志賀理斎「耳嚢副言」附やぶちゃん訳注 「追加」(Ⅰ)
追加 理齋主人
一 江戸川の鯉は俗に紫鯉(むらさきごひ)といふて名高き魚にて、船河原橋(ふながはらばし)〔俗どんどんばし〕の川際は魚漁御制禁(うをれふごせいきん)の場也。もし此鯉をひそかに盜みとり、露顯に及べば御仕置(おしおき)になるとの事なり。しかるに「右船河原橋の下にて取りしものあり」とて訴へ出る處、根岸翁其訴狀を聞かれて、「船河原橋の下にて取りしとあれば、下といふは下流の事にて、魚は活(いき)ものなるにより、橋の下をくゞり外の川え出たるを取りたるなるべし」との一言にて、子細なく濟(すみ)しは難有(ありがたし)と申(まうし)あへり。
[やぶちゃん注:文句なしの名捌き。
「江戸川の鯉は俗に紫鯉といふて名高き魚……」岡本綺堂の「半七捕物帳」の「むらさき鯉」の枕の途中で半七によって以下のように語られるシーンがある。「半七捕物帳」は私の偏愛する作品である。底本は光文社文庫一九八六年刊行「半七捕物帳(四)」を用いた。因みに『老人』というのが半七で、聴き手は若い新聞記者の『私』である。これは同捕物帳の結構の常套で(というより他の綺堂作品にもしばしば見られる導入部である)、半七の幕末の昔語りを『私』が聴いているのである。ここでの聴き取りの以下の冒頭の作品内時間は明治三一(一八九八)年十月という設定になっている。傍点は太字で示した。
《引用開始》
「お世辞にもそう云ってくだされば、わたくしの方でも話が仕よいというものです。まったく今と昔とは万事が違いますから、そこらの事情を先ず呑み込んで置いて下さらないと、お話が出来ませんよ」と、老人は云った。「そこで、このお話の舞台は江戸川です。遠い葛飾(かつしか)の江戸川じゃあない、江戸の小石川と牛込のあいだを流れている江戸川で……。このごろは堤(どて)に桜を植え付けて、行灯をかけたり、雪洞(ぼんぼり)をつけたりして、新小金井などという一つの名所になってしまいました。わたくしも今年の春はじめて、その夜桜を見物に行きましたが、川には船が出る、岸には大勢の人が押し合って歩いている。なるほど賑やかいので驚きました。しかし江戸時代には、あの辺はみな武家屋敷で、夜桜どころの話じゃあない、日が落ちると女一人などでは通れないくらいに寂しい所でした。それに昔はあの川が今よりもずっと深かった。というのは、船河原橋の下で堰(せ)き止めてあったからです。なぜ堰き止めたかというと、むかしは御留川(おとめがわ)となっていて、ここでは殺生(せっしょう)禁断、網を入れることも釣りをすることもできないので、鯉のたぐいがたくさんに棲んでいる。その魚類を保護するために水をたくわえてあったのです。勿論、すっかり堰いてしまっては、上から落ちて来る水が両方の岸へ溢れ出しますから、堰(せき)は低く出来ていて、水はそれを越して神田川へ落ち込むようになっているが、なにしろあれだけの長い川が一旦ここで堰かれて落ちるのですから、水の音は夜も昼もはげしいので、あの辺を俗にどんどんと云っていました。水の音がどんどんと響くからどんどんというので、江戸の絵図には船河原橋と書かずにどんど橋と書いてあるのもある位です。今でもそうですが、むかしは猶さら流れが急で、どんどんのあたりを蚊帳(かや)ケ淵(ふち)とも云いました。いつの頃か知りませんが、ある家の嫁さんが堤を降りて蚊帳を洗っていると、急流にその蚊帳を攫(さら)って行かれるはずみに、嫁も一緒にころげ落ちて、蚊帳にまき込まれて死んでしまったというので、そのあたりを蚊帳ヶ淵と云って恐れていたんです」
「そんなことは知りませんが、わたし達が子どもの時分にもまだあの辺をどんどんと云っていて、山の手の者はよく釣りに行ったものです。しかし滅多(めった)に鯉なんぞは釣れませんでした」
「そりゃあ失礼ながら、あなたが下手だからでしょう」と、老人はまた笑った。「近年まではなかなか大きいのが釣れましたよ。まして江戸時代は前にも申したような次第で、殺生禁断の御留川になっていたんですから、魚(さかな)は大きいのがたくさんいる。殊にこの川に棲んでいる鯉は紫鯉というので、頭から尾鰭までが濃い紫の色をしているというのが評判でした。わたくしも通りがかりにその泳いでいるのを二、三度見たことがありますが、普通の鯉のように黒くありませんでした。そういう鯉のたくさん泳いでいるのを見ていながら、御留川だから誰もどうすることも出来ない。しかしいつの代にも横着者は絶えないもので、その禁断を承知しながら時々に阿漕(あこぎ)の平次をきめる奴がある。この話もそれから起ったのです」
《引用終了》
・「船河原橋〔俗どんどんばし〕」「耳嚢 巻之八 鱣魚の怪の事」に既注であるが再掲する。ASHY 氏のサイト「東京探訪」の「船河原橋(ふなかわらばし)」によれば、現在の文京区後楽と新宿区揚場町の間で外堀通りが神田川を渡る船河原橋の俗称である。『この橋の創架は定かではないが、神田川及び外濠の外周を走る「外堀通り」は、神田川が開削された頃よりあったようで、この『船河原橋』も、江戸の初期には架けられていたと推測される』とあり、『『ドンド橋』とも『ドンドン橋』とも呼ばれた『船河原橋』とその上流の「大洗堰」との間は、有名な紫鯉(紫がかった黒い鯉)が放流され、禁漁区となっていたことから、「おとめ川」とも呼ばれていたらしい。紫鯉はとても美味で、将軍の食膳にだけのせるものであったと伝えられる。それでも『ドンド橋』のすぐ下は江戸川の落ち口で深瀬となっており、ここに落ちた魚は漁猟することが出来たため、いつも多くの釣り人で賑わっていたと伝えられている』とある。また、「どんど橋」「どんどん橋」の由来は、その橋下が江戸川の落ち口となっていたというから、半七の謂いの通り、私はその落水の音をオノマトペイアしたものではないかと推測している。
■やぶちゃん現代語訳
一 江戸川の鯉は俗に紫鯉(むらさきごい)と言うて、それはそれは名高き魚(うお)にて御座った。
それがまた、うようよおると言われたのがこれ、船河原橋(ふながわらばし)――俗に「どんどんばし」と申す――の川際で御座った。ところが、ここはこれ、魚漁御制禁(うおりょうごせいきん)の水域で御座った。
もし、ここの紫鯉を密かに盜み獲ったことの露顕に及ばば、きつい御仕置きとなるとのことで御座った。
しかるに、
「――かの船河原橋の下にて鯉を獲りし者の御座いました!」
と訴え出た者の御座ったによって、根岸翁、その訴状をつぶさにお聴きになられると、
「……さても。――船河原橋の下にて獲った――とあれば……これ、この『下』と申すはこれ『下流の事』を指しおる語じゃ。……魚は生き物なるによって、橋の『下』を潜(くぐ)ってこれ――『橋の外』の『下流の川』へと出でてしもうた鯉を獲った――ということ……であろう、のぅ。……」
との一言にて、
「……子細お取り調べも御吟味もなく、訴えはこれ、早々に却下され、何事ものぅ、済んで御座った。……いやこれ! 全く以って、有り難きことじゃ!……」
と、御奉行配下の者ども、これ互いにしきりに言い合っては皆、胸を撫で下ろしたと申す。]
« 橋本多佳子句集「命終」 昭和三十二年 高野行(Ⅱ) | トップページ | 北條九代記 卷第七 名越邊狼藉 付 平三郎左衞門尉泰時を諫む »