ。――そんな話を僕にしながら、その間も絕えずSさんは繪筆を動かしてゐる。僕はSさんの仕事の邪魔をするのを怖れ、お禮をいつて、ひとりで櫓を下りてゆきながら、いまにも此の世から消えてゆかうとしてゐる古代の痕をかうやつて必死になつてその儘に殘さうとしてゐる人たちの仕事に切ないほどの感動をおぼえた。……

 それから金堂を出て、新しくできた寶藏の方へゆく途中、子規の茶屋の前で、僕はおもひがけず詩人のH君にひよつくりと出逢つた。ずつと新藥師寺に泊つてゐたが、あす歸京するのださうだ。さうして僕がホテルにゐるといふことをきいて、その朝訪ねてくれたが、もう出かけたあとだつたので、こちらに僕も來てゐるとは知らずに、ひとりで法隆寺へやつて來た由。――そこで子規の茶屋に立ちより、柿など食べながらしばらく話しあひ、それから一しよに寶藏を見にゆくことにした。

 僕の一番好きな百濟觀音は、中央の、小ぢんまりとした明かるい一室に、ただ一體だけ安置せられてゐる。こんどはひどく優遇されたものである。が、そんなことにも無關心さうに、この美しい像は相變らずあどけなく頰笑まれながら、靜かにお立ちになつてゐられる。……

 しかしながら、此のうら若い少女の細つそりとしたすがたをなすつてゐられる菩薩像は、おもへば、ずいぶん數奇(すき)なる運命をもたれたもうたものだ。――「百濟觀音」といふお名稱も、いつ、誰がとなへだしたものやら。が、それの示すごとく古朝鮮などから將來せられたといふ傳說もそのまま素直に信じたいほど、すべてが遠くからきたものの異常さで、そのうつとりと下脹(しもぶく)れした頰のあたりや、胸のまへで何をさうして持つてゐたのだかも忘れてしまつてゐるやうな手つきの神々しいほどのうつつなさ。もう一方の手の先きで、ちよいと輕くつまんでゐるきりの水瓶などはいまにも取り落しはすまいかとおもはれる。

 この像はさういふ異國のものであるといふばかりではない。この寺にかうして漸つと落ちつくようになつたのは中古の頃で、それまでは末寺の橘寺あたりにあつたのが、その寺が荒廢した後、此處に移されてきたのだらうといはれてゐる。その前はどこにあつたのか、それはだれにも分からないらしい。ともかくも、流離といふものを彼女たちの哀しい運命としなければならなかつた、古代の氣だかくも美しい女たちのやうに、此の像も、その女身の美しさのゆゑに、國から國へ、寺から寺へとさすらはれたかと想像すると、この像のまだうら若い少女のやうな魅力もその底に一種の犯し難い品を帶びてくる。……そんな想像にふけりながら、僕はいつまでも一人でその像をためつすがめつして見てゐた。どうかすると、ときどき搖らいでゐる瓔珞(やうらく)のかげのせゐか、その口もとの無心さうな頰笑みが、いま、そこに漂つたばかりかのやうに見えたりすることもある。さういふ工合なども僕にはなかなかありがたかつた。……

 それから次ぎの室で伎樂面などを見ながら待つてゐてくれたH君に追ひついて、一しよに寶藏を出て、夢殿(ゆめどの)のそばを通りすぎ、その南門のまへにある、大黑屋といふ、古い宿屋に往つて、晝食をともにした。

 その宿の見はらしのいい中二階になつた部屋で、田舍らしい鳥料理など食べながら、新藥師寺での暮らしぶりなどをきいて、僕も少々うらやましくなつた。が、もうすこし人竝みのからだにしてからでなくては、さういふ精進三昧はつづけられさうもない。それからH君はこちらに滯在中に、ちか頃になく詩がたくさん書けたといつて、いよいよ僕をうらやましがらせた。

 四時ごろ、一足さきに歸るといふH君を郡山(こほりやま)行きのバスのところまで見送り、それから僕は漸つとひとりになつた。が、もう小說を考へるやうな氣分にもなれず、日の暮れるまで、ぼんやりと斑鳩(いかるが)の里をぶらついてゐた。

 しかし、夢殿の門のまへの、古い宿屋はなかなか哀れ深かつた。これが虛子の「斑鳩(いかるが)物語」に出てくる宿屋。なにしろ、それはもう三十何年かまへの話らしいが、いまでもそのときとおなじ構へのやうだ。もう半分家が傾いてしまつてゐて、中二階の廊下など步くのもあぶない位になつてゐる。しかしその廊下に立つと、見はらしはいまでも惡くない。大和の平野が手にとるやうに見える。向うのこんもりした森が三輪山あたりらしい。菜の花がいちめんに咲いて、あちこちに立つてゐる梨の木も花ざかりといつた春さきなどは、さぞ綺麗だらう。と、何んといふことなしに、そんな春さきの頃の、一と昔まえのいかるがの里の若い娘のことを描ゐた物語の書き出しのところなどが、いい氣もちになつて思ひ出されてくる。――しかし、いまはもうこの里も、この宿屋も、こんなにすつかり荒れてしまつてゐる。夜になつたつて、筬(をさ)を打つ音で旅びとの心を慰めてくれるやうな若い娘などひとりもゐまい。だが、きいてみると、ずつと一人きりでこの宿屋に泊り込んで、毎日、壁畫の模寫にかよつてゐる畫家がゐるさうだ。それをきいて、僕もちよつと心を動かされた。一週間ばかりこの宿屋で暮らして、僕も仕事をしてみたら、もうすこしぴんとした氣もちで仕事ができるかも知れない。

 どのみち、けふは夢殿(ゆめどの)や中宮寺(ちゆうぐうじ)なんぞも見損つたから、またあすかあさつて、もう一遍出なほして來よう。そのときまでに決心がついたら、ホテルなんぞはもう引き拂つて來てもいい。……

 そんな工合で、結局、なんにも構想をまとめずに、暗くなつてからホテルに歸つてくると、僕は、夜おそくまで机に向つて最後の努力を試みてみたが、それも空しかつた。さうして一時ちかくなつてから、半分泣き顏をしながら、寢床にはひつた。が、晝間あれだけ氣もちよげに步いてくるせゐか、よく眠れるので、愛想がつきる位だ。――

 けさはすこし寢坊をして八時起床。しかし、お晝もけふはホテルでして、一日ぢゆう新らしいものに取りかかつてゐた。――こなひだ折口博士の論文のなかでもつて綺麗だなあとおもつた葛(くず)の葉(は)といふ狐の話。あれをよんでから、もつといろんな狐の話をよみたくなつて、靈異記(りやういき)や今昔物語などを搜して買つてきてあつたが、けさ起きしなにその本を手にとつてみてゐるうちに、そんな狐の話ではないが、そのなかの或る物語がふいと僕の目にとまつた。

 それは一人のふしあはせな女の物語。――自分を與へ與へしてゐるうちにいつしか自分を神にしてゐたやうなクロオデル好みの聖女とは反對に、自分を與へれば與へるほどいよいよはかない境涯に墮ちてゆかなければならなかつた一人の女の、世にもさみしい身の上話。――さういふ物語の女を見いだすと、僕はなんだか急に身のしまるやうな氣もちになつた。これならば幸先きがよい。さういふ中世のなんでもない女を描くのなら、僕も無理に背のびをしなくともいいだらう。こんやもう一晩、この物語をとつくりと考へてみる。

 ジャケット屆いた。本當にいいものを送つてくれた。けさなどすこうし寒かつたので、一枚ぐらいジャケットを用意してくればよかつたとおもつてゐたところだ。こんやから早速著てやらう。

 

[やぶちゃん注:「子規の茶屋」子規の知られた「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」は「法隆寺の茶店に憩ひて」という前書を持つが、その茶店が聖霊院前の池の側にあったもので、子規の句に因んで「柿茶屋」と呼称された。但し、この茶屋は大正三(一九一四)年秋に取り壊されているので(青龍氏のブログ「大和&伊勢志摩散歩」の法隆寺 子規の句碑(1)に拠る)、辰雄が入ったのはこの実際の「柿茶屋」ではないので注意。

「誌人のH君」不詳。識者の御教授を乞う。

「百濟觀音」広隆寺蔵弥勒菩薩像とともに、飛鳥時代を代表する仏像とされる国宝「観世音菩薩立像」の俗称。基本は樟(くすのき)製一木造の着彩であるが、両腕の肘から先と水瓶・天衣などは別材を継いである。高さ二・〇九メートルの八頭身、扁平で細く直立の左右均整。光背は木造で、その文様は飛鳥時代のものに似ているものの、それを支える支柱は竹竿を模して造られており、これは極めて珍しいものである。宝冠は線彫の銅版製、三個の青いガラス玉で飾られてある。以下、法隆寺国宝美術という頁から引用する。『独特の体躯の造形を有し、杏仁形(アーモンド形)の目や古式な微笑みをたたえる表情は神秘的であり、多数の随筆等によって紹介されるなど、我が国の国宝を代表する仏像の一つです』。『本来、百済観音は、虚空像菩薩として伝わっていました。虚空とは、宇宙を意味し虚空菩薩は宇宙を蔵にするほど富をもたらす仏様ということなのです』。『その宇宙の姿を人の形に表したのが百済観音だというわけです』。『もともと、この像は金堂の壇上で、釈迦三尊像の後ろに北向きに安置されていたもので、今は新築された百済観音堂に安置されていますが、この像の伝来は謎に包まれています。法隆寺の最も重要な古記録である』天平一九(七四七)年の『「法隆寺資財帳」などにも記載がなく、いつ法隆寺に入ったのかわかっていません』。元禄一一(一六九八)年の『「諸堂仏躰数量記」の金堂の条に「虛空藏立像、七尺五分」と、初めてこの像についてと思われる記事があらわれ、江戸時代』、延享三(一七四六)年に『良訓が記した「古今一陽集」に「虛空藏菩薩、御七尺餘、此ノ尊像ノ起因、古記ニモレタリ。古老ノ傳ニ異朝將來ノ像ト謂フ。其ノ所以ヲ知ラザル也」と記されているといいます』(原サイトの引用部の表記を正字正仮名に変更させて貰った)。『明治になって、それまで象と別に保存されていた、頭部につける金銅透彫で瑠璃色のガラス玉を飾った美しい宝冠が発見され、この宝冠に観音の標識である化仏があらわされていることから、虚空菩薩ではなく観音像であるとされるようになりました。いつしかこれに「百済国将来」という伝えがかぶせられて「百済観音」とよばれるようになったということです。しかし、作風からみて百済の仏像とはいえず、また朝鮮半島では仏像の用材に用いられていない楠の木でできていることから、日本で造られた像であると見られています』とある。グーグル画像検索百済観音をリンクさせておく。……私はこの……遠い昔、白血病った伯母のような百済観音が好きである……

「數奇(すき)」読みはママ。これは意味から言えば「すうき」の誤りとしか思われない。

「橘寺」聖徳太子建立七大寺(本寺の他は法隆寺(斑鳩寺)・広隆寺(蜂丘寺)・法起寺(池後寺)・四天王寺・中宮寺・葛木寺)の一つで聖徳太子生誕地ともされる奈良県高市郡明日香村にある天台宗の仏頭山上宮皇院菩提寺。本尊は聖徳太と如意輪観音。通称の橘寺は垂仁天皇の命により不老不死の果物を取りに行った田道間守(たじまもり)が持ち帰った橘の実を植えたことに由来する。

「大黑屋」前の章の私の注を参照されたい。

「三十何年かまへの話」「斑鳩物語」が『ホトトギス』に発表されたのは明治四〇(一九〇七)年。昭和一六(一九四一)年であるから、発表時でも四十三年前。

「そんな春さきの頃の、一と昔まえのいかるがの里の若い娘のことを描ゐた物語の書き出しのところ」注に引用済。以下の「夜になつたつて、筬を打つ音で旅びとの心を慰めてくれるやうな若い娘などひとりもゐまい」などもそちらを参照されたい。

「こなひだ折口博士の論文のなかでもつて綺麗だなあとおもつた葛の葉といふ狐の話」既注

「クロオデル」既注

「自分を與へれば與へるほどいよいよはかない境涯に墮ちてゆかなければならなかつた一人の女の、世にもさみしい身の上話」【2015年4月30日改注】当初、迂闊にも私はここに、『これは一体、「日本霊異記」或いは「今昔物語集」のどの話を指しているのか? 識者の御教授を是非とも乞うものである』という注をつけていたのであるが、昔の教え子から、これは辰雄の小説「曠野」の元になった「今昔物語集」巻第三十の「中務大輔娘成近江郡司婢語第四(なかつかさのたいふむすめあふみのぐんじのひとなることだいし)」ではないかと知らせて呉れた。如何にも私は愚鈍であった。辰雄がこの旅から帰って翌十一月に起筆から二日ほどで「曠野」を仕上げて十二月の『改造』に発表している。原話の梗概は以下の通り。――中務大輔某の娘が父母に先立たれ家が傾き、貧しさから自ら夫兵衛佐が身を退くようにさせ、独り零落したままに淋しく暮らしていた娘が、同居する尼の良かれと思う仲立ちの言うに任せ、近江国の郡司の子の側室となり下国、しかし正妻の嫉妬から、夫の父郡司の下働きとなった。そのうち、新任の国司の目にとまって声を掛けられたが、実はその国司は分かれた先の夫で、琵琶湖の波音のする中、遂に娘を忘れ難かった先夫が、「これぞこのつひにあふみをいとひつつ世にはふれども生けるかひなし」と一首を詠んで、自らの正体を涙ながらに明かす。しかし、その言葉を聴くや、女は己れの宿命の哀しさと恥ずかしさのあまり、息絶えてしまう――これはまさにこの辰雄の言葉通りの話であった。【二〇二三年二月三日削除追記】「曠野」はこの公開の直後、本ブログ・カテゴリ「堀辰雄」で全四回で、サイトでPDF縦書版(古いので孰れも正字は不全)で一括で公開し、「今昔物語集」の原話も注附きで原文をこちらに、私のオリジナル現代語訳をこちらに公開してある。

2015/04/25

堀辰雄 十月  正字正仮名版 附やぶちゃん注(Ⅸ)

 

十月二十三日、法隆寺に向ふ車窓で  

 きのふは朝から一しよう懸命になつて、新規に小說の構想を立ててみたが、どうしても駄目だ。けふは一つ、すべての局面轉換のため、最後のとつておきにしてゐた法隆寺へ往つて、こなひだホテルで一しよに話した畫家のSさんに壁畫の模寫をしてゐるところでも見せてもらつて、大いに自分を發奮させ、それから夢殿(ゆめどの)の門のまへにある、あの虚子の「斑鳩(いかるが)物語」に出てくる、古い、なつかしい宿屋に上がつて、そこで半日ほど小說を考へてくるつもりだ。

 

[やぶちゃん注:「畫家のSさん」不詳。識者の御教授を乞う。個人サイト「タツノオトシゴ」の「年譜」によれば、直前の条である二日前の昭和一六(一九四一)年十月二十一日に『阿部知二とその連れとともに三月堂や戒壇院を見て回る』とあった後に続けて『法隆寺の壁画を模写している絵描きさんやお寺の坊さんと知り合いになる』とある人物ではある。

『夢殿(ゆめどの)の門のまへにある、あの虚子の「斑鳩物語」に出てくる、古い、なつかしい宿屋』『虚子の「斑鳩物語」』というのは明治四〇(一九〇七)年に『ホトトギス』に掲載された高浜虚子の小説で、翌明治四十一年一月に出版された虚子初の短編小説集「鶏頭」に所収された。私は実は俳人としての虚子を生理的に激しく嫌悪している男である。しかし、少なくとも彼のこの写生文を意識した小説「斑鳩物語」は、しかしその映像性と浪漫性から――悔しいことに――大いに惹かれてしまう小品なのである。以下、簡単に梗概を記す。本文引用は国立国会図書館デジタルコレクション斑鳩物語」画像を視認した。踊り字「〱」は正字化した(新字体の全文は青空文庫のここで読める)。筆者然とした主人公(但し、公務員であって実は法隆寺や法起寺への来訪は公務であって物見遊山ではない。文部省所轄の文化財担当事務官か?)「余」が斑鳩の里を訪れ、法隆寺の夢殿の南門前にある両三軒の内の一つ、大黒屋という旅籠に泊り、『色の白い、田舎娘にしては才はじけた顏立ち』の『十七八の娘である』『お道』という仲居らしい少女に好感を抱く。また、ここに出る旅宿大黒屋は、「東京紅團」の「堀辰雄の奈良を歩く」の「法隆寺の鐘と大黒屋を歩く」によれば既に現存しない。当該頁では主人公「余」が持たれた欄干と思われるものが見える「旧大黒屋」の写真が見られる。辰雄はこの「斑鳩物語」のイメージを抱いて大黒屋を実際に訪れたのであった(次章参照)。以下、まず、「斑鳩物語」冒頭を引く。 

   《引用開始》

 法隆寺の夢殿の南門の前に宿屋が三軒ほど固まつてある。其の中の一軒の大黑屋といふうちに車屋は梶棒を下ろした。急がしげに奥から走つて出たのは十七八の娘である。色の白い、田舍娘にしては才はじけた顏立ちだ。手ばしこく車夫から余の荷物を受取つて先に立つ。廊下を行つては三段程の段階子を登り又廊下を行つては三段程の段階子を登り一番奧まつた中二階に余を導く。小作りな體に重さうに荷物をさげた後ろ姿が余の心を牽く。

 荷物を床脇に置いて南の障子を廣々と開けてくれる。大和一圓が一目に見渡されるやうないゝ眺望だ。余は其まゝ障子に(もた)れて眺める。

 此の座敷のすぐ下から菜の花が咲き續いて居る。さうして菜の花許りでは無く其に點接して梨子の棚がある。其梨子も今は花盛りだ。黃色い菜の花が織物の地で、白い梨子の花は高く浮織りになつてゐるやうだ。殊に梨子の花は密生してゐない。其荒い𨻶間から菜の花の透いて見えるのが際立つて美しい。其に處々麥畑も點在して居る。偶〻燈心草を作つた水田もある。梨子の花は其等に頓着なく浮織りになつて遠く彼方に續いて居る。半里も離れた所にレールの少し高い土手が見える。其土手の向うもこゝと同じ織物が織られてゐる樣だ。法隆寺はなつかしい御寺である。法隆寺の宿はなつかしい宿である。併し其宿の眺望がこんなに善からうとは想像しなかつた。これは意外の獲物である。

 娘は春日塗の大きな盆の上で九谷まがひの茶椀に茶をついで居る。やゝ斜に俯向いてゐる橫顏が淋しい。さきに玄關に急がしく余の荷物を受取つた時のいきいきした娘とは思へぬ。赤い襦袢の襟もよごれて居る。木綿の著物も古びて居る。それが其淋しい橫顏を一層力なく見せる。

 併しこれは永い間では無かつた。茶を注いでしまつて茶托(ちやたく)に乘せて余の前に差し出す時、彼はもう前のいきいきした娘に戾つて居る。

「旦那はん東京だつか。さうだつか。ゆふべ奈良へお泊りやしたの。本間(ほんま)にァ、よろしい時候になりましたなァ」

と脫ぎ棄てた余の羽織を疊みながら、

「御參詣だつか、おしらべだつか。あゝさうだつか。二三日前にもなァ國學院とかいふとこのお方が來やはりました」

と羽織を四つにたゝんだ上に紐を載せて亂箱の中に入れる。

 余は渇いた喉に心地よく茶を飮み干す。東京を出て以來京都、奈良とへめぐつて是程心の落つくのを覺えた事は今迄無かつた。余は膝を抱いて再び景色を見る。すぐ下の燈心草の作つてある水田で一人の百姓が泥を取つては(み)に入れて居る。箕に土が滿ちると其を運んで何處かへ持つて行く。程なく又來ては箕に土をつめる。何をするのかわからぬが此廣々とした景色の中で人の動いて居るのは只此百姓一人きりほか目に入らぬ。

 娘は緣に出て手すりの外に兩手を突き出して余の足袋の埃りを拂つて又之を亂箱の中に入れる。

「いゝ景色だナァ」

といふと直ぐ引取つて、

「此邊はなァ菜種となァ梨子とを澤山に作りまつせ。へー燈心も澤山に作ります。燈心はナー、あれを一遍よう乾かして、其から叩いてナー、それから又水に漬けて、其から長い(きり)のやうなもので突いて出しやはります。其から又疊の表にもしやはりまつせ。長いのから燈心を取りやはつて短かいのは大槪疊の表にしやはります」

「疊の表には藺をするのぢやないか。燈心草も疊の表になるのかい」

「いやな旦那はん。燈心草といふのが藺の(こ)つたすがな」

と笑ふ。余は電報用紙を革袋の中から取り出す。娘は棚の上の硯箱を下ろして蓋を取る。

「まァ」

といつて再び硯箱を取り上げてフツと輕く硯の上の埃りを吹いて藥罐(やくわん)の湯を差して墨を磨つて吳れる。墨はゴシゴシと厭やな音がする。

 電報を認め終つて娘に渡しながら、

「下は大變多勢のお客だね。宴會かい」

と聞く。娘は電報を二つに疊んで膝の上に置いて、

「いゝえ。皆東京のお方だす。大師講のお方で高野山に詣りやはつた歸りだすさうな。今日はこゝに泊りやはつてあした初瀨(はせ)に行きやはるさうだす。今晩はおやかましうおますやろ」

と娘は立たうとする。電報は一刻を急ぐ程の用事でもない。

「初瀨は遠いかい」

とわざと娘を引とめて見る。

「初瀨だつか」

と娘も一度腰を下ろして、

「初瀨はナー、そらあのお山ナー、そら左りの方の山の外れに木の茂つたとこがありますやろ……」

と延び上るやうにして、

「あこが三輪のお山で、初瀨はあのお山の向うわきになつてます。旦那はんまだ初瀨に(い)きやはつた事おまへんか」

「いやちつとも知らないのだ。さうかあれが三輪か。道理で大變に樹が茂つてゐるね。それから吉野は」

「吉野だつか」

と娘は電報を疊の上に置いて膝を立てる。手摺りの處に梢を出してゐる八重櫻が娘の目を遮ぎるのである。余は立上つて緣に出る。娘も余に寄り添うて手摺りに凭れる。

「そら、此向うに高い山がおますやろ、霞のかゝつてる。へーあの藪の向うだす。あれがナー多武の峰で、あの多武の峰の向うが吉野だす」

娘は櫻の梢に白い手を突き出して、

「あの高い山は知つとゐやすやろ……」

「あれか、あれが金剛山ぢやないか。あれは奈良からも見えてゐたから知つてる」

娘は手摺り傳ひに左りへ左へと寄つて行つて、

「旦那はん、一寸來てお見やす。そらあそこに百姓家がおますやろ。さうだす、今鴉の飛んでる下のとこ。さうだす、あの百姓家の左の方にこんもりした松林がおますやろ。そやおまへんがナー。それは鐵道のすぐ向うだすやろ。それよりももつとずつと向うに、さうだすあの多武の峰の下の方にうつすらした松林がありますやろ。さうさう。あこだす、あこが神武天皇樣の畝火山だす」

 娘の顏はますますいきいきとして來る。畝火山を敎へ終つた彼はまだ何物をか探して居る。彼の知つて居る名所は見える限り敎へてくれる氣と見える。

「お前大變よく知つて居るのね。どうしてそんなによく知つて居るの。皆な行つて見たのかい」

「へー、皆んな行きました」

といつて余を見た彼の眼は異樣に燃えてゐる。

「さう、誰と行つたの、お父サンと」

「いゝえ」

「お客さんと」

「いゝえ。そんな事聞きやはらいでもよろしまんがナァ」

と娘は輕く笑つて、

「私の行きました時も丁度菜種の盛りでなァ。さうさうやつぱり四月の中頃やつた」

と夢見る如き眼で一寸余の顏を見て、

「旦那はん、あんたはんお出でやすのなら連れていておくれやすいな、ホヽヽヽ私見たいなものはいやだすやろ」

「いやでも無いが、こはいナ」

「なぜだす」

「なぜでも」

「なぜだす」

「こはいぢやないか」

「しんきくさ。なぜだすいな、いひなはらんかいな」

「いゝ人にでも見つからうもんなら大變ぢやないか」

「あんたの」

「お前のサ」

「ホヽヽヽ、馬鹿におしやす。そんなものがあるやうならナー。……無い事もおへんけどナー。……ホヽヽヽ、御免やすえ。……アヽ電報を忘れてゐた。お風呂が沸いたらすぐ知らせまつせ」

と妙な足つきをして小走りに走つて疊の上の電報を(すく)ふやうに拾ひ上げて座敷を出たかと思ふと、襖を締める時、

「ほんまにおやかましう。御免やすえ」

 としづかに挨拶してニツコリ笑つた。

「お道はん、お道はん」

と下で呼ぶ聲がする。

「へーい」

といふ返辭も落ついて聞こえた。

 お道サンが行つたあとは俄に淋しくなつた。きのふ奈良でしらべた報告書の殘りを認める。時々下の間で多勢の客の笑ふ聲に交つてお道サンの聲も聞えるが、座敷が別棟になつてゐるのではつきりわからぬ。

 夢殿の鐘が鳴る。時計を見るともう六時だ。

   《引用終了》

その後、風呂が沸いたと告げにきた女将(おかみ)から、彼女は『此うちの娘でなくすぐ此裏の家の娘で、平常は自分のうちで機械機を織つて居るが、世話しい時は手傳ひに來る』娘と知る(ここまでが「上」)。

 翌日、「余」は法起寺の三重の塔を仰ぎ見て、それに無性に登りたくなり、寺の小僧に乞うて一緒に昇り出したものの、予想を超える難所で、ほうほうの体でやっと三層目の欄干へと辿りつく。『回廊傳ひに東の方に廻つて見る。宿屋の二階で見た菜の花畑はすぐ此塔の下までも續いて居る。梨子の棚もとびとびにある。麗かな春の日が一面に其上に當つて居る。今我等の登つてゐる塔の影は塔に近い一反ばかりの菜の花の上に落ちて居る』。

   《引用開始》

「又來くさつたな。又二人で泣いてるな」

と小僧サンは獨り言をいふ。見ると其塔の影の中に一人の僧と一人の娘とが倚り添ふやうにして立話しをして居る。女は僧の肩に凭れて泣いて居る。二人の半身は菜の花にかくれて居る。

「あの坊さん君知つてるのですか」

「あれなあ、私の兄弟子の了然(れうねん)や。學問も出來るし、和尙サンにもよく仕へるし、おとなしい男やけれど、思ひきりがわるい男でナー。あのお道といふ女の方がよつぽど男まさりだつせ。あのお道はナァ、親にも孝行で、機もよう織つて、氣立もしつかりした女でナァ、何でも了然が岡寺に居つた時分にナァ、下市とか上市とかで茶屋酒を飮んだ事のある時分惚れ合つてナァ、それから了然はこちらに移る、お道はうちへ歸るししてナァ、今でもあんなことして泣いたり笑つたりしてますのや。ハヽヽヽ」

と小僧サンは無頓着に笑ふ。お道は今朝から宿に居なかつたが今こゝでお道を見やうとは意外であつた。殊に其情夫が坊主であらうとは意外であつた。我等は塔の上からだまつて見下ろして居る。

 何か二人は話してゐるらしいが言葉はすこしも聞えぬ。二人は塔の上に人があつて見下ろして居やうとは氣がつくわけも無く、了然はお道をひきよせるやうにして坊主頭を動かして話して居る。菜の花を摘み取つて髮に挿みながら聞いてゐたお道は急に頭を振つて包みに顏をおしあてて泣く。

「了然は馬鹿やナァ。あの阿呆面見んかいナ。お道はいつやら途中で私に遇ひましてナー、こんなこというてました。了然はんがえらい(ぼん)さんにならはるのには自分が退(の)くのが一番やといふ事は知てるけど、こちらからは思ひ切ることは出來ん。了然はんの方から棄てなはるのは勝手や。こちらは焦がれ死に死ぬまでも片思ひに思うて思ひ拔いて見せる。と斯んなこというてました。私はお道好きや。私が了然やつたら坊主やめてしもてお道の亭主になつてやるのに。了然は思ひきりのわるい男や。ハヽヽヽヽ」

と小ぞ僧サンは重たい口で洒落たことをいふ。塔の影が見るうちに移る。お道はいつの間にか塔の影の外に在つて菜の花の蒸すやうな中に春の日を正面(まとも)に受けて居る。淚にぬれて居る顏が菜種の花の露よりも光つて美くしい。我等が塔を下りようと彼の大佛の穴くゞりを再びもとへくゞり始めた時分には了然も纔に半身に塔の影を止めて、半身にはお道の浴びて居る春光を同じく共に浴びてゐた。了然といふ坊主も美しい坊主であつた。

   《引用終了》

ここまでが「中」である。而して、その晩のこと、戻った大黒屋で晩酌に酒を数杯飲んで机に凭れてとろとろとし、

   《引用開始》

ふと目がさめて見るとうすら寒い。時計を見ると八時過ぎだ。二時間程もうたゝ寝をしたらしい。昨日に引きかへ今日は広い宿ががらんとして居る。客は余一人ぎりと見える。静な夜だ。耳を澄ますと二處程で(をさ)の音がして居る。

 一つの方はカタンカタンと冴えた筬の音がする。一つの方はボツトンボツトンと沈んだ音がする。其二つの音がひつそりした淋しい夜を一層引き締めて物淋しく感ぜしめる。初め其筬の音は遠いやうに思つたがよく聞くと餘り遠くでは無い。余は夢の名殘りを急須の冷い茶で醒ましてぢつと其二つの音に耳をすます。

 蛙の聲もする。はじめ氣がついた時は僅に蛙の聲かと聞き分くる位のひそみ(ね)であつたが、筬の音と張り競ふのか、あまたのひそみ音の中に一匹大きな蛙の聲がぐわアとする。あれが蛙の聲かなと不審さるゝ程の大きな聲だ。晝間も燈心草の田で啼いてゐたがあんな大きな聲のはゐなかつた。夜になつて特に高く聞えるのかも知れぬ。一匹其大きなのが啼き出すと又一つ他で大きなのが啼く。又一つ啼く。しまひには七八匹の大きな聲がぐわァぐわァと折角の夜の寂寥を攪きみ亂すやうに鳴く。其でも蛙の聲だ。はじめひそみ音の中に突如として起こつた大きな聲を聞いた時は噪がしいやうにも覺えたが、其が少し引き續いて耳に慣れると矢張り淋しいひそみ(ね)の方は一層淋しい。氣の(せい)か筬の音もどうやら此蛙の聲と競ひ氣味に高まつて來る。カタンカタンといふ音は一層明瞭に冴えて來る。ボツトンボツトンといふ音は一層重々しく沈んで來る。

 お神サンが床を延べに來る。

「旦那はん毛布(けつと)なんかおかぶりやして、寒むおまつか」

「少しうたゝねをしたので寒い。それに今晩は馬鹿に靜かだねえ。お道さんは來ないのかい」

「今晩は來やはりまへん。そら今筬の音がしてますやろ、あれがお道はんだすがな」

「さうかあれがお道さんか」

と余は又筬の音に耳を澄ます。前の通り冴えた音と沈んだ音とが聞こえる。

「二處でしてゐるね。其に音が違ふぢやないか。お道さんの方はどちらだい」

「そらあの音の高い冴え冴えした方な、あれがお道さんのだす」

「どうしてあんなに違ふの。機が違ふの」

「機は同じ事こつたすけれど、筬が違ひます。音のよろしいのを好く人は筬を別段に吟味(ぎんみ)しますのや」

 余は再び耳を澄ます。今度は冴えた音の方にのみ耳を澄ます。カタンカタンと引き續いた音が時々チヨツと切れる事がある。糸でも切れたのを繫ぐのか、物思ふ手が一寸とまるのか。お神サンは敷布團を二枚重ねて其上に上敷きを延べながら、

「戰爭の時分はナァ、一機(ひとはた)の織り賃を七十錢もとりやはりましてナァ、へえ繃帶にするのやさかい薄い程がよろしまんのや。其に早く織るものには御褒美を吳りやはつた。其時分は機もよろしうおましたけど、もう此頃はあきまへん。へーへあんたはん一機二十五錢でナア、一機といふのは十反かゝつてるので、なんぼ早うても二日はかゝります」

 お神サンは聞かぬ事まで一人で喋舌(しやべ)る。突然筬の音に交つて唄が聞こえる。

『苦勞しとげた苦しい息が火吹竹から洩れて出る』

「お道さんかい」

と聞くと、

「さうだす。えゝ聲だすやろ」

とお神サンがいふ。余は聲のよしあしよりもお道サンが其唄をうたふ時の心持を思ひやる。

「あれでナァ、筬の音もよろしいし唄が上手やとナァ、よつぽど草臥れが違ひますといナ」

「あんな唄をうたふのを見るとお道サンもなかなか苦勞してゐるね」

「ありや旦那はん此邊の流行唄(はやりうた)だすがナ、織子といふものはナァ、男でも通るのを見るとすぐ惡口の唄をうたうたりナァ、そやないと惚れたとかはれたとかいふ唄ばつかりだす」

 俄に男女の聲が聞こえる。

「どこへ行きなはる」

「高野へお參り」

「ハヽァ高野へ御參詣か。夜さり行きかけたらほんまにくせや」

「お父つはんはもう寢なはつたか」

「へー休みました」

 高野へ參詣とは何の事かと聞いて見たら、

「はゞかりへ行くことをナァ、此邊ではおどけてあないにいひまんのや」

とお神サンは笑つた。よく聞くと女の聲はお道サンの聲であつた。男の聲は誰ともわからぬ。長屋つゞきの誰かであるらしい。

 筬の音が一層高まつて又唄が聞こえる。唄も調子もうきうきとして居る。

『鴉啼迄寢た枕元櫛の三日月落ちて居る』

 お神サンは床を延べてしまつて、机のあたりを片づけて、火鉢の灰をならして、もうラムプの火さへ小さくすればよいだけにして、

「お休みやす。あまりお道サンの唄に聞きほれて風邪引かぬやうにおしなはれ」

と引下る。

 酒も醒めて目が冴える。筬の音を見棄てゝ此儘寢てしまふのも惜しいやうな氣がする。晝間書きさして置いた報告書の稿をつぐ。ふと氣がつくといつの間にやら筆をとゞめて、きのふのお道サンの喋舌つた事や、今日塔から見下ろした時の事やを回想しつゝ筬の音に耳を澄まして居る。又唄が聞こえる。

『大分世帶に(しゆ)んでるらしい目立つ鹿の子の油垢』

 調子は例によつてうきうきとして居るが、夜が更けた(せゐ)かどこやら身に沁むやうに覺える。これではならぬと更に稿をつぐ。

 終に暫くの間は筬の音も耳に入らぬやうになつて稿を終つた。今日で取調の件も終り、今夜で報告書も書き終つた。がつかりと俄に草臥れた樣に覺える。

 火を小さくして寢衣(ねまき)になつて布團の中に足を踏み延ばす。筬の音はまだ聞こえて居る。忘れてゐたが沈んだ方のもまだ聞えて居る。

 眠るのが惜しいやうな氣がしつゝうとうととする。ふと下で鳴る十二時の時計の音が耳に入つたとき氣をつけて聞いて見たら、沈んだ方のはもう止んでゐたが、お道サンの筬の音はまだ冴え冴えと響いてゐた。

   《引用終了》

なお、続けて、私は明治四一(一九〇八)年に出版された虚子初の短編小説集「鶏頭」に所収された初出に最も近いものを底本にした私の電子化した「斑鳩物語」があるので、余裕のある方は、そちらを読まれたい。俳人虚子は大嫌いだが、この小説は、妙に心に残る。そも……この「お道さん」に逢って見たかった気がするのは……恐らく……私だけではあるまい……]

大和本草卷之十四 水蟲 介類 ウミタケ

【和品】

ウミタケ 其肉長サ數寸内空シクシテ竹ノ如シ泥海ニ

生ス故備前筑後ニ多シ味美ナリ鹽糟ニツケテ遠キ

ニ寄ス其殻ハミソ貝ニ似テマルシカラ甚ウスクシテ破レヤスシ

カラノ内ニ腸アリ不可食竹ノ如クナル肉ハカラノ外ニア

リカラハ泥ノソコニアリ肉ハ上ニアリ故ニカラハ底貝ト云カラ

ハ肉ヲオホハス肉長クカラハ短シ此物ヲ取ルニ長キカタ

木ノ棒ノ末ニ又ヲ加ヘカキテトル殻脆クシテクタケヤスシ此物

ヲ久シクトリタル棒海水ニヒタシタル故ヤリノ柄ニ用テ

ツヨシ或曰ウミタケハ竹蟶ナルヘシト竹蟶ハ漳州府志曰

似蟶而圓類小竹節其殻有文是マテノ類ナリ小竹

節ニ類スルハ其殼ヲ云肉ニアラスウミタケハ肉長シ然レ

ハウミタケニ非ス〇以上海蛤類

〇やぶちゃんの書き下し文

【和品】

うみたけ 其の肉、長さ數寸、内〔(うち)〕、空しくして竹のごとし。泥海に生ず。故、備前・筑後に多し。味、美なり。鹽・糟につけて遠きに寄す。其の殻は「みぞ貝〔(がひ)〕」に似て、まるし。から、甚だ、うすくして破れやすし。からの内に腸あり。食ふべからず。竹のごとくなる肉は、からの外にあり。からは泥のそこにあり。肉は上にあり。故に、からは「底貝」と云ふ。からは肉をおほはず。肉、長く、からは短し。此の物を取るに、長き、かた木の棒の末に又(また)を加へ、かきとてとる。殻、脆くして、くだけやすし。此の物を久しくとりたる棒、海水にひたしたる故、「やり」の柄に用ゐて、つよし。或いは曰く、「うみたけ」は「竹蟶〔(ちくてい)〕」なるべしと。「竹蟶」は「漳州府志」に曰く、『蟶に似て圓〔(まる)〕し。小竹節に類(に)たり。其の殻、文〔(もん)〕有り。』と。是れ、「まて」の類なり。小竹〔の〕節に類するは、其の殼を云ふ、肉にあらず。「うみたけ」は、肉、長し。然れば、「うみたけ」に非ず。〇以上、海蛤類。

[やぶちゃん注:斧足綱異歯亜綱オオノガイ目ニオガイ超科ニオガイ科ウミタケ Barnea dilatata (本邦産亜種としてウミタケ Barnea dilatata japonica とするケースもある)。ウィキウミタケによれば、『主に韓国、日本の有明海、瀬戸内海など、中国の南シナ海、台湾、フィリピンなどの潮間帯より下側や河口沖、干潟の最干潮線より下、水深』五メートル以内の『軟らかい泥地に生息する。日本では北海道でも発見例がある。中国では養殖実験が行われている』。殻長八センチメートルほど、高さ五センチメートルほどの『灰色の貝殻を持つが、褐色の水管が発達しており、殻長の』三~四倍もの長さがある(「大和本草」本文では水管を「肉」と呼んでいるので注意)。『象の鼻に例えられる太い水管が発達している点ではバカガイ科のミルクイやナミガイなどと共通しているが、同科ではない。貝殻は薄いため、力を加えると割れやすく、漁の途中で割れる事が多い』。『水管を伸ばして、海水とともにデトリタスやプランクトンを吸い込んで捕食する』。『成長は比較的早く』、一年で殻長七センチメートル程度に成長する。『食用に漁獲される。有明海ではうみたけねじりという十字型またはT字型をした漁具を水中に入れて回転させ、横棒に水管を引っかけて取る。主に水管を食べる』。『日本では、新鮮なものを刺身、酢の物、酢みそ和えなどにしたり、炒め物にしたりする。有明海周辺では水管を干物や、粕漬けに加工して販売されている。干物の食味は干しするめに似るが、更に濃厚で、若干臭みがある』。『韓国では、鍋物などで食用にする他、干物を日本にも輸出している』とある。私の栗本丹洲「栗氏千蟲譜 巻九の鮮烈な図譜「泥笋(ウミタケ)」も是非ご覧あれ!

「みぞ貝」軟体動物門二枚貝綱マルスダレガイ目マテガイ超科ユキノアシタガイ科ミゾガイSiliqua pulchella であるが、ウミタケと比肩するものなら、同ミゾガイ属オオミゾガイ Siliqua alta とすべきであろう。殻の全体の雰囲気は似ていなくもないが、素人が見ても同じ種の殻には見えない。

「此の物を久しくとりたる棒、海水にひたしたる故、「やり」の柄に用ゐて、つよし」益軒にしては少し珍しい補足(脱線)注記である。このような槍の柄の材の処理法は見当たらないが、恐らく事実そうであったのであろう。興味深いではないか。

「竹蟶」異歯亜綱マルスダレガイ目マテガイ上科マテガイ科マテガイ属マテガイ Solen strictus 及び同マテガイ属に属する同形態の多様な仲間(後の「蟶」の項で掲げる)を指すと考えてよいであろう(但し、大陸では全く別の種もその中に混同しているか或いは博物学的に包括している可能性は頗る高い。例えば形状上、似ているこの全く異なる種であるウミタケを包含していた可能性は十分にあるということである)。

「漳州府志」清乾隆帝の代に成立した現在の福建省南東部に位置する漳州市一帯の地誌。「以上、海蛤類」ここまでで所謂、斧足(二枚貝)類は終りである、というのであるが、この後には、ここで述べている「蟶」が、さらにその次には「牡蠣」が出る。マテガイはその殻の柔らかさが、カキは固着性と殻の不定形から、孰れも二枚貝とは思わなかったというのは、まあ、肯けないことはない。]

甲子夜話卷之一 31 同砂村御成のとき西瓜を取らせられし事

31 同砂村御成のとき西瓜を取らせられし事

德廟砂村え成せ給しとき、何か御興に入らせ給こと有て、上意には、殊に暑(アツ)し、いづれも此邊の畑の西瓜を取り食ふべしと、衡指圖あり。皆畑主のおもはくも何かゞと思へども、上意なれば手々に取てける。殊に御きげんにて、程なく其所を御立がけに、代官を呼と上意あり。伊奈某御前に出たれば、此邊の西瓜を皆々へ取せたり。畑主共に價とらせよと、上意なり。一時の御遊戲までも、其結局かく周詳なる御事、いかにも感じ奉るべきことなり。

■やぶちゃんの呟き

「同」前の「30」の「有德廟」吉宗のエピソードを受ける。

「砂村」砂村新田。旧東京府南葛飾郡砂町。現在の東京都江東区東部にあった村。現在の北砂・南砂・新砂・東砂に当たる。ウィキ砂町に、砂村新左衛門一族が宝六島を開拓した際に開拓者の名前を取り「砂村」となったとある。

「手々」「てんで」。

「御立がけ」「おんたちがけ」。出立なされる折り。

「伊奈某」関東郡代伊奈忠逵(いなただみち 元禄三(一六九〇)年~宝暦六(一七五六)年)かと思われる。通称、半左衛門。ウィキ伊奈忠逵によれば、正徳二(一七一二)年五月、養父の忠順が没したのち関東郡代となり(当時の将軍は第六代徳川家宣であったが、同年十月に死去し家継に継がれた)、勘定吟味役上座を兼ねて老中の直属支配となった。享保四(一七一九)年、『上川俣(現・羽生市)に葛西用水元圦(もといり:取水口のこと)を設け、日向堀を通して利根川の水を引き、羽生領南方用水(幸手領用水)を開発した。また、井沢弥惣兵衛を助力し、見沼代用水の開削に貢献』した。しかし享保一四(一七二九)年五月九日に『手代の不正や収納した米が腐ったなどにより処罰され減封処分を受け』ている。『甘藷栽培を青木昆陽の試作以前に試み』、寛延三(一七五〇)年七月に退任、その跡は忠順の嫡男忠辰(ただとき)が継いでいる(但し、吉宗の逝去は寛延四年六月二十日であるから、忠辰の可能性が全くないとは言えないが、死の前年の夏の可能性は頗る低いと思われる)。

「周詳」「しゆうしやう」。聴き馴れぬ語であるが、万事細部に至るまで心遣いが行き届いていることであろう。

譚海 卷之一 勢州山田在家村掟の事

○勢州山田在の者物語せしは、其在所のある人の子共(こども)十一歳にて、江戸靑山商家へ奉公に下(くだ)し、給金一兩もらひ候を、在所の名主世話致し、壹ケ月銀八分(ぶ)の息にて村かたへ借付置(かしつけおき)、その子四十五歳の時在所へ歸るとき、右の金子三十五年をへて、利息数百金に及び、田地をもとめ子孫今に繁昌してありといへり。都(すべ)て勢州の農家は、其名主年寄の下知を愼みあへて違背せず、名主も支配の百姓を子弟のごとく扶助し少(すこし)も疎略せず、支配の百姓子どもあまたあるをば、名主見廻りて骨つよきを差圖して家督とさだめ、農事をならはせ、殘りはみな江戸へ奉公に出(いで)さする事也。又普請等の事も、たとへば一村百姓廿人あれば、巡番をさだめて毎年壹人づつ居宅普請(きよたくぶしん)する也。廿年にてのこらず新宅普請出来る也。先(まづ)壹軒の家普請の期(き)至れば、殘る十九人のもの竹何束(ぞく)・萱(かや)何束・繩何程・米何升・錢何十疋づつとさだめありて支度し、件(くだん)の通り銘々名主方へもち行(ゆく)。扨名主方にて集(あつ)め置(おき)普請すべき當人をよびよせ、村中より合力(かふりよく)の品を渡す。右十九人よりもらひたるものにて普請すれば、土木の費(つひへ)なく普請の品買(かひ)とゝのへずして出來る也。普請の日に至れば、十九人の者同時に其家に行(ゆき)て合力し、誰々は柱たて垣(かき)あみ、誰々は壁ぬりやねふき役と定(さだめ)て取懸(とりかか)るゆへ、即時に成就する也。飯米野菜料(はんまひやさいりやう)共(ども)もらひたる物にて事たり、普請の庭に筵を敷(しき)羣居(むれゐ)して飲食(のみくひ)、暮に及(および)て歸る也。普請出來て後、米も鏡も殘る程の事也。來年他の家普請の時に當りても、又今年普請料もらひしごとく、萱・竹・飯米等まで贈る事也とぞ。又村のうちに閑地(かんち)あれば、名主方にて松杉の苗を買求(かひもと)て、人々に分付(ぶんぷ)し植付(うゑつけ)させ、其(それ)樹年を經て林となれば伐取(きりとら)せて他(ほか)かたへ賣(うり)やり、苗の價(あたひ)を名主方へ引取(ひきとり)、殘りたる銭にて本人に馬を買用(かひもちゐ)させ、亦は耕具をとゝのへさせ、ひたすら農作の精力をはげます事となりて、恩愛相得て人々業(わざ)に怠りすさむ事なしとぞ。勢州はすべて十石にみちたる農家なし。別(べつし)て紀州領等は賦納重けれども、人々地力を盡し倹約なれば生計(たつき)にくるしむ者なし。他方になき掟なりといへり。

[やぶちゃん注:所謂、伊勢山田に於ける驚くべき郷村内相互扶助システムである「山田三方(やまださんぽう)」の記載である。山田三方は「三方寄合(さんぽうよりあい)」「三方老若(さんぽうろうにゃく)」とも呼称されたもので、十五世紀前葉の永享年間に伊勢大神宮の神役人(じんやくにん:所謂、御師(通常は「おし」と読むが、伊勢神宮では他と区別して「おんし」と呼ぶ。)のこと。)らが彼らより上級の下級神職である刀禰(とね)の勢力を駆逐して山田に自治組織を樹立、山田三方会合所(やまださんぽうえごうしょ)という役所を設け、伊勢神宮に対しては賦課を勤仕し、爾来幕末に至るまで、山田の町政を荷負ってきたものである(ここはウィキの「山田三方」に拠った)。

「勢州山田」現在の三重県伊勢市の山田。ウィキの「山田(伊勢市)」によれば(注記号は省略した)、『伊勢神宮外宮の門前町(厳密には鳥居前町)として成熟してきた地域であり、現在の伊勢市街地に相当する。古くは「ようだ」「やうだ」などと発音した』とあり、「歴史」の項を見ると、『山田の歴史は深く、倭町で弥生時代の竪穴式住居跡が発見されるなど、有史以前から人々が居住していたことが分かっている』。『しかし、宮川や豊川はたびたび氾濫を起こしたため、実際に定住が進み集落が形成されたのは』雄略天皇二二(四七八)年に『豊受大神が山田原に鎮座して以降だと考えられている』。『中世に入ると朝廷からの資金が滞るようになったことに加え、荘園勢力の台頭により山田は衰退の一途をたどることになる。そこに外宮の禰宜度会家行が現れ、伊勢神道(度会神道)を興す。これは外宮の祭神が内宮よりも神格が上であると主張するもので、山田の地位向上に大いに効果を発揮した。更に御師の活躍で全国に檀家を持つようになり、復興を果たしたと共に地理的な特性もあり、室町時代頃には内宮を擁する宇治を上回る規模に発展した』。『この頃山田と宇治の対立が激化し、たびたび町や神宮が炎上していた。また、代々の神官家と新興勢力との対立・衝突も見られた』。『こうして力を付けた山田には郷(村)ごとに惣が結成され、それらをまとめる団体として山田三方が組織された。山田三方は神宮と深いつながりを持つ土倉などの有力者から構成され、座の営業権などを取り決める自治組織としての役割を果たした。その規模は、堺や博多に並ぶものであったとされる。この山田三方は明治時代に近代国家が成立するまで山田の自治組織として続いた』。『近世になるとお蔭参りの流行などにより、町はますます発展し』た(徳川家康は宮川以東の神領を管轄するため慶長八(一六〇三)年に山田奉行所を山田吹上に置いたと附記がある)。

「息」利息。山田三方のこの少年の家を担当していた名主は、この商家より、少年を奉公に出した際の謝礼金一両を受け取らずに、それに「月銀八分」(一分は十厘で、一匁が十分であるから、京都故実研究会の「江戸時代の金額や数値に変換」を基に、江戸中期の金一両を銀六十匁で現在の八万円相当で換算すると――千六十六円――となる)の利息を付けさせたのである。単純計算しても奉公の二十四年間で利息だけでも有に三十万円を超えることになる(ただ、ここで「利息數百金」とあるが、銀六十匁が銀一両でこれを「一金」と呼んだから、これで計算すると利息は現在の数千万円を軽く超えることになってしまうので、この「數百金」というのは塵も積もっての類いの誇張表現であろう)。当時の農村にあってこの元少年の貯えた金額も含められるから五十万円以上、百万円程度の金があれば「田地をもとめ子孫今に繁昌してあり」というのも如何にも納得出来る。

「合力」金銭や物品を与えて助けることをいう。

「紀州領」ウィキの「紀州藩」によれば、伊勢国には飯高郡の全域と、三重郡に一村・河曲郡内に三十五村・一志郡内に五十八村・多気郡内に九十七村・伊勢神宮のあった度会郡内には百四十七村もの紀州藩領があった。]

2015/04/24

北條九代記 卷第七 下河邊行秀補陀落山に渡る 付 惠蕚法師

      〇下河邊行秀補陀落山に渡る 付 惠蕚法師

貞永二年五月の末に、紀州絲我莊(いとがのしやう)より、一封(ほう)の書を武藏守泰時に奉る。即ち將軍家の御前に持參して、周防〔の〕前司親實(ちかざね)に讀ましめらる。昔、右大將賴朝卿、下野國那須野の御狩の時、大鹿一頭(づ)、勢子(せこ)の内に蒐(かけ)下る。賴朝卿、御覽ぜられ、殊に勝れたる射手(いて)を撰(えら)ばし、下河邊(しもかうべの)六郎行秀に仰付られたり。行秀、嚴命を蒙(かうぶ)り、馳向(はせむか)うて、矢を發(はた)つに、鹿に當らず。勢子の外に走り出しを、小山〔の〕左衞門尉朝政、一矢にて射留(いとめ)たり。下河邊行秀は面目を失ひ、狩場にして髻(もとゞり)を切り、出家して逐電す。行方、更に知る人なかりけるに、智定房(ちぢやうばう)と名を付(つ)き、暫く山頭(さんとう)に籠りて行ひしが、熊野の那智の浦より舟に乘りて南海補陀落山(ふだらくせん)にぞ渡りける。屋形舟(やかたぶね)に入りて後に、外より屋形の戸を釘付(くぎづけ)にし、四方に窓もなし。日月の光を見ることなく、燈火(ともしび)を微(かすか)にし、食物(しよくぶつ)には、栗(くり)、栢(かや)、少づつ命を助け、一心に法華經を讀誦し、三十餘日にして到著(たうちやく)す。岸に上りて、山の姿を拜み廻(めぐ)るに、山徑(さんけい)危く險(けは)しくして、岩谷(がんこく)、幽邃(いうすゐ)なり。山の頂(いたゞき)に池あり。大河を流して、山を廻りて海に入る。池の邊に、石の天宮(てんぐう)あり。觀世音菩薩遊行(ゆぎやう)の所なり、願行(ぐわんぎやう)滿ちたる人は、直に菩薩を拜むといへり。智定房、この山に五十餘日留(とゞま)りて、御經を讀み奉り、又舟に取乘(とりのつ)て、熊野の那智に歸りつゝ、同法(どうばふ)の沙門に書を誂(あつら)へ、武藏守殿に參(まゐら)せたり。在俗の時には、弓馬の友にて候ひしが、智定房出家以後の事共を、具(つぶさ)に記(しるし)て奉りぬ。哀(あはれ)なりける事共多かりけり。後に行末を尋ねらるゝに、更に又、知る人なし。古(いにしへ)、文德(もんとく)天皇の御宇、齋衡(さいかう)二年に、惠蕚(ゑがく)法師とて、道行(だうぎやう)の上人、橘太后(たちばなのたいこう)の仰(おほせ)に依つて、入唐(につたう)して五臺山(だいさん)にのぼり、觀世音菩薩の像を感得し、四明(しめい)山より、日本に歸朝せし所に、風に離(はな)されて補陀洛山に至りたり。舟を出さんとするに、更に動かず、怪(あやし)みて像(ざう)を舟より上げたりければ、舟は輕(かろらか)に出でたり。惠蕚は、觀音の像を置きて歸らんことを悲(かなし)み、海邊に庵(いほり)を結びて、住居(ぢうきよ)して、誦經奉事(じゆきやうぶじ)す。後に漸く寺となる。禪刹の名藍(めいらん)なり。智定房は重(かさね)て南海を渡りて、この山にや行(おこな)ひけん。殊勝の事なりとぞ語られける。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻二十九の天福元(一二三三)年五月二十七日の条に拠る。

「貞永二年」一二三三年。この貞永二年四月十五日(ユリウス暦一二三三年五月二十五日) に天福に改元しているから、ここは正確には天福元年である。本条は私の偏愛する本邦の中世に於いて行われた、過酷な捨身行である補陀落渡海(ふだらくとかい)のエピソードとして広く知られるものである。以下、ウィキの「補陀落渡海」から引く。『この行為の基本的な形態は、南方に臨む海岸に渡海船と呼ばれる小型の木造船を浮かべて行者が乗り込み、そのまま沖に出るというものである。その後、伴走船が沖まで曳航し、綱を切って見送る。場合によってはさらに』煩悩の数を表象する百八の石を『身体に巻き付けて、行者の生還を防止する。ただし江戸時代には、既に死んでいる人物の遺体(補陀洛山寺の住職の事例が知られている)を渡海船に乗せて水葬で葬るという形に変化する』。『最も有名なものは紀伊(和歌山県)の那智勝浦における補陀落渡海で、『熊野年代記』によると』、貞観一〇(八六八)年から享保七(一七二二)年の間に二十回行われたとされる(下線やぶちゃん)。『この他、足摺岬、室戸岬、那珂湊などでも補陀落渡海が行われたとの記録がある』。『熊野那智での渡海の場合は、原則として補陀洛山寺の住職が渡海行の主体であった』とあるが、ここに本条に出る下河辺六郎行秀という元武士の渡海を例外として記してある。『日秀上人のように琉球に流れ着き、現地で熊野信仰及び真言宗の布教活動を行った僧もいたと伝わって』おり、また、『補陀落渡海についてはルイス・フロイスも著作中で触れている』。『仏教では西方の阿弥陀浄土と同様、南方にも浄土があるとされ、補陀落(補陀洛、普陀落、普陀洛とも書く)と呼ばれた。その原語は、チベット・ラサのポタラ宮の名の由来に共通する、古代サンスクリット語の「ポータラカ」である。補陀落は華厳経によれば、観自在菩薩(観音菩薩)の浄土である』。『多く渡海の行われた南紀の熊野一帯は重層的な信仰の場であった。古くは『日本書紀』神代巻上で「少彦名命、行きて熊野の御碕に至りて、遂に常世郷に適(いでま)しぬ」という他界との繋がりがみえる。この常世国は明らかに海との関連で語られる海上他界であった。また熊野は深山も多く山岳信仰が発達し、前述の仏教浄土も結びついた神仏習合・熊野権現の修験道道場となる。そして日本では平安時代に「厭離穢土・欣求浄土」に代表される浄土教往生思想が広まり、海の彼方の理想郷と浄土とが習合されたのであった』。以下、「琉球における影響」の項。「琉球国由来記巻十」の『「琉球国諸寺旧記序」によれば、咸淳年間』(一二六五年~一二七四年/本邦では文永二年~文永十一年に相当)に『国籍不明の禅鑑なる禅師が小那覇港に流れ着いた。禅鑑は補陀落僧であるとだけ言って詳しいことは分からなかったが、時の英祖王は禅鑑の徳を重んじ浦添城の西に補陀落山極楽寺を建立した。「琉球国諸寺旧記序」は、これが琉球における仏教のはじめとしている』とある。ここに出る『補陀洛山寺』についてもウィキの「補陀洛山寺」から引いておく。前のウィキの「補陀落渡海」の記述とやや異なる記述があるので、内容の重出を厭わず引用する。『補陀洛山寺(ふだらくさんじ)和歌山県東牟婁郡那智勝浦町にある、天台宗の寺院。補陀洛とは古代サンスクリット語の観音浄土を意味する「ポータラカ」の音訳である』。『仁徳天皇の治世にインドから熊野の海岸に漂着した裸形上人によって開山されたと伝える古刹で、平安時代から江戸時代にかけて人々が観音浄土である補陀洛山へと小船で那智の浜から旅立った宗教儀礼「補陀洛渡海」で知られる寺である』。『江戸時代まで那智七本願の一角として大伽藍を有していたが』、文化五(一八〇八)年の『台風により主要な堂塔は全て滅失した。その後長らく仮本堂であったが』、一九九〇年に『現在ある室町様式の高床式四方流宝形型の本堂が再建された』。『補陀洛は『華厳経』ではインドの南端に位置するとされる。またチベットのダライ・ラマの宮殿がポタラ宮と呼ばれたのもこれに因む。中世日本では、遥か南洋上に「補陀洛」が存在すると信じられ、これを目指して船出することを「補陀洛渡海」と称した。記録に明らかなだけでも日本の各地(那珂湊、足摺岬、室戸岬など)から』四十件を超える『補陀洛渡海が行われており、そのうち』二十五件が『この補陀洛山寺から出発している』とある(下線やぶちゃん。このウィキの「補陀落渡海」との違いは誤りではなく、時制上の閉区間の違いによるものであろう)。

「絲我莊」現在の和歌山県有田(ありだ)市糸我町。この補陀落渡海で知られる那智の補陀落山寺からは直線で東北へ八十五キロメートルほどの位置にある。この当時の紀伊半島に於ける北条方の有力豪族が支配していたのであろう。

「周防前司親實」藤原親実(ちかざね 生没年不詳)は将軍頼経に仕えた諸大夫で、御所の祭祀及び礼法を司る御所奉行。文暦二(一二三五)年に厳島社造営を命ぜられて周防守護から安芸守護に転任し、厳島神社神主に任ぜられている。寛元二(一二四四)年に上洛、六波羅評定衆となっている。後、周防守護に復職して寛元三年から建長三(一二五一)年迄の在職が確認出来る(以上は「朝日日本歴史人物事典」の永井晋氏の解説を参照した)。

「下野國那須野の御狩の時」「下野國那須野」は栃木県北東部。現在、那須塩原市内。これは恐らく、以下の「吾妻鏡」の建久四(一一九三)年四月二日の条に出る狩りであろう。

   *

〇原文

二日戊戌。覽那須野。去夜半更以後入勢子。小山左衞門尉朝政。宇都宮左衞門尉朝綱。八田右衞門尉知家。各依召獻千人勢子云々。那須太郎光助奉駄餉云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

二日戊戌。那須野を覽る。去ぬる夜半更以後、勢子を入る。小山左衞門尉朝政、宇都宮左衞門尉朝綱、八田右衛門尉知家、各々、召に依つて千人の勢子を獻ずと云々。

   *

 那須太郎光助、駄餉(だしやう)を奉ると云々。

文中の「駄餉」は弁当のこと。

「勢子」「列卒」とも書く。狩猟で鳥獣を狩り出したり、逃げるのを防いだりする人夫。かりこ。

「下河邊六郎行秀」専ら、この補陀落渡海をした智定房として知られる。姓からは現在の千葉県北部の下総国葛飾郡下河辺庄の出身と思われ、下河辺氏は藤原秀郷流太田氏流の流れを汲むか。

「小山左衞門尉朝政」(保元三(一一五八)年?~嘉禎四(一二三八)年)は頼朝直参の家臣で奥州合戦でも活躍した。

「山頭」山の頂上。具体的な場所を示すものではないが、補陀落渡海からは那智の滝の直近にある那智山青岸渡寺辺りが私にはイメージされる。

「屋形舟」この補陀落渡海のための渡海船については、ウィキの「補陀落渡海」に、『渡海船についての史料は少ないが、補陀洛山寺で復元された渡海船の場合は、和船の上に入母屋造りの箱を設置して、その四方に四つの鳥居が付加されるという設計となっている。鳥居の代わりに門を模したものを付加する場合もあるが、これらの門はそれぞれ「発心門」「修行門」「菩提門」「涅槃門」と呼ばれる』。『船上に設置された箱の中には行者が乗り込むことになるが、この箱は船室とは異なり、乗組員が出入りすることは考えられていない。すなわち行者は渡海船の箱の中に入ったら、箱が壊れない限りそこから出ることは無い』。『渡海船には艪、櫂、帆などの動力装置は搭載されておらず、出航後、伴走船から切り離された後は、基本的には海流に流されて漂流するだけとなる』とある。これについてウィキの「補陀洛山寺」の方では、『船上に造られた屋形には扉が無い。屋形に人が入ると、出入り口に板が嵌め込まれ外から釘が打たれ固定されるためである。その屋形の四方に』四つの鳥居が建っている。『これは「発心門」「修行門」「菩薩門」「涅槃門」の死出の四門を表しているとされる』。渡海は北風が吹き出す旧暦の十一月に行われ、『渡海船は伴船に沖に曳航され、綱切島近くで綱を切られた後、朽ちたり大波によって沈むまで漂流する。もちろん、船の沈没前に渡海者が餓死・衰弱死した事例も多かったであろう。しかし、船が沈むさまを見た人も、渡海者たちの行く末を記した記録も存在しない』とする。以下、「渡海者と金光坊」の項。『渡海者たちについて詳しく記した資料は残っていないが、初期は信仰心から来る儀礼として補陀洛渡海を行っていたと考えられている。平安・鎌倉時代を通じて』六名が渡海したと『補陀洛山寺に建つ石碑に記されている。これが戦国時代になる』と、六十年間に九名もの渡海者が現れたとされ、『この頃になると、熊野三山への参詣者が減少したことから、補陀洛渡海という捨身行によって人々の願いを聞き届けるという形で宣伝され、勧進のための手段としての側面が現れたとされる』。十六世紀後半には、『金光坊という僧が渡海に出たものの、途中で屋形から脱出して付近の島に上陸してしまい、たちまち捕らえられて海に投げ込まれるという事件が起こった。後にその島は「金光坊島(こんこぶじま)」とよばれるようになり、またこの事件は井上靖の小説『補陀洛渡海記』の題材にもなっている』(井上の作品は諸星大二郎の漫画で異端の民俗学者稗田礼二郎(編集者によってシリーズ名を不本意にも「妖怪ハンター」と名付けられてしまった)シリーズの「六福神」の短編「帰還」とともに私の補陀落渡海を素材とした愛読書である)。『江戸時代には住職などの遺体を渡海船に載せて水葬するという形に変化したようである』とある。私は二〇〇六年夏、念願のこの地に参り、親しく渡海僧の供養塔や復元された渡海舟も見、写真にも収めたのであるが、すぐにそれが出てこない。取り敢えず、ウィキの「補陀落渡海」にある使用が許諾されている663highland 氏の写真を以下に掲げておくこととする。
 

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「栢」裸子植物門マツ綱マツ目イチイ科カヤ
Torreya nucifera ウィキの「カヤ」によれば、『種子は食用となる。そのままではヤニ臭くアクが強いので数日間アク抜きしたのち煎るか、土に埋め、皮を腐らせてから蒸して食べる。あるいは、灰を入れた湯でゆでるなどしてアク抜き後乾燥させ、殻つきのまま煎るかローストしたのち殻と薄皮を取り除いて食すか、アク抜きして殻を取り除いた実を電子レンジで数分間加熱し、薄皮をこそいで実を食す方法もある。果実から取られる油は食用、灯火用に使われるほか、将棋盤の製作過程で塗り込まれる。将棋盤のメンテナンス用品としても使用される。また、山梨県では郷土の食品として、実を粒のまま飴にねりこみ、板状に固めた「かやあめ」として、縁日などで販売される。また、カヤの種子は榧実(ひじつ)として漢方に用いられるほか、炒ったものを数十粒食べるとサナダムシの駆除に有効であるといわれる』とある。

「文德天皇の御宇」平安前期の天皇第五十五代文徳天皇の在位は嘉祥三(八五〇)年~天安二(八五八)年。彼はかの惟喬親王の父である。

「齋衡二年」西暦八五五年。

「惠蕚法師」(生没年未詳)平安前期の僧。承和の初めに本文に出る「橘太后」、嵯峨天皇の皇后橘嘉智子(たちばなのかちこ)の命を受けて渡唐し、「五臺山」(山西省北東部の台状の五峰からなる山で、峨眉山・天台山とともに中国仏教の三大霊場の一つ。文殊菩薩の住む清涼山に擬せられた。元代以降はチベット仏教の聖地となった)に袈裟などを寄進し、承和一四(八四七)年に日本に禅を広めることを志して、義空を伴って帰国したが、斉衡年間に再び渡唐し、その帰途、現在の浙江省の舟山列島の補陀(ふだ)山に補陀洛山寺(後の普済寺)を開いて、遂にその地に留まったという(以上は主に講談社「日本人名大辞典」に拠った)。唐から初めて禅僧を招聘したこと、平安文学に大きな影響を与えた「白氏文集」の本邦での後の普及発展の動機を与えたことなど、当時の日本の東アジア交流に大きな足跡を残した人物である(ここは出版二〇一四田中史生入唐僧恵蕚と東アジア 附 恵蕚関連史料集書店解説に拠った)。

「觀世音菩薩の像を感得し、四明山より、日本に歸朝せし所に、風に離されて補陀洛山に至りたり。舟を出さんとするに、更に動かず、怪みて像を舟より上げたりければ、舟は輕に出でたり。惠蕚は、觀音の像を置きて歸らんことを悲み、海邊に庵を結びて、住居して、誦經奉事す。後に漸く寺となる。禪刹の名藍なり」「四明山」は浙江省東部の寧波の西方にある山で古くからの霊山。名は「日月星辰に光を通じる山」の意で寺院が多い。宋初に知礼(九六〇年~一〇二八年)が、ここの延慶寺(保恩院)で天台の教えを広めた。……しかし……どうも気になる。先に示した「惠蕚」の注の事蹟によれば、彼が最後に漂着したのは日本ではなく、現在の浙江省の舟山列島の補陀山でそこに補陀洛山寺を建立して、そこで没したという。これが公式見解であるらしいが、どうも何かおかしい。そこで調べて見ると実は、現在の兵庫県神戸市兵庫区松原通にある時宗の真光寺(ここは一遍が遷化したところで一遍廟所がある)は、恵萼が唐より観世音を持ち帰った際にこの近くの和田岬(兵庫県神戸市兵庫区の大阪湾の神戸港に面する岬)で船が動かなくなったので、堂を建てて祀ったのが始まりとされているのである。ro-shin 氏の「Pilgrim 東西南北巡礼記 【関西】」の真光寺 (一遍上人・寺宗の本山)でその観音像が見られる。……まあよかろう、行き行きて観音の留まれば、そこはどこであろうと補陀落である……

 以下「吾妻鏡」の天福元年(一二三三)五月二十七日の条を示す。

 

〇原文

廿七日辛未。武州參御所給。帶一封狀。被披覽御前。令申給曰。去三月七日。自熊野那智浦。有渡于補陀落山之者。號智定房。是下河邊六郎行秀法師也。故右大將家下野國那須野御狩之時。大鹿一頭臥于勢子之内。幕下撰殊射手。召出行秀。被仰可射之由。仍雖隨嚴命。其箭不中。鹿走出勢子之外。小山四郎左衞門尉朝政射取畢。仍於狩場。遂出家。逐電不知行方。近年在熊野山。日夜讀誦法花經之由。傳聞之處。結句及此企。可憐事也云々。而今所令披覽給之狀者。智定誂于同法。可送進武州之旨申置。自紀伊國糸我庄執進之。今日到來。自在俗之時。出家遁世以後事。悉載之。周防前司親實讀申之。折節祗候之男女。聞之降感涙。武州昔爲弓馬友之由。被語申云々。彼乘船者。入屋形之後。自外以釘皆打付。無一扉。不能觀日月光。只可憑燈。三十ケ日之程食物幷油等僅用意云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿七日辛未。武州御所に參り給ふ。一封の狀を帶して、御前に披覽せられ、申さしめ給ひて曰く、

「去ぬる三月七日、熊野那智の浦より、補陀落山に渡るの者有り。智定房と號す。是れ、下河邊六郎行秀法師なり。故右大將家、下野國那須野の御狩の時、大鹿一頭、勢子の内に臥す。幕下、殊なる射手を撰(えら)びて、行秀を召し出で、射るべきの由、仰せらる。仍つて嚴命に隨ふと雖も、其の箭(や)中(あた)らず、鹿、勢子の外へ走り出づ。小山四郎左衞門尉朝政、射取り畢んぬ。仍つて狩場に於いて出家を遂げ、逐電し、行方を知らず。近年、熊野山に在りて、日夜法花經を讀誦(どくじゆ)の由、傳へ聞くの處、結句、此の企(くはだ)てに及ぶ。憐むべき事なり。」と云々。

而るに今、披覽せしめ給ふ所の狀には、智定、同法(どうほふ)に誂(あつら)へ、武州に送り進ずべきの旨、申し置く。紀伊國糸我庄(いとがのしやう)より之を執り進じて、今日、到來す。在俗の時より、出家遁世以後の事、悉く之れを載す。周防前司親實、之れを讀み申す。折節、祗候(しかう)の男女、之を聞き、感涙を降(くだ)す。武州、昔、弓馬の友たるの由、語り申さるると云々。

彼(か)の乘船は、屋形(やかた)に入るの後(のち)、外より釘(くぎ)を以つて皆、打ち付け、一扉(いつぴ)も無し。日月(じつげつ)の光を觀る能はず。只だ、燈(ともしび)を憑(たの)むべし。三十ケ日が程の食物幷びに油(あぶら)等僅かに用意すと云々。]

2015/04/23

博物学古記録翻刻訳注 ■14 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる海月の記載

博物学古記録翻刻訳注 ■14 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる海月の記載

 

[やぶちゃん注:「博物学古記録翻刻訳注 ■12 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる海鼠の記載」「博物学古記録翻刻訳注 ■13 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる老海鼠(ほや)の記載」「本朝食鑑」の第三弾。私の偏愛するクラゲである。「本朝食鑑」については上記「12」のリンク先の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館のデジタルコレクションの以下の頁から始まる「海月」パートの画像を視認した。本文は漢文脈であるため、まず、原典との対照をし易くするために原文と一行字数を一致させた白文を示し(割注もこれに准じて一行字数を一致させてある。底本にある訓点は省略した)、次に連続した文で底本の訓点に従って訓読したものに、独自に読みや送り仮名を附したものを示し、その後に注と訳を附した。原典ではポイント落ち二行書きの割注は〔 〕で同ポイントで示した。なお、原典では原文の所で示したように、頭の見出しである「海月」のみが行頭から記されてあり、以下本文解説は総て一字下げである。二度出て来る「鰕」とした字は原典では「叚」の右部分が「殳」であるが、表示出来ない字であるので、文意からこれと判断して示した。「蔵」「静」など異体字は原典のママである。字体判断に迷ったものや正字に近い異体字(「狀」など)は正字で採った。

 注文するも未だ東洋文庫版は到着せず。――暴虎馮河のオリジナル現代語訳を敢えて公開する。【二〇一五年四月二十三日 藪野直史】一九七七年平凡社東洋文庫刊の国語学者島田勇雄(いさお)氏の手に成る訳注本を昨日入手したので、追記箇所が分かるようにして補足した。訳のうち、最後の「然れども微温か。未だ詳らかならず」の箇所のみ島田氏の訳を参考に修正を行った。【二〇一五年四月二十八日追記】遅巻き乍ら、「本朝食鑑」には和漢の本草記載の違いを考察する「華和異同」という別項が各部の終りに附されていることに気づいたので、その本文に準じて追加することとした。但し、本文とダブる箇所が甚だ多いので注は最小限に留めてある。【二〇一五年五月二十三日追記】

 

□原文

 

海月〔訓久良介〕

 釋名水母〔鰕附從之如子之從母故曰水母源順

 曰食經海月一名水母貌如月在海中

 故以名之凡自古以海月而名者尚矣以形色名

 之則於水母不相當雖圓形而不正其色亦殊一

 種有水海月者色白形圓言之乎陳蔵器

 李時珍俱以江瑤爲海月是形色相當矣〕

 集觧狀如水垢之凝結而成渾然體静隨波逐潮

 浮于水上其色紅紫無眼口無手足腹下有物如

 絲如絮而長曳魚鰕相隨※1其涎沫大者如盤小

[やぶちゃん注字:「※1」=「口」+「匝」。]

 者如盂其最厚者爲海月頭其味淡微腥而佳江

 東未見之海西最多故煎茶渣柴灰和鹽水淹之

 以送于東而爲魚鱠之伴或和薑醋熬酒以進之

 一種有唐海月者色黄白味淡嚼之有聲亦和薑

 醋熬酒以進之是自華傳送肥之長﨑而來本朝

 亦製之其法浸以石灰礬水去其血汗則色變作

 白重洗滌之若不去石灰之毒則害人一種有水

 海月者色白作團如水泡之凝結亦曳絲絮魚鰕

 附之隨潮如飛漁人不采之謂必有毒又有無毒

 者而味不好江東亦多有之古人詠艶情之歌有

 海月遇骨之語是誕妄乎

 氣味鹹平無毒〔或曰鮾則生腥臭然微温乎未詳〕主治婦人朱血

 及び帶下食之而良或謂伏河豚毒

 

□やぶちゃん訓読文(原典の一字下げは省略した。読み易くするために句読点・記号・濁点・字空けを適宜、施した。一部に独自に歴史仮名遣で読みや送り仮名を附してあるが、読解に五月蠅くなるので、特にその区別を示していない。なお、原典には振られている読み仮名は少なく、片仮名で「尚(ヒサ)シ」・「水海月(クラケ)」(「水」にはない)・「水垢(アカ)」(「水」にはない)とあるのみである。また、「貌」(かたち)には「チ」が、「者」(もの)には「ノ」が、「狀」(かたち)には「チ」が送られてあるが、省略した。また、つまらぬ語注を減らすためにわざと確信犯で訓読みした箇所もあり、こうした恣意的な仕儀を経ている我流の訓読であるので、学術的には原典画像と対比しつつ、批判的にお読みになられたく存ずる。)

 

海月〔久良介(くらげ)と訓ず。〕

 釋名 水母〔鰕(えび)、附きて之れに從ふ。子の母に從うふがごとし。故に水母と曰ふ。源順(みなもとのしたごふ)が曰く、『「食經」、海月、一名、水母。貌(かたち)、月の海中に在るがごとし。故に以つて之れに名づく。』と。凡そ、古へより海月を以つて名づくる者、尚(ひさ)し。形・色を以つて之れに名づくれば、則ち、水母、相ひ當(あた)らず。圓形と雖も不正なり。其の色も亦、殊(こと)なり。一種、水海月(みづくらげ)と云ふ者、有り。色、白く、形、圓(まどか)にして之を言ふか。陳蔵器・李時珍、俱に江瑤(かうえう)を以つて海月と爲(な)す。是れ、形・色、相ひ當れり。〕

 集觧 狀(かたち)、水垢(みづあか)の凝(こ)り結びて成るがごとく、渾然、體(てい)、静かなり。波に隨ひ、潮を逐ふて、水上に浮かぶ。其の色、紅紫。眼・口、無く、手・足、無し。腹の下、物、有りて絲のごとく、絮(ぢよ)のごとくにして、長く曳く。魚鰕、相ひ隨ひて其の涎沫(よだれ)を※1(す)ふ[やぶちゃん注字:「※1」=「口」+「匝」。]。大なる者は盤のごとく、小さきなる者は盂(はち)のごとし。其の最も厚き者は、海月の頭と爲る。其の味はひ、淡(あは)く微腥(びせい)にして佳なり。江東、未だ之を見ず。海西、最も多し。故に煎茶渣(かす)・柴灰(しばはひ)、鹽水に和して之を淹(あん)じて、以つて東に送りて、魚鱠(うをなます)の伴と爲す。或いは薑醋(しやうがず)・熬酒(いりざけ)に和して、以つて之を進む。一種、唐海月(からくらげ)と云ふ者、有り。色、黄白、味はひ淡く、之を嚼(は)みて、聲、有り。亦、薑醋・熬酒に和して、以つて之を進む。是れ、華より肥の長﨑に傳送して來たる。本朝にも亦、之れを製す。其の法、浸すに石灰・礬水(ばんすゐ)を以つてして其の血・汗を去る。則ち、色、變じて白と作(な)る。重ねて之を洗ひ滌(のぞ)く。若(も)し、石灰の毒を去らざれば、則ち、人を害す。一種、水海月と云ふ者有り、色、白くして團(だん)を作(な)し、水泡の凝結するがごとく、亦、絲絮(しぢよ)を曳きて、魚鰕、之に附く。潮に隨ひて飛ぶがごとし。漁人、之れを采らず、謂ふ、必ず、毒、有ると。又、毒無き者有るとも、味はひ、好からず。江東にも亦、多く之れ有り。古人、艶情の歌を詠(えい)じて、「海月、骨に遇ふ。」の語、有り。是れ誕妄(たんばう)か。

 氣味 鹹平(かんへい)。毒、無し。〔或いは曰く、『鮾(あざ)る時は則ち、腥臭(せいしう)生ず。』と。然れども微温か。未だ詳らかならず。〕 主治 婦人の朱血及び帶下(こしけ)、之を食ひて良し。或いは謂ふ、河豚(ふぐ)の毒を伏すと。

 

□やぶちゃん語注(私は既に寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の――「海※2」(「※2」=「虫」+「宅」)の項――則ち、クラゲの項――の私の注で、包括的なクラゲについての概説と見解を述べてある。出来ればそちらも是非、参照されたい。但し、「本朝食鑑」全体の構成要素である「釋名」等の語意については既に「博物学古記録翻刻訳注 ■12 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる海鼠の記載」で施しているので繰り返さなかった。そちらを参照されたい。)

・「海月〔久良介(くらげ)と訓ず。〕……」以下、「くらげ」の語源説が示されてある「水母」のそれは私には初耳乍ら、その是非は別としても、クラゲの生態をよく観察していて興味深い(後注参照)。本邦の水族館としてのクラゲの本格常設展示の濫觴の後身である新江ノ島水族館の公式ブログ「えのすいトリーター日誌」の『9は9ラゲの9~(その5)「クラゲ」の語源』には、表記としては他に「水月」「鏡虫」「久羅下」を掲げ、

 ・海の中をクラクラと浮遊しているから、クラゲ

 ・暗闇にいる化物→暗化け→クラゲ

 ・目がなくてさぞかし暗いだろうから、暗げ

 ・丸くてくるくる回っている→くるげ→くらげ

 ・いるとなんとなく暗いから、暗げ

という語源説示す。目がないとされたところから「暗い」意或いは「黒い」意とするのは、松永貞徳「和句解」(寛文二(一六六二)年)や貝原益軒「本釈名」(元禄一二(一六九九)年)に載る旨、ネットのQ&Aサイトにあった。また、ウィキの「クラゲ」には別に、『丸い入れ物「輪笥(くるげ)」に由来するとの説』を見出せるが、この一見、古さを感じさせ、まことしやかに見える説については、村上龍男・下村脩共著「クラゲ世にも美しい浮遊生活 発光や若返りの不思議」(二〇一四年PHP研究所刊)の「クラゲの語源」で、『確かに形は似ているかもしれないが、比較的身近にいる生き物より、二つの言葉』(「くるむ」「くるめく」などの「丸い」の意を含む接頭辞「輪(くる)」と食器の「笥(け)」の二語ということ)『が合成されてでき上がった人工物の名のほうが古いとは考えにくいのではなかろうか。実際、「輪笥」という言葉は、古事記にも万葉集にも出てこない』とあり、私も頗る同感である。

 語源は辿れぬものの、私が遙かに興味深いのは、本邦の文学・史書に最初に現われる最初の生物こそが、この「くらげ」である事実なのである。ご存じのように、それは日本最古の史書にして神話である「古事記」の、それもまさに冒頭に登場するという驚天動地の事実なのである。「古事記」本文の冒頭を引く。

〇原文

天地初發之時、於高天原成神名、天之御中主神訓高下天、云阿麻。下效此、次高御巢日神、次神巢日神。此三柱神者、並獨神成坐而、隱身也。

次、國稚如浮脂而久羅下那州多陀用幣流之時、如葦牙、因萌騰之物而成神名、宇摩志阿斯訶備比古遲神此神名以音、次天之常立神。訓常云登許、訓立云多知。此二柱神亦、獨神成坐而、隱身也。

〇やぶちゃんの訓読

 天地(あめつち)の初めて發(おこ)りし時、高天(たかま)の原に成れる神の名(みな)は、天之御中主(あめのみなかぬし)の神。次に高御産巣日(たかみむすひ)の神。次に神産巣日(かみむすひ)の神。此の三柱(みはしら)の神は、並(みな)、獨神(ひとりがみ)に成り坐(ま)して身を隱すなり。

 次に、國、稚(わか)く、浮かべる脂(あぶら)のごとくして、九羅下(くらげ)なす多陀用弊(ただよ)へる時、葦牙(あしかび)のごと、萌(も)え騰(あが)る物に因りて成れる神の名は、宇摩忘阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。次に天之常立(あめのとこたち)の神。此の二柱(ふたはしら)の神も亦、獨神と成り坐(ま)して、身を隱すなり。

「獨神」とは、男女神のような単独では不完全なものではない相対的存在を超越した存在の意で、また「身を隱す」というのは、天地の本質の中に溶融して一体となったことを意味すると、私は採っている。「葦牙」は、生命の誕生の蠢動を象徴する春の葦の芽の意。

 これを見ても分かる通り、日本神話に於いてはこの地上の地面そのものがカオスからコスモスの形態へと遷移する浮遊状態にあったそれを「久羅下(くらげ)」に比しているのである。まさに――「くらげ」は日本に於いては世界で最初に神によって名指された生物である――ということになるのである! 私は「古事記」を大いにしっかり授業でやるべきだと考えている(『扶桑社や「新しい歴史教科書」を編集している愚劣な輩へ告ぐ!!!』をも参照されたい)。それは、若者たちが、こういう博物学的な興味深い事実にこそ心打たれることが大切だと考えるからである。それは、強い神国としての日本をおぞましくも政治的に宣揚するためにではなく、である。

・「鰕、附きて之れに從ふ。子の母に從うふがごとし」すぐ頭に浮かぶのは鉢虫綱根口クラゲ目イボクラゲ科エビクラゲ Netrostoma setouchiana であるが(私は二〇〇八年前に寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」ではこの共生するエビ類について『ここで共生するエビは、特定種のエビではないようである(ただ研究されていないだけで特定種かも知れない)』と述べたが、今回、二〇一一年刊の『広島大学総合博物館研究報告』の大塚攻・近藤裕介・岩崎貞治・林健一共著の論文「瀬戸内海産エビクラゲNetrostoma setouchiana に共生するコエビ類」によって『コエビ類の共生はエビクラゲのみから確認され』たこと、それによって『宿主特異性が高いこと』が判明していることが分かった)、さらに好んで鉢虫・ヒドロ虫類及びクシクラゲ類・サルパ類(この後者の二種は触手動物門や原索動物尾索類だ、などと鬼の首を捕ったように言う勿れ。彼らは広い意味で永く水中を漂う立派な「クラゲ」として「~クラゲ」としてその名を附して呼ばれたり、同じ仲間として認識されてきたのである)に寄生するエビとなれば、節足動物門大顎亜門甲殻綱エビ亜綱エビ下綱フクロエビ上目端脚目(ヨコエビ目)クラゲノミ亜目 Hyperiideaに属するクラゲノミHyperiame medusarumやオオタルマワシPhronima stebbingi などの同クラゲノミ亜目に属するウミノミ類の仲間辺りが挙げられよう。それ以外にも刺胞毒の強いヒドロ虫綱クダクラゲ目嚢泳亜目カツオノエボシ科カツオノエボシ Physalia physali 等に共生(私はエボシダイがクラゲの体の一部を食べることがあること、エボシダイに明白なカツオノエボシの刺胞毒に対する耐性が認められることなどから、寄生或いは胡散臭いので好きな言葉ではないのだが片利共生と考えている)しているスズキ目エボシダイ科エボシダイ Nomeus gronovii の幼体など、調べて見れば、クラゲを「母」とする、特定の「子」は実は決して稀ではないことが分かるはずである。そうしてそういうものを目にしてきた漁師やそれを伝聞した本草家がいたということ、それがこうして記載されていることこそが、幸せな博物学の時代を象徴するしみじみとした事実として私の心を打つのだとだけは言っておきたいのである。

・「源順」(延喜一一(九一一)年~永観元(九八三)年)は平安中期の学者で歌人。嵯峨源氏の一族で、大納言源定の孫左馬允源挙(みなもとのこぞる)の次男。以下、ウィキの「源順」によれば、若い頃より奨学院において勉学に励んで博学として知られ、二十代で日本最初の分類体辞典「和名類聚抄」を編纂した。天暦五(九五一)年には和歌所の寄人(よりゅうど)となり、「梨壺の五人」の一人として「万葉集」の訓点と「後撰和歌集」撰集に参加した。漢詩文に優れた才能を見せる一方、天徳四(九六〇)年の内裏歌合にも出詠しており、様々な歌合で判者を務めるなど和歌にも才能を発揮した。特に斎宮女御徽子(きし/よしこ)女王とその娘規子内親王のサロンには親しく出入りし、貞元二(九七七)年の斎宮規子内親王の伊勢下向の際にも随行した。『だが、彼の多才ぶりは伝統的な大学寮の紀伝道では評価されなかったらし』い。それでも康保三(九六六)年に『従五位下下総権守に任じられ(ただし、遥任)、翌年和泉守に任じられるなど、その後は受領として順調な昇進を遂げるが、源高明のサロンに出入りしていたことが安和の変』(安和二(九六九)年に起きた藤原氏による他氏排斥事件。謀反の密告により左大臣源高明が失脚)『以後に影響を与え』、以後の昇進は芳しくなかった。『三十六歌仙の一人に数えられる。大変な才人として知られており、源順の和歌を集めた私家集『源順集』には、数々の言葉遊びの技巧を凝らした和歌が収められている。また『うつほ物語』、『落窪物語』の作者にも擬せられ、『竹取物語』の作者説の一人にも挙げられ』ている。以下は「和名類聚抄」からの引用。であるが、国立国会図書館のデジタルコレクションの当該頁を視認すると、やや異なる。以下に示す。

   *

海月 崔禹錫食經云海月一名水母〔和名久良介〕貌似月在海中故以名之

   *

・「食經」唐の本草学者崔禹錫撰になる食物本草書「崔禹錫食経」。現在は散佚。後代の引用から、時節の食の禁忌・食い合わせ・飲用水の選び方等を記した総論部と、一品ごとに味覚・毒の有無・主治や効能を記した各論部から構成されていたと推測されている。順の「倭名類聚鈔」に多く引用されている。

・「水海月」現行、狭義のそれ、真正の「ミズクラゲ」は刺胞動物門鉢虫綱旗口クラゲ目ミズクラゲ科ミズクラゲ属 Aureliaのミズクラゲ Aurelia aurita 。なお、本邦には他に北海道に分布するキタミズクラゲ Aurelia limbata がいる。これは傘径が三〇センチメートル前後と大型で(ミズクラゲは十三センチメートル前後)、放射管が網目状になっている点、触手や傘の辺縁部が褐色を帯びる点でミズクラゲ Aurelia aurita と識別出来る。しかし、本項の最後の叙述などを見ると、これは現在の狭義のミズクラゲとは一致しない謂いと私は採る(後注参照)。

・「陳蔵器」(六八一年?~七五七年?)は唐代の医学者で本草学者。浙江省の四明の生まれ。開元年間(七一三年~七四一年)に博物学的医書「本草拾遺」を編纂している。

・「李時珍」(一五一八年~一五九三年)は明代を代表する医学者で本草学者。湖北省の蘄州(きしゅう)の生まれ。中国古来の植物・薬物を研究、兼ねて動物や鉱物を加味しながら主として医用の立場で集成した本草学の確立者にして伝統的中国医療の集大成者。本「本朝食鑑」が模しているところの彼の主著「本草綱目」(五十二巻)は一五九六年頃の刊行で、巻頭の巻一及び二は序例(総論)、巻三及び四は百病主治として各病症に合わせた薬を示し、巻五以降が薬物各論で、それぞれの起源に基づいた分類がなされている。収録薬種一八九二種、図版一一〇九枚、処方一一〇九六種にのぼる。

 

・「江瑤」「瑤」は美しい宝玉の意。蔵器と時珍は「海月」に相当するものを「江珧」と呼んでいる事実はある。しかし、

 「海月」=「江珧」≠クラゲ

なのである(それは人見も認識しているようである)。例えばこの「江瑤」が、貝原益軒の「大和本草卷之十四 水蟲 介類 タイラギ」にも以下のように表れている(これは貝の足綱翼形亜綱イガイ目ハボウキガイ科クロタイラギ属タイラギである。学名を示さないのには理由がある。リンク先を必参照)。以下、リンク先で私が書き下したものを示す(下線やぶちゃん)。

   *

たいらぎ 殻、大にて、薄し。肉柱、一つあり、大なり。食すべし。腸(はらわた)は食ふべからず。和俗、※1の字を用ゆ、出處なし。江瑤(かうえう)及び玉珧(ぎよくえう)は本草諸書にのせたり。肉柱、四つあり。殻、瑩潔(えいけつ)にして美なり。たいらぎは殻、美ならず。肉柱、一つあり。是れ、似て是れならず。然れども、たいらきも江瑤の類いなるべし。「※2※3」は本草に載せたり。「たいらぎ」と訓するは非なり。

[やぶちゃん字注:「※1」=「虫」+「夜」。「※2」=「虫」+「咸」。「※3」=「虫」+「進」。]

   *

この「江瑤」がどこから出て来たものか、今の所、その水源を捜し得ないのであるが、まず「本草綱目」のどこに「江珧」が出るかというと、貝類の載る「介之二」なのである(底本は国立国会図書館のデジタルコレクションの「本草綱目」の画像を視認した。下線やぶちゃん。句読点や『 』の記号は、特に分かりやすくするために部分的に恣意的に用いている。語釈を附すと、痙攣的に注が終わらなくなるので一部を除いて略した。以下の引用でも同じ)。

   *

海月〔拾遺〕

釋名玉珧〔音姚〕 江珧 馬頰 馬頰〔藏器曰、『海月、蛤類也。似半月、故名。水沫所化、煮時猶變爲水時珍曰馬甲、玉珧、皆以形色名萬震贊云、厥甲美如珧玉、是矣。〕

集解〔時珍曰劉恂「嶺表錄異」云海月大如鏡、白色正圓、常死海旁。其柱如搔頭尖、其甲美如玉。段成式「雜俎」云玉珧形似蚌、長二三寸、廣五寸、上大下小。殼中柱炙蚌稍大、肉腥韌不堪。惟四肉柱長寸許、白如珂雪、以雞汁瀹食肥美。過火則味盡也

附錄海鏡〔時珍曰一名鏡魚、一名瑣、一名膏藥盤、生南海。兩片相合成形、殼圓如鏡、中甚瑩滑、映日光如云母。有少肉如蚌胎。腹有寄居蟲、大如豆、狀如蟹。海鏡飢則出食、入則鏡亦飽矣。郭璞賦云、『瑣※3腹蟹、水母目蝦、即此。〕

 

[やぶちゃん字注:「※3」=「王」+「吉」。]

氣味甘、辛平。無毒。主治消渴下氣、調中利五臟、止小便。消腹中宿物、令人易飢能食。生薑、醬同食之〔藏器〕。

   *

「拾遺」というのは「本草拾遺」だから、少なくとも時珍は蔵器の「海月」(ひいては「江珧」)も同一物だと言っているということになって、人見の言と一致はすることになると言える。しかし、この文脈、中国語の出来ない私がぼーぅと読んでいても、これは貝――それも貝柱を食用にする二枚貝、殻の形が月の様に丸いてなことを述べていることぐらいは分かる。即ち、この「海月」は「クラゲ」でないのである。しかもここに出る「海鏡」の形状はこれはまた今度はタイラギではなく、斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ上科マルスダレガイ科カガミガイPhacosoma japonicum 、いや寧ろ、光沢を持つ点では斧足綱翼形亜綱ウグイスガイ目ナミマガシワ超科 ナミマガシワ科マドガイPlacuna placenta が同定候補に浮上してくるという、まさに痙攣的な大混戦の様相を呈しているのである。但し、何と! 驚くべき偶然か? ここに出る郭璞の「江賦」からの引用の『水母目蝦』の「水母」というのは、それこそこれ私が前で注した、クラゲとそれに寄生する甲殻類と思われてくるではないか?!

 では戻って、例えば「本草綱目」にクラゲは出ないのかと言えば、これが出ているのである。しかしそれは「鱗之四」の「海※4」(「※4」=「虫」+「宅」。「かいた」或いは「かいだ」。〕なのである。底本はやはり国立国会図書館のデジタルコレクションの「本草綱目」の画像を視認した(下線やぶちゃん。句読点や『 』の記号は、特に分かりやすくするために部分的に恣意的に用いている)。

   *

海※4〔「拾遺」〕

釋名水母〔拾遺〕 樗蒲魚〔拾遺〕 石鏡〔時珍曰作、宅二音。南人訛爲海折、或作蠟、 者、並非。劉恂云閩人曰、※4廣人曰水母。「異苑」、名石鏡也。〕

集解〔藏器曰、※4、生東海、狀如血■、大者如牀、小者如斗、無眼目腹胃、以蝦爲目蝦動。※4沉、故曰水母目蝦亦猶※5※5之與※6※7也。煠出以薑醋進之海人以爲常味。時珍曰、水母、形渾然凝結其色紅紫、無口眼腹。下有物如懸絮、羣蝦附之、其涎沫浮泛如飛。爲潮所擁、則蝦去而※4不得歸。人因割取之、浸以石灰礬水、去其血汁色遂白。其最濃者、謂之※4頭、味更勝。生、熟皆可食茄柴灰和鹽氷淹之良。〕

[やぶちゃん字注:「■」は判読不能。「血」+(「焰」-「火」のような(つくり)か?)。「※5」=「跫」-「足」+「鳥」。「※6」=「馬」+「巨」。「※7」=「馬」+「虛」。

氣味鹹、溫。無毒。主治婦人勞損、積血帶下、小兒風疾丹毒、湯火傷〔藏器〕。療河魚之疾〔時珍出異苑〕。

   *

因みに、後に寺島良安は、この部分を「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「海※2」(「※2」=「虫」+「宅」)で以下のように訓読している(私の語注がリンク先にある)。

   *

「本綱」に『海※2は、形ち、渾然として凝結し、其の色、紅紫、口・眼、無く、腹の下に物有り。絮(しよ)を懸けたるがごとし。羣蝦(むれえび)、之に附きて、其の涎沫(よだれ)を(す)ふ。浮汎(ふはん)すること、飛ぶがごとく、潮の爲に擁せらるれば、則ち蝦去りて、※2、歸るを得ず。人、囚りて割〔(わけ)〕て之を取る。常に蝦を以て目と爲す。蝦、動けば、※2、沈む。猶ほ蛩蛩(きようきよう)の※6※7(きよきよ)とのごとし。其の最も厚き者、之を※2頭と謂ふ。味【鹹、温。】、更に勝れり。生・熟、皆、食ふべし。薑醋(しやうがず)を以て之を進む。茄柴の灰、鹽水に和して、之を淹(い)れて良し。又、浸すに石灰・礬水(ばんすゐ)を以つて、其の血汁を去れば、其の色、遂に白し。』と。

   *

 以上で検証は一先ず終りとするが、私にはやはり調べれば調べるほど、人見の叙述は多様な別種を神経症的に羅列し、博物学的には興味深いものの、なかなか真正のクラゲに至っていないやや迂遠な解説、という気がしてならないのだが、如何であろう?【二〇一五年四月二十八日追記】島田氏の注に、「国訳本草綱目」(戦前の刊行なので「支那」とあるので注意)に「和名いたやがひ」とし、その頭注で白井光太郎氏が『海月・王珧、元ト二物、時珍之ヲ合ス誤リナリ』とし、木村康一氏は『海月ハ扇状ノ二枚貝。左右概ネ不同ニ膨ラム。殻表ハ淡褐赤色ナリ。支那本土ニ海岸ニ分布ス』と附しているとある。これだと、斧足綱翼形亜綱カキ目イタヤガイ亜目イタヤガイ科イタヤガイ Patinopecten albicans ということになる(同定候補としてはそれもありではあろう)。また、島田氏は中国でのその貝の異名として王珧・江瑤・馬頰・角帯子・江珠・楊妃舌・江瑤柱を示しておられる。因みに楊妃舌は現代中国語ではイタヤガイ科のホタテガイ Patinopecten yessoensis を指す。

 

・「渾然」全く差や違和感がなく、一つのまとまりになっているさま、もしくは角や窪みのないさまを言う。まさに、クラゲのためにあるような語である。

・「腹の下、物、有りて絲のごとく、絮のごとくにして、長く曳く」は、主として鉢クラゲ類で目立つ口腕及び一部の種のその口腕の付属器を指しているのであろう。当然、その他の縁弁を含む傘縁触手や有櫛動物の場合の触手も含んでいると考えてよい。「絮」は綿・真綿・草木の綿毛の意。

・「涎沫」音は「センマツ」で、ここもこう音読みしている可能性は高いと思われるが、私は達意の観点から確信犯で「よだれ」と訓じた。唾(つばき)や口から吹いた泡のこと。

・「※く」(「※」=「口」+「匝」)この字は音「サフ(ソウ)」で、射は吸う・啜るの意。

・「盤」食物を盛る大きな皿。盥(たらい)の意もある。

・「盂」本来は中国古代の礼器の一つで土器・青銅器ともにあり、飲食物の容器で大口の深鉢に足と左右の取手が附いているものを言うが、ここは比較的小さな飲食物を盛る口の広い鉢を指している。

・「海月の頭と爲る」クラゲの親分になるというのか? それもおかしいので一応、クラゲの頭部(傘)となると訳しておいた。【二〇一五年四月二十八日追記】この注の記載後に入手した東洋文庫版の島田勇雄氏訳注でも『最も厚いところは海月の頭といわれ』と訳しておられた。

・「江東、未だ之を見ず。海西、最も多し」ここでは既にして、食品加工用の特定のクラゲを指している。即ち、鉢虫綱根口クラゲ目ビゼンクラゲ科ビゼンクラゲ属ビゼンクラゲ Rhopilema esculenta 、その近縁種で有明海固有種のヒゼンクラゲ Rhopilema hisphidum 、ビゼンクラゲに極似したスナイロクラゲ Rhopilema asamushi (現在は原材料としないようである)である。但し、最後のスナイロクラゲの分布域は九州から陸奥湾に広く分布するのであるが、恐らくは古くより、これらを採取して食品として加工する技術が主に西日本で発達したことに由来する、分布理解の不十分な認識によるものであろう。なお、後で注するが、同科の現在の日本近海では主に有明海と瀬戸内海に棲息する本邦のクラゲ中でも最大級の種としてのエチゼンクラゲ Nemopilema nomurai は、実は江戸時代には食用クラゲとしての加工の歴史はなかったので、ここには出していない。

・「唐海月」「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「海※2」(「※2」=「虫」+「宅」)に、

   *

肥前水母【又、唐水母と名づく。】 一物にして、異製なり。其の製、明礬に鹽を和して揉み合はせ、之を漬ける。色、黄白ならしめ、使ふ時、能く洗浄し、礬氣を去る。肥前の産、最も佳し。故に名づく。其の味、淡く、之を嚼(か)むに聲有り。

   *

と出る。これに就いて私は当該注で、以下のように記した。

   *

「肥前水母」ヒゼンクラゲ 良安はこれを塩クラゲの製法違いとしているが、既に横綱エチゼンクラゲに土俵入りしてもらっている以上、やはり種としてのヒゼンクラゲにも控えてもらおう。

 ところが、その前に片付けておかなくてはならない事柄がある。私は実は、肥前(ひぜん:佐賀県と長崎県の一部)や備前(びぜん:岡山県と兵庫県の一部)といった採取された旧国名からついた和名が極めて似ているため、このヒゼンクラゲ Rhopilema hisphidum という種とビゼンクラゲ Rhopilema esculenta という種が同一のクラゲのシノニムであると思っていた(事実、前掲の二冊のかなり新しいクラゲの出版物でも索引にはビゼンクラゲしか載らない)。次に少し経って、ヒゼンクラゲというのは、ビゼンクラゲに極めて類似したスナイロクラゲ Rhopilema asamushi のシノニムではないかとも疑った。ところがレッドーデータ・リスト等を検索する内、実際にはこの三種はすべて別種であるという記載があり、また多くの観察者の記載を見るに、私もこれらは異なった種であろうという印象を持つに至った。即ちクラゲ加工業者の間で「白(シロクラゲ)」と呼称されるヒゼンクラゲ Rhopilema hisphidum は有明海固有種であり、私がシノニムを疑ったスナイロクラゲ Rhopilema asamushi はその分布域が九州から陸奥湾に広く分布するという記述だけで最早同一ではあり得ず、またビゼンクラゲ Rhopilema esculenta は業者が「赤(アカクラゲ)」と呼称するように、傘が有意に褐色を帯びており(但しヒゼンクラゲ Rhopilema hisphidum でも傘に紅斑点があるものがあり、その方が塩クラゲにするには上質とされるらしい)、見るからに異なったクラゲに見えるのである。今後のアイソザイム分析が楽しみである。

 更に付け加えておくと昨今、大量発生で問題になっているエチゼンクラゲについては、実は日本では過去に塩クラゲ加工の歴史はなかった、というのも眼からクラゲであった。昔は来なかったんだよな。はい、江戸博物書の注であっても、やっぱり温暖化の問題は避けて通れませんね。

 更に追伸。「唐水母」という名称は、今の異名としては残っていない。ところが「唐海月」という語ならば、井原西鶴の「好色一代女」卷五の冒頭「石垣戀崩」に『おそらく我等百十九軒の茶屋いづれへまゐつても。蜆やなど吸物唐海月ばかりで酒飲だ事はない。』と出て来る(近世物は苦手なので注釈書が手元にないのでこれまでである)。しかし、これはもしかするともともとは中国製の加工食品としての塩クラゲを言う言葉ではなかったか。その製法が江戸期に日本に伝わり、肥前で作られたものにこの呼称が残ったとは言えまいか(あ、さればそのルーツはまさにエチゼンクラゲ製であったかも知れないぞ)。

 最後にちゃんと名前を挙げよう。鉢クラゲ綱根口クラゲ目ビゼンクラゲ科ビゼンクラゲ属ヒゼンクラゲ Rhopilema hisphidum 。種名の頭は「ヒ」! 「ビ」じゃあない!

   *

くどいが、ビゼンクラゲ Rhopilema esculenta とヒゼンクラゲ Rhopilema hisphidum はご覧の通り、違う種である。八年も前の自分の叙述に、不覚にも思わず読み入ってしまった。……

・「華より肥の長﨑に傳送して來たる。本朝にも亦、之れを製す」以上述べた通り、中国からの舶来の加工クラゲの原材料は本邦では対象としなかった(或いは漂ってこなかった)エチゼンクラゲ Nemopilema nomurai のものである可能性が大きく、後者はビゼンクラゲ Rhopilema esculenta・ヒゼンクラゲ Rhopilema hisphidum・スナイロクラゲ Rhopilema asamushi (現在は原材料としないようである)であったということになる。味わいの違いはそうした素材種や個体の大小の違い(無論、処理方法の違いもあるであろうが)によるものであったとも言えよう。なお、現行の加工過程は「国立研究開発法人 水産総合研究センター 中央水産研究所」公式サイト内の『水産加工品のいろいろ「塩蔵クラゲ」』がよい。ここでは石灰の使用が記載されていないが、他サイトを見るとやはり使用しているようである。またサイト「くらげ普及協会」もなかなかに必見である。

・「石灰・礬水」「礬水」は「どうさ」と当て字読みし、膠(ニカワ)とミョウバンを水に溶かした液体のことを指す。一般には和紙や絹地の表面に薄く引いて、墨や絵具等が滲むのを防ぐ効果を持つ顔料である。しかし、ここでは単に明礬(ミョウバン)=硫酸アルミニウムカリウム12水和物AlK(SO4)212H2Oの水溶液を指していると考えられる。言うまでもないが「石灰」は消石灰=水酸化カルシウムCa(OH)2のことである。

・「一種、水海月と云ふ者有り、色、白くして團を作し、水泡の凝結するがごとく、亦、絲絮(しぢよ)を曳きて、魚鰕、之に附く。潮に隨ひて飛ぶがごとし。漁人、之れを采らず、謂ふ、必ず、毒、有ると。又、毒無き者有るとも、味はひ、好からず。江東にも亦、多く之れ有り」ここまで総てがこの「水海月(みづくらげ)」なるものの、一貫した記載であるとしか読めないのであるが、これはどうもミズクラゲの単種を指しているとはどうしても読めない。まず漁師が「必ず、毒、有る」と確信犯で述べている点である。これは漁師の言としてはやや奇異である。但し、ミズクラゲの刺胞毒は極めて弱いことで知られるが、個人差があってミズクラゲでも刺される人はおり、体質によっては結構な症状を呈する。私の高校時代の友人にもミズクラゲで痛みを感じ、実際に炎症を起こす者がいた。例えば「三重県農林水産部水産資源課」公式サイト内の「ミズクラゲに刺される ミズクラゲを侮るなかれ」を参照されたい(そもそも真正のクラゲ類では、まず刺胞毒が全くないものといのは極めて稀で殆んどないとと言ってもよい。本邦産のものは基本、如何なるクラゲも刺胞には安易に触らぬ神にの類いではある。但し、傘なら安全と言う訳でもない。海外のケースであるが、TV番組で傘だけを持ったレポーターが数日後に激しい炎症を起こした事例を知っている)。話を戻すと、私は当時の漁師にとって「必ず毒がある」としてまず採らないというのは強毒のアカクラゲやカツオノエボシなどで(通称言うところの電気クラゲであるアンドンクラゲなども強い刺胞毒を持つが、この手のクラゲは獲るも獲らないも、小さ過ぎて初めから漁獲対象足り得ないから挙げない)、ミズクラゲに対して、このような忌避表現をするとは思えないというのが一。今一つは、「亦、絲絮を曳きて、魚鰕、之に附く」という部分で、ミズクラゲにも幼魚や甲殻類がいることはあるものの、「絲絮を曳きて」と表現するのは寧ろ、やはりアカクラゲやカツオノエボシで、それらには前に述べたようにエボシダイの幼魚や小海老と言うべきウミノミ類のような寄生や片利共生を容易に現認出来るからである。

・「古人、艶情の歌を詠じて、海月、骨に遇ふの語、有り」延慶三(一三一〇)年頃に成立した藤原長清撰になる私撰和歌集「夫木和歌抄」の巻二十七雑九に、

 

  我が戀は浦の月をぞ待ちわたるくらげのほねに逢ふ夜ありやと  仲正

 

とあるのを指すものであろう(寺島は「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「海※2」(「※2」=「虫」+「宅」)で本歌をやや手を加えて引いている)。源仲正(仲政とも書く)は平安末期の武士で、酒呑童子や土蜘蛛退治で有名なゴーストバスター源頼光の曾孫である。即ち、ひいじいさんの霊的パワーは彼の息子、鵺(ぬえ)退治の源頼政に隔世遺伝してしまい、仲正の存在はその狭間ですっかり忘れ去られている。しかし歌人としてはこの和歌に表れているような、まことにユーモラスな歌風を持つ。訳しておくと、

   *

やぶちゃん訳:私の恋は、浦に上る遅い月をひたすら待ち続けるようなもの……意地悪くも、その上ぼる月が水面に映ったかと見紛う海月……その海月の骨に出逢う夜が――世が――時が――やって来るのであろうか? いや、それは海月に骨がないように、私の恋は、決して成就することなどないに違いない……

   *

といった感じである。

・「誕妄」「妄誕」で「ばうたん(ぼうたん)」の方が一般的か。言うことに根拠のないこと、また、その話の意。「妄」は「まう(もう)」と読んでもよい。

・「鮾る」魚肉などが腐る。

・「然れども微温か。未だ詳らかならず」漢方で軽く温める効果を持つものを「微温」と称するが、腐ると腥い臭気を帯びるものは微温ではなく微寒の効果を持つはずなのに、という人見の疑問か? ここ、文脈の繋がり方がよく分からない。識者の御教授を乞うものである。訳では分からないながらに逐語訳して誤魔化した。【二〇一五年四月二十八日追記】この注の記載後に入手した東洋文庫版の島田勇雄氏訳注では、この割注全体は『鹹平。無毒。あるいは鮾敗(くさ)ると腥臭を発生するともいうが、微温かどうかはは未だ詳らかでない』と訳しておられるので、ここは「然れども微温なるかは未だ詳らかならず」で、私の認識とは逆に――腐ると腥(なまぐさ)い臭いを発するという以上、微温の性質であるということであるらしいが、本当にそうかどうかはいまだよく分からない――という意味である。その方が叙述としては自然に感じられるので、私の訳もそのように今回改変した。

・「失血」不詳。漢方用語にはない。以下の並列する「帶下」から考えると貧血ではバランスが悪く、生殖器からの異常な不正出血を指すものか。

・「帶下」女性生殖器からの血液以外の分泌物。普通、通常の分泌を越えて不快感を起こす程度に増量した状態を指す。

・「河豚の毒を伏す」先の海鼠の記載にも出るが、不詳。私はこのような民間療法を聴いたことはない。識者の御教授を乞う。

 

■やぶちゃん現代語訳(読み易さを考えて適宜改行した。一部、前後の文脈との齟齬のある箇所は翻案している。)

 

海月〔久良介(くらげ)と訓ずる。〕

 釋名 水母〔小海老がついてきてこれに従う。子が母に從うが如くである。故に「水母」と言う。源順(みなもとのしたごう)の「和名類聚抄」に言う、『「食経」に、「海月、一名、水母。形(かたち)は月の海中にあるかの如くである。故に以って、かく名づけている。」と。』とある。

 およそ、古えより「海月」を以って名づくる海産動物は、これ、随分とあって、また相応に古いものである。

 形と色を以ってこれに名づけるとするならば、如何にも「水母」というのは相応しくない。そもそも円形を成していると言っても、その形は正円ではなく歪(いびつ)である。さらにその色もまた多種多様で、月の如き清澄な銀色を呈していないものも多い。但し、一種に「水海月(みずくらげ)」という種がおり、その色は確かに白く、形も円(まど)かであるから、これを以って「海月」と称しているものか。陳蔵器や李時珍はともに、二枚貝の「江瑤(こうよう)」を以って「海月」と同定している。これならば形・色ともに、よく当たっている。〕

 集觧 形は水垢(みずあか)が凝結して成った如きもので、渾然一体となった体を持ち、至って静かな生態を持つ。波に随い、潮を追って、水上に浮かんでいる。その色は紅紫色を呈する。眼や口はなく、手足もない。腹の下に一物があって、これは糸の如く、綿毛の如きものであって、それを長く曳いている。魚や小海老が、この垂下物につき随っており、その海月が摂餌の滓(かす)として垂らす涎沫(よだれ)を吸っては、またそれを餌としている。大きなものでは盥(たらい)ほどもあり、小さなものでは小鉢ほどといった感じである。その最も大きく厚い部分が、所謂、「海月の頭(あたま)」、傘となるのである。

 その味わいは、淡くして、やや海の香を香らせて、良きものである。

 東日本では、いまだこの類を見ない。西日本の海に、最も多くこれが認められる。

 故に煎茶の渣(かす)や柴を燃やした残りの灰(はい)に塩水(えんすい)を混ぜて、その液の中に、この生の海月を塩漬けにして、以って東に送って、魚の刺身の友としている。

 或いは生姜酢や熬(い)り酒を加えて、以ってこれを珍味として出だす。

 一種に「唐海月(からくらげ)」と言うものがいる。この色は黄白色を呈し、味わいは頗る淡いもので、これを噛むと、きゅっきゅっという如何にも絶妙な音を立てる。これもまた先と同様に生姜酢や熬酒を注いで、以ってこれを珍味として出だす。これは、中華より肥前の長崎に伝送されて齎(もたら)される舶来の品である。本朝に於いてもまた、これと同じものを製する。

 その方法は、まず、石灰と明礬(みょうばん)の水溶液に海月を浸し、以ってその血や体液を取り去る。すると色が変じて白色となる。これをさらに水で洗って汚れを細かに取り除く。特に万一、この折りに有毒な石灰の除去が不完全であると、食した者に害が及ぶ。

 一種、「水海月(みずくらげ)」というものがいる。色は白くして団塊状をなして、謂わば、水泡が凝結したかの如き形態であり、また、下に糸や綿毛様のものを長々と曳いていて、そこに小魚や小海老が好んで住みついている。潮に随って飛ぶように漂う。漁師はこれを獲らない。何故と謂うに、「必ず、毒があるから。」とのこと。また、毒がないものもいるけれども、その味わいは、これ、良くない、と。この「水海月」は東日本にもまた多くいる。

 古人に、艶情の思いを歌に詠じて、「海月、骨に遇う。」という表現をする。これは、無論、根拠のない戯言(たわごと)というべきものであろう。

 氣味 鹹平(かんへい)。毒はない。〔或いは言う、『塩海月は腐りかけた時には、すなわち、腥(なまぐさ)い臭いをずる。』と。しかし、本当に「微温」の性質を持つ食材であるかどうかについては、いまだ私にはよく分からない。〕 主治 婦人の失血及び帯下(こしけ)の症状には、これを食して良い効果がある。或いは言う、河豚(ふぐ)の毒をよく制する、とも。
 
 
 

◆華和異同

□原文

   海月

曰水母曰※或名樗蒲魚又名石鏡或謂華之海月

[やぶちゃん字注:「※」=「虫」+「宅」。]

者江瑤也然崔氏食經云海月一名水母貌似月在

海中然則華人以水母亦爲海月惟疑崔氏所言者

以色白者則指水海月而言乎海月色紫不似月之

色若以團容而言則可也南産志曰色正白濛濛如

沫者今之水海月也乎

 

□やぶちゃんの書き下し文

   海月

曰く、水母(すいぼ)。曰く、※(たく)[やぶちゃん字注:「※」=「虫」+「宅」。]。或いは樗蒲魚(ちよぼぎよ)と名づく。又、石鏡(せききやう)と名づく。或いは華の海月と謂ふ者は江瑤(かうえう)なり。然れども崔氏が「食經」に云く、『海月。一名、水母。貌(かたち)、月に似て、海中に在り。』と。然らば則ち、華人、水母を以つても亦、海月と爲す。惟だ、疑ふ、崔氏が言ふ所は、色、白きを以つてする時は、則ち水海月(みづくらげ)を指して、言ふか。海月、色、紫、月の色に似ず。若し、團容(だんよう)を以つて言ふ時は、則ち可なり。「南産志」に曰く、色、正に白にして濛濛(もうもう)として沫(あは)のごときとは、今の水海月ならんや。

 

□やぶちゃん注

・「樗蒲魚」「樗蒲」は「かりうち」とも訓じ、中国から伝来した博打(ばくち)の一種を言う。「かり」と呼ばれる楕円形の平たい四枚の木片を采(さい)とし、その一面を白、他面を黒く塗って、二つの采の黒面に牛、他の二つの采の白面に雉子を描き、投げて出た面の組み合わせで勝負を決するものを言うから、恐らくはその采の形状をクラゲに擬えたものであろう。

・「江瑤」本文の私の同注を参照されたいが、ここで人見はまさにこれをクラゲではない、恐らくは斧足類のタイラギやカガミガイとして理解しようとしているように私には読める。

・「水海月」ここでは、ここに限ってなら、これは現行のミズクラゲ科ミズクラゲ属 Aureliaのミズクラゲ Aurelia aurita と採ることが可能である。

・「海月、色、紫」人見はクラゲの一般的な色彩を「紫」と言っている。鉢虫綱根口クラゲ目ムラサキクラゲ Thysanostoma thysanura は一般には黄褐色(実際には目につくクラゲ類ではこの色のクラゲ類が最も多いように私には思われる)であるが、時に非常に美しい紫色を呈する個体もいる。他の種でも、色彩の変異がしばしば見られ、当時の紫という色範囲が青味の強いものも含むから、ヒドロ虫綱クダクラゲ目嚢泳亜目カツオノエボシ科カツオノエボシ Physalia physali まで含まれると考えれば、強ち、おかしな認識とは言えないように思われる。

 

□やぶちゃん現代語訳

   海月

「水母(すいぼ)」と言う。「※(たく)」とも言う[やぶちゃん字注:「※」=「虫」+「宅」。]。或いは、「樗蒲魚(ちょぼぎょ)」と名づける。また、「石鏡(せききょう)」と名づける。或いは、中国に於いて「海月」と言った場合、その物は二枚貝の一種である「江瑤(こうよう)」を指す、とする。しかし、崔禹錫氏の「食経」には、『海月。一名は水母。その形は月に似ており、海中に棲息している。』と述べてある。とするならば、中国人は本邦で言う「水母(くらげ)」を以ってしても、二枚貝の「江瑤」を「海月」というのと別にやはり、「海月」と称しているのである。但し、疑問に思うことは、ある。崔氏が謂うところの生物は、色の白いものを以ってかく称しているということで、則ちこれは、今言うところの「水海月(みずくらげ)」を指して言っているのだろうか、という疑義なのである。何となれば現在、私の知れる一般的な海月(くらげ)の色は基本、紫色であって、白銀の月の色には似ていないからである。但し、もしも海月(くらげ)の頭のその丸い形を以ってして海の「月」と称しているのであるとするならば、それはそれで正しいとも言える。さすれば、「閩書南産志」に曰く、『色は真っ白で、その形は何かぼんやりとしていてはっきりと捉えることが出来ぬ、謂わば水面に浮いた泡のような』とあるのも、現在の「水海月(みずくらげ)」のことを指して言っているのであろうか。

志賀理斎「耳嚢副言」附やぶちゃん訳注 「追加」 (Ⅻ) / 「耳嚢」マイ・ブーム――延べ5年と213日――取り敢えず、大団円也!

一 寛政のはじめ白川侯の御補佐ありし頃、「道中宿驛の食賣女(めしうりをんな)を停止(ちやうじ)せらるべきや、いかにやあらん」とうちうちに評議ありしとき、翁道中の奉行たりしまゝ具(つぶさ)に宿驛のありさま書(かき)つらね、「食賣女といふもの旅人寢食の給仕をなし、よりては密通いたす事も、必(かならず)其主人の制しとゞくべきいきほひにもあらず。公家・武家のうるはしき旅中と事かはり、庶民の産業には一年のうちいく度となく旅中に在(あり)て、定(さだま)りたる家には更にすむ事なきものも少なからず。かの海上を家居(いへゐ)とせる大船の船頭なるもの、湊(みなと)にくゞつなるいへる女のあるが如し。これも又ひとつの世界ならん」よしをことわり申され、「其中に目立(めだち)たる花美(くわび)を盡し遊女屋にひとしき所業(しよぎやう)もあらんには、奉行より夫々(それぞれ)嚴重の沙汰にも及び候はん」との次第、誠意を盡したる趣(おもむき)言外にあふれたりし事のよし。さらば其掟(おきて)にまかすべき事に決斷有しよし。

 嘉永四辛亥(かのとゐ)年八月廿八日發寫(はつしや)

 同年十一月十七日寫畢(うつしをはんぬ)

                 瀧 口 廣 教

[やぶちゃん注:町奉行時代ではないが、これも実に胸の透く、名捌きである。私の「耳嚢」マイ・ブームのエンディングには、まっこと、相応しい話ではないか!――これを以って「耳嚢副言」は終了する。――2009年9月22日より今日まで(延べ2039日――5年と213日)の永きに亙り、翁と私とに御付き合い戴き、忝のぅ存ずる。――根岸鎭衞翁ともども――この場を借りて読者の方々に心より御礼申し上ぐる。……では、また……いつか……何処かで……【2015年4月23日記 藪野直史】

・「寛政のはじめ白川侯の御補佐ありし頃」「白河侯」は当時の老中首座松平定信。鎮衛は定信によって天明七(一七八七)年七月に佐渡奉行から勘定奉行に抜擢された。

・「食賣女」飯盛女(めしもりおんな)。宿場にいた奉公人という名目で半ば黙認されていた私娼。参照したウィキの「飯盛女」によれば、『その名の通り給仕を行う現在の仲居と同じ内容の仕事に従事している者』『も指しており、一概に「売春婦」のみを指すわけでは』なかった。また、今、時代劇でよく聴く「飯盛女」の名は俗称であって、享保三(一七一八)年以降の『幕府法令(触書)では「食売女」と表記されている』とある。十七世紀に各街道の『宿駅が設置されて以降、交通量の増大とともに旅籠屋が発達した。これらの宿は旅人のために給仕をする下女(下女中)を置いた。もともと遊女を置いていたのを、幕府の規制をすり抜けるために飯盛女と称したという説がある。また、宿駅間の客入りの競争が激化し、下女が売春を行うようになったという説がある』。『当時、無償の公役や商売競争の激化により、宿駅は財政難であった。客集めの目玉として飯盛女の黙認を再三幕府に求めた。一方、当初は公娼制度を敷き、私娼を厳格に取り締まっていた幕府だったが、公儀への差し障りを案じて飯盛女を黙認せざるを得なくなった。しかし、各宿屋における人数を制限するなどの処置を執り、際限のない拡大は未然に防いだ』。因みに、明和九・安永元(一七七二)年で千住宿や板橋宿には百五十人、品川宿には五百人、内藤新宿には二百五十人の制限をかけている。『また、都市においては芝居小屋など娯楽施設に近接する料理屋などにおいても飯盛女を雇用している。料理屋は博徒など無法者の集団が出入りし、犯罪の発生もしくは犯罪に関係する情報が集中しやすい。その一方で、目明かし(岡っ引)などが料理屋に出入りし、公権力との関わりをもっていた。この料理屋には飯盛女が雇用されていたが、これは公権力への貢献のために黙認されていたと考えられ』ている、とある。

・「翁道中の奉行たりし」道中奉行は五街道と、その付属街道に於ける宿場駅の取締りや公事訴訟・助郷(すけごう:諸街道の宿場の保護及び人足・馬の補充を目的として宿場周辺の村落に課した夫役)の監督及び道路・橋梁などを担当した。当時の役料は年間二百五十両であった(ここはウィキの「道中奉行」に拠る)。天明七(一七八七)年に勘定奉行(同年末に従五位下肥前守叙任)した鎮衛は、翌天明八年八月三日に道中奉行を兼任している。兼任当時、鎮衛は満五十一歳であった。

・「くゞつなるいへる」底本には「なる」の「る」右に編者長谷川強先生による『〔ど〕』と訂正注が打たれてある。

・「くゞつ」ここで根岸は、当時の廻船業などの長期に亙る船旅に従事した船乗りたちが、湊々で買った売春婦のことを彼らの符牒で「くぐつ」と呼んでいたと思わせる発言をしている。但し、これが事実かどうかは確認出来なかった。事実としてもなんらおかしくはない。「傀儡子」が例えば、民俗学的でしばしば謂われる海人(あま)族の末裔であったとすれば、各地の湊を行動のランドマークとしてことは想像に難くないからである。ただ、かくも長く付き合って参ると鎭衞翁の性質(たち)がよく分かってくるのであるが、しばしば翁は、相手が知らぬであろうことを以って、はったりをかまして少し退かせるという手法を用いられる。何となくこの期に至って、これもそうした翁の茶目っ気が出たもの――翁の知ったかぶり――ではなかろうか、という気がちょっとしているのである。以下、ウィキの「傀儡子」を引いておく。元来、『傀儡子(くぐつし、くぐつ、かいらいし)とは、木偶(木の人形)またはそれを操る部族のことで』、『当初は流浪の民や旅芸人のうち狩猟と傀儡(人形)を使った芸能を生業とした集団、後代になると旅回りの芸人の一座を指した語。傀儡師とも書く。また女性の場合は傀儡女(くぐつ め)ともいう』。平安時代(九世紀)には『すでに存在し、散楽などをする集団として、それ以前からも連綿と続いていたとされる。平安期には雑芸を演じて盛んに各地を渡り歩いたが、中世以降、土着して農民化したほか、西宮などの神社の散所民(労務を提供する代わりに年貢が免除された浮浪生活者)となり、えびす舞(えびすまわし、えびすかき)などを演じて、のちの人形芝居の源流となった』。『平安時代には、狩も行っていたが諸国を旅し、芸能によって生計を営む集団になっていき、一部は寺社普請の一環として、寺社に抱えられた「日本で初めての職業芸能人」といわれている。操り人形の人形劇を行い、女性は劇に合わせた詩を唄い、男性は奇術や剣舞や相撲や滑稽芸を行っていた。呪術の要素も持ち女性は禊や祓いとして、客と閨をともにしたともいわれる。傀儡女は歌と売春を主業とし、遊女の一種だった』。『寺社に抱えられたことにより、一部は公家や武家に庇護された。後白河天皇は今様の主な歌い手であった傀儡女らに歌謡を習い、『梁塵秘抄』を遺したことで知られる。また、青墓宿の傀儡女、名曳(なびき)は貴族との交流を通じて『詞花和歌集』にその和歌が収録された』。『傀儡子らの芸は、のちに猿楽に昇華し、操り人形はからくりなどの人形芝居となり、江戸時代に説経節などの語り物や三味線と合体して人形浄瑠璃に発展し文楽となり』、『その他の芸は能楽(能、式三番、狂言)や歌舞伎へと発展していった。または、そのまま寺社の神事として剣舞や相撲などは、舞神楽として神職によって現在も伝承されている』。『寺社に抱えられなかった多くも、寺社との繋がりは強くなっていき、祭りや市の隆盛もあり、旅芸人や渡り芸人としての地位を確立していった。寺社との繋がりや禊や祓いとしての客との褥から、その後の渡り巫女(歩巫女、梓巫女、市子)として変化していき、そのまま剣舞や辻相撲や滑稽芸を行うもの、大神楽や舞神楽を行う芸人やそれらを客寄せとした街商(香具師・矢師)など現在の古典芸能や幾つかの古式床しい生業として現在も引き継がれている』とあり、また、『その源流の形態を色濃く残すものとして、サンカ(山窩)との繋がりを示唆する研究者もいる』 とし、白柳秀湖の、傀儡子というのは大陸のロマ族のような大道芸を生業とした被差別者集団が『中国・朝鮮などを経て渡来した漂泊の民族で』あったが、後に『時代が下り、その芸能を受け継いだ浮浪の』人々へと変容したもので、『民族的なものではない』という説、『その他に、「奈良時代の乞食者の後身であり、古代の漁労民・狩猟民である」とする林屋辰三郎説、「芸能を生地で中国人か西域人に学んだ朝鮮からの渡来人である」とする滝川政次郎説、「過重な課役に耐えかねて逃亡した逃散農民である」とする角田一郎説などがある』とする。また、応徳四・寛治元(一〇八七)年に大江匡房(まさふさ 長久二(一〇四一)年~天永二(一一一一)年:平安後期の学者。歌人赤染衛門は曾祖母に当たる。四歳で書を読み、八歳で「史記」や漢書に通じ、十一歳で詩を賦して神童と称せられた。十六歳の天喜四(一〇五六)年には文章得業生(もんじょうとくごうしょう:文章生〔大学寮で中国の詩文および歴史を学ぶ学科である文章道を専攻した学生〕の中から、成績優秀な者二名を選んで、官吏登用試験の最高段階である秀才・進士試験の受験候補者としたもの。)となり,学問料を支給されたが,これは菅原道真が十八歳で合格して評判になった例と比較しても異例に早い。ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)によって書かれた「傀儡子記」(漢文体で三百二十字ほどの小品)を概説して、『当時の傀儡子たちがどのような生活様式をもち、どのように諸国を漂泊していたかがうかがわれる数少ない資料となっている。傀儡子集団は定まった家を持たず、テント生活をしながら水草を追って流れ歩き、北狄(蒙古人)の生活によく似ているとし、皆弓や馬ができて狩猟をし』 、二本の剣をお手玉にしたり、『七つの玉投げなどの芸、「魚竜蔓延(魚龍曼延)の戯」といった変幻の戯芸、木の人形を舞わす芸などを行っていたとある』。『魚龍曼延とは噴水芸のひとつで、舞台上に突然水が噴き上がり、その中を魚や竜などの面をつけた者が踊り回って観客を驚かせる出し物である』(後の太夫姿の女芸人による水芸のルーツ!)。『また、傀儡女に関しては、細く描いた眉、悲しんで泣いた顔に見える化粧、足が弱く歩きにくいふりをするために腰を曲げての歩行、虫歯が痛いような顔での作り笑い、朱と白粉の厚化粧などの様相で』、『歌を歌い淫楽をして男を誘うが、親や夫らが気にすることはなく、客から大金を得て、高価な装身具を持ち、労働もせず、支配も受けず安楽に暮らしていると述べ、東海道の美濃・三河・遠江の傀儡女がもっとも美しく、次いで山陽の播磨、山陰の但馬が続き、九州の傀儡女が最下等だと記す』。『なお、大江匡房は『遊女記』も著しており、「遊女」と「傀儡女」はどちらも売春を生業とするものの、区別して捉えていたとされる』と記す。……いや、これで我らが注嚢、これ、満腹で御座るよ……

・「嘉永四辛亥年」西暦一八五一年。因みに、翌々年の嘉永六(一八五三)年の六月三日(グレゴリオ暦七月八日にはアメリカの東インド艦隊ペリー提督が四隻の黒船を率いて浦賀沖に到着、翌月の七月十八日には、ロシア大使プチャーチンが開国通商を求めて長崎に来航、江戸幕府(老中首座阿部正弘)は朝廷を始め、外様大名や市井を含む諸侯有司に対しペリーの開国通商要求に対する対応策を下問、結果、品川砲台(お台場)の構築工事を開始(翌年完成)、翌嘉永七(一八五四)年の三月三日(グレゴリオ暦三月三十一日)には遂に日米和親条約が締結されている(ウィキの「嘉永」に拠る)。

・「嘉永四辛亥年八月廿八日發寫/同年十一月十七日寫畢」「發寫」は書写の起筆。同年八月は小、九月が大、十月が小の月であるから、この「耳嚢副言」全部の筆写には述べ四十六日を費やしていることが分かる(こんなつまらない注記をするのは恐らく私ぐらいなものだろう。最後の最後までやぶちゃん流に拘った注を附すことの出来て、実は内心、非常に嬉しい。私もライターの末席に参加しているウィキペディアには最もお世話になった。最後にこの場を借りて謝意を表する)。

・「瀧口廣教」不詳。「ひろのり」或いは「ひろゆき」か。識者の御教授を――最後に――乞う。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

一 寛政の初め、翁が松平白川侯定信様の御補佐――勘定奉行に道中奉行を兼ね勤めておられたが――をなさっておられた頃、

「――街道道中宿駅の食売女(めしうりおんな)に就いて、これを停止(ちょうじ)せらるべきか否か?」

と、営中うちうちにて評議のあった折り、翁、道中奉行の就いておられたによって、具(つぶさに各所の宿駅の実態につき、手下の者を向かわせて子細に調査致いたものをしっかりとした文書に致いて披露の上、

「……以上、お示し申し上げた通り――食売女――と申す者、これは、旅人の寝食の給仕をなし、場合によっては密通など致すことのあるも、これ必ずしも、その旅籠屋主人の制止の行き届くようなる現状にては、これ、御座ない。公家や武家の、ゆったりのんびり致いた旅中とは、これ、さま変わり、庶民の生業(なりわい)の中には、一年の内、幾度となく旅中にあって、定まった一屋(ひとや)には一度として住んだことのない者も少なからず、……これは、かの海上を家居(いへい)とする大船(おおぶね)の船頭なる者らにとって、それぞれの湊(みなと)に――くぐつ――と称する女のあるが如きもの。……これもまた――一つの世界――と呼ぶべきものにて御座ろう。……」

との御自身の理(ことわり)の趣きにつき、これ、幕閣重臣の方々を前に、まっこと、正々堂々と申された上、

「――その中に、目立ったる華美を尽くし、最早、旅籠とは思われぬようなる――遊女屋に等しき所業(しょぎょう)をも成す不届き者のあったならば、これはもう、奉行より、それぞれの者に厳重なる沙汰にも及び申そうと存ずるが、如何(いかが)で御座ろう?」

との次第、誠意を尽くした簡潔なる主旨を述べ説かれ、また、その人情の温もり、これ、言外に溢れ出たものにて御座ったと申す。

 されば、翁の申された、その掟(おきて)に任すがよい、との御決断の下された、とのことである。

 

 嘉永四年辛亥(かのとい)年八月二十八日書写を始め

 同年十一月十七日写し終える

                 瀧 口 廣 教]

志賀理斎「耳嚢副言」附やぶちゃん訳注 「追加」 (Ⅺ)

 

一 いづれの年にか有けん、日本橋前後の川の附洲(つきす)を浚ひ上(あげ)る御普請の初(はじめ)に、其人歩(にんぷ)に出るもの悉く近邊の町火消人足(まちびけしにんそく)と唱ふるものなれば、先(まづ)其頭(かしら)だちたる火事場世話役といへるものを白洲へ呼出(よびいだ)し、「こたびの御用格別に精入(せいいれ)つとめよ。年頃其方(そのはう)の勤(はたらき)かたよろしきよしはかねて聞置(ききおき)たれば、分(わけ)て此事をゆだぬる」よしを申されしかば、かの老夫涙おとしてよろこびかしこまれり。翁其席を立(たち)て奧のかたに入(いり)ながら、「かやつをもまづさとし置(おき)たれば必ず落成速(すみやか)ならん」と獨りごちうれしげなりしが、豈(あに)はからんや、其普請のもなか大雨つゞきて其川邊大水なりしを、「普請手(ふしんて)もどりなるべきを厭ひ、かの老夫其川邊にをりたちこれかれ指揮せしまぎれ、あやまりて溺死せり」との訴(うつたへ)あり。翁大きに嘆息ありて、例の事とて鳥目(てふもく)そこばくを其妻子にあたへ、猶(なほ)別に葬式のたすけなど厚く惠まれつゝ、「奉行たるもの一言(いちごん)を出すもつゝしむべき事也。餘りにあつく申(まうし)さとしたれば、全く老夫の命も捨(すて)させしなり」と後悔せられたり。事がらは是非なき次第、され共(ども)士卒の打死(うちじに)をも厭はずして進むは、軍配の賢愚によるのたとへなるべし。

[やぶちゃん注:・「附洲」上流から流れて来た土砂が、下線の平野部や河口近くに於いて堆積して砂洲や中州を形成したものを称する語と思われる。それが河川の船の運航の妨げになったり、川の流れの遅滞を起して河川の氾濫や、潮位の上昇によって周辺域の浸水の原因になったものであろう。

・「町火消人足」「町火消」(まちびけし)は第八代将軍徳川吉宗の時代に始まった町人による火消のこと。以下、ウィキの「火消」の「町火消」によれば、『財政の安定化が目標の一つとなった享保の改革において、火事による幕府財政への悪影響は大きいため、消防制度の確立は重要な課題とな』り、享保二(一七一七)年に南町奉行となった大岡忠相は、翌三年に『名主たちの意見も取り入れ、火消組合の組織化を目的とした町火消設置令を出す。町火消は町奉行の指揮下におかれ、その費用は各町が負担すると定められた。これにより、火事の際には』一町につき三十人ずつ、火元から見て風上の二町と風脇の左右二町の計六町百八十人体制で『消火に当たることになった。しかし、町の広さや人口には大きな差があり、地図上で地域割りを行なったものの、混乱するばかりでうまく機能しなかった』。その後、享保五(一七二〇)年になって、地域割りを修正し、約二十町ごとを一組とし、隅田川から西を担当する「いろは組」四十七組と、東の本所・深川を担当する十六組の町火消が設けられた。『同時に各組の目印としてそれぞれ纏(まとい)と幟(のぼり)をつくらせた。これらは混乱する火事場での目印にするという目的があったが、次第に各組を象徴するものとなっていった』。享保一五(一七三〇)年には、いろは四十七組を一番組から十番組まで十の大組に分け、『大纏を与えて統括し、より多くの火消人足を火事場に集められるように改編した。一方で各町ごとの火消人足の数は負担を考慮して』十五人へ半減され、町火消全体での定員は一万七千五百九十六人から九千三百七十八人と大幅に整理された。『のちに、「ん組」に相当する「本組」が三番組に加わっていろは四八組となり、本所深川の』十六組は北組・中組・南組の三組に分けて統括され、元文三(一七三八)年には『大組のうち、組名称が悪いとして四番組が五番組に、七番組が六番組に吸収合併され、大組は』計八組となった。この年の定員は一万六百四十二人、その内訳は鳶人足が四千七十七人・店人足が六千五百六十五人であった(鳶人足と店人足の違いについては後述される)。町火消は毎年正月の一月四日に、『各組の町内で梯子乗りや木遣り歌を披露する初出(はつで)を行なった。これは、定火消が行なっていた出初に倣ってはじめられたものである』。『いろは四八組は、いろは文字をそれぞれの組名称とした(「い組」「ろ組」「め組」など)。いろは文字のうち、「へ」「ら」「ひ」「ん」はそれぞれ「百」「千」「万」「本」に置き換えて使用された。これは、組名称が「へ=屁」「ら=摩羅」「ひ=火」「ん=終わり」に通じることを嫌ったためであるという』。いろは四八組の内、「め組」は文化二(一八〇五)年に「め組の喧嘩」を引き起こしたことで知られ、明治時代に竹柴基水の作で歌舞伎の外題「神明恵和合取組」にも取り上げられている。これとは別に、町人により組織された火消として、享保七(一七二二)年に成立した『橋火消(はしびけし)もあげられる。これは橋台で商売をしていた髪結床に、橋梁の消防を命じたものである。橋の付近に多く設けられていた髪結床の店は、粗末なものが多く火事の際に飛び火の危険があるため、撤去するか地代を徴収して橋の防火費用に充てることが検討されていた。これに対し髪結床の職人たちは、自身で火消道具を揃え橋の防火を担当したいと申し出る。町奉行大岡忠相はこの申し出を認め、髪結床による橋火消が成立した。また、近くに橋のない山の手の髪結床は、火事が起きたら南北の町奉行所に駆けつけることが命じられた』とあるが、享保二〇(一七三五)年に『橋の防火担当は町火消へと変わり、火事の場合髪結床の職人はすべて町奉行所に駆けつけることとなった』とあるから、この話柄のそれも先の町火消の担当であったと考えてよいであろう(後の天保一三(一八四二)年には天保の改革によって髪結床組合が解散、町奉行所への駆けつけは名主たちに命ぜられている)。『町火消の出動範囲は、当初町人地に限定されていた。しかしいろは組成立時には、町人地に隣接する武家地が火事であり、消し止められそうにない場合は消火を行うこととな』り、享保七(一七二二)年には二町(約二百十八メートル)以内の武家屋敷が火事であれば消火することが命ぜられるようになり、それ以降も享保一六(一七三一)年に『幕府の施設である浜御殿仮米蔵の防火が「す組」などに命じられたことをはじめ、各地の米蔵・金座・神社・橋梁など重要地の消防も町火消に命じられていった』とある。延享四(一七四七)年の『江戸城二の丸火災においては、はじめて町火消が江戸城内まで出動することとなった。二の丸は全焼したが、定火消や大名火消が消火した後始末を行い、幕府から褒美が与えられ』ている。なお、以後でも天保九(一八三八)年に起こった西の丸出火、同一五(一八四四)年の本丸出火などでも江戸城内へ出動し、『目覚しい働きを見せたことにより、いずれも褒美が与えられている』とある。以下、「火消人足」の項の町火消の関連項に、『町火消の構成員は、当初地借・店借(店子)・奉公人など、店人足(たなにんそく)と呼ばれる一般の町人であった。これは、享保四(一七一九)年に名主に対し、鳶職人を雇わないようにとの触が出されていたためでああったが、『江戸時代の消火活動は、延焼を防ぐため火災付近から建物を破壊していくという破壊消防が主であり、一般の町人よりも鳶職人に適性があることは明らかであった。名主たちの、大勢の店人足を差し出すよりも少数の鳶を差し出した方が有効であるとの訴えもあって、町火消の中心は鳶を生業とする鳶人足(とびにんそく)によって構成されるようになっていった』。『鳶人足に対しては、町内費から足留銭』(注釈に『本業の鳶で遠方へ出向くことを禁じ、風の強い日などには番屋へ詰めて警戒させるための費用』とある)『をはじめ、頭巾・法被・股引などの火事装束も支給されていた。また、火事で出動した場合には足留銭とは別に手当てが支給された。火事が起こると、定められた火消人足のうちからまず鳶人足を出動させ、大火の場合は残りの店人足も出動させた』。『町火消は町奉行の指揮下に置かれ、町火消を統率する頭取(とうどり、人足頭取)、いろは組などの各組を統率する頭(かしら、組頭)、纏持と梯子持(合わせて道具持)、平人(ひらびと、鳶人足)、土手組(どてぐみ、下人足、火消の数には含まれない)といった構成になっていた。頭取には一老・二老・御職の階級があり、御職は顔役とも呼ばれ、江戸市中で広く知られる存在であった。江戸全体で』約二百七十人いた頭取は、『力士や与力と並んで江戸三男(えど・さんおとこ)と呼ばれ人気があり、江戸っ子の代表でもあった』とある(以上、下線やぶちゃん)。この老人はこの「人足頭取」と思われ、まさに時代劇に出て来る、きっぷのいい老江戸っ子であったのであろう。なお、個人サイト「河童ヶ淵」の「町火消し」によれば、この人足たちは、火消しの数に組み入れられず、「土手組」とも呼ばれたとあり、また、『江戸の鳶は遠国生まれどころか近郷近在生まれ』の者もおらず、『地元の人間がつとめて』おり、『贔屓(ひいき)の旦那がいる者もあって気前がよく、火事を相手にする職業がらキビキビとしていて、若い娘だけではなく人妻にも人気があ』ったとある。当該頁には各組の人足数が総て細かく記されてあり(ばらつきが大きい)、別サイトで調べて見ると、この日本橋周辺は「ろ組」と「せ組」が担当と思われ、「ろ組」は人足二百四十九人、「せ組」は二百八十一人である。

・「鳥目」穴明き銭。古銭は円形方孔で鳥の目に似ていたことによる。 

 

■やぶちゃん現代語訳

一 孰れの年の頃のことであったろうか、日本橋近くの、その上流であったか下流であったか、その頃出来てしもうた附き洲を、これ、浚い上ぐる御普請(ごふしん)を始めること相い成り、その事始めとして――それらの現場人夫として雇われ出でる者どもが、これ、ことごとく日本橋近辺の町火消人足(まちびけしにんそく)と称する者どもであったによって――翁、まず、その頭(かしら)を任せられた火事場世話役と申す者を、お呼び出だしになられ、

「――此度(こたび)の御用、これ、格別に精入(せいい)れ、勤めよ。――年頃、その方らの勤らき方、これ、よろしき由は、かねてより聞き及んでおればこそ、別して、この大事を委ぬるぞ!」

といった言葉を賜わられたところ、その火事場世話役の老夫、これ、涙を落いて悦び畏まって御座ったと申す。

 翁、その席を立って、やおら、奧の方へと入らんとする折りから、

「――か奴(やつ)をも、かくもまず諭しおいておけば――これ必ず、落成も速やかなることであろう。」

とひとりごちて、こちらもまた、嬉しげで御座った。

 ところが、である。

 豈に図らんや、その普請の最中、折り悪しく大雨の降り続いて、その川辺一帯、大水となって御座ったが、ある日のこと、

「――普請手(ふしんて)どもが、雨を厭うてこっそり仕事をさぼるようなことのあるをを憂え、かの火事場世話役が老人、かの川辺に自ら降り立って、かれこれ指揮致いておりましたところ、誤って大水の流れにはまり込み……溺死致いて御座いまするッ!……」

と、急な訴えのあった。

 翁、大いに嘆息なされ、こうした際の例(ためし)なればとて、鳥目(ちょうもく)幾許(いくばく)かを、これ、その妻子にお与えになり、しかもなお、別に葬式の助けなども厚くお恵みになられた。そのお指図を支配の者に命ぜられつつ、翁、

「……奉行たる者……一言(いちごん)を口に出すにつけても、重々これ、慎まねばならぬことじゃのぅ。……あまりに力を込めて申し諭し励ましたればこそ……全く……あたら、かの老夫に……命をも、これ、捨てさせて、しもうた……」

と、ひどく後悔なさっておられたと申す。

 かくなれば、この出来事、是非もなき次第にては御座った。

 されども……かくも――士卒の打ち死にをも厭わずして進む――と申すは、これ――軍師軍配の賢愚に據(よ)る――の譬え、なればなるべしと申そうず。]

2015/04/22

志賀理斎「耳嚢副言」附やぶちゃん訳注 「追加」 (Ⅹ)

一 翁は南の番所と唱ふる官邸たりしが、ある評定の日に北の官邸なる方の吟味に、町家のものより寺院を相手取(どり)たるうりかけの出入(でいり)あり。茶漬飯(ちやづけめし)のうりかゝり四、五十金のとゞこほりなるを、其かゝりの奉行、「茶漬めしの料(れう)には大金珍らし」と申されしを、翁かたはらより、「そはいづ方の町なりや」と問はれしに、「これは湯島天神のまへなる町なり」と答へられしかば、翁とみに「夫(それ)こそ子供の踊りを見過したるならん」と申されしによりて、かの出家顏をあからめ、「速(すにや)かに其滯りを濟し申(まう)さん」とこたへ上(あげ)たり。男色のうりものは子供踊りといへなるよし。

[やぶちゃん注:

・「北の官邸なる方」これはもう、親しく助言していることからも間違いなく盟友永田正道(まさのり)のことと思われるが、永田は結構、真面目一方の御仁であったらしいのぅ……♪ふふふ♪

・「うりかけ」「売(り)掛け」でツケのこと。

「湯島天神のまへなる町」男色を売る歌舞伎若衆を置いていた陰間(かげま)茶屋があった。ウィキの「陰間茶屋に(注記号は省略した。下線やぶちゃん)、『江戸時代中期、元禄』(一六八八年~一七〇四年)年間の頃に『成立した陰間が売春をする居酒屋・料理屋・傾城屋の類。京阪など上方では専ら「若衆茶屋」、「若衆宿」と称した』とあり、『元来は陰間とは歌舞伎における女形(女役)の修行中の舞台に立つことがない(陰の間の)少年を指し、男性と性的関係を持つことは女形としての修行の一環と考えられていた。但し女形の男娼は一部であり、今でいう「女装」をしない男性の格好のままの男娼が多くを占めていた。陰間茶屋は当初芝居小屋と併設されていたが、次第に男色目的に特化した陰間茶屋が増えていった』。『売色衆道は室町時代後半から始まっていたとされるが、江戸時代に流行し定着』、『江戸で特に陰間茶屋が集まっていた場所には、東叡山喜見院の所轄で女色を禁じられた僧侶の多かった本郷の湯島天神門前町や、芝居小屋の多かった日本橋の芳町(葭町)がある。京では宮川町、大坂では道頓堀などが有名だった。江戸においては、上方から下ってきた者が、物腰が柔らかく上品であったため喜ばれた』という。『料金は非常に高額で、庶民に手の出せるものではなかった。平賀源内が陰間茶屋や男色案内書と』言うべき「江戸男色細見 菊の園」「男色評判記 男色品定」によれば、一刻(二時間)で一分(四分の一両)、一日買い切りで三両、外に連れ出すときは一両三分から二両かかったとある(因みにこの頃の一両は現在の五万円から十万円相当とされる)。『主な客は金銭に余裕のある武家、商人、僧侶の他、女の場合は御殿女中や富裕な商家などの後家(未亡人)が主だった』。『但し江戸幕府の天保の改革で風俗の取り締まりが行われ』、天保一三(一八四二)年には陰間茶屋は禁止されているとある。そして「陰間茶屋があった場所」の項には、湯島天神門前町に十軒ともあった。

「子供踊り」陰間茶屋のことを「子供茶屋」「子供宿」「子供屋」とも呼んでいたから、そうした男色行為を元の歌舞伎踊りから、暗に「踊り」擬えていたものであろう。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

一 翁は南の番所と呼ばれた南町奉行所内の官邸にお住まいであられたが、ある評定の日のこと、たまたま北の官邸なる御方の御吟味にて、町家の者より、寺院を相手取った売り掛けに纏わる公事のあった。

 これがまた、茶漬飯(ちゃづけめし)のツケの騒動にて御座ったが、その金額たるや、これ、実に四、五十両の支払いのない、と申す訴えであったによって、その月番の係であられた北町奉行の御方、

「……茶漬飯(ちゃずけめし)の代料(だいりょう)にしては……これ……如何にも大金……なんとも、珍らしきことじゃが?……」

と糾された。

 ところが、たまたま、そのお白洲の場近くにあられて、それを聴かれた翁、これ、傍らより、

「……失礼乍ら……それは、何方(いずかた)の町でのことで御座るか?」

と問はれたところが、

「――いや、これは――湯島天神の前なる町――でのこととのことじゃが? 何か?」

と、北町の御奉行さまのお応えになられたところ、翁、即座に、

「――いやさ! それこそ――子供の踊りを――これ、見過ぎたということで御座いましょうぞ!」

と、呵々大笑なされて申されたところが、訴えられ、そのお白洲の場にあった出家、これ、蛸の如くに顔を真っ赤に致いて、

「……す、す、速やかに、そ、その滞りに、つ、つきましては、こ、これ、お支払致します、すれば……」

と、唾を呑んで答えたとのこと。

 さても――男色の売り物はこれ――子供踊り――と当時は申して御座ったとか。……♪ふふふ♪……]

安倍晋三への天誅 附 御用芸能人重度先生妄想症候群武田哲矢を叱る母と金八先生と不良生徒A

アジア・アフリカ会議での安倍晋三という日本の首相を名乗る下劣な男のスピーチより――
 
『強い者が、弱い者を力で振り回すことは、断じてあってはなりません。』
 
――貴様に鏡返ししてやろう!――
 
強権を持った日本国家政府という『強い者』であるお前『が、』原発被害で致命的にして深刻な被害を蒙っている福島を始めとする日本の北の人々や、近現代から今に至るまで完膚なきまでに非日本的扱いを受けている日本の南の沖縄という『弱い者を力で振り回すことは、断じてあってはなりません』!『。』
 
追伸:因みに、自らを社会の「先生」と妄想し――己を選ばれた人間と勘違いしている――石原慎太郎とすっかり蜜月を持っている、遂に御用芸能人になった武田哲矢という大馬鹿者は、もともと、でえ嫌えだよ!――なんばしちょっとか!! ほんなこつ、腹ン立つ! テツヤッツ!!!

追伸2:
 
「……原発が危険である、一旦事故が起こると取り返しのつかないことになってしまう、それはもう日本国民全員が懲りてる、っていうか十分知ってるわけですよね。だから原発は止めてしまおう、というのがもっとも正しい答えなんですけども、もっとも正しい答えのまま振る舞えない経済的な事情ってやっぱりあるわけじゃないですか。ですから“差し止め万歳”っていうふうに簡単にいきませんよね……」
 
「……たとえば、私どもはテレビ局で仕事しておりますけど、テレビ局にやっぱり電力を消費しないために1日6時間、放送をやめるとかっていう覚悟が各局にあるかとか、そういうことまでも込みで考えて原発再稼働を認めずというような決心をすべきであって、国は間違ったことやってるぞ、はんたーい!という、そういう単純な話ではもうなくなったような……」
 
「……原発嫌いなら嫌いって、最初から裁判官にも言ってほしいですよね……」
 
(総て――高浜原発再稼働差し止め判決で原発推進派がヒステリー! 武田鉄矢の「テレビ放映を短縮する覚悟ないなら原発に反対するな」発言を嗤う――より武田哲矢の4月19日フジテレビ「ワイドナショー」での発言。この記事、必読!)
 
金八先生「テツヤッツ!!! 決して損得だけで物事を考える人間になるなッツ!!!!」
不良生徒A「――『テレビ局にやっぱり電力を消費しないために1日6時間、放送をやめるとかっていう覚悟が各局にあるかとか、そういうことまでも込みで考えて』だぁ!?――『そうされたらこの俺が、おマンマ食い上げなんだよ、馬鹿大衆が!』――って先に言えや! このエセ先公がッツ!!!」

堀辰雄 十月  正字正仮名版 附やぶちゃん注(Ⅷ)

 

十月二十一日夕  

 けふはA君と若き哲學者のO君とに誘はれるがままに、僕も朝から仕事を打棄つて、一しよに博物館や東大寺をみてまはつた。

 午後からはO君の知つてゐる僧侶の案内で、ときをり僕が仕事のことなど考へながら步いた、あの小さな林の奧にある戒壇院の中にもはじめてはひることができた。

 がらんとした堂のなかは思つたより眞つ暗である。案内の僧があけ放してくれた四方の扉からも僅かしか光がさしこんでこない。壇上の四隅に立ちはだかつた四天王の像は、それぞれ一すぢの逆光線をうけながら、いよいよ神々しさを加へてゐるやうだ。

 僕は一人きりいつまでも廣目天(くわうもくてん)の像のまえを立ち去らずに、そのまゆねをよせて何物かを凝視してゐる貌(かほ)を見上げてゐた。なにしろ、いい貌だ、温かでゐて烈しい。……

 「さうだ、これはきつと誰か天平時代の一流人物の貌(かほ)をそつくりそのまま模してあるにちがひない。さうでなくては、こんなに人格的に出來あがるはずはない。……」さうおもひながら、こんな立派な貌に似つかはしい天平びとは誰だらうかなあと想像してみたりしてゐた。

 さうやつて僕がいつまでもそれから目を放さずにゐると、北方の多聞天(たもんてん)の像を先刻から見てゐたA君がこちらに近づいてきて、一しよにそれを見だしたので、

 「古代の彫刻で、これくらゐ、かう血の溫かみのあるのは少いやうな氣がするね。」と僕は低い聲で言つた。

 A君もA君で、何か感動したやうにそれに見入つてゐた。が、そのうち突然ひとりごとのやうに言つた。「この天邪鬼(あまのじやく)といふのかな、こいつもかうやつて千年も踏みつけられてきたのかとおもふと、ちよつと同情するなあ。」

 僕はさう言われて、はじめてその足の下に踏みつけられて苦しさうに悶えてゐる天邪鬼に氣がつき、A君らしいヒュゥマニズムに頰笑みながら、そのはうへもしばらく目を落した。……

 數分後、戒壇院の重い扉が音を立てながら、僕たちの背後に鎖された。再びあの眞つ暗な堂のなかは四天王の像だけになり、其處には千年前の夢が急にいきいきと蘇り出してゐさうなのに、僕は何んだか身の緊(しま)るやうな氣がした。

 それから僕たちは僧侶の案内で、東大寺の裏へ拔け道をし、正倉院がその奧にあるといふ、もの寂びた森のそばを過ぎて、畑などもある、人けのない裏町のはうへ步いていつた。

 と、突然、僕たちの行く手には、一匹の鹿が畑の中から犬に追ひ出されながらもの凄い速さで逃げていつた。そんな小さな葛藤までが、なにか皮肉な現代史の一場面のやうに、僕たちの目に映つた。

 

[やぶちゃん注:昭和一六(一九四一)年十月二十一日火曜日。なお、四天王の画像を示すためにしばやん氏の個人ブログ「しばやんの日々」の東大寺戒壇院と、天平美術の最高傑作である国宝「四天王立像」』をリンクさせて戴く。

「A君と若き哲學者のO君」阿部知二とその連れ。前条参照

「戒壇院」既注であるが、思うところあって再掲する。東大寺戒壇堂。天平勝宝六(七五四)年に聖武上皇が光明皇太后らとともに唐から渡来した鑑真和上から戒を授かったが、翌年、日本初の正式な授戒の場としてここに戒壇院を建立した。当時は戒壇堂・講堂・僧坊・廻廊などを備えていたが、江戸時代までに三度火災で焼失、戒壇堂と千手堂だけが復興されている(以上は東大寺公式サイトに拠る)。現在の建物は享保一八(一七三三)年の再建で、内部には中央に法華経見宝塔品(けんほうとうほん)の所説に基づく宝塔が安置され、その周囲を塑造四天王立像(国宝)が守る。ウィキの「東大寺」によれば、この四天王像は『法華堂の日光・月光菩薩像および執金剛神像とともに、奈良時代の塑像の最高傑作の一つ。怒りの表情をあらわにした持国天、増長天像と、眉をひそめ怒りを内に秘めた広目天、多聞天像の対照が見事である。記録によれば、創建当初の戒壇院四天王像は銅造であり、現在の四天王像は後世に他の堂から移したものである』とある。私は教え子に連れられて初めてここに行き、その教え子の好きだという、まさにこの広目天像に親しく接し、痛く魅入られたことが忘れられない。

「四天王」仏教の世界観の一つを担う四鬼神。世界の中心にある須弥山(しゅみせん)の中腹、東西南北の四方に住むとされ、東に持国天、南に増長天、西に広目天、北に多聞天(毘沙門天)がそれぞれ配される。古代インドの神話的な神であったが、仏教に取入れられて仏法の守護神とされた(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

「廣目天」「毘留博叉」「毘流波叉」とも音写され、「雑語」「醜眼」「悪眼」とも訳される。須弥山中腹の西方にある周羅城に住し、西大洲(中央の閻浮提(えんぶだい)の西にある大陸。西牛貨洲(さいごけしゅう))を守護するところから「西方天」とも呼ばれる。悪人を罰し、仏心を起させるとされ、像容は戒壇院のそれのように、甲冑を着けて、左手に絵巻、右手に筆を持ち、足下に邪鬼を踏みつけている姿で表わされることが多い(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

「多聞天」音写が毘沙門。名は、北方を守る仏法守護の神将で、常に如来の道場を守って法を聞くことが最も多いことに由来する。甲冑を着けて、両足に悪鬼を踏まえ、手に宝塔と宝珠又は鉾(戒壇院のそれは右手で宝塔を掲げ、右手に短い鉾を持つ)を持った姿で表される。日本では福徳の神とされる。因みに、東方を守護する持国天像は、左手に刀を持ち、足下に鬼を踏むのが通例(戒壇院のそれは右手で柄を持ち、左手で剣先の少し手前を押さえている)で、インド神話では東方の守護神はインドラであるが、仏教のそれとは全く異なる。古くからインドの護世神であった南方を守護する増長天の戒壇院のそれは、右手に長槍を立て、左手を腰に添えてやはり足下に鬼を踏んでいる(以上は総て「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

「天邪鬼」「あまんじゃく」とも呼称する。悪鬼神の小鬼、また、日本の妖怪の一種ともされ、「河伯」「海若」とも書く。参照したウィキ天邪鬼によれば、『仏教では人間の煩悩を表す象徴として、四天王や執金剛神に踏みつけられている悪鬼、また四天王の一である毘沙門天像の鎧の腹部にある鬼面とも称されるが、これは鬼面の鬼が中国の河伯(かはく)という水鬼に由来するものであり、同じく中国の水鬼である海若(かいじゃく)が「あまのじゃく」と訓読されるので、日本古来の天邪鬼と習合され、足下の鬼類をも指して言うようになった』。『日本古来の天邪鬼は、記紀にある天稚彦(アメノワカヒコ)や天探女(アメノサグメ)に由来する。天稚彦は葦原中国を平定するために天照大神によって遣わされたが、務めを忘れて大国主神の娘を妻として8年も経って戻らなかった。そこで次に雉名鳴女を使者として天稚彦の下へ遣わすが、天稚彦は仕えていた天探女から告げられて雉名鳴女を矢で射殺する。しかし、その矢が天から射返され、天稚彦自身も死んでしまう』。『天探女はその名が表すように、天の動きや未来、人の心などを探ることができるシャーマン的な存在とされており、この説話が後に、人の心を読み取って反対に悪戯をしかける小鬼へと変化していった。本来、天探女は悪者ではなかったが天稚彦に告げ口をしたということから、天の邪魔をする鬼、つまり天邪鬼となったと言われる。また、「天稚彦」は「天若彦」や「天若日子」とも書かれるため、仏教また中国由来の「海若」と習合されるようになったものと考えられている』とある。

「そんな小さな葛藤までが、なにか皮肉な現代史の一場面のやうに、僕たちの目に映つた」私には辰雄の当時の時勢への精一杯の皮肉であるように読める。]

美香――悼――

若き日に柏陽のワンゲルの顧問をしていた、その最初の女性徒が亡くなった……僕より早く逝っては……いけないよ、美香……

志賀理斎「耳嚢副言」附やぶちゃん訳注 「追加」 (Ⅸ)

一 家紋蛇の目の外に猶(なほ)有(あり)しよしなれども、壯年の時着用の上下(かみしも)・小袖など、こくもちと稱してたゞ丸く染置(そめおき)たるを其まゝ用ゆるに便利なりとて、蛇の目斗(ばか)りをつくる事とす。微々(びび)たりし時は別にもんかゝする事もせず、かのこくもちの中へみづから墨を以てぬり、蛇の目となしゝも着用有し由。

[やぶちゃん注:

・「家紋蛇の目」中央に白い丸の開いた黒いドーナツ型のシンプルな家紋。邪眼を思わせる極めて呪術的な紋様である。紋様を見るために播磨屋氏の強力な家紋サイト「家紋World」内の「名字と家紋」の「蛇の目紋」をリンクさせておく。

・「こくもち」「石持」「黒餅」。元来は紋の名で、黒い円形で中に文様のないもの。ルーツは矢口の祭り(武家に於いて男子が初めて狩猟で獲物をしとめた際にその肉を調理して餅を搗いて祝う儀式を矢開きというが、その時、黒・白・赤の三色の餅を供えて山の神を祭った)の黒餅を象ったものとされる。但し、ここでの「こくもち」は、その形から派生した、定紋をつけるべき所を白抜きにして染め、あとでその中に紋を描き込むことが出来るようにしたもの及びそれを施した衣服などを指している。やはり、サイト「名字と家紋」の石餅(黒餅・石持)紋をリンクさせておく。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

一 根岸家の御家紋には、「蛇の目」の他にもなお、別なものもあらるるとのことで御座ったが、壮年の時、着用なさっておられた裃(かみしも)や普段の小袖などには、

「――こくもち――と称して、ただ中を白く丸く染め抜いただけのものに、これ、ちょちょっと黒い輪を染めたを、そのまま用いればよいのじゃから、まっこと、便利じゃて。」

と、蛇の目ばかりの紋所を、専ら、お作らせになさっておられた。

 お若い時分には何でも、別に職人に紋を染めさせなさることもなさらず、かの――こくもち――の中を、自ら墨を以て――ぐるん!――と塗られて、「蛇の目」となしたるものをも、これ、着用なさっておられたとか申す。]

志賀理斎「耳嚢副言」附やぶちゃん訳注 「追加」 (Ⅷ)

一 下婢(かひ)の朝夕用ゆる手燭(てしよく)も、しばしば損じてわづらはしとて、松の板一尺四方のものに例のとづるを長くつりて、夫(それ)に細長き紙屑籠といへるものをうつぶせにさし込(こみ)て、中に蠟燭をともす。其具いくらといふ事もなくつくりて、次の間に並(ならび)おけり。

[やぶちゃん注:

・「一尺四方」三〇・三センチメートル四方。

・「とづる」私は当初、これは仮名の草書の「津」(つ)と「亭」(て)を判読し損なったものではないかと思った。「とつて」(取っ手)である。しかしそれでもどうもしっくりこない。「長くつりて」とあるから、これは「取り鉉(づる)」と合点した。「鉉」(つる)とは所謂、土瓶・鍋・急須などの上に半円状に渡してある蔓(かづら)などで出来た取っ手のことである。少なくとも「とづる」という語は小学館の「日本国語大辞典」にも近似する語さえ載らず、ネット検索でも掛かってこない。「吊り鉉(づる)」で訳した。

・「次の間」主人の居室の次にある部屋で、従者などが控える。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

一 下女が朝夕に用いる手燭(てしょく)と申すも、これ、華奢な造りで、

「……あの市井に出回る手燭と申すもの、これ、如何にもちゃちで、しばしば損ずるが、まっこと、煩わしいのぅ。」

と申され、手ずから、松の板の一尺四方のものに、かの薬缶(やかん)の吊り鉉(つる)のようなる、藤蔓で作った半円の取っ手の頑丈な奴を結わい附けて長く釣り、それにまた、細長き紙屑籠(かみくずかご)にも見紛うような、しっかりした覆い籠をうつ伏せにさし込んで立てられ、中に蠟燭を灯すようにした、全く自前の灯明具をお作りになられた。

 それを見本にさせた上、下男どもに、これまた数え切れぬほどに沢山、お作らせになられ、いつも次の間に並べ置いておかれて御座った。]

2015/04/21

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」  杉本觀音堂

    ●杉本觀音堂

大藏觀音ともいふ。大倉往還の北にあり。天平六年。行基剏建にて坂東(ばんどう)三十三觀音の内第一番の札所なり。本尊十一面觀音三軀(く)を置き。運慶作の同体(どうたい)を前立とす。緣起によれは。是建久二年九月。賴朝か納めしものなり。此餘釋迦〔天竺佛〕毘沙門〔宅間作〕等を安す堂に杉本寺の額をかく。太平記天正本に。斯波三郎家長軍利なふして。杉本觀音堂にて切腹とあり。

[やぶちゃん注:金沢街道に面した天台宗大蔵山(だいぞうざん)杉本寺。本寺は古くは「大倉観音堂」と呼ばれていたことが「吾妻鏡」によって分かる。「吾妻鏡」の文治五(一一八九)年十一月二十三日の条に、

〇原文

廿三日己卯。冴陰。終日風烈。入夜。大倉觀音堂回祿。失火云々。別當淨臺房見煙火涕泣。到堂砌悲歎。則爲奉出本尊。走入焰中。彼藥王菩薩者。爲報師德燒兩臂。此淨臺聖人者。爲扶佛像捨五躰。衆人所思。万死不疑。忽然奉出之。衲衣纔雖焦。身體敢無恙云々。偏是火不能燒之謂歟。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿三日己卯(つちのとう)。冴え陰(くも)る。終日、風烈し。夜に入りて、大倉觀音堂回祿す。失火と云々。

別當淨臺房、煙火を見て涕泣し、堂の砌(みぎ)りに到りて悲歎す。則ち、本尊を出し奉らんが爲に、焰の中へ走り入る。彼の藥王菩薩は、師德に報ぜんが爲兩臂(りやうひ)を燒かれ、此の淨臺聖人(しやうにん)は、佛像を扶(たす)けんが爲、五躰を捨つ。衆人の思ふ所、万死を疑はざるに、忽然としえ之を出だし奉る。衲衣(なふえ)、纔(わづ)かに焦げると雖も、身體敢へて恙無しと云々。

 偏へに是れ、火も燒くに能はずの謂ひか。

という奇跡の記述があるが、これがこの杉本寺である。この条中の「藥王菩薩」はウィキ薬王菩薩に、『薬王菩薩本事品では、薬王菩薩の前世は、一切衆生喜見菩薩といい日月浄明徳如来(仏)の弟子だった。この仏より法華経を聴き、楽(ねが)って苦行し、現一切色身三昧を得て、歓喜して仏を供養し、ついに自ら香を飲み、身体に香油を塗り焼身した。諸仏は讃嘆し、その身は』千二百歳まで『燃えたという。命終して後、また同じ日月浄明徳如来の国に生じ、浄徳王の子に化生して大王を教化した。再びその仏を供養せんとしたところ、仏が今夜に般涅槃することを聞き、仏より法及び諸弟子、舎利などを附属せられた。仏入滅後、舎利を供養せんとして自らの肘を燃やし』、七万二千歳に渡って供養したという、とある。……なお、私はこの寺については……いかにもな現代の生臭いいやなゴシップをも知っている。……いつかあなたと行くことがあれば、お話致そうぞ……

「天平六年」西暦七三四年。これを以って鎌倉最古の寺とされる。

「大藏觀音」これは「おほくらくわんのん(おおくらかんのん)」と読むはずである。

「剏建」「さうけん(そうけん)」と読む。創建に同じい。

「運慶作の同体(どうたい)を前立とす」「同体」というのは本尊(現在、伝行基・伝慈覚・伝恵心の三体の十一面観音立像があるが、伝行基のものを具体的に指すか。それとも単に形而上的な観音菩薩の鏡像の意か)のそれと同体の意であろう。ウィキの「杉本寺」によれば、中央の像(像高百六十六・七センチメートル)は『寄木造、漆箔仕上げで、円仁(慈覚大師)作と伝承され、衣文に平安時代風を残すが、鎌倉時代に入っての作とみられる。中尊の左(向かって右)の十一面観音立像』(像高百四十二センチメートル)は『寄木造、漆箔仕上げで、源信(恵心僧都)作と伝承されるが、実際の制作年代は鎌倉時代である。右(向かって左)の十一面観音立像』(像高百五十三センチメートル)は『行基作と伝承されるもので、素木の一木造であり、3体の中ではもっとも古様で、平安時代末期の作と推定される。作風は素朴で、ノミ痕を残す部分もあり、専門の仏師ではない僧侶の作かと推定されている。中央と左(向かって右)の像は国の重要文化財に指定されている。伝・行基作の十一面観音像は、伝説に基づき「覆面観音」「下馬観音」の別称がある。昔、馬に乗ったまま杉本寺の門前を通ろうとすると必ず落馬したが、蘭渓道隆(大覚禅師)がこの観音像の顔を袈裟で覆ったところ、落馬する者はいなくなったとの伝承から、前述の別称が生じた』。『このほか、前立十一面観音像は源頼朝の寄進と伝えられるもので』、一応、伝運慶とはされている(運慶工房か、その流れを汲む一派の手になるものの可能性はある)。これらの仏像の配置については杉本寺公式サイトの本堂」を参照されたい。

・「建久二年」西暦一一九一年。「吾妻鏡」では、この年の九月十八日の条に、

〇原文

十八日甲子。幕下御參大倉觀音堂。是大倉行事草創伽藍也。累年風霜侵而甍破軒傾也。殊有御憐愍。爲修理。以准布二百段奉加之給。

〇やぶちゃんの書き下し文

十八日甲子。幕下、大倉觀音堂へ御參す。是れ、大倉行事草創の伽藍なり。累年、風霜、を侵して、甍(いらか)破れ、軒を傾くなり。殊に御憐愍(ごれんみん)有りて、修理の爲に、准布(じゆんぷ)二百段を以つて之を奉加(ほうが)し給ふ。

と頼朝の奉加を記すから、この仏像寄進も強ち、出鱈目とは思われない。条中の「准布」は、布銭のこと。何匁で何と交換できるか、布に換算したもので、当時、所謂、貨幣は鎌倉御府内では一般的な流通をしていなかった。

「宅間」宅間法眼(ほうげん)或いは詫磨派という、平安時代後期絵仏師及びその一派。

「斯波三郎家長」(しばいえなが 元応二(一三二一)年~延元二/建武四(一三三八)年)は南北朝期の少年武将。斯波高経長男。ウィキ斯波家長によれば、『父と共に一門として足利尊氏に仕えた。中先代の乱の後、尊氏が建武の新政に反抗し争乱が勃発すると北朝の北畠顕家に対抗するため』、建武二(一三三五)年に奥州管領任ぜられた。『この時斯波館(岩手県紫波郡)に下向したという。尊氏が箱根・竹ノ下の戦いで征東軍を破り上洛する際、鎌倉に残した嫡男義詮の執事に任ぜられた。顕家が南下を開始すると後を追ったものの食い止めるのに失敗』、『京都において尊氏が敗走する原因を作ってしまった』。延元元/建武三(一三三六)年には『蜂起した北条氏残党を討伐し』『豊島河原合戦で尊氏を破った北畠顕家が奥州へ帰還するため東海道を行軍すると妨害したが、破られ』ている。延元二/建武四(一三三七)年に『尊氏は九州を制し再び上洛、北朝を立てた尊氏を討伐するため、再び大軍を率いて南下してきた顕家を鎌倉で迎え撃つが、敗北し戦死した(杉本城の戦い)』。『後任の奥州総大将と関東執事には石塔義房、上杉憲顕が派遣された。奥州総大将と関東執事は後に奥州管領、関東管領にそれぞれ発展する』。彼は腹を切った時、未だ十七歳であった。]

志賀理斎「耳嚢副言」附やぶちゃん訳注 「追加」 (Ⅶ)

 以上は、先にその近藤助八郎義嗣(よしつぐ)殿のために私、吉見が書き記したものである。さてもまた、我ら、志賀某(なにがし)の求めに応じて、翁が在りし日の御行状(ごぎょうじょう)や御嘉言(おんかげん)を思ひ出だいて、さらに以下に記すことと致す。]

 

[やぶちゃん注:直前にあるように、これは先の条々は、「耳のあか」の筆者で生前の鎮衛とも交流のあった御勘定組頭吉見儀助こと吉見義方の書き記したものを志賀理斎が「耳嚢副言」の「追加」として転写したものであるので注意されたい。]

 

一 翁性質奢侈(しやし)をいましめ、座右の調度皆卑下の品を備ふ。日々の勤(つとめ)肩輿(けんよ)に用ゆる烟草盆(たばこぼん)、陶器の大きやかなる火入(ひいれ)に曲物(まげもの)の臺をつけ、それに蔓(つる)もて提(さぐ)るやうになし、灰吹(はいふき)といふ物をも具(ぐ)せず。「唾(つばき)はみづから戸を明(あけ)て往來へはきても足(た)れり」と。されどあまりに見ぐるしと人のいふにまかせ、其(その)火入のかたはらに竹の筒を添へたるのみなり。退朝(たいてう)ののちも其器(うつわ)を左右に置(おき)て別に備ふるものなし。近親羽田何がしも御勘定吟味役たりしが、其器をまねびて常に用ひたり。

[やぶちゃん注:

・「肩輿」駕籠。それに乗った際に中で用いる携帯用の煙草盆を言っている。

・「火入」煙草に火をつけるための火種を入れておく器。

・「曲物」檜や杉の薄く加工したへぎ板を湾曲させて作る木製容器の総称。盆・桶・櫃・三方(さんぼう)などの日用容器に多く用いた。曲げ輪破(わつぱ)。

・「灰吹」煙草盆に付属した竹筒で、煙草の灰や吸い殻などを落とし込むもの。吐月峰(とげつぽう)とも呼ぶ。

・「退朝」日常、役所の勤務を終えて帰ること。鎮衛は生涯現役であったから、ゆめ致仕の意でとらぬように。

・「羽田何がし」不詳。因みに、この「耳嚢副言」本文クレジットよりも十一年後ではあるが、天保一四(一八四三)年のデータに羽田竜助利見なる人物が勘定吟味役にはいる(後に佐渡奉行)が、違うか。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

一 翁の性質(たち)は、奢侈(しゃし)を戒め、座右の調度はこれ皆、至って市井の者の用いる安物を備品となさっておられた。

 日々の勤めで乗用なさる駕籠の中で用いらるる携帯用の煙草盆もこれ、陶器のずんぐりとした火入れに、曲げ物で台を拵え附け、それに藤蔓(ふじづる)を以って取っ手となし、ぶら提げるようにした手製のものにて、灰吹きといった物をも備えっておらなんだ。

 常日頃より翁、

「――唾(つばき)なんどというもんはこれ、自ずと駕籠の戸を開けて往来へ吐けば、十分じゃ。」

と言うておられたからであったが、ある折り、

「……お畏れながら……御奉行様なればこそ、それはあまりに見苦しきことと存じまする……」

と人の申したに任せ、それよりは、その火入れの傍らに小さき竹の筒を添え附けられた。それでも、ただそれだけの、まことに素朴なること、これ、変わらぬ品にて御座った。

 退庁なさってからでも、自邸にあっても、これ、相変わらず、その器(うつわ)を身近にお置きになられ、それ以外には、別に常備なさるる品というもの、これ、全く御座らなんだ。

 因みに、鎮衛殿の御近親の羽田何某(なにがし)殿も――今、御勘定吟味役であらるるが――その器を真似て、常に用いておらるる。]

志賀理斎「耳嚢副言」附やぶちゃん訳注 「追加」 (Ⅵ)

[やぶちゃん注:以下に引用される「耳のあか」というのは実は既に私が電子化訳注を済ませた底本の『「耳嚢」吉見義方識語』(編者鈴木棠三の標題)とほぼ同文である。

 そこで、例外的に同引用文注では読みを概ね排除して(一部の異同箇所では挿入した)原文の雰囲気を出すこととし、後の注では『「耳嚢」吉見義方識語』との表記・表現の異なる箇所のみについて附した。現代語訳は省略も考えたが、最後の箇所に重要な違いがあるので、ここは煩を厭わず、再度附すこととした。但し、基本的に『「耳嚢」吉見義方識語』でのそれを用い、やや修正を加えたものであることをお断りしておく。

 また、この「耳のあか」の最後には『「耳嚢」吉見義方識語』にはない、「こはさきに……」という全体が二字下げの附文がある(これは、この「耳のあか」への吉見儀助による解説及びこの後に続く更なる吉見の記した記事の前触れであるが、ここからは今まで通り、一部に読みを附す形に戻した。]

一 右の外にもいろいろ歎服(たんぷく)すべきことのあるべきとおもへども、聞かざる事はしるすこと能(あた)はず。爰(ここ)に古山(こやま)君〔峰壽院御用人古山善吉〕の話に、吉見大人〔御勘定組頭吉見儀助〕の翁の行狀(ぎやうじやう)を筆記せるものありとのことなれば、しきりにそれを請ひ侍りけるに、吉見大人耳のあかと號(なづけ)られしを見せ給ふ。其文左のごとし。

 

    耳のあか                         吉見儀助述

 根岸前肥州藤原鎭衞朝臣別號守臣翁は、御代官安生太左衞門定洪の二男にして、元文二年丁巳をもて生れ、文化十二年乙亥七十九歳〔官年八十〕にして卒す。定洪はじめ相撲國津久井縣若柳邑の産にして、其の年御徒安生彦右衞門定之の養子と成御徒に召加へられ、後組頭に轉じ、猶篤行のきこえありしかばたゞちに御代官に擢遷せられ、拜謁の士に列り、其長男直之は御勘定・評定所留役・御藏奉行等を經て、ついに布衣の上士に昇り御船手の頭たり。根岸家は九十郎衞規とて廩米百五十苞の祿にして、もとより拜謁の士たれどもいまだ小普請の列に在るうち、年若して疾篤く易簀に臨みて、守臣翁を養ひ遺跡を繼がしめん事を乞ひ置死せしかば、翁其家を繼小普請の士より御勘定につらなり、評定所留役をかねて訴言(そげん)を糺し、いく程なく組頭にのぼり、俊廟の日光山にまゐらせ給ふ事にあづかり、後御勘定吟味役に進み布衣の上士に列し、又佐渡奉行に擧らる。此時秩錄を加增せられて二百苞の家祿となり、今の御代となりて御勘定奉行に轉ず。時に恆例を以て從五位下肥前守に敍任あり、家祿五百石に加恩あり、はじめて知行の地を給ふ。つゐに町奉行に移り、年久しき勤勞を歷せられ、食邑五百石を増し賜り千石の家祿となれり。御勘定たりし時よりおなじき奉行たるに至迄、しばしば營作土功の事をうけ給はり、落成の度毎に褒賜ある所の黄金通計二百六十餘枚に及ぶとかや。かゝる繁務のいとまにうち聞く所の巷説、兒輩のわざくれに至るまで、耳にとまれるくさぐさを筆記してひそかに名づけて耳嚢とし、其條々ほとほと千有餘に滿つ。卷をわかつて十帖とす。かりそめの物すらしか也。されば國務に有用の事を編集ありしはいくばくならん事、をして知るべし。人となり大量にして小事にかゝはらず、瑣細の事に力を入れず。朝夕近(ちかづ)くる配下の姓名をだに彷彿として記臆せずあるがごとし。よく下情を上達し、選擧必其人を得たりしは、全く偏頗の私情なきによるものか。常に大聲にして私言を好まず。常の言にいはく、「小音にして事を談ずるは謹情の如しといへども、多くは人情輕薄によるか、或は人に害ありて己が利あらん事を思ふが故に、他聞を憚るより起れり」と。其私なき此言をもても思ふべし。翁の男衞肅ははじめ關川氏の養女をめとり子なくして死す。再び近藤氏の女をめとり四男三女を生む。其末女又近藤氏の子義嗣の先妻たり。義嗣かゝるちなみあるにより、門外不出の書たりといへどもかの耳嚢を騰寫する事を得て、己れ義方に示さる。亦はやくより翁に値遇せるも近藤氏の因によれり。これかれ思ひはかればいといと餘所ならず。欣慕のあまり數言を其書のはしに贅す、穴かしこ。

文政九のとし長月すゑつかた時雨めきたる日にくらき窓下にしるす。

  こはさきに近藤助八郎義嗣(よしつぐ)の

  爲に筆す。又志賀何某がもとめに應じて、

  翁が存在の行狀(ぎやうじやう)・嘉言(か

  げん)を思ひ出(いで)て左にしるす。

[やぶちゃん注:冒頭に注したように、「耳のあか」の部分の細かな語注は『「耳嚢」吉見義方識語』を参照されたい。以下では表記・表現の異なる箇所のみについて示す。

・「歎服」感服。感心して心から惹かれ従うこと。

・「峰壽院」峰姫(みねひめ 寛政一二(一八〇〇)年~嘉永六(一八五三)年)は第十一代将軍徳川家斉八女。第八代水戸藩主徳川斉脩(なりのぶ)正室で第九代水戸藩主徳川斉昭の養母。諱は美子で峯寿院は院号。第十二代将軍家慶の異母妹で第十三代将軍家定や十四代将軍家茂の叔母に当たる。

・「御用人」諸藩に置かれたそれで、略して「御側(おそば)」とも呼んだ。藩主やその家族らの私的な家政実務や秘書的役割を担った。

・「古山善吉」(「こやま」という読みは木村幸比古「吉田松陰の実学 世界を見据えた大和魂」(PHP研究所二〇〇五年刊)及び CiNii こちらの佐藤一斎の書簡『「慶安」「六諭」を古山善吉所望につき』のデータに拠った)現在の長野県中野市にあった天領代官所(代官陣屋)中野陣屋の代官(文政元(一八一八)年)〜文政五(一八二二)年)を勤め、その後、御目付となり、文政七(一八二四)年五月二十八日に常陸国(現在の茨城県)に漂着したイギリスの捕鯨船遭難船員の調査に出向いていることなどがネットの検索から分かる。この異国船來船の折り、彼は水戸藩の責任者中山信情に対し、捕虜としているイギリス船員を全員釈放して捕鯨船に薪・水・食糧を与えて帰帆させるように指示しており、これを知った水戸藩の攘夷強硬派が激怒した旨の記載が、「スローネット」の「檜山良昭の閑散余録 第113回 未知との遭遇事件(2)」に載る。この話、いろいろな意味で、私にはなかなか面白く感ずる。(1)はこちら。是非、一読をお薦めする。斉脩は文政一二(一八二九)年十月に病死し、峰姫はほどなく剃髪して峯寿院と号しているから、この記載部分での時制は、まさに剃髪それ以後のものと考えなくてはならぬ。また、彼が後に、この尊王攘夷の水戸藩の、斉脩正室の御用人となったというのも、私にはなんとも皮肉に感じられる。

・「吉見大人〔御勘定組頭吉見儀助〕」吉見義方(宝暦十(一七六〇)年或いは明和三(一七六六)年?~天保一二(一八四一)年 後に示す「耳嚢」本文底本の編者鈴木棠三氏の注で逆算した)。鎮衛より二十九年下であるが、以下に述べる如く、彼の知音であった近藤義嗣が根岸と縁戚関係にあったことから、本文に「己れ亦はやくより翁に値遇せる」とあるように、生前の鎮衛と親しく交わっていたことが分かる(満七十八歳で鎮衛が没したのが文化一二(一八一五)年であるから当時、義方は満五十五か四十九歳となる)。「耳嚢」底本の鈴木氏注に、『三村翁注「儀助と称し、蜀山人の甥にて、狂名を紀定丸といへり、御勘定評定所留役たり、天保十二年正月十六日、七十六歳にて歿す、本郷元町三念寺に葬る。」日本文学大辞典によれば、享年を八十二とする。義方の父佐吉は清水家小十人、母は蜀山人の姉。定丸は安永七年家督を継ぎ小普請方となり、寛政七年清水勤番、文化二年御勘定、同四年組頭。初め野原雲輔と号し、のちに本田原勝粟、晩年己人手為丸と改めた』とある。文化四(一八〇七)年に御勘定組頭となっており、この志賀の「耳嚢副言」の正文跋文のクレジットは天保三(一八三二)年で、彼の死去が天保一二(一八四一)年(但し、その時は昇進して御勘定評定所留役であるから下限はもっと下がる)、この筆記時制はその閉区間内となる。

 以下、「耳のあか」の語注は『「耳嚢」吉見義方識語』を参照されたい。ここでは『「耳嚢」吉見義方識語』との有意な(意味が同じ部分は採っていない)差異があると私が判断した異同のみを注した。それにしてもこの二つを比べることは当時の書写の過程の誤写の実態がよく分かって、私には甚だ興味深いものであった。

 

・「耳のあか」「耳嚢」に添え寄すからその「耳」の垢の如き駄文であるという謙辞である。

・「七十九歳」『「耳嚢」吉見義方識語』は『七十歳』であるが、数え七十九でこちらが正しい。

・「官年八十」この割注は『「耳嚢」吉見義方識語』にはない。官年は近世武家社会に於いて幕府や主家などの公儀に対して届けられた公式な年齢をいう。家督相続や出仕、御目見などに関わる年齢制約を回避するため、年齢を操作して届け出るこのような慣行が成立した。公年(こうねん)ともいった。これに対し、実際の年齢は生年といった(以上はウィキの「官年」に拠った)。

・「其の年御徒安生彦右衞門定之の養子と成」「其の年」は『「耳嚢」吉見義方識語』にはない。これだと、鎮衛の父定洪は出生した年の内に安生家の養子となったと読める。

・「擢遷」『「耳嚢」吉見義方識語』の「擢選」の方が私にはしっくりくる。

・「御船手の頭たり」『「耳嚢」吉見義方識語』では単に「御船手を勤む」である。

・「俊廟」『「耳嚢」吉見義方識語』は「凌廟」。これは両方とも書写の誤りと思われ、「浚廟」が正しい。「しゆんべう(しゅんびょう)」で第十代将軍徳川家治を指す。その諡号(しごう)浚明(しゅんめい)院に基づく。「俊」には優れるの意があるが、しかしやはり私は誤写と採る。

・「知行の地」『「耳嚢」吉見義方識語』は「采地」。意味は同じだが、これは孰れかが書写担当者による書き換えと思われる。

・「歷せられ」『「耳嚢」吉見義方識語』は「慰せられて」。「慰」の方がしっくりくる。

・「食邑五百石を増し賜り千石の家祿となれり」『「耳嚢」吉見義方識語』では、この後に「在職の祿故の如し」という一文がある。

・「しばしば」『「耳嚢」吉見義方識語』は「品々」。

・「十帖」『「耳嚢」吉見義方識語』は「六帖」。これは恐らく「耳嚢」の複雑な成立或いは書写過程と関係するものであって、私は誤写ではないと感じている。『「耳嚢」吉見義方識語』の方は、実は三村本の巻六の末に附されてあるのである。

・「瑣細」『「耳嚢」吉見義方識語』は「鎖細」と誤写している。

・「朝夕近くる配下の姓名をだに彷彿として記臆せずあるがごとし。よく下情を上達し」「記臆」は底本に右に編者長谷川氏によるママ注記がある。さて、この部分、『「耳嚢」吉見義方識語』では、

 朝夕近づくる配下の屬吏の姓名をだに、彷彿として記憶せざるが如し。されど德化を及ぼし、下情を上達し

となっていて有意に異なる。『「耳嚢」吉見義方識語の方がしっくりくる。本筆写者が脱文したか、或いは意訳して写した可能性が疑われる。

・「翁の男衞肅ははじめ關川氏の養女をめとり子なくして死す。再び近藤氏の女をめとり四男三女を生む。其末女又近藤氏の子義嗣の先妻たり」この箇所、『「耳嚢」吉見義方識語』の方では、

 翁男衞肅は、近藤氏の女をめとれり。四男三女を生む。其末女又近藤氏のむまご義嗣の先妻たり。

で有意に異なる。『「耳嚢」吉見義方識語』の「近藤氏の女」の注の鈴木棠三氏の引用を見て頂くと分かるように、『先妻は関川庄五郎美羽の女。これは子もなく、はやく没したらしい』とあって、この志賀の転写した方がより正確な事蹟を伝えていることが分かる。『「耳嚢」吉見義方識語』の方は無縁な記載として書写者が確信犯で、この「はじめ關川氏の養女をめとり子なくして死す。再び」の部分を省略し、改変したものかも知れない。

・「文政九のとし長月すゑつかた時雨めきたる日にくらき窓下にしるす」『「耳嚢」吉見義方識語』の方は、

 あやあるまつりことてふこゝのつのとし、長月すゑつかた、時雨めきる日小ぐらき窓下にしるす

とあって、遙かに高雅な識語となっている。なお、この筆者は私が以前に推理したのと同様に「時雨めきる」と判読して書写していることが分かる。

 

・「嘉言」佳言。人の戒めとなる、よい言葉。

 

■やぶちゃん現代語訳(先に述べた通り、「耳のあか」の部分は、『「耳嚢」吉見義方識語』で行った私の訳を基に補正を加えたものである。同じく、読み易さを考え適宜、改行を施してある。最後の附文の前は一行空けた。)

 

一 以上の他にも、歎服(たんぷく)すべきことはこれ、まだいろいろとあろうかと存ずれども、見聞きしたことを総て記すことはとても出来ない。

 さて、ここに古山(こやま)君――水戸の峰寿院(ほうじゅいん)様の御用人である古山善吉殿――の話に、吉見大人――御勘定組頭吉見儀助殿――の翁の行状を筆記なされたものがあるとのことなれば、しきりにその閲覧を請うて御座ったところ、吉見大人の「耳のあか」と名づけられた識語を見せて下された。その文は以下の通りである。

 

    耳のあか                         吉見儀助述

 根岸前肥前守藤原鎮衛(しずもり)殿、別号、守臣(もりおみ)翁は、これ、御代官安生(あんじょう)太左衛門定洪(さだひろ)殿の二男にして、元文二年丁巳(ひのとみ)を以ってお生まれになられ、文化十二年乙亥(きのとい)、七十九歳――官年八十歳――にして卒(しゅつ)せられた。

 定洪殿は、これ、初め相模国津久井県若柳(わかやぎ)村の出であられ、その年のうちに御徒(おかち)安生彦左衛門定之(さだゆき)殿の養子となって、そのまま御徒に召し加えられ、後、組頭(くみがしら)に転じ、なお、篤行の聞こえよう御座ったによって、直ちに御代官に抜擢せられ、拝謁の士に列せられた。その長男直之(なおゆき)殿と申さるるは、これ、御勘定評定所留役、御蔵奉行等を経て、遂に布衣(ほい)の上、士に昇り、船手組(ふなてぐみ)組頭を勤められた。

 一方、根岸家はこれ、九十郎衛規(もりのり)殿と申し、廩米(りんまい)百五十俵の禄を受けられ、もとより拝謁の士にてあられたけれども、いまだ小普請(こぶしん)組にて在らるる内、若(わこ)うして病い篤く、易簀(えきさく)に臨み、守臣翁を末期養子(まつごようし)として迎えられて遺跡を継がしめんことを、これ、請ひ願いおかれた上、亡くなられた。

 されば、翁、かくして根岸家を継ぎ、小普請の士より御勘定に連なり、評定所留役を兼ねて、訴訟を糺し、幾許(いくばく)もなくして組頭(くみがしら)に昇り、浚明院(しゅんめいいん)家治様の日光山御参詣に関わって東照宮修復の一件に携わられ、後(のち)、御勘定吟味役へと進み、布衣の上、士に列し、また、佐渡奉行へ推挙されなさった。この折り、禄の加増せられて二百俵の家禄となり、今の家斉様の御代となってより、勘定奉行に転ぜられた。時に、その恒例を以って、従五位下肥前守に敍任のあり、家蔵五百石に加恩のあって、ここに初めて知行地を賜い、その後の在職中の当地からの禄高の総計はこれ、三千石に及んだ。それより遂に町奉行に昇進なされ、年久しき勤労の経歴を重ねられて、食邑(しょくゆう)これ、五百石を増し賜はり、最後には千石の家禄となられたのであった。在職中の禄高については以上の如き経歴を経られた。

 御勘定であられた時分より、後に同じ勘定方御(ご)奉行とならるるに至るまで、さまざまな営作土木の事業を任されては監督指揮なされ、落成や事業の完遂のたび毎に、褒賜(ほうし)を受けられて、その賜わった黄金はこれ、総計すると実に二百六十枚に及ぶとも伝えられる。

 さても、かかる怖ろしく多忙なる勤仕(ごんし)の暇(いと)まに、これまた、ちょっと耳にされたところの巷説、一聴、児戯に類するような戯(たわぶ)れの如き流言飛語に至るまで、耳に触れたるありとある風聞風説をこれ、筆記し、これを秘かに名づけて「耳嚢」言う。

 その書き溜めたる条々、これ、殆ど一千話余りにも膨れ上がったれば、巻を分かって十帖となされた。

 ちょっとした普通なら目にも留(とど)めず立ち止まりもせぬ物の記録に於いてすら、かく成し遂げておらるる。さればこそ、本業たる生涯を捧げられた国務に於いて、その有用の事柄を編纂蒐集なされたその量たるをや。これ如何に恐るべきものであろうことはこれ、推して知るべしである。

 その人となり、これ、度量広大にして、小事に拘らず、些細な事には力を無駄に入るること、これなく、鷹揚に構え、朝夕に近侍せる配下の属吏の姓名でさえも、これ一見、何心なく、あたかもまるで記憶にない、覚えてもおらぬかの如き様子。

 されど、下々の者のまことの情実をこれ、そのままにお上へ達し、人を推挙なさるるにこれ、悉く必ず、その職にまっこと相応しき人物を当てられて御座ったことは、全く以って、偏頗した私情の、これ、微塵もなき有り難き御心によるものにては御座るまいか?

 翁は常に大声にて会話なさるるを常とし、殊更に、ひそひそ話を好まれず御座った。

 これにつき、翁の常の言に曰く、

「――小さき音にして事を談ずると申すは、これ、殊勝に謹慎致いてでもおるか如く、一見えるものにては御座るが――その実、そうした内緒話の多くはこれ――話者の人情軽薄に依るものであるか――或いは、人に害のあって、己(おの)ればかりが利あらん事をば思うておるがゆえに、他聞を憚ってこそ――ひそひそ話なんどと申すもの、これ、生まるるものである。」

と。

 その私(わたくし)なき翁の誠心、この一言を以ってしても、思い至ると申すべきもので御座る。

 翁の男子、根岸衞粛(もりよし)殿は、初め関川氏の養女を娶られたが、残念なことに子をもうけらるることなく亡くなられた。されば後に再び、近藤義貫(よしつら)殿の子、義種(よしたね)殿の娘を娶られ、四男三女をお生みになられた。その末の娘子(むすめご)は、これ、また、その義種殿の子であらるる近藤義嗣(よしつぐ)殿の先妻であられる。この義嗣殿が、かかる縁戚の因みあるによって、かの伝説の門外不出の書たりと雖も、この「耳嚢」という書を、これ、書き写すことを得られ、しかも我ら義方にこれを閲覧させて下さったので御座る。

 我らまた、早くより、生前の守臣翁にも知遇を得て御座ったが、これもまた、この近藤義嗣殿の有り難き因みによるもので御座った。

 かく、かれこれと思慮なしみれば、この「耳嚢」のかくも拝読仕ったと申すは、これ、いや、とてものこと! 尋常なことにては御座らぬ!

 あまりのことに悦び入り、また亡き翁への慕わしさの、いや、募って参るあまり、分をも弁えず、下らぬ数語をここに穢し記して御座った。ああ! 何とまあ! 畏れ多いことで御座ろうか!

文政九年の年、長月の末つ方、時雨めいた日のこと、お暗(ぐら)き窓下にこれを記す。

 

 以上は、先にその近藤助八郎義嗣(よしつぐ)殿のために私、吉見が書き記したものである。さてもまた、我ら、志賀某(なにがし)の求めに応じて、翁が在りし日の御行状(ごぎょうじょう)や御嘉言(おんかげん)を思ひ出だいて、さらに以下に記すことと致す。]

2015/04/20

博物学古記録翻刻訳注 ■13 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる老海鼠(ほや)の記載

[やぶちゃん注:本テクストは先の私の「博物学古記録翻刻訳注 ■12 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる海鼠の記載」を受けて作成したものである。「老海鼠」は「海鼠」の条の次にあり、ホヤはナマコに劣らず、私の偏愛の対象だからでもある。

 「本朝食鑑」については上記リンク先の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館のデジタルコレクションの以下の頁の画像を視認した。本文は漢文脈であるため、まず、原典との対照をし易くするために原文と一行字数を一致させた白文を示し(割注もこれに准じて一行字数を一致させてある。底本にある訓点は省略した)、次に連続した文で底本の訓点に従って訓読したものに、独自に読みや送り仮名を附したものを示し、その後に注と訳を附した。原典ではポイント落ち二行書きの割注は〔 〕で同ポイントで示した。なお、原典では原文の所で示したように、頭の見出しである「老海鼠」のみが行頭から記されてあり、以下本文解説は総て一字下げである。なお、「老海鼠」の「鼠」の字は原典では「鼡」の(かんむり)部分が「臼」になったものであるが、コードにない漢字であるので、正字の「鼠」で統一した。「殻」「帯」など異体字は原典のママである。字体判断に迷ったものや正字に近い異体字(「状」など)は正字で採った。

 「本朝食鑑」は東洋文庫で訳注が出ているが、私は現在所持しないので、語注と現代語訳は全くの我流の産物である。真に学術的なものを求めておられる方は、そちらをお薦めする。何箇所かで意味が通じない箇所にぶつかったため、恣意的な翻案もしてある。大方の御批判を俟つものである。

 なお、この記載はおかしな部分が異様に多い。人見御大には失礼乍ら、注では相当に指弾批難しているので、悪しからず。また、申し上げよう。私の読解は好事家の恣意的なそれではあるが、相応に本気だ。――今朝、アカデミックな東洋文庫の訳注本を全巻注文しておいた。私の拙考や訳が下らないものかどうか? その時は私の記載はそのままに補足を致したく存ずる。……さても……鬼が出るか? 蛇が出るか?……お楽しみあれ――♪ふふふ♪……では、それまでまた……【二〇一五年四月二十日 藪野直史】一九七七年平凡社東洋文庫刊の国語学者島田勇雄(いさお)氏の手に成る訳注本を昨日入手したが、披見したところ、手を加える必要性を認めなかったので、これをそのまま私の定稿とする(ちょっと残念)。但し、同書(巻四三三〇~三三一頁)にある注四は恐らく平安から近世に至るまでのホヤの記載の蒐録として現在最も詳しい記載と拝察する。必読である。【二〇一五年四月二十八日追記】遅巻き乍ら、「本朝食鑑」には和漢の本草記載の違いを考察する「華和異同」という別項が各部の終りに附されていることに気づいたので、その本文に準じて追加することとした。但し、本文とダブる箇所が甚だ多いので注は最小限に留めてある。【二〇一五年五月二十三日追記】

 

□原文

 

老海鼠

 釋名保夜〔此俗訓古亦然〕

 集觧狀如言海鼠之老變而一箇肉片色紫赤外

 雖有如※鼇之殻者而粘石脱去肉味類海鼠而

[やぶちゃん字注:「※」=(上)「觧」+(下)「虫」。]

 硬或似鰒耳水母而極堅應節而生花如披人之

 指掌也江淹郭璞同言石蜐乎今芝品川間有之

 相豆總之海濵亦希采海西最多醃而送傳之古

 者若狹作交鮨貢之而不知造法内膳部有參河

 國保夜一斛今未聽國貢也

 氣味鹹冷無毒主治利小水止婦人帯下

 

□訓読文(原典の一字下げは省略した。読み易くするために句読点・記号・濁点・字空けを適宜、施した。一部に独自に歴史仮名遣で読みや送り仮名を附してあるが、読解に五月蠅くなるので、特にその区別を示していない。なお、原典には振られている読み仮名は少なく、片仮名で「間(マヽ)」とあるのみである。また、「今」(いま)には「マ」が送られてあるが、省略した。また、つまらぬ語注を減らすためにわざと確信犯で訓読みした箇所もあり、こうした恣意的な仕儀を経ている我流の訓読であるので、学術的には原典画像と対比しつつ、批判的にお読みになられたく存ずる。)

 

老海鼠

 釋名 保夜〔此れ俗訓。古へ亦、然り。〕

 集觧 狀(かた)ち、海鼠(なまこ)の老變(らうへん)と言ふがごとくにして、一箇の肉片。色、紫赤。外、※鼇(けいがう)のごとき殻有ると雖も、石に粘(ねん)じて脱け去る。肉味、海鼠(なまこ)に類して硬し。或いは鰒(あはび)の耳・水母(くらげ)に似て、極めて堅し。節に應じて花を生ず。人の指掌(ししやう)を披(ひら)くがごとし。江淹(かうえん)・郭璞(かくはく)、同じく言ふ、「石蜐(せきけふ)」か。今、芝・品川、間(まま)之れ有り。相(さう)・豆(づ)・總(さう)の海濵にも亦、希れに采(と)る。海西、最も多し。醃(しほづけ)して之を送り傳ふ。古へは若狹、交鮨(まぜずし)と作(な)して之を貢す。造法を知らず。「内膳部」に『參河(みかは)の國、保夜一斛(ひとさか)。』と有り。今、未だ國貢(こくこう)を聽かざるなり。

[やぶちゃん注:「※」=(上)「觧」+(下)「虫」。]

 氣味 鹹冷(かんれい)。毒、無し。主治 小水を利(り)し、婦人の帯下(こしけ)を止(と)む。

 

□やぶちゃん語注(既に私がものした、

寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部」の「老海鼠」

「海産生物古記録集■2 「筠庭雑録」に表われたるホヤの記載」

「海産生物古記録集■4 後藤梨春「随観写真」に表われたるボウズボヤ及びホヤ類の記載」

「海産生物古記録集■5 広瀬旭荘「九桂草堂随筆」に表われたるホヤの記載」

「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 ホヤ」

などでさんざん注を施してきたので、寧ろ、それらを参考がてら、お読みに戴けるならば、恩幸、これに過ぎたるはない。但し、「本朝食鑑」全体の構成要素である「釋名」等の語意については既に「博物学古記録翻刻訳注 ■12 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる海鼠の記載」で施しているので繰り返さなかった。そちらを参照されたい。)

・「老海鼠」食用としての記載であるから、脊索動物門尾索動物亜門海鞘(ホヤ)綱壁性(側性ホヤ)目褶鰓(しゅうさい)亜目ピウラ(マボヤ)科 Pyuridae マボヤHalocynthia roretzi 及びアカボヤHalocynthia Aurantium を挙げておけばよかろう。本書より後の寺島良安の「和漢三才図会」では、巻第四十七の「介貝部」に「老海鼠」を入れており(これは現代の一部の魚屋が本種を「ホヤガイ」と呼んで貝類と思い込んでいるのと同じである)、そこでは『「和名抄」は魚類に入る。以て海鼠の老いたる者と爲すか』と記している。因みに、人見はこの「老海鼠」を棘皮動物の「海鼠」と条鰭綱トゲウオ目ヨウジウオ亜目ヨウジウオ科タツノオトシゴ亜科タツノオトシゴ属 Hippocampus の魚類「海馬」(タツノオトシゴ)の間に挟み入れている(「本邦食鑑」の配列には強い細かな分類意識は働いていないように私は感じられる)。人見も「狀ち、海鼠の老變と言ふがごとくにして」と言っている辺り、海鼠と近縁と考えるにはやや躊躇があったようにも感じられはするが、寺島ほど強い批判的雰囲気は感じられない。

・「保夜〔此れ俗訓。古へ亦、然り。〕」しばしば俗にホヤには強壮効果があって「夜に保つ」ことからこう書くという説があるが、「保夜」は「ホヤ」という生物呼称が成立して以降に生まれた当て字であって誤りである。「ほや」という呼称は平安以前の非常に時代に発生しており、現在はその語源を解き明かすことは出来ない。

・「※鼇」(「※」=(上)「觧」+(下)「虫」)この「※」は「蟹」の異体字と判断する。「鼇」は大亀で、現行では大きなウミガメ(海亀)やスッポン(鼈)の類を指す。確かにホヤの「殻」(皮革質の被嚢)は蟹の甲羅やスッポン及びウミガメ類でも皮骨と鱗から成る比較的軟らかいオサガメの類の甲羅が発達しないタイプのそれによく似ているとは言えると思う。

・「節に應じて花を生ず。人の指掌を披くがごとし」問題の箇所である。この二箇所はどう考えてもホヤの生態、少なくとも食用にするマボヤやアカボヤのそれではあり得ない叙述である。百歩譲って、着底したホヤが成体となることを「花」と言い、被嚢の入水管・出水管の二本と皮革状の表面に発生する疣状或いは突起状のもの三つを合わせて「人の」「掌」(てのひら)や五本の「指」に譬えたのだと措定してみても、それを自然な表現であるとする人はまずいないはずである。あれは「花」には見えないし、五本の指のある人の掌には決して見えない。これがホヤだというのなら、その言っている本人は、実際の海中での生体としてのホヤは勿論、採れたての捌かないホヤを実見したことがない人間による誤った記載としか思われないのである。まず、この「人の指掌を披くがごとし」というのは、「披く」が明白に「花」を受けているから、前の「節に應じて花を生ず」ような運動に対する明白な補足比喩である。しかも後の「石蜐」の注で示すように、これは郭璞の「江賦」の中にある「石砝」(石蜐に同じい)の叙述である『石砝應節而揚葩』という表現を無批判に安易に自分の言葉として使ってしまった誤り(と私は断言する)なのであって、到底、人見が生体のホヤ実見していたとは思えないのである。しかもしかし、ここで一旦、立ち止まってよく見ると、これは、

――「節」(時。季節とは限らない。満潮時・干潮時も立派な「節」である)に「應じ」るかのように、「人の指掌」のようなものが窄(すぼ)んだ状態から、ぱっと「掌」を「披」いたかのように、「花を生」じたかのように見える、それは時によって人の「指」や閉じた「掌」のように見え、時によってそこから「花」に見紛うようなものが「掌」をぱっと開くように出て来る――

という運動を見せる生物体を描写していると読むのが自然であるということが分かってくる。こう書けば、少しでも海岸動物を知っておられる方は、これがホヤなどではなく、

甲殻亜門顎脚綱鞘甲亜綱蔓脚(フジツボ)下綱完胸上目有柄目ミョウガガイ亜目ミョウガガイ科カメノテ Capitulum mitella

の形状にぴったり一致していることがお分かり戴けるはずである。そうして何より、「石蜐」は現代中国語でまさしくカメノテを指していることがはっきりと分かるのである(例えば中文サイトのここここをご覧あれ)。

・「殻有ると雖も、石に粘じて脱け去る」この叙述もおかしい。生体を水中で鋭利な道具を以って直接切り裂くのでもなければ、如何に乱暴な漁獲法を持ってしても、被嚢は容易には抜け落ちることはない。これを見ても人見はホヤ漁はおろかホヤの無傷の生体個体を実見したことがないように思われてならないのである。

・「肉味、海鼠に類して硬し。或いは鰒の耳・水母に似て、極めて堅し」この描写も、また大いに矛盾する。食用にするホヤの筋体部は硬くなく、寧ろぐにゃぐにゃしている。海鼠のそれに比すならこれは遙かに軟らかいし、凡そアワビの歩足体の外套膜の胴辺縁のように硬いのは筋体ではなく被嚢である。クラゲを出しているのは食用に処理されたクラゲの硬さを言っていると読めるが、ホヤのコリコリする硬い可食部は被嚢との入・出水口の接合部分のぐらいしかない。しかもそれは極めてそれは僅かな部位である。即ち、この人見が異様に硬いと言っているのは、どう考えても食べられない被嚢(皮革)部分を指しているである。これも人見がホヤの実体に極めて疎いことが知れ、彼は実はホヤの可食部をよく分かっていないのではないか、という強い疑惑を抱かざるを得ない奇妙な叙述なのである。

・「江淹」(四四四年~五〇五年)は六朝時代の文学者。河南省考城 の生まれ。字は文通。宋・斉・梁の三代に仕え、梁の時、金紫光禄大夫に至った。貧困の中で勉学に励み、若くして文章で名を挙げた。詩文に清冽な風格をもつが、特に「恨賦」「別賦」は抽象的な感情を題材として精緻な描写のうちに深い情緒を込めた、六朝の賦の一方の代表作とされる(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。ウィキの「江淹」によれば、南宋の詩人厳羽の「滄浪詩話」には「擬古は惟(こ)れ江文通、最も長ず。淵明に擬すれば淵明に似、康樂に擬すれば康樂に似、左思に擬すれば左思に似、郭璞に擬すれば郭璞に似たり。獨り李都尉に擬する一首、西漢に似ざるのみ」とあるとする。因みに「康樂」は東晋・南朝宋の詩人謝霊運のこと、「左思」は西晋の知られた文学者である(下線はやぶちゃん)。

・「郭璞」(二七六年~三二四年)は六朝時代の東晋の学者・文学者。山西省聞喜の生まれ。字は景純。博学で詩賦をよくし、特に天文・卜筮(ぼくぜい)の術に長じた。東晋の元帝に仕えて著作郎などを勤め、たびたび大事を占っている(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

・「石蜐」現代仮名遣「せききょう」(「せきこう」とも読める)。江淹のそれは彼の「石蜐賦序」にある『海人有食石蜐、一名紫𧄤、蚌蛤類也』に基づき、郭璞のそれは、彼の博物的な長江の生物層を詠じた「江賦」の中にある『石砝應節而揚葩』とある「石砝」を指しており、先の「節に應じて花を生ず」という人見の記述も、実はそれに拠っていることが分かる(以上の原文引用は中文サイトの検索による複数の情報から最も信頼出来ると判断したものから引用した)。前注で解き明かした通り、これは――生活史の一部にあって高等な脊索を持った尾索動物のホヤ――とは全く以って無縁で、似ても似つかぬ、逆立ちしたまま固着して動かない(そこは偶然にもホヤの生活史と一致するが)エビ――蔓脚類のフジツボの仲間であるカメノテのこと――なのである。

・「芝」現在の東京都港区芝。浜松町駅の南西、東京タワーの南東に位置し、江戸時代には付近一帯の海岸は「芝浜」と呼ばれ、その中に「雑魚場(ざこば)」と呼ばれる魚市場があった。江戸前の小魚や魚介類などが豊富に水揚げされ、「芝肴(しばざかな)」と呼ばれ、江戸庶民に賞味され、浅草海苔の生産地としても知られたが、江戸末期以降には漁獲量も減り、周辺の湾岸も徐々に埋め立てられて昭和四五(一九七〇)年には雑魚場のあった海岸も完全に埋めたてられ、その跡は本芝公園となった(この情報は芝四丁目の町内会「本芝町会」公式サイトの「町会の概要」の記載に基づいたものである)。

・「海西、最も多し」不審。皆さんもお分かりのように、ホヤ、特に最も食用に供されるマボヤは海西どころか、東北や北海道に多く、特に牡鹿半島・男鹿半島以北に多い。人見は北前船で回って来たホヤの塩辛が、西で獲れてそこで処理されてもたらされたものと勘違いしているのではあるまいか? とすれば、彼は少なくともホヤに関しては生態どころか、流通経路にも暗かったことになる。あんまり考えたくないが、そう思わないとこの悉くおかしな叙述は私には理解出来ないのである。

・「醃(しほづけ)」音は「エン」で、広く魚・肉・卵・野菜・果物などを塩・砂糖・味噌・油などで漬けることを言うが、ここは塩漬けで訓じた。

・「古へは若狹、交鮨と作して之を貢す」「交鮨」は「まぜずし」と訓じておいたが、これは一般的には見かけない語ではある。ところが「古へは若狹」が大きなヒントなのだ。「福井県文書館」公式サイト内の「『福井県史』通史編1 原始・古代」の「第四章 律令制下の若越 第二節 人びとのくらしと税 三 人びとのくらし」の「漁村のくらし」の中に、「延喜式 主計部 上」に『若狭からの調品目に貽貝保夜交鮨というのがある』とし、前文で紹介されてある若狭国遠敷(のちの大飯)郡青郷(里)に関わる木簡の『貽貝富也交作』や『貽貝富也并作』という記載について、『おそらく木簡にみえる交作・并作は交鮨のことであろう。そうであるならこれは、貽貝と海鞘とを混ぜこんで作った鮨ということになろう』と記されてあるのである。そうしてこれはほぼ間違いなく「いすし」、「飯寿司」「飯鮨」、本邦では非常に古くからあった飯と食材を「交」ぜて乳酸発酵させて作る「なれずし」のことを指しているのである。そうしてそれは平安時代の「土佐日記」や「枕草子」にさえ出ることは「海産生物古記録集■2 「筠庭雑録」に表われたるホヤの記載」で既に述べたところである。

・「内膳部」「延喜式」のそれ。宮内省の内膳司(ないぜんし:皇室・朝廷の食膳を管理した役所。)に関するパート。

・「一斛」一石。「斛」は古代の体積の単位で、一斛は十斗で約百八十リットル。米換算なら百四十キログラムほど。

・「帯下」女性生殖器からの血液以外の分泌物。普通、通常の分泌を越えて不快感を起こす程度に増量した状態を指す。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

老海鼠(ほや)

 釋名 保夜(ほや)〔これは俗訓。古えもまた、この通り。〕

 集觧 形は海鼠(なまこ)の老いて変じたとでも言ふようなものであって、一箇の肉片である。色は赤紫(あかむらさき)。肉の他に、蟹や鼈(スッポン)の如き殻を持ってはいるがしかし、この殻は石に強く附着していて、漁(と)った際に抜け去る。肉の味は、海鼠(なまこ)に類しており、硬い。或いは鮑(あわび)の耳や食用に加工された水母(くらげ)に似て、極めて堅い。

 この生物はまた、時節に応じて花のようなものを体表に生ずる。それは、あたかも人が掌の指をぱっと開くような感じである。

 江淹(こうえん)や郭璞(かくはく)の二人が、孰れも「石蜐(せきこう)」と呼んでいるものは、実はこの老海鼠(ほや)なのか?

 今、武蔵の芝・品川に於いて、まま、これを獲る。相模国・伊豆国・上総国や下総国の海浜にてもまた、稀(まれ)にこれを獲る。

 対して西日本では、これは最も多く漁獲され、塩漬けにして各地へ、その珍味が送られ齎(もたら)されるのである。

 古えは若狭に於いて馴(な)れ鮨(ずし)になして、これを貢納していた。しかし、その造法は詳らかでない。「延喜式 内膳部」にも『三河の国、保夜一斛(ひとさか)。』とある。しかし今は、この古えの「老海鼠の馴れ鮨」なるものが国へ貢納されているということは全く以って聴かない。

 気味 鹹冷(かんれい)。毒はない。主治 小水(しょうすい)の出をよくし、婦人の帯下(こしけ)を抑える。
 
 

◆華和異同

□原文

  老海鼠

石蜐又有紫𧉧〔音却〕紫〔音枵〕龜脚之名南産志曰石𧉧

福曰黄※1泉曰仙人掌莆曰佛爪春而發華故江賦

[やぶちゃん字注:「※1」=「虫」+新字体と同じ「隠」。]

有石𧉧應節而揚葩之語而謝朓詩亦云紫※2曄春

[やぶちゃん字注:「※2=(くさかんむり)+「噐」。]

流今按春而發華者春月肉吐在外秋冬則否

 

□やぶちゃんの書き下し文

  老海鼠

石蜐(せきけう)。又、紫𧉧しけう)〔音、劫(けう)。〕・紫(しけう)〔音、枵(けう)。〕・龜脚(ききやく)の名、有り。「南産志」に曰く、『石𧉧福に「黄※1」と曰ふ[やぶちゃん字注:「※1」=「虫」+新字体と同じ「隠」。]。泉に「仙人掌」と曰ふ。莆(ほ)に「佛爪」と曰ふ。春にして華を發(ひら)く。故に「江の賦」、「石𧉧、節に應じて葩(はな)を揚ぐ」の語、有りて、謝朓(しやてう)が詩にも亦、云く、「紫※2、春流に曄(かゝや)く」と。』と[やぶちゃん字注:「※2」=(くさかんむり)+(「噐」の「工」を「臣」に代えた字体。]今、按ずるに春にして華を發く者は、春月、肉を吐きて外に在り。秋・冬、則ち、否(しから)ず。

 

□やぶちゃん注

・「龜脚」これだけは本邦の「ホヤ」ではなくて「カメノテ」にしっくりくることは言を俟たぬ。但し、その場合もミョウガガイやエボシガイなどもこう表現する可能性が高く、既に本文の「石蜐」の注でさんざんっぱら、いちゃもん考証をしたように他にも全く異なる種を指している可能性があり、必ずしも完全に限定同定は出来ないので注意が必要である。

・「南産志」「閩書南産志」。既注。

・「福」福州。現在の福建省の北の臨海部にある省都。閩江(びんこう)下流北岸にある港湾都市で木材・茶の集散地として知られる。

・「黄※1」(「※1」=「虫」+新字体と同じ「隠」。)音不詳。「クワウイン(コウイン)」か?

・「泉」泉州。福建省の台湾海峡に面する港湾都市。唐代から外国貿易で発展し、インドやアラブまで航路が通じていた。マルコ=ポーロが「ザイトン」の名でヨーロッパに紹介している。

・「莆」現在の福建省莆田(プーテン)県。古くは興化(現在の江蘇省興化市とは別)とも呼ばれ、莆陽(プーヤン)・莆仙(プーシェン)とも呼ばれる。北は福州と隣接、南は泉州と隣接する。西には戴雲山脈があり、東南は台湾海峡に面している。世界的にも稀な三つの河口を有し、臨海部には百五十に及ぶ島嶼群がある。

・「江の賦」既注の「文選」所収の東晉の郭璞の手になる「江賦」。

・「謝朓が詩」謝朓(しゃちょう 四六四年~四九九年)は南朝の斉の詩人。陽夏(現在の河南省)の生まれ。字(あさな)は玄暉(げんき)。宣城の太守であったので謝宣城と呼ばれ、詩人として知られる同族の謝霊運(しゃれいうん 三八五年~四三三年:六朝時代の宋の詩人。字は宣明。)に対して「小謝」とも称された。但し、ここで人見が引く「詩」とは彼の詩ではなく、以下に見るように、まさにその謝霊運の方の詩である。

・「紫※2、春流に曄(かゝや)く」(「※2」=(くさかんむり)+(「噐」の「工」を「臣」に代えた字体。)前注で示した通り、これは謝朓の詩ではなく、謝霊運の「郡東山望溟海」(郡の東山にて溟海を望む)の一節である。個人の中国史サイト「枕流亭」の掲示板のこちらの過去ログの中にある殷景仁氏の投稿(投稿日三月五日(金)13236秒のもの)によれば(リンク先には原詩が総て載る)、

   *

白花皜陽林 白花 陽林に皜(て)り

曄春流 (しこう) 春流に曄(かかや)く

   *

で、当該部分を、

   《引用開始》

花の白さは南の林の中で映え、よろいぐさの紫色は春の川の流れの中で一際明るく輝く。

   《引用終了》

と訳しておられ、この「紫をセリ目セリ科シシウド属ヨロイグサ Angelica dahurica とされている。ロケーションからも(題名に海が出るが、実はこの詩には海の景観は読み込まれていない。リンク先の殷景仁氏の解説を必参照のこと)、この「紫」は「ホヤ」でも「カメノテ」でもないのである。これは全くの人見の見当違いなのである。因みに、これについて東洋文庫の島田氏の訳注が一切、問題にされていないのは、頗る不審と言わざるを得ない。

・「春にして華を發く者は、春月、肉を吐きて外に在り。秋・冬、則ち、否ず」意味不明。ホヤやカメノテの習性にこのような現象は見られない。私がさんざん本文で考証したように、人見は中国の本草書の「石蜐」を安易に一律に「老海鼠」(ホヤ)と同定してしまった結果、自分でも何を言っているのか分からないような、苦しい説明に堕したものと私は判断するものである(そうして言わせてもらうなら、人見はホヤの生態を全く以ってご存じないのに、分かったように書いている事実がここでもはっきりと見てとれるということである)。序でに言わせて頂くと、島田氏の訳(『春に華を発(ひら)くとみえるのは、春月に肉を外に吐き出しているんでおあって、秋・冬にはそんなことはない。』)も失礼乍ら、私には何だか半可通なものである。誤解なら誤解なりに納得出来る訳を心掛けるべきだと、若輩者乍ら、私は思うのである。そういう訳としたつもりである。

 

□やぶちゃん現代語訳

  老海鼠

石蜐(せききょう)。又、紫𧉧(しきょう)〔音、劫(きょう)。〕・紫(しきょう)〔音、枵(きょう)。〕・龜脚(ききゃく)の名がある。「閩書南産志」に曰く、『石𧉧(せききょう)は福州に於いては「黄※1(きいん)」と言い、泉州に於いては「仙人掌」と言い、莆(ほ)州に於いては「仏爪(ぶっそう)」と言う。春になると花を開いたように見える。故に郭璞(かくはく)の「江(こう)の賦」に、「石𧉧、節に応じて葩(はな)を揚ぐ」の語があり、謝朓(しゃちょう)の詩にもまた、「紫※2(しこう)、春流に曄(かかや)く」とある。』と記す。今、按ずるに、春になって華を開くという謂いは、春の時節には、この老海鼠(ほや)がその肉を外にべろりと吐きだしている状態を表現したものである。老海鼠は確かに、秋や冬には、そのような現象を見せない。

[やぶちゃん字注:「※1」=「虫」+新字体と同じ「隠」。「※2」=(くさかんむり)+(「噐」の「工」を「臣」に代えた字体。]

志賀理斎「耳嚢副言」附やぶちゃん訳注 「追加」 (Ⅴ)

一 翁病中にありし時、自火(じくわ)ありて御役宅殘らず燒亡せし時、北の奉行永田氏早速駈付(かけつけ)、無程(ほどなく)鎭火に付(つき)翁に向ひ、「火に怪我もなきや、又書(かき)もの燒失もせざりしや」、其外同役の事なれば殘る處なく相尋(あひたずね)終りて歸られける。予も早速見廻(みまひ)に趣(おもむき)て後(のち)歸りがけに永田の御役所え出けるに、備後守火災の事など申され咄されけるは、「扨々同役は病中にてはあり、嘸(さぞ)かし轉動(てんどう)の事もあるべしとおもひの外、格別おどろきたる風情も見えず。諸向(しよむき)の事またさしあたりたる火事の始末に付ては色々の相談もせし處、諸事常にかはる事なくしめやかに申談(まうしだん)じ、萬事行屆(ゆきとどき)し趣也。いかなるものも自火といひかれこれ取亂(とりみだ)し、物事前後もすべきを、いさゝかの落度(おちど)もなき取鎭(とりしづ)めかた、誠に驚き入(いり)たる器量の程感心する事にて、中中我等などの及ぶ所にあらず」との物語り也。後々人のはなしをきくに、火事の出(いづ)べき朝(あさ)便所に行かれしに、「夫(それ)火事」とて大騷動也。附從(つきしたが)ひ來りし女ども大(おほい)に驚き、右の事をあはたゞしく告(つげ)て、「早く便所より出給(いでたま)ふ樣に」としきりに申せ共(ども)、いさゝか構はず平常の如く、燒(やく)るもかまはずゆるゆると便(べん)し終りて出たりとぞ。げに當世の一人物にて、其(その)量の程凡庸の人にあらざる事、此一事にてもをして知るべし。心廣く體(たい)ゆたかとは是をしもいふべし。

[やぶちゃん注:クレジットがないが、永田備後守正道(まさのり)と筆者の志賀が見舞いに訪れているから、永田の北町奉行就任である文化八(一八一一)年から奉行在任のまま根岸の死去する文化一二(一八一五)年の閉区間で、しかも根岸は「病中」とするから、この役宅(町奉行の役宅は奉行所内にあり、南町奉行所(南番所)は現在の有楽町マリオン付近であったとウィキの「町奉行」にある)を火元とする火災は四年間の後半の出来事と推理出来る。調べて見ると、人文社の「耳嚢で訪ねる もち歩き裏江戸東京散歩」(二〇〇六年刊)に、現在の千代田区神田駿河台一丁目(明大の向い)にあった根岸家屋敷の解説文中に、『根岸鎮衛とその子孫が居宅した場所。文化十二年十月、自宅二階の灯明が元で御役屋敷と居宅を焼失。鎮衛は罹災後この地で過ごし、十二月に死去した』とあった(下線やぶちゃん)。なんと! これは鎮衛の亡くなるたった二ヶ月前の満七十八歳の時の出来事だったのだ! しかもこれ以前、根岸は役宅に附属する形で自宅を構えていたということも遅まきながら分かった(私は「耳嚢」を訳していたこの五年の間、ずっと神田が彼がせんから住んでいた屋敷だと勘違いしていたのである)。役宅は全焼したものの、近隣に類延焼しなかったことこそが町奉行たる根岸にとって、何より最もほっとしたことではなかったろうか?……「燒るもかまはずゆるゆると便し終りて出たり」――いいねえ! 根岸の旦那!――馥郁たる御香の漂って参りやすぜ!!……

・「永田の御役所」北町奉行所(北番所)は東京駅の八重洲北口付近にあった。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

一 翁の病中にあられた折りのことである。

 御自宅より出火のあって、御役宅も、これ残らず焼亡なさった際には、北の御奉行永田正道(まさのり)氏も早速にお駈けつけなされたが、幸いなことに、ほどのぅ鎮火致いて御座ったによって、翁に向われ、

「――火にて怪我などなされなんだか?――また、公事方の重き文書の焼失などもなく済んで御座ったか?……」

など、その他、御同役なればこそのお気遣いから、こと細かに、こうした折りの公務上の危機管理に相当する事柄につき、洩れなくお訊ねになられ、総て事なきことのご確認を終えられた上、お帰りになられた。

 私も回禄の報を聴き、早速に御見舞いに赴き、その後、翁の避難なされておられたところからの帰りがけ、永田氏の北町の御役所へ少し御機嫌伺いに参ったところ、備後守殿、親しく対面なされて、この度の一件につき、お話しなされたが、

「――さてさて! 御同役は病中にてあれば、さぞかし、動転なされておらるる向きなんどもあろうほどに、と直ちに見舞って御座ったのじゃが、これ、当人、思いの外、格別驚いておらるる風情も見えず御座っての! 公務上の種々の対応の件及びさし当たっての奉行所役宅の焼失の後始末などに就きては、これ、いろいろと相談も致いたのじゃが、諸事これ、常に変わるところのぅ、まっこと、落ち着いて普段通りに話し合いなど致いて――そもそもが、我らが参ったは、やっと鎮火致いたかと申す、ほんの直後であったにも拘わらず、万事これ、なすべき処置や指図、総て行き届いておるといった趣きであった!……如何なる者といえども、これ、自家より火を出だいたとならば、百人が百人、かれこれ取り乱し、慌てふためき、まともな判断や対処もあっちゃこっちゃとなるが、これ、当たり前のところなるに、翁のそれは、もう、いささかの落度(おちど)もなく――いやさ! 冷静にとり鎮めて御座った、その仕儀たるや! まことに驚き入ったる器量のほど! いやもう! 感心するのなんの!……なかなか! 我らなんどの及ぶべきところにては、あらなんだわ!」

と、物語っておられた。

 のちのちになって、人の話を聴いたところ、火事の起こったまさにその折り、翁は朝の便所に行かれておられたが、

「――か、火事じゃッツ!!」

と、大騒動となったによって、つき従って御座った下女ども、これ、大きに驚き、

「――か、火事にて御座いまするッツ! お、お殿さまッツ!!……」

と、便所の内へ慌ただしく呼びかけ、

「――は、早う!――お便所よりお出で下さりませッツ!!――は、早くうにッツ!!!」と、しきりに申し上げたけれども、これ、翁、いささかも構はず、普段の如く――家のめらめらと焼くる音の致すも、どこ吹く風と――ゆるゆると、まり終わらるると、徐ろに出でて参られた、とのことで御座る。……

……げに――当世の一大人物にして、その御器量のほど、やはり流石に、凡庸の人にてはあらざること、この一事をとって見ても、推して知るべし――で御座る。

――心広く体(たい)豊か――とは、これをしも言うと申せましょうぞ。……]

2015/04/19

博物学古記録翻刻訳注 ■12 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる海鼠の記載 《2015年4月27日改訂版に差替え》

 

[やぶちゃん注:本テクストは先の私の『博物学古記録翻刻訳注 ■11 「尾張名所図会 附録巻四」に現われたる海鼠腸(このわた)の記載』に本「本朝食鑑」の「海鼠」内の「海鼠腸」が引用されていたのを受けて作成したものである。

 「本朝食鑑」は医師で本草学者であった人見必大(ひとみひつだい 寛永一九(一六四二)年頃?~元禄一四(一七〇一)年:本姓は小野、名は正竹、字(あざな)は千里、通称を伝左衛門といい、平野必大・野必大とも称した。父は四代将軍徳川家綱の幼少期の侍医を務めた人見元徳(玄徳)、兄友元も著名な儒学者であった)が元禄一〇(一六九七)年に刊行した本邦最初の本格的食物本草書。「本草綱目」に依拠しながらも、独自の見解をも加え、魚貝類など、庶民の日常食品について和漢文で解説したものである。

 底本は国立国会図書館のデジタルコレクションの以下の頁以降の画像を視認した。本文は漢文脈であるため、まず、原典との対照をし易くするために原文と一行字数を一致させた白文を示し(割注もこれに准じて一行字数を一致させてある。底本にある訓点は省略した)、次に連続した文で底本の訓点に従って訓読したものに、独自に読みや送り仮名を附したものを示し、その後に注と訳を附した。原典ではポイント落ち二行書きの割注は〔 〕で同ポイントで示した。なお、原典では原文の所で示したように、頭の見出しである「海鼠」のみが行頭から記されてあり、以下本文解説は総て一字下げである。なお、「海鼠」の「鼠」の字は原典では「鼡」の(かんむり)部分が「臼」になったものであるが、コードにない漢字であるので、正字の「鼠」で統一した。その他の異体字(「黒」「児」など)は原典のママである。字体判断に迷ったものや正字に近い異体字は正字で採った。

 「本朝食鑑」には一九七七年平凡社東洋文庫刊の国語学者島田勇雄(いさお)氏の手に成る訳注本の労作があるが、当初、このテクスト訳注は二〇一五年四月十九日に初稿を公開した際には、私は「本朝食鑑」を所持していなかった。そのため、最初のそれは全くの我流の産物であったのだが、その公開から八日後にたまたま同書を入手し、それと校合してみると私の読解や注に幾つかの問題点を見出した。実は当初は、私の最初の公開分に削除線と追加を施すことで対応しようと不遜にも考えていたが、この「海鼠」に関しては、島田氏の訳注を披見する以前に、さらに自分の中で改稿したい記載不備が幾つか発生していたため、今回、ここでは思い切って全面改稿することとした。但し、改稿の追加分の内で、入手した東洋文庫の島田氏の訳注から少しでも恩恵を被った箇所については、それと分かるように逐一洩らさず『島田氏注に』『島田氏の訳では』などと明記しておいた。従ってそれ以外は私の初稿のオリジナルなものとお考え戴いてよろしい。【二〇一五年四月二十八日改稿】遅巻き乍ら、「本朝食鑑」には和漢の本草記載の違いを考察する「華和異同」という別項が各部の終りに附されていることに気づいたので、その本文に準じて追加することとした。但し、本文とダブる箇所が甚だ多いので注は最小限に留めてある。【二〇一五年五月二十一日追記】 

 

□原文

海鼠〔訓奈麻古〕

 釋名土肉〔郭璞江賦土肉石華文選註曰土肉正

 黒如小児臂大長五寸中有腹無口目

 有三十足故世人

 以似海鼠爲別名〕

 集觧江海處處有之江東最多尾之和田參之柵

 嶋相之三浦武之金澤本木也海西亦多采就中

 小豆嶋最多矣狀似鼠而無頭尾手足但有前後

 两口長五六寸而圓肥其色蒼黒或帶黄赤背圓

 腹平背多※1※2而軟在两脇者若足而蠢跂來徃

[やぶちゃん字注:「※1」=「瘖」から十三画目(「日」の中央の一画)を除いた字。「※2」=「疒」の中に「畾」。]

 腹皮青碧如小※1※2而軟肉味略類鰒魚而不甘

 極冷潔淡美腹内有三條之膓色白味不佳此物

 殽品中之最佳者也本朝有海鼠者尚矣古事記

 曰諸魚奉仕白之中海鼠不白爾天宇受賣命謂

 海鼠曰此口乎不荅口而以細小刀拆其口故於

 今海鼠口拆也一種有長二三寸腹内多沙味亦

 差短者一種有長七八寸肥大者腹内三條之黄

 腸如琥珀淹之爲醬味香美不可言爲諸醢中之

 第一也事詳于後其熬而乾者亦見于後今庖人

 用生鮮海鼠混灰砂入籃而篩之或抹白鹽入擂

 盆中以杵旋磨則久而凝堅其味鮮脆甚美呼稱

 振鼠也

 肉氣味鹹寒無毒〔畏稲草稲糠灰砂及鹽伏河豚毒〕主治滋腎凉

 血烏髮固骨消下焦之邪火袪上焦之積熱多食

 則腸胃冷濕易洩患熱痢者宜少食或療頭上白

 禿及凍瘡

 熬海鼠〔或熬作煎俱訓伊利古〕釋名海參〔李東垣食物曰功

 擅補益故名之乎

 世人間有稱之者

 本朝式稱熬海鼠〕

 集觧造之有法用鮮生大海鼠去沙腸後数百枚

 入空鍋以活火熬之則鹹汁自出而焦黒燥硬取

 出候冷懸列于两小柱一柱必列十枚呼號串海

 鼠訓久志古大者懸藤蔓今江東之海濵及越後

 之産若斯或海西小豆嶋之産最大而味亦美也

 自薩州筑州豊之前後而出者極小煮之則大也

 作熬之海鼠以過六七寸者其小者不隹大抵乾

 曝作串作藤用之先水煮稍久則彌肥大而軟味

 亦甘美或合稲草米糠之類而煮熟亦軟或埋土

 及砂一宿取出洗浄而煮熟亦可也自古用之者

 久矣本朝式神祇部有熬海鼠二斤主計部志摩

 若狹能登隱岐筑前肥之前後州貢之今亦上下

 賞美之

 氣味鹹微甘平無毒主治滋補氣血益五臓六腑

 去三焦火熱同鴨肉烹熟食之主勞怯虛損諸疾

 同猪肉煮食治肺虛欬嗽〔此據李杲食物本草〕殺腹中之悪

 蟲然治小児疳疾

[やぶちゃん字注:この最後の一文の「然」の字は(れっか)の上が「並」の旧字体のような漢字であるが、表記出来ないので、文脈から推して「然」としたが、違う字かも知れない。]

 海鼠腸〔訓古乃和多〕集觧或稱俵子造腸醬法先取鮮

 腸用潮水至清者洗浄數十次滌去沙及穢汁和

 白鹽攪勻收之以純黄有光如琥珀者爲上品以

 黄中黒白相交者爲下品今以三色相交者向日

 影用箆箸頻攪之則盡變爲黄或腸一升入雞子

 黄汁一箇用箆箸攪勻之亦盡爲黄味亦稍美一

 種腸中有色赤黄如糊者號曰鼠子不爲珍焉凡

 海鼠古者能登國貢海鼠腸一石主計部有腸十

 五斤今能登不貢之以尾州参州為上武之本木

 次之諸海國采海鼠處多而貢腸醬者少矣是好

 黄膓者全希之故也近世參州柵嶋有異僧守戒

 甚嚴而調和於腸醬者最妙浦人取腸洗浄入盤

 僧窺之察腸之多少妄擦白鹽投于腸中浦人用

 木箆攪勻收之經二三日而甞之其味不可言今

 貢獻者是也故以參州之産爲上品後僧有故移

 于尾州而復調腸醬以尾州之産爲第一世皆稱

 奇矣

 附方凍腫欲裂〔用鮮海鼠煎濃汁頻頻洗之或用熱湯和腸醬攪勻洗亦好〕頭

 上白禿〔生海鼠割腹去腸掣張如厚紙粘于頭上則癒〕濕冷蟲痛〔及小児疳傷泄痢常食而好又用熬海鼠入保童圓中謂能殺疳蟲〕 

 

□やぶちゃん訓読文(原典の一字下げは省略した。読み易くするために句読点・記号・濁点・字空けを適宜、施した。一部に独自に歴史仮名遣で読みや送り仮名を附してあるが、読解に五月蠅くなるので、特にその区別を示していない。なお、原典には振られている読み仮名は少なく、片仮名で、

「但(タヽ)」・「略(ホヽ)」・「尚(ヒサ)シ」・「白(マウ)ス/サ」(二箇所)・「天宇受賣命(ノウスメノミコト)」(「天(あめ)」にはない)・「荅へざる口(クチ)」・「拆(サ)ケタリ」・「差(ヤヽ)」・「振鼠(フリコ)」・「烏(クロ)クシ」・「熬海鼠(イリコ)」・「伊利古(イリコ)」・「間(マヽ)」・「串海鼠(クシコ)」・「久志古(クシコ)」・「彌(イヨイヨ)」(後半の「イヨ」は底本では踊り字「〱」)・「コノワタ」(二箇所)・「タワラコ」(「ワ」はママ)

とあるのみである。また、

「中」(なか)には「カ」が、一部の「者」(もの)には「ノ」が(これ以外は「は」と読ませるための区別かとも思われる)、「今」(いま)には「マ」が、「後(のち)」には「チ」が、「處」(ところ)には「ロ」が

それぞれ送られてあるが、総て省略した。また、つまらぬ語注を減らすためにわざと確信犯で訓読みした箇所もあり、こうした恣意的な仕儀を経ている我流の訓読であるので、学術的には原典画像と対比しつつ、批判的にお読みになられたく存ずる。)

海鼠〔「奈麻古(なまこ)」と訓ず。〕

釋名 土肉〔郭璞が「江賦(かうのふ)」に、『土肉石華。』と。「文選註」に曰く、『土肉は正黒(せいこく)、小児の臂(ひ)の大いさのごとくにして、長さ五寸、中に腹(はら)有りて、口・目、無し。三十の足有り』と。故に世人、以つて海の鼠に似たるを別名と爲(す)。と。〕。

集觧 江海、處處、之れ有り。江東、最も多し。尾の和田、參の柵(さく)の嶋(しま)、相の三浦、武の金澤本木(ほんもく)なり。海西にも亦、多く采(と)る。中(なか)ん就(づ)く、小豆嶋、最も多し。狀(かた)ち、鼠に似て、頭と尾、手足、無し。但(た)だ前後に、两口、有るのみ。長さ五、六寸にして圓く肥ゆ。其の色、蒼黒或いは黄・赤を帶ぶ。背、圓(まど)かに、腹、平らかなり。背に※1※2(いぼ)多くして軟かなり。两脇に在る者は足の若(わか)きにして蠢跂來徃(しゆんきらいわう)す[やぶちゃん字注:「※1」=「瘖」から十三画目(「日」の中央の一画)を除いた字。「※2」=「疒」の中に「畾」。]。腹の皮、青碧、小※1※2(しやういぼ)のごとくにして軟かなり。肉味、略(ほぼ)、鰒魚(ふくぎよ)に類して甘からず。極めて冷潔淡美。腹内、三條の膓、有り。色、白くして味ひ、佳ならず。此の物、殽品(かうひん)中の最佳の者なり。本朝、海鼠と云ふ有る者(もの)、尚(ひさ)し。「古事記」に曰く、『諸魚、仕へ奉ると白(まう)すの中(なか)に、海鼠、白(まう)さず。爾(ここ)に天宇受賣命(あめのうずめのみこと)海鼠に謂ひて曰く、「此口や、荅(こた)へざる口(くち)。」と云ひて、細小刀を以つて其の口を拆(さ)く。故に今に於いて海鼠の口、拆(さ)けたり。』と。一種、長さ二、三寸、腹内、沙多くして、味も亦、差(やや)短き者、有り。一種、長さ七、八寸にして肥大なる者有り。腹内、三條の黄腸(きわた)、琥珀のごとくにして之を淹(つけ)て醬(しやう)と爲し、味はひ香美、言ふべからず。諸(しよ)醢(ひしほ)中の第一と爲すなり。事、後(しり)へに詳かなり。其の熬(いり)して乾く者は亦、後へに見えたり。今、庖人(はうじん)、生鮮の海鼠を用ゐて、灰砂に混じて籃に入れて之を篩(ふる)ふ。或いは白鹽を抹(まつ)して擂盆(すりぼん)中に入れて、杵を以つて旋磨(せんま)する時は、則ち久しくして凝堅(ぎやうけん)す。其の味はひ、鮮脆(せんぜい)、甚だ美、呼びて「振鼠(ふりこ)」と稱すなり。

肉 氣味 鹹寒。毒、無し。〔稲草・稲糠・灰砂及び鹽を畏(おそ)る。河豚(ふぐ)の毒を伏す。〕。 主治 腎を滋し、血を凉(すず)しふし、髮を烏(くろ)くし、骨を固くし、下焦(げしやう)の邪火を消し、上焦の積熱(しやくねつ)を袪(さ)る。多く食へば、則ち腸胃、冷濕、洩らし易く、熱痢を患(うれへ)る者、宜しく少食すべし。或いは頭上の白禿(しらくも)及び凍瘡を療す。

熬海鼠(いりこ)〔或いは「熬」は「煎」に作る。俱に「伊利古(いりこ)」と訓ず。〕 釋名 海參〔李東垣(りとうゑん)「食物」に曰く、『功、補益を擅(ほしいまま)にす。』と。故に之(これ)、名づくるか。世人、間(まま)、之を稱する者、有り。「本朝式」に『熬海鼠』と稱す。〕。

集觧 之を造るに、法、有り。鮮生の大海鼠を用ゐて、沙・腸を去りて後(のち)、数百枚、空鍋(からなべ)に入れて、活火(つよび)を以つて之を熬る時は、則ち鹹(しほじる)汁、自ら出でて焦黒(くろくこ)げ、燥(かは)きて硬(かた)きを、取り出し、冷(さむる)を候(うかが)ひて两(りやう)小柱に懸け列(つら)ぬ。一柱、必ず十枚を列ぬ。呼びて「串海鼠(くしこ)」と號す。「久志古(くしこ)」と訓ず。大なる者は、藤蔓に懸く。今、江東の海濵及び越後の産、斯(か)くのごとし。或いは海西、小豆嶋の産、最も大にして、味も亦、美なり。薩州・筑州・豊の前後より出ずる者は、極めて小なり。之を煮る時は、則ち、大(おほ)ひなり。熬(い)りと作(な)すの海鼠は、六、七寸を過る者を以てす。其の小きなる者は佳ならず。大抵、乾曝(かんばく)するに串と作(な)し、藤と作(な)し、之を用ゆ。先づ水に煮(に)、稍(やや)久しく時んば、則ち、彌(いよいよ)肥大にして軟なり。味も亦、甘美なり。或いは稲草・米糠の類と合(あは)して煮熟すも亦、軟らかかり。或いは土及び砂に埋(うづ)むこと一宿にして取り出だし、洗浄して煮熟(しやじゆく)すも亦、可なり。古へより之を用ゐる者、久し。「本朝式」「神祇(じんぎ)部」に『熬海鼠二斤。』と有り、「主計部」に『志摩・若狹・能登・隱岐・筑前・肥の前後州、之を貢す。』と。今、亦、上下、之を賞美す。

氣味 鹹、微甘、平。毒、無し。 主治 氣血を滋補し、五臓六腑を益し、三焦(さんしやう)の火熱を去る。鴨肉と同じく、烹熟(はうじゆく)して之を食すれば勞怯・虛損の諸疾を主(すべ)る。猪肉と同じく煮食すれば肺虛・欬嗽(がいそう)を治す〔此れ、李杲(りかう)が「食物本草」に據(よ)る。〕。腹中の悪蟲を殺(さつ)し、然して小児の疳疾を治す。

[やぶちゃん字注:この最後の一文の「然して」の「然」の字は(れっか)の上が「並」の旧字体のような漢字であるが、表記出来ないので、文脈から推して「然」としたが、違う字かも知れない。]

海鼠腸(このわた)〔「古乃和多(このわた)」と訓ず。〕 集觧 或いは俵子(たわらこ)と稱す。腸醬(ちやうしやう)を造る法、先づ鮮腸を取りて潮水の至つて清き者を用ゐて洗浄すること數十次、沙及び穢汁(わいじふ)を滌去(てききよ)して白鹽に和して攪勻(かくきん)して之を收む。純黄の光り有りて琥珀ごとき者を以つて上品と爲(な)す。黄中、黒・白相ひ交じる者を以つて下品と爲す。今、三色相ひ交じる者を以つて日影に向けて箆(へら)・箸を用ゐて頻りに之を攪(か)く時は則ち盡く變じて黄と爲(な)る。或いは腸(わた)一升に雞子(けいし)の黄汁(きじる)一箇を入れ、箆・箸を用ゐて之を攪勻するも亦、盡く黄と爲る。味も亦、稍(やや)美なり。一種、腸中に、色、赤黄(しやくわう)、糊のごとき者有り、號して鼠子(このこ)と曰(い)ふ。珍と爲(な)さず。凡そ海鼠、古へは能登の國、海鼠腸一石を貢す。「主計部」に『腸十五斤』と有り。今、能登、之を貢せず。尾州・參州を以つて上と爲し、上武の本木、之に次ぐ。諸海國(かいこく)、海鼠を采る處、多くして、膓醬を貢(けん)する者の少なし。是れ、黄膓は好む者、全く希(まれ)なるの故なり。近世、參州柵(さく)の島(しま)に異僧有り、戒を守りて甚だ嚴(げん)にして、腸醤を調和するは最も妙なり。浦人、腸を取りて洗ひ淨めて盤(うつわ)に入る。僧、之を窺(うかが)ひ、腸の多少を察(さつ)して、妄(みだ)りに白鹽(なまじほ)を擦(す)りて腸の中に投ず。浦人、木篦(きべら)を用ゐて攪勻して之を收む。二、三日を經て、之を甞(な)むれば、其の味はひ、言ふべからず。今、貢獻する者、是なり。故に參州の産を以つて上品と爲(す)。後、僧、故(ゆゑ)有りて尾州に移りて、復た腸醬を調へて尾州の産を以つて第一と爲(す)。世、皆、奇なりと稱す。

附方 凍腫裂れんと欲(す)〔鮮海鼠の煎濃汁(せんのうじふ)を用ゐて頻頻(ひんぴん)、之を洗ふ。或いは熱湯を用ゐて腸醬を和し、攪勻して洗ひ、亦、好し。〕。頭上の白禿(しらくも)〔生(なま)海鼠、腹を割(さ)き、腸を去り、掣(お)し張りて厚紙のごとくにして頭上粘する時は則ち癒ゆ。〕。濕冷の蟲痛(ちゆうつう)〔及び小児の疳傷(かんしやう)・泄痢(せつり)、常食して好し。又、熬海鼠を用ゐて保童圓(ほどうゑん)の中に入れて、謂ふ、能く疳の蟲を殺すと。〕。 

 

□やぶちゃん語注(この本文を引用した先の私の『博物学古記録翻刻訳注 ■11 「尾張名所図会 附録巻四」に現われたる海鼠腸(このわた)の記載』で載せた私の注を煩を厭わず再掲しておいた。それが引用元である本書への礼儀でもあろうと考えたからである。原則、再掲であることを断っていないので、既にお分かりの方は飛ばしてお読みになられたい。なお、他にも私の寺島良安「和漢三才圖會 巻第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「海鼠(とらご)」の項及び「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 海鼠」などからも注を援用しているので、寧ろ、それらも参考にお読みになられんことをお勧めしておく。)

・「海鼠」ここで語られる海鼠は、ほぼ棘皮動物門ナマコ綱楯手目マナマコ科の旧来のマナマコと考えてよいが、実は近年までマナマコ
Apostichopus japonicusSelenka, 1867とされていた種類には、真のマナマコ Apostichopus armataSelenka, 1867とアカナマコ Apostichopus japonicusSelenka, 1867の二種類が含まれている事実が判明しており、Kanno et al.2003により報告された遺伝的に異なる日本産 Apostichopus 属の二つの集団(古くから区別していた通称の「アカ」と、「アオ」及び「クロ」の二群)と一致することが分かっている(倉持卓司・長沼毅「相模湾産マナマコ属の分類学的再検討」(『生物圏科学』Biosphere Sci.494954(2010))に拠る)。これ今までの私のナマコ記載では初めて記す、私は今回初めて知ったことであるが、この学名提案については、サイト「徳島大学大学院ソシオ・アーツ・アンド・サイエンス研究部 水圏生産科学研究室(仮称)」の「マナマコの標準体長&学名」の「マナマコの学名について」に、『最近,本種全体に用いられてきた従来の学名 Apostichopus japonicas を赤色型に限定し,青色型と黒色型を Apostichopus
armata
 とすることが提案されています(倉持・長沼,2010)。しかし,この種小名 armata は,過去に北方系のマナマコに提案されたものであり,北方系のマナマコについては南方系マナマコとは別種とみる研究者もおり,その分類学的位置づけは検討段階にあります。仮に北方系マナマコが別種とされた場合には,種小名 armata の使用は北方系のマナマコに限定されることになります。そうすると,種小名 armata を使って記述された論文の追跡が困難になるなどの恐れもあり,現段階では,従来の学名 Apostichopus japonicas を使用し色型と産地を明記する記述スタイルが無難であると考えています』とあるので使用には注意を有する。

・「奈麻古」「和名類聚抄」に(「国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認)、

   *

崔禹錫食經云海鼠〔和名古本朝式加熬字云伊里古〕似蛭而大者也

(崔禹錫が「食經」に云く、『海鼠。』〔和名、『古』。「本朝式」に「熬」の字を加へて『伊里古』と云ふ〕。蛭に似て大なる者なり。)

   *

とある。これによれば、本来のナマコの和名古名は文字通り「古(こ)」であって、「延喜式」には後述する煮干して調製した製品をこれに「熬」(いる)の字を加えて「伊里古(いりこ)」と称すというのである。寧ろ、この「いりこ」(熬った古)に対して生じた謂いが「なまこ」(生の古)であり、その「古」の腸(わた)が「古(こ)の腸(わた)」なのであろう。これは国語学者の島田勇雄氏も東洋文庫版の注で推定しておられる。

・「釋名」まず扱う対象の物名及び字義を訓釈すること。本書は李時珍の「本草綱目」の構成を模しており、後の囲み字である「集觧」・「氣味」・「主治」・「附方」は総て同書を真似ている(但し、何故か不思議なことに「本草綱目」には海鼠(海参)に相当するものが載らない)。

・『土肉〔郭璞が「江賦」に、土肉」「石華」「文選註」……』以下、非常に注が長くなるのでご注意あれ。しかも答えは……必ずしも出ない。……まず先に『郭璞が「江賦」』を説明する。「郭璞」(二七六年~三二四年)は六朝時代の東晋の学者・文学者。山西省聞喜の生まれ。字は景純。博学で詩賦をよくし、特に天文・卜筮(ぼくぜい)の術に長じた。東晋の元帝に仕えて著作郎などを勤め、たびたび大事を占っている。以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。「江賦」はその郭璞の創った長江(揚子江)を主題とした博物学的な詩賦(賦は中国韻文文体の一つで漢代に形成された抒情詩的要素の少ない事物を羅列的に描写することを特徴とする)で、同じく彼の手になる「海賦(かいのふ)」と対を成す。「文選」に所収する(だから本文に「文選註」が引かれるのである)。しばしば参考にさせて戴いているm.nakajima 氏のサイト「MANAしんぶん」内の「真名真魚字典」の古書名・引用文献注の「江賦」の解説によれば、『実在種を想定できるものから、想像上の生きものまで多種をあげ、幾多の文章に引用され、それがどのような生きものであるかの同定を考証家たちが試みてきた』作品とある。この「江賦」に、

 「王珧海月、土肉石華」(王珧は海月、土肉は石華)

と出るのである(この考証は次の注に譲る)。

 以下、「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 海鼠」で試みた私の注を援用しつつ、この「土肉」以下の考証を進める。

 まず、かの寺島良安は「和漢三才圖會 巻第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「海鼠」の項で、

   *

石華が「文選」の註に云ふ、『土肉は、正黑にして、長さ五寸、大いさ、小兒の臀のごとく、腹有りて、口・目無く、三十の足、有り。炙り食ふべし。』と。

   *

とこの「本朝食鑑」と全く同じ箇所を引いた上で(下線やぶちゃん)、

   *

按ずるに、海鼠(なまこ)は中華(もろこし)の海中に之れ無く、遼東・日本の熬海鼠(いりこ)を見て、未だ生なる者を見ず。故に諸書に載する所、皆、熬海鼠なり。剰(あまつさ)へ「文選」の土肉を「本草綱目」恠類獸の下に入る。惟だ「寧波府志(ねいはふし)」言ふ所、詳らかなり。寧波(ニンハウ)は日本を去ること甚しく遠からず、近年以來、日本渡海の舶の多くは、寧波を以て湊と爲す。海鼠も亦、少し移り至るか。今に於て唐舩(からぶね)長崎に來る時、必ず多く熬海鼠を買ひて去(い)ぬるなり。

   *

と記している。そしてこれについて、平凡社一九八七年刊東洋文庫訳注版「和漢三才図会」(島田勇雄・竹島淳夫・樋口元三巳訳注)には以下の注を記す(《 》部分は私の補填。下線やぶちゃん)。

   《引用開始》

『文選』の郭璞(かくはく)の「江賦」に、江中の珍しい変わった生物としてあげられたものの説明の一つであるが、石華については、《「文選」註に》「石華は石に附いて生じる。肉は啖(くら)うに中(あ)てる」とあり、《その同じ「江賦」の「文選」註の》土肉の説明が『臨海水土物志』《隋の沈瑩(しんえい)撰の博物誌》を引用したこの文である。《しかし「江賦」の記載に於ける》石華と土肉は別もので、どちらも江中の生物。良安は石華を人名と思ったのであろうか

   《引用終了》

(言わずもがなであるが、編者の下線部の疑問は、寺島の引用の下線部に対応している)この編者注でちょっと気になるのは、「どちらも江中の生物」と言っている点である。即ち、どちらも「江」=淡水域であるということを編者は指摘している(「江賦」は揚子江の博物誌だから当然ではある。「江」という語は大きな河川を指す語で、海の入江のような海洋域を指すのは国訓で中国語にはない)。従って、東洋文庫版編者は「石華」は勿論、「土肉」さえもナマコとは全く異なった生物として同定しているとも言えるのである(因みに淡水産のナマコは存在しない)。しかし、「土肉」は「廣漢和辭典」にあっても、明確に中国にあって「なまこ」とされている(同辞典の字義に引用されている「文選」の六臣注の中で「蚌蛤之類」とあるにはあるが、ナマコをその形態から軟体動物の一種と考えるのは極めて自然であり、決定的な異種とするには当たらないと私は思う)。さらに「江賦」が揚子江の博物誌であったとしても、揚子江の河口域を描けば当然そこには海洋生物の海鼠が登場してきたとして、おかしくない。さすれば、「土肉」は「ナマコ」と考えてよい。

 次に気になるのは「石華」の正体である。まず、書きぶりから見て、寺島は、東洋文庫版注が言うように、「石華」を「土肉」について解説した人名と誤っていると考えてよい(まどろっこしいが、「文選」注に引用された郭璞の注の中の、更に引用元の人物名ということになる。しかし、人見の書き方は、「土肉」の間と「石華」の間に熟語を示すダッシュを入れているだけで一切の送り仮名を振っていないから、これはシンプルに「江賦」の「土肉石華」を引いていて、「土肉は石華」という意で読んでいると考えてよい)。しかし、実はそんな考証は私には大切に思えないのである。「生き物」を扱っているのだから、それより何より、「石華」を考察することの方が大切であると思うのである(東洋文庫では少なくともここで「石華」の正体について何も語っていない。ということは編者らは「石華」は「海鼠」と無批判に受け入れたということになる。確かに岩礁に触手を開いた彼らを、本邦でもアカナマコと呼びアオナマコと呼びするから、彼らを「石の華」と呼んだとして強ち、おかしくは無いとも言える。しかし本当にそれで納得してよいのだろうか? これは本当に「土肉」=「石華」なのだろうか?

 そこで、まず、ここで問題となっている郭璞の注に立ち戻ろうと思う。

 「石華」と「土肉」の該当部分は中文ウィキの「昭明文選 卷十二」から容易に見出せる(引用に際し、記号の一部を変更させて貰った)。

   *

王珧〔姚〕海月、土肉石華。[やぶちゃん注:「江賦」本文。〔姚〕は「珧」の補正字であることを示す。以下、注。記号を追加した。]

郭璞「山海經」注曰、『珧、亦蚌屬也。』。「臨海水土物志」曰、『海月、大如鏡、白色、正圓、常死海邊、其柱如搔頭大、中食。』。又曰、『土肉、正黑、如小兒臂大、長五寸、中有腹、無口目、有三十足、炙食。』。又曰、『石華、附石生、肉中啖。』。

   *

これを恣意的に我流で読み下すと、

   *

王姚・海月、土肉・石華。

郭璞「山海經」注に曰く、『珧は亦、蚌の屬なり。』と。「臨海水土物志」に曰く、『海月は、大いさ鏡のごとく、白色、正圓、常に海邊に死し、其の柱、搔頭(かいたう)の大いさのごとく、食ふに中(あ)てる。』と。又、曰く、『土肉は、正黑、小兒の臂の大いさのごとく、長さ五寸、中に腹有り、口・目無く、三十の足有り、炙りて食ふ。』と。又、曰く、『石華、石に附きて生じ、肉、啖ふに中てる。』と。

   *

脱線をすると止めどもなくなるのであるが――「王珧〔=姚〕」は「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部 寺島良安」の「王珧」でタイラギ、「海月」は同じく「海鏡」でカガミガイ又はマドガイである(「海鏡」は記載が美事に一致する。なお、それぞれの学名については該当項の注を参照されたい)。――

 さてここに出る「土肉」は、その記載内容からみても最早、間違いなくナマコである。

 では、「石華」はやはり海鼠だろうか? そのようにも読めないことはない。当初、私は極めて少ない記載ながら、これを海藻類と同定してみたい欲求にかられた(勿論、「肉」と言っている点から、海藻様に付着するサンゴやコケムシや定在性のゴカイ類のような環形動物及びホヤ類も選択肢には当然挙がるのだが、「肉は啖(くら)ふに中(あ)てる」という食用に供するという点からは、定在性ゴカイのエラコ
Pseudopotamilla occelata  かホヤ類に限られよう)。すると「石花」という名称が浮かび上がってくるのであった。例えば、「大和本草」の「卷之八草之四」の「心太(こころふと)」(ところてん)の条に、「閩書」(明・何喬遠撰)を引いて「石花菜は海石の上に生ず。性は寒、夏月に煮て之を凍(こほり)と成す」とする。即ち、「石華」とは、一つの可能性として紅色植物門紅藻綱テングサ目テングサ科マクサ Gelidium crinale  等に代表されるテングサ類ではなかろうかと思ったのである。

 ところが最近、これ以外にも「石華」の強力な同定候補が浮かび上がってきたのである。――「石」に「生じ」(生える)、「華」が開くように鰓を出す、その中身の「肉」が食用になる――それは本条の初回公開の直後にものした『博物学古記録翻刻訳注 ■13 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる老海鼠(ほや)の記載』の注で私が示したカメノテである。リンク先を是非、お読みあれ。これも私は立派な「石華」であるように私には思えるのである(但し、まずいことにこれ、「江賦」では「石砝」(石蜐)として別に出るのである)。……ともかくも――「石華」というもの――これは一筋繩ではいかぬということでは、ある。向後も考証を続けたい。

・「臂」狭義には肘(腕の関節部)から手首までの「一の腕」を指す語。広義には肩からの腕総てをも指すが、ここは前者でしっくりくる。

・「五寸」約十五センチメートル。マナマコでは大型個体は三十センチメートルに達するものもあるが、伸縮の度合いも甚だしいので、この数値は健康な生体個体の標準値としては低めながら自然な数値で、実際、続く解説中ではより大型個体が示されている。

・「三十の足有り」ナマコは棘皮動物に共通する五放射相称の体制を持ち、腹側には中央とその両側に管足が並ぶ歩帯があり、背側には左右両端に歩帯(管足が変形した疣足が並ぶ)があって、全身はこの放射状に縦に並んだ五本の歩帯(とその間充組織)によって構成されている。腹側の管足は主に移動に用い、先端は吸盤となっている(但し、無足目と隠足目のナマコは管足を持たず、蠕動運動によって移動する。板足目のナマコ類はその多くが深海性で、一部には太く大きな管足を持つ種類もいる。ここはウィキの「ナマコ」に拠った)。無論、管足の本数は三十本ばかりではない。何百本である。

・「集觧」集解。「しつかい(しっかい)」「しふげ(しゅうげ)」とも読むが、私は「しふかい(しゅうかい)」と読んでいる。「觧」は「解」の異体字。対象に就いての解釈を多く集めて纏めることを指す。

・「江東」この場合は東日本を指すとしか読めないが、一般的な語ではない。後に「海西」(島田氏はこれに『さいこく』(西国)とルビされておられる)が現われ、これは明らかに西日本で、その対語としてある以上、東日本(但し、尾張以東である)ととっておく。島田氏はこれに『かんとう』とルビを振られ、関東とされる。続く地名(しかし尾張や三河は今も昔も関東ではない)や流通の集中度や情報の収集域から言えば、それでおかしくはないのであろうが、そうすると東北部が含まれず、海鼠等の場合は頗るおかしな印象を拭えなくなる。「仙臺 きんこの記 芝蘭堂大槻玄澤(磐水)」の金華山のキンコの例(これは凡そ百年後の文化七(一八一〇)年の刊行ではあるが、既に東北の海鼠類が豊富なことは知られていたはずである)を考えても、ここは関東ではおかしいと私は判断する。

・「尾の和田」「尾」は尾張国。現在の愛知県西部。これは直感に過ぎないが、現在の愛知県知多郡美浜町布土和田(ふっとわだ)ではなかろうか? ここなら三河湾に面し、しかも次に出る名産地佐久島はここから南東十三・二キロメートルの三河湾に浮かぶ島である。識者の御教授を乞う。

・「參の柵の嶋」「參」は三河国。現在の愛知県中部。佐久島。三河湾のほぼ中央に位置する離島。愛知県西尾市。ウィキの「佐久島」によれば(注記号は省略した。下線はやぶちゃん)、三河湾湾奥中央やや西寄りの西尾市一色町から南に約八キロメートルの距離にあり、三河湾のほぼ中央に位置する。面積は一・八一平方キロメートルで、『三河湾の離島中最大』。『西三河南西部(西尾市一色町)・知多半島(南知多町)・渥美半島(田原市渥美町)との距離がそれぞれ』十キロメートル圏内にあり、離島と言っても、『地理的な距離の近さに加えて本土との生活交流が活発であるため、国土交通省による離島分類では内海本土近接型離島に』当たる。島北部には標高三十メートルほどの『緩やかな丘陵が連なり、ヤブツバキやサザンカなどが植えられている』「歴史」パートの「古代」には、『藤原宮跡から出土した木簡(貢進物付札)には「佐久嶋」の、また奈良時代の平城京跡から出土した木簡には「析嶋」の文字が見られ、島周辺の海産物を都に届けた記録も残っている』とあり、「中世・近世」の項には、『中世には志摩国の属国であったとされるが、鎌倉時代には吉良氏の勢力下に入り、三河湾内の』他の二島(日間賀島と篠島)『とは異なり三河方面との結びつきが深まった。江戸時代初期は相模国甘縄藩領だったが』、元禄一六(一七〇三)年には『上総国大多喜藩領となった。コノワタは大多喜藩の幕府献上品であり、現在も佐久島の特産品である』。『伊勢・志摩と関東を結ぶ海上交通の要衝にあることから、江戸時代には各地を結ぶ海運で繁栄を築き、吉田(現在の豊橋市)と伊勢神宮の結節点としても栄えた。吉田・伊勢間は陸路では』約四日かかるが、『海路では最短半日で着くことができ、金銭的余裕のない参拝者、遠江国や三河国など近隣諸国からの参拝者に多く利用されたという。江戸時代には海運業が経済の中心であり、海運業以外では東集落は主に漁業を、西集落は主に農業を経済基盤とした。大型船のほかに小型船の根拠地でもあり、知多半島で生産された陶器類を熊野灘まで運んだり、熊野の材木を名古屋や津に運んでいた』とある。

・「武の金澤本木」「武」は武蔵国。現在の埼玉県・東京都・神奈川県の一部。これは現在の横浜市磯子区本牧を指す。「江戸名所図会」の「巻二 天璇之部」の江戸後期の「杉田村」(現在の磯子区杉田)の挿絵には『海鼠製(なまこをせいす)』というキャプションを附して「いりこ」(乾燥させた海鼠)を製する図が示されてある。また、題名だけ見ると、やや軽そうな感じがするものの、「はまれぽ.com」の「神奈川県の海でナマコがよく捕れるそう。年間の漁獲量は? 横浜市内で新鮮なナマコを食べられるお店は? ナマコで有名な青森県横浜町とはどちらが多く捕れる?」は一読、すこぶる博物学的で素晴らしく、歴史的変遷(埋め立てられたものの現在はナマコ漁が再開)を含め、必読である!

・「五、六寸」十五~十八センチメートル。

・「※1※2(いぼ)」(「※1」=「瘖」から十三画目(「日」の中央の一画)を除いた字。「※2」=「疒」の中に「畾」。)「※1」は音「ハイ」でかさぶた・かさ(瘡)/できもの/腫れ物の意である(大修館書店「廣漢和辭典」による)。「※2」については、同じ字が「和漢三才図会」の「胡瓜」の項(「卷之百 七」)に「痱※2(いらぼ)」(但し私が判読した底本の字が掠れており、読みの「ぼ(原典はカタカナ)」を含め自信がない)とあり、東洋文庫版現代語訳ではこれを『ぶつぶつ』と訳している(最も可能性があるのは「痱*」(*「疒」+中に「雷」)で、これは「廣漢和辭典」に、「廣韻」に「痱、痱*」(痱(ひ)は、痱*(ひらい)なりと出ており、その意味として『小さなはれもの。ぶつぶつ』とある)。以上の「胡瓜」の同全テクストと注は、私の「耳嚢 巻之十 白胡瓜の事」の注に示してあるので参照されたい。なお、島田氏は『※1※2』に『ぶつぶつ』、次の文に再登場する箇所では別に『ふきでもの』とルビを振られており、多様な表現で理解を進めようとなされた面白い訳法である。

・「蠢跂來徃」(若干、字が不鮮明で気にはしていたのだが、この「跂」を私は当初「抜跋」と誤読していた。今回、島田氏の訳を見、「跂」が正しいことを知り、この改稿で訂したことを最初に申し述べておく)「蠢」が蠢(うごめ)く、「跂」が虫が這い歩く、「来徃」は来往で行ったり来たりの意であるから、蠕動して這い歩き回ることを言う。島田氏はこの四字をそのまま訳に用いられ、『蠢跂來往(たえずうごめか)し』と訓じておられる。これはなかなかに面白い訳で、しかもこの場合、島田氏はこれを海鼠本体の移動・運動ではなく、管足が盛んに動く様として訳しておられる。非常に示唆に富む訳であり、海鼠個体の観察としてはその方が正しいようにも感じられるけれども、私としては最初の敷衍訳を変更することを望まない。何故なら実際、この管足を以って海鼠は思ったよりも活発に匍匐運動を行うからである。

・「鰒魚」「あはび」と訓じているかも知れない。本字はフグをも指す語で御丁寧に「魚」までついているが、これは明らかに鮑(あわび)である。事実、後の氣味の項にフグは「河豚」の表記で出る。

・「冷潔淡美」ひんやりとしてすっきりと清らかで、その味わいはさわやかな旨味を持つとことであろう。

・「三條の膓」私の愛読書である昭和三七(一九六二)年内田老鶴圃刊の大島廣先生の「ナマコとウニ」では(一二二頁)、この『三条の腸とあるのは、ナマコ類は一般に、その消化管が体の後端んに達して折れ返り、上に向って前端に達し、再び後方に向う。その下向二条、上向一条あるのを合わせて数えたものと見える』と解説なさっておられる。海鼠を捌いたことのない方のために、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーのインターネット公開(保護期間満了)の広島文理科大学広島高等師範学校博物学会編「日本動物解剖図説」のナマコの解剖図を以下に示しておく。この、「12」「19」「20」の腸の第一部から第三部というのが、まさにそれに当たる。

 

Namakokaibouzu

 

・「色、白くして味ひ、佳ならず」この部分、不審。ここは一種の補足か割注のような感じで、例えば、

……腹内、三條の膓、有り〔但し、色の白きは味ひ、佳ならず。〕。此の物、殽品(かうひん)中の最佳の者なり。

とあるならば、腑に落ちるのである。取り敢えず、これは腸(わた)が黄色ではなく、白っぽい色を成しているものは美味しくない、という補足で採り、訳では(  )に入れた。

・「殽品」「殽」は「肴」と同義で、広義の魚、海産生物の調製品の謂い。島田氏は『さけのさかな』とルビされている。島田氏はここに膨大な量の近世の海鼠の調理法を引用されておられ、圧巻である。

・『「古事記」に曰く、『諸魚、仕へ奉ると白(まう)すの中(なか)に、海鼠、白(まう)さず。爾(ここ)に天宇受賣命(あめのうずめのみこと)海鼠に謂ひて曰く、「此口や、荅(こた)へざる口(くち)。」と云ひて、細小刀を以つて其の口を拆(さ)く。故に今に於いて海鼠の口、拆(さ)けたり。』と』島田氏の訳ではこの「細小刀」の箇所を『紐小刀』とする。以下に見る通り「古事記」の原文では確かに「紐小刀」(飾り紐付きの小刀)であるが、私の底本としたものでは明らかに「細」であって「紐」ではない。「天宇受賣命」は、ご存じ、かの閉じられた天の岩戸の前でストリップを演じた日本最古の踊り子にして芸能の女神である。以下に「古事記」から引用する(書き下し文及び訳は上代の苦手な私の仕儀につき、ご注意あれ。過去形で訓読するのが一般的であるが、敢えて現在形で臨場感を出した)。

   *

於是送猿田毘古神而、還到、乃悉追聚鰭廣物鰭狹物、以問言、汝者天神御子仕奉耶、之時、諸魚皆、仕奉、白。之中、海鼠不白。爾天宇受賣命謂海鼠云、此口乎、不答之口、而以紐小刀拆其口。故、於今海鼠口拆也。

是に於て猿田毘古神(さるたびこのみこと)を送りて、還り到りて、乃ち悉く鰭(はた)の広物(ひろもの)・鰭の狹物(さもの)を追ひ聚め、以て問ひて言ふ、

「汝(な)は、天つ神の御子に仕へ奉らむや。」

と。之の時、諸々の魚、皆、

「仕へ奉らむ。」

と白(まを)す。この中、海-鼠(こ)のみ白さず。爾(ここ)に天宇受賣命(あめのうずめのみこと)、海鼠に謂ひて云く、

「此の口や、答へざるの口。」

と。而して紐小刀(ひもかたな)を以て其の口を拆(さ)く。故に、今に於いて海鼠の口、拆くるなり。

やぶちゃん訳:天宇受売命は、ここで天孫降臨の先導を務めてくれた猿田毘古神(さるたひこのみこと)を送って帰って来て、即座に海中の大小のあらゆる魚たちを悉く呼び集めて尋ねて言った、

「お前達は天つ神の御子に従順に仕え奉るか?」

と。すると、魚どもは皆、

「お仕へ奉りまする。」

と申し上げる。

 と、その中、海鼠だけは答えようとしない。

 ここに天宇受売命(あめのうずめのみこと)は海鼠に向かって言った、

「この口は、答えぬ口なのね。それじゃあ、こんな口はいらないわ。」

と。

 そして飾り紐の付いた小刀で、その海鼠の口を裂いた。故を以て今に至るまで海鼠の口は裂けているのである。

   *

本説は古来からの大神であったサルタヒコさえ天孫の膝下に下り、そこにダメ押しとしての畜生(衆生)のシンボルたる総魚類の従属を示して、それに従おうとしなかった海鼠が原罪への処罰として口を切られ、その反スティグマは永遠に消えない程に恐ろしいのだと語っているのであろう。私には生理的に厭な話である。この「切られた口」なるものは、ナマコの口部を取り巻く十~三十本の触手(ちなみのこれは管足が巨大に変形したもので、生物学的に五放射体制に対応して触手の数も五の倍数であることが分かっている)を示すのだが、海鼠ぐらい駘蕩として平和主義者然とした哲人はいない。「古事記」のこの女神による海鼠制裁事件は大和朝廷の先住民族への暴政を隠蔽するための冤罪である。とっくに時効ではあるが、ナマコたちよ! 名誉回復のための訴訟には、いつでも私が特別弁護人になって上げるよ!

・「二、三寸」六~九センチメートル。

・「味も亦、差短き者、有り」この「短き」は味が劣るで採った。島田氏も『差短(ややうまくな)い』と訳しておられる。

・「七、八寸」二十一~二十四センチメートル。

・「淹て」島田氏は『淹(しおづけ)して』とされる。これは次の「醬と爲し」からの敷衍訳で結果としては正しいが、単漢字の「淹」には漬けるの意はあっても、塩漬けにするの意はないので従えない。

・「醢」音なら「カイ」、訓では別に「ししびしほ(ししびしお)」。塩漬けの肉や塩辛。

・「振鼠」これは前の記載から「生鮮の海鼠を用」い、一つは「灰砂に混じて籃に入れて之を篩ふ」という調理を経るもの。今一つは「白鹽を抹して」(かける・擦り込む・まぶすの意のように思われる)「擂盆中に入れて、杵を以つて旋磨する」という一番目とはかなり異なった調理を経るもので、しかもこの二つの方法を経て時間を置いたものは、意外にも、全く同じように「凝堅」した塊となり「其の味はひ、鮮脆、甚だ美」であるというのである。現行の生海鼠の調理法によって出来上がった海鼠料理は私は聴いたことがない。前記の大島先生の「ナマコとウニ」にもこの名は見当たらない。識者の御教授を乞うものである。因みに、知られた処理法として似た響きを持つ「茶振り海鼠」というのは知っている。一応、以下、レシピを「天満屋ハピータウンおすすめレシピ」の「茶ぶりなまこの酢の物」から引いておく(表記法を一部変えさせて戴いている。材料及び分量はリンク先を)。

   *

1 なまこは塩少々をふってぬめりを取り、両端を少し切り落として腹を縦に開き、ワタを除いて水の中で洗い、水けをきる。

2 1のなまこを厚さ七~八ミリメートルの小口切りにし、塩少々をふって十分ほどおく。

3 なべになまこがかぶるぐらいの湯(摂氏七十~八十度)を入れ、番茶の葉をひと握り加える。

4 2のなまこをざるに入れ、3のなべの中で、ざるごとサッとふり洗いして水にとり、水けを切る。

5 合わせ酢にゆずの輪切りとしょうがのせん切りを加え、4のなまこを半日ほどつけて味を含ませる。

   *

但し、私は実は海鼠は総てそのまま生、酢などを加えないものの生食こそが美味だと考える人間で、この「茶振り海鼠」の処理自体には頗る批判的な人間であることを言い添えておく。

・「鹹寒」漢方で、陰陽五行説の相生相克を食物の気(薬性)の働きに当て嵌めたもので、食物を味覚に於いて「酸・苦・甘・辛・鹹」の五つに分ける。さらに食物の保持する特有の性質をやはり「寒・微寒・平・温・微温」の五つに分ける(大別すれば気には「寒・温・平」の三種類があり、その「寒」は食物や生薬が体の中に入った時に冷やす効果を持つもの、「温」は温める効果を持つも、そして「寒」・「温」孰れにも偏らずに働きがフラットとなものを「平」とする。軽く冷やす効果が「微寒」、軽く温めるそれが「微温」である)。漢方では、この「気」の働き「味」の働きを合わせたものを「気味」と称し、その「気味」の組み合わせによって食物や生薬が体に作用する状態をこれらの文字で規定表示している(以上は「自然の理薬局」の「漢方医学の概念」を参照に纏めた)。

・「河豚の毒を伏す」不詳。私はこのような民間療法を聴いたことはない。識者の御教授を乞う。

・「下焦」漢方に於ける「五臓六腑」の臓器の「六腑」の一つである「三焦(さんしょう)」。三つの熱源の意で、上焦は横隔膜より上部、中焦は上腹部、下焦は臍下(さいか)にあり、生命の源である体温を保つために絶えず熱を発生している器官とされる。「みのわた」とも呼ぶ。これはさらに「上焦」「中焦」「下焦」の三つのパートに分けられている。「上焦」は、気を取り入れて邪気を排出する働きを有し、心や肺の燃焼に関わり、「中焦」は食べ物を取り入れて血(栄養)に変える働きを有し、胃・脾・肝などの燃焼に関わり、「下焦」は不要なものを排出する働きを掌り、大腸や膀胱の燃焼させるという。西洋医学上の該当臓器は存在しないが、実際には以上に出た実際にある支配臓器総体を包括した形而上学的な臓器概念のように思われる。

・「邪火」幾つかの漢方サイトを管見するに、これはどうも炎症などの具体な漢方症状ではなく、三焦孰れにもよくない状態として生ずる、「客熱」(本来のものではない異常な熱。他から侵入して来た熱。意識を朦朧とさせるような邪悪な熱気)の邪悪(悪質)な性質を示す語のように見受けられる。

・「上焦」先の「下焦」を参照。

・「積熱」ここは上焦のそれであるが、漢方サイトでは中焦の不具合として、消化管内の停滞によるガス発生や便・炎症による刺激のために腹部膨満感や腹痛、発熱性疾患を引き起こすものとして「腸胃積熱(ちょういという」というのが散見される。また別に「三焦積熱」ともあるから、本来あるべきではない熱源が生命を燃焼させる三焦に鬱積して負荷をかけている状態を指していることが分かる。そもそもここは「下焦」と「上焦」の熱を去ることを言って「中焦」を含む「三焦」全体の温度の正常な状態への就下を言っている。

・「袪」本来は袖・袂の意であるが「去る」(除く)の意をも持つ。

・「白禿」「白癬」「白瘡」とも書く。主に小児の頭部に大小の円形の白色の落屑(らくせつ)面が生ずる皮膚病で、原因菌は主に真菌トリコフィトン(白癬菌)属 Trichophyton の感染によって起こる。掻痒感があり、毛髪が脱落する。頭部白癬。ケルズス禿瘡(とくそう)。ウィキの「白癬に、『毛嚢を破壊し難治性の脱毛症を生じるものはケルズス禿瘡と呼ばれる。Microsporum canisTrichophyton verrucosumが原因の比率が高いため、猫飼育者・酪農家は注意が必要。その他、Trichophyton rubrumTrichophyton mentagrophytesTrichophyton tonsuransがある』とある。

・「熬海鼠」以下、私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「海鼠(とらご)」の「熬海鼠」の注を援用追記しておく。「いりこ」という呼称は、現在、イワシ類を塩水で茹でて干したにぼしのことを言うが、本来は、ナマコの腸を除去し、塩水で煮て完全に乾燥させたものを言った。平城京跡から出土した木簡(島田氏注に『関根真隆氏によれば、平城宮出土木簡に「能登国能登郡鹿嶋郷戸主若倭部息島戸同□調□(海カ)鼠六斤、天平宝字三円四月□日」とある由である』とある)や「延喜式」に、能登国の調として記されている。「延喜式」の同じ能登の調には後述されるコノワタやクチコも載り、非常に古い時代からナマコの各種加工が行われていたことを示している。大島廣先生の「ナマコとウニ」には、明治二九(一八九六)年の調査になる農商務省報告に、各地方に於けるイリコの製法がいちいち詳述されており、それらを綜合した標準製法が示されているとする(以下同書からの孫引だが、カタカナを平仮名に直し、〔 〕で読み・意味を加え、適宜濁点を補った)。

   《引用開始》

「捕獲の海鼠は盤中に投じ、之に潮水を湛〔たた〕へ、而して脱腸器を使用して糞穴より沙腸を抜出し、能く腹中を掃除すべし。是に於て、一度潮水にて洗滌し、而して大釜に海水を沸騰せしめ、海鼠の大小を区別し、各其大小に応じて煮熟の度を定め、大は一時間、小は五十分時間位とす。其間釜中に浮む泡沫を抄〔すく〕ひ取るべし。然らざれば海鼠の身に附着し色沢を損するなり。既に時間の適度に至れば之を簀上〔さくじやう:すのこの上〕に取出し、冷定〔れいてい?:完全に冷えること〕を竢〔まつ=待〕て簀箱〔すばこ〕の中に排列し、火力を以て之を燻乾〔くんかん:いぶして干すこと〕すべし。尤〔もつとも〕晴天の日は簀箱の儘交々〔かはるがはる〕空気に曝し、其湿気を発散せしむべし。而して凡〔およそ〕一週間を経て叺〔かます〕等に収め、密封放置し、五六日許りを経て再び之を取出し、簀箱等に排列して曝乾〔ばつかん〕するときは充分に乾燥することを得べし。抑〔そもそ〕も実質緻密のものを乾燥するには一度密封して空気の侵入を防遏〔ばうあつ:防ぎとどめること〕するときは、中心の湿気外皮に滲出〔しんしゆつ:にじみ出ること〕し、物体の内外自から其乾湿を平均するものなり。殊に海鼠の如き実質の緻密なるものは、中心の湿気発散極めて遅緩なれば、一度密蔵して其乾湿を平均せしめ、而して空気に晒し、湿気を発散せしむるを良とす。已に七八分乾燥せし頃を窺ひ、清水一斗蓬葉〔よもぎば〕三五匁の割合を以て製したる其蓬汁にて再び煮ること凡そ三十分間許にして之を乾すべし」

   《引用終了》

まことに孫引ならぬ孫の手のように勘所を押さえた記述である。なお、最後の「蓬汁」で煮るのは、大島先生によると『ヨモギ汁の鞣酸(たんにん)と鉄鍋とが作用して黒色の鞣酸鉄(たんにんてつ)を生じ、着色の役割をするものである』と後述されている。

・「海參」寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「海鼠(とらご)」に、

   *

「五雜組」に云ふ、『海參は、遼東の海濱に之有り。一名、海男子。其の狀、男子の勢(へのこ)のごとし。其の性、温補、人參に敵するに足り、故に海參と曰ふ。』と。

   *

あるように、陽物や朝鮮人参のよう形状、しかも朝鮮人参同様に「功、補益を擅にす」であることから「故に之、名づくるか」と推定しているのである。因みに「補益」とは不足を補い、益を与えることで、漢方の効能の常套表現。

・『李東垣「食物」』李東垣(一一八〇年~一二五一年)は金・元医学の四大家の一人とされる医師。名は杲(こう)、字(あざな)は明之(めいし)、東垣は号。河北省正定県真定の生で幼時から医薬を好み、張元素に師事、その業をすべて得たという。富家であったので医を職業とはせず、世人は危急の際以外は診てもらえなかったが「神医」と称されたという。病因は外邪によるもの以外に精神的な刺激・飲食の不摂生・生活の不規則・寒暖の不適などによる素因が内傷を引き起こすとして「内傷説」を唱えた。脾と胃を重視し、「脾胃を内傷すると百病が生じる」との「脾胃論」を主張、治療には脾胃を温補する方法を用いたので「温補(補土)派」とよばれた。朱震亨(しゅしんこう)とあわせて李朱医学と称された(小学館「日本大百科全書」に拠る))の「食物本草」。これは、明代の汪穎の類題の書と区別するために「李東垣食物本草」とも呼ぶ。

・「本朝式」「延喜式」のこと。

・「自ら出でて」島田氏は『自出(にじみで)て』と訳されている。謂い得て妙の訳である。

・「串海鼠」以下、私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「海鼠(とらご)」の「串海鼠」の注を再掲しておく。「串海鼠」について前掲書大島廣「ナマコとウニ」に以下のように記す。

   《引用開始》

 串(くし)に貫いて梯子(はしご)のような形にしたものは、筆者も沖繩本島ののハネジイリコで初めて見たのだが(第二十五図[やぶちゃん注:大島先生の著作権は継続中なので省略])、古くは広く行われた方法らしく、いろいろな書物にこれを見ることができる。[やぶちゃん注:以下は底本では全体が一字下げ。]

 「串に刺し、柿の如くして乾したるを串海鼠と云ふ」(伊勢貞丈)

 「毎十箇懸張二小柱而如梯之形者名串海鼠」(『倭漢三才図会』)

 「凡(およそ)串(くし)に貫(つらぬ)くものはクシコ、藤に貫くものはカラコと云ふ」(武井周作)

 「海上人復有以牛革譌作之ノ語アリ。此即八重山串子(ヤエヤマクシコ)ト俗称スルモノニシテ、味甚薄劣下品ノモノナリ」(栗本瑞見)

 この最後の記事は贋物(にせもの)の追加である。[やぶちゃん注:以下略。]

   《引用終了》

最後のものは、私が「海鼠 附録 雨虎(海鹿) 栗本丹洲 (「栗氏千蟲譜」卷八より)」で電子テクスト化した中に現われるもの。そちらも是非、御参照の程! さても贋物と言えば、良安の「食物本草」の引用にはナマコの偽物として「驢馬の陰莖」によるものがあると記している。驢馬一頭を犠牲にしてまで……それは、何か、ひどく哀しい海鼠の歴史ではないか。

・「六、七寸」十五~二十一センチメートル。

・「古へより之を用ゐる者、久し」これを島田氏は『昔からこの方法を用いて久しい』と訳しておられるが、私は「之」は熬海鼠の製法を指すのではなく、熬海鼠という調整品を指すものと解釈する。そう読んでこそ、それを受けて以下の「延喜式」からの引用がごく自然に読めるからである。

・「神祇部」律令制で祭祀を司る神祇官に関わる記載部。

・「二斤」一・二キログラム。

・「主計部」「主計」は訓ずると「かずえ」。主計寮(しゅけいりょう)は律令制に於いて民部省に属した主に税収(特に「調」)を把握・監査した機関。具体的には租税の量を計算して規定量に達しているかを監査した。訓は「かずえのつかさ」(以上はウィキの「主計寮」に拠る)。なお、島田氏の注ではここに熬海鼠貢納についての驚くべき膨大なデータ引用がある。

・「今、亦、上下、之を賞美す」島田氏はここに近世の熬海鼠の調理法を引用されておられる。

・「三焦」先の「上焦」を参照。

・「火熱」先の「積熱」を参照。

・「勞怯虛損」虚損労傷。労怯・労損ともいう。五臓の機能低下による種々の疾病を指す。先天的なものや後天的なもの或いは各種の虚弱や症候などは全て「虚労」の範疇に入るとされ、機能が衰えて体力のないのが「虚」といい、「虚」から戻ることが出来ない状態を「損」とし、「損」が長期間続くものを「労」という。虚・損・労は疾病の発展状況を表わす言葉である(漢方検索サイトの古いキャッシュより)。「怯」も漢方では甚大な不足を意味する。

・「肺虛」呼吸器系全般の機能低下によって生ずる症状全般を指す。

・「欬嗽」咳。

・「李杲」前掲の李東垣の名。

・「疳」疳の虫によって起こるとされた小児の神経症疾患。夜泣きやひきつけなどの発作を起こす。

・「海鼠膓」ナマコの腸(はらわた)の塩辛(以下、「攪勻」までの注の多は、私の『博物学古記録翻刻訳注 ■11 「尾張名所図会 附録巻四」に現われたる海鼠腸(このわた)の記載』で施した注を概ね再掲したが、「尾張名所図会」は必ずしも本書に忠実に引用していない(例えば別名の「俵子」などは省略されている)ので読みや注に微妙な違いがあるので注意されたい)。寒中に製したもの及び腸の長いものが良品とされる。尾張徳川家が師崎(もろざき:現在の愛知県知多郡南知多町師崎。知多半島の西先端に位置する港町。)の「このわた」を徳川将軍家に献上したことで知られ、雲丹・唐墨(からすみ:ボラの卵巣の塩漬。)と並んで、日本三大珍味の一つとされる。ウィキの「このわた」によれば、『古くから伊勢湾、三河湾が産地として知られてきたが、今日では、瀬戸内海や能登半島など各地で作られている』。製法は生きた海鼠から『腸を抜き取り、これを海水でよく洗い、内部にある泥砂をとりのぞき、ざるにあげて水気をきる』。腸一升に塩二合乃至三合を加えて掻き混ぜた後に水分をきり、一昼夜、桶や壺などに貯蔵する』。一般にナマコ百貫(三百七十五キログラム)から腸八升(十四・四リットル)が、腸一升(一・八リットル)からは「このわた」七合(百五十グラム/百八十ミリリットル)が出来るといわれる(因みに私の愛読書である大島廣先生の「ナマコとウニ」(昭和三七(一九六二)年内田老鶴圃刊)には熟成後に水分を去ると製品の歩留(ぶどま)りは更に七割ぐらいに減るとある)。『ふつうは塩蔵されたものが市販されるが、生(なま)ですすっても、三杯酢に漬けても美味である』。私は殊の外、海鼠が好きで、しばしば活き海鼠を買求めて捌くのであるが、たまに立ち割ってみると、内臓の全くない個体がある。これは悪徳水産業者によるもので、再生力の強い海鼠から肛門を傷つけないように巧妙に内臓を抜き出したものである。教員時代にしばしば脱線で詳述し、以前にもブログで述べたが、ナマコは外敵に襲われると、防御法の一つとして、自身の内臓を吐き出す(これを餌として与える意味の外に、ナマコは多かれ少なかれ魚類にとって有毒な成分サポニン(石鹸様物質)を含み、捕食者の忌避物質でもある)。これを内臓吐出・吐臓現象等と言うが、これを逆手に利用して「このわた」を本体から抜き出し、内臓を抜いた本体と加工品としての「このわた」を別に製して売る輩が跡を絶たないのである(なお、ナマコの腸管の再生は二~三週間で、内臓全体の完全再生にはその倍はかかるという)。大き過ぎるナマコは堅くて売れないため、この脱腸を何度も繰り返してコノワタ用の腸管を採取すると、かつての大阪府立水産試験場の公式ページには平然と書かれてあった(今は何故か消失しているようだ)。何とも海鼠が哀れでならぬ。因みに、内臓だけではなく、同じ棘皮動物のヒトデ同様にナマコは二つに切断されればそれぞれの断片が一匹に再生する。南洋のナマコ食をする人々は古くからそれを知っていて、半分を海に返す。それは海の恵みへの敬虔にして美しい行為であったのだ。喰らい尽くし、おぞましい放射線によって汚染し尽くす我々文明人こそが実は野蛮で下劣なのである。

・「俵子」前掲書大島廣「ナマコとウニ」にこの「タワラゴ」という呼称についての複数の語源説について以下のように記す。

   《引用開始》

 「海鼠(ナマコ)の乾したるなり(中略)其の形少し丸く少し細長く米俵(こめだわら)の形の如くなる故タワラゴと名付けて正月の祝物に用ふる事、庖丁家の古書にあり。米俵は人の食を納る物にて、メデタキ物故タワラコと云ふ名を取りて祝に用ふるなり」(伊勢貞丈)。

 「俵子(たわらこ)は沙噀の乾たるなり。正月祝物に用る事目次のことを記ししものにも唯その形米俵に似たるもの故俵子と呼て用るよしいへり。俵の形したらんものはいくらもあるべきにこれを用るは農家より起りし事とみゆ。庖丁家の書に米俵は食物を納るものにてめでたきもの故たわらごと云ふ名を取て祝ひ用ゆるなり」(喜多村信節『嬉遊笑覧』一八五六)。

 「俵子は虎子の転じたるにて、ただ生海鼠の義なるべし」(蔀関月)。

   《引用終了》

因みに、文中の『沙噀』は「さそん」と読み、海鼠の別称である。

・「膓醬」魚腸醤。魚腸を発酵させた食品。魚の内臓を原料とする塩辛には、主に鰹の内臓を原料とする酒盗などが知られ、魚醤(ぎょしょう)、所謂、魚醤油(うおじょうゆ)・塩魚汁(しょっつる)などにも、大型魚類の内臓を主に用いて製するものがあり、広義にはそれも含まれる。

・「黄膓」「きのわた」或いは「こうちやう(こうちょう)」と音読みしているのかも知れない。先に示した寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「海鼠(とらご)」では、

   *

海鼠腸(このわた)は、腹中に黄なる腸三條有り。之を腌(しほもの)[やぶちゃん注:塩漬け。]とし、醬(ひしほ)と爲る者なり。香美、言ふべからず。冬春、珍肴と爲す。色、琥珀のごとくなる者を上品と爲す。黄なる中に、黑・白、相ひ交ぢる者を下品と爲す。正月を過ぐれば、則ち味、變じて、甚だ鹹(しほから)く、食ふに堪へず。其の腸の中、赤黄色くして糊(のり)のごとき者有りて、海鼠子(このこ)と名づく。亦、佳なり。

   *

とあり、栗本丹洲「栗氏千蟲譜」巻八の「海鼠」の「海鼠」の解説には(これも私の電子テクスト。画像豊富)、

   *

此のもの、靑・黑・黄・赤の數色あり。「こ」と単称する事、「葱」を「き」と単名するに同じ。熬り乾する者を、「いりこ」と呼び、串乾(くしほ)すものを「くしこ」と呼ぶ。「倭名抄」に、『海鼠、和名古、崔禹錫「食鏡」に云ふ、蛭に似、大なる者なり。』と見えたり。然れば、『こ』と称するは古き事にして、今に至るまで海鼠の黄腸を醤として、上好の酒媒に充て、東都へ貢献あり。これを『このわた』と云ふも理(ことわり)ありと思へり。

   *

とあり、孰れも「このわた」を「黄(き)の腸(わた)」の転訛とは捉えていない。

・「滌去」洗い去ること。

・「攪勻」ここでは原典を視認するに「カクキン」と音読みしているとしか思われないので、「尾張名所図会」での「攪(か)き勻(なら)して」という訓読とは差別化させた。これは明らかに底本は漢文脈で音読みしているものが多いものと思われること(既に述べたが、それでもつまらぬ語注を減らすためにわざと確信犯で訓読みした箇所がある)、「尾張名所図会」が有意に前後の仮名文脈表現に影響されて見えることを勘案したものである。

・「一種、腸中に、色、赤黄、糊のごとき者有り、號して鼠子(このこ)と曰ふ。珍と爲さず」これは「海鼠子(このこ)」「撥子(ばちこ)」とも呼ばれる、私垂涎のナマコの卵巣「口子(くちこ)」である。ウィキの「くちこ」によれば、海鼠は厳冬期の一月から三月になると産卵期を迎えて『発達肥大した卵巣を持つようになり、それが口先にあることから「くちこ」と呼ばれている。主な産地は能登半島周辺。一般的に平たく干したものが能登の高級珍味として親しまれているまとめた卵巣を、横に渡した糸にまたぐように吊るして干すが、このとき水滴が早く落ちるように先端を指でまとめるため、仕上がりは平たい三角形状となる。干した姿が三味線のばちに似ていることから、ばちことも呼ばれている。開いた卵巣を何枚も連ねて一枚に干し上げるが、一枚作るのに十数キロのナマコが必要であるため、大変高価なものとなる。そのまま食べるか、炙ってから、お吸い物・熱燗に入れても良い』。『生のものは、塩漬けされた塩辛として出回ることが多いが、取り出して瓶などに詰めただけの「生」のものもあ』り、『酒の肴として好適である』とする。「海鼠子」について、前掲書大島廣「ナマコとウニ」には次のように記す。

   《引用開始》

 紐(ひも)状の生殖線[やぶちゃん注:「腺」の誤字。]を海鼠鮞(このこ)という。これを乾したものを俗にくちこ[やぶちゃん注:「くちこ」に「丶」の傍点。]と名づけ、能登、丹波、三河、尾張の四地方産のものが知られており、ことに能登鳳至郡穴水湾産のくちこは古い歴史をもっている。毎年一二月下旬から翌年一月までの間にナマコを採取してその生殖腺を取り、塩水でよく洗い、之を細い磨き藁(わら)に掛けて乾かすか、又は簀(すのこ)の上に並べて乾す。雅味に富んだ佳肴(かこう)である。

   《引用終了》

口子(クチコ)・干口子(ヒグチコ)は、その製品が三味線の撥(バチ)に似ているのでバチコとも言う。コノワタ以上に珍味とされ、まさに撥大のぺらぺら一枚が軽く五千円を越える。八年前、私は遂に名古屋の料理屋でこれを食したが――掛け値なし――自慢なし――誇張なし――で大枚払って食してみる価値は――確かに――ある珍味である。しかし乍ら……島田氏の注にも「日本山海名産図会」を引き、『一種蝶の中に色赤黄にてのりのごときものあり。号(なづ)けて海鼠子(このこ)といふ。味よからず』と駄目押しがあって、この時代は製したものの好まれなかったとは……ちょっと意外だ……あの血のような色のせいかしらん?……

・「一石」当時の単位で米換算なら約百五十キログラム。俵にして二俵半。

・「十五斤」六百グラム。

・「附方」症例に応じた個別な具体的症状とそれへの処方例及び古い処方例佚文などを纏めたものと私は理解している。

・「保童圓」本邦のオリジナルな漢方の薬方の名である。青森市公式サイトの「あおもり歴史トリビア第五十五号二〇一三年四月二十六日配信「浪岡の桜の名所」の中に、室町時代のこの浪岡城(青森県青森市浪岡(旧南津軽郡浪岡町))の城主であった浪岡北畠氏が公家山科言継(やましなときつぐ 永正四(一五〇七)年~天正七(一五七九)年)のもとに使者を派遣し、朝廷から位を受ける許可を得ようと、さまざまな根回しをしていたことが山科の「言継卿記(ときつぐきょうき)」に残っているとある記事の中に、賄賂として送ったもの中になんと『煎海鼠(いりこ、干しナマコ)』があり、また、逆に『昆布や煎海鼠をたびたび送ってきている浪岡北畠氏の使いの者、彦左衛門に保童円(ほどうえん)三包と五霊膏(ごれいこう)三貝を遣したともあります。保童円の「円」は練り薬のことですから旅の疲れを癒すために服用するように、また五霊膏の「膏」は膏薬のことですから、疲労した脚にでも塗るように遣わしたのかもしれません。言継の旅人をいたわる心遣いがうかがわれ、身近な人のように感じてしまいます』とたまたま書かれてあったので、特に引いておきたく思う。但し、京都府京都市下京区中堂寺櫛笥町にある「寶蓮寺」の公式サイトの「歴史」の記載には、『京都寶蓮寺の十八代目までは、萬里の小路(までのこうじ)(現在の柳馬場三条下ル)に所在した境内地に住んでいた。この萬里の小路の境内には、前田という医者が住んでいて(現在の前田町の町名の起源となる)、保童円(ほどうえん)という丸薬を売り有名であったとも記録に残されている』とあって、ここでは丸薬である(以上の下線部はやぶちゃん)。 

 

□やぶちゃん現代語訳(さらに読み易くするために、パートごとに行間を空け、適宜、改行も施した。)

海鼠〔「奈麻古(なまこ)」と訓ずる。〕

釋名 土肉〔郭璞の「江賦」に、『土肉。』とある。「石華」の「文選註」に謂う、『「土肉」は正黒色をなし、小児の肘ほどの大きさのを示す生き物で、長さ五寸、体内に腸(はらわた)があるけれども、口や目はない。三十の管のような足を持っている。この見た目を以って、世人は「海の鼠」に似ているということから、「海鼠」を別名としている。』とある。〕。

集觧 近海海中の各所にこの生物は棲息する。東日本に最も多い。尾張の和田・三河の柵(さく)の島(しま)・相模の三浦・武蔵の金澤本木(ほんもく)が、その知られた主な産地である。西日本に於いてもまた、これは多く漁獲される。中でも、小豆島が最も多い。

 その形状は、鼠に似ているが、頭と尾及び手足は、ない。ただ、前と後ろに当たる部分に一つ宛(ずつ)開いているばかりである。長さは五、六寸で、円く肥えている。その色は蒼黒或いは黄や赤を帯びている。背は、ふっくらと丸みを帯びており、腹の部分は平らになっている。背には疣(いぼ)状の突起物が多くあって軟らかである。体の体幹の両脇には、これ管の如き足の、生えたばかりの若い部分であって、これを用いてゆっくりと這い蠢き、想像以上に器用に行ったり来たり動く。腹の皮は青碧(おあみどり)で、やはり小さな疣(いぼ)のような感じの突起物があり、背と同じく軟らかである。

 その肉の味は、ほぼ鮑(あわび)に類(るい)したものであるが、甘くはない。極めて冷潔にして淡美な味わいを持つ。

 腹の内に三条の腸(わた)がある(但し、この腸の色の白いものは味が良くない)。この「腸(わた)」なるものこそ、海産物中の最上の佳品とされるものなのである。

 本朝にて於いては、この海鼠という生物のいるということは知られて久しいものである。

 かの最古の歴史書たる「古事記」に、

『――諸々の魚介水族、降臨し給える神に、

「お仕え奉ります。」

と誓詞を言葉に出して申し上げた中で、かの海鼠だけが、黙ったまま、何も申さなかった。

 そこで、同道なされた天宇受売命(あめのうずめのみこと)が、かの不埒な海鼠に謂い諭しつつ、断じ、

「この口か! 答えぬ口は!」

と言うなり、細き小刀(さすが)を以ってその口を矢庭に拆(さ)いた。

 故に今に於いて、これ海鼠の口は拆(さ)けたままなのである。』

と。

 さてもまた一種、長さ二、三寸とやや短く、しかも腹の内に砂を多く含んでいて、味もこれはまた、やや劣るものがおり、別に一種、長さ七、八寸と大きく、しかもよく肥え太っていて、大きなものもある。

 腹の内にある三条の黄いろい腸(わた)はこれ、琥珀(こはく)の如きものにして、これを塩に漬けて醢(ししびしお)となせば、その味わい、香んばしく美味なること、これ、言いいようもない。本邦のあらゆる塩辛(しおから)の中にあっても第一とするものである。このことは後に詳述する。

 なおまた、これとは別に生の海鼠を煎って乾かした者についてもまた、後述することとなる。

 現在、包丁人が、生きのよい海鼠を用いるに、一つ、灰砂(はいずな)をまぶし、それをそのまま竹籠に入れて、これを篩(ふる)う。或いは一つ、白塩(なまじお)を擦り付けて擂盆(すりぼん)中に入れて、杵を以ってこれをぐるぐると潰さぬように擂り扱(こ)ぐと、これら孰れも、そのまましばらく時の経てば、不思議に等しく同じように、煮凝りのように固まって堅くなる。その口に含んだ時の味わいたるや、如何にもこれ、さわやかにしてしなやか、はなはだ美味で、これを特に呼ぶに、「振鼠(ふりこ)」と称している。

海鼠の肉

氣味 鹹寒(かんかん)。毒はない。〔稲藁・稲の糠(ぬか)・灰砂(はいずな)及び塩を畏(おそ)れる。また、河豚(ふぐ)の毒を制する。〕。

主治 腎を健やかにし、熱を持った血を穏やかに下げ、髪を黒々とさせ、骨を堅固にし、下焦(げしょう)の客熱を収め、上焦(じょうしょう)の鬱積した熱を速やかに去る。多く食べると、直ちに腸・胃が急速に冷濕(れいしつ)の性に向かうため、排泄に於いては洩らし易くなるので、熱を伴う痢病(りびょう)を患っている者の場合は、くれぐれも適量たる少量を食すよう、心掛ける必要がある。なお、これとは全く別な附方として、頭部に出来た白癬(しらくも)及び、やや進行した凍傷を療治することが出来る。

熬海鼠(いりこ)〔或いは「熬」は「煎」に作る。俱に「伊利古(いりこ)」と訓ずる。〕

釋名 海参(かいさん)〔李東垣(りとうえん)の「食物本草」に謂う、『その功、あざやかにすばらしく補益を恣(ほしいまま)にする。』と。さればこそ、「海の人参」と名づけたのであろうか? 世人は、まま、この「海参」を以って海鼠を称する者を見かける。古えの「延喜式」にもすでに『熬海鼠』と称して載っている。〕。

集觧 これを造るには特殊な方法がある。

 生の新鮮な大海鼠を用いて、沙や腸を取り去った後(のち)、数百枚を空鍋(からなべ)に入れて、強火を以ってこれを煎る。すると、即座に塩辛い汁が海鼠の体から自ずと出でて、黒く焦げる。十分に水分が出て乾き、硬くなったそれを取り出だし、冷めるのを待って、二本の小柱に懸け列ねる。一柱につき、必ず十枚を列ねるのが決まりで、これを称して「串海鼠(くしこ)」と号している(これは「久志古(くしこ)」と訓ずる)。特に大きなものの場合は、藤蔓(ふじづる)に懸ける。

 今、東日本の海浜及び越後の産は、このようにして製する。或いは西日本は小豆島の産は、この最も大なるものにして、味もまた良い。また、薩摩・筑紫・豊前・豊後より出ずるものはこれ、極めて小さい。しかし乍ら、これを煮る時には、則ち、大きく膨らむ。但し、この「熬(い)り」として製するところの海鼠は、六、七寸を過ぐる大きなものを以ってするのが上製となるであって、そうした小さなものは結局は佳品にはならない。

 大抵、乾して曝(さら)すに串に刺し、或いは藤蔓にて挟み止め、しかしてこれを食材として用いる。

 まず、水にて煮(に)、やや久しく煮込むと、則ち、いよいよ肥大して軟かくなるのである。味もまた、甘美である。

 或いはまた、稲藁や米糠の類と合わせて煮熟(しゃじゅく)〔充分に煮詰めること。〕しても、これも軟らかいものになる。

 或いは土及び砂に埋ずめること一夜にして、翌日には掘り出して洗浄して煮熟してもまた、よろしい。

 古えより永くこれを食材として用いる者のあることは久しい。「延喜式神祇(じんぎ)部」にも『熬海鼠(いりこ)二斤(きん)。』と載り、「延喜式主計部」にも『志摩・若狭・能登・隠岐・筑前・肥前・肥後、これを貢(こう)する。』とある。今また、貴賤に拘わらず、これを賞味している。

氣味 鹹(かん)・微甘(びかん)にして平(へい)。毒はない。

主治 気血をよく補い、五臓六腑を活性化させ、三焦(さんしょう)の邪火(じゃか)・客熱(きゃくねつ)を去る。鴨の肉と同じく、十分に烹込んでこれを食すれば、あらゆる虚弱虚損に基づく諸疾患を快方へ向かわせる。猪の肉と同じく、煮て食すれば、弱った肺や咳を治癒する〔これは李杲(りこう)の「食物本草」に拠る。〕。また、腹の中の悪しき虫を殺し去り、然して小児の疳の虫をも快癒させる。

 

海鼠腸(このわた)〔「古乃和多(このわた)」と訓ずる。〕

集觧 或いは「俵子(たわらこ)」とも称する。この腸醤(ちょうしょう)を造る方法は以下の通りである。

 まず新鮮な海鼠の腸(わた)を取って、潮水(しおみず)の至って清浄なるものを用いて洗浄すること、数十次、砂及び汚れた汁(しる)をきれいに洗い流し去ってから、白塩(なまじお)に和して攪拌しつつ、塩とよく合わせて平らにならした上、これを保存する。

 至って黄色い光りを帯びて琥珀の如きものを以って上品とする。黄色の中に黒や白の部分が相い交じっているようなものはこれ、以って下品とする。

 しかし、今、この三色の相い交じっているものを以ってこれを日の光に当てつつ、箆(へら)や箸を用いて、存分に攪拌し続けると、則ち、ことごとく黒白の部分の変じて、全く黄色となる。

 或いはまた、腸(わた)一升に対して鶏卵の黄身一箇を投入し、やはり箆や箸を用いて、これを均一になるまで攪拌してもまた、ことごとく黄色となる。これは味もまた、他の色の交っていた時に比すれば、やや美味となる。

 一種に、腸中に色の強い赤みを帯びた黄色の、糊のようなものがある場合があるが、これは呼んで「鼠子(このこ)」と言う。但し、これは海鼠腸(このわた)の中では珍味とはしない。

 およそ海鼠に就いては、古えは能登の国が海鼠腸一石を貢(こう)した。「延喜式主計部」にも『腸十五斤』と載る。しかし今は能登の国はこれを貢していない。

 尾張・三河から産するものを以って上品とし、武蔵国の本牧(ほんもく)のものが、これに次ぐ。諸国に於いて海鼠(なまこ)を漁(と)るところは多いけれども、膓醤(ちょうしょう)を名産として貢納して来た地域は少ない。これは、かの黄色の腸(わた)を好む者が、全くもって稀(まれ)であったことに起因する。

 近頃の頃の話、三河国の柵島(さくしま)に一人の異僧がいた。戒を守ること、これ、はなはだ厳格なれども、海鼠の腸醤を調和し成すことに於いては異様な才能を持っており、その技(わざ)たるや、これ、最も奇々妙々なるものであった。その精製行程は以下の通りである。

 浦人が海鼠の腸(わた)を取り出して洗い清めた上、小さな壺に入れて僧の前に差し出す。

 僧はこれを点検し、その腸の多少を仔細に観察した上、それに見合った自身の決めたところの分量の白塩(なまじお)を、これ、素早く腸(わた)に擦(す)りなしつつ、腸の中へ投入する。

 その後、浦人は複数個のそれらを木箆(きべら)を用い、攪拌して、塩分を均等にした上、平らにならし、これを大きな壺に収めるおく。

 かくして二、三日を経て、これを舐めれば、その味わい、これ、曰く言い難きほどに美味なのである。

 現在、貢献品として上納するものは、まさにこうして製したものである。故に「このわた」は、本来は三河の産を以って上品とするのである。但し、後にこの僧、故あって後に尾張に移り住み、そこでもまた、海鼠の腸醤を拵えたによって、尾張の産のそれを以って、第一等の「このわた」としているのである。巷にあって、この味を知る者は皆、奇々妙々の味わいであるとしきりに称している。

附方 凍傷が進行して腫れた部分が破れかけている症状〔新鮮な海鼠を煎って、そこで出来た濃い煮汁を用いて、それを以って何度も何度も頻繁にその患部を洗浄する。或いは熱湯を用いてそれに腸醤を和し、掻き均して何度もこれを以って洗うのもまた、良い。〕。頭部に生じた白癬(しらくも)〔生(なま)の海鼠の腹を割(さ)き、腸(わた)を抜き去って、それをそのまま強く患部に押し張って、ちょうど厚紙のようにして患部の頭の上に貼り付けておけば、則ち、快癒する。〕。冷たい湿気に基づく虫痛(ちゅうつう)〔また、それ及び小児の疳の虫に由来するところの痛みや訴えと下痢の症状に対しては、これを常食して効果がある。また、熬海鼠(いりこ)を用いて、知られる処方の保童円(ほどうえん)の中に合わせ入れてそれを用いたならば、伝え聴くところでは、よく疳の虫を殺す効果があるとする。〕。 

 

◆華和異同

□原文

  海鼠

崔禹錫食經曰海鼠似蛭而大者也李東垣食物本

草曰海生參東海海中其形如蠶色黒身多瘣※一

[やぶちゃん字注:「※」=「疒」の中に「畾」。]

種長五六寸表裏俱潔味極鮮美功擅補益殽品中

之最珍者也一種長二三寸者割開腹内多沙雖刮

剔難盡味亦差短今北人又有以驢皮及驢馬之陰

莖贋爲狀味雖略同形帯微扁者是也謝肇制五雜

俎曰海參遼東海濱有之一名海男子其状如男子

勢然淡菜之對也其性温補足敵人參故曰海參按

俱是爲今之海鼠者無疑東垣初言五六寸者今之

生海鼠乎後言二三寸者今武相江上多者乎東垣

能知二者有別謝氏亦能知其佳然不言其腸者爲

恨耳近有以土肉爲海鼠者此亦相似御覧臨海水

土物志曰土肉正黒如小児臂大長五寸中有腹無

口自有三十足如釵股大中食是郭璞江賦所言者

乎南産志有沙蠶土鑽是亦此類耶

□やぶちゃんの書き下し文

  海鼠

崔禹錫が「食經」に曰く、『海鼠、蛭に似て大なる者なり。李東垣が「食物本草」に曰く、海參は東海海中に生ず。其の形、蠶(かいこ)のごとし。色、黒く、身に瘣※(いぼ)多し[やぶちゃん字注:「※」=「疒」の中に「畾」。]。一種、長さ五、六寸、表裏俱に潔く、味はひ、極めて鮮美なり。功、補益を擅(ほしひまま)にす。殽品(かうひん)中の最も珍なる者なり。一種、長さ二、三寸の者は、割り開きて、腹内、沙、多くして、刮剔(くわつえき)すと雖も、盡き難く、味も亦、差(やゝ)短し。今、北人、又、驢(ろば)の皮及び驢馬の陰莖を以つて贋して狀(かたち)を爲すこと有り。味はひ、略(ほゞ)同じと雖も、形、微(いささ)か扁(へん)を帯ぶる者、是れなり。』と。謝肇制(しやてうせい)が「五雜俎」に曰く、『海參は遼東海濱に之れ有り、一名、海男子、其の状(かたち)、男子の勢のごとし。然も、淡菜の對(つゐ)なり。其の性、温補、人參に敵するに足れり。故に海參と曰ふ。』と。按ずるに、俱に是れ、今の海鼠と爲る者、疑ひ無し。東垣、初めに言ふ、五、六寸なる者は、今の生海鼠か。後に言ふ、二、三寸なる者は、今、武相江上に多き者なるか。東垣、能く二つの者の別有ることを知る。謝氏も亦、能く其の佳なることを知る。然れども其の腸(わた)を言はざる者(こと)を恨みと爲すのみ。近ごろ、土肉を以つて海鼠と爲る者、有り。此れも亦、相ひ似たり。「御覧」に、『「臨海水土物志」に曰く、土肉は正黒、小児の臂(ひぢ)の大いさのごとし。長さ五寸、中に腹、有り。口、無し。自(おのづか)ら三十足有りて、釵股(さこ)の大いさのごとく、食に中(あ)つ。』と。是れ、郭璞が「江賦」に言ふ所の者か。「南産志」に沙蠶(ささん)・土鑽(どさん)有り。是れも亦、此の類か。

□やぶちゃん注

・『崔禹錫が「食經」』唐の本草学者崔禹錫撰になる食物本草書「崔禹錫食経」。現在は散佚。後代の引用から、時節の食の禁忌・食い合わせ・飲用水の選び方等を記した総論部と、一品ごとに味覚・毒の有無・主治や効能を記した各論部から構成されていたと推測されている。順の「倭名類聚鈔」に多く引用されている。

・「刮剔」掻き抉り取ること。

・『謝肇制が「五雜俎」』謝肇淛「五雜組」が正しく、「せい」は「せつ」とも読む。明末の文人官人であった謝肇淛(一五六七年~一六二四年)の随筆集。全十六巻。天・地・人・物・事の五部に分けて古今の文献や実地見聞などに基づいた豊富な話題を、柔軟な批評眼で取り上げている。特に民俗に関するものには興味深いデータが多く、本邦でも江戸時代に広く愛読されて一種の百科全書的なものとして利用された。謝は有能な行政官でもあり、多才な詩人でもあった。「五雑組」とは五色の糸で撚(よ)った巧みな美しい組み紐の意である(以上は主に平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

・「勢」陰茎。

・「淡菜」斧足綱翼形亜綱イガイ目イガイ科イガイ Mytilus coruscus 。女性の会陰に酷似していることで知られる。古来、海鼠を東海男子と別称したのに対し、胎貝(いがい)は東海夫人と呼称された。私の『毛利梅園「梅園介譜」 東海夫人(イガイ)』『武蔵石寿「目八譜」の「東開婦人ホヤ粘着ノモノ」』の図を参照されたい。

・「東垣、初めに言ふ、五、六寸なる者は、今の生海鼠か。後に言ふ、二、三寸なる者は、今、武相江上に多き者なるか」人見は海鼠をその大きさで別種と判断していることが見てとれる。無論、これらはマナマコ Apostichopus armata 或いはアカナマコ Apostichopus japonicas であって別種ではない。

・「御覧」「太平御覧」宋の類書(百科事典)。李昉(りぼう)ら十三名の手に成り、全千巻に及ぶ。太祖の勅命により六年を費やして太平興国八(九八三)年に成った宋代の代表的類書である。内容は天・時序・地・皇王に始まる五十五部門に分類され、各部門がさらに小項目に分けられて各項目に関連する事項が古典から抜粋収録されている。

・「臨海水土物志」「臨海水土異物志」。三国時代の呉の武将沈瑩(しんえい ?~二八〇年)の書いた浙江臨海郡の地誌。世界最古の台湾(原典では「夷州」)の歴史・社会・住民状況を記載するという(但し、この比定には異議を示す見解もあるようである)。

・「釵股」刺股/指叉(さすまた)。U字形の鉄金具に二~三メートルの柄をつけた金具で相手の喉・腕などを塀や地面に押しつけて捕らえる警棒。先端金具の両端及びその下部の柄の付根附近には棘(返し)が出ており、それらが黒色で、そうした先頭部が如何にも海鼠然としている。U字部分は或いは口辺部の触手をイメージして似ていると言っているもので、ここは柄を外した先端の金具部分をのみ想起すべきところである。

・「南産志」「閩書(びんしょ)南山志」の誤りか。南北朝時代の南朝の宋の官僚で文人の沈懐遠(しんかいえん)が広州に流罪となった際の見聞になる現在のベトナム北部の地誌である「南越志」と並ぶ彼の著作と思われる。 

 

□やぶちゃん現代語訳

  海鼠

崔禹錫(さいうしゃく)の「食経(しょうけい)」に曰く、『海鼠は蛭(ひる)に似て大きなものである。李東垣(りとうえん)の「食物本草」に曰く、海参は東海の海中に棲息する。その形は、蠶(かいこ)のようである。色は黒く、体中に疣(イボ)が多くある。一種に、長さが五、六寸で、表裏ともに砂泥等を附着しない至って清澄なものがおり、その味わいは、極めてすっきりとして美味い。その効用としては、自由自在に補益を促す。酒の肴の中では最も珍味なるものである。一種に、長さ二、三寸の者があるが、これは身を立ち割って開いてみると、腹中に多量の砂を含んでいて、どんなにそぎ落とし、抉り出してみても、身のあらゆる部分に砂が入り込んでいて取り尽くすことが難しく、味もまた、やや劣る。現在、内陸の北方の人々はまた、驢馬の皮及び驢馬の陰茎を用いて贋物(にせもの)を作り、干した海鼠そっくりの形状に真似ることがある。味わいはほぼ同じであっても、形がいささか偏平に見える干し海鼠は、この贋物である。』と。謝肇制(しゃちょうせい)の「五雑俎」に曰く、『海参は遼東地方の海浜に棲息しており、一名、海男子と称し、その形状はまさに男性の陰茎にそっくりである。まさに女性の会陰と酷似する淡菜と一対をなすものである。その性質は温補で、漢方に於ける妙薬たる朝鮮人参に匹敵する効果を十分に保持している。ゆえに「海参」と称する。』と。按ずるに、「食経」「五雑俎」の記載はともにこれ、現在の海鼠とするものと考えて間違いない。「食物本草」の最初の部分で東垣が言っている五、六寸のものというのは現在の一般的な海鼠であろうか? また、その直後に記すところの二、三寸なるものという有意に小さなものは、現在、武州や相州の入り江に多く産する別種の海鼠を指すものであろうか? 東垣は、よく、この酷似した二つの種が別種であるということを認識している。謝氏もまたよく、海鼠の美味であることを認識している。しかれども、彼ら二人が、文字通り肝心の、その珍味なるところの腸(はらわた)について、一切言及していない点、これ、甚だ遺憾と言わざるを得ない。なお、近頃、「土肉」を以って「海鼠」であると記すことがある。これもまた、相い似たものである。「太平御覧」に、『「臨海水土物志」に曰く、土肉は真っ黒で、小児の臂(ひじ)ぐらいの太さを呈するものである。長さは五寸、体内に腹部が存在する。しかし口はない。体部から生えた三十本の足があって、まさに刺股(さすまた)の先端の金具ほどの大きさであって、食用に当てる。』と、ある。これはかの郭璞の「江賦」に詠まれたところの海鼠の仲間なのではなかろうか? 「閩書南産志」に「沙蠶(ささん)」・「土鑽(どさん)」という記載がある。これもまた、やはり海鼠の仲間なのではなかろうか?

 

弼馬温夢

僕は大陸の風吹き荒ぶ草原に立っている。――

僕は僕が「弼馬温(ひつばおん)」なのだと知っている――

[やぶちゃん注:「弼馬温」は「西遊記」で孫悟空が天界に於いて始めに玉帝から任ぜられた馬飼役としての名である。]
何頭もの馬を操っては野に放つのである――

最後に――風上から鬣を靡かせて栗毛の馬が一頭やって来る――

その轡(はみ/くつわ)を捉えて落ち着かせようとするのだが、その馬一頭だけはいうことをきかない――

遂には両の前脚を僕の頭上に揚げて棹立ちした――

僕はその瞬間――

「……この子に頭を蹴り潰されるな……」

と覚悟した――

……ところが……そこにどこからともなく大きな白い布が風に乗って飛んで来て……僕の頭に被さるのだった……

……すると……馬は両の蹄鉄を交互に……そのシーツの上から……僕の額に……優しくそっと

――コツ――コツ……

と降ろしたのだった……



今朝、そこで目が醒めたのだが……
醒めると同時に僕は、この夢の象徴的意味が……これ……すっかり分かったような気がしたのであった……

2015/04/18

志賀理斎「耳嚢副言」附やぶちゃん訳注 「追加」 (Ⅳ)

一 「非人の女太夫(をんなたいふ)といへるもの、むかしは衣類に縮緬(ちりめん)其外見事なる衣を着たりしかば、甚だ平人(へいにん)と紛(まぎらは)しく且(かつ)はあるまじき驕奢(きやうしや)の有樣なれば、已來は木綿(もめん)にかぎるべし」と、きびしく絹布類(けんぷるい)を制止し申付(まうしつけ)られしかば、今以(もつて)其(その)令(れい)をかたく守りて木綿のみを用(もちゐ)し事なり。さりながら近比(ちかごろ)は絹に見まがへるやうなるもあれど、みな木綿にて其令を犯すものなし。扨又一とせ北の奉行永田備後守、「とびのものまたいさみなど唱ふ若者共、身體にほりものして、賴光(らいかう)の山入(やまいり)また紅葉狩(ももぢがり)の鬼女其外渡邊の綱(つな)の羅生門(らしやうもん)など、五色の畫具をもて彩色しほりて、いかめしくりきみあるく事甚(はなはだ)見ぐるし。是(これ)その入用金拾兩餘も費(つひ)ゆる、畢竟はそのこれを彫るものあるゆゑなれば、巳來は決して右樣の業(わざ)をなすものあらば訴へよ」と、きびしく申渡(まうしわた)されしかば、その頃は壹人も彫りつかはすものなくなりしにより、我(われ)これを大(おほい)に悦び備後守え申(まうし)けるは、「此程は彫もの御制止のよし。扨々結構なる事にて、ほらせ候ものは身體髮膚(しんたいはつぷ)を花々敷(はなばなしく)する事不孝と申(まうす)事は一向不存(ぞんぜず)。せめて孝經(かうきやう)にても覺えたらばかゝる事をすまじきにて、第一年寄(としより)て子や孫に對して後悔するもの多しとの事なり。扨(さて)死して桶(をけ)に入るとき、ゆかんをするに、佛になられたと人々なみだを流す時分にも、おそろしきほりものしたる死人は、さてさて殊勝らしく見えず。佛にはならで鬼にもなりさうに見るよし。かたがた以(もつて)不孝の罪を救ひ給ふ處なるべし」と申(まうし)ければ、永田氏の申されしは、「今度(このたび)我(われ)申渡(まうしわた)せし條もわれら御役を勤(つとむ)る内は守るべきが、後々は天下の法度(はつと)は三日法度(みつかはつと)といへり、あしき申習(まうしなら)はしなれ共(ども)是非に不及(およばず)。すへすへはまたもとのもくあみとなるべし」とて笑ひながら申されしが、果(はたし)て今頃は盛んにほりものをするものもとの如くに成(なり)ぬ。これかれを思へば、根岸翁の女太夫の令は今によく守ることいみじき事にこそ。

[やぶちゃん注:この一条、鎮衛の捌き話以外に実は、理斎の語る刺青始末滑稽談も眼目の一つであるのでお楽しみあれ。なお、本条では当時の被差別者についての叙述が出るので、批判的視点をも持ってお読みになられるようお願いする。

・「女太夫」現代仮名遣で「おんなだゆう/おんなたゆう」と読む。女の門付け芸人のこと。菅笠を被って各戸を訪ね歩き、三味線や胡弓の弾き語りをして物乞いをした。正月には鳥追い笠をかぶって「鳥追い」(後述)となって、鳥追い唄を歌って家々を回った。また、浄瑠璃・水芸・奇術などの演芸をする女芸人のことをも指す。以下、ウィキの「女太夫」より引く(注記号は省略した。下線やぶちゃん)。『江戸時代において、門付は非人のみが許されていたが、非人であっても小屋頭』(非人は関東では長吏頭(ちょうりがしら)弾左衛門と各地の長吏小頭の支配下にあり、さらに抱非人(かかえひにん)と野非人(のびにん)との別があった。野非人は「無宿」(今日的には路上生活者のような生活形態)で、飢饉などになると一挙にその数が増えた。抱非人は非人小屋頭(ひにんこやがしら)と言われる親方に抱えられて各地の非人小屋に定住していたグループを指す。非人小屋は江戸の各地にあった。その非人小屋頭はこれまた、それぞれ有力な非人頭の支配を受けており、江戸にはそれは四人おり(一時期五人)、この非人頭を弾左衛門が支配下に置いて末端への伝達を計った。この非人頭の中でも特に有力であったのが浅草非人頭車(くるま)善七であった。非人の主な生業は「物乞い」で、他に街路の清掃や門付などの「清め」に関わる芸能、長吏の下役として警備や刑死者の埋葬、病気になった入牢者や少年囚人の世話などにも従事していた。以上はウィキの「非人に拠る。なお、次の「平人」の注も参照されたい)『クラスの妻や娘は女太夫をやることはなく、その下の層である小屋者の女性が行なった。小屋者の女は遊郭の遊女になることが許されず、櫛・簪をつけることも禁じられており、外へ出るときは笠をかぶる決まりだった。天保の改革以降は、下駄も許されなかった。絹の着用も許されなかったため、女太夫の着物は綿であったが、襟にだけ縮緬をあしらったり、染めや色合わせに凝ったりして工夫し、それがかえって色香があって粋に見られた。門付以外にも呼ばれて歌うこともあり、次第に演芸をする女芸人一般を女太夫と呼ぶようにもなった。容貌に優れた者も多く、色恋沙汰が歌舞伎の題材になったりもした』。『なお、関西には鳥追いはあったが、女太夫は生まれなかった。明治時代に女太夫は禁止された』。「鳥追い」は小正月(一月十四日~十五日)に行われる年中行事の一つで、その正月からこの時期にかけて祝い芸として各戸を回っては鳥追い唄を歌った門付芸人をも同時に指した。以下、ウィキの「鳥追い」から引く。農耕儀礼の一つであるそれは『主に東日本の農村において行われる行事で、田畑を鳥の被害から守ることを祈念して行われる。この行事は、主に子どもが主役となって行われ、地域によってやり方は異なるが、木や藁・正月に使われた注連縄などで小屋をつくり、その小屋を小正月の夜に燃やすものや、子どもたちが鳥追いの歌を歌いながら村の中を回ったり、村境まで行くものなどがある』。門付芸としてはまず、『新年に門口で、扇で手をたたきながら祝言を述べ、米銭の施しを得たもの。江戸初期、京都悲田院の与次郎が始めたという。たたき。たたきの与次郎』という男性のものが始まり、後の『江戸中期以降、新年に女太夫たちが、新しい着物に日和下駄・編み笠姿で三味線などを弾きながら、鳥追い歌を歌って家々を回』るようになった。『近世には三味線の伴奏で門付(かどづけ)しながら踊る者が現れ、これも鳥追いという。正月元日から中旬まで、粋(いき)な編笠(あみがさ)に縞(しま)の着物、水色脚絆(きゃはん)に日和下駄(ひよりげた)の2人連れの女が、艶歌(えんか)を三味線の伴奏で門付をした。中旬以後は菅笠(すげがさ)にかえ、女太夫(おんなだゆう)と称したともいう。京都悲田院に住む与次郎の始めたものと言い伝えるが、京坂では早く絶え、江戸では明治初年まであった』とあり、現在の『阿波踊りの女性の扮装はこの鳥追い女の風俗がもとになっている』と記す。

・「平人」「へいじん」と読む。通常の官位を持たない普通の庶民を便宜上指して言っている(「平人」という公的身分階級が存在したり認知されていた訳ではないので注意されたい)。所謂「士農工商」の「農工商」のグループが属する。因みに、それらの下位(枠外)に賤民として「穢多(えた/かわた)」「非人」が配されていた(現在、正しい理解に於いては「士農工商」は身分制度でなく、職業区分枠と認識されているようだ)。以下、ウィキの「賤民」から引いておく。『穢多(かわた)は、死牛馬(「屠殺」は禁止されていた)の皮革加工、履物職人、非人の管理』(西日本に於いては必ずしも非人は穢多の支配下にはなかった。部落解放同盟東京都連合会公式サイ内の「東京の被差別部落の歴史と現状」「非人」に拠る)。『などを主な生業とした。最下層ではないが、脱出の機会がなかった。職業は時代によって差があり、井戸掘りや造園業、湯屋、能役者(主役級)、歌舞伎役者、野鍛冶のように早期に脱賤化に成功した職業もある。諸職人(刀鍛冶や、石工、仏師など)や舟渡、陰陽師、宿曜師、山伏、禰宜、巫女、白拍子、舞々、楽人、能役者(端役)、連歌師、俳諧師、通事(翻訳業)、瓦版売りなどのように地域・時代によっては賤民とされた職業もある』。『非人には非人頭の配下に属する抱え非人と野非人(浮浪者)など区別があり、心中の生き残り、近親相姦者、税金不納者、権力に収容された野非人(病人を含む)がこの身分に置かれた。穢多とは異なり、彼らには非人化から』十年以内であれば『脱出(足洗い)の機会が与えられることもあった。ただし、非人の子として生まれた者は脱出の機会はなかった。奴隷労働から脱走し、逮捕されると腕に入れ墨を入れられて脱走回数が記録された』。脱走が三回に及ぶと死刑と決せられて行刑役も非人が負わされた。また、平人が無礼などを理由に非人を七人殺した場合、平人一名を殺したのと同等の罪として詮議されたとある。但し、『地方地域によっては穢多と非人の区別は一定していない』ともある。なお、部落解放同盟東京都連合会公式サイト内の「東京の被差別部落の歴史と現状」が最も詳しく、情報の改訂も厳密なので必ずそちらも参照されたいが、同サイト内に「2003年新春特集」として「被差別民衆が担った江戸の芸能」という記事があり、『近世の江戸の町には、非人や猿飼、そして乞胸など被差別民衆が担った様々な芸能の世界がありました。新春の言祝ぎの芸―女太夫の鳥追、清めの意味を持った門付や猿回し、様々な大道芸がそれでした』という浦本誉至史氏の「新春を祝う芸―女太夫の鳥追」に、この「女大夫」が出るが、そこでは、本文を読み解くに大切な、描かれていない彼女たちの生き生きとした姿や、江戸庶民とのその交流が髣髴としてくるので引用させて戴く(以下、下線部やぶちゃん)。

   《引用開始》

 江戸時代後期の庶民生活や風俗を記した史料に、『守貞漫稿』(もりさだまんこう)『嬉遊笑覧』(きゆうしょうらん)という書物があります。これらの書物の中に、「鳥追」(とりおい)芸の話がかなり詳しく出てきます。

 

 鳥追は今では京阪にはなく、江戸に多い。江戸ではこれを女太夫(おんなだゆう)というものが行っている毎年正月元日から中旬に至るまで、新しい服を着て編笠をかぶり、また常の歌・浄瑠璃と異なる節を唄い三味線を特に繁絃して町屋に(女太夫が)やって来る。女太夫は非人小屋から来るが、一人に12銭の紙包みをわたす。中旬以降は編笠が菅笠に変わるのだが、編笠の時を鳥追と言うのである。

 

 『守貞漫稿』に出てくる鳥追に関する記述です。又この記述の少し前に、女太夫についてつぎのように記されています。

 

 非人小屋の妻娘は女太夫と号し菅笠をかぶり木綿の服と帯ではあるが新しい着物を着、袖口などには絹の縮緬などを用い、綺麗に化粧し、日和下駄をはいて「なまめきたる」風姿で一人あるいは二三人ずれで三弦を弾きながら市中の店や門口に立って銭を乞う。往々にして女太夫に美人がいる。市中の店などでは1文をわたすが、参勤で江戸にやってきた諸国の下級武士などは長屋の窓下などに呼んで2・30銭をわたし、一曲を語らせたりする。

 

 同じような記述は、もう一つの書物『嬉遊笑覧』にもあります。それによれば女太夫たちは三弦だけではなく胡弓も弾いたようです。

 このように、江戸の町の正月の風物詩の一つであった「鳥追」は、女性の非人である女太夫がおこなったものでした。また記述の内容から、江戸の町人や武士などが、日頃から女太夫が来ることを楽しみにしていたことが分かります(著者である喜田川守貞や喜多村信節は、儒教道徳を身につけた民間「知識人」として、こういう「身分の垣根を曖昧にするような」風潮には批判的ですが)。

 日頃、非人たちの「物乞い」について規制することが多い幕府も、「鳥追はめでたいことだから」と、あまり規制しませんでした。女太夫の鳥追(そして正月以外の浄瑠璃の門付)は、今日的に言えばまさに江戸の町のアイドルでした。この江戸町人の文化は、やがて北廻船に乗って遠く北陸地方にまで(その風俗が)伝えられます。北陸地方などでは、今でも「江戸の女太夫の鳥追」姿をして夜の町を弾き歩くお盆の祭りが、大切に伝承され続けているのです。

   《引用終了》

ここに出る「守貞謾稿」は喜田川守貞(生没年未詳。江戸後期の風俗史家で大阪生)の江戸の事物風俗を渉猟解説した類書(一種の百科事典)で起稿は天保八(一八三七)年である。……袖口に絹の縮緬……鎮衛翁ならきっと「まあ、よかろう、衣の袖は衣ではない」と粋に言った気がする……それより幕末に至っても「女太夫」たちは鎮衛の決めた定めを守っていたことが分かる。江戸の「アイドル」であった「女太夫」たちもさしずめ、名捌きの名奉行たる鎮衛を、これ、尊敬していた故の仕儀ではなかろうか?

 また、この不当に差別された人々の中に「乞胸(ごうむね)」と呼ばれた門付芸を生業とする一団が存在したことも分かる。それを「東京の被差別部落の歴史と現状」「乞胸」の記載より引用させて戴く(当該データ元最終改定日二〇〇三年三月二十三日附記載)。

   《引用開始》

 浅草非人頭・車善七の支配下に置かれた被差別民に、乞胸(ごうむね)と呼ばれる人々がいました。大道芸を業とする被差別民であり、その頭は仁太夫と言いました。

 乞胸が特殊な位置にあるのは、法的にはその身分が町人とされ、大道芸をおこなって金銭を取るときその生業が非人頭車善七の支配を受けるとされたことでした。非人が門付(かどづけ)芸を生業としていたことが、この支配関係に結びついているのではないかと考えられます。

 一応「身分は町人」とされていた乞胸でしたが、しかし前近代にあっては職業と社会的身分および居住は分離できないと考えられていました。したがって乞胸たちは一般の町人や武士からは蔑視されました。

 乞胸は江戸中期までは乞胸頭仁太夫の家の周辺等江戸の街の数カ所に住んでいました。しかし1843年(天保14年)天保の改革の時、幕府によって集住を命じられます。その理由は「身分は町民だなどと言っているが、非人と同じような業をしているのだから市中に置くのはよろしくない」(町奉行鳥居甲斐守〈耀蔵〉の水野忠邦への上申)という差別的なものでした。

 1870年(明治3年)、「平民も苗字を名乗ってよい」という布告が出されましたが、このとき乞胸は布告から除外されました。つまり近代になって、はっきりと行政的に被差別民の規定を受けたわけです。

   《引用終了》

この「乞胸」については、先に引いた「被差別民衆が担った江戸の芸能」という記事の方の「乞胸」の頁には、乞胸の大道芸の種類を挙げた中に、『浄溜璃(じょうるり)、義太夫節(ぎだゆうぶし)や豊後節(ぶんごぶし)の節をつけて語る芸のこと』というのが含まれている。こうなると「女太夫」と「乞胸」は境界域がはっきりしないように私には読めるのであるが、特に女性がやるものを「女太夫」と呼び、男性の場合は「乞胸」であったものか? しかしそうなると同じ生業をなしながら、非人女性の生業としての「女太夫」と町民とも非人ともつかない特異的隔離的扱いを受けることになってしまった「乞胸」は、その差別された運命に於いても微妙に異なった経緯を辿ることになったと読める。誤解があれば、識者の御教授を乞うものである。

・「身體にほりものして」刺青。ウィキの「入れ墨」より、歴史のパートから奈良から江戸までの部分を引用しておく(下線やぶちゃん)。縄文以来の古代の日本に於ける『入れ墨の習俗が廃れるのは、王仁および』継体天皇七(五一三年)の『百済五経博士渡来による儒教の伝来以降と考えられ、以降の律令制の確立とともに入れ墨は刑罰としての入墨刑に変化した』。『一方では、律令制の確立と密接な関係を持つ遣唐船の乗組員達に入れ墨の習俗があったとされ、後に発生した倭寇集団もまた入れ墨を入れており、海上交易や漁撈を生業とする人々の間では、呪術と個体識別の目的で広く入れ墨が施された』。『この他、 蝦夷や隼人といった人々や、儒教と対立した密教の僧侶によって、入れ墨の技術が継承された。山岳仏教出身者であり、書寫山圓教寺を開いた性空は、胸に阿弥陀仏の入れ墨を入れていた』。『日本においては耳なし芳一の説話が有名だが、経文を直接身体に書き込む行為は、仏法への帰依とその加護を得る目的で広く行われた。現代のタイやカンボジアなど小乗仏教の盛んな地域では、経文を身体に入れ墨する習慣が一般的に見られる』。『中世に入ると人々の日常生活を描いた絵画が残されるようになるが、これらの絵画に入れ墨をした人々が描かれている例は見られない』。『また、戦国時代には死を覚悟した雑兵達が、自らの名や住所を指に入れ墨で記す個体識別目的の習俗があった』。『現代に続く日本の華美な入れ墨文化は、江戸時代中期に確立された』。『江戸や大阪などの大都市に人口が集中し始め、犯罪者が多数発生するようになったため、犯罪の抑止を図る目的で町人に対する入墨刑が用いられ、容易には消えない入墨の特性が一般的に再認識されたことで、その身体装飾への応用が復活した』。『遊郭などにおいては、遊女が馴染みとなった客への気持ちを表現する手段として、「○○命」といった入れ墨を施す「入黒子」と呼ばれた表現方法が流行した。入れ墨の他にも、放爪(爪を剥いで贈る)・誓詞・断髪・切指(指を切って贈る)・貫肉』(かんにく:腕や股の肉を傷つける)『といった、遊女による独特の愛情表現が存在した』。(中略)『こうした風潮に伴って、古代から継承された漁民の入れ墨や、経文や仏像を身体に刻む僧侶の入れ墨といった、様々な入れ墨文化が都市で交わり、浮世絵などの技法を取り入れて洗練され、装飾としての入れ墨の技術が大きく発展した』。『装飾用途の入れ墨は入墨刑とは明確に区別され、文身』(ぶんしん)『と呼ばれることが多く、江戸火消しや鳶などが独特の美学である『粋』を見せるために好んで施したほか、刑罰で入れ墨を施された前科者がより大きな入れ墨を施すことでこれを隠そうとする場合もあった』『背中の広い面積を一枚の絵に見立て、水滸伝や武者絵など浮世絵の人物のほか、竜虎や桜花などの図柄も好まれた。額と呼ばれる、筋肉の流れに従って、それぞれ別の部位にある絵を繋げる日本独自のアイデアなど、多種多様で色彩豊かな入れ墨の技法は、この時代に完成されている』。十九世紀に『入ると入れ墨の流行は極限に達し、博徒・火消し・鳶・飛脚など肌を露出する職業では、入れ墨をしていなければむしろ恥であると見なされるほどになった』。『幕府はしばしば禁令を発し、厳重に取り締まったが、ほとんど効果は見られず、やがてその影響は武士階級にも波及して行き、旗本や御家人の次男坊・三男坊や、浪人などの中にも、入れ墨を施す者が現れるようになり、図案にも「武家彫り」や「博徒彫り」といった出身身分の違いが投影された』。『下総小見川の藩主内田正容などは、一万石の知行を持つれっきとした大名でありながら入れ墨を入れていたと言われる。ただし正容は幕府に不行跡を理由に隠居を命ぜられた』。『時代劇で有名な江戸町奉行の遠山景元に入れ墨があったとの伝承が残されているが、これを裏付ける資料は発見されていない』(因みに実は根岸鎮衛にも入れ墨をしていたという噂があるが、これは恐らくデマであろう)。『また、当時の武士階級の間では、入れ墨のある身体を斬ることに対して、その呪術性への恐れから生じた忌避感情が存在していたことも記録』『されており、市中では帯刀できない町人にとって、刃傷沙汰を避ける自衛策としての側面もあった』とある。最後の部分は極めて興味深い。これはリンク先の注の「27」で、江戸の斬首刑を担当していた山田浅右衛門が副業で相当の報酬があった刀の試し切りに於いては、それに使用する死体には入れ墨の無いものを選んでいたという事実が記されてある。必読。

・「北の奉行永田備後守」既に何度も登場している生前の同僚(根岸は南町奉行)で仲の良かった永田正道(まさのり)。

・「いさみ」俠気に富んで言葉や動作の威勢のいい若い衆(しゅ)。おとこだて。

・「入用金拾兩餘」当時の刺青の相場が分かる。文化・文政期の十両は百万円相当であるから、とんでもない出費である(彫りに時間がかかるので恐らく分割支払したものとは思われる)。

・「孝經」中国の十三経の一。一巻。編者未詳。戦国時代に成立か。孔子とその弟子の曽子(そうし)の問答形式で孝道について述べ、「孝」を最高道徳・治国の根本と説いている。

・「われら御役を勤る内は守るべきが」以前に注したが、永田備後守正道の北町奉行在任期間は、文化八(一八一一)年四月二十六日から文政二(一八一九)年四月二十二日で鎮衛と同様に現職のままで死去した(因みに、根岸肥前守鎮衛の南町奉行在任期間は、寛政一〇(一七九八)年十一月十一日から文化一二(一八一五)年十一月九日である)。

・「三日法度」古くからある故事成句であるらしい。短い期間しか守られない法律や規則のこと。また、効き目の薄い薬などをも比喩的に指す。

・「今頃」前の正文の跋のクレジットが「天保三年」であるからそれ以降、志賀理斎は天保一一(一八四〇)年一月に享年七十九で亡くなっている。天保初年頃として、正道死去から二十五年ほどでこの条例は守られなくなっていたことが分かる。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

一 肥前守殿、町奉行として、

「――非人の女太夫(おんなたゆう)と申す門付芸の者は、昔は衣類に絹の縮緬、その他、華美なる衣裳を着しておったがため、はなはだ平人(へいにん)と紛わしく、且つは、あるまじき驕奢(きょうしゃ)のありさまを呈するに至ったによって、向後、着用の儀はこれ――木綿のみに限る――ように。」

と、厳しく絹織物の着用を制止し、堅く申し付けられたが、今以って女太夫らは、その禁制を堅く守って、木綿のみを着用なしおる由。

『……然りながら、近頃にては、絹にしか見えぬもののこれあるぞ……』

と申さるる御仁もあろう。

 が――しかしこれ――絹に見紛ごうようなもの――であって――これ――絹にては御座らぬ。これ皆、木綿にして、その禁制を犯す者はおらぬ、のである。

 さてもまた、とある年のこと、かの肥前守御同朋にして、北の御奉行永田備後守正道(まさのり)殿が、

「――鳶の者、また、巷間にて「勇(いさ)み」などと称する若者ども、身体(からだ)に彫り物なんど成して、

――源賴光(みなもとのらいこう)酒呑童子(しゅてんどうじ)征伐 大江山山入(おおえやまやまい)りの図――

また、

――平維茂(たいらのこれもち)鬼退治 「紅葉狩(もみじがり)」は鬼女の図――

その他、

――頼光四天王筆頭渡邊綱(わたなべのつな) 髭切(ひげきり)にて羅生門の鬼を斬るの図――

なんど、五色の絵の具を以って、けばけばしき彩色に成し彫り、それを見せびらかしては厳めしく力んで歩きおること、これ、はなはだ見苦しい。

 これ、その入用金も十両余りも費やすと申す由々しきものである。

 畢竟それは、これを彫る者が在(あ)る故なれば――向後は、かような者どもへ、かような刺青(いれずみ)を成す者のあった場合は――これ――必ず訴え出る――ように。」

と、厳しく申し渡されたによって、その禁制を定められたその折りには、これ、一人もかような刺青を己(おの)が身に彫ろうとする者はふっつりとおらずなった。

 されば、私はこれを大いに歓迎致いて、備後守殿方へ参ってご挨拶の折りから、

「――このほどは、彫物御制止の由。さてさて結構なることにて。彫らせようと致す若造どもはこれ、父母から受けた身体髪膚(しんたいはっぷ)を、おぞましくもけばけばしく傷つくること、これ、不孝の極みたることは一向、存ぜぬタワケ者にて御座る。……せめても「孝経」などをも暗記致いて御座ったとならば、かかる不埒なることは致しますまいに。……この刺青をなしたる者、第一からしてが、年寄って後に子や孫に対し、遅まきながら、後悔致す者の多いと聴いて御座る。……さてもそれ何故(なにゆえ)かと申さば、死して棺桶に入(はい)るとき、湯灌(ゆかん)をせんとしたところが……仏(ほとけ)になられたと、人々の涙を流すが当たり前の場面に御座っても……これ……あまりに怖ろしき彫り物をした死人(しびと)は……さてさてこれまず以って一向、殊勝らしく見えず――仏には成らで――鬼にも成りそうに――見る由にて御座る。……さすればこそ、そうしたあらゆる意味に於きまして――備後守様はこれ――不孝の罪を――お救いになられた――ということにて御座いまする。」

と、申し上げたところ、永田氏の仰せには、

「……この度(たび)、我ら、申し渡せし条も、これ……そうさ、我ら御役(おやく)を勤めておる内は守られようが……さても、後々は――天下の法度(はっと)は三日法度――と申すではないか。……これもまた、悪しき申し習わしにして不快なる諺じゃが……まあ、是非に及ばず、じゃて。……いやさ、末々(すえずえ)には……これまた――元の木阿弥――となるに違いあるまい。……」

と、お笑いになりつつ、述懐なさっておられた。

 ……が……さても果たして……近頃にては、これ――永田氏の御言葉通り――盛んに彫り物をする者ども、雲霞の如(ごと)湧き出だいて、元の如く相い成ってしもうて御座る。……

 この遺憾なる事実と比較して考えてみれば、かの根岸翁の「女太夫への令(れい)」が今によく守られて御座ると申すはこれ、まっこと、類い稀なる奇跡の定めと申せよう。]

2015/04/17

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十九章 一八八二年の日本 モース先生、進化論講話で寄付金を募り、銚子の遭難漁民への義捐金を渡せる事

 日本へ来る船中で私は進化論に関する講演を二回やり、北米合衆国の汽船ペンサコラに救助されてサンフランシスコへ連れて来られた、十三人の日本の遭難漁夫のために、五十ドル以上を集めた。汽船の士官たちは、彼等の為に五十ドルを集め、彼等に衣服を与えた。ペンサコラという名のついた帽子をかぶって紺色の制服をつけた彼等は、まことに変な格好であった。我々は同船して来た日本の商人、田代氏と共に両替屋へ行き、私は私の金を日本の紙幣に替えて殆ど九十円を手にした。我々はそこで難破船の乗組達が、生れ故郷へ送り返されるのを待っている日本の旅館へ行った。田代氏は彼等の中の何人が家族を持っているかを確かめた。数学の大仕事をやった揚句、私は各人に三円、女房一人につき二円、子供一人につき一円ずつをやることが出来ることを算出した。彼等が示したうれしさと感謝の念とは、見ても気持がよかった。金額はすくないが、各人にとって、これは一ケ月の収入、あるいはそれ以上なのである。陶器をさがした結果、意外な状態を見た。以前、骨董屋には興味ある品物が一杯あったのだが、今はそれがすくなく、茶の湯が復活して、茶碗、茶人その他の道具が再び使用されるようになったので、茶入は殊にすくなくなった。加之(しかのみならず)、英国とフランスとで日本陶器の蒐集が大流行を来たし、また米国でも少数の人が日本の陶器の魅力に注目し始め、美術博物館さえがこれ等を鑑識し出した。

[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、五月十六日にサンフランシスコを「シティ・オブ・ペキン」号で出帆したが、『たまたま、この船には前年夏に遭難した銚子の漁民一三名が同船していた。彼らは一五日間の漂流の末にアメリカの船に救われたが、その船の目的地チリは日本との国交がまだ無かったので、アメリカ領事の世話でチリからアメリカの軍艦を何度か乗り継いでサンフランシスコにたどりつき、帰国できることになったのである。モースは彼らの苦労と窮状に同乗して、船内で進化論の講演を三回開いて見舞金を集め、計八一円という漁民にとっては大金を贈っている』とある。(モースは講演会の回数を二回と述べているが、磯野先生のそれは『東京横浜毎日新聞』及び『時事新報』の複数の情報によるもので、恐らくモースの勘違いで三回が正しいものと思われる)。

「北米合衆国の汽船ペンサコラ」原文“the United States steamer Pensacola”。磯野先生の叙述から、これは軍艦であったことが分かるので、これは後の太平洋戦争で活躍したアメリカ海軍重巡洋艦ペンサコーラ(USS Pensacola, CL/CA-24)の前身と思われる。ウィキペンサコーラ重巡洋艦を読むと、こ『の名を持つ艦としては3隻目』とある。恐らくはその一隻目ではなかったろうか? 艦名は「海軍航空のゆりかご」と称されるペンサコーラ海軍航空基地を初めとする海軍関連施設を古くから多数抱えるフロリダ州北西端にある軍事港湾都市ペンサコーラに因んで命名されたものである。

「同船して来た日本の商人、田代氏」不詳。この当時の貿易商で田代姓の人物は複数確認出来るが、モースの謂いからは、この時、アメリカに滞在していた人物ということになり、そうした条件をクリアー出来る人物を同定し得なかった。識者の御教授を乞うものである。]

志賀理斎「耳嚢副言」附やぶちゃん訳注 「追加」 (Ⅲ)

一 根岸翁の町奉行にて御政事(ごせいじ)をきかれける中には、樣々の面白き捌(さばき)あり。一とせ名主(なぬし)共(ども)一同に願ひしは、「町役之(の)長をも相勤(あひつとめ)候へば、何卒可相成(あひなるべく)ば巳來(いらい)挾箱(はさみばこ)をもたせ候樣致し度(たく)、左候得(ささふらえ)ば下々(しもじも)の存じ付(つき)格別に御威光を以(もつて)重んじ可申(まうすべく)、一(ひとつ)には私共(ども)身に取り候ても難有(ありがたき)段、ひとへに御慈悲を以(もつて)被仰付被下(おほせつけくださられ)候樣(やう)に」としきりに願ひければ、翁聞かれ、「これは至極尤(もつとも)の願筋(ねがひすぢ)也。いかにも唯(ただ)上下(かみしも)斗(ばかり)にては外々(ほかほか)の御用聞(ごようきき)町人と同じすがた也。然る處挾箱を持(もた)するときはそれら共(とも)紛れず、だれが見ても名主殿と見えて威光もあるべし。隨分聞請(ききうけ)たれば願之通(ねがひのとほり)伺之上(うかがひのうへ)にて箱を持たすべし」と申されしかば、行事・名主・年番(ねんばん)その他惣(そう)名主、「誠に難有(ありがたし)」と申(まうし)ける。扨又翁申されけるは、「とは申(まうす)ものゝ一體挾箱といふものは至(いたつ)て六ケ敷(むつかしき)格式あることにて、武士も無席(むせき)のものは持(もた)する事ならず。片箱(かたばこ)より兩箱(りやうばこ)、又は先(さ)き箱(ばこ)、大名は其上にみの箱などゝ各(おのおの)其家格有(あり)て、猥(みだり)に持(もた)する事ならず。御(おん)いしなどは、儒醫諸出家制外(せいがい)の事とあれ共(ども)、なんぼ大惣(たいそう)なるも町醫者は箱もたする事ならず。御醫師斗(ばかり)挾箱と藥箱(くすりばこ)とを持(もつ)也。かゝる事なれば容易にさしゆるす事はならず。箱を持たせたくば我等がいふ通りにせねばならず。右之通箱といふは目印になるもの故、いよいよ持たせたくば名主・大屋(おほや)と誰(たれ)が見てもわかる樣に、巳來名主は髮を大(おほ)ばちびんにし、大屋はあたまをすりこかしにすべし。左樣(さやう)致(いたす)ならば箱は隨分持たすべし。爰はよくよく分別處なるべし。とくと考へて申出(まうしいで)よ」と申渡(まうしわた)しければ、名主共(ども)大(おおい)におどろき、申(まうし)おろしにせしとなり。是(これ)常の奉行ならば、「町人の分際(ぶんざい)として格式のある箱を持たせんなどゝは不屆(ふとどき)なる願ひ也」と、大にしかるべき處を、例の滑稽にて名主共をさとしたまふ。些細の事をばとがめず、大量(だいりやう)の處置たるを見るべし。

[やぶちゃん注:

・「名主」江戸時代の村役人・町役人。郷村では村落の長として村政を統轄、組頭・百姓代と合せて「村方三役」と呼ばれ、郡奉行や代官の支配を受けた。「名主」の呼称は主として関東で行われ、関西では「庄屋」、東北では「肝煎」と称することが多かった(ここまでは主に「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。この名主の下にあってそれを補佐する者が「組頭(くみがしら)」「年寄」「村年寄」、で一般の農民側から出た代表が「百姓代」である(因みに、こうした村役人としての名主とは別に多くの田畑を所有する有力農民のことを同じく「名主」と書いて「みょうしゅ」とも呼んだので注意が必要。但しこれは、平安後期から中世にかけての名田(みょうでん:荘園や国衙領の構成単位をなす田地の一つ。開墾・購入・押領などによって取得した田地に取得者の名を冠して呼んだもの。)の所有者で、領主に対して年貢・夫役(ぶやく)などの負担の義務を負う一方で家族・所従・下人などに名田を耕作させた豪農の謂いが後まで残ったものと思われる)。

・「挾箱」衣服などを持ち運ぶための長方形の浅い箱の蓋に環を附け、着脱可能な長い棒をとり付けたもので、従者に担がせた。一般には登城や参勤交代の道中に衣類を入れて従者が担いだ風景で知られ、武家が公用の外出の際、従者に必要な調度装身具などを納めて運ばせたもので、鎮衛が述べるように、家格によって紋や作りの仕様も異なっていたと言われる。後に出る「片箱」は一人で片方の肩に懸けて斜め縦形に担がせるタイプ、「兩箱」は大きめな挟や箱或いは小形の葛籠(つづら)を棒の両端に掛けて二人で担いだタイプ、「先き箱」大名などの行列に於いて正装の装束を入れて特に先頭の者に担がせた特別な挟み箱。「みの箱」不詳。蓑箱か? 「身の箱」で上下に分離する箱(厳密にはその下方の物品を入れる方の箱の呼称)のことか? 識者の御教授を乞う。

・「御用聞」には複数の意味があるが、ここは「町人」と併置してあるところからは特権的御用商人或いは豪農の格式の一つを指す語と考えられる。「御用達(ごようたし)」よりも格下とされた。「御用聞き」は外に、巡回訪問販売の呼び方の一種、及び当時の警察機構の末端を担った岡っ引の異称でもある(ウィキの「御用聞き」に拠った)。

・「行事」町内または商人の組合を代表し事務を取り扱った人。行司。

・「年番」年番名主。町村内に於ける名主年番の制によって任命された一年交代勤務の名主。

・「惣名主」惣代名主(そうだいなぬし)。年貢米を領主の御蔵まで廻漕する際に宰領の任に当たった村落の代表者。納名主(おさめなぬし)。数ヶ村や十数ヶ村を統轄担当し、各村の名主の上にあった。「大名主」とも称する。

・「無席」無役。幕府の公職に任ぜられていない状態。

・「儒醫諸出家制外の事」「武家諸法度」の「天和令」(天和三(一六八三)年に徳川綱吉が発布、殉死禁止や末期養子の禁の緩和が明文化された)の条の中に、

一 乗輿者一門之歷々、國主城主壱万石以上

  國大名之息、城主及侍從以上之嫡子或五

  拾以上許之、儒・醫・諸出家者制外之事

とあるのを指す。原文は私と同じ大船に住まいされておられるらしい大船住人氏のサイト「大船庵」の「天和武家諸法度原文・現代語訳」を参考にさせて戴いて、恣意的に正字化して示した。同大船住人氏の現代語訳によれば、『一 乗輿は徳川一門の歴々、國主城主壱万石以上並びに国大名の子息、城主及び侍従以上の嫡子或は五拾才以上は許す。儒・医・僧侶は制限外』である。これは「輿」の乗用についての禁制であるが、挟箱については事実、鎮衛の言うような不文律の習わしがあったと考えてよいであろう。でなければ、この名主どもがそれを事実と相違するとして批判するはずだからである。

・「大ばちびん」撥鬢(ばちびん)の大きなもの。撥鬢は江戸中期に流行した男子の髪形の一つで、両鬢を耳の上では細く、後ろへゆくほどに広くした三味線の撥の形にそり込んだもの。当時どうであったかは知らないが、私などは撥鬢奴(やっこ)など、侠客風の傾奇者(かぶきもの)といった印象が強い。凡そ年配の名主連中にはとんでもない髪型である。

・「大屋」大家。貸家の持ち主・家主。ここで根岸は挟箱を持ちたいと願い出た名主階級だけではなく、その同位から下層に位置する、店子(たなこ)を持つ大屋の連中にまで剃髪を命じるという提案をした訳で、これは大屋連中にしてみれば、とんだ大迷惑ということになる。そこをも鎮衛は計算に入れて居よう。

・「すりこかす」「すり」は「剃(す)る」で「こかす」は接尾語で、四段型活用の動詞の連用形に付いて、その意を強めるもの。「すっかり~する」「さんざんに~する」。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

一 根岸翁、永い町奉行としての御政務に於いて御聴取・御吟味なされた中には、これ、さまざまに面白き捌きのあらるる。そんな中の一つ。

 ある年のこと、江戸市中の名主(なぬし)どもが一同に願って参り、

「……町役(まちやく)の長(おさ)をも相い勤めて御座いますれば、何卒、出来ますれば、これより後、我ら、従者に挟み箱を持たせるように致したく存じまする。……そのように致しましたならば、下々(しもじも)の者らも我らに対し感じ入り、格別にお上の御威光の忝(かたじけな)きを以って、ひいては御政事(おんまつりごと)をも、これ、いっそう、重んじ申すようなりますると存じまする。……また一つには、私どもの身にとりましても、名誉にして、ありがたきことにて御座いますればこそ、ひとえに御慈悲を以って挟み箱使用の儀、お許し方、どうか、仰せつけ下さいまするよう、お願い申し上げまする。……」

と、しきりに願うた。

 されば、翁、その一部始終を直かにお聴きになられると、

「――これは至極もっともな願い筋である。如何にも。ただ裃(かみしも)ばかりにてはこれ、巷におる他の御用聞きやら町人やらと同じ姿にしか見えぬ。然るに、かの挟み箱を持たせた時にはこれ、それらの者どもと紛れようもなく、誰(たれ)が見てもこれ、名主殿と見えて、いよいよ威光も生まるるに相違あるまい。その儀、これ随分、聴き受けたによって、願いの通り、お上にお伺(うかが)いを建てたる上、随分、そなたらに挟み箱を持たするように致そうぞ。」

と申されたによって、惣名主(そうなぬし)・名主は言うに及ばず、居並んだその他の年番(ねんばん)名主や行司といった連中までこぞって、

「誠にありがたきことじゃ!」

と口々に悦びの声を挙げた。

 ところが、翁の次いで申されたことには、

「……とは申すものの……一体(いったい)に、この挟み箱というものはこれ、至って難しき格式のあるものであっての。武士にても無役(むやく)の者はこれ、持つことが許されぬ。

――片箱(かたばこ)より両箱(りょうばこ)――または先(さ)き箱(ばこ)――大名は其上に――みの箱(ばこ)……

などと申して、これ、おのおの、その家格のあって、濫(みだ)りに持ち歩くことは、これならぬものじゃ。

 御幕医(おんばくい)の方などは、「武家諸法度」にある通り、

『儒医諸出家、制外(せいがい)の事』

と、確かに、あるにはあるがの。……

 なんぼ、たいそうなる町医者であってもこれ、挟み箱を持つことは、出来ぬ。

――御幕医師ばかりが――この――挟み箱と――薬箱(くすりばこ)とをこれ、持つことが許されておる。

 こうした訳であるからして、容易にはこれ、挟み箱を差し持つを許すことは出来ぬ。

 さればじゃ。

 そなたら、箱を持ちたく存ずると申すのであれば……我らが言う通りにせねばならぬ。……

 以上述べた通り、挟み箱と申すはこれ、家格や職務の目印になるものであるからして……いよいよ是が非でもそれを持ちたいとならば……名主・大屋と誰(たれ)が見てもわかるようにせねばならぬ。……

 されば向後、

――名主は髪を大撥鬢(おおばちびん)に成し

――大屋は頭を御医師と同じくつんつるてんに剃る

ように致せ。

 そのように致いたとならばこれ――他の下々の御用聞きやら町人やらとはっきり違うということが一目瞭然――なればこそ、これ、挟み箱も随分、持たして遣わそうぞ。……

……さてもさても……ここはこれ……よくよくの分別のしどころじゃ。……挟み箱を採るか……普通の髷を採るか……とくと考え、これ、再度、申し出でよ。……」

と申し渡されたところが、居並ぶ名主ども大いに驚き、即刻、願いを取り下げたと申す。

 これ、常の奉行であったならば、

――町人の分際(ぶんざい)として格式のある箱を持たんと欲するなど不届き至極な願いである――

と、大いに叱りおくところであろうが、翁はこれ、お得意の例の滑稽にて、結果、名主どもを美事、諭しなさったのである。

 些細の案件に於いてはそれを殊更に咎め立てなさろうとはせず、かくも度量大なる御処置を施されておられたということを、この話から読み取らねばならぬと私は思うのである。]

2015/04/16

博物学古記録翻刻訳注 ■11 「尾張名所図会 附録巻四」に現われたる海鼠腸(このわた)の記載

[やぶちゃん注:以下は「尾張名所圖會 附錄卷四」に所収する海鼠腸(このわた)の記載をオリジナルに電子化して訳注を加えたものである。

 「尾張名所図会」は尾張藩儒者深田精一を指導者として、同藩士で歴史家の岡田啓(安永九(一七八〇)年~万延元(一八六〇)年)と野口道直(天明五(一七八五)年~元治二(一八六五)年が編し、尾張名古屋藩士で画家の小田切春江(おだぎりしゅんこう 文化七(一八一〇)年~明治二一(一八八八)年)が挿絵を描いた名所記である。

 このうち、野口道直は春日井郡下小田井村問屋町(現在の清須市西枇杷島町)の青物問屋で枇杷島橋橋守であった七代目市兵衛の長男であったが、藩士山澄家の娘「りう」と婚姻、妻の感化を受けて学問を志したといわれる。神谷三園の主唱による「同好会」に加わって小寺玉晁・細野要斎・水野正信らと親交を深めた。書籍の蒐集にも努め、共著者の岡田啓と並んで、世に「両家の二万巻」と称せられ、塙保巳一が「郡書類従」続編編纂のために閲覧を求めたと伝える。「尾張名所図会」の編纂は彼の最大の業績とされる。「尾張名所図会」は自費出版で資金の大半は道直が負担したが、これにより資産が傾くも顧みなかったというとある(以上の野口道直の事蹟は個人ブログ「美濃街道(美濃路)紀行」の「美濃街道と『尾張名所図会』」を参照させて頂いた)。

 底本は国立国会図書館の近代デジタルライブラリーの「尾張名所図会 附録 巻四」のこちらの画像を視認して電子化した。まず、原典と一行字数を一致させたものを示し(但し、ルビと漢文脈の訓点は省略した)、次に連続した文で訓点に従って訓読したものに独自に読みや送り仮名を附したものを示し、その後に注と訳を附した。一部の字の判読にやや迷ったが、私としては自信のないものは特にない。但し、「本朝食鑑」の訓読は我流であり、疑義を感じられた場合には、お知らせ願えれば幸いである。

 使用した挿絵画像は国立国会図書館の近代デジタルライブラリーの「尾張名所図会 附録 巻四」のこちらの画像を用いた(無論、原本はパブリック・ドメインであり、現在、国立国会図書館の「インターネット公開(保護期間満了)」作品の画像は無許可で自由使用が認められている)。

 何? 何で海鼠腸か? 僕は出来ることなら海鼠に生まれ変わりたいほど、ナマコが好きだからさ!【2015年4月16日 藪野直史】]

 

□原文(字体の異同は総て原典のママである。ポイント落ち二行分かち書きの割注は同ポイントとしたが、原典との比較対照をし易くするために改行部はやはり一致させてある。)

 

海鼠膓  大井村の名産すでに名所圖會にのせ置たれど其旨少し

 たがへり 依て再び出す野必大の本朝食鑑に海鼠膓〔訓古乃和多〕以尾州参州

 為上武之本木次之諸國采海鼠處多而貢膓醤者少矣是好黄膓者全

《改頁》

[やぶちゃん注:以下、図見開き。最後は図の右上方のキャプション。因みに図の右頁の罫外には本右頁の帖数を示す『四ノ十五』の文字が、左頁左下の雲形の中には春江の落款が打たれている。]

Konowata

持戒乃

僧海鼠膓に

白鹽を

 ほどこす

 

《改頁》

 希之故也近世参州柵島有異僧守戒甚嚴而調和於腸醤者最妙浦人取

 腸洗浄入盤僧窺之察腸之多少妄擦白塩投腸中浦人用木箆攪勻收之

 経二三日而甞之其味不可言今貢獻者是也故以参州之産為上品後僧有故移

 于尾州而復調腸醤以尾州之産為第一世皆称奇矣としるせり佳境

 遊覧にしるせるも又是に同し〔大永二年祇園會御見物御成記の献立のうち

 にこのわた桶金臺繪ありと見え 室町殿

 日記に或時秀吉公御咄の人々をめして雜談どもありける所へ或大名かたより

 蛎つべた貝海鼠腸の三種進上申されたれば太閤御覧ありていかに幽齋是に

 つけて一句あるべしと仰られければ畏り候とて かきくらしふるしら

 雪 のたべたさにこのわためしてあたゝまりませ と申されたれは秀吉公

 おほきに興し給ひたるとしるせり其頃

 このわたを世に賞美せし事を知るべし〕

 

□訓読文(読み易くするために句読点や記号、濁点を適宜配し、挿絵のキャプションは最後に回した(挿絵は省略)。一部に独自に歴史仮名遣で読みや送り仮名を附してあるが、読解に五月蠅くなるので、特にその区別を示していない(読みについてのみ述べておくと、底本にあるルビは項目の「海鼠膓(このわた)と本文中の「柵(さく)」「本木(ほんもく)」「采(トル)」「攪勻(カキナラシテ)」の五箇所だけである)。原典画像と対比しつつお読みになられたい。なお、判読には同じく近代デジタルライブラリーの「本朝食鑑」の「第十二卷」の「海鼠」の中の海鼠腸パートの画像も参考にした。)

 

海鼠膓(このわた)  大井村の名産。すでに名所圖會にのせ置(おき)たれど、其旨少したがへり。依(よつ)て再び出す。野必大(やひつだい)の「本朝食鑑(ほんてうしよくかん)」に『海鼠膓〔訓「古乃和多(このわた)」。〕、尾州・参州を以つて上と為し、上武の本木(ほんもく)、之れ、次ぐ。諸國、海鼠を采(と)る處、多けれども、膓醤(ちやうしやう)を貢(けん)ずるは少なし。是れ、黄膓を好む者、全く希(まれ)の故なり。近世、参州柵島(さくしま)に異僧有り。戒を守りて甚だ嚴(げん)にして、腸醤を調和するは最も妙なり。浦人、腸(わた)を取りて洗ひ浄めて盤に入る。僧、之を窺(うかが)ひ、腸の多少を察(さつ)して、妄(みだ)りに白塩を擦(す)りて腸の中に投ず。浦人、木箆(きべら)を用ゐて攪(か)き勻(なら)して之を收む。二、三日を経て、之を甞(な)むれば、其の味はひ、言ふべからず。今、貢獻するは、是なり。故に参州の産を以つて上品と為(す)。後、僧、故(ゆゑ)有りて尾州に移りて、復た腸醤を調へて尾州の産を以つて第一と為(す)。世、皆、奇なりと称す。』としるせり。「佳境遊覧」にしるせるも、又、是に同じ〔大永二年「祇園會御見物御成記(ぎをんゑおんけんぶとなりのき)」の献立のうちに『このわた桶金臺繪あり』と見え、「室町殿日記」に、『或時、秀吉公御咄(おはなし)の人々をめして雜談どもありける所へ、或る大名かたより、蛎(かき)・つべた貝・海鼠腸の三種、進上申されたれば、太閤御覧ありて、「いかに幽齋、是につけて一句あるべし。」と仰られければ、「畏り候。」とて

  かきくらしふるしら雪のたべたさにこのわためしてあたゝまりませ

と申されたれば、秀吉公、おほきに興じ給ひたる。』としるせり。其頃、「このわた」を世に賞美せし事を知るべし。〕。

 

[やぶちゃん注:挿絵のキャプション。]

 

持戒の僧、海鼠膓に白鹽をほどこす

 

□やぶちゃん注(私の偏愛する海鼠についてはまず、私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「海鼠(とらご)」のテクストと私の注をお読み戴きたい。そこで、私は海鼠について私が言っておきたいことを粗方述べているからである。)

・「大井村」現在の愛知県知多郡南知多町大字大井と思われる。知多半島の師崎の手前で、以下に出る柵島(佐久島)の五・八キロメートル西に位置する。

・「名所圖會」「尾張名所図会」。本記載は「附録巻四」に載る。

・「海鼠膓」ナマコの腸(はらわた)の塩辛。寒中に製したもの及び腸の長いものが良品とされる。尾張徳川家が師崎(もろざき:現在の愛知県知多郡南知多町師崎。知多半島の西先端に位置する港町。)の「このわた」を徳川将軍家に献上したことで知られ、雲丹・唐墨(からすみ:ボラの卵巣の塩漬。)と並んで、日本三大珍味の一つとされる。ウィキの「このわた」によれば、『古くから伊勢湾、三河湾が産地として知られてきたが、今日では、瀬戸内海や能登半島など各地で作られている』。製法は生きた海鼠から『腸を抜き取り、これを海水でよく洗い、内部にある泥砂をとりのぞき、ざるにあげて水気をきる』。腸一升に塩二合乃至三合を加えて掻き混ぜた後に水分をきり、一昼夜、桶や壺などに貯蔵する』。一般にナマコ百貫(三百七十五キログラム)から腸八升(十四・四リットル)が、腸一升(一・八リットル)からは「このわた」七合(百五十グラム/百八十ミリリットル)が出来るといわれる(因みに私の愛読書である大島廣先生の「ナマコとウニ」(昭和三七(一九六二)年内田老鶴圃刊)には熟成後に水分を去ると製品の歩留(ぶどま)りは更に七割ぐらいに減るとある)。『ふつうは塩蔵されたものが市販されるが、生(なま)ですすっても、三杯酢に漬けても美味である』。私は殊の外、海鼠が好きで、しばしば活き海鼠を買求めて捌くのであるが、たまに立ち割ってみると、内臓の全くない個体がある。これは悪徳水産業者によるもので、再生力の強い海鼠から肛門を傷つけないように巧妙に内臓を抜き出したものである。教員時代にしばしば脱線で詳述し、以前にもブログで述べたが、ナマコは外敵に襲われると、防御法の一つとして、自身の内臓を吐き出す(これを餌として与える意味の外に、ナマコは多かれ少なかれ魚類にとって有毒な成分サポニン(石鹸様物質)を含み、捕食者の忌避物質でもある)。これを内臓吐出・吐臓現象等と言うが、これを逆手に利用して「このわた」を本体から抜き出し、内臓を抜いた本体と加工品としての「このわた」を別に製して売る輩が跡を絶たないのである(なお、ナマコの腸管の再生は二~三週間で、内臓全体の完全再生にはその倍はかかるという)。大き過ぎるナマコは堅くて売れないため、この脱腸を何度も繰り返してコノワタ用の腸管を採取すると、かつての大阪府立水産試験場の公式ページには平然と書かれてあった(今は何故か消失しているようだ)。何とも海鼠が哀れでならぬ。因みに、内臓だけではなく、同じ棘皮動物のヒトデ同様にナマコは二つに切断されればそれぞれの断片が一匹に再生する。南洋のナマコ食をする人々は古くからそれを知っていて、半分を海に返す。それは海の恵みへの敬虔にして美しい行為であったのだ。喰らい尽くし、おぞましい放射線によって汚染し尽くす我々文明人こそが実は野蛮で下劣なのである。

・『野必大の「本朝食鑑」』医師で本草学者であった人見必大(ひとみひつだい 寛永一九(一六四二)年頃?~元禄一四(一七〇一)年:本姓は小野、名は正竹、字(あざな)は千里、通称を伝左衛門といい、平野必大・野必大とも称した。父は四代将軍徳川家綱の幼少期の侍医を務めた人見元徳(玄徳)、兄友元も著名な儒学者であった)の元禄一〇(一六九七)年刊の本邦最初の本格的食物本草書。「本草綱目」に依拠しながらも、独自の見解をも加え、魚貝類など、庶民の日常食品について和漢文で解説したもの。但し、この引用は「本朝食鑑」の「第十二卷」の「海鼠」の中の「海鼡腸」の総てではなく、頭が省略されている(リンク先は先に示した近代デジタルライブラリーのパートの画像)。なお、この「本朝食鑑」の「海鼠」の記載は、近日中に本「博物学古記録翻刻訳注」で扱う予定である。

・「尾州」尾張国。現在の愛知県西部。

・「参州」三河国。現在の愛知県中部。

・「上武の本木」「上武」は通常、上野国(群馬県)と武蔵国(埼玉県・東京都・神奈川県の一部)の総称。これは現在の横浜市磯子区本牧を指す。「江戸名所図会」の「巻二 天璇之部」の江戸後期の「杉田村」(現在の磯子区杉田)の挿絵には『海鼠製(なまこをせいす)』というキャプションを附して「いりこ」(乾燥させた海鼠)を製する図が示されてある。また、題名だけ見ると、やや軽そうな感じがするものの、「はまれぽ.com」の「神奈川県の海でナマコがよく捕れるそう。年間の漁獲量は? 横浜市内で新鮮なナマコを食べられるお店は? ナマコで有名な青森県横浜町とはどちらが多く捕れる?」は一読、すこぶる博物学的で素晴らしく、歴史的変遷(埋め立てられたものの現在はナマコ漁が再開)を含め、必読である!

・「膓醤」魚腸醤。魚腸を発酵させた食品。魚の内臓を原料とする塩辛には、主に鰹の内臓を原料とする酒盗などが知られ、魚醤(ぎょしょう)、所謂、魚醤油(うおじょうゆ)・塩魚汁(しょっつる)などにも、大型魚類の内臓を主に用いて製するものがあり、広義にはそれも含まれる。

・「黄膓」「きのわた」或いは「こうちやう(こうちょう)」と音読みしているのかも知れない。先に示した寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「海鼠(とらご)」では、

   *

海鼠腸(このわた)は、腹中に黄なる腸三條有り。之を腌(しほもの)[やぶちゃん注:塩漬け。]とし、醬(ひしほ)と爲る者なり。香美、言ふべからず。冬春、珍肴と爲す。色、琥珀のごとくなる者を上品と爲す。黄なる中に、黑・白、相ひ交ぢる者を下品と爲す。正月を過ぐれば、則ち味、變じて、甚だ鹹(しほから)く、食ふに堪へず。其の腸の中、赤黄色くして糊(のり)のごとき者有りて、海鼠子(このこ)と名づく。亦、佳なり。

   *

とあり、栗本丹洲「栗氏千蟲譜」巻八の「海鼠」の「海鼠」の解説には(これも私の電子テクスト。画像豊富)、

   *

此のもの、靑・黑・黄・赤の數色あり。「こ」と単称する事、「葱」を「き」と単名するに同じ。熬り乾する者を、「いりこ」と呼び、串乾(くしほ)すものを「くしこ」と呼ぶ。「倭名抄」に、『海鼠、和名古、崔禹錫「食鏡」に云ふ、蛭に似、大なる者なり。』と見えたり。然れば、『こ』と称するは古き事にして、今に至るまで海鼠の黄腸を醤として、上好の酒媒に充て、東都へ貢献あり。これを『このわた』と云ふも理(ことわり)ありと思へり。

   *

とあり、孰れも「このわた」を「黄(き)の腸(わた)」の転訛とは捉えていない。

・「柵島」佐久島。三河湾のほぼ中央に位置する離島。愛知県西尾市。ウィキの「佐久島によれば(注記号は省略した。下線はやぶちゃん)、三河湾湾奥中央やや西寄りの西尾市一色町から南に約八キロメートルの距離にあり、三河湾のほぼ中央に位置する。面積は一・八一平方キロメートルで、『三河湾の離島中最大』。『西三河南西部(西尾市一色町)・知多半島(南知多町)・渥美半島(田原市渥美町)との距離がそれぞれ』十キロメートル圏内にあり、離島と言っても、『地理的な距離の近さに加えて本土との生活交流が活発であるため、国土交通省による離島分類では内海本土近接型離島に』当たる。島北部には標高三十メートルほどの『緩やかな丘陵が連なり、ヤブツバキやサザンカなどが植えられている』「歴史」パートの「古代」には、『藤原宮跡から出土した木簡(貢進物付札)には「佐久嶋」の、また奈良時代の平城京跡から出土した木簡には「析嶋」の文字が見られ、島周辺の海産物を都に届けた記録も残っている』とあり、「中世・近世」の項には、『中世には志摩国の属国であったとされるが、鎌倉時代には吉良氏の勢力下に入り、三河湾内の』他の二島(日間賀島と篠島)『とは異なり三河方面との結びつきが深まった。江戸時代初期は相模国甘縄藩領だったが』、元禄一六(一七〇三)年には『上総国大多喜藩領となった。コノワタは大多喜藩の幕府献上品であり、現在も佐久島の特産品である』。『伊勢・志摩と関東を結ぶ海上交通の要衝にあることから、江戸時代には各地を結ぶ海運で繁栄を築き、吉田(現在の豊橋市)と伊勢神宮の結節点としても栄えた。吉田・伊勢間は陸路では』約四日かかるが、『海路では最短半日で着くことができ、金銭的余裕のない参拝者、遠江国や三河国など近隣諸国からの参拝者に多く利用されたという。江戸時代には海運業が経済の中心であり、海運業以外では東集落は主に漁業を、西集落は主に農業を経済基盤とした。大型船のほかに小型船の根拠地でもあり、知多半島で生産された陶器類を熊野灘まで運んだり、熊野の材木を名古屋や津に運んでいた』とある。また、『愛知県の知多半島や三河地方は弘法大師(空海)信仰が盛んな土地であり、佐久島には四国八十八箇所霊場の写しである佐久島新四国八十八箇所がある。山間や集落の辻々に置かれた祠、寺院に置かれた大師像で』八十八ヶ所の弘法霊場を形成していた』とある(すべてが現存しているわけではない)。但し、これは大正二(一九一三)年に観光開発的な『意図を持って始まった祭祀であり、戦前には知多半島や渥美半島などから団体客が訪れ、主に一泊二日で島内の八十八箇所を巡ったが』、昭和三十年代前半『以降は参拝目的の来島者はほとんどいないという』というから、この僧と佐久島新四国八十八箇所の関係はない。ただ、『東部にある八劔神社・神明社は平安時代の万寿年間』(一〇二四年~一〇二八年)『の創立、江戸時代初期の再建とされ』、東部にある阿弥陀寺は阿弥陀如来を本尊とする浄土宗西山深草派の寺院であり、観音堂は』永正二(一五〇五)年の開山と伝えられ『八劔神社で行なわれる正月行事は八日講と呼ばれ、その起源は定かではないが、祭具の中には』宝暦六(一七五六)年『の銘が入った膳もあり、江戸時代中期にはすでに行なわれていたようである。八日講では「鬼」の字が書かれた大凧に向かって厄男が弓矢を射り、島民は災難除けとなる凧の骨を奪い合う。鎌倉時代初期の』建久三(一一九二)年には、鳥羽天皇第七皇子の『覚快法親王が開基とされる崇運寺が建立され、崇運寺には徳川家康が滞在したという言い伝えがある』。現在でも八月十五日には崇運寺で四百年の伝統を持つ『盆踊りが行なわれ、盆踊り後には東西の港から茅(ちがや)で作った船に蝋燭を灯して先祖を送る精霊流しが行なわれる。佐久島弁財天(筒島弁財天)は八百富神社(蒲郡市・竹島)や三明寺(豊川市)と合わせて三河三弁天のひとつであ』るとあり、他にも「教育」の項に、『江戸時代後期から明治時代初期には崇運寺・妙海寺・阿弥陀寺で寺子屋が開かれて』いたとあるから、これらの寺の孰れかであろう。この島の御出身の方、本テクストの情報や春江の絵などからこの僧の居た寺を同定して頂けると嬉しい。

・「盤」これなら皿状のものとなるが、春江の挿絵を見ると、小さな壺である。訳では壺とした。

・「妄りに」ここは、むやみやたらに、一心に、一気に素早くの意であろう。

・「白塩」精製した、粒のやや大きめな乾燥した海塩。

・「攪き勻して」塩分を均等に行き渡らせつつ、激しく攪拌した上、平らにならすという謂いであろう。

・「佳境遊覧」伊董随庸(いとうずいよう)なる人物が江戸後期に書いた尾張藩地誌らしい。「海邦名勝志」「張州名勝志」とも称する。

・「大永二年」西暦一五二二年。室町幕府末期。

・「祇園會御見物御成記」大永二年六月に前年末に第十二代将軍に就任していた足利義晴が三条亭に於いて催した祇園社祭礼見物の記録。

・「このわた桶金臺繪あり」金で出来た高台で上に蒔絵が施された器に、「このわた」が盛られてあったものか。

・「室町殿日記」安土桃山から江戸前期にかけて成立した楢村長教(ならむらながのり)によって書かれた虚実入り混じった軍記物で実録日記ではない。「室町殿物語」とも。

・「御咄の人々」御伽衆(おとぎしゅう)。主君の側近くにあって話相手をする役で、御咄 (おはなし)衆とも呼んだ。戦国時代以降、戦陣の慰安のための話、武士としての心得などについての話が喜ばれた。大内氏や武田氏などで老臣、功労者に話をさせたことに始まり、やがて毛利・豊臣・前田・徳川諸氏の間でも行われるようになった(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

・「蛎」牡蠣。マガキCrassostrea gigas としておくが、季節が不詳なので、イワガキ Crassostrea nippona の可能性も高いか?

・「つべた貝」腹足綱直腹足亜綱新生腹足上目吸腔目高腹足亜目タマキビガイ下目タマガイ上科タマガイ科ツメタガイ Glossaulax didyma 。夜行性で、砂中を活発に動き回る。通常は軟体部は殻から大きく露出しており、殻全体をほぼ完全に覆い尽くしている。肉食性で、アサリ・ハマグリなどの二枚貝を捕食する。二枚貝を捕捉すると、まず、獲物の殻の最も尖った殻頂部に対し、外套膜の一部から酸性の液を分泌して、殻の成分である炭酸カルシウムを柔らかくさせた上で、口器にあるヤスリ状の歯舌を用いて平滑に削り取ってゆき、二ミリメートル程の穴を空けて獲物の軟体部を吸引する。養殖二枚貝の天敵として知られるが、食しても上手い。但し、多量に食うと下痢をする。これは遠い昔の私自身の痛い実体験である。

・「幽齋」武将にして歌人の細川幽斎(天文三(一五三四)年~慶長一五(一六一〇)年)。京都生。三淵晴員(みつぶちはるかず)の次男であったが、伯父細川元常の養子となった。細川忠興(ただおき)の父。足利義晴・義輝及び織田信長に仕え、丹後田辺城主となり、後に豊臣秀吉、徳川家康に仕えた。和歌を三条西実枝(さねき)に学び、古今伝授を受けて二条家の正統としても仕えた。有職故実・書道・茶道にも通じた。剃髪して幽斎玄旨と号した(講談社「日本人名辞典」に拠る)。

・「かきくらしふるしら雪のたべたさにこのわためしてあたゝまりませ」「かきくらす」は「搔き暗す」(他動詞サ行四段活用)で、あたり一面を暗くするを原義とし、さらに心を暗くする、悲しみにくれるの意を持つ。ここは両者の意を掛けるものと思う。それは、童門冬二氏の「小説 千利休 秀吉との命を賭けた闘い」(PHP研究所一九九九年刊)の中に、この狂歌につき、非常に面白い記述があり、それに基づく私の推理である。以下に引用する(私は本書は未見。グーグル・ブックスを視認した)。

   《引用開始》

 この頃の話にこんなものがある。地元の名産物である〝かき〟〝つめた貝〟(球形の貝殻をもつタマガイ科の巻き貝。砂泥をかためてつくる卵絵画茶碗を伏せた形で「砂茶碗」と呼ばれる)〝なまこ〟を献上した。秀吉は喜んで、

「幽斎殿、この献上物を素材に一つ歌を詠んでくださらんか」

 と持ち掛けた。幽斎はニコリと笑ってすぐ詠んだ。

「かきくらしふるしらゆきのつめたさに

  このわためしてあたためぞする」

 秀吉は思わず、

「おおう!」

と声をあげ、並み居る大名たちは歓声を上げた。幽斎の歌は、見事に献上された三つの品を詠み込んだだけではない。もう一つ意味があった。それは、

「このわたを男のシンボルに塗ると、熱を持って袴を突き上げるまともに歩けない」

 という俗信があるからだ。したがって幽斎は、

「関白様、もっと頑張りなさい」

 と暗(あん)にからかったのである。秀吉は妙なことを知っていた。だから、思わず感嘆の声をあげたのである。[やぶちゃん注:以下略。]

   《引用終了》

私は迂闊にも、こんな話は知らなかった。しかし、なかなかお世継ぎの出来なかった秀吉のことを考えると、これ目から鱗だ! 「尾張名所図会」の筆者岡田啓・野口道直(私は秘かにこの記事は野口の記したもののように感じている)も、実はこの詠歌の裏の意味を知っていて、さりげなく出したのではなかろうか? 御伽衆というのは、そうしたぶっ飛んだ傾奇者(かぶきもの)としての一面を持っていたはずであり、その彼らが、幽斎の狂歌に驚いたということを意味する本叙述は、確信犯でその裏の性的な意味を即座に理解したことを示すものであって、それをまた「室町殿日記」の作者は確信犯で理解していたからこそ、かく書いたとしか思われないからである。童門氏に大感謝!

 

□やぶちゃん現代語訳(読み易さを考え、適宜、改行を施した。)

 

海鼠腸(このわた)  大井村の名産。既に「名古屋名所図会」に記載しておいたものであるが、その主旨に幾分、誤りがあったので、依ってここの再び記すこととする。

 人見必大の「本朝食鑑」に、

 

――海鼠腸〔訓は「古乃和多(このわた)」。〕、尾張・三河から産するものを以って上品とし、武蔵国の本牧(ほんもく)のものが、これに次ぐ。諸国に於いて海鼠(なまこ)を漁(と)るところは多いけれども、膓醤(ちょうしょう)を名産として貢納して来た地域は少ない。これは、かの黄色の腸(わた)を好む者が、全くもって稀(まれ)であったことに起因する。

 近世の頃の話、三河国の柵島(さくしま)に一人の異僧がいた。戒を守ること、これ、はなはだ厳格なれども、海鼠の腸醤を調和し成すことに於いては異様な才能を持っており、その技(わざ)たるや、これ、最も奇々妙々なるものであった。その精製行程は以下の通り。

一、浦人が海鼠の腸(わた)を取り出して洗い清めた上、小さな壺に入れて僧の前に差し出す。

二、僧はこれを点検し、その腸の多少を仔細に観察した上、それに見合った自身の決めたところの分量の白塩(しろじお)を、これ、素早く腸(わた)に擦(す)りなしつつ、腸の中へ投入する。

三、その後、浦人は複数個のそれらを木箆(きべら)を用い、攪拌して、塩分を均等にした上、平らにならし、これを大きな壺に収めるおく。

四、かくして二、三日を経て、これを舐めれば、その味わい、これ、曰く言い難きほどに美味である。

 現在、貢献品として上納するものは、まさにこうして製したものである。故に「このわた」は、本来は三河の産を以って上品とするのである。但し、後にこの僧、故あって後に尾張に移り住み、そこでもまた、海鼠の腸醤を拵えたによって、尾張の産のそれを以つて、第一等の「このわた」としているのである。巷にあって、この味を知る者は皆、奇々妙々の味わいであるとしきりに称している。』

と記してある。

 伊董随庸(いとうずいよう)の「佳境遊覧」に記されてあるものもまた、これ同じである。

〇割注

 大永二年の「祇園会御見物御成記(ぎおんえおんけんぶつおなりのき)」の献立の中に、『このわた 桶・金台――蒔絵を施してあり――』

と見え、また楢村長教(ならむらながのり)の書いた「室町殿日記」には、

『ある時、秀吉公、御伽衆(おとぎしゅう)を召されて雑談などをなさっておられたところへ、さる大名方(がた)より、牡蛎(かき)・つべた貝・海鼠腸(このわた)の三種が進上されて参ったによって、太閤、これを御覧あって、

「さても幽斎! これに附けて一句ものせ!」

と、仰られたところ、幽斎殿、

「畏って御座る。」

と、即座に、

  かきくらし降る白雪(しらゆき)の給(た)べたさにこの綿(わた)召して温まりませ

と申し上げたところ、秀吉公、大いに興じ遊ばされた、ということである。』

と記してある。

 既にその頃には、この「このわた」を世に於いて賞美していたことが分かると言えよう。

2015/04/15

奈良丸明彦博士直談

「――生物にはいろいろな形がある。……本当におぞましいのは人間のなりをして、同じ同朋とその子孫を放射線によって殺し、戦場に送るような人非人じゃないのか?」(奈良丸明彦博士直談)

曠野のオアシス

パラレルにして痙攣的な曠野(あらの)にはオアシスが必要である――

志賀理斎「耳嚢副言」附やぶちゃん訳注 「追加」(Ⅱ)

一 一とせ津波ありて大船風波に漂ひ、永代橋のもとへ吹付(ふきつけ)られ橋を大(おおい)に損(そん)ざしけるより、此(この)事公事(くじ)になりて橋守の方より申立(まうしたて)、「修復之義は畢竟(ひつきやう)大船の爲に崩されたれば、船主より致し呉(くれ)候樣に」としきりに願ひける。翁きかれて、「船も碎け橋も崩れたるは、たがひの不運天災なれば是非に及ばず」とさとされしかども、橋主合點せず、「いづれにも修復を」と訴へ不止(やまず)。爰に於て猶又申渡(まうしわた)されけるは、「右利害を聞入(ききい)れず達(たつ)て願ふ事理(ことわり)なきにもあらざれば、船主より修復をさせて取らすべし。しからば又船の損じたるは畢竟橋がありし故なれば、橋のために碎(くだけ)しもの故、船の修復は橋主より致し可遣(つかはすべし)」との事に付(つき)て、入用は船のかたおびたゝしき事なるによりて、橋守より和談(わだん)を入れて願(ねがひ)おろしになりしとなり。此(この)ニケ條はある人のもの語り、虛實の程はしらねども爰に記す。

[やぶちゃん注:これも快哉の名捌きである。

・「永代橋」ウィキの「永代橋」によれば、架橋されたのは元禄一一(一六九八)年八月で、第五代将軍徳川綱吉の五十歳を慶賀してのもので、現在の位置よりも百メートルほど上流(西岸中央区日本橋箱崎町・東岸江東区佐賀一丁目付近)で、当時大渡し(深川の渡し)のあった場所であるとあり、隅田川に掛けられた橋としては四番目のものだったとある。以下、『「永代橋」という名称は当時佐賀町付近が「永代島」と呼ばれていたからという説と、徳川幕府が末永く代々続くようにという慶賀名という説(「永代島」は「永代橋」から採られたとする)がある』。『架橋を行ったのは関東郡代の伊奈忠順。上野寛永寺根本中堂造営の際の余材を使ったとされ』、る長さ百十間(約二百メートル)・幅三間余(約六メートル)で、『隅田川で最も下流で、江戸湊の外港に近く船手番所が近くにあり、多数の廻船が通過するために橋脚は満潮時でも』三メートル以上あり、『当時としては最大規模の大橋であった。橋上からは「西に富士、北に筑波、南に箱根、東に安房上総」と称されるほど見晴らしの良い場所であったと記録(『武江図説』)に残る』。幕府財政が窮地に立った享保四(一七一九)年には、『幕府は永代橋の維持管理をあきらめ、廃橋を決めるが、町民衆の嘆願により、橋梁維持に伴う諸経費を町方が全て負担することを条件に存続を許された。通行料を取り、また橋詰にて市場を開くなどして維持に務めた』が、文化四年八月十九日(グレゴリオ暦一八〇七年九月二十日)の深川富岡八幡宮の十二年振りの祭礼日に、詰め掛けた群衆の重みに耐え切れず、知られた悲惨な落橋事故を起こした。『橋の中央部よりやや東側の部分で数間ほどが崩れ落ち、後ろから群衆が次々と押し寄せては転落し、死者・行方不明者は』実に千四百人を超え、『史上最悪の落橋事故と言われている。この事故について大田南畝が、下記の狂歌や「夢の憂橋」を著している』とある。この未曾有の落橋の大惨事に関わる、しかし最後にほっとするいい話が「耳嚢 巻之八 不思議に失ひし子に逢ふ事」にある。未読の方は是非お読みあれ。

・「和談」ここでは審理が開始されており、途中で両者に話し合いをさせている形式を採っている。これは民事上の訴訟が開始されている中で、当事者が構造上、互いに譲歩して争いをやめる契約をした「和解」であるから、当時の謂いならば「内済(ないさい)」(現行の「和解」)に相当するか。……しかしこれ、例の文化四年のカタストロフの前か後か? 「虛實の程はしらねども」という謂いからはずっと前の話のように見えるが……とすると……この船の与えたダメージが……まさか……いやいや……余計な考えは、これ、やめにしておくことと致そう……本当かどうか定かでないというのだから……

 

■やぶちゃん現代語訳

 

一 とある年、津波のあって、大船(おおぶね)が強き波風に漂い、永代橋の所へ一気に吹き寄せられてしまい、船体が橋に激突、橋は大きく損壊してしまった。

 それにより、この事故が公事(くじ)の対象となり、橋守(はしもり)の方から申し立てのあって、

「――損壊せる橋の修復の儀はこれ――畢竟(ひっきょう)――かの大船の衝突によって崩されたものでありますれば――これは当然――事故を引き起こしたかの船の船主より――橋修繕の全費用――これ――出して戴きたく存ずる。――」

と、しきりに願い出て参ったと申す。

 翁、この訴えをお聴きになられて、

「……船も砕け、橋も崩れたという事実はこれ……双方ともに損害を被った大いなる不運であったし……津波と申すはこれ、天災の結果なれば、是非に及ばざる出来事と言うべきものであろうに。……」

と、やんわりとお諭しになられた。

 けれども、橋主はいっかな合点せず、

「――ともかくも――あちらさまより御修復をこれ、願い上げまする!」

と訴えを止めり気配がなかった。

 されば、翁、この橋守と船主の当事者二人を呼びつけた上で、徐ろに、取り敢えずの裁きを申し渡した。それは――

 

――右双方の受けたる利害を納得致さず、橋主が、たって橋修復の費用は船主がこれ全額を払うべきであると願うことは、理(り)に叶わぬこととも言い難きことであるによって、船主より修復をさせて取らすがよい。

……但し

……その理屈をあくまで押し通すと申すということはこれ以下の謂いも真となる。

……それは

――然らばまた、船が損壊したのは畢竟――そこに橋があったから――である。

――されば船は橋のために碎(くだけ)たのであるから

――船の修復の全費用はこれ――

――橋主より確かに全額を支払い遣わすように――。以上。」

 

とのことで御座った。

 すると橋守は俄然、青くなってしもうた。

 何故なら、激突した船はこれ、極めて大型の仕様の立派な廻船であったからであった。

 修復にかかる費用たるや、その船の方が遙かに莫大なものであろうことは、これ、ど素人にも分かるものだったからである。

 されば、橋守、泡食ってお白洲にて、早速に船主と相談を始め、訴えはこれ、即座にとり下げと相成った。……

――前のどんど橋とこの永代橋の橋がかりの二ヶ条はこれ、とある御仁のもの語って御座ったものにして、果たしてそれが本当に翁の捌きで御座ったものか、そうでなかったか、その虚実のほどは存ぜぬものの、如何にも翁らしい話柄にては御座ればこそ、ここに記しおくことと致いた。]

2015/04/14

北條九代記 卷第七 貞永式目を試む 付 關東飢饉

      〇貞永式目を試む 付 關東飢饉

寛喜四年二月二十七日將軍賴經公、右近衞中將に補せられ給ふ。從三位は元の如し。同四月二日、改元ありて貞永と號す。同五月に、武藏守泰時、政道を專(もつぱら)にせらるゝ餘御成敗の式條を試み候べしと、日比、内々御沙汰あり。玄蕃允(げんばのじよう)康連(やすつら)に仰せ合せちれ、法橋圓全(ゑんぜん)を執筆(しゆひつ)として、五十ヶ條を定めらる。同七月十日、政道に私(わたくし)なき事を表して、評定衆十一人起請文連署し、相摸守時房、武藏守泰時、猶この起請文に判形を居(すゑ)られたり。今日より以後、訴論の是非、堅くこの法を守りて、裁許せらるべきの由、定めらる。是即ち古(いにしへ)、養老二年に、淡海公、既に律令を撰ぜられし、是に准ずべきものか。彼(かれ)は海内(かいだい)の龜鏡(ききやう)、是は関東の鴻寶(こうはう)なり。今に及びて天下國家の政務この式目に隨ふときんば、上に奉行頭人(とうにん)に私曲(しきよく)なく、下に論訴怨愁(そんををんしう)の人なし。腎讓廉義(じんじやうれんぎ)の軌範(きはん)、國家安泰の寶典(はうてん)なり。然るに去年、今歳、如何なる氣運に當りぬらん、打續き、大雨、大風、大地震、洪水、旱魃、火難、疫癘(えきれい)あらゆる天災地妖あり。この御祈(おんいのり)の爲(ため)、大法祕法を行はるゝに止む時なし。今年は猶飢饉災(ききんさい)の起りて、米穀湧貴(いうき)し、柴薪(さいしん)高直(かうぢき)にして、粟(ぞく)は玉を炊(かし)き、薪(たきぎ)は桂(かつら)を燒くといふ世になりて、人民百姓等(ら)、困窮する事、云ふ計(ばかり)なし。親に離れ、子を販(ひさ)ぎても、朝夕の煙(けぶり)、竈(かまど)に絶え、飲食の便居(たより)ながら失(うしな)うて、旅館の巷(ちまた)に袖を擴(ひろ)げ、高貴の門(かど)に食を乞うても、遂には、溝瀆(こうどく)に行倒(ゆきたふ)れて、餓死する者、道路に充てり。武藏守この有樣を聞き給ひて、胸を痛み、肝(きも)を爛(たゞらかし)し、貧弊飢凍(ひんへいきとう)の民を救はんとて、矢田〔の〕六郎左衞門尉に仰せて、八木九千餘斛(よこく)を借賑(かしにぎは)さる。當年の辨償、叶ふまじくは、來年の糺返(きうへん)を待ち給ふべき由、仰出されけり。美濃國高城西郡(たかきのにしごほり)大久禮(おほぐれ)より、上(かみ)千餘區の納貢(なふぐ)を停(とゞ)めらる。往返(わうへん)の流浪人(るらうにん)等(ら)には、粥を煮て賑(にぎは)し、緣者を尋ねて、行歸(ゆきか)ふ者には行程の日數(ひかず)を勘(かんが)へて、旅の粮米(らうまい)を與へられ、止住(しぢう)すべしと申す者は、その所の莊園に預置(あづけお)き給ふ。故に貧孤(ひんこ)の愁(うれへ)、少(すこし)は扶(たす)けられ奉りて、喜ぶ事、限(かぎり)なし。

[やぶちゃん注:前半部(頼経の昇叙(以下に注するように叙任は誤り)と泰時の貞永式目の公布)は「吾妻鏡」巻二十八の寛喜四(一二三二)年三月三日、貞永元(一二三二)年四月十四日及び五月十四日、七月十日、八月十日を、後半部(泰時による飢饉の窮民救済のための米・食料の施し)は同巻二十八の貞永元年十一月十三日の条に基づく。因みに寛喜四年は四月二日に貞永元年に改元されている。

「寛喜四年二月二十七日將軍賴經公、右近衞中將に補せられ給ふ。從三位は元の如し」誤り。「吾妻鏡」の同年三月三日の条に、『此間京都飛脚到著。持參去月廿七日御上階〔從三位。中將如元。〕聞書。』(此の間、京都の飛脚到著、去ぬる月廿七日、御上階〔從三位。中將、元のごとし。〕の聞書きを持參す。)で、従三位に昇格し、中将はもとのままである。因に、右近衛中将になったのは従四位上に昇叙した六年も前の嘉禄二(一二二六)年三月二十五日のことである。

「法橋圓全」現在の山口県湯梨浜町(旧東郷町)出身の御家人、東郷八郎左衛門尉原田良全なる人物の法号で、「御成敗式目」の原案執筆者であった(ネット上ではワード文書で彼について詳細な考証をなさった方の論文を読むことが出来る「原田良全と御成敗式目」で検索を掛けられたい。恐らく頭に関連した二篇が出るはずである)。

「養老二年」西暦七一八年。

「淡海公」藤原鎌足の次男藤原不比等(斉明天皇五(六五九)年~養老四(七二〇)年)。淡海公は国公(こっこう:在俗のままに没した臣下の者に限って漢風の諡号と官位同様の形式上の領主地名が附された。「淡海」は近江国。)。因みに諡号は文忠公で、臣下に贈られた諡号の嚆矢である。

「律令」養老律令。不比等は先行する大宝律令の編纂にも関与したとされ、その後にそれを修正した養老律令の編纂作業に取りかかったが、天平宝字元(七五七)年に施行される三十七年前に病死している。養老律令を実際に施行実施したのは彼の孫藤原仲麻呂であった。

「頭人」訴訟審理機関である引付衆の引付頭人。奉行の下で訴訟審理の実務に当たった首席官。

「彼は海内の龜鏡、是は関東の鴻寶なり」養老律令を海内(日本)のまことを鮮やかに写し出す鏡であり、式目は関東の大いなる宝である。

「湧貴」高騰。

「柴薪」柴や薪(たきぎ)などの燃料。

「高直」高値。

「粟は玉を炊き」粗末な粟(あわ)を炊くのにも大切に一粒零すことも出来ず、あたかも宝玉を炊いているかの如くに飢えて。

「薪は桂を燒く」ただの木端のような薪(たきぎ)でさえも、あたかも月にあるという伝説の霊木である月桂を燃やすかの如くに惜しんで。実際の桂の木(桂や別種の肉桂)では私は前の『玉』とバランスがとれないと思う。教育社の増淵勝一氏の訳では『高価な柱の木』と訳されているが(実際、私も原典の「桂」を「柱」に読み違えそうにはなったが)、別版本の原典画像を確認しても『桂(カツラ)』とあるので、これは失礼乍ら、話にならない。

「親に離れ、子を販ぎても」年老いた親を見捨てて野中や山に捨て去り、女子どもを女衒に売り払っても。

「旅館の巷に袖を擴げ」増淵氏はここを『そこで人生の旅の宿である町中でそでを広げて物を乞い』とされる。いい訳である。

「溝瀆」汚れた下水の溝。

「矢田六郎左衞門尉」不詳。「吾妻鏡」ではここにしか出ない名である。

「八木」「はちぼく」或いは「こめ」と読む。米のこと。「米」の字を分解すると「八」と「木」になるところから。

「九千餘斛」大化の改新で決められた一年に人が必要とする米一石(二・五俵、現在の約百五十キログラムで、これを生産出来る面積を一反とした)に換算すると、九千石は千三百五十トンに相当する。

「借賑さる」「賑わふ」は豊かにになる、富み栄えるであるから、貸し与えて豊かにさせた、の意。

「糺返」「ただしかへし」(或いは動詞形で「ただしかへす」)とも訓じ、相論の対象となったものについて、所有の正当性を糺明して原状に回復させることをいう。ここは、今年中に返せない場合は貸さずともよく、その本来の返納分を来年度に返済する(また借りた場合はそれに足して)のでもよいとしたのである。

・「美濃國高城西郡大久禮」「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の当該条の注に、『岐阜県安八郡輪之内町。大樽庄で、旧下大樽村と下大樽新田が他村と合併して仁木村となり、再度合併して輪之内町となる』とある。安八郡は「あんぱちぐん」、輪之内町は「わのうちちょう」と読み、岐阜県西部。「輪之内」とは輪中の内の意である。

・「上千餘區の納貢」「上」は上納で後の「納貢」(後掲する「吾妻鏡」の「乃貢」に同じ。田畑の耕作者がその領主に対して貢納する租税。年貢)との畳語か? それとも「吾妻鏡」のここの原文(後掲)にある『以上』のように「高(たか)」などと同じく数値を示す数詞的接頭語か? 「區」については、増淵氏は田畑の単位面積「町」で訳しておられる。私もそれで採る。とすると千町は九百九十ヘクタールに相当する。

・「往返の流浪人」街道をあてどなく往ったり来たりする飢えた放浪者たちの群れを指す。後掲する「吾妻鏡」に見るように、これは前に続いて美濃国の杭株河(くいぜがわ)の宿駅(杭瀬川宿は現在の大垣市赤坂町にあった)での実景である。

・「緣者を尋ねて、行歸ふ者」辛うじて縁者を頼って他の国へと救いを求めて行こうとする難民。

・「旅の粮米」目的の縁者の方に辿り着くまでに最低必要な糧米。

・「止住すべしと申す者」もはや、動けず、何とかここで留まりたいと願い出た者。

 

 以下、比較するに必要と思われる「吾妻鏡」同巻二十八の貞永元(一二三二)年十一月十三日の条のみを引いておく。

 

〇原文

十三日己未。依飢饉。可救貧弊民之由。武州被仰之間。矢田六郎左衞門尉既下行九千餘石米訖。而件輩今年無據于弁償之旨。又愁申之。可相待明年糺返之趣。重被仰矢田云々。凡去今年飢饉。武州被廻撫民術之餘。美濃國高城西郡大久礼以上千餘町之乃貢。被停進濟之儀。遣平出左衞門尉。春近兵衞尉等於當國。於株河驛。被施于往反浪人等。於尋緣邊上下向輩者。勘行程日數與旅粮。至稱可止住由之族者。預置于此庄園之間百姓被扶持之云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

十三日己未。飢饉に依つて、貧弊(ひんぺい)の民を救ふべきの由、武州、仰せらるるの間、矢田六郎左衞門尉、既に九千餘石の米を下行(げぎやう)し訖んぬ。而るに件(くだん)の輩(やから)、今年辨償據(よんどころ)無きの旨、又、之を愁へ申す。明年を相ひ待ちて糺返(きうへん)すべきの趣き、重ねて矢田に仰せらると云々。

 凡そ去今年(こぞことし)の飢饉、武州、撫民(ぶみん)の術を廻(めぐ)らさるるの餘り、美濃國高城西郡(たかぎにしごほり)大久礼(おほくれ)、以上千餘町の乃貢進濟(なうぐしんせい)の儀を停められ、平出左衞門尉・春近兵衞尉等(ら)を當國に遣はし、株河(くひぜがは)驛に於いて、往反(わうへん)の浪人等(ら)に施さる。緣邊(えんぺん)を尋ぬる上下向(じやうげかう)の輩に於いては、行程の日數(ひかず)を勘(かんが)へて旅粮(りよらう)を與ふ。止住(しぢゆう)すべきの由を稱するの族(うから)に至りては、此の庄園の間、百姓に預け置き、之を扶持せらると云々。

 

・「下行」米などを下賜すること。

・「乃貢進濟」年貢の貢進を済ませること。

・「平出左衞門尉」不詳。「吾妻鏡」ではここにしか出ない名である。

・「春近兵衞尉」不詳。同前。因みに、かつて岐阜県山県郡に春近(はるちか)村があり、これはかつてこの地域に存在した春近荘という荘園の名に由来すると、ウィキ春近村」にある。現在は岐阜市に編入されているともある。無論、この人物と関係があるかどうかは不明で、大久礼(岐阜県安八郡輪之内町)とはかなり地理的には離れている。しかし「春近」という姓は少し変わっているので一応、記しておく。]

北條九代記 卷第七 鎌倉失火

      ○鎌倉失火

同十月二十五日、晩景に及びて、大風、南より吹出でたり。相摸守時房の公文所より、火出でて、戌刻計(ばかり)、風愈(いよいよ)はしたなく、頻(しきり)に扇(あふ)ぎける程に、東は勝長壽院の橋の邊(ほとり)、西は永福寺の總門の内に至るまで燄(ほのほ)飛び、※(ひのこ)散りて吹迷(ふきまよ)ふ、煙に咽び、人畜(にんちく)の焼死(やけし)すること、數を知らず[やぶちゃん字注:「※」=「火」+「更」。]。右大將家、右京兆(うけいてう)の法華堂、竝に本尊等一時に灰燼となりにけり。同二十七日、評定所に於いて、式部大夫入道光西(くわうさい)、相摸大掾(のだいじよう)業時(なりとき)、執(しつ)しまうしけるは、「法華堂竝に本尊の災(さい)の事、假(たと)ひ理運の火災たりといふとも、關東に於ては愼み畏れ思召すべし。造營の事評定を經(へ)らるべきか」と。攝津守師員(もろかず)、隱岐〔の〕入道行西、玄蕃允康連(のじょうやすつら)、申しけるは「墳墓の堂は、炎上の後は、再興の例なし」と。是に依て、只、御助成(ごじよじやう)有りて寺家に仰付けらるべしと議定す。五大尊の像に於ては、將軍家の御願として造立あるべし。右大將家の法華堂は寺家に付(ふ)せられて再興あり。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻二十七の寛喜三(一二三一)年十月二十五日・二十七日に基づく。

「戌刻」午後八時頃。但し、「吾妻鏡」(後掲)では『戌四尅』とあるから、午後九時から九時半頃になる。

「右大將家、右京兆の法華堂」「右大將家」「の法華堂」は現在の伝頼朝の墓左下方にあり、「右京兆の法華堂」は、恐らくはその東方の山麓(現在の伝頼朝墓の東にある大江広元墓や島津忠久墓へ上ぼる手前の空地)にあったものと推定される。

「式部大夫入道光西」評定衆伊賀光宗(みつむね 治承二(一一七八)年~康元二(一二五七)年)。既注であるが再掲する。伊賀朝光の次男。姉妹である伊賀の方が義時の後室となり、自身も政所執事を務めるなど、有力御家人として重用されたが、伊賀の変で信濃国に流された。この時既に四十六歳であったが、その後、政子の死後に罪を許されて所領を回復、寛元二(一二四四)年には評定衆に就任して幕閣への完全な返り咲きを果たした。参照したウィキの「伊賀光宗」の注によれば、『伊賀氏謀反の風聞については北条泰時が否定しており、『吾妻鏡』でも伊賀氏が謀反を企てたとは一度も明言しておらず、政子に伊賀氏が処分された事のみが記されている。伊賀氏の変は、影響力の低下を恐れる政子が義時の後妻の実家である伊賀氏を強引に潰すために創り上げた事件とする見方もある(参考文献:永井晋『鎌倉幕府の転換点 「吾妻鏡」を読みなおす』日本放送出版協会)』とあり、恐らく泰時もそうした真相を知っていたが故に、彼の所領を安堵したものであろう。ここに出る評定衆の中では彼のみが初代の構成員ではない。

「相摸大掾業時」評定衆佐藤業時(建久元(一一九〇)年~建長元(一二四九)年)。嘉禄元(一二二五)年に幕府に評定衆が設置された当初からの一員。仁治(にんじ)二(一二四一)年に落書の罪(「吾妻鏡」に載るが、具体的な内容は示されていない)で評定衆を罷免され、直後に鎮西に配流されたが、後に赦されて鎌倉に戻った。なお、教育社の増淵氏の訳では北条業時(泰時の弟重時の子)とするが、失礼乍ら、彼は仁治二(一二四一)年(或いは翌年)の出生で寛喜三(一二三一)年の本件の登場人物たり得ない。

「攝津守師員」評定衆中原師員(文治元(一一八五)年~建長三(一二五一)年) 鎌倉時代の幕府官僚。やはり初代評定衆の一員。

「隱岐入道行西」評定衆二階堂行村(久寿二(一一五五)年~嘉禎四(一二三八)年)。やはり初代評定衆の一員。父はかの重鎮二階堂(工藤)行政。行西は法名。

「玄蕃允康連」三善(太田)康連(建久四(一一九三)年~康元元(一二五六)年。やはり初代評定衆の一員。父はかの初代問注所執事三善康信。後の第四代問注所執事。

「理運の火災」「理運」は、そうなって当然と言わざるを得ない巡り合わせで、已むを得ない回禄の意。但し、「吾妻鏡」(後掲)には盗賊による放火の疑いがあるとあるから、もしそうだとすれば、仕方がない天災とは言えず、何だか少しおかしい気がする。

「墳墓の堂は、炎上の後は、再興の例なし」当時の武士階級の死生観を知る上でなかなか面白い発言である。ここには墳墓建立が財政を逼迫させる元凶であったことへの本音が見え隠れする。そもそもこの時期は実際、鎌倉御府内には墓所が増え過ぎて、都市計画の深刻な障害となりつつあった。事実、この後年、幕府は新規の墳墓の造立を公的に規制し始めるのである。

「五大尊」五大尊明王。一般に真言密教では不動明王を中心に降三世(ごうざんぜ)明王(東)・大威徳(だいいとく)明王(西)・軍荼利(ぐんだり)明王(南)・金剛夜叉(こんごうやしゃ)明王(北)を配する(台密では金剛夜叉明王の代わりに烏枢沙摩(うすさま)明王を配す)。これは文脈からいうと、それを祀っていたのは頼朝或いは義時の法華堂ということになるが、「吾妻鏡」(後掲)にはこうした叙述は見られないので、やや不審である。勝長寿院に附属した五仏堂にこれを祀っていたが、この時は勝長寿院の橋の辺りまでしか延焼しておらず(後掲「吾妻鏡」参照)、違う。気になるのは、「吾妻鏡」のこの二十一日後の翌十一月十八日の条に、

〇原文

十八日庚子。將軍家御願五大尊像被奉造始之。師員。光西。康連等爲奉行云々。」今日。右大將家法花堂上棟也。此事被付寺家云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

十八日庚子。將軍家御願の五大尊像、之を造り始め奉らる。師員・光西・康連等奉行たりと云々。

 今日、右大將家法花堂の上棟なり。此の事、寺家に付せらると云々。

とあることである。「北條九代記」の本章の、この最後の部分、「是に依て、只、御助成有りて寺家に仰付けらるべしと議定す。五大尊の像に於ては、將軍家の御願として造立あるべし。右大將家の法華堂は寺家に付せられて再興あり」というのは実は、この二つの別々な記事(この二年後の文暦二年六月に落成する将軍頼経の祈誓になる御大堂明王院に祀られることになる五大尊像の造立開始記事と、頼朝の法華堂再興の棟上げ式の記事)を、無批判にこの回禄による明王院建立の延期を述べた部分(これは後掲するように「吾妻鏡」にははっきりと表わされているのである)に、無理矢理、カップリングして挿入してしまった二重の誤りによるものではなかろうか? 大方の御批判を俟つ。

 

 以下、「吾妻鏡」巻二十七の寛喜三(一二三一)年十月二十五日・二十七日を続けて示しておく。

 

〇原文

廿五日丁丑。晴。及晩大風吹。戌四尅。相州公文所燒亡。南風頻扇。東及勝長壽院橋邊。西迄于永福寺惣門之内門。烟煙如飛。右大將家幷右京兆法花堂同御本尊等爲灰燼。凡人畜燒死不知其員。是盜人放火之由。有其聞云々。

廿七日乙夘。晴。相州。武州參評定所給。攝津守師員。駿河前司義村。隱岐入道行西。出羽前司家長。民部大夫入道行然。加賀守康俊。玄番允康連等出仕。式部大夫入道光西。相摸大掾業時。執申法花堂幷本尊災事。縱雖爲理運火災。於關東尤可怖畏思食之由。各進意見状。同造營事。被經評定處。如師員。行西。康連。墳墓堂等炎上之時。無再興例之由依申之。有御助成。可仰寺家之旨議定云々。又兩御願寺新造事。依此火災延引。爲第一德政之由。世以謳謌云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿五日丁丑。晴る。晩に及び、大風吹く。戌の四尅、相州の公文所、燒亡す。南風、頻りに扇(あふ)ぎ、東は勝長壽院の橋の邊りに及び、西は永福寺惣門の内門に迄(いたるまで)、烟煙、飛ぶがごとし。右大將家幷びに右京兆の法花堂、同じく御本尊等、灰燼と爲(な)る。凡そ人畜の燒死、其の員(かず)を知らず。是れ、盜人の放火の由、其の聞こへ有りと云々。

廿七日乙夘。晴る。相州・武州、評定所に參り給ふ。攝津守師員・駿河前司義村・隱岐入道行西・出羽前司家長・民部大夫入道行然・加賀守康俊・玄番允康連等、出仕す。式部大夫入道光西・相摸大掾業時、法花堂幷びに本尊災ひの事を執(と)り申し、

「縱(たと)ひ理運の火災たりと雖も、關東に於いて尤も怖畏(ふい)に思(おぼ)し食(め)すべし。」

の由、各々意見の狀を進む。同じく造營の事、評定を經らるる處、師員・行西・康連のごときは、

「墳墓堂等(とう)炎上の時、再興の例無し。」

の由、之を申すに依つて、

「御助成有りて、寺家(じけ)に仰(おほ)すべし。」

の旨、議定すと云々。

 又、兩御願寺新造の事、此の火災に依つて延引す。第一の德政たるの由、世、以つて謳謌(おうか)すと云々。

・「相州」北条重房。

・「公文所」しばしばお世話になっている「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の同条の「参考」によれば、『当時は一棟一部屋なので、別棟であろう。大倉幕府跡』地にあったか、と推定されてあり、以下、「勝長壽院橋」については『現在の大御堂橋のあたりであろうか?』、「永福寺惣門の内門」については『門が二重にあったのだろうか?』とある。また、「東は勝長壽院の橋の邊に及び、西は永福寺惣門」とある部分については、『東西が反対ではないか?或いは筋替橋のあたりに永福寺の総門があったの』か? 若宮大路は東に二十七度も大きくぶれているのだが、『それを南北にあってるものと前提して考えると、又、永福寺総門が筋替橋あたりにあったとすると旧大倉幕府一帯が燃えたようだ』と付記されておられる。リンク先には地図も示されてあるので、必見である。

・「出羽前司家長」やはり初代評定衆の一人で、幕府宿老の中條家長(ちゅうじょう/なかじょういえなが 永万元(一一六五)年~嘉禎二(一二三六)年)。渡航した北宋で亡くなった天台僧成尋(じょうじん)阿闍梨の子で、藤原道兼の流れを汲む八田知家の養子。武蔵埼玉郡上中条(かみちゅうじょう)が本拠地で中条を名乗った。一ノ谷の戦いでは源範頼に従い、その後も源頼家・実朝・九条頼経に仕えた(講談社「日本人名大辞典」に拠った)。

・「民部大夫入道行然」二階堂行盛(養和元(一一八一)年~建長五(一二五三)年)。二階堂行政の孫で鎌倉幕府の政所執事、やはり初代評定衆の一人。父は行村の兄で政所執事であった二階堂行光。行然は法名。

・「加賀守康俊」三善(町野)康俊。仁安二(一一六七)年~嘉禎四(一二三八)年)。承久三(一二二一)年に父三善康信の後を継いで第二代問注所執事となり、初代評定衆に任じられた。父が近江日野荘町野に住いしていたことから町野氏を称した(講談社「日本人名大辞典」に拠った)。

・「謳謌」謳歌。恵まれた幸せを皆で大いに楽しみ喜び合うこと。]

北條九代記 卷第七 名越邊狼藉 付 平三郎左衞門尉泰時を諫む

      〇名越邊狼藉  平三郎左衞門尉泰時を諫む

同二十七日名越の邊、俄に騷動す。越後守時盛の第(てい)に、敵打入りたりと風聞す。武藏守泰時は、評定の座におはしけるが、直(すぐ)に走(は)せ向はる。相摸守時房以下、出仕の輩、追々に行きければ、折節、越後守は他行にて、留主(るす)の侍(さぶらひ)下合(おりおう)て、悪黨兩三人を搦取(からめとり)りたり。其外の奴原(やつばら)は、或は自害し、或は打殺さして、事、靜まりけり。平三郎左衞門尉盛綱、申しけるやう、「武藏守泰時、御自分に於いては、重職に居給ふ御身なり。假令(たとひ)國敵(こくてき)なればとて、先(まづ)御使を以て左右(さいう)を聞召(きこしめ)されて、盛綱等(ら)を遣され、御計(おんはからひ)もあるべき事ぞかし。率爾(そつじ)に向ひ給ふこそ、不覺(ふかく)とは存じ候へ。向後とても、若(もし)輕忽(きやうこつ)に御振舞(おんふるまひ)にては、亂世の基(もとゐ)、世の誹(そしり)の種(たね)なるべきか」とぞ諫めける。泰時申されしは「人の世にある事は、親類を思ふが故なり。眼前に兄弟を殺害せられんは、人の笑(わらひ)を招くにあらずや。重職の詮(せん)なからんものか。武道は人躰(じんたい)に依るべからず。越後守、只今敵に圍(かこ)まるゝ由聞き候。他人は定(さだめ)て少事(せうじ)と思はるべし。泰時に於いては、建曆、承久の大敵に違(たがは)ずと存ずる所なり。聞く事なきの親者も其(その)親(しん)たる事を失ふ事毋(なか)れといへり。棠棣篇(たうていのへん)に云はずや、兄弟墻に鬩(せめ)ぐ外、その侮(あなどり)を禦ぐとあり。この大事を聞きながら、急(きふ)にせずして、子細を聞屆(きゝとゞ)けば、其間に如何なるベき。井を掘(ほり)て渇(かつ)を救ひ、舟を作りて溺れえたるを助くるがごとし。何の用にか立つべき」とぞ宣ひける。盛綱、理に伏して、面(おもて)を垂れて、敬屈(けいくつ)す。駿河〔の〕前司義村、傍(かたはら)にて承り、感涙をぞ流されける。越後守、この事を聞きて彌(いよいよ)泰時に歸伏(きふく)し、潛(ひそか)に誓狀(せいじやう)を參らせて、「子孫の末まで武州の流に對して、無二の忠節を存ずべし。逆心の企(くはだて)あるべからず」と涙と共に書き進ぜらる。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻二十七の寛喜三(一二三一)年九月二十七日の条に基づく。

「同二十七日」誤り。前条の続きならば「同月」は六月であるが、これは九月二十七日の事件である。

「越後守時盛」北条時盛で連署北条時房長男で泰時の甥に当たり、確かに「越後守」ではあったが、ウィキの「北条時盛」を見る限り、彼は貞応三(一二二四)年に時房が連署に就任すると、その跡目を継いで六波羅探題南方に就任して仁治元(一二四〇)年一月に時房が没するまで基本在京しており、以下の「折節越後守は他行にて」という叙述が何かおかしく、屋敷が名越にあるというのも実は解せない(後述)。貴志正造氏の新人物往来社版「全譯吾妻鏡」の当該条を見ると、これは時盛ではなく、北条朝時とある。これが正しい(なお、教育社の増淵氏の訳は時盛のママで訂正注などはない)。北条朝時(建久四(一一九三)年~寛元三(一二四五)年)は泰時の異母弟(十一歳年下であるが、但し、朝時は父義時の正妻姫の前の長子であった)で名越流北条氏の祖で、祖父北条時政の屋敷であった名越邸を継承したことから名越次郎朝時とも呼ばれる。以下、ウィキの「北条朝時」によれば、『北条義時の次男として鎌倉で生まれる。母は源頼朝の仲介で義時の正室となった姫の前で、正室の子としては長男であり、北条家の嫡子であったと考えられる』。ところが時十一歳の建仁三(一二〇三)年、『比企能員の変が起こり、母の実家比企氏が義時ら北条一族によって滅ぼされた事で両親は離婚し』てしまう(母姫の前は上洛して源具親に再嫁するが三年後に死去した。後に朝時は具親の次男源輔時を猶子としている)。また建暦二(一二一二)年五月、二十歳の時には、将軍実朝の御台所信子に仕えていた『官女である佐渡守親康の娘に艶書を送り、一向になびかないので深夜に娘の局に忍んで誘い出した事が露見して実朝の怒りを買ったため、父義時から義絶され、駿河国富士郡での蟄居を余儀なくされ』たが、一年後の建暦三(一二一三)年の『和田合戦の際に鎌倉に呼び戻されて兄の泰時と防戦にあたり、勇猛な朝比奈義秀と戦って負傷するなど活躍した。その後、御家人として幕府に復帰』、『承久の乱では北陸道の大将軍として、佐々木信実や結城朝広らと協力して転戦し、越後や越中の朝廷軍を撃破した。戦後は上皇方に荷担した藤原範茂の処刑を行っている』。貞応二(一二二三)年十月の時点で朝時は加賀・能登・越中・越後など北陸道諸国の守護を兼任しており、元仁元(一二二四)年六月に義時が死去すると、『泰時が六波羅探題として在京していたため、父の葬送を弟たちと共に行っている。その後、伊賀氏の変を経て』、泰時が第三代執権となる(この事件に於ける朝時の動向は不明)。嘉禄元(一二二五)年にここにある通り、越後守となり、嘉禎二(一二三六)年九月には評定衆に加えられたが、『初参ののち即辞退しており、幕府中枢から離脱する姿勢を見せている』ことに着目したい。仁治三(一二四二)年五月十七日、『泰時の病による出家に伴い、朝時も翌日に出家して生西と号した。朝時の出家の直接的な理由は不明だが、泰時の死の前後、京では鎌倉で合戦が起こるとの噂が流れ、将軍御所が厳重警護され鎌倉への通路が封鎖された事が伝わっており、朝時を中心とした反執権勢力の暗闘があった事によると見られている』とあり、『正室・姫の前を母に持つ朝時は、祖父・時政の名越邸を継承しており、細川重男は時政が朝時を後継者に考えていたのではないかと推測している』。『ただし名越邸継承の時期は不明で、朝時の元服の前年に時政は失脚しており、時政の真意は定かでない。父義時は朝時を一時義絶し、同母弟の重時が』承久元(一二一九)年)に小侍所別当、貞応二(一二二三)年に『駿河守に任じられて朝時の官位を超越していることから、父子関係は良好ではなかったとする見解もあるが、一方で和田合戦、承久の乱で活躍して義時の遺領配分では大量の所領を与えられ、朝時の名越流は一族内でも高い家格を持つ有力な家とな』っている。なお、本事件での泰時の行動に対しては、以上の通り、『朝時は感激して子孫に至るまで兄への忠誠を誓ったという。しかし、泰時の死の前後、御家人達に遅れて朝時が出家した事を、都では「日頃疎遠な兄弟であるのに」と驚きと不審を持って噂されている』(京の正二位民部卿平経高が記した日記「平戸記(へいこき)」の仁治三年五月十七日の条)。嘉禄元(一二二五)年五月の義時の喪明けの際にも、『重時以下の弟が泰時に従って行っているのに対して、朝時は前日に単独で行っており』(「吾妻鏡」五月十一日条及び十二日の条)、『自らが北条の本流という自負を持っていた可能性もある。泰時の後継者を巡って、朝時ら名越一族に不穏な動きがあったと見られるが、詳細は明かではない。その後の名越流は得宗家に常に反抗的で、朝時の嫡男光時をはじめ時幸・教時らが宮騒動、二月騒動で度々謀反を企てている』ことも、これ確かに事実で、私はこの人物をかなり怪しい男とずっと感じてきている。「逆心の企あるべからず」や「吾妻鏡」の「敢へて凶害を插むべからず」という謂いが妙にまた皮肉に聴こえてくるのである(序でに言うと、この襲撃事件自体も何か、逆に幕閣内部の反朝時勢力の謀略――泰時の与り知らぬところで動いた――の臭いが私は仄かにしてもいるのである)。因みに、この襲撃事件当時は朝時は満三十八、泰時の方は四十九歳である。

「平三郎左衞門尉盛綱」長崎氏の祖。承久の乱で北条泰時に従い、天福二(一二三四)年に尾藤(びとう)景綱に代わって泰時家家令となり、北条時頼の代まで安堵状などの奉者・使者を勤めた。

「武道は人躰に依るべからず」無論――武士(もののふ)魂――意気――である、というのである。

「棠棣篇」「常棣」が正しく、読みも「じやうてい(じょうてい)」が正しい。これは「詩経」の「小雅・常棣」の一部分である、

 兄弟鬩于牆 外禦其務

  兄弟、墻(かき)に鬩(せめ)ぐ外 その侮(あなど)りを禦(ふせ)ぐ

に基づき、「兄弟は垣根の内にて言い争うことのあっても、外から侮らるるようなことがあればこれ、兄弟、力を合わせてこれを防ぐ」の意である。

「駿河前司義村」幕府宿老で評定衆の三浦義村。

 

 以下、「吾妻鏡」巻二十七の寛喜三(一二三一)年九月二十七日の条を示す。

 

〇原文

廿七日庚戌。日中。名越邊騷動。敵討入于越後守第之由有其聞。武州自評定座。直令向給。相州以下出仕人々從其後同馳駕。而越州者他行。留守侍等於彼南隣。搦取惡黨〔自他所逃來隱居。〕之間。賊徒或令自殺。或致防戰云々。仍遣壯士等。自路次。被歸訖。盛綱諫申云。帶重職給御身也。縱雖爲國敵。先以御使聞食左右。可有御計事歟。被差遣盛綱等者。可令廻防禦計。不事問令向給之條。不可也。向後若於可有如此儀者。殆可爲亂世之基。又可招世之謗歟云々。武州被答云。所申可然。但人之在世。思親類故也。於眼前。被殺害兄弟事。豈非招人之謗乎。其時者定無重職詮歟。武道爭依人躰哉。只今越州被圍敵之由聞之。他人者處少事歟。兄之所志。不可違于建曆承久大敵云々。于時駿河前司義村候傍承之。拭感涙。盛綱垂面敬屈云々。義村起座之後。參御所。於御臺所語此事於同祗候男女。聞之者感歎之餘。盛綱之諷詞與武州陳謝。其理猶在何方哉之由。頗及相論。遂不决之云々。越州聞此事。弥以歸往。即潛載誓狀云。至于子孫。對武州流。抽無貳忠。敢不可插凶害云々。其狀。一通遣鶴岳別當坊。一通爲備來葉之癈忘。加家文書云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿七日庚戌。日中、名越邊、騷動す。敵、越後守の第に討ち入るのい由、其の聞え有り。武州、評定の座より、直(ぢ)きに向はしめ給ふ。相州以下の出仕の人々、其の後に從ひて同じく駕(が)を馳す。而るに越州は他行(たぎやう)し、留守の侍等、彼(か)の南隣りに於いて、悪黨〔他所より逃げ來りて隱居す。〕を搦め取るの間、賊徒、或ひは自殺せめ、或ひは防戰致すと云々。

 仍つて壯士等を遣はし、路次(ろし)より、歸られ訖んぬ。盛綱、諫め申して云はく、

「重職を帶び給ふ御身なり。縱ひ國敵たりと雖も、先づ御使を以つて左右(さう)を聞こし食(め)し、御計(はから)ひの事有るべきか。盛綱等を差し遣はされば、防禦の計りを廻らさしむべし。事を問はず向はせしめ給ふの條、不可なり。向後、若し此くのごとき儀、有るべきに於ては、殆んど亂世の基(もとゐ)たるべし。又、世の謗(そし)りを招くべきか。」

と云々。

武州、答へられて云はく、

「申す所、然るべし。但し、人の世に在る、親類を思ふが故なり。眼前に於いて、兄弟を殺害せらるる事、豈に人の謗りを招くに非らんや。其の時は定めて重職の詮(せん)無からんか。武道、爭(いか)でか人躰(じんてい)に依らんや。只今、越州、敵に圍まるるの由、之を聞く。他人は少事に處せんか。兄の志す所、建曆・承久の大敵に違(たが)ふべからず。」

と云々。

 時に駿河前司義村、傍らに候じて之を承り、感涙を拭(のご)ふ。盛綱、面(おもて)を垂れて敬屈(けいくつ)すと云々。

 義村、座を起つの後、御所に參り、御臺所に於いて此の事を同じく祗候(しこう)せる男女に語る。之れを聞く者、感歎の餘り、盛綱の諷詞(ふうじ)と武州の陳謝と、其の理(り)は猶ほ何方(いづれ)に在りやの由、頗る相論に及びて、遂に之を决せずと云々。

 越州、此の事を聞きて、彌々(いよいよ)以つて歸往(きわう)す。即ち、潛かに誓狀に載せて云はく、

「子孫に至るまで、武州の流(りう)に對し、無貳(むに)の忠を抽(ぬき)んでて、敢へて凶害を插(はさ)むべからず。」

と云々。

 其の狀、一通は鶴岳別當坊に遣はし、一通は來葉(らいえふ)の癈忘(はいまう)に備へんが爲に、家の文書に加ふと云々。

 

・「駕」馬。

・「歸往」往(い)って頼ること。信頼を寄せること。

・「來葉」子孫。

・「癈忘」忘れること。]

志賀理斎「耳嚢副言」附やぶちゃん訳注 「追加」(Ⅰ)

   追加   理齋主人

 

一 江戸川の鯉は俗に紫鯉(むらさきごひ)といふて名高き魚にて、船河原橋(ふながはらばし)〔俗どんどんばし〕の川際は魚漁御制禁(うをれふごせいきん)の場也。もし此鯉をひそかに盜みとり、露顯に及べば御仕置(おしおき)になるとの事なり。しかるに「右船河原橋の下にて取りしものあり」とて訴へ出る處、根岸翁其訴狀を聞かれて、「船河原橋の下にて取りしとあれば、下といふは下流の事にて、魚は活(いき)ものなるにより、橋の下をくゞり外の川え出たるを取りたるなるべし」との一言にて、子細なく濟(すみ)しは難有(ありがたし)と申(まうし)あへり。

[やぶちゃん注:文句なしの名捌き。

「江戸川の鯉は俗に紫鯉といふて名高き魚……」岡本綺堂の「半七捕物帳」の「むらさき鯉」の枕の途中で半七によって以下のように語られるシーンがある。「半七捕物帳」は私の偏愛する作品である。底本は光文社文庫一九八六年刊行「半七捕物帳(四)」を用いた。因みに『老人』というのが半七で、聴き手は若い新聞記者の『私』である。これは同捕物帳の結構の常套で(というより他の綺堂作品にもしばしば見られる導入部である)、半七の幕末の昔語りを『私』が聴いているのである。ここでの聴き取りの以下の冒頭の作品内時間は明治三一(一八九八)年十月という設定になっている。傍点は太字で示した。

   《引用開始》

「お世辞にもそう云ってくだされば、わたくしの方でも話が仕よいというものです。まったく今と昔とは万事が違いますから、そこらの事情を先ず呑み込んで置いて下さらないと、お話が出来ませんよ」と、老人は云った。「そこで、このお話の舞台は江戸川です。遠い葛飾(かつしか)の江戸川じゃあない、江戸の小石川と牛込のあいだを流れている江戸川で……。このごろは堤(どて)に桜を植え付けて、行灯をかけたり、雪洞(ぼんぼり)をつけたりして、新小金井などという一つの名所になってしまいました。わたくしも今年の春はじめて、その夜桜を見物に行きましたが、川には船が出る、岸には大勢の人が押し合って歩いている。なるほど賑やかいので驚きました。しかし江戸時代には、あの辺はみな武家屋敷で、夜桜どころの話じゃあない、日が落ちると女一人などでは通れないくらいに寂しい所でした。それに昔はあの川が今よりもずっと深かった。というのは、船河原橋の下で堰(せ)き止めてあったからです。なぜ堰き止めたかというと、むかしは御留川(おとめがわ)となっていて、ここでは殺生(せっしょう)禁断、網を入れることも釣りをすることもできないので、鯉のたぐいがたくさんに棲んでいる。その魚類を保護するために水をたくわえてあったのです。勿論、すっかり堰いてしまっては、上から落ちて来る水が両方の岸へ溢れ出しますから、堰(せき)は低く出来ていて、水はそれを越して神田川へ落ち込むようになっているが、なにしろあれだけの長い川が一旦ここで堰かれて落ちるのですから、水の音は夜も昼もはげしいので、あの辺を俗にどんどんと云っていました。水の音がどんどんと響くからどんどんというので、江戸の絵図には船河原橋と書かずにどんど橋と書いてあるのもある位です。今でもそうですが、むかしは猶さら流れが急で、どんどんのあたりを蚊帳(かや)ケ淵(ふち)とも云いました。いつの頃か知りませんが、ある家の嫁さんが堤を降りて蚊帳を洗っていると、急流にその蚊帳を攫(さら)って行かれるはずみに、嫁も一緒にころげ落ちて、蚊帳にまき込まれて死んでしまったというので、そのあたりを蚊帳ヶ淵と云って恐れていたんです」

「そんなことは知りませんが、わたし達が子どもの時分にもまだあの辺をどんどんと云っていて、山の手の者はよく釣りに行ったものです。しかし滅多(めった)に鯉なんぞは釣れませんでした」

「そりゃあ失礼ながら、あなたが下手だからでしょう」と、老人はまた笑った。「近年まではなかなか大きいのが釣れましたよ。まして江戸時代は前にも申したような次第で、殺生禁断の御留川になっていたんですから、魚(さかな)は大きいのがたくさんいる。殊にこの川に棲んでいる鯉は紫鯉というので、頭から尾鰭までが濃い紫の色をしているというのが評判でした。わたくしも通りがかりにその泳いでいるのを二、三度見たことがありますが、普通の鯉のように黒くありませんでした。そういう鯉のたくさん泳いでいるのを見ていながら、御留川だから誰もどうすることも出来ない。しかしいつの代にも横着者は絶えないもので、その禁断を承知しながら時々に阿漕(あこぎ)の平次をきめる奴がある。この話もそれから起ったのです」

   《引用終了》

・「船河原橋〔俗どんどんばし〕」「耳嚢 巻之八 鱣魚の怪の事」に既注であるが再掲する。ASHY 氏のサイト「東京探訪」の「船河原橋(ふなかわらばし)」によれば、現在の文京区後楽と新宿区揚場町の間で外堀通りが神田川を渡る船河原橋の俗称である。『この橋の創架は定かではないが、神田川及び外濠の外周を走る「外堀通り」は、神田川が開削された頃よりあったようで、この『船河原橋』も、江戸の初期には架けられていたと推測される』とあり、『『ドンド橋』とも『ドンドン橋』とも呼ばれた『船河原橋』とその上流の「大洗堰」との間は、有名な紫鯉(紫がかった黒い鯉)が放流され、禁漁区となっていたことから、「おとめ川」とも呼ばれていたらしい。紫鯉はとても美味で、将軍の食膳にだけのせるものであったと伝えられる。それでも『ドンド橋』のすぐ下は江戸川の落ち口で深瀬となっており、ここに落ちた魚は漁猟することが出来たため、いつも多くの釣り人で賑わっていたと伝えられている』とある。また、「どんど橋」「どんどん橋」の由来は、その橋下が江戸川の落ち口となっていたというから、半七の謂いの通り、私はその落水の音をオノマトペイアしたものではないかと推測している。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

一 江戸川の鯉は俗に紫鯉(むらさきごい)と言うて、それはそれは名高き魚(うお)にて御座った。

 それがまた、うようよおると言われたのがこれ、船河原橋(ふながわらばし)――俗に「どんどんばし」と申す――の川際で御座った。ところが、ここはこれ、魚漁御制禁(うおりょうごせいきん)の水域で御座った。

 もし、ここの紫鯉を密かに盜み獲ったことの露顕に及ばば、きつい御仕置きとなるとのことで御座った。

 しかるに、

「――かの船河原橋の下にて鯉を獲りし者の御座いました!」

と訴え出た者の御座ったによって、根岸翁、その訴状をつぶさにお聴きになられると、

「……さても。――船河原橋の下にて獲った――とあれば……これ、この『下』と申すはこれ『下流の事』を指しおる語じゃ。……魚は生き物なるによって、橋の『下』を潜(くぐ)ってこれ――『橋の外』の『下流の川』へと出でてしもうた鯉を獲った――ということ……であろう、のぅ。……」

との一言にて、

「……子細お取り調べも御吟味もなく、訴えはこれ、早々に却下され、何事ものぅ、済んで御座った。……いやこれ! 全く以って、有り難きことじゃ!……」

と、御奉行配下の者ども、これ互いにしきりに言い合っては皆、胸を撫で下ろしたと申す。]

2015/04/13

橋本多佳子句集「命終」  昭和三十二年 高野行(Ⅱ)

  切子燈籠

 

[やぶちゃん注:この高野行の年譜記載は先に続けて、『また、多佳子は、普賢院の切子燈籠(盂蘭盆に寺院の入口に吊る)の下に跼みこみ、句作に専念』とある。「跼みこみ」は「かがみこみ」と訓じているようである。「跼」は古くは「せくぐまる」で、体を前へ屈めて背を丸くすることで、かがむ・かがまる・こごむ・くぐまるなどと訓ずる。グーグル画像検索「高野山 切子燈籠をリンクさせておく。但し、生憎、灯の点った夜の画像は見当たらないようだ。]

 

切子(きりこ)点く寂光濾せる紙の質

 

真の闇切子が山蛾欲りつ獲つ

 

火蛾生死(しやうじ)切子内界さしのぞく

 

切子火蛾よぶ殺生戒の身におもしろ

 

火蛾よべる切子より吾貪欲に

 

山蛾食ひ切子ふたたび明(めい)もどす

 

切子貪欲一山(いつさん)蛾族翔け参じ

 

切子長尾ただにしつまり燈が暗し

 

切子燈籠うしろが明しまわりて見る

 

火蛾捨身瀆れ瀆れて大切子

 

[やぶちゃん注:私の多佳子の句中、最も偏愛する一句。「瀆れ」は私はずっと「よごれ」と訓じてきた。]

橋本多佳子句集「命終」  昭和三十二年 高野行(Ⅰ)

 高野行

 

[やぶちゃん注:年譜によれば、昭和三二(一九五七)年八月に津田清子同伴で高野山行き、十五日、三星山彦(当時、高野山在住であったと思われる『ホトトギス』の同人)の案内で一般人は入れない修行僧の寺円通寺に参ったとある。]

 

白炎と見しは太白(たいはく)露の塔

 

[やぶちゃん注:「太白」は明けの明星、金星の瞬きをかく詠んだものか。]

 

露晒し日晒しの石桔梗咲く

 

閼伽水のながれの尖が吾にくる

 

墓花の夏花の紅縁者来て

橋本多佳子句集「命終」  昭和三十二年 泉

 泉

 

薔薇崩る切るに躊躇の長かりき

 

一切の混沌青嵐矢つぎばや

 

蜘蛛の囲の蝶がもがくに蝶が寄る

 

泉湧きあふる歓喜は静かならず

 

泰山木ひらき即ち古びに入る

 

深草にこゑ張りつめてぎすの昼

 

[やぶちゃん注:「ぎす」句柄の全体の印象から見てこれは間違いなく、直翅(バッタ)目キリギリス亜目(剣弁亜目キリギリス下目キリギリス上科キリギリス科キリギリス亜科 Gampsocleidini 族キリギリス属 Gampsocleis の真正キリギリス類であろう。ニシキリギリス Gampsocleis buergeri かヒガシキリギリス Gampsocleis Mikado かは、多佳子の居住地から(奈良市あやめ池町)からは見て微妙。]

 

露の空白鷺ちらと傍(わき)見して

橋本多佳子句集「命終」  昭和三十二年 孫崎

 孫崎

 

渦の迫門翅あれば鴉の翔けつづけ

 

[やぶちゃん注:「孫崎」は徳島県鳴門市鳴門町土佐泊浦(とさどまりうら)にある最北端の岬。東方に鳴門海峡を望む(山湯(さんゆ)っくんの個人サイト「四国のええとこ教えてあげ隊」の孫崎灯台」が位置や景観を知るに最適である)。老婆心乍ら、「迫門」は「せと」と読む。]

 

渦潮に乗りゆく何の躊躇もなし

 

渦潮を乗り切るときに後退して

 

躊躇許さずはや舶を貴むる渦の潮

 

渦潮を脱せし船体白波敷き

 

荒鎌の刈り若布(め)を逸す疾潮に

 

[やぶちゃん注:「若布」の二字に「め」のルビが振られている。次の句も同じと読む。]

 

疾潮に逸せし刈り若布惜しと立つ

 

渦潮と落ちゆく舵輪いつぱいに

橋本多佳子句集「命終」  昭和三十二年 奈良

 奈良

 

沼みどり瞳しぼつて恋の猫

 

暮れ際に茜さしたり藤の房

 

藤昏るる刻の浪費をし尽して

 

切れ切れに雨降る藤の低きより

 

藤の房寄りあひ雨のだだ漏れに

 

やはらかき藤房の尖(さき)額に来る

 

仔鹿の脚雨の水輪に急(せ)かれをり

 

梢まで藤房重し一樹立つ

 

破損仏緑光堂の隙割つて

 

ものをいふ老顔の口緑さす

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 唐絲土籠跡

  ●唐絲土籠跡

釋迦堂の南にある巖窟なり。内に石塔あり。古傳に唐絲は賴朝の侍女なり。手塚太郎光盛か女なる故。木曾義仲に内通し。賴朝を弑せん爲匕首(あひくち)を懷(ふところ)にせしか。遂に事露はれ。罪さり所なく此窟中(くつちう)に籠(こめ)られけるとなん。

[やぶちゃん注:江戸初期に成立した「御伽草子」の「唐糸草子」に基づく伝承で唐糸の押し込められたとする土籠は各地にあるが、唐糸自身の実在性も疑われ、少なくとも鎌倉でその土籠と称するものは(鎌倉には別に東御門にもあったことが「新編鎌倉志卷之二」に載る)、通常の「やぐら」である。鎌倉御府内(及び御府内の寺社領)に限られる「やぐら」は、その羨道部の前方に扉を附けたが、その枢(くるる)を施した跡が現在も鮮明に残っているものが多くあり、それを牢の格子跡と勘違いしたことに始まる誤伝承と思われる。「唐糸草子」は、木曽義仲の臣手塚太郎光盛(信濃の出で、寿永二(一一八三)年に加賀篠原の戦いで斎藤別当実盛の首をとった人物として知られる。翌年一月、義仲とともに頼朝方征討軍と戦い、近江で敗死した)の娘唐糸が頼朝を刺殺しようとして捕らわれ、囚獄の身となるが、その唐糸の娘万寿姫が身分を隠して同じく頼朝に仕え、鶴岡社前に於いて今様を舞い、その妙技の褒美として母唐糸の赦免を願って許された上に手塚の里を賜わるという筋である。現況を知るには個人サイト道・鎌倉街道探索日記内にある「鎌倉の古道物語」の「釈迦堂口切通」のその2がよい。実は私はこの「唐糸やぐら」も未見である。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」  絹張山

    ●絹張山

絹張山は高五町許。往時賴朝大藏に在住の時。夏頃此山に絹を張り雪降(ふり)たるか如くにして一覽せり。故に云ふ。昔此地に尼寺あり。住持の尼松樹の枝に衣を掛晒せしか故に名くともいふ。其松枝葉繁茂して今猶山上にあり。絹張松(きぬばりまつ)と呼へり。里俗山麓犬懸谷を衣掛(きぬかけ)と呼も此故なりと云。山中に大平。西ケ谷。蛇屋藏。地藏。久保など唱ふる所あり。山麓に岩窟十所あり。其内に古墳を存す。〔何人の墳墓なるや詳ならず〕又山上に短册石(たんざくいし)と云へるありと。鎌倉志に見えたれと今はなし。

[やぶちゃん注:本記載はやはり「新編相模國風土記稿」の「卷之九十四」の頭にある解説をほぼ引き写したものである。そこでは、「絹張松」の上に割注で、『圍一丈餘』(松の根方の円周約三メートル)とある。さらに「久保など唱ふる所あり」と「山麓に岩窟十所あり」の間にある、『又本巡禮道とて坂東二番、三浦郡久野谷村岩殿寺に達す、別に今巡禮道と唱へ峯通りに便路あり』という記載が省略されている(この巡礼道は寸断されているものの、跡が現在も残っているもので、この当時消失しつつあったこれ外したのは『風俗画報』の痛恨のミスと私は勝手に思っている)。また、最後の『此山報國寺境内に屬せり』という一文も何故か省略されている。案内書としては山の位置を測り難くしてしまう、頗る不親切な省略と言える。なお、実はこの山周辺(伝北条時政邸跡を含む)は鎌倉市内で唯一、私が未踏査の地である。そこをまことに行ったように感じさせてくれるのが、個人サイト「テキトーに鎌倉散歩」の秘密場所である。必見!

・「高五町許」約五四五メートルであるが、これはおかしい。現在、絹張山の標高は百二十一メートルである。鎌倉の最高峰の大平山でさえ標高百五十九メートルである。これは思うに金沢街道から山頂までの距離と標高を「新編相模國風土記稿」が誤って記載してしまったものではなかろうか? 因みに地図上で単純徒歩実測すると、だいだいこれと同じ距離が出る。

・「鎌倉志に見えたれと今はなし」。「新編鎌倉志卷之二」には、『○犬懸谷〔附 御衣張山短尺石〕』の項(前半は前条に引用した)に、

此の上の山を衣張山(きぬはりやま)と云ふ。相ひ傳ふ、賴朝卿、大藏が谷(やつ)に御座の時、夏日、此山にきぬをはり、雪の降掛(ふりかか)るが如くにして見紛ふ故に名づくと也。或ひは云ふ、昔の此の地に比丘尼寺(てら)ありしに、彼の比丘尼、松の枝に衣(くぬ)を掛晒(かけさら)せしが、其の木、後に枝葉榮(さか)へて、今、山の上にある二本の松の大木なりと云ふ。犬駈(いぬかけ)を、俗に衣掛(きぬかけ)と云ふも此の意なり。短尺石(たんじやくいし)と云ふ石、山上にあり。其所謂(いはれ)を知らず。

とある。この時点で「短尺石」は由来も不明であり、実見検証された様子もない。「鎌倉攬勝考」にも載らぬから、江戸の終りには完全に忘れられ、消失していたものらしい。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 犬懸谷

   ●犬懸谷

犬懸谷は釋迦堂谷の東にあり。里俗は衣掛とも呼へり。寛元の頃日光坊別當此地に居住す。永享十年十月。三浦介時高逆意(ぎやくい)を起し。二階堂の人々と引合。當所の在家(ざいか)を燒拂(やきはらひ)し事あり。

[やぶちゃん注:本記載は「新編相模國風土記稿」の「卷之九十四」の頭にある解説をほぼまるまる引き写したものである。新編鎌倉二」には、

○犬懸谷〔附 御衣張山短尺石〕 犬懸(いぬかけ)〔懸、或ひは駈に作る。〕谷(がやつ)は釋迦堂の東鄰なり。土俗、衣掛谷(きぬかけがやつ)とも云ふ。此の所ろと、釋迦堂が谷(やつ)との間に、切拔(きりぬき)の道あり。名越(なごや)へ出るなり。昔しの本道とみへたり。【平家物語】に、畠山と三浦の合戦の時、三浦の小次郎義茂(よしもち)、鎌倉へ立ち寄りたりけるが、合戰の事を聞て馬に打乘り、犬懸坂(いぬかけざか)を馳せ越えて、名越に出ると有り。此の道ならん。又【東鑑】にも犬懸が谷の事往々(わうわう)見へたり。上杉朝宗(うへすぎともむね)入道禪助(ぜんじよ)、此道に居宅す。犬懸(いぬかけ)の管領と號す。朝宗は山の内の德泉寺を建立なり。其の子上杉氏憲(うぢのり)入道禪秀(ぜんしう)を、犬懸の入道と號す。[やぶちゃん注:以下略。次の「衣張山」で出す。]

とあり、鎌倉一」の「谷名寄」には、

犬懸谷〔或ひは駈に作る。〕 釋迦堂谷の東に隣る。此所の山合に嶮路(けんろ)の間道(かんだう)有りて、名越へ出る。【平家物語】に畠山が三浦を攻めし時、三浦小次郎義茂、鎌倉へ立ち寄りしに、合戰の事を聞きて、馬に乘りて犬懸坂を馳せ越し、と有るは爰の事なり。或る説に、此所に衣掛山といふあり。前篇に出せり。犬懸も實は衣掛なりといふ。相似たる事なれど、いまだ慥成(たしかなる)説を聞かず。足利家の世となり、尊氏將軍の命に依つて、上杉の庶流なる中務犬輔朝宗、初めて此地に住し、地名をもて犬懸の上杉と稱せり。是は扇谷の始祖、上杉左馬助朝房の舍弟の家なり。

と載る。ここで「【平家物語】に」とあるが、これは正確には「源平盛衰記」とすべきである。「畠山が三浦を攻めし時」これは所謂、「小坪合戦」若しくは「由比ヶ浜合戦」と呼ばれるもので、治承四(一一八〇)年八月十七日の頼朝の挙兵を受け、同月二十二日、三浦一族は頼朝方につくことを決し、頼朝と合流するために三浦義澄以下五百余騎を率いて本拠三浦を出立、そこに和田義盛及びその弟の小次郎義茂も参加した。ところが丸子川(現現在の酒匂川)で大雨の増水で渡渉に手間取っているうち、二十三日夜の石橋山合戦で大庭景親が頼朝軍を撃破してしまう。頼朝敗走の知らせを受けた三浦軍は引き返したが(以下はウィキの「石橋山の戦い」の「由比ヶ浜の戦い」の項から引用する)、その途中この小坪の辺りでこの時は未だ平家方についていた『畠山重忠の軍勢と遭遇。和田義盛が名乗りをあげて、双方対峙した。同じ東国武士の見知った仲で縁戚も多く、和平が成りかかったが、遅れて来た事情を知らない義盛の弟の和田義茂が』――ちょうどこのシーンが本文の引用箇所で、「犬懸坂を馳せ越て名越にて浦を見れば、四五百騎が程打圍て見え」(「源平盛衰記 小坪合戦」)てしまった結果、すわ一大事と攻め込み、義盛軍が和平なったれば攻撃するなと手を振ったが、不幸にして分からず――『畠山勢に討ちかかってしまい、これに怒った畠山勢が応戦、義茂を死なすなと三浦勢も攻めかかって合戦となった。双方に少なからぬ討ち死にしたものが出た』ものの、この場はとりあえず『停戦がなり、双方が兵を退いた』とある。但し、この後の二十六日には平家に組した畠山重忠・河越重頼・江戸重長らの大軍勢が三浦氏を攻め、衣笠城に籠って応戦するも万事休し、一族は八十九歳の族長三浦義明の命で海上へと逃れ、義明は独り城に残って討死にしたというものである。

「寛元」西暦一二四三年から一二四六年。

「日光坊」人物のように見えるがこれは浄明寺にあった僧坊で宗旨未詳の日光山である(現在は廃寺)。「鎌倉廃寺事典」に、『寛元三年(一二四五)三月十六日、「戌の刻、頼経、日光別当犬懸谷坊に入御」とある。日光山の別当の坊が、犬懸にあったと見える資料である。ここに』『坐禅院があったので、この辺の川を坐禅川とよぶのではないかと思う』という、文覚の坐禅伝承とは異なる滑川のこの付近での別称由来が記されてある。なお、この史料とは「吾妻鏡」である。

「永享十年」西暦一四三八年。

「三浦介時高」三浦時高(応永二三(一四一六)年~明応三(一四九四)年)。相模三浦郡新井城主。三浦義明の後裔で三浦介の称を継いだ。足利持氏に仕えたが、永享の乱では幕府方に寝返り、持氏を自害に追い込んだ。後に上杉氏から養子義同(よしあつ)を迎えたが、実子高教(たかのり)が生まれたため、追放、明応三年九月に義同に反攻されて自害した(以上は講談社「日本人名大辞典」に拠る)。以下は「永享記」の「三浦介逆心事」を基にした記載である。以下、「南総里見八犬伝」の個人研究サイト「兎の小屋」の資料を参考に恣意的に正字化した。

   *

去程に武州一揆とも馳集て上雷坂に陣を取て憲實を待懸たり。管領の勢共是を聞て、何程の事か有へき、蹴散して捨んとて、各甲の緒をしめ旗の手を下しけれは、憲實堅く制して、いやいや不可然、某下向する事、無罪由可申開ためなり、御勢に向て弓を引へからす、あなたより切てかゝらは無力防き戰ふへし、從是打てかゝるましき由、強に下ちし給へは、無力皆陣を取て忿を押へ對陣す。一揆の勢とも管領の大勢を見て叶はしとや思ひけん、其夜上雷坂の陣を拂て散り散りに成にけり。扨しも道開け憲實上州へ下り給ふ。鎌倉には宗徒の兵かけ參り、憲實の下向の事如何と評定區々也。或尊宿貴僧達を御使として下向の子細を御尋尤也と云義勢もあり。又は召返しなためさせ給へと申族も多かりけり。然とも是を次てに可追討とて其夜兩一色直兼幷同名刑部少輔時家を大將として御旗を賜り十五日の夜半計、其勢二百騎計、路次の人數を駈催し上州へ下向す。公方持氏、同十六日の未の刻、武州高安寺へ御動座なり。御留守の警固、任先例三浦介時高被仰付。時高近年領地少く軍兵なけれは不肖の身として如何難叶旨辭し申けれとも、御成敗嚴重たる上、先々奉隨仰。時高思ふやう、先祖三浦大介、右大將家に忠ありしより以來、代々功を積て御賞翫他に異也、然るに當御代になりて出頭人に覺え劣り内々失面目無念に思ける處に、持氏公内々敕命に背き給ひ京公方より三浦方へ御内書を被成けれは、則此留守を打捨て忽に逆意を起し鎌倉を罷退、わか宿地へ歸りけり。十月三日、三浦介鎌倉を退きけれは、此由公方へ早馬を以申けれは、大きに驚き給ひ、誰を打手に遣すへき由被仰ける處に同十七日、三浦介二階堂一家の人々と引合て鎌倉へ押寄、大藏犬懸等へ令夜懸、數千軒の在家え火を懸たり。鎌倉中の僧俗上を下へと北迷ふ。營中編かの分野、目も當られぬ次第也。

   *

ウィキ三浦時高には、永享一〇(一四三八)年、『持氏は関東管領・上杉憲実討伐のために武蔵高安寺に入り、時高は鎌倉府の留守を命じられた。ところが、室町幕府6代将軍・足利義教が持氏討伐を命じると、そのまま幕府軍迎撃のために箱根山に向かった持氏を横目に時高は上杉氏と結んで叛旗を翻し、三浦半島から軍を引き入れて鎌倉を占領して足利持氏・義久父子を自害に追い込んだ』とある。なお、「軍記で読む南北朝・室町 芝蘭堂」のに上記の現代語訳があるので、参照されたい。

「二階堂」当時、鎌倉にいた須賀川二階堂氏の一族と思われるが不詳。永享の乱では二階堂氏は一度滅亡したとも言われているらしい。]

志賀理斎「耳嚢副言」附やぶちゃん訳注 (Ⅺ)

 この耳嚢の書は、往(いに)し年鵜殿(うどの)甚左衞門長快(ちやうかい)よりかりて見たりしが、寫(うつ)さまくおもひけれど、其頃いとまなくてたゞにかへし侍りし事本意(ほい)なかりしに、ことしはからずも坂井の君(きみ)がかり得たれば、とみに筆とりて勉(つとめ)ごとの暇(いとま)ある折折(をりをり)寫しとめぬ。そもそも根岸の翁とはしばしば親しくま見えて、なにくれとなく物語り抔せしからは、今その人無しといへども、このふみにむかへばさながらそのおもかげを見る如くにこそあれ。これかれを思ひめぐらすに僅かふたむかしの蹟(あと)にしあれど、根岸・永田の君(きみ)もろ共(とも)に身まかりたまへば、其子なる人たちもまたふたりながらなき人の數(かず)となりぬ。またそのころ予が講談のむしろに見えたりし人々も、死出(しで)の山路(やまぢ)を蹈分(ふみわけ)けて行(ゆき)しもおほし。實(げ)に哉(や)小町の歌に、「あるはなくなきはかずそふよの中にあはれいづれの日までなげかん」と讀(よめ)りしは、一唱三嘆すべし。さればこは世の中の習ひにて歎くべきことにあらず。また悲しむべきにも非ず。鶴龜(つるかめ)のよはひをことぶき、八千代をこめし玉椿(たまつばき)など聞えぬれど、皆盡(つく)る期(ご)あり。たゞむかしよりかはらぬものは月日(つきひ)のみ也(なり)。長嘯子(ちやいせうし)のうたに、「よゝの人月はながめしかたみぞとおもへばおもへば濡るゝ袖かな」とは、よく讀(よみ)かなへたりと謂(いひ)つべし。さらば何をかおもふとならば、古人言へることあり、「處ルハ大夢-レゾスル」と。むべなる哉(かな)、嗟乎(ああ)。

 于※(ときに)天保三壬辰(みづのえたつ)年仲秋廿八日寫畢(うつしをはんぬ)

[やぶちゃん字注:「※」=「日」+「之」。]

   叡址樵翁(えいしせうおう)志賀理齋識(しるす)

                  行年(ぎやうねん)七十一

[やぶちゃん注:識の跋文である。但し、実はここでこの「耳嚢副言」――終わらないのである。まだこの後――ここまでの分量の倍弱、「追加」として続く――マダ……楽シメル……

・「鵜殿甚左衞門長快」鵜殿長快(鵜殿はれっきとした姓である)。個人のサイト(と思われる)「夢酔獨言」のこちらに切絵図をも添えて(鵜殿の屋敷は「駿河台スヾキ坂」で現在の千代田区神田駿河台四―六)、『忠也派一刀流の遣い手』で、家録三百石の『御旗本、鵜殿甚左衛門長快(ながよし/ちょうかい)。
鵜殿式部長衛(ながもり)の惣領』。文化六(一八〇九)年には徳川家慶の正室喬子(たかこ)の御用人となり、次いで文化八年には御広敷御用人(大奥の取次役で例外的な男性職)。文政二(一八一九)年十一月没とあり、『その養子惣領は日米和親条約に調印した一人の鳩翁鵜殿甚左衛門長鋭(ながとし)で隠居していた幕末には新撰組前身の浪士隊責任者にも就く』とある。ウィキの「鵜殿鳩翁」をリンクだけしておく。ご覧の通り、この識を書いた時点では既に鬼籍に入っている。

・「坂井」不詳。同時代の「坂井」姓の儒者らを捜し、幾人かについて記そうとしたが、それぞれに同定するにはどれも大きな難点があり、記載は控えることにした。識者の御教授を乞うものである。

・「永田」しばしば出た根岸の知音にして同僚の北町奉行永田備後守正道(まさのり)。根岸の亡くなった四年後の文政二(一八一九)年四月二十二日、鎮衛と仲良くやはり現職のまま逝去した。

・「あるはなくなきはかずそふよの中にあはれいづれの日までなげかん」小野小町の「新古今集」第八百五十番歌。

    題しらず

 あるはなくなきは數そふ世の中にあはれいづれの日まで歎げかむ

……生きていた方は亡くなり、亡くなった方の数(かず)が増してゆくばかり……この無常の世の中に……ああ!……いったい何時(いつ)の日まで……この私は……嘆き続け……生き続けねば……ならぬのでしょう……

岩波の新日本古典文学大系田中・赤瀬校注「新古今和歌集」の注などによれば、「小町集」には前書を『見し人の亡くなりしころ』とし、「小大君(こおおいぎみ)集」「為頼集」「栄花物語」「続詞花和歌集」などでは小大君の詠とし、下句を「あはれいつまであらむとすらむ」と異にしている(この朧化表現よりも先の下句の方が遙かによい)。小大君は「こだいのきみ」とも呼び、平安中期の女流歌人で三十六歌仙の一人。三条院女蔵人(にょくろうど)左近の別称を持つ。生没年未詳。

・「八千代をこめし玉椿」「玉椿の八千代まで」とも。長寿を言祝ぐ詞として祝言や和歌などに詠まれる。玉椿はツバキの美称で、古来、長寿の木とされて末長くめでたい意を込めた。但し、この元は実在の椿ではなく、「荘子」の「逍遙遊篇」に載る中国の伝説上の大木の名「大椿(だいちん)」に由来する。大椿は八千年を春とし、八千年を秋とし、三万二千年が人間の一年に当たるという時間を持つ霊木とされ、ここから転じて「大椿」が長寿を祝って用いられ、そのままそれが実際の椿に転訛した。長寿を祝って、また、夫婦の長く変わることのない契(ちぎ)りを祝って言う。

・「長嘯子」備中足守藩第二代藩主木下勝俊(永禄十二(一五六九)年~慶安二(一六四九)年)の雅号。歌人としても知られた。ウィキの「木下勝俊」によれば、『歌人としての作風は、近世初期における歌壇に新境地を開いたものとされ、その和歌は俳諧師・松尾芭蕉にも少なからぬ影響を与えている』とある。

・「よゝの人月はながめしかたみぞとおもへばおもへば濡るゝ袖かな」これは、長嘯子の「挙白集」の「雜歌」に、

    月の歌の中に

 世々のひとの月はながめしかたみぞと思へば思へば物ぞかなしき

……遠い昔より、それぞれの世を生きた人々が思いに耽りながら眺めた月――だからこそ月は、その数えきれぬ人々の万感の思いを知るよすがなのだ。――そう思えば思うほどに、何と、もの哀しくなってくることだろう……

しばしばお世話になっている水垣久氏の「やまとうた」の「木下長嘯子」の同歌の「補記」に『「思へば思へば」は俗に墜ちず口語調を取り入れた未曾有の句。『挙白集』雑歌の部に収録。『集外三十六歌仙』では結句「ぬるる袖かな」』とある。正直言うと、私は「物ぞかなしき」の方が断然よいと思う。

・「處ルハ大夢-レゾスル」訓読すると、

 世に處(を)るは大夢(たいむ)のごとし、胡爲(なんす)れぞ、其の生(せい)を勞(らう)する。

これは李白の以下の五言古詩の冒頭の二句である。

  春日醉起言志   李白

 處世若大夢

 胡爲勞其生

 所以終日醉

 頽然臥前楹

 覺來盼庭前

 一鳥花間鳴

 借問此何時

 春風語流鶯

 感之欲歎息

 對酒還自傾

 浩歌待明月

 曲盡已忘情 

 

●やぶちゃんの訓読

  春日 醉(ゑ)ひより起きて 志しを言ふ   李白

 世に處(を)るは大夢のごとし

 胡爲(なんすれ)ぞ其の生を勞する

 所以(ゆゑ)に 終日 醉ひ

 頽然(たいぜん)として 前楹(ぜんえい)に臥す

 覺(さ)め來りて 庭前を盼(なが)むれば

 一鳥 花間(くわかん)に鳴く

 借問(しやくもん)す 此れ何(いづ)れの時ぞ

 春風に流鶯(りうわう)語る

 之れに感じて歎息せんと欲し

 酒に對して還(ま)た自(みづか)ら傾(かたぶ)く

 浩歌(かうか)して 明月を待つに

 曲 盡きて 已(すで)に情を忘る 

 

 簡単に語注を附す。

●「頽然」酔い潰れて崩れ倒れるさま。

●「前楹」堂宇(大広間)の正面の柱。

●「借問」お訊ねするが。文字通り酔った酔狂に興に乗って鳥に「今はさて? どの季節じゃ?」と問うたのである。

●「流鶯」(現代仮名遣は「りゅうおう」)木から木へと流れるように飛び移っては、また流麗な美声で鳴くウグイス。

●「浩歌」声高らかに歌うこと。

●「已に情を忘る」唄った曲の終る頃には既にして、何もかも、拘っていたつまらぬ気持ちなどこれ、大夢の如くに忘れ果て、消え去っていた。

 

・「于※(ときに)」(「※」=「日」+「之」)読みは底本の長谷川強氏の読みに拠った。「※」の字は不詳。「是」の俗字とも違うようだ。

・「天保三壬辰年仲秋廿八日」八月二十八日。グレゴリオ暦では一八三二年九月二十二日。

・「叡址樵翁」理斎の号の一つらしい。「理斎随筆」の序(文章は樗園主人撰)に書者として『叡北老樵』という署名が見られる。

・「行年七十一」くどいが、この「行年」死亡年ではなく、これを認(したた)めた時の数え年である。理斎はこの八年後の天保一一(一八四〇)年一月十二日に満七十八歳で亡くなった。 

 

■やぶちゃん現代語訳

 この「耳袋」という書は、過ぎし年、鵜殿(うどの)甚左衛門長快(ちょうかい)殿より借りて披見致いたことの御座ったが、書写致したく存じたれど、その頃、職務繁多にして、その暇(いと)まなく、そのままにお返し申し上げた。このこと、まっこと、本意(ほい)にて御座らなんだが、今年、図らずも坂井君(くん)が同書を借り得たによって、即座に筆を執り、勤めの暇まある折り折りに、これを総て写しおくことが出来た。

 そもそも、根岸翁とはこれ、しばしば親しく見(まみ)得て、なにくれとなく物語りなどさせて戴いた因みの御座ったによって、今最早その御仁これ、この世にあられぬと雖も、この文章に向えばこれ、さながらその面影を髣髴として見るが如くにて御座る。

 あれこれと思い巡らすに、たかだた僅か、ふたむかしほど前のことであったにも拘わらず――今や根岸・永田の両君(ぎみ)もろともに身罷りなされ、そのお子なる御方たちもまた二人、気がついて見ればこれ、白玉楼中の人の数(かず)と相い成って御座る。

 また、その頃、私の講莚(こうえん)にて親しくお見受け致いた人々の中にも、既にして死出(しで)の山路(やまじ)を早や先へと踏み分けて行かれた方も、これ、多い。

 まっこと、このこと、小野小町の歌に、

  あるはなくなきは数(かず)添ふ世の中にあはれいづれの日まで歎かん

と詠んだことをば、一唱三嘆すべきことにてはある。

 しかし寧ろ、翻って考えるならば、これは確かなる世の中の習いにして、実は歎くべきことにてはない、ということに思い至るのである。

 されば同時に、残れる者の哀しむべきことも、これ、あるべきものにては――ない――。

 鶴亀の齢いを言祝ぎ、八千代の長寿を込めた玉椿(たまつばき)――なんどと申せど、生きとし生けるものはこれ皆、必ず、その命の尽きる最期と申すものがこれ――ある――。

 ただ、昔より変わらぬのはただ、日月(じつげつ)の運行のみである。

 長嘯子(ちょうしょうし)の和歌に、

  世々の人(ひと)月は眺めし形見(かたみ)ぞと思へば思へば濡るる袖かな

とは、よくぞ詠んだる、詠み得たるもの、と讃嘆致すべきものと謂うべきであろう。

 さらば、何をか思う……と、ならば……そうさ、古人の李白、かく申した言の葉のある―― 

 

――世に在(お)るは大夢のごとし――胡為(なんす)れぞ其の生を労する――

 

と。

 むべなるかな! ああっ! 

 時に天保三年壬辰(みずのえたつ)年仲秋二十八日 写し畢わんぬ

   叡址樵翁(えいししょうおう)志賀理斎 識(しる)す

                  行年(ぎょうねん)七十一

志賀理斎「耳嚢副言」附やぶちゃん訳注 (Ⅹ) R指定

[やぶちゃん注:以下の条には漢詩が現われるが、これに就いては白文でまず示し、次に底本にある訓点を施したもの(底本はこれのみ。但し、一部、従っていない箇所がある(例えば「陰」の後の送り仮名「ト」は私が附し、「逢」の後の送り仮名は「ウ」を「フ」に代えたりなど)。また、漢字の読み(ルビ)は排除してある。読み方は次の書き下しを参照されたい)を示し、現代語訳に訓点に従って書き下しものをここのみ特例で正字で示した。]

 

一 根岸老人には年ごとの春のはじめには下(し)もがゝりなる戲(ざ)れ書(がき)をなしける。この事は御老君がたもかねて知り給ふよしなれば、坊主衆などを以(もつて)「肥前守がこのはるの戲章(ぎしやう)は詩歌・發句(ほつく)などあるべし。吉例(きちれい)に相(あひ)かはらず取(とり)て來(きたつ)て見せよ」との御催促抔ありしとぞ。文化十酉年の春の笑(わらひ)ぐさとて見たりしは、

   七十七の翁吉例にまかせて讀(よめ)る

  老(おい)まさり千代をへのこもはる立(たち)ぬとしよりは先(まづ)一つ取るべし

    又春興

  宇宙年囘陽與陰 夜來相逢自沈々

  玉鉾帶雨呑山巖 毒竜起雲穿海心

  訥々艶聲響枕席 揚々細腰翻衣衾

  一宵綢繆紅閨裏 老骨春情應識深

     右           藤守臣草稿

 

●やぶちゃんの訓点附き

    又春興

  宇 宙 年 囘陽 與 陰   夜 來 相 逢沈 々

  玉鉾帶ビテ山巖  毒竜起コシテ穿海心

  訥々タル艶聲 響枕席    揚々タル細腰 翻へス衣衾

  一 宵 綢 繆紅 閨裏   老骨春情應シレキヲ

     右           藤守臣草稿

 

●やぶちゃんの書き下し

        又、春興

  宇宙 年囘(まは)る 陽と陰と

  夜來(やらい) 相ひ逢ふ 自(おのづか)ら沈々(ちんちん)

  玉鉾(ぎよくぼう) 雨を帶びて 山巖(さんがん)を呑み

  毒竜(どくりやう) 雲を起こし 海心(かいしん)を穿(うが)つ

  訥々(とうとつ)たる艶聲 枕席(ちんせき)に響き

  揚々(やうやう)たる細腰(さいえう) 衣衾(いきん)を翻へす

  一宵(いつしやう) 綢繆(ちうびう)す紅閨(こうけい)の裏(うち)

  老骨の春情 應(まさ)に深きを識るべし

     右           藤(とう)守臣(もりおみ)草稿

[やぶちゃん注:訳してもいいが、狂歌も狂詩もそのまま、妄想した方がよろしいと存ずる。以下、訳さなくてもボクネンジンにも分かるように注を施したつもりである。……しかし、根岸先生……なかなかに結構……お好き、で、し、た、な!……♪フフフのフ♪……

・「下もがゝり」所謂、バレ句の趣向、今で言う「下ネタ」の戯(ざ)れ言(ごと)であろう。「かかる」には、それに繫ぎとめる・纏わる・関係する・その領域に至るの意以外に、ずばり、動物が交尾するの意もある。

・「御老君がた」幕閣の長老や鎮衛と親しい大名などのことを指すのであろう。

・「坊主衆」御奥坊主・茶坊主のこと。武家の職名。江戸幕府は本丸・西丸ともに奥坊主及び表坊主をおき、茶室・茶席の管理、登城した大名らの案内、弁当・茶等の供応から、衣服・刀剣等の世話をした。剃髪・僧衣であるが、出家者ではなく武士階級に属した。

・「文化十酉年」西暦一八一三年。亡くなる二年前。それにしても満七十六とは思えない、バッキンバッキンの艶笑詞章である。

・「老まさり千代をへのこもはる立ぬとしよりは先一つ取るべし」「老(おい)まさり」は表面上、すっかり年老いてしまいの意の他に、後の勃起の「老い」に「勝る」の意を通わせてあろう。「へのこ」は「千代を経(へ)る」に陰茎の意の「へのこ」を掛け、「はる立ちぬ」は「春立ちぬ」を表にとしつつ裏で老いても「陰茎(へのこ)もしっかと張る」「へのこ(一物)が元気におっ立つ」を掛け、「としよりは先一つ取るべし」は、年寄りはまず一つまた年を取るようだ、という表の意の裏に――年のわりには、まず、この屹立した元気な一物をまずは年初の息災の証し、言祝ぎとして、徐ろに手に取って見ようぞ――というのであろう。因みに、私はこうしたバレ句では異様に読みの勘が鋭くなるような気がする。自慢じゃないが。訳では送り仮名を増やしたが、歴史的仮名遣は例外的に保持した。

・「又春興」これは前の狂歌とセットなのだろう。その「又」で意味はない。ぬくとい艶なる春の気に興じて詠めるの意。

・「宇宙」道家的な意味での森羅万象。天界。秩序世界。コスモス。「そら」と読みたくなるが、ここはあくまで「うちう(うちゅう)」と音読みしておこう。

・「年囘る」無為自然によって不可知の原理によって再び巡り来る春。

・「陽と陰と」本詩はあくまで字面上は、あくまで森羅万象(天然自然)の陰陽の気の離合集散による、変幻自在な現象を風景をイメージとして叙述している、という形を取って下ネタを響きとしては高雅にフェイクしているのである。

・「夜來」毎夜。夜毎。

・「沈々」深々。物音がなく静かなさま。特に夜が静かにふけてゆくさま。本来は「しんしん」と読むが――確信犯で一物の「チンチン」を掛けている。

・「玉鉾」玉で飾った両刃の剣に柄をつけた刺し突くための武器である鉾(ほこ)。その美称ではあるが――確信犯で一物の金玉と屹立せる男根である。

・「帶雨」言わずもがな乍ら、次の対句の「雲」と相俟って「雲雨の交わり」(男女の交情・性交の意。「巫山(ふざん)の雲雨」「朝雲暮雨」とも。宋玉の「高唐賦」で楚の懐王が高唐に遊んだ折りに、朝には雲となり、夕べには雨となるという巫山の神女を夢み、これと契ったという故事に基づく)で、秘め事に於ける男女の肉体の「潤い」をも暗示させる。

・「山巖を呑み」女性器の象徴及びコイツスのメタファー。

・「毒竜」一般には天災地異を起こす悪しき性(しょう)の龍。毒気を放つ龍の形状そのものも即物的に「玉鉾」と同様に男性器のシンボルとしたもの。

・「海心を穿つ」「海心」は水気に満ちた大海のその中央の意であろう。「山巖を呑み」の隠喩に同じい。

・「訥々」口ごもりつつ話すさま、言葉をとぎれとぎれに言うさま。寝間の睦言、喘ぎのオノマトペイア。

・「艶聲」アクメ声。“Acmé”はフランス語でコイツス時の快感の絶頂、オルガスムス(ドイツ語“Orgasmus”)。

・「枕席」枕と敷物の意から、寝室。閨(ねや)。

・「揚々」普通なら誇らしげなさま、得意げなさまであるが、この場合は、女性のエクスタシーに於ける腰遣いを指している。

・「細腰」女性の腰の細くてしなやかなこと。美人の形容。柳腰(やなぎごし)。

・「衣衾」衣服と夜具。

・「綢繆」現代仮名遣では「ちゅうびゅう」。ここではダイレクトに男女が睦み合い、くんずほぐれつなること。

・「紅閨」赤く塗って飾った婦人の寝室の意。漢詩に於いては深窓の令嬢の生活の譬えとしてよく使われる艶であると同時に高雅な語である。

・「藤守臣」既注であるが、根岸鎮衛は自序でそう記すように、しばしば「藤原守信」とも署名し、根岸氏が旧藤原姓であったということは諸家譜の藤原氏支流の部に入れてあることからも明らかである(本「耳嚢」底本の鈴木棠三氏解説に拠る)。草稿とはするものの、漢詩の署名としては孰れよりも相応しいものと言えよう。

・「春情」回春の情を掛ける。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

一 根岸老人には、年ごとの春の初めには、これ――「下(しも)がかり」――と申さるる戯れ書きをなさるを好例とされて御座った。

 このことは幕閣の御老君方(がた)も、これ、かねてよりよぅ存じ寄りのことの由なればこそ、毎春になると、これ決まって、奥坊主衆などに命ぜられて、

「――肥前守がこの春の戯章(ぎしょう)は、これまた、詩歌やら発句(ほっく)なんどまで、きっとあるに相違あるまい。吉例(きちれい)だなんだかんだと難しいことは一先ずおいてじゃ! 今まで通りに今年のそれを、肥前の許へ参って、取って来たって見せよ!」

との御催促など、これ頻りにある、とのことで御座った。

 例えば、文化十年酉年の春の――お笑い種(ぐさ)――と申し、見せて戴いたものは以下の通り。

 

   七十七の翁(おきな)、吉例にまかせて読める歌

  老いまさり千代をへのこもはる立ちぬとしよりは先づ一つ取るべし

 

        又 春興(しゆんきよう)

  宇宙(うちう) 年(とし)囘(まは)る 陽と陰と

  夜來(やらい) 相ひ逢ふ 自(おのづか)ら沈々(ちんちん)

  玉鉾(ぎよくぼう) 雨を帶びて 山巖(さんがん)を呑み

  毒竜(どくりやう) 雲を起こし 海心(かいしん)を穿(うが)つ

  訥々(とうとつ)たる艶聲(えんせい) 枕席(ちんせき)に響き

  揚々(やうやう)たる細腰(さいえう) 衣衾(いきん)を翻へす

  一宵(いつしやう) 綢繆(ちうびう)す紅閨(こうけい)の裏(うち)

  老骨(らうこつ)の春情 應(まさ)に深きを識(し)るべし

     右           藤(とう)守臣(もりおみ)草稿

 

さて!?――如何?!――]

2015/04/12

志賀理斎「耳囊副言」附やぶちゃん訳注 (Ⅸ)

一 文化十二亥年六月、南町奉行根岸肥前守久々相勤(あひつとめ)候に付(つき)御加增(ごかぞう)として五百石被下置(くだしおかれ)都合千石高(だか)と成(なる)。但(ただし)町奉行當年まで十八年、其外(そのほか)佐渡奉行、御勘定奉行等およそ奉行役三拾有餘年相(あひ)つとめ、享年七拾九歲。當時悴九郞兵衞御先手(おさきて)相勤(あひつとめ)、孫榮太郞には御小納戶(おこなんど)、父子孫三人勤(づとめ)といへる、多からぬ例(ため)しなれば、誠にあやかりものなりとの噂也。此節自詠の狂歌あり。

  御加恩(ごかをん)をうんといたゞく五百石八十(やそ)の翁(おきな)の力(ちから)見てたべ

右はじめの句、御加恩をどんといたゞくとせし處、永田備後守、「とてもの事にうんといたゞくとし給はゞ、運と響(ひびき)て一入(ひとしほ)よからん」と言(いひ)しかば、うんと直したりける。扨また同じころ、御勘定奉行肥田(ひだ)豐後守事不出來(ふでき)にて、西丸御留守居被仰付(おほせつけられ)千石減じたりける。肥田氏は牛込神樂坂(かぐらざか)に住居(すまひ)す。時に落首(らくしゆ)あり。

    神樂坂の住人に代りてよめる

  五百石うんといたゞく何のその我は千石さしあげて行く

[やぶちゃん注:鎮衛は亡くなる五ヶ月前の文化一二(一八一五)年六月二十八日(岩波の長谷川強氏の解説では七月ともいわれると附記有り)に永年の町奉行職勤続等によって五百石加増され、家禄千石となった(町奉行は役高三千石)。以前に述べたが、在職のまま同年十一月四日に死去したが、公には五日後の十一月九日没とされた。以下に記された根岸の事蹟の詳細は、『「耳囊」吉見義方識語』の私の注を参照されたい。

・「十八年」数えである。事実上、丸十七年である。

・「奉行役三拾有餘年」佐渡奉行・勘定奉行(後期は道中奉行兼任)・南町奉行と奉行職は通算三十一年に及んだ。

・「享年」亡くなった年の意ではなく(たまたま結果はそうなるのであるが)、当年までの年齢の意。

・「悴九郞兵衞」鎮衛の嗣子根岸杢之丞衛粛(もりよし)。

・「御先手」既注。御先手組組頭は、布衣で役高千五百石に役扶持として六十人扶持が支給された。ウィキ御先によると、『先手頭は「各大名家の『御頼みの旗本衆』とされ、幕府との事前打合や報告同行などを勤めるため、由緒ある旧家の人が任命され』たともある。

・「孫榮太郞」衛粛の嗣子栄太郎衛恭(もりやす)。

・「御小納戶」前条に既注。御小納戸衆。若年寄支配で御目見以上、布衣着用が許された。役高は三百から五百石。

・「永田備後守」何度も登場している同僚の北町奉行永田正道(まさのり)。時代劇では南と北はえらく仲が悪く、北町奉行は冷血漢というのが定番だが、実際には月交替の輪番制でライバル関係にはなく、寧ろ、業務引き継ぎや判例の均衡をとるために、人によっては頻繁に接していたものとも思われる(武官である先手頭(さきてがしら)の火付盗賊改(ひつけとうぞくあらため)と、言わば一種の文官である町奉行は全くの別組織で、この相互の関係は実際に良くなかった)。それにしてもこの二人、これを見ても個人的に相当に親しかったことが分かる。

・「肥田豐後守」肥田頼常(生没年不詳)はウィキの「肥田頼常」によれば、従五位下豊後守三千石で知行地は武蔵国榛沢・比企郡・上総国。『祖先は土岐肥田氏で肥田忠政の孫、徳川秀忠旗本肥田忠頼の系』。安永五(一七六六)年表御右筆となり、以降、奥右筆・同組頭・御勘定吟味役組頭・日光東照宮御霊屋普請を経て、寛政一一(一七九九)年から文化三(一八〇六)年まで長崎奉行職、天草の乱後は治安安定と経済復興のために長崎伊良林(いらばやし)に製陶所を設け、大神甚五平(おおがみ じんごへい)らに染付磁器の陶窯を天草焼(後に亀山焼)として創始させ、援助した。『在任中、ロシアのレザノフが長崎に来航、成瀬正定や遠山景晋』(とおやまかげくに/かげみち:当時は目付であった。遠山の金さん、遠山景元の実父である。)『と共に事態を無事終息』させている。文化三(一八〇六)年に小普請奉行となり、次いで作事奉行から文化七(一八一〇)年に勘定奉行に就任している(勘定奉行は役高三千石に役扶持三百両)。確かにこの文化一二(一八一五)年に西丸留守居に転じているが、その具体的理由を記している公式なデータは見出し得なかった。但し、太田南畝の「半日閑話」(明和五(一七六八)年から文政五(一八二二)年までの記録。翌文政六年に南畝は死去した)の巻十五の冒頭から二番目の「殿中爭論」の条に以下のようにある(底本は吉川弘文館昭和五〇(一九七五)年刊「日本随筆大成 第一期第八巻」を用いたが、恣意的に正字化した。読みは私が歴史的仮名遣で附した。本文に入る『割註』の語と記号の一部を省略、その注を〔 〕で挟んだ)。

   *

○殿中爭論 文化十二亥年六月の頃かとよ。御勘定奉行に肥田豐後守といふ佞者(ねいしや)あり。彼は元來御右筆より經登(へのぼ)り出頭(しゆつたう)隨一にて、專ら御儉約を第一とし、下の痛も不顧(かへりみず)、上を佞口(ねいこう)を以(もつ)て相繕ひしが、此頃御政道筋の義にて長崎奉行牧野大和守と、御勘定所にて爭論致し、後には肥田惡口(あくこう)を吐き候由、右爭論は漸々(やうやう)大目付取押(とりおさ)へ事濟(ことすみ)し候處、牧野大(おおき)に怒(いかり)て直樣(ぢきさま)同姓備前守(是は此時之(の)老中)宅へ罷越(まかりこし)、夫(それ)より御用御側平岡美濃守幷(ならびに)巨勢日向守〔此(これ)巨勢大和守弟。〕右の方へ退出がけ相廽(あひまは)り、委細訴へ歸宅し、翌日より引込(ひきこみ)しとかや。扨右の爭論直(ぢき)に上の御耳へも入る所、以(もつて)の外御機嫌不宜(よろしからず)して仰(おほせ)には、役人たるもの相談は尤(もつとも)の事なれども、於殿中(殿中に於いて)論におよぶ段、重疊(ちようでふ)不屆の奴なりと仰之(の)由、依之(これによつて)不日(ふじつ)に肥田は西丸御留守居被仰付(おほせつけられ)御足高(おんたしだか)千石御取上(おとりあげ)、牧野は新番頭(しんばんがしら)え御役替(おやくがへ)なり。此(この)沙汰專ら其頃ありしとなり。

   *

以下、簡単に語注する。

●「文化十二亥年六月」本鎮衛の加増による家禄千石となった、まさに同時の出来事。これでは、江戸っ子が黙っていられるはずもないのが痛いほど分かろうというもんでえ!

●「佞者」口先巧みに諛(へつら)いつつ(後に出る「佞口」もそれ或いは「嘘」の意)、心の邪(よこし)まなる輩を言う。

●「長崎奉行」幕府が直轄領長崎に置いた執政官。老中直属で対蘭・対清貿易の監察にあたるとともに市政を統轄した。ウィキの「長崎奉行」によれば、役高千石、在任中役料四千四百俵あったが、この長崎奉行に限っては公的収入よりも余得収入の方が遙かに大きかった。『輸入品を御調物(おしらべもの)の名目で関税免除で購入する特権が認められ、それを京・大坂で数倍の価格で転売して莫大な利益を得た。加えて舶載品をあつかう長崎町人、貿易商人、地元役人たちから八朔銀と呼ばれる』年七十二貫余りにも及んだ献金や、『清国人・オランダ人からの贈り物や諸藩からの付届けなどがあり、一度長崎奉行を務めれば、子々孫々まで安泰な暮らしができるほどだといわれた。そのため、長崎奉行ポストは旗本垂涎の猟官ポストとなり、長崎奉行就任のために使った運動費の相場は』三千両といわれたが、『それを遥かに上回る余得収入があったという』とあるから、私は別に肥田の肩を持つ者ではないが、案外、この論争というのも、私腹を肥やしている牧野への当てこすり辺りが、言い争いの元だったのではあるまいか? 孰れにせよ、肥田のみならず、牧野も栄華の頂点から一瞬にして転落した様子が窺える。どうでもいいことだが、牧野の長崎奉行在任は文化一〇(一八一三)年からこの文化十二年初めまでということになるから、正味二年も勤めていないのではなかろうか? その間、しっかり溜め込んでいただろうか? この告げ口など見ていると、どうもそうした蓄財に気が向くような性格には見えない。せっかく手に入れた長崎奉行職、失ってみたら手元には大した金もなかったのでは、これ、なかろうか?――「佞人」肥田だけではなく、こいつも一緒に……というのが私の本音ではある……。

●「牧野大和守」牧野成傑(「しげたか」或いは「しげたけ」か?)。

●「取押へ」とりなして。仲裁に入って。

●「直樣」直ちに。すぐさま。

●「同姓備前守」牧野忠精(ただきよ)。越後長岡藩第九代藩主。長岡藩系牧野家宗家十代。寛政の遺老の一人。

●「御用御側」御側御用取次(おそばごようとりつぎ)。享保の改革時に新設された最強の将軍側近職。時に老中・若年寄などの幕閣をも越える権勢を振るった。

●「平岡美濃守」平岡頼長。彼は寛政三(一七九一)年から文化一三(一八〇四)年までの実に二十五年六ヶ月の永きに亙って御側御用取次を勤めた。この辺りから恐らくは将軍家斉の耳に入ったものであろう。

●「巨勢日向守」不詳。旗本に巨勢家が二家あり、孰れも徳川吉宗に従って紀伊藩臣より移った者で、同じく五千石である。巨勢利和(こせとしまさ 明和四(一七六七)年~天保五(一八三四)年)なる日向守であった人物が同時代にはいるが、この人物は旗本松平家からの養子で以下の割注「此巨勢大和守弟」という記述がしっくりこないから別人か?

●「巨勢大和守」不詳。ネットで調べると、かく名乗った人物には故巨勢大和守利啓(「としひろ」? 享保九(一七二四)年~宝暦一三(一七六三)年)がいるが、時代が合わない。

●「重疊」幾重にも重なっていること。この語は、この上もなく喜ばしいこと、極めて満足なことに対して、感動詞的に用いたりするケースにしばしば出逢うが、ここは重過失であることを示す、悪い謂いである。

●「不日に」多くの日数を経ないこと。近いうちに。多く副詞的に用いる。

●「新番頭」平時の将軍外出用の警備隊(SP)としての新番の責任者。役高二千石だが、諸太夫格の長崎奉行から布衣格のそれで、あからさまな降格懲罰人事である。

 これを見るに――冒頭から「佞者」と断ぜられ――下々の民草の痛みを一切省みることなく――上には只管、諛(へつら)いをもって上手く言い繕って手玉に取り巧みに世渡りしていた――城内上御勘定所に於いて長崎奉行牧野成傑と論争に及ぶに牧野に対して許し難い侮蔑的な悪口(あっこう)に及ぶ(と考えないと、後の牧野の異常なまでに執拗な告げ口行動の説明がつかない)――というトンデモ勘定奉行であったということになる。さて資料としてのみ挙げておくが、かの太田南畝が実名を示した上で「佞人」とするのは、火のないところに……ではあろうと私は考える。

・「西丸御留守居」ウィキの「御留守居」を見ると、『西丸留守居は若年寄の支配を受け』、役高二千石で諸大夫役(五位の大名や旗本の官位相当に当たる職名呼称)。『長年勤仕を果たした旗本に対する名誉職であった反面、本丸留守居とは異なり左遷の意味合いを含むことも多かった』とあるので、飛ぶ鳥落す勘定奉行からの肥田の転任は明らかに懲罰人事であったことが分かる。勘定奉行が役高三千石であるから確かにきっちり千石減であった。

・「牛込神樂坂」新宿区早稲田通りの大久保通り交差点から外堀通り交差点までの坂である神楽坂を含む、現在の新宿区神楽坂。但し、複数の切絵図を確かめてみたが神楽坂附近には肥田豊後守の屋敷は見当たらない。

・「足高」「たしだか」なので注意。江戸幕府の職俸制度の一つで、家禄の低い者が役高の高い役職に就いた場合、在職中に限り、その差額を支給する制度。また、その支給される補足高を言う。享保八(一七二三)年、八代将軍吉宗の時に財政再建・人材登用の目的で定められた。 

 

■やぶちゃん現代語訳

一 文化十二亥年六月、南町奉行根岸肥前守殿、久しく奉行職を恙のぅ相い勤めて御座ったにつき、御加増として五百石の下しおかれ、都合一千石の石高(こくだか)と相い成って御座った。

 但し、町奉行当年までの十八年のみならず、それ以前にその他(ほか)に佐渡奉行・御勘定奉行など、およそ奉行役をこれ、続けて三十有余年に亙って相い勤められ、当年とって七十九歳。

 現在、伜殿(せがれどの)九郎兵衛衛粛(もりよし)殿は御先手組(おさきてぐみ)を相い勤められ、その御子息にして肥前守殿御孫(おんまご)栄太郎衛恭(もりやす)殿には御小納戸役(おこなんどやく)――父・子・孫の――本日只今――三人が三人――これ――現役でのお勤めと申す――これは多くはあらぬ例(ため)しなればこそ、

「まっこと! これにあやかりたいものじゃ!」

と、専ら、江戸市中の噂にて御座る。

 この折り、肥前守殿、自詠の狂歌をものされて御座った。その歌、

  御加恩(ごかおん)をうんといただく五百石(こく)八十(やそ)の翁(おきな)の力(ちから)見てたべ

 この狂歌、当初の句は、これ、

  御加恩をどんといたゞく

となさっておったが、かの知音(ちいん)なる北町奉行永田備後守正道(まさのり)殿、肥前守殿より、この歌を示されたによって、一言、

「……この上の句で御座るが――とてもの事に――うんといただく――という心にて詠まれたならば、これ、「うんと」の「うん」が「運」と響き合(お)うて、一入(ひとしほ)、ようござろうぞ。」

と、助言なされたを受けて、「うん」と直された、とこのとで御座る。

 さてもまた、これと同じ年同じ六月のこと、かの知られた御勘定奉行肥田(ひだ)豊後守頼常(よりつね)殿、これ、不祥事の御座ったにつき、勘定奉行改め西丸御留守居(にしのまるおるすい)を仰せつけられ、役高これ、千石も減ぜられてしまうという出来事の御座った。

 肥田氏は牛込神楽坂(かぐらざか)に住いなさっておられたが、その折り、屋敷の塀に落首のあって、その歌に、

    神楽坂の住人に代りてよめる

  五百石うんといただく何(なん)のその我(われ)は千石さしあげて行く

とあったと申す。

 肥前守殿もこれ、お聴きになられたとならば、きっと、にんまり、なされたことであろう。

志賀理斎「耳嚢副言」附やぶちゃん訳注 (Ⅷ)

一 文化十酉年十二月十二日、肥前守孫榮太郎御小納戸(おこなんど)被仰付(おひせつけられ)、同十四日講釋終會(しふくわい)祝儀申述(まうしのべ)かたがた罷越(まかりこ)したりしかば、肥州大喜びにて、「扨々難有(ありがたき)事なり、孫まで御番入(ごばんいり)にて、布衣(ほい)以上のもの悴共(せがれども)に三人勤役(きんやく)する事、實にめで度(たき)此(この)親仁とおもはれ候へ」とて、樣樣(さまざま)馳走などありて、「緩緩(ゆるゆる)と酒を飮み給へ」などなど老人大かたならぬ悦びなり。予申(まうし)けるは、「扨もめづらしき御繁榮の吉事(きちじ)共(ども)也(なり)。諺(ことわざ)に笑ふ門(かど)には福來ると申(まうす)ごとく、こなたにては今度(このたび)の如くめで度(たき)慶事あるは、是(これ)則(すなはち)諺の笑ふ門なれば斯(かく)あるべき筈なり。いかんとなれば榮太郎殿は君の御孫にて九郎兵衞殿の御子なり。爰を以(もつて)考(かんがふ)るに九郎兵衞の子といへるを數篇(すへん)はや言(こと)に申(まうす)ときはをのづから笑ふべし。是(これ)諺の意にかなへるか」と滑稽の挨拶に及びければ、肥州には兼(かね)てかゝるたはぶれは大(おほき)に好む處なれば、其事をいひて吐(どつ)と笑(わらひ)たりき。

[やぶちゃん注:親馬鹿鎮衛、洒落好きの彼の等身大の姿が髣髴としてくるエピソードである。

・「文化十酉年十二月十二日」グレゴリオ暦では一八一四年二月一日。因みに鎮衛は文化十二年十一月四日(グレゴリオ暦一八一五年十二月四日)に亡くなっている。

・「肥前守孫榮太郎」鎮衛嗣子衛粛(もりよし)の嗣子栄太郎衛恭(もりやす)。

・「御小納戸」若年寄支配で将軍に近侍し、理髪・膳番(ぜんばん)・庭方・馬方などの雑務を担当した。旗本や譜代大名の子弟が召し出され、御目見以上で布衣。ウィキの「小納戸によれば、小納戸に任命されると、三日以内に登城し、『各人が特技を将軍の前で披露する。小納戸には、御膳番、奥之番、肝煎、御髪月代、御庭方、御馬方、御鷹方、大筒方などがあり、性質と特技により担当を命ぜられた。また、いっそうの文芸を磨くため、吹上庭園内に漢学、詩文、書画、遊芸、天文、武術の学問所と稽古場があり、習熟者は雑役を免ぜられ、同僚の指導をおこな』った。『将軍が中奥御小座敷での食事の際に、膳奉行の立ち会いの上、小納戸御膳番が毒味をおこなう。異常がなければ膳立てし、次の間まで御膳番が捧げ、小姓に渡す。給仕は小姓の担当であった』。『将軍が食べ終わった後、食事がどのくらい残されているかを秤に掛け計測し、奥医師から質問された場合には応答し、小納戸は、毒味役と将軍の健康管理を兼ねていた』とある。『その他、洗顔、歯磨きの準備も小納戸の仕事で、将軍の月代と顔を剃り、髪を結うのが御髪月代であり、将軍の肌に直接触れることで失敗は許されず、熟練の技を要した。お馬方は、江戸市中に火災が起こると、現場に駆け付け、状況を将軍に報告した』。『小納戸は、将軍に近侍する機会が多く、才智に長ける者であれば昇進の機会が多い役職であった』とある。鎮衛の手放しの悦びようも納得出来る。

・「御番入」非役であった小普請や部屋住みの旗本・御家人が選ばれて小姓組・書院番・大番などの将軍近侍の役職に任じられることを言う。

・「九郎兵衞の子といへるを數篇はや言に申ときはをのづから笑ふべし」……一応、訳ではやらかしてみましたが……理斎先生……これ……ちょっと無理、ありません?……

 

■やぶちゃん現代語訳

 

一 文化十酉年十二月十二日、肥前守殿御孫(おんまご)栄太郎殿、御小納戸(おこなんど)を仰せつけられ、たまたまその同十四日、肥前守御屋敷にての私の軍書講釈の会の終わった後、御祝儀を申し述べかたがた、御前に罷り越し、御挨拶申し上げたところ、肥前守殿、これ殊の外、大喜びにて、

「――さてさて! ありがたきことじゃ!――孫まで御番入(ごばんい)りと相い成って、布衣(ほい)以上の者、これ、悴と合わせて実に三人!――勤役(きんやく)し申し上げることは相い成って御座るよ! 実(げ)にめでたき、この幸せ者(もん)の親爺(おやじ)と思うて下されぃ!」

とて、さまざまの馳走などなし下され、

「――まずは! ゆるりと酒をお飲みなされよ!」

などなど、御老人、大方ならぬ、お悦びようにて御座った。

 そこで、私も例によって大音声に申し上げたは、

「――さてもさても! どこれもこれも、珍しき御繁栄の吉事(きちじ)にて御座いまるす!――諺に『笑う門(かど)には福来たる』と申しますが如く、こちらさまにて、このたびの如(ごと)、いよよめでたき慶事の御座ると申しまするは、これ則ち、諺の『笑ふ門(へ)』と御座いますれば、まさにかくあるべきはずで御座いましょうぞ! 如何(いかん)となれば、栄太郎殿は御翁様の御孫様にて九郎兵兵衛殿の御子(おんこ)にて御座る。これを以って考えまするに、

――九郎兵衛の子

と言う御言葉(おんことのは)を、これ数度、早口にて申してみまする時は、これ、自ずから……

――くろべえのこ……くろうべうのく……くわろうべのくる……わろうへにくる……笑う辺(べ)には来る!……

……さてさて!!

……これ、自ずと笑みの浮かんでは参りませぬか?

……これ、諺の意に叶うて御座ろう言上(ことあ)げと、これ、存じ上げ奉りまする!……」

と、いささか無理のある滑稽の御挨拶をやらかしたところが、肥前守殿にはこれ、かねてより、かかるお戯(たわぶ)れ、大いに好まるるところで御座られたによって、御自身、

「――うむ?……九郎兵衛の子……くろべえのこ……くろうべうのく……くわろうべのくる……わろうへにくる……笑(わろ)う辺(べ)には来る!……か?!――笑う門には、これ、福の来る!――ってか!」

と復唱なされ、これ、同時に、どっと! お笑いになっておられて御座ったよ。……]

芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯「澄江堂遺珠Sois belle, sois triste.」附やぶちゃん注(PDF版) プチ・リニューアル

芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯「澄江堂遺珠Sois belle, sois triste.」附やぶちゃん注(PDF版)

に画像(龍之介のデッサンの原画と思われる蘇軾の「枯木竹石図」)や注を追加し、削除線の脱落や誤字を訂正、プチ・リニューアルした。前の版を保存されている方は差替えをお願いしたい。

「澄江堂遺珠」を検索してみたら……

「澄江堂遺珠」を検索してみたら……

トップに出るのは僕のページ……

これこそ……

そのまま本邦の芥川龍之介研究の停滞と愚劣さを如実に示している!!!――

2015/04/11

「いい天気だね。お茶を飲もうか? 首をつろうか?」

今日の「赤旗」の、大好きな俳優鈴木瑞穂氏の記事の中に見つけた、チェホフの言葉――

「いい天気だね。お茶を飲もうか? 首をつろうか?」

いいね――

調べて見ると、これは「ワーニャ伯父さん」の第一幕の、

   *

エレーナ「いいお天気だこと、きょうは。……暑くもなし。……」

間。
ワーニャ「こんな天気に首をくくったら、さぞいいだろうなあ。……」

   *

に基づくか?
(引用は神西清訳)
さらにネット検索を掛けてみると、ロシアの芸術座の人気俳優でチェホフの芝居の当たり役者アレクサンドル・カリャーギン(Александр Калягин)辺りが発信源らしいが……
 
……いや……いいね……

大和本草卷之十四 水蟲 介類 つゞら貝

【和品】

ツヾラ貝 葛籠ノスチノ如クカラニスチアリ高下アル事魁

蛤ノスチノ如シ味辛シ小蛤ナリ海濱ニアリ

〇やぶちゃんの書き下し文

【和品】

つゞら貝 葛籠(つゞら)のすぢのごとく、からにすぢあり。高下〔(かうげ)〕ある事、魁蛤のすぢのごとし。味、辛し。小蛤〔(しやうがふ)〕なり。海濱にあり。

[やぶちゃん注:不詳。「魁蛤」は現代中国語で斧足綱翼形亜綱フネガイ目フネガイ上科フネガイ科アカガイ Scapharca broughtonii のことを指す。当初、「辛し」というとこらから腹足綱吸腔目アッキガイ科 Rapana 属アカニシ Rapana venosa を考えたのだが、「魁蛤」「小蛤」の「蛤」は二枚貝の総称であるから、これには同定出来ない。「葛籠の」筋というのが今一つ不分明であるが、兎も角も殻に明確な平行した筋を持っており、「高下」(「たかひく」と訓じているかも知れない)がある点が「魁蛤」(アカガイ)の筋にそっくりだという。しかもアカガイよりも有意に小さな二枚貝だというのだから困る。候補としてはアカガイの仲間で形状のよく似たフネガイ科サルボウ Scapharca kagoshimensis を考え得るが、これは既に「朗光(さるぼ)」で既出である。サルボウの幼体か、或いはフネガイ科 Arcidae の他の種か? この「葛籠貝」の呼称自体を現在、見出せない。識者の御教授を乞うものである。]

生物學講話 丘淺次郎 第十二章 戀愛(10) 四 歌と踊り(Ⅲ)

Huutyou
[風鳥]

[やぶちゃん注:本図は国立国会図書館蔵の原本(同図書館「近代デジタルライブラリー」内)の画像からトリミングし、やや明るく補正した。底本の図より細部が観察出来るのでこちらを採用した。]

 

 鳥類の雄が雌の前で奇態な擧動をして見せることは、普通に人の知つて居る例が幾つもある。七面鳥の雄なども常に全身の羽毛を立てて體を大きく見せ、雌の面前を如何にも強さうに嚴めしく歩きながらときどき一種の響きを發するが、これは全く雌を感動せしめることを目的とするらしい。「くじやく」の雄がときどきその美しい尾を開いて雌に見せびらかすのもこれと同じことである。南洋に産する「風鳥」の類は雄は羽毛の極めて美しいものであるが、産卵期には雌の前でわざわざ翼を擴げ美しい羽毛を左右に開いて見せる。動物園に飼つてある駝鳥の雄もときどき雌の前に膝を折り頸を後に曲げ、頭を左右に振つて奇態な姿勢をとる。東印度の島に産する「アルグス」といふ大きな雉子は、ときどき兩翼を半圓形に開き恰も孔雀が尾を擴げたときの如き形をして雌に示すが、その目的も無論同じであろう。「アルグス」といふ名前は昔の西洋の神話からとつたもので、元來百の眼を有し、同時に二つづつより眠らぬといふ極めて寢ずの番に適した怪物の名前である。女神「ジュノー」が、その夫「ジュピター」の擧動を監視させるために附けておいたところが、眠藥のために百の眼がみな眠つて職責を全うすることが出來なかつたので、「ジュノー」は怒つてその眼を殘らず抉り取り、これを孔雀の尾にうつしたと言い傳へられて居る。それゆえ、「アルグス雉子」の翼の羽には眼玉を拔いた跡が白茶色にたくさん殘つて居る。「くじやく」の尾の緑色に光り輝くのにくらべて、却つて高尚で趣が多い。

Arugusukiji

[アルグスきじ]

[やぶちゃん注:本図は前と異なり、底本のものである。]

 

[やぶちゃん注:「風鳥」極楽鳥の正式和名(ゴクラクチョウは正式な和名としては認められていないので注意)。スズメ目スズメ亜目カラス上科フウチョウ科 Paradisaeidae に属する鳥の総称。現在は五つの系統に分けられており、分類上は十五属四十一種である。ウィキの「フウチョウ科」によれば、『オーストラリア区の熱帯に生息し、特にニューギニア島には多数の固有種が生息』し、『雄の成鳥が美しい飾り羽を持ち、繁殖期に多彩な求愛ダンスを踊ることで知られる。雌の成鳥は地味な外見をしている』。この「風鳥」という名称は十六世紀にヨーロッパに初めてオオフウチョウ Paradisaea apoda が持ち込まれた際、『各個体は交易用に足を切り落とされた状態で運ばれていた。そのため、この鳥は一生枝にとまらず、風にのって飛んでいる bird of paradise (天国の鳥)と考えられた』。また、昔は、これらの鳥が風を餌にしていたと伝えられていた『ことから「風鳥」と名づけられた』とある。グーグル画像検索「Paradisaeidaeをリンクしておく。それからこのВАЛЕРИ ВАСИЛЕВ 氏の「Paradisaeidae.mp4と題した動画は必見! このダンス! この羽根の紋様と色はもの凄い! まるで「不思議の国のアリス」だ!!!

『「アルグス」といふ大きな雉子』キジ目キジ科セイラン Argusianus argus ウィキの「セイラン」によれば、『マレー半島、スマトラ島、ボルネオ島の森林地帯に棲息する。一説に、中国の空想上の鳥、鳳凰のモデルとも言われて』おり、本種一種でセイラン属を構成する。因みに「セイラン」は「青鸞」である。♂は全長一・九メートル、♀は七十センチメートル程度になる大型のキジである。『全身の色は褐色が主体で、オスは黒い冠羽と裸出した青い皮膚が目立つ頭部』、中央の二枚が著しく長い尾羽、『そして非常に発達した次列風切羽を持つ。風切羽には金色を帯びた眼状紋が多数配置されている。メスは長い尾羽と風切羽を持たず、体色はオスよりややくすんでいる』。『繁殖期にオスが見せるディスプレイ行動は非常に壮観である。オスは森林内の特定の平地を足で踏み均し、落ち葉などを取り除いて綺麗にしてから、大きな鳴き声をあげてメスを誘い、翼と尾羽を広げて誇示する。この時、風切羽に配置された眼状紋が顕わになる』。『雑食性で木の実や木の芽、葉、昆虫などを食べる。 繁殖形態は卵生で、多くのキジ類の例に漏れず子育てはメスのみで行う』。一回の産卵数は平均二個で、『他のキジ類に比べると少ない』とある。グーグル画像検索「Argusianus argusをリンクしておく。Mel Ethan Cutler 氏の「Great Argus Pheasant Mating Dance (argusianus argus)がディズニーの「野生動物王国」という人工建物内で飼育されているセイラン乍ら求愛行動が非常によく撮れているので必見。後に丘先生が、『アルグス雉子」の翼の羽には眼玉を拔いた跡が白茶色にたくさん殘つて居る。「くじやく」の尾の緑色に光り輝くのにくらべて、却つて高尚で趣が多い』と珍しく個人的な好みを語ってられる、その高雅であるとされる羽はこれ(リンク先は英文ウィキの「Argusianus argus oculi feathers」の大きな画像)。確かに、これはクジャクのそれより気品がある。必見!

「アルグス」アルゴス(ラテン語“Argus”)。ギリシア神話に登場する百の目を持つ、或いは体に多くの目を備えた巨人。ウィキの「アルゴス」より引く。全身に百の目を持ち、『しかもそれらの目は交代で眠るため、彼自身は常に目覚めている(別の伝承では、背中に第三の目があるとも、後頭部に二つ目があるとも言われる)。つまり、アルゴスには時間的にも空間的にも死角が無い』。『神々の命を受け、上半身は人間の女で腰から下はへびの形をしていた怪物エキドナやアルカディア地方を荒した雄牛の怪物などを退治する多くの手柄をあげた』。『ゼウスの正妻ヘーラーの命令で、ゼウスの愛人で牝牛に変身したイーオーの見張りをしていたとき、イーオーを愛するゼウスの命令を受けてイーオーを取り戻しに来たヘルメースにより殺された。 この際、ヘルメースは葦笛の音を聞かせてアルゴスの目を全て眠らせ剣で首を刎ねたとも、遠くから石を当てて殺したともいう。あるいは、ヘルメースには殺されなかったが、イーオーを逃がされた責でヘーラーに処刑されたともいう』(ギリシア神話の主神にして全知全能神ゼウスはローマ神話ではユーピテル(ジュピター)と、ギリシア神話の最高位の女神「神々の女王」ヘーラーはローマ神話に於いてはユーノー(ジュノー)と同一視された)。『ヘーラーはアルゴスの死後、その目を取って自身の飼っているクジャクの尾羽根に飾った。それ以来、クジャクは尾羽根に百の目を持つという。クジャクの話にはもう一つ説があり、それによれば、ゼウスがヘーラーの機嫌を直させるために送った鳥がクジャクだという。どちらにしても、クジャクの尾羽根にある百の目はアルゴスの目であるという説がある』とある。]

志賀理斎「耳嚢副言」附やぶちゃん訳注 (Ⅶ)

一 講談の度ごとに、肥前守の孫、九郎兵衞の末子にや仙松といへる九つか十歳斗(ばかり)が少年、いつも行義よく座して御記錄を聽居(ききをり)たるが、其さまいかにもおとなしく威(ゐ)ありて伶俐に見え、後後には必(かならず)よき所へ養子に行(ゆき)て、肥州にも負(まけ)ぬ昇身(しやうしん)もあるべき樣子に見請(みうけ)たるにより、近習のものに、「あの仙松殿は至(いたつ)て樣子よろしく見えぬるが、いかに」と尋(たづね)ければ、「さればにて候。第一人(ひと)をいたはる心深く、此ほどもそこそこえ參られ候ゆゑ、我等供(とも)にて中間(ちうげん)をもめしつれ出られたる處、途中にて俄(にはか)に雨降り傘の用意なく、仙松には菅笠(すげがさ)にて雨を凌ぎ戻られけるに、我等は笠もなく雨に濡れて供(とも)せし處、迎(むかへ)のものさし急ぎ仙松の傘ばかり持來(もちきた)りけるまゝ、まづはよろこびて仙松にその傘をわたしければ、仙松受取(うけとり)てかぶりし菅笠を取りて、我等にかぶり候得(さふらえ)と申さるれども、旦那(だんな)の笠ゆゑ遠慮いたしかぶらで手に持(もち)候て、私は濡れ候とても隨分よろしく候と申(まうし)て供致し候へば、仙松申けるは、其方(そのはう)かぶらざればをれもともに濡れんもの也(なり)とて傘をすぼめられ候ゆゑ、しからば御免、御言葉にまかせ御笠をとて、菅笠をかぶり供して歸りし處、門番見付(みつけ)て譯を知(しら)ざるゆゑ、旦那を小兒と侮り御笠をばかぶりしと、用人(ようにん)迄申立(まうしたて)たる故、用人我等を呼びて大(おほき)にしかり候間、右の始末を咄しければ、又其事を肥前守聞かれて、仙松の志(こころざし)殊勝なりとて賞美せられしなり。よろづの事みなかくの如くに候。殊に此節養子の口も整ひ候、千石已上(いじやう)也」と申き。

 此仙松事(こと)御使番(おつかひばん)の花房長左衞門養子と成(なる)。高千九石也。築地(つきぢ)に在之(これあり)といふ。

[やぶちゃん注:

・「九郎兵衞」根岸鎮衛の嗣子杢之丞衛粛(もりよし)。

・「仙松」不詳。なお、ウィキの「根岸鎮衛」によると、杢之丞衛粛の嗣子栄太郎衛恭(もりやす)の弟「求馬」という人物がいるとあるから、この求馬が仙松の可能はある。

・「伶俐」底本では右に『〔怜悧〕』と訂正注があるが、これは誤りではなく、こうも書く。頭の働きが優れていて賢いこと。

・「用人」武家の主人の身辺に居て、日常生活全般の管理に当たり、家政を取り仕切った実務担当の統括者。

・「御使番」幕府番方の職制。本来は戦時の軍陣にあって伝令・巡視役を務め、古くは「使役(つかいやく)」とも言った。元和三(一六一七)年に定役(じょうやく)となり、この時の員数は二十八人或いは二十五人という。その後、増加し、幕末には五十人から急増して遂には百十二人を数えた。若年寄支配で役高は千石格は布衣、詰所は菊之間南御襖(おふすま)際で、平時には将軍の代替り毎に諸国を巡回し、大名の治績動静を視察し(諸国巡見使)、或いは幼少の大大名の許へ多く赴任してその後見監督に当たり(国目付)、或いは城の受け渡しの際にその場に臨んで監督をするなど、総て幕府の上使を務めた重役であった(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。甲斐素直氏の個人サイト内の「名奉行根岸肥前守鎮衛の話」に『幕府の俸給制度の面白い点は、高級官僚に対する賞与の一部として、その子供の出世を早くすることです。鎮衛の場合、非常に長期に渡って江戸町奉行という要職にあったので、子供ばかりか孫までが、彼の生きている間に布衣以上の地位につけました。これは非常に珍しいことといえます』とあり、養子に行った仙松もこの花房家を継いだとすれば、甲斐氏のおっしゃるように、子衛粛の末っ子さえも養子先で布衣となっている。子孫はこれ鎮衛様々である。甲斐氏の論は非常に読み易く、且つ面白い。無味乾燥で情報羅列のアカデミック(但し、甲斐氏は日本大学法学部教授で憲法が御専門の立派なアカデミズムの中の御方ではある)な論文を読むよりも遙かにためになる。必読!

・「花房長左衞門」江戸切絵図に築地本願寺御門跡の西の裏門を出た正面(現在の新大橋通りの向かい側、中央区築地一丁目)に『花房長左エ門』の名を見出せる。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

一 講談のたびごとに、肥前守殿の御孫様であらるる――子息九郎兵衛衛粛(もりよし)殿の末子であられたか――仙松君と申さるる、これ、九つか十歳ばかりの少年が、何時(いつ)も行義よく座して軍書の講釈を聴いておられたが、その佇まい、これ、如何にもおとなしく、しかも何とも言えぬ力をも感じさせ、加えて聡明とお見受け致し、のちのちにはこれ、必ずよき所へ養子に行かれて、肥前守殿にも負けぬ昇進をもなそろうものか、という様子にさえ見受けられたて御座ったによって、ある折り思わず、御近習の者に、

「――仙松君は、これ、至って御様子、これ、よろしゅう拝察致しまするが――如何(いかが)?――」

と訊ねたところ、

「――さればで御座る! 何よりこれ、第一に人を労わる御心(みこころ)の深き御方にて御座る!……このほども、どこそこへ参らるると申されたゆえ、我ら、御供(おとも)にて中間(ちゅうげん)をも一人召し連れ、御外出なさいましたところが、途中にて俄かに強き雨の降り出だし、生憎、出立(しゅったつ)の砌りはこれ、雲一つなき晴天にて御座いましたがため、これ、傘の用意のなく、仙松君は御自身の菅笠(すげがさ)にて雨をお凌ぎになられつつ、歩みを急がれて戻られんと致いて御座いましたが、我らは笠もなく、雨にずぶ濡れとなり、御供致いて御座いました。そこへ、幸いに迎えの者の、これ、差し当たり急ぎ、仙松君の傘をのみ持ち来って参ったに出くわしましたによって、我らも悦びほっと致いて、仙松君に、その傘をお渡し申し上げたところ、仙松君、それを受け取って開きさされ、被っておられた菅笠をお取りにならるると、我らに、

――これをお被りなさい。

と申されて渡されました。が、しかし、これ無論、旦那様の御笠(おんかさ)なれば、遠慮致いて被らずに手に持ったまま、

――拙者は濡れましたとしても、これ随分、よろしゅう御座いますれば。……

とお断り申し上げました。

 ところがこれ、数歩歩まれたところで、仙松君、これお立ち止ままりになられ、振り返るや、

――その方(ほう)が笠を被らぬというのであれば――俺(おれ)も、ともに濡れて行こうぞ。

と仰せになられ、傘をすぼめしまわれました。されば仕方のぅ、

――し、しからば御免! 御言葉に任せ、御笠を拝借仕りまする!

と申し上げ、我ら、菅笠を被り、そのまま御供申し上げて無事、屋敷へと帰って参りました。

 ところが、その姿を門番の見て、これ、その訳を知らざれば、

――旦那様を小児と侮(あなど)り、あろうことか、かの近習――旦那様の御笠を被って帰って参った!!

とばかり、直ちに用人(ようにん)まで申し立てましたによって、これまた、直ちに御用人の御方これ、我らを呼びつけて、大きにお叱りなされましたゆえ、我らも右の始末につき、お話し申し上げて御勘弁願いまして御座います。

 さてもまた、その話を御祖父(おんそふ)様肥前守殿、これをお聴き遊ばさるるや、

――仙松の志し、これ、何と! 殊勝なることじゃ!!

とて、殊の外、お褒めになられて御座いました。

 一事が万事、皆、かくの如き御様子にて御座いまする。

 さても、ことにこの節、御養子の御口(おんくち)もお決まりになられ、先方(せんぽう)はこれ、千石以上の家格の御家(おいえ)にて御座いまする。……」

と答えて御座った。

 この仙松君こと、これ、御使番(おつかいばん)を勤めておらるる花房長左衛門殿の御養子となられた。花房殿はこれ、高(たか)千と九石、築地(つきじ)にお住まいになれらておらるると申す。]

志賀理斎「耳嚢副言」附やぶちゃん訳注 (Ⅵ)

一 肥州老年耳よほど遠くなり、公事(くじ)訴詔(そせう)を聞くに、訴詔人(そせうにん)心得て隨分聲を高く申(まうす)といへ共(ども)よく聞き取れず。依(よつ)て奉行段々硯を取(とり)前えすゝみ、「われが聲はひくいは。おれが耳は遠いぞ。もつと大きな聲をしろしろ」といふはをかしかりき。斯(かか)る事なれば是迄軍談をよみもの三、四人も呼びて、御記錄を講じたるが、渠等(かれら)御奉行の位(くらゐ)におそれ遠慮せしにや、とかく小音(せうおうをん)肥州思ふ程に聞えざりし故、予(よ)永田備後守御役宅にて軍書を講ぜしとき、肥州の子息九郎兵衞來り聞(きき)て申(まうし)けるには、「親は老年耳遠ければ、我等方にては隨分高く讀み聞かせ呉(くれ)よ」との事なり。備後守にも、「同役は耳遠ければ高き程よし」との事にて、その後はじめて肥前守南の御役宅へ、病死の年まで毎月度々罷越し、かねての賴みゆゑ、平日さへ大音なるをなほ聲を張て讀(よみ)たれば肥州の耳へよく入りたり。聲のあまりは三間・四間にも通りし程也。よりて後には、予が事を蜩(ひぐらし)先生またはツクツク法師(はうし)などゝ、肥州あだ名を付られたり。これ小さな形にて大きなこゑが出るといふ事にてありし。いとをかしかりき。

[やぶちゃん注:

・「訴詔」訴訟。「詔」には告げるの意があるから全くの誤字とは言えないがしかし、「訴訟」(こちらは訴える・訟(うった)えるの畳語)の歴史的仮名遣は「そしよう」である。

・「軍記をよみもの」底本では「よみ」の右に編者による『(ママ)』注記がある。

・「御記錄を講じたる」軍記の講読講釈をする。

・「永田備後守」既注。北町奉行永田正道(まさのり)。

・「肥州の子息九郎兵衞」鎮衛の一人息子衛粛(もりよし)。この招待の叙述から、この時の南北奉行の個人的関係は、かなり良好なものであったことが分かる。

・「病死の年」根岸の病没は文化一二(一八一五)年十一月四日。

・「三間・四間」五・五メートルから七メートル強。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

一 肥前守殿、老年、耳がかなり遠くなられ、公事(くじ)の訴訟を聴き糺すに、訴訟人も大概は御様子を察し、そうと心得、随分と声を大きく致いて申し上げて御座ったが、それでも翁に於かせられては、これ、よく聴き取れぬことが多御座った。

 されば御奉行、これ、聴きながら――そろりそろりと――硯を手に取ったまま――前へ前へと――お進みになられ、お白洲のその者へ、

「――そちは声が小さい!――俺は耳は遠いぞ!! もっと大きな声を、せい!! もっともっとじゃ!!!」

と、仰せになられたというはこれ、まっこと、面白きことにて御座る。

 このような次第にて御座ったれば、お好きなれば、軍記を読む者をそれまで三、四度ほども人を換えて呼び入れ、講釈させては見たものの、この三、四人、御奉行という位の高さに怖気づいて思わず遠慮致いたものか、孰れもとかく声の小さく萎んでしまい、肥前守殿にはよぅ聴こえず、すこぶるご不満にて御座ったと申す。

 されば――ちょうどその頃のこと、私は北町奉行永田備後守正道(まさのり)殿の御役宅(おやくたく)に於いて呼ばれて軍書を講じて御座ったが、そこに、たまたま肥前守殿御子息九郎兵衛衛粛(もりよし)殿の招待なされて来たっておられ、私のそれをお聴きになった後(あと)、申されたことには、

「――これは是非とも我らが親にも、先生の講釈、これ、聴かせとう存じまする。ただ、その、これ……我らが父、老年にて耳も遠御座れば、我らが方に参られた際には、これ、随分、大きなお声にて、お読み聴かせ下さいませぬでしょうか?……」

とのことで御座って、それを聴いた備後守殿も、

「――確かに。かの同役はこれ、耳の遠ければのぅ。……うむ。大きければ大きいほど、よかろうぞ。」

と助言なさっておられた。

 さても、その後(のち)、初めて肥前守殿の南の御役宅へ伺わさせて戴き、それより病いにて逝去なされたその年まで、これ毎月、しかも月に何度も罷り越すようになって御座った。

 初回、かねてよりの御子息からのお頼みで御座ったによって、普段でさえ大きな声で御座るものを、これ、殊更になお、声を張り上げ、読んだところが、肥前守殿のお耳へ、これ、まことによぅ聴こえて御座った由にて、その我らが声はこれ、三、四間先までも五月蠅いほどに響き通ったほど、と言われて御座ったものじゃった。……

……そのお蔭にて、それより後には肥前守殿、私に

――蜩(ひぐらし)先生

または

――ツクツク法師(ほうし)

などという渾名をつけられ、

「……これはの!――小さな体のくせに大きな声の出る――という心、じゃ!」

と仰せられて御座った。

 まっこと、面白きお方で御座ったよ。]

 

一 ある日肥州予に尋(たづね)て「先生は御侍(ごじ)を勤めると聞(きく)。御侍は御留守居衆の支配か、又は御用人衆の支配か」といへるに、答(こたへ)て「御用人の支配にて候」と申ければ、「立身出世が望みならば、よく御用人衆をだましたがよいぞやよいぞや」といはれしも、またをかしからずや。

[やぶちゃん注:ここは当時の御用人水野忠成(ただあきら)に対するあからさまな批判が込められていると言ってよい。

・「御侍」侍講。主君に仕えて儒書その他を講義して君徳を養うことを役目とする職名。奈良時代から天皇に侍講、皇太子・親王に侍読(じとう/じどく)を附けたことに由来する。ここは将軍のそれ。当時は第十一代家斉。

・「御留守居」幕府に於ける留守居は老中の支配に属し、大奥の取り締まりや通行手形の管理、将軍不在時の江戸城の留守を守る役割を果たした。役高は五千石で旗本から選任され、定員は四名から八名、旗本で任じられる職としては最高の職である(ウィキの「留守居」に拠る)。

・「御用人」側用人。正式には御側御用人(おそばごようにん)と呼ぶ。将軍の命令を老中に伝達することを司り、定員は一名で役料一万石。第五代将軍綱吉の就任の翌年、天和元(一六八一)年に牧野成貞が任じられたのが最初で、その三年後の貞享元(一六八四)年に綱吉が信頼していた大老堀田正俊が刺殺されてからは、将軍の居室が大老・老中の御用部屋から遠ざけられ、その取次ぎをするこの側用人の役割が強大になっていった(以上は主に「ブリタニカ国際大百科事典」の記載に拠る)。当時(第十一代将軍家斉)は水野忠成で(文化九(一八一二)年四月四日より)、田沼時代を遙かに上回る空前の賄賂政治が横行したとされ、参照したウィキの「水野忠成」によれば、『庶民に「水野出て 元の田沼と なりにけり」「びやぼんを 吹けば出羽どん 出羽どんと 金がものいう いまの世の中」などと皮肉られた』(「びやぼん」は文政年間に江戸で流行した琵琶笛(びやぼん/びわぼん)という鉄製の口琴(こうきん)の一種で、細長い鋼鉄をかんざしのように二股に作ってその間に針のような鉄をつけた三股状のもの。閉じた側を横に口に銜えて間の鉄を指で弾いて鳴らした。音はアイヌのムックリを想起されればよい。「出羽どん」水野の官位は出羽守)『忠成の執政時期は、爛熟した化政文化の全盛期であり、将軍職を退いた家斉が放漫な浪費を続けた、大御所時代とも呼ばれる大量消費時代でもあった。家斉やその実父の治済(一橋徳川家当主)に取り入ることや、子だくさんだった家斉の子の諸大名家への養子縁組の斡旋、のちに天保の改革を行う同族水野氏の忠邦の登用などが実績として知られる。また、幕府財政の不足を補うために良貨と言われた元文小判を廃して大幅に品位を落とした文政小判を発行した。その結果』、差益収入は『得たものの、激しいインフレを引き起こす原因となった。忠成は主君家斉の放埒を諫めることもなく、収賄と身びいきによる政治を行った政治家として、総じて後世の評価は低い』とある(下線やぶちゃん)。なお、一名なのに「衆」とあるが、人を表わす名詞に附いて複数の人を敬意又は親愛の意を添えて言い表す接尾語の「衆」は古くは単数の人にも用いたので、ここでは前の留守居衆(こちらは実際に複数いた)との並列文脈から附されたと見られるが、元来の用法としてもおかしくはない。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

一 ある日、肥前守殿、私に訊ねられ、

「――先生は、上様の御侍講(ごじこう)を勤めておらるると聞くが。……さてもこれ、御侍講とは、御留守居(おるすい)衆の御支配か? またはかの御用人(ごようにん)衆の御支配で御座るか?」

とのお訊ねになられたによって、答えて、

「御用人様の御支配にて御座いまする。」

と申し上げたところ、

「――先生、立身出世がお望みとならばこれ、よく、かの御用人を――騙(だま)したが――よかろうぞ! いやいや! 騙さっしゃれ! 騙さっしゃれ! ダッツハッツハッツハッツ!」

と言い放たれ、呵々大笑なされたも、これ如何にも、おかしゅう御座るまいか?]

2015/04/10

根岸鎮衛 耳嚢 全十巻1000話原文電子化附オリジナル訳注完遂記念 耳嚢 自序/自跋 (サイトHTML横書版)

ブログ・カテゴリ「耳嚢」で完遂した「耳嚢」のサイト版(HTML横書版)の「自序」「自跋」「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に公開した。

なんとなく気になっていた、「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」の「耳嚢」インデックスの未電子化パートも、ブログへのリンクを張り、取り敢えず僕の中ではすっきり出来た。

なお、そこにも注したが、第8・9・10巻は将来的にも横書HTML版ではなく、PDFファイル縦書オンリーとする予定である(ここまで一頁の容量が大きくなると、私の持っているHPビルダーのポンコツ・ソフトでは、ルビ・タグが、ちょっとした操作で知らないうちに変容してしまうことが分かったからである)。但し、その作業は気の遠くなるようなルビ化の単純作業と無数のリンク作業の繰り返しとなるため、公開はずっと後になろうかと存ずる。悪しからず。

志賀理斎「耳嚢副言」附やぶちゃん訳注 (Ⅴ)

一 町奉行の時にや、御勘定奉行の時にや有(あり)けん、本所邊(へん)見分事(けんぶんごと)ありしに、諸役人打(うち)つれて越(こ)されし時、晝辨當(ひるべんたう)の折(をり)から人申(まうし)けるは、「扨々肥前殿には是迄結構に家を起され、殊に御子息迄も御役勤(つとめ)られ、其上いつも健固(けんご)にて彼是(かれこれ)目出度(めでたき)事共(ども)、誠にあやかり度(たき)事也(なり)」と申ければ、次には支配下の者も此事を聞居(ききをり)たりしに、肥州答(こたへ)て、「さればにて候。我等身(み)不肖なるもの斯(かか)る御めぐみは有難(ありがた)き事(こと)言語に申盡(まうしつく)しがたし。我等よりも廣大無邊の有難き身は妻が身の上なり。我等は毎日毎日御奉公御役(おやく)には立(たた)ね共(ども)相勤(あひつとめ)候なり。妻事(こと)はなにもせずに唯今にては女子共(をんなこども)召仕(めしつかひ)、不自由なく罷在(まかりある)と申(まうす)も上(か)みの御恩なり。我等妻抔は各方(おのおのがた)の奧樣とは違ひ、むかしは豆腐を買(かひ)に罷出(まかりいで)たるものにて、みづから臺所釜(かま)の下(した)の世話のみ致させし身分にて候き」と、高らかに笑ひながら挨拶せしとぞ。是は村山米藏(よねざう)が物語りなり。

[やぶちゃん注:鎮衛の愛妻家の一面が見てとれる微笑ましいエピソードである。本所のしっとりとした風景にまさにぴったりの話柄ではないか。

・「人申けるは」の人物は、後に「支配下の者も此事を聞居たりしに」とあることから、根岸の支配の部下ではなく、この検分に関わって同道した別な部署の、相応に官職の高い(但し、鎮衛よりは格下)の人物である。しかし、なんとなくこの男の台詞、如何にもおべんちゃら臭い。そう取ってこそまた、根岸の答えがより生き生きとしてくるように私は思う。

・「妻」鎮衛の妻は、大坂蔵奉行などを務めた旗本桑原盛利(もりとし)の女「たか」。で「官府御沙汰略記(かんぷごさたりゃくき)」著者小野直方(なおかた)の孫の一人。小野直方は広敷添番(ひろしきそえばん:大奥の出入りの監視等の担当職。)を最後に引退した幕臣で、「官府御沙汰略記」は直方が延享二(一七四五)年から安永二(一七七三)年まで、幕府の令達や人事等の記事に加え、小野家の日々の生活を記録した書である(以上は国立校文書館公式サイト内の「旗本御家人」にある解説に拠った)。父桑原盛利が相応に女子に対して厳しく躾けた可能性はあろうが、ここで鎮衛が「むかしは豆腐を買に罷出たるものにて、みづから臺所釜の下の世話のみ致させし身分」というのは、どう見ても誇張があるように思われる。

・「村山米藏」不詳。優れてリアルな描写から、この当時、この検分に同道したその支配の部下の一人である。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

一 南町奉行を勤めておられた折りのことか、はたまた、それ以前の御勘定奉行の折りのことであったか、本所辺りをさる一件にて検分なされたことがあった。

 諸役人をうち連れ、現地に赴かれて検分をもなし、ちょうど昼時となったれば、野外にて弁当を食されんとなされた折りから、同行したさる御役人の申さるるに、

「……さてさて肥前殿にはこれまで、まっこと結構なるご昇進によって家を興され、殊に今は御子息までもこれ、なかなかの御役をお勤めになられておらるる。その上、何時(いつ)もご健勝んしてご壮健……どれもこれも、全く以って目出たきことどもばかり! まことに、我らも是非とも、あやかりたきことと存じまする。」

とおべんちゃらを申したところ、脇にては御自身の部下の者どもも、この話を聴いて御座ったが、肥前守殿、答うるに、

「……さればにて御座る。……我らが身(み)は、これもともと、すこぶる不肖なる者にて。……かかる御恵(おんめぐ)みはまさに想像だにせなんだ――在り難きこと――に御座っての。……かくまで――在る――ことに就きてはこれ、何とも言語に申し尽くし難きものにて御座る。……そうさ、正直、不詳の我らには訳の分からぬことと申せましょうぞ。……いや! 我らよりもこれ、広大無辺のお慈悲によって――在り難き身として在る――と申すはこれ、我が妻の身の上にて御座る!……我らは毎日毎日の御奉公――これ、一向にお役には立ち申さねども――辛うじてかくも相い勤めて御座るが、この妻儀は――これ、何一つ何(なん)にも致さず――しかも! 今にあってはこれ、女子どもから召し使いまでその支配に置き何不自由なく――罷り在る――と申すも! いやいや! 実にこれ、お上(かみ)の御恩の賜物にて御座るよ!……我らが妻なんどは各々方(おのおのがた)の奧方様とはこれ、大いに違(ちご)うて、昔は手鍋提げて豆腐を買いに罷り出でたるような者にて御座って、自ら台所の竃(かま)の下の世話――飯炊き女――のようなことのみ致いて参ったる、愚かな身分の者にて御座るじゃ!」

と、高らかに笑いつつ、かの御仁へ挨拶なされた、とのことで御座る。

 これはその折りの部下であられた村山米蔵殿の直談にて御座る。]

 

一 むかしをわすれざるためとて、町奉行のときまでも、妻女の下帶(したおび)には平日は木綿(もめん)を用ひられ、年に一度づゝ正月毎に奧方手づから飯を焚(たき)て召仕(めしつかひ)のもの迄に振舞(ふるまは)れしと。是(これ)等(など)古風ありて今時(いまどき)のものゝする事にあらず。誠に肥州の用意格別といふべき處いと尊(たつ)とし。

[やぶちゃん注:「耳嚢」では、この妻たか女のことは取り立てて記されていないが、根岸家の何とも言えない暖かさが伝わってくる一話ではないか。

・「妻女」妻たか女との間には男子衛粛の他に三人の娘がいた。

・「下帶」装束の下、小袖の上に締める帯。鎮衛の家格ならば妻女のそれは絹製であったろう。木綿のそれは当時は礼服や正装ではあり得ない、武士でも下級の者の帯びる粗末なものという感じが強かったものと思われる。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

一 昔の清貧の頃を忘れぬようにするためとて、町奉行の時までも、肥前守殿のご妻女の下帯(したおび)には平日はこれ、木綿(もめん)を用いられ、年に一度ずつ正月ごとに、奧方たか女(じょ)さま手づから飯(めし)を炊かれて、家中の召し使いの者に至るまで皆に振る舞われたと申す。

 これなど、如何にも古風なる麗しき習わしにして、今時(いまどき)の奢侈(しゃし)にどっぷりと浸かった誰彼のなす事にては御座ない。

 まことに肥前守殿の深き心遣い、これ格別なり、と申すところにして、たいそう尊(たっと)きことにては御座らぬか。]

志賀理斎「耳嚢副言」附やぶちゃん訳注 (Ⅳ) 鼻糞! 痛快!

一 肥州には、追々(おひおひ)昇身(しやうしん)して粒立(つぶだち)たる御役人にならるゝといへ共(ども)、一向に姿かたちなど取餝(とりかざ)るといふ事なく、行作(ぎやうさ)を取繕(とりつくろ)ふ事をせず、外(ほか)の人のやうに見えなどゝいふ事(こと)更になし。吟味役を勤めしとき、冬の朝はやく出る事ありしが、折しも頭巾の用意なかりしかば、妻女のかぶらるゝお高祖頭巾(こそづきん)をかりて、くるくると頭にまきて駕籠に乘り出て、さて駕籠より出るとき、人の見るもいさゝか構はず其かぶりしまゝにて出しつるに、かの頭巾を取(とり)て袂に入れしとぞ。また或時芙蓉の間御役人同士同道にて登城せしに、下乘橋(げじやうばし)の邊にて鼻糞をほじりて大なるかたまりを掘出(ほりいだ)し、橋の欄干なる葱房子(ぎばうし)えこすり付(つけ)て通りし有樣、傍(かたはら)に人なきが如し。その磊落(らいらく)なる事すべて斯(かく)の如し。

[やぶちゃん注:個人的に下乗橋擬宝珠鼻糞は奇々妙々にして痛快!

・「吟味役を勤めしとき」鎮衛は安永五(一七七六)年十一月一日に御勘定組頭から勘定吟味役へ昇進(当時満三十九歳で十二月十六日には布衣着用)し、満四十七歳で天明四(一七八四)年三月十二日に佐渡奉行に就任するまでの七年三ヶ月強、御勘定吟味役であった。

・「お高祖頭巾」御高祖頭巾(おこそずきん)。江戸中期 (十八世紀初)から明治・大正にかけて、主として若い女性に用いられた防寒用の頭巾。一説にカラムシの茎「おくそ」で作った頭巾に形が似ていることから転訛した名称とされる。また、形が着物の袖に似ているところから袖頭巾、ときには大明(だいみん)頭巾と呼ぶこともある、と「ブリタニカ国際大百科事典」にはある。四角な一枚の布で製した被りもので、これには耳へ掛け顔を表す被り方と、目の周りだけを出して頭部全体を包むものとがあるが、鎮衛のそれは頭部に委細構わずぐるぐる巻きにしたもの(恐らくは寒いわけだから、目だけ出して)で、とんだかぶき被りである。

・「芙蓉の間」江戸城芙蓉之間。表の中央中奥寄りにあって、主に旗本の役職者の伺候席として、大名の監察役である大目付、鎮衛が在任した勘定奉行・寺社奉行・江戸町奉行(鎮衛の最終職)などの奉行職詰所及び奈良奉行・長崎奉行・佐渡奉行(根岸はこれも在任したことがある)などの遠国奉行などの、老中支配の高位役職者(徳川家身内人である旗本でも最高位の連中)が伺候した。

・「下乘橋」二の丸濠を渡る大手三の門にあった西の丸下乗橋であろう。御三家以外は駕籠を降りなければならなかった。現在の皇居正門の二重橋近くに存在した木橋で、しばしば現在の二重橋と同一と記されるが、情報を見る限りではどうも同じ位置ではなく、少し奥にあったらしい。

・「葱房子」擬宝珠(ぎぼし)。本来は「ぎぼうしゅ」。建物の高欄や橋の欄干の柱頭部を飾る宝珠。形は宝珠形の頭部と、それに接続する円筒形の胴部から成り、多くは青銅製で木製の柱の上に被せる(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

・「磊落」心が広く快活で小事に拘らぬさま。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

一 肥前守殿は、まことに順調に昇進なされて、これ殊の外、遂には江戸市中にて名奉行と評判さるるような御役人になられたとは申せ、これ一向に、姿貌(すがたかたち)など、全く以ってとり飾らんとするところ、これなく、その挙措動作一つをとって見ても、これ一切、変にとり繕ろうとされることのない御仁であられ、他人からどう見られるかなんどと申すことに至ってはこれ、さらさら関心のない御方であられた。

 そんな挿話を少し。

 吟味役を勤められておられた折りのこと、冬の朝、いたく早く出でねばならぬことの御座ったが、折しも、頭巾の用意これ、手違いにて用意されておらなんだによって、手直に御座った妻女の被らるるところの御高祖頭巾(おこそづきん)の御座ったによって、これをひょいとお借りになられ、くるくるっと、これ、無造作に頭に巻かれて駕籠に乗り出でられ、さても勘定所に着くや、駕籠より出でらるる際にも、人に見らるるも委細構はず、その奇体なものを被りしままに駕籠を出でらるると、徐ろにその頭巾を取って袂に入れ、悠々と勘定所へ上がられた、とのこと。

 いや、これは序の口。

 またある時には、営中は芙蓉の間の御同役の御方と同道致いて登城なされたが、かの西丸下乗橋(にしのまるげじょうばし)の辺りにて、肥前守殿、これ、鼻糞をほじられつつお渡りになられたが、これがまた、大きなる塊をこれ、お鼻より掘り出だされた。すると、かの橋の欄干にある擬宝珠へ、この大(おお)鼻糞をこれ、ここすりつけられ、平然とお通りになられた。そのありさま、これまさに――傍らに人無きが如し――で御座ったと申す。

 いや、これは決して誹謗にては御座らぬ。その翁の磊落(らいらく)なること、これ――総てかくの如し――という賛辞にて御座る。]

 

一 日の昇るが如く奉行職に立身したるが故に、親類・遠類(ゑんるい)・緣者またはゆかりの者など、おのおの其(その)願へる御場所(おんばしよ)などを物語して、「何卒引立呉(ひきたてくれ)候樣に」としきりに請ひ求(もとむ)れ共(ども)、たゞ「心得たり」との返事のみにて一向吹擧(すゐきよ)せず。肥州つねづね家内えのはなしには、「我等はからずも御惠みによりて莫大(ばくだい)の結構なる身の上となりたりとて、何ぞ親類又緣者迄に及ぶべきや。外外(ほかほか)のものも大切に御奉公精勤して年月を累(かさ)ねたらば、おのづから天の御めぐみはあるべし。我が知る處にあらず」とて、更に身贔屓(みびいき)の世話はせざりしとぞ。是又一己(いつこ)の見識なり。

[■やぶちゃん現代語訳

 

一 日の昇るが如く奉行職まで立身出世なさったがゆえに、近親やら遠き親類、はたまた縁ある者ども、または、なんやかやと所縁(ゆかり)あると申すところ輩(やから)なんどが、これ、それぞれ勝手に所望懇請するところの、なりたき地位や立場、身勝手なる成り行きなんどを物語りなしては、

「……何卒、お引き立て呉れまするよう。……」

と、しきりに乞い求めて参ったが、そうした輩には、これ、ただ、

「――心得て御座った。――」

との返事のみにて、そう口では申されながら、一向、そうした人物を推挙なさるることは全く以って御座らなんだ。

 肥前守殿、常日頃の御家中の者への御教訓に、

「……我ら、はからずも御恵(おんめぐ)みによりて想像をだにせなんだ大層なる結構な身の上とは相い成って御座った。……御座ったが……だからと申し、これ、何ぞ親類、また縁者どもにまで、この御恵(おんめぐ)みの及ぶが当然と申すは、これ、如何なものか?……いやいや……その他の方々もこれ、それぞれ心を込めて御奉公や御精勤をなして年月を重ねたならば、必ずや、自(おの)ずから天の御恵(おんめぐ)み、これ、あるもので御座ろうぞ。……さればこそ――そうした懇請懇願はこれ、我らの感知せるものにては御座ない。――」

とあって、所謂――身贔屓(みびいき)の世話――なんぞはこれ一切、なさらなんだということで御座る。

 これまた、一己(いっこ)の見識として美事なものではないか。]

片山廣子の芥川龍之介宛の幻の書簡の所在が判明した

片山廣子の芥川龍之介宛の幻の書簡の在り所が僕の昔馴染みから遂に知れた!――何か新しい動きが起りそうな予感が――する――!

やぶちゃん編 芥川龍之介片山廣子関連書簡16通 附やぶちゃん注

の原本(これは旧所蔵者であった吉田精一と辺見じゅん以外、如何なる芥川龍之介研究家も語っていない。ということはこの二人以外、親しく実見した研究者がいないということを意味する幻の書簡なのである)が公にされる可能性――現われていない秘められた事実が明らかにされるかもしれない可能性――が出て来たということである。

何だか……わくわくしてきた!……

2015/04/09

志賀理斎「耳嚢副言」附やぶちゃん訳注 (Ⅲ)

一 根岸老人方に召仕(めしつかひ)の近習(きんじふ)若者ども、奥向(おくむき)えも立入(たちいり)て用向(やうむき)を勤めける故、奧腰元のわかき女共(ども)と色情の事抔あれば、いつとても女のかたは暇(いとま)と成(なり)、男はしかりのみにて何のかまひなし。北の同役永田備後守方にては、男女別を嚴しくせられ、錠口(ぢやうぐち)樣(やう)の處より内えは男子はかたく入れられず。依(よつ)て永田方の近習の若もの、「南の御役所はよき事也。さりとては浦山(うらやま)し」と申合(まうしあひ)けるもおかしき事ながら、若きものにはまた尤(もつとも)なるべし。さて根岸にて女ばかり暇とは片落(かたおち)なる事と申罵(まうしののし)る處、肥州のはじめより申聞(まうしき)かするには、「男の方より女をいざなふは陽の道にて常の習(ならひ)なり。女はそこをかたく守るべきが女の道なり。なんぼ男がいざなふとて、夫(それ)に引かるゝは女の掟(おきて)を背(そむ)く處なれば罪ゆるさず」と、平生(へいぜい)しめし置かるゝも一理あれど、またをかしからずや。

[やぶちゃん注:節操について男女を陰陽の現象として捉え、その正常異常を人の道に於ける正不正の基準としていたという鎮衛のユニークな持論がなかなか面白い。一見、彼の男女差別の意識を感じさせるように見えるが、その実、近習らの奥向きへの出入りを一切禁じなかった彼は、寧ろ、当時の武家の日常生活に於ける男女の差別意識とは異なった――『男女が惹かれ合うはこれ当たりきしゃりきのことじゃ!』――という本音に基づくユニークな立ち位置にあったのではない? それがまさに「なんぼ」というリアルな口語一語(後注参照)となって表われていると私は信じて疑わないのである。

・「永田備後守」北町奉行永田備後守正道(まさのり)。

 根岸肥前守鎮衛の南町奉行在任期間は、

 寛政一〇(一七九八)年十一月 十一日から文化一二(一八一五)年十一月九日

 永田備後守正道の北町奉行在任期間は、

 文化 八(一八一一)年 四月二十六日から文政 二(一八一九)年四月二十二日

であるから、この話柄は文化八年から文化十二年までの四年間の閉区間の中でのエピソードと考えてよいであろう。なお、根岸は実際には十一月四日に亡くなっているが、公儀の死亡通知は九日付であった(なお、永田も在任のまま死去している。以上のデータはネット上の複数のサイトを確認した)。

・「なんぼ」小学館「日本国語大辞典」には副詞「なんぼ」の項に、「何程(なにほど)」の変化したものとして、最後(三番目)の意味として、『普通には認められないものが特に認められると許容・譲歩する気持を表わし、それでもこの場合には認めるわけにはいかないという判断を導く。いくら(…でも)。なんぼう』とあり、方言の採集例が怖ろしく膨大な量、示されてある。ネットなどではこれを関西方言であるとか北海道方言などとするのであるが、この多量のデータを見ると、北は北海道から南は熊本県まで「なんぼ」はあり、しかもその中に鎮衛の実父安生定洪(さだひろ)の出身地である『神奈川県津久井郡』が明記されている

 

■やぶちゃん現代語訳

 

一 根岸老人方の召し使って御座った近習(きんじゅう)の若者どもはこれ、御屋敷の奥向きへも自由に立ち入ることが許され、種々の奥方の用向きをも普通に勤めて御座ったによって、時に、奧腰元の若き女どもとの色恋沙汰なんども、正直、御座ったのだが、そのような折りには、如何なる場合にあっても、女の方(かた)は暇(いと)ま申し付けと相い成り、当の近習の男はこれ、叱りのみにて何のお構いも、これ、御座らなんだ。

 一方、当時、北町の方(ほう)の同役であられた永田備後守正道(まさのり)殿が方に於いてはこれ、家内での男女の別をはなはだ厳しくなされており、錠(じょう)の掛かる出入り口のようなるものを屋敷の表向きと奥向きの間に設(しつら)え、そこより内へは、これ男子は堅く入ることを禁ぜられて御座った。

 されば永田殿方(がた)の近習の若者どもはこれ、

「……南の御役所さまは如何にもええなぁ。……それにしても羨ましいことじゃ。」

などと、噂し合っておったとか申すも、これ、おかしきこと乍ら、若き者にとっては、これまた、もっともな本音とも言えよう。

 ところがその中には、

「……さても根岸殿方(かた)にては、家中のけしからぬ色恋沙汰を咎むるに、女ばかりに暇まをとらせ、男にはただお叱りのみと申すはこれ、如何にも不公平なことではないか。」

なんどと、陰口をきき、罵しる向きも御座ったが、肥前守殿、これ、以前より語られてこられた持論のあって、

「――男の方(かた)より女を誘(いざな)うと申すはこれ、『陽』の『陰』に対する常なる正道(せいどう)の現象として、これ何ら、おかしなところはない。――されど、女と申すは、これ、そうした際、堅く節操を守らねばならぬのが、『陰』の『陰』たる女の正道(せいどう)の現象である。――なんぼ、男が誘(いざの)うたからと申せ、それに安易に引かるると申すは、これ、女の本来の節――掟(おきて)――に背(そむ)くところなれば、我らはその――罪――をこれ、許さぬ。」

と、平生(へいぜい)より主張なさっておられた。

 これ、一理あるとも申せようが、いや、また、面白いお考えではないか。]

 

一 ある日借金出入(でいり)の事有て、雙方呼出し訴狀讀上(よみあげ)たり。畢(をはり)て肥州申されけるは、「今訴狀の趣を聞く處、金高(かねだか)何拾何兩銀何匁(もんめ)何分(ふん)とあり。はじめ貸(かす)ときに何匁何分と貸す事あるべきや。おもふに是は古借(こしやく)の殘金に利銀(りぎん)を加へて、あらたに改(あらため)て金高とせしと見えたり。屆(ふとどき)也。得手(えて)ある事也、腰掛(こしかけ)にてよくよく内談(ないだん)をしろ」といはれて、その通りの事にてありければ、早速内談して願ひ下げにしたりとぞ。この事留役を勤たる奧村源太郎が一話なりき。

[やぶちゃん注:幕府が手を焼き、よほどのことでなければ訴訟を取り上げなくなっていったき金公事(かねくじ)の名捌きである。本件は、裁判が行われている中で裁判官から文書の一部書き換えが指摘されているところからは現行なら貸主の訴訟が無効とされ、全面敗訴となると思われる。但し鎮衛はそこで一旦審理を中断して、両者話し合いをさせている。これは民事上の訴訟が開始されている中で当事者が互いに譲歩して争いをやめる契約をした「和解」であるから、当時の謂いならば「内済(ないさい)」(現行の「和解」)だか、これは貸主が利息分を放棄し、借主も残りの元金を払うことを素直に認めたのであるから、互いに譲歩した「相対(あいたい)」(現行の「示談」であるが、しかし現行でもこように相互譲歩の場合は同時に同じく「和解」と規定している)でもあろう。

・「得手」これは聞き手にそれと分かる事物・人物・場所などをさして、「例のもの」「例のこと」「例のところ」の意を表す特殊な用法で、ここでは借金證文を貸主が改竄したものであるという事実を暗に指しているのである。先に注した徳川吉宗が享保四(一七一九)年に出した相対済令(あいたいすましれい:金公事を永年に亙って取り上げないことが明文化されたもの。但し、後にこの厳しい方針はこの単独法令の廃止によって廃されてはいる。)の例外事項として、但し、『利息を伴わない金公事や宗教目的による祠堂銭(名目金)、相対済令を悪用した借金の踏み倒し行為は例外とされた』(ウィキの「相対済令」より引用。下線やぶちゃん)とあるから、これは貸主がそうした利息を取り、しかも後から貸した額の残金にその利息も附け足して借用證文を改したのであるから、逆に訴えた貸主が罰せられるべき事例であるように思われる。それだからこそ訴人であろう貸主はびびりまくって、即座に譲歩したのであろう。被告の借主の方も、寧ろ、改竄の詮議なんどに拡大して、無暗に呼びつけられて、審議に参加せねばならぬことになったのでは堪らぬ。借金の残っていることは事実である訳だし、不満だった利子も無効とされた以上、ここでは却って貸主に全面的に協力して和解示談に積極的に賛同したと考えておかしくない。

・「留役」鎮衛もかつて勤めた(宝暦一三(一七六三)年二十六歳の時から明和五(一七六八)年まで)評定所留役のことであろう。ウィキ評定所留役によれば、『評定所の書記官で、勘定所から出向した役人の勘定がこの任に就いた』。『評定所は江戸幕府の最高裁判所であり、寺社奉行・町奉行・勘定奉行の三奉行が単独では処理できない案件を処理する場であったが、評定所構成員の奉行たちは、初回の吟味と、最後の判決の申し渡しのみを行った。実質的な審理は法令や過去の判例を熟知していた留役が行い、審議する事件の事実関係の下調べ、法令や判例の調査、書類の作成、容疑者への尋問や、審議を担当した』。『容疑者の下吟味の際に取られた口書(供述書)を留役が読んで、尋問すべき点を半紙に書いて奉行に渡し、奉行はこれを見ながら最初の吟味を行う。その後、留役が勘定所で、町方の事件であれば町奉行所の与力が留役に代わって取り調べを行った。取り調べは通常は留役』が一人で、難しい事件であれば二人で『行って調書を作成。その調書を元に奉行たちによる吟味が行われた。一連の裁判の流れで一番重視されたのが実際の取り調べにあたった留役で、ほとんどの場合は留役の意見が採用されて判決が下された』。『留役は勘定所の中でも特に有能な者が勘定奉行により任命され、御目見以下の者であっても御目見以上の役職である勘定に昇進させて評定所へ出向させた。留役から遠国奉行や町奉行・勘定奉行にまで出世する者もおり、重職を歴任した川路聖謨も評定所留役を務めた。当初は勘定所からの出向者が務めたが、後に寺社奉行・町奉行所の吟味物調役(ぎんみものしらべやく)も出役して留役を務めた』とある。この職名からやはりこれも町奉行時代の判例ではなく、勘定奉行時代のそれということになる。

・「奧村源太郎」不詳。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

一 ある日、借金出入りの金公事(かねくじ)の御座って、訴人と訴えられた借主双方ともに呼び出し、訴状を読み上げさせた。

 読み上げの終わって、肥前守殿、徐ろに申されたことには、

「……今、訴状の趣き、これ、聴いたところ、貸したと申す額の部分

――金高(かねだか) 何拾何両銀何匁(もんめ)何分(ふん)

とあった。さて? 初め、金を貸す時に

――何匁何分

と貸すことなど、これ、あるであろうか?……思うにこれは、最初の貸した元金(がんきん)の内、返済された分を除いた残金である

――何拾何両

――銀何匁何分

という貸主の定めた利子を加へて、新たに改めて金高とした證文のように見えた。

……だとすればじゃ。

……これは、證文の改竄に当たり、看過し難き、訴人たる貸主、そなたの側の、これ、由々しき不届きである。

……そんな、きな臭き匂い、これには――ある――のぅ。……

……まあ、そこな、腰掛けにても座ってじゃ、よくよく二人して――内々に――まずは――相談をしろッツ!――」

と、最後は大声にて申し渡された。

 無論、肥前守殿の申されたことが、その通りの事実にて御座ったによって、二人はこれ、早速に泡食って相談なし、貸主もほうほうの体(てい)にて訴えを願い下げに致いた、とのことで御座った。

 この出来事は、当時留役を勤めて御座った奧村源太郎殿から伺った一話であった。]

志賀理斎「耳嚢副言」附やぶちゃん訳注 (Ⅱ)

一 ある人肥州え殿中にて申(まうし)けるは、「我等方え内緣有(あり)て出入する誰といへるもの、今度ケ樣ケ樣(かやうかやう)の公事(くじ)にて、其御役所え出て願へる事ども、とかく吟味方(かた)與力何某掛りにて取扱(とりあつかふ)處、相手方の申分(まうしぶん)のみ取上(とりあ)げ、此方(こちら)より申立(まうしたつ)る事は一向取上げなくて始終皆皆先方勝利の樣に取捌(とりさば)き候よし。右之通(とほり)にては理も非の樣に成行(なりゆ)くべく間、何卒よくよく申(まうし)條を正道に計(はから)ひ呉れ候樣御聲(おこゑ)掛(かけ)られたらんには嘸(さぞ)かし喜ぶべし。非を理に曲(まげ)てと申(まうす)にてはなく、とかくは明白の處我等に於ても賴み入(いり)候」と、折入(をりいつ)て厚く物語しければ、肥州答(こたへ)て、「至極尤(もつとも)なり。よくよく與力共(ども)え申(まうし)含むべし。さてさて夫(それ)は不埒の事なり。隨分と辭を掛(かけ)申(まうす)べき也(なり)。しかしながら諸組(しよぐみ)の與力共(ども)とは違ひ、町與力と申(まうす)ものは少々づゝは申分(まうしぶ)んあるものなれば、此後とても左樣の事はすこしは目長(めなが)に見ねば却(かへつ)て勤まらぬ事もある也(なり)。負(まけ)そふな公事は誰々も相手方を依怙贔屓(えこひいき)する樣に申(まうし)なすものにて候ぞ」との挨拶せしと也。

[やぶちゃん注:

・「公事」「耳嚢」では、今までこの江戸時代の民事訴訟のシステムについて纏めて注を示したことがなかったことに気づいた。ここではウィキの「公事」の、「民事訴訟に関する公事」を引用しておきたい。『江戸時代においては吟味筋と称した刑事事件に対して、出入筋と呼ばれる民事事件があり、出入筋に関する訴訟、すなわち民事訴訟を指して「公事」あるいは公事出入・出入物と称した。ただし、実際には内済・相対』(大雑把に言えば「内済」はそれぞれ現在の民事訴訟に於ける「和解」、「相対」は「示談」に相当。なお、現行では示談は話し合いで決めることで、民事上の紛争を裁判によらず当事者間で解決することを指し、和解は民事上の紛争を当事者が互いに譲歩して争いをやめる契約。互いに譲歩した示談は和解ともあり、明確な境界域はないようだ。裁判所で成立した和解は調書に記載されると確定判決と同じ効力を持つ)『で解決される場合においても必要な手続を「公事出入」と称するため、注意を要する』。『公事には大きく分けて本公事(ほんくじ)と金公事(かねくじ)、仲間事の』三つに『分けることが出来、訴状が受理された後に審理にあたる奉行・代官がそのいずれにあたるかを判断した。本公事とは家督や土地、境界、姦通(現行犯を除く)、小作、奉公人関係など権利関係の争いを指し、金公事とは金利利息の付いた金銭貸借及び預金・質権訴訟を指した。仲間事は『公事方御定書』に「連判証文有之諸請負徳用割合請取候定・芝居木戸銭・無尽金」と定義されているように共同事業・無尽・芝居木戸銭・遊女揚代など仲間内部における利益分配を巡る訴訟を指した。もっともこの区別は幕府法によるもので、藩によって公事銘の区分や呼称に違いがあったし、幕府法においても時代とともに公事銘(事件類型)の移動』(本公事と金公事の扱いの移動)『が生じた。なお、公事の訴訟は寺社奉行・町奉行・勘定奉行並び輩下の代官が行ったが、他奉行の支配地域や他領の者との訴訟、私領間の訴訟は江戸幕府評定所が行った。本公事は公益的要素も含むために原則的において幕府によって訴訟を受理されたが、金公事は必ずしも受理されるとは限らなかった。これは儒教的な封建社会において金利を伴う取引が卑しまれた事に加え、こうした取引は相互信頼に基づくものであり本来は内部で解決されるべき問題であると考えられたからである。そして、仲間事に至っては当事者間の強い信頼関係上に成立しかつ内容自体も収益性が強く反封建的・反道徳的なものであり、紛争が生じても仲間内の責任問題であるとして訴訟の受付は行われなかった。更に当時の日本の法思想では行政権と司法権の分離は行われておらず(例えば、町奉行は江戸の行政・司法の両方の権限を有する)、却って刑事事件である吟味筋の吟味を通じた治安の確保こそが行政行為の中核と捉えられていた。更に前述のように共同体の自治に基づく内済・相対による解決を良しとする伝統的な思想があり、民衆が訴えを起こす際には原告による訴状に名主の奥印が押されていること、他領にまたがる訴訟の場合には領主による添状(大名)・添簡(旗本)の添付がない場合には書類不備を理由に却下されるなど、訴状を受理されるまでに壁が存在していた。また、子が親を訴えることや従者が主人を訴えること自体が犯罪とみなされていた。更に奉行・代官も訴訟を受けても積極的な審理を行わずに、特に金公事に関しては町役人・村役人とともに訴人に対しては訴えの取り下げと内済・相対など当事者間の話し合いによって解決させる事(実際の訴訟に至らしめないこと)を基本方針としていた。従って、公事(特に金公事)の増加によって吟味筋の吟味が滞ることは重大な問題と捉えられ、町奉行所が金公事の受付そのものを拒否する相対済令』(「あいたいすましれい」と読む。金公事は取り上げとせず当事間で相対(示談)にすることを命ずる法令。寛文元(一六六一)年を最初に数度に亙って発令されているが、但し、これはここにあるような民事訴訟増加による刑事訴訟停滞への対処の外、旗本層の救済の徳政令のような目的もあったらしいことがウィキの「相対済令」で分かる。それによると将軍吉宗が享保四(一七一九)年に出した相対済令は金公事を永年に亙って取り上げないことを宣したものであったという。但し、利息を伴わない金公事や宗教目的による祠堂銭(名目金)、相対済令を悪用した借金の踏み倒し行為は例外とされ、この法令自体は後に廃止されたとある)『などがしばしば出された。相対済令によって公事の訴権を奪われた人々は泣き寝入りする他無かった。更に、実際の訴訟手続において法手続きに通じた公事宿・公事師と呼ばれる仲介人なくしては、内済・相対の合意や裁判の遂行は不可能であった。公事宿は奉行所の公認を受けて公事(訴訟)のために遠方から来た者を宿泊させる施設で、公事師は公事(訴訟)や内済の手続代行などを行った非公認の業者である。だが、公事宿の経営者の中には公事師と同様の業務を行ったり、公事師の斡旋業を行ったりする者もおり、実態としては大きな違いはなかった。だが、そうした公事宿・公事師の中には悪質な者も存在しており、そうした公事宿・公事師に騙されて却って財産を失うケースも頻発して人々を苦しめた』とある。

・「與力」既に何度も注しているが、訴訟との関係の透明性を図るために、ウィキの「与力」の「江戸の与力」の箇所を引いておく。『江戸における与力は、同心とともに配属され、上官の補佐にあたった。そのなかで有名なものは、町奉行配下の町方与力で、町奉行を補佐し、江戸市中の行政・司法・警察の任にあたった。南町・北町奉行所に』各二十五騎の『与力が配置されていた(与力は馬上が許されたため馬も込みで単位は「騎」)』。『与力には、町奉行直属の個人的な家臣である内与力と、奉行所に所属する官吏としての通常の与力の』二種類があった。『内与力は陪臣であるため他の与力より格も禄高も低かったが、奉行の側近として権力自体はむしろ大きいケースもあった。警察に限って言うなら現在の警察署長級(ただし、現在の警察署長のように各与力ごとに管轄区域が存在したわけではない)、司法員としては民事・刑事裁判ともに詮議担当もしたので裁判官的側面、また行政面において行政官として配下の同心を指揮・監督する管理職的側面も存在した』。与力は役宅として三百坪程度の『屋敷が与えられた。また、もめごとがおこったときに便宜を図ってくれるように諸大名家や町家などからの付け届けが多く、裕福な家も多かった。特権として、毎朝、湯屋の女風呂に入ることができ(当時の女人には朝風呂の習慣がなかったため空いており、男湯の密談を盗聴するのに適していた。また、女湯に刀掛けがあることは八丁堀の七不思議と呼ばれた。)、屋敷に廻ってくる髪結いに与力独特の髷を結わせてから出仕した。粋な身なりで人気があり、与力・力士・火消の頭を「江戸の三男」と称した』。『町与力組頭クラスは二百数十石を給付されて下級旗本の待遇を凌いだ。ただし、罪人を扱うことから不浄役人とされ、将軍に謁見することや、江戸城に登城することは許されなかった。したがって身分上は御家人である』とある。

・「組與力」これは番方(広義には交替で雑務や幕営の警備・将軍身辺の護衛を勤める者の意で大番組・小姓番組・書院番組などがあった)に配された与力のことを指している。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

一 ある人が肥前守殿へ、殿中に於いて申されたことに、

「……実は我らが方へ内輪の縁によって出入致す●●と申す者のおるが、この度、かくかくしかじかの公事(くじ)にて、貴殿の奉行所へ願い出でて訴えたる件のことどもにつき……その、吟味方(がた)の与力――これ、〇〇と申すらしいが――その者が件(くだん)の公事をこれ取り扱(あつこ)うておると申すが、この与力、相手方の申し分のみを取り上げ、我らが方の●●より申し立てたる事は、これ、一向、取上げずに、始終、これ皆々先方の勝利致すがようなる方にばかり取り捌いておるとのことじゃ。……さても、その通りとなってはこれ、理も非の如く、とんでもなきありさまに成る行くようなる仕儀なればこそ、何卒、よくよく、その〇〇なる者に、最初に訴え出でたる●●の申し状を正道に即し計らい呉(く)るるよう、貴殿よりお声、これ、かけられたらんには、●●もこれ、さぞかし喜ぶことであろう。……いや、間違って貰(もろ)うては困るが、これは――非を理に枉(ま)げて――申しておるのにては、御座ない。――ともかくも、その訴訟の一件はこれ、●●の申し条の明白なれば、の。……一つ、我らよりも頼み入って御座る。……」

と、おりいって見た目、慇懃には物語して参ったと申す。

 すると、肥前守殿、答えるに、

「――それは至極もっとものなることにて御座る! よくよく配下の与力どもへ申し含めんと存ずる!――さてさて! それは実(げ)にも不埒千万の事で御座るの! これはまず、随分と、注意致すよう、言葉をかけ、申し含めようと存ずる。……しかしながら……諸組(しょぐみ)の与力どもとは異なり、これ、町与力と申す者どもには――それぞれ己(おの)が町与力という目線から見えて参る真実(まこと)もあって――幾分ながら、それぞれの思いや仕方に申し分のあるものにては御座ればのぅ。――この先も、さようの事については、我らも少し長い目にて見てやらんことには――これ、かえって町奉行という職務の――勤まらぬ――という一面も、これ、御座るでの。……そもそもが、負けそうな公事と申すは、これ誰でも、相手方を指しては――依怙贔屓(えこひいき)致いておる!――なんどと申しなすものにて御座る。――」

ときっぱりと挨拶致いた、とのことで御座った。]

 

一 湯呑所(ゆのみどころ)のもの野口政之助といへるが、内緣の町人あり。金子を借りたる處、返金段々延引に及(および)し程に貸方より願出(ねがひで)て吟味と成(なり)、かへすべきよし嚴しく與力申渡(まうしわた)し實々(まことまこと)難儀しければ、政之助御勘定所にてひそかに右等(とう)の譯合(わけあひ)を歎き、「御取立(おとりたて)嚴(きびし)ければ身上(しんしやう)仕舞(しまひ)候間、何卒緩やかに取呉(とりくれ)候樣に先方え御利害下され候樣に」と、打明(うちあけ)て内々肥州え願ひければ、「一體借りた物なら早く歸すがよいに」との事に付(つき)、「さればその處にて、隨分返し度(たく)は候得(さふらえ)ども、色々不仕合(ふしあはせ)にてもの入(いり)多く、夫(それ)故畢竟(ひつきやう)遲延に成(なり)候。何分ゆるやかに勘辨致し呉れ候樣偏(ひとへ)にねがひたてまつる。渠(かれ)は私(わたくし)内實(ないじつ)は姉聟(あねむこ)に候」抔と願ひ申(まうし)ければ、肥州申けるは、「よくよく心得たり。隨分宥免(いうめん)する樣に申渡(まうしわた)し呉(くれ)ん」との挨拶ゆゑ、政之助内心に、「先先(まづまづ)説きおはせたり」と大(おほき)に喜びて居(をり)たりける處、さてその日、はや諸役人退出の刻限と成(なり)、肥前守にも御勘定所の口を出る時、政之助格別に御時宜(おじぎ)抔しける處、肥州聲をかけて、「これこれ政之助、先刻の事隨分心得ては居れど、をれも年寄たる事にて、とかう近頃はものわすれをしてならぬ程に、若(もし)忘れたらば堪忍しろよ」といふて退散せしが、其後此公事一向取上(とりあ)げず、わすれた振(ふり)にてなにの沙汰もなして、政之助が申(なすし)たる事は反古(ほぐ)に成(なり)しと、政二助予に語りぬ。是等はむかし板倉伊賀守のおもかげ共(とも)いふべし、面白し。

[やぶちゃん注:まず一読、「一體借りた物なら早く歸すがよいに」「これこれ政之助、先刻の事隨分心得ては居れど、をれも年寄たる事にて、とかう近頃はものわすれをしてならぬ程に、若忘れたらば堪忍しろよ」という当時の口語、根岸の人としての温もりの直かに伝わってくる直接話法がすこぶる魅力的ではないか!

 さて、舞台が勘定所で、鎮衛が自ら「年寄」と言っているところから考えると、天明七(一七八七)年七月(当時満五十歳)に佐渡奉行から勘定奉行に転じ、寛政一〇(一七九八)年十一月(満六十一歳)に南町奉行になるまでの間のエピソードか(この年齢なら当時は立派な「年寄り」)。しかし、これ、町人の金(かね)公事で勘定奉行が評定所で裁決する事案ではなく、通例は町奉行の管轄である。但し、町奉行は江戸市中に限られており、その訴人がその管轄外にあったり、相手がやはり管轄外の正規の武士階級(浪人は町人扱い)であったなどなどの可能性はあり、その場合は公事方勘定奉行の扱い案件となった。ということは、この場合、その管轄外の事例であったか、或いは勘定奉行の職権で町奉行に政之助の一件につき、訴えを拒否するように指嗾(しそう)したか、の二つしかないことになる。しかし、根岸の性格から言って、後者は考えられないから、やっぱり勘定奉行として最終的に処理した案件なのであろう。ただ、正直言うと、この政二助が理斎に語っているのは、如何にも亡き鎮衛を思い出してという気がし、そうすると舞台は彼が最後に勤めた南町奉行所のようについ私は錯覚してしまうといういうことも序でに告白しておく。しかしはっきりと「奉行所」ではなく「勘定所」(話柄からほぼ確実に政之助の勤務先もそこである。次の注も参照されたい)と言っているし、後半の印象的な描写では、そこがこの当時の鎮衛の正規の勤務地であるように描かれている。評定所は江戸城本丸内の御殿勘定所と大手門内の下勘定所の二箇所があり、南町奉行所は現在のJR有楽町駅中央口附近にあって全く別な場所である。どうも時期を特定し難い。……しかし何より……この夕方の評定所の前の二人のシークエンスのリアリズム!――これ! 撮ってみたいなぁ!……

・「湯呑所」調べて見ると、勘定所の休憩室のようなものとして勘定所湯呑所(江戸城本丸内の御殿勘定所と大手門内の下勘定所の二箇所があった)というのがあり、そこで用務を行う者を勘定所湯呑所之者と称するとあった。退社の際の政之助とのやりとりなどから見て、これは大手門内の下勘定所の方であろう。

・「渠は私内實は姉聟に候」金を借りて返さぬと訴えた相手は実は私の姉の婿である、という意で採った。前に注した通り、これは近親間の金公事であり、公事で訴訟自体が受理されないことが多かったタイプの事例であることが推測される。しかも、どうみてもたいした金額とは思われない。それこそ根岸にしてみれば「相対済(あいたいすま)し」にすべき事案であり、また永年馴染みであったお茶汲みの男の懇請でもあってみれば、この根岸のトンデモほったらかしの名――基――迷裁き――と相い成ったものと考えると、これ、如何にも私は腑に落ちるのであるが、如何?

・「なして」底本には右に編者による『(ママ)』注記がある。

・「板倉伊賀守」江戸初期の名奉行として伝説的な板倉勝重(天文一四(一五四五)年~寛永元(一六二四)年)。ウィキの「板倉勝重」によれば、江戸の世にあっては、『優れた手腕と柔軟な判断で多くの事件、訴訟を裁定し、敗訴した者すら納得させるほどの理に適った裁きで名奉行と言えば誰もが勝重を連想した』とある。『板倉好重の次男として三河国額田郡小美村(現在の愛知県岡崎市)に生まれる。幼少時に出家して浄土真宗の永安寺の僧となった。ところが』永禄四(一五六一)年に『父の好重が深溝松平家の松平好景に仕えて善明提の戦いで戦死、さらに家督を継いだ弟の定重も』天正九(一五八一)年に『高天神城の戦いで戦死したため、徳川家康の命で家督を相続』、『その後は主に施政面に従事し』て、天正一四(一五八六)年には『家康が浜松より駿府へ移った際には駿府町奉行』、同一八(一五九〇)年)、『家康が関東へ移封されると、武蔵国新座郡・豊島郡で』千石を『給され、関東代官、江戸町奉行となる。関ヶ原の戦い後の』慶長六(一六〇一)年に三河国の三郡に六千六百石を与えられると同時に、『京都町奉行(後の京都所司代)に任命され、京都の治安維持と朝廷の掌握、さらに大坂城の豊臣家の監視に当たった。なお、勝重が徳川家光の乳母を公募し春日局が公募に参加したという説がある』。慶長八(一六〇三)年、『家康が征夷大将軍に就任して江戸幕府を開いた際に従五位下・伊賀守に叙任され』、同一四(一六〇九)年には『近江・山城に領地を加増され』て一万六千六百石余を『知行、大名に列している。同年の猪熊事件では京都所司代として後陽成天皇と家康の意見調整を図って処分を決め、朝廷統制を強化した』。慶長一九(一六一四)年からの『大坂の陣の発端となった方広寺鐘銘事件では本多正純らと共に強硬策を上奏。大坂の陣後に江戸幕府が禁中並公家諸法度を施行すると、朝廷がその実施を怠りなく行うよう指導と監視に当』ったが、六年後の元和六(一六二〇)年に『長男の重宗に京都所司代の職を譲った』とあり、勝重とその息子重宗は『奉行として善政を敷き、評価が高かった。勝重、重宗の裁定や逸話は『板倉政要』という判例集となって後世に伝わった。その中には後の名奉行大岡忠相の事績を称えた『大岡政談』に翻案されたものもある。三方一両損の逸話はその代表とされる。また『板倉政要』も、明の『包公案』『棠院比事』などから翻案された話が混入して出来上がっている』とある。板倉―大岡―遠山―根岸という江戸の名奉行の系譜という都市伝説の本流の、まさに濫觴の人物と言えよう。

・「反古」「ほご」と読んでもよい。これは政之助の、借金返済を「何分ゆるやかに勘辨」してもらうことを無効化するの意で、政之助は恐らく、この借金を踏み倒したか、ずっと後になってから返済したのであろう。そう考えないと、政之助がしみじみ懐かしんで思いで語りし、それを理斎が「面白し」と添えるというのは、私には理解出来ないからである。大方の御批判を俟つ。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

一 湯呑所(ゆのみどころ)の者にて野口政之助と言う者、鎮衛殿の内輪に知れる町人であった。

 この者、金子を借りたところが、返金の件、これずっと延引に及んでおったによって、貸方より願い出でて吟味となり、返却すべき旨、嚴しく与力より申し渡されたが、これまた、如何にも難しゅう難儀致いておったれば、政之助、御勘定所において、私ごとながら、そのことに纏わる理由を歎き訴え、

「……お取り立ての儀、これ、厳し過ぎまするによって、これでは儂(あっし)の身上(しんしょう)もこれにて終わらんとぞ思うて御座いますればこそ……何卒、緩やかに取り計らって下さいまするよう……どうか、お願い申し上ぐること、出来ませぬもので御座いましょうか?……」

と、これ内々にて、昔より知れる肥前守殿へ願(ねご)うて御座ったところ、

「――一体これ、借りたものなら、早く返すがよいに。」

との仰せられたところ、政之助は、

「……へぇ。……これ、随分、返しとぅは思うておりますれど……その……いろいろ……思いもかけぬことの、これ、御座いまして、もの入りも多く……さればこそ……結果……返金の段、これ、遅延と相い成って御座いまする!……何分、これ、緩やかに……これ、御勘弁のほど……致し下さいまするよう……切(せち)に!……ひとえに!……願い上げ奉りまする!……そ、その……かの訴人はこれ……正直申し上げますと……私(わたくし)の姉の婿にて……御座いまする。……」

なんどと、最後は消え入るように乞い願い申したによって、これ、鎮衛殿、かつて御勘定の折りよりの昔馴染みの者にても御座ったれば、

「――よくよく心得たわい。――まんず、宥免(ゆうめん)と致すよう、これ、申し渡しておこうぞ。」

という御返事のあったによって、政之助、内心、

『……かの鎮衛さまから、かくもお言葉を頂戴した上は……これ――まずまず、何とかここは凌げよう!……和解か示談へと持ち込むことも出来そうじゃ!……』

と、これ、大きに悦んで御座ったと申す。

 ところが、さてもその日、はや、諸役人方御退出の刻限となり、肥前守殿も御勘定所の門を出でんとする折りから、かの政之助、最前よりとうに待ち構えて御座って、深々とお辞儀なんど致いたところが、これを見とめた肥前守殿、親しく寄らるると、

「……これこれ、政之助!……先刻の事はこれ、随分、心得てはおれど……俺(おれ)も年寄りたることなれば、の!……とかく……何じゃ! 近頃は、物忘れの、これ、ひどぅなっておればのぅ! ま、もし、これ、忘れてしもうたとならば――堪忍しろよ。……」

と、うそぶいて退出なされた。

 されば、政之助、これ、まっ蒼になって立ち竦んで御座った、と申す。……

 ところが、その後(のち)、この政之助を訴えたる公事、一向、勘定方にては取り上ぐることのぅ――あたかもこれ、訴訟の儀そのものの御座ったことを、誰(たれ)一人として覚えておらぬようなる様子と相い成って御座って、如何なるお沙汰も、これなく、さらに、政之助が秘かに鎮衛殿に訴え申したといったことさえもが、これ、なかったことと相い成って御座った――と――いやさ、当の政二助からこの私が聴いて御座った話なのである。

 この話はこれ、昔、板倉伊賀守勝重殿の名捌き――基――名無(む)捌き――の面影を伝えて美事――と――申すべきことにては御座るまいか?……いやいや……まっこと、面白い話である。]

2015/04/08

志賀理斎「耳嚢副言」附やぶちゃん訳注 (Ⅰ)

[やぶちゃん注:以下は、カリフォルニア大学バークレー校東アジア図書館蔵の志賀理斎編「耳嚢副言」の電子化である。底本は一九九一年刊岩波文庫長谷川強校注「耳嚢(下)」に附録されたものを用いたが、「耳嚢」本文に準拠させるために、恣意的に正字化を行ってある。読みについては底本を参考にしながらも、独自の判断でオリジナルに歴史的仮名遣で附した(底本は現代仮名遣である)。なお、底本では項目の箇条冒頭の「一」のみが行頭にあって、それ以外の本文は総てが一字下がった位置から書かれてある。踊り字「〱「〲」は正字化した。識語としては長い(当該文庫本で二十三頁に及ぶ)ので各段落毎に「耳嚢」本文に準じ、必要ならば注を附した上、現代語訳を施した。読み易さを考え、訳の後は一行空けを施した。訳に於いては読み易さをこととするために、適宜、改行した。

 志賀理斎(宝暦一二(一七六二)年~天保一一(一八四〇)年)は儒者。名は忍、字(あざな)は子堪、通称は理助、別号に天鶏山人。江戸で幕府に仕える伊賀者の家に生まれ、儒学・和学に通じ、文政の頃、江戸城奥詰となって後、金奉行(かねぶぎょう/きんぶぎょう:幕府金庫の管理・出納を司る役で勘定奉行配下。)となった。著作に「老の繰言」など(以上の事蹟は主に講談社「日本人名大辞典」に拠った)。根岸より二十五歳年下。]

 

  耳嚢副言

            志賀理齋識

 

 根岸老人の小身より漸(やうやく)登庸(とうよう)せられて町奉行職迄に昇進ありし事は、この事のはしがきに見えたれば、今更また言(いふ)べきにあらず。予も文化の頃、南址(なんし)の奉行根岸・永田の兩御役宅(おやくたく)え八、九年の間毎月五、六度づゝ御記錄を講じ呉れよとの事にて越(こ)したりし程に、よくその處置・行狀(ぎやうじやう)をばしたしく見聞(みきき)し侍る也。根岸氏の人となり、いかにも格別に立身ありしも實(げ)にさる事よと、感心すること尠(すくな)からず。その見聞傳(みききつた)へたる事ども湮沒(いんぼつ)せんことを惜みて、聊(いささか)爰(ここ)にしるす事左の如し。

[□やぶちゃん注

・「この事のはしがき」不詳。少なくとも前に掲げた「耳嚢」の根岸自身の序文や跋文には出ない。寧ろ、先の三村本の巻六の末にあるという吉見義方の識語こそそれに相応しいという気はする。

・「予も文化の頃」根岸は文化一二年十一月四日(グレゴリオ暦一八一五年十二月四日)に亡くなっているから理斎は当時四十二~五十三歳、根岸は六十七~七十八歳であった。

・「永田」南町奉行であった根岸と並列させてあるからには、これは文化八(一八一一)年から文政二年まで北町奉行を勤めた永田備後守正道(まさのり)のことかと思われる(しかし、頭に「南址」(南町の意)と冠されてあるのは不審ではある)。鎮衛の南町奉行在任期間は、寛政一〇(一七九八)年から文化一二(一八一五)年までであるから、凡そ四年の間、二人は南と北の両奉行であった。

・「湮沒」すっかり埋もれて見えなくなること。

・「御記錄を講じ呉れよ」軍書の講読講釈をしてくれ。

■やぶちゃん現代語訳

 

  耳袋副言

            志賀理斎識

 

 根岸老人の、小身より、ようやく登用せられて町奉行職にまで昇進なされた事蹟は、この「耳袋」の端書きにも見えて御座れば、今更にまた言を弄する必要は、これ、御座ない。

 私も文化の頃、江戸は南町の奉行、根岸殿及び北町の奉行永田殿の両御役宅(おやくたく)へ、これ八、九年の間、毎月五、六度ずつ、軍書の講釈をなし呉れ、とのお沙汰にて罷り越して御座った経験から、よく、その普段のなさり方や御様子などをば、親しく見聞き致いて御座った。

 されば、根岸氏の人となり、いかにも格別に立身なされて御座ったも、これ、実(げ)にさるべきことよ、と感心致いて御座ることはこれ、少のぅない。

 そこで、その見聞きしお話し下された事どもの時の経過とともに湮沒(いんぼつ)せんことを惜み、いささか、ここに以下の如く記すことと致す。]

 

一 耳嚢にしるしたるおもむきを見ても、肥州の用意の程を見るべし。殊に淺間山燒(やけ)たりしとき、荒地(あれち)廻村(くわいそん)御用にて砂降(すなふる)川々(かわがは)用心(ようじん)所々(ところどころ)見分(けんぶん)の樣子など、まのあたり見る如くにて、土民のなりはひなど憐みて書(かき)しるしたる、その他勸善懲惡の事共(ども)多く書載(かきのせ)たる、誠に讀(よみ)て泪(なみだ)を催すケ條(かじやう)往々に見えぬ。たゞ平日面話(をもてばなし)ばかりにては滑稽浪語(らうご)のみなれば、別して感慨の情など厚かるべきとはおもはれざれ共(ども)、此耳ぶくろを讀みては人をして感發せしむる事多し。予ある夜鳥居彦右衞門元忠伏見の御別れの處を講談に及びしときには、老人にはしきりに鼻をかみて、聲もにごりて落泪(らくるい)の樣子なりき。此とき世が心中には、關ケ原・伏見の御別れは、誠にその折からの事どもおもひやるに成程(なるほど)あはれさ・悲しさ猶(なほ)餘り有る事なれども、此翁などはもとよりしれる事といひ、又予が訥辨(とつべん)中々(なかなか)其時情(じじやう)をよく言ふ事ならねば、左(さ)ばかり面白くもあるまじきを、斯(かく)まで感心せる事かと思ひしが、其あらはせる耳嚢を見て、はじめて疑(うたがひ)たりしも解け侍りぬ。

[□やぶちゃん注

・「淺間山燒たりしとき」天明三年八月五日(グレゴリオ暦一七八三年七月八日)に起こった天明の大噴火。ウィキの「浅間山」によれば、『最初に北東および北西方向(浅間山から北方向に向かってV字型)に吾妻火砕流が発生(この火砕流は、いずれも群馬県側に流下した)。続いて』、約三ヶ月『続いた活動によって山腹に堆積していた大量の噴出物が、爆発・噴火の震動に耐えきれずに崩壊。これらが大規模な土石雪崩となって北側へ高速で押し寄せた。高速化した巨大な流れは、山麓の大地をえぐり取りながら流下。嬬恋村鎌原地域と長野原町の一部を壊滅させ、さらに吾妻川に流れ込み、一旦川を堰き止め河道閉塞を生じた。天然にできたダムはすぐに決壊し、泥流となり大洪水を引き起こして吾妻川沿いの村々を飲み込みながら、本流となる利根川へと入り込み、現在の前橋市から玉村町あたりまで被害は及んだ。増水した利根川は押し流したもの全てを下流に運び、当時の利根川の本流であった江戸川にも泥流が流入して、多くの遺体が利根川の下流域と江戸川に打ち上げられた。このときの犠牲者は』群馬県内で千四百人以上、全体では千六百二十四人、被害は流失家屋千百五十一戸、焼失家屋五十一戸、倒壊家屋百三十戸余りであった、とある。当時勘定吟味役であった鎮衛は、この浅間山噴火後の浅間山復興工事の巡検役を担っていた。

・「荒地廻村御用にて砂降川々用心所々見分の樣子など、まのあたり見る如くにて、土民のなりはひなど憐みて書しるしたる」これは例えば「耳嚢 人の運不可計事 及び 又」の「又」(二話目)などを参照されたいが、そこで根岸は噴火の惨状の『委細は予御用中に記し小册となしてその御方へも懸御目(おめにかけ)し有り、こゝに略す』とあり、理斎は、そこで言うところの公式報告文書をも閲覧しているものと考えるべきであろう。私は未見であるがその文書は残っているように思われ、「学習院女子大学 東日本大震災 ~ VST つながる“わ”~」の「天明の浅間山噴火」に以下のような細かな彼の行動記録が見られる(アラビア数字を漢数字に代えさせて戴いた。これは講義で文中の『資料1』というのはその際に配布されたものであろう。下線はやぶちゃん)。

   《引用開始》

八月十七日、川越藩は詳細な被害届を月番老中へ提出。二十日、五料関所の現状報告。

幕府は被災地見分のため根岸鎮衛らを派遣するが、その折五料関所を見ると伝える。→藩は決壊した堤、泥で埋まった堰々を見てほしいと願い出ている。

<御普請の実施>

見分使根岸鎮衛一行は八月二十八日に江戸を出立、九月二日に上州渋川に着き、渋川を拠点に被災村々を巡見。五料関所は五日に見分している。九月二十八日、武蔵国本庄宿に呼ばれた川越藩役人は、五料関所の普請について、元来は領主の任であるけれども今回は公儀御普請で行うことになった旨内示を受ける。一方、砂が一尺程積もった旗本相給の下磯部・東上磯部・西上磯部三ヵ村の場合、同月二十二日に根岸一行の旅宿板鼻宿へ赴き、自力での田畑の開発困難を訴え、見分して欲しいと願書を差し出したが、私領ということで受け付けられていない

見分後の十月中旬、もっとも被害の著しい鎌原村から御普請が始まった。[やぶちゃん注:中略。以下、リンク先の記載は詳細を極める。必見。]

十月末になり、御普請の範囲はさらに拡大した。二十九日、勘定奉行松本伊豆守(秀持)が浅間山噴火により泥砂で埋まった田畑開墾を担当するとの発表があり、十一月九日、被災地の領主たちへ次の申し渡し(資料1)がなされた。

浅間山噴火で被害を受けた武州・上州・信州の村々の、田畑の泥砂の片付けは、私領についてはその領主・地頭から申し付けるのは勿論であるが、一統難儀の様子なので、この度は堤川除けのほか、私領の内郷用悪水路・道・橋等も公儀御普請を実施する。工事は難儀の軽重にしたがって、村々を組み合わせ、村請で行う。農業手透きの時節、御救いのための工事なので、田畑の起返し等、精を出して行うよう、銘々の領分・知行所の村々へ申し渡すように。

また御料・私領村々に対し、松本秀持・根岸鎮衛連名で触書が発せられた。ほぼ同内容だが、江戸町人などに下請けは一切させないとし、普請中竹木や米穀・諸色の値段をなるべく下値にするよう通達している。私領のため訴願を受け付けて貰えなかった下磯部・東上磯部・西上磯部三ヵ村を含む村々でも御普請が実施され、十二月四日に渋川で最初の御普請金を受取っている。また人足賃や諸色代、蛇籠代などが支給され、さらに伝馬の飼葉料も与えられている。御普請は翌天明四年にかけて行われ、閏正月に終了している。[やぶちゃん注:中略。以下は省略部分との連関が強いので必ずリンク先を参照されたい。]

<民間のちからー一揆と援助の手->

・百姓一揆・うちこわし

以上の経過を見ると、幕府は私領に対し、九月までは厳しい態度で臨み、自力復興を促していた。ところが十一月にはその方針を大きく変更して、御普請の範囲を私領まで拡大している。それはなぜか。根岸らが私領も巡見し、復旧が自力では困難であることを認識したからとみることもできるが、何よりも九月末から十月にかけて起こった上州・信州辺の百姓一揆・うちこわしがそれまでの幕府の方針に転換を迫ることになったのである。[やぶちゃん注:後略。]

   《引用終了》

 なお、この後の『<近隣の村人の援助>』の箇所には、まさに先に示した「耳嚢 人の運不可計事 及び 又」の梗概が記されてあり、それは根岸の災害救援事業が、現在でも高く評価されていることが伝わってくる。

・「面話」裏話に対する表話、表向きの話の意、無味乾燥な事実や風聞を無批判にただ記録しただけの記事、話柄の意と採る。

・「浪語」浮言浪語の意であろう。口づてに伝わった根拠のないいいかげんな情報、噂。流言飛語。

・「鳥居彦右衞門元忠伏見の御別れの處」鳥居元忠(天文八(一五三九)年~慶長五(一六〇〇)年)は戦国から安土桃山にかけての武将で徳川氏家臣。下総香取郡矢作(やはぎ)藩(現在の千葉県香取市矢作)藩祖。ウィキの「鳥居元忠」によれば、慶長五(一六〇〇)年、『家康が会津の上杉景勝の征伐を主張し、諸将を率いて出兵すると、伏見城を預けられ』たが、六月十六日のこと、家康は伏見城に宿泊して元忠と酒を酌み交わし、「我は手勢不足のため伏見に残す人数は三千ばかりにて汝には苦労をかける」と述べたところが、元忠は『「そうは思いませぬ。天下の無事のためならば自分と松平近正両人で事足りる。将来殿が天下を取るには一人でも多くの家臣が必要である。もし変事があって大坂方の大軍が包囲した時は城に火をかけ討死するほかないから、人数を多くこの城に残すことは無駄であるため、一人でも多くの家臣を城から連れて出てほしい」』と答え、『家康はその言葉に喜び、深夜まで酒を酌んで別れたと伝わる』(これがここで言うシークエンスであろう)。『家康らの出陣中に五奉行・石田三成らが家康に対して挙兵すると、伏見城は前哨戦の舞台となり、元忠は松平家忠・近正・内藤家長らと』千八百人の兵力で立て籠もった(これが関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いである。ウィキの「伏見城の戦い」も参照されたいが、後に理斎が「關ケ原・伏見の御別れ」と記すのは、そうした天下分け目の決戦に連動している構造を意識してのことであろう)。『元忠は最初から玉砕を覚悟で三成が派遣した降伏勧告の使者を斬殺して遺体を送り返し』て戦いを続け、実に十三日間の攻防戦の末、鈴木重朝と一騎打ちの末に討死した。享年六十二歳。『その忠節は「三河武士の鑑」と称された。このときの伏見城の血染め畳は元忠の忠義を賞賛した家康が江戸城の伏見櫓の階上におき、登城した大名たちに元忠の精忠を偲ばせた。明治維新により、江戸城明け渡しの際、その畳を栃木県下都賀郡壬生町の精忠神社脇に埋め供養した。床板は「血天井」として京都市の養源院』『をはじめ宝泉院、正伝寺、源光庵、宇治市の興聖寺に今も伝えられている』とある。後、『家康は忠実な部下の死を悲しみ、その功績もあって嫡男・忠政は後に磐城平藩』十万石を経て、山形藩二十四万石の大名に昇格している』。『また元忠の子孫が江戸時代に不行跡により』二度の改易の憂き目にあった際にも、『いずれも元忠の勲功が大きいとして減封による移封でいずれも断絶を免れ』ているとあって、この江戸後期にあっても(というよりだからこそ)その忠節が「武士の鑑」として鎮衛らの心を強く揺さぶり続けたのであろうことは、これ、想像に難くない。

・「訥辨」渋滞しがちな下手な話し方。理斎の謙遜。

・「世が心中」底本では「世」の右に編者長谷川強氏によって『〔予〕』と訂正注がある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

一 「耳袋」に記されたその内容を管見致いても、肥前守殿の執筆に際しての用意のほどを覗うことが出来る。

 ことに淺間山の焼けたる折りのこと、荒れたる地や被災せる村々の廻村(かいそん)御用の砌りも、噴火の収まったとは申せ、未だ土砂の降り注ぐ川々の用心を含め、各所を検分なされた折りの様子を書き記されたものは、これ一読、目の当たりに見るが如き真に迫った描写の連続で御座って、土民の悲惨な生計(なりわい)のさまなども、心の籠った憐憫を以って書き記されておられ、その他(ほか)にも、勧善懲悪の立ち位置に基づく事件や出来事などを多く書き載せて、まっこと、中には読み終わって涙を催すところの箇条さえもこれ、往々に見うけらるるので御座る。

 ただ日常の表向きの話――無味乾燥な事実や風聞を無批判に、ただただ記しおいただけの記事――ばかりであったとしたら、これは下らぬ滑稽な、或いは、ただただ無責任な流言飛語のみの羅列に過ぎないものとなってしまい、これといって、読む者に感慨の情なんどの、およそしみじみと深く湧いて参るなどということは、これ、あろうはずもないと思わるるのだが、この「耳袋(みみぶくろ)」に限ってはこれ、人をしてあわれに胸を打ってしみじみとした感懐を発せしむるものが、これ、まっこと、多いので御座る。

 私はある夜のこと、翁に対して「鳥居彦右衛門元忠、伏見の御別れの段」を講談に及んだことが御座った。

 ところが、この折り、老人におかせられては、これ、話の進むに従い、しきりに鼻をおかみになられ、ときどき発せらるる咳払いなんどの声も、これまた、いたく濁って御座って、まさに感極まって落涙なさっておらるる御様子がはっきりと看て取れた。

 しかし、これを見知った折り、私の心中に於いては、

『……「関ヶ原・伏見の御別れ」と申すは、まことにその折りの事ども、「武辺の鑑」と思いやらるることなば、これ、なるほど、哀れさ、悲しさ、一入(ひとしお)にして、なお感慨余りあることにては御座ろうものにてはあろうけれども……この翁などは、もとより、これら、よぅ、ご存じであらるる事なろうほどに。……』

などと思いもし、また、

『……拙者の、この訥弁……これではなかなか……その「別れ」の情実を上手く語り伝うること、これ、出来難きことなれば……実はこれ、お聴きなられても、さまで面白うもあるまじいと思うて御座ったに……これ……かくまで感心なさって下されたものか?!……』

などと、不謹慎なることさえ内心思うて御座ったのであったが、この度、この翁の著わさられた「耳袋」を親しく読まさせて戴き、初めて、己(おの)が疑(うたご)うて御座った浅き心底をこれ、痛感致し、ひいては、翁の誠心をこれよぅ感得致すことが出来たので御座る。]

「耳嚢」吉見義方識語

以下を以って、「耳嚢」の底本とした三一書房一九七〇年刊「日本庶民生活史料集成 第十六巻 奇談・紀聞」に載る「耳嚢」原文は総てを電子化し、訳注を終えた。




 (吉見義方識語)

 

 根岸前肥州太守藤原鎭衞、別號守臣(もりおみ)翁は、御代官安生(あんじやう)太左衞門定洪(さだひろ)の二男にして、元文二年丁巳(ひのとみ)をもて生れ、文化十二年乙亥(きのとゐ)七十歳にして卒す。定洪はじめ相模國津久井縣若柳邑(わかやなぎむら)の産にして、御徒(おかち)安生彦左衞門定之(さだゆき)の養子となり、御徒に召加(めしくは)へられ、のち組頭(くみがしら)に轉じ、猶(なほ)篤行のきこえありしかばたゞちに御代官に擢選(ばつせん)せられ、拜謁の士に列し、其長男直之(なをゆき)は、御勘定評定所留役、御藏の奉行等を經て、つゐに布衣(ほい)の上(うへ)士に昇り、御船手を勤む。根岸家は九十郎衞規(もりのり)とて、廩米(りんまい)百五十苞(ひやう)の祿にして、もとより拜謁の士たれども、いまだ小普請に在るのうち、若うして病(やまひ)篤く易簀(えきさく)に臨み、守臣翁を養ひ子として遺跡をつがしめん事を請ひ置(おき)、死せしかば、翁其家を繼(つぎ)、小普請の士より御勘定につらなり、評定所の留役をかねて、うたへ事を糺し、いく程なく組頭にのぼり、凌廟の日光山に參らせ給ふ事にあづかり、後(のち)御勘定吟味役にすゝみ、布衣の上(うへ)士に列し、又佐渡奉行に擧(あげ)らる。此時秩祿(ちつろく)を加增せられて二百苞の家祿となり、今の御代となりて、御勘定奉行に轉ず。時に恒例を以(もつ)て、從五位下肥前守に敍任あり、家藏五百石に加恩あり、はじめて采地(さいち)を賜ひ、在職のうち祿三千石たり。つゐに町奉行に移り、年久しき勤勞を慰(い)せられて、食邑(しよくいう)五百石を増し賜はり、千石の家祿となれり。在職の祿故(こ)の如し。御勘定たりし時より、おなじき奉行たるに至るまで品々營作土功の事をうけたまはり、落成の度毎に、褒賜(はうし)ある所の黄金通計(つうけい)二百六十枚に及ぶとかや。かゝる繁勤(はんきん)のいとまに、うち聞く所の巷説、兒輩(じはい)のわざくれに至るまで、耳にとまれるくさぐさを筆記し、ひそかに名づけて耳嚢とし、其條々ほとほと千有餘に滿ち、卷をわかちて六帖とす。かりそめの物すらしかなり、されば國務に有用の事を編集ありしは、いくばくならん事、おして知るべし。人となり大量(だいりやう)にして小事(しやうじ)にかゝはらず、鎖細(ささい)の事に力(ちから)を入れず。朝夕近づくる配下の屬吏の姓名をだに、彷彿(はうふつ)として記憶せざるが如し。されど德化を及ぼし、下情を上達し、選擧必(かならず)其人を得たりしは、またく※頗の私情なきによるもの歟(か)[やぶちゃん字注:「※」=「扁」+「頁」。]。常に大聲にして私言を好まず。常の言にいはく、小音にして事を談ずるは、謹愼の如しといへども、多くは人情輕薄によるか、或は人に害ありて、をのれが利あらん事を思ふが故に他聞を憚るより起れりと。其(その)私(わたくし)なき、此一言をもても思ふべし。

 翁男衞肅(もりよし)は、近藤氏の女をめとれり。四男三女を生む。其末女又近藤氏のむまご義嗣(よしつぐ)の先妻たり。義嗣子(し)かゝるちなみあるにより、門外不出の書たりといへども、此書を謄寫(とうしや)する事を得て、をのれ義方に示さる。をのれ又はやくより翁に値遇(ちぐう)せるも、亦近藤氏の因(ちなみ)によれり。これ彼(かれ)思ひはかれば、いといと餘所(よそ)ならず。欣慕(きんぼ)のあまり、數言をこゝに贅(ぜい)す、穴かしこ。

  あやあるまつりことてふこゝのつのとし、

  長月すゑつかた、時雨めきる日小(お)

  ぐらき窓下にしるす。

             吉見義方 花押

 

□やぶちゃん注

 ここでは鎮衛の出自が語られ、底本の編者鈴木棠三氏は膨大な量の注を附されておられる。これはどれも彼の生活史を知る上で非常に重要なものであるので、著作権侵害の嫌いはあるものの、敢えて多くの引用を底本注からさせて戴いていることを最初にお断りしておく。現代語訳は読み易さを考え、適宜、改行を施した。

・「(吉見義方識語)」原典には標題がなく、「吉見義方識語」は編者鈴木氏が新たに附したものであるので丸括弧を附した(訳では外して「耳嚢」を冠した)。底本のここの鈴木氏注には、この識語は文政九(一八二六)年九月末の執筆で(最後の「あや(文)あるまつりこと(政)てふこゝのつ(九)のとし」「長月すゑつかた」である)、『三村本の巻六の末に存するもの』とあり、『義方は有名な蜀山人の甥にあたり、狂歌人としても名のあった人物。鎮衛の嗣子』である根岸杢之丞衛粛(もくのじょうもりよし)『の妻の実家近藤家は、根岸家と重縁関係を結んだので、その当主となった』近藤『義嗣は根岸秘蔵の耳嚢の原本を借覧して筆写したものを所持していた。義方は』この近藤『義嗣の知友であった関係で、その本を借りえて写すことかできたというのである』と写本の経緯が分かり易く説明されてある(後の「吉見義方」の注も参照されたい)。

・「安生太左衞門定洪」鎮衛の実父安生定洪(延宝七(一六七九)年~元文五(一七四〇)年)。底本の鈴木氏注に、『安生氏が幕臣となったのは新しいことで、寛政譜に』はこの『定洪が御徒から組頭に移った年代は記してない』とあり、元文元(一七三六)年、『御代官となる。廩米百五十俵。五年二月二十八日死、六十二。今戸の安昌寺に葬る。妻は松平(蜂須賀)阿波守の家臣河野与右衛門通達の女。鎮衛はその三男で、鉄蔵、九郎左衛門といった。根岸衛規』(もりのり)『の養子となり根岸家を継いだ(定洪の二男は蔵人定養は若死したらしい)。』とある(定養は「さだのぶ」と読むか)。安生家及び定洪については、「耳嚢」の巻之二 人の心取にて其行衞も押はからるゝ事」巻之二 強勇の者御仕置を遁れし事」巻之二 強氣勇猛自然の事」などに実父として言及がある。

・「元文二年」西暦一七三七年。

・「文化十二年」十一月四日。グレゴリオ暦で一八一五年十二月四日である。なお南町奉行在職のままの死去で、公式には没日は五日後の十一月九日と公表されている(ウィキの「根岸鎮衛」に拠る)。
 
・「七十歳」誤り。数えで七十九歳である。

・「相模國津久井縣若柳邑」既注であるが、再掲すると、現在の神奈川県津久井郡相模湖町若柳で底本の鈴木氏注によれば、『いまの津久井ダムのやや上流右岸』とある。この「縣」という名称を奇異に感じる方があるかも知れないが、これは実に当時日本で唯一この津久井にのみ存在した正真正銘の「縣」なのである。ウィキの「津久井郡」によれば、『江戸時代初期の』寛文四(一六六三)年~貞享元(一六八四)年に津久井領全域が久世家領(寛文九(一六六九)年から関宿藩)となり、『また幕末期には相模川以南の村の多くが小田原藩領となっていたが、それ以外は旗本知行地となった幾つかの村を除き幕府領であった』。その後、元禄四(一六九一)年に『この地域を支配した幕府代官山川貞清によって正式に愛甲郡および高座郡から分離され、津久井県と称することとなった。江戸時代を通じて地域区分の単位として「県」を称した全国で唯一の例であったが』、明治三(一八七〇)年、『当時津久井県を管轄していた神奈川県が小田原藩と「掛合」(協議)の上で民部省へ伺いを申し出たことにより津久井郡と改称された』とある。

・「安生彦左衞門定之」鎮衛の祖父。底本の鈴木氏注に、『寛政譜には出自経歴をまったく記さない。神田の館に勤仕したとあるから、家光の第四子徳松(後の綱吉。慶安四年神田橋御殿に住し、賄料十万石)に仕えたもので』(慶安四年は西暦一六五一年)、『やがて綱吉は館林十五万石となり』、延宝八(一六八〇)年には『家綱の養嗣となって二の丸に入り、同年八月将軍職につく。定之は主君の出世と共に開運の途をひらき、幕府の直臣となったことがわかる』とある(『神田の館』云々とは、別の先行する鈴木氏注に、寛政譜には『「定洪が父彦右衛門定之、神田の館に勤仕し、延宝八年御徒にめしくはへらる」とある』のを指す)。

・「直之」鎮衛の実の兄安生直之(享保元・正徳六(一七一六)年~天明六(一七八六)年 後の鈴木氏注の没年から逆算した)底本の鈴木氏注に、『弥三郎、太左衛門。元文五』(一七四〇)『年家督。寛延二』(一七四九)『年御勘定に列し、宝暦二』(一七五二)『年評定所留役、十年大坂の破損奉行、明和七』(一七七〇)『年御蔵奉行、安永九』(一七八〇)『年御船手にすすみ、布衣をゆるされた。天明六年没、七十一』とある。鎮衛より二十一年上であるが、鎮衛との接点があってもよさそうな経歴であるが(例えば鎮衛は宝暦八年から同十三年まで彼と同じ御勘定を勤めており、この同十年までは二人は同職にあった。但し、同職と言っても宝暦十一年の時点で御勘定は百三十四名も居はした)何故か、彼の名は「耳嚢」には登場しない。実家から出て養子となった彼としては兄に遠慮のあったものか。或いは先に示した一説にあるところの、鎮衛は実は定洪の実子ではなく、富裕な町家か豪農出身だという説辺りが関係しているのかも知れない。

・「御藏の奉行」蔵奉行。江戸浅草(浅草御蔵)を始めとする主要都市にあった幕府の御米蔵の管理を司った。

・「布衣」「ほうい」とも読む。本来は無紋の狩衣のことで、六位以下及び御目見(おめみえ)以上の者が着用したことから、その身分の者を指す。

・「御船手」船手組。幕府番方の水軍。

・「九十郎衞規」鎮衛の形式上の養父根岸衛規(享保一四(一七二九)年~宝暦八(一七五八)年 後の鈴木氏注の没年から逆算した)。底本の鈴木氏注には、『九十郎。衛忠の子。延享三』(一七四六)『年家督。宝暦八年二月十五日没、三十。衛規は病身で小普請のままで役職にはつかなかった。鎮衛はいわゆる末期養子で同年五月六日遺跡を継いだもの』(この時、鎮衛は満二十一歳である)。『なお根岸家は衛規の祖父杢左衛門衛尚が甲府宰相徳川家宣に仕え蔵奉行を勤めたが、家宣が綱吉の後を襲って将軍職についた宝永元』(一七〇四)『年幕臣となり、御勘定となり、正徳四』(一七一四)『年旧禄に加増を併せて百五十俵となった。享保十八』(一七三三)『年没、七十九。麻布善覚寺に葬り、同寺を代々の葬地とした。その子衛忠は享保六』(一七二一)『年御勘定に列し、寛保三』(一七四三)『年御代官(同年武鑑の諸国御代官支配付並屋敷付に奥州根岸杢左衛門とある)となり、延享二』(一七四五)『年十月四日投、五十。衛規はその二男で、長男衛一は父に先立って死んだ』とある。

・「廩米」知行取りの年貢米以外に幕府から俸禄として給付されたものを言う。

・「苞」「俵(ひょう)」と同義。

・「易簀」学徳の高い人の死、或いは死に際を言う。「礼記(らいき)」の「檀弓(だんぐう)」上で、曽子が死に臨んで季孫から賜った大夫用の簀(すのこ)を身分不相応のものとして粗末なものに易(か)えたという故事に基づく語。

・「小普請の士より御勘定につらなり……」以下、鎮衛の履歴を整理しておく(ウィキの「根岸鎮衛」の「年譜」を基に諸本と引き比べて確認した。年齢は満年齢)。

   *

 宝暦 八(一七五八)年 五月  六日
     根岸家家督を継ぐ   二十一歳

            十一月 十八日
    勘定所御勘定

 宝暦一三(一七六三)年 二月 十五日
     評定所留役      二十六歳

 明和 五(一七六八)年十二月二十四日
     勘定組頭       三十一歳

 安永 五(一七七六)年十一月  一日
     勘定吟味役      三十九歳

            十二月 十六日
     布衣着用

 天明 四(一七八四)年 三月 十二日
     佐渡奉行       四十七歳

     加増五十俵・家禄二百俵

 天明 七(一七八七)年)七月  一日
     勘定奉行        五十歳

     加増三百石・家禄五百石

            十二月 十八日
     従五位下肥前守叙任

 天明 八(一七八八)年 八月  三日
     道中奉行兼任     五十一歳

 寛政一〇(一七九八)年十一月 十一日
     南町奉行       六十一歳

 文化一二(一八一五)年 六月二十八日
     加増五百石・家禄千石 七十八歳

            十一月  四日
     南町奉行現職のまま逝去
 (
公には五日後の十一月九日没とされた)

   *

なお、ここの「はじめて采地を賜ひ、在職のうち祿三千石たり」という部分がよく分からない。訳では「その後の在職中の当地からの禄高の総計はこれ、三千石に及んだ」と誤魔化しておいたが、そんな計算をするものかどうかも分からない。識者の御教授を乞うものである。【2017年3月28日追記:ミクシィに同内容を公開してあったが、本日、それを見られたラナ様より、これは、これまでの廩米(りんまい:扶持米の別称)を改めて、初めて采地(五百石)を賜り、足高の二千五百石を合わせて(勘定奉行・町奉行在職中の)禄は三千石となった、という謂いであることを御教授戴いた。ここに感謝申し上げるものである。当該部分の訳はこの御教授に沿って改訳した。

・「凌廟」「浚廟」が正しい。「しゆんべう(しゅんびょう)」で第十代将軍徳川家治を指す。その諡号(しごう)浚明(しゅんめい)院に基づく。

・「秩祿」官位によって賜る普通の俸禄。食禄・扶持・知行と同義。

・「二百苞の家祿」底本の鈴木氏注に、根岸鎮衛は天明四(一七八四)年『三月十二日佐渡奉行に転じ、世襲の百五十俵に五十俵を加増された』とある。

・「家藏五百石に加恩」底本の鈴木氏注に、天明七(一七八七)年『七月朔日佐渡奉行から御勘定奉行に進み、三百石を加恩あり、廩米を改め、上野国緑野(ミトノ)、安房国朝夷(アサヰ)二郡の内で采地五百石を届わり、十二月十八日従五位下肥前守に叙任した』とある。

・「采地」領地・知行所のこと。采邑(さいゆう)とも言う。後の「食邑」も同じ。

・「營作土功の事」これは彼が勘定吟味役在任時に精力的に関わった河川改修や普請工事事業、日光東照宮の修復、加えて浅間山噴火後の天明三(一七八三)年に於ける浅間山復興工事の巡検役などを指している。この公により、彼は翌四年、佐渡奉行に昇格、五十俵の加増も受けている(ここはウィキの「根岸鎮衛」に拠る)。

・「通計二百六十枚に及ぶ」底本の鈴木氏注に、『寛政譜に記すところの累次の下賜黄金の枚数を合計しても、この何分の一に過ぎないが、大日本人名辞書に、香亭手稿に拠って根岸鎮衛の伝記を記すうちにも、「通計するに黄金二百六十枚に及ぶといふ」とある。なお香草手稿は中根香亭(大正二年没、七十五)の手記』とある。中根香亭(こうてい 天保一〇(一八三九)年~大正二(一九一三)年)は旧幕臣で漢学者にして随筆家。

・「千石の家祿となれり。在職の祿故の如し」「故の如し」とは「来歴は以上である」の意であろう。鎮衛は南町奉行在任のまま死去しており、この千石というのも実は死去直前に加増されたものであった。

・「わざくれ」退屈しのぎの戯れにすること。

・「人となり大量にして」底本の鈴木氏注に、『以下の文は、大日本人名辞書に記すところと酷似する。曰く、「鎮衛人と為り寛裕にして小事を屑とせず、平生使ふ所の属吏の姓名だに一々記憶せざるが如し、然れども能く下情に通じ撰挙決して其の器を誤らず、人と語るに其声甚大、毎にいふ、微音は謹慎に似たるも其の私情を訴へ誹謗をなすに嫌ひありと。」香亭は、或いは本書吉見義方の跋文に拠って記したものかとも想像される。右の一条のみでなく、鎮衛の履歴を記す文全体についてもその感を深くさせるものがある』と中根香亭(前々注参照)の「大日本人名辞書」での記載を評されておられる。

・「選擧必其人を得たりしは」この部分、訳に全く自信がない。大方の御叱正を乞うものである。

・「近藤氏の女」底本の鈴木氏注に、『近藤助八郎義種の養女、衛粛の後妻。先妻は関川庄五郎美羽の女。これは子もなく、はやく没したらしい。後妻の生家近藤氏は義種の父義貫が紀州家で吉宗に仕え、ついで幕臣となり、御広敷番頭を勤め廩米二百俵であった。義種は宝暦七』(一七五七)『年清水家の用人となり、布衣を許され、のち同家の番頭にすすみ用人を兼ねた。寛政二』(一七九〇)『年西城裏門番頭に転じた。なお衛粛に嫁したのは、実は義種の弟義端の三女で、義種が養女にしたもの』とある。

・「義嗣子」底本の鈴木氏注に、『寛政譜によれば義種の子が、義満(ヨシトシ)でその子女は、女子二人を記すのみであり、義嗣の名までは載っていない。またその妻になった衛粛の女のことも同譜では明らかでない。衛粛の子女として載っているのは男三人、女子二人であるから、家譜提出後に一男一女を設けたもので、その一女が義嗣に嫁したものと見られる』とある。「子」は知音である「義嗣」に対する筆者義方の尊称であろう。

・「欣慕」悦び慕うこと。

・「贅す」「贅説す」で無用な無駄な論説を述べる。贅言する。自己の評釈への謙遜表現。

・「時雨めきる日」底本には右に『(しきるカ)』と推定訂正注がある。「めきける」の誤りとも読めるようには思うが、シチュエーションとしては「降りしきる」の方がいいか。

・「吉見義方」(宝暦十(一七六〇)年或いは明和三(一七六六)年?~天保一二(一八四一)年 後の鈴木氏の注で逆算した)は鎮衛より二十九年下であるが、前に述べた通り、彼の知音であった近藤義嗣が根岸と縁戚関係にあったことから、本文に「をのれ又はやくより翁に値遇せる」とあるように、生前の鎮衛と親しく交わっていたことが分かる(満七十八歳で鎮衛が没したのが文化一二(一八一五)年であるから当時、義方は満五十五か四十九歳となる)。底本の鈴木氏注に、『三村翁注「儀助と称し、蜀山人の甥にて、狂名を紀定丸といへり、御勘定評定所留役たり、天保十二年正月十六日、七十六歳にて歿す、本郷元町三念寺に葬る。」日本文学大辞典によれば、享年を八十二とする。義方の父佐吉は清水家小十人、母は蜀山人の姉。定丸は安永七年家督を継ぎ小普請方となり、寛政七年清水勤番、文化二年御勘定、同四年組頭。初め野原雲輔と号し、のちに本田原勝粟、晩年己人手為丸と改めた』とある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 「耳嚢」 吉見義方 識語

 

 根岸前肥前守藤原鎮衛(しずもり)殿、別号、守臣(もりおみ)翁は、これ、御代官安生(あんじょう)太左衛門定洪(さだひろ)殿の二男にして、元文二年丁巳(ひのとみ)を以ってお生まれになられ、文化十二年乙亥(きのとい)、七十歳にして卒(しゅつ)せられた。

 定洪殿は、これ、初め相模国津久井県若柳村の出であられ、御徒(おかち)安生彦左衛門定之(さだゆき)殿の養子となって、そのまま御徒に召し加えられ、後、組頭(くみがしら)に転じ、なお、篤行の聞こえよう御座ったによって、直ちに御代官に抜擢せられ、拝謁の士に列せられた。その長男直之(なおゆき)殿と申さるるは、これ、御勘定評定所留役、御蔵奉行等を経て、遂に布衣(ほい)の上、士に昇り、船手組(ふなてぐみ)番方を勤められた。

 一方、根岸家はこれ、九十郎衛規(もりのり)殿と申し、廩米(りんまい)百五十俵の禄を受けられ、もとより拝謁の士にてあられたけれども、いまだ小普請(こぶしん)組にて在らるる内、若(わこ)うして病い篤く、易簀(えきさく)に臨み、守臣翁を末期養子(まつごようし)として迎えられて遺跡を継がしめんことを、これ、請ひ願いおかれた上、亡くなられた。

 されば、翁、かくして根岸家を継ぎ、小普請の士より御勘定に連なり、評定所留役を兼ねて、訴訟を糺し、幾許(いくばく)もなくして組頭(くみがしら)に昇り、浚明院(しゅんめいいん)家治様の日光山御参詣に関わって東照宮修復の一件に携わられ、後(のち)、御勘定吟味役へと進み、布衣の上、士に列し、また、佐渡奉行へ推挙されなさった。この折り、禄の加増せられて二百俵の家禄となり、今の家斉様の御代となってより、勘定奉行に転ぜられた。時に、その恒例を以って、従五位下肥前守に敍任のあり、家蔵五百石に加恩のあって、ここに初めて采地(さいち)を賜い、これまでの扶持米を改めて、初めて采地五百石を賜り、足高の二千五百石を合わせて禄は三千石となられた。それより、遂に町奉行に昇進なされ、年久しき勤労を慰撫(いぶ)せられて、食邑(しょくゆう)これ、五百石を増し賜はり、最後には千石の家禄となられたのであった。在職中の禄高については以上の如き経歴を経られた。

 御勘定であられた時分より、後に同じ勘定方御(ご)奉行とならるるに至るまで、さまざまな営作土木の事業を任されては監督指揮なされ、落成や事業の完遂のたび毎に、褒賜(ほうし)を受けられて、その賜わった黄金はこれ、総計すると実に二百六十枚に及ぶとも伝えられる。

 さても、かかる怖ろしく多忙なる勤仕(ごんし)の暇(いと)まに、これまた、ちょっと耳にされたところの巷説、一聴、児戯に類するような戯(たわぶ)れの如き流言飛語に至るまで、耳に触れたるありとある風聞風説をこれ、筆記し、これを秘かに名づけて「耳嚢」言う。

 その書き溜めたる条々、これ、殆ど一千話余りにも膨れ上がったれば、巻を分かって六帖となされた。

 ちょっとした普通なら目にも留(とど)めず立ち止まりもせぬ物の記録に於いてすら、かく成し遂げておらるる。さればこそ、本業たる生涯を捧げられた国務に於いて、その有用の事柄を編纂蒐集なされたその量たるをや。これ如何に恐るべきものであろうことはこれ、推して知るべしである。

 その人となり、これ、度量広大にして、小事に拘らず、些細な事には力を無駄に入るること、これなく、鷹揚に構え、朝夕に近侍せる配下の属吏の姓名でさえも、これ一見、何心なく、あたかもまるで記憶にない、覚えてもおらぬかの如き様子。

 されど、その周囲の者らへ、知らず知らずのうちに寛大無辺の徳化を及ぼし、下々の者のまことの情実をこれ、そのままにお上へ達し、人を推挙なさるるにこれ、悉く必ず、その職にまっこと相応しき人物を当てられて御座ったことは、全く以って、偏頗した私情の、これ、微塵もなき有り難き御心によるものにては御座るまいか?

 翁は常に大声にて会話なさるるを常とし、殊更に、ひそひそ話を好まれず御座った。

 これにつき、翁の常の言に曰く、

「――小さき音にして事を談ずると申すは、これ、殊勝に謹慎致いてでもおるか如く、一見えるものにては御座るが――その実、そうした内緒話の多くはこれ――話者の人情軽薄に依るものであるか――或いは、人に害のあって、己(おの)ればかりが利あらん事をば思うておるがゆえに、他聞を憚ってこそ――ひそひそ話なんどと申すもの、これ、生まるるものである。」

と。

 その私(わたくし)なき翁の誠心、この一言を以ってしても、思い至ると申すべきもので御座る。

 翁の男子、根岸衞粛(もりよし)殿は、これ、近藤義貫(よしつら)殿の子、義種(よしたね)殿の娘を娶っておられ、四男三女をお生みになられた。その末の娘子(むすめご)は、これ、また、その義貫の孫であらるる近藤義嗣(よしつぐ)殿の先妻であられる。この義嗣殿が、かかる縁戚の因みあるによって、かの伝説の門外不出の書たりと雖も、この「耳嚢」という書を、これ、書き写すことを得られ、しかも我ら義方にこれを閲覧させて下さったので御座る。

 我らまた、早くより、生前の守臣翁にも知遇を得て御座ったが、これもまた、この近藤義嗣殿の有り難き因みによるもので御座った。

 かく、かれこれと思慮なしみれば、この「耳嚢」のかくも拝読仕ったと申すは、これ、いや、とてものこと! 尋常なことにては御座らぬ!

 あまりのことに悦び入り、また亡き翁への慕わしさの、いや、募って参るあまり、分をも弁えず、下らぬ数語をここに穢し記して御座った。ああ! 何とまあ! 畏れ多いことで御座ろうか!

  文(あや)有る政(まつりごと)という

  九(ここのつ)の年、長月の末つ方、

  時雨頻(しき)りに降れる日のこと、

  お暗(ぐら)き窓下にこれを記す。

             吉見義方 花押

2015/04/07

耳嚢 (根岸鎮衛自跋)

 (自 跋)

 

 此書は予佐州の廰(ちやう)にありし時、寄集置(よせあつめおき)し奇談、又人の爲(ため)に成るべき事を校合(きやうがふ)して、文化二年迄に、追々(おひおひ)聞(きき)し事を書(かき)しるしけるに、九百ケ條になりぬ。今百ケ條をつゞりなんと思ひぬれど、勤仕(ごんし)のいそがしき、くわふるに衰老(すいらう)の嬾(らん)ゆゑ、筆を止(とど)めんと踟蹰(ちちゆう)せしに、始(はじめ)三卷を、子弟の外、親しき友の見たる事ありしや、林祭酒(りんさいしゆ)予がつゞれるといふ事を知りて、全本(ぜんぽん)を求め乞ふ故、重く勤仕もなし、且(かつ)御政事(おんまつりごと)の端(はし)にも携(たづさは)る身分、其名思はずもあらわれて、かゝる事書(かき)しるせしを、人の持(もて)なやむ事、嬉しからざれば、せちに斷(ことわり)て其意にまかせず、序(ついで)に書(かき)しるせし、素よりの事をいましめ、子孫えもかたく他(ほか)えもらすまじきを教誡(きやうかい)して、筆を止(とど)め畢(をはんぬ)。

  文化八巳年仲秋     七十三翁

              守 臣 跋 書

 

□やぶちゃん注

 この「始三卷を、子弟の外、親しき友の見たる事ありし」という箇所を見る限り、先の自序はやはり巻三の時点で書かれたという感じが私には強くする。

・「(自跋)」原典には標題がなく、「自序」は編者鈴木棠三氏が新たに附したものであるので丸括弧を附した(訳では外して「耳嚢」を冠した)。底本の鈴木氏注によれば、『この跋文は芸林叢書所収の吉見義方筆写本(三村翁旧蔵)にのみ存する。すなわち同本の巻五の巻末に、この跋文を載せる。この本は、どういう理由によるのか明らかではないか、巻序が成立時代順と甚だ齟齬している。これを成立順に並べかえると、巻三、四、五、一、二、六の順になるのであるが、同本自体としては、巻五に著者自跋、最終巻に筆写した吉見義方の識語を付するように按配したものらしい』と記しておられる。

・「佐州の廰」佐渡国の遠国奉行佐渡奉行のいた佐渡奉行所。天明四(一七八四)年三月十二日から天明七(一七八七)年七月一日まで三年在任した(但し、二人制で在府と在島が一年交代)。

・「文化二年」西暦一八〇五年。「耳嚢」の巻六の下限は文化元(一八〇四)年七月まで(但し、巻三のように前二巻の補完的性格が強い)で、次の巻七の下限は文化三(一八〇六)年夏までである。底本の鈴木棠三氏の冒頭解説には、この『文化二年迄に、追々(おひおひ)聞(きき)し事を書(かき)しるしけるに、九百ケ條になりぬ』の『文化二年』は文化六年の覆刻の際の誤りであると指摘なさっておられる。『九百ケ條にな』った巻九の執筆下限は文化六年であるからである。このままではどう考えてもおかしい。訳では「六年」に訂した。

・「嬾」懶惰(らんだ)の「懶」と同義で、怠る・怠(なま)ける・もの憂い・億劫。

・「踟蹰」躊躇と同義。進むのをためらう佇んでしまうこと。ぐずぐずと立ち止まること。

・「林祭酒」「祭酒」は大学頭(だいがくのかみ:昌平坂学問所の長官。元禄四(一六九一)年に林鳳岡(ほうこう)が任命され以後、代々林家が世襲した。)の唐名。儒者で大学頭であった林家当代当主林述斎(はやしじゅっさい 明和五(一七六八)年~天保一二(一八四一)年)名は衡(たいら)。述斎・蕉隠・蕉軒などと号した。美濃国岩村藩主松平乗蘊(のりもり)の三男であったが林家七世林錦峯(きんぽう)に嗣子がなかったため、寛政五(一七九三)年、幕命により林家を継いだ。大学頭に任ぜられて幕府による寛政異学の禁に応じ、昌平黌(しょうへいこう)の幕府の官学化、幕臣に対する学問吟味の制度の創設、正学たる朱子学の振興などに努め、目覚ましい成果を挙げた。林家中興の祖と称せられる。著書に「蕉軒雑録」など(主に小学館「日本大百科全書(ニッポニカ)」の記載に拠った)。この自跋を見る限りでは、この林述斎の閲覧慫慂が却って根岸を臆病にしてしまい、文字通り、門外不出として「耳嚢」の貸し出しを遂に許諾しなかったと読めるのであるが、底本の注で鈴木氏は、『しかし、昌平黌の蔵書中に耳嚢の写本かあったことを示す資料がある』と記され、東大図書館本「耳嚢」(巻一―五の四百七十七条を十冊に分けたもの)の巻十の末に以下の記載がある旨、示されてある(以下当該引用部を恣意的に正字化して示す)。

   *

昌平本表題鎮衛随筆〔一名耳嚢〕ト記シ卷之一ヨリ卷之五マデニ止マレリ、其書ノ奥書左ノ如シ。此書ハ寛政文化年間町奉行相勤し根岸肥前守鎭衞勤役中及其以前より見分にふるゝ所の名方奇談を何くれとなく書留て藏しけるを請得て写し置もの也 ト記セリ其著ト此書ト對照校生ヲ加フルニ昌平本ハ全此書ノ拔萃ナリ

   *

「名方」は「めいはう(めいほう)で優れた薬剤の調合、有名な処方、また、その薬の意で、「耳嚢」にしばしば現われる民間療法の効能処方の条々を指していよう。「見分」「校生」の右には鈴木氏のママ注記が底本にはあり、「見聞」「校正」の誤字である。以上に続けて、鈴木氏は、『ここに昌平本と称するものが、いつ写されたかは明らかでないか、表題に「鎮衛随筆〔一名耳袋〕」と記されてあったという点、本書の初期の形態をうかがわせるもののようで、述斎は結局借覧に成功して、門人の誰かに書写させて、昌平黌の蔵本に加えたのであったかと思われる。そこで問題になるのは、この本か五巻本であることで、三巻本でも、また六巻本でもないという事実である。この点については、述斎が人伝てに耳嚢のことを聞いたときは、三巻本の時期であったかも知れないが、寛政八、九年には巻五まで執筆されていた、しかし巻六は』、『やや執筆のテンポの違う巻だったらしいことが、内容の面から患像できるので、この巻はまだ完成していなかったのではないか。現存の伝本に、五巻本と六巻本とがある理由も、このあたりに原因かあろう』とこの一件から美事逆に「耳嚢」成立の途中経過を推理なさっておられる。

・「持なやむ」「もて悩む」取り扱いに困る。もてあます。

・「文化八巳年」干支が誤っている。文化八年は辛未(かのとひつじ/西暦一八一一年)で、 巳年は二年前の文化六年己巳(つちのとみ)である。これについて底本の注で鈴木氏は、『六年が正しいのではなかろうか。巻九が文化六年夏までの記事を含んでいるので、その年の八月に、この跋文が執筆されたと見るのが自然である。鎮衛は、最初三巻本として一応書上げたので、その後も三巻書き上げるごとに大休止をし、九巻を完成したときは、これで全巻の終りにしようと考え、この跋文を執筆したものと見ることができる』と推定されておられる。相応に説得力があるのではあるが、問題は直下の「七十三翁」で、これは確かに文化八年の鎮衛の数え年なのである。巻十の筆致を見ても自身の年齢を誤るまで鎮衛は耄碌してはいない。鈴木氏は残念なことにこれについては何も述べておられない。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 「耳嚢」自跋

 

 この書は私が佐渡国の奉行所に佐渡奉行として在勤していた折り、寄せ集めおいた奇談、また、人のためになろうかとも思わるる事を、相応に記述内容その他、校合(きょうごう)なして、文化六年までに、おいおい見聞した事を書き記してきたが、それがこの度、総計九百ヶ条のキリに達した。今、これにさらに百ヶ条を綴ろうとも思うてはおるが、勤仕(ごんし)の忙しさ、加うるに、寄る年波の老衰の懶惰(らんだ)ゆえ、やはり、これで筆を折ろうかとも躊躇致いてはおる。当初は三巻三百話であったが、これ、迂闊なことに子弟の外にも、親しき友がこの書を垣間見したることのあったものか、かの大学頭(だいがくのかみ)林祭酒(りんさいしゅ)殿が、私がこうしたものを綴っておるということをお聴きになられ、今までに出来上がっておる全完本の閲覧を求め乞うて参られたによって――我ら重職の勤仕もなし――且つ御政事(おんまつりごと)の端(はし)にも携わる由々しき身分なるに――その名の、かくなる好事の奇譚集の作者として、思いの外に知れ渡ってしまったとせば――かくも破廉恥なる品々の書かれあるを、これ、多くの人に見らるることを思うと――そうした人の中には、これ、きっと本書の取り扱い方に困ったり、また、持てあましたりする御仁も出でて参るであろうなども思われるによって――これ、嬉しからざることなれば、林祭酒よりの閲覧の儀はこれ、切(せち)に丁重にお断り申し上げ、不遜乍ら、その御意(ぎょい)にお任せすることは遂に致さなんだ。ともかくも序(つい)でのことに、ここに改めて書き記しておくのであるが、もとより、先に己(おの)が序文にも記した通り――門外不出――を固く誡めとして守り、子孫へもこれ――堅く他(ほか)へ洩らすことのなきよう――家伝の教誡(きょうかい)――として、ここに再度、記しおき、跋文の筆を擱(お)くこととする。

  文化八巳年仲秋     七十三翁

              守 臣 跋 書

耳嚢 (根岸鎮衛自序)

 (自 序)

 

 此耳嚢は、榮中勤仕(ごんし)のいとま、古老の物語或は閑居へ訪來(おとづれきた)る人の雜談(ざうだん)、耳にとゞまりて面白きと思ひし事ども、又は子弟の心得にもならんと思ふ事、書きとゞめて一嚢(なう)に入れ置きしに、塵積り山とはなりぬ。つかね捨てんも本意(ほい)なく、其實を拾ひ其葉を捨てんと、幾度か硯にむかひ筆をとりけれど、官務のいといとまなきに校輯(かふしふ)も等閑(なほざり)になりぬ。此雙紙は(さうし)、恐れ多くも、公(おほやけ)の御事(おんこと)等をも載せぬれば、世の人に見すべきにあらねど、聞きし儘にしるしぬ。市中の鄙語(ひご)など誠に戲(たはぶ)れ言(ごと)なれど、是も聞きしまゝに洩らさず書綴(かきつづ)りぬ。數(かず)多きうちには僞(いつはり)の言葉もありぬべけれど、語る人の僞(いつはり)は知らず、見聞きし事を有りの儘に記して、予が子弟に殘し置きぬ。他門の見ん事はかたく禁(いま)しめぬれば、文章の拙(つたな)きもまた取(とり)かざるべきにあらずと云爾(しかいふ)。

            東都 藤原守信自敍

 

□やぶちゃん注

・「(自序)」原典には標題がなく、「自序」は編者鈴木棠三氏が新たに附したものであるので丸括弧を附した(訳では外して「耳嚢」を冠した)。底本の鈴木氏注によれば、『この序文が書かれたのは、巻一―三(或いは巻一―二が成った時点であろうと想像されるが、日付がないので正確なことは分からない』と記しておられる。因みに鈴木氏の執筆下限の推定によれば、巻二ならば天明六(一七八六)年でである(巻三は下限を示す記事がなく、鈴木氏は前二巻のやや取材範囲を拡大した補完の巻と捉えておられる。因みに当時、根岸は満四十九歳であった)。なお、巻三執筆後、巻四起筆までの間は、佐渡奉行から勘定奉行と根岸の公務多忙による長い執筆中断がやはり鈴木氏によって推定されてある。

・「營中」「柳営中」で将軍の陣営や居所・幕府の所在地・組織としての幕府を指す。匈奴(きょうど)征討に向かった前漢の将軍周亜夫が細柳という地に陣を置き、軍規を厳しくして文帝の称賛を得た、という「漢書」の「周勃伝」の故事に由来する語。

・「勤仕」「きんし」とも読むが、私は本文で一貫して「ごんし」(「ゴン」は勤行などと同じく呉音)と読んできたのでここも「ごんし」とする。勤め仕えること・務めに就くこと。勤務。

・「つかね捨てん」「束ね捨つ」で、一纏めにひっ括って(束にして)捨てるの意。

・「其實を拾ひ其葉を捨てんと」岩波の長谷川氏注に、『肝心の部分を残して枝葉末節のものを削る』とある。

・「校輯」校讐・校讎に同じい。文章や字句を比較照合して誤りを正すこと。校正。校合(きようごう)。

・「雙紙」草紙・草子・冊子。元は「冊子(さくし)」から転じた語で、綴じてある本。/仮名書きの物語・日記・歌などの総称。/書き散らした原稿。下書。といった意味がある。ここは綴じた書、冊子で採る。

・「鄙語」卑言・卑語に同じい。元は卑しい言葉、下品な言葉、スラングの意であるが、ここは拡大して、流言飛語・江戸の噂話・都市伝説(アーバン・レジェンド)の謂いである。

・「數多き」一応無理のないように「かずおおき」と読んでおいたが、私は実は、根岸は「あまたおほき」と、畳語のように読んでいるように思われてならない。訳ではそれを意識した。

・「云爾」爾云とも。音は「ウンジ」であるが圧倒的に「しかいふ(しかいう)」或いは「しかり」と訓読する。主に漢文脈の文章末尾などに置いて上文の内容を強調指示し、「これにほかならぬ」「上述の通り」という意を表す。

・「藤原守信」底本の鈴木氏注に、『根岸鎮衛の別号を守臣と号したことは、吉見義方も記しているところで、次に掲げる自跋にも「七十三翁守臣」と著している。そこで壮年のころには守倍、晩年に及んで守臣と改めたものかと想像される。ちなみに寛政諸家譜には、守信も守臣も記載がない。藤原姓であることは、諸家譜の藤原氏支流の部に入れてあることにも示されている』とある。ウィキの「根岸鎮衛」には別名として銕蔵・九郎左衛門・守信・守臣の名が記されてある。それぞれ「てつぞう」「くろうざえもん」「もりのぶ」「もりおみ」と読むものかと思われる。因みに「鎮衛」も「やすもり」「しずもり」の二様の読みが通行している。なお、根岸の出自については同ウィキに、百五十俵取りの下級旗本の安生(あんじょう)太左衛門定洪(さだひろ)の三男『として生まれた。江戸時代も中期を過ぎると御家人の資格は金銭で売買されるようになり、売買される御家人の資格を御家人株というが』、宝暦八(一七五八)年に同じく百五十俵取りの『下級旗本根岸家の当主根岸衛規』(もりのり)が三十歳で『実子も養子もないまま危篤に陥り、定洪は根岸家の御家人株を買収し、子の鎮衛を衛規の末期養子という体裁として』、二十二歳の『鎮衛に根岸家の家督を継がせた(御家人株の相場はその家の格式や借金の残高にも左右されるが、一般にかなり高額であるため鎮衛は定洪の実子ではなく、富裕な町家か豪農出身だという説もある)』とあるのがよく纏められており、岩波の長谷川氏の解説記載と引き比べても齟齬するところがない(そこには鈴木棠三氏の東洋文庫版解説に載る説として、この定洪自身の出自も相模国津久井県若柳村(現在の神奈川県相模湖町若柳)の旧家鈴木氏の出であって彼自身も徒士株を買って安生定之の養子となり「安生」姓を称したともある)。私も彼の千話に付き合ううち、鎮衛殿は元は武士階級の出身ではなかったのではないかという印象を強く持つに至った。但しそれは――彼自身の語り口のその優しさゆえに――である。

・「他門の見ん事はかたく禁しめぬれば、文章の拙きもまた取かざるべきにあらずと云爾」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『取かざるべきにあらず。』となって以下、

 はじめよりの志(こころざし)をうしなはじとて耳嚢(みみぶくろ)と名づけぬ云爾(しかいふ)。

とある(読みは総て私が附したもの)。

・「東都」江戸の雅称。京の都に対して非公式にかく呼ばれた。参照したウィキ都」によれば、内政的(公式)には新井白石らの反対によって、また対外的にも対馬藩の儒者で同藩の朝鮮方佐役であった(さやく。朝鮮担当部門の補佐役)雨森芳州(あめのもりほうしゅう)らの反対によって使用されなかったとある。こんな事実は受験勉強じゃ絶対聴こえてこない部類の話だな。眼から鱗、耳から垢だ。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 「耳嚢」自序

 

 この「耳嚢」は、営中勤仕(えいちゅうごんし)の暇(いと)ま、古老の物語り、或いは私の閑居へ訪れ来たった御仁の雑談の内、耳に留まって面白いと思うた事ども、またはこれ、子弟らの心得にもなろうかと思うた事どもなどなど、書き留めおいては大きなる一つの嚢(ふくろ)の中に投げ入れ置いておいたところが、これ、塵の積って遂に山とは成った。十把一絡げにして捨つると申すも、これ本意(ほい)にてはなければ、その膨大な流言飛語の中より、その有用なる「実」を拾い、粉飾尾鰭たるところのその無駄な「葉」を削ぎ落し捨てんものと、幾度か硯(すずり)に向い、筆を執ったのであるが、何分、官務多忙にして、そうした暇(いと)まもなきままに、校輯(こうしゅう)も等閑(なおざり)となってしまった。この冊子には、畏れ多くも、お上の御事(おんこと)等をもさえ書き載せておるによって――まずは――世の人々にはこれ、見せてはならぬ類(たぐ)いの書にてはある――がしかし、私は私が聞いたままそのままに記したものではある。市中の流言飛語などはこれ、如何にも嘘臭くいかがわしい戲(たわぶ)れ言(ごと)がこれ、殆どではあるが――これもしかし、聞いたままそのままに、洩らさず書き綴ったものではある。その数多(あまた)ある内(うち)にはこれ、全くの偽り、とんでもない作り話の類いもあろうとは存ずるが、語って御座った御仁自身の巧妙な偽り、作り話ならんかはこれ、私の関知し得る域を概ね越えておる――なれどしかし、見聞きした事をありのままそのままに記して、私の子弟らに残し置くことと致すのである。門外不出、他門の見る事はこれ、かたく戒めるところなれば、文章の拙(つたな)きもまた、そうした目的のものなればこそ、とり飾る必要そものものがないものなればそのままに示す。以上。

            東都 藤原守信自敍

耳嚢 巻之十 前兆奇怪の事 /// 「耳嚢」全十巻1000話原文電子化附オリジナル訳注完遂!

 前兆奇怪の事

 

 大久保邊、大御番(おほごばん)組の同心石山某が妻、如何(いかが)の譯と申(まうす)事も是なく、深き井の内へ落入(おちい)りしが、山の手の井戸故(ゆゑ)至(いたつ)て深く、引上(ひきあげ)げ候ても存命無覺束(おぼつかな)けれども、とかうして是をあげけるが、怪我もせず、平生(へいぜい)の通(とほり)にてありしが、不思議なるは翌年其の月の時日もたがへず、頓死なしけるとなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。淡々とした奇怪なシンクロニティの実録の怪異譚である。私はまっこと、「耳嚢」掉尾に相応しい記事と感ずるものである。本当の怪異とは実はこうしたことにこそある。――私の母が病院亡くなった時刻私が自宅抱いて寝てい母の愛犬アリスが一声吠えたように。――因みに、「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月で、作者根岸鎭衞は、これを書き終えた一年と五ヶ月後の翌文化十二年十一月四日(グレゴリオ暦一八一五年十二月四日)に没している。……掉尾なれば、訳にはこれ、ちょっとした悪戯を施しておいた。悪しからず。これぞ、私の勝手自在「耳嚢」現代語訳の最後で御座る!……さても遂に全十巻千話を終えた。二〇〇九年九月二十二日に開始し、当日、私はブログで『――しかし、余りに路は遠い――』と如何にもやり遂げることを想定していない、呆けた弱音を吐いていたが凡そ延べ五年と半年、二千二十三日後に、かく、全くオリジナルに完遂し得たのであった。――嗚呼、感慨無量也。謝しまする! 根岸鎭衞殿!!!!!!!!

・「大御番」既注

・「大久保」現在の新宿区東大久保・西大久保・大久保百人町(後に大字百人町。現行の大久保三丁目には百人町四丁目が含まれる)一帯の当時の広域呼称。

・「山の手の井戸」岩波の長谷川氏注に、『山の手は、江戸の高台地帯。本郷・小石川・牛込・四谷・赤坂・麻布辺。俗に山の手の井戸は深いという』とある。地勢的に納得出来る。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 前兆の奇怪なる事

 

 大久保辺、大御番(おおごばん)組の同心石山某が妻、如何なる訳かもこれ分からず乍ら、文化九年十一月四日のこと、深き井戸の内へ落ち入ったと申す。

 山の手の井戸なれば至って深く、引き上げ得たと致いても、これ、存命は覚束なし、と、者ども、口々に申したものの、ともかくも引き上げみたところが、身体、これ一向、怪我ものぅ、平生(へいぜい)と全く変わらず無事に助け出された。

 ところが……不思議なことに、翌年のこと、

――井戸に落ちたる

――その月その日

――文化十年十一月四日

――まさにその井戸に落ち入ったる

――その刻限

――これ

――一時も違(たが)えることのぅ

――この石山某の妻

――急死致いた

とのことで、御座った。……

 

 

 

耳 嚢 大尾

 

[やぶちゃん注:以上を以って底本本文は終わるが、その後に底本では根岸鎭衞自身「耳嚢」序文及び同跋文が示され、その後に吉見義方の「耳嚢」に寄せた識語がある。以下、同様に電子化して語注を附し、現代語訳を示す。また、その後には長谷川強氏校注になる岩波文庫版「耳嚢(下)」の末に配されてある志賀理斎の長大な識語(当該文庫本で二十三頁に及ぶ)も電子化したいと考えている。ともかくも本文完全オリジナル訳注を完結し得たのはこれ一重に教え子を始めとする読者の方々の不断の声援のお蔭である。この場を借りて深く謝意を表するものである。 二〇一五年四月七日朝 心朽窩主人藪野直史]

カリギュラ安倍を弾劾せよ!

低次元のお下劣上西如きは実は問題ではないのだ。戦前戦中の沖繩への本土の行為と同じことを繰り返し、福島には幕末同様に見捨てるような仕儀を成して恥じない安倍という最愚劣な男に粛々と従う連中にこそ天誅が下されねばならぬ!――

上西小百合なる愚劣な議員を罷免せよ!

上西小百合なる女は比例区当選である以上、あのような理由、誰もが不審にしか思えぬ理由により除籍されたからには道義上罷免されなければならぬ。そのような法など不要! 国会がそうした毅然とした態度を裁判沙汰になってもとるべきである! せめてもそれでこの妖怪だらけの国会に涼風を流すべし!

2015/04/06

耳嚢999話公開を終えて

サイトの履歴の2009年に僕は



9/22 「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に、正字正仮名に基づく根岸鎭衛の「耳嚢」の「巻之一」の頁を創設、これより10巻1000話のプロジェクトを開始する。勿論、オリジナルのやぶちゃん注及びやぶちゃんの現代語訳附きである。本日はまずは冒頭の「禪氣狂歌の事」と「下風道二齋が事」の二篇を公開。――しかし、余りに路は遠い――


と書いた。

6年後、今、それが終わるとは、実は全く思っていなかった――僕は自分がそれをし遂げるとは実は思っていなかった――ことをここに告白しておく――

耳嚢 巻之十 猫の怪談の事

 猫の怪談の事

 

 巣鴨にて大御番にて、名も聞きしがもらしぬ。文化十一年の四月、二條在番に出立(しゆつたつ)ありし。或夜留守の中間部(ちうげんべ)やにて、踊りさわぎ、殊外(ことのほか)大勢にて諷(うた)ひ舞(まひ)、賑やかなる樣子に付(つき)、主人留守の儀、右體(てい)の別(べつし)て如何(いかが)の段、奧方より沙汰有之(これあり)、留守家來、早速中間部屋を改(あらため)候處、右體(てい)の儀無之(これなく)候間(あひだ)其譯申開(まうしひらき)候處、翌晩も尚又同樣に付、右家來罷出(まかりいで)相改(あひあらため)候處、不見知(みずしらずの)もの壹人罷出(まかりいで)、右明(あき)長屋にて少々宿願有之(これあり)、同志のもの相集(あひあつま)り祭禮同樣の儀いたし候儀、今一夜(ひとよ)用捨(ようしや)の儀相願(あひねがひ)候旨申候得共(まうしさふらえども)、決(けつし)て留守の事にも候間(あひだ)難成(なりがたき)旨申斷(まうしことわり)候處、尚又其翌夜も同樣に付、又々相咎(あひとがめ)候處、聊か氣遣(きづかひ)の儀有之(これある)ものには無御座(ござなく)候、御斷(おんことわり)申(まうし)候上(うへ)にて御取用(おんとりもち)ひも有之間敷(これあるまじく)、何分(なにぶん)勘辨相願(かんべんあひねがひ)、謝禮金の由にて包金(つつみがね)相渡(あひわたし)候故請取(うけとり)、奧方に申開(まうしひらき)候處、夫(それ)は以(もつ)て外の事なり、早々可相返(あひかへすべし)との事、右のものを相尋(あひたづね)候處、何方(いづかた)へ行(ゆき)候や壹人(ひとり)も不相見(あひみえず)。何れ一兩日中には、何れとか可相分(あひわかるべく)、住(すむ)處も不承置く(うけたまはりおかざる)事故(ゆへ)右金子留置(とめおき)、兩三日見合(みあはせ)候得共(さふらえども)高一向手懸り無之(これなし)。然るに先祖の法事有之(これあり)、菩提所へ法事料可遣(つかはすべし)と手當(てあて)有之(これある)處、兼々(かねがね)不勝手(ふかつて)にて急に藝の金子無之(これなく)、右金子を以(もつて)法事料可遣(つかはすべし)、追(おつ)て償(つぐな)ひ置(おき)可然(しかるべき)段、家來と存寄(ぞんじより)にて、右金子の内二三兩法事料に差遣(さしつかはし)、法事も相濟(あひすみ)候後、右和尚罷越(まかりこし)、何卒奧方に逢申度(あひまうしたき)由申(まうし)候故、家來を以(もつて)、主人留守の儀、奧方も少々不快の由相斷(あひことわり)候處、何分直(ぢき)に一寸(ちよつと)、用人一同に承合(うけたまはりあひ)候儀聞屆呉(ききとどけくれ)候樣(やう)、達(たつ)て申(まうし)候間、無據(よんどころなく)對面有之(これある)處、右法事料の金子、何方(いづかた)より出(いで)候哉(や)、承合(うけたまはりあひ)候故、奧方も家來も甚(はなはだ)赤面當惑にて、右はいかやうの仔細にて御尋(おたづね)候や承(うけたまはり)候處、右金子は當寺本堂建立の儀、施主より追々(おひおひ)寄附等有之(これあり)、不取散爲(とりちらさざるため)に、あらたに極印(こくいん)を拵へ壹兩づゝ極印をも打(うち)積置(つみおき)候處、近頃右の金子の内七十三兩紛失の由、然處(しかるところ)此間(こあひだ)の御法事料不殘(のこらず)有極印(こくいんある)故、御聞合申(おんききあひまうし)候段申(まうし)候間(あひだ)、奧方家來共(とも)大きにをどろき、右はかくかくの事にて受取(うけとり)候金子にて、取仕廻可相返(とりしまひあひかへすべし)と右のもの罷越(まかりこし)候を相(あひ)まち候へ共(ども)、其後沙汰も無之(これなく)、此度(このたび)法事料差進(さしすすめ)候に付(つき)、不勝手(ふかつて)故(ゆゑ)外(ほか)金子手元に不有合(ありあはざる)故、右仕廻置(しまはしおき)候金子の内(うち)差進(さししん)じ、扨々(さてさて)面目(めんぼく)もなき事と、申斷(まうしことわり)れば、和尚大きに驚(おどろき)、右金子紛失の員數(いんじゆ)も凡(およそ)符合いたし、寺内(じない)末々(すゑずゑ)迄穿鑿(せんさく)いたし候へ共(ども)怪敷(あやしき)儀も無之(これなく)、外より盜賊入(いる)と申(まうす)儀も無之(これなき)處、寺内に數年飼置(かひおき)候猫、其砌(みぎり)よりかいふつ不相見(あひみえず)、全(まつたく)猫の仕業なるべしと語りければ、奥方家來も供に驚怖(きやうふ)なし、右仕廻(しまはし)候金子に右法事料の金も足(た)し候て、右寺へ相納(あひをさめ)しとなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。妖猫譚のキリ。異様に漢文脈であるが、それだけに準公式の事件報告書の体(てい)を成して見え、リアリズム全開である。掉尾から二つ目に相応しいフルボディの味わいがある。それにしてもこの奥方、細かいことに五月蠅い割りに、金の使い回しには容易に賛成しているところが面白いではないか。

・「巣鴨」岩波の長谷川氏注に、現在の『豊島区の巣鴨・大塚・駒込の町名の地』とある。ウィキの「巣鴨」を見ると、『江戸期には武蔵国豊島郡に現在の豊島区の東半分を占める地域に巣鴨村が存在し』、十八世紀半ばには『江戸市中の拡大と共に、巣鴨村の一角に巣鴨町上組・中組・下組が起立。江戸町奉行所の支配下に置かれる』ようになったとある。

・「大御番」既注

・「文化十一年の四月」「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月であるから、直近の二箇月前。

・「二條在番」「大番」の既注に記したように、大番の警護する要地には江戸城の他に二条城及び大坂城が含まれており、それぞれに二組が一年交代で在番した。

・「聊か氣遣の儀有之ものには無御座候、御斷申候上にて御取用ひも有之間敷、何分勘辨相願」……最後の最後に近こぅなって……この部分、現代語訳には自信、これ、御座らぬ。大方の御叱正の程、宜しゅう相い願い奉りまする。……

・「かいふつ」副詞。絶えて。すっかり。全く。調べた小学館の「日本国語大辞典」にはなんと! 用例として本「耳嚢」の「巻之四 狐狸のために狂死せし女の事」の「其宿をも尋ね問ひけれどもかいふつと見えざれば」が引かれている!(但し、引用の底本は本底本とは異なるもので、私のものでは「其宿をも尋問けれども曾て見へざれば」となっている)

・「二三兩」訳では三両とした。御用達サイト贋金両替商「京都・伏見 山城屋善五郎」の「江戸時代の諸物価(文化・文政期)」によれば、三十万円相当となる。
 
 

■やぶちゃん現代語訳

 

 猫の怪談の事

 

 巣鴨に住まう大御番(おおごばん)に関わる話と申す。名も聴いたが失念致いた。

 その某(なにがし)が文化十一年の四月、二条城在番として江戸を出立(しゅったつ)致いた、その直後のことと申す。

 ある夜(よ)のこと、某(なにがし)留守宅の中間部屋にて、踊り騒いで、殊の外、大勢にて、歌は唄うわ、踊りは躍るわ、あまりにも賑やかが過ぐる様子なれば、

「――御主人様御留守の折りなるに、かくなる騒ぎは、これ、如何なものか?」

と、奥方様より不快の趣き、これ、御座ったによって、留守居役の家来の者、早速に中間部屋へと走り、中を検(あらた)めみたところが、そのような大騒ぎをなせる跡は、これ、全く御座らなんだによって、奥方様へは、その旨、申し上げた。

 ところが、翌晩もこれ、同様の騒ぎの聴こえて参ったによって、また、命ぜられた留守居の者、中間部屋に出向き、検(あらた)めてみたところが、これ、どうも――中間部屋にてはなく――その隣の屋敷の境にある空き長屋――これまた、辺りには、てんで好き勝手に物置同様に使われておった場所とのことなるが――から、その騒ぐのが聴こえて参るように思われた。

 そこで一旦、屋敷を出でて廻り込み、その長屋を検(あらた)めんとしたところが、中より見知らぬ者、これ、一人出でて参って、

「……ここの空き長屋にて、少々これ、宿願の儀の御座って、同志の者、集(つど)って、一種の祭礼祈禱の如き仕儀を致して御座る。……」

といった理由を述べた上、

「……どうか……あと一晩だけ……これ、ご容赦願いたく存ずる。……」

と申し乞うて参ったものの、留守居はこれ、

「――当主(あるじ)留守中の事にても御座れば、それは成し難きことじゃ。」

ときっぱりと断った。

 ところが、その翌日も、これ、またしても同様の騒ぎの聴こえて参ったによって、この度は留守居自らが聴き耳を立てて御座ったれば、即座に、かの長屋へ至り、咎めだて致いたところ、

「……聊かも御心配に及ばるるようなる怪しき者どもにてはこれ、御座らぬ。……昨日(さくじつ)は確かに、お断りなされて御座ったによって……再応、お許しを戴くことはこれ、あるまいとは存じますれど……どうか一つ――これにて――何分、御勘弁下されまいか?……」

と願い出るそばから、

「――お騒がせ致いたことへの謝礼――の金子にて――御座る。」

と、金包みを留守居役が家来へ渡して御座った。

 思わず受け取ってしもうたが、これがまた――ずっしりと重い。

 留守居の家来、この金子を持って慌てて屋敷に戻ると、奥方の所へと参り、その委細を申し上げた。

 すると、

「――御主人様御留守の折りから、無断の金銭の授受など、これ、以ての外の事で御座いまする! 早々にお返しなされませ!」

と叱責されてしまい、また直ちに、その金子を抱え、かの長屋へと走ったところが……かの男どころか、騒いでおったはずの他の者どもも、これ、人っ子一人としておらず、静まり返って御座った。

 留守居は、

「……あれだけの人数(にんず)。……辺りの町屋の者どもの中にも、これ、何か存じ寄りの者もおろう。……孰れ、一両日中には何か分かろうものじゃ。」

と考え――そもそもがこの留守居もまたうっかり者にて、その対談致いた男の名も住所も聴かずに御座ったと申す――その大枚の金子を預かったままに、三日ほど経ったれど、これ、屋敷の留守居の中間も、また、かの空き長屋を使(つこ)うておる隣近所の町人どもも、これ、誰(たれ)一人として、かの長屋に出入りして御座った者につき、知る者のなく、一向、手掛かりがなかったと申す。

 さて、ちょうどその折りのこと、主(あるじ)出立(しゅったつ)の直前、先祖の法事の話の持ち上がって御座ったによって、出立の砌り、主(あるじ)より、菩提所へ法事料をしっかと奉じておくように、と命のこれあって、その捻出を心しては御座ったものの、これ、日頃より遣り繰りの厳しきことも御座って、急には手元にその金子を用意出来ずに困惑して御座ったと申す。

 そこに、この金子――目の前に――ある。

 そこで留守居の者、奥方へ有体(ありてい)に話を持ちかけて御座った。

 奥方は始め、難色を示されたものの、

「……法事料はいかほどで御座ろうか?」

と聴かれたによって、留守居、

「……二、三両もあれば、これ、十分かと存じますが……」

と答えたによって、奥方は、

「少しならば、のぅ。」

と、

「――その金子より三両を法事料として寺へ遣わし、おって減らしたその分は後(あと)で償(つぐの)うことと致しましょう。」

と、家来と相談の上、例の金子の内、三両を抜き取って、その法事料に宛て、その後、滞りなく法事の儀も相い済んで御座ったと申す。

 ところが、法事の終わるや、その夜のうちに菩提所の和尚、泡食って屋敷へと罷り越し、

「――何卒、奥方に御目通り願いとう存ずる!」

と乞うたによって、最早、夜も更けおれば、無礼な仕儀と、かの留守居を以って、

「――主人留守中のことにてもあり――奥方様もこれ――御体調の優れざれば。――」

と断りを入れた。

 すると、

「――何分、直かに――これ、一寸(ちょっと)――どうあっても申し上げずばならざることの出来(しゅったい)致いたによって――御主人様御留守の儀は、重々承知乍ら――さても――その御主(ごしゅ)の御名誉にも関わることなればこそ――御用人様御一同立ち合いの許にてもよろしゅう御座るによって――是非とも! これ、聞き合せなさるるよう――切(せつ)にお聞届け下さいまするよう、お願い申し上ぐる!」

と切羽詰ったる様子にて申したによって、仕方のぅ例の留守居の家来他、主だった家臣を同じき客間の端に控えさせた上、奥方、これ、和尚と対面致いた。

 すると和尚、開口一番、

「……先の法事料として頂戴致いたかの金子……これ……何方(いずかた)より出でたるものにて御座いましょうや?……」

と訊ねたによって、かの補填した金子のことの思い出され、奥方も留守居も、痛く赤面もなし当惑も致いた。

 そこで奥方、

「……そ、それは……い、如何なる子細の御座ってお訊ねにならるるで御座いましょう?……」

と聴き返したところ、

「……かの金子のことにて御座る。……当寺にては新たなる本堂建立がために、施主より、おいおい寄付の御座ったを、他の使途に誤って使(つこ)うたり、また、取り散らかしてしもうたりせぬようにと、新たに刻印を頼んで拵えまして、これ、一両ずつ、その刻印を打ちつけおいて御座いました。……が、近頃のこと、その金子の内、七十三両、これ、紛失致いてしもうたので御座る。……ところが、この度の御当家より賜わりましたる御法事料の――これ、三両――残らず、その刻印の御座ったればこそ、かく、お訊ね申した次第にて、御座る。……」

と申したよって、奥方と家来どもはこれ、大いに驚いた。

 されば奥方、

「……あ、あの金子は、かくかくの次第にて受け取って御座いましたものにて――合わせて七十両も御座いましたか?――しまいおいて返却せんと、その者の罷り越すを待っておりましたので御座いまするが……その後、とんと音沙汰もなく……この度、かの法事料、これ、少々、差し支(つ)えの御座いまして……その……有体(ありてい)に申さば……手元不如意にて都合のつかず御座いましたによって……よんどころのぅ、そのしまいおいて御座いましたる金子の内より、流用致いたものにて御座います。……何ともこれ、面目(めんぼく)なき次第にては御座いまするが……」

と弁解なされ、謝られたところが、和尚、これ、大いに驚き、

「……その金子は、これ、我らの紛失して御座る枚数ともおおよそ附合致しまする。……寺内(じない)隅々に至るまで探索致いたものの、これといって怪しい箇所ものぅ、またこれ、外(そと)より盗賊の押し入ったる形跡も、これ、全く御座いませなんだ。……ただ一つ……寺内にて、数年に亙り飼いおいて御座った猫が……その金子紛失の一件の起こったる日より、これ、姿の見えずなって御座いました。……これは……全く以って! その猫の仕業に違い御座いませぬ!!……」

と語った。

 それを聴いた奥方も家来どもも、これ、ともども大きに驚き怖れ、かの、しまいおいたる金子に、これ、別っして新たな法事料も足し添えたる上、その菩提寺へと納めた――とのことにて御座ったよ。

耳囊 卷之十 荒木坂下妖怪の事

 

 荒木坂下妖怪の事

 

 文化十一年の六月或人かたりけるは、當月三日の夜、櫻木町近所荒木坂に奇異の事ありし由。右町□□□と申(まうす)湯屋(ゆうや)の門先にて、色々の油揚(あぶらあげ)を拵(こしらへ)、屋臺鄽(やたいみせ)にて商ひいたし、三日の夜五ツ時分迄追々餘程賣(うり)候後(のち)、中間(ちうげん)體(てい)のもの三四人參り、右油揚調(ととのへ)、直(ぢき)に其場にて喰(くら)ひ候處、右體(てい)のものは、時として無錢(むせん)にて食ひ逃(にげ)いたし候儀も有之(これある)故、心を付居(つけをり)候處、頻りに眠氣(ねむけ)付(つき)候へ共(ども)、勤(つとめ)てこらへ居(をり)候處、あく迄(まで)眠りを催し不思(おもは)睡り候て、暫過(しばらくすぎ)、目覺(めざめ)候處、あたりにも人も無之(これなく)、右の中間もいづちへ行(ゆき)しや不相見(あひみえず)、右屋臺の勢に仕込置(しこみおき)候油揚は不殘(のこらず)紛失いたし、彼是(かれこれ)にて六七百文の損をせし由。尤(もつとも)右場所人通りも少(すくな)き所なれども、いまだ五ツ時頃にてあたりに人も立𢌞り候場所、全(まつたく)狐の仕業成(なる)べしと、其最寄に住(すめ)る人のかたりぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:「耳囊」最後の妖狐譚。都市伝説としてはリアリズムもあり、悪くない。

・「荒木坂」桜木町(現在の小日向一丁目。次注参照)の現在の東京メトロ小石川検車区の南西から真南に下る坂。

・「文化十一年の六月」底本の鈴木棠三氏の「卷之十」の記載の推定下限文化一一(一八一四)年六月というのは、これに基づくものであろう。

・「櫻木町」底本の鈴木氏注に、『三村翁「桜木町は小石川の桜木町なり、徳川氏の女官音羽青柳桜木に給し、皆町名となせしと伝ふ、荒木坂は第六天町に在り。」』とある。江戸切絵図で確認すると、護国寺門前から南東に延びる音羽通りが江戸橋にぶつかる手前の左右の音羽町九町目の外側の地域をそれぞれ同名の「櫻木町」と呼んでいる。一種の飛び地か、若しくは江戸橋の手前の細い敷地で繋がっていたものか。

・「油揚」江戸時代に単にこう言った場合は豆腐の油揚げである。

・「五ツ時分」旧暦六月三日であるから、午後七時半から七時四十五分頃であろう。

・「勢」底本には右に原典の『ママ』注記がある。

・「六七百文」私の御用達サイト贋金両替商「京都・伏見 山城屋善五郎」の「江戸時代の諸物価(文化・文政期)」によれば、当時、稲荷寿司一つが六文で現在の百五十円相当、但豆腐一丁は高級品で六十文で千五百円相当と異様に高い。千文が二万五千円として、一万五千円から一万七千五百円相当である。この「油揚」は前に注したように豆腐を揚げたものであるから、これと同じ値(少し上でもよいが、江戸のリサイクル事情から考えれば、恐らくは古い豆腐を揚げ用に用いたと考えた方がよく、とすれば同じ値段かそれ以下であろう)仮定すると、仕入れて未販売の屋台内にあった油揚げ(中間らが注文した分は除く)は凡そ十~十二個ほどあったものと考えられ、盛んに売れた日野屋台の残りの分量としては自然であるように思われる。これだけの量の油揚げを食おうというのだから、そこからもちょっと人間離れしていることは確かである。 

 

■やぶちゃん現代語訳 

 

 荒木坂下の妖怪の事

 

 文化十一年六月に、ある人の語ってくれた話である。

 この六月三日の夜、桜木町近くの荒木坂にて奇異なることの出来(しゅったい)致いたという。

 

 その桜木町の何とかと申す銭湯の門先(かどさき)にて、いろいろな油揚げを拵えては屋台(やたい)にて商(あきの)うておる者の御座ったが、その三日の夜(よ)は五つ時分まで、これ随分、売り捌いて御座ったと申す。

 ところがその時、中間体(ちゅうげんてい)の者が三、四人参って、油揚げをさわに注文なし、出来上がったそばから、これ、その場にてむしゃむしゃと次々食い始めたと申す。

 こうした中間体(ちゅうげんてい)をなしたる者の中には、これ、時として無銭飲食なんどなしては、食い逃げ致す不良なる輩(やから)もまま御座るによって、亭主も気をつけて見ておった。

 ところが突然、これ、どういうわけか、急に強い眠気(ねむけ)が襲い始め――何とか必死に堪(こら)えに堪えておったものの――遂に――ふっと――眠り込んでしもうた。……

……しばらくして目を醒ましたところが、これ、最早、辺りには人影もなく、さっきの中間体(ちゅうげんてい)の者どもも、一体何処(どこ)へ行ったものやら、雲か霧の如く、消え失せておったと申す。

 ふと見てみれば――屋台内(うち)に仕入れておいたはずの残りの油揚げ――これ――一枚残らず全て無くなっており、売値に換算して、かれこれ六、七百文の損害となったとのことで御座る。……

 

「……しかし、この屋台を出しておった荒木坂界隈と申す場所はこれ、人通りこそ少ない所とは申せ、いまだ五つ時分ならば、余計、人通りもある場所にて御座るによって、さしずめ、これ、全く以って狐の仕業にて御座ろうと存ずる。……」

と、その荒木坂の最寄りに住もうておる御仁の、語って御座った。

耳囊 卷之十 赤坂與力の妻亡靈の事

 

 赤坂與力の妻亡靈の事

 

 去る申年の事の由。馬屋に茶屋商賣のもの、深川へ用事ありて、夜に入り靈岸寺の前を通りしに、赤靑の陰火(いんくわ)二つ見へしがぱつと消(きえ)けれど、心丈夫成(なる)男故、右寺のはづれまで何心なく行(ゆき)しに、若き女の聲にて呼(よび)かけし故立戾(たちもど)りぬれば、我等は赤坂何某といへる與力(よりき)の妻なるが、病死に付(つき)、當寺へ葬送なしけるが、後妻を呼迎(よびむか)へ候處、右後妻甚(はなはだ)嫉妬つよく、依之(これによつて)此(この)ものも成佛成(じやうぶつな)りかね候間、何卒右の譯、夫(をつと)へ傳へ給り候樣申捨(まうしすて)、かき消(け)して失(うせ)ぬる故、夫(それ)なりと思ひけれども、傳へずば如何成(いかなる)事に逢(あは)んもしれずと、赤坂へんへ參りし折から右與力を尋(たづね)、家へ案内なし面會の儀申入(まうしいれ)けれど、終に知人にも無之(これなき)事故斷りけれど、強(しい)て申込(まうしこみ)ければ逢(あひ)ける故、しかじかの由かたりければ、かの與力こたへけるは、其後妻の儀は甚(はなはだ)嫉妬つよく、我等もこまり果(はて)候由にて、幽靈のつたへ忝(かたじけなし)と謝禮なし、則(すなはち)立(たち)わかれぬるが、其後又深川へ用事有(あり)て、夜に入(いり)、靈岸寺前を通りしに、此度(このたび)は陰火は見へず、呼(よび)かけ候もの有之(これある)ゆゑ立留(たちどま)り候處、彷彿(はうふつ)と女の姿あらはれ、先達(せんだつて)の事、言傳(いひつたへ)給(たまは)りし事のかたじけなさ、右後妻も相果(あひはて)、今は我身にさわりなく得脫(とくだつ)の身となりしと、禮をのべけるゆゑ、不思議の事に思ひ、彼(かの)與力のもとへ至りて承りしに、彼與力申(まうし)けるは、後妻も相果候(あひはてさふら)へ共(ども)一所に寺へ葬りなば事六ケ敷(むつかしき)と、里方の寺へ送りし由。右後婦(ごふ)は妬心(としん)の甚しきものにて、あるとき我等へ願ひありと言(いひ)し故、何事ぞと尋(たづね)し處、何卒先妻の位牌を我等に給(たまは)り候へと云(いふ)故、いか成(なる)事哉(や)と尋しに、强(しい)て申(まうす)故、心に可爲任(まかすべし)と等閑(なほざり)に答へければ、やがて右位牌を片蔭(かたかげ)へ持行(もちゆき)、薪割(まきわり)を以(もつて)微塵(みじん)に打碎(うちくだき)けるが、その程より煩ひ付(つき)て相果(あひはて)し、恐ろしき妬婦なりと、語りぬ。 

 

□やぶちゃん注

○前項連関:二つ前の「狐仇をなせし事」と前の「古猫に被害し事」と、本格怪談が続き、これ以降も最後までの計六篇、これ総てが怪談である。最後の最後になって根岸殿、後世の怪談フリークに対し、サービスして呉れているようにも感じられる。

・「與力」今まで幾らも出ているが、終りに近い。再注しておく。諸奉行等に属し、治安維持と司法に関わった、現在の警察署長に相当する職名。

・「去る申年」「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年甲戌(きのえいぬ)であるからこれは二年前の文化九年壬申(みずのえさる)の出来事である。

・「馬屋」底本には右に『(ママ)』注記がある。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『馬道(うまみち)』である。これならば浅草寺の東側をやや東に傾斜して南北に走る馬道通りである。これで訳した。

・「靈岸寺」本来なら「靈巖寺」が正しい(但し、東京都中央区東部の隅田川河口右岸の旧町名(現在の新川一、二丁目)として「霊岸島」――江戸初期には北の箱崎島(現在の日本橋箱崎町)とともに「江戸中島」と呼ばれたが、新川の開削により分離した――があり、この地名は霊巌寺に由来し、「霊巌島」とも書いたから、あながち誤りとも言えない)。現在の江東区白河にある浄土宗道本山東海院霊巌寺。ウィキの「霊巌寺」によれば、寛永元(一六二四)年に『雄誉霊巌上人の開山により、日本橋付近の芦原を埋め立てた霊巌島(現在の東京都中央区新川)に創建された。数年後に檀林が設置され、関東十八檀林の一つとなった』。明暦三(一六五七)年、『江戸の大半を焼失した明暦の大火により霊巌寺も延焼。境内や周辺で1万人近くの避難民が犠牲になったとい』われ、翌万治元年に『幕府の防火対策を重視した都市改造計画の一環として、現在地に移転した』。この寺には、第十一代『将軍徳川家斉のもとで老中首座として寛政の改革を行った松平定信の墓をはじめ』(但し、定信の没年は文政一二(一八二九)年であるから本話の頃には存命である。定信は根岸より二十七歳年下で、寛政五(一七九三)年に将軍輔佐・老中等御役御免となって、「卷之十」の記載の推定下限文化一一(一八一四)年六月当時は満五十五、白河藩主を隠居していたが、なお藩政の実権は握っていた)、『今治藩主松平家や膳所藩主本多家など大名の墓が多く存在する。また、境内には江戸六地蔵の第五番が安置されて』おり、幕末の江戸の七大火葬場(荼毘所)の一つであり、『境内除地に火屋があり火葬執行の責任者が置かれていた』とある。

・「赤靑の陰火二つ」「陰火」は墓地などで燃えるとする奇怪な青白い火で「狐火(きつねび)」とか「鬼火」と称するのだが、何故、「二つ」なのだろう? 妙に気になる。確かに芝居などでは一つの霊の出ずるに、その前兆としての火の玉は一つより二つ三つは出るようだ。これはどうも霊魂の個体数とは無縁なのだろうか? 少なくとも多くの場合は一種の霊出現の前兆として独立したもののようには見える。しかしここでは「赤」と「靑」でこの区別は何なのか?……確かに人魂の色は青白・橙・赤などと称されるのだが、この分離現象の意味はなんだ?……「耳嚢」の最後の最後に向って、つまらないことが気になる、僕の悪い癖…… 

 

■やぶちゃん現代語訳 

 

 赤坂与力の妻の亡霊の事 

 

 さる文化九年申年の出来事の由。

 浅草馬道(うまみち)に茶屋商売を致いておる者が、深川へ用事のあって、夜になって霊厳寺の前を通ったところ、

――赤と青の火の玉が二つ

見えたかと思うと、

――パッ

と消えた。

 されど、この男、なかなかの心丈夫な者であったによって、霊厳寺のはずれまで、どうという動揺も示さず、普通に辿って行ったところ、

「……もし……そちらの旦那さま……」

と、背後より若い女の声にて呼びかけて御座ったによって、踵(きびす)を返して少し立ち戻ったところ、一人の異様に影の薄い女が寺の前に浮かぶように佇んで御座った。

 それでも男は、

「――何か御用で?」

と平然と問うたところ、

「……妾(わらわ)は赤坂の〇×と申す与力の妻にて御座います……が……お察しの通り……病いを得て相い果て……こちらのお寺へ葬送されたの御座いますが……その……残った夫は……これ……後妻を呼び迎えたので御座いまするが……この後妻……これ……はなはだ嫉妬深く……そのおぞましき妬心ゆえに……妾(わらわ)も……これこのように……成仏致しかぬるありさまにて御座います……何卒……この訳……妾(わらわ)が夫へお伝え下さいますよう……これ……お願い申し上げまする――」

と申したかと思うと、

――ふっ

とかき消え失せた。

 男は、

「何じゃ?――そんなもん、これ、捨ておいてよいようなる他人事じゃ。」

と一度は呟いたものの、

「……待てよ。……これ伝言せずんば、これまた、どんなトバッチリに逢わんとも限らんぞ!……」

と思い直し、その後、たまたま赤坂辺りへ参った折り、かの〇×と申す与力が方を捜し回ったところ、これ確かにその名の与力が家のあったによって、訪れ面談致したき儀、これ申し入れてみたが、下男の者、

「――知れる御仁にもこれなきお方なれば、面会の儀は、これ、お断り申す由にて御座います。――」

と告げた。

 しかし、侠気(おとこぎ)のある男なれば、

『こうなっては引き下がれぬ!』

という気持ちの募り、

「――いや! これ、是非とも内々にお伝えしたき大事の御座いますれば!――どうか!」

と強いてきつぅに申し入れたところ、主(あるじ)の出でて、面会なした。

 そこでかの霊厳寺門前でも一件をつぶさに語ったところ、その〇×と申す与力、これ、さっと顔色を変え、

「……そ、それは……我ら先妻は、確かに、先年、病死致し、霊厳寺へ葬送なして御座る。……また……私事乍ら……その……後妻として迎えたる女は、これ……その……確かに、はなはだ嫉妬の強く御座って……正直、我らも困り果てる始末にて……」

と告白なし、

「……その幽霊が伝言――これ、お伝え下さり忝(かたじけの)う御座った。」

と謝礼なした。

 かくしてその場はたち別れて御座ったのだが、その後、この茶屋主人、また深川へ用事のあって、夜になって、またまた霊厳寺門前を通ったところが、この度は、おどろおどろしき陰火は現われることなく、またしても背後から呼びかけて御座った者のこれあったによて、立ち止まったところ、空中に、

――ほのかに透けるような

――朗らかな女の姿の現われ

「……先だってのこと、御伝言給わりしことの忝(かたじけな)さ、心より御礼申し上げまする。かの嫉妬深き後妻もこれ、相い果てまして、今は妾(わらわ)の身も一切の障りの失せて、無事、成仏出来る身となりまして御座います。ほんに。ありがとう存じまする。――」

と、礼を述べて、

――ふっ

と消えた。

 されば、

「……何とも不思議なることじゃ。……『後妻も相い果て』?……」

と不審の生じたによって、翌日、かの与力が許へ至って再度面談なし、昨夜の不思議を語ったところが、聴き終えた与力、これ、一息、溜息をつくと、

「……確かに先日……後妻も相い果てて御座る。……その墓所で御座るか?……それは……先妻と一所の寺へ葬りなば、これまた、霊となっても難しきことの出来(しゅったい)せんかと存じ……夫婦(めおと)となったも短き間のことなれば、その後妻の里方の寺へと葬送なして御座った。……かの後添えはこれ、先般申し上げた通り、異様に妬心(としん)の激しき者にて御座っての。……実は先日のこと、我らへ、

『――お願いの儀御座います。――』

妙に色をなして申したによって、

『何事ぞ?』

と質したところ、

『――何卒――先妻の位牌をこれ我らに給わって下さいまし!』

と申したによって、

『……それは、いかなる訳か?』

と問うてみたれど、

『――ともかく!――給われッツ! 給われッツ! 給われッツ!』

と目を引き攣らせて申してきかぬ故、

『好きに致せ!』

と、いい加減に答えたところが、そのまま立ち上ると、仏壇のところへ駆け寄り――か先妻の位牌を取り上げ、庭へと降り立ち、その隅へと持ち参ったかと思うと、そこにあった薪割りを以って、

――パン! パパン!

と、これ、粉微塵(こなみじん)に打ち砕いて御座った。……

……その直後のことで御座る。……急に煩いつき、三日もせぬうち、相い果てて御座った。……既に死人(しびと)乍ら……恐ろしき妬婦(とふ)で御座った。……」

と、しみじみと語った――と申す。

 

2015/04/05

耳嚢 巻之十 古猫に被害し事

 古猫に被害し事

 

 近頃の事の由、室町(むろまち)一丁目の町家にて、年久敷(ひさしく)猫を好み飼置(かひおき)しが、年を經たる故殊の外大きくなりたる故、鼠を取(とる)の業(わざ)もならず。其あるじの女房、近頃小猫を飼(かひ)て、右古猫は少しうるさく思ひし故、子猫の方を愛(めで)、古猫來れば頭などたゝきけるが、或日彼(かの)女房二階に晝寢したりしを、胴を喰(くらひ)つき其外所々食(くひ)つきし故、女房聲を立(たて)けれど誰(たれ)見付(みつけ)候ものもなく、向ふの家より見付、駈付(かけつけし)し故、家内其外打寄(うちより)しに、猫はにげたり。女房は無程(ほどなく)相果(はて)しに、猫奧の方へ入(いり)、自殺なしけるとなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:妖狐から妖猫へ異類奇談で連関。四つ前の「猫の怪の事」と強く連関する(あちらでは武士の妻が猫の死霊に憑依されるのであるが、やはり最後にはその妻も死んでいる点で強い連関性があるのである)。猫の怪としては短い乍ら、妖猫にテッテ的に喰いつかれる女房のシークエンスがホラー映画並みに凄惨である。事実とすれば、咬まれた女房がほどなく死んでおり、猫もほぼ同時に死んでいる点から、この猫は高い確率で狂犬病に罹患していたように私には思われる(ご存じと思うが、狂犬病は犬に限らず蝙蝠を始めとするあらゆる哺乳類が感染する。実際、狂犬病に感染した野良猫に引っかかれて感染したとされる広東省清遠市の六歳の男子の死亡例がある(「エクスプロア上海」の「What's New in 上海」   二〇一一年一月十三日附記事「広東省・拾ってきた猫とじゃれていた歳男児が狂犬病で死亡に拠る。『広東省衛生庁では』『男児の死因は狂犬病と断定した。男児は』『街で野良猫を拾い家に連れて帰って飼っていた』とある)。なお、ウィキの「狂犬病」によれば、本邦では記録が残る最初の流行は江戸時代中期の享保一七(一七三二)年、『長崎で発生した狂犬病が九州、山陽道、東海道、本州東部、東北と日本全国に伝播していったことによる。東北最北端の下北半島まで狂犬病が到着したの』は宝暦一一(一七六一)年のことである、とある。長崎……この時の流行は異国船によって齎されたものか?……思い出さないか?……怪しげなエイズ・ウィルス発見者(私はエイズを想像した悪魔の科学者と確信している)ロバート・ギャロが日本の鎖国時代に長崎の出島にサルをペットに連れてきた外人がおりそれが日本人のエイズの濫觴だというトンデモ説を述べていたのを!……

・「被害し」「がいされし」と読む。

・「室町一丁目」現在の中央区日本橋室町一丁目。日本橋北詰の町で老舗が軒を連ねた。現在の三越とその向かいの区画部分に相当。日本橋川川岸は旧魚河岸跡である。

・「愛(めで)」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『愛し』で「あいし」と音読みしている。

・「胴」裸でもない限り胴に喰い付いくというのは様にならぬ。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『咽(のど)』である。それでこそ血も噴き出して凄惨、年老いた猫を虐待するこの下劣な女房が果てるというのもすっきり納得がいくのである。

・「自殺」猫が自殺したと何もほかに説明せずに書いてある場合、私は漱石の「吾輩」に限らず、入水自殺以外にはちょっと考えられない人間である。現代語訳ではそうした。しかしそうすると、先の私の狂犬病の恐水症状とは齟齬が生じる。まあ、怪談だからこの矛盾はお許しあれかし。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 古猫に害されし事

 

 近頃の出来事の由。

 日本橋室町(むろまち)一丁目の町家にて、年久しゅう猫を好んで飼いおいて御座ったが、年を経て御座ったゆえ、殊の外、肥満致いてしもうてもおれば、動きも鈍く、鼠を獲ることもままならずなっておったと申す。

 さても、そこの主(あるじ)の女房、近頃、別に小猫を飼うようになり――かの古猫(ふるねこ)がことは少々厭わしく思うよになって御座ったれば――この子猫の方をばかり愛(め)でて、古猫が寄って参ると、きつく頭なんど叩いたりしては、邪慳に扱(あつこ)うておった。

 そんなある日のこと、かの女房、家の二階にて昼寝して御座ったところが、かの古猫の来たって、

「ニャアアッツツ! グワッツ!」

と、女房の

――喉笛へ!

――喰らいついた!

「ぎゃああっつ!」

「フギャアアッツツ!」

――さらに!

――目鼻口耳と言わず!

――食いつく!

「ぎよぇええっつ!」

――女房! これ! 金きり声を挙ぐる!

……が……しかし……これ……誰(たれ)一人として……気づく者の、ない!……

……しばらく致いて、やっと向かいの家の者が二階より見かけて変事に気づき、かの家に駈け込んで知らせたによって、家内その外の者ども、うち寄って二階へと駆け上ってみれば、その咄嗟の間に――猫は――逃げた。……

 女房はそれより、ほどなく――相い果てた。……

 が……かの古猫……この女房の亡くなった日のこと……何処(いずこ)からともなく現われ……家人の知らぬうちに奧の方へと入り込み……厨(くりや)の水甕の中に――飛び込んで――自殺なして――御座った、と申す。……

耳嚢 巻之十 狐仇をなせし事

 狐仇をなせし事

 

 常州眞壁村の百姓、妻子を殘し江戸表へ奉公稼(かせぎ)に出しが、眞壁村に殘りし妻子は百姓をいたし居(をり)候處、或時夜に入(いり)て右夫歸り來り、在所出(いで)候以後、所々流趣致候處、與風(ふと)盜賊の仲間へ入(いり)、此節盜賊の吟味強く同類不殘(のこらず)被召捕(めしとられ)しが、仕合(しあはせ)に我身一人まぬかれしが、同類共(ども)の白狀にて、定めて妻子共迄も無實の事にて難儀及ぶべき間、早々村方を立退可然(たちのきしかるべし)、我等は直ぐに立退候由にて、いつ地(ち)へか行去(ゆきさ)りしが、驚(おどろき)て妻子ども不殘(のこらず)某所を立退しが、其後何の沙汰もなく打過(うちすぎ)し處、彼(かの)夫(をつと)暫く奉公もなせし故、故郷の事も氣遣敷(きづかはしく)、立歸(たちかへ)り候處、我が住(すみ)し家は誠にあれ果(はて)、家内もいづ地へ行(ゆき)しやしれるものなければ、驚きて村役人元(もと)組合の方抔へ至り、我等住居はいか成(なる)事にてかく荒果(あれはて)、家内は何國(なんごく)へ行たるにやと、念頃に尋(たづね)しに、さればの事か、身の勤先(つとめさ)きも不相知(あひしれず)、いか成(なる)故にや妻子息とも何れへ行しや、一夜の内に立退被申(たちのきまうされ)し間、所々尋候へ共(ども)行衞(ゆくゑ)も不相知(あひしれず)、無據(よんどころなく)其事屆(とどけ)も濟(すみ)候、此程承及(うけたまはりおよび)候へば、子息は上州桐生(きりふ)邊にも居(をり)候由、内方(うちかた)は近郷何村に近頃も居候段、申聞(まうしきき)候故、驚入(おどろきいり)、先(まづ)近所成(なり)と聞(きき)、妻の許へ尋行(たづねゆき)て面會いたし、何故今かく奉公抔いたし居候哉(や)と尋(たづね)ければ、先達(せんだつて)一旦立歸り、盜賊の仲間入(いり)いたし、無滯(とどこほりなき)詮議可有之(これあるべき)候間、早速村方立退候樣(やう)、御身被申(まうされし)故の由答(こたへ)けるに、村方へ立歸り候儀も無之(これなく)、左樣成(さやうなる)儀夢(ゆめ)聊(いささか)無之(これなく)、さるにてもいか成(なる)故ならんと考(かんがへ)しが、彼者(かの)傳通院(でんづうゐん)前屋敷方(がた)に奉公なせしが、其屋鋪(やしき)年久敷(ひさしき)狐の穴ありて、近き頃右狐折々いたづらをなして主人も迷惑の由かたりしを、夫(それ)は不埒なる畜生也(なり)、急ぎいぶし可然(しかるべし)と申(まうし)けるを、主人も止(とど)めぬれど、憎き奴なりとて強(しい)て申勸(まうしすす)め、松葉を積(つみ)て穴をことごとくいぶしければ、狐絶(たえ)がたくや飛出(とびいだし)し事ありしが、右狐の仇(あだ)をなせしなるべしと也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。「耳嚢」に恐らく最も多い妖狐譚の怪談である。「耳嚢」は残すところ六話であるが、実はまだ後一話、妖狐譚がある。やはりお狐さまは、これ、江戸のアーバン・レジェンドのチャンピオンであったのである。やはり話柄の最後が尻窄みになっている。主人公に「真壁村の何野太郎兵衛(なんのたろべえ)」と言上げさせておいた。これによって、狐は復讐すべき相手を特定出来るからである。

・「常州眞壁村」現在の茨城県真壁郡真壁町。

・「所々流趣致候處」底本には原典のママ注記がある。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『所々流浪(るらう)致(いたし)候處』。そちらで訳した。

・「氣遣敷(きづかはしく)」底本編者のルビ。

・「組合」領主の命令により組織された隣保制(相互扶助・相互監視を伴う隣組組織)の五人組のこと。ウィキの「五人組(日本史)」によれば、「五人与(ぐみ)」「五人組合」などとも呼ばれた。『制度の起源は、古代律令制下の五保制(五保の制)といわれ』、慶長二(一五九七)年に『豊臣秀吉が治安維持のため、下級武士に五人組・庶民に十人組を組織させた』ものが直接の原型である。『江戸幕府もキリシタン禁制や浪人取締りのために秀吉の制度を継承し、さらに一般的な統治の末端組織として運用した』。『五人組制度は村では惣百姓、町では地主・家持を近隣ごとに五戸前後を一組として編成し、各組に組頭などと呼ばれる代表者を定めて名主・庄屋の統率下に組織化したものである。これは連帯責任・相互監察・相互扶助の単位であり、領主はこの組織を利用して治安維持・村(町)の中の争議の解決・年貢の確保・法令の伝達周知の徹底をはかった。また町村ごとに遵守する法令と組ごとの人別および各戸当主・村役人の連判を記した五人組帳という帳簿が作成された』。『実態は、逃散したりして潰れた家や実際の住民構成とはかけ離れた内容が五人組帳に記載されていた場合があったり、また年貢滞納をはじめとする村の中の争議は、村請制の下では五人組ではなく村落規模で合議・責任処理されるのが普通であったため効果としては疑問がある。また、村によっては一つの村内で領主が家ごとに別々(相給)になっているケースがあり、その場合には領主が編成する五人組と村が居住区域をもって定めた五人組(「郷五人組」)が並存するという現象も生じた。しかし五人組制度が存在することによって、間接的に名主・庄屋の権威を裏付け、住民の生活を制約すると同時に町村の自治とりまとめを強化することには役立った。近代的自治法の整備とともに五人組は法制的には消滅したが、第二次世界大戦中の隣組にその性格は受け継がれていた』とある。

・「上州桐生」現在の群馬県桐生市。

・「内方」他人の妻の敬称。奥方。裏方。ここは五人組の者が主人公の夫に彼の妻の所在を語っている直接話法のシーンである。

・「無滯詮議可有之候間」一応、文字通り「滯り無き詮議」と訓じたのだが、どうもおかしい。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『無據(よんどころなき)詮議(せんぎ)可有之(これあるべき)間』(「候」はない)である。そちらで訳した。

・「傳通院」東京都文京区小石川三丁目の高台にある浄土宗無量山傳通院寿経寺(むりょうざんでんづういんじゅきょうじ)。徳川将軍家菩提寺で江戸三十三箇所観音札所の第十二番札所。慶長七(一六〇二)年八月に徳川家康の生母於大(おだい)の方が京都伏見城で死去したが、家康はこの母の遺骸を遺言通り江戸へ運び、大塚町の智香寺(智光寺)で火葬、位牌は安楽寺(愛知県蒲郡市在)に置かれたが、翌慶長八年、家康は母の遺骨を現在の墓地に埋葬し直し、小石川極楽水(現在の小石川四丁目)にあった寿経寺をここに移転して堂宇を建立、彼女の法名である「伝通院殿」にちなんで院号を伝通院とした(以上はウィキの「伝通院」に拠る)。岩波の長谷川氏注には、この『境内に沢蔵司稲荷があり、この狐は駒込吉祥寺の所化に化けて勉学していたか、昼寝してうっかり尻尾を出してしまい、稲荷に祀られたものという』とある。「澤蔵司稲荷」はこれで「たくぞうすいなり」と読む伝通院の別当寺で慈眼院が正式名。この伝承は同稲荷公式サイトの「澤蔵司稲荷 縁起」に詳しいが、そこには『駒込吉祥寺』とは記されていない(因みに、こういう鈴木氏のような注こそが私は正しい注だと思うのである。注とはそれを附けている人の姿が髣髴とする掘り下げ方、広がり方がまずなくてはならず、そして究極に於いて面白くなくてはならぬない。単なる辞書の孫引き注はこれ本当の注とは言えない。無論、これは自戒を含めての謂いであって誰かを批判するものではない)。

・「絶がたくや」底本では「絶」の右に『(堪)』と訂正注がある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 狐、仇(あだ)を討つ事

 

 常陸国真壁(まかべ)村の百姓、妻子を残し、江戸表へ奉公稼ぎに出でて、真壁村に残った妻子が方(かた)は百姓で身過ぎ致いて御座った。

 ある日のこと、夜(よ)も深まった頃になって、突然、かの夫、帰って参って、

「……在所を出でて御座ってこの方(かた)、さまざまなるところを流浪致いて参ったが、ふと出来心より盜賊が一党の仲間へ入(い)った。……この頃、盜賊の探索・吟味方(がた)、殊の外厳しく、一党の者どもは残らず召し捕られたが、幸いにも我が身一人、これ、捕縛から免れた。……されど、その捕えられたる仲間らが白状致さば、定めて我らが故郷も知られ、お前たち妻子らまでも無実にも拘わらず、吟味の難儀、これ、及ばんものと思うたよって。――早々、この村方を立ち退くがよい。……我らもこれより直ぐにまた、ここから立ち去らねばならぬ!……」

と告げるや、闇の中を何処(いずこ)かへと立ち去ってしまった。

 あまりの急なことに驚きつつも、夫の謂いに随い、その(よ)夜、妻子ども残らず、秘かに夜逃げ致いた。

 その後、妻子が方へは、何の消息も噂も到来致いさず、空しく時のうち過ぎて御座った。

   *

 さて、かの夫、暫く江戸表にて屋敷奉公をなし、小金も貯まり、故郷のことも少しく気になって参ったによって、主家よりお暇まを頂戴致いて真壁村へと久方ぶりに帰った。

 ところが、我が住み慣れし家はすっかり荒れ果てており、家内(かない)も何処(いづこ)へ行ったかさえ知れる者も、これ御座らなんだによって、ひどく驚き、村役人の許(もと)やら五人組の方々なんどへも足を運び、

「……我らが住居(すまい)は……これ……いかなる訳にて、かく荒れ果てたので御座いましょうや?……さても、家内(かない)と我が子はこれ、一体何処(いづこ)へ行ってしもうたのもので御座いましょうや?……」

と、切(せち)に訊ねたところが、五人組の組頭の者の所でやっと、

「……そのことよ!!……おん身の勤め先きもよう分からず、連絡のとりようもなかったぞ!……いかなる訳のあったものかは知らねど……かの妻や子息らなんども何処(いずこ)へ行っしもうたもんやら、これまた行方知れずとなったんじゃ。……何しろ、一夜(いちや)のうちに皆、これ、姿を消してしもうたんじゃから、の。……それより、ところどころ訪ね捜してはみたものの、これ一向、行方知れずのままよ。……よんどころのぅ、その旨、お役人さまへの届けもこれ、先般出だしおいたところじゃった。……それがの! つい今日のことよ! 行方知れずじゃった妻子二人の行先、これ、知れたぞ!……この度、呼ばれてお役人さまより承り及んだるところによればじゃ。――子息は――上州桐生(きりゅう)辺りに住まいなしておる由――にて、さても――御内儀の方(ほう)は――おうさ!――近郷の〇×村に――今もおるとことじゃ!……そう今日日(きょうび)、申し下されたを聴き及んで参ったとろこじゃった!……」

との答えなれば、男はこれまた驚き入り、まずはごく近所である旨、聴いたによって、その足で直ちに奉公勤めをなしおるという妻の許へと訪ねて参り、まずは無事、面会することが出来た。

 逢うなり、男は、

「……なして! 今、家や田畑(でんぱた)を捨てて、かくも奉公なんど致いておるのかッ?!」

と質いたところが、

「……だって……先だって、一旦、お帰りになられて――盜賊の仲間入りをした――逃れ難き厳しき詮議がなされておるから、すぐにこの村方を立ち退くようにしなさい――と、おん身自ら、申されたではありませんか?!……」

と答えた。

 ところが男は、

「……儂(わし)は、江戸表へ出て今日の今日まで、村方へ立ち帰ったことなど、これ、一度もないぞ?!……盗賊の一党?……厳しき詮議だ?……夜逃げせよ?……さような儀、これ、ゆめゆめ、いささかも存ぜぬことじゃ!!……しかし……それにしてもこれ、どういうことじゃろう?……儂に――化けた――者の……おるちゅうことか?……?……!……!!……」

と、男にはふと、思い当たることのあったのである。……

   *

……この男、江戸表にては、かの伝通院(でんづういん)の門前にある武家屋敷が方(かた)に奉公致いて御座ったが、この御屋敷にはこれ、年を経たる古き狐の巣穴のあり、ちょうどその頃、そこに巣くうておる狐が、おりおり悪戯(いたずら)をなし、御屋敷の主人も、これ、大いに迷惑を蒙っておらるる由、直かに語っておられたを、たまたまこの男、庭先にて耳に致いて御座ったによって、

「……お畏れ乍ら申し上げまする。――それはまことに不埒なる畜生にて御座いますれば――直ちに燻(いぶ)して追い出すがよろしゅう御座いましょう。我ら常陸国真壁村の百姓なればこそ――狐や狸の燻り出しは――これ、得意にて御座いまする。」

と言上致いたところ、

「……いや……狐なればのぅ……」

と、周囲の朋輩は思わず身を引き、また、

「……まあ……悪戯の類いなれば……ここは……そこまでやらずとも……」

と主人までも弱気になって止(とど)めんとしたが、男は、

「――狐の分際にて――まっこと、憎(にっく)き奴では御座いませぬか! やりやしょう! 何! あっという間に追いだしてご覧に入れまする!」

と、しきりに慫慂し申し上げたによって、主人よりお許しのあったれば、早速、穴の前に松葉を山と積み上げ、あらゆる穴という穴を、これ、悉く同時に燻し始めるや、

やあやあ! 音にも聴け! 目にも見よ! 我ら、真壁の何野太郎兵衛と申す者ッツ!!――百姓なりとて甘く見るなッツ!――さっさと燻り出されて、とっとと立ち退くがよいぞッツ!!

とまたまた大音声(だいおんじょう)に名乗りを挙げたところが――

――一匹の狐

――あまりの煙に堪えられずなったものか

――矢のように飛び出すと

――ふっと

姿を消してしまった。……

   *

「……さても――立ち退く――と申す言葉といい……また、そなたらを迷わず訪ね得たと思わるる節なんど、これ、思い合わすれば……さては!……あの時の、あの狐が、これ、仇(あだ)を討って参ったに相違あるまいよ。……」

と男は気づいたと申すことで御座った。

耳嚢 巻之十 神明の利益人を以其しるし有事

 神明の利益人を以其しるし有事

 

 文化十一年の春の事なりし、神明(しんめい)境内には納鷄(をさめどり)多く有(あり)しを、或時境内の町屋にて米を舂居(つきをゐし)舂屋(つきや)の男、密(ひそか)に右鷄を〆殺(しめころ)し前垂(まへだれ)に包(つつみ)、傍(かたはら)の木の枝にかけ置(おき)しは、誰(たれ)もしらざりしが、同町並(ならび)にて屋根を葺居(ふきをり)候者是を見、あなにくしも思ひしや、暮時(くれどき)前、右の米舂(つき)外へ參り候を見請(みうけ)、密に右鷄を取出(とりいだ)し、右代りを尋(たづね)しが、其邊へ納(をさめ)し柵(さく)の内に有之(これある)御祓(おはらひ)を入置(いれおき)、鷄は取除(とりのけ)し置(おき)しを、彼(かの)米舂(こめつき)立歸り右の鷄と思ひ前垂をあけ見しに、御祓なれば大きに驚きたる體(てい)、顏色眞靑(まつさを)に成り、神罰の恐しさにかたえの井の元にて水を浴び、それにても心不濟(すまざる)哉(や)、もとどりを切(きり)、念頃(ねんごろ)に神明を拜しけるを、屋根ふきつくづくと見て、これも由なきざれ事せしと後悔せし。頓(やが)て右米舂(こめつき)たへがたくやありけん、神主の元にまかり、かくかくの事にて我(われ)神前の鷄を殺しけるが、かゝる奇異の事あり、くれぐれも神明の御罰恐(おそろ)しと、是よりてい髮(はつ)して諸國修行にまかる由申(まうし)ければ、神主別當も尤(もつとも)と哀(あはれ)を催せし折から、屋根葺(やねふき)も右あらましを聞(きき)て難捨置(すておきがたく)、同じく神主の方(かた)へ至り、しかじかの事成(なり)と申(まうし)ければ、右米舂(こめつき)大(おほい)に怒り、右體(てい)人を欺き恥かゝせる事、憎さとやにて互(たがひ)に握み合(あひ)しを、別當社人抔引分(ひきわけ)、米舂(こめつき)の鷄を殺し候を則(すなはち)大神宮の御祓ひと引替(ひきかへ)しは、則(すなはち)神明の御教戒なり、既にこそ米舂(こめつき)もさんげなし過(あやまち)を悔(くやま)れ、則(すなはち)屋根葺(やねひき)の手を借りて神明のしかなしたまふ也(なり)、夢々爭ふべからずと教諭して、納(をさま)りしとや。これ當る正月の事の由、人の語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:芝神明宮で軽く連関。この話、私は好きだ。

・「納鷄」奉納物として生きた鷄を寺社へ納めること。西郊民俗談話会公式サイト内の長沢 利明氏の「寺社への納め鷄」がすこぶる参考になる。私の妻も小学生の時に雛から育てた雄鶏の「ぴぴちゃん」が大きくなって時の声が近所迷惑だとして父が熱田神宮に納めたと言っていた。リンク先のよれば東京都国立市にある谷保天満宮の場合は氏子の中に「納め鶏マニア」のような人物が推定されるともある(但し、現在は狐に食い殺されて殆どいないとある)。但し、今や勝手に鶏を境内地に放てば、「動物の愛護及び管理に関する法律」によって「遺棄」と見做されて五十万円以下の罰金が科せられる時代。素朴な信仰や長閑な景観も如何にも窮屈になってしまった。

・「握み合ひしを」底本では「握」の右に『(摑)』と訂正注がある。

・「舂屋」精米を専門とした米搗き屋のこと。三谷一馬氏の「江戸商売図絵」の「米搗き」によれば、大抵は屈強な若者で、江戸では越後出身の者が多かったという。一定の出入り先で米搗きをする者と、杵(きね)を担って町を歩き、呼び込まれて搗く者とがあったとある。ここは前者か。そこに掲げられた歌川豊国の「米搗き」の絵では、まさに「前垂」(後注参照)の上にさしこ布を着けて、その上に杵の柄の端を当てて米を搗いている姿が描かれてある。この話一読、禊をして髻(もとどり)を切り、剃髪を望んで諸国行脚の旅に出ると本気で言い張るところで、完全に落語ネタであることが分かるが、千葉県八千代市の大和田落語会丸花亭公式サイト内にある鈴木和雄氏の「搗き米屋」が詳細を極めて必見である。それによれば、『「江戸の生業事典」渡辺信一郎著に出てくる大道搗き米屋という人もいる。これは屈強な男が杵を担ぎ、臼を往来で転がして歩き、出入りの家を回ったり、呼び込まれたりしながら、その家の内庭や玄関先、家の前の道端に臼を置いて米を搗いたという』。また『「江戸美味草紙」にあるような体ひとつで各戸を回り、その家の臼と杵を使って米搗きをする人も居たようだ。そして米の搗き方もその家の注文で』七分搗きとか八分搗きとかもあって、『結構商売になったようである。こうゆう人達が仕事をした後は、庭や家の前の路上に臼の形のあとが十五夜の月のように残り、その周りに糠が落ちていたという情景を表す「十五夜のように搗屋は置き土産」の句がある』と粋な解説が載る。三谷氏は杵としか記しておられないが、岩波の長谷川氏注も『町屋を臼を持ってまわり』とあり、これ、杵だけでなく臼をも背負っているところにこそ剛腕の格好良さがある気がする。

・「前垂」江戸方言では「まえだら」とも。商家に働く者や女中などが衣服に汚れがつかぬように帯から下に掛ける布のこと。

・「其邊へ納し柵の内に有之御祓」新しい御祓いの札を貰い受けると、古い以前の同じ札は境内地に返納する。

・「過を悔れ」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『過ちを悔るは』で、そちらの方が文法的に無理がない。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 神明の利益(りやく)、人を以ってその験(しるし)を顕わせし事

 

 文化十一年の春のことである。

 芝神明(しばしんめい)の境内には納鶏(おさめどり)が多くおったが、これをある時、境内地に建てて御座った町屋にて米を搗(つ)く舂(つ)き屋の男が、これ秘かに後にて食わんがため、この鶏(とり)を絞め殺し、前垂(まえだれ)に包み、あたかもちょっとした荷でもあるかの如く、傍らの木の枝に引っ掛けておいた。

 これ、誰(たれ)も知らなんだ……

……と……

……思いきや……

……ちょうどその時、同じ町内の並びの家の屋根の修理を頼まれて屋根葺きをなして御座った、これ、やはり若き職人が、この一部始終を、これ、屋根の上からしっかと見ており、畜生一羽とは申せ、奉納の鶏(とり)なれば、

『……なんて太(ふて)え野郎だっつ!――』

と、妙な義憤に駆られたらしく、暮れ時前、かの米舂きが、どこぞの家へ搗きに呼ばれたと見えて、杵と臼を背負って出て行くを見届けたによって、屋根葺き、これ、手を休めて、

――するするっ

と、下へ降りると、舂き屋が方へと、

――すすっ

とこっそり忍び足、かの木にぶら下げた前垂を取り外すと、かの絞められた鶏(とり)を取り出だいた。さても、その代りに入るるに手頃なものを辺りに求めたところが、ちょうど、その近くに玉垣(たまがき)のあって、その内に納められて御座った古き御祓いの御札を見かけたによって、

「――これはまさに――もってこい――ってもんだぜい!」

と、それを入れおき、鶏(とり)は取り除け、境内に懇ろに埋めおいた。

 さても、かの米舂き、たち帰ると、

「……一仕事の後はこれ、鶏鍋(と、り、な、べ)じゃ!……」

とほくそ笑みながら、前垂を開けて見たところが、中から転がり出でたはこれ、

――御祓いの札!

されば米舂き、大きに驚きたる体(てい)にて、顔色(がんしょく)もこれ真っ青となって、神罰の恐しさに、近くの井戸の許へと走り込み、服のまんまに頭から水を、

――ざんぶ!

と浴びて禊なした。

 が、それでも気の済まなんだものか、何と、小脇差を抜き放つと、

――ぶつっ!

と髻(もとどり)を、これ、切ってしもうた。

 そうしてそのまま、神明さまの社殿へと向い、必死になって拝んでおる……

……を……

……かの屋根葺き、仕事仕舞いの折りからつくづくと見かけ、

『……こりゃあ……ちぃと……やり過ぎたのぅ……』

と後悔致いて御座った。

 されば、そのまま木蔭から舂き屋がことを覗いておると、かの者、まっこと神罰の下ったるその怖ろしさに耐え兼ねたものと見え、そのまま直ちに、神明宮の神主が許へと罷り越し、

「……かくかくの事にて我ら……神前のお鶏(とり)さまを殺してしもうて御座いまする!……が……かかる怖ろしき奇異のあったればこそ!……まっこと! 神明さまの御罰(おんばち)!!……これ、恐ろしゅう御座いまする!!!……」

と、大声にて訴えるその声、門柱の蔭に潜んで聴き耳を立てて御座った、かの葺き屋の若者の耳にも届いた。しかも、

「――我ら! これより剃髪致いて――諸国行脚の修行に罷る所存にて御座る!!」

とまで申したによって、神主はもとより、神宮寺別当もそこへ出合わせ、

「……その悔悟……いや! もっともなることじゃ!……じゃがのぅ……」

「……そうじゃ!……その出来事にて、これ、出家すると申すことも、これのぅ……」

と神主も別当も――かくなる変事を以って屈強の米舂きの若者が、あたら出家致すというも――これ、いささか不憫な気が致いて御座った折から、屋根葺きの若者も、この一部始終を秘かに聴いては、これ、捨ておくことの出来ずなったによって、その三者のおったる場へと直ちに走り込むと、

「……いや! そのことでござんすが……これ……しかじかと申すが、へえ。真相にてごぜえやすんで。……」

と、自身の仕儀を告げたところが、かの米舂きの若者、大いに怒り狂い、

「――や、野郎ゥッツ! よ、よぉくもまあッツ! か、かくもッ! 人を騙しやがってッツ! は、恥かかかして呉れたなッツ! クウ!~ソオッツ!! 憎(にっく)き奴ッツがッツ!!!」

と、矢庭に屋根葺きの若者に組みついたれば、かたや、

「――て、手前(てめえ)が御神鶏(ごしんけい)を食わんと殺したは! ほんとの事じゃねえかいッツ!! 神明さまをも!! 畏れぬッ!! 不埒ド外道の極悪人がッツ!!!」

と、売り言葉に買い言葉、互いに摑み合いの修羅場になりかかったを、かの別当と神主その他、騒ぎを聞きつけて参った下役僧や神人(じにん)、下男ら総出にて、やっとのこと、引き分けさせたと申す。

 しばらく致いて二人とも落ち着いた頃合い、別当と神主より、

「……米舂きの鶏(とり)を殺して御座ったを――これ則ち――大神宮の御祓いの札と引き替えたは――これ則ち――神明の御教戒じゃ。……」

「……既にこそ米舂きも正直に懺悔(さんげ)なして過ちを悔いておる。――これ則ち――屋根葺きの手を借りて――神明さまがかく成された――ということじゃ。向後、ゆめゆめ、争うてはならん。よいか?!」

と教諭なしたによって、二人の若者も、これ、それぞれに己(おの)が誤まれるところを認め合(お)うて、めでたく手打ちなした、とのことで御座る。

 これ、当年正月の出来事の由、さる御仁の語って御座った。

2015/04/04

耳嚢 巻之十 精神に足痛も直る事

 精神に足痛も直る事

 

 文化十一年の頃、一つ橋の家老を勤仕(ごんし)ありし仙石(せんごく)丹波守、祖父治兵衞、後□□と申ける。番頭(ばんがしら)を勤(つとめ)しに、其頃まで兩山御參詣の節、番頭も御供申(まうし)けるが、道の程の無心許(こころもとなし)とて、日々一里宛(づづ)馬を牽(ひき)、又は駕(かご)を爲持(もたせ)て、神明(しんめい)とか觀音とか百日程參りけるが、後は兩山程の御供は何の苦もなく歩行(ほかう)有(あり)し。此事、德廟の御聞(おきき)に達し、番頭の御供御(ご)めん有(あり)しとなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。徳廟吉宗公の懐旧譚。急にえらく昔に遡るところは、根岸の老いの現われという気もする。そろそろ千話になろうという感慨の成せる技とも言えようか。残り千話まで――八つ――。

・「精神」一心に思う心。誠心。

・「文化十一年」「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月。

・「仙石丹波守、祖父治兵衞、後□□と申ける」岩波の長谷川氏注に、『久貞。二千石。祖父は久近。延享二年新番頭より西城御小性組番頭にすすみ、従五位下丹波守。寛延三年西城御書院番頭。宝暦三年没、四十二、法名良義。足痛の持病があったらしい』とある。岩波の長谷川氏注には、仙石久貞は『一橋家老。文化元年(一八一八)御側衆』とある。寛延三年は西暦一七五〇年、宝暦三年は西暦一七五三年。逆算すると正徳二(一七一二)年生まれで近侍した吉宗よりも二十八歳も若く、西城御書院番頭となったときは未だ三十八歳であったから、彼の足痛(そくつう)というのは先天的な障碍だった可能性もあるかも知れない。因みに、この祖父久近の没年は近侍した吉宗の没した寛延四(一七五一)年の二年後のことであった。なお書院番は徳川将軍及びその継嗣直属の親衛隊で、西丸(鈴木氏注の「西城」と同義)が使用されている際(大御所或いは将軍継嗣がいる際。吉宗は満六十一の延享二(一七四五)年九月に将軍職を長男家重に譲って大御所であった)には西丸にも本丸と別に四組が置かれた。大番と同じく将軍の旗本部隊に属したが、敵勢への攻撃を主任務とする大番と異なり、書院番は将軍の身を守る防御任務を主とした。また、毎年交代で駿府に在番した。小姓組とともに「両番」と称せられ、有能な番士には出世の途が開かれていた。どちらも、登城して勤番した日から三日目は供番といって、この日に将軍が外出すれば、そのお供を務める。四日目は西丸勤番。五日目は大手門の警固、六日目に将軍外出に当たれば先供を務め、七日目は西丸供番。八日目に明番といって休日が回ってきた、とウィキの「書院番」にはあり、所謂、現在のSPに当たり、相当に神経を遣う仕事であったことが窺われる。――なお蛇足ながら、この仙石氏というのは美濃国の豪族出身で清和源氏頼光流土岐流を称したが――これ実は私――藪野家の直系の祖先――らしいのである。……根岸殿……「耳嚢」の終盤に至って我ら、先祖に逢わせて戴いた。心より感謝申し上ぐる。……

・「後□□」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『伯耆守(はうきのかみ)』。岩波の長谷川氏注には、これについて、『ただし伯耆守となったのは久貞父の治兵衛久峰か、久近の先代の久尚』とある。

・「兩山御參詣」底本の鈴木氏注に、『将軍が東叡山と芝増上寺の祖廟へ参詣すること』とある。

・「神明」現在の東京都港区芝大門一丁目にある芝神明宮。公式サイトの「由緒」によれば、伊勢神宮の祭神である天照大御神(内宮)・豊受大神(外宮)の二柱を主祭神とし、鎮座は平安時代の寛弘二(一〇〇五)年、一条天皇の御代に創建されたとある。古くは飯倉神明宮・芝神明宮と称され、鎌倉時代には源頼朝の篤い信仰の下、社地の寄贈を受け、江戸時代には徳川幕府の篤い保護の下、大江戸の大産土神(うぶすながみ)として関東一円の庶民信仰を集め、「関東のお伊勢さま」として数多くの人々の崇敬を受けた、とある。

・「觀音」聖観音菩薩を本尊とする浅草寺のこと(当時は天台宗。第二次世界大戦後に独立して現在は聖観音宗の総本山となっている)。

・「德廟」有徳院。第八代将軍徳川吉宗の戒名。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 誠心の心あれば足痛(そくつう)も治るという事

 

 文化十一年の頃、一橋(ひとつばし)の家老を勤仕(ごんし)なさっておられる仙石(せんごく)丹波守久貞(ひささだ)殿の、これ――祖父であらるる治兵衛久近(ひさちか)殿――後に□□と称された――の話にて御座る。

 当時、久近殿、番頭(ばんがしら)を勤めておられたが、その頃までは両山御参詣の折りは番頭も御供を致いて御座ったが、久近殿はお若い乍ら、足のやや不自由であられ、御供の道のほど、これ、心もとのうては成り難しとて、日々、これ一里ずつ、馬を牽き、または駕籠(かご)を吊らせては、芝神明(しばしんめい)や浅草観音などに百日ほども足弱(あしよわ)平癒の祈念を以って参られたと申す。

 されば、後、両山ほどの御供はこれ、何の苦もなく、歩き勤められたと申す。

 このこと、後に徳廟吉宗公の御耳に達し、その誠心にいたく御心を打たれなされ、その後は番頭の御供をお差し止めになられたのであった。

耳嚢 巻之十 猫の怪の事

 猫の怪の事

 

 文化十一年、日光に御修復ありて、江戸より御役人彼(かの)地に至りしが、御徒目付(おかちめつけ)なりける梶川平次郎より、御當地の知音(ちいん)へ申越(まうしこしし)由。日光奉行組同心山中左四郎妻儀、常々猫を好み三つ四つも飼置(かひおき)しが、一兩年以前病氣ぶらぶらと煩ひ候處、去(さる)冬以來甚(はなはだ)重く、猫の眞似抔いたし候處次第につのり、當春は食事いたし候も猫同樣にて、病氣に似つかず食も多く給(たべ)、看病人も甚(はなはだ)こまり、いづれ取付居(とりつきをり)候もの可有之(これあるべし)と、加持祈禱いたしけれど聊(いささか)しるしなく、或時八年以前死(しに)し候猫取付(とりつき)候趣(おもむき)、病人口走りける故、夫(をつと)左四郎大きに怒り、飼殺(かひご)しにせし猫の取付抔申(まうす)儀、甚(はなはだ)不得其意(そのいをえず)と叱り候處、あまりに愛したまふ故はなれ兼(かね)候儀、既に飼置たまふ猫もみな愛したまひし猫の子なれば、一しほ離れがたきと、右病人申(まうし)ける故、無據(よんどころなく)日光の社家(しやけ)を賴(たのみ)、蟇目(ひきめ)執行しければ右猫はなれけるが、三日目に病人も身まかりし由。右蟇目の内、病人申けるは、右猫の死骸庭にいけ有(あり)しに、犬にくわれ死せしを前垂(まへだれ)につゝみ右庭に埋(うめ)有之(これある)間、掘出(ほりいだ)し川へ流しくれよといひしまゝ、掘らせ見しに、八年以前に埋(うめ)し猫の死骸、格別に變じ候事もなかりしを、早速川へ流し捨(すて)しが、左四郎のもとにありし右猫の子も、或ひは貰ひ候て飼(かひ)たりしものも不殘(のこらず)拾(すて)しと、まのあたり見聞(みきき)せしもの、かたりしとなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。「耳嚢」に多い妖猫譚実録物。「耳嚢」は残すところ八話であるが、驚くべきことに実はまだ後、二話も猫の怪談がある。江戸の都市伝説(アーバン・レジェンド)の定番であったことが窺われる。結びがやや唐突なので、訳では附言をした。

・「文化十一年」「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月で直近の話柄である。

・「御徒目付」旗本を観察糾弾する目付(若年寄が管轄)の支配で、交代で江戸城内の宿直を行った他、大名の江戸城登城の際の監察、幕府役人や江戸市中に於ける内偵などの隠密活動にも従事した。参照したウィキの「徒目付」によれば、『老中・若年寄から目付を経由して命令が伝えられ、それを番所に伝えた。命令を受けた徒目付は自身及び配下の小人・中間・黒鍬者などを駆使して職務にあたった。特に隠密を専門に担当する「常御用」と呼ばれる』三~四名の『徒目付が存在し、内容によっては老中が人払いの上で直接命令を下すことがあった』とある。

・「梶川平次郎」不詳。

・「日光奉行」元禄一三(一七〇〇)年にそれまでの同職に従事していた日光目付に代えて創設された遠国(おんごく)奉行の一つ。老中支配で定員二名。役高二千石に役料五百俵。東照宮・大猷院廟(徳川家光廟)の経営及び日光山年中行事等を掌った。配下に同心三十六人を擁し、寛政三(一七九一)年以降は日光目代の職権を兼務して日光領を直接支配した(以上は主に平凡社「マイペディア」の記載を参考にした)。なお、根岸は勘定吟味役在任時(四十代)に日光東照宮の修復の実務担当官僚として現地に長期に滞在したことがある。

・「山中左四郎」不詳。

・「病氣ぶらぶらと煩ひ」精神疾患に於ける不定愁訴をしきりに訴える状態を指していよう。「ぶらぶら病」と称し、特にどこが悪いというわけではないが、何となく調子の悪い状態が長びく病気。

・「飼殺し」現在では専ら動物や人が能力を発揮出来るような仕事を与えぬまま、ずっと雇っておくという悪い意味で用いるが、この語は元来は、家畜などが役に立たなくなっても死ぬまで養ってやることを言う。ここでもその意味である。

・「蟇目」既注。「耳嚢 巻之十 狐蟇目を恐るゝ事」等の私の注を参照のこと。

・「前垂」江戸方言では「まえだら」とも。商家に働く者や女中などが衣服に汚れがつかぬように帯から下に掛ける布のこと。なお、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版はここが『菰(こも)』となっている。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 猫の怪の事

 

 文化十一年、日光東照宮に於いて御修復の事御座って、江戸より御役人衆、多くかの地へ参って御座ったが、御徒目付(おかちめつけ)であられた梶川平次郎殿より、御当地の私の知音(ちいん)へ報告の御座った一件の由。

 日光奉行組の同心であった山中左四郎の妻儀、常々猫を寵愛し、三匹も四匹も飼いおいて御座った。

 ところが、この凡そ一年以前より、ぶらぶら病(びょう)を煩い続け、去年の冬以来、これ、はなはだ重篤となり、猫の真似など致すようになったかと思うと、それが次第に募って、最早、狂うておるとしか申せぬまでになり、当春には食事を摂る際にも、これ、猫同様に手を使わず、器をねぶる始末にて、また、そうした病気にも拘わらず、大変な食欲を示し、実際、驚くほどの量を喰ろうて、看病人もはなはだ困惑致すまでとなった。

 夫左四郎、

「……これは……孰れ何らかの物の怪が、憑りついてでもおるので御座ろう。……」

と、加持祈禱などをも懇ろに修してもたものの、これ、いささかの験(しるし)も、ない。

 ところが、ある時、妻、これ突如、

「……八年以前ニ死ンダル猫……ソレガ憑リツイテオル……我ラジャ……」

と病人が口走りだしたによって、それを聴いた夫左四郎、大いに怒り、

「――死ぬるまで大切に飼い養のうた猫が、これ、憑りつくなんどと申す儀――はなはだ納得出来ぬわッツ!」

と一喝したところ、

「……アマリニ愛シテ下サレタ故……コレ……離レカネテ御座ル……今現(ゲン)ニ飼(コ)ウテイナサルル猫モ……コレ……皆……ソノ折リノ……愛シタモウタ我ラガ子ナレバ……一入(ヒトシオ)……離レガタイ……」

と、かの病人の申したによって、よんどころなく、日光の神職を頼み、蟇目(ひきめ)を執り行のうて貰(もろ)うた。

 されば、その憑りついた猫の霊は離れたものの、それより三日目のこと、病人も身罷ってしもうたと申す。

 なお、その蟇目の儀を執り行のうて御座った砌り、かの病人の申すことに、

「……我ラノ死骸……庭ニ埋(イ)ケテアル……犬ニ食ワレ死ンダルヲ……前垂(マエダレ)ニ包ミ……ソコナ庭ニ……埋メアル……ソレヲ掘リ出ダイテ……川ヘ……流シテ……クレロ……」

とのことなれば、言うがまま、下男に庭を掘りかえさせて見たところが、八年以前に埋めたる猫の死骸、これ、不思議なことに少しも変相せぬままに――おぞましくもこれ、生きておった時のままに――出土致いたによって、左四郎、早速に川へ流し捨てたのであったが……この時、左四郎、その家におったる、かの猫の子らも、或いは他から貰って御座って飼って御座った猫らも、これ、一匹残らず、菰(こも)に押し込んで、川に流し拾てて御座ったと申す。……或いはこれが……妻の命をも奪(うぼ)うと申す結果を導いたものでもあろうか……

 以上、目の当たりに見聞き致いた者の、これ、語って御座った、とのことであった。

耳嚢 巻之十 能勢餅の事

 能勢餅の事

 

[やぶちゃん注:岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では途中に、底本にはない一文とこの餅を搗くのに用いる臼の図がある。引用箇所をはっきりとさせて追加した。]

 

 能勢(のせ)氏一統の知行百姓、年々玄猪(げんちよ)前に禁裏へ餅米を獻上いたし候由。然る處、禁中にて玄猪の夜に、内侍(ないし)の女房、左の歌を唄ひ餅を舂(つ)く御吉例の由。右唄

  神無月時雨のあめのあしことに我思ふ事かなへつゝつく

[やぶちゃん注:以下の一行と図は岩波のカリフォルニア大学バークレー校版のもの。]

右臼は左の如し。

 

Nosemotiusu

 

 右能勢餅にてあるべし。能勢氏の人かたりしが、猶禁中有職(いうそく)の人に、尋(たづね)たき事と云ふ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。珍しい禁中の行事の有職故実譚。禁中行事有職故実ということ自体も「耳嚢」中では珍しいものである。

・「能勢餅」底本の鈴木氏注に、『陰暦十月亥の日亥の刻に餅を食して無病のまじないとする中国古代の俗信に基づいて、わが国でも寛平以前から亥の子餅を供御として内蔵寮から献ずる風習があり、民間にもひろまった。足利時代初期ごろから、摂津国能勢郡木代村の門太夫家から亥の子餅を宮中に献ずる慣例が生れ、これを能勢餅といった。赤小豆をつきまぜた餅。女房詞でこの餅のことをツクツク(搗く搗く)と呼んだ。なお亥の子餅は古く天皇親ら搗かれるのが例であったのが、女官がこれに代るようになったらしい』とある。摂津国能勢郡木代村は現在の大阪府豊能(とよの)郡豊能町(ちょう)木代(きしろ)。ウィキの「亥の子餅」に、『亥の子に際して作られる餅。玄猪餅(げんちょもち)。亥の子』(旧暦十月(亥の月)の亥の日)の亥の刻(午後十時頃)に食べられる縁起物。形状は『名称に亥(猪)の文字が使われていることから、餅の表面に焼きごてを使い、猪に似せた色を付けたものや、餅に猪の姿の焼印を押したもの、単に紅白の餅、餅の表面に茹でた小豆をまぶしたものなど、地方により大豆、小豆、ササゲ、胡麻、栗、柿、飴など素材に差異があり、特に決まった形・色・材料はない』とある。「古今要覧稿」(明治三八(一九〇五)年~明治四〇(一九一五)年刊)に『亥の子餅の項目があり、「蔵人式」(橘広相撰)の中に、禁中年中行事の1つとして記されている。橘広相は貞観年間に存命していたことから、いつごろから、亥の子餅に関する行事が行なわれていたか定かではないが、貞観年間には宮中行事として、行なわれていたと推察される』。旧暦十月『上亥日に禁裏では、亥の子餅を群臣に下賜していた』。『能勢からの亥の子餅が献上されていたが、宮中においても亥の子餅が作られた。官職の高低により、下賜される亥の子餅の色(黒・赤・白)と包み紙の仕様に厳格な決まりがあった。亥の子餅の色は、公卿までは黒色の餅・四品の殿上人までは赤色の餅などである。また、3回にわたって、亥の子餅の下賜があったが、3度とも同じ色の餅ではなかった。賞玩のために色(黒・赤・白)を変えていたという』とある。実は江戸幕府の年中行事としても、『亥の子を祝する行事(玄猪の祝い)があっ』て、十月朔日(ついたち)にやはり玄猪の祝いを行っていた。『この日より囲炉裏を開いて、炉で鍋を焼き、火鉢で火を盛る習慣があった。幕府では、大名・諸役人に対して』、十月朔日、七つ半(午後五時)に『江戸城への登城を命じ、将軍から白・赤・黄・胡麻・萌黄の5色の鳥の子餅を拝領して、戌の刻(午後7~9時)に退出する。玄猪の祝いに参加する将軍・大名・諸役人の服装は熨斗目長裃(のしめながかみしも)と規定されている。また、この日の夜は江戸城の本丸・西の丸の大手門・桜田門外・下乗所(げじょうしょ)に釣瓶(つるべ)式の大篝火(かがりび)が焚かれる』とあるから、根岸はこの江戸城で行われる行事の濫觴をここに記そうとしたものであろう。同ウィキには「摂津国能勢における亥の子餅」という独立項が設けられているので、総てを引いておく。明治三(一八七〇)年まで、『摂津国能勢(のせ)(現在の大阪府豊能町)にある木代村(きしろむら)・切畑村(きりはたむら)・大円村(おおまるむら)から、毎年』、旧暦十月の亥の日に、『宮中に亥の子餅を献上していた。そのことから、能勢には亥の子餅に関して以下のような伝承が伝わっている』。仲哀天皇九(二〇〇年?)年十二月に『神功皇后は、自ら将帥となり、三韓に出兵した。筑紫に還啓された後、皇太子(応神天皇)が誕生した』。仲哀天皇十年二月に『穴門・豊浦宮を出発し、群郷百僚を率いて海路をとり、大和に凱旋する途中に、皇太子の異母兄である香阪(かごさか)・忍熊(おしくま)の二王子が、やがて皇太子が即位することを嫉(ねた)んだ。二王子が相謀り、皇太子を迎え討って殺害しようと大軍を率いた。上陸するのを待つ間、戦の勝敗を卜(ぼく)して(占って)、能勢(大阪府)の山に入り、「祈狩」(うけいがり)を催した』。『「戦に勝つならば、良獣を獲られるであろう」と言っていたが、まもなく、大猪が現われ、香阪王に飛び掛った。香阪王は驚いて、近くの大樹によじ登ったが、猪は大樹の根を掘り起こし、遂に香阪王は死亡した。忍熊王はこの事を聞き、怪しみ恐れて、住吉に軍勢を退いた』。『神功皇后はこの事を聞かれて、武内宿禰に忍熊王を討伐を命じた。忍熊王は戦に破れ、山城国宇治に退き、さらに近江国瀬田に逃れたが、死亡した。これにより、皇后・皇太子は、無事に大和の都に凱旋した。その後、神功皇后が崩御し、皇太子(応神天皇)が即位した。応神天皇は、皇太子の時に、猪に危難を救われた事を思い出して、吉例として、詔を発して、能勢・木代村、切畑村、大円村より』、毎年十月の亥の日に『供御を行うように命じ、亥の子餅の献上の起源であると言い伝えられている』。以下その能勢餅の「調理過程」の項。『能勢から、宮中へ献上される亥の子餅(能勢餅(のせもち)とも言う)(近世ごろ)の調理方法が「禁裏献上 能勢のおいの子」に記載されている』。十月に『入ると、猪子役人の当番の者が御所御賄所に出頭し、御用の数を伺う、「合数伺い」を行う。この時に、御賄所より、その数(合数)を記した御書付を下される「御書下げ」があり、調理準備に入る』。一合とは、一箱のことである。献上の数は一定していないが、約百合から百五十合である。亥の日七日前になると、『献上する亥の子餅を作る家には、亥の子餅を調理する場所・道具・使用する井戸を木代村では、真言宗・善福寺(どんどろ大師善福寺)、切畑村は法華宗・法性寺の僧侶を請じて、それぞれ清めの加持を行った後に調理が始まる』。『糯米(もちごめ)を洗い清めて、水に浸』し、『蒸篭(せいろう)に入れて、糯米を蒸す』。『別に小豆(あずき)を蒸した糯米に合せ』、『合せた糯米を挺樋(ねりおけ)と呼ばれる四斗樽の樋に投じて』二本の『棒を用いて「エイエイ」と掛声をしながら、こねつける。やがて、淡紅色の猪の色に似た餅が出来る』これを長さ六寸(約十八センチメートル)・幅四寸(約十二センチメートル)・深さ一寸五分(四・五五センチメートル)の箱に『餅を詰め、別に煮た小豆の釜に沈殿した餡を流しかける』。『餡を流しかけた餅の上に、薄く切った方形に切った栗の実を』六個並べ、『その上に更に、熊笹の葉』二枚で覆う。『餅は猪肉、栗は猪の骨、熊笹は牙を模しているという』とある(ネット上で画像を捜して見たがちょっとぴんとくるものがない。一応ーグル画像検索「能勢餅」をリンクはしておく)。

・「玄猪」陰暦十月の亥(い)の日、また、その日に食べる餅及びその餅を食べて無病息災子孫繁栄を祈る「亥の子」「亥の子の祝い」と呼ばれる行事をも指す。西日本各地の農村部で広く行われる刈り上げ祝いの行事で陰暦十月の亥の日亥の刻に猪の多産にあやかり、また、万病を払う呪(まじな)いとして亥の子餅を食べ、子供たちが家々の庭先を石や藁束(わらたば)でついて回ったり、案山子(かかし)上げをしたりする。この日は田の神が山に帰る日とされている。もとはここに記されているように宮中の年中行事として行われた。十日夜 (とおかんや)とも言う。また江戸時代には、この日に炉や炬燵を開いて、火鉢を出す習慣があった。以上は複数の辞書記載を私が勝手に纏めたものであるが、私はこうした習俗環境に育たなかったことから全く知らないので、以下、ウィキの「亥の子」(いのこ)からもここまでの重複を厭わず引用しておきたい。亥の子とは旧暦十月(亥の月)の上(上旬=最初)の亥の日に行われる年中行事。玄猪(げんちょ)・亥の子の祝い・亥の子祭りとも呼ぶ。『主に西日本で見られる。行事の内容としては、亥の子餅を作って食べ万病除去・子孫繁栄を祈る、子供たちが地区の家の前で地面を搗(つ)いて回る、などがある』。歴史的には古代中国に於いて旧暦十月亥の日亥の刻に『穀類を混ぜ込んだ餅を食べる風習から、それが日本の宮中行事に取り入れられたという説』や、古代日本に於ける『朝廷での事件からという伝承もある。具体的には、景行天皇が九州の土蜘蛛族を滅ぼした際に、椿の槌で地面を打ったことに由来するという説である。つまりこの行事によって天皇家への反乱を未然に防止する目的で行われたという。この行事は次第に貴族や武士にも広がり、やがて民間の行事としても定着した。農村では丁度刈入れが終わった時期であり、収穫を祝う意味でも行われる。また、地面を搗くのは、田の神を天(あるいは山)に返すためと伝える地方もある。猪の多産にあやかるという面もあり、またこの日に炬燵等の準備をすると、火災を逃れるともされる』。『行事の実施形態はさまざまで、亥の子餅を食べるが石は搗かない、あるいはその逆の地方もある』亥の子餅は一般には旧暦十月亥の日亥の刻に食べるとする。『餅は普通のものや茹で小豆をまぶした物などが作られるが、猪肉を表した特別なものが用意されることもある』。また「亥の子石」と呼ばれる石が用いられる地方もある。これは旧暦十月の亥の日の『夕方から翌朝早朝にかけて、地区の子供たち(男子のみの場合もある)が集まり一軒一軒を巡って、歌を歌いながら平たく丸いもしくは球形の石に繋いだ縄を引き、石を上下させて地面を搗く。石の重さ』も一~一〇キログラムと『地方により異なる。地方によって歌の内容は異なるが、亥の子のための歌が使用される。歌詞は縁起をかつぐ内容が多いが例外もある。子供たちが石を搗くとその家では、餅や菓子、小遣いなどを振舞う。振る舞いの無い家では悪態をつく内容の歌を歌われることもある。石のほか藁鉄砲(藁束を硬く縛ったもの)を使う地方もある。藁鉄砲を使う事例により、東日本における旧暦』十月十日『に行われる同様の行事、十日夜(とおかんや)との類似性が指摘できる』とある。以下、引用元には各地方のこの時に歌われる「亥の子の歌」なども採録されているので必見である。

・「能勢氏」底本の鈴木氏注に、『遠祖国基の時から摂津国能勢郡を領し、能勢を家名とした。十五代の後、頼次の時豊臣家仕え、その邸が石田三成邸の隣家であったので、関ヶ原陣の初め家康のために諜報活動をした。大坂陣の後、能勢郡において五千三百石を領した』とある。岩波の長谷川氏注には、『頼直。能勢郡で四千石』とある。ウィキの「能勢氏」によれば、『戦国時代、能勢の丸山城を本拠として芥川山城や山城国の今里城などをも居城とするなど、その勢力を拡げ』天正一〇(一五八二)年の『本能寺の変では能勢頼次が明智光秀方に加勢するが、光秀滅亡後は能勢を追われ、先祖多田頼貞に所縁ある備前国内に潜伏したという』『豊臣秀吉の没後、頼次は弟である東寺の僧金剛院を介して徳川家康に召し出され』、慶長四(一五九九)年に家名を再興、『関ヶ原の戦いでは家康に属して戦功を立て』、能勢郡地黄(じおう)三千石余を『与えられて旧領を回復を果たした。のちに加増された結果、』石高は五千三百石余を数えたとある。『江戸時代、能勢氏は数家に分かれ、それぞれ旗本として存続した。能勢本家は地黄陣屋を拠点として』、四千石の『交代寄合として幕末に至った。また、幕末期には庶家を含め一族は』十四家を数え、総知行高は一万三千石を数えたとされる、とある。

・「内侍」律令制に於ける後宮の内侍司(ないしのつかさ:律令制の後宮十二司の一。天皇に近侍して奏請・伝宣の事にあたり、また後宮の礼式などをつかさどった。職員は総て女性)の尚侍 (しょうじ/ないしのかみ)・典侍 (てんじ/ないしのすけ)・掌侍(しょうじ/ないしのじょう)のことを指したが、平安中期以後は専ら最下級の「掌侍」のことを指すようになった。

・「神無月時雨のあめのあしことに我思ふ事かなへつゝつく」は、「つゝつく」の箇所は底本では右に『(つくつくカ)』と推定訂正注が附されてある。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版も確かに『つくつく』(後半は踊り字「〱」)である。底本の鈴木氏注には、『この歌の第五句は「かなへつくつく」であろう。つくつくは亥の子餅或いは臼をいう女房詞』とあり、岩波の長谷川氏注には、臼の意に『餅を搗くと掛ける』とある。いろいろ考えたが訳では意味を採りやすくするために「つくつく」とすることにした。以下、読みを添え及び表記を変えて示す。一種の言祝ぎの呪的な和歌と思われる。

 神無月(かみなづき)時雨(しぐれ)の雨の足(あし)毎(ごと)に我が思ふ事叶(かな)へつくつく

・「云ふ」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版も確かに『云々』である。その方が自然。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 能勢餅(のせもち)の事

 

[やぶちゃん注:岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では途中に、底本にはない一文とこの餅を搗くのに用いる臼の図がある。引用箇所をはっきりとさせて追加した。]

 

 能勢(のせ)氏一統の知行地の百姓、毎年、玄猪(げんちょ)前に禁裏へ餅米を献上致いて御座る由。

 それに係わって、禁中に於いて玄猪の夜(よ)に、内侍(ないし)の女房らが、以下のの歌を唄って餅を搗(つ)くことを御吉例(ごきちれい)となさっておらるる由。その唄は、

 

  神無月時雨のあめのあしごとに我が思ふ事かなへつくつく

 

[やぶちゃん注:以下の一行と図は岩波のカリフォルニア大学バークレー校版のもの。]

この臼というのは左のような形をしているとのこと。

 

Nosemotiusu_2

 

 ここに記されているのが所謂、「能勢餅」というものと思われる。

 能勢頼直氏がある御仁に語ったことと聴いたが、なお、詳しく禁中有職(ゆうそく)の人に訊ねてみたいことではある。

耳嚢 巻之十 盜人醉ふて被捕醉ふて盜人を捕へし事

 

 盜人醉ふて被捕醉ふて盜人を捕へし事

 

 番町邊御旗本の由、常に酒を好(このみ)、酒友(しゆゆう)の方にて沈醉(ちんすゐ)の上歸宅のうへ、手水所(ちやうづどころ)にて手水抔遣ひしに、藏の脇あやしき物音いたし、立歸り候節も何か心に掛り候事有(あり)し故、枕脇差(まくらわきざし)を差(さし)て藏の脇へ至り見しに、不見知(みしらざる)男、沈醉の體(てい)にて臥(ふせ)り居(をり)候を見候故、家内僕(しもべ)などを起し候處、右盜賊も醉(ゑひ)さめ候や眼をさまし候間、何故武家屋敷へ這入(はひりこみ)臥り候哉(や)、尋問(たづねとひ)けるに一言(ひとこと)の申譯(まうしわけ)なく、盜(ぬすみ)に入(いり)候へ共(ども)、沈醉故、見合(みあひ)候内、不思(おもはず)臥り候由申(まうし)けるとなり。其後如何(いかが)なりしや、近頃の事と聞(きき)しが、名は洩しぬ。 

 

□やぶちゃん注

○前項連関:間抜けな盗人(ぬすっと)二連発。話柄の構造が酷似しており、根岸の独自の情報屋誰かから齎されたものとするならば、両話は同一人物による提供と思われる。

・「枕脇差」護身用に寝所の枕元に置いた小型の刀。 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 盜人(ぬすっと)が泥酔して捕まり泥酔した旗本がその盜人を捕えたという事 

 

 番町辺りの御旗本の由。

 常に酒を好み、酒呑み仲間の方にてしたたかに呑んで泥酔なし、己(おの)が屋敷へ帰宅致いて、寝る前に便所など使って御座ったところが、便所近くの、屋敷内の蔵の脇辺りより、何やらん怪しき物音の致いた。

「……さ、さういへば……ヒック!……帰り着(ちゅ)いた折りも……なあにやらん……ふがふがちゅうやうな……妙な音の……ヒック!……聴こえたやうな……なぁんか……妙に気のかかったじゃった……ヒック!……」

と独りごち、ふらつく足で寝所へと戻ると、枕元に置いた枕脇差(まくらわきざし)を腰に差し、またしてもあっちへふらふら、こっちへふらふら、ようやくかの蔵の脇まで辿りつき、さても、辺りを睥睨(へいげい)致いたところが……これ……

――見知らぬ男が一人……

――これも亭主に劣らず泥酔の体(てい)にて……

――地べたに臥しておった。……

 さればこそ、またまたあっちへぶらり、こちへぶらりと家内へ戻り、下僕(しもべ)なんどを起こして、さても、

「……フガッ!……フガッ!……」

と大鼾(おおいびき)をこいて寝ておった盗人(ぬすっと)を、これ、手もなく縛り上げて御座ったと申す。

 さて、その盜賊も流石に酔いが醒めたものか、眼をさまして御座ったによって、主(あるじ)の御旗本、

「……な、なあにゆへぇにぃ!……ヒック!……武家(ぶぅけ)屋敷へ!……ヒック!……這ひり込んどぅえ!……寝ておったくわ?!……ヒック!……」

と、呂律の回らぬまま糺いたところが、その盗賊もこれ、いまだ酒の抜けざる体(てい)にて、一言の言い逃れの弁解をもしようとせず、寧ろ偉そうに、

「……ぬ、盜(ぬしゅ)みに入(はひ)って御座(ぐゎざ)れども……泥酔(でいしゅい)致いたによって……ヒック!……ぬ、盗(ぬしゅ)みは見合わせた……ヒック!……じゃして……そのまんま……思わず……寝入ってしもうたんじゃろうのぅ……ヒック!……」

と一向、悪びれた様子ものぅほざいた、とか申す。

 その後、この盗賊、どう処断なされたか――近頃の出来事とは聴いたが――御旗本の名と合わせ、うっかり聴き洩らして御座る。

耳嚢 巻之十 不計盜賊を捕へし笑談の事

 不計盜賊を捕へし笑談の事

 

 或町家へ盜賊立入りしが、未(いまだ)寢鎭(ねしづま)らざる樣子故、臺所口の椽下(えんした)に忍び居(をり)しが、最早寢やせしと椽下より顏を出し見しに、家内寢ける樣子なれ、一人の女燈のもとに齒黑を染居(そめをり)候樣に思ふ故、尚忍び居しに、右の女も、何か上り口に物音致候故、不思議に思ひ心附(こころづき)見たりしが、與風(ふと)右盜賊人首出し候を見候て驚き候紛(まぎれ)、口を大きくや明(あき)けん腮はづれしを、盜賊は、髮振亂(ふりみだ)せし女の、口を大きく明(あけ)、齒黑々と見張り居しを、妖怪とや思ひけん、目をまはし即倒せしを打寄捕(うちよりとら)へしとや。其後は如何(いかが)なりしや不聞(きかず)。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:お美事! 腮が外れるで直連関! 無論、一読、私は妖怪「お歯黒べったり」を思い出した(リンク先はウィキの「お歯黒べったり」の竹原春泉画「絵本百物語」の「歯黒べったり」の画像。因みによく考えてみると、恐らく口裂け女の民俗学的なルーツはこれだな)。この場合、夜間でしかも顎関節脱臼をして異様に腮が下がっているとまさに目鼻が見えず、異様に下がった下顎とそこに開いたありありと剥きだされた鉄漿(おはぐろ)べったりの歯と歯茎は、これ、まさに「お歯黒べったり」!

・「紛(まぎれ)」は底本の編者ルビ。但し、何だかおかしい。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版を見るとここは『驚き候儘(まま)』である。これがよい。

・「即倒」底本には「即」の右に『(卒)』と補正注がある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 計らずも盜賊を捕えた笑い話の事

 

 ある町家へ一人の盜賊が忍び込んだが、いまだ寝静まっていない様子であったがため、台所口(ぐち)の縁の下に忍んでいたと申す。

『……さて……そろそろ皆……寝たか?……』

と縁の下よりそろそろと顔を出して覗き見たところ、家内は殆んど寝ておる様子では御座ったものの、障子の影を垣間見るに、一人のお女中が燈火の下(もと)に、これ、お歯黒(はぐろ)を染めておるように見えたによって、なおも縁の下に下がって忍ばんとした。

 ところがこの時、かのお女中、縁の下にて幽かに妙な音のしたように感じ、障子を開けて音のした台所口の方を透かし見たところ、何か、縁側の上り口の辺りにて、ごそごそと物音の致いて御座った。されば不思議に思い、野良猫でも入り込んだものかと、音を忍ばせ、縁側をそうっと、かの辺りまで忍び足に参り、やおらその下を覗き見んとした――ところが――

――フッ!

と、同時にかの盗賊も

――首を出す!

互いの顔、これ、縁先にて数寸ばかりも離れておらぬ! されば、お女中、

――キェエッツ×××!!! ×××!

と、盗賊のむくつけき間近なる顔に鉢合わせ致いたなり、あまりに口を大きく開け過ぎたからであろうか――驚愕(きょうガク)の余り愕然(ガクぜん)とし下顎(かガク)をこれガクっくり落して――腮(あご)が外れた。その上に腰をも抜かしたがめ、いっかな動けずなった。

 片や、盗人(ぬすっと)はと言えば、これ、

――髪振り乱した女の!

――口を鰐の如(ごと)大きく開け!

――歯黒々としたが!

――凝っと己(おの)が顔を見詰めてピクリとも動かぬ!!!

となれば、てっきり妖怪ならんと思うたものか、そのまま――目を回して――卒倒してしもうたと申す。

 矯声と物音に家中の者ども皆、起き出だし、かの盗人(ぬすっと)はこれ、皆うちよって手もなく捕えられたとか申す。

 その後――腮の外れた女中は――また、頓馬な盗人(ぬすっと)は、これ、如何(いかが)相い成ったかは、残念なことに聴き逃してしまった。

耳嚢 巻之十 建部家の家來腮はづれし療治の事

 建部家の家來腮はづれし療治の事

 

 建部(たけべ)家の家來某、與風(ふと)腮(あご)はづれし故、近邊名ある醫師を招(まねき)て療治を乞(こひ)しに、いと安き事なりと何か高言自讚(かうげんじさん)なして、兩手を以て腮抱上(かかへあ)げ色々手品(てしな)ありけれども、更に復せず。最初の高言に哉(や)恥(はぢ)けん、醫師も何か工夫あれば明朝罷越(まかりこす)と約して歸りしに、右跡亭主甚(はなはだ)憤り、差當(さしあた)り甚(はなはだ)難儀の所、明日と約す段(だん)甚(はなはだ)不情なり、居合(ゐあひ)抔を申(まうし)、口療治なせる井上何とか云(いへ)る藥賣(くすりうり)、前に右樣(みぎやう)の療治なせしと聞(きき)、是を可賴(たのむべし)と、早速井上方へ申達(まうしたつし)候處、無程(ほどなく)罷越(まかりこし)て右の樣子を見候て、是は腮の工合(ぐあひ)、片々(かたがた)違ひたるなり、兩方を療するとて手をひつかけ候故、復せざる由にて、片手を以(もつて)右の方を、抱(かか)ひ上(あげ)候樣(やう)にいたしければ、即座に直りけると也。是は心得にもなるべきと、記(しるし)おくなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。「耳嚢」には実は非常に多い医事関連譚である(以前にも述べたが、「耳嚢」というと怪談集というイメージは大変な誤りである)。これは根岸家に出入りする複数の医師や医事関係者が彼のニュース・ソースや情報屋であったことによる。そうして医師であるから当時のレベルで相応に科学的であったから、自ずと怪談の比率は少なくとも彼らの提供分に於いては有意に割合が低くなるという訳である。

・「建部家」播磨林田藩藩主主家。外様一万石。藩庁は林田(現在の兵庫県姫路市林田町聖岡)。「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月で、ここに登場する「亭主」は第七代藩主建部政賢(まさかた 延享四(一七四七)年~文政元(一八一八)年)である。

・「腮はづれし」顎関節脱臼(がくかんせつだっきゅう)。ウィキの「顎関節脱臼」を読むに、この場合のそれは前方脱臼と思われる。以下、その解説(下線やぶちゃん)。『下顎頭が前方に脱臼した状態。顎関節脱臼においてほとんどのケースが前方脱臼である。関節を元にはめ直すだけの簡単な施術で元に戻り、また周囲の組織の損傷の心配がほとんどないので、元に戻れば痛みもなくなる』。その「発生機序」の項には以下の二つのパターンが多いとし、『極度の開口を行った(大きく口を開けた)際に下顎頭が関節結節を越え、さらに外側靱帯、咬筋、外側翼突筋の牽引力で固定される』場合と、『開口時にオトガイ部に衝撃を受け、さらなる開口を強制される。正面から衝撃を受けた場合は左右両側の顎関節が脱臼するが、斜め前から衝撃を受けた場合は片側のみ脱臼することが多い』とある。「症状」の項。『顎関節が外れている状態のため、口が閉じられない。唾液がうまく飲み込めずこぼれ出てくる。また頬骨の下に下顎頭が突出するため人相が変化する』(本文には「更に復せず」とあるから開かなくなるのではなく、口が閉じられない状態と私は見る。藤八の見立ての「片々違ひたるなり」という謂い及び最終的な療法からは両方が異なった方向に脱臼していることを示すように思われ、最終療法は一方を戻すことによって反対の脱臼が自然に戻ったというニュアンスを感じる)。続いて「治療」の部。『発症の種類の項目でも説明しているが、前方脱臼の場合は比較的簡単に元に戻すことが出来る。自ら関節を戻す者も居るが、関節を痛める可能性もあるため、念のため整形外科や口腔外科、柔道整復師等で整復した方が良い。習慣的脱臼になっている場合は手術も考慮する』。『新鮮例に対しては徒手整復がおこなわれる。整復法にはヒポクラテス法、ボルカース法などがある』。以下、「ヒポクラテス法」の解説。『患者を椅子などに腰かけさせた上で頭部を固定する。施術者は両方の親指を下顎臼歯咬合面に置き、口腔外の両手の他の指で下顎を支える。この状態で、まず臼歯を下方へ押し、次いで後方へ導く。下顎頭が下顎窩に引き込まれるのを感じたら前歯部を上方に回転させ、下顎全体を手前に引く。下方へ押圧したあとで後方へ導くのは、下顎頭と関節結節が衝突して損傷することを避けるためである』。以下、「ボルカース法」の解説。『施術者が患者の後頭部から抱えるように固定する。その状態で、下顎を上前方に回転させつつ手前に引くことによって整復する方法』(ここで先の医師が行ったものはヒポクラテス法に近いか。井上藤八が行ったものはこの孰れとも似ていないように見える)。『整復後は患部を安静にし』、二週間程度は『硬い食べ物を避ける』とある。

・「不情」この場合は「不精(ぶしょう)」の意。

・「井上何とか」岩波の長谷川氏注に、『上野仁王門下で居合い抜をして歯磨を売っていた井上藤八』とある。金沢大学法文学部論集・文学篇(一九六〇年二月刊)所収の本田康雄氏の「浮世物真似を求めて 洒落本研究のために」の中に、安永八(一七七九)年刊の酒落本「呼子鳥」の梗概を記された中に後半の上野の「山下八景」の部分(踊り字は正字化した。下線やぶちゃん)、

   《引用開始》

 「山下八景」は茂久左衛門なる田舎の「おャぢ」と「ばァ」さんが「馬ご」の案内で上野山下を見物する状況を写したものである。但し、おャぢは最初に一寸登場する丈で、主として田舎の老婆と馬ごとの会話が描写されている。老饗の無智な質問や感想、方言が滑稽で笑わせられる。最初のところに蛙の鳴声が出てくるのが如何にも浮世声色らしくて注目されるが、以後は道中、界町の芝居に就いての馬ごの話、筋違御門、柳原土手の古岩屋についての説明があり、山下へ向う。

 次いで、しらミうせ薬の売手の口上、目薬、土平飴、おこま飴の口上、一人相撲の芸人、すたすた坊主、鶴吉(大道手品師)、からくり、講釈師、豆蔵、井上藤八(居合抜きを看板とした歯磨売り)、十九文店、等々の口上をそのまま写している。文末に「……『馬ご』ほんにからいでんがくだァ此からいのでめがさめましてござりまする」とあるが、これは前半「品川八最」の末尾と相俟って浮世声色の結びに相応しい。

   《引用終了》

と登場する。「浮世声色」は「うきよこわいろ」「うきよこわね」と読むか。本田氏の論文題名にある「浮世物真似(うきよものまね)」と同義で、物売りや動物の身振りや音声などを真似ること。また、その芸を指す。これは、役者の身振り・声色を真似る芸「役者物真似」に対して言ったものである。

・「抱(かか)ひ」は底本編者によるルビ。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 建部(たけべ)家家来が腮(あご)を外し、それに係わる療治の顛末の事

 

 建部家の家来某(ぼう)、ふとしたことで腮が外れてしまった。

 即座に、近辺にて名のある医師を招いて療治を乞うたところが、

「――腮の外れなんどを治すは、これ、たいそう容易なことで御座る。」

と、何やらん、偉そうに己(おの)が腕前など殊更に自讃なし、やおら、両手を以って腮を抱え上げ、いろいろと手を尽くしておったものの――これ――幾らやっても――一向に――元に戻らぬ。

 最初の高言(こうげん)が恥ずかしくなったものか、その医師、

「……ち、ちと、難症なればこそ……さても何故か、理由は分かり申しかぬるが……どうもこれ、上手く参りませぬのぅ……まずは……何かその……別の工夫も、これ……御座るによって……そのぅ……明朝……再応罷り越しまするによって……今日のところは……これ……お大事に――」

などと約して帰ったものの、これを伝え聴いた御主君建部政賢(まさかた)殿、はなはだ憤られ、

「――結局、療治はなはだ難儀なれば、一向に治すこと、これ出来ず、行き詰って『明日』と約したる段(だん)、これ、はなはだ、いい加減なる仕儀ではないかッ!……そうじゃ! ……居合などをも成すと称し、歯磨きなど売り、また、口の療治をも致すと聴いた井上何とか申す薬売り、これ、上野山下辺に住むとか。その者、以前に、かくなる腮の外れたる難症を美事療治致いたと聴いたことがある。――これを頼むがよい!」

と、早速、その井上藤八が方へ人を遣わしたところ、ほどなく罷り越し、その家来の様子をとくと見た。すると、藤八、

「――これは腮の具合――左右両方が別々な形で、外れておりますな。――こういう場合、両方を一遍に治療しようとして両腮に手を引っ掛けますると、これ自ずと、関節を同じような力、同じような方向に押し戻そうと無意識に致すこととなりまするが故に――いっかな、元に戻らぬ――ので御座います。――こうした際には――片手を以って――右の方(かた)を――抱(かか)え上げるように致しますれば――即座に治りまする。」

と申し、直ちにその療治を行い、あっという間に、外れた腮、これ元に戻った、と申す。

 これは万一の時の心得にもなるべきことと思えば、特にここに記しおくことと致す。

耳嚢 巻之十 冥之道歌の由人の持來りしを認候事

 冥之道歌の由人の持來りしを認候事

 

 愚中及(ぐちうきゅう)和尚自省身(みづからみをかへりみる)の歌に、

  何事も身の報いぞと思はずば人をも身をも恨はてまし

                         冥   之 

Meisikaou_2

 □やぶちゃん注

○前項連関:坊主の狂歌で連関。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「冥之」の下に花押が入っているので、そこをトリミングして本文にも配した。「耳嚢」中、最も短い条と思われる。

・「冥之」「めいし」。人に知られぬように努力すること或いは人に知られぬように心底に決意することを言う「冥冥之志(めいめいのこころざし)」によるものであろう。「冥冥」は暗いさまから、人に知られないことの意で、これは「荀子」の「観岳」篇に基づく。如何にも禅僧好みの号ではある。当初、愚中周及(ぐちゅうしゅうきゅう/次注参照)の号と思い込んで何とも思わなかったのであるが、幾ら調べても周及の号にはない。しかもこれ、どうもどこかで別な禅僧の号として見かけた幽かな記憶があった。「冥之 禅僧」で検索を掛けて発見! 「冥之」は愚中周及ではなく江戸前期の同じ臨済宗のかの名僧沢庵宗彭(たくあんそうほう 天正元(一五七三)年~正保二(一六四六)年)の号だ! とすれば諸本は一切注しないが、この歌は愚中周及のそれではなく、ずっと後代の沢庵宗彭作の道歌ということになる。大方の御批判を俟つ。

・「道歌」「だうか(どうか)」は主に教導を目的とした道徳的教訓的な短歌。

・「愚中及和尚」底本の鈴木氏注に、『周及。愚中は字。岐阜の人。春屋妙葩に師事、鑑翁、竜湫(玄朔)、黙庵学び、暦応四年元に入り、曹源寺の月江印に参じ、愚庵の二字を与えられた。これを号とし、後改めて愚中と号した。観応二年帰朝。安芸仏通寺を開く。足利義持の帰依を得たが煩をいとって遁れ、のち丹波天寧寺に住し、応永十六年寂。八十』とある。暦応四年(興国二年)は西暦一三四一年、観応二・文和元年(正平七年)は一三五二年、応永十六年は一四〇九年。若干鈴木氏の記載とデータが異なるのでウィキの「愚中周及」も引いておく。愚中周及(元亨三(一三二三)年~応永一六(一四〇九)年)は、『南北朝時代の臨済宗の僧。美濃国の出身。愚中は道号。周及は諱。諡号は仏徳大通禅師』。七歳で寺に入り、十三歳で『京都臨川寺の夢窓疎石に師事して出家した。その後春屋妙葩に学ぶ。比叡山において戒を受け、京都建仁寺を経て』、康永二(一三四三)年(年)に『天龍寺船で中国元に渡った』。観応二(一三五一)年に『帰国した後、京都南禅寺・丹波国天寧寺などを経て』、応永二(一三九五)年、『小早川春平の開基により、安芸国に佛通寺の開山となった。その後、将軍足利義持に請われて上洛』、応永一六(一四〇九)年に『紫衣を下賜された。同年、天寧寺にて死去』とある。春屋妙葩は「しゅんのくみょうは」と読む。夢窓疎石の知られた弟子である。

・「何事も身の報いぞと思はずば人をも身をも恨はてまし」「…(せ)ば~まし」で反実仮想。岩波の「人をも身をも恨はてまし」の部分への長谷川氏注に、『(思わなかったら)恨んでしまうことだろうに。「あふことのたえてしなくはなかなかに人をも身をも恨みざらまし』(中納言朝忠、拾遺集・恋一。百人一首)の下句のもじりか』とある。この場合、「身の報い」とは現世のそれではなく、前世の因果応報。禅僧が恋歌を捩(もじ)ったとするところに面白味があるとは言えるが、あんまり私は「耳嚢」に載せて面白い道歌とも思われない。因みに、ストレートな類歌なら日蓮の、

  何事も己の因果の報いぞと思ふ心が佛なりけり

というのがあり、たまたま私の家の谷を隔てた向かいにある日蓮宗久成寺の門前に今張り出されてある。流石に禅僧、並べてみると、日蓮の悟り切ったような直球の臭さよりは、仄かに捩じれた人の血が通っているようには読める。しかしどうも、この手の道歌には私は何か妙な不快感を感じる。それはきっと都合が悪いとすぐに――自己責任の意識のない奴はすぐに人のせいにする――と批判する、今の日本政府のいろいろな場面での、それこそ手前勝手な恨みを含んだ公式脅迫見解と相い通ずるから、かも知れない。……

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 禅僧冥之(めいし)の道歌(どうか)の由、人の持ち来たったるを認(したた)めて御座った事

 

 愚中周及(ぐちゅうしゅうきゅう)和尚が「自ら身を省みる」と前書する歌に、

 

  何事も身の報いぞと思はずば人をも身をも恨みはてまし

 

                         冥   之

2015/04/03

耳嚢 巻之十 萩寺和尚頓才の事

 萩寺和尚頓才の事

 

 當奧平大膳太夫(だいぜんだいふ)は未(いまだ)幼年の由。本所邊野行(のゆき)に出て、辨當所(べんたうどころ)を家來相(あひ)しらべ、萩寺をかりて休まれし。大身(たいしん)の事故、謝禮もあつくあらんと、和尚も召仕(めしつか)ふものも前日より掃除等こゝろづけ、品々心を配りけるに、右家來厚く禮をのべて目錄など贈りしに、金百疋(ぴき)なりければ和尚もあきれ果(はて)けるが、頓才の和尚にて、一首の狂歌を短册にかき、大膳太夫目通(めどほ)りの節、不寄存(ぞんじよらず)御腰(おんこし)をかけられ誠に難有(ありがたき)旨を伸(のべ)、右につき腰折(こしをれ)つらね候迚、歸りの節直(ぢき)に手元へ出しければ、幼年の事故一覽にも不及(およばず)、懷中なして歸宅の後、和尚がかゝるものくれたりと、傍向(そばむき)のおとな成(なる)家士(かし)へ渡されしを、一覽の所、歌也(なり)。

  大膳が太夫くれると思ひしにたつた百疋おく平さま

とありければ大膳も大きに笑ひ、さるにても何ものがかく取計(とりはから)ひしと、尋有(たづねあり)ければ、家老其外承り、以(もつて)の外の不作意とて、其事取計ひし近習向(きんじゆむき)の家來は押込(おしこめ)を申付(まうしつけ)、さて萩寺へは銀五枚、使者にて贈りしとなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。岩波の長谷川氏注に、加藤曳尾庵(えいびあん)の「我衣」八に『文化十年末頃の記事の中にもあり』とある(「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月)。私は、この「我衣」を所持しないが、その原文を見れば以下の鈴木氏の疑問が氷解するように思われるのだが。

・「萩寺」底本の鈴木氏注に、『三村翁「萩寺は亀井戸の竜眼寺、天台宗なり。」』とある。竜眼寺は「りゅうげんじ」と読む。同寺公式サイトの「寺院紹介」によれば、創建は応永二(一三九五)年で良博大和尚が観世音の夢告により柳島辻堂の下に眠る観世音を祀ることで、当時、村に流行していた疾病を平癒させ、これを「慈雲山無量院柳源寺」と号した。その後、寺の湧き水で洗顔すると目がよくなると眼病平癒の観世音として信仰を集め、「龍眼寺」と改名、江戸初期には住職が百種類もの萩を諸国から集めて境内に植えたことから、通称「萩寺」として多くの文人墨客が訪れ、「江戸名所図会」には萩を愛でる人々で賑わう様子が描かれている、とある。

・「頓才」とっさの場合によく働く才能。気転のきくこと。頓智。頓智頓才という四字熟語もある。

・「當奧平大膳太夫」底本の鈴木氏注に、『豊前国中津城主。十万石。文化ごろの当主は昌高。島津重豪の二男で、奥平易男の養子となり、その女を室とした。天明六年嗣封、時に十二歳。文化元年には三十歳になるから幼主というのは当らない。幼少時代の話という意味であろう』とある。豊前中津藩は現在の大分県中津市周辺を領有した藩(初めの細川家の代は外様であったが次の小笠原家の代に譜代となった。奥平家はその次の代)で、癖大名の一人として知られる奥平昌高(おくだいらまさたか 天明元(一七八一)年~安政二(一八五五)年)は豊前中津藩第五代藩主。薩摩藩第八代藩主でやはり蘭癖大名として知られる島津重豪(しげひで)の次男で天明六(一七八六)年に急逝した中津藩主奥平昌男の末期養子として六歳で家督を継いでいる。彼はオランダ語を自在に操り、シーボルトらと熱心に交流、「フレデリック・ヘンドリック」というオランダ名まで持っていた(以上はウィキの「奥平昌高」に拠る)。なお、彼の後を継ぐ第六代藩主で父と同じく後に大膳大夫を名乗った奥平昌暢(まさのぶ 文化六(一八〇九)年一月二十五日~天保三(一八三二)年)は、この時、既に生まれている。彼は昌高の次男として江戸で生まれたが、長兄が早世していたため、生まれてすぐに世子となっている。但し、彼が父の隠居により家督を継いで大膳大夫に遷任したのはずっと後の文政八(一八二五)年五月六日のことではある(以上はウィキの「奥平昌暢」に拠った)。幼い知恵者であることからは蘭癖の昌高のエピソードとして相応しいようにも見えるが、とすると六歳当時とすると三十五年も前の話ということになってしまう。翻って、子の昌暢の話としてみるなら、文化十年当時満四歳でまた別な意味で相応しいようにも見えるが如何? そもそも文化一一(一八一四)年六月の「卷之十」の記載の推定下限に近い直近のホットな話がずっと続いてきた中で、これだけが三十五年も前の話というのは腑に落ちないという気が私にはするのである。なお、「大膳太夫」は「大膳大夫」が正しく、元は朝廷において臣下に対する饗膳を供する機関であった大膳職(だいぜんしき)の長官の称であった。

・「野行」弁当も食っているから日帰りの物見遊山、ピクニックの意であろう。

・「辨當所」「辨當」は本来は野外食であるが、ここは持参した昼食を摂る場所の意であろう。

・「百疋」千文=一貫文で、御用達の「江戸時代の諸物価(文化・文政期)」によれば、現在の二万五千円ほど。同リンク先によれば当時の旅籠(はたご)の一泊の宿賃が一人二百文(凡そ五千円相当)である。「大身」(身分の高い人。高位・高禄の人)であるから、これでは雀の涙ということなのであろう。和尚はこの御休憩所のために恐らくは一貫文以上の費用を出費していたのであろう。

・「伸」底本では右に『(述)』と訂正注がある。

・「腰折」第三句と第四句が上手く続いていない和歌のこと。下手糞な和歌で、ここでは自歌を謙遜して言ったもの。

・「つらね」「連(列)ぬ」で、言葉を並べて詩歌を作る、の意。

・「大膳が太夫くれると思ひしにたつた百疋おく平さま」「太夫」は「大膳大夫」と副詞で沢山の意の「大分(だいぶ)」を掛け、「おく平」は「百疋置く」と姓の「奥平」を掛けた狂歌である。

・「近習」「きんじふ(きんじゅう)」とも読む。主君のお側近くに仕える者。近侍。

・「押込」押籠と書く。ウィキの「押込」より引く。『中世から近世にかけての日本で行われた刑罰の一つ。主に武士・庶民に対して適用され、自宅(あるいは自室)などの前に戸を立てて閉鎖(いわゆる「座敷牢」)して、一定期間の昼夜の出入・通信を一切禁じて謹慎・幽閉させる措置を取ること』。『平安時代、検非違使において生命の危険性のある杖刑や笞刑の代わりに獄舎などに一定期間監禁する召禁と呼ばれる刑罰が行われるようになった。鎌倉時代の御成敗式目にも召禁・召籠という刑罰が喧嘩や悪口の罪に対して適用されている。中世中期以後には獄舎以外の建物で代行される事もあり、これを特に押込(押籠)と称した』。『江戸時代には自由刑の一種として比較的軽い罪の場合に適用された。江戸幕府の公事方御定書によれば、武士が主君から賜った宅地を質に入れて訴訟沙汰になったことが明らかになった場合や小規模な失火などに対して適用されて』おり、刑期は二十日・三十日・五十日・百日の四種が原則であったが、『場合によっては終身にわたる押込や逆に名目だけの謹慎に留まる場合もあった』。

・「銀五枚」ネット上のデータを見ると、銀一枚は四十三匁(もんめ)で約百六十一グラム、別データで金一両は銀六十匁で銭四千文とあって現在の銀一グラムを六十円として当時の銀地金の稀少度からは銀一グラムを七百五十円とする換算が示されてあったから(問題はその銀貨の銀の含有率で銀四十六%を含む元文銀一匁は千三百円とある)、やや乱暴ではあるがこれに当てはめると現在の六十万三千七百五十円相当となる。「金百疋」の凡そ二十四倍となる。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 萩寺和尚頓才(とんさい)の事

 

 当代の奧平大膳大夫(だいぜんだいふ)殿は未だ幼年の由。

 本所辺りへ物見遊山に出でられたが、家来の者、弁当所(べんとうどころ)とすべき場所を事前に調べ、知られた萩寺を借りて、その御休息・御昼食の場とすることと相成って御座った。

 大身(たいしん)の御休息ということなれば、きっとこれ、その謝礼も厚くあろうものと、和尚も召し仕(つこ)うて御座った修行僧や下男なんども、これ、前日より補修やら掃除やらに殊の外気を遣い、細かなところまで気を配ってその日を迎えたが、いざ、来訪なされ、その御家来衆が厚く礼を述べた上、謝礼の品の目録など贈って参ったが、その謝金はこれ、

――たったの金百疋

で御座ったによって、和尚もあきれ果てて御座った。

 ところが、この和尚、これ、なかなかの頓才で御座って、即座に一首の狂歌を短冊に認(したた)め、御休息なされておられた大膳殿へお目通りの折りから、

「……思いも掛けませず――畏れ多き御腰(おんこし)を斯(か)かる茅舎に掛けられ――誠に有り難き幸せ……」

とかなんとか述べ連ねた上、

「……この目出度き折から――憚り乍ら――腰折(こしおれ)の一首をこれ――詠みまして御座いますればこそ――」

と、お帰りの折り、直かに御手元へ封じたる短冊を差し上げた。

 大膳殿は、これいまだ、幼年のことなれば、この短冊をその場にては一覧なさるることもなく、懐中になして帰宅なされた。

 ところがその日、お帰りにならるると、

「――今日参った寺の和尚が――このようなものを、呉れた。」

と、お傍(そば)の御用を司る、御家中にも長く勤めておられた御家来衆へお渡しになられた。

 そのものが、お断りを入れて、いざ、開き見てみれば、一首の狂歌がこれ記されて御座ったが、読んでみてその御家来、いや! これ! 顔が蒼ぅなった。しかも同時に、大膳大夫殿が、

「詠んでみよ。」

と命じられたによって、仕方のぅ、詠み上げたところが、その歌、

 

  大膳が太夫くれると思ひしにたつた百疋おく平さま

 

とあったによって、頑是ない大膳殿も、その意を知られて、大いにお笑いになられ、

「――それにしても何者が、今日のこと、これ取り計ろうたものか?」

と、大膳殿より御下問のあられたによって、御家老その外の者、これ直ちに承って、取り調べたところが、事実、百疋しか謝金を包まなんだことが分かり、御家老より、

「――これ! 以っての外の不祥事じゃっ!」

と、その物見遊山の儀を取り計ろうた近習方(きんじゅうがた)家来には押込(おしこめ)が申しつけられ、一方、萩寺へは即刻

――謝金銀五枚

使者によって贈られた、とのことで御座る。

耳囊 卷之十 文化十酉年六月廿八日阿蘭陀一番舟渡來象正寫の事

 

 文化十酉年六月廿八日阿蘭陀一番舟渡來象正寫の事

 

 今年五歲に相成申(あひなりまうし)候由、大(おほい)さ日本の牛より十倍、平生(へいぜい)米を六升程、萱(かや)三荷(か)、砂糖一斤半程、水(みづ)擔(たご)に貮荷程づゝ、折々喰ひ候由。不快の節は□て土を食す。其節は、水一荷程に酒一升五合程入れ、飮(のま)する時は大方(おほかた)治(ぢ)するといふ。日本里數一日に五六里宛(づつ)歩行(ありく)といふ。鼻の長さ六尺程、延縮自在にして、人の手に准ずるもの也。此獸御用なしにて、長崎より直(ぢき)に御返しに成(なる)。 

 

Bunka10zousan        惣身鼡色髭黑シ

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。奇獣来日。私は象が大好きである。従ってちょっと拘って注を附したい。これ以前の象の日本来日の記録は、ヤフー知恵袋の江戸時代に最初期日本に来た象の運命についての質問の回答によれば、江戸時代までに象は七回来日しているとあり、以下、次のような主旨が記されてある(一部には私が大幅に手を加えてある)。

   *

①応永十五(一四〇八)年

 象の初来日。東南アジアから南蛮船に乗って若狭国に上陸、室町幕府第四代将軍足利義持に献上された。

②天正二(一五七四)年及び③翌天正三年

 明船が博多に象と虎を持ち込み、翌年にも象一頭が来日。この象は間もなく死亡した。

④慶長二(一五九七)年

 マニラ(フィリピン)総督から秀吉に象が贈られた。

⑤慶長七(一六〇二)年

 江戸幕府開府の前年。交趾国(こうちこく/こうしこく:現在のベトナム。)から家康に象が贈られた。その後については記録になく、恐らくは間もなく亡くなったものかと思われる。

⑥享保十三(一七二八)年六月十三日

 江戸以前の来日象の中で最も知られたもの。将軍吉宗の希望によって中国商人の手で安南(ベトナム)からペアの象が来日、この時初めて江戸の多くの庶民、日本人の大衆が初めて象を目にした。♀の象は体調不良により三ヶ月後に死亡した。翌享保十四年には♂の象が来日、長崎から京、東海道を経て江戸に辿りついて動物好きの吉宗に拝謁した。途中、都では中御門天皇にも謁見、この時には天皇に会わせるために「広南従四位白象」の名が授けられている(この時ベトナム人調教師タンスー氏とヒヨメン氏の二名が同行している後掲する中野区東部区民活動センター運営委員会公式サイト内のささご会製作になる『紙芝居「江戸に象が来た」』に拠る)。その後も十年以上に亙って浜御殿で飼育された。なおこの間、飼育員が象に殺される事件が発生している。その後、浜御殿出入りの中野村の百姓源助という者に下げ渡されたが(『紙芝居「江戸に象が来た」』によればこの源助は幕府から飼育代として年に百三十両を受け取り、見世物として入場料を取ることも許された、その堀を巡らし柵を構えた象小屋は現在の中野区本町三丁目にある朝日が丘公園附近とある)、飢えと寒さで間もなく死亡したという。没年は寛延二(一七四九)年とされ、死因は栄養失調とされる。この♂象の皮は剥がされて頭蓋骨・牙・鼻部分の皮が源助に与えられ、これが現在の中野区にある宝仙寺に伝わる「馴象之枯骨(じゅんぞうのここつ)」で、鼻の皮一部も残っているとされている(非公開。牙や頭蓋骨は昭和二〇(一九四五)年五月二十五日の東京大空襲で一部を残して焼失したと伝える)。加藤好夫氏のサイト「浮世絵文献資料館」の「浮世絵辞典」の「☆ ぞう 象」の項に、文政八(一八二五)年以前に成立した加藤曳尾庵の随筆「我衣」を引いて(恣意的に正字化し、句読点や記号の一部を変更追加省略し、割注と思われる記号も〔 〕に変え、読みを独自に附した)『元文五申年、御濱御殿に飼(かふ)所の白象、中野と云(いふ)村より願(ねがひ)に出、拜領す。前々象飼料御物入(ものいり)多きゆへ、儉約に付(つき)、望(のぞみ)の者は願出(ねがひいづ)べき由御觸(おふれ)に付、中野名主願出る、象「洞(どう)」十六文づゝに賣る、見せたる後、酉戌の年死(しに)けると云(いふ)。死する前は大象となり、高(たけ)一丈二三尺、長(ながさ)四間ほど、大なる土藏の動(うごく)が如し、御濱にて飼付(かひつけ)の者、常に御上(おかみ)より渡る飼草(かひぐさ)を減(へら)して養ひたり、依之(これによつて)、象彼(かの)飼者(かふもの)を鼻にて卷(まき)て投殺(なげころ)せり、佞臣(ねいしん)を知りて不通(とほさず)と云(いふ)事誠(まこと)なり、能(よく)理非を正す靈獸也(なり)〔「象志」と云ふ本、別に所持す。〕。象の糞は、牛の如く生にてゆるく下す故に、「洞」と云、痘瘡(とうさう)の藥とて賣(うり)たれども、功を見たるもの一人も無し、賣(うり)たき故の談なるべし』とある。「高一丈二三尺、長四間」背高三・六四メートル、四足で立っている際の全長が約三・七メートル。「酉戌の年」とは元文五(一七四〇)年を基準とする謂いであるから没年は寛保元・元文六(一七四一)年辛酉(かのととり)か翌寛保二年壬戌(みずのえいぬ)で先の死亡年より七、八年前であるが、記載内容から見ると、この方が正しい感じがする。中野区東部区民活動センター運営委員会公式サイト内のささご会製作になる『紙芝居「江戸に象が来た」』でも没したのは中野の源助に飼われるようになって僅か一年八ヶ月目の寛保二年十二月一日とする(この紙芝居、大井川の渡しの象の渡河のシーンなどすこぶる必見!)。先の記載は「寛保二年」読み違えたものかも知れない。「象志」はこの時に来日した象の形態その他を纏めた書で著者は不明とされているが、記述に普賢菩薩と白象に注目した記述があり、京都の仏僧との説もある(ここは「馬込と大田区の歴史を保存する会」公式サイト内のこちらのデータに拠った)。なお、先行する『「耳嚢 巻之十 怪倉の事」追加資料 釈敬順「十方庵遊歴雑記」より「本所数原氏石庫の妖怪」』も是非、参照されたい。……このぞうさん、何だか、とっても可哀そう……

⑦文化十年(一八一三)年

 本話の象。セイロンの♀象が来日。但し、本文にもある通り、幕府老中の評議の結果、この象は送り返されている。⑤と同様に加藤好夫氏のサイト「浮世絵文献資料館」の「浮世絵辞典」の「☆ ぞう 象」の項に、石塚豊芥子編の随筆「街談文々集要」(万延元(一八六〇)年序)の文化十年の記事「和蘭象持渡」を引いて(恣意的に正字化し、句読点や記号の一部を変更追加省略し、読みを独自に附した)

   《引用開始》

右來舶の内、象を初め珍らしき禽獸之(の)類、江戶表へ御伺(おんうかがひ)候處、御差(さし)もどしに相成(あひなり)候、是(これ)珍禽(ちんきん)奇獸不蓄於(たくはへざるによる)。

   國といへる、聖のいましめもありがたし。此節、

     めづらしな象(キサ)のさし櫛さし連(つれ)て寄合町(よりあひまち)に出(いづ)る新象(しんぞう)

     應永ハ初會(しよくわい)享保ハうらなれど三會目にハよバぬ新象

                             右蜀山人詠

   《引用開始》

とある。蜀山人の狂歌二つは孰れも遊郭の水揚げの済まない見習い女郎の新造(しんぞう/しんぞ)に掛けた洒落で実に面白い。一首目の「さし櫛」(女が髪飾りとして挿す櫛)の原材料は鼈甲の他、象牙も用いられた。「寄合町」は長崎の丸山遊郭の町名。二首目は、遊郭に客が初めて登楼することを「初會」と言い、二回目を「うら」、「裏を返す」と言った(遊女屋には遊女の名前を記した札が下がっているが、この札を客が指名すると裏返すことに由来)。三度目の登楼を「馴染み」と称し、客は遊女が気に入ったので長く通う意を含む「馴染み金」という祝儀を出してこの時、初めて遊女は客と寝る。三回目の登楼で客が「馴染み金」を出さないと「客人」と呼ばれて馴染みにはなれなかった(ここはネット上のサイト「性風俗用語辞典」の「裏を返す」に拠った)。まさにこうした遊郭の習慣を実にうまくこの象の返送の一件にインスパイアしてあるのである。前に出した「馬込と大田区の歴史を保存する会」公式サイト内のこちらには、この象の彩色画が載る。……よかったね、帰れて……

⑦―⑵文久二(一八六二)年

 アメリカ船が横浜港に象を持ち込み、翌年にはこの象が両国で見世物にかけられ、興行は大ヒットを飛ばし、その後も興行師によって明治維新を生き延び、明治七(一八七四)年まで全国を巡回して各地で人気を博した。

   *

・「文化十酉年六月廿八日阿蘭陀一番舟渡來象正寫の事」は「文化十酉年六月廿八日、阿蘭陀(おらんだ)一番舟(いちばんぶね)渡し來たる象、正寫(しやううつし)の事」と読む。「正寫」は実物の姿形をそのまま忠実に写しとること、又はその絵を指す。因みに「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月であるから、ちょうど一年前になる。

・「十九世紀初頭の出島には夏になるとオランダの貿易船が二隻来航するのが通例で、そのうち、先に長崎大波止(おおはと)に到着する船を「一番船」と読んだ。謂わば二艘の船団の旗艦であり、その船長が一番船船長として厚遇された(参考にしたuchiyama氏のサイト「史跡写真紀行」の「出島」に嘉永四(一八五一)年に来航したオランダ船船長デ・コーニングの「私の日本滞在記」などを参考にして再現された「一番船船長の部屋」の画像がある)。

・「不快の節は□て土を食す」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『不快の砌(みぎり)は極(きは)めて土を食す』とある。これで訳した。

・「萱」細長い葉と茎を地上から立てる草本のチガヤ・スゲ・ススキなどの総称であるが、これは藁と考えてよかろう。

・「荷」助数詞。一人が天秤棒で肩に担ぐ一度の物の量を単位として数えるのに用いる。

・「一斤半」九百グラム。

・「擔」水や肥やしなどを入れて天秤棒で担う桶。

・「五六里」十九・六~二十三・六キロメートル。

・「六尺」一・八二メートル。 

 

■やぶちゃん現代語訳 

 

 文化十年酉年六月二十八日、阿蘭陀(オランダ)一番舟(いちばんぶね)によって渡来せる象の写像の事 

 

 生まれて今年で五歳に相い成ると申す由。大きさは日本の牛の十倍はある。普段は、一日に

・米     約六升

・茅(かや) 三荷(か)

・砂糖    約一斤(きん)半

・水     担(たご)にて凡そ二荷

ほどずつ、気がむくと折々喰らい、総て食い尽くす由。体長が思わしくない折りには、異様なほど土を食う。そういう際には、水約一荷宛、酒一升五合ほどを混入して吞ませると、大方、快癒するという。日本の里数にして一日に凡そ五、六里ほどは歩行するという。鼻の長さは凡そ六尺ほど。伸縮自在にして、人の手に準ずる役割をなすものである。

 この獣(けもの)、幕閣より「御用なし」との裁断の下って、長崎より直きに御返しとなった。

2015/04/02

耳囊 卷之十 呼出し山の事

 

  呼出し山の事

 

 上野の樂人(がくじん)に東儀(とうぎ)右裔といへる悴、今年六歲なりしが、甚(はなはだ)發明にて兩親の寵愛殊に勝れしが、文化十一年の初午(はつうま)の日に、何れへ行(ゆき)しや行衞不知(しれず)故、鉦太鼓にて所々を搜しけれども、しるしなし。或人の云(いへ)るは、八王子に呼出し山といへる山あり、是へ右體(てい)神隱しの類(たぐひ)を祈念すれば、出ずといふ事なしと語りし故、早速右山へ參りて、其子の名を呼(よび)て尋(たづね)けれども、何のしるしなし。旅宿に泊りし夜の夢に老翁來りて、汝(なんぢ)子別條なし、來る幾日爾(なんぢ)が家最寄にて老僧の山伏に可逢(あふべし)、それを止(と)めて、尋(たづね)みよと言(いひ)し故、其日を待(まち)しに、果して老僧に逢(あひ)ける故、爾々(しかじか)のわけをかたり聞(きき)しに、隨分別條なし、未(いまだ)四五日は歸るまじ、幾日頃歸るべしといひしが、果して其日恙なく戾りしと也。 

 

□やぶちゃん注

○前項連関:ホットなアーバン・レジェンドの謎の失踪事件で直連関。

・「呼出し山」これは現在の東京都八王子市上川町にある標高五〇五・七メートルの今熊山(いまくまさん)山である。ウィキの「今熊山」によれば、この山は古来より、『失踪者や遺失物などを戻して欲しいときに、この頂上で「(失せものの名前)を出してくりょーやーい!」と大声で呼ばわれば元に戻るとの信仰があり、「呼ばわり山」のひとつに数えられている』とあり、『山中に今熊山園地、今熊開運稲荷社が、頂上に今熊神社があり今熊神社登拝口に同神社の遥拝殿がある』とある。また、柳田國男の「山の人生」(大正一五(一九二六)年刊)の「一三 神隱しに奇異なる約束ありしこと」の冒頭から二番目の段落中に『八王子の近く』の『呼ばわり山』という名でこの山のことが出る。以下、当該章冒頭と続く当該段落の二段のみを引用しておく(底本はちくま文庫版「柳田國男全集」第四巻に拠った。下線はやぶちゃん)。

   《引用開始》

 神隠しから後に戻って来たという者の話は、さらに悲しむべき他の半分の、不可測なる運命と終末とを考える材料として、なお忍耐して多くこれを蒐集(しゅうしゅう)する必要がある。社会心理学という学問は、日本ではまだ翻訳ばかりで、国民のための研究者はいつになったら出て来るものか、今はまだすこしの心当こころあてもない。それを待つ間の退屈を紛らすために、かねて集めてあった二三の実例を栞(しおり)として、自分はほんの少しばかり、なお奥の方へ入りこんで見ようと思う。最初に注意せずにいられぬことは、我々の平凡生活にとって神隠しほど異常なるかつ予期しにくい出来事は他にないにもかかわらず、単に存外に頻繁でありまたどれここれもよく似ているのみでなく、別になお人が設けたのでない法則のごときものが、一貫して存するらしいことである。例えば信州などでは、山の天狗に連れて行かれた者は、跡に履物(はきもの)が正しく揃(そろ)えてあって、一見して普通の狼藉(ろうぜき)、または自身で身を投げたりした者と、判別することができるといっている。そんなことは信じえないと評してもよいが、問題は何ゆえに人がそのようなことを言い始めるに至ったかにある。

 あるいはまた二日とか三日とか、一定の期間捜(さが)してみて見えぬ場合に、始めてこれを神隠しと推断し、それからはまた特別の方法を講ずる地方もある。七日を過ぎてなお発見しえぬ場合にもはや還らぬ者としてその方法を中止する風もある。あるいはまた山の頂上に登って高声に児の名を呼び、これに答うる者あるときは、その児いずれかに生存すと信じて、かろうじて自ら慰める者がある。八王子の近くにも呼ばわり山という山があって、時々迷子の親などが登って呼び叫ぶ声を聴くという話もあった。町内の附合いまたは組合の義理と称して、各戸総出をもって行列を作り、一定の路筋を廻歴した慣習のごときも、これを個々の事変に際する協力といわんよりは、すこぶる葬礼祭礼などの方式に近く、しかも捜査の目的に向かっては、必ずしも適切なる手段とも思われなかった。この仕来りには恐らくは忘却せられた今一つ根本の意味があったのである。それを考え出さぬ限りは、神隠しの特に日本に多かった理由も解らぬのである。

   《引用終了》

なお、「山の人生」のこの辺りは、こうした「神隠し」について詳述していて興味深い。未見の方は是非お薦めである。

・「上野の樂人」寛永寺に所属する音楽・歌舞を職とする伶人(れいじん)。又は雅楽の楽人。当時は神仏混淆であったから後者でもおかしくない。

・「東儀右裔」名前の部分、如何にも不審で、誤写の可能性が疑われる。事実、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『東儀右兵衞』である(下線やぶちゃん)。東儀家は奈良時代から今日まで千三百年以上の間、雅楽を世襲してきた楽家(宮中・京都/南都・奈良/天王寺・大阪の楽師の家)の家系で、堂上することは許されない地下階級に属する下級官人の家系であるが、近衛府の下級の官職名を代々与えられていた。遠祖は聖徳太子に仕えていた秦河勝(はたのかわかつ)とされる(以上はウィキの「東儀家」に拠る)。以上の事実から、これは例外的に訳では「東儀右兵衛」とすることにする。

・「文化十一年の初午の日」「初午」は陰暦二月最初の午の日で各所の稲荷神社に於いて初午祭りが行われる。一の午とも言う。文化十一年二月の初午は二月八日庚午(かのえうま)でグレゴリオ暦では一八一四年三月二十九日に相当する。因みに「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月であるから直近四ヶ月前の出来事である。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

  呼び出し山の事

 

 上野の楽人(がくじん)にて東儀右兵衛(とうぎうへえ)とか申す者、伜は当年とって六歳となって御座ったが、はなはだ利発にして両親の寵愛も、殊の外深いものがあった。

 ところが、今年文化十一年の初午(はつうま)の日、この子、何処方(いずかた)へ参ったものか、とんと行方(ゆくえ)知れずとなってしもうたと申す。

 親族や近隣のものども総出で、鉦や太鼓なんどを叩いては方々(ほうぼう)探し歩いててはみたものの、これ、一向に見つからぬ。

 そんな折り、ある人の曰く、

「……何でも八王子に、「呼び出し山」と申す山のあるらしいぞ。――そこへ参って、こうした神隠しの類いの人捜しをこれ、祈念致すと、必ず見つかる――見つからぬことは、ない――ちゅう話じゃ。」

とのことで御座ったによって、藁にも縋(すが)る思いで八王子へと向かい、その「呼び出し山」とやらへ登って、山頂より我が子の名を呼ばわった上、

「その行方は、何処(いずこ)!」

と、合わせて、大声にて、訊ねてはみたものの、己(おのれ)らが木霊の、空しく響き返すばかり。何のお告げもなく、空しく夫婦は下山致いた。

 さても、その日は八王子にとったる旅籠(はたご)に泊まったが、その夜の夫婦の夢に、これ、一人の老翁の現われ、

「……汝らが子……これ……別状、ない。……来たる〇月△日……汝が家の近くにて老僧か山伏に出逢うであろう。……その者を引きとめて、子が消息、これ、訊ねみるがよかろう……」

と告げて消えた、と申す。

 目覚めて同じき夢を見たることを認め合(お)うたればこそ、それより二人して、その日の参るを心待ちに待った。

 そうして、その当日のこと、夫婦はまさに、家の近くにて、はたして一人の老僧に出逢(でお)うた。

 されば、息せき切ってこれまでの経緯や夢のお告げを縷々語って、子のことを訊ね問うたところが、

「……ふむ。なるほど。……いや! 全く以ってお子はこれ、別状ない。……そうさ、いまだ四、五日は帰るまいが――来たる△日頃には――必ず、帰って参るはずじゃ!」

と答えて、去って行った。

 そうして、はたして、その老僧の告げた日、子はこれ、無事、帰って参ったという。

耳嚢 巻之十 狸遊女を揚し奇談の事


 狸遊女を揚し奇談の事

 文化十一年の春、都鄙(とひ)專ら口說(くぜつ)しけるは、狸遊女を揚(あげ)て遊(あそび)しといふ事、くわしく尋(たづね)しに、眞はしらず、吉原江戶町貮丁目佐野松屋といへる遊女屋に、佐野川といふ遊女を、二三囘も來りて揚げ遊し者ありしが、右遊女に執心なりしやうすにて、遊女もにくからずもてなしけるが、或夜殊外(このほか)に酒を過(すご)し、右客朝寢して前後もしらず有(あり)しに、右客をおこすとて禿(かむろ)など來りて、わつといふて泣出(なきいだし)しける故、みなみな驚きて其樣(そのやう)を聞(きき)しに、右客は人間にあらずと口々罵りしが、いづれへ至りしや行衞(ゆくゑ)なくなりしが、追(おつ)て訊(ただ)しければ、いか樣(さま)にも、狸の化來(ばけきた)りしに違(ちがひ)なしとや。扨佐野松や、狐狸の類(たぐひ)ならば請取(うけとり)し勤(つとめ)も、誠の金ならじと改め見しに、正金(しやうきん)にまぎれなかりし故、亭主のいへるは、正金に候うへは、盜賊などの客になり來りしよりは、遙(はるか)に宜(よろしき)事といひて笑(わらひ)しとなり。

□やぶちゃん注

○前項連関:馬の悲憤慷慨という異類綺譚から、ちょっと珍しい狸が化けて、かの吉原通いというぶっ飛びの異類妖異譚で連関。訳は狸が化けたに違いないとする部分を翻案で膨らました。因みに、この真相は何だろう? 事件性はなく、佐野川も亭主も損害を被っていない。確かに見たというのはこうした擬似的超常現象に於いて精神感染しやすい成人前の少女らだけである(佐野川は親しくつき合ったわけだから、何かそれらしい不審を述べるのが自然なのに全く登場すらしない)。――これは実は佐野松屋が仕組んだ客寄せのための仕組まれた都市伝説だったのではないか?――と私は深く疑っているのである。しかも寧ろ、この第三種接近遭遇をする禿らは何も知らない被害者であって、蒲団の中の狸も案外、仕組まれたハリボテであったという想定も、これ面白いではないか。噂話にゃ鵜の眼鷹の眼の江戸っ子のこと、狸を抱いた佐野川を見たいとも思い、禿の実見話なら私も酒の肴に聴いてみたい気がする。少なくとも絶対にこの噂話によってこの後暫くは佐野松屋、繁昌したはずである。最後の主人の台詞と笑い声に私はそうした真相をほぼ確信的に感じ取ったことを述べおきたい。因みに、訳で「若い衆(し)」と使ったが、吉原で裏方仕事に従事した男衆は年老いてもこう呼ばれた。

・「文化十一年の春」岩波の長谷川氏注に、考証家石塚豊芥子(いしづかほうかいし 寛政一一(一七九九)年~文久元(一八六二)年)の「豊芥子日記」『中巻に、文化十一年三月、佐野屋抱え女郎某にこのことありという』とあり、「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月であるから、恐ろしくホットな、しかも舞台が吉原という真正のアーバン・レジェンドである。

・「眞はしらず」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『眞僞は知らず』である。そっちで採る。

・「吉原江戸町貮丁目」新吉原には京町(まち)一・二丁目、江戸町(ちょう)一・二丁目、仲之町(ちょう)、揚屋町(あげやちょう)、角町(かどちょう)があったが、江戸二丁目は大門を入って向かって左方二番目の路地を言った。

・「佐野松屋」底本の鈴木氏注に、『三村翁「江戸川町二丁目、半まがき交り、さの松屋、野恵上より四枚目、※佐の川と見ゆ。」ちなみ半籬は、交り見世ともいって、大籬に次ぐ階級の遊女屋。中見せ』とある。「※」の箇所には、

Sanokawahutyou

という屋号の符牒のようなものが入っている。大籬(おおまがき)というのは江戸吉原で最も格式の高い娼家(遊女屋)のことで、ウィキの「大籬」によれば、寛政年間(一七八九年~一八〇一年)以降、吉原では見世先の構造によって妓楼の等級を表わす規定があった。籬(遊郭の各店舗の入り口の落ち間(土間・上がり口)と遊女が通りかかる客を呼び入れる座敷である見世(みせ=張見世)との間に設けた格子戸)の高さが天井に達するものを「大籬」又は「総籬(そうまがき)」と呼び、その二分の一或いは四分の三のものを「半籬(はんまがき)」又は「交り見世」、籬の高さが二尺に限られていたものを「小見世(こみせ)」と区別した。大籬は間口十三間(二十三・六メートル)のうち、四間(七・三メートル)を見世にとり、右方の五~六間(十~十一メートル)を格子につくり、入り口は九尺(二・七メートル)乃至二間(三・六メートル)で、奥行は二十二間(ジャスト四十メートル)に制限されていた。これ以下の格下の遊郭では間口十間(十八・一八メートル)を超えることは許されなかった、とある。因みに、作家隆慶一郎氏の公式サイト「隆慶一郎わーるど」の「隆慶遊女名鑑」に実在した「黛(かおる)」という江戸町佐野屋抱えの太夫のことが挙げられてあるから、結構知られた中級クラス半籬の遊女屋であったことが分かる。

・「禿」禿童とも書き、「かぶろ」とも読む。太夫(たゆう)・天神など上位の遊女が側に置いて遣った六、七歳から十三、四歳くらいまでの遊女見習いの少女。彼女たちは一種の未成年扱いで禿の時期には客はとらない。女郎の階級制度については「耳嚢 巻之十 親子年を經て廻り逢ふ奇談の事」の「新造」の私の注などを参照されたい。

・「勤(つとめ)」これは遊郭用語で揚げ代の支払いを言う。他にも広義に「遊女の仕事」の意でも用いる。 

 

■やぶちゃん現代語訳

 狸が遊女を揚げた奇談の事

 文化十一年の春、江戸市中はおろか、近郷近在に至るまで、専らの噂として、

――狸が遊女を揚げて吉原遊びをした

とのこと、これ、詳しく配下の探索方に訊ねさせてみたところが、真偽のほどは不明ながら……吉原江戸町二丁目の佐野松屋と申す遊女屋に、佐野川(さのがわ)と申す遊女を名指して、二、三度も来たっては揚げ、遊びおる者の御座ったが、この者、この佐野川にいたく執心なしておる様子にて、当の佐野川も満更でものぅ、憎からずもてなして御座ったと申す。

 ところがある夜のこと、殊の外に酒を過ごし、その客、朝寝を致いて、これ、前後不覚といった趣きにて大鼾(おおいびき)をかいて寝入って御座ったところ、陽も高こぅなったによって、その客を起こさんと、何人かの禿(かむろ)らが来たって部屋へ入ったところが、禿ら、

「きゃあっつ!」

「きぇえっつ!」

「なんや? これ?!」

と口々に黄色い声を挙げつつ、大泣きになりながら走り出て参った。

 されば、店中、皆々、大きに驚き、若い衆(し)、

「何じゃ? どうしたんじゃッツ!?……かの部屋で、何かされたんかッツ!?」

と糺いたところが、

「……あ、あのお客さまは!……」

「……に、人間にては!……」

「……これ! ありんせんッツ!……」

と、禿ら自身がこれ、顔、引き攣らせ、狐目のまま、口々に騒ぎ立てて御座った。

 そこで若い衆(し)、心張棒を得物(えもの)に、恐る恐る、かの男の部屋を覗いてみたところが、何処(いずこ)参ったものか、男の姿はこれなく、蒲団はもぬけの殻にて、そのまんま男はこれ、行方知れずとなって御座った。

 暫くして、禿らが落ち着きを取り戻したによって、様子を再び質いたところが――

「……蒲団の端から……これ……ふさふさした……し、尻尾の出でておりやんして……」

「……あたいは……起こさんものと、お鼻をつままんとしやんしたが……そのお鼻、こ、これ……つんと出て濡れておって……もう、犬にそっくりやした……」

「……あたいは……足をくすぐろうと蒲団をめくりやんしたが……ほしたら……け、毛むくじゃらで……し、しかも……指が……こ、これ……全部で四つでありんした……」

などと申した。また、かの若い衆(し)も、

「……そういゃあ、空の蒲団の中にゃ、妙に強(こわ)い短い毛(けえ)が、これ、いっぱい散らばっておりましたなぁ……」

などと、それを請けがうようなことを申したによって、皆々、

「……こ、これは! いかにも!……狸の化けて吉原通い致いたに違いないッ!」

と合点致いたと申す。

 さても、それまでその場にあって、黙って者どもの訴えを聴いて御座った佐野松屋の主人、そこで、

「……狐狸の類いとならば、受け取った揚げ代もこれ――葉っぱか馬糞か――孰れ、本物の金子にては御座らぬのではないかのぅ?……」

と申したによって、勘定方を呼び出だし、かの男の支払うた分が入(い)りおるはずの金箱(かねばこ)を、これ片っ端から改め見てみたが、これといって葉っぱや馬糞に変じておらず、贋金もない。既に支払(しはろ)うてより、かなり日の経ったものもあれば、どれも本物に間違御座らぬとの返事。

 されば、亭主の曰く、

「――正真正銘の金子にて御座った上は――これ、盜賊などの客に化けて来たって金はおろか命まで奪わるるよりは――これ、遙かに悦ばしいことにて、御座ろうぞ。」

と、呵々大笑致いた、と申す。

2015/04/01

藪野直史野人化4周年記念+ブログ・アクセス670000突破記念 火野葦平 海御前 附やぶちゃん注

本未明、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、670000アクセスを突破した。
藪野直史野人化4周年記念と合わせて、記念テクストとして火野葦平の「海御前」を公開する。
この掌篇、何か妙に心に残る。

[やぶちゃん注:各段落の後に必要に応じて注を附した関係上、読み易さを考え、次の段落とは注の有無に限らず一行空けた。]

 

   海御前

 

 ここは、暗うございますね。たいへん、暗い。あたくしの棲んでゐる海底も、そんなに明るくはないけれども、ここよりはずつと明るい。なんだか異樣な臭氣がしますね。息苦しい。なんのにほひでせう? 草いきれのやうでもあるし、饐(す)ゑた土のにほひのやうでもあるし、遠い人間の屍のやうないやなにほひでもある。それに、ひどくじめじめしてゐる。蚯蚓(とかげ)や土龍(もぐら)がたくさんゐますね。あまり棲み心地のよいところではないやうに思はれますわ。でも、あたくしはうれしいのです。ほんたうにうれしうございますわ。ここがいくらか快適の土地でないくらゐがなんでございませう。すべての環境といふものがそこに棲んだり旅したりする者の主觀によつて、よくもなつたり惡くもなつたりすることは、當然のことではありませんか。あなたがたがここをもつとも棲みよい場所として選ばれたのならば、そのあなたがたをかぎりなく力づよい味方と思ふあたくしにとりましても、同じやうに樂園と感じられます。

[やぶちゃん注:「蚯蚓(とかげ)」のルビはママ。「みみづ」のルビの方の誤りであろう。]

 でも、正直、はじめ、いきなりここへ引つぱりこまれたときにはびつくりいたしました。あたくしも河童と生まれかはりましてからは、前世の手搦女(たをやめ)とはちがつた神通力を得、馬でも機關車でも川にかきこむほどの膂力(りよりよく)を持つやうになつてをりましたのに、油斷でした。油斷といふことはどんな英雄豪傑にもございます。あたくしは日暮れとともに西の空にわきいでた夕燒雲のあまりの美しさに、ただうつとりみとれてをりましたので、突然、あたくしの足もとから強い力で引つぱられたときは、たわいもなく引きこまれてしまひした。心が空洞(うつろ)になつてゐるときは神をうしなつてゐるときで、やむを得ません。あたくしが夕燒雲に見とれてゐたのは、あたくしが詩人であるとか、あの女學生趣味の感傷にとらはれてゐたのではありません。あの巨大な眞紅の旗、空全體が一旒(いちる)の赤い旗になつたやうな神祕、奇蹟、憧憬と歡喜、歷史がつねにその眞實としてつたへてきた囘想の正しさ、さういふものにあたくしの全精神をふるはせてゐたのでございました。眞紅、赤い旗こそ、あたくしの命です。その昔、あたくしが源氏とあらそつて、つひに力及ばず、一の谷、屋島、壇の浦と西へ西へと逃れたとき、あたくし守つてゐてくれたのは、平家の象徴たる赤旗でした。あたくしたちはどんなに苦しい戰(いくさ)ときにも、敗北と富の流竄(るざん)におちましたときにも、宗家の旗じるし眞紅のいろを見ると勇氣が出ました。それははかなくもあたくしたちの一族が壇の浦の海底に沈んで亡びたのちもなほ、あたくしたちの消えざる矜持(きようぢ)として、今日まであたくしたちの全精神を支へてをるものでございます。さればあたくしが今日のたそがれど空いらめんを眞紅に染めた夕燒に、恍惚としてをりましたわけを理解下さいましたでせう。不覺でした。そのため通力を使ふいとまもなく、ここへ引きずりこまれましたのは。……でも、今はうれしうございますの。思ひがけなくあなたがたのやうな味方に今日めぐりあへたことは、あたくしの幸福(しあはせ)でございます。平家も壇の浦滅亡以來、ちりぢりばらばらになり、源氏のきびしい追悼の眼をのがれて、全國いたるところの山國邊陬(へんすう)の地にかくれ棲むやうになつてから、早や數百年が經ちました。時間の魔力が忘却を强ひたとて、なんの不思議がございませう。あなたがたがあたくしのことを知らなくなつてゐたとて、お恨みはいたしません。お望みにしたがつて、お話しいたしませう。さすればあたくしの今日までの復讐の悲願も、あなたがたの理解と協力とを得て、さらに力づよいものとなりませう。

[やぶちゃん注:「膂力」筋肉の力。腕の力。

「神をうしなつてゐるときで」この「神」は「じん」と音読みしていよう。神通力。

「一旒(いちる)」「旒/流」は接尾語で助数詞。旗や幟(のぼり)などを数えるのに用い、通常は「りう(りゅう)」と読むが、「旒」には呉音で「ル」もある。

「邊陬」中央から遠く離れた土地。片田舎。]

 あたくしは平家の侍大將能登守敎經(のとのかみのりつね)の妻のなれのはて、いまは海御前(あまごぜ)とよばれてゐる者でございます。

[やぶちゃん注:「能登守敎經の妻」平教経はご存じ平家随一の猛将にして源義経の好敵手として壇の浦で華々しく戦い義経を追い詰めて組みかからんとしたが、八艘飛びで逃げられ、源氏の荒武者二人を締め抱えて錘として入水し果てた(「吾妻鏡」では、一ノ谷の戦いで捕縛されて獄門となったいう野暮な記事が載るが、私の好きな彼のためにこれ採らない)。享年二十六。その妻というのはよく知られていないが、死後に河童に変じたという伝承は古くから知られている。ウィキの「海御前」によれば(注記号は省略した)、『海御前(うみごぜん、あまごぜ)は、福岡県宗像郡東郷村(現・宗像市)、北九州市門司区大積に伝わる海の妖怪。河童の女親分と言われている。かつて壇ノ浦の戦いで敗れ去った平家が海へ身を投じた際、武将・平教経の奥方(母親という説もある)が福岡まで流れ着き、河童に化身したものとされる(ちなみの他の女官たちは手下の河童に、武将たちはヘイケガニに化身したと言われる)。普段は他の河童たちを支配しているが、毎年5月5日だけは支配を解いて河童たちを自由に放す。この際に河童たちに、ソバの花が咲く前に帰るように告げると言うが、これは、自分たち平家を滅ぼした源氏の旗印が白であるために白い色のソバの花を恐れているためといい、自身もソバの花が咲く時期には住処にこもって一歩も外へ出ず、わなわなと震え上がりながら過ごすという』(この蕎麦の花の話は本文でも後に言及される)。『また平家出身であるため、人に危害を加える際も、源氏の人間以外に手を出すことは決してなかったと伝えられている』。『この伝承の名残りで門司港地区には現在でも、教経の奥方を葬ったという「海御前の碑」が建てられている』とある(福岡県北九州市門司区大積(おおつみ)に在る)。また、逸匠冥帝氏のサイト「日本伝承大鑑」内の「海御前の墓」には、そもそもが平家一門と河童は強い親和性があり、九州の河童の総帥とされる「巨瀬(こせ)入道」は『平清盛の生まれ変わりであるとされており、水天宮に祀られている二位の尼(清盛の妻)に時々逢いに筑後川を訪れるが、その時は川が大荒れになるとされる。多くの者が入水して亡くなったという史実から、平家一門が水を司る神や妖怪に化身したという伝説が生まれたと推察される』とある。]

 壇の捕は平家終焉(しゆうえん)の地として、その名殘りを海底にとどめてをります。榮華をほこり、沈む太陽を扇をもつてよびかへしたほどの權勢に、永い夢を見てをりました平家も、あの關東の暴力團、源氏の理不盡な攻擊に潰(つひ)えましたが、その無念をばやるかたなく、その怨靈(をんりやう)は今日まで、男は蟹となり、女は河童となつてのこつてをります。ところが不甲斐ないことに、かれらは現在は關門海峽のはげしく潮流の鳴りはためく海底に、ただ淫逸(いんいつ)無爲の日をおくつてゐるばかりでありまして、せつかく怨靈として再生しましたのに、いつかうに雄々しく復讐のためたたかふ氣配もありません。それどころか、あの平素蟹とよばれ、背の甲羅の紋樣に無念の形相をたたへてゐる男たちは、賤しい漁師の手に埒(らち)もなくとらへられ、賣られたり、食べられたり、剝製(はくせい)にされて飾りものになつたりしてゐる始末です。門司の突端、壇の涌口にのぞんだところにある和布利(めかり)神社の境内には、あたかも平家の腰拔けを嘲笑するかのやうに、巨大な平家蟹の剝製が、繪馬堂にたかだかとかかげられてをります。ああ、なにをかくしませう、それこそあたくしの夫、かつてその勇猛をうたはれ、平家の花とたたへられ、壇の浦の合戰においてあの源氏の大將九郞判官義經をすんでのことに生けどりにしようとした能登守敎經のかはりはてた姿なのでございます。これを申しあげるのはつらいことです。あのとき、義經は八艘(さう)とびをしてのがれましたが(ああ、あの飛鳥にも似た義經の姿が眼にうかびます)もしあたくしの夫が義經を生けどりにしてをりましたならば、歷史もまつたく轉してをりましたらうか。それほどの無念さでありましたのでございますから、怨靈となつてのちは雄々しく源氏へ復讐すべく渾身の勇をふるひおこすが當然でありますのに、夫はたたかひに倦み、海底に安逸をむさぼつて、あらうことか、下賤の漁師の網にとらはれ、恥づき見世物となつてしまつたのでございます。

[やぶちゃん注:「和布利神社」は現在の福岡県北九州市門司区門司にある和布刈(めかり)神社のこと。ウィキの「和布刈神社」に、『神社名となっている「和布刈」とは「ワカメを刈る」の意であり、毎年旧暦元旦の未明に三人の神職がそれぞれ松明、手桶、鎌を持って神社の前の関門海峡に入り、海岸でワカメを刈り採って、神前に供える「和布刈神事」(めかりしんじ)が行われる』。和銅三(七一〇)年には『神事で供えられたワカメが朝廷に献上されているとの記述が残って』おり、現在、この神事は『福岡県の無形文化財に指定されている』とある。因みにこの神事、私には中学生の頃に貪るように読んだ松本清張の一作「時間の習俗」以来、耳馴染みの神事である。私は行ったことがないが、壇ノ浦に面した海岸に鳥居が建っており、そこから石段が社殿に向かって延びているのが、ネット上の写真で確認出来る。ただ、ここに記されているような「繪馬堂」や、そこに「巨大な平家蟹の剝製」があるかないかは調べ得なかった。識者の御教授を切に乞うものである。但し、この剥製は本文でも再度、叙述され、異様なリアリズムの映像で迫ってくる。火野は実際にそれを見たものと私は信じたい。]

 いや、なにごとも隱しますまい。歷史の眞實をかたるのはその歷史とともに永く生きた者の義務でございます。壇の浦以來、今日まで生をうけてゐるあたくしをのぞいて、眞相を知る者はない筈です。恥もいとひません。じつは、すべてのことは、戀ゆゑでした。

 おゆるし下さい。女の胸の奧底にある不思義な感情、自分でもどうにもならぬ神祕な衝動、あたくしも一人の女でございました。はつきり申しあげませう。あたくしはあの憎い憎い源氏、敵の大將である九郞判官義經を戀するやうになつてゐたのでございます。いつのころ、どのやうにしてか、戀のめばえをさぐることなどは思ひもつかぬことですが、あの一の谷、屋島、壇の浦とつづく戰場の中において、あたくしの義經への慕情は、せつなく耐へがたく加速度的に燃えあがるやうになつてゐました。

[やぶちゃん注:「不思義」はママ。]

 一の谷で、那須の與市が船上の扇を射おとしたあと、この關東の荒武者は、圖に乘つて、しきりと拍手喝采してゐる平家の一老兵を、つづいて射殺しました。なんといふはしたないわざでありませう。それまで、みごとに扇のかなめを射た妙技に、敵も味方も舷(ふなべり)をたたいてやんやと褒めそやしてゐましたが、このことのために、空に浮かぶ平家の軍船ははたと沈默し、味氣なく白けはてた空氣のなかに、この弓の名手にたいする輕悔と憎惡の感情がながれました。しかし、陸にゐる源氏の軍勢はさらに喝采のどよめきをつづけてゐます。あたくしは夫敎經とともに齒をくいしばるやうにしてその光景をながめてをりました。その射ころされた老兵といふのがほかならぬ夫の古く忠實な郞黨であつたからでございます。

[やぶちゃん注:「一の谷で、那須の與市が船上の扇を射おとした」誤り。ご存じの通り、那須与一の扇の的のエピソードは「屋島の戦い」である。もしかするとこれは確信犯で、火野葦平は知られた話とは意識的にずらしたパラレル・ワールドとしての今一つの「平家物語」の滅亡の序曲を構築しようとしているのかも知れない(そういえば名前も「與一」でなく「與市」となっている。次段注も参照)。

「その射ころされた老兵といふのがほかならぬ夫の古く忠實な郞黨であつた」平家などではこの老兵が誰であったかは特に明らかにされてはいないが「源平盛衰記」では「伊賀平内左衞門尉(いがへいないざゑもんのじよう)が弟に、十郎兵衞尉家員(いへかず)」とする。しかし設定としては無理ではない。]

 那須の與市は意氣揚々として、馬をいそがせ、渚にかへりました。そして眉をいからし胸を張る步きかたで、大將義經のまへへ伺候しました。さぞかし晴れがましいお褒めの言葉と、なにかのすばらしい引出物でもあるかと期待したものでせう。ところが與市のあてはみごとに外れました。なにぶん遠方なので、しかとしたことはわかりかねましたが、大將の義經がすこぶる不興で、褒めるどころか、したたかに與市を叱りつけたにちがひないことは遠目にもそれと知れました。扇を射おとしただけでかへつてきたならば、與市は胴あげきれるくらゐに歡迎されたでせうに、大將の義經が與市を武士道を知らぬ者としておこりつけましたために、部下の兵隊たちももはや拍手をするどころか、すごすごと與市が御前を下つてまゐりましても、慰めようとする者すらなかつたのです。あたくしはこれを眺めてをりまして、ああ義經といふのはなんといふ立派な大將であらうかと、思はずためいきが出たのでした。そのあとで夫に氣づかれなかつたかと、はつといたしましたが、夫は淺ぐろい顏にぐりぐり眼をむいて、ふん馬鹿な大將奴、部下の手柄は褒めてやつとけばいいのに、あれでは那須與市は恨みで寢返りをうつだけの話だと、さんざんに嘲り笑つてをりました、しかし、那須與市宗高もさすがに音にきこえた武士(もののふ)で、このことを深く恥ぢ、その後は領國にとぢこもって、後に平家追討がはじまり、與市に、九州日向(ひうが)の椎葉(しいば)にのがれた殘黨討滅の命がくだつたときにも、自分は遠慮して、自分の次子小次郞宗昌を派遣したほどでした。

[やぶちゃん注:言わずもがな乍ら、本段も「平家物語」と異なる。躍り出た老兵を射るように命じたのは知られるストーリーでは義経であった(厳密にはその命を受けた伊勢三郎義盛が伝令する)。また「源平盛衰記」では、射るべきか射ざるべきかで評議がなされたが、「情は一旦の事ぞ、今一人も敵を取たらんは大切也とて、終に射るべきにぞ定めにける」とやはり義経が決めている。寧ろ、命ぜられるがままに射ざるを得なかった与一の方がやや不快感を持った可能性の方が高い。ウィキの「那須与一」によれば、嘉応元(一一六九)年頃に那須氏の居城神田城(現在の栃木県那須郡那珂川町)で生まれたと推測され、この折りの平家追討の働きによって源頼朝より丹波・信濃など五ヶ国に『荘園を賜った(丹後国五賀荘・若狭国東宮荘・武蔵国太田荘・信濃国角豆荘・備中国後月郡荏原荘)。また、十郎為隆を除く』九人の兄達が、『皆平氏に味方し、為隆ものちに罪を得たため、与一が十一男ながら那須氏の家督を継ぐ事となった。与一は信濃など各地に逃亡していた兄達を赦免し、領土を分け与え、下野国における那須氏発展の基礎を築いたとされる。しかし、某年、山城国伏見において死去』したとする。「寛政重修諸家譜」では文治五(一一八九)年八月八日没、「続群書類従」では建久元(一一九〇)年十月没とする。家督は兄の五郎資之(之隆)が継承したが、まもなく鎌倉幕府の有力御家人宇都宮朝綱の実子(異説もある)である頼資が資之の養子となり家督を継ぎ、その頼資の子が』、建久四(一一九三)年に『源頼朝の那須巻狩の際に饗応役を務めた(『吾妻鏡』による)光資である』とある。また「異説・伝承」の部分には、『子孫についてはいないとされているが、歴史学者の那須義定などが主張する異説(越後那須氏)もあり、梶原氏と諍いを起こしたため家督を捨てて出奔し、越後国の五十嵐家に身を寄せ、結婚して一男一女を儲け(息子は越後那須氏の祖となる)たという。その他、常陸国、出羽国、阿波国にも与一の末裔と称する一族が存在したという伝承、寺伝がある』とし、『また扇の的を射た功名で得たと伝えられている荘園の』内の一つに備中国荏原荘があるが、この伝承が事実であるかどうかは不明なものの、『少なくとも鎌倉時代中期の段階で那須氏の一族(荏原那須氏・備中那須氏)がこの地域を支配していたことを示す記録が残されている。また、与一に関する伝説の継承には備中那須氏をはじめとする西国の庶流が関わっており、下野那須氏の間では少なくても南北朝期の段階では与一の伝説については認識されていなかった可能性も指摘されている』。また、没年についても、一一八九年(又は一一九〇年)に『没したとするのは頼朝の粛清を免れるための偽装、出家した理由は癩病にかかり顔が変わってしまったため、とする伝承もある。また、那須義定によると頼朝の死後に赦免されて那須に戻った後に出家して浄土宗に帰依し、源平合戦の死者を弔う旅を』三十年余り続けた末、貞永元(一二三二)年に中風のため摂津国で没したという説もあるという。なお、どうしても私としては附しておきたい。冤罪であった弘前大学教授夫人殺人事件で権力側に組する法医学によって有罪判決が確定し、十年間服役せねばならなかった那須隆氏(仮釈放後に真犯人が出現、後、那須氏は再審で無罪)は、この那須氏の子孫なのである(リンク先はウィキ)。

「九州日向の椎葉」現在の宮崎県北西部に位置する東臼杵郡椎葉村(しいばそん)。ウィキの「椎葉村」に、『伝承としては、壇ノ浦の戦いで滅亡した平氏の残党が隠れ住んだ地の』一つとされ、平美宗(不詳)や『平知盛の遺児らが落ち延びてきたという。那須氏はその出自ではないかともいわれる(那須大八郎と鶴富姫伝説)』とある。さらにその那須大八郎のリンク先である同じくウィキの「那須宗久」によれば、那須宗久(なすむねひさ)は『鎌倉時代初期の武士とされる伝説上の人物。宮崎県椎葉村に伝わる鶴富姫伝説で知られる。通称は大八郎』で、『弓の名手として有名な那須宗高(与一)の弟とされる。江戸時代中期に編纂された『椎葉山由来記』によると、源頼朝の命を受け、病身の兄・宗高の代理として、宗高の次男とされる宗昌ら手勢を率いて、日向国椎葉へ平氏残党の追討に向かい』、元久二(一二〇五)年に『向山の平氏残党を討つ。次いで椎葉に進撃するが、平氏残党が農耕に勤しみ、戦意を喪失している様を目の当たりにし、追討を取り止め、幕府には討伐を果たした旨を報告した。宗久はそのまま椎葉に滞在し、屋敷を構え、農耕技術を伝え、平家の守り神である厳島神社を勧請するなどして落人達を慰めた。また、平清盛の末孫とされる鶴富姫を寵愛し、鶴富は妊娠したが、その直後の』貞応元(一二二二)年に『宗久は鎌倉より帰還命令を受けたという。宗久は「やがて安産なし男子出生に於ては我が本国下野の国へ連れ越すべし、女子なる時は其身に遣す」と言って太刀と系図を与え帰国したと伝わる。その後、鶴富は女子を生み、長じて婿を取り、婿が那須下野守を名乗って椎葉を支配したといわれる。戦国時代に椎葉を治めた国人・那須氏は、宗久と鶴富の子孫とされる』。但し、元久元(一二〇四)年に『平家追討の宣旨が出されているが、その追捕使が那須宗久であったという記録は無く、椎葉の伝説にのみ残る人物である。また『椎葉山由来記』の記載によると』、元久二年に椎葉に入り、三年間滞在したというが、椎葉を去ったとされる貞応元年は十七年後であり、矛盾がある、と記す。火野が素材としたのはこの伝承の変型譚か? 或いは全くの創作か。

「自分の次子小次郞宗昌」不詳。一般には与一には子はなかったとされる。前注も参照のこと。]

 義經がながれた弓を拾はうとして、危險におちいり部下からたしなめられたとき、叔父鎭西(ちんぜい)八郞爲朝のやうな强弓なら、こちらから好んでながして拾はせてもよいが、この弱弓が源氏の大將義經の弓かと笑はれるがいやさに、危險ををかして拾つたのだという話をきかされたときにも、あたくしの胸の奧の琴線は不思議な感應をうけて、ふるへるやうに鳴りました。

[やぶちゃん注:先の屋島の扇の的に連続したシチュエーションとして知られる、義経弓流しの段である。これに続いて起こった激しい合戦の最中、義経が海に執り落とした弓を敵の攻撃の中にあって拘って拾い上げて帰り、部下から「いかでか御命には代へさせ給ふべきか」と諫められ、義経が「嘲弄せられんが口惜しさに命に代へて取つたるぞかし」と答えた、その台詞を、火野はほぼ忠実に用いている。]

 めざましかつたのは壇の浦でございます。陣頭に立つて指揮する義經の美しい武者ぶりを、あたくしはなんど惚れ惚れと眺めましたでせう。あつてはならぬこと、してはならぬこと、敵將へのこのやるせない慕情、あたくしは運命の神をうらみ、身も世もあらぬなげきにいくたびか淚で袖をぬらしました。はじめはなにも知らなかつた夫敎經は、かよわい女であるあたくしがはげしい合戰と敗亡の悲運のなかで、神經衰弱になつたのだときめ、しきりとあたくしを慰めてをりましたが、そのうちにあたくしの眞意を氣ついたやうです。するとはげしい嫉妬が夫をさいなんで、にはかにあたくしに邪慳(じやけん)にあたるやうになつたと同時に、その憎惡が一途に敵將義經ひとりにそそがれるやうになりました。このために夫の勇猛さはさらに加はり、合戰のたびに義經を目がけて殺到しましたので、一時はこのために味方の志氣もふるひたつたほどでした。

 あのときの合戰は忘れられません。彼我の軍船は舷を接し、兵隊たちの雄たけびと、劍、槍、弓矢などのかちあふ音、法螺貝と陣太鼓の狂ほしい合奏、荒れる壇の浦の海は靑く、數十旒(る)の赤旗と白旗とが風にかるがへつて、その凄絕のありさまはとても口では傳へられません。そのとき、瞋恚(しんい)の眼に嫉妬のほむらをたぎらす夫敎經が宿願を達して、目的の義經に近づき、その鎧の錣(しころ)をつかんだのです、あたくしはそれを見てゐまして、思はず眼をとぢ、舷側に膝まづいて神に念じました。ことの善意、理非、曲直を問うてなんになりませう。それは不倫でせうか。夫ある身が夫の成功を願はずして、かへつて敵の安全のために祈つたとは、しかしそれこそは女の僞りない神聖な戀の感情でした。あたくしは義經の勇武のほどをきいてをりましたが、能登守敎經の勇猛がそれに倍することをつてゐましたので恐れたのでした。ふと眼をひらいたとき、靑空を背景にして、義經が空間をとんでゐる姿を見ました。美しい飛鳥の姿でした。緋縅(ひおどし)の鎧がきらきらと陽にかがやいて、それはあたかも極樂にゐる迦陵頻迦(がりようびんが)かと思はれました。義經は敎經の手に鎧の錣をのこして、別の船にとびうつつたのでした。それは義經の八艘とびとよばれてゐますけれども、多分四五隻であつたでせう。それとも鞍馬山で天狗に飛行の術をならひ、京都の五條橋で欄干から欄干へとびうつつて、さすがの武藏坊辨慶をへこたれさせた人ですから、ほんたうに八隻の船をとびこえたのかも知れません。いづれにしろ、義經の安全を知つてあたくしは安堵の胸をなでおろし、神に感謝して舷に身をよせたのです。そのときあたくしは突然はげしい力で舟底にたたきすゑられました。夫敎經の怒りのために朱泥となつた顏が眼前にありました。夫はあたくしが敵のために祈つたことを知つて、あたくしを半殺しの目にあはせました。

[やぶちゃん注:「瞋恚」怒り怨むこと。

「錣」兜の左右・後方に下げて首筋を覆う部分。

「緋縅」の縅(鎧(よろい)の「札(さね)」(鉄や革で作った小さな板)」を糸・革紐などで綴り合わせること。また、そのようにしたもの。材料によって糸縅・革縅・綾(あや)縅など、綴り方によって荒目・毛引き・敷き目など、色によって緋(ひ)縅・黒革縅・萌黄(もえぎ)縅・卯(う)の花縅などの種類がある)の一つで、クチナシやキハダで下染めした上から紅で染めた紐・革緒などで造作したもの。

「迦陵頻迦」梵語の漢訳。想像上の鳥で雪山(せつせん)又は極楽にいるとされ、美しい声で鳴くという。上半身は美女、下半身は鳥の姿をしている。その美声は仏の声の形容とされた。

「朱泥」「しゆでい(しゅでい)」は、狭義には鉄分の多い粘土を焼成して作った赤褐色の無釉(むゆう)陶器のこと。明代に煎茶の流行に伴って宜興窯(ぎこうよう)で創始された。急須・湯呑を主とし、日本では常滑(とこなめ)・伊部(いんべ)・四日市などに産する。ここはその色を換喩で用いたもの。]

 そして、結末がまゐつたのでございます。亡びた平家は壇の浦の海底に、男は蟹となり、女は河童となつてわづかに殘るだけになりました。そのほか全國の山間僻地にのがれた殘黨は、三族までも根だやしにする源氏のきぴしい追討で大半は殺され、その幸運な少數の者が人跡未踏の奧地に哀れな小さな部落をむすんで、世を忍んでゐるにすぎません。さうして、あたくしは多くの女御(にようご)たちと運命をともにし、河童となつて關門海峽の海底に棲む身となつたのでございます。

 ところが、この海底生活はまもなくあたくしには耐へがたいものとなりました。源氏への復讐に燃えるあたくしのはげしい氣塊は、もはや氣力をうしなつて安逸にふけるやうになつてゐた同僚のなかでは、かへつてはぐらかされるばかりで、つひにあたくしをこの海底から脫出させるにいたりました。だから、さつき、あたくしが自分の棲んでゐる海底といつたのは、この壇の浦の底ではありません。現在あたくしは企救(きく)郡松ケ枝の大積(おほづみ)の海底に居住してゐます。ここがあたくしの復讐の悲願の據點です。

[やぶちゃん注:「企救郡松ケ枝の大積」先に注で示した福岡県北九州市門司区大積。壇の浦とは企救半島を隔てた、東南側の周防灘に面した深く西へ入り込んだ湾である。]

 恥のついでに、申しませう。あたくしが思ひ出ぶかい壇の浦をすてた理由のひとつに、うるさい夫の燒き餅がありました。夫敎經は蟹となつてからも、しつこくあたくしの不倫を責め、あのとき義經をとりにがして勝利の契機を逸したことがあたくしの罪のやうにいふのです。お前の浮氣が平家を亡ぼしたといふのでございます。そしてそのあとではふいにあたくしの機嫌をとつて、あたくしを求めようとする。あたくしはもうそのうるささ、いやらしさに耐へがたくなりました。夫をはじめとする蟹たちはもう戰ひは倦き倦きしたといひ、かへつて蟹となつて海底で平和の日の送れるやうになつたことをよろこんで、ときにぶつぶつとだらしない泡をふいて、昔の榮華の日を未練がましく語りあふだけです。その不甲斐なさは女であるあたくしの胸をはがゆさで煮えたぎらせるのでした。河童になつた女は女で、三々五々、群をなして陸のうへを遊び呆けることに熱中し、くやしげな泣面を背の甲羅にのこしてゐる男の蟹たらをなぐさめることもせず、あちこち飛びまはつてゐますが、秋になるとまつ靑な顏をしてふるへながらみんな海底へかへつてきます。彼女らはなにより源氏の白旗がこはいので、その敵の旗におどろいて逃げかへつてくるのですが、なに、それは敵の白旗でもなんでもなく、蕎麥(そば)の白い花なのです。あきれた臆病といふほかはありません。それやこれやで出廬の覺悟がしだいにかたまつてきましたので、或る日、思ひきつてあたくしはなつかしい壇の浦の海底を脫出いたしました。

 あたくしはさうして現在の大積の海底に棲み、阿修羅(あしゆら)となつて、源氏への復讐のため方々を荒しまはるやうになり、その勇猛さのために、いつか誰からともなく海御前(あまごぜ)とよばれるやうになつたのでございます。ところが、ここにさすがにそのあたくしをおどろかせたひとつのことがございました。それはさきほどもらよつと申しあげました能登守敎經が、下賤の漁師にとらへられて、和布利(めかり)神社の繪馬堂にさらしものになつてかかげられたことでございます。幸ひ、人間どもはそれを敎經の化身と知りませんだけがせめてものことで、わかりましたら大騷ぎでせう。すでに他人となつた夫とはいへ、さすがにあたくしはしばらく愁傷のこころに胸をしめつけられて、そのからからに乾いた赤黑い夫の殘骸のまへにしばらく呆然と彳(たたず)んでをりました。背の紋樣の異樣に無念さうな顏つきがあたくしの心をふるはせます。一瞬、ふつとすまぬ氣持もわきます。あとでわかつてみますと、夫はあたくしの出奔以後、魂がぬけたやうになり、失戀したといつてなげきかなしんでゐたとのことです。それでわかりました。それでなくては、驍將義經をあはやとりひしがんとした敏捷の敎經が、どうして愚鈍な下賤の漁夫などの手に負へませうか。ふらふらと氣が拔けたやうになつてゐたにちがひません。あたくしはそれを知ると、やむを得なかつたとはいへ、あたくしが自然にいつしかをかしてきた罪といふものを考ヘずにはをられませんでしたが、それでは罪とははたしていかなるものでせうか。それを斷ずることは神樣以外にはできないことです。失戀ですつて? 失戀といへば、あたくしも同樣です。あたくしの生きる命の燈であつた九郞義經は、兄賴朝からにらまれ、どこか遠い奧羽の方へのがれたきりで、まつたく消息を知りません。殺されたといふ風評もあり、蝦夷(えぞ)地へわたつて蒙古(もうこ)の方へ行つたといふ說もあつて、眞僞のほどをたしかめ得ません。はつきりわかつてゐることは、もう絕對に義經を見ることができないといふこと、あたくしが失戀したといふことです。あたくしはもはや靑春を暗黑のそとへ放りだし、いまはただ復讐の鬼となつてゐるのです。

 同僚の女河童連中が蕎麥の花におそれるなんて、だらしのない話です。あたくしはそんなものはこはくもなんともありません。いや、あたくしのまへにはなんの障害物もないのです。あたくしは憎い白旗のあるところ、あたくしの敵のゐるところ、縱橫無盡にあばれまはります。このごろはあたくしの猛威におそれ、白旗をそのままかかげず、字をかいたり、日の丸をかいたり、繪をかいたりしてごまかしてゐますが、あたくしはさういふあさはかな詐術(さじゆつ)にはごまかされません。あたくしは姿をくらますことは得意だし、水中はむろんのこと、陸でも空でも自由に翔(かけ)ることができますし、馬でもトラックでも機關車でも河中にひきこむだけ膂力(りよりよく)をもつてゐます。あたくしの攻擊を避けるために、人間どもはさまざまの防禦法を講じてゐますが、そんなものはなんの役にも立ちません。あたくしは草や藁や魚の卵のなかから簇生(そくせい)したやうな卑賤の河童らとはちがつて、高貴の生まれと育ちによつて、神格にちかい通力を附與されてゐますから、低級にして通俗的な呪禁(まぢなひ)ごときであたくしの術を封じようと思つたら、大まちがひです。あきれるではありませんか。卑賤の河童を封じる佛飯や久留米水天宮の札、「古の約束せしを忘るなよ。川だち男氏(うぢ)は菅原」といふやうな滑稽な世迷言(よまひごと)で、あたくしの活躍を封じようとやつきになつてゐるのです。あたくしは自由で、あたくしの復讐の事業は着々とすすんでゐます。

[やぶちゃん注:「日の丸をかいたり」本作は戦後のものである。美事な皮肉である。ここに味な伏線が張られていることに気づかれたい。

「佛飯」ウィキの「ガラッパ」に、『仏飯(仏壇に供えるご飯)が弱点。熊本では、仏飯を口にしたガラッパが力を失ってしまったという伝承があ』り、『また伊佐郡や薩摩川内市では、仏飯を食べた人間や動物に対しては、ガラッパは恐れて近寄らないと言われている』とある。そこには外に、光り物の金属類・人間の歯・網を忌避するともある。

「久留米水天宮」現在の福岡県久留米市瀬下町にある全国の水天宮の総本宮である水天宮。なお、ここは天御中主神の他に安徳天皇・高倉帝中宮(建礼門院平徳子)・二位の尼(平時子)をも祀っており、これだと、海御前は、その眷属と解せる。ウィキの「河童」の「各地の伝承」の「筑後」の項に、『「水に入る前にはタケノコを食べる」「水に入る前には仏前飯を食べる」「水に入る前には水天宮の申し子だと唱える」といった河童除けの風習は久留米市の水天宮付近が起源とされ』、毎年八月には「水の祭典」という祭りが行われるが、『これは、元々河童をあがめるために始まった祭りである』とある(下線やぶちゃん)。これは元、水天宮の神であったものが、零落したものが河童であるという可能性をも推測させる。

「古の約束せしを忘るなよ。川だち男氏は菅原」ウィキの「ひょうすべ」(佐賀県や宮崎県を始めとする九州地方に伝承されている河童の一種とされる妖怪)に、佐賀県武雄市では嘉禎三(一二三七)年に武将・橘公業に伊予国(現在の愛媛県)からこの地に移り、潮見神社(武雄市橘町永島にあり、橘諸兄と河童を祀る)『の背後の山頂に城を築いたが、その際に橘氏の眷属であった兵主部(ひょうすべ)も共に潮見川へ移住したといわれ、そのために現在でも潮見神社に祀られる祭神・渋谷氏の眷属は兵主部とされている』。『また、かつて春日神社の建築時には、当時の内匠工が人形に秘法で命を与えて神社建築の労働力としたが、神社完成後に不要となった人形を川に捨てたところ、人形が河童に化けて人々に害をなし、工匠の奉行・兵部大輔(ひょうぶたいふ)島田丸がそれを鎮めたので、それに由来して河童を兵主部(ひょうすべ)と呼ぶようになったともいう』とあり、さらに『潮見神社の宮司・毛利家には、水難・河童除けのために「兵主部よ約束せしは忘るなよ川立つをのこ跡はすがわら」という言葉がある。九州の大宰府へ左遷させられた菅原道真が河童を助け、その礼に河童たちは道真の一族には害を与えない約束をかわしたという伝承に由来しており、「兵主部たちよ、約束を忘れてはいないな。水泳の上手な男は菅原道真公の子孫であるぞ」という意味の言葉なのだという』とあって、河童伝承と菅原道真は縁が深い。]

 今日もあたくしはこのあたりの蕎麥畑の花を全部むしりとつて、いくらか疲れたので、あの丘へ腰をおろして休憩してゐたところなのでした。そして、夕燒け雲に歷史的古典的な壯大な感慨をもよはし、ぼんやりとなつてゐるところを、不覺にも、あなたがたのために、この暗いところへ引きこまれたわけでした。でも、さきほどから申すやうにそれは後悔ではないのです。それどころか、久方ぶりにあたくしはなつかしい味方のなかに置かれて、うれしさでわくわくしてをるくらゐです。

 いつ見ても、赤旗はすばらしい。あたくしたちの矜持(きようぢ)の旗、燃える眞紅の旗、名門の名ごりがふくよかにこもる美しい旗、あたくしはここへ引きこまれた刹那に、それを見て、もう歡喜で胸がふくれたのです。あたくしは復讐の鬼となつて以來、勇氣は凛々としながらも、孤獨のきびしさには折々おそはれて耐へがたくなることがしばしばでしたが、今はもう寂しがりません。こんなに多くの味方ができたら、あたくしの復讐の悲願成就も近きにありませう。ふたたび平家の時代のくることも夢ではなくなりました。

 え? 自分は平家ではない、つて? それでは、なんです? なんでございますの? そんなに平家の旗じるしをたなびかせてゐるあなたが、平家ではないなんて。それでは、その旗はなんの旗です。

 人民の旗ですつて? それはどういふ意味です? あたくしにはわかりません。わかりませんわ。おどろかさないで下さいまし。赤旗は貴族の旗の筈です。平家は敎養たかい貴族です。白旗こそ、人民の旗です。源氏こそ關東の野武士、暴力團、みんな無賴漢、いいえ、源九郞義經をのぞいた以外です。……なんですつて? もう一度、いつて下さい。……なに? 源氏などはもうゐない? それはずつと古い時代の語で、とつくの昔に亡びてゐる?……馬鹿な。源氏がいつ亡びたのです?……そんな筈はない。ほんたうですつて?……ああ、あなたがたは恐しいことをいふ。心臟がわれさうです。もうすこし、ゆつくり話して下きい。あまりびつくりして判斷力がなくなつてしまひました。あなたがたのいふことを復唱しながら、考へます。……ええ、いつて下さい。――源氏や平家がゐたのは、仁安、壽永、建久といふやうな古い時代のことで、すでに七百六十年も昔に源平時代は終わつた。そのあとに、南北朝、皇町、戰國、安土桃山、江戶、明治、大正、といくつかの時代がつづき、昭和の現代は高度な文明の世の中になつてゐる。それで、源氏へ復讐するなどといふやうなことは、無意味なうへに荒唐無稽といつてよいほどのことで、そのために人民が迷惑してゐるだけのこと。それより、その神通力を別途に有效に使つた方がよい。自分たちは人民の幸福をねがひ、革命を企圖してゐるが、彈壓がきびしくてうまくゆかない。それで願はくば、その神通力を自分たちに傳授して欲しい。それが赤旗へ鄕愁をかんじ誇りをもつあなたの眞の慰めになるだらう。平家の旗じるしであつた赤旗の勝利はあなたも願ふところにちがかない。同じ追放者のよしみ、これを機會に、あなたの術を……とんでもない。なにをおつしやるんです。もう聞きません。これ以上、無用です。馬鹿なあたしだ。なんといふ愚かなことか。……ここは、いつたいどこです?……地下ですつて?……道理で、土龍(もぐら)だの蚯蚓(とかげ)だのがたくさんゐて、異樣な臭氣がただよつてゐると思つた。失禮します。……いいえ、放して下きい。用がすまないつて? あなたがたにもう用なんかありません。……

[やぶちゃん注:「すでに七百六十年も昔に源平時代は終わつた」本作品集「河童曼荼羅」は昭和三二(一九五七)年刊で、その「七百六十年」前は一一九七年となる。因みに「壇の浦合戦」は文治元(一一八五)年である。

「蚯蚓(とかげ)」第一段落と同じくママ。こうなると何だか単なる誤植とも思えなくなってくるのだが……]

 なんといふ恐しいことだらう。この數百年間、復讐の悲願に燃え、情熱をわきたたせ、退屈な日を知らずにきたのに。失戀の痛手もそれでわすれてきたのに。――源氏などはもうどこにもゐないといふ。とつくに亡びたといふ。さういへば思ひあたる節がある。馬鹿なあたしだ。けふの日まであたしはなにをしてきたのだらう。もうなんだか身體中の氣力が拔け落ちて、頭のなかが空洞(うつろ)になつたやうだ。どんな河童封じも屁とも思はなかつたのに、歷史といふ恐しいやつにいつペんでやられた。かうなると剝製になつた夫敎經の方がまだ幸福であつたかも知れない。……もう、企救(きく)の大積(おほづみ)にかへるのは止さう。あそこは復讐の據點だつたので、すべてを知つた今はゐづらい。壇の浦の海底に行かう。古い友だちのをるところへ行かう。たとひ、そこで、倦怠のはて發狂することがあるとしても。

[やぶちゃん注:この海御前に私は、そこはかとない哀れを感じる。……それはまた、今の我々の我々自身への哀感(ペーソス)へと何処か繋がっているようにも思うのである。……]

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