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2015/04/19

博物学古記録翻刻訳注 ■12 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる海鼠の記載 《2015年4月27日改訂版に差替え》

 

[やぶちゃん注:本テクストは先の私の『博物学古記録翻刻訳注 ■11 「尾張名所図会 附録巻四」に現われたる海鼠腸(このわた)の記載』に本「本朝食鑑」の「海鼠」内の「海鼠腸」が引用されていたのを受けて作成したものである。

 「本朝食鑑」は医師で本草学者であった人見必大(ひとみひつだい 寛永一九(一六四二)年頃?~元禄一四(一七〇一)年:本姓は小野、名は正竹、字(あざな)は千里、通称を伝左衛門といい、平野必大・野必大とも称した。父は四代将軍徳川家綱の幼少期の侍医を務めた人見元徳(玄徳)、兄友元も著名な儒学者であった)が元禄一〇(一六九七)年に刊行した本邦最初の本格的食物本草書。「本草綱目」に依拠しながらも、独自の見解をも加え、魚貝類など、庶民の日常食品について和漢文で解説したものである。

 底本は国立国会図書館のデジタルコレクションの以下の頁以降の画像を視認した。本文は漢文脈であるため、まず、原典との対照をし易くするために原文と一行字数を一致させた白文を示し(割注もこれに准じて一行字数を一致させてある。底本にある訓点は省略した)、次に連続した文で底本の訓点に従って訓読したものに、独自に読みや送り仮名を附したものを示し、その後に注と訳を附した。原典ではポイント落ち二行書きの割注は〔 〕で同ポイントで示した。なお、原典では原文の所で示したように、頭の見出しである「海鼠」のみが行頭から記されてあり、以下本文解説は総て一字下げである。なお、「海鼠」の「鼠」の字は原典では「鼡」の(かんむり)部分が「臼」になったものであるが、コードにない漢字であるので、正字の「鼠」で統一した。その他の異体字(「黒」「児」など)は原典のママである。字体判断に迷ったものや正字に近い異体字は正字で採った。

 「本朝食鑑」には一九七七年平凡社東洋文庫刊の国語学者島田勇雄(いさお)氏の手に成る訳注本の労作があるが、当初、このテクスト訳注は二〇一五年四月十九日に初稿を公開した際には、私は「本朝食鑑」を所持していなかった。そのため、最初のそれは全くの我流の産物であったのだが、その公開から八日後にたまたま同書を入手し、それと校合してみると私の読解や注に幾つかの問題点を見出した。実は当初は、私の最初の公開分に削除線と追加を施すことで対応しようと不遜にも考えていたが、この「海鼠」に関しては、島田氏の訳注を披見する以前に、さらに自分の中で改稿したい記載不備が幾つか発生していたため、今回、ここでは思い切って全面改稿することとした。但し、改稿の追加分の内で、入手した東洋文庫の島田氏の訳注から少しでも恩恵を被った箇所については、それと分かるように逐一洩らさず『島田氏注に』『島田氏の訳では』などと明記しておいた。従ってそれ以外は私の初稿のオリジナルなものとお考え戴いてよろしい。【二〇一五年四月二十八日改稿】遅巻き乍ら、「本朝食鑑」には和漢の本草記載の違いを考察する「華和異同」という別項が各部の終りに附されていることに気づいたので、その本文に準じて追加することとした。但し、本文とダブる箇所が甚だ多いので注は最小限に留めてある。【二〇一五年五月二十一日追記】 

 

□原文

海鼠〔訓奈麻古〕

 釋名土肉〔郭璞江賦土肉石華文選註曰土肉正

 黒如小児臂大長五寸中有腹無口目

 有三十足故世人

 以似海鼠爲別名〕

 集觧江海處處有之江東最多尾之和田參之柵

 嶋相之三浦武之金澤本木也海西亦多采就中

 小豆嶋最多矣狀似鼠而無頭尾手足但有前後

 两口長五六寸而圓肥其色蒼黒或帶黄赤背圓

 腹平背多※1※2而軟在两脇者若足而蠢跂來徃

[やぶちゃん字注:「※1」=「瘖」から十三画目(「日」の中央の一画)を除いた字。「※2」=「疒」の中に「畾」。]

 腹皮青碧如小※1※2而軟肉味略類鰒魚而不甘

 極冷潔淡美腹内有三條之膓色白味不佳此物

 殽品中之最佳者也本朝有海鼠者尚矣古事記

 曰諸魚奉仕白之中海鼠不白爾天宇受賣命謂

 海鼠曰此口乎不荅口而以細小刀拆其口故於

 今海鼠口拆也一種有長二三寸腹内多沙味亦

 差短者一種有長七八寸肥大者腹内三條之黄

 腸如琥珀淹之爲醬味香美不可言爲諸醢中之

 第一也事詳于後其熬而乾者亦見于後今庖人

 用生鮮海鼠混灰砂入籃而篩之或抹白鹽入擂

 盆中以杵旋磨則久而凝堅其味鮮脆甚美呼稱

 振鼠也

 肉氣味鹹寒無毒〔畏稲草稲糠灰砂及鹽伏河豚毒〕主治滋腎凉

 血烏髮固骨消下焦之邪火袪上焦之積熱多食

 則腸胃冷濕易洩患熱痢者宜少食或療頭上白

 禿及凍瘡

 熬海鼠〔或熬作煎俱訓伊利古〕釋名海參〔李東垣食物曰功

 擅補益故名之乎

 世人間有稱之者

 本朝式稱熬海鼠〕

 集觧造之有法用鮮生大海鼠去沙腸後数百枚

 入空鍋以活火熬之則鹹汁自出而焦黒燥硬取

 出候冷懸列于两小柱一柱必列十枚呼號串海

 鼠訓久志古大者懸藤蔓今江東之海濵及越後

 之産若斯或海西小豆嶋之産最大而味亦美也

 自薩州筑州豊之前後而出者極小煮之則大也

 作熬之海鼠以過六七寸者其小者不隹大抵乾

 曝作串作藤用之先水煮稍久則彌肥大而軟味

 亦甘美或合稲草米糠之類而煮熟亦軟或埋土

 及砂一宿取出洗浄而煮熟亦可也自古用之者

 久矣本朝式神祇部有熬海鼠二斤主計部志摩

 若狹能登隱岐筑前肥之前後州貢之今亦上下

 賞美之

 氣味鹹微甘平無毒主治滋補氣血益五臓六腑

 去三焦火熱同鴨肉烹熟食之主勞怯虛損諸疾

 同猪肉煮食治肺虛欬嗽〔此據李杲食物本草〕殺腹中之悪

 蟲然治小児疳疾

[やぶちゃん字注:この最後の一文の「然」の字は(れっか)の上が「並」の旧字体のような漢字であるが、表記出来ないので、文脈から推して「然」としたが、違う字かも知れない。]

 海鼠腸〔訓古乃和多〕集觧或稱俵子造腸醬法先取鮮

 腸用潮水至清者洗浄數十次滌去沙及穢汁和

 白鹽攪勻收之以純黄有光如琥珀者爲上品以

 黄中黒白相交者爲下品今以三色相交者向日

 影用箆箸頻攪之則盡變爲黄或腸一升入雞子

 黄汁一箇用箆箸攪勻之亦盡爲黄味亦稍美一

 種腸中有色赤黄如糊者號曰鼠子不爲珍焉凡

 海鼠古者能登國貢海鼠腸一石主計部有腸十

 五斤今能登不貢之以尾州参州為上武之本木

 次之諸海國采海鼠處多而貢腸醬者少矣是好

 黄膓者全希之故也近世參州柵嶋有異僧守戒

 甚嚴而調和於腸醬者最妙浦人取腸洗浄入盤

 僧窺之察腸之多少妄擦白鹽投于腸中浦人用

 木箆攪勻收之經二三日而甞之其味不可言今

 貢獻者是也故以參州之産爲上品後僧有故移

 于尾州而復調腸醬以尾州之産爲第一世皆稱

 奇矣

 附方凍腫欲裂〔用鮮海鼠煎濃汁頻頻洗之或用熱湯和腸醬攪勻洗亦好〕頭

 上白禿〔生海鼠割腹去腸掣張如厚紙粘于頭上則癒〕濕冷蟲痛〔及小児疳傷泄痢常食而好又用熬海鼠入保童圓中謂能殺疳蟲〕 

 

□やぶちゃん訓読文(原典の一字下げは省略した。読み易くするために句読点・記号・濁点・字空けを適宜、施した。一部に独自に歴史仮名遣で読みや送り仮名を附してあるが、読解に五月蠅くなるので、特にその区別を示していない。なお、原典には振られている読み仮名は少なく、片仮名で、

「但(タヽ)」・「略(ホヽ)」・「尚(ヒサ)シ」・「白(マウ)ス/サ」(二箇所)・「天宇受賣命(ノウスメノミコト)」(「天(あめ)」にはない)・「荅へざる口(クチ)」・「拆(サ)ケタリ」・「差(ヤヽ)」・「振鼠(フリコ)」・「烏(クロ)クシ」・「熬海鼠(イリコ)」・「伊利古(イリコ)」・「間(マヽ)」・「串海鼠(クシコ)」・「久志古(クシコ)」・「彌(イヨイヨ)」(後半の「イヨ」は底本では踊り字「〱」)・「コノワタ」(二箇所)・「タワラコ」(「ワ」はママ)

とあるのみである。また、

「中」(なか)には「カ」が、一部の「者」(もの)には「ノ」が(これ以外は「は」と読ませるための区別かとも思われる)、「今」(いま)には「マ」が、「後(のち)」には「チ」が、「處」(ところ)には「ロ」が

それぞれ送られてあるが、総て省略した。また、つまらぬ語注を減らすためにわざと確信犯で訓読みした箇所もあり、こうした恣意的な仕儀を経ている我流の訓読であるので、学術的には原典画像と対比しつつ、批判的にお読みになられたく存ずる。)

海鼠〔「奈麻古(なまこ)」と訓ず。〕

釋名 土肉〔郭璞が「江賦(かうのふ)」に、『土肉石華。』と。「文選註」に曰く、『土肉は正黒(せいこく)、小児の臂(ひ)の大いさのごとくにして、長さ五寸、中に腹(はら)有りて、口・目、無し。三十の足有り』と。故に世人、以つて海の鼠に似たるを別名と爲(す)。と。〕。

集觧 江海、處處、之れ有り。江東、最も多し。尾の和田、參の柵(さく)の嶋(しま)、相の三浦、武の金澤本木(ほんもく)なり。海西にも亦、多く采(と)る。中(なか)ん就(づ)く、小豆嶋、最も多し。狀(かた)ち、鼠に似て、頭と尾、手足、無し。但(た)だ前後に、两口、有るのみ。長さ五、六寸にして圓く肥ゆ。其の色、蒼黒或いは黄・赤を帶ぶ。背、圓(まど)かに、腹、平らかなり。背に※1※2(いぼ)多くして軟かなり。两脇に在る者は足の若(わか)きにして蠢跂來徃(しゆんきらいわう)す[やぶちゃん字注:「※1」=「瘖」から十三画目(「日」の中央の一画)を除いた字。「※2」=「疒」の中に「畾」。]。腹の皮、青碧、小※1※2(しやういぼ)のごとくにして軟かなり。肉味、略(ほぼ)、鰒魚(ふくぎよ)に類して甘からず。極めて冷潔淡美。腹内、三條の膓、有り。色、白くして味ひ、佳ならず。此の物、殽品(かうひん)中の最佳の者なり。本朝、海鼠と云ふ有る者(もの)、尚(ひさ)し。「古事記」に曰く、『諸魚、仕へ奉ると白(まう)すの中(なか)に、海鼠、白(まう)さず。爾(ここ)に天宇受賣命(あめのうずめのみこと)海鼠に謂ひて曰く、「此口や、荅(こた)へざる口(くち)。」と云ひて、細小刀を以つて其の口を拆(さ)く。故に今に於いて海鼠の口、拆(さ)けたり。』と。一種、長さ二、三寸、腹内、沙多くして、味も亦、差(やや)短き者、有り。一種、長さ七、八寸にして肥大なる者有り。腹内、三條の黄腸(きわた)、琥珀のごとくにして之を淹(つけ)て醬(しやう)と爲し、味はひ香美、言ふべからず。諸(しよ)醢(ひしほ)中の第一と爲すなり。事、後(しり)へに詳かなり。其の熬(いり)して乾く者は亦、後へに見えたり。今、庖人(はうじん)、生鮮の海鼠を用ゐて、灰砂に混じて籃に入れて之を篩(ふる)ふ。或いは白鹽を抹(まつ)して擂盆(すりぼん)中に入れて、杵を以つて旋磨(せんま)する時は、則ち久しくして凝堅(ぎやうけん)す。其の味はひ、鮮脆(せんぜい)、甚だ美、呼びて「振鼠(ふりこ)」と稱すなり。

肉 氣味 鹹寒。毒、無し。〔稲草・稲糠・灰砂及び鹽を畏(おそ)る。河豚(ふぐ)の毒を伏す。〕。 主治 腎を滋し、血を凉(すず)しふし、髮を烏(くろ)くし、骨を固くし、下焦(げしやう)の邪火を消し、上焦の積熱(しやくねつ)を袪(さ)る。多く食へば、則ち腸胃、冷濕、洩らし易く、熱痢を患(うれへ)る者、宜しく少食すべし。或いは頭上の白禿(しらくも)及び凍瘡を療す。

熬海鼠(いりこ)〔或いは「熬」は「煎」に作る。俱に「伊利古(いりこ)」と訓ず。〕 釋名 海參〔李東垣(りとうゑん)「食物」に曰く、『功、補益を擅(ほしいまま)にす。』と。故に之(これ)、名づくるか。世人、間(まま)、之を稱する者、有り。「本朝式」に『熬海鼠』と稱す。〕。

集觧 之を造るに、法、有り。鮮生の大海鼠を用ゐて、沙・腸を去りて後(のち)、数百枚、空鍋(からなべ)に入れて、活火(つよび)を以つて之を熬る時は、則ち鹹(しほじる)汁、自ら出でて焦黒(くろくこ)げ、燥(かは)きて硬(かた)きを、取り出し、冷(さむる)を候(うかが)ひて两(りやう)小柱に懸け列(つら)ぬ。一柱、必ず十枚を列ぬ。呼びて「串海鼠(くしこ)」と號す。「久志古(くしこ)」と訓ず。大なる者は、藤蔓に懸く。今、江東の海濵及び越後の産、斯(か)くのごとし。或いは海西、小豆嶋の産、最も大にして、味も亦、美なり。薩州・筑州・豊の前後より出ずる者は、極めて小なり。之を煮る時は、則ち、大(おほ)ひなり。熬(い)りと作(な)すの海鼠は、六、七寸を過る者を以てす。其の小きなる者は佳ならず。大抵、乾曝(かんばく)するに串と作(な)し、藤と作(な)し、之を用ゆ。先づ水に煮(に)、稍(やや)久しく時んば、則ち、彌(いよいよ)肥大にして軟なり。味も亦、甘美なり。或いは稲草・米糠の類と合(あは)して煮熟すも亦、軟らかかり。或いは土及び砂に埋(うづ)むこと一宿にして取り出だし、洗浄して煮熟(しやじゆく)すも亦、可なり。古へより之を用ゐる者、久し。「本朝式」「神祇(じんぎ)部」に『熬海鼠二斤。』と有り、「主計部」に『志摩・若狹・能登・隱岐・筑前・肥の前後州、之を貢す。』と。今、亦、上下、之を賞美す。

氣味 鹹、微甘、平。毒、無し。 主治 氣血を滋補し、五臓六腑を益し、三焦(さんしやう)の火熱を去る。鴨肉と同じく、烹熟(はうじゆく)して之を食すれば勞怯・虛損の諸疾を主(すべ)る。猪肉と同じく煮食すれば肺虛・欬嗽(がいそう)を治す〔此れ、李杲(りかう)が「食物本草」に據(よ)る。〕。腹中の悪蟲を殺(さつ)し、然して小児の疳疾を治す。

[やぶちゃん字注:この最後の一文の「然して」の「然」の字は(れっか)の上が「並」の旧字体のような漢字であるが、表記出来ないので、文脈から推して「然」としたが、違う字かも知れない。]

海鼠腸(このわた)〔「古乃和多(このわた)」と訓ず。〕 集觧 或いは俵子(たわらこ)と稱す。腸醬(ちやうしやう)を造る法、先づ鮮腸を取りて潮水の至つて清き者を用ゐて洗浄すること數十次、沙及び穢汁(わいじふ)を滌去(てききよ)して白鹽に和して攪勻(かくきん)して之を收む。純黄の光り有りて琥珀ごとき者を以つて上品と爲(な)す。黄中、黒・白相ひ交じる者を以つて下品と爲す。今、三色相ひ交じる者を以つて日影に向けて箆(へら)・箸を用ゐて頻りに之を攪(か)く時は則ち盡く變じて黄と爲(な)る。或いは腸(わた)一升に雞子(けいし)の黄汁(きじる)一箇を入れ、箆・箸を用ゐて之を攪勻するも亦、盡く黄と爲る。味も亦、稍(やや)美なり。一種、腸中に、色、赤黄(しやくわう)、糊のごとき者有り、號して鼠子(このこ)と曰(い)ふ。珍と爲(な)さず。凡そ海鼠、古へは能登の國、海鼠腸一石を貢す。「主計部」に『腸十五斤』と有り。今、能登、之を貢せず。尾州・參州を以つて上と爲し、上武の本木、之に次ぐ。諸海國(かいこく)、海鼠を采る處、多くして、膓醬を貢(けん)する者の少なし。是れ、黄膓は好む者、全く希(まれ)なるの故なり。近世、參州柵(さく)の島(しま)に異僧有り、戒を守りて甚だ嚴(げん)にして、腸醤を調和するは最も妙なり。浦人、腸を取りて洗ひ淨めて盤(うつわ)に入る。僧、之を窺(うかが)ひ、腸の多少を察(さつ)して、妄(みだ)りに白鹽(なまじほ)を擦(す)りて腸の中に投ず。浦人、木篦(きべら)を用ゐて攪勻して之を收む。二、三日を經て、之を甞(な)むれば、其の味はひ、言ふべからず。今、貢獻する者、是なり。故に參州の産を以つて上品と爲(す)。後、僧、故(ゆゑ)有りて尾州に移りて、復た腸醬を調へて尾州の産を以つて第一と爲(す)。世、皆、奇なりと稱す。

附方 凍腫裂れんと欲(す)〔鮮海鼠の煎濃汁(せんのうじふ)を用ゐて頻頻(ひんぴん)、之を洗ふ。或いは熱湯を用ゐて腸醬を和し、攪勻して洗ひ、亦、好し。〕。頭上の白禿(しらくも)〔生(なま)海鼠、腹を割(さ)き、腸を去り、掣(お)し張りて厚紙のごとくにして頭上粘する時は則ち癒ゆ。〕。濕冷の蟲痛(ちゆうつう)〔及び小児の疳傷(かんしやう)・泄痢(せつり)、常食して好し。又、熬海鼠を用ゐて保童圓(ほどうゑん)の中に入れて、謂ふ、能く疳の蟲を殺すと。〕。 

 

□やぶちゃん語注(この本文を引用した先の私の『博物学古記録翻刻訳注 ■11 「尾張名所図会 附録巻四」に現われたる海鼠腸(このわた)の記載』で載せた私の注を煩を厭わず再掲しておいた。それが引用元である本書への礼儀でもあろうと考えたからである。原則、再掲であることを断っていないので、既にお分かりの方は飛ばしてお読みになられたい。なお、他にも私の寺島良安「和漢三才圖會 巻第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「海鼠(とらご)」の項及び「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 海鼠」などからも注を援用しているので、寧ろ、それらも参考にお読みになられんことをお勧めしておく。)

・「海鼠」ここで語られる海鼠は、ほぼ棘皮動物門ナマコ綱楯手目マナマコ科の旧来のマナマコと考えてよいが、実は近年までマナマコ
Apostichopus japonicusSelenka, 1867とされていた種類には、真のマナマコ Apostichopus armataSelenka, 1867とアカナマコ Apostichopus japonicusSelenka, 1867の二種類が含まれている事実が判明しており、Kanno et al.2003により報告された遺伝的に異なる日本産 Apostichopus 属の二つの集団(古くから区別していた通称の「アカ」と、「アオ」及び「クロ」の二群)と一致することが分かっている(倉持卓司・長沼毅「相模湾産マナマコ属の分類学的再検討」(『生物圏科学』Biosphere Sci.494954(2010))に拠る)。これ今までの私のナマコ記載では初めて記す、私は今回初めて知ったことであるが、この学名提案については、サイト「徳島大学大学院ソシオ・アーツ・アンド・サイエンス研究部 水圏生産科学研究室(仮称)」の「マナマコの標準体長&学名」の「マナマコの学名について」に、『最近,本種全体に用いられてきた従来の学名 Apostichopus japonicas を赤色型に限定し,青色型と黒色型を Apostichopus
armata
 とすることが提案されています(倉持・長沼,2010)。しかし,この種小名 armata は,過去に北方系のマナマコに提案されたものであり,北方系のマナマコについては南方系マナマコとは別種とみる研究者もおり,その分類学的位置づけは検討段階にあります。仮に北方系マナマコが別種とされた場合には,種小名 armata の使用は北方系のマナマコに限定されることになります。そうすると,種小名 armata を使って記述された論文の追跡が困難になるなどの恐れもあり,現段階では,従来の学名 Apostichopus japonicas を使用し色型と産地を明記する記述スタイルが無難であると考えています』とあるので使用には注意を有する。

・「奈麻古」「和名類聚抄」に(「国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認)、

   *

崔禹錫食經云海鼠〔和名古本朝式加熬字云伊里古〕似蛭而大者也

(崔禹錫が「食經」に云く、『海鼠。』〔和名、『古』。「本朝式」に「熬」の字を加へて『伊里古』と云ふ〕。蛭に似て大なる者なり。)

   *

とある。これによれば、本来のナマコの和名古名は文字通り「古(こ)」であって、「延喜式」には後述する煮干して調製した製品をこれに「熬」(いる)の字を加えて「伊里古(いりこ)」と称すというのである。寧ろ、この「いりこ」(熬った古)に対して生じた謂いが「なまこ」(生の古)であり、その「古」の腸(わた)が「古(こ)の腸(わた)」なのであろう。これは国語学者の島田勇雄氏も東洋文庫版の注で推定しておられる。

・「釋名」まず扱う対象の物名及び字義を訓釈すること。本書は李時珍の「本草綱目」の構成を模しており、後の囲み字である「集觧」・「氣味」・「主治」・「附方」は総て同書を真似ている(但し、何故か不思議なことに「本草綱目」には海鼠(海参)に相当するものが載らない)。

・『土肉〔郭璞が「江賦」に、土肉」「石華」「文選註」……』以下、非常に注が長くなるのでご注意あれ。しかも答えは……必ずしも出ない。……まず先に『郭璞が「江賦」』を説明する。「郭璞」(二七六年~三二四年)は六朝時代の東晋の学者・文学者。山西省聞喜の生まれ。字は景純。博学で詩賦をよくし、特に天文・卜筮(ぼくぜい)の術に長じた。東晋の元帝に仕えて著作郎などを勤め、たびたび大事を占っている。以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。「江賦」はその郭璞の創った長江(揚子江)を主題とした博物学的な詩賦(賦は中国韻文文体の一つで漢代に形成された抒情詩的要素の少ない事物を羅列的に描写することを特徴とする)で、同じく彼の手になる「海賦(かいのふ)」と対を成す。「文選」に所収する(だから本文に「文選註」が引かれるのである)。しばしば参考にさせて戴いているm.nakajima 氏のサイト「MANAしんぶん」内の「真名真魚字典」の古書名・引用文献注の「江賦」の解説によれば、『実在種を想定できるものから、想像上の生きものまで多種をあげ、幾多の文章に引用され、それがどのような生きものであるかの同定を考証家たちが試みてきた』作品とある。この「江賦」に、

 「王珧海月、土肉石華」(王珧は海月、土肉は石華)

と出るのである(この考証は次の注に譲る)。

 以下、「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 海鼠」で試みた私の注を援用しつつ、この「土肉」以下の考証を進める。

 まず、かの寺島良安は「和漢三才圖會 巻第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「海鼠」の項で、

   *

石華が「文選」の註に云ふ、『土肉は、正黑にして、長さ五寸、大いさ、小兒の臀のごとく、腹有りて、口・目無く、三十の足、有り。炙り食ふべし。』と。

   *

とこの「本朝食鑑」と全く同じ箇所を引いた上で(下線やぶちゃん)、

   *

按ずるに、海鼠(なまこ)は中華(もろこし)の海中に之れ無く、遼東・日本の熬海鼠(いりこ)を見て、未だ生なる者を見ず。故に諸書に載する所、皆、熬海鼠なり。剰(あまつさ)へ「文選」の土肉を「本草綱目」恠類獸の下に入る。惟だ「寧波府志(ねいはふし)」言ふ所、詳らかなり。寧波(ニンハウ)は日本を去ること甚しく遠からず、近年以來、日本渡海の舶の多くは、寧波を以て湊と爲す。海鼠も亦、少し移り至るか。今に於て唐舩(からぶね)長崎に來る時、必ず多く熬海鼠を買ひて去(い)ぬるなり。

   *

と記している。そしてこれについて、平凡社一九八七年刊東洋文庫訳注版「和漢三才図会」(島田勇雄・竹島淳夫・樋口元三巳訳注)には以下の注を記す(《 》部分は私の補填。下線やぶちゃん)。

   《引用開始》

『文選』の郭璞(かくはく)の「江賦」に、江中の珍しい変わった生物としてあげられたものの説明の一つであるが、石華については、《「文選」註に》「石華は石に附いて生じる。肉は啖(くら)うに中(あ)てる」とあり、《その同じ「江賦」の「文選」註の》土肉の説明が『臨海水土物志』《隋の沈瑩(しんえい)撰の博物誌》を引用したこの文である。《しかし「江賦」の記載に於ける》石華と土肉は別もので、どちらも江中の生物。良安は石華を人名と思ったのであろうか

   《引用終了》

(言わずもがなであるが、編者の下線部の疑問は、寺島の引用の下線部に対応している)この編者注でちょっと気になるのは、「どちらも江中の生物」と言っている点である。即ち、どちらも「江」=淡水域であるということを編者は指摘している(「江賦」は揚子江の博物誌だから当然ではある。「江」という語は大きな河川を指す語で、海の入江のような海洋域を指すのは国訓で中国語にはない)。従って、東洋文庫版編者は「石華」は勿論、「土肉」さえもナマコとは全く異なった生物として同定しているとも言えるのである(因みに淡水産のナマコは存在しない)。しかし、「土肉」は「廣漢和辭典」にあっても、明確に中国にあって「なまこ」とされている(同辞典の字義に引用されている「文選」の六臣注の中で「蚌蛤之類」とあるにはあるが、ナマコをその形態から軟体動物の一種と考えるのは極めて自然であり、決定的な異種とするには当たらないと私は思う)。さらに「江賦」が揚子江の博物誌であったとしても、揚子江の河口域を描けば当然そこには海洋生物の海鼠が登場してきたとして、おかしくない。さすれば、「土肉」は「ナマコ」と考えてよい。

 次に気になるのは「石華」の正体である。まず、書きぶりから見て、寺島は、東洋文庫版注が言うように、「石華」を「土肉」について解説した人名と誤っていると考えてよい(まどろっこしいが、「文選」注に引用された郭璞の注の中の、更に引用元の人物名ということになる。しかし、人見の書き方は、「土肉」の間と「石華」の間に熟語を示すダッシュを入れているだけで一切の送り仮名を振っていないから、これはシンプルに「江賦」の「土肉石華」を引いていて、「土肉は石華」という意で読んでいると考えてよい)。しかし、実はそんな考証は私には大切に思えないのである。「生き物」を扱っているのだから、それより何より、「石華」を考察することの方が大切であると思うのである(東洋文庫では少なくともここで「石華」の正体について何も語っていない。ということは編者らは「石華」は「海鼠」と無批判に受け入れたということになる。確かに岩礁に触手を開いた彼らを、本邦でもアカナマコと呼びアオナマコと呼びするから、彼らを「石の華」と呼んだとして強ち、おかしくは無いとも言える。しかし本当にそれで納得してよいのだろうか? これは本当に「土肉」=「石華」なのだろうか?

 そこで、まず、ここで問題となっている郭璞の注に立ち戻ろうと思う。

 「石華」と「土肉」の該当部分は中文ウィキの「昭明文選 卷十二」から容易に見出せる(引用に際し、記号の一部を変更させて貰った)。

   *

王珧〔姚〕海月、土肉石華。[やぶちゃん注:「江賦」本文。〔姚〕は「珧」の補正字であることを示す。以下、注。記号を追加した。]

郭璞「山海經」注曰、『珧、亦蚌屬也。』。「臨海水土物志」曰、『海月、大如鏡、白色、正圓、常死海邊、其柱如搔頭大、中食。』。又曰、『土肉、正黑、如小兒臂大、長五寸、中有腹、無口目、有三十足、炙食。』。又曰、『石華、附石生、肉中啖。』。

   *

これを恣意的に我流で読み下すと、

   *

王姚・海月、土肉・石華。

郭璞「山海經」注に曰く、『珧は亦、蚌の屬なり。』と。「臨海水土物志」に曰く、『海月は、大いさ鏡のごとく、白色、正圓、常に海邊に死し、其の柱、搔頭(かいたう)の大いさのごとく、食ふに中(あ)てる。』と。又、曰く、『土肉は、正黑、小兒の臂の大いさのごとく、長さ五寸、中に腹有り、口・目無く、三十の足有り、炙りて食ふ。』と。又、曰く、『石華、石に附きて生じ、肉、啖ふに中てる。』と。

   *

脱線をすると止めどもなくなるのであるが――「王珧〔=姚〕」は「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部 寺島良安」の「王珧」でタイラギ、「海月」は同じく「海鏡」でカガミガイ又はマドガイである(「海鏡」は記載が美事に一致する。なお、それぞれの学名については該当項の注を参照されたい)。――

 さてここに出る「土肉」は、その記載内容からみても最早、間違いなくナマコである。

 では、「石華」はやはり海鼠だろうか? そのようにも読めないことはない。当初、私は極めて少ない記載ながら、これを海藻類と同定してみたい欲求にかられた(勿論、「肉」と言っている点から、海藻様に付着するサンゴやコケムシや定在性のゴカイ類のような環形動物及びホヤ類も選択肢には当然挙がるのだが、「肉は啖(くら)ふに中(あ)てる」という食用に供するという点からは、定在性ゴカイのエラコ
Pseudopotamilla occelata  かホヤ類に限られよう)。すると「石花」という名称が浮かび上がってくるのであった。例えば、「大和本草」の「卷之八草之四」の「心太(こころふと)」(ところてん)の条に、「閩書」(明・何喬遠撰)を引いて「石花菜は海石の上に生ず。性は寒、夏月に煮て之を凍(こほり)と成す」とする。即ち、「石華」とは、一つの可能性として紅色植物門紅藻綱テングサ目テングサ科マクサ Gelidium crinale  等に代表されるテングサ類ではなかろうかと思ったのである。

 ところが最近、これ以外にも「石華」の強力な同定候補が浮かび上がってきたのである。――「石」に「生じ」(生える)、「華」が開くように鰓を出す、その中身の「肉」が食用になる――それは本条の初回公開の直後にものした『博物学古記録翻刻訳注 ■13 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる老海鼠(ほや)の記載』の注で私が示したカメノテである。リンク先を是非、お読みあれ。これも私は立派な「石華」であるように私には思えるのである(但し、まずいことにこれ、「江賦」では「石砝」(石蜐)として別に出るのである)。……ともかくも――「石華」というもの――これは一筋繩ではいかぬということでは、ある。向後も考証を続けたい。

・「臂」狭義には肘(腕の関節部)から手首までの「一の腕」を指す語。広義には肩からの腕総てをも指すが、ここは前者でしっくりくる。

・「五寸」約十五センチメートル。マナマコでは大型個体は三十センチメートルに達するものもあるが、伸縮の度合いも甚だしいので、この数値は健康な生体個体の標準値としては低めながら自然な数値で、実際、続く解説中ではより大型個体が示されている。

・「三十の足有り」ナマコは棘皮動物に共通する五放射相称の体制を持ち、腹側には中央とその両側に管足が並ぶ歩帯があり、背側には左右両端に歩帯(管足が変形した疣足が並ぶ)があって、全身はこの放射状に縦に並んだ五本の歩帯(とその間充組織)によって構成されている。腹側の管足は主に移動に用い、先端は吸盤となっている(但し、無足目と隠足目のナマコは管足を持たず、蠕動運動によって移動する。板足目のナマコ類はその多くが深海性で、一部には太く大きな管足を持つ種類もいる。ここはウィキの「ナマコ」に拠った)。無論、管足の本数は三十本ばかりではない。何百本である。

・「集觧」集解。「しつかい(しっかい)」「しふげ(しゅうげ)」とも読むが、私は「しふかい(しゅうかい)」と読んでいる。「觧」は「解」の異体字。対象に就いての解釈を多く集めて纏めることを指す。

・「江東」この場合は東日本を指すとしか読めないが、一般的な語ではない。後に「海西」(島田氏はこれに『さいこく』(西国)とルビされておられる)が現われ、これは明らかに西日本で、その対語としてある以上、東日本(但し、尾張以東である)ととっておく。島田氏はこれに『かんとう』とルビを振られ、関東とされる。続く地名(しかし尾張や三河は今も昔も関東ではない)や流通の集中度や情報の収集域から言えば、それでおかしくはないのであろうが、そうすると東北部が含まれず、海鼠等の場合は頗るおかしな印象を拭えなくなる。「仙臺 きんこの記 芝蘭堂大槻玄澤(磐水)」の金華山のキンコの例(これは凡そ百年後の文化七(一八一〇)年の刊行ではあるが、既に東北の海鼠類が豊富なことは知られていたはずである)を考えても、ここは関東ではおかしいと私は判断する。

・「尾の和田」「尾」は尾張国。現在の愛知県西部。これは直感に過ぎないが、現在の愛知県知多郡美浜町布土和田(ふっとわだ)ではなかろうか? ここなら三河湾に面し、しかも次に出る名産地佐久島はここから南東十三・二キロメートルの三河湾に浮かぶ島である。識者の御教授を乞う。

・「參の柵の嶋」「參」は三河国。現在の愛知県中部。佐久島。三河湾のほぼ中央に位置する離島。愛知県西尾市。ウィキの「佐久島」によれば(注記号は省略した。下線はやぶちゃん)、三河湾湾奥中央やや西寄りの西尾市一色町から南に約八キロメートルの距離にあり、三河湾のほぼ中央に位置する。面積は一・八一平方キロメートルで、『三河湾の離島中最大』。『西三河南西部(西尾市一色町)・知多半島(南知多町)・渥美半島(田原市渥美町)との距離がそれぞれ』十キロメートル圏内にあり、離島と言っても、『地理的な距離の近さに加えて本土との生活交流が活発であるため、国土交通省による離島分類では内海本土近接型離島に』当たる。島北部には標高三十メートルほどの『緩やかな丘陵が連なり、ヤブツバキやサザンカなどが植えられている』「歴史」パートの「古代」には、『藤原宮跡から出土した木簡(貢進物付札)には「佐久嶋」の、また奈良時代の平城京跡から出土した木簡には「析嶋」の文字が見られ、島周辺の海産物を都に届けた記録も残っている』とあり、「中世・近世」の項には、『中世には志摩国の属国であったとされるが、鎌倉時代には吉良氏の勢力下に入り、三河湾内の』他の二島(日間賀島と篠島)『とは異なり三河方面との結びつきが深まった。江戸時代初期は相模国甘縄藩領だったが』、元禄一六(一七〇三)年には『上総国大多喜藩領となった。コノワタは大多喜藩の幕府献上品であり、現在も佐久島の特産品である』。『伊勢・志摩と関東を結ぶ海上交通の要衝にあることから、江戸時代には各地を結ぶ海運で繁栄を築き、吉田(現在の豊橋市)と伊勢神宮の結節点としても栄えた。吉田・伊勢間は陸路では』約四日かかるが、『海路では最短半日で着くことができ、金銭的余裕のない参拝者、遠江国や三河国など近隣諸国からの参拝者に多く利用されたという。江戸時代には海運業が経済の中心であり、海運業以外では東集落は主に漁業を、西集落は主に農業を経済基盤とした。大型船のほかに小型船の根拠地でもあり、知多半島で生産された陶器類を熊野灘まで運んだり、熊野の材木を名古屋や津に運んでいた』とある。

・「武の金澤本木」「武」は武蔵国。現在の埼玉県・東京都・神奈川県の一部。これは現在の横浜市磯子区本牧を指す。「江戸名所図会」の「巻二 天璇之部」の江戸後期の「杉田村」(現在の磯子区杉田)の挿絵には『海鼠製(なまこをせいす)』というキャプションを附して「いりこ」(乾燥させた海鼠)を製する図が示されてある。また、題名だけ見ると、やや軽そうな感じがするものの、「はまれぽ.com」の「神奈川県の海でナマコがよく捕れるそう。年間の漁獲量は? 横浜市内で新鮮なナマコを食べられるお店は? ナマコで有名な青森県横浜町とはどちらが多く捕れる?」は一読、すこぶる博物学的で素晴らしく、歴史的変遷(埋め立てられたものの現在はナマコ漁が再開)を含め、必読である!

・「五、六寸」十五~十八センチメートル。

・「※1※2(いぼ)」(「※1」=「瘖」から十三画目(「日」の中央の一画)を除いた字。「※2」=「疒」の中に「畾」。)「※1」は音「ハイ」でかさぶた・かさ(瘡)/できもの/腫れ物の意である(大修館書店「廣漢和辭典」による)。「※2」については、同じ字が「和漢三才図会」の「胡瓜」の項(「卷之百 七」)に「痱※2(いらぼ)」(但し私が判読した底本の字が掠れており、読みの「ぼ(原典はカタカナ)」を含め自信がない)とあり、東洋文庫版現代語訳ではこれを『ぶつぶつ』と訳している(最も可能性があるのは「痱*」(*「疒」+中に「雷」)で、これは「廣漢和辭典」に、「廣韻」に「痱、痱*」(痱(ひ)は、痱*(ひらい)なりと出ており、その意味として『小さなはれもの。ぶつぶつ』とある)。以上の「胡瓜」の同全テクストと注は、私の「耳嚢 巻之十 白胡瓜の事」の注に示してあるので参照されたい。なお、島田氏は『※1※2』に『ぶつぶつ』、次の文に再登場する箇所では別に『ふきでもの』とルビを振られており、多様な表現で理解を進めようとなされた面白い訳法である。

・「蠢跂來徃」(若干、字が不鮮明で気にはしていたのだが、この「跂」を私は当初「抜跋」と誤読していた。今回、島田氏の訳を見、「跂」が正しいことを知り、この改稿で訂したことを最初に申し述べておく)「蠢」が蠢(うごめ)く、「跂」が虫が這い歩く、「来徃」は来往で行ったり来たりの意であるから、蠕動して這い歩き回ることを言う。島田氏はこの四字をそのまま訳に用いられ、『蠢跂來往(たえずうごめか)し』と訓じておられる。これはなかなかに面白い訳で、しかもこの場合、島田氏はこれを海鼠本体の移動・運動ではなく、管足が盛んに動く様として訳しておられる。非常に示唆に富む訳であり、海鼠個体の観察としてはその方が正しいようにも感じられるけれども、私としては最初の敷衍訳を変更することを望まない。何故なら実際、この管足を以って海鼠は思ったよりも活発に匍匐運動を行うからである。

・「鰒魚」「あはび」と訓じているかも知れない。本字はフグをも指す語で御丁寧に「魚」までついているが、これは明らかに鮑(あわび)である。事実、後の氣味の項にフグは「河豚」の表記で出る。

・「冷潔淡美」ひんやりとしてすっきりと清らかで、その味わいはさわやかな旨味を持つとことであろう。

・「三條の膓」私の愛読書である昭和三七(一九六二)年内田老鶴圃刊の大島廣先生の「ナマコとウニ」では(一二二頁)、この『三条の腸とあるのは、ナマコ類は一般に、その消化管が体の後端んに達して折れ返り、上に向って前端に達し、再び後方に向う。その下向二条、上向一条あるのを合わせて数えたものと見える』と解説なさっておられる。海鼠を捌いたことのない方のために、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーのインターネット公開(保護期間満了)の広島文理科大学広島高等師範学校博物学会編「日本動物解剖図説」のナマコの解剖図を以下に示しておく。この、「12」「19」「20」の腸の第一部から第三部というのが、まさにそれに当たる。

 

Namakokaibouzu

 

・「色、白くして味ひ、佳ならず」この部分、不審。ここは一種の補足か割注のような感じで、例えば、

……腹内、三條の膓、有り〔但し、色の白きは味ひ、佳ならず。〕。此の物、殽品(かうひん)中の最佳の者なり。

とあるならば、腑に落ちるのである。取り敢えず、これは腸(わた)が黄色ではなく、白っぽい色を成しているものは美味しくない、という補足で採り、訳では(  )に入れた。

・「殽品」「殽」は「肴」と同義で、広義の魚、海産生物の調製品の謂い。島田氏は『さけのさかな』とルビされている。島田氏はここに膨大な量の近世の海鼠の調理法を引用されておられ、圧巻である。

・『「古事記」に曰く、『諸魚、仕へ奉ると白(まう)すの中(なか)に、海鼠、白(まう)さず。爾(ここ)に天宇受賣命(あめのうずめのみこと)海鼠に謂ひて曰く、「此口や、荅(こた)へざる口(くち)。」と云ひて、細小刀を以つて其の口を拆(さ)く。故に今に於いて海鼠の口、拆(さ)けたり。』と』島田氏の訳ではこの「細小刀」の箇所を『紐小刀』とする。以下に見る通り「古事記」の原文では確かに「紐小刀」(飾り紐付きの小刀)であるが、私の底本としたものでは明らかに「細」であって「紐」ではない。「天宇受賣命」は、ご存じ、かの閉じられた天の岩戸の前でストリップを演じた日本最古の踊り子にして芸能の女神である。以下に「古事記」から引用する(書き下し文及び訳は上代の苦手な私の仕儀につき、ご注意あれ。過去形で訓読するのが一般的であるが、敢えて現在形で臨場感を出した)。

   *

於是送猿田毘古神而、還到、乃悉追聚鰭廣物鰭狹物、以問言、汝者天神御子仕奉耶、之時、諸魚皆、仕奉、白。之中、海鼠不白。爾天宇受賣命謂海鼠云、此口乎、不答之口、而以紐小刀拆其口。故、於今海鼠口拆也。

是に於て猿田毘古神(さるたびこのみこと)を送りて、還り到りて、乃ち悉く鰭(はた)の広物(ひろもの)・鰭の狹物(さもの)を追ひ聚め、以て問ひて言ふ、

「汝(な)は、天つ神の御子に仕へ奉らむや。」

と。之の時、諸々の魚、皆、

「仕へ奉らむ。」

と白(まを)す。この中、海-鼠(こ)のみ白さず。爾(ここ)に天宇受賣命(あめのうずめのみこと)、海鼠に謂ひて云く、

「此の口や、答へざるの口。」

と。而して紐小刀(ひもかたな)を以て其の口を拆(さ)く。故に、今に於いて海鼠の口、拆くるなり。

やぶちゃん訳:天宇受売命は、ここで天孫降臨の先導を務めてくれた猿田毘古神(さるたひこのみこと)を送って帰って来て、即座に海中の大小のあらゆる魚たちを悉く呼び集めて尋ねて言った、

「お前達は天つ神の御子に従順に仕え奉るか?」

と。すると、魚どもは皆、

「お仕へ奉りまする。」

と申し上げる。

 と、その中、海鼠だけは答えようとしない。

 ここに天宇受売命(あめのうずめのみこと)は海鼠に向かって言った、

「この口は、答えぬ口なのね。それじゃあ、こんな口はいらないわ。」

と。

 そして飾り紐の付いた小刀で、その海鼠の口を裂いた。故を以て今に至るまで海鼠の口は裂けているのである。

   *

本説は古来からの大神であったサルタヒコさえ天孫の膝下に下り、そこにダメ押しとしての畜生(衆生)のシンボルたる総魚類の従属を示して、それに従おうとしなかった海鼠が原罪への処罰として口を切られ、その反スティグマは永遠に消えない程に恐ろしいのだと語っているのであろう。私には生理的に厭な話である。この「切られた口」なるものは、ナマコの口部を取り巻く十~三十本の触手(ちなみのこれは管足が巨大に変形したもので、生物学的に五放射体制に対応して触手の数も五の倍数であることが分かっている)を示すのだが、海鼠ぐらい駘蕩として平和主義者然とした哲人はいない。「古事記」のこの女神による海鼠制裁事件は大和朝廷の先住民族への暴政を隠蔽するための冤罪である。とっくに時効ではあるが、ナマコたちよ! 名誉回復のための訴訟には、いつでも私が特別弁護人になって上げるよ!

・「二、三寸」六~九センチメートル。

・「味も亦、差短き者、有り」この「短き」は味が劣るで採った。島田氏も『差短(ややうまくな)い』と訳しておられる。

・「七、八寸」二十一~二十四センチメートル。

・「淹て」島田氏は『淹(しおづけ)して』とされる。これは次の「醬と爲し」からの敷衍訳で結果としては正しいが、単漢字の「淹」には漬けるの意はあっても、塩漬けにするの意はないので従えない。

・「醢」音なら「カイ」、訓では別に「ししびしほ(ししびしお)」。塩漬けの肉や塩辛。

・「振鼠」これは前の記載から「生鮮の海鼠を用」い、一つは「灰砂に混じて籃に入れて之を篩ふ」という調理を経るもの。今一つは「白鹽を抹して」(かける・擦り込む・まぶすの意のように思われる)「擂盆中に入れて、杵を以つて旋磨する」という一番目とはかなり異なった調理を経るもので、しかもこの二つの方法を経て時間を置いたものは、意外にも、全く同じように「凝堅」した塊となり「其の味はひ、鮮脆、甚だ美」であるというのである。現行の生海鼠の調理法によって出来上がった海鼠料理は私は聴いたことがない。前記の大島先生の「ナマコとウニ」にもこの名は見当たらない。識者の御教授を乞うものである。因みに、知られた処理法として似た響きを持つ「茶振り海鼠」というのは知っている。一応、以下、レシピを「天満屋ハピータウンおすすめレシピ」の「茶ぶりなまこの酢の物」から引いておく(表記法を一部変えさせて戴いている。材料及び分量はリンク先を)。

   *

1 なまこは塩少々をふってぬめりを取り、両端を少し切り落として腹を縦に開き、ワタを除いて水の中で洗い、水けをきる。

2 1のなまこを厚さ七~八ミリメートルの小口切りにし、塩少々をふって十分ほどおく。

3 なべになまこがかぶるぐらいの湯(摂氏七十~八十度)を入れ、番茶の葉をひと握り加える。

4 2のなまこをざるに入れ、3のなべの中で、ざるごとサッとふり洗いして水にとり、水けを切る。

5 合わせ酢にゆずの輪切りとしょうがのせん切りを加え、4のなまこを半日ほどつけて味を含ませる。

   *

但し、私は実は海鼠は総てそのまま生、酢などを加えないものの生食こそが美味だと考える人間で、この「茶振り海鼠」の処理自体には頗る批判的な人間であることを言い添えておく。

・「鹹寒」漢方で、陰陽五行説の相生相克を食物の気(薬性)の働きに当て嵌めたもので、食物を味覚に於いて「酸・苦・甘・辛・鹹」の五つに分ける。さらに食物の保持する特有の性質をやはり「寒・微寒・平・温・微温」の五つに分ける(大別すれば気には「寒・温・平」の三種類があり、その「寒」は食物や生薬が体の中に入った時に冷やす効果を持つもの、「温」は温める効果を持つも、そして「寒」・「温」孰れにも偏らずに働きがフラットとなものを「平」とする。軽く冷やす効果が「微寒」、軽く温めるそれが「微温」である)。漢方では、この「気」の働き「味」の働きを合わせたものを「気味」と称し、その「気味」の組み合わせによって食物や生薬が体に作用する状態をこれらの文字で規定表示している(以上は「自然の理薬局」の「漢方医学の概念」を参照に纏めた)。

・「河豚の毒を伏す」不詳。私はこのような民間療法を聴いたことはない。識者の御教授を乞う。

・「下焦」漢方に於ける「五臓六腑」の臓器の「六腑」の一つである「三焦(さんしょう)」。三つの熱源の意で、上焦は横隔膜より上部、中焦は上腹部、下焦は臍下(さいか)にあり、生命の源である体温を保つために絶えず熱を発生している器官とされる。「みのわた」とも呼ぶ。これはさらに「上焦」「中焦」「下焦」の三つのパートに分けられている。「上焦」は、気を取り入れて邪気を排出する働きを有し、心や肺の燃焼に関わり、「中焦」は食べ物を取り入れて血(栄養)に変える働きを有し、胃・脾・肝などの燃焼に関わり、「下焦」は不要なものを排出する働きを掌り、大腸や膀胱の燃焼させるという。西洋医学上の該当臓器は存在しないが、実際には以上に出た実際にある支配臓器総体を包括した形而上学的な臓器概念のように思われる。

・「邪火」幾つかの漢方サイトを管見するに、これはどうも炎症などの具体な漢方症状ではなく、三焦孰れにもよくない状態として生ずる、「客熱」(本来のものではない異常な熱。他から侵入して来た熱。意識を朦朧とさせるような邪悪な熱気)の邪悪(悪質)な性質を示す語のように見受けられる。

・「上焦」先の「下焦」を参照。

・「積熱」ここは上焦のそれであるが、漢方サイトでは中焦の不具合として、消化管内の停滞によるガス発生や便・炎症による刺激のために腹部膨満感や腹痛、発熱性疾患を引き起こすものとして「腸胃積熱(ちょういという」というのが散見される。また別に「三焦積熱」ともあるから、本来あるべきではない熱源が生命を燃焼させる三焦に鬱積して負荷をかけている状態を指していることが分かる。そもそもここは「下焦」と「上焦」の熱を去ることを言って「中焦」を含む「三焦」全体の温度の正常な状態への就下を言っている。

・「袪」本来は袖・袂の意であるが「去る」(除く)の意をも持つ。

・「白禿」「白癬」「白瘡」とも書く。主に小児の頭部に大小の円形の白色の落屑(らくせつ)面が生ずる皮膚病で、原因菌は主に真菌トリコフィトン(白癬菌)属 Trichophyton の感染によって起こる。掻痒感があり、毛髪が脱落する。頭部白癬。ケルズス禿瘡(とくそう)。ウィキの「白癬に、『毛嚢を破壊し難治性の脱毛症を生じるものはケルズス禿瘡と呼ばれる。Microsporum canisTrichophyton verrucosumが原因の比率が高いため、猫飼育者・酪農家は注意が必要。その他、Trichophyton rubrumTrichophyton mentagrophytesTrichophyton tonsuransがある』とある。

・「熬海鼠」以下、私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「海鼠(とらご)」の「熬海鼠」の注を援用追記しておく。「いりこ」という呼称は、現在、イワシ類を塩水で茹でて干したにぼしのことを言うが、本来は、ナマコの腸を除去し、塩水で煮て完全に乾燥させたものを言った。平城京跡から出土した木簡(島田氏注に『関根真隆氏によれば、平城宮出土木簡に「能登国能登郡鹿嶋郷戸主若倭部息島戸同□調□(海カ)鼠六斤、天平宝字三円四月□日」とある由である』とある)や「延喜式」に、能登国の調として記されている。「延喜式」の同じ能登の調には後述されるコノワタやクチコも載り、非常に古い時代からナマコの各種加工が行われていたことを示している。大島廣先生の「ナマコとウニ」には、明治二九(一八九六)年の調査になる農商務省報告に、各地方に於けるイリコの製法がいちいち詳述されており、それらを綜合した標準製法が示されているとする(以下同書からの孫引だが、カタカナを平仮名に直し、〔 〕で読み・意味を加え、適宜濁点を補った)。

   《引用開始》

「捕獲の海鼠は盤中に投じ、之に潮水を湛〔たた〕へ、而して脱腸器を使用して糞穴より沙腸を抜出し、能く腹中を掃除すべし。是に於て、一度潮水にて洗滌し、而して大釜に海水を沸騰せしめ、海鼠の大小を区別し、各其大小に応じて煮熟の度を定め、大は一時間、小は五十分時間位とす。其間釜中に浮む泡沫を抄〔すく〕ひ取るべし。然らざれば海鼠の身に附着し色沢を損するなり。既に時間の適度に至れば之を簀上〔さくじやう:すのこの上〕に取出し、冷定〔れいてい?:完全に冷えること〕を竢〔まつ=待〕て簀箱〔すばこ〕の中に排列し、火力を以て之を燻乾〔くんかん:いぶして干すこと〕すべし。尤〔もつとも〕晴天の日は簀箱の儘交々〔かはるがはる〕空気に曝し、其湿気を発散せしむべし。而して凡〔およそ〕一週間を経て叺〔かます〕等に収め、密封放置し、五六日許りを経て再び之を取出し、簀箱等に排列して曝乾〔ばつかん〕するときは充分に乾燥することを得べし。抑〔そもそ〕も実質緻密のものを乾燥するには一度密封して空気の侵入を防遏〔ばうあつ:防ぎとどめること〕するときは、中心の湿気外皮に滲出〔しんしゆつ:にじみ出ること〕し、物体の内外自から其乾湿を平均するものなり。殊に海鼠の如き実質の緻密なるものは、中心の湿気発散極めて遅緩なれば、一度密蔵して其乾湿を平均せしめ、而して空気に晒し、湿気を発散せしむるを良とす。已に七八分乾燥せし頃を窺ひ、清水一斗蓬葉〔よもぎば〕三五匁の割合を以て製したる其蓬汁にて再び煮ること凡そ三十分間許にして之を乾すべし」

   《引用終了》

まことに孫引ならぬ孫の手のように勘所を押さえた記述である。なお、最後の「蓬汁」で煮るのは、大島先生によると『ヨモギ汁の鞣酸(たんにん)と鉄鍋とが作用して黒色の鞣酸鉄(たんにんてつ)を生じ、着色の役割をするものである』と後述されている。

・「海參」寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「海鼠(とらご)」に、

   *

「五雜組」に云ふ、『海參は、遼東の海濱に之有り。一名、海男子。其の狀、男子の勢(へのこ)のごとし。其の性、温補、人參に敵するに足り、故に海參と曰ふ。』と。

   *

あるように、陽物や朝鮮人参のよう形状、しかも朝鮮人参同様に「功、補益を擅にす」であることから「故に之、名づくるか」と推定しているのである。因みに「補益」とは不足を補い、益を与えることで、漢方の効能の常套表現。

・『李東垣「食物」』李東垣(一一八〇年~一二五一年)は金・元医学の四大家の一人とされる医師。名は杲(こう)、字(あざな)は明之(めいし)、東垣は号。河北省正定県真定の生で幼時から医薬を好み、張元素に師事、その業をすべて得たという。富家であったので医を職業とはせず、世人は危急の際以外は診てもらえなかったが「神医」と称されたという。病因は外邪によるもの以外に精神的な刺激・飲食の不摂生・生活の不規則・寒暖の不適などによる素因が内傷を引き起こすとして「内傷説」を唱えた。脾と胃を重視し、「脾胃を内傷すると百病が生じる」との「脾胃論」を主張、治療には脾胃を温補する方法を用いたので「温補(補土)派」とよばれた。朱震亨(しゅしんこう)とあわせて李朱医学と称された(小学館「日本大百科全書」に拠る))の「食物本草」。これは、明代の汪穎の類題の書と区別するために「李東垣食物本草」とも呼ぶ。

・「本朝式」「延喜式」のこと。

・「自ら出でて」島田氏は『自出(にじみで)て』と訳されている。謂い得て妙の訳である。

・「串海鼠」以下、私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「海鼠(とらご)」の「串海鼠」の注を再掲しておく。「串海鼠」について前掲書大島廣「ナマコとウニ」に以下のように記す。

   《引用開始》

 串(くし)に貫いて梯子(はしご)のような形にしたものは、筆者も沖繩本島ののハネジイリコで初めて見たのだが(第二十五図[やぶちゃん注:大島先生の著作権は継続中なので省略])、古くは広く行われた方法らしく、いろいろな書物にこれを見ることができる。[やぶちゃん注:以下は底本では全体が一字下げ。]

 「串に刺し、柿の如くして乾したるを串海鼠と云ふ」(伊勢貞丈)

 「毎十箇懸張二小柱而如梯之形者名串海鼠」(『倭漢三才図会』)

 「凡(およそ)串(くし)に貫(つらぬ)くものはクシコ、藤に貫くものはカラコと云ふ」(武井周作)

 「海上人復有以牛革譌作之ノ語アリ。此即八重山串子(ヤエヤマクシコ)ト俗称スルモノニシテ、味甚薄劣下品ノモノナリ」(栗本瑞見)

 この最後の記事は贋物(にせもの)の追加である。[やぶちゃん注:以下略。]

   《引用終了》

最後のものは、私が「海鼠 附録 雨虎(海鹿) 栗本丹洲 (「栗氏千蟲譜」卷八より)」で電子テクスト化した中に現われるもの。そちらも是非、御参照の程! さても贋物と言えば、良安の「食物本草」の引用にはナマコの偽物として「驢馬の陰莖」によるものがあると記している。驢馬一頭を犠牲にしてまで……それは、何か、ひどく哀しい海鼠の歴史ではないか。

・「六、七寸」十五~二十一センチメートル。

・「古へより之を用ゐる者、久し」これを島田氏は『昔からこの方法を用いて久しい』と訳しておられるが、私は「之」は熬海鼠の製法を指すのではなく、熬海鼠という調整品を指すものと解釈する。そう読んでこそ、それを受けて以下の「延喜式」からの引用がごく自然に読めるからである。

・「神祇部」律令制で祭祀を司る神祇官に関わる記載部。

・「二斤」一・二キログラム。

・「主計部」「主計」は訓ずると「かずえ」。主計寮(しゅけいりょう)は律令制に於いて民部省に属した主に税収(特に「調」)を把握・監査した機関。具体的には租税の量を計算して規定量に達しているかを監査した。訓は「かずえのつかさ」(以上はウィキの「主計寮」に拠る)。なお、島田氏の注ではここに熬海鼠貢納についての驚くべき膨大なデータ引用がある。

・「今、亦、上下、之を賞美す」島田氏はここに近世の熬海鼠の調理法を引用されておられる。

・「三焦」先の「上焦」を参照。

・「火熱」先の「積熱」を参照。

・「勞怯虛損」虚損労傷。労怯・労損ともいう。五臓の機能低下による種々の疾病を指す。先天的なものや後天的なもの或いは各種の虚弱や症候などは全て「虚労」の範疇に入るとされ、機能が衰えて体力のないのが「虚」といい、「虚」から戻ることが出来ない状態を「損」とし、「損」が長期間続くものを「労」という。虚・損・労は疾病の発展状況を表わす言葉である(漢方検索サイトの古いキャッシュより)。「怯」も漢方では甚大な不足を意味する。

・「肺虛」呼吸器系全般の機能低下によって生ずる症状全般を指す。

・「欬嗽」咳。

・「李杲」前掲の李東垣の名。

・「疳」疳の虫によって起こるとされた小児の神経症疾患。夜泣きやひきつけなどの発作を起こす。

・「海鼠膓」ナマコの腸(はらわた)の塩辛(以下、「攪勻」までの注の多は、私の『博物学古記録翻刻訳注 ■11 「尾張名所図会 附録巻四」に現われたる海鼠腸(このわた)の記載』で施した注を概ね再掲したが、「尾張名所図会」は必ずしも本書に忠実に引用していない(例えば別名の「俵子」などは省略されている)ので読みや注に微妙な違いがあるので注意されたい)。寒中に製したもの及び腸の長いものが良品とされる。尾張徳川家が師崎(もろざき:現在の愛知県知多郡南知多町師崎。知多半島の西先端に位置する港町。)の「このわた」を徳川将軍家に献上したことで知られ、雲丹・唐墨(からすみ:ボラの卵巣の塩漬。)と並んで、日本三大珍味の一つとされる。ウィキの「このわた」によれば、『古くから伊勢湾、三河湾が産地として知られてきたが、今日では、瀬戸内海や能登半島など各地で作られている』。製法は生きた海鼠から『腸を抜き取り、これを海水でよく洗い、内部にある泥砂をとりのぞき、ざるにあげて水気をきる』。腸一升に塩二合乃至三合を加えて掻き混ぜた後に水分をきり、一昼夜、桶や壺などに貯蔵する』。一般にナマコ百貫(三百七十五キログラム)から腸八升(十四・四リットル)が、腸一升(一・八リットル)からは「このわた」七合(百五十グラム/百八十ミリリットル)が出来るといわれる(因みに私の愛読書である大島廣先生の「ナマコとウニ」(昭和三七(一九六二)年内田老鶴圃刊)には熟成後に水分を去ると製品の歩留(ぶどま)りは更に七割ぐらいに減るとある)。『ふつうは塩蔵されたものが市販されるが、生(なま)ですすっても、三杯酢に漬けても美味である』。私は殊の外、海鼠が好きで、しばしば活き海鼠を買求めて捌くのであるが、たまに立ち割ってみると、内臓の全くない個体がある。これは悪徳水産業者によるもので、再生力の強い海鼠から肛門を傷つけないように巧妙に内臓を抜き出したものである。教員時代にしばしば脱線で詳述し、以前にもブログで述べたが、ナマコは外敵に襲われると、防御法の一つとして、自身の内臓を吐き出す(これを餌として与える意味の外に、ナマコは多かれ少なかれ魚類にとって有毒な成分サポニン(石鹸様物質)を含み、捕食者の忌避物質でもある)。これを内臓吐出・吐臓現象等と言うが、これを逆手に利用して「このわた」を本体から抜き出し、内臓を抜いた本体と加工品としての「このわた」を別に製して売る輩が跡を絶たないのである(なお、ナマコの腸管の再生は二~三週間で、内臓全体の完全再生にはその倍はかかるという)。大き過ぎるナマコは堅くて売れないため、この脱腸を何度も繰り返してコノワタ用の腸管を採取すると、かつての大阪府立水産試験場の公式ページには平然と書かれてあった(今は何故か消失しているようだ)。何とも海鼠が哀れでならぬ。因みに、内臓だけではなく、同じ棘皮動物のヒトデ同様にナマコは二つに切断されればそれぞれの断片が一匹に再生する。南洋のナマコ食をする人々は古くからそれを知っていて、半分を海に返す。それは海の恵みへの敬虔にして美しい行為であったのだ。喰らい尽くし、おぞましい放射線によって汚染し尽くす我々文明人こそが実は野蛮で下劣なのである。

・「俵子」前掲書大島廣「ナマコとウニ」にこの「タワラゴ」という呼称についての複数の語源説について以下のように記す。

   《引用開始》

 「海鼠(ナマコ)の乾したるなり(中略)其の形少し丸く少し細長く米俵(こめだわら)の形の如くなる故タワラゴと名付けて正月の祝物に用ふる事、庖丁家の古書にあり。米俵は人の食を納る物にて、メデタキ物故タワラコと云ふ名を取りて祝に用ふるなり」(伊勢貞丈)。

 「俵子(たわらこ)は沙噀の乾たるなり。正月祝物に用る事目次のことを記ししものにも唯その形米俵に似たるもの故俵子と呼て用るよしいへり。俵の形したらんものはいくらもあるべきにこれを用るは農家より起りし事とみゆ。庖丁家の書に米俵は食物を納るものにてめでたきもの故たわらごと云ふ名を取て祝ひ用ゆるなり」(喜多村信節『嬉遊笑覧』一八五六)。

 「俵子は虎子の転じたるにて、ただ生海鼠の義なるべし」(蔀関月)。

   《引用終了》

因みに、文中の『沙噀』は「さそん」と読み、海鼠の別称である。

・「膓醬」魚腸醤。魚腸を発酵させた食品。魚の内臓を原料とする塩辛には、主に鰹の内臓を原料とする酒盗などが知られ、魚醤(ぎょしょう)、所謂、魚醤油(うおじょうゆ)・塩魚汁(しょっつる)などにも、大型魚類の内臓を主に用いて製するものがあり、広義にはそれも含まれる。

・「黄膓」「きのわた」或いは「こうちやう(こうちょう)」と音読みしているのかも知れない。先に示した寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「海鼠(とらご)」では、

   *

海鼠腸(このわた)は、腹中に黄なる腸三條有り。之を腌(しほもの)[やぶちゃん注:塩漬け。]とし、醬(ひしほ)と爲る者なり。香美、言ふべからず。冬春、珍肴と爲す。色、琥珀のごとくなる者を上品と爲す。黄なる中に、黑・白、相ひ交ぢる者を下品と爲す。正月を過ぐれば、則ち味、變じて、甚だ鹹(しほから)く、食ふに堪へず。其の腸の中、赤黄色くして糊(のり)のごとき者有りて、海鼠子(このこ)と名づく。亦、佳なり。

   *

とあり、栗本丹洲「栗氏千蟲譜」巻八の「海鼠」の「海鼠」の解説には(これも私の電子テクスト。画像豊富)、

   *

此のもの、靑・黑・黄・赤の數色あり。「こ」と単称する事、「葱」を「き」と単名するに同じ。熬り乾する者を、「いりこ」と呼び、串乾(くしほ)すものを「くしこ」と呼ぶ。「倭名抄」に、『海鼠、和名古、崔禹錫「食鏡」に云ふ、蛭に似、大なる者なり。』と見えたり。然れば、『こ』と称するは古き事にして、今に至るまで海鼠の黄腸を醤として、上好の酒媒に充て、東都へ貢献あり。これを『このわた』と云ふも理(ことわり)ありと思へり。

   *

とあり、孰れも「このわた」を「黄(き)の腸(わた)」の転訛とは捉えていない。

・「滌去」洗い去ること。

・「攪勻」ここでは原典を視認するに「カクキン」と音読みしているとしか思われないので、「尾張名所図会」での「攪(か)き勻(なら)して」という訓読とは差別化させた。これは明らかに底本は漢文脈で音読みしているものが多いものと思われること(既に述べたが、それでもつまらぬ語注を減らすためにわざと確信犯で訓読みした箇所がある)、「尾張名所図会」が有意に前後の仮名文脈表現に影響されて見えることを勘案したものである。

・「一種、腸中に、色、赤黄、糊のごとき者有り、號して鼠子(このこ)と曰ふ。珍と爲さず」これは「海鼠子(このこ)」「撥子(ばちこ)」とも呼ばれる、私垂涎のナマコの卵巣「口子(くちこ)」である。ウィキの「くちこ」によれば、海鼠は厳冬期の一月から三月になると産卵期を迎えて『発達肥大した卵巣を持つようになり、それが口先にあることから「くちこ」と呼ばれている。主な産地は能登半島周辺。一般的に平たく干したものが能登の高級珍味として親しまれているまとめた卵巣を、横に渡した糸にまたぐように吊るして干すが、このとき水滴が早く落ちるように先端を指でまとめるため、仕上がりは平たい三角形状となる。干した姿が三味線のばちに似ていることから、ばちことも呼ばれている。開いた卵巣を何枚も連ねて一枚に干し上げるが、一枚作るのに十数キロのナマコが必要であるため、大変高価なものとなる。そのまま食べるか、炙ってから、お吸い物・熱燗に入れても良い』。『生のものは、塩漬けされた塩辛として出回ることが多いが、取り出して瓶などに詰めただけの「生」のものもあ』り、『酒の肴として好適である』とする。「海鼠子」について、前掲書大島廣「ナマコとウニ」には次のように記す。

   《引用開始》

 紐(ひも)状の生殖線[やぶちゃん注:「腺」の誤字。]を海鼠鮞(このこ)という。これを乾したものを俗にくちこ[やぶちゃん注:「くちこ」に「丶」の傍点。]と名づけ、能登、丹波、三河、尾張の四地方産のものが知られており、ことに能登鳳至郡穴水湾産のくちこは古い歴史をもっている。毎年一二月下旬から翌年一月までの間にナマコを採取してその生殖腺を取り、塩水でよく洗い、之を細い磨き藁(わら)に掛けて乾かすか、又は簀(すのこ)の上に並べて乾す。雅味に富んだ佳肴(かこう)である。

   《引用終了》

口子(クチコ)・干口子(ヒグチコ)は、その製品が三味線の撥(バチ)に似ているのでバチコとも言う。コノワタ以上に珍味とされ、まさに撥大のぺらぺら一枚が軽く五千円を越える。八年前、私は遂に名古屋の料理屋でこれを食したが――掛け値なし――自慢なし――誇張なし――で大枚払って食してみる価値は――確かに――ある珍味である。しかし乍ら……島田氏の注にも「日本山海名産図会」を引き、『一種蝶の中に色赤黄にてのりのごときものあり。号(なづ)けて海鼠子(このこ)といふ。味よからず』と駄目押しがあって、この時代は製したものの好まれなかったとは……ちょっと意外だ……あの血のような色のせいかしらん?……

・「一石」当時の単位で米換算なら約百五十キログラム。俵にして二俵半。

・「十五斤」六百グラム。

・「附方」症例に応じた個別な具体的症状とそれへの処方例及び古い処方例佚文などを纏めたものと私は理解している。

・「保童圓」本邦のオリジナルな漢方の薬方の名である。青森市公式サイトの「あおもり歴史トリビア第五十五号二〇一三年四月二十六日配信「浪岡の桜の名所」の中に、室町時代のこの浪岡城(青森県青森市浪岡(旧南津軽郡浪岡町))の城主であった浪岡北畠氏が公家山科言継(やましなときつぐ 永正四(一五〇七)年~天正七(一五七九)年)のもとに使者を派遣し、朝廷から位を受ける許可を得ようと、さまざまな根回しをしていたことが山科の「言継卿記(ときつぐきょうき)」に残っているとある記事の中に、賄賂として送ったもの中になんと『煎海鼠(いりこ、干しナマコ)』があり、また、逆に『昆布や煎海鼠をたびたび送ってきている浪岡北畠氏の使いの者、彦左衛門に保童円(ほどうえん)三包と五霊膏(ごれいこう)三貝を遣したともあります。保童円の「円」は練り薬のことですから旅の疲れを癒すために服用するように、また五霊膏の「膏」は膏薬のことですから、疲労した脚にでも塗るように遣わしたのかもしれません。言継の旅人をいたわる心遣いがうかがわれ、身近な人のように感じてしまいます』とたまたま書かれてあったので、特に引いておきたく思う。但し、京都府京都市下京区中堂寺櫛笥町にある「寶蓮寺」の公式サイトの「歴史」の記載には、『京都寶蓮寺の十八代目までは、萬里の小路(までのこうじ)(現在の柳馬場三条下ル)に所在した境内地に住んでいた。この萬里の小路の境内には、前田という医者が住んでいて(現在の前田町の町名の起源となる)、保童円(ほどうえん)という丸薬を売り有名であったとも記録に残されている』とあって、ここでは丸薬である(以上の下線部はやぶちゃん)。 

 

□やぶちゃん現代語訳(さらに読み易くするために、パートごとに行間を空け、適宜、改行も施した。)

海鼠〔「奈麻古(なまこ)」と訓ずる。〕

釋名 土肉〔郭璞の「江賦」に、『土肉。』とある。「石華」の「文選註」に謂う、『「土肉」は正黒色をなし、小児の肘ほどの大きさのを示す生き物で、長さ五寸、体内に腸(はらわた)があるけれども、口や目はない。三十の管のような足を持っている。この見た目を以って、世人は「海の鼠」に似ているということから、「海鼠」を別名としている。』とある。〕。

集觧 近海海中の各所にこの生物は棲息する。東日本に最も多い。尾張の和田・三河の柵(さく)の島(しま)・相模の三浦・武蔵の金澤本木(ほんもく)が、その知られた主な産地である。西日本に於いてもまた、これは多く漁獲される。中でも、小豆島が最も多い。

 その形状は、鼠に似ているが、頭と尾及び手足は、ない。ただ、前と後ろに当たる部分に一つ宛(ずつ)開いているばかりである。長さは五、六寸で、円く肥えている。その色は蒼黒或いは黄や赤を帯びている。背は、ふっくらと丸みを帯びており、腹の部分は平らになっている。背には疣(いぼ)状の突起物が多くあって軟らかである。体の体幹の両脇には、これ管の如き足の、生えたばかりの若い部分であって、これを用いてゆっくりと這い蠢き、想像以上に器用に行ったり来たり動く。腹の皮は青碧(おあみどり)で、やはり小さな疣(いぼ)のような感じの突起物があり、背と同じく軟らかである。

 その肉の味は、ほぼ鮑(あわび)に類(るい)したものであるが、甘くはない。極めて冷潔にして淡美な味わいを持つ。

 腹の内に三条の腸(わた)がある(但し、この腸の色の白いものは味が良くない)。この「腸(わた)」なるものこそ、海産物中の最上の佳品とされるものなのである。

 本朝にて於いては、この海鼠という生物のいるということは知られて久しいものである。

 かの最古の歴史書たる「古事記」に、

『――諸々の魚介水族、降臨し給える神に、

「お仕え奉ります。」

と誓詞を言葉に出して申し上げた中で、かの海鼠だけが、黙ったまま、何も申さなかった。

 そこで、同道なされた天宇受売命(あめのうずめのみこと)が、かの不埒な海鼠に謂い諭しつつ、断じ、

「この口か! 答えぬ口は!」

と言うなり、細き小刀(さすが)を以ってその口を矢庭に拆(さ)いた。

 故に今に於いて、これ海鼠の口は拆(さ)けたままなのである。』

と。

 さてもまた一種、長さ二、三寸とやや短く、しかも腹の内に砂を多く含んでいて、味もこれはまた、やや劣るものがおり、別に一種、長さ七、八寸と大きく、しかもよく肥え太っていて、大きなものもある。

 腹の内にある三条の黄いろい腸(わた)はこれ、琥珀(こはく)の如きものにして、これを塩に漬けて醢(ししびしお)となせば、その味わい、香んばしく美味なること、これ、言いいようもない。本邦のあらゆる塩辛(しおから)の中にあっても第一とするものである。このことは後に詳述する。

 なおまた、これとは別に生の海鼠を煎って乾かした者についてもまた、後述することとなる。

 現在、包丁人が、生きのよい海鼠を用いるに、一つ、灰砂(はいずな)をまぶし、それをそのまま竹籠に入れて、これを篩(ふる)う。或いは一つ、白塩(なまじお)を擦り付けて擂盆(すりぼん)中に入れて、杵を以ってこれをぐるぐると潰さぬように擂り扱(こ)ぐと、これら孰れも、そのまましばらく時の経てば、不思議に等しく同じように、煮凝りのように固まって堅くなる。その口に含んだ時の味わいたるや、如何にもこれ、さわやかにしてしなやか、はなはだ美味で、これを特に呼ぶに、「振鼠(ふりこ)」と称している。

海鼠の肉

氣味 鹹寒(かんかん)。毒はない。〔稲藁・稲の糠(ぬか)・灰砂(はいずな)及び塩を畏(おそ)れる。また、河豚(ふぐ)の毒を制する。〕。

主治 腎を健やかにし、熱を持った血を穏やかに下げ、髪を黒々とさせ、骨を堅固にし、下焦(げしょう)の客熱を収め、上焦(じょうしょう)の鬱積した熱を速やかに去る。多く食べると、直ちに腸・胃が急速に冷濕(れいしつ)の性に向かうため、排泄に於いては洩らし易くなるので、熱を伴う痢病(りびょう)を患っている者の場合は、くれぐれも適量たる少量を食すよう、心掛ける必要がある。なお、これとは全く別な附方として、頭部に出来た白癬(しらくも)及び、やや進行した凍傷を療治することが出来る。

熬海鼠(いりこ)〔或いは「熬」は「煎」に作る。俱に「伊利古(いりこ)」と訓ずる。〕

釋名 海参(かいさん)〔李東垣(りとうえん)の「食物本草」に謂う、『その功、あざやかにすばらしく補益を恣(ほしいまま)にする。』と。さればこそ、「海の人参」と名づけたのであろうか? 世人は、まま、この「海参」を以って海鼠を称する者を見かける。古えの「延喜式」にもすでに『熬海鼠』と称して載っている。〕。

集觧 これを造るには特殊な方法がある。

 生の新鮮な大海鼠を用いて、沙や腸を取り去った後(のち)、数百枚を空鍋(からなべ)に入れて、強火を以ってこれを煎る。すると、即座に塩辛い汁が海鼠の体から自ずと出でて、黒く焦げる。十分に水分が出て乾き、硬くなったそれを取り出だし、冷めるのを待って、二本の小柱に懸け列ねる。一柱につき、必ず十枚を列ねるのが決まりで、これを称して「串海鼠(くしこ)」と号している(これは「久志古(くしこ)」と訓ずる)。特に大きなものの場合は、藤蔓(ふじづる)に懸ける。

 今、東日本の海浜及び越後の産は、このようにして製する。或いは西日本は小豆島の産は、この最も大なるものにして、味もまた良い。また、薩摩・筑紫・豊前・豊後より出ずるものはこれ、極めて小さい。しかし乍ら、これを煮る時には、則ち、大きく膨らむ。但し、この「熬(い)り」として製するところの海鼠は、六、七寸を過ぐる大きなものを以ってするのが上製となるであって、そうした小さなものは結局は佳品にはならない。

 大抵、乾して曝(さら)すに串に刺し、或いは藤蔓にて挟み止め、しかしてこれを食材として用いる。

 まず、水にて煮(に)、やや久しく煮込むと、則ち、いよいよ肥大して軟かくなるのである。味もまた、甘美である。

 或いはまた、稲藁や米糠の類と合わせて煮熟(しゃじゅく)〔充分に煮詰めること。〕しても、これも軟らかいものになる。

 或いは土及び砂に埋ずめること一夜にして、翌日には掘り出して洗浄して煮熟してもまた、よろしい。

 古えより永くこれを食材として用いる者のあることは久しい。「延喜式神祇(じんぎ)部」にも『熬海鼠(いりこ)二斤(きん)。』と載り、「延喜式主計部」にも『志摩・若狭・能登・隠岐・筑前・肥前・肥後、これを貢(こう)する。』とある。今また、貴賤に拘わらず、これを賞味している。

氣味 鹹(かん)・微甘(びかん)にして平(へい)。毒はない。

主治 気血をよく補い、五臓六腑を活性化させ、三焦(さんしょう)の邪火(じゃか)・客熱(きゃくねつ)を去る。鴨の肉と同じく、十分に烹込んでこれを食すれば、あらゆる虚弱虚損に基づく諸疾患を快方へ向かわせる。猪の肉と同じく、煮て食すれば、弱った肺や咳を治癒する〔これは李杲(りこう)の「食物本草」に拠る。〕。また、腹の中の悪しき虫を殺し去り、然して小児の疳の虫をも快癒させる。

 

海鼠腸(このわた)〔「古乃和多(このわた)」と訓ずる。〕

集觧 或いは「俵子(たわらこ)」とも称する。この腸醤(ちょうしょう)を造る方法は以下の通りである。

 まず新鮮な海鼠の腸(わた)を取って、潮水(しおみず)の至って清浄なるものを用いて洗浄すること、数十次、砂及び汚れた汁(しる)をきれいに洗い流し去ってから、白塩(なまじお)に和して攪拌しつつ、塩とよく合わせて平らにならした上、これを保存する。

 至って黄色い光りを帯びて琥珀の如きものを以って上品とする。黄色の中に黒や白の部分が相い交じっているようなものはこれ、以って下品とする。

 しかし、今、この三色の相い交じっているものを以ってこれを日の光に当てつつ、箆(へら)や箸を用いて、存分に攪拌し続けると、則ち、ことごとく黒白の部分の変じて、全く黄色となる。

 或いはまた、腸(わた)一升に対して鶏卵の黄身一箇を投入し、やはり箆や箸を用いて、これを均一になるまで攪拌してもまた、ことごとく黄色となる。これは味もまた、他の色の交っていた時に比すれば、やや美味となる。

 一種に、腸中に色の強い赤みを帯びた黄色の、糊のようなものがある場合があるが、これは呼んで「鼠子(このこ)」と言う。但し、これは海鼠腸(このわた)の中では珍味とはしない。

 およそ海鼠に就いては、古えは能登の国が海鼠腸一石を貢(こう)した。「延喜式主計部」にも『腸十五斤』と載る。しかし今は能登の国はこれを貢していない。

 尾張・三河から産するものを以って上品とし、武蔵国の本牧(ほんもく)のものが、これに次ぐ。諸国に於いて海鼠(なまこ)を漁(と)るところは多いけれども、膓醤(ちょうしょう)を名産として貢納して来た地域は少ない。これは、かの黄色の腸(わた)を好む者が、全くもって稀(まれ)であったことに起因する。

 近頃の頃の話、三河国の柵島(さくしま)に一人の異僧がいた。戒を守ること、これ、はなはだ厳格なれども、海鼠の腸醤を調和し成すことに於いては異様な才能を持っており、その技(わざ)たるや、これ、最も奇々妙々なるものであった。その精製行程は以下の通りである。

 浦人が海鼠の腸(わた)を取り出して洗い清めた上、小さな壺に入れて僧の前に差し出す。

 僧はこれを点検し、その腸の多少を仔細に観察した上、それに見合った自身の決めたところの分量の白塩(なまじお)を、これ、素早く腸(わた)に擦(す)りなしつつ、腸の中へ投入する。

 その後、浦人は複数個のそれらを木箆(きべら)を用い、攪拌して、塩分を均等にした上、平らにならし、これを大きな壺に収めるおく。

 かくして二、三日を経て、これを舐めれば、その味わい、これ、曰く言い難きほどに美味なのである。

 現在、貢献品として上納するものは、まさにこうして製したものである。故に「このわた」は、本来は三河の産を以って上品とするのである。但し、後にこの僧、故あって後に尾張に移り住み、そこでもまた、海鼠の腸醤を拵えたによって、尾張の産のそれを以って、第一等の「このわた」としているのである。巷にあって、この味を知る者は皆、奇々妙々の味わいであるとしきりに称している。

附方 凍傷が進行して腫れた部分が破れかけている症状〔新鮮な海鼠を煎って、そこで出来た濃い煮汁を用いて、それを以って何度も何度も頻繁にその患部を洗浄する。或いは熱湯を用いてそれに腸醤を和し、掻き均して何度もこれを以って洗うのもまた、良い。〕。頭部に生じた白癬(しらくも)〔生(なま)の海鼠の腹を割(さ)き、腸(わた)を抜き去って、それをそのまま強く患部に押し張って、ちょうど厚紙のようにして患部の頭の上に貼り付けておけば、則ち、快癒する。〕。冷たい湿気に基づく虫痛(ちゅうつう)〔また、それ及び小児の疳の虫に由来するところの痛みや訴えと下痢の症状に対しては、これを常食して効果がある。また、熬海鼠(いりこ)を用いて、知られる処方の保童円(ほどうえん)の中に合わせ入れてそれを用いたならば、伝え聴くところでは、よく疳の虫を殺す効果があるとする。〕。 

 

◆華和異同

□原文

  海鼠

崔禹錫食經曰海鼠似蛭而大者也李東垣食物本

草曰海生參東海海中其形如蠶色黒身多瘣※一

[やぶちゃん字注:「※」=「疒」の中に「畾」。]

種長五六寸表裏俱潔味極鮮美功擅補益殽品中

之最珍者也一種長二三寸者割開腹内多沙雖刮

剔難盡味亦差短今北人又有以驢皮及驢馬之陰

莖贋爲狀味雖略同形帯微扁者是也謝肇制五雜

俎曰海參遼東海濱有之一名海男子其状如男子

勢然淡菜之對也其性温補足敵人參故曰海參按

俱是爲今之海鼠者無疑東垣初言五六寸者今之

生海鼠乎後言二三寸者今武相江上多者乎東垣

能知二者有別謝氏亦能知其佳然不言其腸者爲

恨耳近有以土肉爲海鼠者此亦相似御覧臨海水

土物志曰土肉正黒如小児臂大長五寸中有腹無

口自有三十足如釵股大中食是郭璞江賦所言者

乎南産志有沙蠶土鑽是亦此類耶

□やぶちゃんの書き下し文

  海鼠

崔禹錫が「食經」に曰く、『海鼠、蛭に似て大なる者なり。李東垣が「食物本草」に曰く、海參は東海海中に生ず。其の形、蠶(かいこ)のごとし。色、黒く、身に瘣※(いぼ)多し[やぶちゃん字注:「※」=「疒」の中に「畾」。]。一種、長さ五、六寸、表裏俱に潔く、味はひ、極めて鮮美なり。功、補益を擅(ほしひまま)にす。殽品(かうひん)中の最も珍なる者なり。一種、長さ二、三寸の者は、割り開きて、腹内、沙、多くして、刮剔(くわつえき)すと雖も、盡き難く、味も亦、差(やゝ)短し。今、北人、又、驢(ろば)の皮及び驢馬の陰莖を以つて贋して狀(かたち)を爲すこと有り。味はひ、略(ほゞ)同じと雖も、形、微(いささ)か扁(へん)を帯ぶる者、是れなり。』と。謝肇制(しやてうせい)が「五雜俎」に曰く、『海參は遼東海濱に之れ有り、一名、海男子、其の状(かたち)、男子の勢のごとし。然も、淡菜の對(つゐ)なり。其の性、温補、人參に敵するに足れり。故に海參と曰ふ。』と。按ずるに、俱に是れ、今の海鼠と爲る者、疑ひ無し。東垣、初めに言ふ、五、六寸なる者は、今の生海鼠か。後に言ふ、二、三寸なる者は、今、武相江上に多き者なるか。東垣、能く二つの者の別有ることを知る。謝氏も亦、能く其の佳なることを知る。然れども其の腸(わた)を言はざる者(こと)を恨みと爲すのみ。近ごろ、土肉を以つて海鼠と爲る者、有り。此れも亦、相ひ似たり。「御覧」に、『「臨海水土物志」に曰く、土肉は正黒、小児の臂(ひぢ)の大いさのごとし。長さ五寸、中に腹、有り。口、無し。自(おのづか)ら三十足有りて、釵股(さこ)の大いさのごとく、食に中(あ)つ。』と。是れ、郭璞が「江賦」に言ふ所の者か。「南産志」に沙蠶(ささん)・土鑽(どさん)有り。是れも亦、此の類か。

□やぶちゃん注

・『崔禹錫が「食經」』唐の本草学者崔禹錫撰になる食物本草書「崔禹錫食経」。現在は散佚。後代の引用から、時節の食の禁忌・食い合わせ・飲用水の選び方等を記した総論部と、一品ごとに味覚・毒の有無・主治や効能を記した各論部から構成されていたと推測されている。順の「倭名類聚鈔」に多く引用されている。

・「刮剔」掻き抉り取ること。

・『謝肇制が「五雜俎」』謝肇淛「五雜組」が正しく、「せい」は「せつ」とも読む。明末の文人官人であった謝肇淛(一五六七年~一六二四年)の随筆集。全十六巻。天・地・人・物・事の五部に分けて古今の文献や実地見聞などに基づいた豊富な話題を、柔軟な批評眼で取り上げている。特に民俗に関するものには興味深いデータが多く、本邦でも江戸時代に広く愛読されて一種の百科全書的なものとして利用された。謝は有能な行政官でもあり、多才な詩人でもあった。「五雑組」とは五色の糸で撚(よ)った巧みな美しい組み紐の意である(以上は主に平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

・「勢」陰茎。

・「淡菜」斧足綱翼形亜綱イガイ目イガイ科イガイ Mytilus coruscus 。女性の会陰に酷似していることで知られる。古来、海鼠を東海男子と別称したのに対し、胎貝(いがい)は東海夫人と呼称された。私の『毛利梅園「梅園介譜」 東海夫人(イガイ)』『武蔵石寿「目八譜」の「東開婦人ホヤ粘着ノモノ」』の図を参照されたい。

・「東垣、初めに言ふ、五、六寸なる者は、今の生海鼠か。後に言ふ、二、三寸なる者は、今、武相江上に多き者なるか」人見は海鼠をその大きさで別種と判断していることが見てとれる。無論、これらはマナマコ Apostichopus armata 或いはアカナマコ Apostichopus japonicas であって別種ではない。

・「御覧」「太平御覧」宋の類書(百科事典)。李昉(りぼう)ら十三名の手に成り、全千巻に及ぶ。太祖の勅命により六年を費やして太平興国八(九八三)年に成った宋代の代表的類書である。内容は天・時序・地・皇王に始まる五十五部門に分類され、各部門がさらに小項目に分けられて各項目に関連する事項が古典から抜粋収録されている。

・「臨海水土物志」「臨海水土異物志」。三国時代の呉の武将沈瑩(しんえい ?~二八〇年)の書いた浙江臨海郡の地誌。世界最古の台湾(原典では「夷州」)の歴史・社会・住民状況を記載するという(但し、この比定には異議を示す見解もあるようである)。

・「釵股」刺股/指叉(さすまた)。U字形の鉄金具に二~三メートルの柄をつけた金具で相手の喉・腕などを塀や地面に押しつけて捕らえる警棒。先端金具の両端及びその下部の柄の付根附近には棘(返し)が出ており、それらが黒色で、そうした先頭部が如何にも海鼠然としている。U字部分は或いは口辺部の触手をイメージして似ていると言っているもので、ここは柄を外した先端の金具部分をのみ想起すべきところである。

・「南産志」「閩書(びんしょ)南山志」の誤りか。南北朝時代の南朝の宋の官僚で文人の沈懐遠(しんかいえん)が広州に流罪となった際の見聞になる現在のベトナム北部の地誌である「南越志」と並ぶ彼の著作と思われる。 

 

□やぶちゃん現代語訳

  海鼠

崔禹錫(さいうしゃく)の「食経(しょうけい)」に曰く、『海鼠は蛭(ひる)に似て大きなものである。李東垣(りとうえん)の「食物本草」に曰く、海参は東海の海中に棲息する。その形は、蠶(かいこ)のようである。色は黒く、体中に疣(イボ)が多くある。一種に、長さが五、六寸で、表裏ともに砂泥等を附着しない至って清澄なものがおり、その味わいは、極めてすっきりとして美味い。その効用としては、自由自在に補益を促す。酒の肴の中では最も珍味なるものである。一種に、長さ二、三寸の者があるが、これは身を立ち割って開いてみると、腹中に多量の砂を含んでいて、どんなにそぎ落とし、抉り出してみても、身のあらゆる部分に砂が入り込んでいて取り尽くすことが難しく、味もまた、やや劣る。現在、内陸の北方の人々はまた、驢馬の皮及び驢馬の陰茎を用いて贋物(にせもの)を作り、干した海鼠そっくりの形状に真似ることがある。味わいはほぼ同じであっても、形がいささか偏平に見える干し海鼠は、この贋物である。』と。謝肇制(しゃちょうせい)の「五雑俎」に曰く、『海参は遼東地方の海浜に棲息しており、一名、海男子と称し、その形状はまさに男性の陰茎にそっくりである。まさに女性の会陰と酷似する淡菜と一対をなすものである。その性質は温補で、漢方に於ける妙薬たる朝鮮人参に匹敵する効果を十分に保持している。ゆえに「海参」と称する。』と。按ずるに、「食経」「五雑俎」の記載はともにこれ、現在の海鼠とするものと考えて間違いない。「食物本草」の最初の部分で東垣が言っている五、六寸のものというのは現在の一般的な海鼠であろうか? また、その直後に記すところの二、三寸なるものという有意に小さなものは、現在、武州や相州の入り江に多く産する別種の海鼠を指すものであろうか? 東垣は、よく、この酷似した二つの種が別種であるということを認識している。謝氏もまたよく、海鼠の美味であることを認識している。しかれども、彼ら二人が、文字通り肝心の、その珍味なるところの腸(はらわた)について、一切言及していない点、これ、甚だ遺憾と言わざるを得ない。なお、近頃、「土肉」を以って「海鼠」であると記すことがある。これもまた、相い似たものである。「太平御覧」に、『「臨海水土物志」に曰く、土肉は真っ黒で、小児の臂(ひじ)ぐらいの太さを呈するものである。長さは五寸、体内に腹部が存在する。しかし口はない。体部から生えた三十本の足があって、まさに刺股(さすまた)の先端の金具ほどの大きさであって、食用に当てる。』と、ある。これはかの郭璞の「江賦」に詠まれたところの海鼠の仲間なのではなかろうか? 「閩書南産志」に「沙蠶(ささん)」・「土鑽(どさん)」という記載がある。これもまた、やはり海鼠の仲間なのではなかろうか?

 

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