志賀理斎「耳嚢副言」附やぶちゃん訳注 「追加」(Ⅱ)
一 一とせ津波ありて大船風波に漂ひ、永代橋のもとへ吹付(ふきつけ)られ橋を大(おおい)に損(そん)ざしけるより、此(この)事公事(くじ)になりて橋守の方より申立(まうしたて)、「修復之義は畢竟(ひつきやう)大船の爲に崩されたれば、船主より致し呉(くれ)候樣に」としきりに願ひける。翁きかれて、「船も碎け橋も崩れたるは、たがひの不運天災なれば是非に及ばず」とさとされしかども、橋主合點せず、「いづれにも修復を」と訴へ不止(やまず)。爰に於て猶又申渡(まうしわた)されけるは、「右利害を聞入(ききい)れず達(たつ)て願ふ事理(ことわり)なきにもあらざれば、船主より修復をさせて取らすべし。しからば又船の損じたるは畢竟橋がありし故なれば、橋のために碎(くだけ)しもの故、船の修復は橋主より致し可遣(つかはすべし)」との事に付(つき)て、入用は船のかたおびたゝしき事なるによりて、橋守より和談(わだん)を入れて願(ねがひ)おろしになりしとなり。此(この)ニケ條はある人のもの語り、虛實の程はしらねども爰に記す。
[やぶちゃん注:これも快哉の名捌きである。
・「永代橋」ウィキの「永代橋」によれば、架橋されたのは元禄一一(一六九八)年八月で、第五代将軍徳川綱吉の五十歳を慶賀してのもので、現在の位置よりも百メートルほど上流(西岸中央区日本橋箱崎町・東岸江東区佐賀一丁目付近)で、当時大渡し(深川の渡し)のあった場所であるとあり、隅田川に掛けられた橋としては四番目のものだったとある。以下、『「永代橋」という名称は当時佐賀町付近が「永代島」と呼ばれていたからという説と、徳川幕府が末永く代々続くようにという慶賀名という説(「永代島」は「永代橋」から採られたとする)がある』。『架橋を行ったのは関東郡代の伊奈忠順。上野寛永寺根本中堂造営の際の余材を使ったとされ』、る長さ百十間(約二百メートル)・幅三間余(約六メートル)で、『隅田川で最も下流で、江戸湊の外港に近く船手番所が近くにあり、多数の廻船が通過するために橋脚は満潮時でも』三メートル以上あり、『当時としては最大規模の大橋であった。橋上からは「西に富士、北に筑波、南に箱根、東に安房上総」と称されるほど見晴らしの良い場所であったと記録(『武江図説』)に残る』。幕府財政が窮地に立った享保四(一七一九)年には、『幕府は永代橋の維持管理をあきらめ、廃橋を決めるが、町民衆の嘆願により、橋梁維持に伴う諸経費を町方が全て負担することを条件に存続を許された。通行料を取り、また橋詰にて市場を開くなどして維持に務めた』が、文化四年八月十九日(グレゴリオ暦一八〇七年九月二十日)の深川富岡八幡宮の十二年振りの祭礼日に、詰め掛けた群衆の重みに耐え切れず、知られた悲惨な落橋事故を起こした。『橋の中央部よりやや東側の部分で数間ほどが崩れ落ち、後ろから群衆が次々と押し寄せては転落し、死者・行方不明者は』実に千四百人を超え、『史上最悪の落橋事故と言われている。この事故について大田南畝が、下記の狂歌や「夢の憂橋」を著している』とある。この未曾有の落橋の大惨事に関わる、しかし最後にほっとするいい話が「耳嚢 巻之八 不思議に失ひし子に逢ふ事」にある。未読の方は是非お読みあれ。
・「和談」ここでは審理が開始されており、途中で両者に話し合いをさせている形式を採っている。これは民事上の訴訟が開始されている中で、当事者が構造上、互いに譲歩して争いをやめる契約をした「和解」であるから、当時の謂いならば「内済(ないさい)」(現行の「和解」)に相当するか。……しかしこれ、例の文化四年のカタストロフの前か後か? 「虛實の程はしらねども」という謂いからはずっと前の話のように見えるが……とすると……この船の与えたダメージが……まさか……いやいや……余計な考えは、これ、やめにしておくことと致そう……本当かどうか定かでないというのだから……
■やぶちゃん現代語訳
一 とある年、津波のあって、大船(おおぶね)が強き波風に漂い、永代橋の所へ一気に吹き寄せられてしまい、船体が橋に激突、橋は大きく損壊してしまった。
それにより、この事故が公事(くじ)の対象となり、橋守(はしもり)の方から申し立てのあって、
「――損壊せる橋の修復の儀はこれ――畢竟(ひっきょう)――かの大船の衝突によって崩されたものでありますれば――これは当然――事故を引き起こしたかの船の船主より――橋修繕の全費用――これ――出して戴きたく存ずる。――」
と、しきりに願い出て参ったと申す。
翁、この訴えをお聴きになられて、
「……船も砕け、橋も崩れたという事実はこれ……双方ともに損害を被った大いなる不運であったし……津波と申すはこれ、天災の結果なれば、是非に及ばざる出来事と言うべきものであろうに。……」
と、やんわりとお諭しになられた。
けれども、橋主はいっかな合点せず、
「――ともかくも――あちらさまより御修復をこれ、願い上げまする!」
と訴えを止めり気配がなかった。
されば、翁、この橋守と船主の当事者二人を呼びつけた上で、徐ろに、取り敢えずの裁きを申し渡した。それは――
――右双方の受けたる利害を納得致さず、橋主が、たって橋修復の費用は船主がこれ全額を払うべきであると願うことは、理(り)に叶わぬこととも言い難きことであるによって、船主より修復をさせて取らすがよい。
……但し
……その理屈をあくまで押し通すと申すということはこれ以下の謂いも真となる。
……それは
――然らばまた、船が損壊したのは畢竟――そこに橋があったから――である。
――されば船は橋のために碎(くだけ)たのであるから
――船の修復の全費用はこれ――
――橋主より確かに全額を支払い遣わすように――。以上。」
とのことで御座った。
すると橋守は俄然、青くなってしもうた。
何故なら、激突した船はこれ、極めて大型の仕様の立派な廻船であったからであった。
修復にかかる費用たるや、その船の方が遙かに莫大なものであろうことは、これ、ど素人にも分かるものだったからである。
されば、橋守、泡食ってお白洲にて、早速に船主と相談を始め、訴えはこれ、即座にとり下げと相成った。……
――前のどんど橋とこの永代橋の橋がかりの二ヶ条はこれ、とある御仁のもの語って御座ったものにして、果たしてそれが本当に翁の捌きで御座ったものか、そうでなかったか、その虚実のほどは存ぜぬものの、如何にも翁らしい話柄にては御座ればこそ、ここに記しおくことと致いた。]

