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2015/04/30

カテゴリ 毛利梅園「梅園介譜」 始動 / 鸚鵡螺

 「花」がないブログにもう一丁ぶちかましたろ介(カイ)! ブログ・カテゴリ「梅園介譜」でどうよ!
 
 「梅園介譜」は毛利梅園(もうりばいえん)の天保一〇(一八三九)年序自筆本一帖で「介類」計二百八十三品を、「水蟲類」(エビ・カニ・カブトガニ・ナマコ類等)五十二品・「龜鼈(きべつ)類」(カメ類)五品・蛤蚌(ごうぼう)類(ほぼ現在の貝類に相当するが頭足類を含む)二百二十六品とを分けて所収している。但し、二枚貝と巻貝及び海産種と淡水産種は混在している(以上は底本とした国立国会図書館デジタルコレクションの「介譜」の書誌情報に載る磯野直秀先生の解題に拠った)。

 毛利梅園(寛政一〇(一七九八)年~嘉永四(一八五一)年)は幕臣旗本で書院番・御小姓組を勤めた本草家。名は元寿(もとひさ)、別号に攅華園(さんかえん)・写生斎など。他に「梅園草木花譜」「梅園介譜」など、鳥類・類・菌類などの正確な写生図譜を残したが、公刊されたものは恐らくなく、すべて稿本のままで終わったと思われる。ありがちな「梅園」という号のために現代に至るまで複数の他者として誤認されてきた(ここは講談社「日本人名大辞典」と一九九四年平凡社刊の「彩色 江戸博物学集成」の中田吉信氏の記載に拠った)。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「梅園譜」を視認し、保護期間満了の画像(自由使用許可)もそこにあるものを使用させて戴いた(コントラストを強調して、色を濃く出してある)。ポイント落ちの割注は〔 〕で示したが、基本、キャプションは総て同ポイントで示した。また、和漢文脈の記載を訓点に従って漢字平仮名混じりの書き下し文に直した(適宜、私の判断で送り仮名を附し、句読点や記号も附加し、難読部には歴史的仮名遣で読みを附けた。一部の清音の濁音化も施してある)。但し、比較判読を容易にするため、一行字数は原本通りとしたので、くれぐれも画像と対比されながらお読み戴きたい。

 まずは、灼熱地獄の火焔模様も凛々しいオウムガイ! 殿からご登場願おうぞ!――同行二人一蓮托生! 深海地獄の釜底までも! っと!……これで私の憂鬱は完成するのだ……【二〇一五年四月三十日 藪野直史】 
 

 

Oumugai
 

鸚鵡螺〔アフム貝〕

「格古要論」に曰く、『鸚鵡杯(あうむはい)、即ち、

海螺盞(かいらせん)、廣東(カントン)に出づ。土人、琢

磨し、或いは銀を用ひ、或いは金を用ひ、廂定め、

酒杯に作る。故、名づけて鸚鵡杯と曰ふ』と。

 

    天保九〔戌〕年七月廿日

    倉橋尚勝子所藏 之を乞ひて

    眞寫す 

 

[やぶちゃん注:思うにこの書写対象物は、自然の死貝のままのものとは思われない。またキャプションも生態や習性に就いての記載ではなく、酒器としての加工についての中国の書物からの引用のみである。特に殻の内壁部分の描き込みが、通常のオウムガイの死骸の内壁とは異なっていることが分かる。これは実は中国から舶来したオウムガイを杯に加工してしまった「杯」を書写したものであろう。分類上で肝心の螺塔の臍部分が明らかに抉り取られているのでよくわからない。概ねしばしば標本として見かける殻口まで模様があるタイプのものは頭足綱四鰓(オウムガイ)亜綱オウムガイ目オウムガイ科オウムガイ属 Nautilus のオウムガイ Nautilus pompilius であることが多いように思われるが、オウムガイでも若いオウムガイは殻口まで模様があるものの、性成熟が近づくに連れて腹の辺りに白い部分が増えてくるとある(「鳥羽水族館」公式ブログ「飼育日記」のオウムガイの眼参照)から、必ずしもこれに同定するのは無謀か。

「格古要論(かっこようろん)」は明の曹昭が撰述した美術工芸品の評論書。一三八七年に全三巻が刊行された後、六十九年後の一四五六年に王佐によって、またその三年後には黄正位によって増補されて、全十三巻となった。古今の楽器・墨跡・漆器・銅器・陶器・染織などの名宝について論評したもので中国美術工芸史の研究上貴重な文献である(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。検索すると、Wiki「諸子百家 Chinese Text Projectの「格古要論」で、

   *

鸚鵡杯

即海螺出廣南土人雕磨類鸚鵡或用銀相足作酒杯故謂之鸚鵡杯鸕鶿杓亦海螺俱不甚直錢

   *

とある。別なページでは、同じ「格古要論」からとして、

   *

鸚鵡杯即海螺盞、出廣海、土人琢磨、或用銀或用金鑲足。

   *

という引用があり、この「鑲」は「象嵌する」の意、「足」は「加える」という意であろう(文が異なるのは前にあるように複数の改訂版があることによるものであろう)。

「海螺盞」「盞」は杯(さかずき)の意で巻貝を加工した盃或いは、その加工用に用いる広範な巻貝の意が、オウムガイに固有名詞として特したものであろう。。

「廂定め」「廂」には知られた「ひさし」以外のピンと来る意はない。「定め」というのもよく分からぬ。ところが前に引いた「格古要論」の前の方の文字列を見ていると、これは例えば、梅園が引いた書が写本で「相足」(相ひ足(た)し)の書写を「廂定」(牽強付会するならば、螺の形を「廂」と言い、「定め」はそれを杯となるように成形するの意と採ったか)と誤っていたのではないかと思わせる。

「鸚鵡杯」中文サイト「中華酒文化」の「隋唐酒器:鸚鵡杯」で、明らかにオウムガイを用いた唐代の酒器「鸚鵡杯」の写真が見られる。また、同じく中文サイト「中國華文教育網」の「古代酒文化:關羽斬華雄為何要温酒?」の一番最初に掲げられてある南京博物館蔵の「鸚鵡螺杯」というのも明らかにオウムガイの殻を用いている。必見!

「天保九〔戌〕年」天保九年は戊戌(つちのえいぬ)で、西暦一八三八年。

「倉橋尚勝」【2022年1月20日改稿】彼は梅園の同僚で幕臣(百俵・御書院番)であることが、国立国会図書館デジタルコレクションの磯野直秀先生の論文「『梅園図譜』とその周辺」(PDF)で判明した。]

譚海 卷之一 營中女房猫子を狆にやしなはせし事

 營中女房猫子を狆にやしなはせし事

○營中の女房、鷄の卵を試(こころみ)に懷中にあたゝめ、片時も肌をはなたず持(もち)けるが、廿一日めに雛にかへりたりとぞ。また有(ある)家にて猫子をうみて後母猫死したれば、育てべきやうなく、狆(ちん)に預(あづけ)て乳をのませ養わせけるに、はじめは嫌(きらひ)て近付(ちかづか)ざりけるが、後には馴(なれ)て乳をあたへけり其子猫生長しけれど高き所へ飛上(とびあが)る事かなはず、狆の性(しやう)をあやかりけるにやとぞ。

カテゴリ 毛利梅園「梅園魚譜」 始動 / ゴトクジラ(オキゴンドウ?)

[やぶちゃん注:海鼠だ水母だと、どうもちまちました小者ばかり、テクストばかりで、私のブログには「花」がないと言われる。じゃあ! ブログ・カテゴリ「梅園魚譜」を創始しようじゃねえか!

 「梅園魚譜」は毛利梅園(もうりばいえん)の天保六(一八三五)年序になるもので、本来は「梅園魚品図正」二帖と併せて三帖一組となっていたもので、全部を合計すると収録品数は二百四十九点及ぶ魚類譜である(以上は国立国家図書館の「描かれた動物・植物 江戸時代の博物誌」の解説に拠る)。

 毛利梅園(寛政一〇(一七九八)年~嘉永四(一八五一)年)は幕臣旗本で書院番・御小姓組を勤めた本草家。名は元寿(もとひさ)、別号に攅華園(さんかえん)・写生斎など。他に「梅園草木花譜」「梅園介譜」など、鳥類・類・菌類などの正確な写生図譜を残したが、公刊されたものは恐らくなく、すべて稿本のままで終わったと思われる。ありがちな「梅園」という号のために現代に至るまで複数の他者として誤認されてきた(ここは講談社「日本人名大辞典」と一九九四年平凡社刊の「彩色 江戸博物学集成」の中田吉信氏の記載に拠った)。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「梅園魚譜」を視認し、保護期間満了の画像(自由使用許可)もそこにあるものを使用させて戴いた。また、和漢文脈の記載を訓点に従って漢字平仮名混じりの書き下し文に直した(適宜、私の判断で送り仮名を附し、句読点や記号も附加し、難読部には歴史的仮名遣で読みを附けた)。但し、比較判読を容易にするため、一行字数は原本通りとしたので、くれぐれも画像と対比されながらお読み戴きたい。

 まずは手始めだ! でっかく! あんだかんだ言わずに、これで! いこうゼ! ――コートにスミレを、ブログにクジラを――

【二〇一五年四月三十日 藪野直史】]

 

五篤海鰍

   コトクジラ

 長さ三尋。味、下品。

 油六十樽を得。
 

Kotokujira1

 
[やぶちゃん注:「コトクジラ」という呼称は現在の哺乳綱クジラ目ハクジラ亜目マイルカ科ゴンドウクジラ亜科
Globicephalinae の仲間を指しているものと思われるが(「ごんどう」そのものが「五島(ごとう)」の音変化と推測されている。「五島」は鯨がよく回遊していくる長崎県(肥前国)五島列島に由来)、この図は頭部の形状が一般的なゴンドウクジラの円錐形の出張ったものと有意に異なりややスマートで、ゴンドウクジラ亜科オキゴンドウ Pseudorca crassidens 辺りかと私は推測する。町「くじらの博物館の「鯨絵図の丁度、中央に描かれている「湖ゴトウ」と近似するように思われる。

「三尋」約五・五メートル。オキゴンドウ Pseudorca crassidens 通常、六メートルほどまで成長するマイルカ科の中では比較的大きな種であり、本図はそうした雰囲気を伝えているように私には思われる。

「油六十樽」。個人サイト「神社探訪 狛犬見聞録・注連縄の豆知識」の安房郡鋸南町竜島弁財天」のページに、当社にある鯨塚(鯨を解体する出刃組が一年に一基建てた供養塔)の解説板の画像があり、そこには一頭で油は二十六、七樽、赤肉は六十樽程度が得られたとあり、一樽は約四十五キログラムと書かれているから、この場合、二・七トンに相当し、リンク先に記された二倍以上でこの「コトクジラ」というのは相当に大きなクジラ個体を指す名であることが分かる。]

2015/04/29

花がネエかい?!

そうだなぁ……花がねえなぁ!……ようし! 明日(あした)はドン! っとやったろかい! 今度んは……半端なく、でかいで!!……♪ふふふ♪

畔田翠山「水族志」 (二四七) ナマコ 《リロード》

 

【特別付録】ここでは本文で訓点を再現したので、縦書の方が、その部分は流石に読み易いので、特別に「クラゲ」と「ナマコ」のカップリングで本文のみの縦書版(PDF)を用意した。   

(二四七)

ナマコ 一名タラゴ【淡州北村】コドラ【南㵎草木疏曰「コドラ」ナルアリ「トラコ」ト云】アカコ一名ヒシコ【淡州北村】沙噀

本朝食鑑曰海鼠江東最多尾之和田參之栅(サク)嶋相之三浦武之金澤本木也海西亦多就中小豆島最多矣狀似鼠而無頭尾手足但有前後兩口長五六寸而圓肥其色蒼黑或帶黃赤背圓腹平背多㾦㿔而軟在两腋者若足而蠢跂來往腹皮靑碧如小㾦㿔而軟肉味略類鰒魚而不甘極冷潔淡美腹内有三條之腸色白味不佳云々又曰一種有長二三寸腹肉[やぶちゃん注:原拠は『腹内』。訓読では訂した。]沙味亦差短者一種有長七八寸肥大者腹内三條之黃腹如琥珀之爲醬味香美按ニ「ナマコ」ニ紅色ナルヲ「アカコ」ト云黑色ナルヲ「クロコ」ト云黃紅雜者ヲ「ナシコ」ト云黃梨ノ色ニヨリテ名ク又「ナシコ」ニ五色ヲナス者アリ文化年間紀州日高郡由良ノ内ニテ漁人タテ網ヲナシ沙噀ヲ得タリ長サ二尺餘濶八九寸其色黑天保七年ノ冬ヨリ同八年ノ春ニ至テ紀府ノ魚店ニ出ル沙噀大サ二尺餘其色紅色ノ者多シ又黑色雜色ノ者アリ寧波府志曰沙噀腸[やぶちゃん注:原本に「腸」はない。訓読では訂し、注を施した。]塊然一物如牛馬膓臟頭長五六寸許胖軟如水蟲首無尾無目無皮骨但能蠕動觸之則縮小如桃栗徐復擁腫土人以沙盆揉去涎腥五辣之脆美爲上品按ニ閩小紀ニ沙噀ニ作レリ山堂肆考ニ泥出東海純肉無骨水中則活失水則醉如泥故名曰泥杜詩先拚一飮醉如泥又名砂噀○イリコ 海參【香祖筆記曰生于土人參于水海參】大和本草曰奥州金花山ノ海參ハ黃色也キンコト云又黃赤色ナルモ處々ニ生ス山海名産圖會曰奥州金花山ニ採物形丸ク色ハ黃白ニテ腹中ニ砂金ヲ含ム故ニ是ヲ「キンコ」ト云本朝食鑑曰熬海鼠訓伊利古之有法用鮮生大海鼠腸後數百枚入空鍋活火之則鹹汁自出而焦黑燥硬取出候冷懸列干[やぶちゃん注:これは私は助字の場所を指す「于」と採って訓読では変えた。]兩小柱一柱必列十枚呼號串古(クシコ)又曰大者懸藤蔓今江東之海濵及越後之產若斯或海西小豆島之產最大而味亦美也自薩州筑州豐之前後而出者極小煑之則大也伊勢雜記曰「ナマコ」「タマコ」ハ本名也生ナルヲ「ナマコ」ト云煑テ串ニサシタルヲ「イリコ」ト云又「クシコ」ト云海島逸志曰海參者海中ノ蟲也形如長枕初拾之時長一尺餘柔軟如棉絮礬水煑而晒之則縮小不二三寸耳其所產必於深水併有石之處水愈深則海參愈多而愈美矣名狀甚多不數十刺參鳥縐最佳也[やぶちゃん注:この返り点では到底読めないので、勝手に「當刺參鳥縐最佳也」と直して訓読した。]海錄曰呢咕叭當國海參生海石上其下有肉盤盤中出短蒂蒂末即生海參或黑或赤各肖其盤之色豎立海水中潮搖動盤邊三面生三鬚各長數尺浮沈水面採者以鈎斷其蒂撈起剖之去其穢煑熟然後以火焙乾各國俱有唯大西洋諸國不產閩海參【本草從新】閩小記曰閩中海參色獨白類撑以竹簽大如掌與膠州遼海所一レ出異味亦澹【從新作淡】劣海上人復有牛革僞爲之以愚上レ人者不尙也刺參 本草從新曰存刺者名刺參光參 本草從新曰無刺者名光參遼海參 本草從新曰海參產遼海者良〇コノワタ一名俵子(タハラコ)【本朝食鑑】沙噀膓 本朝食鑑曰造膓醬法先取鮮膓潮水淸者洗淨數十次滌去沙及穢汁白䀋攪勾[やぶちゃん注:原拠を見ると、「勻」である。誤字か誤植と断じ、例外的に訓読では訂した。]之以純黃有光如琥珀上品黃中黑白相交者下品

 

○やぶちゃんの書き下し文

ナマコ 一名「タラゴ」【淡州北村。】・「コドラ」【「南㵎草木疏」に曰はく、『「コドラ」なるあり、「トラコ」と云ふ』と。】・「アカコ」・一名「ヒシコ」【淡州北村。】・「沙噀〔サソン〕」

「本朝食鑑」に曰はく、『海鼠』、『江東、最も多し。尾の和田、參の栅(さく)嶋、相〔さう〕の三浦、武の金澤・本木〔ほんもく〕なり。海西にも亦、多く、中〔なか〕ん就〔づ〕く、小豆島、最も多し。狀〔かたち〕、鼠に似て、頭・尾・手足、無し。但〔ただ〕前後有りて、兩口あり。長さ五、六寸にして、圓〔まる〕く肥え、其の色、蒼黑或いは黃赤を帶ぶ。背、圓〔まど〕かに、腹、平らかなり。背に㾦㿔〔はいらい〕多くして、軟かなり。两腋〔りやうわき〕に在る者は足のごとくにして、蠢跂〔しゆんき〕し、來往す。腹の皮は靑碧にて、小さき㾦㿔のごとくにして、軟かなり。肉味、略〔ほぼ〕鰒魚〔あはび〕に類して、甘からず、極めて冷潔、淡美たり。腹の内、三條の腸〔わた〕有り、色、白くして、味、佳からず』と云々。又、曰はく、『一種、長さ二、三寸、腹内沙、多くして、味も亦、差〔やや〕短き者、有り。一種、長さ七、八寸にして肥大なる者、有り。腹内、三條の黃腹〔きわた〕、琥珀〔こはく〕のごとくにして、之れを淹〔しほづけ〕にして、醬〔ししびしほ〕と爲せば、味はひ、香美たり』と。

按ずるに、「ナマコ」に、紅色なるを「アカコ」と云ひ、黑色なるを「クロコ」と云ひ、黃・紅の雜なる者を「ナシコ」と云ふ。黃梨の色によりて名づく。又、「ナシコ」に五色をなす者あり。文化年間、紀州日高郡由良の内にて、漁人、たて網をなし、沙噀を得たり。長さ、二尺餘り濶〔ひろ〕さ八、九寸。其の色、黑。天保七年の冬より同八年の春に至りて、紀府の魚店〔うをみせ〕に出づる沙噀、大いさ、二尺餘り、其色、紅色の者、多し。又、黑色・雜色の者あり。

「寧波府志」に曰はく、『沙噀。塊然たる一物にて、牛馬の膓臟のごとし[やぶちゃん注:返り点に従わず、頭を以下に出した。]。頭長〔とうちやう〕五、六寸許り。胖軟〔はんなん〕にして水蟲〔すいちゆう〕のごとし。首、無く、尾、無く、目、無く、皮骨、無し。但〔た〕だ、能く蠕動す。之れに觸るれば則ち、縮小して桃・栗のごとし。徐〔おもむ〕ろに擁腫に復す。土人、沙盆を以つて揉み、涎腥〔ぜんせい〕を去り、五辣〔ごらつ〕を雜〔ま〕ぜ、之れを煑る。脆〔もろ〕くして美〔うま〕し。上品と爲す』と。

按ずるに、「閩小紀〔びんしやうき〕」に「沙噀」に作れり。「山堂肆考〔さんだうしこう〕」に、『「泥〔でい〕」あり。東海に出だす。純肉にして無骨、水中にて、則ち、活し、水を失へば、則ち、醉ふて泥のごとし。故に名づけて「泥」と曰ふ。杜詩に「先づ 一飮醉ふて泥のごとくなるを判ぜんや」と。又、砂噀と名づく』と。

○イリコ 海參〔いりこ〕【「香祖筆記〔かうそひうき〕」に曰はく、『土に生じて人參と爲り、水に生じて海參と爲る』と。】「大和本草」に曰はく、『奥州金花山〔きんくわさん〕の海參は黃色なり。「キンコ」と云ふ。又、黃赤色なるも處々に生ず』と。「山海名産圖會」に曰はく、『奥州金花山に採れる物、形、丸く、色は黃白にて、腹中に砂金を含む。故に是れを「キンコ」と云ふ』と。「本朝食鑑」に曰はく、『熬海鼠』、『伊利古〔いりこ〕と訓ず』。『之れを造るに、法、有り。鮮生なる大海鼠を用ひ、腸[やぶちゃん注:原拠は『沙腸』(沙と腸と)。]を去りて、後、數百枚、空鍋に入れて活火を以つて之れを熬る時は、則ち、鹹汁〔かんじふ〕自〔おのづか〕ら出でて、焦げて黑く燥〔かは〕き硬くなれるを取り出だし、冷〔さむ〕るを候〔ま〕ちて、兩小柱に懸け列べ、一柱、必ず十枚を列〔つら〕ぬ。呼びて「串古(クシコ)」と號す』と。又、曰はく、『大なる者は、藤蔓に懸く。今、江東の海濵、及び、越後の產、斯〔か〕くのごとし。或いは、海西の、小豆島の產、最も大にして、味も亦、美なり。薩州・筑州・豐〔ぶ〕の前後より出づる者は、極めて小なり。之れを煑る時は、則ち、大なり』と。「伊勢雜記」に曰はく、『「ナマコ」「タマコ」は本名〔ほんみやう〕なり。生〔なま〕なるを「ナマコ」と云ひ、煑て串にさしたるを「イリコ」と云ふ。又、「クシコ」と云ふ』と。「海島逸志」に曰はく、『海參〔かいさん〕は海中の蟲なり。形、長枕〔ながまくら〕のごとし。初め、之れを拾ふ時は、長さ一尺餘り、柔軟にして、棉絮〔めんじよ〕のごとし。礬水〔ばんすい〕を以つて煑て、之れを晒〔さら〕す。則ち、縮小して、二、三寸たらざるのみ。其の產する所、必ず、深水、併びに、石の有るの處に於いてあり、水、愈〔いよいよ〕、深ければ、則ち、海參、愈、多くして、愈、美なり。名狀、甚だ多く、數十を下らず。當〔まさ〕に「刺參鳥縐〔しさんうしゆう〕」を以って最も佳と爲すべきなり』と。「海錄」に曰はく、『呢咕叭當〔ニコバトウ〕國、海參、海石の上に生じ、其の下、肉盤、有り、盤中より、短き蒂〔へた〕を出だし、蒂の末、即ち、海參、生ず。或いは黑く、或いは赤く、各々、其の盤之の色に肖〔に〕る。豎〔じゆ〕、海水の中に立ち、潮に隨ひて、盤の邊りに搖動す。三面ありて、三つの鬚を生ず。各々、長さ數尺。水面に浮沈し、採る者は、鈎〔かぎ〕を以つて其の蒂を斷ち、撈〔すくひと〕り起こして、之を剖〔さ〕き其の穢〔よごれ〕を去り、煑熟〔にじゆく〕す。然かる後、火を以つて焙〔あぶ〕り乾す。各國、俱〔とも〕に有り。唯だ、大西洋諸國には產せず』と。

閩海參〔びんかいさん〕【「本草從新」。】「閩小記」に曰はく、『閩中の海參は、色、獨〔た〕だ白し。撑〔ささへ〕の類ひとして、竹を以つて、簽〔しるし〕す。大いさ、掌〔たなごころ〕のごとし。膠州〔こうしう〕の遼海〔りやうかい〕を出づる所として與〔あづか〕る。異味にして、亦た、澹〔あは〕【「從新」は「淡」に作る。】くして、劣れり。海上の人、復た、牛革を以つて、僞〔いつは〕りて之れを爲〔つく〕り、以つて人を愚する有り。者は、尙ほ、足らざるなり』と。

刺參 「本草從新」に曰はく、『刺〔とげ〕存〔あ〕る者、「刺參」と名づく』と。

光參 「本草從新」に曰はく、『刺無き者、「光參」と名づく』と。

遼海參 「本草從新」に曰はく、『海參、遼海に產する者、良し』と。

〇コノワタ。一名、俵子(タハラコ)【「本朝食鑑」。】。沙噀膓。 「本朝食鑑」に曰はく、『膓醬〔このわた〕を造る法は、先づ、鮮なる膓を取りて、潮水〔しほみづ〕の至つて淸き者を用ひて、洗ひ淨〔きよ〕めること、數十次、沙及び穢〔きたな〕き汁を滌〔すす〕ぎ去りて、白䀋〔しらじほ〕に和して、攪〔かきまぜ〕て勻〔ひとしく〕して、之れを收む。純黃にして光り有りて琥珀のごとき者を以つて、上品と爲す。黃の中に黑・白の相ひ交ざる者を以つて、下品と爲す』と。

 

[やぶちゃん注:私は実はクラゲよりもナマコに対するフリーク性の方が高いと言った方がよい。されば、今までもいろいろと電子化してきたので、ここで改めてナマコの総論をする気が全く起きない。されば、「海鼠」棘皮動物門海鼠(ナマコ)綱 Holothuroidea のナマコ類については、他に私の電子テクストである、サイトの寺島良安の「和漢三才圖會 巻第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「海鼠(とらご)」及び栗本丹洲「栗氏千蟲譜」巻八の「海鼠 附録 雨虎(海鹿)」等の、私のマニアックにして冗長なる注をも参照されたい。海鼠類の一種である、

海鼠(ナマコ)綱樹手目キンコ科キンコ属キンコ Cucumaria frondosa var. japonica

に特化した江戸期の博物学の労作、芝蘭堂大槻玄澤(磐水)「仙臺 きんこの記」も併せてお読み戴ければ幸いである。なお、本篇で畔田がとり上げている「ナマコ」は中国の本草書の引用を除けば、本邦に於ける食用のナマコへの限定性が高いので、畔田が念頭に置いている種は、概ね、

海鼠(ナマコ)綱楯手亜綱楯手目シカクナマコ科マナマコ属マナマコ Apostichopus armata

と、後は後に出る前に示したキンコである。但し、近年、流通でマナマコの内の上品で「アカ」とされてきたところの、赤色を呈する個体群を、生物学的にもマナマコと分離して別種として、

マナマコ属アカナマコ Apostichopus japonicus

として扱うようになってきている(後述)。

 但し、漢籍のそれは生体の記載が不全で、種同定は困難であるので同定はしていない。概ねマナマコかその近縁種とは思われるが、全く別種――ナマコではないもの――が含まれているので、それは特に注記してある。なお、世界で約千五百種、本邦産は二百程度と言われている(二〇〇三年阪急コミュニケーション刊の本川達雄他編の「ナマコガイドブック」に拠った。国内で出版される海岸動物の著作物は、専門書も含めて相当に読んできたつもりだが、本書は特に自信を持って私がお薦めするナマコ学の一冊として秀逸なものである(同社の「ガイドブック」シリーズは他の生物では写真図鑑であるが、これはガッツリとナマコ学が書かれている点で特異点であり、ナマコ・フリークの方は持っていなければ、モグリと言える)。他にはナマコとウニに纏わる名著としての大島廣氏の「ナマコとウニ」(昭和三七(一九六二)年(初版)内田老鶴穂圃刊)は絶対に外せないナマコ学のバイブルの一つである)。

 因みに、私のナマコ・フリークのレベルを疑う方を初めとして、まずは、昔、二〇〇六年十月十四日に私がブログで作った、

帰ってきた臨海博士 ナマコ・クイズ」

に挑戦して戴こうか。未だ嘗て六問全問に正答した者はいない。平均正答率は三問である。一つ、挑戦してみられよ(正解は上にある次の記事の『「袈裟と盛遠」他 草稿追加』のさらに同じ次の記事をクリックすれば、見られる。ズルしてるのは、誰ですか? ダメですよ! 最初から答えを見るのは!)。

 なお、ここで「クラゲ」同様、どうしても言っておかねばならぬことがある。それは、日本産海産無脊椎動物として、かの「古事記」の冒頭の「くらげなす」の「クラゲ」に次いで印象深く登場するのが、何を隠そう、このナマコであることである。邇邇命(ににぎのみこと)の天孫降臨の直後の、「猨女君(さるめのきみ)」の条で、天宇受賣命(あめのうづめのみこと)が猨田毗古神(さるたひこのかみ)を送った後、地上の水棲生物らに対し、天の神の御子(みこ)への従属を確認する部分に出現する。

   *

〇原文

於是送猿田毘古神而。還到。乃悉追聚鰭廣物鰭狹物以。問言汝者天神御子仕奉耶之時。諸魚。皆仕奉白之中。海鼠不白。爾天宇受賣命。謂海鼠。云此口乎。不答之口而。以紐小刀。拆其口。故於今海鼠口拆也。是以御世。嶋之速贄獻之時。給猿女君等也。

○やぶちゃんの書き下し文

是に猿田毘古神を送りて、還り到りて、乃(すなは)ち、悉(ことごと)に鰭(はた)の廣物(ひろもの)、鰭の狹物(さもの)を追ひ聚(あつ)めて、「汝(な)は天つ神の御子に仕へ奉らむや。」と問ふ時に、諸(もろもろ)の魚、皆、「仕へ奉(まつ)らむ。」と白(まう)す中に、海-鼠(こ)、白さず。爾(ここ)に天宇受賣命、海鼠に謂ひて、「此の口や、答へぬ口。」と謂ひて、紐小刀(ひもがたな)以ちて、其の口を拆(さ)きき。是(ここ)を以ちて、御世(みよみよ)、嶋の速--獻(はやにへ)る時に、猨女の君等(ら)に給ふなり。

   *

「鰭の廣物、鰭の狹物」大小様々な魚。この「魚」は広義の魚介類で、これによって古代から海鼠が食用対象として有意に知られていた証であり、しかもナマコの口の触手がかく裂かれたようになっていることの神話的起原が語られるという博物学的にも優れた記載と言えるのである。そうして最古のナマコの名は「こ」であったのである。史料上で信頼出来る最も古い部類に属す博物学的なそれは、「和妙類聚抄」(承平年間(九三一年~九三八年)成立)で、「卷第十九」の「鱗介部第三十 亀貝類第二百三十八」に(訓読した。読みは私が附した)、

   *

海鼠 崔禹錫「食經」に云はく、『海鼠【和名、「古(こ)」。「本朝式」に𤎅(ガウ)」の字を加へて「伊里古(いりこ)」と云ふ。】]は、蛭(ひる)に似て、大なる者なり』と。

   *

同書の引く「本朝式」は「弘仁式」(弘仁一一(八二〇)年)撰進)、或いは「貞観式」(貞観一三(八七一)年)とされる。「𤎅」は「熬(い)る」。「いりこ」は後で出る如く、「海参」「煎海鼠」「熬海鼠」と書いて加工した「干しナマコ」のことを指す。内臓を除いた後、海水或いは薄い塩水で煮て乾燥させたもの。

「タラゴ」恐らくは「俵子」=歴史的仮名遣「たはらご」=現代仮名遣「タワラゴ」の縮約であろう。異説もあるが、彼らのずんぐりとした体形が縁起のよい米俵に似ているからというのが全く以って腑に落ちる。

「淡州北村」海浜で旧村名で「北村」を有するのは「草加北村」で、現在の兵庫県淡路市草香北(グーグル・マップ・データ)であるが、ここか。北を除く東村・西村・南村は「徳島大学附属図書館」の「貴重資料高精細デジタルアーカイブ」のこちらの古地図(寛永一八(一六四一)年頃)内に見つけたが、単独の「北村」は遂に見出せなかった。

「コドラ」「海鼠虎」か。「日本山海名產圖會」の「卷之四」の「讃刕海鼠(さんしうなまこ)」のこちら(早稲田大学図書館「古典総合データベース」の当該頁画像)で、『生海鼡は俗に虎海鼡と云ひて』とある。

「南㵎草木疏」不詳。いろいろなフレーズ検索で調べたが、見当たらない。掛かってくるのは自身のこの記事ばかりだ。識者の御教授を切に乞うものである。

「ヒシコ」これは通常では「鯤」或いは「鯷」で、「ひしこいはし」、所謂、「カタクチイワシ」のことを指すので不審である。二つの可能性があるか。一つは「カタクチイワシ」は「片口鰯」で、上顎が下顎に比べて大きく著しく発達しているために下顎がないように見えることによる命名であるが、ナマコの口が裂けていることとの親和性がやや窺えること点で、今一つは海鼠を長く保存出来る加工品としての「醢(ししびしほ)」、内臓の塩蔵品である「このわた」などから、「ひしほ」の「ヒシ」に海鼠の古名の「コ」を添えた可能性である。

「沙噀〔さそん〕」現代中国語でマナマコ(仿刺参)の異名として用いられ、漢籍では広くナマコのことを、かく記す。「噀」は「吹きかける」の意で、「砂を吹き出す」というのはナマコの生態として腑に落ちる表現ではある。

「本朝食鑑」の「海鼠」は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像で訓読した。ここから。誤写或いは誤植と思われる箇所もあるが、重篤な誤読を示す箇所はない。実は私は既に二〇一五年に、『博物学古記録翻刻訳注 ■12 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる海鼠の記載』で、総て(「海鼠」・「熬海鼠」・「海鼠腸」全部)を電子化注してあるのである。そちらも是非、参照されたい。

「尾の和田」尾張国の和田であるが、不詳。これは直感に過ぎないが、現在の愛知県知多郡美浜町布土和田(ふっとわだ)(グーグル・マップ・データ)ではなかろうか? ここなら三河湾に面し、しかも海鼠の名産地として知られた次に出る佐久島は、ここから南東十三・二キロメートルの三河湾に浮かぶ島である。識者の御教授を乞う。

「參の栅(さく)嶋」三河国の佐久島。前のリンクを参照されたい。

「相〔さう〕の三浦」相模国の三浦。三浦半島の三浦三崎一帯。

「武の金澤・本木〔ほんもく〕」武蔵国の金沢文庫や金沢八景附近と、横浜市中区本牧附近(「今昔マップ」)。現在は干拓されているが、リンク先を見ると判るが、本牧地区は本牧岬で、大戦後までは、ずっと海岸線が内側にあった。……ああ、……僕が教師として一番幸せな時間を送った緑ケ丘高校は、まだないねぇ……

「前後有りて、兩口あり」ここは原拠では『前後、兩口有り』と訓点している。

「㾦㿔〔はいらい〕」現代中国語では「蕁麻疹」の意であることから判るように、体表面に出来る凹凸を成す突起物(ブツブツ)を指して言っている。

「蠢跂〔しゆんき〕」蠢き這い歩くことを言う。

「鰒魚〔あはび〕」この場合はフグではない。古漢籍でもこれで腹足綱原始腹足目ミミガイ科アワビ属 Haliotis を指す。

「淹〔しほづけ〕」塩漬け。

「醬〔ししびしほ〕」塩辛。

「アカコ」「クロコ」『黃・紅の雜なる者を「ナシコ」と云ふ』『「ナシコ」に五色をなす者あり』長く、この明らかな色彩餓上の個体変異は、棲息域の違いと個体の発達段階での差として、マナマコ一種の個体間の違いに過ぎないとされてきた(但し、市場にあっては「アカナマコ」が一番高く、以下、青緑色のグラデーションを呈する傾向を持つ「アオナマコ」(ここでいう「ナシコ」)、「クロコ」の順に値が安くなる)。しかし、ウィキの「マナマコ」の「分類学上の位置づけ」の経緯によれば、『俗に、赤~赤褐色系の休色をもつアカコ(「アカナマコ」・トラコ:以下、「アカ型」と記す)・青緑色を基調とするアオコ(「アオナマコ」:以下、「アオ型」と記す)・黒色の体色を呈するクロコ(「クロナマコ」:以下、「クロ型」と記す)と呼ばれる三つのタイプが区別され、「アカ」型は外洋性の岩礁や磯帯に生息し、一方で「アオ」型と「クロ」型とは、内湾性の砂泥底に棲むとされていた』。『これらの三型については、骨片の形質の相違をも根拠として Stichopus japonicus 以外に S. armata という別種を設ける見解』『もあり、あるいは S. japonicus var. typicus なる変種が記載』『されたり、S. armatus および S. roseus という二種に区別する意見』『も提出されたが、「生息場所の相違と成長段階の違いとによって生じた、同一種内での体色の変異』『であり、異なる色彩は保護色の役割を果たしている」として S. japonicus に統一されて』『以来、これを踏襲する形で、体色の異なる三つの型は Apostichopus japonicus(=Stichopus japonicus)の色彩変異とみなす考えが採用され、日本周辺海域に生息する「マナマコ」は唯一種であるとされていた』。『また、シトクロムcオキシダーゼサブユニット1および16S rRNAの解析結果から、これら三型を同一種の変異と結論づける見解が』、『再び』、『提出されている』。『しかし、「アカ」型は、薄桃色または淡赤褐色を地色とし、体背部は赤褐色または暗赤褐色の模様がまだらに配色されており、体腹部は例外なく赤色を呈する。一方で、「アオ」型は一般に暗青緑色を呈しているが、淡青緑色が優るものから黄茶褐色~暗茶褐色の変化がみられ、体腹部も体背部と同様な色調をとる。また「クロ」型は、全身黒色を呈し』、『体色の変異は認め難いとされている』。二『年間にわたる飼育結果では、相互の型の間に体色の移行は起こらなかったとの観察例もあ』り、さらに『アイソザイム』(Isozyme:酵素(enzyme)としての活性がほぼ同じであるにも拘わらず、タンパク質分子としてはアミノ酸配列が異なる別種である酵素を指す)『マーカーを用いた集団遺伝学的な検討結果をもとに、マナマコとされている種類は、「アカ」型と「アオ型・クロ型」の体色で区別される、遺伝的に異なった二つの集団から形成されているとの報告もなされている』。『さらに外部形態および骨片の形態による分類学的再検討の結果から、狭義のマナマコは「アオ型・クロ型」群であると定義されるとともにApostichopus armata の学名が当てられた』。『一方で「アカ」群には A. japonicus の学名が適用され、新たにアカナマコの和名が提唱された』。『mtDNA』(ミトコンドリアDVA)『のマイクロサテライト』(microsatellite:細胞核やオルガネラ(organelle:細胞小器官)のゲノム上に存在する反復配列、特に数塩基の単位配列の繰り返しからなるもの)『解析の結果からは、「アカ」型・「アオ」型・「クロ」型の三型は少なくとも単系統ではない』『とされ、中国および韓国産のマナマコを用いた解析でも、「アカ」型と「アオ」型とは独立した分類群とみなすべきであるとの結果』『が報じられている』。『「アオ」型や「クロ型」と比較して、「アカ」型は海水中の塩分濃度の変化や高水温に対する抵抗性が弱い』『とされ、広島県下においても、アカナマコの産額が多いところは音戸町や豊島のような陸水の影響がほとんどないと思われる場所に限られている』『など、生理・生態の面でも相違が認められている』。マナマコの『環状水管に附着している』一個(稀に二個)のポーリ嚢(Polian vesicle:水管系内の圧力調節や、管足が収縮した時に水管内から溢れ出た水を収容する機能、及び、全身の免疫。炎症反応に関与していると考えらえている器官)の『形態(一般に、「アカ」型では細長くて先端が突出しており、鈍円状を呈するものは少ないのに対し、「アオ」型のポーリ嚢の形態は太くて短かく、先端が鈍円状をなすものが多い)も、解剖学上の数少ない相違点のひとつになるとされている』。『また、「アカ」型・「アオ」型の間には、触手の棒状体骨片と体背部の櫓状体骨片においても若干の形態的相違点が認められる』。『すなわち、「アカ」型においては』、『触手の棒状体の骨片形態が複雑化し、これをさらに二つの型(骨片周囲に顕著な枝状突起をもち、細かい刺状突起を欠くタイプと、枝状突起とともに細かい刺状突起が骨片全体に密生しているタイプ)とに分けることができ』、『体壁の櫓状骨片の底部はほぼ円形で、縁部が幅広く、孔は不定形で角のない形状を呈し』、四本から二本の『柱からなる塔をもつ』『のに対し、「アオ」型の触手の棒状体骨片は全体的に形態が単純で、骨片周囲には小さい枝状突起が散在し、さらに骨片の両端部に限って細かい刺状突起をもっており』、一方、『体壁の櫓状骨片の底部の外形は不定形で、角部は突出し』、『角張り、縁部の幅は狭く、孔はほぼ円形を呈』する点で異なる(柱状の塔とその数は同じ)。『このほか、成熟卵の表面におけるゼラチン質の被膜(gelatinous coating)の有無も、両者を区別する根拠の一つであるとされている』。なお、『体表面がほぼ全体的に白色を呈する個体がまれに見出され、一般にはアルビノである』『とみなされている』が、『中国の膠州湾で得られた白色個体について、相補的DNAの遺伝子』『解析を試みた結果』『によれば、白色個体では、生体調節遺伝子や色素の合成・沈着を司る遺伝子に多くの欠落が生じているという』。『また、チロシンの代謝や分裂促進因子活性化タンパク質キナーゼ(MAPキナーゼ)経路を司りメラニンの生合成に関与する遺伝子として』十四『個が特定されたが、白色個体では、線維芽細胞増殖因子4(FGFR 4)やプロテインキナーゼA およびプロテインキナーゼCあるいはRas遺伝子などの表現活性は著しく小さい一方で、ホモゲンチジン酸-1,2-ジオキシゲナーゼやCREB、あるいは転写因子AP-1およびカルモジュリンなどの表現活性は顕著に亢進していたとされ、これらの遺伝子群の活性の大小が、マナマコの体色の発現に大きく影響していると推定されている』。『属レベルの所属としては、新種として記載されて以来、伝統的にシカクナマコ属(Stichopus:タイプ種はシカクナマコS. chloronotus)に置かれてきたが、タイプ種との触手や骨片の形態的な差異』『や、体内に含まれるサポニン配糖体の構造の違い』『を根拠として、新たにマナマコ属(Apostichopus)が設立された。マナマコ属は、設立当初にはマナマコのみを含む単型属』『であった』とある。近い将来、これら三タイプは別種として記載される可能性が高いように思われる。

「文化年間」一八〇四年~一八一四年。

「紀州日高郡由良」和歌山県日高郡由良町(ゆらちょう)(グーグル・マップ・データ)。

「たて網」「建て網」。刺し網とも呼ぶ。沿岸域での漁法の一つで、帯状の網を魚介類の回遊する海底の通路附近に建てて固定したもの。「刺網」は仕掛けた網に魚が刺さったように絡まることによる。この場合は底刺し網で、海底に帯状の網を仕掛け、上に浮き、下に錘をつけて、垂直に網を張る。歴史の古い良漁法で、網の中では最も構造が簡単なもの。通常はタイ・ヒラメ・カレイ・イセエビなどを漁獲対象とする。

「天保七年」一八三六年。

「紀府」紀州藩藩庁和歌山城のあった現在の和歌山県和歌山市(グーグル・マップ・データ)。

「寧波府志」明の張時徹らの撰になる浙江省寧波府の地誌。「卷之十二 物產」の「介之屬」のここ(早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原本画像。前はPDFで当該巻を含む三巻分一冊。後はHTMLで一画面)に「沙噀」の項立てで出る。右頁四行目。されば、「沙噀腸」の「腸」は畔田のうっかり添えてしまった衍字と思われる。ナマコの形状を以下で「牛馬の膓臟」のようであると言っているのに引かれてしまったものであろうが、これは後に出る本邦の加工品としての「海鼠腸(このわた)」と酷似してしまい、その記載かと誤読してしまうので、よくない。されば、特異的に訂したのである。

「胖軟〔はんなん〕」ゆったりと肥えて柔らかいこと。

「水蟲」当初は前の形容からしてクラゲのことを意味しているものかと思ったが、現代中国語では「水虫」にはクラゲの意味はないようであるから、本邦と同じく、広義の水生の虫類、特にヒルのような蠕虫の謂いでとっておく。

「擁腫」これは広義の瘤(こぶ)或いは節・瘤の多い木。転じて無駄に大きくて無用のものを指すから、もとの体制状態に戻ることを言っている。

「沙盆」擂り鉢。

「涎腥〔ぜんせい〕」よだれ(ナマコの体表から浸潤する粘液など)と腥(なまぐさ)さ。

「五辣〔ごらつ〕」五辛(ごしん)と同義であろう。辛味や臭気の強い五種の野菜で、仏教では大蒜(にんにく)・韮(にら)・葱(ねぎ)・辣韮(らっきょう)・野蒜(のびる)を、道教では、韮・辣韮・大蒜・油菜(あぶらな)・胡荽(こすい:セリ目セリ科コエンドロ属コエンドロ Coriandrum sativum、則ち、「コリアンダー」(coriander)、中国語由来では「シャンツァイ」(香菜)、タイ語由来では「パクチー」)を指す)を指す(それぞれ、これを食べると情欲・憤怒を増進させてしまう「五葷(ごくん)」として酒とともに「不許葷酒入山門」(葷酒、山門に入るを許さず)として、寺内への持ち込みを禁じた)。

「閩小紀〔びんしやうき〕」閩は福建省地区の略で古名。明末から清初にかけての文人政治家周亮工(一六一二年~一六七二年:一六四〇年に進士及第し、濰県県令に任ぜられ。一六四四年には浙江道監察御史となったが、明朝が滅亡する。翌年には清朝に仕官し、戸部右侍郎まで昇進したが、鄭芝龍の事件に連座し、投獄された。後に赦され、再仕官し、一六六二年に官職を辞した。多くの著作を残したが、戦乱により、その大半は焼失している。蔵書家としても知られ、特に印章を好んだ)の随筆。「維基文庫」のこちらに全文が載る。当該条は以下。

   *

○土筍

予在閩常食土筍凍、味甚鮮異、但聞其生於海濱、形類蚯蚓、終不識作何狀、後閱「寧波志」、沙噀、塊然一物如牛馬腸髒、頭長可五六寸許、胖軟如水蟲、無首、無目、無皮骨、但能蠕動、觸之則縮小如桃栗、徐復臃腫、其涎腥、雜五辣煮之、脆美爲上味、乃知餘所食者、卽沙噀也。閩人誤呼爲筍云、予因有肥而無骨者、予以沙噀呼之、衆初不解、後睹此咸爲匿笑、沙噀性大寒、多食能令人暴下、謝在杭作泥筍、樂淸人呼爲沙蒜。

   *

但し、ここで周が述べている「土筍」(ドジュン)というのは、残念ながら、「沙噀」=ナマコではなく、環形動物門 Annelida の星口(ほしくち)動物 Sipuncula(嘗ては星口動物門Sipunculaとして独立させていた)の一種(複数種)で、中でも特に中国などで現在も好んで食用とされているのは、サメハダホシムシ綱サメハダホシムシ目サメハダホシムシ科サメハダホシムシ属(漢名:「土筍」或いは「可口革囊星蟲」)Phascolosoma esculenta である。この「閩小紀」の一節は、実はこの本「水族志」の後の「(二五一)」の「うみみゝず」に出てくるのであり私は実は既に「大和本草卷之十三 魚之下 むかでくじら (さて……正体は……読んでのお楽しみ!)」の注でそれを電子化しており、考証の末、以上に同定比定しているのである。

「山堂肆考〔さんだうしこう〕」明の彭大翼纂著・張幼学編輯になる類書(百科事典)。なお、この同書の引用、『「泥〔でい〕」あり。東海に出だす。純肉にして無骨、水中にて、則ち、活し、水を失へば、則ち、醉ふて泥のごとし。故に名づけて「泥」と曰ふ。杜詩に「先づ 一飮醉ふて泥のごとくなるを判ぜんや」と。又、砂噀と名づく』というのを凝っと見ていると、「泥」という通称からは、ナマコではなく、やはり前のサメハダホシムシではないかと深く疑ってしまっていることを言い添えておく。

「杜詩に『先拚一飮醉如泥』と」これは杜甫の以下の詩の一節。原詩は杜甫詳注 杜詩の訳注解説 漢文委員会」のこちらのものを使用、訓読もこちらを参考にさせて戴いた。同リンク先には訳も載る。

   *

 將赴成都草堂途中有作、先寄嚴鄭公 五首之三

竹寒沙碧浣花溪

菱刺藤梢咫尺迷

過客徑須愁出入

居人不自解東西

書簽藥裹封蛛網

野店山橋送馬蹄

豈藉荒庭春草色

先判一飮醉如泥

  將に成都の草堂に赴かんとして、

  途中、作、有り。先づ、「嚴鄭公

  に寄す」五首 其の三

 竹寒く 沙 碧なり

 浣花溪 橘刺(きつし)

 藤梢(とうしよう)  咫尺(しせき)迷ふ

 過客は徑(ただ)ちに須(すべか)らく出入を愁ふるなるべし

 居人も自ら東西を解せず

 書籤(しよせん) 藥裹(やくか) 蛛網(しゆまう)封ず

 野店 山橋  馬蹄を送る

 豈に 荒庭の春草の色を藉(し)きて

 先づ 一飮 醉ふて泥のごとくなるを 判ぜんや

   *

リンク先で「判」に注して、『「拝」の俗字、或は「拚」に作るが』、『同意である』とされ、さらに、『楚の地方語で物を揮い棄てることを拝という』とされ、『唐時』代『の俗語としては「万事を放擲してその事をなすこと」を意味する』とある。

「○イリコ 海參〔いりこ〕」は既に述べたように、現在ではイワシ類などを塩水で茹でて干した煮干しのことを指すが、本来は、ナマコの腸を除去し、塩水で煮て、完全に乾燥させたものを言った。平城京跡から出土した木簡や「延喜式」に能登国の調(ちょう)として記されている。「延喜式」の同じ能登の調には後に出る「このわた」(海鼠の腸(はらわた)の醢(塩辛))や「くちこ」(海鼠の卵巣の干物)も載り、非常に古い時代からナマコの各種加工が行われていたことを示している。

「香祖筆記〔かうそひうき〕」清初期の文人・詩人の王士禛(ししん 一六三四年~一七一一年:本邦では詩人としては号の「王漁洋」で称されることが多いように思う。一六五八年に進士に登第し、揚州府司理から侍読、刑部尚書(法務大臣)に至った。文人としても頭角を現わし、二十四歳の時、済南府に於いて、土地の読書人らとともに「秋柳詩社」を結成、その折りに詠んだ詩「秋柳」は全国的に賛美者を生むに至り、以後、ほぼ同時代を生きた朱彝尊とともに「南朱北王」と併称された。一七〇四年、部下の疑獄事件に連座して官を辞め、のちに天子の恩赦によって再度、官途に就いたが、ほどなくして亡くなった。以上はウィキの「王士禛」に拠った)の考証随筆(詩論)集。引用は巻八(リンクは「維基文庫」)から。

   *

櫟園又云、『參皆益人、沙元苦參亦兼補、海參得名、亦以能溫補故也。生於土爲人參、生於水爲海參、故海參以遼海者爲良』。

   *

『「大和本草」に曰はく、『奥州金花山〔きんくわさん〕の海參は黃色なり。「キンコ」と云ふ。又、黃赤色なるも處々に生ず』と』「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 海鼠」を参照されたい。全文を電子化注してある。芝蘭堂大槻玄澤(磐水)「仙臺 きんこの記」も併せてどうぞ。「奥州金花山」は金華山(グーグル・マップ・データ)で、宮城県石巻市の太平洋上に浮かぶ島の名である。

『「山海名産圖會」に曰はく、『奥州金花山に採れる物、形、丸く、色は黃白にて、腹中に砂金を含む。故に是れを「キンコ」と云ふ』「日本山海名產圖會」の「卷之四」の「讃刕海鼠(さんしうなまこ)」のこちら(早稲田大学図書館「古典総合データベース」の当該頁画像。前はPDF、後はHTML)の左頁九行目にある。無論、砂金を含んでいるわけではない。腸や生殖腺が黄金色(明るい黄色)を呈することに由来する名称である。金華山では嘗て砂金を産したことから、その精が化してこのキンコになったと信じられためでもある。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のキンコのページを見られたい。珍しいが、マナマコほどには実は美味くないらしい(生体を見たことはあるが、未だ食す機会がない)。

「數百枚」各個体が小さいのである。

「活火」強火。

「鹹汁〔かんじふ〕」ナマコの体内の海水分。

「江東」関東。

「筑州」筑紫国。

「豐〔ぶ〕の前後」豊前国と豊後国。

「伊勢雜記」これは旗本で有職故実家・国学者であった伊勢貞丈(いせさだたけ 享保二(一七一七)年~天明四(一七八四)年)「貞丈雑記」のことであろうと勝手に思い、所持するそれを調べたところが、全巻を縦覧しても一向に見つからない。そこで彼の別な随筆「安斎随筆」(全三十二巻十冊。安斎は貞丈の号)を国立国会図書館デジタルコレクションで縦覧したところ、卷之八のここと、次のページにかけて見出せた(今泉定介編「故実叢書」内の伊勢貞丈「安齋隨筆」。明治三九(一九〇六)年吉川弘文館刊の活字本)。かなりカットされてあるので、以下に全体を示す。勝手流で訓読し、句読点その他を附した。

   *

タハラゴ【「タワラコ」とよむ。】 海鼠の乾したるなり。漢土の書には「海參」とあり、功能あるものなれば、人參にたとへて「海參」と云ふ。日本にては、昔より「海鼠」の二字を用ひ來れり。「和名抄」に、『崔禹錫が「食經」に云はく、海鼠似ㇾ蛭而大者也(和名古)』とあり。「コ」と云ふが本名なり。丸の儘にて乾したるを「熬鼠」と云ふなるべし。其の形、少し丸く少し細長く、米俵の形の如くなる故、タハラコと名付けて、正月の祝物に用ふる事、庖丁家の古書にあり。米俵は人の食を納る物にてメデタキ物故、タハラコと云ふ名を取りて祝に用ふるなり。刺し柿の如くして乾したるを「串海鼠」と云ふ。ナマなるを生海鼠と云ふ。後代、熬海鼠見及ばず。串海鼠をイリコともタハラコとも云ひて之れを用ふ。今の世、奥州より金海鼠といふ物出づる。奥州金華山の下の海より出る海鼠を乾したるなり。其の形、米俵に似たり。是、古の煎海鼠ともタハラゴとも云ひし製なるべし。然れども、名を金海鼠と云ふ故、熬海鼠とも云ふ事をしらず。金海鼠は生なる時より如此の形なりと思ふは非なり。常の海鼠の如く形長けれども熬海鼠に製する故、形、俵の如くなるなり。

   *

とある(「納る」は「をさむる」、「製」は製品に謂いであろう)。但し、貞丈はキンコの生体を見たことがないようで、キンコは生体でも、マナマコに比すと、概して丸く茄子のような形をしており(外側の色は地味な灰褐色が多いが、黄白色から濃い紫色まで個体によって色彩変異が大きい。別名に藤の花に似ている個体があり、「フジコ」(藤子)とも呼ぶ)、特に収縮した際は、事実、俵に似ている。なお、キンコはマナマコの近縁ではない。細かく示すと、

キンコは樹手亜綱 Dendrochirotacea 指手目 Dactylochirotida キンコ科 Cucumariidae キンコ属キンコ Cucumaria frondosa var. japonica

であるのに対し、

マナマコは楯手亜綱 Aspidochirotacea 楯手目 Aspidochirotida シカクナマコ科 Stichopodidaeマナマコ属Apostichopus

である。

「海島逸志」「海島逸誌」。清の王大海の博物誌的著作。一七九一年成立。引用部は原本(早稲田大学図書館の「古典総合データベース」のHTML画像)の「卷第四 海山拾遺」のここ

「棉絮〔めんじよ〕」木綿の綿毛(わたげ)。

「礬水〔ばんすい〕」白礬水。天然明礬(みょうばん:カリ明礬石から製する)を温水に溶

「愈、美なり」老婆心乍ら、これは無論、視覚美ではなく、深いところの海鼠がより美味いと言っているのである。

「刺參鳥縐」「刺參」は干しナマコのことで、「縐」は細かな皺のある織物を指す語で、「鳥」を鳥の羽のような形の意ととると、これは私には私の大好物のバチコ(撥子)=クチコ(口子)、ナマコの生殖巣のみを抽出して、軽く塩をし、干して乾物にした「干しクチコ」のことと思われてくる。形が三味線の撥に似るのが由来で、別に「コノコ」(海鼠子)とも呼ばれる。鮮烈な紅色の魅惑あるものである。小さい割に、目ん玉が飛び出るほど、高い。生を塩辛にした「生クチコ」もある。

「海錄」は清の楊炳南(ようへいなん)と謝清高の共著になる漢籍では非常に珍しい中国国外の地誌らしい。邦人の書写したものが、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の中にあったが、第一巻の末尾に「呢咕叭當國」があり、「海參」の記載はあるものの、以下の引用の文字列を発見出来なかった。一巻目は二巻目の筆跡と異なっており、一巻目は途中で切れている可能性があるようにも思われる。

「呢咕叭當國」中文サイトの記載でやっと判明した。現在のインド洋のベンガル湾の東にあるニコバル諸島(グーグル・マップ・データ)である。言われて見ると、文字列の頭は確かに「ニコバ」と読める。

『海參、海石の上に生じ、其の下、肉盤、有り、盤中より、短き蒂〔へた〕を出だし、蒂の末、即ち、海參、生ず。或いは黑く、或いは赤く、各々、其の盤之の色に肖〔に〕る。豎〔じゆ〕、海水の中に立ち、潮に隨ひて、盤の邊りに搖動す。三面ありて、三つの鬚を生ず。各々、長さ數尺。水面に浮沈し、採る者は、鈎〔かぎ〕を以つて其の蒂を斷ち、撈〔すくひと〕り起こして、之を剖〔さ〕き其の穢〔よごれ〕を去り、煑熟〔にじゆく〕す。然かる後、火を以つて焙〔あぶ〕り乾す』この記載、訓読しながら「ワァお!」と叫びたくなるなかなかのトンデモもので、石の上に「盤」状の肉質が生じ、そこから短い「蔕〔へた〕」が生えてきて、その先に「海參」(ナマコ)が生じ、黒いナマコや赤いナマコは、そのもとの「肉盤」の色に基づく、なんどとあり、それこそその採取法(鉤を以って引っ掛けて引き起こして採る)という辺りを見ても、これはナマコではなく、ホヤ(老海鼠:本邦の代表的食用種は脊索動物門 Chordata 尾索動物亜門 Urochordata ホヤ綱 Ascidiacea マボヤ目 Pleurogona マボヤ亜目 Stolidobranchiata マボヤ(ピウラ)科 Pyuridae マボヤ属 Halocynthia マボヤ Halocynthia roretzi)との混同が激しく疑われる叙述と言える。

「閩海參〔びんかいさん〕」閩は福建省地区の略。古名。

「本草從新」清の一七五七年に呉儀洛によって著された臨床的本草書。全十八巻。記載生薬は七百二十種に及ぶ(分類法は「本草綱目」に準じている)。本書は初めて「冬虫夏草」を記載したことでも知られる。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で原本が読める。「海參」はここから。

「閩小記」に曰はく、「維基文庫」のこちらによれば、原文は、

   *

○海參

閩中海參色獨白、類撐以竹簽、大如掌、與膠州遼海所出異、味亦澹劣、海上人復有以牛革僞爲之以愚人者、不足尙也。濰縣一醫語予云、參益人、沙玄苦參、性若異、然皆兼補、海參得名、亦以能溫補也。人以腎爲海,此種生北海鹹水中、色又黑、以滋腎水、求其類也。生於土者爲人參、生於水者爲海參、故海參以遼海產者爲良、人參像人、海參尤像男子勢、力不在參下、說亦近理。

   *

とある。「水族志」の撑」と「撐」は同義で「支えとなるもの」の意。

「撑〔ささへ〕の類ひとして、竹を以つて、簽〔しるし〕す」訓読に甚だ自信がない。一応、採取する者が、逃げて行かぬように、竹を何本か海底にナマコの体を刺し貫いて動けなくさせておき、標識としておく、の意で読んだのだが、突如、初めに漁法を出すのもヘンな感じはする。実は私は既に、栗本丹洲の「栗氏千蟲譜」巻八よりとして「海鼠 附録 雨虎(海鹿)」をサイトで電子化しているが、そこに栗本が引用しており、そこでは私は、

   *

閩中、海參、色、獨り白き類は、竹簽(ちくせん)を以つて撑(つ)けば、大きさ、堂のごとくなる。味、亦、淡にして劣たり。海上の人、復た、牛革を以つて譌り、之れを作る有り。

   *

と訓じているのである。畔田の返り点とは異なるが、「竹簽」は「竹串」の意となり、「撑」には別に「刺す・突く」の意があるので、そっちの方がいい。

「膠州の遼海」「膠州」は現在の山東省青島市膠州市。「遼海」はその前に広がっている黄海を一般名詞で呼んだものととる。実際、黄海の渤海辺り(山東半島及び遼東半島沿岸)で獲れた海鼠の乾燥品(学名とフレーズで調べて見ると、基本、原素材はマナマコである)を「遼海產」或いは「遼參」として中国では販売している。

「與〔あづか〕る」「主棲息地・主産地とする」の意で訓じたが、どうも座りは悪い。

「澹〔あは〕くして【「從新」は「淡」に作る。】」「澹」にも「淡」と同義があるので問題ない。

「牛革を以つて、僞〔いつは〕りて之れを爲〔つく〕り、以つて人を愚する有り。者は、尙ほ、足らざるなり」「者」はどうも座りが悪い。或いは係助詞で「は」と読もうと思ったが、文がだらつくので、かくした。この仰天の贋物(にせもの)の捏造「干しナマコ」(羊頭狗肉ならぬ海鼠頭牛皮)であるが、古くから知られていたもので、先の栗本丹洲の「栗氏千蟲譜」巻八より「海鼠 附録 雨虎(海鹿)」にも、

   *

蘭山子「本艸從新」に載する所、「光參」に充つ。是れに非ず。其の書に云ふ、『刺有るは「刺參」と名づけ、刺無きは「光參」と名づく。』と。注に云ふ、『閩中、海參、色、獨り白き類は、竹簽を以つて撑けば、大きさ、堂のごとくなる。味、亦、淡にして劣たり。海上の人、復た、牛革を以つて譌り、之れを作る有り。』の語あり。此れ、卽ち、『八重山串子』と俗称するものにして、味、甚だ薄劣にして、下品のものなり。

   *

とあって、実は日本でも当時、「八重山串子(やえやまくしこ)」という名で知られていたことが判るのである(但し、ネットで「八重山串子」を検索しても、現認出来る日本語のサイトは私のものだけである)。考えて見ると、牛の皮は食には向かないし、薄いものは皮革にもならないから、ただ同然で手に入ったものかも知れない。

「刺參」中国及び本邦で広くナマコ類及びマナマコに当てる。現在も、である。

「光參」本邦では特に先に挙げたキンコに当てる。

「遼海參」前「膠州の遼海」で注した。

「コノワタ」「俵子(タハラコ)」「沙噀膓」ウィキの「このわた」を引く。『このわた(海鼠腸)は、ナマコの内臓の塩辛で』、『寒中に製した、また』、『腸の長いものが良品であるとされる。尾張徳川家が師崎』(もろざき:愛知県知多郡南知多町の先端に位置する港町。ここ。グーグル・マップ・データ)の「このわた」を『徳川将軍家に献上したことで知られ、ウニ、からすみ(ボラの卵巣)と並んで日本三大珍味の一つに数えられる』。『古くから能登半島』『・伊勢湾・三河湾が産地として知られてきたが、今日では、瀬戸内海など各地で製造されている』。語源は、「こ」(既に出したナマコの最も古い呼び名)+「の」(所有の格助詞)+ 「わた」(「腸」。「内臓」の意)である。『このわたを製造する場合には、体色が赤っぽい「アカナマコ」が重宝がられるという』。『まず、ナマコの体内を浄化するため、作業場近くの海に設けた生け簀で二日ほど』、『放置する。腸管内部の餌の残渣や糞がある程度』、『排泄されたころをみはからい、腹側の口に近い部分を小刀で』五~六センチメートルほど『裂き、逆さにして内部の体腔液を抜きつつ、切り口から指を入れて内臓を引き出す』『か、または脱腸器で内臓を抜き取る。抜き出した内蔵は、指先でしごいて』、『内部に残った砂を絞り出し、腸管・呼吸樹(「海鼠腸の二番」と称される)・生殖巣の三部位と、砂(砂泥)とに分別される。生殖巣は』「くちこ」(既に述べた)の『製造に』別に使用される。『なお、内臓を抜いたナマコは生食用または熬海鼠(いりこ:煮干し品)の製造に向けられ、生食用は海水を満たしたナイロンの袋に詰めて出荷される。熬海鼠用は釜に入れるまで、海水を満たした桶に保管しておく(ナマコの生態的な特徴からすぐに死ぬことはない)。解体時にナマコの切り口を小さくするのは、熬海鼠の品質を良くするためといわれている』。『解体と分別作業とが終わると、小盥に分けた内臓を海水でよく洗い、ザルに取って水気をきってから』、『一升舛で量り、別の盥に入れて重量比で』一割強、体積比では、内臓一升に対し、二~三合『の食塩を加えて混ぜ合わせ、桶または壺に貯蔵する』。二~三日で『塩漬けが完了して食用可能な状態となるため、箸などを用いて出荷用の容器へと取り分ける』。『おおまかに、ナマコ』百貫から内臓八升が『採取でき、内臓』一『升から』は、「このわた」七『合が製造できる』。『多量の水分を含み、軟らかい紐状をなすこのわたの流通用容器としては、ガラス瓶・竹筒・桶の』三『種類がある。ガラス瓶が使用されるようになったのは、昭和』四〇(一九六五)『年代以降のことであるが、清潔で容積に変化がないことから』百二十ミリリットル用の『小瓶が使われている。竹筒入りは細身の青竹を用いるが、内容積に変化があるため、使用する時は、このわたの本数を読んで詰めている。さらに、「オケ」と呼称されている小型の木製容器も用いられる』。『京都・大阪や金沢の方面では、竹筒入りのこのわたが求められる場合が多く、名古屋方面では桶入りのものを求める傾向があるという』。『ナマコの内臓はふつうは塩蔵品として市販されるが、生鮮品をそのまますすっても、三杯酢に浸して酢の物としても美味で、酒肴として喜ばれる。また、このわたに熱燗の酒をそそいだものは「このわた酒」と称される』。『「このわた汁」は、このわたをまな板の上で庖丁で叩いてから椀に入れ、ごく薄味に仕立てた汁を注いだもので、このわたの真の味を賞し得るという。また』、『味噌仕立てにもされ、三州味噌を庖丁で細かく切って水溶きし、鰹節と昆布とを加えて』三『時間ほど置き、裏ごしする。これを火にかけて味を調え、このわたを加えてさっと火を通して供する』。『このわたは、能登国の産物として平安時代の史料に登場する。室町~戦国時代には、能登の守護職を務めた畠山氏が、特産の水産物としてこのわたを納め、「海鼠腸桶」を足利将軍家や公卿・有力寺社などへ贈呈した歴史が知られている』。延長五(九二七)年)成立の「延喜式」には、『中央政府が能登国のみに課した貢納物の中に、熬海鼠に加えて』、『「海鼠腸」が挙げられている。能登の交易雑物に「海鼠腸一石」と記録されている点から、かなり量産されていたことがうかがわれる』(以下、「本朝食鑑」の記載があるが、誤った内容が書かれているので、現在、同ウィキの「ノート」に原筆者への修正要請を附しておいた。因みに私はアカデミストたちが嫌悪するウィキぺディアの、ライターの端くれである)。また、足利義政・義尚将軍期の政所代であった蜷川親元(永享五(一四三三)年~長享二(一四八八)年)の日記にも、『畠山義統』(よしむね)『より足利義政への進物として「海鼠腸百桶(只御進上)」との記述があり、また、日野富子へ向けて「このはた百桶」、義統の親元に向けて「このはた五十桶」が贈られたと記されている』。『塩辛である海鼠腸の特徴と、中世文献上に記述されている「桶」の数量から、海鼠腸桶は口径』六センチメートル未満(二寸相当)の『小型の曲物容器であった可能性が指摘されるとともに、福井県一乗谷朝倉氏遺跡の朝倉館より大量に出土した小型曲物こそが、この「桶」であろうとの指摘がなされている』。室町時代の文政三(一八六三)年に『成立した「奉公覚悟之事」にも』、『このわたの記述があり、「このわたハ桶を取りあげてはしにてくふべし。是も一番よりハ如何。半に両度もくふべき也(下略)」』『との説明から、このわたが、片手で持ちうる大きさの「桶」に詰められていたであろうことが明らかであるという』。『江戸時代に、能登の名産品として、このわたを将軍家に献上した加賀藩前田家は、この中居』(石川県鳳珠(ほうす)郡穴水町(あなみずまち)字中居。グーグル・マップ・データ。七尾湾の北岸)『産の海鼠腸を御用品に定めることで、南湾の石崎町』(ここ。七尾湾南岸七尾市街からやや北西で、和倉温泉の直近。同前)『と同じく能登のナマコ生産を支配した』。『このため、現在でも七尾湾で水揚げされたナマコを加工している場所は、七尾市石崎町と鳳珠郡穴水町中居の二ヶ所だけである。石川県下におけるナマコ生産・加工に関する歴史も、前田氏が能登の支配を始めた江戸時代からと伝承されている』とある。

「攪〔かきまぜ〕て勻〔ひとしく〕して」「勻」は先に示したように底本では「勾」(かぎ・曲げる)であるが、これでは意味が通じない。「勻」には「均」の意、「等しい」の意があるから、攪拌して様態を均一にするの意でとった。]

カテゴリ 畔田翠山「水族志」 創始 / (二四六) クラゲ 《リロード》

 

カテゴリ『畔田翠山「水族志」』を創始し、江戸末期の和歌山藩士にして博物学者畔田翠山(くろだすいざん)の「水族志」の電子化に着手する。今回、人見必大の「本朝食鑑」の水族の部の電子化と訳注の参考にするため、島田勇雄訳の平凡社東洋文庫版全五巻(一九七六~一九八一年刊)を購入、それを管見するうち、その注の「水族志」の引用内容の細かさに驚いた(特にこれから行う「クラゲ」の項等)。しかも、この畔田翠山なる人物、謂わば、南方熊楠の大先輩とも言うべき人物なのである。これはもう、やらずんばならず、である。

「水族志」は文政一〇(一八二七)年に翠山によって書かれた、恐らくは日本最初の総合的水産動物誌で、明治になって偶然発見され(後述)、当初の分類方法を尊重しつつ、全十巻十編に改訂された。掲載された水族は本条二百五十七種、異種四百七十八種合わせて七百三十五種。異名を含めると千三百十二種に及ぶ。但し、貝類は含まれない(数値データは「水産総合研究センター図書資料デジタルアーカイブ」の同書の冒頭解説に拠った)。

 畔田翠山(寛政四(一七九二)年)~安政六(一八五九)年)は本名を源伴存(みなもとともあり)といい、紀州藩藩医であった。通称を十兵衛、別に畔田伴存とも名乗り、号は翠山・翠嶽・紫藤園など。「和州吉野郡群山記」「古名録」をはじめとする博物学の著作を遺した。以下、ウィキの「源伴存」より引く。『現在の和歌山市に下級藩士の畔田十兵衛の子として生まれた。若いときから学問に長じ、本居大平』(もとおりおおひら:本居宣長の弟子で養子。)『に国学と歌学、藩の本草家で小野蘭山の高弟であった小原桃洞に本草学を学んだ。父と同様、家禄』二十『石の身分であったが、時の』第十代藩主徳川治宝(はるとみ)に『学識を認められ、藩医や、紀の川河畔にあった藩の薬草園管理の任をつとめた』。『薬草園管理の任にあることで、研究のための余暇を得たとはいえ』、二十『石のわずかな禄では、書物の購入も研究のために旅に出ることも意のままにはならない。こうした伴存の境遇を経済面で支援したのが、和歌山の商人の雑賀屋』(さいかや)『長兵衛であった。長兵衛は、歌人としては安田長穂として知られる人物で、学者のパトロンをたびたびつとめた篤志家であった』。『また、伴存自身は地方の一学者でしかなかったが、蘭山没後の京都における本草家のひとりとして名声のあった山本沈三郎』(しんさぶろう)『との交流があった。沈三郎は、京都の本草名家である山本亡羊』(ぼうよう)『の子で、山本家には本草学の膨大な蔵書があった。沈三郎は』、弘化二(一八四五)年に『伴存の存命中に唯一刊行された著書』「紫藤園攷証」(しとうえんこうしょう)甲集(博物学書。国立国会図書館デジタルコレクションの原本へリンクさせた)に『ふれて感銘を受け、それ以来、伴存との交流があった』。『この交流を通じて、伴存は本草学の広範な文献に接することができた』。『このように、理解ある藩主に恵まれたことや』、『良きパトロンを得られたこと、さらに識見ある先達との交流を得られたことは、伴存の学問の大成に大きく影響した』。『伴存は、自らのフィールドワークと古今の文献渉猟を駆使して』、二十五部以上・約二百九十巻にも『及ぶ多数の著作を著した』『が、その業績の本質は本草学と言うよりも博物学である』。文政五(一八二二)年に『加賀国白山に赴き、その足で北越をめぐり、立山にも登って採集・調査を行った。山口藤次郎による評伝では、その他にも「東は甲信から西は防長」まで足を伸ばしたと述べられているが、その裏付けは確かではなく』、『伴存の足跡として確かなのは白山や立山を含む北越、自身の藩国である紀伊国の他は、大和国、河内国、和泉国といった畿内諸国のみである』。『その後の伴存は、自藩領を中心として紀伊半島での採集・調査を続け、多くの成果を挙げた。代表的著作である』「和州吉野郡群山記」も、『その中のひとつである』。安政六(一八五九)年、伴存は熊野地方での調査中に倒れて客死し、同地の本宮(田辺市本宮町)にて葬られた』。『伴存の著作の特徴となるのは、ある地域を限定し、その地域の地誌を明らかにしようとした点にある。その成果として』「白山草木志」・「北越卉牒」(ほくえつきちょう)・「紀南六郡志」・「熊野物産初志」・「野山草木通志」(やさんそうもくつうし:高野山の草木類についての本草書。巨大なツチノコではないかとも言い囃された「野槌」の図が載ることでも知られる「【イエティ】~永遠のロマン~ 未確認動物UMAまとめ その1【ツチノコ】」に図があるので参照されたい)、そして伴存の代表的著作』「和州吉野郡群山記」が『ある。特に紀伊国では広範囲に及ぶ調査を行い』、その中で、『日本で最初と見られる水産動物誌』である本「水族志」や、貝類図鑑である「三千介図」が生まれており、代表的著作とされる「熊野物産初誌」・「和州吉野郡群山記」も『そうした成果のひとつで』、「和州吉野郡群山記」は、『大峯山、大台ヶ原山、十津川や北山川流域の地理や民俗、自然を詳細に記述したもので、内容は正確かつ精密である。その他にも、本草学では』「綱目注疏」・「綱目外異名疏」、『名物学では全八十五巻からなる』「古名録」や「紫藤園攷証」があり、『伴存の学識』の博さを『知ることが出来る』。『前述のように、伴存は生涯にわたってフィールド』・『ワークを好んだだけでなく、広範な文献を渉猟した。ことに古今和漢の文献の駆使と』、『それにもとづく考証においては、蘭山はもとより、他の本草学者』とは比べものに『ならないほどの質量と専門性を示すことは特筆に価する。また、伴存の博物学的業績を特徴付けるのは、調査地域での記録として写生図だけでなく』、『標本を作成した分類学的手法』『である。その標本は、伴存の門人で大阪の堀田龍之介の手に渡り、後に堀田の子孫から大阪市立自然史博物館に寄贈された。これらの標本を現代の分類学から再検討することは行われていないが、紀伊山地の植物誌研究にとって重要な資料となりうるものである』。『伴存は以上のように大きな業績を残したが、生前に公刊した著作はわずか』一『冊のみであった。また、実子は父の志を継ぐことなく』、『廃藩置県後に零落』、明治三八(一九〇五)年に『不慮の死を遂げ、家系は途絶えた。伴存は堀田龍之介と栗山修太郎という』二『人の門人を持ったが、栗山の事跡は今日』、『ほとんど何も知られていない』。『堀田は、伴存と山本沈三郎との交流の仲立ちに功があった』『が、本草学者・博物学者としてはあくまでアマチュアの好事家の域にとどまった』。『こうしたこともあって、伴存は江戸末期から明治初期にかけて忘れさられただけでなく、第二次大戦後に至っても』、『本名と号とで』、『それぞれ別人であるかのように扱われることさえあった』。『伴存が再発見されたのは全くの偶然で』、明治一〇(一八七七)年、東京の愛書家・宍戸昌が』、古書店で「水族志」の『稿を入手したことに始まる。著者名は「紀藩源伴存」とあるだけで、何者とも知れなかったが、翌年に大阪で宍戸が堀田に見せたところ、その来歴が判明したのであった。後に田中芳男がこのことを知り、宍戸に勧めて』、明治一七(一八八四)年、本「水族志」が『刊行された。田中はまた』、「古名録」の『出版にもつとめ』、明治一八(一八八五)年から明治二三(一八九〇)年に刊行している。「古名録」の『刊行にあたっては』、本邦初の植物病理学者として知られる白井光太郎(みつたろう)が『和歌を寄せたほか、南方熊楠も伴存の学識を賞賛する一文を寄せている』とある。まさにその後輩とも言うべき博物学の巨人南方熊楠以上に、再評価されてよい人物と言えるのである。

 視認底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「水族志」を用い、判読に困った部分では「水産総合研究センター図書資料デジタルアーカイブ」の「水族志」の画像も参考にした。異体字の漢字は最も近いものを当ててある。項目名の前にある( )は上部罫の外に示された通し番号である。底本では標題以外は本文全体が一字下げである。割注は【 】で本文と同ポイントで示した。本テクストはまず、訓点(返り点とカタカナの振り仮名があるが、送り仮名はごく一部にしかない)を除去した漢字カタカナ交じりの本文を示し、次に「○やぶちゃんの書き下し文」として、諸資料を参考にしながら、自然勝手流で訓読したものを示す。そこでは原本のカタカナのルビはそのまま生かして( )で示し、私の推定の読みは〔 〕によって歴史的仮名遣でひらがなで添え、場合によっては、読み易くするために改行を施した(本文のカタカナの内、一部はカタカナのままにした)。その後に読解の便を考えたオリジナルな注を附す。但し、始動した際は訓点を再現した関係上、その自身の当時の努力を残すために、この「クラゲ」と次の「ナマコ」では返り点と読み仮名が添えてある。また、後に「クラゲ」と「ナマコ」をPDF縦書版を作って添えたのだが、今見ると、PDF機能が拙劣で、漢字が横転しているなど、見るに堪えないものであったので、除去し、改訂したPDF縦書版を以下に添えた。

 例によって私の偏愛性から、最後の「第十編 海蟲類」から開始する。【二〇一五年四月二十九日 藪野直史】【二〇二〇年九月十九日改稿:放置が長く、注をしないというコンセプトを変えることにしたため、形式も変更し、本格的に本文も最初から校訂をやり直すことにした(実際に表記の誤りが数箇所あった)。始動の際の気持ちは変わらないので、この冒頭注の後半も全面的に書き変えたけれども、記事の日付はそのままとして、《リロード》と添えた。】

【特別付録】ここでは本文で訓点を再現したので、縦書の方が、その部分は流石に読み易いので、特別に「クラゲ」と「ナマコ」のカップリングで本文のみの縦書版(PDF)を用意した。 

 〇第十編 海蟲類

(二四六)

クラゲ 水母 海月【訓久良介(クラゲ)本朝食鑑】

本朝食鑑狀如水垢之凝結而成渾然體靜隨波逐潮浮水上其色紅紫無眼口手足腹下有物如絲如絮而長成[やぶちゃん注:この「成」は原文と対照することで、「曳」の誤読か誤植であることが判明したので、訓読ではそう変えた。]魚鰕相隨嘔其泛沫大者如盤小者如[やぶちゃん注:(上)「子」+(下)「皿」であるが、引用原拠を確認して「𥁂」ではなく「盂」であることを確認した。]其最厚者爲海月頭其味淡微腥而佳廣東未之海西最多故煎茶渣柴灰和䀋水之以送于東云々大和本草曰水母泥海ニアリ故備前筑後等ヨリ出無毒生ナルヲ取リクヌギノ葉ヲ多クキザミクラゲノ内ニ包ミ䀋ヲ不用木ノ葉ヲマジヱ桶ニ入フタヲオホヒ水ヲ入時々水ヲカユル久クアリテ不敗水ナケレハヤクルヤクルトハ枯テ不食ナリ本草啓蒙曰松前ニハ大サ三寸許ニ乄紫色ナル者アリ按一種白色ニ乄内ニ紅紫或藍紫色大瓣ノ櫻花形ヲナス者アリ閩中海錯疏曰水母海中浮漚所結也色正白濛濛如沫又如凝血縱廣數尺有知識腹臟無頭目處々不人按其紅者名海蜇其白者名白皮子事物紺珠曰水母仙狀如凝血大者如床次如覆笠斗泛々隨水上下無頭腹按此物群ヲナシ海潮ニ隨ヒテ行白色ノ松簟ノ半開セル形ノ如ク下ニ白色大小ノ絲ヲ引ク〇セイクラゲ 水母線 楊州畫舫錄曰𩶱魚割其肉蛇頭其裙曰蛇皮廣博物志曰海曲有物名蛇公形如覆蓮花正白閩中海錯疏曰按類相感志云水母大者如床小者如斗明州謂之蝦鮓皮切作縷名水母線唐久良介(トウクラゲ)」「海蜇[やぶちゃん注:以上の奇妙な鍵括弧列はママ。当該部(左ページ七行目)を見られたい。]【廣東新語】一名朝鮮(テウセン)クラゲ【山海名產圖會】本朝食鑑曰一種有唐海月ト云色黃白味淡嚼之有聲亦和薑醋熬酒進是自華傳肥之長崎而來本朝亦製之其法浸以石灰礬水其血汗則色變作白重洗滌之若不石灰之毒則害人大和本草曰唐クラゲアリ水母ヲ白礬水ヲ以制乄簾ニヒロケ乾シテ白クナリタル也ミヅクラゲ 一名ハゲクラゲ【紀州加太浦漁人沖ハゲヲ釣餌ニ用故ニ名ク】ブツウクラゲ【本草啓蒙防州旦村】ドウクハンクラゲ【同上雲州】白皮子」[やぶちゃん注:鍵括弧はママ。]八閩通志曰、水母有淡色者白色者其白者名白皮子本朝食鑑曰有水海月者色白作團如水泡之凝結亦曳絲絮魚鰕附之隨潮如飛漁人不之謂必有一レ毒又有毒者而味不好江東亦多有之大和本草曰「ミヅクラゲ」ハ「クラゲ」ニ似タリ食ベカラズ是ハ泥海ニハ生ゼズ本草啓蒙曰「ミヅクラゲ」四ノ黑㸃アリ即足ナリ按ニ白色ノ「クラゲ」也四ツノ黑㸃アルモノ又一品也フグ 本草啓蒙曰土州羽根浦ニ「フグ」ト云フモノアリ「ミヅクラゲ」ニ同シクシテ中ニ鍼ヲ藏ス若螫サルレハ甚タ人ヲ害スイラ 本草啓蒙曰備前兒島及勢州ニ「ミヅクラゲ」ト形狀同ジク肌滑ナラズ乄色紅乄血道ノ如キモノアリ若シ誤テ此物ニ觸レハ蕁麻(イラクサ)ニ螫レタルガ如シ薩州ニテ「イラ」ト云按ニ水母類ハ凡テ人肌ニ觸レハ螫疼ムモノ也絲(イト)クラゲ【紀州】一名サウメンクラゲ 洋中ニアリ長キ糸ヲ引タル如シ白色透明素麪ノ如シ又人肌ニ触ルレハ螫ス南風ノ時多シジユズクラゲ 長ク糸ヲ引テ念珠ノ如キ者相連レリ白色透明也一種一根ヨリ數条ヲ分チ房ヲナシ條如ニ[やぶちゃん注:この「如」には文脈から見て、誤記・誤字・誤植ではなかろうか? 細い条のようになっている丸いものというのは矛盾した謂いとしかとれないからである。私はこれを「每ニ」の誤りと見た。訓読でもそれを採用した。]圓キ榧子ノ如キモノ連ルアリ白色透明也ハナヒキクラゲ【紀州海士郡加太】水母ニ同乄表ニ紫褐色或醬褐色ノ荷葉ノ脉文アリキンチヤククラゲ 形狀荷包ニ似テ長シ白色ニ乄扁也半ニ四五分許ノ穴アリ其傍ヨリ長サ一尺許ノ紐出テ紙ヲ一分餘ニ斷テ着ルガ如シ西瓜(スイクワ)クラゲ 夏月ニ多シ西瓜ノ大サニシテ白色淡藍色ヲ帶

 

○やぶちゃんの書き下し文

 〇第十編 海蟲類

(二四六)

クラゲ 水母 海月【久良介(クラゲ)と訓ず。「本朝食鑑」。】

「本朝食鑑」に、『狀、水の垢〔あか〕の凝り結びて成れるがごとくして、渾然として、體〔たい〕、靜かなり。波に隨ひ潮を逐ふて水上に浮かぶ。其の色、紅紫、眼・口、無く、手足、無し。腹の下、物有りて、絲のごとく、絮〔わた〕のごとくにして、長く曳く。魚・鰕、相ひ隨ひ、其の泛〔うか〕べる沫〔あは〕を嘔〔す〕ふ。大なる者は盤のごとく、小なる者は盂〔はち〕のごとし。其の最も厚き者は「海月の頭〔かしら〕」と爲す。其の味はひ、淡く、微かに腥〔なまぐさ〕くして、佳なり。廣東[やぶちゃん注:「江東」の誤り。江戸を中心とした関東の意。]、未だ之れを見ず。海西、最も多し。故に煎茶の渣〔かす〕・柴〔しば〕の灰、䀋水〔えんすい〕に和して、之れを淹〔つ〕け、以つて東に送る』と云々。

「大和本草」に曰はく、『水母。泥海にあり。故に備前・筑後等より出づ。毒、無し。生なるを取り、くぬぎの葉を、多く、きざみ、くらげの内に包み、䀋を用ひず、木の葉をまじゑ、桶に入れ、ふたをおほひ、水を入れ、時々、水を、かゆる。久しくありて、敗〔くさ〕らず。水、なければ、やくる。「やくる」とは、枯れて食ふべからずなることなり』と。

「本草啓蒙」に曰はく、『松前には、大いさ三寸許りにして、紫色なる者あり』と。

按ずるに、一種、白色にして、内に紅紫、或いは藍紫色の大瓣の櫻の花形をなす者あり。

「閩中海錯疏〔びんちゆうかいさくそ〕」に曰はく、『水母』、『海中の浮漚〔ふおう〕、結ぶ所なり。色、正白、濛濛として沫〔あは〕のごとく、又、凝〔こ〕れる血のごとし。縱の廣さ數尺、知識は有るも、腹臟は無く、頭・目も無し。處々あり、人を避くることを知らず』と。『按ずるに、其の紅き者は「海蜇」と名づけ、其の白き者は「白皮子」と名づく。「事物紺珠」に曰はく、『水母仙、狀、凝れる血のごとく、大なる者、床〔とこ〕のごとく、次〔つ〕ぐは覆へる笠のごとく、斗〔ます/ひしやく〕のごとし。泛々〔はんぱん〕として水に隨ひ、上下す。頭・腹、無し』と。

按ずるに、此の物、群れをなし、海の潮に隨ひて行く。白色の松簟〔まつたけ〕の半開せる形のごとく、下に白色の大小の絲を引く。

〇セイクラゲ 水母線 「楊州畫舫錄〔ようしうぐわばうろく〕」に曰はく、『𩶱魚〔だぎよ〕、其れ、其の肉を割〔さ〕きて、蛇頭と曰ふ。其の裙〔ひれ〕は蛇皮と曰ふ』と。「廣博物志」に曰はく、『海曲。物、有り蛇公と名づく。形、覆蓮花のごとく、正白』と。「閩中海錯疏」に曰はく、『按ずるに、「類相感志」に云はく、『水母、大なる者は床のごとく、小なる者は斗のごとし』と。明州、之れを蝦鮓〔かさ〕と謂ふ。皮を切り、縷〔いと〕に作る。水母線と名づく』と。

唐久良介(トウクラゲ) 「海蜇」【「廣東新語」。】。一名朝鮮(テウセン)クラゲ【「山海名產圖會」。】「本朝食鑑」に曰はく、『一種、「唐海月」と云ふ者の有り。色、黃白、味、淡し。之れを嚼〔か〕みて、聲〔おと〕有り。亦、薑醋〔しやうがず〕・熬酒〔いりざけ〕に和して是れを進む。華より肥の長崎に傳へて來たる。本朝にも亦、之れを製す。其の法、浸すに石灰・礬水〔ばんすい〕を以つてして、其の血・汗を去る。則ち、色、變じて、白と作〔な〕る。重ねて之れを洗ひ、滌〔すす〕ぐ。若〔も〕し、石灰の毒を去らざれば、則ち、人を害す』と。「大和本草」に曰はく、『唐くらげあり。水母を白礬水を以つて制して、簾〔すだれ〕にひろげ、乾して、白くなりたるなり』と。

ミヅクラゲ 一名、ハゲクラゲ【紀州加太〔かだ〕浦の漁人、「沖はげ」を釣る餌に用ふ。故に名づく。】。ブツウクラゲ【「本草啓蒙」。防州旦村。】。ドウクハンクラゲ【同上。雲州。】。白皮子。「八閩通志〔はちびんつうし〕」に曰はく、『水母、淡き色の者、有り、白色の者、有り、其の白き者、白皮子と名づく』と。「本朝食鑑」に曰はく、『水海月と云ふ者、有り。色、白くして團を作〔な〕し、水の泡の凝結するがごとく、亦、絲絮〔しじよ〕を曳きて、魚・鰕、之れに附く。潮に隨ひて、飛ぶがごとし。漁人、之れを采〔と〕らず。謂ふ、「必ず、毒有り。又、毒、無き者、有れども、味はひ、好からず」と。江東にも亦、多く、之れ有り』と。「大和本草」に曰はく、『「ミヅクラゲ」は「クラゲ」に似たり。食すべからず。是れは泥海には生〔しやう〕ぜず』と。「本草啓蒙」に曰はく、『「ミヅクラゲ」。四つの黑㸃あり。即ち、足なり』と。按ずるに、白色の「クラゲ」なり。四つに黑㸃あるもの、又、一品なり。

フグ 「本草啓蒙」に曰はく、『土州〔どしふ〕羽根浦に「フグ」と云ふものあり。「ミヅクラゲ」に同じくして、中に鍼〔はり〕を藏〔かく〕す。若し、螫〔さ〕さるれば、甚だ、人を害す』と。

イラ 「本草啓蒙」に曰はく、『備前兒島及び勢州に「ミヅクラゲ」と、形狀、同じく、肌、滑かならずして、色、紅くして、血道〔けつだう〕のごときものあり。若し、誤りて此の物に觸るれば、蕁麻(イラクサ)に螫〔ささ〕れたるがごとし。薩州にて「イラ」と云ふ』と。按ずるに、水母類は、凡て、人の肌に觸るれば、螫〔さ〕し疼〔いた〕むものなり。

絲(イト)クラゲ【紀州】一名、サウメンクラゲ 洋中にあり、長き糸を引きたるごとし。白色、透明、素麪〔さうめん〕のごとし。又。人の肌に触るれば、螫す。南風〔はえ〕の時、多し。

ジユズクラゲ 長く糸を引きて、念珠のごとき者、相ひ連なれり。白色、透明なり。一種、一根〔いつこん〕より數条を分かち、房〔ふさ〕をなし、條〔じやう〕每〔ごと〕に圓〔まる〕き榧子〔かやのみ〕のごときもの、連なれる、あり。白色、透明なり。

ハナヒキクラゲ【紀州海士〔あま〕郡加太。】水母に同じくして、表に紫褐色、或いは醬褐色〔しやうかつしよく〕の荷葉〔はすのは〕の脉文〔みやくもん〕あり。

キンチヤククラゲ 形狀、荷包〔きんちやく〕に似て、長し。白色にして扁〔へん〕なり。半ばに、四、五分〔ぶ〕許りの穴あり。其の傍らより、長さ一尺許りの紐〔ひも〕、出でて、紙を一分餘りに斷ちて着〔つ〕くるがごとし。

西瓜(スイクワ)クラゲ 夏月に多し。西瓜の大いさにして、白色、淡藍色を帶ぶ。

 

[やぶちゃん注:非常に面倒なものとなることが事前に見えている種同定比定考証は後に回し、語釈をまず附す。なお、文中に附された「㋑」以下のそれは本書の編者が同類の中の個別種を見易くするするために附したもので、畔田の附したものではないので注意されたい。

 但し、最初にクラゲについて、是が非でも述べて置かねばならぬ、文学的民俗社会的な特異点がある。これは今まで何度か述べてきたのであるが、本邦の文学・史書に最初に現われる(比喩としてではある)最初の生物こそが、この「くらげ」であるという忘れられがちな事実なのである。ご存じのように、それは日本最古の史書であり、神話でもある「古事記」の、それもまさに冒頭に登場するという驚天動地の事実なのである。「古事記」本文の冒頭を引く。

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〇原文

天地初發之時、於高天原成神名、天之御中主神訓高下天、云阿麻。下效此、次高御巢日神、次神巢日神。此三柱神者、竝獨神成坐而、隱身也。

次、國稚如浮脂而久羅下那州多陀用幣流之時、如葦牙、因萌騰之物而成神名、宇摩志阿斯訶備比古遲神此神名以音、次天之常立神。訓常云登許、訓立云多知。此二柱神亦、獨神成坐而、隱身也。

〇やぶちゃんの訓読

 天地(あめつち)の初めて發(おこ)りし時、高天(たかま)の原に成れる神の名(みな)は、天之御中主(あめのみなかぬし)の神。次に高御産巣日(たかみむすひ)の神。次に神産巣日(かみむすひ)の神。此の三柱(みはしら)の神は、竝(みな)、獨神(ひとりがみ)に成り坐(ま)して身を隱すなり。

 次に、國、稚(わか)く、浮かべる脂(あぶら)のごとくして、九羅下(くらげ)なす多陀用弊(ただよ)へる時、葦牙(あしかび)のごと、萌(も)え騰(あが)る物に因りて成れる神の名は、宇摩忘阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。次に天之常立(あめのとこたち)の神。此の二柱(ふたはしら)の神も亦、獨神と成り坐(ま)して、身を隱すなり。

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語注しておくと、「獨神」とは、男女神のような単独では不完全なものではない相対的存在を超越した存在の意で、また、「身を隱す」というのは、天地の本質の中に溶融して一体となったことを意味すると、私は採っている。「葦牙」とは、生命の誕生の蠢動を象徴する春の葦の芽を指す。

 これを見ても分かる通り、日本神話に於いては、この地上の地面そのものが、カオスからコスモスの形態へと遷移する浮遊状態にあったそれを、「久羅下(くらげ)」に比しているのである。まさに――「くらげ」は日本に於いては原世界の開闢に於いて最初に神によって名指された最初の生物――である、と言ってよいのである。ことになるのである! 私は「古事記」を大いにしっかり授業でやるべきだと考えている(『扶桑社や「新しい歴史教科書」を編集している愚劣な輩へ告ぐ!!!』をも参照されたい)。それは、若者たちが、こういう博物学的な興味深い事実にこそ心打たれることが大切だと考えるからである。それは、強い神国としての日本をおぞましくも政治的に宣揚するためにではなく、自然と一体であった人類への回帰のために、である。

「本朝食鑑」「本朝食鑑」は医師で本草学者であった人見必大(ひとみひつだい 寛永一九(一六四二)年頃?~元禄一四(一七〇一)年:本姓は小野、名は正竹、字(あざな)は千里、通称を伝左衛門といい、平野必大・野必大とも称した。父は四代将軍徳川家綱の幼少期の侍医を務めた人見元徳(玄徳)、兄友元も著名な儒学者であった)が元禄一〇(一六九七)年に刊行した本邦最初の本格的食物本草書。「本草綱目」に依拠しながらも、独自の見解をも加え、魚貝類など、庶民の日常食品について和漢文で解説したものである。以上の引用部は、国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像の訓点に拠って訓読した。ここから(「卷之九 鱗之部三」)。これで「成」(×)→「曳」(〇)の誤りも発見した。以下でもこれを用いて訓読したが、比較すると判るが、畔田は細かい部分で、字を省略している。但し、問題なく原義と同義で読める部分は、特にここでは異同として掲げないので、各自で対照されたい。但し、私は既に「博物学古記録翻刻訳注 ■14 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる海月の記載」で全電子化注を終えているので、そちらを読まれた方が楽である。

「魚・鰕、相ひ隨ひ、其の泛〔うか〕べる沫〔あは〕を嘔〔す〕ふ」「泛〔うか〕べる沫〔あは〕」の部分は「本草食鑑」原本では『涎沫』となっている。これは「ゼンマツ」で「よだれ」の意である。「泛」でも、かく訓ずれば、躓かずに読めることは読める。「嘔〔す〕ふ」「嘔」には「歌う」や「養う・慈しみ育てる」の意があり、原本は「フ」を送っていることから、かく訓じた。これは観察の結果であるが、二様の可能性がある。則ち、小魚やエビが触手に捕捉されて食われているのを誤認した可能性が一つ、逆に触手毒に耐性を持ち、傘や触手間に寄り添って、外敵から身を守っている可能性が一つである。ある種のクラゲの傘や触手には、蚤か虱のように小型のエビ、或いは似た仲間である節足動物が寄生していることが有意にあることが知られており、条鰭綱スズキ目エボシダイ科エボシダイ属エボシダイ Nomeus gronovii の稚魚や幼魚が、強毒性のヒドロ虫綱クダクラゲ目嚢泳亜目カツオノエボシ科カツオノエボシ属カツオノエボシ Physalia physalis などの触手の間で生活していることも有名である(これは現在、エボシダイがカツオノエボシの刺胞の毒に耐性を持つことが知られている。但し、そこでは時にエボシダイがクラゲの体の一部を食べたり、逆にクラゲがエボシダイを搦めとって食べる事例もある)からである。

「大和本草」貝原益軒のその水族の部は、先般、総ての電子化注を終えている。以上の引用部は「大和本草卷之十三 魚之下 水母(くらげ) (杜撰なクラゲ総論)」で電子化注してある。以下もそこで私が施した訓読を参考にした。

「本草啓蒙」「本草綱目啓蒙」。江戸後期の本草学研究書。享和三(一八〇三)年刊。本草学者小野蘭山の、「本草綱目」についての口授「本草紀聞」を、孫と門人が整理したもの。引用に自説を加え、方言名も記してある。以上は弘化四(一八四七)刊の「重訂本草綱目啓蒙」原本は国立国会図書館デジタルコレクションのここから始まる「海䖳 クラゲ」(巻之四十の「鱗之四」)であるが、引用部はここの三~四行目の一文だけである。なお、続く、以下の文は畔田の文章として独立させた。なお、以下に出る部分も上の原本で確認した。

「閩中海錯疏」明の屠本畯(とほんしゅん 一五四二年~一六二二年)が撰した福建省(「閩」(びん)は同省の略称)周辺の水産動物を記した博物書。一五九六年成立。中国の「維基文庫」のこちらで全文が正字で電子化されている。また、本邦の「漢籍リポジトリ」でも分割で全文が電子化されており、当該の「中卷」はこちらである。但し、引用は部分的で、名義標題は『水母』で、冒頭の『水母。一名、鮀。一名、鮓』がカットされており、引用の後の部分は以下が続く(太字は私が施した)。

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隨其東西。以蝦爲目無蝦、則浮沈不常、蝦憑之。其汎水如飛、蝦見人驚去、鮀亦隨之而沒、潮退蝦棄之於陸、故爲人所獲。○「本草」謂、『水母爲樗蒲魚』。「北戶錄」謂、『水母爲蚱。一名石鏡。南人治而食之。性熱、偏療河魚疾也【「補疏」。】。按、「物類相感志」云、『水母大者如牀、小者如斗。明州謂之蝦鮓。其紅者名海蜇、其白者名白皮。子皮切作縷。名水母線』。「嶺表異錄」云、『淡紫色、大者如覆帽、小者如碗、腹下有物如懸絮』。

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とある。「知識は有るも」(「何らかの対象認知の感覚的機序はあるが」の意か)など、出現しない部分があるのは不審。版本が異なるか? 後で「本朝食鑑」の引用に出るが、クラゲには目がなく、エビがその目の代わりをするという共生行動(しかし、中途半端で、引潮になると、クラゲを見捨てるためにクラゲは人に捕獲されるとある)を記しているのが面白いが、畔田のそれは、不全な引用である。本文にも出る「海蜇」(カイテツ)の「蜇」は「刺す」で、現代中国語でも「蜂などが刺す」以外に、単漢字でも「クラゲ」を刺す、基、指す。

「浮漚」浮いた泡。

「腹臟」原文は「腹髒」(音「フクザウ(フクゾウ)」)であるが、「髒」は「汚ない腸(はらわた)」で「臟」に同じい。

「事物紺珠」は明の黄一正撰で一〇六四年成立。「閩中海錯疏」では「物類相感志」であるが、それはかの宋の名詩人蘇軾の記した博物誌的一著であるものの、原本を縦覧したところ、このような記載はないので、畔田が補正したものと考えられた。かなり手間取ったが、英文サイトのデジタル・アーカイブ「The Library of Congress」の画像で同書「第三十九」の「鱗部」の「無鱗小魚」のここに発見した(左頁の主罫六行目)。

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水母仙【又名䖳加《音姹》】名樗蒲魚名𧓳名海靻、槎潮、石鏡。海蜇、鮓魚、狀如凝血大者如床次如覆笠如斗泛泛隨水上下無頭腹以鰕爲目鰕動䖳沉

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「泛々」浮かび漂うさま。

「楊州畫舫錄」(ようしゅうがぼうろく)は清の旅行家李斗の撰になる、三十年余の間に見聴きしたしたものを集成した揚州の見聞録。一七九五年刊。早稲田大学図書館「古典総合データベース」にある原本を調べたところ、「卷一」のここに見つけた。「淮南魚」で始まる部分の中に出現する。関係のありそうな部分まで引く。

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海魚割其翼曰魚翅、䖳魚割其肉曰䖳蛇頭、其裙曰䖳皮。石首春產於江、秋產於海、故狼山以下人家、八月頓頓食黃魚也。風乾其䖳曰膘、木經需之以聯物者、取魫甫曰※[やぶちゃん注:「月」+「責」。]、以鹽冰之曰醃魚子、凡此皆行貨也。

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「廣博物志」明の董斯張(とうしちょう)の撰になる、古今の書物などから不思議な話を纏めたもの。全五十巻。国立国会図書館デジタルコレクションの原本の、最後の「五十卷」のここに見つけた。右頁の四行目。

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海曲有物名蛇公形如覆蓮花一正白

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最後に割注で『並上』とあり、これは前に出る出典「異苑」を指す。「異苑」は六朝時代の宋の劉敬叔の著志怪小説集であるが、現存するそれは明代の胡震亨によって編集し直されたもので、原著とは異なっていると考えられている。

「覆蓮花」は蓮の花で覆われたような様態を指す。

「廣東新語」清初の屈大均(一六三五年~一六九五年)撰になる、広東に於ける天文・地理・経済・物産・人物・風俗などを記す。「広東通志」の不足を補ったもの。全二十八巻。早稲田大学図書館の「古典総合データベース」の原本のここ。但し、ここは文脈では『乾せる者を海蜇と曰ふ』となっとるぜよ、畔田どん!

「山海名產圖會」「日本山海名產圖會」。江戸時代の物産図会。全五巻。蔀(しとみ)関月画。木村蒹葭堂(けんかどう)序。撰者は蒹葭堂ともいうが、不詳。先行する「日本山海名物図会」の再板(寛政九(一七九七)年)の後を受けて、寛政十二年に大阪の塩屋長兵衛を板元として刊行された。本邦各国の農林水産・酒造・陶器・織物などを図説したもの。同前早稲田大学図書館「古典総合データベース」の、巻之五の「備前水母」、原本のこの一行目に出る。

「熬酒〔いりざけ〕」二種あり、①酒を煮立ててアルコール分を飛ばしたもので調味用に用いるもの。②酒に醤油・鰹節・梅干しなどを入れて煮詰めたもので、刺身・酢の物などの調味料として用いる。ここは②の意であろう。

「華」中華。中国。

「肥」肥前。

「礬水〔ばんすい〕」白礬水。天然明礬(みょうばん:カリ明礬石から製する)を温水に溶かして冷やしたもの。

「加太浦」現在の和歌山県和歌山市加太の加太湾及び加太沿岸(グーグル・マップ・データ)。

「沖ハゲ」顎口上綱硬骨魚綱条鰭亜綱新鰭区刺鰭上目スズキ系フグ目モンガラカワハギ亜目モンガラカワハギ科オキハギ属オキハギ Abalistes stellatus のことか? ウィキの「モンガラカワハギ科(Balistidae)によれば、『モンガラカワハギ科の魚類は』『一般に昼行性で、硬い殻をもつ貝類や棘皮動物などを含めたさまざまな無脊椎動物を捕食する。本科魚類の歯の形状は獲物をかじりとるよりも』、『噛み砕くことに適応しているものの、ナメモンガラ属など藻類や動物プランクトンを主に食べるグループも存在する』とあり、クラゲも食いそうだ。そもそもがクラゲ食はあたかもオサガメとマンボウの専売特許のように考えられてきたのは大間違いで、実は多様な海棲生物の餌として非常に重要な地位を持っているのである。「朝日新聞」の「GLOBE+」の「研究でわかったクラゲの人気度 海ではみんなの大好物だった」を読まれたいが、ゼラチン質のクラゲは平均すると九十五%が水分で、コップ一杯分の生きたクラゲから得られるエネルギー価は五キロカロリーでしかない。コップ一杯のセロリの三分の一だとしつつ、『クラゲを食物網』(嘗ては食物連鎖を生物(食物)ピラミッドと呼んでいたが、それは単純に階層的ではなく、網の目のように複雑に繋がっていることから、今はこう表現するのがより正確となった)『の最末端とする見方は間違った認識であることが浮かび上がってきた。マグロ類からペンギンまで、多くの種がクラゲを捕食しているのだ。「調べれば調べるほど、多くの動物がクラゲをエサにしていることがわか」ってきたとあるので、ミズクラゲを餌にしてもおかしくも何ともないのである。大体からして、マンボウはフグ目フグ亜目マンボウ科マンボウ属マンボウ Mola mola で、同じフグ目だし、以前にモンガラカワハギ科 Balistidae 然とした南方の魚が、巨大なクラゲ(種は忘れた)をガンガン突いて食っている画像をテレビで見たことがあるのだ。

「ブツウクラゲ」「本草綱目啓蒙」(ここの一行目)では『ブツウクラゲ』となっているから、「ぶっつうくらげ」(漢字表記や意味は不明。このようなミズクラゲの異名を私は聴いたことがない)である。但し、畔田は紀州藩藩医であるから、蘭山より彼の方が信頼出来ると思うのだが、如何せん、「」を現代口語で表記出来ない。「ぶつーくらげ」か? 判らん!

「防州旦村」山口市阿知須旦(あじすたん)か(Geoshapeリポジトリ)。或いはその東の旧山口県厚狭郡沖ノ旦村か(グーグル・マップ・データ)。

「雲州」出雲国。

「八閩通志〔はちびんつうし〕」明の黄仲昭の編になる福建省の地誌。福建省は宋代に福州・建州・泉州・漳州・汀州・南剣州の六州と邵武・興化の二郡に分かれていたことから、かくも称される。一四九〇年跋。全八十七巻。但し、「中國哲學書電子化計劃」で調べると、この文字列(特に大事な「白皮子」という異名)が見当たらない。版本が違うか。

「絲絮〔しじよ〕」生糸と綿。ここは無論、「のような物」という隠喩。

「土州」土佐国。

「羽根浦」現在の高知県羽根町(はねちょう)甲及び乙の沿岸部であろう。

『「フグ」と云ふものあり』「本草綱目啓蒙」にはここの直後に割注して、『河豚ノ方言フクと云』と記している。思うに、蘭山は魚のフグの毒の意をこのクラゲに喩えた命名と考えたもののようである。

「勢州」伊勢国。

「血道〔けつだう〕」血管のような脈筋のあることを言っている。

「蕁麻(イラクサ)」マンサク亜綱イラクサ目イラクサ科イラクサ属イラクサ Urtica thunbergianaウィキの「イラクサ」によれば、『茎や葉の表面には毛のようなトゲがある。そのトゲの基部にはアセチルコリン』(Acetylcholine)『とヒスタミン』(Histamine)『を含んだ液体の入った嚢があり、トゲに触れ』、『その嚢が破れて皮膚につくと』、『強い痛みがある。死亡することはないが、皮膚炎を発症することがある』とある。私も先週、左腕肘をやられた。

「薩州」薩摩国。

「南風〔はえ〕」南から吹く風。特に夏の風について言い、漁師は、これが吹くと、雨が降り、海が荒れると予知するのを常とする。

「榧子〔かやのみ〕」裸子植物門マツ綱マツ目イチイ科カヤ属カヤ Torreya nucifera の実。

「海士〔あま〕郡」紀伊国海部(あま)郡の誤り。

「醬褐色〔しやうかつしよく〕」見慣れない色名だが、意味は分かる。因みにネットでは陶磁器の専門家の解説で一箇所、掛かった。焼き物に使用する原料の土(胎土)の色を指して言っていた。まあ、暗褐色のやや明るいものととればよかろう。

「荷葉〔はすのは〕の脉文〔みやくもん〕」ハスの葉の葉脈のような紋様のこと。

四、五分〔ぶ〕」一分は三ミリメートルであるから、一・二~一・五センチメートル。

四、五分〔ぶ〕」一分は三ミリメートルであるから、一・二~一・五センチメートル。

 

 以下、挙げられたクラゲ類の同定比定を試みる。但し、それぞれの本草学者によって、名指しているクラゲが大いに異なる部分があることが、既にここまで一緒に見てきた読者の方にはお判り戴けているものと思う。されば、この同定は物によっては甚だ困難であることを最初に断っておかねばならないのである。

 

 まず、順に頭の総論部から見る。この「クラゲ 水母 海月」は、まず、刺胞動物門 Cnidaria ヒドロ虫綱 Hydrozoa

花水母(ハナクラゲ・無鞘)目 Anthomedusae

軟水母(ヤワクラゲ・有鞘)目 Leptomedusae

硬水母(カタクラゲ)目 Trachymedusae

剛水母(コワクラゲ)目 Narcomedusae

レングクラゲ目 Laingiomedusae

淡水水母目 Limnomedusae

アクチヌラ目 Actinulidae

管水母目 Siphonophorae

に属する種群と(淡水水母目には海産もいる。後で出す。嘗てはよく知られたギンカクラゲ科ギンカクラゲ属ギンカクラゲ Porpita porpita や、ギンカクラゲ科カツオノカンムリ属カツオノカンムリ Velella velella が含まれていた盤クラゲ目 Chondrophora があったが、ギンカクラゲ科 Porpitidae は現在は花水母目に編入されている)、

箱虫綱 Cubozoa の、

アンドンクラゲ目 Carybdeida

(個人的には、奄美諸島以南に棲息する強毒性のネッタイアンドンクラゲ科ハブクラゲ属ハブクラゲ Chironex yamaguchii を含む種群を、ネッタイアンドンクラゲ目 Chirodropida として目の中に立項する説があるのでそれも加えたいが、時代が江戸末期であるから棲息域から考えて畔田の知見の範疇外で無理がある)及び、

十文字クラゲ綱 Staurozoa

(但し、十文字クラゲ綱の種群はクラゲ型形態を成しながら、傘の頂部から生えた柄の先端で海藻や岩などに付着して生活する底在性クラゲであるため、畔田が仮に現認していたとしても、「クラゲ」としては認識しなかった可能性が極めて高い。なお、十文字クラゲ類は嘗ては鉢虫綱に含まれていたが、現在は綱として独立している)と、

鉢虫綱 Scyphozoa の、

冠(かんむり)クラゲ目 Coronatae

旗口(はたぐち)クラゲ(水クラゲ)目 Semaeostomeae

根口(ねくち)クラゲ(備前クラゲ)目 Rhizostomeae

(これ以外に羽(はね)クラゲ目 Pteromedusae を立項する説もあるようだが、私自身が個体自体をよく知らないことと、データシステム「BISMaL」(Biological Information System for Marine Life)のツリーで、プラヌラクラゲ科 Tetraplatiidae は剛クラゲ目に分類されていることから、挙げない)に含まれるものを指していると考えてよかろう。但し、クラゲによく似ているが、縁の遠い、刺胞を持たない有櫛(ゆうしつ)動物のクシクラゲ類(但し、フウセンクラゲ目フウセンクラゲモドキ科フウセンクラゲモドキ属フウセンクラゲモドキ Haeckelia rubra を除く。フウセンクラゲモドキは真正のクラゲ類を摂餌し、その刺胞をミノウミウシのように発射させずに、そのまま体内に蓄えて利用するという「盜刺胞」を行うからである)有櫛動物門 Ctenophora の、

無触手綱 Nuda ウリクラゲ目Beroida

及び、有触手綱 Tentaculata の、

フウセンクラゲ目 Cydippida

カブトクラゲ目 Lobata

ミナミカブトクラゲ目 Ganeshida

オビクラゲ目 Cestida

クシヒラムシ目 Platyctenida

カメンクラゲ目 Thalassocalycida

と、同様に、形態上、やはりクラゲと間違える可能性の高い、クラゲとは全く無縁の脊索動物門 Chordata 尾索動物亜門 Urochordata タリア綱 Thaliacea の中の、

ウミタル目 Doliolida

サルパ目 Salpida

も挙げておかねばならぬ。畔田の掲げるものは概ね「刺す」とあるのだが、叙述の中には私には、その形状がウミタル目ウミタル科 Doliolidae の種の中・大型個体や、サルパ目サルパ科 Salpidae の一メートルを超えるような連鎖群体に似ているものがあるように思われるからである。私でさえ、青森の仏ヶ浦で恐らくはトリトンウミタル Dolioletta tritonis ではないかと思われる大型のウミタルを多数、タイド・プール内に見たことがあり、沖に出る漁師ならば、サルパの連鎖個体やウミタルを見たことがあるに違いないと思われるからである。最後に言っておくと、そもそもがクラゲの和名は時代や地方によって著しい違いがあり、同じ名前でも異種を指したりすることが、現在でもままあって、同定は至難の技である。荒俣宏氏も「世界第博物図鑑」の別巻2の「水生無脊椎動物」(一九九四年平凡社刊)の「クラゲ」の項で(ピリオド・コンマを句読点に代えさせて貰った)、

   《引用開始》

 ところで、クラゲ個々の和名は種の同定が難しい。たとえば神奈川県の三崎の漁師は、東京湾の漁師と同じように、有櫛動物門に属するクシクラゲのことをミズクラゲとよぶ。ただしクシクラゲのなかまのウリクラゲ属は、とくにタルクラゲという。また学者がミズクラゲ Aurelia aurita と称する種は、モチクラゲとよぶそうだ(《動物学雑詰》第356号〈犬正7年6月〉)。

 佐賀県東松浦郡の呼子地方の漁民は、タコクラゲ Mastigias papua のことをイラとよんで、ひじょうに恐れる。一説にこの名の起こりは、タコクラゲに剌されるととても痛くて、いらいらするからだという(服部捨太郎〈佐賀県ニ於ケル食用くらげ〉《動物学雑誌》第59号〈明治26年9月〉)。なおこのイラという名は、地方によってはカツオノエボシを指す。

 北海道屈斜路地方の住民は、クラゲのことを〈クジラの鼻水[やぶちゃん注:ここに二行書きで『フンペ・エトロ』とアイヌ語を記す。]〉とよび、これが目の中にはいると失明すると信じていた(更科源蔵・更科光《コタン生物記》)。

   《引用終了》

とある。ただ――ちょっと口幅ったいのだが――この佐賀呼子地方の「タコクラゲ」というのは、本当に同種タコクラゲ Mastigias papua を指しているのだろうか? 私は幼少の頃からタコクラゲの刺胞毒は弱いと信じてきた(実際に触れたことはない)し、私の所持する専門家の書いた複数の本を見ても、刺胞毒はミズクラゲと同程度に弱いレベルとし、大抵の人は痛みを感じないと書かれてある(無論、ミズクラゲを含めて個人差があり、実際に中学時代、友人がミズクラゲをある知人の背中に悪戯でむちゃくちゃに押しつけたところ、真っ赤になって腫れあがった、と証言しており、ウィキの「ミズクラゲ」にも、『刺胞を持つが、刺されてもほとんど痛みを感じることはない。ただし、遊泳中に皮膚の角質の薄い顔面にふれたときに、人によっては多少の痛みを感じる。最近の研究によれば、ザリガニに対する毒性試験で』本邦最悪の『猛毒のハブクラゲ』(過去に確認されただけで三件のハブクラゲに刺されて亡くなったとする例がある。アナフラキシー・ショックもさることながら、刺毒によるのではなく、意識喪失で溺死したケースを数えていない可能性もあろうか)の四分の一『程度の毒を持っているとされ、分子量』四万三千の『酸性タンパク質が毒性物質の主成分と考えられ』ているとある)。しかし、呼子地方の漁師が全体に「タコクラゲ」を恐れるというのは、ちょっと解せないのである。或いは、別な強毒を持つクラゲをこう呼んでいるのではなかろうか? タコは足のシミュラクラ(真正のタコクラゲという和名はそれ)ではなくて、触手や刺胞がビタッ! と体に蛸の吸盤のように張り付くように感じられるの謂いはなかろうか? それと、この異名の「イラ」も気になる。私はこの名からは一番に鉢虫綱冠クラゲ目エフィラクラゲ科イラモ Stephanoscyphus racemosum を想起するからである。但し、彼らはクラゲとは認識されていない。「公益財団法人 黒潮生物研究所」のこちらを見られたいが、底在性で岩などにあたかもブロッコリーのような形で群体を成す。群体の直径は十センチメートルほどだが、二十 センチメートルを『超えることもある』。『各ポリプはキチン質の棲管に包まれている。ひとたび触れると』、『チクチクとした痛みとともに水膨れになり、火傷のような痕が残ることもある。浅場の岩礁上で見つかることが多いが、磯だまりにいることもあり、うっかり触らないよう注意が必要である』とあるそれだ。このポリプは荒波などによって引き剥がれて漂い、知らないうちに吸着されて、刺されこともままあるようである。また、私はそれとは別に、「イラ」という語から連想する別種がいる。ヒドロ虫綱クダクラゲ目嚢泳亜目ボウズニラ科ボウズニラ属ボウズニラ Rhizophysa eysenhardtii である。ウィキの「ボウズニラ」によれば、『カツオノエボシなどと同様の、群体性の浮遊性ヒドロ虫で』、『暖海性で春に見られる』。『一般にはクラゲとされるが』、『その体は複数のポリプから構成され、クラゲの傘にあたる位置の気泡体から幹群をもった細長い幹が出、触手、対になった栄養体とその間から生えた生殖体叢からなる』『気胞体は高さ』十~十七ミリメートル、幅五~九ミリメートル、伸縮性に富む幹は三センチメートルから数メートル『まで伸縮する。種名の「ボウズ」は坊主頭に似た気泡体に、「ニラ」は魚や植物の棘を意味する「イラ」の訛に由来する』。『毒性はとても強く、漁師などが網を引き揚げるとき、本種などの被害を受けている』とある。私は現認したことはないものの、高校時代、非常に尊敬していたフィールド・ワーク好きの生物の教師が、「ボウズニラだけはおとろしい!」と真剣な目つきで仰っていたのを思い出す。学名画像検索はこれで、学名で動画検索すると、複数、見つかる。妖精染みた奇体な魔性の物である。ご覧あれ。こうして書いているうちに、私は呼子の漁師が恐れているのは、ボウズニラではなかろうかという気がしてきている。

『其の最も厚き者は「海月の頭〔かしら〕」と爲す』これは、まず、大型になるクラゲの筆頭である

鉢虫綱根口クラゲ目ビゼンクラゲ科エチゼンクラゲ属エチゼンクラゲ Nemopilema nomurai

を筆頭に挙げねばなるまい。本邦では主に東シナ海から日本海にかけて分布し、実に最大個体では傘の直が二メートル、湿重量は百五十キログラにも達する。古くは瀬戸内海に有意に入り込んでいたものか備前国(岡山県)を産地としたことに和名は由来する(但し、私は実はそれは以下のビゼンクラゲを指していたのではないかと秘かに思っている)。次いで、その近縁種である、

ビゼンクラゲ科ビゼンクラゲ属ビゼンクラゲ Rhopilema esculenta

も候補とはなる。こちらは本邦では主に有明海と瀬戸内海に棲息し、和名は古くは吉備の穴海(現在の岡山県岡山市の児島湾に相当する内海)が名産地であったことから「備前水母」と呼ばれる。両種は関東では見ず、西日本で最も多く見られる、という叙述とも完全に一致し、その形状はまさに巨大な大脳のようで、文字通り、「水母の頭」に相応しい。なお、近年、有明海産のビゼンクラゲは他の海域のものと別種の可能性が浮上してきており、現在、研究が進められていることを言い添えておく。

『「大和本草」に曰はく、『水母。泥海にあり。故に備前・筑後等より出づ。毒、無し。生なるを取り、くぬぎの葉を、多く、きざみ、くらげの内に包み、䀋を用ひず、木の葉をまじゑ、桶に入れ、ふたをおほひ、水を入れ、時々、水を、かゆる。久しくありて、敗〔くさ〕らず。水、なければ、やくる。「やくる」とは、枯れて食ふべからずなることなり』』と益軒が記すクラゲは、「備前・筑後」産とすることから、先に挙げたビゼンクラゲ・エチゼンクラゲと読めるのだが、益軒は食用クラゲ加工をする対象物として記しており、両者ともに古くから中華用食材とされてきたものの、本邦では後者エチゼンクラゲの食用加工の歴史がないので、益軒の在留地福岡藩からも、これは前者ビゼンクラゲのみを指すと考えるべきところである。

『「本草啓蒙」に曰はく、『松前には、大いさ三寸許りにして、紫色なる者あり』』紫色のクラゲは南方に棲息する種に有意にいるが、松前となると、ちょっと首を傾げる。北方クラゲは概ね白か透明なものが多いからである。古典で言う「紫」は青に傾いたものであった可能性が高く、この「紫」も青紫系統に広げて問題はあるまい。さて、叙述が痩せていて困るが、ここではその水母の大きさを九センチメートルほどとしている点に着目する。わざわざかくも小さなクラゲを記載するのは、それが、特異な形状或いは注意すべきクラゲだからではないか? と措定すれば、これは強毒性の、

ヒドロ虫綱クダクラゲ目嚢泳亜目カツオノエボシ科カツオノエボシ属カツオノエボシ Physalia physalis の気泡体(浮袋)

が直ちに想起出来る。彼らは触手体まで入れると、恐るべき長さ(触手体の平均の長さは十メートルで、長いものでは約五十メートルにも達するものもあるという。一般には気泡体を見つけたら、周囲に二十メートルは危険という漁師の話を聴いたことがある)であるが、気泡体の打ち上げられたものは、圧倒的に青いごく小さな風船のように見え、諸図鑑でも概ね青色や藍色とするが、洋上を漂っている生時の大型個体の中には、実はかなり毒々しい青紫や赤紫の烏帽子の辺縁を持つ個体が有意にいるのである。同種は本邦では本州の太平洋湾岸でよく見られるから、海流に乗って、関門海峡を抜けて松前沖に出現してもおかしくはない。なお、打ち上がって死んで乾いた(彼らは機能が完全に分化した群体であるから何を以って死というかは難しい)ものでも、刺胞機能や毒性は物理的に有効であって、極めて危険である。三十数年前、鎌倉への遠足で由比ヶ浜で生徒を待っていたところ、遠くで別の学校の生徒が倒れており、救急車で運ばれるのを見た。翌日の新聞で、強風で吹き寄せられた小さなカツオノエボシを不用意に触れた結果であったことを知った。また、その後、沖縄修学旅行の際、イノー(沖縄方言で珊瑚礁に囲まれた浅い海「礁池(しょうち)」を指す)観察の指導中に、生徒が「先生、これ何?」と枝で掬った青いそ奴を目の前に突き出された時には、流石の渡しも胆が冷えたのを思い出す。無論、それがカツオノエボシであり、その毒が如何に強烈かを先の由比ヶ浜の例を述べて懇切丁寧に教えたことは言うまでもない。その生徒はまさに「青」くなって、そ奴を海の方へ放り出した。

「一種、白色にして、内に紅紫、或いは藍紫色の大瓣の櫻の花形をなす者あり」この畔田の謂いに最も当てはまりそうなものは、一つ、

鉢虫綱旗口クラゲ目ユウレイクラゲ科キタユウレイクラゲ Cyanea capillata

であろうか。傘の下方内部や触手が有意に赤みを帯び(全体は白い)、傘の辺縁が十六の縁弁に別れて花びらのように見え、下方から傘の下を見ると、触手の基部が白い花模様にも確かに見える。北方種で本邦では北海道周辺で見られ、大きくても傘の直径は三十センチメートルほどであるが、バルチック海にいるそれは、傘径二・五メートルにもなる巨大個体がいると、参考にしている書籍の一つ、並河洋・楚山勇著「クラゲガイドブック」(二〇〇〇年TBSブリタニカ刊)に書かれていた。

「凝〔こ〕れる血のごとし。縱の廣さ數尺」「閩中海錯疏」のこの部分は、恐らく、

鉢虫綱旗口クラゲ目オキクラゲ科ヤナギクラゲ属アカクラゲ Chrysaora pacifica

を指していると当初は読んだ(同種は後の叙述にも頻繁に出ると思っている)。毒性の強い種として知られる。ウィキの「アカクラゲ」によれば、『放射状の褐色の縞模様が』十六『本走った直径』九~十五センチメートル『ほどの傘と、各』八『分画から』五~七『本ずつ、合計で』四十から五十六本の触手が伸び、その長さは二メートル以上に及ぶ。『北方性の近縁種』キタノアカクラゲ『Chrysaora melanaster も傘に同様の縞模様があるが、こちらは触手が』二十四『本しか無いことから区別できる』。『触手の刺胞毒は強く、刺されるとかなり強い痛みを感じる』。『このクラゲが乾燥すると毒をもった刺糸が舞い上がり、これが人の鼻に入ると』、『くしゃみを引き起こすため、「ハクションクラゲ」という別名を持つ』。『これに目をつけた戦国武将真田信繁(幸村)が、粉にしたアカクラゲを敵に投げつけ、くしゃみを連発させて困らせたという逸話があり、「サナダクラゲ」と呼ばれることもある』とある。しかし、以下を見ると、「紅き者」以下、「凝れる血のごとく、大なる者、床〔とこ〕のごとく、次〔つ〕ぐは覆へる笠のごとく、斗〔ひしやく〕のごとし」と続いており、以下に示す通り、先に掲げた、

ビゼンクラゲ Rhopilema esculenta

の可能性の方に分(ぶ)がありそうである。

『其の紅き者は「海蜇」と名づけ』これは同前のアカクラゲではなく、先に示した、ビゼンクラゲ Rhopilema esculenta

を指す。同種は本体は薄い灰色であるが、垂れ下がる大きく肥厚した口腕部が紅い。九州北部の有明海沿岸では今も昔も「あかくらげ」(赤水母)と呼称している。中文の「維基文庫」の「海蜇」を見られたい。なお、そこでは学名を Rhopilema esculentum としているが、これはビゼンクラゲのシノニム(synonym)である。

「白皮子」現代中国語では広くクラゲを指す語のようである。

「水母仙」これも以下の叙述から、ビゼンクラゲを最大とする広義のクラゲの意のようである。但し、似た中文名に「仙后水母」があり、これは、

鉢虫綱根口クラゲ目サカサクラゲ科サカサクラゲ属サカサクラゲ Cassiopea ornata

であることがこの中文サイトで判明した(画像有り)。「水族志」本文では私の好きなサカサクラゲちゃんが出ないので、取り敢えず、幸い!

「白色の松簟〔まつたけ〕の半開せる形のごとく、下に白色の大小の絲を引く」これも種同定は出来ない。それではないという排除比定なら出来るが、流石にそれは私自身も徒労と考えるので、やりたくない。悪しからず。

「〇セイクラゲ 水母線」「𩶱魚」「海曲」「蛇公」「蝦鮓〔かさ〕」これは、「其れ、其の肉を割〔さ〕きて、蛇頭と曰ふ。其の裙〔ひれ〕は蛇皮と曰ふ」とか、「皮を切り、縷〔いと〕に作る」とあるからには、明らかに中華食材の「クラゲ」の加工法を記しているととれる。されば、やはり、

エチゼンクラゲ Nemopilema nomurai

或いは、

ビゼンクラゲ Rhopilema esculenta

を指していると考えてよい。先に示した荒俣氏の「クラゲ」には、『博物学者の上野益三は』、『中国で一般にクラゲといったばあい』、『ビゼンクラゲ Rhopilema esculenta も混ざってはいるが』、『その主体はエチゼンクラゲ Nemopilema nomurai だとしている』とあるので、先に言ったように、本邦では食用加工の歴史がないエチゼンクラゲの幼体から成体までの謂いでとって差別化することにする。因みに「水母線」というのは、長い触手ではなく、細く千切りして食すクラゲの謂いのような気がしてきた。だから、畔田は食品として「〇」を頭に打ったのではないか? さすれば、「セイクラゲ」は「製水母」か? いやいやむくむくもっこりと成長するから「勢水母」(「勢」は男根の意)か? 判らぬ。調査は続行する。実は、つい最近、箱虫綱アンドンクラゲ目アンドンクラゲ科アンドンクラゲ属アンドンクラゲ Carybdea brevipedalia と考えられてきた立方クラゲ類の一種が別種として認定され、箱虫綱ネッタイアンドンクラゲ目ヒサシリッポウクラゲ科リュウセイクラゲ属リュウセイクラゲ Meteorona kishinouyei Toshino, Miyake & Shibata,2015 と別種になっている。鈴木雅大氏のサイト「生きもの好きの語る自然誌」のこちらで写真が見られる。しかし、この和名は「流星海月」「流星水母」とあるので、関連は低そうだ。「星水母」はありそうだが、その場合、「ホシクラゲ」と読みそうだ。勿論、小学館「日本国語大辞典」にも出ない。

「㋑唐久良介(トウクラゲ)」「朝鮮(テウセン)クラゲ」「華より肥の長崎に傳へて來たる。本朝にも亦、之れを製す」とあるから、先の荒俣氏に引用した上野氏に言に従うなら、送られてきた中国(清)製の加工された「中華くらげ」の原料は、ビゼンクラゲ Rhopilema esculenta で、日本で製した日本製の食用加品工「くらげ」の原料は、エチゼンクラゲ Nemopilema nomurai ということになる。先に示した「日本山海名產圖會」の、巻之五の「備前水母」の記載からもそれが証明される。しかし、何だ! 畔田を褒めて損した。これも厳密に考えれば、種の名ではなくて、加工した「中華くらげ」じゃんか! 糞!

「㋺ミヅクラゲ 一名、ハゲクラゲ」「ブツウクラゲ」「ドウクハンクラゲ」「白皮子」「水海月」これは、最後の『「本草啓蒙」に曰はく、『「ミヅクラゲ」。四つの黑㸃あり。即ち、足なり』と。按ずるに、白色の「クラゲ」なり。四つに黑㸃あるもの、又、一品なり』が決定打。流石は蘭山だ。

鉢虫綱旗口クラゲ目ミズクラゲ科ミズクラゲ属ミズクラゲ タイプ種 Aurelia aurita

で決まりだ。しかし、あれは足じゃない。生殖腺だ。そこから別名「ヨツメクラゲ」とも呼ばれるのである。

「必ず、毒り。又、毒、無き者、有れども、味はひ、好からず」いやぁ、ミズクラゲを食ったという報告は知らないなぁ。どこかの水産学者が加工したりしても何ら人間の役にたつものに変えることは出来ないと言っていたが、ヒドロ虫綱軟クラゲ目オワンクラゲ科オワンクラゲ属オワンクラゲ Aequorea coerulescens の発光機序の応用や、クラゲやイソギンチャクの猛毒が病原菌や癌細胞といった異物の攻撃に利用されていることを考えれば、何かの役には立つだろう。でなくても、前に述べた通り、多くの海産生物の重要な食物であるわけで、生きていても害こそ起こしこそすれ、何の値打ちもない私を含めた多くの人類に比べれば、生態系の重要な盤石とも言えるのである。

「㋩フグ」『「ミヅクラゲ」に同じくして、中に鍼〔はり〕を藏〔かく〕す。若し、螫〔さ〕さるれば、甚だ、人を害す』とあることから、ミズクラゲのように透明であること、その刺胞毒が強烈であること、の二点からは、

箱虫綱アンドンクラゲ目アンドンクラゲ科アンドンクラゲ属アンドンクラゲ Carybdea brevipedalia

と踏んだ。ウィキの「アンドンクラゲ」によれば(下線太字は私が附した)、『本種はカツオノエボシと共に電気クラゲと呼ばれて嫌われている種である。人が刺されると』、『激痛を感じ、患部はミミズ腫れのようになる。殆どの場合において大事には至らないが、その痛みの強さから、一度でも刺されると印象に残りやすい。体が透明で海水に透けて非常に見えにくいため、気づいた時には刺されているというケースも多く、海水浴やダイビングでの要注意動物とされている。本種が群れを成して押し寄せた場合、海水浴場が閉鎖される事もある』。『お盆以降の海水浴を避けた方が良いと言われる理由の一つとして、本種の存在が挙げられる』。『九州地方では本種を「イラ」と呼ぶことがある。これは人を刺して痛い思いをさせる本種を植物の棘になぞらえた呼び名である』。『また、神奈川県の地域では「イセラ」と呼ばれることもある』とある。「殺人クラゲ」として悪名高い、インド洋南部からオーストラリア近海に棲息するとされる、箱虫綱ネッタイアンドンクラゲ目ネッタイアンドンクラゲ科ハブクラゲ属キロネックス・フレッケリ(オーストラリアウンバチクラゲ) Chironex fleckeri は近縁種である(どうもこの和名は気に入らない。「海蜂(うんばち)」は花虫綱六放サンゴ亜綱イソギンチャク目カザリイソギンチャク科ウンバチイソギンチャク Phyllodiscus semoni の方が元祖でしょうが!)。因みに、幼い頃に愛読していた図鑑には、「電気クラゲ」はアンドンクラゲで、カツオノエボシは「電気クラゲ」ではない、という訳知り顔の記載があったが、六十三の今になっても、あれを書いた奴を私は告発したいと思っている。ビリビリきて蚯蚓腫れを起こす奴は、みんな、「電気クラゲ」だっつうの!

イラ」『若し、誤りて此の物に觸るれば、蕁麻(イラクサ)に螫〔ささ〕れたるがごとし。薩州にて「イラ」と云ふ』とあるのは、前注から同じアンドンクラゲ Carybdea brevipedalia としてよいと思うのだが、一点、「紅くして、血道〔けつだう〕のごときものあり」という部分は、鉢虫綱旗口クラゲ目オキクラゲ科ヤナギクラゲ属アカクラゲ Chrysaora pacifica ぽい印象があり(アンドンクラゲに赤い血管のような筋はない)、また、「備前兒島」というところからは、主に瀬戸内海で、秋から冬にかけて見られる夜行性の大型(成体の傘高は十五~二十三センチメートルにもなる)傘の箱形クラゲの一種である箱虫綱アンドンクラゲ目イルカンジクラゲ科ヒクラゲ属ヒクラゲ Morbakka virulent をイメージしてしまう。これは『栗本丹洲自筆「蛸水月烏賊類図巻」 ヒクラゲ』の図に引かれているためであるが、事実、ヒクラゲは傘の下方の四隅から一本ずつ淡い桃色をした四本の長い触手(最長一メートルを超える)を伸ばすからである。しかし、生態写真を見ても、この触手のピンクははっきりとはせず、およそ血管のようには見えない。

「按ずるに、水母類は、凡て、人の肌に觸るれば、螫〔さ〕し疼〔いた〕むものなり」畔田先生、正しいです。強弱に違いはあれど、クラゲは総て刺胞を持ちます。過敏な人は無害とされるクラゲでも刺されて痛むのです。前に記した通り、クラゲではないクシクラゲ類(フウセンクラゲモドキ Haeckelia rubra を除く)とウミタル類とタリア類は、無論、刺しません。

絲(イト)クラゲ」「サウメンクラゲ」「洋中にあり、長き糸を引きたるごとし。白色、透明、素麪〔さうめん〕のごとし。又、人の肌に触るれば、螫す」困った。「イトクラゲ」「ソウメンクラゲ」という和名のクラゲはいないし、幾つかの記載で「イトクラゲ」は見かけたが、それぞれが、アカクラゲだったり(「白色」でアウト)、イラモだったり(「素麪」でアウト)して埒が明かない。この条件、特に「白色」としている点と、長い触手があってそれが強い刺胞毒を持つという点からは、私は先に語った、

ヒドロ虫綱クダクラゲ目嚢泳亜目ボウズニラ科ボウズニラ属ボウズニラ Rhizophysa eysenhardtii

がしっくりくると考えている。強毒性となると、鉢虫綱旗口クラゲ目オキクラゲ科アマクサクラゲ属アマクサクラゲ Sanderia malayensis を挙げたくなったのだが(触手の素麺っぽいのはぴったり)、全体に淡紅色を帯びているから合わない。

「㋬ジユズクラゲ 長く糸を引きて、念珠のごとき者、相ひ連なれり。白色、透明なり。一種、一根〔いつこん〕より數条を分かち、房〔ふさ〕をなし、條〔じやう〕每〔ごと〕に圓〔まる〕き榧子〔かやのみ〕のごときもの、連なれる、あり。白色、透明なり」これはヒドロ虫綱花水母目有頭亜目タマウミヒドラ科ジュズクラゲ属ジュズクラゲ Stauridiosarsia ophiogaster。先の「クラゲガイドブック」の『ジュズクラゲの仲間』という写真のキャプションに、『ジュズクラゲの仲間の特徴は、成長するに従って口柄が傘の外まで伸び、口柄を取り巻く生殖腺が数珠(じゅず)状に連なっていること』で、『成長したクラゲは数㎜程度。夏に三浦半島の三崎周辺で見られる』とある。しかし、この記載通りだとすると、ちょっと現認しにくいけど、畔田はちゃんと見えたのかなぁ? 私はこれも前のボウズニラである可能性を否定できないでいるのである。

ハナヒキクラゲ」「表に紫褐色、或いは醬褐色〔しやうかつしよく〕の荷葉〔はすのは〕の脉文〔みやくもん〕あり」これは、

ヒドロ虫綱淡水水母目ハナガサクラゲ科ハナガサクラゲ属ハナガサクラゲ Olindias formosa

でよかろう。和名は明治から大正にかけての三崎の採取名人であった漁師の「熊さん」こと青木熊吉氏の命名。「花笠水母」で、種小名の「美しい」なんぞより遙かに本種の姿を髣髴させて呉れる和名である。但し、刺胞毒は強い。

キンチヤククラゲ 形狀、荷包〔きんちやく〕に似て、長し。白色にして扁〔へん〕なり。半ばに、四、五分〔ぶ〕許りの穴あり。其の傍らより、長さ一尺許りの紐〔ひも〕、出でて、紙を一分餘りに斷ちて着〔つ〕くるがごとし」「荷包〔きんちやく〕」の読みは財布の意味の「巾着」。財布にするような袋のこと。さてもこれは、クラゲではない、有櫛動物門有触手綱オビクラゲ目オビクラゲ科オビクラゲ属オビクラゲ Cestum veneris ではないかと思われる。詳しくはウィキの「オビクラゲ」によれば、『極端に扁平で細長い帯状をしている』。『これは一般のクシクラゲ類の球形に近い形から咽頭軸の方向に左右に強く引き延ばされた形である。この横方向の長さは大きいものでは』一~一・五メートルにも『達するものがある』が、普通は』八十センチメートル以下で、幅は約八センチメートルであるが、『この方向が体の縦軸方向で』、『全体に透明だが』、『黄色や紫の斑紋がその両端に出る個体があり、また同じような色が水管や触手に出る例もある』。『沿咽頭面の櫛板列は伸びている部分の両側に』二『列ずつ、上面の全域にわたって広がる。沿触手面の櫛板列は体の頂端にある感覚器の近くにあるものの、ごく短く』、『痕跡的になっている。左右の伸びた部分の中央を水管が端まで延びるが、これは体の中心部を縦に走る間輻管から分かれ、一度口側に伸びた後に』、『この高さに曲がり、そこから伸び出している。この管は端で咽頭面櫛板列の下を走る子午管と繋がり、生殖腺はこの子午管に沿って櫛板列の下の全域に連続的に発達する。身体の下側は溝があり、その全域にわたって多数の二次触手が出る。その体はこの類としては硬く、また筋肉がよく発達している』。『世界中の熱帯から亜熱帯域の海から知られ』、『表層域に見られることが多いが、小笠原沖では深さ』三百メートルで『観察された例もある。日本では東北地方以南で見られる』。『カイアシ類やその他の小型甲殻類を捕食する。捕食の際には口方向に水平に移動する。また』、『逃げる時には蛇のように全身を波打たせ、横方向に素早く動くことが出来る』。また、『子午管が発光する』ことが知られている。『発生の面では初期にはフウセンクラゲ』(有櫛動物門有触手綱フウセンクラゲ目テマリクラゲ科フウセンクラゲHormiphora palmate)『型、つまり楕円形で縦に』八『列の櫛板を持ち』、一『対の櫛状の分枝を持つ触手』を有する。『その後に』、『左右に伸びるように成長して成体の姿になる』。『本種の属するオビクラゲ属にはこのほかに幾つかの種が記載され、日本産のものは C. amphitrites とされたこともある。例えば岡田他』の(昭和四四(一九六九)年)では、『この学名の元で C. veneris を大西洋産として説明し、その上で別種と扱うことに疑問がある旨を記している。峰水他』(平成二五(二〇一五)年)では、表記の『学名をとっており、現在では本属は単形であるとの判断のようである』。『近縁のものには形態的に似ている』ものの、『小型のコオビクラゲ Velamen paralllelum があり、これは』二十センチメートル『ほどと遙かに小さい。その他に』も『沿触手面の櫛板列を完全に欠くこと、水管の配置に違いがあることなどから別属とされている。この』二『種でオビクラゲ科を構成し、往々にオビクラゲ目を単独に』立てる。『その形と泳ぐ姿のエレガントな美しさから『ヴィーナスの飾り帯』との呼称があ』り、また、『その奇妙な姿から、時に海の怪物目撃談と結びつけられる。例えば』、一九六三年『には』、『ニューヨーク近郊で巨大なウミヘビのような怪物の目撃があり、これが本種の巨大に成長した個体だったとの説が唱えられたことがあるという』とある。

「㋷西瓜(スイクワ)クラゲ 夏月に多し。西瓜の大いさにして、白色、淡藍色を帶ぶ」最後にまたしても難儀な記載である。当初はこの名から、やはり、クラゲでない有櫛動物門無触手綱ウリクラゲ目ウリクラゲ科ウリクラゲ属ウリクラゲ Beroe cucumis を考えたが、本種は透明で、六センチメートル内外で、凡そ西瓜に喩え得るものではない気がする。発光するヒドロ虫綱軟クラゲ目オワンクラゲ科オワンクラゲ属オワンクラゲ Aequorea coerulescens の発光は、暗い中では緑色に見えるから、これかとも思ったが、傘の形が西瓜とは全く似ていない。お手上げ。

 以上、私の同定比定が間違いであると思われる方は、是非、御教授戴きたい。]

2015/04/28

甲子夜話卷之一 34 常憲廟、酒井雅樂頭死去の時御恚、上使幷彼家取計の事 

34 常憲廟、酒井雅樂頭死去の時御恚、上使彼家取計の事

彦阪九兵衞〔寛政の比御先手頭、今西丸御留守居にて大膳亮と云〕訪來り談話のついで、彼が祖先のこと申出し中に、憲廟潛邸の御時、酒井雅樂頭に愾深くおはしましき。然るゆへにや、大統繼せ玉ひし後、雅樂頭病死しけるが、腹切りて死せりと風聞す。九兵衞が祖、此時大目付にて有りしを、御前に召れ、御目付北條新藏と同じく命ぜられ、急ぎ雅樂頭が宅に赴て、彼が死骸の樣躰見屆來れとの仰なり。兩人速に雅樂頭が宅に到る。此時藤堂大學頭は雅樂頭の聟なりしが來り居て、上使と承り出迎ひぬ。兩人件の趣を大學頭にいふ。大學頭答て、上意の趣は謹て承り奉りぬ。雅樂頭は先剋病死仕り候に相違無之候といふ。兩人又曰、病死のことは素より上聞に達しぬ。某等來る故は、只死骸を見分の爲なりといふに、大學頭承引せず。武士の一言固より相違有るべからず。假令死骸見玉ふとも、病死の外他義なし。此義は大學頭申候旨、罷歸り上聽に達せらるべし。もし上意に背玉ふとならば、大學頭一人代りて御勘氣を蒙るべし。各達の無念にあらずといゝきり、もし再いはゞさしちがふべき樣子なれば、二人立歸り其次第を言上す。其時、言甲斐なき事どもなり。如何樣に候とも、蹈込死骸を見屆罷來れと、御氣色はげしくの玉ふまゝ、二人また雅樂頭が宅へ馳せ行に、はや雅樂頭は葬送取行ひ、其棺、門へ出るに遇ひぬ。然るゆへに馳歸り、又其よしを言上すれば、憲廟御氣色殊に損じ玉ひ、然らば葬所へ參り死骸を掘出し、蹈碎きて罷歸るべしと命ぜらる。二人遂に雅樂頭が寺に行きて、上意の趣申述たるに、葬送に從へる臣等、謹て申は、雅樂頭遺言の旨により、既に火葬し畢るとなり。兩人すべきやうなく、都城に歸りかくと言上す。其まゝにて御沙汰もなかりしとなり。大學頭の上使に答申して、速に出葬せしも、臣等が火葬して其由を答しも、すべて此頃の人のありさまは、感歎にも餘りある事どもなり。

■やぶちゃんの呟き

「恚」「いかり」。

「彼家取計の事」「かのいへとりはからひのこと」。

「常憲廟」は第三代将軍家光の四男で第五代将軍の徳川綱吉のこと。諡号である常憲院に基づく。

「比」「ころ」。

「御先手頭」先手組(さきてぐみ)のこと。江戸幕府軍制の一つ。若年寄配下で、将軍家外出時や諸門の警備その他、江戸城下の治安維持全般を業務とした。ウィキの「先手組」によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、『先手とは先陣・先鋒という意味であり、戦闘時には徳川家の先鋒足軽隊を勤めた。徳川家創成期には弓・鉄砲足軽を編制した部隊として合戦に参加した』者を由来とし、『時代により組数に変動があり、一例として弓組約十組と筒組(鉄砲組)約二十組の計三十組で、各組には組頭一騎、与力が十騎、同心が三十から五十人程配置され』、『同じく江戸城下の治安を預かる町奉行が役方(文官)であり、その部下である町与力や町同心とは対照的に、御先手組は番方であり、その部下である組与力・組同心の取り締まり方は極めて荒っぽく、江戸の民衆から恐れられた』とある。

「西丸御留守居」老中支配で、大奥の取締や通行手形の管理、将軍不在時の江戸城保守を担当した、旗本で任じられる職としては最高位であった。

「訪來り」「たづねきたり」。

「潛邸」とは、本来は中国で国王が即位する前に暮らしていた私邸を指す。彼は延宝八(一六八〇)年五月満三十四歳の時に跡継ぎのいなかった第四代将軍家綱の養嗣子として江戸城二の丸に迎えられ、同月に家綱が四〇歳で死去するとともに八月に将軍宣下となったから、狭義にはこの三ヶ月の間となる。但し、実際には上野館林藩主であった時代も、ほとんどずっと江戸住まい(初期は竹橋、後に神田の御殿)であったし、「邸」という表現辺りからも、もっと前から神田御殿に住まっていた頃からの悪因縁があったものであろう。

「酒井雅樂頭」酒井忠清(寛永元(一六二四)年~天和元年五月十九日(一六八一年七月四日))。上野厩橋藩第四代藩主。第四代将軍徳川家綱の治世期の大老。三河以来の譜代名門酒井氏雅楽頭家嫡流で家康・秀忠・家光の三代に仕えた酒井忠世の孫。延宝八(一六八〇)年八月に綱吉が将軍となって三ヶ月ほど経った十二月九日には病気療養を命じられ、大老職を五十五歳で解任されている。翌天和元(一六八一)年二月二十七日に隠居、五月十九日に死去、遺体は龍海院(現在の群馬県前橋市)に葬られた。以上はウィキ酒井忠清に拠るが、その「人物」の項には『忠清は鎌倉時代に執権であった北条氏に模され、大老就任後は「左様せい様」と称される将軍・家綱のもとで権勢を振るった専制的人物と評される傾向にある。また、伊達騒動を扱った文芸作品など創作においては、作中では伊達宗勝と結託した極悪人として描かれてきた。酒井家は』寛永一三(一六三六)年に『江戸城大手門下馬札付近の牧野忠成の屋敷が与えられ、上屋敷となっていた。下馬札とは、内側へは徒歩で渡り下馬の礼を取らなければならない幕府の権威を意識させる場所であり、大老時代の忠清の権勢と重ね合わせ、没後の綱吉期には下馬将軍と俗称されたことが、『老子語録』、『見聞随筆』などの史料に伺える。また戸田茂睡の執筆した『御当代記』にも、忠清が下馬将軍と呼ばれていたという記述がある』。『また、家綱の危篤にあたって、鎌倉時代の例に倣って徳川家・越前松平家とは縁続きである有栖川宮幸仁親王を宮将軍として擁立しようとしたとされ、これは徳川光圀、堀田正俊などの反対にあい、実現しなかったという。これは、家綱の弟の綱吉の資質に疑問を持ったためとも、あるいは家綱の側室が懐妊中で、出産までの時間稼ぎをしようとしたためともいわれる。宮将軍擁立説は『徳川実紀』をはじめとした史料に見られ通説として扱われてきたが、近年では歴史家・辻達也の再評価があり、失脚後の風説から流布したものであるとする指摘もある』。『綱吉が将軍に就任すると大老を解任され、越後騒動の再審が進められる中、忠清は解任からわずか1年後に突如没したため、綱吉は自殺ではないかと疑問を抱き、「墓を掘り起こせ」と命じるまでに執拗に何度も検死を求めたというが、酒井家や縁戚関係のある藤堂高久らは言い訳を使いながらこれをかたくなに拒否した。そのため忠清の死は尋常でなかったとする憶測を呼んでいる。ただし、遺体は前橋で荼毘に付されているため、後世の創作ともされる』。但し、享保六(一七二一)年に『成立した『葛藤別紙』には忠清の逸話が収録され』ているが、そこには慶安四(一六五一)年、『忠清は上洛し、板倉重宗の家来に案内されて東山を見回った。すると、物乞いを救うための小屋が大勢建設されていた。これは物乞いを救うための小屋だと聞かされた忠清は「まことの仁政とは、物乞いを救うための小屋を建てることではない、物乞いがそもそも存在しないような世を作ることではないか」と語ったという。この話は信憑性が怪しいが、酒井忠清に対する評価が必ず否定的なものばかりではなかった証ともとれる』ともある。因みに酒井家上屋敷は現在の千代田区丸の内にあった。

「愾」「いかり」。

「大統」将軍職。

「繼せ」「つがせ」。

「大目付」老中支配で一切の幕政を監察し、大名・寄合・高家の監視も行なった。任命されたのは旗本であったが大名統制も行うため、その待遇は大名並みで旗本が任じられる職では留守居・大番頭に次ぐ重職であった。

「御目付」若年寄支配で旗本・御家人の監察を担当した。

「樣躰」「やうたい」。

「藤堂大學頭」伊勢津藩の第三代藩主藤堂高久(寛永一五(一六三八)年~元禄元(一七〇三)年)。ウィキ藤堂高久によれば、『大老・酒井忠清の娘を正室としていたため』、『忠清が急死した際には、その死因を疑った徳川綱吉の派遣した目付に遺族代表として折衝し、後にその遺児の女子を養女にした。当時は大名家の取りつぶしが多く、忠清の娘、亀姫との結婚にも見られるように保身のため幕閣に接近、綱吉の学問講義や柳沢吉保邸下向に陪席するなどした。特に吉保への接近ぶりは池田綱政、細川綱利、松平頼常などとともに「柳沢家の玄関番」とあだ名されるほどのこびへつらいようであったという。そのため吉保に足元を見られたのか、後に津藩は吉保の次男を養子に押しつけられそうになる(家臣が切腹して抗議したため、回避されることとなった)』とあるが、しかし、『新田開発水利事業を行なった』ことから『領民の評判は良く』、また一書には『「当代の名将であり、良将と言ってもまだ足りない。他将の鑑と言っていい」とされている』とある。

「假令」「たとひ」。

「上聽」「じやうちやう」。

「背」「そむき」。

「各達」「おのおのたち」。

「蹈込」「ふんごみ」。

「蹈碎きて」「ふみくだきて」

「畢る」「をはる」。

譚海 卷之一 紀州蜜柑幷熊野浦の事


 紀州蜜柑幷熊野浦の事

○紀州蜜柑の籠に詰(つめ)あはする石菖蒲(せきしやうぶ)は、わざわざ畠に作るなり。自然と生(はえ)たる斗(ばか)りにては間に合(あひ)がたし。又熊野海邊は鯨をとりて常の產とする故、獵師の家は皆鯨の骨にて垣を築(きづき)たり。たちうすをならべたる如くにみゆと云(いふ)。風雨にされて年を歷(へ)し骨、堅き事金石のごとし。劍戟も刄を立る事あたはずと云。

[やぶちゃん注:「み熊野ねっと」のこちらのページによれば、和歌山県東牟婁郡太地町太地にある恵比寿神社には、再現されたものであるが、鯨の骨の鳥居がある。それによれば、『井原西鶴の『日本永代蔵』の巻二に収められた「天狗は家な風車(てんぐはいえなかざぐるま)」に「紀伊国に隠れなき鯨ゑびす」とあり、「鯨恵比寿の宮をいはひ、鳥井にその魚の胴骨立ちしに、高さ三丈ばかりも有りぬべし」とあって、その鯨骨の鳥居を再現したものがこの鳥居で』あるとして写真も載る。現在のものは1丈(約三メートル)ほどの高さだったと思われるので、西鶴の時代にはその三倍ほどの高さの鯨の肋骨(あばらぼね)の鳥居があったようだと記されておられる。必見。!

「石菖蒲」単子葉植物綱ショウブ目ショウブ科ショウブ属セキショウ Acorus gramineus 「有田みかんデータベース」内の御前明良氏による「輸送容器の変遷」に『竹籠は江戸時代から明治の初期まで使われた。江戸向けは』十五キログラム、関西向けは七・五キログラムで、『荷造りは蓋の部分は石菖(せきしょう)という草で覆い、縄で括った。石菖はミカンを冷やして腐敗を防ぐ役をしたと言われている』とある。実際、セキショウに含まれるテルペンには抗菌・防腐効果がある。]

本朝食鑑 鱗介部之三 海馬

 人見必大著島田勇雄訳「本朝食鑑」(平凡社東洋文庫一九七六~一九八一年刊)全五巻を入手した。

 これより、これとガチで勝負を始める。

 既に私は、

博物学古記録翻刻訳注 ■12 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる海鼠の記載

博物学古記録翻刻訳注 ■13 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる老海鼠(ほや)の記載

博物学古記録翻刻訳注 ■14 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる海月の記載

の三篇をものしているが、今回、これらと島田氏の訳注を対照してみても、私の見解や訳に重大な誤認はなかったし、アカデミズムの哀しさで国語学者であられた島田氏の注には殆んど見られない生物学上の注に関しては相応の自負を持ってよいことが改めて意識された。

 さればこそ、自身の海岸生物に対する強い偏愛を力に、

カテゴリ「本朝食鑑 水族の部」

を立ち上げることとする。

 「本朝食鑑」は医師で本草学者であった人見必大(ひとみひつだい 寛永一九(一六四二)年頃?~元禄一四(一七〇一)年:本姓は小野、名は正竹、字(あざな)は千里、通称を伝左衛門といい、平野必大・野必大とも称した。父は四代将軍徳川家綱の幼少期の侍医を務めた人見元徳(玄徳)、兄友元も著名な儒学者であった)の元禄一〇(一六九七)年刊の本邦最初の本格的食物本草書。全十二巻。「本草綱目」に依拠しながらも、独自の見解をも加え、魚貝類など、庶民の日常食品について和漢文で解説したものである。

 上記三件と同様、底本は国立国会図書館のデジタルコレクションの画像を視認して起こす。本文は漢文脈であるため、まず、原典との対照をし易くするために原文と一行字数を一致させた白文を示し(割注もこれに准じて一行字数を一致させてある。底本にある訓点は省略した)、次に連続した文で底本の訓点に従って訓読したものに、独自に読みや送り仮名を附したものを示し、その後にオリジナル注と現代語訳を附した。この際、私の訳注をまず完成させその上で島田勇雄氏の東洋文庫版と最終的に比較、島田氏のそれから私の誤認誤訳と認知出来た箇所に就いては逐一その旨を記載して補正し、私の正しいと信ずる見解と異なる箇所に就いては、概ね私の疑義を表明することとする。即ち、それ以外はあくまで私のオリジナルな注であり、オリジナルな訳であるということである。

 原典ではポイント落ち二行書きの割注は〔 〕で挟み、同ポイントで示した。なお、原典では原文の所で示したように、頭の見出しである「海鼠」のみが行頭から記されてあり、以下本文解説は総て一字下げである。異体字は原典のママとし、字体判断に迷ったものや正字に近い異体字は正字で採る(例えば、「鰕」とした字は、原典では多くが「叚」の右部分が「殳」である。しかしこれは表示出来ない字であるので、文意から間違いなく「鰕」(えび)と同義と判断して総て「鰕」に統一した)。

 訓読文では原典の一字下げは省略した。読み易くするために句読点・記号・濁点・字空けを適宜、施した。一部に独自に歴史仮名遣で読みや送り仮名を附してあるが、読解に五月蠅くなるので、特にその区別を示していない。なお、原典には振られている読み仮名は少ない。また、「今」(いま)に「マ」が、「狀」「貌」(かたち)などには「チ」が、「者」(もの)と読む字には「ノ」が送られてあるが、これらは送り仮名としては省略した。また、つまらぬ語注を減らすためにわざと確信犯で訓読みした箇所もあり、こうした恣意的な仕儀を経ている我流の訓読であるので、くれぐれも原典画像と対比しつつ、読者御自身の正しいと信ずる読み方でお読みになられることを強く望む(因みに、島田氏の東洋文庫版には原文・書き下し文は載らず、現代語訳と注のみである)。

 注の内、「本朝食鑑」全体の構成要素である「釋名」等の項立てや、五味についての語意については既に「博物学古記録翻刻訳注 ■12 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる海鼠の記載」で施しているのでそちらを参照されたい。また「本草綱目」を引用する場合は、概ね、国立国会図書館デジタルコレクションのそれを視認して原文を示したが、披見される際に読み易さを考えて句読点や記号などを打ってある。

 たまたま上記三篇は「海月」「海鼠」「老海鼠」の順に第十二巻に並んでいるものであるので、ここは一つ、ランダムに電子化注釈をすることをせず、「老海鼠」の前後を広げる形で電子化訳注を始めることとし、まずは「老海鼠」の直後の「海馬」からスタートする((その次は次の「雀魚」(ハコフグ)ではなく、「海月」の前の「烏賊」を予定している。何故かというと、私は海洋動物では脊椎動物の魚類よりも無脊椎動物を遙かに偏愛するからである。リンク先は国立国会図書館のデジタルコレクションの当該頁画像)。――いざ! 伴に行かん!――江戸の博物学の迷宮(ラビリンス)へ!……

 

海馬

 集觧狀有魚體其首似馬其身類蝦其背傴僂長

 三四寸雌者黄色雄者青色漁人不采之但於里

 網雜魚之内而得之若得之則賣藥肆以備産患

 爾凡臨産之家用雌雄包收于小錦嚢以預佩之

 謂易産今爲流俗流例此物性温煖有交感之義

 乎

 氣味甘温平無毒〔本朝未聞食之者〕主治李時珍曰暖水

 臓壯陽道消瘕塊治疔瘡腫毒故有海馬湯海馬

 拔毒散未試驗以

 

□やぶちゃんの訓読文

 

海馬

 集觧 狀(かたち)、魚體なれど、其の首、馬に似(に)、其の身、鰕に類す。其の背、傴僂(うろう)、長さ三、四寸。雌は黄色、雄は青色。漁人、之を采らず。但し、罜網(しゆまう)雜魚(ざこ)の内に於いて若(も)し之を得れば、則ち、藥肆(やくし)に賣りて、以つて産患(さんかん)に備ふのみ。凡そ臨産(りんさん)の家、雌雄を用ゐて、小錦嚢(しやうきんなう)に包み收め、以つて預(あづかし)め、之を佩(は)きて、易産と謂ふ。今、流俗・流例と爲(す)。此の物、性、温煖、交感の義、有るか。

 氣味 甘温(かんをん)、平。毒、無し。〔本朝、未だ之を食ふ者を聞かず。〕主治 李時珍が曰く、『水を暖め、臓、陽道を壯(そう)し、瘕塊(かくわい)を消し、疔瘡(ちやうさう)・腫毒を治す。故に海馬湯(かいばとう)・海馬拔毒散(かいばばつどくさん)、有り。』と。未だ驗(しるし)を試みず。

 

□やぶちゃん語注

・「海馬」「かいば」と音読みしている模様で、本書では「たつのおとしご」といった読みは出ないので注意されたい(但し、島田氏はそうルビを振ってはおられる)。言わずもがな乍ら、立派な魚類である、

トゲウオ目ヨウジウオ亜目ヨウジウオ科タツノオトシゴ亜科タツノオトシゴ属 Hippocampus

で、本邦産種は、

タツノオトシゴ   Hippocampus coronatus

ハナタツ      Hippocampus sindonis

イバラタツ     Hippocampus histrix

サンゴタツ     Hippocampus japonicas

タカクラタツ    Hippocampus takakurai

オオウミウマ    Hippocampus keloggi

クロウミウマ    Hippocampus kuda

の七種を数えるが、最近、

ピグミーシーホース Hippocampus bargabanti

が小笠原や沖縄で確認され(私は個人的には本当は外来語には単語の切れ目に「ピグミー・シー・ホース」を入れたいアナログな人間であることをここに表明しておく。和名であればなおさらだと思う)、通称「ジャパニーズ・ピグミー・シーホース」(ここは通称なので入れた)なる未確認種もあるやに聞いている。分類方法はズバリ! Chano 氏のサイト「海馬」このページが学術的にも正しく分かり易くビジュアル面からも最良である(昔から好きなサイトだったが二〇〇九年で更新が停止しているのが淋しい)。また、私の作成した栗本丹洲「蛙変魚 海馬 草鞋蟲 海老蟲 ワレカラ 蠲 丸薬ムシ 水蚤(「栗氏千蟲譜」巻七及び巻八より)」の美事な画像もお薦めである。

・「狀、魚體にて有れど、其の首、馬に似、其の身、蝦に類す」私の敷衍訓読。底本には「にて」も「れど」も送られていないが、こう読まないと自然には読めない。幾つかの訓読を試みたが、これが私には最もしっくりきた。「似」の「に」の読みは右に打たれた「ニ」を読みと呼んだ。これを送り仮名として「似(にる)に」と読めないこともないが、それではやはり下と続きが悪い。

・「傴僂」は、背をかがめること。差別用語としての「せむし」の意もあるが、ここは本来の意味でよいであろう。

・「三、四寸」約一〇~一二センチメートル。

・「雌は黄色、雄は青色」は誤り。体色は種のみでなく、個体間でも変異が多い。雌雄の区別は腹部を見、直立した腹部の下方に尻ビレが現認出来、腹部全体が有意に膨らんでいるのがメスである。前掲サイト「海馬」の「オスとメスの見分け方」を参照。

・「罜網」当初、安易に「罜」を「里」と誤読して、地引網の類いかなどと想像したのであるが、島田氏の訳の『罟網(あみ)』で目から鱗であった(島田氏の底本は私の視認している版とは異なるものと思われ、明らかに国会図書館蔵本では「罜」である)。「罜」(音「シュ」)は小さな網のことである。寧ろ、大きな網ではなく、和船で曳く網のことであろう。

・「藥肆」「肆」は商店の意。漁師がそこに持ち込んだというより、そうした漢方薬を扱う薬種問屋の仕入れ商人が定期的に巡回していたものと私は推測する。

・「産患に備ふ」以下の「易産」、所謂、安産の御守りについて、かつて寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「海馬」で述べた私の注を以下に引く。タツノオトシゴの♂が「出産する」ことは、現在、よく知られている。♂には腹部に育児嚢があり、♀は交尾時に輸卵管を♂の下腹部にあるこの育児嚢に挿入、その中に産卵する。♂がそれを保育し、約二週間ほどで、親と同じ形をした数十~数百匹の子供を♂がかなり苦しそうな動きをしながら「出産する」のである。幾つかの説が、このタツノオトシゴの生態から安産のお守りとなったという説を載せている。しかし、「和漢三才圖會 巻第四十七 介貝部」の「貝子」(タカラガイ)の項の注で述べたように、私はタツノオトシゴが胎児(若しくは妊婦の姿そのもの)と似ているからであろうと考えている。フレーザーの言うところの類感呪術の一つである。その生態としての♂の育児嚢からの出産から生まれた風習という説は、考えとしては誠に面白いが、古人がそこまでの観察と認識から用いたとは、残念ながら私には思えないのである。但し、それを全否定できない要素として、ここで雌雄をセットで御守としている点が挙げられはする。但し、これに対しても受卵前の雌雄若しくは個体(雌雄の判別のところで述べたが、受卵前の♂は腹部のラインがすっきりとスマート、逆に♀は有意に膨らんでいる。加えて受卵し保育する♂も有意に膨らむ)が丁度、出産の前と後とのミミクリーであるとの見解を私は持っている。……いや、その最初の発案者たる呪術師はもしかすると、水槽にタツノオトシゴを飼育し、その雌雄の生態(但し極めて高い確率で♂と♀を取り違えていたと思われるが)を仔細に観察していたのかも知れぬ。……しかし、何故に、彼若しくは彼女(巫女かも知れぬ)はタツノオトシゴを飼育していたのであろうか?……タツノオトシゴを見る巫女……何だか僕は Hippocampus なロマンを感じ始めたようだ。……

・「交感の義」次のまさに前注で私が述べた、「氣味」の『甘温、平。無毒』(これは「本草綱目」の引き写しである)という性質の類感的呪術効果ではないか? と人見は推理しているものと思われる。しかし、これは実は「本草綱目」に、海老と同じ効能であると、かく断定されてある。人見は自分が治験してみたことがない(末尾参照)のでかく言っているのであろう。

   *

發明時珍曰海馬雌雄成對,其性溫暖、有交感之義、故難及陽虛房中方術、多用之、如蛤蚧、郎君子之功也。蝦亦壯陽、性應同之。

   *

・「本朝、未だ之を食ふ者を聞かず」とあるが、「タツノオトシゴを捕獲して食す」に、『IT検索すると唐揚げしたり、あるいは卵を漁村ではご飯にかけて食べたり、中国ではかりかりに焼いて串に刺して売っていたりするそうです。揚げたものは所謂骨せんべいの味とのこと』とあり、実際に食べた味が語られてある。私は中国で料理に入っているものを食べた経験はあるものの、味は中華の濃い味付けで良く分からなかったが、恐らく美味いものであろうとは容易に想像出来る。

・「主治」以下の引用部は概略で、実際には「本草綱目」では「海馬湯」について、対象疾患と処方の具体が別々に以下のように細かく示されてある。

   *

附方〔新二。〕海馬湯治遠年虛實積聚癥塊。用海馬雌雄各一枚、木香一兩、大黃(炒)、白牽牛(炒)各二兩、巴豆四十九粒、青皮二兩(童子小便浸軟、包巴豆扎定、入小便再浸七日、取出麩炒黃色、去豆不用)、取皮同衆藥爲末。每服二錢、水一盞、煎三五沸、臨臥溫服。 「聖濟錄」海馬拔毒散治疔瘡發背惡瘡有奇効。用海馬(炙黃)一對、穿山甲(黃土炒)、朱砂、水銀各一錢、雄黃三錢、龍腦、麝香各少許爲末、入水銀研不見星。每以少許點之、一日一點、毒自出也。 「秘傳外科」

   *

・「陽道を壯し」先に引いた「本草綱目」の「發明」にはっきり『陽虛房中方術』と記す。男性用の媚薬である。

・「瘕塊」腹中に塊の出来る症状をいう。必ずしも癌とは限るまい。

・「疔瘡」口腔内に出来た黄色ブドウ球菌などによる皮膚感染症である口底蜂窩織炎(こうていほうかしきえん)のこと。蜂窩織炎の中でも性質(たち)が悪い劇症型に属する。これが口ではなく鼻や頰などに生じたものが「面疔(めんちょう)」である。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

海馬(かいば)

 集觧 形は、魚体であるが、その首は馬に似ており、その身は海老に類している。その背は著しく屈(かが)まった形をなし、長さは三、四寸。雌は黄色、雄は青色を呈する。漁師は、これを漁の対象としては獲らない。但し、引網の中の雑魚(ざこ)の類いの中に於いて、もしこの生き物を獲り得た時には、直ちに薬種問屋に売る。

 しかしこれは食うのでは勿論なく、以って難産の際の御守りとして商品化するばかりである。

 およそ出産を間近に控えた妊婦のいる家では、この海馬の雌雄を用いて、小さな錦の袋に包み収め、以ってこれを妊婦に持たせ、これをその腰に下げさせておくと、安産となると言う。今も、この民草の間での習俗は極めて一般的に市井に行われている。

 これはこの海馬の気味の性質が温暖であるからして、その交感の象徴性によって、体を温める効果が得られるからなのであろうか。

 気味 甘温(かんおん)、平。毒はない。〔但し、本朝に於いては、未だ、これを食べるということは聞いたことがない。〕主治 李時珍の曰く、『体内の水気を暖め、男性の陽気をいやさかに昂(たか)め、腹腔内に生じたしこりや腫れ物を消し、口に生じた重い疔瘡(ちょうそう)や腫物に由来する毒害を癒やす。ゆえに「海馬湯(かいばとう)」「海馬拔毒散(かいばばつどくさん)」と言った処方がある。』と。但し、私は、これらの処方及び海馬単品の服用による効果は、これ、いまだ試みてみたことはない。

2015/04/27

福一へ――いち――「最後の一句」

「お上の事には間違はございますまいから」

桂屋太郎兵衞の長女いちは言うたがのぅ……

……福一……おめえさん、本當は……世間樣にとんでもねえことをしでかしてゐるんぢやねえのかい?……

お上は……

「制御出來きておるッツ! 默りおろうッツ!!」

とおつしやつておりやんすがねェ…………



――「周辺地域で線量が1000倍に急上昇! “フクイチ”で何かが起きている!?」――……

密かにカテゴリ「本朝食鑑 水族の部」創始

1977年平凡社東洋文庫刊の国語学者大島勇雄(いさお)氏の手に成る訳注本「本朝食鑑」を入手した。流石は国語学者、注の引用がもの凄い堆積である。その代り、生物学的考証記載は失礼乍ら、頗る貧困である。まずは順に「海鼠」から取り掛かってみたが、当初、考えていた公開版を残しての補正は、少なくとも「海鼠」では厳しい。これは僕の誤りが多いというのではなくて、公開から大島本を今日、見るまでの間に、全く個人的に自分の記載に対して、幾つかの補正が必要となったからである。現在、その改稿に着手しているが――これ、なかなか手強い。――しかし、だからこそ面白い。――今暫く、お待ちあれかし。――とりあえず、カテゴリ「本朝食鑑 水族の部」創始し、僕の新しいプロジェクトの予告と致す所存である。
 
ガチで――勝負だ!!!

高濱虛子 斑鳩物語 (正字正仮名・初版形)

 

[やぶちゃん注:「斑鳩物語(いかるがものがたり)」は明治四〇(一九〇七)年に『ホトトギス』に掲載された高浜虚子の小説で、翌明治四十一年に出版された虚子初の短編小説集「鶏頭」に所収された。

 底本は明治四一(一九〇八)年一月春陽堂刊の当該作品集「鶏頭」を国立国会図書館デジタルコレクションの「斑鳩物語」の画像で視認した(リンク先は同作品の冒頭頁画像)。但し、底本は総ルビであるため、私が読みが触れると判断したものと、若い読者にはやや難読かと思われるもののみのパラルビとした。踊り字「〱」は正字化した。段落冒頭が一字下げになっていないのはママである。但し、会話文は、底本では一字下げの鍵括弧で始まり、二行以上に渡る際にはシナリオの台詞のように総て二字下げとなっているが、ブログ版ではブラウザ上の不具合が生ずるので再現せずに、改行後は行頭まで上げてある。仮名の「し」の一部で草書の「志」となっているが(例えば「お道さんが行つたあとは俄かに淋しくなつた。きのふ奈良でしらべた報告書の殘りを認める。」の箇所の「しらべた」の「し」など)、有意な表記上の差があるとは思われないので、通常の「し」で表記した。

 一昨日、堀辰雄の「十月」の注で梗概を述べ、抜粋引用したのだが(但し、そこでは視認が容易な本初版とは異なる昭和二三(一九四八)年養徳社刊行の版を用いたので、本テクストとは微妙に異なる。特に読みについては本初版では意外な箇所もままあるので注意されたい)、ここで三重の塔の登りの滑稽な箇所も含めてその全体を公開することとする。その注でも述べた通り、私は俳人としての高浜虚子を生理的に激しく嫌悪している男である。しかし、少なくとも彼のこの写生文を意識した小説「斑鳩物語」は、その映像性と浪漫性から――おぞましくも悔しいことに――大いに惹かれてしまう小品であることは言を俟たない。敢えて――恩讐の彼方に――【二〇一五年四月二十七日 藪野直史】] 

 

     斑鳩物語

 

      上

法隆寺の夢殿の南門(なんもん)の前に宿屋が三軒(げん)ほど固まつてある。其の中の一軒の大黑屋といふうちに車屋は梶棒を下ろした。急がしげに奥から走つて出たのは十七八の娘である。色の白い、田舍娘にしては才はじけた顏立ちだ。手ばしこく車夫(くるまや)から余の荷物を受取つて先に立つ。廊下を行つては三段程の段階子を登り又廊下を行つては三段程の段階子を登り一番奧まつた中二階に余を導く。小作りな體に重さうに荷物をさげた後ろ姿が余の心を牽く。

荷物を床脇に置いて南の障子を廣々と開けてくれる。大和一圓が一目に見渡されるやうないゝ眺望だ。余は其まゝ障子に凭(もた)れて眺める。

此の座敷のすぐ下から菜の花が咲き續いて居る。さうして菜の花許りでは無く其に點接(てんせつ)して梨子(なし)の棚がある。其梨子も今は花盛りだ。黃色い菜の花が織物の地(ぢ)で、白い梨子の花は高く浮織(うきお)りになつてゐるやうだ。殊に梨子の花は密生してゐない。其荒い隙間から菜の花の透いて見えるのが際立つて美くしい。其に處々麥畑も點在して居る。偶〻(たまたま)燈心草(とうしんぐさ)を作つた水田(みづた)もある。梨子の花は其等に頓着(とんちやく)なく浮織りになつて遠く彼方(あなた)に續いて居る。半里も離れた所にレールの少し高い土手が見える。其土手の向うもこゝと同じ織り物が織られてゐる樣だ。法隆寺はなつかしい御寺(みてら)である。法隆寺の宿はなつかしい宿である。併し其宿の眺望がこんなに善からうとは想像しなかつた。これは意外の獲物である。

娘は春日塗(かすがぬ)りの大きな盆の上で九谷(くたに)まがひの茶椀に茶をついで居る。やゝ斜(なゝめ)に俯向(うつむ)いてゐる橫顏が淋しい。さきに玄關に急がしく余の荷物を受取つた時のいきいきした娘とは思へぬ。赤い襦袢(じゆばん)の襟もよごれて居る。木綿の着物も古びて居る。それが其淋しい橫顏を一層力なく見せる。

併しこれは永い間では無かつた。茶を注(つ)いでしまつて茶托(ちやたく)に乘せて余の前に差し出す時、彼(かれ)はもう前のいきいきした娘に戾つて居る。

 「旦那はん東京だつか。さうだつか。ゆふべ奈良へお泊りやしたの。本間(ほんま)にア、よろしい時候になりましたなア」

と脫ぎ棄てた余の羽織を疊みながら、

 「御參詣だつか、おしらべだつか。あゝさうだつか。二三日前にもなア國學院とかいふとこのお方が來やはりました」

と羽織を四(よつ)つにたゝんだ上に紐を載せて亂箱(みだればこ)の中に入れる。

余は渇いた喉に心地よく茶を飮み干す。東京を出て以來京都、奈良とへめぐつて是程(これほど)心の落つくのを覺えた事は今迄無かつた。余は膝を抱(いだ)いて再び景色を見る。すぐ下の燈心草の作つてある水田(みづた)で一人の百姓が泥を取つては箕(み)に入れて居る。箕に土が滿ちると其を運んで何處(どこ)かへ持つて行く。程なく又來ては箕に土をつめる。何をするのかわからぬが此廣々とした景色の中で人の動いて居るのは只此百姓一人きりほか目に入(い)らぬ。

娘は椽(えん)に出(で)て手すりの外に兩手を突き出して余の足袋の埃りを拂つて又之を亂箱の中に入れる。

 「いゝ景色だナア」

といふと直ぐ引取つて、

 「此邊はなア菜種(なたね)となア梨子とを澤山に作りまつせ。へー燈心も澤山に作ります。燈心はナー、あれを一遍よう乾かして、其から叩いてナー、それから又水に漬けて、其から長い錐(きり)のやうなもので突いて出しやはります。其から又疊の表にもしやはりまつせ。長いのから燈心を取りやはつて短かいのは大概(たいがい)疊の表にしやはります」

 「疊の表には藺(ゐ)をするのぢやないか。燈心草も疊の表になるのかい」

「いやな旦那はん。燈心草といふのが藺の事(こ)つたすがな」

と笑ふ。余は電報用紙を革袋(かはぶくろ)の中から取り出す。娘は棚の上の硯箱を下ろして葢(ふた)を取る。

 「まア」

といつて再び硯箱を取り上げてフツと輕く硯の上の埃りを吹いて藥罐(やくわん)の湯を差して墨を磨つて呉れる。墨はゴシゴシと厭やな音がする。

電報を認(したゝ)め終つて娘に渡しながら、

 「下は大變多勢のお客だね。宴會かい」

と聞く。娘は電報を二つに疊んで膝の上に置いて、

 「いゝえ。皆(みんな)東京のお方だす。大師講(だいしかう)のお方で高野山に詣りやはつた歸りだすさうな。今日はこゝに泊りやはつてあした初瀨(はせ)に行(い)きやはるさうだす。今晩はおやかましうおますやろ」

と娘は立たうとする。電報は一刻(こく)を急(せ)く程の用事でも無い。

 「初瀨は遠いかい」

とわざと娘を引とめて見る。

 「初瀨だつか」

と娘も一度腰を下ろして、

 「初瀨はナー、そらあのお山ナー、そら左りの方の山の外れに木の茂つたとこがありますやろ……」

と延び上るやうにして、

 「あこが三輪のお山で。初瀨はあのお山の向うわきになつてます。旦那はんまだ初瀨に行きやはつた事(こと)おまへんか」

 「いやちつとも知らないのだ。さうかあれが三輪か。道理で大變に樹が茂つてゐるね。それから吉野は」

 「吉野だつか」

と娘は電報を疊の上に置いて膝を立てる。手摺りの處に梢を出してゐる八重櫻が娘の目を遮ぎるのである。余は立上つて椽(えん)に出る。娘も余に寄り添うて手摺りに凭れる。

 「そら、此向うに高い山がおますやろ、霞のかゝつてる。へーあの藪の向うだす。あれがナー多武(たふ)の峰で、あの多武の峰の向うが吉野だす」

娘は櫻の梢に白い手を突き出して、

 「あの高い山は知つとゐやすやろ」

 「あれか、あれが金剛山(こんがうざん)ぢやないか。あれは奈良からも見えてゐたから知つてる」

娘は手摺り傳(づた)ひに左りへ左へと寄つて行つて、

 「旦那はん、一寸(ちよつと)來てお見やす。そらあそこに百姓家がおますやろ。さうだす、今(いま)鴉の飛んでる下のとこ。さうだす、あの百姓家の左の方にこんもりした松林がおますやろ。そやおまへんがナー。それは鐵道のすぐ向うだすやろ。それよりももつとずつと向うに、さうだすあの多武(たふ)の峰の下の方にうつすらした松林がありますやろ。さうさう。あこだす、あこが神武天皇樣の畝火山(うねびやま)だす」

娘の顏はますますいきいきとして來る。畝火山を敎へ終つた彼はまだ何物をか探して居る。彼の知つて居る名所は見える限り敎へてくれる氣と見える。

 「お前大變よく知つて居るのね。どうしてそんなによく知つて居るの。皆(み)な行つて見たのかい」

 「へー、皆んな行きました」

といつて余を見た彼の眼は異樣に燃えてゐる。

 「さう、誰(だれ)と行つたの、お父サンと」

 「いゝえ」

 「お客さんと」

 「いゝえ。そんな事(こと)聞きやはらいでもよろしまんがナア」

と娘は輕(かろ)く笑つて、

 「私の行きました時も丁度(ちやうど)菜種の盛りでなア。さうさうやつぱり四月の中頃やつた」

と夢見る如き眼で一寸余の顏を見て、

 「旦那はん、あんたはんお出でやすのなら連れていておくれやすいな、ホヽヽヽ私見たいなものはいやだすやろ」

 「いやでも無いが、こはいナ」

 「なぜだす」

 「なぜでも」

 「なぜだす」

 「こはいぢやないか」

 「しんきくさ。なぜだすいな、いひなはらんかいな」

 「いゝ人にでも見つからうもんなら大變ぢやないか」

 「あんたの」

 「お前のサ」

 「ホヽヽ、馬鹿におしやす。そんなものがあるやうならナー。……無い事もおへんけどナー。……ホヽヽヽヽ、御免やすえ。……アヽ電報を忘れてゐた。お風呂が沸いたらすぐ知らせまつせ」

と妙な足つきをして小走りに走つて疊の上の電報を抄(すく)ふやうに拾ひ上げて座敷を出たかと思ふと、襖(ふすま)を締める時、

 「本間(ほんま)におやかましう。御免やすえ」

としづかに挨拶してニツコリ笑つた。

 「お道(みち)はん。お道はん」

と下で呼ぶ聲がする。

 「へーい」

といふ返辭も落(おち)ついて聞こえた。

お道さんが行つたあとは俄かに淋しくなつた。きのふ奈良でしらべた報告書の殘りを認める。時々下の間で多勢の客の笑ふ聲に交つてお道サンの聲も聞こえるが、座敷が別棟(べつむね)になつてゐるのではつきりわからぬ。

 夢殿の鐘が鳴る。時計を見るともう六時だ。

漸く風呂が沸いたと知らして來た。其はお道さんでは無く、此(この)家(や)の主婦であらう三十四五の髮(かみ)サンであつた。晩飯の給仕に來たのもお道さんで無く此の髮サンであつた。

此髮サンの話によると、お道サンといふのは此うちの娘でなくすぐ此裏の家(うち)の娘で、平生(ふだん)は自分のうちで機械機(きかいばた)を織つて居るが、世話しい時は手傳ひに來るのだとの話であつた。

 「へい、此邊でナー、ちつと澁皮(しぶかは)のむげた娘(こ)はナー、皆(みんな)南の方へ行きやはります。南の方といふのはナー下市(しもいち)、上市(かみいち)、吉野あたりだす。お道はんも一寸行(い)てやはりましたが、お父つあんが一人で年よつてるさかいに半年許(ばか)りで歸つて來やはつた。へー、何だす。そりやナー若い時はナー。そやけれどお道はんに限つてそないな事はありまへんやらう。ホヽヽヽ」

とお髮サンは妙な眼つきをして人の顏を見て笑ふ。 

 

      中 

 

翌日午前は法隆寺に行つて、午後は法起寺(はふきじ)に行つた。これで今囘官命の役目は一段落となるのである。法起寺は住職は不在で、年とつた方の所化も一寸出たとの事で、十五六になるのつそりした小僧が炭をふうふう吹いて灰だらけにした火鉢を持つて來て、ぬるい茶を汲んで來て主(あるじ)ぶりをする。取調(とりしらべ)の事は極めて簡單で直ちに結了(けつれう)する。塔の修覆が出來てからまだ見ぬので庭に出て見る。腰衣(こしごろも)をつけた小僧サンもあとからついて來る。白い庭の上に余の影も小僧サンの影もくつきりと映る。うらゝかな春の日だ。三重の塔は法隆寺の塔を見た目には物足らぬが其でも蟇股(かへるまた)や撥形(ばちがた)の爭はれぬ推古式のところが面白い。余はふと此塔に登つて見度くなつた。

 「小僧サン、塔に登りたいものですが……」

 「塔にお登りやすの、きたのうおまつせ」

といひながら無造作に承諾してもう鍵を取りに行く。頭に手をやつて見たり、腰に手をやつて見たり自分の影法師を面白さうに見ながら悠々として庫裡の方に行つた。

直下(ました)に立つて仰ぐと三重の塔でも中々高い。三重目の欄干のところに雀が群がつて飛んで居る。立札を讀むと特別保護建造物で一年餘を費して修理したとある。別に立札に内務省の下賜金が二萬何千圓とある。此地はもと聖德太子の御學問處(ごがくもんじよ)で、推古天皇の御創立になつた官寺(かんじ)で、昔はたいしたものであつたのだらうが、今は當時の建物として此塔許り殘つてゐて他(た)は見すぼらしい堂宇許りだ。とても法隆寺などには比べものにはならん。

小僧サンが悠然として鍵を持て來て、いきなり塔の扉に突ッ込む。ゴトンと音がして大きな扉ががたがたと開(あ)く。冷たい風が塔の中から吹く。安置されて居る佛體は手や足の無くなつてゐる古佛(こぶつ)でこれも推古時代の彫刻かと思はれる。小僧サンはもう梯子(はしご)を登つて居る。

此梯子は高さ一間半許りの幅のせまい勾配の急な梯子で一步踏む度に少しゆらぐ。余は元來臆病な方だが今更止めるわけに行(い)かぬので小僧サンのあとについて登る。戶をがらがらと開ける音がする。埃りが落ちて來るので閉口しながら仰向いて見ると、天井に二尺角(しやくかく)程の小さい穴があいて居る。小僧サンは今其穴に體半分を突込(つツこ)んで足を二本宙(ちゆう)にぶら下げて居る。おやおやと思つて見て居るうちに體操のやうな事をしてヒヨイと上に飛び上(あが)る。余は恐る恐る登つて其穴の處に達し漸く頭を突込んで上を見上げると驚いた。余は塔の中の構造も普通の家と同じに一階二階と其々天井のやうなものが出來てゐることゝ思つてゐたに、天井は一階のところに在る許りで、見上げると此上はもう頂上まで筒拔けで、中央の大きな柱が天にまで達するかと思ふやうに高い。小僧サンはもう第二の短い梯子を登つて右から左にかゝつてゐる木を輕業(かるわざ)のやうに兩手をふつて渡つてゐる處だ。

余は穴に頭を突込(つツこ)んだまゝ、

 「小僧サンもうよしませう」

といふ。小僧サンは不平さうに、

 「折角こゝまで來たんやよつて上(のぼ)りなはれ」

と橫木(よこぎ)の上に立つたまゝ下を見下して居る。何だか此際(さい)小僧サンに無限の權威があるやうに思はれて仕方なしに上ることにする。小僧サンは今體操をするやうなことをして此の穴を上がつたが、其が已に余に取つて大困難だ。頭の上に斜(なゝめ)に橫たはつてゐる木に手をかけて見る。木が大きくて手のさきがかゝる許りだ。指のさきに懸命の力を籠めて左りの手を其(その)木にかけ、右の腕でべたりと天井の上を壓(お)さへると埃りだらけで紋付羽織がだいなしになる。漸く天井裡に登る。

其(それ)から第二の梯子は無造作に登れたが、小僧サンが手をふつて渡つてゐた橫木の上に來て途方に暮れる。何かつかまへるものが無いと足がふるへて顚倒(てんだう)しさうだ。頭の處に併行(へいかう)した大きな木がある。兩手をぐつと上げて此(この)木を握る。足の方も見ねばならず手の方も見ねばならず、上目を使つたり下目を使つたり一分(ぶ)きざみに渡つて居ると忽ちゴーといふ地鳴りのやうな音がする。何事かと思つて立どまつて見ると一陣の風が塔に吹き當る音であつた。ゆれはしないかと中央の大きな柱を見ると大船(おほふね)の帆柱よりも大きいのが寂然(じやくねん)として立つて居る。漸く意を安(やす)んじて橫木を渡つてしまふと、サア行き詰(づま)りになつてしまつてどうしてよいのかわからぬ。梯子もなく、別に連絡して居る他(ほか)の木もない。俄(にはか)に恐ろしくなつて來てもう空目(そらめ)を使つて小僧サンを見る勇氣もない。

 「小僧サン、これからどうしたらいゝんです」

小僧サンの聲は思はぬ方から聞こえる。

 「其(その)上の木にまたいで上りなはれ」

と極めて易々(いゝ)たる事のやうにいふ。其がさう易々(いゝ)たる事なら何も小僧サンを呼びはしないのだが、これはいよいよ窮地に陷(おちい)つた事だと泣き度(た)くなる。仕方なしに兩方の手で上の木に抱きつくやうにしてやつと這ひ上る。羽織の袖が何かにかゝつたらしいのを一生懸命で振り切る。一息ついて上を見上げると上はまだなかなか遠い。下を見下ろすと下ももうなかなか遠い。もう下りるのも上(あが)るのも同じく命がけだと覺悟を極(きは)めて未練なく登ることにする。

小僧サンは立どまつてはふりかへり、ふりかへつては歷階(れきかい)して上つて居る。余もまけぬ氣になつて登る。

 「こゝの欄干のところにしまひよか、露盤(ろばん)のところに出なはるか」

と小僧サンが上の方から呼ぶ。露盤の處から九輪(りん)の處に首を突出(つきだ)す事が出來るといふ事は曾て聞いた事もあつた。小僧サンは其處(そこ)までも行く氣と見える。其處まで行くうちには余はもう手足の力を失つて途中から轉落するに極(きま)つてる。

 「欄干のところで結構です」

 「さうだつか。露盤のとこに出ると畝火の方がよく見えまんがなア」

畝火は宿屋の二階からでも見えぬことは無い。こちらは其どころでは無いのだ。小僧サンはどうするかと氣が氣でなく見て居ると、やつと露盤の方は斷念したと見えて、欄干の方に出る小さい窓を開けて居る。

小僧サンは其窓を大佛殿の柱くゞりといつたやうな風に這うて出る。余も漸く其窓に達して、今度こそすべり落ちたら百年目と度胸を据ゑて這うて出る。窓の外は三重目の小さい囘廊(くわいらう)で欄干を握つて立つと、ニチヤニチヤと手につくものがある。見ると雀の糞(ふん)だ。其邊(そこら)眞白になつて居る。さつき雀の飛んで居つたのが此處だなと思ふ。小僧サンに並んで欄干を摑まへて下を見下ろす。

自分の足下(あしもと)には二重目の屋根が出て居る。此處に立つて下を見下ろすのは想像してゐた程に恐ろしく無い。小僧サンに跟(つい)て囘廊傳ひに東の方に𢌞つて見る。宿屋の二階で見た菜の花畑はすぐ此塔の下までも續いて居る。梨子の棚もとびとびにある。麗(うらゝ)かな春の日が一面に其上に當つて居る。今我等の登つてゐる塔の影は塔に近い一反ば(たん)かりの菜の花の上に落ちて居る。

 「又來くさつたな。又二人で泣いてるな」

と小僧サンは獨り言をいふ。見ると其塔の影の中に一人の僧と一人の娘とが倚り添ふやうにして立話しをして居る。女は僧の肩に凭れて泣いて居る。二人の半身(はんしん)は菜の花にかくれて居る。

 「あの坊(ぼう)さん君知つてるのですか」

 「あれなあ、私(わし)の兄弟子の了然(れうねん)や。學問も出來るし、和尙サンにもよく仕へるし、おとなしい男やけれど、思ひきりがわるい男でナー。あのお道といふ女の方がよつぽど男まさりだつせ。あのお道はナァ、親にも孝行で、機もよう織つて、氣立(きだて)もしつかりした女でナァ、何でも了然が岡寺(をかでら)に居(を)つた時分にナァ、下市(しもいち)とか上市(かみいち)とかで茶屋酒(ちややざけ)を飮んだ事のある時分惚れ合つてナァ、それから了然はこちらに移る、お道はうちへ歸るしゝてナァ、今でもあんなことして泣いたり笑つたりしてますのや。ハヽヽヽ」

と小僧サンは無頓着(むとんちやく)に笑ふ。お道は今朝(けさ)から宿に居なかつたが今こゝでお道を見やうとは意外であつた。殊に其情夫が坊主であらうとは意外であつた。我等は塔の上からだまつて見下ろして居る。

何か二人は話してゐるらしいが言葉はすこしも聞こえぬ。二人は塔の上に人があつて見下ろして居やうとは気がつくわけも無く、了然はお道をひきよせるやうにして坊主頭を動かして話して居る。菜の花を摘み取つて髮に挿みながら聞いてゐたお道は急に頭を振つて包みに顏を推しあてゝ泣く。

 「了然は馬鹿やナァ。あの阿呆面(あはうづら)見んかいナ。お道はいつやら途中で私に遇ひましてナー、こんなこというてました。了然はんがえらい坊(ぼ)んさんにならはるのには自分が退(の)くのが一番やといふ事は知(しつ)てるけど、こちらからは思ひ切ることは出來ん。了然はんの方から棄てなはるのは勝手や。こちらは焦がれ死にゝ死ぬまでも片思ひに思うて思ひ拔いて見せる。と斯(こ)んなこというてました。私(わし)お道好きや。私(わし)が了然やつたら坊主やめてしもてお道の亭主になつてやるのに。了然は思ひきりのわるい男や。ハヽヽヽヽ」

と小僧サンは重たい口で洒落たことをいふ。塔の影が見るうちに移る。お道はいつの間にか塔の影の外に在つて菜の花の蒸すやうな中に春の日を正面(まとも)に受けて居る。淚にぬれて居る顏が菜種の花の露よりも光つて美くしい。我等が塔を下りやうと彼の大佛の穴くゞりを再びもとへくゞり始めた時分には了然も纔(わづか)に半身(はんしん)に塔の影を止(とゞ)めて、半身にはお道の浴びて居る春光を同じく共に浴びてゐた。了然といふ坊主も美くしい坊主であつた。 

 

      下 

 

其夜(そのよ)晩酌に一二杯を過ごして毛布(けつと)をかぶつたまゝ机に凭れてとろとろとする。ふと目がさめて見るとうすら寒い。時計を見ると八時過ぎだ。二時間程もうたゝ寢をしたらしい。昨日に引きかへ今日は廣い宿ががらんとして居る。客は余一人ぎりと見える。靜(しづか)な夜だ。耳を澄ますと二處(ふたところ)程(ほど)で筬(をさ)の音(おと)がして居る。

一つの方はカタンカタンと冴えた筬(をさ)の音がする。一つの方はボツトンボツトンと沈んだ音がする。其二つの音がひつそりした淋しい夜を一層引き締めて物淋しく感ぜしめる。初め其筬(をさ)の音は遠い樣に思つたがよく聞くと余り遠くでは無い。初め其筬の音は遠い樣に思つたがよく聞くと餘り遠くでは無い。余は夢の名殘りを急須(きふす)の冷い茶で醒ましてぢつと其二つの音に耳をすます。

蛙(かはづ)の聲もする。はじめ氣がついた時は僅(わづか)に蛙の聲かと聞き分くる位(くらゐ)のひそみ音(ね)であつたが、筬(をさ)の音(おと)と張り競ふのか、あまたのひそみ音(ね)の中に一匹大きな蛙の聲がぐわアとする。あれが蛙(かはづ)の聲かなと不審さるゝ程の大きな聲だ。晝間も燈心草(とうしんぐさ)の田で啼いてゐたがあんな大きな聲のはゐなかつた。夜(よ)になつて特に高く聞こえるのかも知れぬ。一匹其大きなのが啼き出すと又一つ他(ほか)で大きなのが啼く。又一つ啼く。しまひには七八匹の大きな聲がぐわアぐわアと折角(せつかく)の夜(よ)の寂寥(せきれう)を攪(か)きみ亂すやうに鳴く。其(それ)でも蛙の聲だ。はじめひそみ音(ね)の中(うち)に突如として起こつた大きな聲を聞いた時は噪(さわ)がしいやうにも覺えたが、其が少し引き續いて耳に慣れると矢張り淋しいひそみ音(ね)の方は一層淋しい。氣の勢(せい)か筬(をさ)の音(おと)もどうやら此蛙(かはづ)の聲と競ひ氣味(ぎみ)に高まつて來る。カタンカタンといふ音は一層明瞭に冴えて來る。ボツトンボツトンといふ音は一層重々しく沈んで來る。

お髮サンが床を延べに來る。

 「旦那はん毛布(けつと)なんかおかぶりやして、寒むおまつか」

 「少しうたゝねをしたので寒い。それに今晩は馬鹿に靜かだねえ。お道さんは來ないのかい」

 「今晩は來やはりまへん。そら今筬(をさ)の音(おと)がしてますやろ、あれがお道はんだすがな」

 「さうかあれがお道さんか」

と余は又筬(をさ)の音に耳を澄ます。前の通り冴えた音と沈んだ音とが聞こえる。

 「二處(ふたところ)でしてゐるね。其(それ)に音が違ふぢやないか。お道さんの方はどちらだい」

 「そらあの音の高い冴え冴えした方な、あれがお道さんのだす」

 「どうしてあんなに違ふの。機(はた)が違ふの」

 「機は同じ事(こ)つたすけれど、筬が(をさ)違ひます。音のよろしいのを好く人は筬を別段に吟味しますのや」

余は再び耳を澄ます。今度は冴えた音(おと)の方にのみ耳を澄ます。カタンカタンと引き續いた音が時々チヨツと切れる事がある。糸でも切れたのを繫(つな)ぐのか、物思ふ手が一寸とまるのか。お髪サンは敷布團を二枚重ねて其上に上敷(うはし)きを延べながら、

 「戰爭の時分はナァ、一機(ひとはた)の織り賃を七十錢もとりやはりましてナア、へえ綳帶(ほうたい)にするのやさかい薄い程がよろしまんのや。其に早く織るものには御褒美を呉りやはつた。其時分は機(はた)もよろしうおましたけど、もう此頃はあきまへん。へーへあんたはん一機(ひとはた)二十五錢でナア、一機といふのは十反(たん)かゝつてるので、なんぼ早(はや)うても二日はかゝります」

お髮サンは聞かぬ事まで一人で喋舌(しやべ)る。突然筬(をさ)の音に交つて唄が聞こえる。

 『苦勞しとげた苦しい息が火吹竹(ひふきだけ)から洩れて出(で)る』

 「お道さんかい」

と聞くと、

 「さうだす。えゝ聲だすやろ」

とお髮サンがいふ。余は聲のよしあしよりもお道サンが其唄をうたふ時の心持(こころもち)を思ひやる。

 「あれでナア、筬(をさ)の音もよろしいし唄が上手(じやうず)やとナア、よつぽど草臥(くたぶ)れが違ひますといナ」

 「あんな唄をうたふのを見るとお道サンもなかなか苦勞してゐるね」

 「ありや旦那はん此邊(このへん)の流行唄(はやりうた)だすがナ、織子(おりこ)といふものはナア、男でも通るのを見るとすぐ惡口(わるくち)の唄をうたうたりナア、そやないと惚れたとかはれたとかいふ唄ばつかりだす」

俄(にはか)に男女(なんによ)の聲が聞こえる。

 「どこへ行きなはる」

 「高野(かうや)へお參り」

 「ハヽア高野へ御參詣か。夜(よ)さり行(い)きかけたらほんまにくせや」

 「お父つはんはもう寢なはつたか」

 「へー休みました」

高野へ參詣とは何の事かと聞いて見たら、

 「はゞかりへ行くことをナア、此邊ではおどけてあないにいひまんのや」

とお髮サンは笑つた。よく聞くと女の聲はお道サンの聲であつた。男の聲は誰(たれ)ともわからぬ。長屋つゞきの誰(たれ)かであるらしい。

筬(をさ)の音が一層高まつて又(また)唄が聞こえる。唄も調子もうきうきとして居る。

 『鴉啼(なく)迄寢た枕元(まくらもと)櫛(くし)の三日月落ちて居(ゐ)る』

お髮サンは床を延べてしまつて、机のあたりを片づけて、火鉢の灰をならして、もうラムプの火さへ小さくすればよいだけにして、

 「お休みやす。あまりお道サンの唄に聞きほれて風邪引かぬやうにおしなはれ」

と引下(ひきさが)る。

酒も醒めて目が冴える。筬(をさ)の音を見棄てゝ此儘寢てしまふのも惜しいやうな氣がする。晝間書きさして置いた報告書の稿(かう)をつぐ。ふと氣がつくといつの間にやら筆をとゞめて、きのふのお道サンの喋舌(しやべ)つた事や、今日(けふ)塔から見下ろした時の事やを囘想しつゝ筬(をさ)の音に耳を澄まして居る。又(また)唄が聞こえる。

 『大分(だいぶ)世帶(しよたい)に染(しゆ)んでるらしい目立つ鹿(か)の子(こ)の油垢(あぶらあか)』

調子は例によつてうきうきとして居るが、夜が更けた勢(せゐ)かどこやら身に入(し)むやうに覺える。これではならぬと更に稿をつぐ。

終(つひ)に暫くの間(あひだ)は筬(をさ)の音も耳に入(い)らぬやうになつて稿を終つた。今日で取調(とりしらべ)の件(けん)も終り、今夜で報告書も書き終つた。がつかりと俄(にはか)に草臥(くたび)れた樣に覺える。

火を小さくして寢衣(ねまき)になつて布團の中に足を踏み延ばす。筬(をさ)の音はまだ聞こえて居る。忘れてゐたが沈んだ方(はう)のもまだ聞こえて居る。

眠(ねむ)るのが惜しいやうな氣がしつゝうとうととする。ふと下で鳴る十二時の時計の音(おと)が耳に入(はひ)つたとき氣をつけて聞いて見たら、沈んだ方のはもう止んでゐたが、お道サンの筬(をさ)の音(おと)はまだ冴え冴えとして響いてゐた。

 

甲子夜話卷之一 33 人事を曉らざる者の事

33 人事を曉らざる者の事

人の事を曉らざるの甚しきに至るものあり。先年御成還御のとき、尾張町のあたりにて、御道筋を人止しければ、貴賤諸人皆止られて剋を移す間、溜り居たり。予もそのとき止られし中なりしが、やがて通御濟たり迚、かためを拂たれば、止られし人人わやわやと散り行く。其中に町人と覺しきもの、獨語に云よう、さても御威勢迚、誰叶べき者はなけれど、さすが還御には御かなひなされぬと見えて、かためを拂たりと云き。世には是ほど事を曉らぬものあるものと、珍らしきばかりに覺へき。

■やぶちゃんの呟き

「曉らざる」「さとらざる」。「通暁」という熟語があるように、「暁」には悟る・分かる・知るの意がある。

「先年御成還御」第十一代将軍徳川家斉のそれ。

「尾張町」現在の東京都中央区銀座五丁目と六丁目付近の旧地名。尾張藩がこの地を埋め立てたことに由来する。

「人止」「ひとどめ」。以下も「止(とめ)る」で訓じていよう。

「剋」「とき」。

「さても御威勢迚、誰叶べき者はなけれど、さすが還御には御かなひなされぬと見えて、かためを拂たり」――さても! よう! 天下の将軍さまのご威勢なればよ、誰(たれ)独りとして敵うはずの者(もん)はいねえはずだけんど、よ! さすがに! 還御さまにはお敵いなさらぬと見えて、ほぅれ! 警固を解いたぜぇ!――……しかし果たして、この男、本当に静山の言うような、救い難い馬鹿、落語に出て来る、足りない熊さん八さん、なんだろうか?……いや寧ろ、私は佯狂を装った粋な洒落のように思えてならないのだが? そうしてこの短い話柄を見ると、二百字ちょっとたった五文から構成されているこの文章の内、エピソードを挟む二文で「人の事を曉らざるの甚しきに至るものあり。」「世には是ほど事を曉らぬものあるものと、珍らしきばかりに覺へき。」と如何にも無駄な重語を成しているところや、「予もそのとき止られし中なりし」に静山自身が通行不能に迷惑している気持ちが仄かに窺われること、「止られし人人わやわやと散り行く」というオノマトペイアにやはり『やれやれ』という如何にもな人々の仕方ないというダルな気持ちが表現されている点など、寧ろ、権力を笠に着る者への諦めが窺えるように私には思えるのである(天下の将軍さまのお膝下の江戸っ子が、スローなあの頃に、そんなかぶいた言葉を吐く輩がいようはずもないと指弾する御仁は、これ、もう私のブログ自体をお読み戴かなくてよいと存ずる)……少なくとも、この時のこの街角には長い間(「剋」で最低二時間は通行止めを喰らったはずである)待たされた市井の人々の、嘲笑でない、すこぶる明るい哄笑が湧き起ったものと私は思うのである。……

譚海 卷之一 例幣使下向の事

 例幣使下向の事

○伊勢の例幣使下向す。毎年九月十五十六日の神事也。拜見の貴餞瑞籬(みづがき)の内外に充滿し山上山下にも群集す。長官(かみ)鑰(かぎ)を奉じて本社の御戸をひらく時、御戸のひらく響(ひびき)にあはせて參詣の諸人感聲を發す。山川も鳴(なり)わたる程也。内殿ちかく入(いれ)こまざれば、まのあたり拜見する事かたき故、奔走する人山のごとし。無禮を制せんとて人長杖(ちやうぢやう)をふりたて、忿怒(ふんぬ)の相をなして人をうつ。然れども血を出す事神事に忌む事なれば、怪我のなきやうにはかる故、重く人をうつ事なしとぞ。撫(なづ)るやうに打(うつ)事也。

[やぶちゃん注:ここまでの三条が伊勢神宮近辺をテーマとしており、次の一条も紀州で、ニュース・ソースが同一人物であった可能性が高いと思われる。

「伊勢の例幣使」伊勢例幣使。毎年九月(陰暦)に伊勢神宮の神嘗祭(かんなめさい:天皇がその年の新穀を伊勢神宮に奉る祭儀。十月に実施される。)に幣帛(へいはく:広義には神に奉献する供物の総称。布帛(ふはく)・衣服・紙・玉・酒・武器など種々ある。狭義には天皇・国家・地方官から神に奉献する供物を指し、ここはそれ。「みてぐら」「にぎて」「ぬさ」「幣物」などとも称する。)を奉納するために派遣された勅使。ウィキ奉幣(ほうべい/ほうへい)によると(下線やぶちゃん)、「奉幣」とは『天皇の命により神社・山陵などに幣帛を奉献することである。天皇が直接親拝して幣帛を奉ることもあるが、天皇の使い・勅使を派遣して奉幣せしめることが多く、この使いの者のことを奉幣使という』。『延喜式神名帳は奉幣を受けるべき神社を記載したものであり、ここには』総計で三千百三十二座もの対象がが記載されているという。『奉幣使には五位以上で、かつ、卜占により神意に叶った者が当たると決められていた。また、神社によって奉幣使が決まっている場合もあり、伊勢神宮には王氏(白川家)、宇佐神宮には和気氏、春日大社には藤原氏の者が遣わされる決まりであった。通常、奉幣使には宣命使が随行し、奉幣の後、宣命使が天皇の宣命を奏上した』が、『中世以降、伊勢神宮の神嘗祭に対する奉幣のことを特に例幣(れいへい)と呼ぶようになった。例幣に遣わされる奉幣使のことを例幣使』(日光例幣使の「例幣使」と区別して伊勢例幣使とも)という。『また、天皇の即位・大嘗祭・元服の儀の日程を伊勢神宮などに報告するための臨時の奉幣を由奉幣(よしのほうべい)という』とある。因みに、『第二次大戦後は、伊勢神宮などの勅祭社の例祭などに対する奉幣、および、山陵の式年祭に対する奉幣が行われている。この場合、掌典職の関係者が奉幣使となっている』とある。

「感聲」底本では「聲」の右に編者竹内利美氏による『(嘆)』という訂正注が附されてあるが、私はこれで問題ないと思う。]

2015/04/26

大和本草卷之十四 水蟲 介類 石決明 (アワビ)

 

石決明 海介ノ上品也亦蚫ト云肉モ殼モ目ヲ明ニス

弘景蘓恭ハ石決明ト鰒魚ヲ一物トス蘓頌ト時珍ハ

一種二類トスホンポウニ二品アル事ヲ聞ス但雌雄アリ

雄ハメクリノフチ高ク色黑クシテコハクアラシ其形長シ

雌貝ハフチヒキク白クヤハラカナリ其形マルシ雌貝ヲ爲

良生ナルヲ靜ニタヽキテ煮熟シ柔脆ナルヲ食フヘシ生

ナルト煮テコハキハ不益人

〇やぶちゃんの書き下し文

石決明(あはび) 海介の上品なり。亦、蚫と云ふ。肉も殼も目を明にす。弘景(こうけい)・蘓恭(そきよう)は石決明と鰒魚(あはび)を一物とす。蘓頌(そしよう)と時珍は一種二類とす。ほんぽうに二品ある事を聞かず。但し、雌雄あり。雄(を)は、めくりのふち、高く、色、黑くして、こはく、あらし。其の形、長し。雌(め)貝は、ふち、ひきく、白く、やはらかなり。其の形、まるし。雌貝を良と爲(す)。生なるを靜かにたゝきて、煮熟し、柔脆(じうぜい)なるを食ふべし。生なると、煮てこはきは、人に益あらず。

[やぶちゃん注:現行の和名「アワビ」自体が腹足綱原始腹足目ミミガイ科 Haliotidae のアワビ属 Haliotis の総称であるので、国産九種でも食用種のクロアワビ Haliotis discus discus ・メガイアワビ Haliotis gigantea ・マダカアワビ Haliotis madaka ・エゾアワビ Haliotis discus hannai (クロアワビの北方亜種であるが同一種説もあり)・トコブシHaliotis diversicolor aquatilis ・ミミガイ Haliotis asinina までを挙げておけば、とりあえずは包括出来よう。

「弘景」陶弘景(四五六年~五三六年)は六朝時代の道士で本草学者。道教茅山派開祖。漢方医学の基礎を築いた人物。前漢の頃に成立した中国最古の薬学書「神農本草経」を整序して五〇〇年頃に「本草経集注」を完成させた。この中で彼は薬物の数を七百三十種類と従来の二倍にし、薬物の性質などをもとに新たな分類法をも考案しており、この分類法は現在も使用されている(以上はウィキの「陶弘景」に拠った)。

「蘓恭」唐の高宗(六四九年~六八三年)の時代に編纂された「新修本草」(散逸)の編者の一人である蘇敬か。

「蘓頌」蘇頌(一〇二〇年~一一〇一年)は宋代の科学者にして博物学者。一〇六二年に刊行された勅撰本草書「図経本草」の作者で、儀象台という時計台兼天体観察装置を作ったことでも知られる。

「時珍」李時珍(一五一八年~一五九三年)は既出の一五九六年頃に完成した「本草綱目」の作者で明代を代表する医学者にして本草学者。主として医学的利用価値に立脚した本草学を確立した。

「雄は、めくりのふち、高く、色、黑くして、こはく、あらし。其の形、長し。雌貝は、ふち、ひきく、白く、やはらかなり。其の形、まるし」誤り。雌雄の判別は外見上ではまず不可能で、剖検して生殖腺の色で見分けられる(生殖腺が緑のものが♀・白っぽいものが♂)。ここに出るのは実際には「雄」とあるのがクロアワビ Haliotis discus discus 、「雌」とあるのがメガイアワビ Haliotis gigantea 或いはクロアワビの幼体や別な種と思われる。

「雌貝を良と爲」以上のように「雌」とあるのがメガイアワビ Haliotis gigantea であるが、現行では味の点でクロアワビに比べてやや劣るとされ、圧倒的にこちらの方が安価に取引される。本叙述を見ると、現在の堅い水貝の刺身が好まれるのに対し、軟らかい煮こんだものが好まれたと思しく、納得がいく。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十九章 一八八二年の日本 博物館 / 高嶺家での素敵なもてなし

 しばらく見物した上で、我々は往来を横切り、私の留守中に建てられた大きな二階建の建物へ行った。これは動物博物館なのである。帰国する前に行った私の最後の仕事は、二階建の建物の設計図を引くことであった。私の設計は徹底的に実現してある。私が最初につくった陳列箱と同じような新しい箱も沢山出来、そして大広間に入って、私の等身大の肖像が手際よく額に納められ、総理の肖像と相対した壁にかけてあるのを見た時、私は実にうれしく思ったことを告白せねばならぬ。私の大森貝墟に関する紀要に、陶器の絵を描いた画家が、小さな写真から等身大の肖像をつくったのであるが、確かによく似せて描いた。この博物館は私が考えていたものよりも、遙かによく出来上っていた。もっとも、すこし手伝えば、もっとよくなると思われる箇所も無いではないが――。

 

 その午後ドクタア・ビゲロウと私とは、小石川にある高嶺氏の家へ、晩餐に招かれた。宮岡氏と彼の兄さんの竹中氏とが、道案内として我々の所へ来た。家も庭園も純然たる日本風であった。但しオスウエゴ師範学校出身の高嶺氏は、西洋風をより便利なりとするので、一つの部屋だけには、寝台、高い机、卓子(テーブル)、椅子、その他が置いてあった。高嶺氏は、いろいろ興味ある事物の中の一つとして、矢場を持っていた。私も射て見たが、弓の右に矢をあてがって発射する方法が、我々のと非常に異うので、弓が至極扱いにくい。彼はまたクロケー場も持っていて、敬愛すべき老婦人たる彼の母堂と、高嶺の弟とがクロケーをやった。若い高嶺夫人は魅力に富み、非常に智的で、英語を自由にあやつる。

[やぶちゃん注:「高嶺」教育学者高嶺秀夫(安政元(一八五四)年~明治四三(一九一〇)年)。既注であるが再掲する。旧会津藩士。藩学日新館に学んで明治元(一八六八)年四月に藩主松平容保(かたもり)の近習役となったが九月には会津戦役を迎えてしまう。謹慎のために上京後、福地源一郎・沼間守一・箕作秋坪(みつくりしゅうへい)の塾で英学などを学び、同四年七月に慶応義塾に転学して英学を修めた(在学中に既に英学授業を担当している)。八年七月に文部省は師範学科取調のために三名の留学生を米国に派遣留学させることを決定、高嶺と伊沢修二(愛知師範学校長)・神津専三郎(同人社学生)が選ばれた。高嶺は一八七五年九月にニューヨーク州立オスウィーゴ師範学校に入学、一八七七年七月に卒業したが、この間に校長シェルドン・教頭クルージに学んでペスタロッチ主義教授法を修めつつ、ジョホノット(一八二三年~一八八八年:実生活にもとづく科学観に則る教授内容へ自然科学を導入した教育学者。)と交流を深め、コーネル大学のワイルダー教授(モースの師アガシーの弟子でモースの旧友でもあった)に動物学をも学んだ。偶然、このモースの再来日に同船して帰国、東京師範学校(現在の筑波大学)に赴任、その後、精力的に欧米最新の教育理論を本邦に導入して師範教育のモデルを創生した。その後、女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)教授や校長などを歴任した(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

「宮岡」前掲の宮岡恒次郎。

「竹中」既注であるが再掲すると、恒次郎の一つ上の実兄である竹中(八太郎)成憲(元治元(一八六四)年~大正一四(一九二五)年)は明治八(一八七五)年に慶応義塾に入り、次いで東京外国語学校学生を経て明治一三(一八八〇)年に東京大学医学部に進み、同二十年に卒業とともに軍医となるが、後に開業。モースやフェノロサの通訳を勤め、彼らの旅行にもしばしば同行した。

「クロケー」原文“croquet”。クロッケー。球技の一つで芝生の上に数個の鉄製の小門を並べ、その間をマレット(木槌)で木製の球を打って六箇所のフープ(門)を通過させ、最後に中央に立つペグ(杭)に当てる早さを競うもの。ゲートボールの原型。]

 

 六時頃、三人前の正餐が運び込まれた。婦人方や少年達はお給仕役をつとめるのである。それは純日本流な、この上もなく美味な正餐であり、そしてドクタア・ビゲロウがただちに、真実な嗜好を以て、出される料理を悉く平げたのは、面白く思われた。食事が終るに先立って、美しいコト(日本の竪琴(ハープ))が二面持ち込まれ、畳の上に置かれた。その一つは高嶺夫人に、他は東京に於て最も有名な弾琴家の一人であるところの、彼女の盲目の先生に属するのである。高嶺夫人は、彼女が巧妙な演奏者であることを啓示した。次に彼女は提琴(ヴァイオリン)を持って来た。盲目の先生は、弦を支える駒を、楽器のあちらこちらに上下させて、それが提琴と同じ音調になるようにし、彼の琴を西洋音楽の音階に整調した。高嶺夫人が提琴のような違った楽器で、本当の音を出すことが出来るとは信じられぬので、私は、どんな耳をぶち破るような演奏が始るのかと心ひそかに考えた。いよいよ始ると、私は吃驚した。彼女は大いなる力と正確さとを以て、「オウルド・ラング・サイン」、「ホーム・スイート・ホーム」、「グロリアス・アポロ」を弾奏し、盲人の先生はまるでハープでするような、こみ入った伴奏を、琴で弾いた。高嶺夫人は曲譜なしで演奏し、盲目の琴弾琴家は、いう迄もないが、曲譜なぞは見ることも出来ぬのである。音楽は勿論簡単なものであるが、私を驚かせたのは、その演奏に於る完全な調和音である。彼女はたった四十七日間しか弾琴を習っていない。私は、外国の、全然相違した楽器を弾いた高嶺夫人と、彼の楽器を変えて、彼にとってはまったく異物であるところの音調と音階とで、かかる複雑な演奏を行った弾琴家と、そのいずれに感心すべきか知らなかった。我々は、非常に遅くまで同家にいた。この経験は実に楽しかった。

[やぶちゃん注:「オウルド・ラング・サイン」“Auld Lang Syne”。スコットランド民謡で非公式な準国歌である邦訳「蛍の光」。原題は「久しき昔」。作者不詳。

「ホーム・スイート・ホーム」“Home, Sweet Home”。言わずもがな、イングランド民謡で邦題「埴生の宿」。イギリスのヘンリー・ローリー・ビショップ (Henry Rowley Bishop 一七八六年~一八五五年)の 作曲。

「グロリアス・アポロ」“Glorious Apollo”は私は聴いた記憶も名前も知らない曲である。「HGC and KGC alumni singing Glorious Apolloでお聴きあれ。イギリスのサミュエル・ウェブ(Samuel Webbe  一七四〇年~ 一八一六年)の作曲であるが、讃美歌のような感じだ。ところが何と、この曲、後に「小学唱歌集」の「君が代」(現在のそれとは異なる廃曲版であるが歌詞は同じ)の原曲となった。

 以下の段との間には、有意な一行空けが施されてある。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十九章 一八八二年の日本 懐かしい人々との再会

 二年前に別れた可愛らしい少年宮岡が、今夜私を訪れたが、私には一寸誰だか判らなかった位であった。彼は西洋風の服装をなし、立派な大人になっていた。英語もすこし忘れ、まごつくと吃った。翌朝博物館へ行って見ると、加藤総理の部屋に数名の日本人教授が私を待っていてくれた。菊池、箕作(みつくり)、矢田部、外山の諸教授と、服部副総理がそれである。間もなくドクタア加藤も来た。若し握手のあたたかさや、心からなる声音が何物かを語るものとすれば、彼等は明らかに、私が彼等に会って悦しいと同程度に、私に会うことを悦んだ。九谷焼の茶碗に入った最上のお茶と、飛切上等の葉巻とが一同にくばられ、我々はしばらくお互に経験談を取りかわして、愉快な時をすごした。事務員は皆丁寧にお辞儀をし、使丁達は嬉し気に微笑で私を迎え、私は私が忘れられて了わなかったのだということを感じた。動物学教授の箕作教授と一緒に、私は古い実験室へ入った。昔の私の小使「松」は、相好を崩してよろこんだ。石川氏は一生懸命に繊美な絵を描きつつあった。以前の助手種田氏もそこに居合わせ、すこし年取って見えたが、依然として職務に忠実である。彼は博物館の取締をし、松は今や俸給も増加して、大学の役員の一人になっている。

[やぶちゃん注:「今夜」日本到着の翌日である明治一五(一八八二)年六月五日の夜。加賀屋敷を訪問したその夜である。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、『東大の人々はモースとビゲローを歓迎し、在日中の宿舎として、本郷加賀屋敷にあった天象台(天文台)付属官舎の二室を無償で提供した。かつてモースが住んだ教師館五番館よりやや北にあった建物で、もともとは「観象台」と呼ばれていたが、明治十五年二月に気象台が分離し、この建物は「天象台」と改名されたのである』とあるから、「小宮岡」との再会はここでのここであろう。それ以降は翌六月六日の東京大学法文理三学部訪問のシークエンスである。

「宮岡」当時、満十七歳になっていた宮岡恒次郎(慶応元(一八六五)年~昭和一八(一九四三)年)。既注であるが再掲する。モースの冑山周辺横穴(現在の埼玉県比企郡吉見町にある吉見百穴)の調査に随行し、当地での講演で通訳を勤めている。これは川越原人氏のサイト「川越雑記帳」内の「モースと山田衛居」の「図説埼玉県の歴史」(小野文雄責任編集河出書房新社一九九二年刊)からの「外国人の見た明治初年の埼玉」の「モースの失言―熊谷・川越」という引用を参照されたい。そこには同行者にこの恒次郎の兄竹中成憲がいたとあり、この竹中成憲(当時は東京外国語学校学生であったと思われ、後に東大医学部に進み軍医となった)はこの弟恒次郎とともにモースや彼が日本への招聘に尽力したフェノロサの通訳や旅にも同行した人物である。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば後、フェノロサの美術収集旅行の通訳として同行、彼にとって欠かせない存在となったとあり、明治二〇(一八八七)年東京帝国大学法学部を卒業して外交官となり、後に弁護士となったと記す。また、床間彼方氏のブログ「青二才赤面録」の「宮岡恒次郎・その1」によれば、『明治16年、18才の恒次郎は李氏朝鮮の遣米使節団に顧問として加わっていたロウエルの要請により、同使節団の非公式随員となっている』ともあり、恒次郎のお孫さんによれば、実は本人曰く、『7才で蒸気船の石炭貯蔵室に隠れてアメリカに密航したと語っていたと』のこと。なかなか面白い。

「加藤総理」既注であるが再掲する(以下の何名かも同じ)。政治学者・官僚加藤弘之(天保七(一八三六)年~大正五(一九一六)年)。明治一〇(一八七七)年に東京大学法文理三学部綜理となった。啓蒙思想家であったが晩年は国家主義に転向した。明治三九(一九〇六)年には枢密顧問官となった。過去二回、モースが直接に契約を結んだ東京大学の代表者。

「菊池」菊池大麓(だいろく 安政二(一八五五)年~大正六(一九一七)年)は数学者・教育行政家。男爵・当時、東京大学理学部教授(純正及び応用数学担当)。江戸の津山藩邸に箕作阮甫(みつくりげんぽ)の養子秋坪(しゅうへい)の次男として生まれたが、後に父の本来の実家であった菊池家を継いだ。二度に亙ってイギリスに留学、ケンブリッジ大学で数学・物理を学んで東京大学創設一ヶ月後の明治一〇(一八七七)年五月に帰国、直ちに同理学部教授。本邦初の教授職第一陣の一人となった。後の明治二六年からは初代の数学第一講座(幾何学方面)を担任し、文部行政面では専門学務局長・文部次官・大臣と昇って、東京・京都両帝国大学総長をも務めた。初期議会からの勅選貴族院議員でもあり、晩年は枢密顧問官として学制改革を注視し、日本の中等教育に於ける幾何学の教科書の基準となった「初等幾何学教科書」の出版や教育勅語の英訳に取り組んだ。(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。動物学者箕作佳吉は弟で、大麓の長女多美子は天皇機関説で知られる憲法学者美濃部達吉と結婚、その子で元東京都知事美濃部亮吉は孫に当たる。

「箕作」箕作麟祥(みつくり りんしょう/あきよし 弘化三(一八四六)年~明治三〇(一八九七)年)は官僚で法学者・教育者・啓蒙思想家。祖父は前注の菊池大麓に出る蘭学者箕作阮甫で、父省吾は阮甫の婿養子、母しん(後に彼女は箕作秋坪の後妻となった。この辺りの婚姻関係は姻族と養子間で入り組んでいるので注意)は阮甫の四女だが、父省吾が若くして亡くなったので祖父・阮甫に育てられた。阮甫の死後、箕作家の家督を相続した。藤森天山・安積艮斎に漢学を、家で蘭学・英語を学び、文久元(一八六一)年に蕃書調所英学教授手伝並(てつだいなみ:その後の東京大学の前身「開成所」などにも受け継がれる役職階級の一つ。階層は教授―教授見習―教授手伝―教授手伝並の順。)となる。慶応三(一八六七)年には徳川昭武のパリ博覧会行に随行、帰国後は明治政府に入って西洋法律書の翻訳、旧民法等諸法典編纂などを通じて近代法制度の整備に貢献した。この間、東京学士院会員・元老院議官・貴族院議員・和仏法律学校(現在の法政大学)校長・行政裁判所長官などを歴任、また、明治初期には中江兆民・大井憲太郎等が学んだ家塾を開き、明六社にも参加している。長女貞子は動物学者石川千代松に、三女操子は物理学者長岡半太郎に、異父妹である直子は人類学者坪井正五郎にそれぞれ嫁いでいる。前注の菊池大麓、動物学者箕作佳吉、医学者の呉秀三は孰れも麟祥の従弟に当たる(以上は国立国会図書館の「近代日本人の肖像」の記載ウィキの「箕作麟祥」をカップリングした)。

「矢田部」本作では最も登場回数が多い東京大学初代植物学教授矢田部良吉(嘉永四(一八五一)年~明治三二(一八九九)年)。詩人としてこのまさに明治一五(一八八二)年の刊の近代詩のルーツ「新体詩抄」の詩人としても知られ、東京植物学会の創立者でもあったが、惜しくも鎌倉の沖で遊泳中に溺死した。享年四十九歳。

「外山」東京大学文学部教授外山正一(とやままさかず 嘉永元(一八四八)年~(明治三三(一九〇〇)年)。矢田部とともに「新体詩抄」の詩人としても知られる。後に東京帝大文科大学長(現在の東京大学文学部長)を経て、同総長・貴族院議員・第三次伊藤博文内閣文部大臣などを歴任した。

「服部副総理」服部一三(はっとりいちぞう 嘉永四(一八五一)年~昭和四(一九二九)年)は文部官僚・政治家。当時、浜尾新とともに法理文三学部綜理補であった(予備門主幹を兼任)。後に貴族院議員。これら加藤・浜尾・服部の三名が東京大学法理文三学部の最終決定権を掌握していた。

「動物学の箕作教授」わざわざモースが「動物学の」と冠しているのに注意。先の「箕作」麟祥ではなく、その弟で日本動物学会の創立者である箕作佳吉(みつくりかきち 安政四(一八五八)年~明治四二(一九〇九)年)である。津山藩医箕作秋坪の三男として江戸津山藩邸で生まれ、明治三(一八七〇)年に慶應義塾に入学、明治五(一八七二)年に大学南校(明治初期の政府所轄の洋学の大学校。慶応四(一八六八)年に江戸幕府の洋学校開成所を維新政府が接収して開成学校の名で復興。明治二 (一八六九) 年に同校と旧幕府昌平黌及び医学所を継承・合併して大学校としていた)に学んだのち、明治六(一八七三)年に渡米、ハートフォード中学からレンセラー工科大学で土木工学を学び、後にエール大学・ジョンズ・ホプキンス大学に転じて動物学を学んで、その後さらに英国に留学した。帰国後、東京帝国大学理科大学で日本人として最初の動物学の教授となり、明治二一(一八八八)年に理学博士、その後、東京帝国大学理科大学長を務めた。動物分類学・動物発生学を専攻とし、カキ養殖や真珠養殖に助言するなど、水産事業にも貢献した。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、『東大動物学教室では、モースの後任だったホイットマンが前年八月に退職して、十月十五日に日本を去り、その暮に欧米留学から帰国した箕作住吉が教室の中枢になっていた。モースはホイットマンの後任人事をすでに明治十三年(一八八〇)の春に東大首脳から依頼されていたらしく、その頃ジョンス・ホプキンス大学のブルックス教授(ペニキース島臨海実習会の会員だった)のもとで動物学を学んでいた箕作に東大教授就任を勧めたことがあった。このとき実作はモースの勧めを一応断ったのだが、結局東大側は実作を説得して帰国させたのであった』とあるから、実はモースは箕作佳吉とは旧知の仲であったのである。

『小使い「松」』雑用係の菊池松太郎(正式職名は「雇」)である。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の記載によれば、本書の他の箇所では「小使」「従者」「マツ」(ここで初めて“Matsu”と出るものと思う)と記されている人で、『前歴は皆目不明。またいつ動物学教室に来たかもわからない。モースの旅行には種田とともに従い、モースを助けた。器用なひとだったらしく、標本作成に熟練して重宝がられ、明治二十七年まで動物学教室にいた。その後、敬業社という博物学関係書の出版社にあった標本部に移ったが』、『以後の足取りはわからない』とある。ここでのモースの謂いからみると、この時は正式職員としての「雇」であったが、かつてモースが正規職員だった頃は実は、体のいい使用人扱いだったことが窺われる。マッサン! ガンバレ!

「石川」実は底本は「石田」となっている。こんな人物は知らないな、「石川」、石川千代松の誤りじゃないか? と不審に思って原文を見たら、ズバリ!“Mr. Ishikawa”となっていることが分かった。例外的に本文を補正した。当時、東京大学動物学科四年であった石川千代松(ちよまつ 万延元(一八六〇)年~昭和一〇(一九三五)年)である。石川は日本の動物学者で進化論学者で、明治四二(一九〇九)年に滋賀県水産試験場の池で琵琶湖のコアユの飼育に成功し、全国の河川に放流する道を開いた業績で知られる。以下、ウィキの「石川千代松によれば、『旗本石川潮叟の次男として、江戸本所亀沢町(現在の墨田区内)に生まれた』が明治元(一八六八)年の『徳川幕府の瓦解により駿府へ移った』。明治五年に『東京へ戻り、進文学社で英語を修め』、『東京開成学校へ入学した。担任のフェントン(Montague Arthur Fenton)の感化で蝶の採集を始めた』。明治一〇(一八七七)年十月には当時、東京大学教授であったモースが、蝶の標本を見に来宅したことは本作にも既に出ているから(「第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 49 教え子の昆虫少年を訪ねる」)、モースにとってはこの青年も旧知の仲であったのである。翌明治十一年、『東京大学理学部へ進んだ。モースが帰米したあとの教授は、チャールズ・オーティス・ホイットマン、次いで箕作佳吉であった。明治一五(一八八二)年、動物学科を卒業して翌年には同教室の助教授となっているとあるので、モースが逢った時はまだ「教授」でも「助教授」でもなかったものと思われる。その年、明治一二(一八七九)当時のモースの講義を筆記した「動物進化論」を出版しており、進化論を初めて体系的に日本語で紹介した人物としても明記されねばならぬ人物である。その後、在官のまま、明治一八(一八八五)年、新ダーウィン説のフライブルク大学アウグスト・ヴァイスマンのもとに留学、『無脊椎動物の生殖・発生などを研究』、明治二二(一八八九)年に帰国、翌年に帝国大学農科大学教授、明治三四(一九〇一)年に理学博士となった。『研究は、日本のミジンコ(鰓脚綱)の分類、琵琶湖の魚類・ウナギ・吸管虫・ヴォルヴォックスの調査、ヤコウチュウ・オオサンショウウオ・クジラなどの生殖・発生、ホタルイカの発光機構などにわたり、英文・独文の論文も』五十篇に上る。『さかのぼって、ドイツ留学から帰国した』明治二十二年の秋には、『帝国博物館学芸委員を兼務』以降、『天産部長、動物園監督になり、各国と動物を交換して飼育種目を増やした。ジラフを輸入したあと』、明治二八(一九〇七)年春に辞した。「麒麟(キリン)」の和名の名付け親であるとされる。

「種田」種田織三(安政三(一八五六)年~大正三(一九一四)年)舘(たて)藩(明治二(一八六九)年北海道檜山郡厚沢部(アッサブ)に新設)の出身で、諸藩から推挙された貢進生の一人として明治三年に大学南校に入り、九年に東京開成学校予科を出た。理由は不明であるが、種田は本科には進まず、モースの助手となった人物で、モース在任中は動物学教室の標本の採集や整理に従事、モースの北海道・東北旅行及び九州・関西旅行にも同行、謂わば、モースの右腕的存在であった。やがて、モース帰国直後に完成した博物場の管理を受け持つ博物場取調方となった(この当時もそうであった)。ところが明治十八年九月に東大を去り、その後は東京商業学校・山形県中学校・山形県師範学校などで教えていたらしいが、後の消息は不明である(以上は磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」に拠った)。]

甲子夜話卷之一 32 加藤淸正石垣の上手なる事

32 加藤淸正石垣の上手なる事

加藤淸正は石垣の上手なりしとぞ。今肥後隈本城の石垣はもとより高きが、其下に至り走り上るに、二三間は自由に上らるれど、それうへの所は頭の上にのぞきかゝりて、空は見えずとなり。傳云ふ、淸正の自ら築く所と。是は隈本に往たる者の話なり。

■やぶちゃんの呟き

 ウィキ熊本城によれば、『清正は特に石垣造りを得意とし、熊本城では、始め緩やかな勾配のものが上部に行くにしたがって垂直に近くなる「武者返し」と呼ばれる形状の石垣を多用している。熊本城で使用されている武者返しは慶長の役の際に朝鮮に築かれ、難攻不落と呼ばれた蔚山倭城(うるさんわじょう)に使用した築城技術を元にしたものである。上益城郡山都町(旧・矢部町)にある通潤橋は、江戸時代末期にこの熊本城の武者返しの石垣をモデルに架けられた。江戸幕府の仮想敵であった薩摩藩に対する備えとして建造されているため、南側が非常に堅固(その分北側がかなり手薄)な構造になっている。この構造が西南戦争で薩摩軍の包囲戦をしのぐことができた要因の一つとなっている。熊本市役所前の石垣は、長さとしては日本最長である』とある。熊本城公式サイト内の熊本城石垣」によると、荻生徂徠が享保一二(一七二七)年の著書「鈐禄(けんろく)」の中に『石垣ハ加藤淸正ノ一流アリ。彼家ノ士ニ飯田覺兵衞。三宅角左衞門ヲ兩カクトシテ石垣ノ名人ト云シモノナリ。石垣ヲ築クニハ、幕ヲ張テ、一円ニ外人ニ見セズト云。今ハ町人ノワザトナリ、武士ハ皆其術ヲ不知。淸正ノ築ケルハ大坂・尾州・肥後ノ熊本ナリ』と引いてある。

「隈本」熊本。

「二三間」約二・四~五・四メートル。

「往たる」「ゆきたる」。

譚海 卷之一 内外遷宮材木の事

○内外宮御遷宮造營の材木は木曾山より伐出(きりいだ)す也。日々筏に組(くみ)桑名より海をへて宮川に着(つく)事也。又所々山中の杣(そま)より奉納の材木とて伐流(きりなが)す。自然に漂着して浦々に至れども、丸の内に大の字の燒印をせし材木なれば、奉納の木とて海邊の民突流(つきなが)しやる。夫(それ)ゆへ終には勢州へ至る事也。扨修造の事纔(わづか)なるくさび壹つも材木壹本にて取用(とりもち)ひ、其餘は外に用ゆる事なければ、造立(ざふりふ)の後おびたゞしき殘木有(ある)事なり。此殘木みな神官の德分に成(なり)て工人へ賣(うり)やる。これにて雜器わりご樣(やう)の物飯櫃のたぐひまで作りひさぐ、されば勢州より出す器物、杢目(もくめ)すぐれたるは此謂)いは)れ也。みな山田といふ燒印あり。

[やぶちゃん注:この伊勢神宮式年遷宮用の木を調達する森林は現在も長野県木曽郡と岐阜県中津川市の阿寺山地にある。かつては「神宮備林」と呼ばれたが今は国有林の一部の扱いである。以下、ウィキ「神宮備林によれば、『長野県木曽郡上松町、王滝村、大桑村、と岐阜県中津川市の加子母・付知町などにまたがり』、約八千ヘクタールの広さを持つ。『現在は国有林の一部であり、林野庁中部森林管理局が管理、運営している。ここのヒノキは慣例により、式年遷宮用に優先的にまわされる』。『継続的に用材が供給できるように』、樹齢二百年から三百年の『用材の安定提供が可能なように計画的に植林された。神宮備林でなくなった現在も、その手法で運営されている』。伊勢神宮で二十年毎に行なわれる『式年遷宮は、大量のヒノキが必要である。その用材を伐りだす山(御杣山・みそまやま)は』、第三十四回式年遷宮までは三回ほど『周辺地域に移動したことはあるものの、すべて神路山、高倉山という内宮・外宮背後の山(神宮林)であった』。しかし、一回の遷宮で使用されるヒノキは一万本以上になり、『神宮林のヒノキでは不足しだす。その為、内宮用材は』第三十五回式年遷宮から三河国に、外宮用材は第三十六回式年遷宮から美濃国に移り、第四十一回式年遷宮から第四十六回式年遷宮までは、伊勢国大杉谷に移った。『しかしながら、原木の枯渇による伐り出しの困難さから』、宝永六(一七〇九)年の第四十七回式年遷宮から、『尾張藩の領地である木曽谷、裏木曽に御杣山は移動する。この地域は尾張藩により木材(木曽五木)が保護され、許可の無い伐採が禁じられていた』。『正式に指定、伐採が始まったのは』、寛政一〇(一七九八)年の伊勢神宮による御杣山指定からで、『現在でも式年遷宮用の用材は、この旧神宮備林から調達されている』。とある。「譚海」の成立は寛政七(一七九五)年自序であるからまさに正式に決定される直前であったことが分かる。謂わばこれはそうした公的認知への事前アッピールの性格を以って読まれたとも考えてよいであろう。]

堀辰雄 十月  正字正仮名版 附やぶちゃん注(Ⅹ)

 

十月二十四日、夕方  

 きのふ、あれから法隆寺へいつて、一時間ばかり壁畫を模寫してゐる畫家たちの仕事を見せて貰ひながら過ごした。これまでにも何度かこの壁畫を見にきたが、いつも金堂のなかが暗い上に、もう何處もかも痛ゐたしいほど剝落してゐるので、殆ど何も分からず、ただ「かべのゑのほとけのくにもあれにけるかも」などといふ歌がおのづから口ずさまれてくるばかりだつた。――それがこんど、金堂の中にはひつてみると、それぞれの足場の上で仕事をしてゐる十人ばかりの畫家たちの背ごしに、四方の壁に四佛淨土を描ゐた壁畫の隅々までが螢光燈のあかるい光のなかに鮮やかに浮かび上がつてゐる。それが一層そのひどい剝落のあとをまざまざと見せてはゐるが、そこに浮かび出てきた色調の美しいといつたらない。畫面全體にほのかに漂つてゐる透明な空色が、どの佛たちのまはりにも、なんともいへず愉しげな雰圍氣をかもし出してゐる。さうしてその佛たちのお貌(かほ)だの、寶冠だの、天衣だのは、まだところどころの陰などに、目のさめるほど鮮やかな紅だの、綠だの、黃だの、紫だのを殘してゐる。西域あたりの畫風らしい天衣などの綠いろの凹凸のぐあひも言ひしれず美しい。東の隅の小壁に描かれた菩薩の、手にしてゐる蓮華に見入つてゐると、それがなんだか薔薇の花かなんぞのやうな、幻覺さへおこつて來さうになるほどだ。

 僕は模寫の仕事の邪魔をしないやうに、できるだけ小さくなつて四壁の繪を一つ一つ見てまはつてゐたが、とうとうしまひに僕もSさんの櫓の上にあがりこんで、いま描いてゐる部分をちかぢかと見せて貰つた。そこなどは色もすつかり剝げてゐる上、大きな龜裂が稻妻形にできてゐる部分で、さういふところもそつくりその儘に模寫してゐるのだ。なにしろ、こんな狹苦しい櫓の上で、繪道具のいつぱい散らばつた中に、身じろぎもならず坐つたぎり、一日ぢゆう仕事をして、一寸平方位の模寫しかできないさうだ。どうかすると何んにもない傷痕ばかりを描いてゐるうちに一と月ぐらゐはいつのまにか立つてしまふこともあるといふ。――そんな話を僕にしながら、その間も絕えずSさんは繪筆を動かしてゐる。僕はSさんの仕事の邪魔をするのを怖れ、お禮をいつて、ひとりで櫓を下りてゆきながら、いまにも此の世から消えてゆかうとしてゐる古代の痕をかうやつて必死になつてその儘に殘さうとしてゐる人たちの仕事に切ないほどの感動をおぼえた。……

 それから金堂を出て、新しくできた寶藏の方へゆく途中、子規の茶屋の前で、僕はおもひがけず詩人のH君にひよつくりと出逢つた。ずつと新藥師寺に泊つてゐたが、あす歸京するのださうだ。さうして僕がホテルにゐるといふことをきいて、その朝訪ねてくれたが、もう出かけたあとだつたので、こちらに僕も來てゐるとは知らずに、ひとりで法隆寺へやつて來た由。――そこで子規の茶屋に立ちより、柿など食べながらしばらく話しあひ、それから一しよに寶藏を見にゆくことにした。

 僕の一番好きな百濟觀音は、中央の、小ぢんまりとした明かるい一室に、ただ一體だけ安置せられてゐる。こんどはひどく優遇されたものである。が、そんなことにも無關心さうに、この美しい像は相變らずあどけなく頰笑まれながら、靜かにお立ちになつてゐられる。……

 しかしながら、此のうら若い少女の細つそりとしたすがたをなすつてゐられる菩薩像は、おもへば、ずいぶん數奇(すき)なる運命をもたれたもうたものだ。――「百濟觀音」といふお名稱も、いつ、誰がとなへだしたものやら。が、それの示すごとく古朝鮮などから將來せられたといふ傳說もそのまま素直に信じたいほど、すべてが遠くからきたものの異常さで、そのうつとりと下脹(しもぶく)れした頰のあたりや、胸のまへで何をさうして持つてゐたのだかも忘れてしまつてゐるやうな手つきの神々しいほどのうつつなさ。もう一方の手の先きで、ちよいと輕くつまんでゐるきりの水瓶などはいまにも取り落しはすまいかとおもはれる。

 この像はさういふ異國のものであるといふばかりではない。この寺にかうして漸つと落ちつくようになつたのは中古の頃で、それまでは末寺の橘寺あたりにあつたのが、その寺が荒廢した後、此處に移されてきたのだらうといはれてゐる。その前はどこにあつたのか、それはだれにも分からないらしい。ともかくも、流離といふものを彼女たちの哀しい運命としなければならなかつた、古代の氣だかくも美しい女たちのやうに、此の像も、その女身の美しさのゆゑに、國から國へ、寺から寺へとさすらはれたかと想像すると、この像のまだうら若い少女のやうな魅力もその底に一種の犯し難い品を帶びてくる。……そんな想像にふけりながら、僕はいつまでも一人でその像をためつすがめつして見てゐた。どうかすると、ときどき搖らいでゐる瓔珞(やうらく)のかげのせゐか、その口もとの無心さうな頰笑みが、いま、そこに漂つたばかりかのやうに見えたりすることもある。さういふ工合なども僕にはなかなかありがたかつた。……

 それから次ぎの室で伎樂面などを見ながら待つてゐてくれたH君に追ひついて、一しよに寶藏を出て、夢殿(ゆめどの)のそばを通りすぎ、その南門のまへにある、大黑屋といふ、古い宿屋に往つて、晝食をともにした。

 その宿の見はらしのいい中二階になつた部屋で、田舍らしい鳥料理など食べながら、新藥師寺での暮らしぶりなどをきいて、僕も少々うらやましくなつた。が、もうすこし人竝みのからだにしてからでなくては、さういふ精進三昧はつづけられさうもない。それからH君はこちらに滯在中に、ちか頃になく詩がたくさん書けたといつて、いよいよ僕をうらやましがらせた。

 四時ごろ、一足さきに歸るといふH君を郡山(こほりやま)行きのバスのところまで見送り、それから僕は漸つとひとりになつた。が、もう小說を考へるやうな氣分にもなれず、日の暮れるまで、ぼんやりと斑鳩(いかるが)の里をぶらついてゐた。

 しかし、夢殿の門のまへの、古い宿屋はなかなか哀れ深かつた。これが虛子の「斑鳩(いかるが)物語」に出てくる宿屋。なにしろ、それはもう三十何年かまへの話らしいが、いまでもそのときとおなじ構へのやうだ。もう半分家が傾いてしまつてゐて、中二階の廊下など步くのもあぶない位になつてゐる。しかしその廊下に立つと、見はらしはいまでも惡くない。大和の平野が手にとるやうに見える。向うのこんもりした森が三輪山あたりらしい。菜の花がいちめんに咲いて、あちこちに立つてゐる梨の木も花ざかりといつた春さきなどは、さぞ綺麗だらう。と、何んといふことなしに、そんな春さきの頃の、一と昔まえのいかるがの里の若い娘のことを描ゐた物語の書き出しのところなどが、いい氣もちになつて思ひ出されてくる。――しかし、いまはもうこの里も、この宿屋も、こんなにすつかり荒れてしまつてゐる。夜になつたつて、筬(をさ)を打つ音で旅びとの心を慰めてくれるやうな若い娘などひとりもゐまい。だが、きいてみると、ずつと一人きりでこの宿屋に泊り込んで、毎日、壁畫の模寫にかよつてゐる畫家がゐるさうだ。それをきいて、僕もちよつと心を動かされた。一週間ばかりこの宿屋で暮らして、僕も仕事をしてみたら、もうすこしぴんとした氣もちで仕事ができるかも知れない。

 どのみち、けふは夢殿(ゆめどの)や中宮寺(ちゆうぐうじ)なんぞも見損つたから、またあすかあさつて、もう一遍出なほして來よう。そのときまでに決心がついたら、ホテルなんぞはもう引き拂つて來てもいい。……

 そんな工合で、結局、なんにも構想をまとめずに、暗くなつてからホテルに歸つてくると、僕は、夜おそくまで机に向つて最後の努力を試みてみたが、それも空しかつた。さうして一時ちかくなつてから、半分泣き顏をしながら、寢床にはひつた。が、晝間あれだけ氣もちよげに步いてくるせゐか、よく眠れるので、愛想がつきる位だ。――

 けさはすこし寢坊をして八時起床。しかし、お晝もけふはホテルでして、一日ぢゆう新らしいものに取りかかつてゐた。――こなひだ折口博士の論文のなかでもつて綺麗だなあとおもつた葛(くず)の葉(は)といふ狐の話。あれをよんでから、もつといろんな狐の話をよみたくなつて、靈異記(りやういき)や今昔物語などを搜して買つてきてあつたが、けさ起きしなにその本を手にとつてみてゐるうちに、そんな狐の話ではないが、そのなかの或る物語がふいと僕の目にとまつた。

 それは一人のふしあはせな女の物語。――自分を與へ與へしてゐるうちにいつしか自分を神にしてゐたやうなクロオデル好みの聖女とは反對に、自分を與へれば與へるほどいよいよはかない境涯に墮ちてゆかなければならなかつた一人の女の、世にもさみしい身の上話。――さういふ物語の女を見いだすと、僕はなんだか急に身のしまるやうな氣もちになつた。これならば幸先きがよい。さういふ中世のなんでもない女を描くのなら、僕も無理に背のびをしなくともいいだらう。こんやもう一晩、この物語をとつくりと考へてみる。

 ジャケット屆いた。本當にいいものを送つてくれた。けさなどすこうし寒かつたので、一枚ぐらいジャケットを用意してくればよかつたとおもつてゐたところだ。こんやから早速著てやらう。

 

[やぶちゃん注:「子規の茶屋」子規の知られた「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」は「法隆寺の茶店に憩ひて」という前書を持つが、その茶店が聖霊院前の池の側にあったもので、子規の句に因んで「柿茶屋」と呼称された。但し、この茶屋は大正三(一九一四)年秋に取り壊されているので(青龍氏のブログ「大和&伊勢志摩散歩」の法隆寺 子規の句碑(1)に拠る)、辰雄が入ったのはこの実際の「柿茶屋」ではないので注意。

「誌人のH君」不詳。識者の御教授を乞う。

「百濟觀音」広隆寺蔵弥勒菩薩像とともに、飛鳥時代を代表する仏像とされる国宝「観世音菩薩立像」の俗称。基本は樟(くすのき)製一木造の着彩であるが、両腕の肘から先と水瓶・天衣などは別材を継いである。高さ二・〇九メートルの八頭身、扁平で細く直立の左右均整。光背は木造で、その文様は飛鳥時代のものに似ているものの、それを支える支柱は竹竿を模して造られており、これは極めて珍しいものである。宝冠は線彫の銅版製、三個の青いガラス玉で飾られてある。以下、法隆寺国宝美術という頁から引用する。『独特の体躯の造形を有し、杏仁形(アーモンド形)の目や古式な微笑みをたたえる表情は神秘的であり、多数の随筆等によって紹介されるなど、我が国の国宝を代表する仏像の一つです』。『本来、百済観音は、虚空像菩薩として伝わっていました。虚空とは、宇宙を意味し虚空菩薩は宇宙を蔵にするほど富をもたらす仏様ということなのです』。『その宇宙の姿を人の形に表したのが百済観音だというわけです』。『もともと、この像は金堂の壇上で、釈迦三尊像の後ろに北向きに安置されていたもので、今は新築された百済観音堂に安置されていますが、この像の伝来は謎に包まれています。法隆寺の最も重要な古記録である』天平一九(七四七)年の『「法隆寺資財帳」などにも記載がなく、いつ法隆寺に入ったのかわかっていません』。元禄一一(一六九八)年の『「諸堂仏躰数量記」の金堂の条に「虛空藏立像、七尺五分」と、初めてこの像についてと思われる記事があらわれ、江戸時代』、延享三(一七四六)年に『良訓が記した「古今一陽集」に「虛空藏菩薩、御七尺餘、此ノ尊像ノ起因、古記ニモレタリ。古老ノ傳ニ異朝將來ノ像ト謂フ。其ノ所以ヲ知ラザル也」と記されているといいます』(原サイトの引用部の表記を正字正仮名に変更させて貰った)。『明治になって、それまで象と別に保存されていた、頭部につける金銅透彫で瑠璃色のガラス玉を飾った美しい宝冠が発見され、この宝冠に観音の標識である化仏があらわされていることから、虚空菩薩ではなく観音像であるとされるようになりました。いつしかこれに「百済国将来」という伝えがかぶせられて「百済観音」とよばれるようになったということです。しかし、作風からみて百済の仏像とはいえず、また朝鮮半島では仏像の用材に用いられていない楠の木でできていることから、日本で造られた像であると見られています』とある。グーグル画像検索百済観音をリンクさせておく。……私はこの……遠い昔、白血病った伯母のような百済観音が好きである……

「數奇(すき)」読みはママ。これは意味から言えば「すうき」の誤りとしか思われない。

「橘寺」聖徳太子建立七大寺(本寺の他は法隆寺(斑鳩寺)・広隆寺(蜂丘寺)・法起寺(池後寺)・四天王寺・中宮寺・葛木寺)の一つで聖徳太子生誕地ともされる奈良県高市郡明日香村にある天台宗の仏頭山上宮皇院菩提寺。本尊は聖徳太と如意輪観音。通称の橘寺は垂仁天皇の命により不老不死の果物を取りに行った田道間守(たじまもり)が持ち帰った橘の実を植えたことに由来する。

「大黑屋」前の章の私の注を参照されたい。

「三十何年かまへの話」「斑鳩物語」が『ホトトギス』に発表されたのは明治四〇(一九〇七)年。昭和一六(一九四一)年であるから、発表時でも四十三年前。

「そんな春さきの頃の、一と昔まえのいかるがの里の若い娘のことを描ゐた物語の書き出しのところ」注に引用済。以下の「夜になつたつて、筬を打つ音で旅びとの心を慰めてくれるやうな若い娘などひとりもゐまい」などもそちらを参照されたい。

「こなひだ折口博士の論文のなかでもつて綺麗だなあとおもつた葛の葉といふ狐の話」既注

「クロオデル」既注

「自分を與へれば與へるほどいよいよはかない境涯に墮ちてゆかなければならなかつた一人の女の、世にもさみしい身の上話」【2015年4月30日改注】当初、迂闊にも私はここに、『これは一体、「日本霊異記」或いは「今昔物語集」のどの話を指しているのか? 識者の御教授を是非とも乞うものである』という注をつけていたのであるが、昔の教え子から、これは辰雄の小説「曠野」の元になった「今昔物語集」巻第三十の「中務大輔娘成近江郡司婢語第四(なかつかさのたいふむすめあふみのぐんじのひとなることだいし)」ではないかと知らせて呉れた。如何にも私は愚鈍であった。辰雄がこの旅から帰って翌十一月に起筆から二日ほどで「曠野」を仕上げて十二月の『改造』に発表している。原話の梗概は以下の通り。――中務大輔某の娘が父母に先立たれ家が傾き、貧しさから自ら夫兵衛佐が身を退くようにさせ、独り零落したままに淋しく暮らしていた娘が、同居する尼の良かれと思う仲立ちの言うに任せ、近江国の郡司の子の側室となり下国、しかし正妻の嫉妬から、夫の父郡司の下働きとなった。そのうち、新任の国司の目にとまって声を掛けられたが、実はその国司は分かれた先の夫で、琵琶湖の波音のする中、遂に娘を忘れ難かった先夫が、「これぞこのつひにあふみをいとひつつ世にはふれども生けるかひなし」と一首を詠んで、自らの正体を涙ながらに明かす。しかし、その言葉を聴くや、女は己れの宿命の哀しさと恥ずかしさのあまり、息絶えてしまう――これはまさにこの辰雄の言葉通りの話であった。【二〇二三年二月三日削除追記】「曠野」はこの公開の直後、本ブログ・カテゴリ「堀辰雄」で全四回で、サイトでPDF縦書版(古いので孰れも正字は不全)で一括で公開し、「今昔物語集」の原話も注附きで原文をこちらに、私のオリジナル現代語訳をこちらに公開してある。

2015/04/25

堀辰雄 十月  正字正仮名版 附やぶちゃん注(Ⅸ)

 

十月二十三日、法隆寺に向ふ車窓で  

 きのふは朝から一しよう懸命になつて、新規に小說の構想を立ててみたが、どうしても駄目だ。けふは一つ、すべての局面轉換のため、最後のとつておきにしてゐた法隆寺へ往つて、こなひだホテルで一しよに話した畫家のSさんに壁畫の模寫をしてゐるところでも見せてもらつて、大いに自分を發奮させ、それから夢殿(ゆめどの)の門のまへにある、あの虚子の「斑鳩(いかるが)物語」に出てくる、古い、なつかしい宿屋に上がつて、そこで半日ほど小說を考へてくるつもりだ。

 

[やぶちゃん注:「畫家のSさん」不詳。識者の御教授を乞う。個人サイト「タツノオトシゴ」の「年譜」によれば、直前の条である二日前の昭和一六(一九四一)年十月二十一日に『阿部知二とその連れとともに三月堂や戒壇院を見て回る』とあった後に続けて『法隆寺の壁画を模写している絵描きさんやお寺の坊さんと知り合いになる』とある人物ではある。

『夢殿(ゆめどの)の門のまへにある、あの虚子の「斑鳩物語」に出てくる、古い、なつかしい宿屋』『虚子の「斑鳩物語」』というのは明治四〇(一九〇七)年に『ホトトギス』に掲載された高浜虚子の小説で、翌明治四十一年一月に出版された虚子初の短編小説集「鶏頭」に所収された。私は実は俳人としての虚子を生理的に激しく嫌悪している男である。しかし、少なくとも彼のこの写生文を意識した小説「斑鳩物語」は、しかしその映像性と浪漫性から――悔しいことに――大いに惹かれてしまう小品なのである。以下、簡単に梗概を記す。本文引用は国立国会図書館デジタルコレクション斑鳩物語」画像を視認した。踊り字「〱」は正字化した(新字体の全文は青空文庫のここで読める)。筆者然とした主人公(但し、公務員であって実は法隆寺や法起寺への来訪は公務であって物見遊山ではない。文部省所轄の文化財担当事務官か?)「余」が斑鳩の里を訪れ、法隆寺の夢殿の南門前にある両三軒の内の一つ、大黒屋という旅籠に泊り、『色の白い、田舎娘にしては才はじけた顏立ち』の『十七八の娘である』『お道』という仲居らしい少女に好感を抱く。また、ここに出る旅宿大黒屋は、「東京紅團」の「堀辰雄の奈良を歩く」の「法隆寺の鐘と大黒屋を歩く」によれば既に現存しない。当該頁では主人公「余」が持たれた欄干と思われるものが見える「旧大黒屋」の写真が見られる。辰雄はこの「斑鳩物語」のイメージを抱いて大黒屋を実際に訪れたのであった(次章参照)。以下、まず、「斑鳩物語」冒頭を引く。 

   《引用開始》

 法隆寺の夢殿の南門の前に宿屋が三軒ほど固まつてある。其の中の一軒の大黑屋といふうちに車屋は梶棒を下ろした。急がしげに奥から走つて出たのは十七八の娘である。色の白い、田舍娘にしては才はじけた顏立ちだ。手ばしこく車夫から余の荷物を受取つて先に立つ。廊下を行つては三段程の段階子を登り又廊下を行つては三段程の段階子を登り一番奧まつた中二階に余を導く。小作りな體に重さうに荷物をさげた後ろ姿が余の心を牽く。

 荷物を床脇に置いて南の障子を廣々と開けてくれる。大和一圓が一目に見渡されるやうないゝ眺望だ。余は其まゝ障子に(もた)れて眺める。

 此の座敷のすぐ下から菜の花が咲き續いて居る。さうして菜の花許りでは無く其に點接して梨子の棚がある。其梨子も今は花盛りだ。黃色い菜の花が織物の地で、白い梨子の花は高く浮織りになつてゐるやうだ。殊に梨子の花は密生してゐない。其荒い𨻶間から菜の花の透いて見えるのが際立つて美しい。其に處々麥畑も點在して居る。偶〻燈心草を作つた水田もある。梨子の花は其等に頓着なく浮織りになつて遠く彼方に續いて居る。半里も離れた所にレールの少し高い土手が見える。其土手の向うもこゝと同じ織物が織られてゐる樣だ。法隆寺はなつかしい御寺である。法隆寺の宿はなつかしい宿である。併し其宿の眺望がこんなに善からうとは想像しなかつた。これは意外の獲物である。

 娘は春日塗の大きな盆の上で九谷まがひの茶椀に茶をついで居る。やゝ斜に俯向いてゐる橫顏が淋しい。さきに玄關に急がしく余の荷物を受取つた時のいきいきした娘とは思へぬ。赤い襦袢の襟もよごれて居る。木綿の著物も古びて居る。それが其淋しい橫顏を一層力なく見せる。

 併しこれは永い間では無かつた。茶を注いでしまつて茶托(ちやたく)に乘せて余の前に差し出す時、彼はもう前のいきいきした娘に戾つて居る。

「旦那はん東京だつか。さうだつか。ゆふべ奈良へお泊りやしたの。本間(ほんま)にァ、よろしい時候になりましたなァ」

と脫ぎ棄てた余の羽織を疊みながら、

「御參詣だつか、おしらべだつか。あゝさうだつか。二三日前にもなァ國學院とかいふとこのお方が來やはりました」

と羽織を四つにたゝんだ上に紐を載せて亂箱の中に入れる。

 余は渇いた喉に心地よく茶を飮み干す。東京を出て以來京都、奈良とへめぐつて是程心の落つくのを覺えた事は今迄無かつた。余は膝を抱いて再び景色を見る。すぐ下の燈心草の作つてある水田で一人の百姓が泥を取つては(み)に入れて居る。箕に土が滿ちると其を運んで何處かへ持つて行く。程なく又來ては箕に土をつめる。何をするのかわからぬが此廣々とした景色の中で人の動いて居るのは只此百姓一人きりほか目に入らぬ。

 娘は緣に出て手すりの外に兩手を突き出して余の足袋の埃りを拂つて又之を亂箱の中に入れる。

「いゝ景色だナァ」

といふと直ぐ引取つて、

「此邊はなァ菜種となァ梨子とを澤山に作りまつせ。へー燈心も澤山に作ります。燈心はナー、あれを一遍よう乾かして、其から叩いてナー、それから又水に漬けて、其から長い(きり)のやうなもので突いて出しやはります。其から又疊の表にもしやはりまつせ。長いのから燈心を取りやはつて短かいのは大槪疊の表にしやはります」

「疊の表には藺をするのぢやないか。燈心草も疊の表になるのかい」

「いやな旦那はん。燈心草といふのが藺の(こ)つたすがな」

と笑ふ。余は電報用紙を革袋の中から取り出す。娘は棚の上の硯箱を下ろして蓋を取る。

「まァ」

といつて再び硯箱を取り上げてフツと輕く硯の上の埃りを吹いて藥罐(やくわん)の湯を差して墨を磨つて吳れる。墨はゴシゴシと厭やな音がする。

 電報を認め終つて娘に渡しながら、

「下は大變多勢のお客だね。宴會かい」

と聞く。娘は電報を二つに疊んで膝の上に置いて、

「いゝえ。皆東京のお方だす。大師講のお方で高野山に詣りやはつた歸りだすさうな。今日はこゝに泊りやはつてあした初瀨(はせ)に行きやはるさうだす。今晩はおやかましうおますやろ」

と娘は立たうとする。電報は一刻を急ぐ程の用事でもない。

「初瀨は遠いかい」

とわざと娘を引とめて見る。

「初瀨だつか」

と娘も一度腰を下ろして、

「初瀨はナー、そらあのお山ナー、そら左りの方の山の外れに木の茂つたとこがありますやろ……」

と延び上るやうにして、

「あこが三輪のお山で、初瀨はあのお山の向うわきになつてます。旦那はんまだ初瀨に(い)きやはつた事おまへんか」

「いやちつとも知らないのだ。さうかあれが三輪か。道理で大變に樹が茂つてゐるね。それから吉野は」

「吉野だつか」

と娘は電報を疊の上に置いて膝を立てる。手摺りの處に梢を出してゐる八重櫻が娘の目を遮ぎるのである。余は立上つて緣に出る。娘も余に寄り添うて手摺りに凭れる。

「そら、此向うに高い山がおますやろ、霞のかゝつてる。へーあの藪の向うだす。あれがナー多武の峰で、あの多武の峰の向うが吉野だす」

娘は櫻の梢に白い手を突き出して、

「あの高い山は知つとゐやすやろ……」

「あれか、あれが金剛山ぢやないか。あれは奈良からも見えてゐたから知つてる」

娘は手摺り傳ひに左りへ左へと寄つて行つて、

「旦那はん、一寸來てお見やす。そらあそこに百姓家がおますやろ。さうだす、今鴉の飛んでる下のとこ。さうだす、あの百姓家の左の方にこんもりした松林がおますやろ。そやおまへんがナー。それは鐵道のすぐ向うだすやろ。それよりももつとずつと向うに、さうだすあの多武の峰の下の方にうつすらした松林がありますやろ。さうさう。あこだす、あこが神武天皇樣の畝火山だす」

 娘の顏はますますいきいきとして來る。畝火山を敎へ終つた彼はまだ何物をか探して居る。彼の知つて居る名所は見える限り敎へてくれる氣と見える。

「お前大變よく知つて居るのね。どうしてそんなによく知つて居るの。皆な行つて見たのかい」

「へー、皆んな行きました」

といつて余を見た彼の眼は異樣に燃えてゐる。

「さう、誰と行つたの、お父サンと」

「いゝえ」

「お客さんと」

「いゝえ。そんな事聞きやはらいでもよろしまんがナァ」

と娘は輕く笑つて、

「私の行きました時も丁度菜種の盛りでなァ。さうさうやつぱり四月の中頃やつた」

と夢見る如き眼で一寸余の顏を見て、

「旦那はん、あんたはんお出でやすのなら連れていておくれやすいな、ホヽヽヽ私見たいなものはいやだすやろ」

「いやでも無いが、こはいナ」

「なぜだす」

「なぜでも」

「なぜだす」

「こはいぢやないか」

「しんきくさ。なぜだすいな、いひなはらんかいな」

「いゝ人にでも見つからうもんなら大變ぢやないか」

「あんたの」

「お前のサ」

「ホヽヽヽ、馬鹿におしやす。そんなものがあるやうならナー。……無い事もおへんけどナー。……ホヽヽヽ、御免やすえ。……アヽ電報を忘れてゐた。お風呂が沸いたらすぐ知らせまつせ」

と妙な足つきをして小走りに走つて疊の上の電報を(すく)ふやうに拾ひ上げて座敷を出たかと思ふと、襖を締める時、

「ほんまにおやかましう。御免やすえ」

 としづかに挨拶してニツコリ笑つた。

「お道はん、お道はん」

と下で呼ぶ聲がする。

「へーい」

といふ返辭も落ついて聞こえた。

 お道サンが行つたあとは俄に淋しくなつた。きのふ奈良でしらべた報告書の殘りを認める。時々下の間で多勢の客の笑ふ聲に交つてお道サンの聲も聞えるが、座敷が別棟になつてゐるのではつきりわからぬ。

 夢殿の鐘が鳴る。時計を見るともう六時だ。

   《引用終了》

その後、風呂が沸いたと告げにきた女将(おかみ)から、彼女は『此うちの娘でなくすぐ此裏の家の娘で、平常は自分のうちで機械機を織つて居るが、世話しい時は手傳ひに來る』娘と知る(ここまでが「上」)。

 翌日、「余」は法起寺の三重の塔を仰ぎ見て、それに無性に登りたくなり、寺の小僧に乞うて一緒に昇り出したものの、予想を超える難所で、ほうほうの体でやっと三層目の欄干へと辿りつく。『回廊傳ひに東の方に廻つて見る。宿屋の二階で見た菜の花畑はすぐ此塔の下までも續いて居る。梨子の棚もとびとびにある。麗かな春の日が一面に其上に當つて居る。今我等の登つてゐる塔の影は塔に近い一反ばかりの菜の花の上に落ちて居る』。

   《引用開始》

「又來くさつたな。又二人で泣いてるな」

と小僧サンは獨り言をいふ。見ると其塔の影の中に一人の僧と一人の娘とが倚り添ふやうにして立話しをして居る。女は僧の肩に凭れて泣いて居る。二人の半身は菜の花にかくれて居る。

「あの坊さん君知つてるのですか」

「あれなあ、私の兄弟子の了然(れうねん)や。學問も出來るし、和尙サンにもよく仕へるし、おとなしい男やけれど、思ひきりがわるい男でナー。あのお道といふ女の方がよつぽど男まさりだつせ。あのお道はナァ、親にも孝行で、機もよう織つて、氣立もしつかりした女でナァ、何でも了然が岡寺に居つた時分にナァ、下市とか上市とかで茶屋酒を飮んだ事のある時分惚れ合つてナァ、それから了然はこちらに移る、お道はうちへ歸るししてナァ、今でもあんなことして泣いたり笑つたりしてますのや。ハヽヽヽ」

と小僧サンは無頓着に笑ふ。お道は今朝から宿に居なかつたが今こゝでお道を見やうとは意外であつた。殊に其情夫が坊主であらうとは意外であつた。我等は塔の上からだまつて見下ろして居る。

 何か二人は話してゐるらしいが言葉はすこしも聞えぬ。二人は塔の上に人があつて見下ろして居やうとは氣がつくわけも無く、了然はお道をひきよせるやうにして坊主頭を動かして話して居る。菜の花を摘み取つて髮に挿みながら聞いてゐたお道は急に頭を振つて包みに顏をおしあてて泣く。

「了然は馬鹿やナァ。あの阿呆面見んかいナ。お道はいつやら途中で私に遇ひましてナー、こんなこというてました。了然はんがえらい(ぼん)さんにならはるのには自分が退(の)くのが一番やといふ事は知てるけど、こちらからは思ひ切ることは出來ん。了然はんの方から棄てなはるのは勝手や。こちらは焦がれ死に死ぬまでも片思ひに思うて思ひ拔いて見せる。と斯んなこというてました。私はお道好きや。私が了然やつたら坊主やめてしもてお道の亭主になつてやるのに。了然は思ひきりのわるい男や。ハヽヽヽヽ」

と小ぞ僧サンは重たい口で洒落たことをいふ。塔の影が見るうちに移る。お道はいつの間にか塔の影の外に在つて菜の花の蒸すやうな中に春の日を正面(まとも)に受けて居る。淚にぬれて居る顏が菜種の花の露よりも光つて美くしい。我等が塔を下りようと彼の大佛の穴くゞりを再びもとへくゞり始めた時分には了然も纔に半身に塔の影を止めて、半身にはお道の浴びて居る春光を同じく共に浴びてゐた。了然といふ坊主も美しい坊主であつた。

   《引用終了》

ここまでが「中」である。而して、その晩のこと、戻った大黒屋で晩酌に酒を数杯飲んで机に凭れてとろとろとし、

   《引用開始》

ふと目がさめて見るとうすら寒い。時計を見ると八時過ぎだ。二時間程もうたゝ寝をしたらしい。昨日に引きかへ今日は広い宿ががらんとして居る。客は余一人ぎりと見える。静な夜だ。耳を澄ますと二處程で(をさ)の音がして居る。

 一つの方はカタンカタンと冴えた筬の音がする。一つの方はボツトンボツトンと沈んだ音がする。其二つの音がひつそりした淋しい夜を一層引き締めて物淋しく感ぜしめる。初め其筬の音は遠いやうに思つたがよく聞くと餘り遠くでは無い。余は夢の名殘りを急須の冷い茶で醒ましてぢつと其二つの音に耳をすます。

 蛙の聲もする。はじめ氣がついた時は僅に蛙の聲かと聞き分くる位のひそみ(ね)であつたが、筬の音と張り競ふのか、あまたのひそみ音の中に一匹大きな蛙の聲がぐわアとする。あれが蛙の聲かなと不審さるゝ程の大きな聲だ。晝間も燈心草の田で啼いてゐたがあんな大きな聲のはゐなかつた。夜になつて特に高く聞えるのかも知れぬ。一匹其大きなのが啼き出すと又一つ他で大きなのが啼く。又一つ啼く。しまひには七八匹の大きな聲がぐわァぐわァと折角の夜の寂寥を攪きみ亂すやうに鳴く。其でも蛙の聲だ。はじめひそみ音の中に突如として起こつた大きな聲を聞いた時は噪がしいやうにも覺えたが、其が少し引き續いて耳に慣れると矢張り淋しいひそみ(ね)の方は一層淋しい。氣の(せい)か筬の音もどうやら此蛙の聲と競ひ氣味に高まつて來る。カタンカタンといふ音は一層明瞭に冴えて來る。ボツトンボツトンといふ音は一層重々しく沈んで來る。

 お神サンが床を延べに來る。

「旦那はん毛布(けつと)なんかおかぶりやして、寒むおまつか」

「少しうたゝねをしたので寒い。それに今晩は馬鹿に靜かだねえ。お道さんは來ないのかい」

「今晩は來やはりまへん。そら今筬の音がしてますやろ、あれがお道はんだすがな」

「さうかあれがお道さんか」

と余は又筬の音に耳を澄ます。前の通り冴えた音と沈んだ音とが聞こえる。

「二處でしてゐるね。其に音が違ふぢやないか。お道さんの方はどちらだい」

「そらあの音の高い冴え冴えした方な、あれがお道さんのだす」

「どうしてあんなに違ふの。機が違ふの」

「機は同じ事こつたすけれど、筬が違ひます。音のよろしいのを好く人は筬を別段に吟味(ぎんみ)しますのや」

 余は再び耳を澄ます。今度は冴えた音の方にのみ耳を澄ます。カタンカタンと引き續いた音が時々チヨツと切れる事がある。糸でも切れたのを繫ぐのか、物思ふ手が一寸とまるのか。お神サンは敷布團を二枚重ねて其上に上敷きを延べながら、

「戰爭の時分はナァ、一機(ひとはた)の織り賃を七十錢もとりやはりましてナァ、へえ繃帶にするのやさかい薄い程がよろしまんのや。其に早く織るものには御褒美を吳りやはつた。其時分は機もよろしうおましたけど、もう此頃はあきまへん。へーへあんたはん一機二十五錢でナア、一機といふのは十反かゝつてるので、なんぼ早うても二日はかゝります」

 お神サンは聞かぬ事まで一人で喋舌(しやべ)る。突然筬の音に交つて唄が聞こえる。

『苦勞しとげた苦しい息が火吹竹から洩れて出る』

「お道さんかい」

と聞くと、

「さうだす。えゝ聲だすやろ」

とお神サンがいふ。余は聲のよしあしよりもお道サンが其唄をうたふ時の心持を思ひやる。

「あれでナァ、筬の音もよろしいし唄が上手やとナァ、よつぽど草臥れが違ひますといナ」

「あんな唄をうたふのを見るとお道サンもなかなか苦勞してゐるね」

「ありや旦那はん此邊の流行唄(はやりうた)だすがナ、織子といふものはナァ、男でも通るのを見るとすぐ惡口の唄をうたうたりナァ、そやないと惚れたとかはれたとかいふ唄ばつかりだす」

 俄に男女の聲が聞こえる。

「どこへ行きなはる」

「高野へお參り」

「ハヽァ高野へ御參詣か。夜さり行きかけたらほんまにくせや」

「お父つはんはもう寢なはつたか」

「へー休みました」

 高野へ參詣とは何の事かと聞いて見たら、

「はゞかりへ行くことをナァ、此邊ではおどけてあないにいひまんのや」

とお神サンは笑つた。よく聞くと女の聲はお道サンの聲であつた。男の聲は誰ともわからぬ。長屋つゞきの誰かであるらしい。

 筬の音が一層高まつて又唄が聞こえる。唄も調子もうきうきとして居る。

『鴉啼迄寢た枕元櫛の三日月落ちて居る』

 お神サンは床を延べてしまつて、机のあたりを片づけて、火鉢の灰をならして、もうラムプの火さへ小さくすればよいだけにして、

「お休みやす。あまりお道サンの唄に聞きほれて風邪引かぬやうにおしなはれ」

と引下る。

 酒も醒めて目が冴える。筬の音を見棄てゝ此儘寢てしまふのも惜しいやうな氣がする。晝間書きさして置いた報告書の稿をつぐ。ふと氣がつくといつの間にやら筆をとゞめて、きのふのお道サンの喋舌つた事や、今日塔から見下ろした時の事やを回想しつゝ筬の音に耳を澄まして居る。又唄が聞こえる。

『大分世帶に(しゆ)んでるらしい目立つ鹿の子の油垢』

 調子は例によつてうきうきとして居るが、夜が更けた(せゐ)かどこやら身に沁むやうに覺える。これではならぬと更に稿をつぐ。

 終に暫くの間は筬の音も耳に入らぬやうになつて稿を終つた。今日で取調の件も終り、今夜で報告書も書き終つた。がつかりと俄に草臥れた樣に覺える。

 火を小さくして寢衣(ねまき)になつて布團の中に足を踏み延ばす。筬の音はまだ聞こえて居る。忘れてゐたが沈んだ方のもまだ聞えて居る。

 眠るのが惜しいやうな氣がしつゝうとうととする。ふと下で鳴る十二時の時計の音が耳に入つたとき氣をつけて聞いて見たら、沈んだ方のはもう止んでゐたが、お道サンの筬の音はまだ冴え冴えと響いてゐた。

   《引用終了》

なお、続けて、私は明治四一(一九〇八)年に出版された虚子初の短編小説集「鶏頭」に所収された初出に最も近いものを底本にした私の電子化した「斑鳩物語」があるので、余裕のある方は、そちらを読まれたい。俳人虚子は大嫌いだが、この小説は、妙に心に残る。そも……この「お道さん」に逢って見たかった気がするのは……恐らく……私だけではあるまい……]

大和本草卷之十四 水蟲 介類 ウミタケ

【和品】

ウミタケ 其肉長サ數寸内空シクシテ竹ノ如シ泥海ニ

生ス故備前筑後ニ多シ味美ナリ鹽糟ニツケテ遠キ

ニ寄ス其殻ハミソ貝ニ似テマルシカラ甚ウスクシテ破レヤスシ

カラノ内ニ腸アリ不可食竹ノ如クナル肉ハカラノ外ニア

リカラハ泥ノソコニアリ肉ハ上ニアリ故ニカラハ底貝ト云カラ

ハ肉ヲオホハス肉長クカラハ短シ此物ヲ取ルニ長キカタ

木ノ棒ノ末ニ又ヲ加ヘカキテトル殻脆クシテクタケヤスシ此物

ヲ久シクトリタル棒海水ニヒタシタル故ヤリノ柄ニ用テ

ツヨシ或曰ウミタケハ竹蟶ナルヘシト竹蟶ハ漳州府志曰

似蟶而圓類小竹節其殻有文是マテノ類ナリ小竹

節ニ類スルハ其殼ヲ云肉ニアラスウミタケハ肉長シ然レ

ハウミタケニ非ス〇以上海蛤類

〇やぶちゃんの書き下し文

【和品】

うみたけ 其の肉、長さ數寸、内〔(うち)〕、空しくして竹のごとし。泥海に生ず。故、備前・筑後に多し。味、美なり。鹽・糟につけて遠きに寄す。其の殻は「みぞ貝〔(がひ)〕」に似て、まるし。から、甚だ、うすくして破れやすし。からの内に腸あり。食ふべからず。竹のごとくなる肉は、からの外にあり。からは泥のそこにあり。肉は上にあり。故に、からは「底貝」と云ふ。からは肉をおほはず。肉、長く、からは短し。此の物を取るに、長き、かた木の棒の末に又(また)を加へ、かきとてとる。殻、脆くして、くだけやすし。此の物を久しくとりたる棒、海水にひたしたる故、「やり」の柄に用ゐて、つよし。或いは曰く、「うみたけ」は「竹蟶〔(ちくてい)〕」なるべしと。「竹蟶」は「漳州府志」に曰く、『蟶に似て圓〔(まる)〕し。小竹節に類(に)たり。其の殻、文〔(もん)〕有り。』と。是れ、「まて」の類なり。小竹〔の〕節に類するは、其の殼を云ふ、肉にあらず。「うみたけ」は、肉、長し。然れば、「うみたけ」に非ず。〇以上、海蛤類。

[やぶちゃん注:斧足綱異歯亜綱オオノガイ目ニオガイ超科ニオガイ科ウミタケ Barnea dilatata (本邦産亜種としてウミタケ Barnea dilatata japonica とするケースもある)。ウィキウミタケによれば、『主に韓国、日本の有明海、瀬戸内海など、中国の南シナ海、台湾、フィリピンなどの潮間帯より下側や河口沖、干潟の最干潮線より下、水深』五メートル以内の『軟らかい泥地に生息する。日本では北海道でも発見例がある。中国では養殖実験が行われている』。殻長八センチメートルほど、高さ五センチメートルほどの『灰色の貝殻を持つが、褐色の水管が発達しており、殻長の』三~四倍もの長さがある(「大和本草」本文では水管を「肉」と呼んでいるので注意)。『象の鼻に例えられる太い水管が発達している点ではバカガイ科のミルクイやナミガイなどと共通しているが、同科ではない。貝殻は薄いため、力を加えると割れやすく、漁の途中で割れる事が多い』。『水管を伸ばして、海水とともにデトリタスやプランクトンを吸い込んで捕食する』。『成長は比較的早く』、一年で殻長七センチメートル程度に成長する。『食用に漁獲される。有明海ではうみたけねじりという十字型またはT字型をした漁具を水中に入れて回転させ、横棒に水管を引っかけて取る。主に水管を食べる』。『日本では、新鮮なものを刺身、酢の物、酢みそ和えなどにしたり、炒め物にしたりする。有明海周辺では水管を干物や、粕漬けに加工して販売されている。干物の食味は干しするめに似るが、更に濃厚で、若干臭みがある』。『韓国では、鍋物などで食用にする他、干物を日本にも輸出している』とある。私の栗本丹洲「栗氏千蟲譜 巻九の鮮烈な図譜「泥笋(ウミタケ)」も是非ご覧あれ!

「みぞ貝」軟体動物門二枚貝綱マルスダレガイ目マテガイ超科ユキノアシタガイ科ミゾガイSiliqua pulchella であるが、ウミタケと比肩するものなら、同ミゾガイ属オオミゾガイ Siliqua alta とすべきであろう。殻の全体の雰囲気は似ていなくもないが、素人が見ても同じ種の殻には見えない。

「此の物を久しくとりたる棒、海水にひたしたる故、「やり」の柄に用ゐて、つよし」益軒にしては少し珍しい補足(脱線)注記である。このような槍の柄の材の処理法は見当たらないが、恐らく事実そうであったのであろう。興味深いではないか。

「竹蟶」異歯亜綱マルスダレガイ目マテガイ上科マテガイ科マテガイ属マテガイ Solen strictus 及び同マテガイ属に属する同形態の多様な仲間(後の「蟶」の項で掲げる)を指すと考えてよいであろう(但し、大陸では全く別の種もその中に混同しているか或いは博物学的に包括している可能性は頗る高い。例えば形状上、似ているこの全く異なる種であるウミタケを包含していた可能性は十分にあるということである)。

「漳州府志」清乾隆帝の代に成立した現在の福建省南東部に位置する漳州市一帯の地誌。「以上、海蛤類」ここまでで所謂、斧足(二枚貝)類は終りである、というのであるが、この後には、ここで述べている「蟶」が、さらにその次には「牡蠣」が出る。マテガイはその殻の柔らかさが、カキは固着性と殻の不定形から、孰れも二枚貝とは思わなかったというのは、まあ、肯けないことはない。]

甲子夜話卷之一 31 同砂村御成のとき西瓜を取らせられし事

31 同砂村御成のとき西瓜を取らせられし事

德廟砂村え成せ給しとき、何か御興に入らせ給こと有て、上意には、殊に暑(アツ)し、いづれも此邊の畑の西瓜を取り食ふべしと、衡指圖あり。皆畑主のおもはくも何かゞと思へども、上意なれば手々に取てける。殊に御きげんにて、程なく其所を御立がけに、代官を呼と上意あり。伊奈某御前に出たれば、此邊の西瓜を皆々へ取せたり。畑主共に價とらせよと、上意なり。一時の御遊戲までも、其結局かく周詳なる御事、いかにも感じ奉るべきことなり。

■やぶちゃんの呟き

「同」前の「30」の「有德廟」吉宗のエピソードを受ける。

「砂村」砂村新田。旧東京府南葛飾郡砂町。現在の東京都江東区東部にあった村。現在の北砂・南砂・新砂・東砂に当たる。ウィキ砂町に、砂村新左衛門一族が宝六島を開拓した際に開拓者の名前を取り「砂村」となったとある。

「手々」「てんで」。

「御立がけ」「おんたちがけ」。出立なされる折り。

「伊奈某」関東郡代伊奈忠逵(いなただみち 元禄三(一六九〇)年~宝暦六(一七五六)年)かと思われる。通称、半左衛門。ウィキ伊奈忠逵によれば、正徳二(一七一二)年五月、養父の忠順が没したのち関東郡代となり(当時の将軍は第六代徳川家宣であったが、同年十月に死去し家継に継がれた)、勘定吟味役上座を兼ねて老中の直属支配となった。享保四(一七一九)年、『上川俣(現・羽生市)に葛西用水元圦(もといり:取水口のこと)を設け、日向堀を通して利根川の水を引き、羽生領南方用水(幸手領用水)を開発した。また、井沢弥惣兵衛を助力し、見沼代用水の開削に貢献』した。しかし享保一四(一七二九)年五月九日に『手代の不正や収納した米が腐ったなどにより処罰され減封処分を受け』ている。『甘藷栽培を青木昆陽の試作以前に試み』、寛延三(一七五〇)年七月に退任、その跡は忠順の嫡男忠辰(ただとき)が継いでいる(但し、吉宗の逝去は寛延四年六月二十日であるから、忠辰の可能性が全くないとは言えないが、死の前年の夏の可能性は頗る低いと思われる)。

「周詳」「しゆうしやう」。聴き馴れぬ語であるが、万事細部に至るまで心遣いが行き届いていることであろう。

譚海 卷之一 勢州山田在家村掟の事

○勢州山田在の者物語せしは、其在所のある人の子共(こども)十一歳にて、江戸靑山商家へ奉公に下(くだ)し、給金一兩もらひ候を、在所の名主世話致し、壹ケ月銀八分(ぶ)の息にて村かたへ借付置(かしつけおき)、その子四十五歳の時在所へ歸るとき、右の金子三十五年をへて、利息数百金に及び、田地をもとめ子孫今に繁昌してありといへり。都(すべ)て勢州の農家は、其名主年寄の下知を愼みあへて違背せず、名主も支配の百姓を子弟のごとく扶助し少(すこし)も疎略せず、支配の百姓子どもあまたあるをば、名主見廻りて骨つよきを差圖して家督とさだめ、農事をならはせ、殘りはみな江戸へ奉公に出(いで)さする事也。又普請等の事も、たとへば一村百姓廿人あれば、巡番をさだめて毎年壹人づつ居宅普請(きよたくぶしん)する也。廿年にてのこらず新宅普請出来る也。先(まづ)壹軒の家普請の期(き)至れば、殘る十九人のもの竹何束(ぞく)・萱(かや)何束・繩何程・米何升・錢何十疋づつとさだめありて支度し、件(くだん)の通り銘々名主方へもち行(ゆく)。扨名主方にて集(あつ)め置(おき)普請すべき當人をよびよせ、村中より合力(かふりよく)の品を渡す。右十九人よりもらひたるものにて普請すれば、土木の費(つひへ)なく普請の品買(かひ)とゝのへずして出來る也。普請の日に至れば、十九人の者同時に其家に行(ゆき)て合力し、誰々は柱たて垣(かき)あみ、誰々は壁ぬりやねふき役と定(さだめ)て取懸(とりかか)るゆへ、即時に成就する也。飯米野菜料(はんまひやさいりやう)共(ども)もらひたる物にて事たり、普請の庭に筵を敷(しき)羣居(むれゐ)して飲食(のみくひ)、暮に及(および)て歸る也。普請出來て後、米も鏡も殘る程の事也。來年他の家普請の時に當りても、又今年普請料もらひしごとく、萱・竹・飯米等まで贈る事也とぞ。又村のうちに閑地(かんち)あれば、名主方にて松杉の苗を買求(かひもと)て、人々に分付(ぶんぷ)し植付(うゑつけ)させ、其(それ)樹年を經て林となれば伐取(きりとら)せて他(ほか)かたへ賣(うり)やり、苗の價(あたひ)を名主方へ引取(ひきとり)、殘りたる銭にて本人に馬を買用(かひもちゐ)させ、亦は耕具をとゝのへさせ、ひたすら農作の精力をはげます事となりて、恩愛相得て人々業(わざ)に怠りすさむ事なしとぞ。勢州はすべて十石にみちたる農家なし。別(べつし)て紀州領等は賦納重けれども、人々地力を盡し倹約なれば生計(たつき)にくるしむ者なし。他方になき掟なりといへり。

[やぶちゃん注:所謂、伊勢山田に於ける驚くべき郷村内相互扶助システムである「山田三方(やまださんぽう)」の記載である。山田三方は「三方寄合(さんぽうよりあい)」「三方老若(さんぽうろうにゃく)」とも呼称されたもので、十五世紀前葉の永享年間に伊勢大神宮の神役人(じんやくにん:所謂、御師(通常は「おし」と読むが、伊勢神宮では他と区別して「おんし」と呼ぶ。)のこと。)らが彼らより上級の下級神職である刀禰(とね)の勢力を駆逐して山田に自治組織を樹立、山田三方会合所(やまださんぽうえごうしょ)という役所を設け、伊勢神宮に対しては賦課を勤仕し、爾来幕末に至るまで、山田の町政を荷負ってきたものである(ここはウィキの「山田三方」に拠った)。

「勢州山田」現在の三重県伊勢市の山田。ウィキの「山田(伊勢市)」によれば(注記号は省略した)、『伊勢神宮外宮の門前町(厳密には鳥居前町)として成熟してきた地域であり、現在の伊勢市街地に相当する。古くは「ようだ」「やうだ」などと発音した』とあり、「歴史」の項を見ると、『山田の歴史は深く、倭町で弥生時代の竪穴式住居跡が発見されるなど、有史以前から人々が居住していたことが分かっている』。『しかし、宮川や豊川はたびたび氾濫を起こしたため、実際に定住が進み集落が形成されたのは』雄略天皇二二(四七八)年に『豊受大神が山田原に鎮座して以降だと考えられている』。『中世に入ると朝廷からの資金が滞るようになったことに加え、荘園勢力の台頭により山田は衰退の一途をたどることになる。そこに外宮の禰宜度会家行が現れ、伊勢神道(度会神道)を興す。これは外宮の祭神が内宮よりも神格が上であると主張するもので、山田の地位向上に大いに効果を発揮した。更に御師の活躍で全国に檀家を持つようになり、復興を果たしたと共に地理的な特性もあり、室町時代頃には内宮を擁する宇治を上回る規模に発展した』。『この頃山田と宇治の対立が激化し、たびたび町や神宮が炎上していた。また、代々の神官家と新興勢力との対立・衝突も見られた』。『こうして力を付けた山田には郷(村)ごとに惣が結成され、それらをまとめる団体として山田三方が組織された。山田三方は神宮と深いつながりを持つ土倉などの有力者から構成され、座の営業権などを取り決める自治組織としての役割を果たした。その規模は、堺や博多に並ぶものであったとされる。この山田三方は明治時代に近代国家が成立するまで山田の自治組織として続いた』。『近世になるとお蔭参りの流行などにより、町はますます発展し』た(徳川家康は宮川以東の神領を管轄するため慶長八(一六〇三)年に山田奉行所を山田吹上に置いたと附記がある)。

「息」利息。山田三方のこの少年の家を担当していた名主は、この商家より、少年を奉公に出した際の謝礼金一両を受け取らずに、それに「月銀八分」(一分は十厘で、一匁が十分であるから、京都故実研究会の「江戸時代の金額や数値に変換」を基に、江戸中期の金一両を銀六十匁で現在の八万円相当で換算すると――千六十六円――となる)の利息を付けさせたのである。単純計算しても奉公の二十四年間で利息だけでも有に三十万円を超えることになる(ただ、ここで「利息數百金」とあるが、銀六十匁が銀一両でこれを「一金」と呼んだから、これで計算すると利息は現在の数千万円を軽く超えることになってしまうので、この「數百金」というのは塵も積もっての類いの誇張表現であろう)。当時の農村にあってこの元少年の貯えた金額も含められるから五十万円以上、百万円程度の金があれば「田地をもとめ子孫今に繁昌してあり」というのも如何にも納得出来る。

「合力」金銭や物品を与えて助けることをいう。

「紀州領」ウィキの「紀州藩」によれば、伊勢国には飯高郡の全域と、三重郡に一村・河曲郡内に三十五村・一志郡内に五十八村・多気郡内に九十七村・伊勢神宮のあった度会郡内には百四十七村もの紀州藩領があった。]

2015/04/24

北條九代記 卷第七 下河邊行秀補陀落山に渡る 付 惠蕚法師

      〇下河邊行秀補陀落山に渡る 付 惠蕚法師

貞永二年五月の末に、紀州絲我莊(いとがのしやう)より、一封(ほう)の書を武藏守泰時に奉る。即ち將軍家の御前に持參して、周防〔の〕前司親實(ちかざね)に讀ましめらる。昔、右大將賴朝卿、下野國那須野の御狩の時、大鹿一頭(づ)、勢子(せこ)の内に蒐(かけ)下る。賴朝卿、御覽ぜられ、殊に勝れたる射手(いて)を撰(えら)ばし、下河邊(しもかうべの)六郎行秀に仰付られたり。行秀、嚴命を蒙(かうぶ)り、馳向(はせむか)うて、矢を發(はた)つに、鹿に當らず。勢子の外に走り出しを、小山〔の〕左衞門尉朝政、一矢にて射留(いとめ)たり。下河邊行秀は面目を失ひ、狩場にして髻(もとゞり)を切り、出家して逐電す。行方、更に知る人なかりけるに、智定房(ちぢやうばう)と名を付(つ)き、暫く山頭(さんとう)に籠りて行ひしが、熊野の那智の浦より舟に乘りて南海補陀落山(ふだらくせん)にぞ渡りける。屋形舟(やかたぶね)に入りて後に、外より屋形の戸を釘付(くぎづけ)にし、四方に窓もなし。日月の光を見ることなく、燈火(ともしび)を微(かすか)にし、食物(しよくぶつ)には、栗(くり)、栢(かや)、少づつ命を助け、一心に法華經を讀誦し、三十餘日にして到著(たうちやく)す。岸に上りて、山の姿を拜み廻(めぐ)るに、山徑(さんけい)危く險(けは)しくして、岩谷(がんこく)、幽邃(いうすゐ)なり。山の頂(いたゞき)に池あり。大河を流して、山を廻りて海に入る。池の邊に、石の天宮(てんぐう)あり。觀世音菩薩遊行(ゆぎやう)の所なり、願行(ぐわんぎやう)滿ちたる人は、直に菩薩を拜むといへり。智定房、この山に五十餘日留(とゞま)りて、御經を讀み奉り、又舟に取乘(とりのつ)て、熊野の那智に歸りつゝ、同法(どうばふ)の沙門に書を誂(あつら)へ、武藏守殿に參(まゐら)せたり。在俗の時には、弓馬の友にて候ひしが、智定房出家以後の事共を、具(つぶさ)に記(しるし)て奉りぬ。哀(あはれ)なりける事共多かりけり。後に行末を尋ねらるゝに、更に又、知る人なし。古(いにしへ)、文德(もんとく)天皇の御宇、齋衡(さいかう)二年に、惠蕚(ゑがく)法師とて、道行(だうぎやう)の上人、橘太后(たちばなのたいこう)の仰(おほせ)に依つて、入唐(につたう)して五臺山(だいさん)にのぼり、觀世音菩薩の像を感得し、四明(しめい)山より、日本に歸朝せし所に、風に離(はな)されて補陀洛山に至りたり。舟を出さんとするに、更に動かず、怪(あやし)みて像(ざう)を舟より上げたりければ、舟は輕(かろらか)に出でたり。惠蕚は、觀音の像を置きて歸らんことを悲(かなし)み、海邊に庵(いほり)を結びて、住居(ぢうきよ)して、誦經奉事(じゆきやうぶじ)す。後に漸く寺となる。禪刹の名藍(めいらん)なり。智定房は重(かさね)て南海を渡りて、この山にや行(おこな)ひけん。殊勝の事なりとぞ語られける。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻二十九の天福元(一二三三)年五月二十七日の条に拠る。

「貞永二年」一二三三年。この貞永二年四月十五日(ユリウス暦一二三三年五月二十五日) に天福に改元しているから、ここは正確には天福元年である。本条は私の偏愛する本邦の中世に於いて行われた、過酷な捨身行である補陀落渡海(ふだらくとかい)のエピソードとして広く知られるものである。以下、ウィキの「補陀落渡海」から引く。『この行為の基本的な形態は、南方に臨む海岸に渡海船と呼ばれる小型の木造船を浮かべて行者が乗り込み、そのまま沖に出るというものである。その後、伴走船が沖まで曳航し、綱を切って見送る。場合によってはさらに』煩悩の数を表象する百八の石を『身体に巻き付けて、行者の生還を防止する。ただし江戸時代には、既に死んでいる人物の遺体(補陀洛山寺の住職の事例が知られている)を渡海船に乗せて水葬で葬るという形に変化する』。『最も有名なものは紀伊(和歌山県)の那智勝浦における補陀落渡海で、『熊野年代記』によると』、貞観一〇(八六八)年から享保七(一七二二)年の間に二十回行われたとされる(下線やぶちゃん)。『この他、足摺岬、室戸岬、那珂湊などでも補陀落渡海が行われたとの記録がある』。『熊野那智での渡海の場合は、原則として補陀洛山寺の住職が渡海行の主体であった』とあるが、ここに本条に出る下河辺六郎行秀という元武士の渡海を例外として記してある。『日秀上人のように琉球に流れ着き、現地で熊野信仰及び真言宗の布教活動を行った僧もいたと伝わって』おり、また、『補陀落渡海についてはルイス・フロイスも著作中で触れている』。『仏教では西方の阿弥陀浄土と同様、南方にも浄土があるとされ、補陀落(補陀洛、普陀落、普陀洛とも書く)と呼ばれた。その原語は、チベット・ラサのポタラ宮の名の由来に共通する、古代サンスクリット語の「ポータラカ」である。補陀落は華厳経によれば、観自在菩薩(観音菩薩)の浄土である』。『多く渡海の行われた南紀の熊野一帯は重層的な信仰の場であった。古くは『日本書紀』神代巻上で「少彦名命、行きて熊野の御碕に至りて、遂に常世郷に適(いでま)しぬ」という他界との繋がりがみえる。この常世国は明らかに海との関連で語られる海上他界であった。また熊野は深山も多く山岳信仰が発達し、前述の仏教浄土も結びついた神仏習合・熊野権現の修験道道場となる。そして日本では平安時代に「厭離穢土・欣求浄土」に代表される浄土教往生思想が広まり、海の彼方の理想郷と浄土とが習合されたのであった』。以下、「琉球における影響」の項。「琉球国由来記巻十」の『「琉球国諸寺旧記序」によれば、咸淳年間』(一二六五年~一二七四年/本邦では文永二年~文永十一年に相当)に『国籍不明の禅鑑なる禅師が小那覇港に流れ着いた。禅鑑は補陀落僧であるとだけ言って詳しいことは分からなかったが、時の英祖王は禅鑑の徳を重んじ浦添城の西に補陀落山極楽寺を建立した。「琉球国諸寺旧記序」は、これが琉球における仏教のはじめとしている』とある。ここに出る『補陀洛山寺』についてもウィキの「補陀洛山寺」から引いておく。前のウィキの「補陀落渡海」の記述とやや異なる記述があるので、内容の重出を厭わず引用する。『補陀洛山寺(ふだらくさんじ)和歌山県東牟婁郡那智勝浦町にある、天台宗の寺院。補陀洛とは古代サンスクリット語の観音浄土を意味する「ポータラカ」の音訳である』。『仁徳天皇の治世にインドから熊野の海岸に漂着した裸形上人によって開山されたと伝える古刹で、平安時代から江戸時代にかけて人々が観音浄土である補陀洛山へと小船で那智の浜から旅立った宗教儀礼「補陀洛渡海」で知られる寺である』。『江戸時代まで那智七本願の一角として大伽藍を有していたが』、文化五(一八〇八)年の『台風により主要な堂塔は全て滅失した。その後長らく仮本堂であったが』、一九九〇年に『現在ある室町様式の高床式四方流宝形型の本堂が再建された』。『補陀洛は『華厳経』ではインドの南端に位置するとされる。またチベットのダライ・ラマの宮殿がポタラ宮と呼ばれたのもこれに因む。中世日本では、遥か南洋上に「補陀洛」が存在すると信じられ、これを目指して船出することを「補陀洛渡海」と称した。記録に明らかなだけでも日本の各地(那珂湊、足摺岬、室戸岬など)から』四十件を超える『補陀洛渡海が行われており、そのうち』二十五件が『この補陀洛山寺から出発している』とある(下線やぶちゃん。このウィキの「補陀落渡海」との違いは誤りではなく、時制上の閉区間の違いによるものであろう)。

「絲我莊」現在の和歌山県有田(ありだ)市糸我町。この補陀落渡海で知られる那智の補陀落山寺からは直線で東北へ八十五キロメートルほどの位置にある。この当時の紀伊半島に於ける北条方の有力豪族が支配していたのであろう。

「周防前司親實」藤原親実(ちかざね 生没年不詳)は将軍頼経に仕えた諸大夫で、御所の祭祀及び礼法を司る御所奉行。文暦二(一二三五)年に厳島社造営を命ぜられて周防守護から安芸守護に転任し、厳島神社神主に任ぜられている。寛元二(一二四四)年に上洛、六波羅評定衆となっている。後、周防守護に復職して寛元三年から建長三(一二五一)年迄の在職が確認出来る(以上は「朝日日本歴史人物事典」の永井晋氏の解説を参照した)。

「下野國那須野の御狩の時」「下野國那須野」は栃木県北東部。現在、那須塩原市内。これは恐らく、以下の「吾妻鏡」の建久四(一一九三)年四月二日の条に出る狩りであろう。

   *

〇原文

二日戊戌。覽那須野。去夜半更以後入勢子。小山左衞門尉朝政。宇都宮左衞門尉朝綱。八田右衞門尉知家。各依召獻千人勢子云々。那須太郎光助奉駄餉云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

二日戊戌。那須野を覽る。去ぬる夜半更以後、勢子を入る。小山左衞門尉朝政、宇都宮左衞門尉朝綱、八田右衛門尉知家、各々、召に依つて千人の勢子を獻ずと云々。

   *

 那須太郎光助、駄餉(だしやう)を奉ると云々。

文中の「駄餉」は弁当のこと。

「勢子」「列卒」とも書く。狩猟で鳥獣を狩り出したり、逃げるのを防いだりする人夫。かりこ。

「下河邊六郎行秀」専ら、この補陀落渡海をした智定房として知られる。姓からは現在の千葉県北部の下総国葛飾郡下河辺庄の出身と思われ、下河辺氏は藤原秀郷流太田氏流の流れを汲むか。

「小山左衞門尉朝政」(保元三(一一五八)年?~嘉禎四(一二三八)年)は頼朝直参の家臣で奥州合戦でも活躍した。

「山頭」山の頂上。具体的な場所を示すものではないが、補陀落渡海からは那智の滝の直近にある那智山青岸渡寺辺りが私にはイメージされる。

「屋形舟」この補陀落渡海のための渡海船については、ウィキの「補陀落渡海」に、『渡海船についての史料は少ないが、補陀洛山寺で復元された渡海船の場合は、和船の上に入母屋造りの箱を設置して、その四方に四つの鳥居が付加されるという設計となっている。鳥居の代わりに門を模したものを付加する場合もあるが、これらの門はそれぞれ「発心門」「修行門」「菩提門」「涅槃門」と呼ばれる』。『船上に設置された箱の中には行者が乗り込むことになるが、この箱は船室とは異なり、乗組員が出入りすることは考えられていない。すなわち行者は渡海船の箱の中に入ったら、箱が壊れない限りそこから出ることは無い』。『渡海船には艪、櫂、帆などの動力装置は搭載されておらず、出航後、伴走船から切り離された後は、基本的には海流に流されて漂流するだけとなる』とある。これについてウィキの「補陀洛山寺」の方では、『船上に造られた屋形には扉が無い。屋形に人が入ると、出入り口に板が嵌め込まれ外から釘が打たれ固定されるためである。その屋形の四方に』四つの鳥居が建っている。『これは「発心門」「修行門」「菩薩門」「涅槃門」の死出の四門を表しているとされる』。渡海は北風が吹き出す旧暦の十一月に行われ、『渡海船は伴船に沖に曳航され、綱切島近くで綱を切られた後、朽ちたり大波によって沈むまで漂流する。もちろん、船の沈没前に渡海者が餓死・衰弱死した事例も多かったであろう。しかし、船が沈むさまを見た人も、渡海者たちの行く末を記した記録も存在しない』とする。以下、「渡海者と金光坊」の項。『渡海者たちについて詳しく記した資料は残っていないが、初期は信仰心から来る儀礼として補陀洛渡海を行っていたと考えられている。平安・鎌倉時代を通じて』六名が渡海したと『補陀洛山寺に建つ石碑に記されている。これが戦国時代になる』と、六十年間に九名もの渡海者が現れたとされ、『この頃になると、熊野三山への参詣者が減少したことから、補陀洛渡海という捨身行によって人々の願いを聞き届けるという形で宣伝され、勧進のための手段としての側面が現れたとされる』。十六世紀後半には、『金光坊という僧が渡海に出たものの、途中で屋形から脱出して付近の島に上陸してしまい、たちまち捕らえられて海に投げ込まれるという事件が起こった。後にその島は「金光坊島(こんこぶじま)」とよばれるようになり、またこの事件は井上靖の小説『補陀洛渡海記』の題材にもなっている』(井上の作品は諸星大二郎の漫画で異端の民俗学者稗田礼二郎(編集者によってシリーズ名を不本意にも「妖怪ハンター」と名付けられてしまった)シリーズの「六福神」の短編「帰還」とともに私の補陀落渡海を素材とした愛読書である)。『江戸時代には住職などの遺体を渡海船に載せて水葬するという形に変化したようである』とある。私は二〇〇六年夏、念願のこの地に参り、親しく渡海僧の供養塔や復元された渡海舟も見、写真にも収めたのであるが、すぐにそれが出てこない。取り敢えず、ウィキの「補陀落渡海」にある使用が許諾されている663highland 氏の写真を以下に掲げておくこととする。
 

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「栢」裸子植物門マツ綱マツ目イチイ科カヤ
Torreya nucifera ウィキの「カヤ」によれば、『種子は食用となる。そのままではヤニ臭くアクが強いので数日間アク抜きしたのち煎るか、土に埋め、皮を腐らせてから蒸して食べる。あるいは、灰を入れた湯でゆでるなどしてアク抜き後乾燥させ、殻つきのまま煎るかローストしたのち殻と薄皮を取り除いて食すか、アク抜きして殻を取り除いた実を電子レンジで数分間加熱し、薄皮をこそいで実を食す方法もある。果実から取られる油は食用、灯火用に使われるほか、将棋盤の製作過程で塗り込まれる。将棋盤のメンテナンス用品としても使用される。また、山梨県では郷土の食品として、実を粒のまま飴にねりこみ、板状に固めた「かやあめ」として、縁日などで販売される。また、カヤの種子は榧実(ひじつ)として漢方に用いられるほか、炒ったものを数十粒食べるとサナダムシの駆除に有効であるといわれる』とある。

「文德天皇の御宇」平安前期の天皇第五十五代文徳天皇の在位は嘉祥三(八五〇)年~天安二(八五八)年。彼はかの惟喬親王の父である。

「齋衡二年」西暦八五五年。

「惠蕚法師」(生没年未詳)平安前期の僧。承和の初めに本文に出る「橘太后」、嵯峨天皇の皇后橘嘉智子(たちばなのかちこ)の命を受けて渡唐し、「五臺山」(山西省北東部の台状の五峰からなる山で、峨眉山・天台山とともに中国仏教の三大霊場の一つ。文殊菩薩の住む清涼山に擬せられた。元代以降はチベット仏教の聖地となった)に袈裟などを寄進し、承和一四(八四七)年に日本に禅を広めることを志して、義空を伴って帰国したが、斉衡年間に再び渡唐し、その帰途、現在の浙江省の舟山列島の補陀(ふだ)山に補陀洛山寺(後の普済寺)を開いて、遂にその地に留まったという(以上は主に講談社「日本人名大辞典」に拠った)。唐から初めて禅僧を招聘したこと、平安文学に大きな影響を与えた「白氏文集」の本邦での後の普及発展の動機を与えたことなど、当時の日本の東アジア交流に大きな足跡を残した人物である(ここは出版二〇一四田中史生入唐僧恵蕚と東アジア 附 恵蕚関連史料集書店解説に拠った)。

「觀世音菩薩の像を感得し、四明山より、日本に歸朝せし所に、風に離されて補陀洛山に至りたり。舟を出さんとするに、更に動かず、怪みて像を舟より上げたりければ、舟は輕に出でたり。惠蕚は、觀音の像を置きて歸らんことを悲み、海邊に庵を結びて、住居して、誦經奉事す。後に漸く寺となる。禪刹の名藍なり」「四明山」は浙江省東部の寧波の西方にある山で古くからの霊山。名は「日月星辰に光を通じる山」の意で寺院が多い。宋初に知礼(九六〇年~一〇二八年)が、ここの延慶寺(保恩院)で天台の教えを広めた。……しかし……どうも気になる。先に示した「惠蕚」の注の事蹟によれば、彼が最後に漂着したのは日本ではなく、現在の浙江省の舟山列島の補陀山でそこに補陀洛山寺を建立して、そこで没したという。これが公式見解であるらしいが、どうも何かおかしい。そこで調べて見ると実は、現在の兵庫県神戸市兵庫区松原通にある時宗の真光寺(ここは一遍が遷化したところで一遍廟所がある)は、恵萼が唐より観世音を持ち帰った際にこの近くの和田岬(兵庫県神戸市兵庫区の大阪湾の神戸港に面する岬)で船が動かなくなったので、堂を建てて祀ったのが始まりとされているのである。ro-shin 氏の「Pilgrim 東西南北巡礼記 【関西】」の真光寺 (一遍上人・寺宗の本山)でその観音像が見られる。……まあよかろう、行き行きて観音の留まれば、そこはどこであろうと補陀落である……

 以下「吾妻鏡」の天福元年(一二三三)五月二十七日の条を示す。

 

〇原文

廿七日辛未。武州參御所給。帶一封狀。被披覽御前。令申給曰。去三月七日。自熊野那智浦。有渡于補陀落山之者。號智定房。是下河邊六郎行秀法師也。故右大將家下野國那須野御狩之時。大鹿一頭臥于勢子之内。幕下撰殊射手。召出行秀。被仰可射之由。仍雖隨嚴命。其箭不中。鹿走出勢子之外。小山四郎左衞門尉朝政射取畢。仍於狩場。遂出家。逐電不知行方。近年在熊野山。日夜讀誦法花經之由。傳聞之處。結句及此企。可憐事也云々。而今所令披覽給之狀者。智定誂于同法。可送進武州之旨申置。自紀伊國糸我庄執進之。今日到來。自在俗之時。出家遁世以後事。悉載之。周防前司親實讀申之。折節祗候之男女。聞之降感涙。武州昔爲弓馬友之由。被語申云々。彼乘船者。入屋形之後。自外以釘皆打付。無一扉。不能觀日月光。只可憑燈。三十ケ日之程食物幷油等僅用意云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿七日辛未。武州御所に參り給ふ。一封の狀を帶して、御前に披覽せられ、申さしめ給ひて曰く、

「去ぬる三月七日、熊野那智の浦より、補陀落山に渡るの者有り。智定房と號す。是れ、下河邊六郎行秀法師なり。故右大將家、下野國那須野の御狩の時、大鹿一頭、勢子の内に臥す。幕下、殊なる射手を撰(えら)びて、行秀を召し出で、射るべきの由、仰せらる。仍つて嚴命に隨ふと雖も、其の箭(や)中(あた)らず、鹿、勢子の外へ走り出づ。小山四郎左衞門尉朝政、射取り畢んぬ。仍つて狩場に於いて出家を遂げ、逐電し、行方を知らず。近年、熊野山に在りて、日夜法花經を讀誦(どくじゆ)の由、傳へ聞くの處、結句、此の企(くはだ)てに及ぶ。憐むべき事なり。」と云々。

而るに今、披覽せしめ給ふ所の狀には、智定、同法(どうほふ)に誂(あつら)へ、武州に送り進ずべきの旨、申し置く。紀伊國糸我庄(いとがのしやう)より之を執り進じて、今日、到來す。在俗の時より、出家遁世以後の事、悉く之れを載す。周防前司親實、之れを讀み申す。折節、祗候(しかう)の男女、之を聞き、感涙を降(くだ)す。武州、昔、弓馬の友たるの由、語り申さるると云々。

彼(か)の乘船は、屋形(やかた)に入るの後(のち)、外より釘(くぎ)を以つて皆、打ち付け、一扉(いつぴ)も無し。日月(じつげつ)の光を觀る能はず。只だ、燈(ともしび)を憑(たの)むべし。三十ケ日が程の食物幷びに油(あぶら)等僅かに用意すと云々。]

2015/04/23

博物学古記録翻刻訳注 ■14 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる海月の記載

博物学古記録翻刻訳注 ■14 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる海月の記載

 

[やぶちゃん注:「博物学古記録翻刻訳注 ■12 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる海鼠の記載」「博物学古記録翻刻訳注 ■13 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる老海鼠(ほや)の記載」「本朝食鑑」の第三弾。私の偏愛するクラゲである。「本朝食鑑」については上記「12」のリンク先の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館のデジタルコレクションの以下の頁から始まる「海月」パートの画像を視認した。本文は漢文脈であるため、まず、原典との対照をし易くするために原文と一行字数を一致させた白文を示し(割注もこれに准じて一行字数を一致させてある。底本にある訓点は省略した)、次に連続した文で底本の訓点に従って訓読したものに、独自に読みや送り仮名を附したものを示し、その後に注と訳を附した。原典ではポイント落ち二行書きの割注は〔 〕で同ポイントで示した。なお、原典では原文の所で示したように、頭の見出しである「海月」のみが行頭から記されてあり、以下本文解説は総て一字下げである。二度出て来る「鰕」とした字は原典では「叚」の右部分が「殳」であるが、表示出来ない字であるので、文意からこれと判断して示した。「蔵」「静」など異体字は原典のママである。字体判断に迷ったものや正字に近い異体字(「狀」など)は正字で採った。

 注文するも未だ東洋文庫版は到着せず。――暴虎馮河のオリジナル現代語訳を敢えて公開する。【二〇一五年四月二十三日 藪野直史】一九七七年平凡社東洋文庫刊の国語学者島田勇雄(いさお)氏の手に成る訳注本を昨日入手したので、追記箇所が分かるようにして補足した。訳のうち、最後の「然れども微温か。未だ詳らかならず」の箇所のみ島田氏の訳を参考に修正を行った。【二〇一五年四月二十八日追記】遅巻き乍ら、「本朝食鑑」には和漢の本草記載の違いを考察する「華和異同」という別項が各部の終りに附されていることに気づいたので、その本文に準じて追加することとした。但し、本文とダブる箇所が甚だ多いので注は最小限に留めてある。【二〇一五年五月二十三日追記】

 

□原文

 

海月〔訓久良介〕

 釋名水母〔鰕附從之如子之從母故曰水母源順

 曰食經海月一名水母貌如月在海中

 故以名之凡自古以海月而名者尚矣以形色名

 之則於水母不相當雖圓形而不正其色亦殊一

 種有水海月者色白形圓言之乎陳蔵器

 李時珍俱以江瑤爲海月是形色相當矣〕

 集觧狀如水垢之凝結而成渾然體静隨波逐潮

 浮于水上其色紅紫無眼口無手足腹下有物如

 絲如絮而長曳魚鰕相隨※1其涎沫大者如盤小

[やぶちゃん注字:「※1」=「口」+「匝」。]

 者如盂其最厚者爲海月頭其味淡微腥而佳江

 東未見之海西最多故煎茶渣柴灰和鹽水淹之

 以送于東而爲魚鱠之伴或和薑醋熬酒以進之

 一種有唐海月者色黄白味淡嚼之有聲亦和薑

 醋熬酒以進之是自華傳送肥之長﨑而來本朝

 亦製之其法浸以石灰礬水去其血汗則色變作

 白重洗滌之若不去石灰之毒則害人一種有水

 海月者色白作團如水泡之凝結亦曳絲絮魚鰕

 附之隨潮如飛漁人不采之謂必有毒又有無毒

 者而味不好江東亦多有之古人詠艶情之歌有

 海月遇骨之語是誕妄乎

 氣味鹹平無毒〔或曰鮾則生腥臭然微温乎未詳〕主治婦人朱血

 及び帶下食之而良或謂伏河豚毒

 

□やぶちゃん訓読文(原典の一字下げは省略した。読み易くするために句読点・記号・濁点・字空けを適宜、施した。一部に独自に歴史仮名遣で読みや送り仮名を附してあるが、読解に五月蠅くなるので、特にその区別を示していない。なお、原典には振られている読み仮名は少なく、片仮名で「尚(ヒサ)シ」・「水海月(クラケ)」(「水」にはない)・「水垢(アカ)」(「水」にはない)とあるのみである。また、「貌」(かたち)には「チ」が、「者」(もの)には「ノ」が、「狀」(かたち)には「チ」が送られてあるが、省略した。また、つまらぬ語注を減らすためにわざと確信犯で訓読みした箇所もあり、こうした恣意的な仕儀を経ている我流の訓読であるので、学術的には原典画像と対比しつつ、批判的にお読みになられたく存ずる。)

 

海月〔久良介(くらげ)と訓ず。〕

 釋名 水母〔鰕(えび)、附きて之れに從ふ。子の母に從うふがごとし。故に水母と曰ふ。源順(みなもとのしたごふ)が曰く、『「食經」、海月、一名、水母。貌(かたち)、月の海中に在るがごとし。故に以つて之れに名づく。』と。凡そ、古へより海月を以つて名づくる者、尚(ひさ)し。形・色を以つて之れに名づくれば、則ち、水母、相ひ當(あた)らず。圓形と雖も不正なり。其の色も亦、殊(こと)なり。一種、水海月(みづくらげ)と云ふ者、有り。色、白く、形、圓(まどか)にして之を言ふか。陳蔵器・李時珍、俱に江瑤(かうえう)を以つて海月と爲(な)す。是れ、形・色、相ひ當れり。〕

 集觧 狀(かたち)、水垢(みづあか)の凝(こ)り結びて成るがごとく、渾然、體(てい)、静かなり。波に隨ひ、潮を逐ふて、水上に浮かぶ。其の色、紅紫。眼・口、無く、手・足、無し。腹の下、物、有りて絲のごとく、絮(ぢよ)のごとくにして、長く曳く。魚鰕、相ひ隨ひて其の涎沫(よだれ)を※1(す)ふ[やぶちゃん注字:「※1」=「口」+「匝」。]。大なる者は盤のごとく、小さきなる者は盂(はち)のごとし。其の最も厚き者は、海月の頭と爲る。其の味はひ、淡(あは)く微腥(びせい)にして佳なり。江東、未だ之を見ず。海西、最も多し。故に煎茶渣(かす)・柴灰(しばはひ)、鹽水に和して之を淹(あん)じて、以つて東に送りて、魚鱠(うをなます)の伴と爲す。或いは薑醋(しやうがず)・熬酒(いりざけ)に和して、以つて之を進む。一種、唐海月(からくらげ)と云ふ者、有り。色、黄白、味はひ淡く、之を嚼(は)みて、聲、有り。亦、薑醋・熬酒に和して、以つて之を進む。是れ、華より肥の長﨑に傳送して來たる。本朝にも亦、之れを製す。其の法、浸すに石灰・礬水(ばんすゐ)を以つてして其の血・汗を去る。則ち、色、變じて白と作(な)る。重ねて之を洗ひ滌(のぞ)く。若(も)し、石灰の毒を去らざれば、則ち、人を害す。一種、水海月と云ふ者有り、色、白くして團(だん)を作(な)し、水泡の凝結するがごとく、亦、絲絮(しぢよ)を曳きて、魚鰕、之に附く。潮に隨ひて飛ぶがごとし。漁人、之れを采らず、謂ふ、必ず、毒、有ると。又、毒無き者有るとも、味はひ、好からず。江東にも亦、多く之れ有り。古人、艶情の歌を詠(えい)じて、「海月、骨に遇ふ。」の語、有り。是れ誕妄(たんばう)か。

 氣味 鹹平(かんへい)。毒、無し。〔或いは曰く、『鮾(あざ)る時は則ち、腥臭(せいしう)生ず。』と。然れども微温か。未だ詳らかならず。〕 主治 婦人の朱血及び帶下(こしけ)、之を食ひて良し。或いは謂ふ、河豚(ふぐ)の毒を伏すと。

 

□やぶちゃん語注(私は既に寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の――「海※2」(「※2」=「虫」+「宅」)の項――則ち、クラゲの項――の私の注で、包括的なクラゲについての概説と見解を述べてある。出来ればそちらも是非、参照されたい。但し、「本朝食鑑」全体の構成要素である「釋名」等の語意については既に「博物学古記録翻刻訳注 ■12 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる海鼠の記載」で施しているので繰り返さなかった。そちらを参照されたい。)

・「海月〔久良介(くらげ)と訓ず。〕……」以下、「くらげ」の語源説が示されてある「水母」のそれは私には初耳乍ら、その是非は別としても、クラゲの生態をよく観察していて興味深い(後注参照)。本邦の水族館としてのクラゲの本格常設展示の濫觴の後身である新江ノ島水族館の公式ブログ「えのすいトリーター日誌」の『9は9ラゲの9~(その5)「クラゲ」の語源』には、表記としては他に「水月」「鏡虫」「久羅下」を掲げ、

 ・海の中をクラクラと浮遊しているから、クラゲ

 ・暗闇にいる化物→暗化け→クラゲ

 ・目がなくてさぞかし暗いだろうから、暗げ

 ・丸くてくるくる回っている→くるげ→くらげ

 ・いるとなんとなく暗いから、暗げ

という語源説示す。目がないとされたところから「暗い」意或いは「黒い」意とするのは、松永貞徳「和句解」(寛文二(一六六二)年)や貝原益軒「本釈名」(元禄一二(一六九九)年)に載る旨、ネットのQ&Aサイトにあった。また、ウィキの「クラゲ」には別に、『丸い入れ物「輪笥(くるげ)」に由来するとの説』を見出せるが、この一見、古さを感じさせ、まことしやかに見える説については、村上龍男・下村脩共著「クラゲ世にも美しい浮遊生活 発光や若返りの不思議」(二〇一四年PHP研究所刊)の「クラゲの語源」で、『確かに形は似ているかもしれないが、比較的身近にいる生き物より、二つの言葉』(「くるむ」「くるめく」などの「丸い」の意を含む接頭辞「輪(くる)」と食器の「笥(け)」の二語ということ)『が合成されてでき上がった人工物の名のほうが古いとは考えにくいのではなかろうか。実際、「輪笥」という言葉は、古事記にも万葉集にも出てこない』とあり、私も頗る同感である。

 語源は辿れぬものの、私が遙かに興味深いのは、本邦の文学・史書に最初に現われる最初の生物こそが、この「くらげ」である事実なのである。ご存じのように、それは日本最古の史書にして神話である「古事記」の、それもまさに冒頭に登場するという驚天動地の事実なのである。「古事記」本文の冒頭を引く。

〇原文

天地初發之時、於高天原成神名、天之御中主神訓高下天、云阿麻。下效此、次高御巢日神、次神巢日神。此三柱神者、並獨神成坐而、隱身也。

次、國稚如浮脂而久羅下那州多陀用幣流之時、如葦牙、因萌騰之物而成神名、宇摩志阿斯訶備比古遲神此神名以音、次天之常立神。訓常云登許、訓立云多知。此二柱神亦、獨神成坐而、隱身也。

〇やぶちゃんの訓読

 天地(あめつち)の初めて發(おこ)りし時、高天(たかま)の原に成れる神の名(みな)は、天之御中主(あめのみなかぬし)の神。次に高御産巣日(たかみむすひ)の神。次に神産巣日(かみむすひ)の神。此の三柱(みはしら)の神は、並(みな)、獨神(ひとりがみ)に成り坐(ま)して身を隱すなり。

 次に、國、稚(わか)く、浮かべる脂(あぶら)のごとくして、九羅下(くらげ)なす多陀用弊(ただよ)へる時、葦牙(あしかび)のごと、萌(も)え騰(あが)る物に因りて成れる神の名は、宇摩忘阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。次に天之常立(あめのとこたち)の神。此の二柱(ふたはしら)の神も亦、獨神と成り坐(ま)して、身を隱すなり。

「獨神」とは、男女神のような単独では不完全なものではない相対的存在を超越した存在の意で、また「身を隱す」というのは、天地の本質の中に溶融して一体となったことを意味すると、私は採っている。「葦牙」は、生命の誕生の蠢動を象徴する春の葦の芽の意。

 これを見ても分かる通り、日本神話に於いてはこの地上の地面そのものがカオスからコスモスの形態へと遷移する浮遊状態にあったそれを「久羅下(くらげ)」に比しているのである。まさに――「くらげ」は日本に於いては世界で最初に神によって名指された生物である――ということになるのである! 私は「古事記」を大いにしっかり授業でやるべきだと考えている(『扶桑社や「新しい歴史教科書」を編集している愚劣な輩へ告ぐ!!!』をも参照されたい)。それは、若者たちが、こういう博物学的な興味深い事実にこそ心打たれることが大切だと考えるからである。それは、強い神国としての日本をおぞましくも政治的に宣揚するためにではなく、である。

・「鰕、附きて之れに從ふ。子の母に從うふがごとし」すぐ頭に浮かぶのは鉢虫綱根口クラゲ目イボクラゲ科エビクラゲ Netrostoma setouchiana であるが(私は二〇〇八年前に寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」ではこの共生するエビ類について『ここで共生するエビは、特定種のエビではないようである(ただ研究されていないだけで特定種かも知れない)』と述べたが、今回、二〇一一年刊の『広島大学総合博物館研究報告』の大塚攻・近藤裕介・岩崎貞治・林健一共著の論文「瀬戸内海産エビクラゲNetrostoma setouchiana に共生するコエビ類」によって『コエビ類の共生はエビクラゲのみから確認され』たこと、それによって『宿主特異性が高いこと』が判明していることが分かった)、さらに好んで鉢虫・ヒドロ虫類及びクシクラゲ類・サルパ類(この後者の二種は触手動物門や原索動物尾索類だ、などと鬼の首を捕ったように言う勿れ。彼らは広い意味で永く水中を漂う立派な「クラゲ」として「~クラゲ」としてその名を附して呼ばれたり、同じ仲間として認識されてきたのである)に寄生するエビとなれば、節足動物門大顎亜門甲殻綱エビ亜綱エビ下綱フクロエビ上目端脚目(ヨコエビ目)クラゲノミ亜目 Hyperiideaに属するクラゲノミHyperiame medusarumやオオタルマワシPhronima stebbingi などの同クラゲノミ亜目に属するウミノミ類の仲間辺りが挙げられよう。それ以外にも刺胞毒の強いヒドロ虫綱クダクラゲ目嚢泳亜目カツオノエボシ科カツオノエボシ Physalia physali 等に共生(私はエボシダイがクラゲの体の一部を食べることがあること、エボシダイに明白なカツオノエボシの刺胞毒に対する耐性が認められることなどから、寄生或いは胡散臭いので好きな言葉ではないのだが片利共生と考えている)しているスズキ目エボシダイ科エボシダイ Nomeus gronovii の幼体など、調べて見れば、クラゲを「母」とする、特定の「子」は実は決して稀ではないことが分かるはずである。そうしてそういうものを目にしてきた漁師やそれを伝聞した本草家がいたということ、それがこうして記載されていることこそが、幸せな博物学の時代を象徴するしみじみとした事実として私の心を打つのだとだけは言っておきたいのである。

・「源順」(延喜一一(九一一)年~永観元(九八三)年)は平安中期の学者で歌人。嵯峨源氏の一族で、大納言源定の孫左馬允源挙(みなもとのこぞる)の次男。以下、ウィキの「源順」によれば、若い頃より奨学院において勉学に励んで博学として知られ、二十代で日本最初の分類体辞典「和名類聚抄」を編纂した。天暦五(九五一)年には和歌所の寄人(よりゅうど)となり、「梨壺の五人」の一人として「万葉集」の訓点と「後撰和歌集」撰集に参加した。漢詩文に優れた才能を見せる一方、天徳四(九六〇)年の内裏歌合にも出詠しており、様々な歌合で判者を務めるなど和歌にも才能を発揮した。特に斎宮女御徽子(きし/よしこ)女王とその娘規子内親王のサロンには親しく出入りし、貞元二(九七七)年の斎宮規子内親王の伊勢下向の際にも随行した。『だが、彼の多才ぶりは伝統的な大学寮の紀伝道では評価されなかったらし』い。それでも康保三(九六六)年に『従五位下下総権守に任じられ(ただし、遥任)、翌年和泉守に任じられるなど、その後は受領として順調な昇進を遂げるが、源高明のサロンに出入りしていたことが安和の変』(安和二(九六九)年に起きた藤原氏による他氏排斥事件。謀反の密告により左大臣源高明が失脚)『以後に影響を与え』、以後の昇進は芳しくなかった。『三十六歌仙の一人に数えられる。大変な才人として知られており、源順の和歌を集めた私家集『源順集』には、数々の言葉遊びの技巧を凝らした和歌が収められている。また『うつほ物語』、『落窪物語』の作者にも擬せられ、『竹取物語』の作者説の一人にも挙げられ』ている。以下は「和名類聚抄」からの引用。であるが、国立国会図書館のデジタルコレクションの当該頁を視認すると、やや異なる。以下に示す。

   *

海月 崔禹錫食經云海月一名水母〔和名久良介〕貌似月在海中故以名之

   *

・「食經」唐の本草学者崔禹錫撰になる食物本草書「崔禹錫食経」。現在は散佚。後代の引用から、時節の食の禁忌・食い合わせ・飲用水の選び方等を記した総論部と、一品ごとに味覚・毒の有無・主治や効能を記した各論部から構成されていたと推測されている。順の「倭名類聚鈔」に多く引用されている。

・「水海月」現行、狭義のそれ、真正の「ミズクラゲ」は刺胞動物門鉢虫綱旗口クラゲ目ミズクラゲ科ミズクラゲ属 Aureliaのミズクラゲ Aurelia aurita 。なお、本邦には他に北海道に分布するキタミズクラゲ Aurelia limbata がいる。これは傘径が三〇センチメートル前後と大型で(ミズクラゲは十三センチメートル前後)、放射管が網目状になっている点、触手や傘の辺縁部が褐色を帯びる点でミズクラゲ Aurelia aurita と識別出来る。しかし、本項の最後の叙述などを見ると、これは現在の狭義のミズクラゲとは一致しない謂いと私は採る(後注参照)。

・「陳蔵器」(六八一年?~七五七年?)は唐代の医学者で本草学者。浙江省の四明の生まれ。開元年間(七一三年~七四一年)に博物学的医書「本草拾遺」を編纂している。

・「李時珍」(一五一八年~一五九三年)は明代を代表する医学者で本草学者。湖北省の蘄州(きしゅう)の生まれ。中国古来の植物・薬物を研究、兼ねて動物や鉱物を加味しながら主として医用の立場で集成した本草学の確立者にして伝統的中国医療の集大成者。本「本朝食鑑」が模しているところの彼の主著「本草綱目」(五十二巻)は一五九六年頃の刊行で、巻頭の巻一及び二は序例(総論)、巻三及び四は百病主治として各病症に合わせた薬を示し、巻五以降が薬物各論で、それぞれの起源に基づいた分類がなされている。収録薬種一八九二種、図版一一〇九枚、処方一一〇九六種にのぼる。

 

・「江瑤」「瑤」は美しい宝玉の意。蔵器と時珍は「海月」に相当するものを「江珧」と呼んでいる事実はある。しかし、

 「海月」=「江珧」≠クラゲ

なのである(それは人見も認識しているようである)。例えばこの「江瑤」が、貝原益軒の「大和本草卷之十四 水蟲 介類 タイラギ」にも以下のように表れている(これは貝の足綱翼形亜綱イガイ目ハボウキガイ科クロタイラギ属タイラギである。学名を示さないのには理由がある。リンク先を必参照)。以下、リンク先で私が書き下したものを示す(下線やぶちゃん)。

   *

たいらぎ 殻、大にて、薄し。肉柱、一つあり、大なり。食すべし。腸(はらわた)は食ふべからず。和俗、※1の字を用ゆ、出處なし。江瑤(かうえう)及び玉珧(ぎよくえう)は本草諸書にのせたり。肉柱、四つあり。殻、瑩潔(えいけつ)にして美なり。たいらぎは殻、美ならず。肉柱、一つあり。是れ、似て是れならず。然れども、たいらきも江瑤の類いなるべし。「※2※3」は本草に載せたり。「たいらぎ」と訓するは非なり。

[やぶちゃん字注:「※1」=「虫」+「夜」。「※2」=「虫」+「咸」。「※3」=「虫」+「進」。]

   *

この「江瑤」がどこから出て来たものか、今の所、その水源を捜し得ないのであるが、まず「本草綱目」のどこに「江珧」が出るかというと、貝類の載る「介之二」なのである(底本は国立国会図書館のデジタルコレクションの「本草綱目」の画像を視認した。下線やぶちゃん。句読点や『 』の記号は、特に分かりやすくするために部分的に恣意的に用いている。語釈を附すと、痙攣的に注が終わらなくなるので一部を除いて略した。以下の引用でも同じ)。

   *

海月〔拾遺〕

釋名玉珧〔音姚〕 江珧 馬頰 馬頰〔藏器曰、『海月、蛤類也。似半月、故名。水沫所化、煮時猶變爲水時珍曰馬甲、玉珧、皆以形色名萬震贊云、厥甲美如珧玉、是矣。〕

集解〔時珍曰劉恂「嶺表錄異」云海月大如鏡、白色正圓、常死海旁。其柱如搔頭尖、其甲美如玉。段成式「雜俎」云玉珧形似蚌、長二三寸、廣五寸、上大下小。殼中柱炙蚌稍大、肉腥韌不堪。惟四肉柱長寸許、白如珂雪、以雞汁瀹食肥美。過火則味盡也

附錄海鏡〔時珍曰一名鏡魚、一名瑣、一名膏藥盤、生南海。兩片相合成形、殼圓如鏡、中甚瑩滑、映日光如云母。有少肉如蚌胎。腹有寄居蟲、大如豆、狀如蟹。海鏡飢則出食、入則鏡亦飽矣。郭璞賦云、『瑣※3腹蟹、水母目蝦、即此。〕

 

[やぶちゃん字注:「※3」=「王」+「吉」。]

氣味甘、辛平。無毒。主治消渴下氣、調中利五臟、止小便。消腹中宿物、令人易飢能食。生薑、醬同食之〔藏器〕。

   *

「拾遺」というのは「本草拾遺」だから、少なくとも時珍は蔵器の「海月」(ひいては「江珧」)も同一物だと言っているということになって、人見の言と一致はすることになると言える。しかし、この文脈、中国語の出来ない私がぼーぅと読んでいても、これは貝――それも貝柱を食用にする二枚貝、殻の形が月の様に丸いてなことを述べていることぐらいは分かる。即ち、この「海月」は「クラゲ」でないのである。しかもここに出る「海鏡」の形状はこれはまた今度はタイラギではなく、斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ上科マルスダレガイ科カガミガイPhacosoma japonicum 、いや寧ろ、光沢を持つ点では斧足綱翼形亜綱ウグイスガイ目ナミマガシワ超科 ナミマガシワ科マドガイPlacuna placenta が同定候補に浮上してくるという、まさに痙攣的な大混戦の様相を呈しているのである。但し、何と! 驚くべき偶然か? ここに出る郭璞の「江賦」からの引用の『水母目蝦』の「水母」というのは、それこそこれ私が前で注した、クラゲとそれに寄生する甲殻類と思われてくるではないか?!

 では戻って、例えば「本草綱目」にクラゲは出ないのかと言えば、これが出ているのである。しかしそれは「鱗之四」の「海※4」(「※4」=「虫」+「宅」。「かいた」或いは「かいだ」。〕なのである。底本はやはり国立国会図書館のデジタルコレクションの「本草綱目」の画像を視認した(下線やぶちゃん。句読点や『 』の記号は、特に分かりやすくするために部分的に恣意的に用いている)。

   *

海※4〔「拾遺」〕

釋名水母〔拾遺〕 樗蒲魚〔拾遺〕 石鏡〔時珍曰作、宅二音。南人訛爲海折、或作蠟、 者、並非。劉恂云閩人曰、※4廣人曰水母。「異苑」、名石鏡也。〕

集解〔藏器曰、※4、生東海、狀如血■、大者如牀、小者如斗、無眼目腹胃、以蝦爲目蝦動。※4沉、故曰水母目蝦亦猶※5※5之與※6※7也。煠出以薑醋進之海人以爲常味。時珍曰、水母、形渾然凝結其色紅紫、無口眼腹。下有物如懸絮、羣蝦附之、其涎沫浮泛如飛。爲潮所擁、則蝦去而※4不得歸。人因割取之、浸以石灰礬水、去其血汁色遂白。其最濃者、謂之※4頭、味更勝。生、熟皆可食茄柴灰和鹽氷淹之良。〕

[やぶちゃん字注:「■」は判読不能。「血」+(「焰」-「火」のような(つくり)か?)。「※5」=「跫」-「足」+「鳥」。「※6」=「馬」+「巨」。「※7」=「馬」+「虛」。

氣味鹹、溫。無毒。主治婦人勞損、積血帶下、小兒風疾丹毒、湯火傷〔藏器〕。療河魚之疾〔時珍出異苑〕。

   *

因みに、後に寺島良安は、この部分を「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「海※2」(「※2」=「虫」+「宅」)で以下のように訓読している(私の語注がリンク先にある)。

   *

「本綱」に『海※2は、形ち、渾然として凝結し、其の色、紅紫、口・眼、無く、腹の下に物有り。絮(しよ)を懸けたるがごとし。羣蝦(むれえび)、之に附きて、其の涎沫(よだれ)を(す)ふ。浮汎(ふはん)すること、飛ぶがごとく、潮の爲に擁せらるれば、則ち蝦去りて、※2、歸るを得ず。人、囚りて割〔(わけ)〕て之を取る。常に蝦を以て目と爲す。蝦、動けば、※2、沈む。猶ほ蛩蛩(きようきよう)の※6※7(きよきよ)とのごとし。其の最も厚き者、之を※2頭と謂ふ。味【鹹、温。】、更に勝れり。生・熟、皆、食ふべし。薑醋(しやうがず)を以て之を進む。茄柴の灰、鹽水に和して、之を淹(い)れて良し。又、浸すに石灰・礬水(ばんすゐ)を以つて、其の血汁を去れば、其の色、遂に白し。』と。

   *

 以上で検証は一先ず終りとするが、私にはやはり調べれば調べるほど、人見の叙述は多様な別種を神経症的に羅列し、博物学的には興味深いものの、なかなか真正のクラゲに至っていないやや迂遠な解説、という気がしてならないのだが、如何であろう?【二〇一五年四月二十八日追記】島田氏の注に、「国訳本草綱目」(戦前の刊行なので「支那」とあるので注意)に「和名いたやがひ」とし、その頭注で白井光太郎氏が『海月・王珧、元ト二物、時珍之ヲ合ス誤リナリ』とし、木村康一氏は『海月ハ扇状ノ二枚貝。左右概ネ不同ニ膨ラム。殻表ハ淡褐赤色ナリ。支那本土ニ海岸ニ分布ス』と附しているとある。これだと、斧足綱翼形亜綱カキ目イタヤガイ亜目イタヤガイ科イタヤガイ Patinopecten albicans ということになる(同定候補としてはそれもありではあろう)。また、島田氏は中国でのその貝の異名として王珧・江瑤・馬頰・角帯子・江珠・楊妃舌・江瑤柱を示しておられる。因みに楊妃舌は現代中国語ではイタヤガイ科のホタテガイ Patinopecten yessoensis を指す。

 

・「渾然」全く差や違和感がなく、一つのまとまりになっているさま、もしくは角や窪みのないさまを言う。まさに、クラゲのためにあるような語である。

・「腹の下、物、有りて絲のごとく、絮のごとくにして、長く曳く」は、主として鉢クラゲ類で目立つ口腕及び一部の種のその口腕の付属器を指しているのであろう。当然、その他の縁弁を含む傘縁触手や有櫛動物の場合の触手も含んでいると考えてよい。「絮」は綿・真綿・草木の綿毛の意。

・「涎沫」音は「センマツ」で、ここもこう音読みしている可能性は高いと思われるが、私は達意の観点から確信犯で「よだれ」と訓じた。唾(つばき)や口から吹いた泡のこと。

・「※く」(「※」=「口」+「匝」)この字は音「サフ(ソウ)」で、射は吸う・啜るの意。

・「盤」食物を盛る大きな皿。盥(たらい)の意もある。

・「盂」本来は中国古代の礼器の一つで土器・青銅器ともにあり、飲食物の容器で大口の深鉢に足と左右の取手が附いているものを言うが、ここは比較的小さな飲食物を盛る口の広い鉢を指している。

・「海月の頭と爲る」クラゲの親分になるというのか? それもおかしいので一応、クラゲの頭部(傘)となると訳しておいた。【二〇一五年四月二十八日追記】この注の記載後に入手した東洋文庫版の島田勇雄氏訳注でも『最も厚いところは海月の頭といわれ』と訳しておられた。

・「江東、未だ之を見ず。海西、最も多し」ここでは既にして、食品加工用の特定のクラゲを指している。即ち、鉢虫綱根口クラゲ目ビゼンクラゲ科ビゼンクラゲ属ビゼンクラゲ Rhopilema esculenta 、その近縁種で有明海固有種のヒゼンクラゲ Rhopilema hisphidum 、ビゼンクラゲに極似したスナイロクラゲ Rhopilema asamushi (現在は原材料としないようである)である。但し、最後のスナイロクラゲの分布域は九州から陸奥湾に広く分布するのであるが、恐らくは古くより、これらを採取して食品として加工する技術が主に西日本で発達したことに由来する、分布理解の不十分な認識によるものであろう。なお、後で注するが、同科の現在の日本近海では主に有明海と瀬戸内海に棲息する本邦のクラゲ中でも最大級の種としてのエチゼンクラゲ Nemopilema nomurai は、実は江戸時代には食用クラゲとしての加工の歴史はなかったので、ここには出していない。

・「唐海月」「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「海※2」(「※2」=「虫」+「宅」)に、

   *

肥前水母【又、唐水母と名づく。】 一物にして、異製なり。其の製、明礬に鹽を和して揉み合はせ、之を漬ける。色、黄白ならしめ、使ふ時、能く洗浄し、礬氣を去る。肥前の産、最も佳し。故に名づく。其の味、淡く、之を嚼(か)むに聲有り。

   *

と出る。これに就いて私は当該注で、以下のように記した。

   *

「肥前水母」ヒゼンクラゲ 良安はこれを塩クラゲの製法違いとしているが、既に横綱エチゼンクラゲに土俵入りしてもらっている以上、やはり種としてのヒゼンクラゲにも控えてもらおう。

 ところが、その前に片付けておかなくてはならない事柄がある。私は実は、肥前(ひぜん:佐賀県と長崎県の一部)や備前(びぜん:岡山県と兵庫県の一部)といった採取された旧国名からついた和名が極めて似ているため、このヒゼンクラゲ Rhopilema hisphidum という種とビゼンクラゲ Rhopilema esculenta という種が同一のクラゲのシノニムであると思っていた(事実、前掲の二冊のかなり新しいクラゲの出版物でも索引にはビゼンクラゲしか載らない)。次に少し経って、ヒゼンクラゲというのは、ビゼンクラゲに極めて類似したスナイロクラゲ Rhopilema asamushi のシノニムではないかとも疑った。ところがレッドーデータ・リスト等を検索する内、実際にはこの三種はすべて別種であるという記載があり、また多くの観察者の記載を見るに、私もこれらは異なった種であろうという印象を持つに至った。即ちクラゲ加工業者の間で「白(シロクラゲ)」と呼称されるヒゼンクラゲ Rhopilema hisphidum は有明海固有種であり、私がシノニムを疑ったスナイロクラゲ Rhopilema asamushi はその分布域が九州から陸奥湾に広く分布するという記述だけで最早同一ではあり得ず、またビゼンクラゲ Rhopilema esculenta は業者が「赤(アカクラゲ)」と呼称するように、傘が有意に褐色を帯びており(但しヒゼンクラゲ Rhopilema hisphidum でも傘に紅斑点があるものがあり、その方が塩クラゲにするには上質とされるらしい)、見るからに異なったクラゲに見えるのである。今後のアイソザイム分析が楽しみである。

 更に付け加えておくと昨今、大量発生で問題になっているエチゼンクラゲについては、実は日本では過去に塩クラゲ加工の歴史はなかった、というのも眼からクラゲであった。昔は来なかったんだよな。はい、江戸博物書の注であっても、やっぱり温暖化の問題は避けて通れませんね。

 更に追伸。「唐水母」という名称は、今の異名としては残っていない。ところが「唐海月」という語ならば、井原西鶴の「好色一代女」卷五の冒頭「石垣戀崩」に『おそらく我等百十九軒の茶屋いづれへまゐつても。蜆やなど吸物唐海月ばかりで酒飲だ事はない。』と出て来る(近世物は苦手なので注釈書が手元にないのでこれまでである)。しかし、これはもしかするともともとは中国製の加工食品としての塩クラゲを言う言葉ではなかったか。その製法が江戸期に日本に伝わり、肥前で作られたものにこの呼称が残ったとは言えまいか(あ、さればそのルーツはまさにエチゼンクラゲ製であったかも知れないぞ)。

 最後にちゃんと名前を挙げよう。鉢クラゲ綱根口クラゲ目ビゼンクラゲ科ビゼンクラゲ属ヒゼンクラゲ Rhopilema hisphidum 。種名の頭は「ヒ」! 「ビ」じゃあない!

   *

くどいが、ビゼンクラゲ Rhopilema esculenta とヒゼンクラゲ Rhopilema hisphidum はご覧の通り、違う種である。八年も前の自分の叙述に、不覚にも思わず読み入ってしまった。……

・「華より肥の長﨑に傳送して來たる。本朝にも亦、之れを製す」以上述べた通り、中国からの舶来の加工クラゲの原材料は本邦では対象としなかった(或いは漂ってこなかった)エチゼンクラゲ Nemopilema nomurai のものである可能性が大きく、後者はビゼンクラゲ Rhopilema esculenta・ヒゼンクラゲ Rhopilema hisphidum・スナイロクラゲ Rhopilema asamushi (現在は原材料としないようである)であったということになる。味わいの違いはそうした素材種や個体の大小の違い(無論、処理方法の違いもあるであろうが)によるものであったとも言えよう。なお、現行の加工過程は「国立研究開発法人 水産総合研究センター 中央水産研究所」公式サイト内の『水産加工品のいろいろ「塩蔵クラゲ」』がよい。ここでは石灰の使用が記載されていないが、他サイトを見るとやはり使用しているようである。またサイト「くらげ普及協会」もなかなかに必見である。

・「石灰・礬水」「礬水」は「どうさ」と当て字読みし、膠(ニカワ)とミョウバンを水に溶かした液体のことを指す。一般には和紙や絹地の表面に薄く引いて、墨や絵具等が滲むのを防ぐ効果を持つ顔料である。しかし、ここでは単に明礬(ミョウバン)=硫酸アルミニウムカリウム12水和物AlK(SO4)212H2Oの水溶液を指していると考えられる。言うまでもないが「石灰」は消石灰=水酸化カルシウムCa(OH)2のことである。

・「一種、水海月と云ふ者有り、色、白くして團を作し、水泡の凝結するがごとく、亦、絲絮(しぢよ)を曳きて、魚鰕、之に附く。潮に隨ひて飛ぶがごとし。漁人、之れを采らず、謂ふ、必ず、毒、有ると。又、毒無き者有るとも、味はひ、好からず。江東にも亦、多く之れ有り」ここまで総てがこの「水海月(みづくらげ)」なるものの、一貫した記載であるとしか読めないのであるが、これはどうもミズクラゲの単種を指しているとはどうしても読めない。まず漁師が「必ず、毒、有る」と確信犯で述べている点である。これは漁師の言としてはやや奇異である。但し、ミズクラゲの刺胞毒は極めて弱いことで知られるが、個人差があってミズクラゲでも刺される人はおり、体質によっては結構な症状を呈する。私の高校時代の友人にもミズクラゲで痛みを感じ、実際に炎症を起こす者がいた。例えば「三重県農林水産部水産資源課」公式サイト内の「ミズクラゲに刺される ミズクラゲを侮るなかれ」を参照されたい(そもそも真正のクラゲ類では、まず刺胞毒が全くないものといのは極めて稀で殆んどないとと言ってもよい。本邦産のものは基本、如何なるクラゲも刺胞には安易に触らぬ神にの類いではある。但し、傘なら安全と言う訳でもない。海外のケースであるが、TV番組で傘だけを持ったレポーターが数日後に激しい炎症を起こした事例を知っている)。話を戻すと、私は当時の漁師にとって「必ず毒がある」としてまず採らないというのは強毒のアカクラゲやカツオノエボシなどで(通称言うところの電気クラゲであるアンドンクラゲなども強い刺胞毒を持つが、この手のクラゲは獲るも獲らないも、小さ過ぎて初めから漁獲対象足り得ないから挙げない)、ミズクラゲに対して、このような忌避表現をするとは思えないというのが一。今一つは、「亦、絲絮を曳きて、魚鰕、之に附く」という部分で、ミズクラゲにも幼魚や甲殻類がいることはあるものの、「絲絮を曳きて」と表現するのは寧ろ、やはりアカクラゲやカツオノエボシで、それらには前に述べたようにエボシダイの幼魚や小海老と言うべきウミノミ類のような寄生や片利共生を容易に現認出来るからである。

・「古人、艶情の歌を詠じて、海月、骨に遇ふの語、有り」延慶三(一三一〇)年頃に成立した藤原長清撰になる私撰和歌集「夫木和歌抄」の巻二十七雑九に、

 

  我が戀は浦の月をぞ待ちわたるくらげのほねに逢ふ夜ありやと  仲正

 

とあるのを指すものであろう(寺島は「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「海※2」(「※2」=「虫」+「宅」)で本歌をやや手を加えて引いている)。源仲正(仲政とも書く)は平安末期の武士で、酒呑童子や土蜘蛛退治で有名なゴーストバスター源頼光の曾孫である。即ち、ひいじいさんの霊的パワーは彼の息子、鵺(ぬえ)退治の源頼政に隔世遺伝してしまい、仲正の存在はその狭間ですっかり忘れ去られている。しかし歌人としてはこの和歌に表れているような、まことにユーモラスな歌風を持つ。訳しておくと、

   *

やぶちゃん訳:私の恋は、浦に上る遅い月をひたすら待ち続けるようなもの……意地悪くも、その上ぼる月が水面に映ったかと見紛う海月……その海月の骨に出逢う夜が――世が――時が――やって来るのであろうか? いや、それは海月に骨がないように、私の恋は、決して成就することなどないに違いない……

   *

といった感じである。

・「誕妄」「妄誕」で「ばうたん(ぼうたん)」の方が一般的か。言うことに根拠のないこと、また、その話の意。「妄」は「まう(もう)」と読んでもよい。

・「鮾る」魚肉などが腐る。

・「然れども微温か。未だ詳らかならず」漢方で軽く温める効果を持つものを「微温」と称するが、腐ると腥い臭気を帯びるものは微温ではなく微寒の効果を持つはずなのに、という人見の疑問か? ここ、文脈の繋がり方がよく分からない。識者の御教授を乞うものである。訳では分からないながらに逐語訳して誤魔化した。【二〇一五年四月二十八日追記】この注の記載後に入手した東洋文庫版の島田勇雄氏訳注では、この割注全体は『鹹平。無毒。あるいは鮾敗(くさ)ると腥臭を発生するともいうが、微温かどうかはは未だ詳らかでない』と訳しておられるので、ここは「然れども微温なるかは未だ詳らかならず」で、私の認識とは逆に――腐ると腥(なまぐさ)い臭いを発するという以上、微温の性質であるということであるらしいが、本当にそうかどうかはいまだよく分からない――という意味である。その方が叙述としては自然に感じられるので、私の訳もそのように今回改変した。

・「失血」不詳。漢方用語にはない。以下の並列する「帶下」から考えると貧血ではバランスが悪く、生殖器からの異常な不正出血を指すものか。

・「帶下」女性生殖器からの血液以外の分泌物。普通、通常の分泌を越えて不快感を起こす程度に増量した状態を指す。

・「河豚の毒を伏す」先の海鼠の記載にも出るが、不詳。私はこのような民間療法を聴いたことはない。識者の御教授を乞う。

 

■やぶちゃん現代語訳(読み易さを考えて適宜改行した。一部、前後の文脈との齟齬のある箇所は翻案している。)

 

海月〔久良介(くらげ)と訓ずる。〕

 釋名 水母〔小海老がついてきてこれに従う。子が母に從うが如くである。故に「水母」と言う。源順(みなもとのしたごう)の「和名類聚抄」に言う、『「食経」に、「海月、一名、水母。形(かたち)は月の海中にあるかの如くである。故に以って、かく名づけている。」と。』とある。

 およそ、古えより「海月」を以って名づくる海産動物は、これ、随分とあって、また相応に古いものである。

 形と色を以ってこれに名づけるとするならば、如何にも「水母」というのは相応しくない。そもそも円形を成していると言っても、その形は正円ではなく歪(いびつ)である。さらにその色もまた多種多様で、月の如き清澄な銀色を呈していないものも多い。但し、一種に「水海月(みずくらげ)」という種がおり、その色は確かに白く、形も円(まど)かであるから、これを以って「海月」と称しているものか。陳蔵器や李時珍はともに、二枚貝の「江瑤(こうよう)」を以って「海月」と同定している。これならば形・色ともに、よく当たっている。〕

 集觧 形は水垢(みずあか)が凝結して成った如きもので、渾然一体となった体を持ち、至って静かな生態を持つ。波に随い、潮を追って、水上に浮かんでいる。その色は紅紫色を呈する。眼や口はなく、手足もない。腹の下に一物があって、これは糸の如く、綿毛の如きものであって、それを長く曳いている。魚や小海老が、この垂下物につき随っており、その海月が摂餌の滓(かす)として垂らす涎沫(よだれ)を吸っては、またそれを餌としている。大きなものでは盥(たらい)ほどもあり、小さなものでは小鉢ほどといった感じである。その最も大きく厚い部分が、所謂、「海月の頭(あたま)」、傘となるのである。

 その味わいは、淡くして、やや海の香を香らせて、良きものである。

 東日本では、いまだこの類を見ない。西日本の海に、最も多くこれが認められる。

 故に煎茶の渣(かす)や柴を燃やした残りの灰(はい)に塩水(えんすい)を混ぜて、その液の中に、この生の海月を塩漬けにして、以って東に送って、魚の刺身の友としている。

 或いは生姜酢や熬(い)り酒を加えて、以ってこれを珍味として出だす。

 一種に「唐海月(からくらげ)」と言うものがいる。この色は黄白色を呈し、味わいは頗る淡いもので、これを噛むと、きゅっきゅっという如何にも絶妙な音を立てる。これもまた先と同様に生姜酢や熬酒を注いで、以ってこれを珍味として出だす。これは、中華より肥前の長崎に伝送されて齎(もたら)される舶来の品である。本朝に於いてもまた、これと同じものを製する。

 その方法は、まず、石灰と明礬(みょうばん)の水溶液に海月を浸し、以ってその血や体液を取り去る。すると色が変じて白色となる。これをさらに水で洗って汚れを細かに取り除く。特に万一、この折りに有毒な石灰の除去が不完全であると、食した者に害が及ぶ。

 一種、「水海月(みずくらげ)」というものがいる。色は白くして団塊状をなして、謂わば、水泡が凝結したかの如き形態であり、また、下に糸や綿毛様のものを長々と曳いていて、そこに小魚や小海老が好んで住みついている。潮に随って飛ぶように漂う。漁師はこれを獲らない。何故と謂うに、「必ず、毒があるから。」とのこと。また、毒がないものもいるけれども、その味わいは、これ、良くない、と。この「水海月」は東日本にもまた多くいる。

 古人に、艶情の思いを歌に詠じて、「海月、骨に遇う。」という表現をする。これは、無論、根拠のない戯言(たわごと)というべきものであろう。

 氣味 鹹平(かんへい)。毒はない。〔或いは言う、『塩海月は腐りかけた時には、すなわち、腥(なまぐさ)い臭いをずる。』と。しかし、本当に「微温」の性質を持つ食材であるかどうかについては、いまだ私にはよく分からない。〕 主治 婦人の失血及び帯下(こしけ)の症状には、これを食して良い効果がある。或いは言う、河豚(ふぐ)の毒をよく制する、とも。
 
 
 

◆華和異同

□原文

   海月

曰水母曰※或名樗蒲魚又名石鏡或謂華之海月

[やぶちゃん字注:「※」=「虫」+「宅」。]

者江瑤也然崔氏食經云海月一名水母貌似月在

海中然則華人以水母亦爲海月惟疑崔氏所言者

以色白者則指水海月而言乎海月色紫不似月之

色若以團容而言則可也南産志曰色正白濛濛如

沫者今之水海月也乎

 

□やぶちゃんの書き下し文

   海月

曰く、水母(すいぼ)。曰く、※(たく)[やぶちゃん字注:「※」=「虫」+「宅」。]。或いは樗蒲魚(ちよぼぎよ)と名づく。又、石鏡(せききやう)と名づく。或いは華の海月と謂ふ者は江瑤(かうえう)なり。然れども崔氏が「食經」に云く、『海月。一名、水母。貌(かたち)、月に似て、海中に在り。』と。然らば則ち、華人、水母を以つても亦、海月と爲す。惟だ、疑ふ、崔氏が言ふ所は、色、白きを以つてする時は、則ち水海月(みづくらげ)を指して、言ふか。海月、色、紫、月の色に似ず。若し、團容(だんよう)を以つて言ふ時は、則ち可なり。「南産志」に曰く、色、正に白にして濛濛(もうもう)として沫(あは)のごときとは、今の水海月ならんや。

 

□やぶちゃん注

・「樗蒲魚」「樗蒲」は「かりうち」とも訓じ、中国から伝来した博打(ばくち)の一種を言う。「かり」と呼ばれる楕円形の平たい四枚の木片を采(さい)とし、その一面を白、他面を黒く塗って、二つの采の黒面に牛、他の二つの采の白面に雉子を描き、投げて出た面の組み合わせで勝負を決するものを言うから、恐らくはその采の形状をクラゲに擬えたものであろう。

・「江瑤」本文の私の同注を参照されたいが、ここで人見はまさにこれをクラゲではない、恐らくは斧足類のタイラギやカガミガイとして理解しようとしているように私には読める。

・「水海月」ここでは、ここに限ってなら、これは現行のミズクラゲ科ミズクラゲ属 Aureliaのミズクラゲ Aurelia aurita と採ることが可能である。

・「海月、色、紫」人見はクラゲの一般的な色彩を「紫」と言っている。鉢虫綱根口クラゲ目ムラサキクラゲ Thysanostoma thysanura は一般には黄褐色(実際には目につくクラゲ類ではこの色のクラゲ類が最も多いように私には思われる)であるが、時に非常に美しい紫色を呈する個体もいる。他の種でも、色彩の変異がしばしば見られ、当時の紫という色範囲が青味の強いものも含むから、ヒドロ虫綱クダクラゲ目嚢泳亜目カツオノエボシ科カツオノエボシ Physalia physali まで含まれると考えれば、強ち、おかしな認識とは言えないように思われる。

 

□やぶちゃん現代語訳

   海月

「水母(すいぼ)」と言う。「※(たく)」とも言う[やぶちゃん字注:「※」=「虫」+「宅」。]。或いは、「樗蒲魚(ちょぼぎょ)」と名づける。また、「石鏡(せききょう)」と名づける。或いは、中国に於いて「海月」と言った場合、その物は二枚貝の一種である「江瑤(こうよう)」を指す、とする。しかし、崔禹錫氏の「食経」には、『海月。一名は水母。その形は月に似ており、海中に棲息している。』と述べてある。とするならば、中国人は本邦で言う「水母(くらげ)」を以ってしても、二枚貝の「江瑤」を「海月」というのと別にやはり、「海月」と称しているのである。但し、疑問に思うことは、ある。崔氏が謂うところの生物は、色の白いものを以ってかく称しているということで、則ちこれは、今言うところの「水海月(みずくらげ)」を指して言っているのだろうか、という疑義なのである。何となれば現在、私の知れる一般的な海月(くらげ)の色は基本、紫色であって、白銀の月の色には似ていないからである。但し、もしも海月(くらげ)の頭のその丸い形を以ってして海の「月」と称しているのであるとするならば、それはそれで正しいとも言える。さすれば、「閩書南産志」に曰く、『色は真っ白で、その形は何かぼんやりとしていてはっきりと捉えることが出来ぬ、謂わば水面に浮いた泡のような』とあるのも、現在の「水海月(みずくらげ)」のことを指して言っているのであろうか。

志賀理斎「耳嚢副言」附やぶちゃん訳注 「追加」 (Ⅻ) / 「耳嚢」マイ・ブーム――延べ5年と213日――取り敢えず、大団円也!

一 寛政のはじめ白川侯の御補佐ありし頃、「道中宿驛の食賣女(めしうりをんな)を停止(ちやうじ)せらるべきや、いかにやあらん」とうちうちに評議ありしとき、翁道中の奉行たりしまゝ具(つぶさ)に宿驛のありさま書(かき)つらね、「食賣女といふもの旅人寢食の給仕をなし、よりては密通いたす事も、必(かならず)其主人の制しとゞくべきいきほひにもあらず。公家・武家のうるはしき旅中と事かはり、庶民の産業には一年のうちいく度となく旅中に在(あり)て、定(さだま)りたる家には更にすむ事なきものも少なからず。かの海上を家居(いへゐ)とせる大船の船頭なるもの、湊(みなと)にくゞつなるいへる女のあるが如し。これも又ひとつの世界ならん」よしをことわり申され、「其中に目立(めだち)たる花美(くわび)を盡し遊女屋にひとしき所業(しよぎやう)もあらんには、奉行より夫々(それぞれ)嚴重の沙汰にも及び候はん」との次第、誠意を盡したる趣(おもむき)言外にあふれたりし事のよし。さらば其掟(おきて)にまかすべき事に決斷有しよし。

 嘉永四辛亥(かのとゐ)年八月廿八日發寫(はつしや)

 同年十一月十七日寫畢(うつしをはんぬ)

                 瀧 口 廣 教

[やぶちゃん注:町奉行時代ではないが、これも実に胸の透く、名捌きである。私の「耳嚢」マイ・ブームのエンディングには、まっこと、相応しい話ではないか!――これを以って「耳嚢副言」は終了する。――2009年9月22日より今日まで(延べ2039日――5年と213日)の永きに亙り、翁と私とに御付き合い戴き、忝のぅ存ずる。――根岸鎭衞翁ともども――この場を借りて読者の方々に心より御礼申し上ぐる。……では、また……いつか……何処かで……【2015年4月23日記 藪野直史】

・「寛政のはじめ白川侯の御補佐ありし頃」「白河侯」は当時の老中首座松平定信。鎮衛は定信によって天明七(一七八七)年七月に佐渡奉行から勘定奉行に抜擢された。

・「食賣女」飯盛女(めしもりおんな)。宿場にいた奉公人という名目で半ば黙認されていた私娼。参照したウィキの「飯盛女」によれば、『その名の通り給仕を行う現在の仲居と同じ内容の仕事に従事している者』『も指しており、一概に「売春婦」のみを指すわけでは』なかった。また、今、時代劇でよく聴く「飯盛女」の名は俗称であって、享保三(一七一八)年以降の『幕府法令(触書)では「食売女」と表記されている』とある。十七世紀に各街道の『宿駅が設置されて以降、交通量の増大とともに旅籠屋が発達した。これらの宿は旅人のために給仕をする下女(下女中)を置いた。もともと遊女を置いていたのを、幕府の規制をすり抜けるために飯盛女と称したという説がある。また、宿駅間の客入りの競争が激化し、下女が売春を行うようになったという説がある』。『当時、無償の公役や商売競争の激化により、宿駅は財政難であった。客集めの目玉として飯盛女の黙認を再三幕府に求めた。一方、当初は公娼制度を敷き、私娼を厳格に取り締まっていた幕府だったが、公儀への差し障りを案じて飯盛女を黙認せざるを得なくなった。しかし、各宿屋における人数を制限するなどの処置を執り、際限のない拡大は未然に防いだ』。因みに、明和九・安永元(一七七二)年で千住宿や板橋宿には百五十人、品川宿には五百人、内藤新宿には二百五十人の制限をかけている。『また、都市においては芝居小屋など娯楽施設に近接する料理屋などにおいても飯盛女を雇用している。料理屋は博徒など無法者の集団が出入りし、犯罪の発生もしくは犯罪に関係する情報が集中しやすい。その一方で、目明かし(岡っ引)などが料理屋に出入りし、公権力との関わりをもっていた。この料理屋には飯盛女が雇用されていたが、これは公権力への貢献のために黙認されていたと考えられ』ている、とある。

・「翁道中の奉行たりし」道中奉行は五街道と、その付属街道に於ける宿場駅の取締りや公事訴訟・助郷(すけごう:諸街道の宿場の保護及び人足・馬の補充を目的として宿場周辺の村落に課した夫役)の監督及び道路・橋梁などを担当した。当時の役料は年間二百五十両であった(ここはウィキの「道中奉行」に拠る)。天明七(一七八七)年に勘定奉行(同年末に従五位下肥前守叙任)した鎮衛は、翌天明八年八月三日に道中奉行を兼任している。兼任当時、鎮衛は満五十一歳であった。

・「くゞつなるいへる」底本には「なる」の「る」右に編者長谷川強先生による『〔ど〕』と訂正注が打たれてある。

・「くゞつ」ここで根岸は、当時の廻船業などの長期に亙る船旅に従事した船乗りたちが、湊々で買った売春婦のことを彼らの符牒で「くぐつ」と呼んでいたと思わせる発言をしている。但し、これが事実かどうかは確認出来なかった。事実としてもなんらおかしくはない。「傀儡子」が例えば、民俗学的でしばしば謂われる海人(あま)族の末裔であったとすれば、各地の湊を行動のランドマークとしてことは想像に難くないからである。ただ、かくも長く付き合って参ると鎭衞翁の性質(たち)がよく分かってくるのであるが、しばしば翁は、相手が知らぬであろうことを以って、はったりをかまして少し退かせるという手法を用いられる。何となくこの期に至って、これもそうした翁の茶目っ気が出たもの――翁の知ったかぶり――ではなかろうか、という気がちょっとしているのである。以下、ウィキの「傀儡子」を引いておく。元来、『傀儡子(くぐつし、くぐつ、かいらいし)とは、木偶(木の人形)またはそれを操る部族のことで』、『当初は流浪の民や旅芸人のうち狩猟と傀儡(人形)を使った芸能を生業とした集団、後代になると旅回りの芸人の一座を指した語。傀儡師とも書く。また女性の場合は傀儡女(くぐつ め)ともいう』。平安時代(九世紀)には『すでに存在し、散楽などをする集団として、それ以前からも連綿と続いていたとされる。平安期には雑芸を演じて盛んに各地を渡り歩いたが、中世以降、土着して農民化したほか、西宮などの神社の散所民(労務を提供する代わりに年貢が免除された浮浪生活者)となり、えびす舞(えびすまわし、えびすかき)などを演じて、のちの人形芝居の源流となった』。『平安時代には、狩も行っていたが諸国を旅し、芸能によって生計を営む集団になっていき、一部は寺社普請の一環として、寺社に抱えられた「日本で初めての職業芸能人」といわれている。操り人形の人形劇を行い、女性は劇に合わせた詩を唄い、男性は奇術や剣舞や相撲や滑稽芸を行っていた。呪術の要素も持ち女性は禊や祓いとして、客と閨をともにしたともいわれる。傀儡女は歌と売春を主業とし、遊女の一種だった』。『寺社に抱えられたことにより、一部は公家や武家に庇護された。後白河天皇は今様の主な歌い手であった傀儡女らに歌謡を習い、『梁塵秘抄』を遺したことで知られる。また、青墓宿の傀儡女、名曳(なびき)は貴族との交流を通じて『詞花和歌集』にその和歌が収録された』。『傀儡子らの芸は、のちに猿楽に昇華し、操り人形はからくりなどの人形芝居となり、江戸時代に説経節などの語り物や三味線と合体して人形浄瑠璃に発展し文楽となり』、『その他の芸は能楽(能、式三番、狂言)や歌舞伎へと発展していった。または、そのまま寺社の神事として剣舞や相撲などは、舞神楽として神職によって現在も伝承されている』。『寺社に抱えられなかった多くも、寺社との繋がりは強くなっていき、祭りや市の隆盛もあり、旅芸人や渡り芸人としての地位を確立していった。寺社との繋がりや禊や祓いとしての客との褥から、その後の渡り巫女(歩巫女、梓巫女、市子)として変化していき、そのまま剣舞や辻相撲や滑稽芸を行うもの、大神楽や舞神楽を行う芸人やそれらを客寄せとした街商(香具師・矢師)など現在の古典芸能や幾つかの古式床しい生業として現在も引き継がれている』とあり、また、『その源流の形態を色濃く残すものとして、サンカ(山窩)との繋がりを示唆する研究者もいる』 とし、白柳秀湖の、傀儡子というのは大陸のロマ族のような大道芸を生業とした被差別者集団が『中国・朝鮮などを経て渡来した漂泊の民族で』あったが、後に『時代が下り、その芸能を受け継いだ浮浪の』人々へと変容したもので、『民族的なものではない』という説、『その他に、「奈良時代の乞食者の後身であり、古代の漁労民・狩猟民である」とする林屋辰三郎説、「芸能を生地で中国人か西域人に学んだ朝鮮からの渡来人である」とする滝川政次郎説、「過重な課役に耐えかねて逃亡した逃散農民である」とする角田一郎説などがある』とする。また、応徳四・寛治元(一〇八七)年に大江匡房(まさふさ 長久二(一〇四一)年~天永二(一一一一)年:平安後期の学者。歌人赤染衛門は曾祖母に当たる。四歳で書を読み、八歳で「史記」や漢書に通じ、十一歳で詩を賦して神童と称せられた。十六歳の天喜四(一〇五六)年には文章得業生(もんじょうとくごうしょう:文章生〔大学寮で中国の詩文および歴史を学ぶ学科である文章道を専攻した学生〕の中から、成績優秀な者二名を選んで、官吏登用試験の最高段階である秀才・進士試験の受験候補者としたもの。)となり,学問料を支給されたが,これは菅原道真が十八歳で合格して評判になった例と比較しても異例に早い。ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)によって書かれた「傀儡子記」(漢文体で三百二十字ほどの小品)を概説して、『当時の傀儡子たちがどのような生活様式をもち、どのように諸国を漂泊していたかがうかがわれる数少ない資料となっている。傀儡子集団は定まった家を持たず、テント生活をしながら水草を追って流れ歩き、北狄(蒙古人)の生活によく似ているとし、皆弓や馬ができて狩猟をし』 、二本の剣をお手玉にしたり、『七つの玉投げなどの芸、「魚竜蔓延(魚龍曼延)の戯」といった変幻の戯芸、木の人形を舞わす芸などを行っていたとある』。『魚龍曼延とは噴水芸のひとつで、舞台上に突然水が噴き上がり、その中を魚や竜などの面をつけた者が踊り回って観客を驚かせる出し物である』(後の太夫姿の女芸人による水芸のルーツ!)。『また、傀儡女に関しては、細く描いた眉、悲しんで泣いた顔に見える化粧、足が弱く歩きにくいふりをするために腰を曲げての歩行、虫歯が痛いような顔での作り笑い、朱と白粉の厚化粧などの様相で』、『歌を歌い淫楽をして男を誘うが、親や夫らが気にすることはなく、客から大金を得て、高価な装身具を持ち、労働もせず、支配も受けず安楽に暮らしていると述べ、東海道の美濃・三河・遠江の傀儡女がもっとも美しく、次いで山陽の播磨、山陰の但馬が続き、九州の傀儡女が最下等だと記す』。『なお、大江匡房は『遊女記』も著しており、「遊女」と「傀儡女」はどちらも売春を生業とするものの、区別して捉えていたとされる』と記す。……いや、これで我らが注嚢、これ、満腹で御座るよ……

・「嘉永四辛亥年」西暦一八五一年。因みに、翌々年の嘉永六(一八五三)年の六月三日(グレゴリオ暦七月八日にはアメリカの東インド艦隊ペリー提督が四隻の黒船を率いて浦賀沖に到着、翌月の七月十八日には、ロシア大使プチャーチンが開国通商を求めて長崎に来航、江戸幕府(老中首座阿部正弘)は朝廷を始め、外様大名や市井を含む諸侯有司に対しペリーの開国通商要求に対する対応策を下問、結果、品川砲台(お台場)の構築工事を開始(翌年完成)、翌嘉永七(一八五四)年の三月三日(グレゴリオ暦三月三十一日)には遂に日米和親条約が締結されている(ウィキの「嘉永」に拠る)。

・「嘉永四辛亥年八月廿八日發寫/同年十一月十七日寫畢」「發寫」は書写の起筆。同年八月は小、九月が大、十月が小の月であるから、この「耳嚢副言」全部の筆写には述べ四十六日を費やしていることが分かる(こんなつまらない注記をするのは恐らく私ぐらいなものだろう。最後の最後までやぶちゃん流に拘った注を附すことの出来て、実は内心、非常に嬉しい。私もライターの末席に参加しているウィキペディアには最もお世話になった。最後にこの場を借りて謝意を表する)。

・「瀧口廣教」不詳。「ひろのり」或いは「ひろゆき」か。識者の御教授を――最後に――乞う。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

一 寛政の初め、翁が松平白川侯定信様の御補佐――勘定奉行に道中奉行を兼ね勤めておられたが――をなさっておられた頃、

「――街道道中宿駅の食売女(めしうりおんな)に就いて、これを停止(ちょうじ)せらるべきか否か?」

と、営中うちうちにて評議のあった折り、翁、道中奉行の就いておられたによって、具(つぶさに各所の宿駅の実態につき、手下の者を向かわせて子細に調査致いたものをしっかりとした文書に致いて披露の上、

「……以上、お示し申し上げた通り――食売女――と申す者、これは、旅人の寝食の給仕をなし、場合によっては密通など致すことのあるも、これ必ずしも、その旅籠屋主人の制止の行き届くようなる現状にては、これ、御座ない。公家や武家の、ゆったりのんびり致いた旅中とは、これ、さま変わり、庶民の生業(なりわい)の中には、一年の内、幾度となく旅中にあって、定まった一屋(ひとや)には一度として住んだことのない者も少なからず、……これは、かの海上を家居(いへい)とする大船(おおぶね)の船頭なる者らにとって、それぞれの湊(みなと)に――くぐつ――と称する女のあるが如きもの。……これもまた――一つの世界――と呼ぶべきものにて御座ろう。……」

との御自身の理(ことわり)の趣きにつき、これ、幕閣重臣の方々を前に、まっこと、正々堂々と申された上、

「――その中に、目立ったる華美を尽くし、最早、旅籠とは思われぬようなる――遊女屋に等しき所業(しょぎょう)をも成す不届き者のあったならば、これはもう、奉行より、それぞれの者に厳重なる沙汰にも及び申そうと存ずるが、如何(いかが)で御座ろう?」

との次第、誠意を尽くした簡潔なる主旨を述べ説かれ、また、その人情の温もり、これ、言外に溢れ出たものにて御座ったと申す。

 されば、翁の申された、その掟(おきて)に任すがよい、との御決断の下された、とのことである。

 

 嘉永四年辛亥(かのとい)年八月二十八日書写を始め

 同年十一月十七日写し終える

                 瀧 口 廣 教]

志賀理斎「耳嚢副言」附やぶちゃん訳注 「追加」 (Ⅺ)

 

一 いづれの年にか有けん、日本橋前後の川の附洲(つきす)を浚ひ上(あげ)る御普請の初(はじめ)に、其人歩(にんぷ)に出るもの悉く近邊の町火消人足(まちびけしにんそく)と唱ふるものなれば、先(まづ)其頭(かしら)だちたる火事場世話役といへるものを白洲へ呼出(よびいだ)し、「こたびの御用格別に精入(せいいれ)つとめよ。年頃其方(そのはう)の勤(はたらき)かたよろしきよしはかねて聞置(ききおき)たれば、分(わけ)て此事をゆだぬる」よしを申されしかば、かの老夫涙おとしてよろこびかしこまれり。翁其席を立(たち)て奧のかたに入(いり)ながら、「かやつをもまづさとし置(おき)たれば必ず落成速(すみやか)ならん」と獨りごちうれしげなりしが、豈(あに)はからんや、其普請のもなか大雨つゞきて其川邊大水なりしを、「普請手(ふしんて)もどりなるべきを厭ひ、かの老夫其川邊にをりたちこれかれ指揮せしまぎれ、あやまりて溺死せり」との訴(うつたへ)あり。翁大きに嘆息ありて、例の事とて鳥目(てふもく)そこばくを其妻子にあたへ、猶(なほ)別に葬式のたすけなど厚く惠まれつゝ、「奉行たるもの一言(いちごん)を出すもつゝしむべき事也。餘りにあつく申(まうし)さとしたれば、全く老夫の命も捨(すて)させしなり」と後悔せられたり。事がらは是非なき次第、され共(ども)士卒の打死(うちじに)をも厭はずして進むは、軍配の賢愚によるのたとへなるべし。

[やぶちゃん注:・「附洲」上流から流れて来た土砂が、下線の平野部や河口近くに於いて堆積して砂洲や中州を形成したものを称する語と思われる。それが河川の船の運航の妨げになったり、川の流れの遅滞を起して河川の氾濫や、潮位の上昇によって周辺域の浸水の原因になったものであろう。

・「町火消人足」「町火消」(まちびけし)は第八代将軍徳川吉宗の時代に始まった町人による火消のこと。以下、ウィキの「火消」の「町火消」によれば、『財政の安定化が目標の一つとなった享保の改革において、火事による幕府財政への悪影響は大きいため、消防制度の確立は重要な課題とな』り、享保二(一七一七)年に南町奉行となった大岡忠相は、翌三年に『名主たちの意見も取り入れ、火消組合の組織化を目的とした町火消設置令を出す。町火消は町奉行の指揮下におかれ、その費用は各町が負担すると定められた。これにより、火事の際には』一町につき三十人ずつ、火元から見て風上の二町と風脇の左右二町の計六町百八十人体制で『消火に当たることになった。しかし、町の広さや人口には大きな差があり、地図上で地域割りを行なったものの、混乱するばかりでうまく機能しなかった』。その後、享保五(一七二〇)年になって、地域割りを修正し、約二十町ごとを一組とし、隅田川から西を担当する「いろは組」四十七組と、東の本所・深川を担当する十六組の町火消が設けられた。『同時に各組の目印としてそれぞれ纏(まとい)と幟(のぼり)をつくらせた。これらは混乱する火事場での目印にするという目的があったが、次第に各組を象徴するものとなっていった』。享保一五(一七三〇)年には、いろは四十七組を一番組から十番組まで十の大組に分け、『大纏を与えて統括し、より多くの火消人足を火事場に集められるように改編した。一方で各町ごとの火消人足の数は負担を考慮して』十五人へ半減され、町火消全体での定員は一万七千五百九十六人から九千三百七十八人と大幅に整理された。『のちに、「ん組」に相当する「本組」が三番組に加わっていろは四八組となり、本所深川の』十六組は北組・中組・南組の三組に分けて統括され、元文三(一七三八)年には『大組のうち、組名称が悪いとして四番組が五番組に、七番組が六番組に吸収合併され、大組は』計八組となった。この年の定員は一万六百四十二人、その内訳は鳶人足が四千七十七人・店人足が六千五百六十五人であった(鳶人足と店人足の違いについては後述される)。町火消は毎年正月の一月四日に、『各組の町内で梯子乗りや木遣り歌を披露する初出(はつで)を行なった。これは、定火消が行なっていた出初に倣ってはじめられたものである』。『いろは四八組は、いろは文字をそれぞれの組名称とした(「い組」「ろ組」「め組」など)。いろは文字のうち、「へ」「ら」「ひ」「ん」はそれぞれ「百」「千」「万」「本」に置き換えて使用された。これは、組名称が「へ=屁」「ら=摩羅」「ひ=火」「ん=終わり」に通じることを嫌ったためであるという』。いろは四八組の内、「め組」は文化二(一八〇五)年に「め組の喧嘩」を引き起こしたことで知られ、明治時代に竹柴基水の作で歌舞伎の外題「神明恵和合取組」にも取り上げられている。これとは別に、町人により組織された火消として、享保七(一七二二)年に成立した『橋火消(はしびけし)もあげられる。これは橋台で商売をしていた髪結床に、橋梁の消防を命じたものである。橋の付近に多く設けられていた髪結床の店は、粗末なものが多く火事の際に飛び火の危険があるため、撤去するか地代を徴収して橋の防火費用に充てることが検討されていた。これに対し髪結床の職人たちは、自身で火消道具を揃え橋の防火を担当したいと申し出る。町奉行大岡忠相はこの申し出を認め、髪結床による橋火消が成立した。また、近くに橋のない山の手の髪結床は、火事が起きたら南北の町奉行所に駆けつけることが命じられた』とあるが、享保二〇(一七三五)年に『橋の防火担当は町火消へと変わり、火事の場合髪結床の職人はすべて町奉行所に駆けつけることとなった』とあるから、この話柄のそれも先の町火消の担当であったと考えてよいであろう(後の天保一三(一八四二)年には天保の改革によって髪結床組合が解散、町奉行所への駆けつけは名主たちに命ぜられている)。『町火消の出動範囲は、当初町人地に限定されていた。しかしいろは組成立時には、町人地に隣接する武家地が火事であり、消し止められそうにない場合は消火を行うこととな』り、享保七(一七二二)年には二町(約二百十八メートル)以内の武家屋敷が火事であれば消火することが命ぜられるようになり、それ以降も享保一六(一七三一)年に『幕府の施設である浜御殿仮米蔵の防火が「す組」などに命じられたことをはじめ、各地の米蔵・金座・神社・橋梁など重要地の消防も町火消に命じられていった』とある。延享四(一七四七)年の『江戸城二の丸火災においては、はじめて町火消が江戸城内まで出動することとなった。二の丸は全焼したが、定火消や大名火消が消火した後始末を行い、幕府から褒美が与えられ』ている。なお、以後でも天保九(一八三八)年に起こった西の丸出火、同一五(一八四四)年の本丸出火などでも江戸城内へ出動し、『目覚しい働きを見せたことにより、いずれも褒美が与えられている』とある。以下、「火消人足」の項の町火消の関連項に、『町火消の構成員は、当初地借・店借(店子)・奉公人など、店人足(たなにんそく)と呼ばれる一般の町人であった。これは、享保四(一七一九)年に名主に対し、鳶職人を雇わないようにとの触が出されていたためでああったが、『江戸時代の消火活動は、延焼を防ぐため火災付近から建物を破壊していくという破壊消防が主であり、一般の町人よりも鳶職人に適性があることは明らかであった。名主たちの、大勢の店人足を差し出すよりも少数の鳶を差し出した方が有効であるとの訴えもあって、町火消の中心は鳶を生業とする鳶人足(とびにんそく)によって構成されるようになっていった』。『鳶人足に対しては、町内費から足留銭』(注釈に『本業の鳶で遠方へ出向くことを禁じ、風の強い日などには番屋へ詰めて警戒させるための費用』とある)『をはじめ、頭巾・法被・股引などの火事装束も支給されていた。また、火事で出動した場合には足留銭とは別に手当てが支給された。火事が起こると、定められた火消人足のうちからまず鳶人足を出動させ、大火の場合は残りの店人足も出動させた』。『町火消は町奉行の指揮下に置かれ、町火消を統率する頭取(とうどり、人足頭取)、いろは組などの各組を統率する頭(かしら、組頭)、纏持と梯子持(合わせて道具持)、平人(ひらびと、鳶人足)、土手組(どてぐみ、下人足、火消の数には含まれない)といった構成になっていた。頭取には一老・二老・御職の階級があり、御職は顔役とも呼ばれ、江戸市中で広く知られる存在であった。江戸全体で』約二百七十人いた頭取は、『力士や与力と並んで江戸三男(えど・さんおとこ)と呼ばれ人気があり、江戸っ子の代表でもあった』とある(以上、下線やぶちゃん)。この老人はこの「人足頭取」と思われ、まさに時代劇に出て来る、きっぷのいい老江戸っ子であったのであろう。なお、個人サイト「河童ヶ淵」の「町火消し」によれば、この人足たちは、火消しの数に組み入れられず、「土手組」とも呼ばれたとあり、また、『江戸の鳶は遠国生まれどころか近郷近在生まれ』の者もおらず、『地元の人間がつとめて』おり、『贔屓(ひいき)の旦那がいる者もあって気前がよく、火事を相手にする職業がらキビキビとしていて、若い娘だけではなく人妻にも人気があ』ったとある。当該頁には各組の人足数が総て細かく記されてあり(ばらつきが大きい)、別サイトで調べて見ると、この日本橋周辺は「ろ組」と「せ組」が担当と思われ、「ろ組」は人足二百四十九人、「せ組」は二百八十一人である。

・「鳥目」穴明き銭。古銭は円形方孔で鳥の目に似ていたことによる。 

 

■やぶちゃん現代語訳

一 孰れの年の頃のことであったろうか、日本橋近くの、その上流であったか下流であったか、その頃出来てしもうた附き洲を、これ、浚い上ぐる御普請(ごふしん)を始めること相い成り、その事始めとして――それらの現場人夫として雇われ出でる者どもが、これ、ことごとく日本橋近辺の町火消人足(まちびけしにんそく)と称する者どもであったによって――翁、まず、その頭(かしら)を任せられた火事場世話役と申す者を、お呼び出だしになられ、

「――此度(こたび)の御用、これ、格別に精入(せいい)れ、勤めよ。――年頃、その方らの勤らき方、これ、よろしき由は、かねてより聞き及んでおればこそ、別して、この大事を委ぬるぞ!」

といった言葉を賜わられたところ、その火事場世話役の老夫、これ、涙を落いて悦び畏まって御座ったと申す。

 翁、その席を立って、やおら、奧の方へと入らんとする折りから、

「――か奴(やつ)をも、かくもまず諭しおいておけば――これ必ず、落成も速やかなることであろう。」

とひとりごちて、こちらもまた、嬉しげで御座った。

 ところが、である。

 豈に図らんや、その普請の最中、折り悪しく大雨の降り続いて、その川辺一帯、大水となって御座ったが、ある日のこと、

「――普請手(ふしんて)どもが、雨を厭うてこっそり仕事をさぼるようなことのあるをを憂え、かの火事場世話役が老人、かの川辺に自ら降り立って、かれこれ指揮致いておりましたところ、誤って大水の流れにはまり込み……溺死致いて御座いまするッ!……」

と、急な訴えのあった。

 翁、大いに嘆息なされ、こうした際の例(ためし)なればとて、鳥目(ちょうもく)幾許(いくばく)かを、これ、その妻子にお与えになり、しかもなお、別に葬式の助けなども厚くお恵みになられた。そのお指図を支配の者に命ぜられつつ、翁、

「……奉行たる者……一言(いちごん)を口に出すにつけても、重々これ、慎まねばならぬことじゃのぅ。……あまりに力を込めて申し諭し励ましたればこそ……全く……あたら、かの老夫に……命をも、これ、捨てさせて、しもうた……」

と、ひどく後悔なさっておられたと申す。

 かくなれば、この出来事、是非もなき次第にては御座った。

 されども……かくも――士卒の打ち死にをも厭わずして進む――と申すは、これ――軍師軍配の賢愚に據(よ)る――の譬え、なればなるべしと申そうず。]

2015/04/22

志賀理斎「耳嚢副言」附やぶちゃん訳注 「追加」 (Ⅹ)

一 翁は南の番所と唱ふる官邸たりしが、ある評定の日に北の官邸なる方の吟味に、町家のものより寺院を相手取(どり)たるうりかけの出入(でいり)あり。茶漬飯(ちやづけめし)のうりかゝり四、五十金のとゞこほりなるを、其かゝりの奉行、「茶漬めしの料(れう)には大金珍らし」と申されしを、翁かたはらより、「そはいづ方の町なりや」と問はれしに、「これは湯島天神のまへなる町なり」と答へられしかば、翁とみに「夫(それ)こそ子供の踊りを見過したるならん」と申されしによりて、かの出家顏をあからめ、「速(すにや)かに其滯りを濟し申(まう)さん」とこたへ上(あげ)たり。男色のうりものは子供踊りといへなるよし。

[やぶちゃん注:

・「北の官邸なる方」これはもう、親しく助言していることからも間違いなく盟友永田正道(まさのり)のことと思われるが、永田は結構、真面目一方の御仁であったらしいのぅ……♪ふふふ♪

・「うりかけ」「売(り)掛け」でツケのこと。

「湯島天神のまへなる町」男色を売る歌舞伎若衆を置いていた陰間(かげま)茶屋があった。ウィキの「陰間茶屋に(注記号は省略した。下線やぶちゃん)、『江戸時代中期、元禄』(一六八八年~一七〇四年)年間の頃に『成立した陰間が売春をする居酒屋・料理屋・傾城屋の類。京阪など上方では専ら「若衆茶屋」、「若衆宿」と称した』とあり、『元来は陰間とは歌舞伎における女形(女役)の修行中の舞台に立つことがない(陰の間の)少年を指し、男性と性的関係を持つことは女形としての修行の一環と考えられていた。但し女形の男娼は一部であり、今でいう「女装」をしない男性の格好のままの男娼が多くを占めていた。陰間茶屋は当初芝居小屋と併設されていたが、次第に男色目的に特化した陰間茶屋が増えていった』。『売色衆道は室町時代後半から始まっていたとされるが、江戸時代に流行し定着』、『江戸で特に陰間茶屋が集まっていた場所には、東叡山喜見院の所轄で女色を禁じられた僧侶の多かった本郷の湯島天神門前町や、芝居小屋の多かった日本橋の芳町(葭町)がある。京では宮川町、大坂では道頓堀などが有名だった。江戸においては、上方から下ってきた者が、物腰が柔らかく上品であったため喜ばれた』という。『料金は非常に高額で、庶民に手の出せるものではなかった。平賀源内が陰間茶屋や男色案内書と』言うべき「江戸男色細見 菊の園」「男色評判記 男色品定」によれば、一刻(二時間)で一分(四分の一両)、一日買い切りで三両、外に連れ出すときは一両三分から二両かかったとある(因みにこの頃の一両は現在の五万円から十万円相当とされる)。『主な客は金銭に余裕のある武家、商人、僧侶の他、女の場合は御殿女中や富裕な商家などの後家(未亡人)が主だった』。『但し江戸幕府の天保の改革で風俗の取り締まりが行われ』、天保一三(一八四二)年には陰間茶屋は禁止されているとある。そして「陰間茶屋があった場所」の項には、湯島天神門前町に十軒ともあった。

「子供踊り」陰間茶屋のことを「子供茶屋」「子供宿」「子供屋」とも呼んでいたから、そうした男色行為を元の歌舞伎踊りから、暗に「踊り」擬えていたものであろう。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

一 翁は南の番所と呼ばれた南町奉行所内の官邸にお住まいであられたが、ある評定の日のこと、たまたま北の官邸なる御方の御吟味にて、町家の者より、寺院を相手取った売り掛けに纏わる公事のあった。

 これがまた、茶漬飯(ちゃづけめし)のツケの騒動にて御座ったが、その金額たるや、これ、実に四、五十両の支払いのない、と申す訴えであったによって、その月番の係であられた北町奉行の御方、

「……茶漬飯(ちゃずけめし)の代料(だいりょう)にしては……これ……如何にも大金……なんとも、珍らしきことじゃが?……」

と糾された。

 ところが、たまたま、そのお白洲の場近くにあられて、それを聴かれた翁、これ、傍らより、

「……失礼乍ら……それは、何方(いずかた)の町でのことで御座るか?」

と問はれたところが、

「――いや、これは――湯島天神の前なる町――でのこととのことじゃが? 何か?」

と、北町の御奉行さまのお応えになられたところ、翁、即座に、

「――いやさ! それこそ――子供の踊りを――これ、見過ぎたということで御座いましょうぞ!」

と、呵々大笑なされて申されたところが、訴えられ、そのお白洲の場にあった出家、これ、蛸の如くに顔を真っ赤に致いて、

「……す、す、速やかに、そ、その滞りに、つ、つきましては、こ、これ、お支払致します、すれば……」

と、唾を呑んで答えたとのこと。

 さても――男色の売り物はこれ――子供踊り――と当時は申して御座ったとか。……♪ふふふ♪……]

安倍晋三への天誅 附 御用芸能人重度先生妄想症候群武田哲矢を叱る母と金八先生と不良生徒A

アジア・アフリカ会議での安倍晋三という日本の首相を名乗る下劣な男のスピーチより――
 
『強い者が、弱い者を力で振り回すことは、断じてあってはなりません。』
 
――貴様に鏡返ししてやろう!――
 
強権を持った日本国家政府という『強い者』であるお前『が、』原発被害で致命的にして深刻な被害を蒙っている福島を始めとする日本の北の人々や、近現代から今に至るまで完膚なきまでに非日本的扱いを受けている日本の南の沖縄という『弱い者を力で振り回すことは、断じてあってはなりません』!『。』
 
追伸:因みに、自らを社会の「先生」と妄想し――己を選ばれた人間と勘違いしている――石原慎太郎とすっかり蜜月を持っている、遂に御用芸能人になった武田哲矢という大馬鹿者は、もともと、でえ嫌えだよ!――なんばしちょっとか!! ほんなこつ、腹ン立つ! テツヤッツ!!!

追伸2:
 
「……原発が危険である、一旦事故が起こると取り返しのつかないことになってしまう、それはもう日本国民全員が懲りてる、っていうか十分知ってるわけですよね。だから原発は止めてしまおう、というのがもっとも正しい答えなんですけども、もっとも正しい答えのまま振る舞えない経済的な事情ってやっぱりあるわけじゃないですか。ですから“差し止め万歳”っていうふうに簡単にいきませんよね……」
 
「……たとえば、私どもはテレビ局で仕事しておりますけど、テレビ局にやっぱり電力を消費しないために1日6時間、放送をやめるとかっていう覚悟が各局にあるかとか、そういうことまでも込みで考えて原発再稼働を認めずというような決心をすべきであって、国は間違ったことやってるぞ、はんたーい!という、そういう単純な話ではもうなくなったような……」
 
「……原発嫌いなら嫌いって、最初から裁判官にも言ってほしいですよね……」
 
(総て――高浜原発再稼働差し止め判決で原発推進派がヒステリー! 武田鉄矢の「テレビ放映を短縮する覚悟ないなら原発に反対するな」発言を嗤う――より武田哲矢の4月19日フジテレビ「ワイドナショー」での発言。この記事、必読!)
 
金八先生「テツヤッツ!!! 決して損得だけで物事を考える人間になるなッツ!!!!」
不良生徒A「――『テレビ局にやっぱり電力を消費しないために1日6時間、放送をやめるとかっていう覚悟が各局にあるかとか、そういうことまでも込みで考えて』だぁ!?――『そうされたらこの俺が、おマンマ食い上げなんだよ、馬鹿大衆が!』――って先に言えや! このエセ先公がッツ!!!」

堀辰雄 十月  正字正仮名版 附やぶちゃん注(Ⅷ)

 

十月二十一日夕  

 けふはA君と若き哲學者のO君とに誘はれるがままに、僕も朝から仕事を打棄つて、一しよに博物館や東大寺をみてまはつた。

 午後からはO君の知つてゐる僧侶の案内で、ときをり僕が仕事のことなど考へながら步いた、あの小さな林の奧にある戒壇院の中にもはじめてはひることができた。

 がらんとした堂のなかは思つたより眞つ暗である。案内の僧があけ放してくれた四方の扉からも僅かしか光がさしこんでこない。壇上の四隅に立ちはだかつた四天王の像は、それぞれ一すぢの逆光線をうけながら、いよいよ神々しさを加へてゐるやうだ。

 僕は一人きりいつまでも廣目天(くわうもくてん)の像のまえを立ち去らずに、そのまゆねをよせて何物かを凝視してゐる貌(かほ)を見上げてゐた。なにしろ、いい貌だ、温かでゐて烈しい。……

 「さうだ、これはきつと誰か天平時代の一流人物の貌(かほ)をそつくりそのまま模してあるにちがひない。さうでなくては、こんなに人格的に出來あがるはずはない。……」さうおもひながら、こんな立派な貌に似つかはしい天平びとは誰だらうかなあと想像してみたりしてゐた。

 さうやつて僕がいつまでもそれから目を放さずにゐると、北方の多聞天(たもんてん)の像を先刻から見てゐたA君がこちらに近づいてきて、一しよにそれを見だしたので、

 「古代の彫刻で、これくらゐ、かう血の溫かみのあるのは少いやうな氣がするね。」と僕は低い聲で言つた。

 A君もA君で、何か感動したやうにそれに見入つてゐた。が、そのうち突然ひとりごとのやうに言つた。「この天邪鬼(あまのじやく)といふのかな、こいつもかうやつて千年も踏みつけられてきたのかとおもふと、ちよつと同情するなあ。」

 僕はさう言われて、はじめてその足の下に踏みつけられて苦しさうに悶えてゐる天邪鬼に氣がつき、A君らしいヒュゥマニズムに頰笑みながら、そのはうへもしばらく目を落した。……

 數分後、戒壇院の重い扉が音を立てながら、僕たちの背後に鎖された。再びあの眞つ暗な堂のなかは四天王の像だけになり、其處には千年前の夢が急にいきいきと蘇り出してゐさうなのに、僕は何んだか身の緊(しま)るやうな氣がした。

 それから僕たちは僧侶の案内で、東大寺の裏へ拔け道をし、正倉院がその奧にあるといふ、もの寂びた森のそばを過ぎて、畑などもある、人けのない裏町のはうへ步いていつた。

 と、突然、僕たちの行く手には、一匹の鹿が畑の中から犬に追ひ出されながらもの凄い速さで逃げていつた。そんな小さな葛藤までが、なにか皮肉な現代史の一場面のやうに、僕たちの目に映つた。

 

[やぶちゃん注:昭和一六(一九四一)年十月二十一日火曜日。なお、四天王の画像を示すためにしばやん氏の個人ブログ「しばやんの日々」の東大寺戒壇院と、天平美術の最高傑作である国宝「四天王立像」』をリンクさせて戴く。

「A君と若き哲學者のO君」阿部知二とその連れ。前条参照

「戒壇院」既注であるが、思うところあって再掲する。東大寺戒壇堂。天平勝宝六(七五四)年に聖武上皇が光明皇太后らとともに唐から渡来した鑑真和上から戒を授かったが、翌年、日本初の正式な授戒の場としてここに戒壇院を建立した。当時は戒壇堂・講堂・僧坊・廻廊などを備えていたが、江戸時代までに三度火災で焼失、戒壇堂と千手堂だけが復興されている(以上は東大寺公式サイトに拠る)。現在の建物は享保一八(一七三三)年の再建で、内部には中央に法華経見宝塔品(けんほうとうほん)の所説に基づく宝塔が安置され、その周囲を塑造四天王立像(国宝)が守る。ウィキの「東大寺」によれば、この四天王像は『法華堂の日光・月光菩薩像および執金剛神像とともに、奈良時代の塑像の最高傑作の一つ。怒りの表情をあらわにした持国天、増長天像と、眉をひそめ怒りを内に秘めた広目天、多聞天像の対照が見事である。記録によれば、創建当初の戒壇院四天王像は銅造であり、現在の四天王像は後世に他の堂から移したものである』とある。私は教え子に連れられて初めてここに行き、その教え子の好きだという、まさにこの広目天像に親しく接し、痛く魅入られたことが忘れられない。

「四天王」仏教の世界観の一つを担う四鬼神。世界の中心にある須弥山(しゅみせん)の中腹、東西南北の四方に住むとされ、東に持国天、南に増長天、西に広目天、北に多聞天(毘沙門天)がそれぞれ配される。古代インドの神話的な神であったが、仏教に取入れられて仏法の守護神とされた(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

「廣目天」「毘留博叉」「毘流波叉」とも音写され、「雑語」「醜眼」「悪眼」とも訳される。須弥山中腹の西方にある周羅城に住し、西大洲(中央の閻浮提(えんぶだい)の西にある大陸。西牛貨洲(さいごけしゅう))を守護するところから「西方天」とも呼ばれる。悪人を罰し、仏心を起させるとされ、像容は戒壇院のそれのように、甲冑を着けて、左手に絵巻、右手に筆を持ち、足下に邪鬼を踏みつけている姿で表わされることが多い(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

「多聞天」音写が毘沙門。名は、北方を守る仏法守護の神将で、常に如来の道場を守って法を聞くことが最も多いことに由来する。甲冑を着けて、両足に悪鬼を踏まえ、手に宝塔と宝珠又は鉾(戒壇院のそれは右手で宝塔を掲げ、右手に短い鉾を持つ)を持った姿で表される。日本では福徳の神とされる。因みに、東方を守護する持国天像は、左手に刀を持ち、足下に鬼を踏むのが通例(戒壇院のそれは右手で柄を持ち、左手で剣先の少し手前を押さえている)で、インド神話では東方の守護神はインドラであるが、仏教のそれとは全く異なる。古くからインドの護世神であった南方を守護する増長天の戒壇院のそれは、右手に長槍を立て、左手を腰に添えてやはり足下に鬼を踏んでいる(以上は総て「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

「天邪鬼」「あまんじゃく」とも呼称する。悪鬼神の小鬼、また、日本の妖怪の一種ともされ、「河伯」「海若」とも書く。参照したウィキ天邪鬼によれば、『仏教では人間の煩悩を表す象徴として、四天王や執金剛神に踏みつけられている悪鬼、また四天王の一である毘沙門天像の鎧の腹部にある鬼面とも称されるが、これは鬼面の鬼が中国の河伯(かはく)という水鬼に由来するものであり、同じく中国の水鬼である海若(かいじゃく)が「あまのじゃく」と訓読されるので、日本古来の天邪鬼と習合され、足下の鬼類をも指して言うようになった』。『日本古来の天邪鬼は、記紀にある天稚彦(アメノワカヒコ)や天探女(アメノサグメ)に由来する。天稚彦は葦原中国を平定するために天照大神によって遣わされたが、務めを忘れて大国主神の娘を妻として8年も経って戻らなかった。そこで次に雉名鳴女を使者として天稚彦の下へ遣わすが、天稚彦は仕えていた天探女から告げられて雉名鳴女を矢で射殺する。しかし、その矢が天から射返され、天稚彦自身も死んでしまう』。『天探女はその名が表すように、天の動きや未来、人の心などを探ることができるシャーマン的な存在とされており、この説話が後に、人の心を読み取って反対に悪戯をしかける小鬼へと変化していった。本来、天探女は悪者ではなかったが天稚彦に告げ口をしたということから、天の邪魔をする鬼、つまり天邪鬼となったと言われる。また、「天稚彦」は「天若彦」や「天若日子」とも書かれるため、仏教また中国由来の「海若」と習合されるようになったものと考えられている』とある。

「そんな小さな葛藤までが、なにか皮肉な現代史の一場面のやうに、僕たちの目に映つた」私には辰雄の当時の時勢への精一杯の皮肉であるように読める。]

美香――悼――

若き日に柏陽のワンゲルの顧問をしていた、その最初の女性徒が亡くなった……僕より早く逝っては……いけないよ、美香……

志賀理斎「耳嚢副言」附やぶちゃん訳注 「追加」 (Ⅸ)

一 家紋蛇の目の外に猶(なほ)有(あり)しよしなれども、壯年の時着用の上下(かみしも)・小袖など、こくもちと稱してたゞ丸く染置(そめおき)たるを其まゝ用ゆるに便利なりとて、蛇の目斗(ばか)りをつくる事とす。微々(びび)たりし時は別にもんかゝする事もせず、かのこくもちの中へみづから墨を以てぬり、蛇の目となしゝも着用有し由。

[やぶちゃん注:

・「家紋蛇の目」中央に白い丸の開いた黒いドーナツ型のシンプルな家紋。邪眼を思わせる極めて呪術的な紋様である。紋様を見るために播磨屋氏の強力な家紋サイト「家紋World」内の「名字と家紋」の「蛇の目紋」をリンクさせておく。

・「こくもち」「石持」「黒餅」。元来は紋の名で、黒い円形で中に文様のないもの。ルーツは矢口の祭り(武家に於いて男子が初めて狩猟で獲物をしとめた際にその肉を調理して餅を搗いて祝う儀式を矢開きというが、その時、黒・白・赤の三色の餅を供えて山の神を祭った)の黒餅を象ったものとされる。但し、ここでの「こくもち」は、その形から派生した、定紋をつけるべき所を白抜きにして染め、あとでその中に紋を描き込むことが出来るようにしたもの及びそれを施した衣服などを指している。やはり、サイト「名字と家紋」の石餅(黒餅・石持)紋をリンクさせておく。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

一 根岸家の御家紋には、「蛇の目」の他にもなお、別なものもあらるるとのことで御座ったが、壮年の時、着用なさっておられた裃(かみしも)や普段の小袖などには、

「――こくもち――と称して、ただ中を白く丸く染め抜いただけのものに、これ、ちょちょっと黒い輪を染めたを、そのまま用いればよいのじゃから、まっこと、便利じゃて。」

と、蛇の目ばかりの紋所を、専ら、お作らせになさっておられた。

 お若い時分には何でも、別に職人に紋を染めさせなさることもなさらず、かの――こくもち――の中を、自ら墨を以て――ぐるん!――と塗られて、「蛇の目」となしたるものをも、これ、着用なさっておられたとか申す。]

志賀理斎「耳嚢副言」附やぶちゃん訳注 「追加」 (Ⅷ)

一 下婢(かひ)の朝夕用ゆる手燭(てしよく)も、しばしば損じてわづらはしとて、松の板一尺四方のものに例のとづるを長くつりて、夫(それ)に細長き紙屑籠といへるものをうつぶせにさし込(こみ)て、中に蠟燭をともす。其具いくらといふ事もなくつくりて、次の間に並(ならび)おけり。

[やぶちゃん注:

・「一尺四方」三〇・三センチメートル四方。

・「とづる」私は当初、これは仮名の草書の「津」(つ)と「亭」(て)を判読し損なったものではないかと思った。「とつて」(取っ手)である。しかしそれでもどうもしっくりこない。「長くつりて」とあるから、これは「取り鉉(づる)」と合点した。「鉉」(つる)とは所謂、土瓶・鍋・急須などの上に半円状に渡してある蔓(かづら)などで出来た取っ手のことである。少なくとも「とづる」という語は小学館の「日本国語大辞典」にも近似する語さえ載らず、ネット検索でも掛かってこない。「吊り鉉(づる)」で訳した。

・「次の間」主人の居室の次にある部屋で、従者などが控える。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

一 下女が朝夕に用いる手燭(てしょく)と申すも、これ、華奢な造りで、

「……あの市井に出回る手燭と申すもの、これ、如何にもちゃちで、しばしば損ずるが、まっこと、煩わしいのぅ。」

と申され、手ずから、松の板の一尺四方のものに、かの薬缶(やかん)の吊り鉉(つる)のようなる、藤蔓で作った半円の取っ手の頑丈な奴を結わい附けて長く釣り、それにまた、細長き紙屑籠(かみくずかご)にも見紛うような、しっかりした覆い籠をうつ伏せにさし込んで立てられ、中に蠟燭を灯すようにした、全く自前の灯明具をお作りになられた。

 それを見本にさせた上、下男どもに、これまた数え切れぬほどに沢山、お作らせになられ、いつも次の間に並べ置いておかれて御座った。]

2015/04/21

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」  杉本觀音堂

    ●杉本觀音堂

大藏觀音ともいふ。大倉往還の北にあり。天平六年。行基剏建にて坂東(ばんどう)三十三觀音の内第一番の札所なり。本尊十一面觀音三軀(く)を置き。運慶作の同体(どうたい)を前立とす。緣起によれは。是建久二年九月。賴朝か納めしものなり。此餘釋迦〔天竺佛〕毘沙門〔宅間作〕等を安す堂に杉本寺の額をかく。太平記天正本に。斯波三郎家長軍利なふして。杉本觀音堂にて切腹とあり。

[やぶちゃん注:金沢街道に面した天台宗大蔵山(だいぞうざん)杉本寺。本寺は古くは「大倉観音堂」と呼ばれていたことが「吾妻鏡」によって分かる。「吾妻鏡」の文治五(一一八九)年十一月二十三日の条に、

〇原文

廿三日己卯。冴陰。終日風烈。入夜。大倉觀音堂回祿。失火云々。別當淨臺房見煙火涕泣。到堂砌悲歎。則爲奉出本尊。走入焰中。彼藥王菩薩者。爲報師德燒兩臂。此淨臺聖人者。爲扶佛像捨五躰。衆人所思。万死不疑。忽然奉出之。衲衣纔雖焦。身體敢無恙云々。偏是火不能燒之謂歟。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿三日己卯(つちのとう)。冴え陰(くも)る。終日、風烈し。夜に入りて、大倉觀音堂回祿す。失火と云々。

別當淨臺房、煙火を見て涕泣し、堂の砌(みぎ)りに到りて悲歎す。則ち、本尊を出し奉らんが爲に、焰の中へ走り入る。彼の藥王菩薩は、師德に報ぜんが爲兩臂(りやうひ)を燒かれ、此の淨臺聖人(しやうにん)は、佛像を扶(たす)けんが爲、五躰を捨つ。衆人の思ふ所、万死を疑はざるに、忽然としえ之を出だし奉る。衲衣(なふえ)、纔(わづ)かに焦げると雖も、身體敢へて恙無しと云々。

 偏へに是れ、火も燒くに能はずの謂ひか。

という奇跡の記述があるが、これがこの杉本寺である。この条中の「藥王菩薩」はウィキ薬王菩薩に、『薬王菩薩本事品では、薬王菩薩の前世は、一切衆生喜見菩薩といい日月浄明徳如来(仏)の弟子だった。この仏より法華経を聴き、楽(ねが)って苦行し、現一切色身三昧を得て、歓喜して仏を供養し、ついに自ら香を飲み、身体に香油を塗り焼身した。諸仏は讃嘆し、その身は』千二百歳まで『燃えたという。命終して後、また同じ日月浄明徳如来の国に生じ、浄徳王の子に化生して大王を教化した。再びその仏を供養せんとしたところ、仏が今夜に般涅槃することを聞き、仏より法及び諸弟子、舎利などを附属せられた。仏入滅後、舎利を供養せんとして自らの肘を燃やし』、七万二千歳に渡って供養したという、とある。……なお、私はこの寺については……いかにもな現代の生臭いいやなゴシップをも知っている。……いつかあなたと行くことがあれば、お話致そうぞ……

「天平六年」西暦七三四年。これを以って鎌倉最古の寺とされる。

「大藏觀音」これは「おほくらくわんのん(おおくらかんのん)」と読むはずである。

「剏建」「さうけん(そうけん)」と読む。創建に同じい。

「運慶作の同体(どうたい)を前立とす」「同体」というのは本尊(現在、伝行基・伝慈覚・伝恵心の三体の十一面観音立像があるが、伝行基のものを具体的に指すか。それとも単に形而上的な観音菩薩の鏡像の意か)のそれと同体の意であろう。ウィキの「杉本寺」によれば、中央の像(像高百六十六・七センチメートル)は『寄木造、漆箔仕上げで、円仁(慈覚大師)作と伝承され、衣文に平安時代風を残すが、鎌倉時代に入っての作とみられる。中尊の左(向かって右)の十一面観音立像』(像高百四十二センチメートル)は『寄木造、漆箔仕上げで、源信(恵心僧都)作と伝承されるが、実際の制作年代は鎌倉時代である。右(向かって左)の十一面観音立像』(像高百五十三センチメートル)は『行基作と伝承されるもので、素木の一木造であり、3体の中ではもっとも古様で、平安時代末期の作と推定される。作風は素朴で、ノミ痕を残す部分もあり、専門の仏師ではない僧侶の作かと推定されている。中央と左(向かって右)の像は国の重要文化財に指定されている。伝・行基作の十一面観音像は、伝説に基づき「覆面観音」「下馬観音」の別称がある。昔、馬に乗ったまま杉本寺の門前を通ろうとすると必ず落馬したが、蘭渓道隆(大覚禅師)がこの観音像の顔を袈裟で覆ったところ、落馬する者はいなくなったとの伝承から、前述の別称が生じた』。『このほか、前立十一面観音像は源頼朝の寄進と伝えられるもので』、一応、伝運慶とはされている(運慶工房か、その流れを汲む一派の手になるものの可能性はある)。これらの仏像の配置については杉本寺公式サイトの本堂」を参照されたい。

・「建久二年」西暦一一九一年。「吾妻鏡」では、この年の九月十八日の条に、

〇原文

十八日甲子。幕下御參大倉觀音堂。是大倉行事草創伽藍也。累年風霜侵而甍破軒傾也。殊有御憐愍。爲修理。以准布二百段奉加之給。

〇やぶちゃんの書き下し文

十八日甲子。幕下、大倉觀音堂へ御參す。是れ、大倉行事草創の伽藍なり。累年、風霜、を侵して、甍(いらか)破れ、軒を傾くなり。殊に御憐愍(ごれんみん)有りて、修理の爲に、准布(じゆんぷ)二百段を以つて之を奉加(ほうが)し給ふ。

と頼朝の奉加を記すから、この仏像寄進も強ち、出鱈目とは思われない。条中の「准布」は、布銭のこと。何匁で何と交換できるか、布に換算したもので、当時、所謂、貨幣は鎌倉御府内では一般的な流通をしていなかった。

「宅間」宅間法眼(ほうげん)或いは詫磨派という、平安時代後期絵仏師及びその一派。

「斯波三郎家長」(しばいえなが 元応二(一三二一)年~延元二/建武四(一三三八)年)は南北朝期の少年武将。斯波高経長男。ウィキ斯波家長によれば、『父と共に一門として足利尊氏に仕えた。中先代の乱の後、尊氏が建武の新政に反抗し争乱が勃発すると北朝の北畠顕家に対抗するため』、建武二(一三三五)年に奥州管領任ぜられた。『この時斯波館(岩手県紫波郡)に下向したという。尊氏が箱根・竹ノ下の戦いで征東軍を破り上洛する際、鎌倉に残した嫡男義詮の執事に任ぜられた。顕家が南下を開始すると後を追ったものの食い止めるのに失敗』、『京都において尊氏が敗走する原因を作ってしまった』。延元元/建武三(一三三六)年には『蜂起した北条氏残党を討伐し』『豊島河原合戦で尊氏を破った北畠顕家が奥州へ帰還するため東海道を行軍すると妨害したが、破られ』ている。延元二/建武四(一三三七)年に『尊氏は九州を制し再び上洛、北朝を立てた尊氏を討伐するため、再び大軍を率いて南下してきた顕家を鎌倉で迎え撃つが、敗北し戦死した(杉本城の戦い)』。『後任の奥州総大将と関東執事には石塔義房、上杉憲顕が派遣された。奥州総大将と関東執事は後に奥州管領、関東管領にそれぞれ発展する』。彼は腹を切った時、未だ十七歳であった。]

志賀理斎「耳嚢副言」附やぶちゃん訳注 「追加」 (Ⅶ)

 以上は、先にその近藤助八郎義嗣(よしつぐ)殿のために私、吉見が書き記したものである。さてもまた、我ら、志賀某(なにがし)の求めに応じて、翁が在りし日の御行状(ごぎょうじょう)や御嘉言(おんかげん)を思ひ出だいて、さらに以下に記すことと致す。]

 

[やぶちゃん注:直前にあるように、これは先の条々は、「耳のあか」の筆者で生前の鎮衛とも交流のあった御勘定組頭吉見儀助こと吉見義方の書き記したものを志賀理斎が「耳嚢副言」の「追加」として転写したものであるので注意されたい。]

 

一 翁性質奢侈(しやし)をいましめ、座右の調度皆卑下の品を備ふ。日々の勤(つとめ)肩輿(けんよ)に用ゆる烟草盆(たばこぼん)、陶器の大きやかなる火入(ひいれ)に曲物(まげもの)の臺をつけ、それに蔓(つる)もて提(さぐ)るやうになし、灰吹(はいふき)といふ物をも具(ぐ)せず。「唾(つばき)はみづから戸を明(あけ)て往來へはきても足(た)れり」と。されどあまりに見ぐるしと人のいふにまかせ、其(その)火入のかたはらに竹の筒を添へたるのみなり。退朝(たいてう)ののちも其器(うつわ)を左右に置(おき)て別に備ふるものなし。近親羽田何がしも御勘定吟味役たりしが、其器をまねびて常に用ひたり。

[やぶちゃん注:

・「肩輿」駕籠。それに乗った際に中で用いる携帯用の煙草盆を言っている。

・「火入」煙草に火をつけるための火種を入れておく器。

・「曲物」檜や杉の薄く加工したへぎ板を湾曲させて作る木製容器の総称。盆・桶・櫃・三方(さんぼう)などの日用容器に多く用いた。曲げ輪破(わつぱ)。

・「灰吹」煙草盆に付属した竹筒で、煙草の灰や吸い殻などを落とし込むもの。吐月峰(とげつぽう)とも呼ぶ。

・「退朝」日常、役所の勤務を終えて帰ること。鎮衛は生涯現役であったから、ゆめ致仕の意でとらぬように。

・「羽田何がし」不詳。因みに、この「耳嚢副言」本文クレジットよりも十一年後ではあるが、天保一四(一八四三)年のデータに羽田竜助利見なる人物が勘定吟味役にはいる(後に佐渡奉行)が、違うか。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

一 翁の性質(たち)は、奢侈(しゃし)を戒め、座右の調度はこれ皆、至って市井の者の用いる安物を備品となさっておられた。

 日々の勤めで乗用なさる駕籠の中で用いらるる携帯用の煙草盆もこれ、陶器のずんぐりとした火入れに、曲げ物で台を拵え附け、それに藤蔓(ふじづる)を以って取っ手となし、ぶら提げるようにした手製のものにて、灰吹きといった物をも備えっておらなんだ。

 常日頃より翁、

「――唾(つばき)なんどというもんはこれ、自ずと駕籠の戸を開けて往来へ吐けば、十分じゃ。」

と言うておられたからであったが、ある折り、

「……お畏れながら……御奉行様なればこそ、それはあまりに見苦しきことと存じまする……」

と人の申したに任せ、それよりは、その火入れの傍らに小さき竹の筒を添え附けられた。それでも、ただそれだけの、まことに素朴なること、これ、変わらぬ品にて御座った。

 退庁なさってからでも、自邸にあっても、これ、相変わらず、その器(うつわ)を身近にお置きになられ、それ以外には、別に常備なさるる品というもの、これ、全く御座らなんだ。

 因みに、鎮衛殿の御近親の羽田何某(なにがし)殿も――今、御勘定吟味役であらるるが――その器を真似て、常に用いておらるる。]

志賀理斎「耳嚢副言」附やぶちゃん訳注 「追加」 (Ⅵ)

[やぶちゃん注:以下に引用される「耳のあか」というのは実は既に私が電子化訳注を済ませた底本の『「耳嚢」吉見義方識語』(編者鈴木棠三の標題)とほぼ同文である。

 そこで、例外的に同引用文注では読みを概ね排除して(一部の異同箇所では挿入した)原文の雰囲気を出すこととし、後の注では『「耳嚢」吉見義方識語』との表記・表現の異なる箇所のみについて附した。現代語訳は省略も考えたが、最後の箇所に重要な違いがあるので、ここは煩を厭わず、再度附すこととした。但し、基本的に『「耳嚢」吉見義方識語』でのそれを用い、やや修正を加えたものであることをお断りしておく。

 また、この「耳のあか」の最後には『「耳嚢」吉見義方識語』にはない、「こはさきに……」という全体が二字下げの附文がある(これは、この「耳のあか」への吉見儀助による解説及びこの後に続く更なる吉見の記した記事の前触れであるが、ここからは今まで通り、一部に読みを附す形に戻した。]

一 右の外にもいろいろ歎服(たんぷく)すべきことのあるべきとおもへども、聞かざる事はしるすこと能(あた)はず。爰(ここ)に古山(こやま)君〔峰壽院御用人古山善吉〕の話に、吉見大人〔御勘定組頭吉見儀助〕の翁の行狀(ぎやうじやう)を筆記せるものありとのことなれば、しきりにそれを請ひ侍りけるに、吉見大人耳のあかと號(なづけ)られしを見せ給ふ。其文左のごとし。

 

    耳のあか                         吉見儀助述

 根岸前肥州藤原鎭衞朝臣別號守臣翁は、御代官安生太左衞門定洪の二男にして、元文二年丁巳をもて生れ、文化十二年乙亥七十九歳〔官年八十〕にして卒す。定洪はじめ相撲國津久井縣若柳邑の産にして、其の年御徒安生彦右衞門定之の養子と成御徒に召加へられ、後組頭に轉じ、猶篤行のきこえありしかばたゞちに御代官に擢遷せられ、拜謁の士に列り、其長男直之は御勘定・評定所留役・御藏奉行等を經て、ついに布衣の上士に昇り御船手の頭たり。根岸家は九十郎衞規とて廩米百五十苞の祿にして、もとより拜謁の士たれどもいまだ小普請の列に在るうち、年若して疾篤く易簀に臨みて、守臣翁を養ひ遺跡を繼がしめん事を乞ひ置死せしかば、翁其家を繼小普請の士より御勘定につらなり、評定所留役をかねて訴言(そげん)を糺し、いく程なく組頭にのぼり、俊廟の日光山にまゐらせ給ふ事にあづかり、後御勘定吟味役に進み布衣の上士に列し、又佐渡奉行に擧らる。此時秩錄を加增せられて二百苞の家祿となり、今の御代となりて御勘定奉行に轉ず。時に恆例を以て從五位下肥前守に敍任あり、家祿五百石に加恩あり、はじめて知行の地を給ふ。つゐに町奉行に移り、年久しき勤勞を歷せられ、食邑五百石を増し賜り千石の家祿となれり。御勘定たりし時よりおなじき奉行たるに至迄、しばしば營作土功の事をうけ給はり、落成の度毎に褒賜ある所の黄金通計二百六十餘枚に及ぶとかや。かゝる繁務のいとまにうち聞く所の巷説、兒輩のわざくれに至るまで、耳にとまれるくさぐさを筆記してひそかに名づけて耳嚢とし、其條々ほとほと千有餘に滿つ。卷をわかつて十帖とす。かりそめの物すらしか也。されば國務に有用の事を編集ありしはいくばくならん事、をして知るべし。人となり大量にして小事にかゝはらず、瑣細の事に力を入れず。朝夕近(ちかづ)くる配下の姓名をだに彷彿として記臆せずあるがごとし。よく下情を上達し、選擧必其人を得たりしは、全く偏頗の私情なきによるものか。常に大聲にして私言を好まず。常の言にいはく、「小音にして事を談ずるは謹情の如しといへども、多くは人情輕薄によるか、或は人に害ありて己が利あらん事を思ふが故に、他聞を憚るより起れり」と。其私なき此言をもても思ふべし。翁の男衞肅ははじめ關川氏の養女をめとり子なくして死す。再び近藤氏の女をめとり四男三女を生む。其末女又近藤氏の子義嗣の先妻たり。義嗣かゝるちなみあるにより、門外不出の書たりといへどもかの耳嚢を騰寫する事を得て、己れ義方に示さる。亦はやくより翁に値遇せるも近藤氏の因によれり。これかれ思ひはかればいといと餘所ならず。欣慕のあまり數言を其書のはしに贅す、穴かしこ。

文政九のとし長月すゑつかた時雨めきたる日にくらき窓下にしるす。

  こはさきに近藤助八郎義嗣(よしつぐ)の

  爲に筆す。又志賀何某がもとめに應じて、

  翁が存在の行狀(ぎやうじやう)・嘉言(か

  げん)を思ひ出(いで)て左にしるす。

[やぶちゃん注:冒頭に注したように、「耳のあか」の部分の細かな語注は『「耳嚢」吉見義方識語』を参照されたい。以下では表記・表現の異なる箇所のみについて示す。

・「歎服」感服。感心して心から惹かれ従うこと。

・「峰壽院」峰姫(みねひめ 寛政一二(一八〇〇)年~嘉永六(一八五三)年)は第十一代将軍徳川家斉八女。第八代水戸藩主徳川斉脩(なりのぶ)正室で第九代水戸藩主徳川斉昭の養母。諱は美子で峯寿院は院号。第十二代将軍家慶の異母妹で第十三代将軍家定や十四代将軍家茂の叔母に当たる。

・「御用人」諸藩に置かれたそれで、略して「御側(おそば)」とも呼んだ。藩主やその家族らの私的な家政実務や秘書的役割を担った。

・「古山善吉」(「こやま」という読みは木村幸比古「吉田松陰の実学 世界を見据えた大和魂」(PHP研究所二〇〇五年刊)及び CiNii こちらの佐藤一斎の書簡『「慶安」「六諭」を古山善吉所望につき』のデータに拠った)現在の長野県中野市にあった天領代官所(代官陣屋)中野陣屋の代官(文政元(一八一八)年)〜文政五(一八二二)年)を勤め、その後、御目付となり、文政七(一八二四)年五月二十八日に常陸国(現在の茨城県)に漂着したイギリスの捕鯨船遭難船員の調査に出向いていることなどがネットの検索から分かる。この異国船來船の折り、彼は水戸藩の責任者中山信情に対し、捕虜としているイギリス船員を全員釈放して捕鯨船に薪・水・食糧を与えて帰帆させるように指示しており、これを知った水戸藩の攘夷強硬派が激怒した旨の記載が、「スローネット」の「檜山良昭の閑散余録 第113回 未知との遭遇事件(2)」に載る。この話、いろいろな意味で、私にはなかなか面白く感ずる。(1)はこちら。是非、一読をお薦めする。斉脩は文政一二(一八二九)年十月に病死し、峰姫はほどなく剃髪して峯寿院と号しているから、この記載部分での時制は、まさに剃髪それ以後のものと考えなくてはならぬ。また、彼が後に、この尊王攘夷の水戸藩の、斉脩正室の御用人となったというのも、私にはなんとも皮肉に感じられる。

・「吉見大人〔御勘定組頭吉見儀助〕」吉見義方(宝暦十(一七六〇)年或いは明和三(一七六六)年?~天保一二(一八四一)年 後に示す「耳嚢」本文底本の編者鈴木棠三氏の注で逆算した)。鎮衛より二十九年下であるが、以下に述べる如く、彼の知音であった近藤義嗣が根岸と縁戚関係にあったことから、本文に「己れ亦はやくより翁に値遇せる」とあるように、生前の鎮衛と親しく交わっていたことが分かる(満七十八歳で鎮衛が没したのが文化一二(一八一五)年であるから当時、義方は満五十五か四十九歳となる)。「耳嚢」底本の鈴木氏注に、『三村翁注「儀助と称し、蜀山人の甥にて、狂名を紀定丸といへり、御勘定評定所留役たり、天保十二年正月十六日、七十六歳にて歿す、本郷元町三念寺に葬る。」日本文学大辞典によれば、享年を八十二とする。義方の父佐吉は清水家小十人、母は蜀山人の姉。定丸は安永七年家督を継ぎ小普請方となり、寛政七年清水勤番、文化二年御勘定、同四年組頭。初め野原雲輔と号し、のちに本田原勝粟、晩年己人手為丸と改めた』とある。文化四(一八〇七)年に御勘定組頭となっており、この志賀の「耳嚢副言」の正文跋文のクレジットは天保三(一八三二)年で、彼の死去が天保一二(一八四一)年(但し、その時は昇進して御勘定評定所留役であるから下限はもっと下がる)、この筆記時制はその閉区間内となる。

 以下、「耳のあか」の語注は『「耳嚢」吉見義方識語』を参照されたい。ここでは『「耳嚢」吉見義方識語』との有意な(意味が同じ部分は採っていない)差異があると私が判断した異同のみを注した。それにしてもこの二つを比べることは当時の書写の過程の誤写の実態がよく分かって、私には甚だ興味深いものであった。

 

・「耳のあか」「耳嚢」に添え寄すからその「耳」の垢の如き駄文であるという謙辞である。

・「七十九歳」『「耳嚢」吉見義方識語』は『七十歳』であるが、数え七十九でこちらが正しい。

・「官年八十」この割注は『「耳嚢」吉見義方識語』にはない。官年は近世武家社会に於いて幕府や主家などの公儀に対して届けられた公式な年齢をいう。家督相続や出仕、御目見などに関わる年齢制約を回避するため、年齢を操作して届け出るこのような慣行が成立した。公年(こうねん)ともいった。これに対し、実際の年齢は生年といった(以上はウィキの「官年」に拠った)。

・「其の年御徒安生彦右衞門定之の養子と成」「其の年」は『「耳嚢」吉見義方識語』にはない。これだと、鎮衛の父定洪は出生した年の内に安生家の養子となったと読める。

・「擢遷」『「耳嚢」吉見義方識語』の「擢選」の方が私にはしっくりくる。

・「御船手の頭たり」『「耳嚢」吉見義方識語』では単に「御船手を勤む」である。

・「俊廟」『「耳嚢」吉見義方識語』は「凌廟」。これは両方とも書写の誤りと思われ、「浚廟」が正しい。「しゆんべう(しゅんびょう)」で第十代将軍徳川家治を指す。その諡号(しごう)浚明(しゅんめい)院に基づく。「俊」には優れるの意があるが、しかしやはり私は誤写と採る。

・「知行の地」『「耳嚢」吉見義方識語』は「采地」。意味は同じだが、これは孰れかが書写担当者による書き換えと思われる。

・「歷せられ」『「耳嚢」吉見義方識語』は「慰せられて」。「慰」の方がしっくりくる。

・「食邑五百石を増し賜り千石の家祿となれり」『「耳嚢」吉見義方識語』では、この後に「在職の祿故の如し」という一文がある。

・「しばしば」『「耳嚢」吉見義方識語』は「品々」。

・「十帖」『「耳嚢」吉見義方識語』は「六帖」。これは恐らく「耳嚢」の複雑な成立或いは書写過程と関係するものであって、私は誤写ではないと感じている。『「耳嚢」吉見義方識語』の方は、実は三村本の巻六の末に附されてあるのである。

・「瑣細」『「耳嚢」吉見義方識語』は「鎖細」と誤写している。

・「朝夕近くる配下の姓名をだに彷彿として記臆せずあるがごとし。よく下情を上達し」「記臆」は底本に右に編者長谷川氏によるママ注記がある。さて、この部分、『「耳嚢」吉見義方識語』では、

 朝夕近づくる配下の屬吏の姓名をだに、彷彿として記憶せざるが如し。されど德化を及ぼし、下情を上達し

となっていて有意に異なる。『「耳嚢」吉見義方識語の方がしっくりくる。本筆写者が脱文したか、或いは意訳して写した可能性が疑われる。

・「翁の男衞肅ははじめ關川氏の養女をめとり子なくして死す。再び近藤氏の女をめとり四男三女を生む。其末女又近藤氏の子義嗣の先妻たり」この箇所、『「耳嚢」吉見義方識語』の方では、

 翁男衞肅は、近藤氏の女をめとれり。四男三女を生む。其末女又近藤氏のむまご義嗣の先妻たり。

で有意に異なる。『「耳嚢」吉見義方識語』の「近藤氏の女」の注の鈴木棠三氏の引用を見て頂くと分かるように、『先妻は関川庄五郎美羽の女。これは子もなく、はやく没したらしい』とあって、この志賀の転写した方がより正確な事蹟を伝えていることが分かる。『「耳嚢」吉見義方識語』の方は無縁な記載として書写者が確信犯で、この「はじめ關川氏の養女をめとり子なくして死す。再び」の部分を省略し、改変したものかも知れない。

・「文政九のとし長月すゑつかた時雨めきたる日にくらき窓下にしるす」『「耳嚢」吉見義方識語』の方は、

 あやあるまつりことてふこゝのつのとし、長月すゑつかた、時雨めきる日小ぐらき窓下にしるす

とあって、遙かに高雅な識語となっている。なお、この筆者は私が以前に推理したのと同様に「時雨めきる」と判読して書写していることが分かる。

 

・「嘉言」佳言。人の戒めとなる、よい言葉。

 

■やぶちゃん現代語訳(先に述べた通り、「耳のあか」の部分は、『「耳嚢」吉見義方識語』で行った私の訳を基に補正を加えたものである。同じく、読み易さを考え適宜、改行を施してある。最後の附文の前は一行空けた。)

 

一 以上の他にも、歎服(たんぷく)すべきことはこれ、まだいろいろとあろうかと存ずれども、見聞きしたことを総て記すことはとても出来ない。

 さて、ここに古山(こやま)君――水戸の峰寿院(ほうじゅいん)様の御用人である古山善吉殿――の話に、吉見大人――御勘定組頭吉見儀助殿――の翁の行状を筆記なされたものがあるとのことなれば、しきりにその閲覧を請うて御座ったところ、吉見大人の「耳のあか」と名づけられた識語を見せて下された。その文は以下の通りである。

 

    耳のあか                         吉見儀助述

 根岸前肥前守藤原鎮衛(しずもり)殿、別号、守臣(もりおみ)翁は、これ、御代官安生(あんじょう)太左衛門定洪(さだひろ)殿の二男にして、元文二年丁巳(ひのとみ)を以ってお生まれになられ、文化十二年乙亥(きのとい)、七十九歳――官年八十歳――にして卒(しゅつ)せられた。

 定洪殿は、これ、初め相模国津久井県若柳(わかやぎ)村の出であられ、その年のうちに御徒(おかち)安生彦左衛門定之(さだゆき)殿の養子となって、そのまま御徒に召し加えられ、後、組頭(くみがしら)に転じ、なお、篤行の聞こえよう御座ったによって、直ちに御代官に抜擢せられ、拝謁の士に列せられた。その長男直之(なおゆき)殿と申さるるは、これ、御勘定評定所留役、御蔵奉行等を経て、遂に布衣(ほい)の上、士に昇り、船手組(ふなてぐみ)組頭を勤められた。

 一方、根岸家はこれ、九十郎衛規(もりのり)殿と申し、廩米(りんまい)百五十俵の禄を受けられ、もとより拝謁の士にてあられたけれども、いまだ小普請(こぶしん)組にて在らるる内、若(わこ)うして病い篤く、易簀(えきさく)に臨み、守臣翁を末期養子(まつごようし)として迎えられて遺跡を継がしめんことを、これ、請ひ願いおかれた上、亡くなられた。

 されば、翁、かくして根岸家を継ぎ、小普請の士より御勘定に連なり、評定所留役を兼ねて、訴訟を糺し、幾許(いくばく)もなくして組頭(くみがしら)に昇り、浚明院(しゅんめいいん)家治様の日光山御参詣に関わって東照宮修復の一件に携わられ、後(のち)、御勘定吟味役へと進み、布衣の上、士に列し、また、佐渡奉行へ推挙されなさった。この折り、禄の加増せられて二百俵の家禄となり、今の家斉様の御代となってより、勘定奉行に転ぜられた。時に、その恒例を以って、従五位下肥前守に敍任のあり、家蔵五百石に加恩のあって、ここに初めて知行地を賜い、その後の在職中の当地からの禄高の総計はこれ、三千石に及んだ。それより遂に町奉行に昇進なされ、年久しき勤労の経歴を重ねられて、食邑(しょくゆう)これ、五百石を増し賜はり、最後には千石の家禄となられたのであった。在職中の禄高については以上の如き経歴を経られた。

 御勘定であられた時分より、後に同じ勘定方御(ご)奉行とならるるに至るまで、さまざまな営作土木の事業を任されては監督指揮なされ、落成や事業の完遂のたび毎に、褒賜(ほうし)を受けられて、その賜わった黄金はこれ、総計すると実に二百六十枚に及ぶとも伝えられる。

 さても、かかる怖ろしく多忙なる勤仕(ごんし)の暇(いと)まに、これまた、ちょっと耳にされたところの巷説、一聴、児戯に類するような戯(たわぶ)れの如き流言飛語に至るまで、耳に触れたるありとある風聞風説をこれ、筆記し、これを秘かに名づけて「耳嚢」言う。

 その書き溜めたる条々、これ、殆ど一千話余りにも膨れ上がったれば、巻を分かって十帖となされた。

 ちょっとした普通なら目にも留(とど)めず立ち止まりもせぬ物の記録に於いてすら、かく成し遂げておらるる。さればこそ、本業たる生涯を捧げられた国務に於いて、その有用の事柄を編纂蒐集なされたその量たるをや。これ如何に恐るべきものであろうことはこれ、推して知るべしである。

 その人となり、これ、度量広大にして、小事に拘らず、些細な事には力を無駄に入るること、これなく、鷹揚に構え、朝夕に近侍せる配下の属吏の姓名でさえも、これ一見、何心なく、あたかもまるで記憶にない、覚えてもおらぬかの如き様子。

 されど、下々の者のまことの情実をこれ、そのままにお上へ達し、人を推挙なさるるにこれ、悉く必ず、その職にまっこと相応しき人物を当てられて御座ったことは、全く以って、偏頗した私情の、これ、微塵もなき有り難き御心によるものにては御座るまいか?

 翁は常に大声にて会話なさるるを常とし、殊更に、ひそひそ話を好まれず御座った。

 これにつき、翁の常の言に曰く、

「――小さき音にして事を談ずると申すは、これ、殊勝に謹慎致いてでもおるか如く、一見えるものにては御座るが――その実、そうした内緒話の多くはこれ――話者の人情軽薄に依るものであるか――或いは、人に害のあって、己(おの)ればかりが利あらん事をば思うておるがゆえに、他聞を憚ってこそ――ひそひそ話なんどと申すもの、これ、生まるるものである。」

と。

 その私(わたくし)なき翁の誠心、この一言を以ってしても、思い至ると申すべきもので御座る。

 翁の男子、根岸衞粛(もりよし)殿は、初め関川氏の養女を娶られたが、残念なことに子をもうけらるることなく亡くなられた。されば後に再び、近藤義貫(よしつら)殿の子、義種(よしたね)殿の娘を娶られ、四男三女をお生みになられた。その末の娘子(むすめご)は、これ、また、その義種殿の子であらるる近藤義嗣(よしつぐ)殿の先妻であられる。この義嗣殿が、かかる縁戚の因みあるによって、かの伝説の門外不出の書たりと雖も、この「耳嚢」という書を、これ、書き写すことを得られ、しかも我ら義方にこれを閲覧させて下さったので御座る。

 我らまた、早くより、生前の守臣翁にも知遇を得て御座ったが、これもまた、この近藤義嗣殿の有り難き因みによるもので御座った。

 かく、かれこれと思慮なしみれば、この「耳嚢」のかくも拝読仕ったと申すは、これ、いや、とてものこと! 尋常なことにては御座らぬ!

 あまりのことに悦び入り、また亡き翁への慕わしさの、いや、募って参るあまり、分をも弁えず、下らぬ数語をここに穢し記して御座った。ああ! 何とまあ! 畏れ多いことで御座ろうか!

文政九年の年、長月の末つ方、時雨めいた日のこと、お暗(ぐら)き窓下にこれを記す。

 

 以上は、先にその近藤助八郎義嗣(よしつぐ)殿のために私、吉見が書き記したものである。さてもまた、我ら、志賀某(なにがし)の求めに応じて、翁が在りし日の御行状(ごぎょうじょう)や御嘉言(おんかげん)を思ひ出だいて、さらに以下に記すことと致す。]

2015/04/20

博物学古記録翻刻訳注 ■13 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる老海鼠(ほや)の記載

[やぶちゃん注:本テクストは先の私の「博物学古記録翻刻訳注 ■12 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる海鼠の記載」を受けて作成したものである。「老海鼠」は「海鼠」の条の次にあり、ホヤはナマコに劣らず、私の偏愛の対象だからでもある。

 「本朝食鑑」については上記リンク先の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館のデジタルコレクションの以下の頁の画像を視認した。本文は漢文脈であるため、まず、原典との対照をし易くするために原文と一行字数を一致させた白文を示し(割注もこれに准じて一行字数を一致させてある。底本にある訓点は省略した)、次に連続した文で底本の訓点に従って訓読したものに、独自に読みや送り仮名を附したものを示し、その後に注と訳を附した。原典ではポイント落ち二行書きの割注は〔 〕で同ポイントで示した。なお、原典では原文の所で示したように、頭の見出しである「老海鼠」のみが行頭から記されてあり、以下本文解説は総て一字下げである。なお、「老海鼠」の「鼠」の字は原典では「鼡」の(かんむり)部分が「臼」になったものであるが、コードにない漢字であるので、正字の「鼠」で統一した。「殻」「帯」など異体字は原典のママである。字体判断に迷ったものや正字に近い異体字(「状」など)は正字で採った。

 「本朝食鑑」は東洋文庫で訳注が出ているが、私は現在所持しないので、語注と現代語訳は全くの我流の産物である。真に学術的なものを求めておられる方は、そちらをお薦めする。何箇所かで意味が通じない箇所にぶつかったため、恣意的な翻案もしてある。大方の御批判を俟つものである。

 なお、この記載はおかしな部分が異様に多い。人見御大には失礼乍ら、注では相当に指弾批難しているので、悪しからず。また、申し上げよう。私の読解は好事家の恣意的なそれではあるが、相応に本気だ。――今朝、アカデミックな東洋文庫の訳注本を全巻注文しておいた。私の拙考や訳が下らないものかどうか? その時は私の記載はそのままに補足を致したく存ずる。……さても……鬼が出るか? 蛇が出るか?……お楽しみあれ――♪ふふふ♪……では、それまでまた……【二〇一五年四月二十日 藪野直史】一九七七年平凡社東洋文庫刊の国語学者島田勇雄(いさお)氏の手に成る訳注本を昨日入手したが、披見したところ、手を加える必要性を認めなかったので、これをそのまま私の定稿とする(ちょっと残念)。但し、同書(巻四三三〇~三三一頁)にある注四は恐らく平安から近世に至るまでのホヤの記載の蒐録として現在最も詳しい記載と拝察する。必読である。【二〇一五年四月二十八日追記】遅巻き乍ら、「本朝食鑑」には和漢の本草記載の違いを考察する「華和異同」という別項が各部の終りに附されていることに気づいたので、その本文に準じて追加することとした。但し、本文とダブる箇所が甚だ多いので注は最小限に留めてある。【二〇一五年五月二十三日追記】

 

□原文

 

老海鼠

 釋名保夜〔此俗訓古亦然〕

 集觧狀如言海鼠之老變而一箇肉片色紫赤外

 雖有如※鼇之殻者而粘石脱去肉味類海鼠而

[やぶちゃん字注:「※」=(上)「觧」+(下)「虫」。]

 硬或似鰒耳水母而極堅應節而生花如披人之

 指掌也江淹郭璞同言石蜐乎今芝品川間有之

 相豆總之海濵亦希采海西最多醃而送傳之古

 者若狹作交鮨貢之而不知造法内膳部有參河

 國保夜一斛今未聽國貢也

 氣味鹹冷無毒主治利小水止婦人帯下

 

□訓読文(原典の一字下げは省略した。読み易くするために句読点・記号・濁点・字空けを適宜、施した。一部に独自に歴史仮名遣で読みや送り仮名を附してあるが、読解に五月蠅くなるので、特にその区別を示していない。なお、原典には振られている読み仮名は少なく、片仮名で「間(マヽ)」とあるのみである。また、「今」(いま)には「マ」が送られてあるが、省略した。また、つまらぬ語注を減らすためにわざと確信犯で訓読みした箇所もあり、こうした恣意的な仕儀を経ている我流の訓読であるので、学術的には原典画像と対比しつつ、批判的にお読みになられたく存ずる。)

 

老海鼠

 釋名 保夜〔此れ俗訓。古へ亦、然り。〕

 集觧 狀(かた)ち、海鼠(なまこ)の老變(らうへん)と言ふがごとくにして、一箇の肉片。色、紫赤。外、※鼇(けいがう)のごとき殻有ると雖も、石に粘(ねん)じて脱け去る。肉味、海鼠(なまこ)に類して硬し。或いは鰒(あはび)の耳・水母(くらげ)に似て、極めて堅し。節に應じて花を生ず。人の指掌(ししやう)を披(ひら)くがごとし。江淹(かうえん)・郭璞(かくはく)、同じく言ふ、「石蜐(せきけふ)」か。今、芝・品川、間(まま)之れ有り。相(さう)・豆(づ)・總(さう)の海濵にも亦、希れに采(と)る。海西、最も多し。醃(しほづけ)して之を送り傳ふ。古へは若狹、交鮨(まぜずし)と作(な)して之を貢す。造法を知らず。「内膳部」に『參河(みかは)の國、保夜一斛(ひとさか)。』と有り。今、未だ國貢(こくこう)を聽かざるなり。

[やぶちゃん注:「※」=(上)「觧」+(下)「虫」。]

 氣味 鹹冷(かんれい)。毒、無し。主治 小水を利(り)し、婦人の帯下(こしけ)を止(と)む。

 

□やぶちゃん語注(既に私がものした、

寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部」の「老海鼠」

「海産生物古記録集■2 「筠庭雑録」に表われたるホヤの記載」

「海産生物古記録集■4 後藤梨春「随観写真」に表われたるボウズボヤ及びホヤ類の記載」

「海産生物古記録集■5 広瀬旭荘「九桂草堂随筆」に表われたるホヤの記載」

「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 ホヤ」

などでさんざん注を施してきたので、寧ろ、それらを参考がてら、お読みに戴けるならば、恩幸、これに過ぎたるはない。但し、「本朝食鑑」全体の構成要素である「釋名」等の語意については既に「博物学古記録翻刻訳注 ■12 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる海鼠の記載」で施しているので繰り返さなかった。そちらを参照されたい。)

・「老海鼠」食用としての記載であるから、脊索動物門尾索動物亜門海鞘(ホヤ)綱壁性(側性ホヤ)目褶鰓(しゅうさい)亜目ピウラ(マボヤ)科 Pyuridae マボヤHalocynthia roretzi 及びアカボヤHalocynthia Aurantium を挙げておけばよかろう。本書より後の寺島良安の「和漢三才図会」では、巻第四十七の「介貝部」に「老海鼠」を入れており(これは現代の一部の魚屋が本種を「ホヤガイ」と呼んで貝類と思い込んでいるのと同じである)、そこでは『「和名抄」は魚類に入る。以て海鼠の老いたる者と爲すか』と記している。因みに、人見はこの「老海鼠」を棘皮動物の「海鼠」と条鰭綱トゲウオ目ヨウジウオ亜目ヨウジウオ科タツノオトシゴ亜科タツノオトシゴ属 Hippocampus の魚類「海馬」(タツノオトシゴ)の間に挟み入れている(「本邦食鑑」の配列には強い細かな分類意識は働いていないように私は感じられる)。人見も「狀ち、海鼠の老變と言ふがごとくにして」と言っている辺り、海鼠と近縁と考えるにはやや躊躇があったようにも感じられはするが、寺島ほど強い批判的雰囲気は感じられない。

・「保夜〔此れ俗訓。古へ亦、然り。〕」しばしば俗にホヤには強壮効果があって「夜に保つ」ことからこう書くという説があるが、「保夜」は「ホヤ」という生物呼称が成立して以降に生まれた当て字であって誤りである。「ほや」という呼称は平安以前の非常に時代に発生しており、現在はその語源を解き明かすことは出来ない。

・「※鼇」(「※」=(上)「觧」+(下)「虫」)この「※」は「蟹」の異体字と判断する。「鼇」は大亀で、現行では大きなウミガメ(海亀)やスッポン(鼈)の類を指す。確かにホヤの「殻」(皮革質の被嚢)は蟹の甲羅やスッポン及びウミガメ類でも皮骨と鱗から成る比較的軟らかいオサガメの類の甲羅が発達しないタイプのそれによく似ているとは言えると思う。

・「節に應じて花を生ず。人の指掌を披くがごとし」問題の箇所である。この二箇所はどう考えてもホヤの生態、少なくとも食用にするマボヤやアカボヤのそれではあり得ない叙述である。百歩譲って、着底したホヤが成体となることを「花」と言い、被嚢の入水管・出水管の二本と皮革状の表面に発生する疣状或いは突起状のもの三つを合わせて「人の」「掌」(てのひら)や五本の「指」に譬えたのだと措定してみても、それを自然な表現であるとする人はまずいないはずである。あれは「花」には見えないし、五本の指のある人の掌には決して見えない。これがホヤだというのなら、その言っている本人は、実際の海中での生体としてのホヤは勿論、採れたての捌かないホヤを実見したことがない人間による誤った記載としか思われないのである。まず、この「人の指掌を披くがごとし」というのは、「披く」が明白に「花」を受けているから、前の「節に應じて花を生ず」ような運動に対する明白な補足比喩である。しかも後の「石蜐」の注で示すように、これは郭璞の「江賦」の中にある「石砝」(石蜐に同じい)の叙述である『石砝應節而揚葩』という表現を無批判に安易に自分の言葉として使ってしまった誤り(と私は断言する)なのであって、到底、人見が生体のホヤ実見していたとは思えないのである。しかもしかし、ここで一旦、立ち止まってよく見ると、これは、

――「節」(時。季節とは限らない。満潮時・干潮時も立派な「節」である)に「應じ」るかのように、「人の指掌」のようなものが窄(すぼ)んだ状態から、ぱっと「掌」を「披」いたかのように、「花を生」じたかのように見える、それは時によって人の「指」や閉じた「掌」のように見え、時によってそこから「花」に見紛うようなものが「掌」をぱっと開くように出て来る――

という運動を見せる生物体を描写していると読むのが自然であるということが分かってくる。こう書けば、少しでも海岸動物を知っておられる方は、これがホヤなどではなく、

甲殻亜門顎脚綱鞘甲亜綱蔓脚(フジツボ)下綱完胸上目有柄目ミョウガガイ亜目ミョウガガイ科カメノテ Capitulum mitella

の形状にぴったり一致していることがお分かり戴けるはずである。そうして何より、「石蜐」は現代中国語でまさしくカメノテを指していることがはっきりと分かるのである(例えば中文サイトのここここをご覧あれ)。

・「殻有ると雖も、石に粘じて脱け去る」この叙述もおかしい。生体を水中で鋭利な道具を以って直接切り裂くのでもなければ、如何に乱暴な漁獲法を持ってしても、被嚢は容易には抜け落ちることはない。これを見ても人見はホヤ漁はおろかホヤの無傷の生体個体を実見したことがないように思われてならないのである。

・「肉味、海鼠に類して硬し。或いは鰒の耳・水母に似て、極めて堅し」この描写も、また大いに矛盾する。食用にするホヤの筋体部は硬くなく、寧ろぐにゃぐにゃしている。海鼠のそれに比すならこれは遙かに軟らかいし、凡そアワビの歩足体の外套膜の胴辺縁のように硬いのは筋体ではなく被嚢である。クラゲを出しているのは食用に処理されたクラゲの硬さを言っていると読めるが、ホヤのコリコリする硬い可食部は被嚢との入・出水口の接合部分のぐらいしかない。しかもそれは極めてそれは僅かな部位である。即ち、この人見が異様に硬いと言っているのは、どう考えても食べられない被嚢(皮革)部分を指しているである。これも人見がホヤの実体に極めて疎いことが知れ、彼は実はホヤの可食部をよく分かっていないのではないか、という強い疑惑を抱かざるを得ない奇妙な叙述なのである。

・「江淹」(四四四年~五〇五年)は六朝時代の文学者。河南省考城 の生まれ。字は文通。宋・斉・梁の三代に仕え、梁の時、金紫光禄大夫に至った。貧困の中で勉学に励み、若くして文章で名を挙げた。詩文に清冽な風格をもつが、特に「恨賦」「別賦」は抽象的な感情を題材として精緻な描写のうちに深い情緒を込めた、六朝の賦の一方の代表作とされる(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。ウィキの「江淹」によれば、南宋の詩人厳羽の「滄浪詩話」には「擬古は惟(こ)れ江文通、最も長ず。淵明に擬すれば淵明に似、康樂に擬すれば康樂に似、左思に擬すれば左思に似、郭璞に擬すれば郭璞に似たり。獨り李都尉に擬する一首、西漢に似ざるのみ」とあるとする。因みに「康樂」は東晋・南朝宋の詩人謝霊運のこと、「左思」は西晋の知られた文学者である(下線はやぶちゃん)。

・「郭璞」(二七六年~三二四年)は六朝時代の東晋の学者・文学者。山西省聞喜の生まれ。字は景純。博学で詩賦をよくし、特に天文・卜筮(ぼくぜい)の術に長じた。東晋の元帝に仕えて著作郎などを勤め、たびたび大事を占っている(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

・「石蜐」現代仮名遣「せききょう」(「せきこう」とも読める)。江淹のそれは彼の「石蜐賦序」にある『海人有食石蜐、一名紫𧄤、蚌蛤類也』に基づき、郭璞のそれは、彼の博物的な長江の生物層を詠じた「江賦」の中にある『石砝應節而揚葩』とある「石砝」を指しており、先の「節に應じて花を生ず」という人見の記述も、実はそれに拠っていることが分かる(以上の原文引用は中文サイトの検索による複数の情報から最も信頼出来ると判断したものから引用した)。前注で解き明かした通り、これは――生活史の一部にあって高等な脊索を持った尾索動物のホヤ――とは全く以って無縁で、似ても似つかぬ、逆立ちしたまま固着して動かない(そこは偶然にもホヤの生活史と一致するが)エビ――蔓脚類のフジツボの仲間であるカメノテのこと――なのである。

・「芝」現在の東京都港区芝。浜松町駅の南西、東京タワーの南東に位置し、江戸時代には付近一帯の海岸は「芝浜」と呼ばれ、その中に「雑魚場(ざこば)」と呼ばれる魚市場があった。江戸前の小魚や魚介類などが豊富に水揚げされ、「芝肴(しばざかな)」と呼ばれ、江戸庶民に賞味され、浅草海苔の生産地としても知られたが、江戸末期以降には漁獲量も減り、周辺の湾岸も徐々に埋め立てられて昭和四五(一九七〇)年には雑魚場のあった海岸も完全に埋めたてられ、その跡は本芝公園となった(この情報は芝四丁目の町内会「本芝町会」公式サイトの「町会の概要」の記載に基づいたものである)。

・「海西、最も多し」不審。皆さんもお分かりのように、ホヤ、特に最も食用に供されるマボヤは海西どころか、東北や北海道に多く、特に牡鹿半島・男鹿半島以北に多い。人見は北前船で回って来たホヤの塩辛が、西で獲れてそこで処理されてもたらされたものと勘違いしているのではあるまいか? とすれば、彼は少なくともホヤに関しては生態どころか、流通経路にも暗かったことになる。あんまり考えたくないが、そう思わないとこの悉くおかしな叙述は私には理解出来ないのである。

・「醃(しほづけ)」音は「エン」で、広く魚・肉・卵・野菜・果物などを塩・砂糖・味噌・油などで漬けることを言うが、ここは塩漬けで訓じた。

・「古へは若狹、交鮨と作して之を貢す」「交鮨」は「まぜずし」と訓じておいたが、これは一般的には見かけない語ではある。ところが「古へは若狹」が大きなヒントなのだ。「福井県文書館」公式サイト内の「『福井県史』通史編1 原始・古代」の「第四章 律令制下の若越 第二節 人びとのくらしと税 三 人びとのくらし」の「漁村のくらし」の中に、「延喜式 主計部 上」に『若狭からの調品目に貽貝保夜交鮨というのがある』とし、前文で紹介されてある若狭国遠敷(のちの大飯)郡青郷(里)に関わる木簡の『貽貝富也交作』や『貽貝富也并作』という記載について、『おそらく木簡にみえる交作・并作は交鮨のことであろう。そうであるならこれは、貽貝と海鞘とを混ぜこんで作った鮨ということになろう』と記されてあるのである。そうしてこれはほぼ間違いなく「いすし」、「飯寿司」「飯鮨」、本邦では非常に古くからあった飯と食材を「交」ぜて乳酸発酵させて作る「なれずし」のことを指しているのである。そうしてそれは平安時代の「土佐日記」や「枕草子」にさえ出ることは「海産生物古記録集■2 「筠庭雑録」に表われたるホヤの記載」で既に述べたところである。

・「内膳部」「延喜式」のそれ。宮内省の内膳司(ないぜんし:皇室・朝廷の食膳を管理した役所。)に関するパート。

・「一斛」一石。「斛」は古代の体積の単位で、一斛は十斗で約百八十リットル。米換算なら百四十キログラムほど。

・「帯下」女性生殖器からの血液以外の分泌物。普通、通常の分泌を越えて不快感を起こす程度に増量した状態を指す。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

老海鼠(ほや)

 釋名 保夜(ほや)〔これは俗訓。古えもまた、この通り。〕

 集觧 形は海鼠(なまこ)の老いて変じたとでも言ふようなものであって、一箇の肉片である。色は赤紫(あかむらさき)。肉の他に、蟹や鼈(スッポン)の如き殻を持ってはいるがしかし、この殻は石に強く附着していて、漁(と)った際に抜け去る。肉の味は、海鼠(なまこ)に類しており、硬い。或いは鮑(あわび)の耳や食用に加工された水母(くらげ)に似て、極めて堅い。

 この生物はまた、時節に応じて花のようなものを体表に生ずる。それは、あたかも人が掌の指をぱっと開くような感じである。

 江淹(こうえん)や郭璞(かくはく)の二人が、孰れも「石蜐(せきこう)」と呼んでいるものは、実はこの老海鼠(ほや)なのか?

 今、武蔵の芝・品川に於いて、まま、これを獲る。相模国・伊豆国・上総国や下総国の海浜にてもまた、稀(まれ)にこれを獲る。

 対して西日本では、これは最も多く漁獲され、塩漬けにして各地へ、その珍味が送られ齎(もたら)されるのである。

 古えは若狭に於いて馴(な)れ鮨(ずし)になして、これを貢納していた。しかし、その造法は詳らかでない。「延喜式 内膳部」にも『三河の国、保夜一斛(ひとさか)。』とある。しかし今は、この古えの「老海鼠の馴れ鮨」なるものが国へ貢納されているということは全く以って聴かない。

 気味 鹹冷(かんれい)。毒はない。主治 小水(しょうすい)の出をよくし、婦人の帯下(こしけ)を抑える。
 
 

◆華和異同

□原文

  老海鼠

石蜐又有紫𧉧〔音却〕紫〔音枵〕龜脚之名南産志曰石𧉧

福曰黄※1泉曰仙人掌莆曰佛爪春而發華故江賦

[やぶちゃん字注:「※1」=「虫」+新字体と同じ「隠」。]

有石𧉧應節而揚葩之語而謝朓詩亦云紫※2曄春

[やぶちゃん字注:「※2=(くさかんむり)+「噐」。]

流今按春而發華者春月肉吐在外秋冬則否

 

□やぶちゃんの書き下し文

  老海鼠

石蜐(せきけう)。又、紫𧉧しけう)〔音、劫(けう)。〕・紫(しけう)〔音、枵(けう)。〕・龜脚(ききやく)の名、有り。「南産志」に曰く、『石𧉧福に「黄※1」と曰ふ[やぶちゃん字注:「※1」=「虫」+新字体と同じ「隠」。]。泉に「仙人掌」と曰ふ。莆(ほ)に「佛爪」と曰ふ。春にして華を發(ひら)く。故に「江の賦」、「石𧉧、節に應じて葩(はな)を揚ぐ」の語、有りて、謝朓(しやてう)が詩にも亦、云く、「紫※2、春流に曄(かゝや)く」と。』と[やぶちゃん字注:「※2」=(くさかんむり)+(「噐」の「工」を「臣」に代えた字体。]今、按ずるに春にして華を發く者は、春月、肉を吐きて外に在り。秋・冬、則ち、否(しから)ず。

 

□やぶちゃん注

・「龜脚」これだけは本邦の「ホヤ」ではなくて「カメノテ」にしっくりくることは言を俟たぬ。但し、その場合もミョウガガイやエボシガイなどもこう表現する可能性が高く、既に本文の「石蜐」の注でさんざんっぱら、いちゃもん考証をしたように他にも全く異なる種を指している可能性があり、必ずしも完全に限定同定は出来ないので注意が必要である。

・「南産志」「閩書南産志」。既注。

・「福」福州。現在の福建省の北の臨海部にある省都。閩江(びんこう)下流北岸にある港湾都市で木材・茶の集散地として知られる。

・「黄※1」(「※1」=「虫」+新字体と同じ「隠」。)音不詳。「クワウイン(コウイン)」か?

・「泉」泉州。福建省の台湾海峡に面する港湾都市。唐代から外国貿易で発展し、インドやアラブまで航路が通じていた。マルコ=ポーロが「ザイトン」の名でヨーロッパに紹介している。

・「莆」現在の福建省莆田(プーテン)県。古くは興化(現在の江蘇省興化市とは別)とも呼ばれ、莆陽(プーヤン)・莆仙(プーシェン)とも呼ばれる。北は福州と隣接、南は泉州と隣接する。西には戴雲山脈があり、東南は台湾海峡に面している。世界的にも稀な三つの河口を有し、臨海部には百五十に及ぶ島嶼群がある。

・「江の賦」既注の「文選」所収の東晉の郭璞の手になる「江賦」。

・「謝朓が詩」謝朓(しゃちょう 四六四年~四九九年)は南朝の斉の詩人。陽夏(現在の河南省)の生まれ。字(あさな)は玄暉(げんき)。宣城の太守であったので謝宣城と呼ばれ、詩人として知られる同族の謝霊運(しゃれいうん 三八五年~四三三年:六朝時代の宋の詩人。字は宣明。)に対して「小謝」とも称された。但し、ここで人見が引く「詩」とは彼の詩ではなく、以下に見るように、まさにその謝霊運の方の詩である。

・「紫※2、春流に曄(かゝや)く」(「※2」=(くさかんむり)+(「噐」の「工」を「臣」に代えた字体。)前注で示した通り、これは謝朓の詩ではなく、謝霊運の「郡東山望溟海」(郡の東山にて溟海を望む)の一節である。個人の中国史サイト「枕流亭」の掲示板のこちらの過去ログの中にある殷景仁氏の投稿(投稿日三月五日(金)13236秒のもの)によれば(リンク先には原詩が総て載る)、

   *

白花皜陽林 白花 陽林に皜(て)り

曄春流 (しこう) 春流に曄(かかや)く

   *

で、当該部分を、

   《引用開始》

花の白さは南の林の中で映え、よろいぐさの紫色は春の川の流れの中で一際明るく輝く。

   《引用終了》

と訳しておられ、この「紫をセリ目セリ科シシウド属ヨロイグサ Angelica dahurica とされている。ロケーションからも(題名に海が出るが、実はこの詩には海の景観は読み込まれていない。リンク先の殷景仁氏の解説を必参照のこと)、この「紫」は「ホヤ」でも「カメノテ」でもないのである。これは全くの人見の見当違いなのである。因みに、これについて東洋文庫の島田氏の訳注が一切、問題にされていないのは、頗る不審と言わざるを得ない。

・「春にして華を發く者は、春月、肉を吐きて外に在り。秋・冬、則ち、否ず」意味不明。ホヤやカメノテの習性にこのような現象は見られない。私がさんざん本文で考証したように、人見は中国の本草書の「石蜐」を安易に一律に「老海鼠」(ホヤ)と同定してしまった結果、自分でも何を言っているのか分からないような、苦しい説明に堕したものと私は判断するものである(そうして言わせてもらうなら、人見はホヤの生態を全く以ってご存じないのに、分かったように書いている事実がここでもはっきりと見てとれるということである)。序でに言わせて頂くと、島田氏の訳(『春に華を発(ひら)くとみえるのは、春月に肉を外に吐き出しているんでおあって、秋・冬にはそんなことはない。』)も失礼乍ら、私には何だか半可通なものである。誤解なら誤解なりに納得出来る訳を心掛けるべきだと、若輩者乍ら、私は思うのである。そういう訳としたつもりである。

 

□やぶちゃん現代語訳

  老海鼠

石蜐(せききょう)。又、紫𧉧(しきょう)〔音、劫(きょう)。〕・紫(しきょう)〔音、枵(きょう)。〕・龜脚(ききゃく)の名がある。「閩書南産志」に曰く、『石𧉧(せききょう)は福州に於いては「黄※1(きいん)」と言い、泉州に於いては「仙人掌」と言い、莆(ほ)州に於いては「仏爪(ぶっそう)」と言う。春になると花を開いたように見える。故に郭璞(かくはく)の「江(こう)の賦」に、「石𧉧、節に応じて葩(はな)を揚ぐ」の語があり、謝朓(しゃちょう)の詩にもまた、「紫※2(しこう)、春流に曄(かかや)く」とある。』と記す。今、按ずるに、春になって華を開くという謂いは、春の時節には、この老海鼠(ほや)がその肉を外にべろりと吐きだしている状態を表現したものである。老海鼠は確かに、秋や冬には、そのような現象を見せない。

[やぶちゃん字注:「※1」=「虫」+新字体と同じ「隠」。「※2」=(くさかんむり)+(「噐」の「工」を「臣」に代えた字体。]

志賀理斎「耳嚢副言」附やぶちゃん訳注 「追加」 (Ⅴ)

一 翁病中にありし時、自火(じくわ)ありて御役宅殘らず燒亡せし時、北の奉行永田氏早速駈付(かけつけ)、無程(ほどなく)鎭火に付(つき)翁に向ひ、「火に怪我もなきや、又書(かき)もの燒失もせざりしや」、其外同役の事なれば殘る處なく相尋(あひたずね)終りて歸られける。予も早速見廻(みまひ)に趣(おもむき)て後(のち)歸りがけに永田の御役所え出けるに、備後守火災の事など申され咄されけるは、「扨々同役は病中にてはあり、嘸(さぞ)かし轉動(てんどう)の事もあるべしとおもひの外、格別おどろきたる風情も見えず。諸向(しよむき)の事またさしあたりたる火事の始末に付ては色々の相談もせし處、諸事常にかはる事なくしめやかに申談(まうしだん)じ、萬事行屆(ゆきとどき)し趣也。いかなるものも自火といひかれこれ取亂(とりみだ)し、物事前後もすべきを、いさゝかの落度(おちど)もなき取鎭(とりしづ)めかた、誠に驚き入(いり)たる器量の程感心する事にて、中中我等などの及ぶ所にあらず」との物語り也。後々人のはなしをきくに、火事の出(いづ)べき朝(あさ)便所に行かれしに、「夫(それ)火事」とて大騷動也。附從(つきしたが)ひ來りし女ども大(おほい)に驚き、右の事をあはたゞしく告(つげ)て、「早く便所より出給(いでたま)ふ樣に」としきりに申せ共(ども)、いさゝか構はず平常の如く、燒(やく)るもかまはずゆるゆると便(べん)し終りて出たりとぞ。げに當世の一人物にて、其(その)量の程凡庸の人にあらざる事、此一事にてもをして知るべし。心廣く體(たい)ゆたかとは是をしもいふべし。

[やぶちゃん注:クレジットがないが、永田備後守正道(まさのり)と筆者の志賀が見舞いに訪れているから、永田の北町奉行就任である文化八(一八一一)年から奉行在任のまま根岸の死去する文化一二(一八一五)年の閉区間で、しかも根岸は「病中」とするから、この役宅(町奉行の役宅は奉行所内にあり、南町奉行所(南番所)は現在の有楽町マリオン付近であったとウィキの「町奉行」にある)を火元とする火災は四年間の後半の出来事と推理出来る。調べて見ると、人文社の「耳嚢で訪ねる もち歩き裏江戸東京散歩」(二〇〇六年刊)に、現在の千代田区神田駿河台一丁目(明大の向い)にあった根岸家屋敷の解説文中に、『根岸鎮衛とその子孫が居宅した場所。文化十二年十月、自宅二階の灯明が元で御役屋敷と居宅を焼失。鎮衛は罹災後この地で過ごし、十二月に死去した』とあった(下線やぶちゃん)。なんと! これは鎮衛の亡くなるたった二ヶ月前の満七十八歳の時の出来事だったのだ! しかもこれ以前、根岸は役宅に附属する形で自宅を構えていたということも遅まきながら分かった(私は「耳嚢」を訳していたこの五年の間、ずっと神田が彼がせんから住んでいた屋敷だと勘違いしていたのである)。役宅は全焼したものの、近隣に類延焼しなかったことこそが町奉行たる根岸にとって、何より最もほっとしたことではなかったろうか?……「燒るもかまはずゆるゆると便し終りて出たり」――いいねえ! 根岸の旦那!――馥郁たる御香の漂って参りやすぜ!!……

・「永田の御役所」北町奉行所(北番所)は東京駅の八重洲北口付近にあった。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

一 翁の病中にあられた折りのことである。

 御自宅より出火のあって、御役宅も、これ残らず焼亡なさった際には、北の御奉行永田正道(まさのり)氏も早速にお駈けつけなされたが、幸いなことに、ほどのぅ鎮火致いて御座ったによって、翁に向われ、

「――火にて怪我などなされなんだか?――また、公事方の重き文書の焼失などもなく済んで御座ったか?……」

など、その他、御同役なればこそのお気遣いから、こと細かに、こうした折りの公務上の危機管理に相当する事柄につき、洩れなくお訊ねになられ、総て事なきことのご確認を終えられた上、お帰りになられた。

 私も回禄の報を聴き、早速に御見舞いに赴き、その後、翁の避難なされておられたところからの帰りがけ、永田氏の北町の御役所へ少し御機嫌伺いに参ったところ、備後守殿、親しく対面なされて、この度の一件につき、お話しなされたが、

「――さてさて! 御同役は病中にてあれば、さぞかし、動転なされておらるる向きなんどもあろうほどに、と直ちに見舞って御座ったのじゃが、これ、当人、思いの外、格別驚いておらるる風情も見えず御座っての! 公務上の種々の対応の件及びさし当たっての奉行所役宅の焼失の後始末などに就きては、これ、いろいろと相談も致いたのじゃが、諸事これ、常に変わるところのぅ、まっこと、落ち着いて普段通りに話し合いなど致いて――そもそもが、我らが参ったは、やっと鎮火致いたかと申す、ほんの直後であったにも拘わらず、万事これ、なすべき処置や指図、総て行き届いておるといった趣きであった!……如何なる者といえども、これ、自家より火を出だいたとならば、百人が百人、かれこれ取り乱し、慌てふためき、まともな判断や対処もあっちゃこっちゃとなるが、これ、当たり前のところなるに、翁のそれは、もう、いささかの落度(おちど)もなく――いやさ! 冷静にとり鎮めて御座った、その仕儀たるや! まことに驚き入ったる器量のほど! いやもう! 感心するのなんの!……なかなか! 我らなんどの及ぶべきところにては、あらなんだわ!」

と、物語っておられた。

 のちのちになって、人の話を聴いたところ、火事の起こったまさにその折り、翁は朝の便所に行かれておられたが、

「――か、火事じゃッツ!!」

と、大騒動となったによって、つき従って御座った下女ども、これ、大きに驚き、

「――か、火事にて御座いまするッツ! お、お殿さまッツ!!……」

と、便所の内へ慌ただしく呼びかけ、

「――は、早う!――お便所よりお出で下さりませッツ!!――は、早くうにッツ!!!」と、しきりに申し上げたけれども、これ、翁、いささかも構はず、普段の如く――家のめらめらと焼くる音の致すも、どこ吹く風と――ゆるゆると、まり終わらるると、徐ろに出でて参られた、とのことで御座る。……

……げに――当世の一大人物にして、その御器量のほど、やはり流石に、凡庸の人にてはあらざること、この一事をとって見ても、推して知るべし――で御座る。

――心広く体(たい)豊か――とは、これをしも言うと申せましょうぞ。……]

2015/04/19

博物学古記録翻刻訳注 ■12 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる海鼠の記載 《2015年4月27日改訂版に差替え》

 

[やぶちゃん注:本テクストは先の私の『博物学古記録翻刻訳注 ■11 「尾張名所図会 附録巻四」に現われたる海鼠腸(このわた)の記載』に本「本朝食鑑」の「海鼠」内の「海鼠腸」が引用されていたのを受けて作成したものである。

 「本朝食鑑」は医師で本草学者であった人見必大(ひとみひつだい 寛永一九(一六四二)年頃?~元禄一四(一七〇一)年:本姓は小野、名は正竹、字(あざな)は千里、通称を伝左衛門といい、平野必大・野必大とも称した。父は四代将軍徳川家綱の幼少期の侍医を務めた人見元徳(玄徳)、兄友元も著名な儒学者であった)が元禄一〇(一六九七)年に刊行した本邦最初の本格的食物本草書。「本草綱目」に依拠しながらも、独自の見解をも加え、魚貝類など、庶民の日常食品について和漢文で解説したものである。

 底本は国立国会図書館のデジタルコレクションの以下の頁以降の画像を視認した。本文は漢文脈であるため、まず、原典との対照をし易くするために原文と一行字数を一致させた白文を示し(割注もこれに准じて一行字数を一致させてある。底本にある訓点は省略した)、次に連続した文で底本の訓点に従って訓読したものに、独自に読みや送り仮名を附したものを示し、その後に注と訳を附した。原典ではポイント落ち二行書きの割注は〔 〕で同ポイントで示した。なお、原典では原文の所で示したように、頭の見出しである「海鼠」のみが行頭から記されてあり、以下本文解説は総て一字下げである。なお、「海鼠」の「鼠」の字は原典では「鼡」の(かんむり)部分が「臼」になったものであるが、コードにない漢字であるので、正字の「鼠」で統一した。その他の異体字(「黒」「児」など)は原典のママである。字体判断に迷ったものや正字に近い異体字は正字で採った。

 「本朝食鑑」には一九七七年平凡社東洋文庫刊の国語学者島田勇雄(いさお)氏の手に成る訳注本の労作があるが、当初、このテクスト訳注は二〇一五年四月十九日に初稿を公開した際には、私は「本朝食鑑」を所持していなかった。そのため、最初のそれは全くの我流の産物であったのだが、その公開から八日後にたまたま同書を入手し、それと校合してみると私の読解や注に幾つかの問題点を見出した。実は当初は、私の最初の公開分に削除線と追加を施すことで対応しようと不遜にも考えていたが、この「海鼠」に関しては、島田氏の訳注を披見する以前に、さらに自分の中で改稿したい記載不備が幾つか発生していたため、今回、ここでは思い切って全面改稿することとした。但し、改稿の追加分の内で、入手した東洋文庫の島田氏の訳注から少しでも恩恵を被った箇所については、それと分かるように逐一洩らさず『島田氏注に』『島田氏の訳では』などと明記しておいた。従ってそれ以外は私の初稿のオリジナルなものとお考え戴いてよろしい。【二〇一五年四月二十八日改稿】遅巻き乍ら、「本朝食鑑」には和漢の本草記載の違いを考察する「華和異同」という別項が各部の終りに附されていることに気づいたので、その本文に準じて追加することとした。但し、本文とダブる箇所が甚だ多いので注は最小限に留めてある。【二〇一五年五月二十一日追記】 

 

□原文

海鼠〔訓奈麻古〕

 釋名土肉〔郭璞江賦土肉石華文選註曰土肉正

 黒如小児臂大長五寸中有腹無口目

 有三十足故世人

 以似海鼠爲別名〕

 集觧江海處處有之江東最多尾之和田參之柵

 嶋相之三浦武之金澤本木也海西亦多采就中

 小豆嶋最多矣狀似鼠而無頭尾手足但有前後

 两口長五六寸而圓肥其色蒼黒或帶黄赤背圓

 腹平背多※1※2而軟在两脇者若足而蠢跂來徃

[やぶちゃん字注:「※1」=「瘖」から十三画目(「日」の中央の一画)を除いた字。「※2」=「疒」の中に「畾」。]

 腹皮青碧如小※1※2而軟肉味略類鰒魚而不甘

 極冷潔淡美腹内有三條之膓色白味不佳此物

 殽品中之最佳者也本朝有海鼠者尚矣古事記

 曰諸魚奉仕白之中海鼠不白爾天宇受賣命謂

 海鼠曰此口乎不荅口而以細小刀拆其口故於

 今海鼠口拆也一種有長二三寸腹内多沙味亦

 差短者一種有長七八寸肥大者腹内三條之黄

 腸如琥珀淹之爲醬味香美不可言爲諸醢中之

 第一也事詳于後其熬而乾者亦見于後今庖人

 用生鮮海鼠混灰砂入籃而篩之或抹白鹽入擂

 盆中以杵旋磨則久而凝堅其味鮮脆甚美呼稱

 振鼠也

 肉氣味鹹寒無毒〔畏稲草稲糠灰砂及鹽伏河豚毒〕主治滋腎凉

 血烏髮固骨消下焦之邪火袪上焦之積熱多食

 則腸胃冷濕易洩患熱痢者宜少食或療頭上白

 禿及凍瘡

 熬海鼠〔或熬作煎俱訓伊利古〕釋名海參〔李東垣食物曰功

 擅補益故名之乎

 世人間有稱之者

 本朝式稱熬海鼠〕

 集觧造之有法用鮮生大海鼠去沙腸後数百枚

 入空鍋以活火熬之則鹹汁自出而焦黒燥硬取

 出候冷懸列于两小柱一柱必列十枚呼號串海

 鼠訓久志古大者懸藤蔓今江東之海濵及越後

 之産若斯或海西小豆嶋之産最大而味亦美也

 自薩州筑州豊之前後而出者極小煮之則大也

 作熬之海鼠以過六七寸者其小者不隹大抵乾

 曝作串作藤用之先水煮稍久則彌肥大而軟味

 亦甘美或合稲草米糠之類而煮熟亦軟或埋土

 及砂一宿取出洗浄而煮熟亦可也自古用之者

 久矣本朝式神祇部有熬海鼠二斤主計部志摩

 若狹能登隱岐筑前肥之前後州貢之今亦上下

 賞美之

 氣味鹹微甘平無毒主治滋補氣血益五臓六腑

 去三焦火熱同鴨肉烹熟食之主勞怯虛損諸疾

 同猪肉煮食治肺虛欬嗽〔此據李杲食物本草〕殺腹中之悪

 蟲然治小児疳疾

[やぶちゃん字注:この最後の一文の「然」の字は(れっか)の上が「並」の旧字体のような漢字であるが、表記出来ないので、文脈から推して「然」としたが、違う字かも知れない。]

 海鼠腸〔訓古乃和多〕集觧或稱俵子造腸醬法先取鮮

 腸用潮水至清者洗浄數十次滌去沙及穢汁和

 白鹽攪勻收之以純黄有光如琥珀者爲上品以

 黄中黒白相交者爲下品今以三色相交者向日

 影用箆箸頻攪之則盡變爲黄或腸一升入雞子

 黄汁一箇用箆箸攪勻之亦盡爲黄味亦稍美一

 種腸中有色赤黄如糊者號曰鼠子不爲珍焉凡

 海鼠古者能登國貢海鼠腸一石主計部有腸十

 五斤今能登不貢之以尾州参州為上武之本木

 次之諸海國采海鼠處多而貢腸醬者少矣是好

 黄膓者全希之故也近世參州柵嶋有異僧守戒

 甚嚴而調和於腸醬者最妙浦人取腸洗浄入盤

 僧窺之察腸之多少妄擦白鹽投于腸中浦人用

 木箆攪勻收之經二三日而甞之其味不可言今

 貢獻者是也故以參州之産爲上品後僧有故移

 于尾州而復調腸醬以尾州之産爲第一世皆稱

 奇矣

 附方凍腫欲裂〔用鮮海鼠煎濃汁頻頻洗之或用熱湯和腸醬攪勻洗亦好〕頭

 上白禿〔生海鼠割腹去腸掣張如厚紙粘于頭上則癒〕濕冷蟲痛〔及小児疳傷泄痢常食而好又用熬海鼠入保童圓中謂能殺疳蟲〕 

 

□やぶちゃん訓読文(原典の一字下げは省略した。読み易くするために句読点・記号・濁点・字空けを適宜、施した。一部に独自に歴史仮名遣で読みや送り仮名を附してあるが、読解に五月蠅くなるので、特にその区別を示していない。なお、原典には振られている読み仮名は少なく、片仮名で、

「但(タヽ)」・「略(ホヽ)」・「尚(ヒサ)シ」・「白(マウ)ス/サ」(二箇所)・「天宇受賣命(ノウスメノミコト)」(「天(あめ)」にはない)・「荅へざる口(クチ)」・「拆(サ)ケタリ」・「差(ヤヽ)」・「振鼠(フリコ)」・「烏(クロ)クシ」・「熬海鼠(イリコ)」・「伊利古(イリコ)」・「間(マヽ)」・「串海鼠(クシコ)」・「久志古(クシコ)」・「彌(イヨイヨ)」(後半の「イヨ」は底本では踊り字「〱」)・「コノワタ」(二箇所)・「タワラコ」(「ワ」はママ)

とあるのみである。また、

「中」(なか)には「カ」が、一部の「者」(もの)には「ノ」が(これ以外は「は」と読ませるための区別かとも思われる)、「今」(いま)には「マ」が、「後(のち)」には「チ」が、「處」(ところ)には「ロ」が

それぞれ送られてあるが、総て省略した。また、つまらぬ語注を減らすためにわざと確信犯で訓読みした箇所もあり、こうした恣意的な仕儀を経ている我流の訓読であるので、学術的には原典画像と対比しつつ、批判的にお読みになられたく存ずる。)

海鼠〔「奈麻古(なまこ)」と訓ず。〕

釋名 土肉〔郭璞が「江賦(かうのふ)」に、『土肉石華。』と。「文選註」に曰く、『土肉は正黒(せいこく)、小児の臂(ひ)の大いさのごとくにして、長さ五寸、中に腹(はら)有りて、口・目、無し。三十の足有り』と。故に世人、以つて海の鼠に似たるを別名と爲(す)。と。〕。

集觧 江海、處處、之れ有り。江東、最も多し。尾の和田、參の柵(さく)の嶋(しま)、相の三浦、武の金澤本木(ほんもく)なり。海西にも亦、多く采(と)る。中(なか)ん就(づ)く、小豆嶋、最も多し。狀(かた)ち、鼠に似て、頭と尾、手足、無し。但(た)だ前後に、两口、有るのみ。長さ五、六寸にして圓く肥ゆ。其の色、蒼黒或いは黄・赤を帶ぶ。背、圓(まど)かに、腹、平らかなり。背に※1※2(いぼ)多くして軟かなり。两脇に在る者は足の若(わか)きにして蠢跂來徃(しゆんきらいわう)す[やぶちゃん字注:「※1」=「瘖」から十三画目(「日」の中央の一画)を除いた字。「※2」=「疒」の中に「畾」。]。腹の皮、青碧、小※1※2(しやういぼ)のごとくにして軟かなり。肉味、略(ほぼ)、鰒魚(ふくぎよ)に類して甘からず。極めて冷潔淡美。腹内、三條の膓、有り。色、白くして味ひ、佳ならず。此の物、殽品(かうひん)中の最佳の者なり。本朝、海鼠と云ふ有る者(もの)、尚(ひさ)し。「古事記」に曰く、『諸魚、仕へ奉ると白(まう)すの中(なか)に、海鼠、白(まう)さず。爾(ここ)に天宇受賣命(あめのうずめのみこと)海鼠に謂ひて曰く、「此口や、荅(こた)へざる口(くち)。」と云ひて、細小刀を以つて其の口を拆(さ)く。故に今に於いて海鼠の口、拆(さ)けたり。』と。一種、長さ二、三寸、腹内、沙多くして、味も亦、差(やや)短き者、有り。一種、長さ七、八寸にして肥大なる者有り。腹内、三條の黄腸(きわた)、琥珀のごとくにして之を淹(つけ)て醬(しやう)と爲し、味はひ香美、言ふべからず。諸(しよ)醢(ひしほ)中の第一と爲すなり。事、後(しり)へに詳かなり。其の熬(いり)して乾く者は亦、後へに見えたり。今、庖人(はうじん)、生鮮の海鼠を用ゐて、灰砂に混じて籃に入れて之を篩(ふる)ふ。或いは白鹽を抹(まつ)して擂盆(すりぼん)中に入れて、杵を以つて旋磨(せんま)する時は、則ち久しくして凝堅(ぎやうけん)す。其の味はひ、鮮脆(せんぜい)、甚だ美、呼びて「振鼠(ふりこ)」と稱すなり。

肉 氣味 鹹寒。毒、無し。〔稲草・稲糠・灰砂及び鹽を畏(おそ)る。河豚(ふぐ)の毒を伏す。〕。 主治 腎を滋し、血を凉(すず)しふし、髮を烏(くろ)くし、骨を固くし、下焦(げしやう)の邪火を消し、上焦の積熱(しやくねつ)を袪(さ)る。多く食へば、則ち腸胃、冷濕、洩らし易く、熱痢を患(うれへ)る者、宜しく少食すべし。或いは頭上の白禿(しらくも)及び凍瘡を療す。

熬海鼠(いりこ)〔或いは「熬」は「煎」に作る。俱に「伊利古(いりこ)」と訓ず。〕 釋名 海參〔李東垣(りとうゑん)「食物」に曰く、『功、補益を擅(ほしいまま)にす。』と。故に之(これ)、名づくるか。世人、間(まま)、之を稱する者、有り。「本朝式」に『熬海鼠』と稱す。〕。

集觧 之を造るに、法、有り。鮮生の大海鼠を用ゐて、沙・腸を去りて後(のち)、数百枚、空鍋(からなべ)に入れて、活火(つよび)を以つて之を熬る時は、則ち鹹(しほじる)汁、自ら出でて焦黒(くろくこ)げ、燥(かは)きて硬(かた)きを、取り出し、冷(さむる)を候(うかが)ひて两(りやう)小柱に懸け列(つら)ぬ。一柱、必ず十枚を列ぬ。呼びて「串海鼠(くしこ)」と號す。「久志古(くしこ)」と訓ず。大なる者は、藤蔓に懸く。今、江東の海濵及び越後の産、斯(か)くのごとし。或いは海西、小豆嶋の産、最も大にして、味も亦、美なり。薩州・筑州・豊の前後より出ずる者は、極めて小なり。之を煮る時は、則ち、大(おほ)ひなり。熬(い)りと作(な)すの海鼠は、六、七寸を過る者を以てす。其の小きなる者は佳ならず。大抵、乾曝(かんばく)するに串と作(な)し、藤と作(な)し、之を用ゆ。先づ水に煮(に)、稍(やや)久しく時んば、則ち、彌(いよいよ)肥大にして軟なり。味も亦、甘美なり。或いは稲草・米糠の類と合(あは)して煮熟すも亦、軟らかかり。或いは土及び砂に埋(うづ)むこと一宿にして取り出だし、洗浄して煮熟(しやじゆく)すも亦、可なり。古へより之を用ゐる者、久し。「本朝式」「神祇(じんぎ)部」に『熬海鼠二斤。』と有り、「主計部」に『志摩・若狹・能登・隱岐・筑前・肥の前後州、之を貢す。』と。今、亦、上下、之を賞美す。

氣味 鹹、微甘、平。毒、無し。 主治 氣血を滋補し、五臓六腑を益し、三焦(さんしやう)の火熱を去る。鴨肉と同じく、烹熟(はうじゆく)して之を食すれば勞怯・虛損の諸疾を主(すべ)る。猪肉と同じく煮食すれば肺虛・欬嗽(がいそう)を治す〔此れ、李杲(りかう)が「食物本草」に據(よ)る。〕。腹中の悪蟲を殺(さつ)し、然して小児の疳疾を治す。

[やぶちゃん字注:この最後の一文の「然して」の「然」の字は(れっか)の上が「並」の旧字体のような漢字であるが、表記出来ないので、文脈から推して「然」としたが、違う字かも知れない。]

海鼠腸(このわた)〔「古乃和多(このわた)」と訓ず。〕 集觧 或いは俵子(たわらこ)と稱す。腸醬(ちやうしやう)を造る法、先づ鮮腸を取りて潮水の至つて清き者を用ゐて洗浄すること數十次、沙及び穢汁(わいじふ)を滌去(てききよ)して白鹽に和して攪勻(かくきん)して之を收む。純黄の光り有りて琥珀ごとき者を以つて上品と爲(な)す。黄中、黒・白相ひ交じる者を以つて下品と爲す。今、三色相ひ交じる者を以つて日影に向けて箆(へら)・箸を用ゐて頻りに之を攪(か)く時は則ち盡く變じて黄と爲(な)る。或いは腸(わた)一升に雞子(けいし)の黄汁(きじる)一箇を入れ、箆・箸を用ゐて之を攪勻するも亦、盡く黄と爲る。味も亦、稍(やや)美なり。一種、腸中に、色、赤黄(しやくわう)、糊のごとき者有り、號して鼠子(このこ)と曰(い)ふ。珍と爲(な)さず。凡そ海鼠、古へは能登の國、海鼠腸一石を貢す。「主計部」に『腸十五斤』と有り。今、能登、之を貢せず。尾州・參州を以つて上と爲し、上武の本木、之に次ぐ。諸海國(かいこく)、海鼠を采る處、多くして、膓醬を貢(けん)する者の少なし。是れ、黄膓は好む者、全く希(まれ)なるの故なり。近世、參州柵(さく)の島(しま)に異僧有り、戒を守りて甚だ嚴(げん)にして、腸醤を調和するは最も妙なり。浦人、腸を取りて洗ひ淨めて盤(うつわ)に入る。僧、之を窺(うかが)ひ、腸の多少を察(さつ)して、妄(みだ)りに白鹽(なまじほ)を擦(す)りて腸の中に投ず。浦人、木篦(きべら)を用ゐて攪勻して之を收む。二、三日を經て、之を甞(な)むれば、其の味はひ、言ふべからず。今、貢獻する者、是なり。故に參州の産を以つて上品と爲(す)。後、僧、故(ゆゑ)有りて尾州に移りて、復た腸醬を調へて尾州の産を以つて第一と爲(す)。世、皆、奇なりと稱す。

附方 凍腫裂れんと欲(す)〔鮮海鼠の煎濃汁(せんのうじふ)を用ゐて頻頻(ひんぴん)、之を洗ふ。或いは熱湯を用ゐて腸醬を和し、攪勻して洗ひ、亦、好し。〕。頭上の白禿(しらくも)〔生(なま)海鼠、腹を割(さ)き、腸を去り、掣(お)し張りて厚紙のごとくにして頭上粘する時は則ち癒ゆ。〕。濕冷の蟲痛(ちゆうつう)〔及び小児の疳傷(かんしやう)・泄痢(せつり)、常食して好し。又、熬海鼠を用ゐて保童圓(ほどうゑん)の中に入れて、謂ふ、能く疳の蟲を殺すと。〕。 

 

□やぶちゃん語注(この本文を引用した先の私の『博物学古記録翻刻訳注 ■11 「尾張名所図会 附録巻四」に現われたる海鼠腸(このわた)の記載』で載せた私の注を煩を厭わず再掲しておいた。それが引用元である本書への礼儀でもあろうと考えたからである。原則、再掲であることを断っていないので、既にお分かりの方は飛ばしてお読みになられたい。なお、他にも私の寺島良安「和漢三才圖會 巻第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「海鼠(とらご)」の項及び「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 海鼠」などからも注を援用しているので、寧ろ、それらも参考にお読みになられんことをお勧めしておく。)

・「海鼠」ここで語られる海鼠は、ほぼ棘皮動物門ナマコ綱楯手目マナマコ科の旧来のマナマコと考えてよいが、実は近年までマナマコ
Apostichopus japonicusSelenka, 1867とされていた種類には、真のマナマコ Apostichopus armataSelenka, 1867とアカナマコ Apostichopus japonicusSelenka, 1867の二種類が含まれている事実が判明しており、Kanno et al.2003により報告された遺伝的に異なる日本産 Apostichopus 属の二つの集団(古くから区別していた通称の「アカ」と、「アオ」及び「クロ」の二群)と一致することが分かっている(倉持卓司・長沼毅「相模湾産マナマコ属の分類学的再検討」(『生物圏科学』Biosphere Sci.494954(2010))に拠る)。これ今までの私のナマコ記載では初めて記す、私は今回初めて知ったことであるが、この学名提案については、サイト「徳島大学大学院ソシオ・アーツ・アンド・サイエンス研究部 水圏生産科学研究室(仮称)」の「マナマコの標準体長&学名」の「マナマコの学名について」に、『最近,本種全体に用いられてきた従来の学名 Apostichopus japonicas を赤色型に限定し,青色型と黒色型を Apostichopus
armata
 とすることが提案されています(倉持・長沼,2010)。しかし,この種小名 armata は,過去に北方系のマナマコに提案されたものであり,北方系のマナマコについては南方系マナマコとは別種とみる研究者もおり,その分類学的位置づけは検討段階にあります。仮に北方系マナマコが別種とされた場合には,種小名 armata の使用は北方系のマナマコに限定されることになります。そうすると,種小名 armata を使って記述された論文の追跡が困難になるなどの恐れもあり,現段階では,従来の学名 Apostichopus japonicas を使用し色型と産地を明記する記述スタイルが無難であると考えています』とあるので使用には注意を有する。

・「奈麻古」「和名類聚抄」に(「国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認)、

   *

崔禹錫食經云海鼠〔和名古本朝式加熬字云伊里古〕似蛭而大者也

(崔禹錫が「食經」に云く、『海鼠。』〔和名、『古』。「本朝式」に「熬」の字を加へて『伊里古』と云ふ〕。蛭に似て大なる者なり。)

   *

とある。これによれば、本来のナマコの和名古名は文字通り「古(こ)」であって、「延喜式」には後述する煮干して調製した製品をこれに「熬」(いる)の字を加えて「伊里古(いりこ)」と称すというのである。寧ろ、この「いりこ」(熬った古)に対して生じた謂いが「なまこ」(生の古)であり、その「古」の腸(わた)が「古(こ)の腸(わた)」なのであろう。これは国語学者の島田勇雄氏も東洋文庫版の注で推定しておられる。

・「釋名」まず扱う対象の物名及び字義を訓釈すること。本書は李時珍の「本草綱目」の構成を模しており、後の囲み字である「集觧」・「氣味」・「主治」・「附方」は総て同書を真似ている(但し、何故か不思議なことに「本草綱目」には海鼠(海参)に相当するものが載らない)。

・『土肉〔郭璞が「江賦」に、土肉」「石華」「文選註」……』以下、非常に注が長くなるのでご注意あれ。しかも答えは……必ずしも出ない。……まず先に『郭璞が「江賦」』を説明する。「郭璞」(二七六年~三二四年)は六朝時代の東晋の学者・文学者。山西省聞喜の生まれ。字は景純。博学で詩賦をよくし、特に天文・卜筮(ぼくぜい)の術に長じた。東晋の元帝に仕えて著作郎などを勤め、たびたび大事を占っている。以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。「江賦」はその郭璞の創った長江(揚子江)を主題とした博物学的な詩賦(賦は中国韻文文体の一つで漢代に形成された抒情詩的要素の少ない事物を羅列的に描写することを特徴とする)で、同じく彼の手になる「海賦(かいのふ)」と対を成す。「文選」に所収する(だから本文に「文選註」が引かれるのである)。しばしば参考にさせて戴いているm.nakajima 氏のサイト「MANAしんぶん」内の「真名真魚字典」の古書名・引用文献注の「江賦」の解説によれば、『実在種を想定できるものから、想像上の生きものまで多種をあげ、幾多の文章に引用され、それがどのような生きものであるかの同定を考証家たちが試みてきた』作品とある。この「江賦」に、

 「王珧海月、土肉石華」(王珧は海月、土肉は石華)

と出るのである(この考証は次の注に譲る)。

 以下、「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 海鼠」で試みた私の注を援用しつつ、この「土肉」以下の考証を進める。

 まず、かの寺島良安は「和漢三才圖會 巻第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「海鼠」の項で、

   *

石華が「文選」の註に云ふ、『土肉は、正黑にして、長さ五寸、大いさ、小兒の臀のごとく、腹有りて、口・目無く、三十の足、有り。炙り食ふべし。』と。

   *

とこの「本朝食鑑」と全く同じ箇所を引いた上で(下線やぶちゃん)、

   *

按ずるに、海鼠(なまこ)は中華(もろこし)の海中に之れ無く、遼東・日本の熬海鼠(いりこ)を見て、未だ生なる者を見ず。故に諸書に載する所、皆、熬海鼠なり。剰(あまつさ)へ「文選」の土肉を「本草綱目」恠類獸の下に入る。惟だ「寧波府志(ねいはふし)」言ふ所、詳らかなり。寧波(ニンハウ)は日本を去ること甚しく遠からず、近年以來、日本渡海の舶の多くは、寧波を以て湊と爲す。海鼠も亦、少し移り至るか。今に於て唐舩(からぶね)長崎に來る時、必ず多く熬海鼠を買ひて去(い)ぬるなり。

   *

と記している。そしてこれについて、平凡社一九八七年刊東洋文庫訳注版「和漢三才図会」(島田勇雄・竹島淳夫・樋口元三巳訳注)には以下の注を記す(《 》部分は私の補填。下線やぶちゃん)。

   《引用開始》

『文選』の郭璞(かくはく)の「江賦」に、江中の珍しい変わった生物としてあげられたものの説明の一つであるが、石華については、《「文選」註に》「石華は石に附いて生じる。肉は啖(くら)うに中(あ)てる」とあり、《その同じ「江賦」の「文選」註の》土肉の説明が『臨海水土物志』《隋の沈瑩(しんえい)撰の博物誌》を引用したこの文である。《しかし「江賦」の記載に於ける》石華と土肉は別もので、どちらも江中の生物。良安は石華を人名と思ったのであろうか

   《引用終了》

(言わずもがなであるが、編者の下線部の疑問は、寺島の引用の下線部に対応している)この編者注でちょっと気になるのは、「どちらも江中の生物」と言っている点である。即ち、どちらも「江」=淡水域であるということを編者は指摘している(「江賦」は揚子江の博物誌だから当然ではある。「江」という語は大きな河川を指す語で、海の入江のような海洋域を指すのは国訓で中国語にはない)。従って、東洋文庫版編者は「石華」は勿論、「土肉」さえもナマコとは全く異なった生物として同定しているとも言えるのである(因みに淡水産のナマコは存在しない)。しかし、「土肉」は「廣漢和辭典」にあっても、明確に中国にあって「なまこ」とされている(同辞典の字義に引用されている「文選」の六臣注の中で「蚌蛤之類」とあるにはあるが、ナマコをその形態から軟体動物の一種と考えるのは極めて自然であり、決定的な異種とするには当たらないと私は思う)。さらに「江賦」が揚子江の博物誌であったとしても、揚子江の河口域を描けば当然そこには海洋生物の海鼠が登場してきたとして、おかしくない。さすれば、「土肉」は「ナマコ」と考えてよい。

 次に気になるのは「石華」の正体である。まず、書きぶりから見て、寺島は、東洋文庫版注が言うように、「石華」を「土肉」について解説した人名と誤っていると考えてよい(まどろっこしいが、「文選」注に引用された郭璞の注の中の、更に引用元の人物名ということになる。しかし、人見の書き方は、「土肉」の間と「石華」の間に熟語を示すダッシュを入れているだけで一切の送り仮名を振っていないから、これはシンプルに「江賦」の「土肉石華」を引いていて、「土肉は石華」という意で読んでいると考えてよい)。しかし、実はそんな考証は私には大切に思えないのである。「生き物」を扱っているのだから、それより何より、「石華」を考察することの方が大切であると思うのである(東洋文庫では少なくともここで「石華」の正体について何も語っていない。ということは編者らは「石華」は「海鼠」と無批判に受け入れたということになる。確かに岩礁に触手を開いた彼らを、本邦でもアカナマコと呼びアオナマコと呼びするから、彼らを「石の華」と呼んだとして強ち、おかしくは無いとも言える。しかし本当にそれで納得してよいのだろうか? これは本当に「土肉」=「石華」なのだろうか?

 そこで、まず、ここで問題となっている郭璞の注に立ち戻ろうと思う。

 「石華」と「土肉」の該当部分は中文ウィキの「昭明文選 卷十二」から容易に見出せる(引用に際し、記号の一部を変更させて貰った)。

   *

王珧〔姚〕海月、土肉石華。[やぶちゃん注:「江賦」本文。〔姚〕は「珧」の補正字であることを示す。以下、注。記号を追加した。]

郭璞「山海經」注曰、『珧、亦蚌屬也。』。「臨海水土物志」曰、『海月、大如鏡、白色、正圓、常死海邊、其柱如搔頭大、中食。』。又曰、『土肉、正黑、如小兒臂大、長五寸、中有腹、無口目、有三